二〇一二年十二月二十一日。今日は、世界が滅亡する日らしい。なのに、中学校ではごく普通に終業式があった。式とはいっても大したことはしない。全校生徒を体育館に並べて、壇上の校長先生が三分間ほどどうでもいい話をする。それだけ。教室に戻ったら、いろいろなプリントが配られて、それらをカバンにしまう。明日からは冬休みが始まる。

 「参宮は、冬休みどうするの?」

 ホームルームの終わりに担任が「よいおとしを」と言って、あとは帰るだけになった。給食もないから、今日って大人たちの話を聞きに来たようなもんじゃん。

 「特には」

 岩鬼(いわき)先輩の顔がちらついた。先輩は三年生だし、受験勉強で忙しいだろ。最後に話したのっていつだったっけ。同じ校内にはいるからたまに見かけるけれども。向こうから話しかけてくれることもない。はっきりと別れを告げられたわけではないから、きっとまだ付き合っている状態ではあるのだと思う。

 俺から見ての父方の祖父母はもういないし、母方なんて、そもそも母親の顔を知らないしさ。だから、年末年始で田舎に帰省する、みたいなイベントは発生しない。家族旅行なんてしたこともない。今年もきっと俺一人で年越しになるよ。三十一日から元旦にかけての夜勤に誰も入らない、って父親が嘆いていたから、確定じゃん?

 「いいなあ。おれは毎日塾だよ。塾と部活と」

 俺の一個前の席に座る小佐井(こさい)は、気のいいやつなんだけども、気が利かない。こうやって、うらやましそうに『いいなあ』と言われてしまうと「お前に何がわかるんだよ」とキレそうになる。小佐井の家は、両親ともに法律関係のお仕事に就いているらしく、息子もまた弁護士先生を目指しているらしい。俺は別に父親の仕事を継ぎたいとは思わないけれど『親の背中を見て育つ』という言葉があるように、世間一般的には、親の仕事に憧れてその道に進むものなのだろう。

 小佐井が話しかけてきたきっかけは、まあ前の席っていうのもあるけれども、男子バスケットボール部に所属しているからだ。入学した四月から五月の終わりにかけて、しつこく勧誘された。俺がすでに170センチメートルあって、中学一年生にしては高いからだ。

 バスケットボールという団体スポーツは、身長は高いほうが有利らしい。と言うわりには小佐井は大きくない。けれども、小学校の頃から続けていたので中学校でも続けたくて、都大会常連のこの中学校を決めたのだとか聞かされた。俺はまったく興味がないから調べてすらいなかったけれども、男子バスケットボール部は最高ベスト8の成績を残しているらしい。そのベスト8というのが、全体のチーム数がいくつあって、どれほど素晴らしい成績なのかもよくわからない。ほんとうに興味がない。体育館まで連れて行かれそうになったこともあるし、先輩たちに囲まれたこともあるし、顧問をしている数学の教師からも声をかけられたけれども、俺は勉強をしに学校に来ているのであって運動をしに来ているのではないので断った。

 父親だって、そう望んでいるはずだ。

 「ほんとうに、今日で世界が滅亡するのかなあ。するんだったら、塾の宿題はやらなくていいよなあ」

 恵まれた環境に育った人間には、そうでない人間の気持ちがわからない。運良く動物園や水族館で生まれた生き物たちが、人間によって整備された最高の住空間であると気付かずに一生を終えるようなもの。俺は現実を隠すように「そうだな」と嘘をついた。宿題はやれ。

 「滅亡しなかったら、新学期にまた会おうな」

 ノストラダムスの大予言、というものがあった。曰く『99年の7の月に恐怖の大王が』うんぬん。しかし、西暦の『99年の7の月』には何も起こらなかった。というか、俺は一九九九年の七月生まれだし。何かが起こっていたのだとしても覚えているわけがないじゃん。生まれたばかりだよ。

 そこで、西暦ではなくマヤ暦とする説が浮上した。マヤ暦で考えると『99年の7の月』が今日になるらしい。インターネットに書いてあった。最近はテレビもネタ切れで、インターネットで流行ったものが少し遅れてテレビで紹介されている。

 「……ああ」

 どうせ滅びるのなら、今日こそ実行するべきだと思う。小佐井には悪いけれど、新学期のこの教室に俺の姿はないよ。

 俺は体育倉庫から縄を拝借した。俺が返す予定はないから、拝借というより盗み出したのほうが正しいか。どちらでもいいや。今日は体育館を使用する部活動は休みだから、誰にも見つからずに持ち出せた。悪運は強いほうだ。ここで誰かに見られていたら、諦めようと思っていたから。

 「拓三、おかえり」

 昨日までに持ち帰るべき荷物は持ち帰っていたのでほとんど何も入っていなかったスクールバッグに縄を入れて帰宅する。夜勤明けの父親が家にいるが、夕方から『飲み会』の予定が入っていると朝に聞いたから、間に合うように出かけるはずだ。よく起きていられるな。

 「ただいま」

 酒の飲めない父親が『飲み会』に参加しなくてはならないのは、やはり、参加しないと仲間はずれになってしまうからだろうか。その場でのやりとりは、その場にいないと聞けないし。その間、シフトに入っている人たちはどういう気持ちなのか。飲み会だって知っていて入っているのかな。

 「……何かあった?」

 いつも通り返事をしたのに、何やら心配されてしまった。タバコの先端を灰皿に押しつけて、火を消す。気にしなくていいのにな。

 「特には」

 安心させるために否定する。何もないよ。今日で終わる。

 「そっか」

 お前が俺にできることは何もなくて、ないほうがいい。俺はもう疲れた。疲れてしまったから、すべてを終わりにしよう。そのほうが、きっと、みんな幸せなはずだから。

 「年明けに学校で必要なものとか、ほしいものとかあるなら、用意するから早めに言ってくれよ?」

 用意しなくてもいい。俺はカバンの中から、保護者向けのプリントたちを取り出して、テーブルの上に置いた。置いておけば勝手に見るだろ。用意しなくてもいいとはいえ一応出しておかないと。父親の仕事先には、子どもが俺と同じ中学校に通っている母親が二人いるから、そちらを経由して何か言われかねない。

 「あのさ、拓三」
 「何?」
 「いや……ごめん、なんでもない」

 俺は自分の部屋に入った。疲れた。カバンは学習机に放り投げて、ベッドに仰向けに倒れる。どうして俺は、ここにいるのだろう。

 何のために。

 「……」

 俺は俺のことが嫌いだ。まず顔。岩鬼先輩は「好き」と言ってくれるけれども、その気持ちが理解できない。オレンジ色のこの瞳が特にいいらしい。物珍しいだけではないのかな。最初の頃はカラーコンタクトを疑われた。だいたいみんなそう言ってくる。俺も俺以外にナチュラルにオレンジ色の瞳の人を見たことがない。俺の母親がそうらしいけれども、写真でも見たことがないし。

 恵まれた体格は、目立ってしまうから嫌いだ。目立ちたくない。物陰でじっとしていたい。小さくて、かわいい生き物になりたかった。次があるのなら、次はそうありたい。いろいろな人から、たまには「かわいい」と言ってもらえるような、そういう生き物になりたい。

 だから死のうと思う。この人生には、何の価値もない。いい子であろうと精一杯頑張ってきたけれども、そんな無駄な努力はしなくてもよかった。

 父親が歩めなかった道を、俺に歩ませようとしないでほしい。俺は期待を背負って、期待に応えようとして、俺自身が何をしたいのかわからなくなってしまった。俺は何がしたかったんだっけ。

 中学校に入って、さっそく高校のことを聞かれた。

 文系だとか理系だとか、進路希望を提出しなければならない。三年間はあっという間らしい。父親は『大学に行って、いいところに就職してほしい』としか言わなかった。担任は理系のほうがつぶしがきくからって理系にしようとしているから、俺も理系ということにしたけれども、それは俺が選んだ道というよりは選ばされてはいないか。俺がやりたかったことって、何。やりたくないことはわかる。父親のように、毎日休みなく働かされるのは嫌だ。ならばまったく働かないのかといえば、それは世間が許してくれないと思う。この世界で生きていくならば、働かなければならない。働くためには勉強しなくてはならない。勉強しないと、選択肢が狭まる。いいところに就職するためには、学歴が必要だ。俺は、父親のようにはならない。なりたくない。なりたくないし、父親もそれを望んでいない。

 もう終わりにしたい。今日が最後の日だというのなら、最後にしたい。俺にとっての死は、救済だ。この人生から解放されたい。救ってほしい。未来に希望はなく、ずっと現実がつきまとう。所属が変わるだけで、あいつが父親で、俺が息子というのは変わらない。俺が俺でいる限り、一生、変わらない。

 「……」

 何かに見られている気がする。ずっと、俺を見ている。生まれてから、現在まで。見ているのならば、助けてほしい。見ているだけじゃあなくて、手を伸ばしてほしい。何も来ないのは、見られているというのは気のせいだからだ。

 しばらくして、家を出て行く音がする。扉が開いて、閉まる。カギをかける。その音で目が覚めた。身体が重たい。実行するならば今日が最適なのに、いざ縄を取り出したら涙が出てきたのは何故だろう。未練があって、その、俺を見ている何者かが、助けてくれるんじゃあないかって期待しているのかもしれない。

 俺は鏡を置いた。俺がちゃんと死ねるかどうか、見られるように。その瞬間を見届けなければならない。

 成功を祈っている。と同時に、失敗したい。後遺症でも残ってくれたらと思う。そうすれば、俺は期待されなくなる。いい子でなくてもいい。いい子であるフリができなくなるから。

 方法は調べた。実行する。これですべておしまい。

 死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にた

 「生まれてこなければよかったのに」

 家を出て行ったはずの男が部屋に入ってきて、俺を助けるなりそう言った。聞き間違いではないと思う。見間違いでもない。

 そうだよな。俺がいなければ、きっと、お前は幸せになれるはずなんだ。だから死なせてくれたらいいのに、どうして助けるんだろう。

 「――我は、」

 何か喋っているけれども、聞こえない。ここで終わりのはずなのに、明日が来る。きっと、来てしまう。何が滅亡の日だよな。何も滅んじゃいないじゃんか。
 不幸というものは人間がどれだけ身構えていようとも、予想だにしない方角から降り注ぐものだ。

 荷物をまとめて――俺の持ち物なんてもとより大した量はない。はずなのに、ドラムバッグに着替えとウサギのぬいぐるみを詰め込んだらそれなりの大荷物になってしまった。しかし、減らせるものもないので我慢する――テーブルの上に四方谷家の鍵を置いて、家を出た。祖母からは鍵を置いて行けだなんて言わなかったが、こうしておけば、俺に帰ってくる意思がないっていう無言のお気持ち表明になるだろ。察してくれ。

 まあ、あんなことがあってああまで言われたけれど、ほんの少しだけ「まだ四方谷家にいたい」とは思っている。暮らしやすかったのは、事実だから。

 俺も孫なんだしさ。隅っこのほうにでも置いてくれよ。でかい人形みたいなものだよ。

 なんてったって、俺のこれからの居住地にアテがない。そもそも真尋さんのご実家に引き取られたのは、父方が全滅だからだもん。どうすりゃいいの。家なき子になってしまった。

 「はあ……」

 一旦腰を落ち着けようと不忍池のベンチに腰掛ける。あのマヒロさんと出会った場所。何かを期待していたのかもしれない。その何かが起こる可能性は極めて低いのだけれど、あの時のようにスマホで四人の集合写真を見た。

 もう俺しか生き残っていない。父親とひいちゃんはこの池の中にいる。マヒロさんは、自ら死を選んでしまった。

 この頃が平和だったとは言い難いけれど、今よりはよかったよ。
 ひいちゃんがいるから。

 祖母だった人曰く、俺は人間ではないらしいので、人間的な感傷はなるべく排していきたい。〝家族愛〟という、二度と手に入らない幻想を追い求めても意味はない。より形のない、具体性のない、ぼんやりとしていて掴みどころのない、輪郭のない……心の平穏を手に入れたい。そこに正解があるはずだ。俺の探し求めているものは、世界のどこかにある。

 何を言っているのだろうな。
 平穏なんて、どこにもない。

 父親の言う通り、俺は『生まれてこなければよかった』んだよ。ウケる。開始地点が間違っているのだから、どれだけ正しい道に戻ろうとしても戻れない。レールの敷いてある場所がおかしいのなら、まっすぐに走れるわけがないよな。でも、俺が、そう、今度こそ腹を括って、マヒロさんとの子どもを産んでもらっていれば、そちらが俺にとっての新しい〝家族〟となりえたかもしれない。そんな夢物語はもう実現しない。

 マヒロさんの言う通り、周りの援助を受けつつ生まれてくるであろう子どもを育てていくのが正解。今、一人で、ここにいる俺は不正解。俺の過去なんてどうでもいい。全てを忘れて、あの父親と同じ過ちを繰り返さないように生きていけばよかった。

 本当に、そうか?

 死ぬほどじゃあないだろ。なんで死んだのさ。俺だって、急に言われたら困るじゃん。逆の立場で考えてもみてよ。もっと時間をかけて、この俺を説得する道はなかったわけ? いつだって困るのは残されたほう。死んだほうは楽だよな。無責任にも程があるじゃあないか。

 これからあのママは、――マヒロさんが慕っていた、俺にとっての祖母はどうなんの。それに、弐瓶教授もだよ。マヒロさんからは「ユニ」って下の名前で呼ぶぐらい親しげだった弐瓶教授は、マヒロさんが何故か持っているタイムマシンの技術を教えてもらおうとしていたのに、せっかく掴んだ手がかりのほうからいなくなるなんてひどすぎる。せめて最低限の情報提供はしておくべきよな。いや、俺の知らない間に二人でやりとりしているのかもしれない。マヒロさん、祖母からスマホを買い与えられていたし。

 参宮家にいる時に使っていたスマホは壊れてしまったらしい。そんながさつな人には見えなかったけれど、それを言い出したらキリがない。タイムマシンのことだって、俺は知らなかったしさ。マヒロさんに隠し事が多すぎる。

 「……ははは」

 視界が揺れた。
 考えるのも疲れてきたから、俺も死のうかな。

 ベンチから立ち上がり、一歩ずつ池に進んでいく。ひいちゃんは、池の中にいる。ここで死んだのだから。俺も沈んでしまえばいい。そうすれば、あの世でひいちゃんと再会できる。気付くまでに時間がかかってしまった。こちらの世界でひいちゃんを作るよりも、俺があちらの世界へ行けばいい。

 ごめんねひいちゃん。
 今から『おにいちゃん』が行くから、待っていてほしい。

 「はははははは!」

 地面が揺れている。俺が池に近づくごとに、その揺れは激しくなっていった。よろめいて、木にぶつかる。この国は地震が多い国ではあるけれども、この揺れは、俺が生まれてからの現在までに経験したことのないぐらいに大きい。しがみついていなければ倒されてしまいそうになる。

 しかも、長い。

 「なんだ?」

 繁華街の方に視線を注げば、揺れに耐えきれなくなった建物がゆっくりと倒れていくのがわかる。崩れていき、その隣の建物を押しやった。壁を削り取り、その一部分が散り散りになる。俺の周辺には池とそれを取り囲む木々しかないので、瓦礫は飛んでこない。

 おさまらぬ揺れの中、安全な場所へ避難しようと走る人と、どうしようもなくその場に座り込む人とが見える。俺はドラムバッグからスマホを取り出して、連絡先を開いて、――誰に連絡するべきかと逡巡した。今更とも思うが、最初に思い至ったのは祖母の安否だ。最終的に俺を人間扱いしなくなってしまった人なのに、こうなると心配になってくる。血縁上のつながりはなくとも、ほら、ご老人はいたわらないとさ。

 電話をかけようとして、着信音が鳴り響いた。
 弐瓶教授からだ。

 「今どこにいるのん?」

 こちらが何らかの挨拶をするよりも早く、弐瓶教授は俺の所在地を確認してきた。その言葉遣いはいつも通りなのに、声色にはありったけの憎しみがこもっている。俺、何かやりましたっけ。続けざまに「話は私の研究室でするから、今すぐに来なさーい!」と指示して、電話はブチっと切れてしまった。

 こちらは死のうとしていたのに、天災に邪魔されるなんて。
 俺の人生はどうにもうまくいかないようにできているらしいな。

 折り返してかけようとすると、俺と同じように見知った人の安否を気にする者がたくさんいるようで、呼び出し音が鳴るばかりで一向につながらなくなってしまった。

 弐瓶教授からの呼び出しには応じようと不忍池から上野駅に移動する。駅舎こそ潰れてはいなかったものの、あまりの人の多さに目が回りそうになった。人の重さで崩れてしまうのではないかと疑ってしまうほど。これだけの人々がこの周辺にいて、この場所から別の場所へと移動しようとしている。こんな出来事が起こらなければ一生顔を見ることはなかったであろう、名前も知らない人間の群れ。

 弐瓶教授は『今すぐに』と言っていた。通常通りならば小一時間ほどであちらの研究室の最寄り駅に到着する。電車は動いているようだ。しかし、この人数では、乗れるようになるまで何時間かかるか想像もつかない。あちこちで怒号が飛び交う。怒ったところでどうにもならないのは、冷静になればわかりそうなもんなのに。まあ、声を上げなければ気が済まない人種がいるのもわかるよ。俺はそうではないけれど。行きどころのない不安や恐怖が渦巻いていた。

 かといってタクシーでの移動も難しそうで、タクシー乗り場には長蛇の列が形成されている。みんな考えることはおなじ。一般路も高速も大渋滞。車が数珠繋ぎに、ミリ単位で動いていた。バイクや自転車が隙間を縫って追い抜いていく。

 誰しもが安心したい。大切な人の身の安全を確認したいから、スマホを握りしめて右往左往したり、数少ない公衆電話に並んだり。俺も、やはり、祖母の安否を気にかけたほうがいいのだろうか。正常ならばそうなのだろう。あれだけのことをこの俺に言い放って、他に住めるような場所のない俺を追い出してくれた祖母に。つながるまで待ってみたほうがいいか。

 こういうときこそ冷静にならないとな。

 人々は自宅に帰りたいのだろう。自宅か、あるいは、守らなければならない居場所に向かおうとしている。つい最近住んでいた場所を追い出されたばかりの俺は、このような状況下にもかかわらずこの俺に連絡してきてくれた弐瓶教授の元に行こう。弐瓶教授にも、俺より優先して連絡を取りたい人がいるだろうに。わざわざ俺に電話してきたってことは、どうしても来てほしいってことじゃん。他に行きたい場所はといえば、――マヒロさんの死体を残してきた、あの四方谷家に戻るべきなのか。

 再度電話をかけて、出るまで待つ。俺が気にかけてやっているのに、通話中の表示になった。一時的に孫だった男よりも大事な人間がいるらしい。それなら、もういい。諦める。四方谷家には戻らない。戻ってやるものか。

 電車やタクシーが使えないとなると、研究室へは歩いて向かうしかない。ルートは、まあ、電車の線路を見ながら行けばなんとかなる。時間はかかるだろうけれど、現時点で使用できそうな移動手段が徒歩しかないのだから仕方あるまい。この交通状況を知れば、どう考えても『今すぐ』には来られないと、弐瓶教授も諦めてくれる。たぶん。……あの人はあの研究室にずっと閉じこもっているからわかんねェか。

 にしても、ドラムバッグを肩にかけている俺って、近隣住民が近くの避難所に避難しているようにも見えるのかもしれないな。避難所に行くわけじゃあないけど。


 「遅い!」

 弐瓶教授のお部屋の扉を開けたら、まずは怒られた。――あっ、そう。努力はしたんだけどさ。走ってくればよかった? 俺が扉を閉めようとしたら「ちょ、ちょっと!」と焦られてしまったので、今度は注意深くゆっくりと開けてみる。

 「もう、最近の若いもんってば『怒られてるな』って思うとすーぐ拗ねるよね。こちとら首をぐんぐんとながーく伸ばして待ってんのにさーあ?」

 お部屋の中のどこに隠されていたのか、非常用の食品や水やらがあちこちに積まれていた。俺以上に用意周到な人がいたじゃん。

 これが弐瓶教授一人の分とするならば、ざっと見た感じ、一ヶ月は外出せずにこの中に閉じこもっていられるだろう。普通はこんなものなのかな。まるで大災害が起こることを予測していたかのような備蓄量。

 「電車に乗れるような状況じゃなくて」

 ラジオがBGMのようにつけっぱなしにされている。
 スマホは先ほどから通話もメッセージのやりとりもできないが、パソコンでの通信はできているらしく、弐瓶教授の視線はずっとモニターに釘付け。呼び出しておいてそちらが優先か。まあ、今の状況から鑑みるに、どっかの知り合いと連絡を取り合っているのかもしれない。ここだって安全とは言い切れないだろう。

 「知ってる。タクシーは?」
 「……電車がダメなら、誰でもタクシーに乗ろうとするでしょう。タクシー乗り場も大変なことになってましたよ。バスも身動きできないでしょうし」

 扉で隔てられた外のスペースにこれまではパソコン一台につき一人の付属品のようにくっついていた弐瓶教授のファンの方々は、この事態とあって誰もいない。そうだよな。護衛のあいつらには家族がいる。いくらモブとはいえ。どれだけ姫を大事に想っていても、家に帰るだろう。家族の待つ家にさ。それが正しい行動だ。

 どんなに張り切っても姫とは家族になれない。それなら今いる家族を大事にするべきだよな。俺にはいないが。姫が帰らせた可能性もあるか。

 ところで姫こと弐瓶教授は帰らなくていいの?

 「あららららら。みなさん大変ねぇ。てことは、ここまで歩き?」
 「はい。そうですよ」

 不細工どもから毎度の如く浴びせられていた攻撃的な視線は、なければないでそれはそれで寂しいものだと気付いた。これは気付かなくてもよかったな。俺はここにいた奴らの顔なんて覚えていない。名前も知らない。どこに住んでいるかなんてわからない。興味もない。あちらがどれだけ俺を憎もうとも、俺は気にしちゃいないし。住む世界が違う。

 「あららら。それはそれは。そこのお水、飲んでいいよん」

 そこのお水、と指差された先には五年の長期保存ができる水のペットボトルが置かれている。言われてみるとのどが渇いているような気がしてきた。実感する前に水分を補給したほうがいい、とはよく言われていることだ。許可もいただいたことだし、一番手前にあったペットボトルを掴み、ふたを開けて一口飲む。

 「話ってなんですか?」

 いただいたペットボトルのふたを閉めてから、さっそく本題に入る。お待たせしてしまっていたらしいし。俺のほうから話を振っておけば拗ねていないっていうアピールにもなるじゃん。俺を呼び出した内容がお怒り系統なら、忘れてもらうのがありがたいわけで。怒られたいわけではないよ。怒られたくて来る人、そうそういないでしょ。まあ、弐瓶教授から怒られても、チワワがきゃんきゃん吠えているようにしか見えないな。迫力があるのは胸部だけ。権力はあっても、暴力では勝てない。

 「マヒロさんと連絡が取れなくて」

 そりゃあそうだろ。返事が来たら怖いよ。霊界と通信できちゃってることになるし。あちらまでスマホは持って行けない。弐瓶教授は情報工学の教授だが、そんな芸当はできないだろ。そういう研究をしているんじゃあないもんな。それに、死んだ人間と会話できるのであればマヒロさんとではなくて一色京壱と会話したいよな。弐瓶教授の場合。

 さて、どう答えるか。

 「気付いた時に返事してくれたらいいのに、秒で返事をくれるんだよ? なのに、既読がつかないわ、通話にも出てくれないわで、ユニちゃんが嫌われちゃったかと思っちゃうじゃーん? スマホまた壊しちゃったのん?」

 嫌ってはいない。食事の場でも弐瓶教授の話題はたびたび上がっていたし。スマホ破壊路線でいくのはありか。

 でも、なんでわざわざ俺をここまで呼び出したのか。別に俺がここまで来る必要はないじゃん。なら、どこに行こうとしていたのかって聞かれると行き場はないけれど。

 「それならさっきの、俺への電話で聞けばいいじゃないですか。来させたのは何故ですか?」

 弐瓶教授は、俺にも見えるようにパソコンのモニターをぐるっとこちらに向けてくる。各地の被害を伝えるネットニュースの記事だ。ラジオでも繰り返し、行方不明者への呼びかけが続いていた。

 「これを見てどう思う?」

 前兆なくトウキョーを襲った直下型地震により、交通網は完全に麻痺してしまった。

 「どう思う? と聞かれましても」
 「ここに来るまでにも見てきたと思うけどけど」
 「はい。特に駅はひどかったですよ。フェス会場かってぐらい、人でごった返してました」

 フェス会場に行ったことはないから、あくまでたとえね。

 「ふーん?」

 モニターを元の位置に戻しながら、アヒル口になる弐瓶教授。おそらくはずっとこの場所にいたんだろう。

 「君から私に言わなきゃいけないこと、思い当たらない?」

 雑だな。……なんだろう。愛の告白?
 ここで弐瓶教授に告白したらなんて答えられるかな。俺としては弐瓶教授が彼女になってくれるんなら嬉しい。彼女ならね。結婚するとなると違う。マヒロさんと違って、料理している姿は想像がつかない。一色京壱のこともある。毎日毎晩死んだ人間の話をされたらつらい。しかも知っている人間ではなくて知らない人間なのがまた。

 この人はずっと過去を見ていて、幸せな家庭がどうのみたいな価値観とはもっとも遠い場所にいる。自ら歩み寄ろうとはしない。

 「君から言ってくるかと思って、知らないふりをしていたけどけど、言わないかあ、そうかそうか」

 ああ。
 なんだ。

 「地震が起きる直前、君のおばあさまから私に電話があったのん。私とマヒロさんが仲良くしていたのを知っているから、真っ先に教えてくれたのねん」

 返事が来ない理由を知っているのか。
 俺の反応を窺っていたってこと? 女さんこわ。趣味が悪くない?

 「揺れが始まったのは電話の最中。もちろんこっちも揺れたよん」
 「俺は不忍池にいました」
 「あっ、そう、そうなのねん。その荷物を持って、先に避難してたってわけね」

 ドラムバッグをあごで指してくるので「違います」と否定した。なんでだよ。地震が起きることがわかっていたみたいな言い方をするじゃん。そんなわけないだろ。わかっているんだったら、それこそこの部屋に置かれている非常食ぐらい用意しておくよ。あと、避難場所の確保ね。あてはないけれども探す努力はする。

 「揺れが収まってから、私は研究室のみんなに『家に帰る』ように指示して、君に電話をかけた」
 「それでみなさんいらっしゃらないんですね」
 「マヒロさんのこと、君からも聞きたいしねん」
 「……ああ」
 「マヒロさんとタイムマシンの話をする時は、いっつもこうして中から鍵をかけてたよーん。彼奴(あやつ)らの中にスパイがいないとは言い切れないじゃーん。万が一、突入してこられても困るじゃんじゃん?」

 つまりは今、この研究室は俺と弐瓶教授しかいない。もし誰かが戻ってきたとしても、この部屋までは入ってこられない。邪魔されないってことね。いいじゃん。こういう状況を待っていたよ。できればこんな緊急事態になってからよりも、もっと世界が平和だった頃のほうがよかったな。

 「本当は宇宙人だって話は、知ってた?」

 うん?

 弐瓶教授はネタではなく本気で言っているようだ。モニターではなく、俺の目をまっすぐに見つめていた。ここは話を合わせておこう。

 「マヒロさんは、宇宙人」
 「そうそう。宇宙の果てからやってきて、人類を滅亡させるのが、彼女の目的」

 人類滅亡。弐瓶教授はマヒロさんに協力する代わりにタイムマシンに関する情報を聞き出していた。だから、俺よりマヒロさん――というか、マヒロさんのフリをしていた宇宙人に詳しいのだろう。俺や祖母は、マヒロさんを真尋さんとして見ていたわけだし。宇宙人という可能性は、考えていなかったな。言っていたっけ。タイムマシンを持っていたのも、宇宙人だからってことなのか?
 確かに人間としておかしなところはいくつかあったよ。行方不明になる前の真尋さんと印象が違うっていうか。でも、見た目は真尋さんなわけじゃん。

 「俺と二人きりの世界を作る、みたいな話もしてました?」
 「してたよーん。赤ちゃんができてからは『延期!』とも言ってた」

 だいたい俺にした話と同じ話をしている。それぐらい弐瓶教授とも仲がよろしかったってことね。だったらなおさら、なんで死んだのさ。

 「マヒロさんに擬態していた宇宙人の遺体はこちらで詳しく調べさせてもらうよん。ちょうど明日、Xanaduにも行くじゃーん? うちよりあっちのほうが、生命工学だし、専門だよねん。向こうのスタッフが四方谷家にお伺いして、丁寧にXanaduまで運んでくれるっぽいから、安心していいよん」

 それは延期しないのか。元々、そのXanaduの見学はマヒロさんの希望で「オルタネーター計画の本丸を見に行きたいぞ!」って話だったけれども、まさか死んだ状態で連れていくことになるとはな。ますますこのタイミングで自殺したのが謎だ。見に行ってからでよかったじゃん。

 「祖母は、なんて?」

 この俺よりも宇宙人を真尋さんと信じ込んでいた祖母から、マヒロさんを回収できるもん? それとも、マヒロさんのほうから祖母には打ち明けていたんかな。そういう風には見えなかった。

 「……快諾してくれたよーん」

 少し間があった。まあ、祖母がどう答えたとしても、俺とは無関係の存在になってしまったから、いいか。四方谷家に戻ることはない。ないよ。もう俺は決めた。

 「そのXanaduの見学って、今この状況でも行けるもんですか? こっちこそ延期じゃあないですか?」

 弐瓶教授は、もう一度、モニターを俺が見えるように回転させた。その画面を見る。ネットニュースだ。記事は英語で書かれていて、真ん中には写真がデカデカと貼り付けられている。

 「こっちが地震でグラグラしていた頃、諸外国にはドッカンドッカンと星が降ってきていた。しかも、軍事施設を狙い撃ちして」

 は?

 「星?」
 「隕石だよ隕石。これが、宇宙の果てからやってきた侵略者と無関係なのかって話よねん」

 宇宙人の次は侵略者ときた。同一人物のことを指しているのだとすれば、マヒロさんが侵略者だったって話になる。行方不明になった義理の母親に扮して俺の目の前に現れて、俺の日常を完膚なきまでに破壊していった侵略者。スケールが小さいような気はするが、俺には大ダメージだった。おかげで当面の住むところに困るわけだから。

 「落ちてきたのは、彼女が死んでからじゃあないですか」

 俺が口を挟むと、弐瓶教授は「死んだから落ちてきた」と切り返してきた。どういうこと?

 「これは生前の彼女から私が聞いた話なんだけどけど。侵略者の故郷には例の予言の通り『恐怖の大王』がいて、各惑星の侵略担当が死んだら、その『恐怖の大王』が直接手を下すんだってよん。聞いてなかったのかにゃ?」

 なんだそれ。初耳なんだけど。

 「例の予言ってなんですか?」
 「えっ、そこから?」

 大層驚かれてしまったのでこの世界の常識なのかもしれない。その『恐怖の大王』がどうのっての。……思い出すしかないか。

 「世紀末に流行ったじゃーん。1999年7の月、ってやーつ。空から『恐怖の大王』がやってきて、アンゴルモアの大王を蘇らせて、支配するっていう予言」
 「聞いたことあるようなないような。というか、俺、1999年7月生まれですよ?」

 弐瓶教授が「若っ」と呟いた。教授だからそこそこ行っているんだろうけれども、弐瓶教授も十分お若いですよ。

 「じゃあ、人類が大混乱するってわかっていて、マヒロさんは首を吊ったんですか?」

 その予言の話と、弐瓶教授がマヒロさんから聞いたという話をまとめると、そうなる。俺に断られて、ヤケクソになって首を吊って、その上司の『恐怖の大王』とやらが動いたってことじゃん。マヒロさんは俺とふたりきりの世界を作りたかったんじゃないのか。

 腹が減ったのか、弐瓶教授は手近にあった非常食の封を切って中身をパキッと割る。その割れた固形物の長さを見比べて、短いほうを俺の目の前に差し出した。受け取っていいのかな。チラッとその目を見やると、さっさと取りなさいと言わんばかりに眉間にしわを寄せられてしまった。受け取る。

 「異星人が本当は何を考えていて、何がしたかったのか、私にはさっぱりわかりまへん。滅亡させるって言ってみたり、子どもを育てたいからと手のひらを返したり。近くにいた君にわからないんだったら、私がわかるわけないじゃーん?」

 口の中の水分を全部吸い取ってくれそうな固形物だったので、先に水分を摂ってからいただくことにする。

 「……期待してなかったけどけど、美味しくないね。ユニちゃん、こういう時だからこそ美味しいものが食べたいのん!」

 そう言ってペッペッとゴミ箱に吐き出している弐瓶教授。いただいておいてはっきりとまずいとは言いたくないので、もそもそと噛み砕いてから水で流し込んだ。ラジオから垂れ流しにされ続けている情報によると、一般路も高速もあの混雑が解消されるのには時間がかかる。瓦礫や倒木やらで通れなくなっている道も多い。スーパーやコンビニから食品が消えても、安定して供給されるようになるには時間がかかるだろう。俺にだって美味しい食品を手に入れたい気持ちはあるけれど。急いで向かったところで何もないんじゃん?

 「食って大事よねん。失ってわかるありがたみ?」

 もそもそした固形物だけでは物足りなかったのか、弐瓶教授はカップ麺の蓋を開けてお湯を注ぎ始めた。全て座ったままできるような位置で配置しているようだ。失ってわかるもの、結構あるよ。悪いことばっかりでもないけれど。たとえば、そうだな。俺は父親がいなくなってから、いたことへのありがたみを感じはしなかったな。

 俺はソファーに腰掛ける。最初に弐瓶教授と直でお会いした時には、俺の隣にマヒロさんが座っていた、大きめのソファー。横になって寝られるぐらいの広さはある。

 「ああ、ドーナツが食べたいな……」

 カップ麺を待ちながらドーナツのことを考えているのは、世界中探しても弐瓶教授ぐらいだよ。

 どこを通っている路線かは電車に詳しくないから知らないけれど、線路が断線したってニュースも飛び込んできた。ちょくちょく余震があるらしい。この建物がぜんっぜん揺れねェせいで気付かなかった。どっかの有名な建造物が倒れたり、液状化現象が起こったりと外は大騒ぎだってのに。次から次へと報道しなければならないニュースが飛び込んできて、ラジオのキャスターは息つく暇もない。

 「ここに泊まっていいよん」
 「えっ?」

 ここに?
 え、ここに???

 「何か不満でも?」
 「いや?」

 弐瓶教授は箸を割ると、カップ麺の中身をぐるぐるとかき混ぜ始めた。

 追い出された身だし。帰るべきところがないので、寝泊まりしていいなら助かる。というか、弐瓶教授的にはいいの? この俺を泊めても?

 「なんでドーナツが好きなんですか?」

 特にやることもないから雑談をしよう。弐瓶教授が乗っかってくれそうな話題で。

 「京壱くん家に初めて遊びに行った時に出てきたドーナツが、あの砂糖をまぶしたドーナツだったのん!」

 割り箸で麺を持ち上げたのに離して、目を輝かせながら京壱くんこと一色京壱の話をする。一色京壱くんはこんなに可愛い人にこれだけ愛されているのにどうして死んでしまったんでしょうね。

 「弐瓶教授は、高校二年生の頃に飛び降りた京壱くんへ会うために、タイムマシンの研究をなさっているんですよね?」
 「そうだよーん」
 「京壱くんは彼氏?」

 これだけご執心なのだからよっぽどのラブラブカップルだったんではないかな、と思っての暫定『彼氏』だったけれど、意外にも「彼氏じゃないのん。幼馴染み」と否定された。そうなの?

 「付き合っていたわけじゃあなくて?」
 「昔っからゲームしたり、京壱くんがカードにハマったらこっちも集めたりしてたなあ。懐かし!」
 「わざわざ過去に戻りたいのって、その京壱くんと付き合うため?」
 「だから幼馴染みなんだってば。そういう彼氏ぃとか彼女ぉとか、そういうのじゃないのん」

 なんだか難しい。当時男子高校生だった京壱くんは、こんな可愛い子がそばにいて、家にまで上がってきてくれるのに、ただゲームだけして解散だったってわけ?

 「京壱くんのほうからは何も?」
 「何も、って?」

 麺を咀嚼しながらキョトンとされてしまった。思春期の男の子とめちゃくちゃスタイル抜群なとんでもなく可愛い女の子が一つ屋根の下にいるのに、幼馴染みから関係性が発展しないなんてことあるの?

 「弐瓶教授、これまで彼氏がいたことは?」
 「ないよん。私は京壱くん一筋なんだってば」
 「で、京壱くんは彼氏じゃあなくて幼馴染み」
 「何回確認するのん?」

 怪しまれたな。むっとしてから、カップ麺のスープを飲み始めている。カップ麺のスープって身体に悪いっていうから飲まないほうがよくないか。長生きできない。

 「京壱くんとは付き合いたくないんですか?」

 うーん、と天井を仰ぎ見て「京壱くんがそう望むなら、かな」と答えてくる。健全な男子高校生なら、こんな美人から告白されたら断らないでしょ。断る理由ないじゃん。即答でオーケーするよ。まあ、そうはならなかったから今があるのだろう。

 「俺と練習しときませんか?」
 「何を?」

 なんだろうね?

 「なんだと思います?」

 俺は弐瓶教授と二人きりになれるようなシチュエーションを期待していた。今、まさにそうなっている。それなら、するしかないじゃん。弐瓶教授だって、俺がそういう人間だってわかっているでしょ? わからないのだとしたら、リサーチ不足だろ。

 「しましょうよ。俺と」
 弐瓶教授より上の立場であるはずのXanaduの施設長の五代さんに挨拶しに行くってのに、俺はポロシャツにデニムのパンツにスニーカーとラフな格好をしている。この暑さに対しては申し分ない服装だが、目上の人に対しては失礼にあたらないか。……まあ、今更気にする事項でもないな。どう思われてもいいや。かっちりしたフォーマルな服装の持ち合わせがないのもあるけれどさ。

 ちなみにXanaduは統廃合によって児童生徒がいなくなってしまった校舎を、最新の建築技術によってリノベーションした建築物らしい。東京からはさらに離れてしまうが、離れていることでこのたびの被害をさほど受けなかった――のかな。どうなんだろ。

 「あのさあ」

 アスファルトによって舗装されていた道が、地震の影響からか、ところどころデコボコになっている。弐瓶教授の研究室を出る直前まで聞いていたラジオによれば、道が液状化している場所もあるらしい。人が歩けるだけまだマシかな。自転車だったら転んでしまいそう。

 「なんですか?」

 弐瓶教授がシャワーを浴びて戻ってくるまで、俺は四方谷家から持ってきた荷物を整理していた。さすがに手は出さないよ。そんな、泊めてもらって不義理なことをするわけないじゃん。弐瓶教授のことは好きだけど、好きだからこそ嫌われたくないしさ。

 目的地のXanaduまではまた徒歩での移動になるし、今のうちにこの荷物が本当に必要か不必要かを選別しておこうと思った。俺たちが眠っている間に一生懸命働いている人たちはいたんだろうけれど、一晩では道の復旧はできてないだろうし。

 あちらもこちらみたいに、震災前と同程度に電気が使えるとは限らない。余震で停電する可能性だってある。あと、水だよな。弐瓶教授からもらったペットボトルを一回飲み干して、洗ってから、満杯になるように蛇口の水を入れておいた。ドラムバッグは重くなってしまうけれど、これは必要なものに該当するだろ。

 「君の持っているうさぎのぬいぐるみって、君のもの?」
 「上野動物園で、ひいちゃんに買ったものです」
 「ひいちゃん?」
 「参宮(さんぐう)一二三(ひふみ)

 俺が弐瓶教授のことを調べたように、弐瓶教授も俺のことを調べてくれていたおかげで、名前を挙げただけで「あー。真尋さんの連れ子の?」と一致したようだ。俺はスマホで、四人家族だった頃の集合写真を見せる。

 「この子です」
 「はいはい」

 俺みたいなのがうさぎのぬいぐるみを大事に持ち歩いているの、まあ、似合わないよな。客観的に見たら俺だって怪しむと思う。別にいいじゃん。好きにさせてくれ。

 「俺にとってひいちゃんは、大事な妹ですし。思い出の品なので、四方谷家から持ち出しました」
 「……なるほどねん」

 弐瓶教授は少しバツの悪そうな顔をして、それから「あっ! コンビニはっけーん!」と話題を変えてきた。昨日から俺はボソボソの固形物しか食べていない。あれはクッキーなのか、ビスケットなのかすら定かじゃあない。弐瓶教授はカップ麺も食べていたけれど。

 「なんか食べられるものを買いたいな。パンでもおにぎりでも、生鮮食品がほしいよねん」

 悪路に影響されての交通量の少なさ。配送用トラック、ここまで来ているのか? 弐瓶教授のお目当ての『パンでもおにぎりでも』納品されているのか怪しい。

 顔に出ていたのか「ユニちゃんはおなか空いてるのん。ささっと行くよーん」と俺の手首を掴んでくる。振り解いて、その左手を握ろうとするとギョッとされてしまった。手を繋ぐぐらいしてくれてもいいじゃん。熱いものにうっかり触ってしまったときのように、脊髄反射で引っ込められた。なんだよ。

 「馬鹿」

 自分のところの大学の学生を馬鹿って言っていいものなんですかね。まあ、言い方が可愛かったから許そう。罵られるのも悪くはないな。昨晩も可愛かったし。ああ、撮っておけばよかった。あの痴態を俺しか知らないなんてね。全世界に共有したいけれども、もったいないことをしてしまったな。

 「いらっしゃいませー」

 一足早く弐瓶教授が入店し、コンビニ店員が「久しぶりのお客様だ!」とでも言い出しかねないほどに勢いよく挨拶してきた。元気があるのはいいことだと思うよ。実際そうなのだろう。レジのカウンターにあるべきものすら用意されていない。肉まんとかおでんとか揚げ物とかさ。

 店内を一望すれば、アメやガムといった嗜好品は売れ残っていて、カップ麺や冷凍食品などの保存食の棚はすっからかん。弐瓶教授のお目当てのパンやおにぎりなんて見る影もない。うちにはそんなもの元から売っていませんでしたよ、みたいな陳列棚だ。予想はできてはいたけれど、現実として目の当たりにすると、何とも言えない気持ちにさせられる。

 「つかぬことをお聞きしますがー」

 レジに立っている店員に弐瓶教授がにじり寄っていく。ラフな格好の俺に比べて教授はパンツスーツ姿だ。ショートボブに低身長な体格と組み合わせると就活生のコスプレに見えてしまう。教授だけども。
 ペットボトルが並べられている棚も、水や茶が並んでいたであろうレーンは買い尽くされて無が並べられている。スポーツドリンクもごくわずか。炭酸やジュースの類は売れ残っていた。なるほどね。

 「はい!」

 俺はコーラを手にして、レジへと向かうことにする。父親の監視下では飲めなかった飲み物だ。中学の帰り道に、女子バスケットボール部のキャプテンだっていう人から、一口飲んで「ほら」とファーストフード店で買ったなんとかバーガーセットのコーラを渡されたのが初めてのコーラ体験だった。あちらさんとしては回りくどい〝好き〟のアピールだったらしい。俺のどこに惚れたのか。身長かな。顔ではないだろ。

 昔はバレーボールやらバスケットボールやら、とりわけ『身長は高いほうが有利』だとか言われるスポーツにやたら誘われたけれども、そういう課外活動の類は活動費が嵩むので参加した記憶がない。部活動っていうのは、あちこちの大会に出場するために、親の負担がついてまわる。日々の生活に苦労しているのに、あの父親が協力してくれるはずがないじゃん。

 万が一参加できるだけの余力があったとしても俺は参加していなかったと思う。ただでさえも他人の表情を窺って、他人に合わせて生きているのに、わざわざ団体行動に身を投じるなど正気の沙汰じゃあないよ。オリンピックなどを見ていると震える。周りと話題を合わせるために仕方なく見ていた。

 女バスキャプテンさんは、学年としては二個上の先輩で、当時の中一の俺からしたら「どちらさんですか?」ぐらいの認識しかなかった。それから、あちらさんから誘われて、どっかに出かけて、わかりやすく告白されて、曖昧にオーケーした。同級生よりも背伸びした心持ちになったのは覚えている。思い返せばあれが最初の恋人っぽい存在だった。あちらさんについて回って、いろいろ出かけるのは楽しかったし。童貞を卒業したのもその人とだった。

 そのうちあちらさんが受験でお忙しくなって、疎遠になってしまったから今は何してんのかわからない。どちらかといえば生きていてほしいけれど。連絡先、当時のままかな。

 「パンとかおにぎりとかっていつ入ってきます?」

 ふいにその先輩とのファーストコンタクトを思い出してしまったのは、店員がその先輩に似ていたからだろう。まあ、店員はどこをどう見ても女子高生で、その先輩その人ではない。名札には研修中の文字列が貼り付けられている。他人の空似。先輩の名字もおぼろげにしか……佐藤だっけ、鈴木だっけ。高橋だったかも。今は大学三年生をやっているのかな。どこの大学に行ったのだかも覚えていないな。これでも彼氏だったはずなのにさ。

 「いやあ……わたしたちにもわからなくてー」

 バツの悪そうな顔で店員が答える。弐瓶教授は「なんてこったー」と水色の前髪の上からその額を押さえた。俺もがっかりしておこう。またボソボソのクッキーかビスケットみたいなものを食べるしかないか。

 「申し訳ございません!」

 店員は何も悪くないのに弐瓶教授に謝っている。なんだか可哀想に思えてきて、店員と食にうるさい大人の間に割り込んだ俺はレジ台の上にコーラを置く。

 「コーラ、飲める?」

 俺は日本語で話しかけたのに、その内容がうまいこと伝わっていなくて「えっ」と店員はまぶたをパチクリとさせた。俺のスマホを取り出してからスキャナーを指差して「お会計してほしいんだけど」と頼んでようやく「あ、いらっしゃいませ! 袋ご利用ですか?」と定形文が口をついて出てくる。

 「いらないよ」
 「ありがとうございます! お支払いは!」
 「スイカで」

 ピピッと決済音が鳴って、背後から弐瓶教授が「何ふつーに買い物しちゃってんのさーあ」といちゃもんをつけてきた。コンビニで買い物して何が悪いのか。そんでもって、買ったものは俺のものだから俺がどうしようと俺の勝手じゃん?

 「あげる」
 「え、」

 会計したばかりのペットボトルのコーラを面前にちらつかすと、また事態がうまく飲み込めていない顔をされてしまった。店員は視線をレジの裏手の扉――そちらに事務所があって、そこに責任者がいるのだろう――に向けて助けを求める。俺は悪くない。いらないならいらないと言ってほしい。自分で飲むから。

 「ありがとうございます?」

 受け取ってくれるようだ。

 語尾に疑問符をつけてお礼を述べてから、事務所に消える。俺は首を伸ばして、扉の向こう側を見ようとするも、向こう側は〝節電〟なのか照明は落とされていた上にすぐに閉められてしまってイマイチわからなかった。

 「ああいうのが好みなのん?」

 本人が見えなくなったのをいいことに、俺のヘソの辺りを人差し指でつっつきながら弐瓶教授が問いかけてくる。好みかって聞かれると、俺は弐瓶教授のほうが好みだよ。たまたま昔を思い出したってだけであって。

 コンビニから歩いて小一時間ほど。それらしき建物に到着する。正面出入り口のゲートは、校門の名残があって、校名が書かれた表札があったであろう位置に『Xanadu』と彫られた石板が埋められていた。統廃合で廃校になったのが何年前の話なのかまでは聞いていないけれども、こうやって使い回せるところは使い回すのだな。

 弐瓶教授が門番のおじさんに会釈する。おじさんはにこやかに手を振って、手元のボタンを押し、開門してくれた。何度か来たことがあるからなのだろう。顔パスってやつ?

 俺に関しては弐瓶教授の護衛ぐらいに思われているのか、特に何のチェックもなく通らせてもらえた。政府公認の先端技術を取り扱う研究施設だってのに、そんな雑でいいのかな、なんて俺が心配することじゃあないか。

 ほら、マヒロさんの姿をしていた例の宇宙人は、人類滅亡がどうのって言っておきながら撤回したからまだ無害とはいえ、悪用してやろうという魂胆で忍び込まれたらどうすんだろ。マヒロさんのフリをしていたアイツの他に人間の姿を真似できる宇宙人がいるのかは知らない。

 『認証シマス』

 なんて警備の薄さを気にしていたところ、元校門から元玄関までの元校庭みたいな場所で、四足歩行のロボットがスイーっと近付いてきて、弐瓶教授の前で停止した。パトカーのランプのようなものを頭の上に載せている。

 「おつかれさま! 英伍(えいご)くんに会いにきたよーん」

 弐瓶教授はスマホでアプリを開いて、その画面を見せながらロボットに喋りかけている。英伍くん。――これから会う、五代さんの下の名前が確かそうだったな。美人教授として有名なのに男の影が見られない女性が、男性を下の名前で呼んでいる。そりゃまあ、一色京壱のことは『京壱くん』って呼んでいるけれど、それは教授と一色京壱が幼馴染みっていう関係性だからじゃん。英伍くん、は女性の名前ではないと思う。こんなところの施設長をやっているぐらいだしさ。研究者で女性の責任者、この国だと少ないでしょ。理系の女子が喜ばれるご時世だよ。

 「こっちはうちの学生の参宮拓三くん」
 『確認デキマシタ。弐瓶(ニヘイ)柚二(ユニ)サン、参宮(サングウ)拓三(タクミ)サン』
 「あとで参宮くんの認証キーを発行してもらうよん」

 弐瓶教授はロボットに見せていた画面をこちらに見せてくれた。認証キーとして、二次元コードと個人番号が表示されている。ここではスマホのアプリで管理しているのか。

 『カシコマリマシタ』
 「ああ、これはあなたに言ったんじゃないのん。参宮くんにね。英伍くんとお話ししたら、この警備ロボットちゃんたちの詰め所に行くからねん」
 『ハイ』
 「俺の認証キー、必要ですか?」

 俺はXanadu(ココ)へ何度も来るようになるの? ただの大学生だよ? インターンには早すぎるし。最近は一年生からでもやるもん?

 「今日からココにお世話になるんだから必要でしょうよ。認証キー(これ)持ってないとトイレにも入れないよーん?」

 弐瓶教授から呆れまじりに言われて「へっ?」と間の抜けた声が出てしまった。そうなの? ――たくさん歩くからではなくて、俺をこちらに泊めるから、弐瓶教授の研究室に俺の荷物を置きっぱなしにしないで、必要なものだけ持って行くようにって言ったの?

 「北エリアに個人部屋があるのん。私が英伍くんにお願いして空けてもらったんだから、感謝するように」
 「俺は教授の研究室に住まわせてもらえるのかと」
 「んなわけないじゃーん!」

 むすっとされてしまった。なんだよ。別にいいじゃんか。タイムマシンの研究の邪魔はしないし。

 「あらやだ約束の時間に遅れちゃう。英伍くんはどこにいるのん?」

 わざとらしく腕時計を見て、ロボットに五代さんの居場所を訊ねる。

 『校長室デス』

 ああ、校長室があるのか。というか、校長室でいいんだ。施設長だから?

 「ありがと! 引き続き、警備警戒がんばってねん」
 『ガンバリマス』

 ロボットはスイーっと近づいてきたのと同じ挙動で、スイーっと離れていく。仕事熱心でいいと思う。

 「ちなみにこの認証システムは私が組みましたん。英伍くんから頼まれちゃったからぁ。やらないわけにはいかないよねーん」
 「ふーん」
 「何だよお。私は情報工学の教授やぞ」
 「そうでしたね」
 「このぐらいおちゃのこさいさいなのん!」

 正面玄関から、元下駄箱をスルーして土足のまま校舎内に上がっていった。ノスタルジックな雰囲気作りに一役買っていそう。

 「小学校だったんですか、ここって」

 六年生まであるからそうなんだろうな、と思って聞いてみたら「中高一貫校だったっぽいよん」と返された。俺は中学と高校と別のところだったし、エスカレーター式ではなかったからピンとこないけれど、一年生から三年生が中等部で、四年生から六年生が高等部、になるの?

 統廃合で廃校になったって言っていたけれど、子どもも土地も有り余っていた頃に建てて、そのうち子どもが減って中高一貫になり、付近の学校の生徒を受け入れていたけれども最終的に潰れた、って流れか。たぶん。経営が下手なの?

 この辺、人とはすれ違わなかった。家っぽいものも見当たらないし。見渡す限りの大自然。そもそも現在住んでいる住民が少ない。子どももいなくなるよな、そりゃあ。というか、ここってまだ都内なのかな。

 「小学校なら机も椅子ももっと低いか……」

 学校として運営されていた頃に使っていたであろう学習机や椅子は廊下の端に寄せて積んである。こういうのって別の学校に持っていきそう、残しておくのか。

 「君の場合、全部ちっちゃく見えるんじゃないのん?」
 「まあ、はい」

 階段の踊り場の壁に貼られている地図によれば、この施設は北エリアと南エリアがある。設備からしてXanaduの施設内で生活が完結するようになっているようだ。そりゃあ外で人と出会わないわけだよ。二階と三階に連絡通路があり、俺たちが今いるのは南エリアのほう。先ほど弐瓶教授から教えられたように、北エリアのほうに個人部屋として、たぶん昔は教室だったんだろうけれども、部屋番号が割り振られている。

 校長室は二階に上がってすぐ。職員室の隣にある。……職員室?

 「来たよーん」

 まるで友だちの家にお邪魔するときのような調子で、弐瓶教授は校長室の扉を開け放つ。校長室であった頃からその場所に鎮座して、現在もなお立場が上の人間が使用している机。革張りの椅子に座っていたのは、髪を低い位置で一つ結びにした若い男だった。目が開いているのか開いていないのかわからないぐらい細い。それで前は見えているの?

 「おお、ユニ坊!」

 ああよかった見えてるっぽい。ユニ坊、ってあだ名で呼ぶのか。どういう関係性なの?

 「そっちの人が、京壱くん?」

 そっちって言われちゃった。人をそっち扱いすんのはよくないよ。わざわざ俺のために空き部屋を用意してくれたっていうのなら、教授から名前と事情は聞いているだろ。

 「京壱くんなわけあるかーい! 参宮(さんぐう)拓三(たくみ)くんなのん!」

 教授が訂正してくれた。それから俺の方に向き直る。

 「参宮くん、こちらが英伍く――ここのトップで、オルタネーター計画の旗揚げ人の五代英伍さん」

 五代さんがなんらかのアクションを取る前に、弐瓶教授は五代さんの紹介をしてくれた。このXanaduでいちばん偉い人でオルタネーター計画の発案者。つまり、俺はこの人のご機嫌を取り続けなければ追い出されるの?

 「ようこそ拓三ぃ。仲良くしようや」

 なんだよ。わざと間違えやがったな。初手で京壱くんって呼ばれたもんだからさ。ついイラッとしてしまったよ。

 「よろしくお願いします」

 とりあえず頭を下げておこう。マヒロさんが四方谷家にやってきたあの日のように。そうすれば、悪い印象は与えないだろ。心が読めるわけでもあるまいしさ。
 「拓三ぃは、神佑大の学生さんなんやっけ?」

 敵意のなさそうな微笑みを浮かべて、五代さんは俺の所属を確認してきた。正解なのでうなずいてみせる。情報工学部なのに生命工学系っぽいオルタネーター計画の中心地なXanaduに預かってもらうのは、専門とズレている、とはいえ、元校庭で出会った四足歩行の警備ロボットは機械工学系っぽいし、認証キーは情報工学部の教授であるユニのお手製となれば、一カ所にさまざまな技術が寄せ集められていると言えるか。そこで大学一年目な俺に何ができんの、って聞かれたら、特に専門的な知識があるわけではない。力仕事ぐらいなら率先してやっていこうと思う。学べるところがあれば学ばせてもらいたい。

 「そうですけど」
 「どこで宇宙人と知り合ったん?」

 知り合ったも何も、俺にとってのあの人は宇宙人ではなくてマヒロさんだった。あちらは最期までマヒロさんのフリをしていたし、俺は弐瓶教授から明かされるまで正体を知らなかったから。

 「その宇宙人が、行方不明になっていた義理の母親の姿で俺の前に現れたんです。知り合ったというか、あっちが知り合いのフリしてきたっていうか」
 「そんで、拓三ぃはちいっとも疑わず、家に上がらせたと」

 そこはかとなく、トゲのあるような言い回しをされているのは癪だな。話し方は関西弁のおにいさんって感じで、こちらを責めているわけではないから俺の思い過ごしだろうけれど。今日のここまでに五代さんの気分を害するようなことを言った覚えはないし。

 「母方の祖父母の家に住んでいたので、義理の母親――真尋さんのご実家なんですけど、上野の不忍池の近所にあるんですよ。マヒロさん、いや、宇宙人は、俺が招き入れたんじゃあないです。ご本人がご実家に帰るような感じだったんですよ。少し路地のほうにあってわかりにくい道なのに、迷っていませんでした。疑う余地、あります?」

 ないでしょ。真尋さんのことをあれだけ溺愛していた祖母ですら見抜けなかったのだし。俺や祖母、祖父、あの辺の方々にとって、マヒロさんはニセモノではなくてホンモノだった。祖母や祖父にとっては愛している娘。中身が宇宙人だろうと『真尋さんが帰ってきた』という事実(虚実)は、二〇一八年三月三十一日からの約半年間、真実として成り立っていたんだよ。そこでさ、俺がさ、弐瓶教授から教えてもらっていて、マヒロさんは実は宇宙人で、と言いふらしても、俺のほうがおかしくなってしまったんじゃあないかって噂されてしまうよ。ご近所付き合いで、空気を読むのは大事だよ。

 「Xanaduにも宇宙人がおるねん」
 「「マジ!?」」

 弐瓶教授と反応が被った。
 というか、弐瓶教授さえも知らなかったのか。五代さんと親しげなのに。

 「冗談を言ってもしゃあないやん。ほんまのことやで。宇宙の果ての、おもろい話をいろいろ聞けて自分も勉強になるわあ思っとるよ。お互いに情報共有っちゅーこっちゃな! フランソワさん」

 灰色のスーツを着た七三分けに黒縁メガネな男が「ハイ、そうですね」とぬるっと会話に入ってくる。フランソワって名前とは結びつけられないような、日本人ビジネスマンスタイル。そのスーツの色とカーテンの色が近しかったせいか、俺も弐瓶教授も気付いていなかった。窓にもたれかかり、腕を組んでいる。ずっとそこにいたの? それとも、俺と五代さんがやりとりしている間にしれっと裏口から入ってきたの?

 そのフランソワさんの年齢は、五代さんより年上っぽい。ご大層な肩書きがたくさん付いているわりに、五代さんは見た目結構若い。ユニより若そうにも見える。この部屋の中での最年長はおそらくフランソワさんだ。マヒロさんのように他の人間の見た目を間借りしているのだとすれば、実年齢はわからないけれど、おじさんがいくつだろうと興味ないからいいや。

 「フランソワさんは、政府の先端技術研究の支援員なんよ」
 「政府って、この国の?」

 文脈的にそうだろうけれど、我が国がそういった支援をするようには思えなくて、聞いてしまった。しかも宇宙人だっていうのに。

 「せやで」

 俺は今一度、フランソワさんを見た。変哲もない、と言うと失礼だけれど、都心部のオフィス街をビジネスバッグ片手に歩き回っていそうな、いたって普通の男性。とてもじゃあないが宇宙人には見えない。マヒロさんは、まあ、可愛らしくておっぱいの大きな美人妻で、フランソワさんはなんか、こう、一般人すぎる。

 「でもでも! フランソワさんは宇宙人なのよねん?」

 ユニからその正体を訝しがられている、と解釈したのか、フランソワさんはその左手を挙げて、マヒロさんが出してくれたものと同じ銀色の円盤を出現させた。お前も持っているのか。人生で二度もタイムマシンを見ることになるとはな。俺は別に、……使っていいなら使いたいな。

 「乗ってもいいのん?」

 そわそわしている弐瓶教授。教授のほうが乗りたいよな。今すぐにでも一色京壱が飛び降りる前の時間軸に行きたいのだろう。フランソワさんの返事を待たず、ここであわよくば達成しようと、その機体に触ろうとして、タイムマシンは消失した。

 「ダメです」
 「マヒロさんは乗せてくれたよーん?」
 「弐瓶柚二、アナタの目的は、あの子から聞いています。ワタクシもアナタも、あの子に協力するのでしょう?」
 「なあに、フランソワさんとアンゴルモアはお知り合い?」
 「ええ。――ですので、あの子の任務はワタクシが引き継ぎます」

 フランソワさんが俺のほうに視線を向けてきたので、逸らす。糾弾されそうな気がした。俺は悪くない。あちらがしていいよって言うからしたのに、その結果でなんだか思い詰めてしまって首を吊られた。俺は悪くないよな。

 「自分らのオルタネーター計画は、宇宙の力で完成したんや」

 革張りの椅子から立ち上がり、フランソワさんの肩を揉む五代さん。生命工学から宇宙工学に話が飛躍した……のか?

 「英伍くん、質問でぇーす」

 弐瓶教授が右手を挙げる。背格好とあいまって、最新鋭の研究施設を見学にきたどこぞの学生さん、のようにも見えた。

 「ほい、ユニ坊」
 「オルタネーター計画の『オルタネーター』ってどういう意味なのん?」

 知らなかったのか。知らないのに協力していたのか。ずいぶんとまあ。

 「……なぁんか呆れられちゃってるけどけど、参宮くんのために聞いてんだかんね」
 「はあ、そうだったんですか。それは、余計な気を回させましたね」
 「もう。参宮くんはこれからここにお世話になるんだから、興味持ってるフリぐらいはしといてよねん」

 発起人な五代さんの前で言わないほうがいいんじゃあないかな?

 五代さんは五代さんでずっとニコニコしっぱなしで表情が固定化されている。表情から腹の中を探れない。目は口ほどにものを言うなんて言うけれど、その瞳が見えづらいしさ。

 「興味はありますよ。なんせ政府が認めた先端技術ですから」
 「だよねん。英伍くんはすごいのだ」

 弐瓶教授が五代さんを讃えると、ようやく「照れるやんかー」とさきほどまでとはニュアンスの違う笑いに変わった。わかりづらい。なんだろうこの人は。……やっぱり気になるし聞いておくか。

 「弐瓶教授と五代さん、どういったご関係なんですか?」
 「いとこだよん?」
 「あ、ああ、はいはい」

 いとこね。俺から見たいとこはいな、い、と言いたいところだが、俺を産んだ母親のほうの家系図を知らないから、実はいるのかもしれない。親戚付き合いが皆無だったもんで、いとこ同士って言われたらこんなもんなのかな、と納得しておこう。

 「なんやと思ったん?」
 「元彼とか」

 軽口のつもりだったんだけれど、弐瓶教授が「違うよーん! ユニちゃんは、京壱くん一筋なんだからね!」と拳を振り回して抗議する。知っているから叩かないでほしい。

 「……さて、オルタネーター計画やけども」

 五代さんが咳払いして、話はオルタネーター計画へと戻ってきた。ついでにスクリーンが天井からおりてくる。会話に混ざる素振りのなかったフランソワさんが用意してくれていたみたい。

 「元々は、病気で悪くなった臓器やらケガで傷ついた皮膚やらを置き換えるための代替品を生成する、ってのが始まりだったんよ」

 プロジェクターが起動する。スクリーンにはスライドショーが映し出された。赤くてブヨブヨしたものが、オルタネーター計画の初期段階、五代さんたちのチームで作り上げた成果物。

 「此度の研究支援で、フランソワさんが派遣されてきてな。この代替品に、宇宙人の〝カケラ〟を混ぜることで、オルタネーターの第二段階――初期のオルタネーター計画からすると、完成品と言っても差し支えのないものが出来上がった」

 画面が切り替わり、動画が流れる。初期段階のものに、ピンセットで〝カケラ〟を加えると、みるみるうちに人間の眼球へと変化した。

 「皮膚の一部でも、抜けた髪の毛でもええんやけど、そのカケラひとつがオルタネーターの核細胞になるんよ。でもって、第三段階。自分らは『人間』の代替品を製造した」

 次の画面には、板前姿の女性が登場した。ベリーショートな黒髪のその女性は、魚――ウナギだな。ウナギを手早く捌いている。厨房にいる女性は彼女一人で、他は全員老年男性。

 「彼女はウナギ職人のところに弟子入りしたオルタネーターやで。めっちゃ可愛がられとって、アニーちゃん、って呼ばれとるらしい」
 「人間にしか見えないのん」

 俺も弐瓶教授に同じく。ただのグロテスクな肉塊から、こんなテキパキと働く女性が出来上がるのか。

 「代用、のオルタナティブから、オルタネーター。もしくは、このご時世、人類の危機の、これからの時代を支える『発電機』としてのオルタネーターやで」
 「なるほど。ありがとうございます」

 理解した。全てのオルタネーターがアニーちゃんのように、人間の代わりとして働いてくれるんなら、人間は楽ができるようになるじゃん。アニーちゃんの働いているウナギ屋なんて、映っていたご老人たちって職人だろ? 年寄りに無理させるよりは、代わりのオルタネーターに働いてもらったほうがいいよな。

 話が終わったタイミングでさっさと片付け始めるフランソワさん。五代さんとフランソワさんの力関係が気になる。フランソワさんのほうが下なのか?

 「そんでな、拓三ぃ。明日、拓三ぃのおかあちゃんが来日することになってんねん」

 現在地、今後の俺の生活拠点となる予定の個人部屋。設備は、シングルベッドがひとつに、三段のタンス、ローテーブルとエアコン、テレビ。俺はフローリングに正座していて、対峙するユニには座布団がある。

 「おかあさんに会わせてほしい」
 「ダメ」

 というやりとりが三回目。

 「顔を見るぐらいでも許されないもん?」
 「相談はしてみるけどけど、ねぇ?」

 自分でもわかっているんだろ、とでも言いたげな視線を返された。五代さんから『おかあちゃん』と言われて、俺は五代さんに飛びかかるような勢いで「会わせてください!」と頼んだ。土下座したら、向こうがドン引きしてしまった。

 弐瓶教授曰く、その後どうにかして教授がその場を取り仕切って、フランソワさんは素早い動きで俺を気絶させたらしい。宇宙人、怖い。

 気付いたらベッドに寝かされていて、そばに心配そうな顔――はしていないけれども、見守ってはくれていたらしい弐瓶教授がいた。こういう時に付き添ってくれるあたり、それなりに気はあるんじゃあないかって思っている。俺の勘違いかな。研究室に一晩泊めてくれたしさ。

 「なんで、俺の母親が?」

 俺の疑問に、弐瓶教授が自身のスマホをいじって、中国語か何かのサイトを見せてくれる。そこに載っている写真の女性は、俺と同じオレンジ色の瞳をしていた。だが、三月まではそれなりに優秀な高校生だった俺でも中国語は読めない。そこになんと書いてあるかまでは読み取れないけれど、この、成金っぽい女性が、おそらくは。

 「さっき、ウナギ屋さんのオルタネーターについて説明されたじゃーん?」
 「アニーちゃんですね。働き者で、可愛くて、いいと思います」

 一般的な感想を述べたが、弐瓶教授の表情に翳りが見えた。安心してほしい。教授のほうが可愛いって思っているよ。

 「アニーちゃんのように、オルタネーターをいろんな職場に派遣してみよう作戦が始まってるのん。その受け入れ先候補の企業のひとつが、参宮くんを産んだおかあさんのところ」
 「へえ。海外にも飛ばすんですね」
 「今回の『恐怖の大王』からの攻撃を受けたのは日本だけじゃないしねん」

 隕石が落ちたんだったか。日本は地震だけで済んだけれど、この狭い領土に隕石が落ちていたら大騒ぎになっていただろう。
 秋なのに真夏並みに暑いのは、隕石の影響があるという話をラジオでしていた。地球の気候すら変えてしまう宇宙人からの攻撃。恐ろしいったらありゃしない。

 「というか、よく日本まで来れますね」

 ラジオで思い出した。滑走路が台無しになっていて、影響の少なかった地域からの支援物資を届けるのに支障をきたしているんじゃあなかったか。自家用ジェットでも飛ばすの? いや自家用ジェットだったら滑走路必要じゃん。ヘリコプター……は香港からだと飛距離が厳しそう。どうやって来るつもりなのだろうか。船かな。どのみち、こちらまでの陸路が確保できてないし、どうすんだろ。

 「前々から『直接オルタネーターに会って、彼らと話したい』とは言ってたんだよん。それが今回のこともあって、より導入を急ぎたいって話じゃあないのん? ユニちゃんもまさかの明日とは思ってなかったけどけど」

 まさかの明日。
 まさかじゃあなくて、千載一遇のチャンスじゃあないか。

 「生き別れの息子と再会する、ってどうです?」

 弐瓶教授は「はぁー」とわざとらしくため息をついて、水色の前髪をいじりながら「君が物心ついてから今日までに、一度でもあちらからのアクションはあった?」と訊ねてきた。

 ない。

 顔はおろか、住んでいる場所が香港だってことも、事業を成功させていることも知らない。それでも、ひと目見ただけですぐに俺の母親だと判別できる。間違いない。この人が俺の母親なのだ。

 こうして再び巡り会えたのは、きっと、そういう巡り合わせのようなもので。このタイミングだからこそ、運命が引き寄せてくれた。きっとそうだ。そうに違いない!

 「ははは」

 実の母親なのだから、俺を愛してくれる。

 アンゴルモアがもたらした隕石によって地球全体は混乱の渦に巻き込まれて、人間はこれまで通りの経済活動が行えなくなっていたとしても、俺には愛がある。これまでの不幸はこの瞬間の為の前振りなのだと納得しよう。愛は救い、あるいは道、はたまた希望。儚くとも、もがいてでも、ようやく見えた兆し。掴まなければならない。掴んで離さない。

 おかあさん!

 俺は両頬を手で挟んで持ち上げる。十九年ぶりに奇跡的な再会を果たして、俺は諦めていた〝家族愛〟を手に入れるのだ。あの父親が亡くなってしまって、絶望視していたが、――ここにきて最後のチャンスが到来した。逃せば次はない。そんな予感がする。

 真尋さんがひいちゃんは可愛がっていたように、世の母親がそうであるように、俺のおかあさんも俺を好きになってくれる。そうでないとおかしい。この空白の時間を、補って余りある愛情で満たしてくれる。もとより空虚だった俺自身の人生を、肯定してくれるだろう。

 事情通ではあれど赤の他人である弐瓶教授は俺と目が合うなり「……キモチワルイ」と感想を述べた。おそらく今の俺は、恍惚とした表情を浮かべている。気持ち悪いとまとめられてしまうのは、冷や水を引っ掛けられたような心持ちになってしまう。なんだよ。

 「君的には、ミラクルハッピー超展開な再会ってことにしたいのね?」

 教授がにじり寄ってくる。そのチワワのような潤んだ瞳で、斜め下の方向から俺に食い入るような視線で見上げてきた。教授と俺とでは頭ひとつぶんの身長差があるので、どれほどにらみつけようと迫力に欠けてしまう。

 「私は両親から大事に育てられたもんで、君が強めに抱いている母親に関する幻想をパーフェクトに理解してあげるのはぶっちゃけ難しい。でもね、」

 一旦切る。
 その目を伏せて「君は二度も自身の子どもを殺したじゃんか」と続けてきた。

 「二人に対して、君自身はどう思っているのかな。生まれる前に殺してしまった二人にだって、親から愛される権利はあった。父親である君が、――他の誰でもない、誰のせいでもない、真尋さんのせいでもなければ宇宙人のせいでもなくて。責任の所在ははっきりとしている。お前のせいで死んだ。お前は子どもを殺して親としての責任から逃げた。二度も」

 珍しく早口になるじゃん。

 ふーん。そう。そこか。そこで突っかかってくるのか。親となりそうだった俺は子どもを愛さずに切り捨てたのに、俺は親から愛されようなんてそうはいかねェからなって話ね。はいはい。

 「君をここまで育ててくれた君の父親のほうが、君よりだいぶマシだと思っちゃうんだけど、その辺はどう?」

 父親が俺よりマシ?

 「は?」
 「だってそうじゃーん。じゃん?」

 じゃん?

 じゃねェけど。何も知らないくせによく言うよ。あいつはただ、同世代の親たち、特に女親の方から「男手ひとりで男の子を育てるなんてえらい!」と褒められたかっただけ。そういう生き物。

 親の集まる行事には必ずやってきた。職場でも「嫁に逃げられて息子を頑張って育てている男」で押し通していたようだから、休みも取りやすかったらしい。本心では『有給休暇を取得できるちょうどいい言い訳』ぐらいにしか思っていないのだと。俺にだけは、嬉しそうに言ってくれちゃってたな。外では口が裂けても言わないけれどさ。

 あいつにとっての俺は、自分に付属してくる飾りみたいなもの。でかいアクセサリー。トロフィーワイフってあるじゃん。ワイフじゃあなくてキッズかな。

 あるいは、己の承認欲求を満たすためのオモチャ。

 俺は自殺を試みようとして、こともあろうかあいつに止められたことがあった。息子に先立たれたら。不慮の事故じゃあなくて、自らの意志で死を選ばれたら。せっかく築き上げた自らの〝評価〟が凋落してしまうしさ。なんかあったんじゃあないの、って疑われてしまう。何がなんでも止めなくちゃあいけない。そうだよな。俺はこういう人間だから、あいつの立場でも考えてしまう。わかるよ。父親として、予測できる事態は避けなければならない。

 結果、あいつの俺への接し方や態度が変わったかといえば変化はなかった。むしろ悪化したと言える。表にほ見えないように、親子として束縛され続けた。一般的には虐待と呼ばれているらしい。知らなかった。早く教えてほしい。皆が皆、家庭の事情は他人に喋らず、それっぽく見せているのかと思い込んでいた。

 なんてみじめでかわいそうなんでしょう。

 俺が他人に朗々と語る普通の家庭が、現実であってほしかったな。全部嘘だよ。そうあってほしかった話。実現しない夢。

 まあ、俺が正常な家庭に育っていたら、今の俺はいない。きっと、違う俺になっているだろう。そうしたら、父親は真尋さんと再婚していなかった可能性はある。となると、ひいちゃんとは出会えていない。それは困る。

 ありもしない過去を空想して、現実逃避していても仕方ない。タイムマシンで改変できるんなら、改変したいかもしれない。それこそありもしない話だ。ここに立っている俺は誰だよ。

 俺は面前の弐瓶教授にどんな言葉を返すかへ考えを巡らせる。

 「君が今こうして、五体満足で、日本語で意思疎通ができるのは父親のおかげ。親として、子どもに向き合い、育てた成果」

 わかった、わかったよもう。もうたくさんだ。あいつの話はしたくない。

 「俺が子どもを中絶させたように、俺の実の母親(この人)は俺を捨てたんだから俺には会いたくない、って?」

 何やら言いたげな教授の、その顔を右手で押さえつける。

 「当事者ではないお前が決めつけんなよな。俺の母親であるこの人は、俺を愛してくれる。あいつは俺を育ててくれはしたよ。そうだよ、そうでなきゃここにいないよ、俺のことなんて自分の〝価値〟を高めるための付属品ぐらいにしか思ってねェもん。俺が生まれてから、あいつが事故で死ぬまでに、一回も親からの愛情を感じるようなイベントは起こらなかった。あいつから『好き』って言われていない!」

 口を挟ませないように物理的にさえぎったこの右手を、弐瓶教授は両手で掴んで外すと「親だからね」と言い返してきた。

 なにそれ。

 「親から子どもに『好き』とは言わないでしょう。好きなのが当然なんだから」
 「……説得力がないなあ」

 弐瓶教授には子どもはいないし。

 図星だったからか、唇を尖らせて「んもー! 揚げ足を取らないのー! もー! そういうとこだぞー! キラーイ!」と言い放ってから、ベーっと舌を出す。親指を下に向けた。ただでさえも弱すぎる説得力がさらに弱まってくる。

 じゃあ、何。
 俺があいつから振るわれていた暴力は何。何だったの。

 耐えられたから耐えてしまった。その結果がここにいる。もしかしてあれが愛情なのか。愛情の正体。あいつなりの『好き』の表現技法だったってこと?

 「なんとなーくそこはかとなーく君の思考ロジックがわかってきちゃった。ような気がしなくもない。たぶん。ここをこうしてこうじゃ。思い違いかもしれない。同意はできないし、嫌いなのには変わりないけどねん」

 あっ、そう。嫌いなの。俺は弐瓶教授のこと、嫌いじゃあないよ。

 「あとさーあ、これを突っ込んじゃいけなかったらごめんなんだけどさーあ、なんで避妊しなかったの?」

 まだ続くの?

 「百万光年歩ぐらい譲って、宇宙人だから『どんなにヤっても地球人の子どもなんて妊娠しないもん!』はありえたかもかもだけど。それでもさーあ。おかしいと思わなかったのん?」
 「俺は、その、子どもは欲しくなくて、結果こうなったんですが。あちらが無知だったというか。マヒロさんにはひいちゃんがいるんだから、というか、過去に一回やっているのに、ナマでしたがるから」

 いや、スタート地点に戻ってきたのか。どうして『子どもが生まれる前に殺してしまったのか』をつっこまれていたんだった。そこから、どういうわけかあの父親と比較されてキレそうっていうかキレたけれど。やめてほしい。できれば思い出したくないタイプの思い出だから。

 「で。真尋さんの話になるんだけどさーあ。納得いかなくてさーあ。前にさーあ、君は『真尋さんのほうから迫ってきた』って言ってたじゃーん?」
 「そうですよ」
 「真尋さんは、ああ、宇宙人じゃあないほうね? 元の真尋さんは、君のことを嫌ってたんじゃあないのん? 嫌いな相手とそんなさあ、……する? しないよね?」
 「俺が一色京壱を知らないように、ユニは真尋さんのことを又聞きでしか知れないじゃあないですか。家族にしか見せない裏があったって話ですよ」
 「白々しいな」

 何度かこの人、俺のことは嫌いって明言してくれているけれど、こういう反応されるとほんっとーに嫌いなんだろうなって思えてくる。悲しいなあ。まるで信じてくれていないこの目。俺って嘘をつくのが下手なのかな。小さい時から今の今まで嘘を積み重ねてきたし。周りも信じてくれていたように見えたけれど。

 この年齢になってから、疑われやすくなったような。

 「そうだとしても、だとしてもですよ、君の意志でどうにか回避できたのではなくて? だってさ、どうなるかぐらいわかってたでしょ? そんなに君にとっての子どもの命って――待って、理解してあげたくないのに自己解決しそう。自分で自分がキモチワルイ」

 弐瓶教授はあからさまに震え上がるような仕草を見せ「ほら見て、鳥肌が立っちゃった。やだもお」とその右腕を見せてくる。そういう細かいところがかわいいね。

 「俺は父親にはなりたくなかったし、」
 「母親のように生んでしまってから見捨てるようなマネもできないから生まれる前に殺した」

 でも。
 それでも。

 父親と違って、母親なら、俺を愛してくれる。真尋さんはひいちゃんを愛していたし、宇宙人が自ら命を絶ったのは――真相は本人にしか知りえないけれど――俺が子どもを中絶させようとしたから、……ってことにしておこう。今のところは。すなわち、母親はどうであれ子どもを愛してくれるもの。絶対にそう。

 生まれてすぐに見捨てた理由は後々にでも聞けばいい。
 とにかく成長した俺を見てほしい!

 「ははは、ははは」

 もうすぐ会える。
 自然と笑いが込み上げてきて、口元を押さえた。

 俺の母親の周美雨氏は、到着予定時間に三時間ほど遅れてXanaduに到着した。正面ゲートで五代さんが出迎え、南校舎の職能訓練スペースを見学したのちに、校長室の隣の応接間で面談する流れになっている。俺はソファーの周りをぐるぐると歩き回ってみたり、一緒に待たされている弐瓶教授を揶揄ったりして時間を潰した。真っ赤になって言い返してくるのがかわいい。三時間遅れぐらいで済んでよかったな。

 「日本に居たんだし、日本語できるだろ。じゃないと父親と会話できないし」

 俺に合わせて日本語で話してくれるだろうと俺は踏んでいるのだけど、弐瓶教授からは「それは十九年前の話じゃーん」と呆れられてしまった。

 「教授とは中国語でやりとりしているんですか?」
 「広東語ね」
 「中国語?」
 「中華四千年の歴史があって、大陸はとっても広いじゃーん? この狭い日本だって、北は北海道から南の沖縄まで、いろんな地域の方言があるぐらいなんだし、そりゃあ〝中国語〟って言っても地域によって違うのん」

 日本で例えられるとわかりやすい。香港では広東語を使っているってことね。

 「でも、香港ってイギリス領だったんだし、英語もいけるんじゃあないんですか?」
 「周さんはビジネスで、こんな状況でも日本に来ちゃうぐらいには飛び回っている人だしさーあ、英語ペラペライングリッシュだろうけどけど。私がちょい前に香港にいったときには、店の人には通じなかったのん」
 「そういうもんなんですね」

 日本語でのやりとりが難しければ英語でなんとかいけそうか。大学受験レベルの英語で、なんとかなるか?
 生まれたばかりの俺をなんで見捨てたのかって、英語だとどう言えばいいんだろ。まあ、無理そうなら弐瓶教授に通訳してもらえばいいか。

 「そろそろ来るっぽいよん」

 五代さんからのメッセージが届いたようで、いよいよ面会の時が近付いていることに気付く。ややあって、扉が開いた。にこやかな五代さんに続いて、昨日出てきた写真の女性をやや老けさせた顔の女性が現れる。写真を撮影したのがいつなのかは知らないけれど、かなりフォトショップの加工が入っていたんだな。

 昨今の情勢を鑑みれば、老けたのではなくて、疲れが顔面に現れているだけかもしれない。三時間も遅刻してきたし。地球上のありとあらゆる場所に落ちた隕石により、世界経済はかの世界大戦時レベルで混乱している――らしい。他の国の話だから、他人事だよ。日本も自然災害により大打撃は受けているしさ。大変なのはお互い様だよな。どちらにせよ、原因はマヒロさんってか、あの宇宙人が首吊って死んだせいで恐怖の大王が激怒したから、ってのを知っているのは俺と弐瓶教授だけか。五代さんも知っているのかな。

 俺の実の母親が、目の前のソファーに腰掛けた。
 今から十九年ほど前に、俺をこの世に誕生させた人。

 「下晝好」

 教授がさっそく中国語っぽい言葉遣いで挨拶する。挨拶だよな? ソファーから立ち上がり、握手を求めているので、俺もお辞儀しておく。中国語だと你好だってのは俺でも知っている。これが広東語か。

 オレンジ色の瞳は教授を見据えていて、俺のほうは見てくれていない。

 「多谢你喺百忙中抽出時間」

 どのタイミングで俺は話せばいいんだろ。会話しているところに突っ込んでいくのは印象良くないよな。教授がいい頃合いで話を振ってくれるといいな。

 「我也好樂意與我嘅重要商業夥伴直接交談」
 「我要你同佢講嘢,而唔係我」

 ようやく母親が俺のほうを見てくれた。父親からは「俺には似てねぇなあ」と言われていたけれど、こうやって見ると、俺の顔の作りは母親に似ている。目の色だけではなく、なんとなく、パーツがそっくりだ。

 「我冇時間同佢講話」

 教授が失礼なことを言ったのか、母親は不快感をあらわにして立ち上がった。舌打ちが聞こえた気がした。

 「佢係你個仔」

 母親の動きが止まる。なんて言ったのか、てんでわからない。ずっと広東語でやりとりされているせいだ。俺には全くついていけていない。五代さんは給湯室からお茶を持ってきた。この施設でもっとも偉いはずの人間がお茶汲みすることってあるのか。

 「我冇個仔」
 「佢係隼人三宮個仔」

 俺の父親の名前が聞こえた。どういう話の流れになっているのか。

 「哦,骗,小偷嘅」
 「小偷?」
 「或者令我哋稱之為婚姻騙局」

 母親から睨まれているような気がしてならない。キレたいのはこっちだよ。俺は母親が育ててくれなかったせいで、ひどい目に遭い続けてきた。俺は悪くない。父親のせいで、俺はこうなってしまった。俺のそばに、母親であるこの人がいてくれたなら、俺を父親から守ってくれたに違いない。

 「嗰個人呃咗我哋,只談論方便嘅事情」
 「但!」
 「我好遺憾,我應該喺生仔之前就意識到嗰個男人嘅真實本性」

 家には写真の一枚も残っていなかった。今日の今日まで顔を知らなかった母親。声を聞いたのも、これが初めて。この人の夫であった父親は、母親との思い出を忌避して、かすかな記録さえも処分していたからさ。

 「あの、俺は、どうしてもおかあさんに聞きたいことがあって」

 俺とおかあさんとで、再会の喜びを分かち合う機会なのに、ここまでずっと弐瓶教授としか話していないじゃん。なんか、二人で盛り上がっているところ悪いけれど。仕事の話をしていたんだったら、あとで謝ろう。もう我慢できない。

 「生まれてこなければよかったのに」

 ……は?

 突然の日本語と、その中身で、俺の思考が停止する。

 なんで?
 なんでおかあさんが、あいつと同じことを言うの!?

 ゆっくり、じっくりと、言葉が脳を侵食していく。

 どうしておかあさんは「好き」って言ってくれないの?
 そう言ってくれるだけで、俺は、救われるのに?

 だって、母親は、俺の知っている母親は、子どもを愛しているもので。
 子どものためならばありとあらゆるものを犠牲にして、子どものためにその人生を無条件で捧げてくれるものだから、だから……そんな、そんな『生まれてこなければよかった』なんて、ぜっっっっっっっっっっっっっっっっったいに言わない。

 言わない、言うはずがない、冗談でも言わない。
 嘘だとしたら笑えない。そんな笑えない嘘はつかない。

 俺は、何。

 俺は人間で、あなたとあの父親との間の息子じゃあないか。親っていうものは子どもを愛してくれるんじゃあなかったっけ。俺と他の子どもとで、何が違うのさ。何も違わない。違わないはずなのに。どうして今の今まで無視され続けていたのさ。こんなに無関心で、放っておかれたの。

 俺は悪くない。
 悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない!

 どうして。
 なんで?

 「我告訴過你日文,所以我想我明白」

 そうだ。
 俺は人間じゃあないんだって、言われたのを思い出した。

 人並みの努力程度で、人並みの幸せを得られると思うのがおかしい。

 それでも、――なんでだろう?

 ひざに力が入らなくなって、その場にうずくまる。身体の震えが止まらない。涙が出てきて、俺は顔を手で覆い隠した。

 「ちょっと! 参宮くん!?」
 「好的,我要去下一個目的地咗」

 足音が遠ざかっていく。五代さんは「こっちは自分がなんとかするから、そっちはユニに頼むわ」と弐瓶教授に指示して、応接間を出て行った。

 わかっている。
 どれだけ泣いても、解決はしない。

 弐瓶教授は〝でかい男がうずくまって泣いている姿〟を見て、どう思っているのだろう。このつらさを外に追い出すには、涙を流すしかないからこうしている。

 過呼吸がおさまらなくて、動悸は激しくて、鏡で見なくともわかるぐらいに目の周りを泣き腫らしていても、どうせ誰も救ってくれやしない。

 人間は他人を外見だけで判断し、その内側に秘めた心も強いと勘違いする。自分で立ち直り、どうにかするだろうと値踏みして、手を差し伸べるようなマネはしない。同じぐらい困っている人間がいて、性別が男と女であれば女を手伝うのが当たり前だ。俺でもそうする。例えば、今の立場が逆なら。俺ではなく背丈が低くて巨乳で年齢のわりに可愛らしい弐瓶教授が泣き崩れていたとすれば、大なり小なり下心はあるやもしれない男どもが競い合って駆けつける。

 俺も宇宙人みたいに、あるいは、オルタネーターのように。
 別の姿になれたらいいのに。

 「あのさーあ」

 さて、何を言われるのか。

 「あれは赤の他人の私でも言い過ぎだって思っちゃったかな。うんうん」

 驚いた。顔を上げてみる。ポリポリと後頭部を掻いていた。俺とは目を合わさないようにしているのか、視線は照明のほうを向いている。これまでの弐瓶教授の言動から考えるに「男のくせに泣いてやんの」ぐらいのセリフを想定していたので、俺は内心ほくそ笑んだ。

 いい意味で予想外だよ。最悪、ゲラゲラと指をさされて笑われるところまでは想像していた。やりそうじゃん、この人は。そこまでされたらキレるよ。

 弐瓶柚二は俺を好きになってくれる(憐れんでくれる)

 長続きしてほしい。俺は弐瓶教授の彼氏でもなんでもないけれどさ。できる限り長期間そうであってほしい。ああでも、嫌いなのか。でもさ、本当に嫌いなら、俺を見捨てるだろ。

 「おかあさんとはなんて話してたの」

 うわずった声で訊ねれば「君の悪口は一言も言ってないよーん」と返された。いつもの軽い語調ではあるし、目を合わせようとはしてくれないが、目の色は嘘をついていない。そっか。教授がなんだかんだとデタラメを並べて、あの言葉を母親から引き出したのではないらしい。それなら、よかった。

 「君のお父さんとお母さんとの間でなんだか金銭トラブル? があって、その、金の切れ目が縁の切れ目じゃないけど、お母さんが激怒して離婚というオチ」
 「俺、悪くないじゃん」
 「そうそう。君はぜんっぜん悪くなくて『これ以上被害が大きくなる前に手を切ります』みたいな的な」

 何それ。

 自分のことなのに、怒りを通り越して笑えてきた。女さん無理だわ。とことん理解できない。血がつながっていてもそんなものなのか。よく『腹を痛めて産んだ』なんていうけれど、所詮は人と人。物理的な距離だけではない隔絶が親子関係を完全にまっさらにしてしまっていた。瞳の色が似ているというだけ。

 もうあんなのとは金輪際関わり合いになりたくない。
 向こうも同じ気持ちだろうよ。

 「ははは」

 やはり、一生かかっても〝家族愛〟は手に入らない。最後の希望実の母親からもけんもほろろに突き放された。俺が「会いたい」と言うのを、弐瓶教授が引き止めてくれりゃあよかったのにとさえ思ってしまう。一縷の望みを託さなければ、俺はありもしない母親からの愛情を信じていられた。

 全部終わりにしたい。

 「はははははは」

 助けてくれ!

 ……もういいよ。
 もう。
 こんなのたくさんだ。

 どうにでもなってしまえ。

 「いっそのこと、みんな不幸になってしまえばいい。俺だけが苦しむ世界なら、滅びてしまえばいいんだよ!」

 言ってしまった。

 弐瓶教授にはどう解釈されたかな。とうとう頭がおかしくなったと判断されたかも。それでもいいや。元からイカれた男だって思われていたら、その認識であながち間違っていない。まともに育てってほうが無理でしょ。

 「教授、教えてくださいよ」


 開始地点が間違っていたのか、どこかで修正可能だったのか、これからどうすればいいのか、死んでしまったほうがマシなのか。俺のせいで〝恐怖の大王〟が動き、この地球上のありとあらゆる生命が死に絶えるのであれば、俺はその罪をどう償えばいいのか。それは罪なのか。俺はただ、あの宇宙人からの誘いに乗っただけで、……この選択は俺自身のものだから、俺が責任を取るべきなのか。

 これまでの俺を知っている弐瓶教授なら正解を導いてくれる。

 「俺は『生まれてこなければよかった』のかを」

 こんなに不憫で、醜くて、可哀想な俺を、慰めてくれよ!

 「まあまあ、一旦落ち着いて。タオルあるから顔拭いて」

 弐瓶教授はポケットから大きめのタオルハンカチを取り出して、俺に渡してくる。それから、ソファーに深々と腰掛けて「ユニちゃんは『良識ある大人として』あるいは『一人の教育者として』もしくは『人生の先達として』好きとか嫌いとかの恋愛対象としてではなく君を救うにはどうすればいいのかなと考えました」と語り始めた。

 良識の有無は疑問。教育者っていうか〝教授〟だから研究者というのが正しそう。まあ、俺より年上だから〝人生の先達〟だけは間違っていない。

 「君の人生でこれまで君に関わってきた大人たちは、随分と身勝手でした。初期の段階で治療すれば完治できたはずです。でも、実際は放っておかれて悪化して、重症化して、性根ごと腐ってしまった。ユニちゃんは教育学部の先生でもなければ精神科の先生でもないから専門外ではあるから、矯正できるかはしょーじきわからないのん」
 「何を治すのさ」

 今更、弐瓶教授が何をしたところで俺は変わらない。教授が挙げたその手のスペシャリストを連れてきても、大して効果はあらわれないと思う。彼らが何をしてくれんの。薬で記憶を飛ばしてくれんのかな。それはそれでありがたいかも。だが、ひいちゃんとの思い出まで消されたら立ち直れなくなってしまう。今度こそ無理。この記憶を外部メモリに保存しておけたらいいのにな。日記にでも書き残しておこうか。

 「頭脳明晰アルティメット才媛のユニちゃんは君と関わってきて、君の言うように『俺は悪くない』のだと理解しました。育ってきた環境がはちゃめちゃに悪い。親ガチャの失敗データベース。ハイレアリティ毒親。さらにドローしたカード再婚した相手も最悪だったっぽいしぃ?」

 真尋さんのことかな。
 カードって言い方をしなくても。

 弐瓶教授はぽいに独特なアクセントを加えて、俺の表情が変化するか否かを観察している。俺の過去を懇切丁寧に掘り起こしていって、教授の中で『真尋さんが俺との子どもを堕ろしている』事実が引っかかっているのだろう。幾度となく俺を疑っていて、今回で何回目だ?

 俺は弐瓶教授に『真尋さんに迫られて嫌々だった』と主張している。真実を知る(違うと知っている)人は亡くなっている。何百回と何千回と訊かれようと俺はこの主張真っ赤な嘘を押し通すだろう。そうしておいたほうが俺にとって都合がいいから。真実と事実は違うけれど、わざわざタイムマシンで確認するようなことでもないだろ。

 「ユニちゃんは君の代わりにはなれないし、だからって君の過去を追体験したくもない。実家も平々凡々でパパとママからそこそこ大事に育てられたユニちゃんがこう言うのは、思い上がりかもしれないしお節介かもしれないけど、君に寄り添っていきたい」

 顔色から悟らせないために、受け取ったタオルを広げて顔を覆う。
 そうでもしないと大笑いしてしまいそうだ。

 いいじゃん。
 ユニ。
 最高だよ。

 情愛にまみれた好意ではなくて善意からの慈悲。っていうか、老婆心っていうのかな、これは。ババアって言ったら怒るだろうな。やめておこう。でも、いいよいいよ。いい感じ。これからの俺の行動指針も決めやすいもん。ツンデレっぽい「キラーイ!」も捨てがたいけれど。

 お前はどん底にいる俺を見下したいのか。

 地上から、俺を見下ろしてさ。ちょろっと糸を垂らすだけでいい。とってもとっても簡単な仕事。その糸にしがみついて、引き上げられている間に切れないかと不安げにしている顔を、見ていればいい。時折「頑張れ」とか「その意気」とか声援を送る。言葉には何の意味もない。意味がなければただの音と同じ。

 人が〝人〟を助けようとした時、人は〝人〟を同じ人とは思っていない。
 人は〝人〟よりも優位な存在なのだと、勘違いする。

 どこかでボタンを掛け違えたら、逆の立場かもしれないだなんて考えもしない!

 それでもいいよ。俺は。俺はね。弐瓶柚二は可愛くてちっちゃくて、男どもからの人気があって、人目を引く存在。そんな姫が俺を構ってくれるってんだから。

 うれしいなあ!

 「一つだけ約束して」

 タオルを除けて見れば、弐瓶教授がその細い人差し指を立てている。爪やすりで整えられたその指先を咥えたら、どういう顔をしてくれるのか。怒られるかな。

 「私に嘘をつかないで」

 そんなことでいいの。
 すでに嘘をついているんだけどそれは?

 「……もうついてるのねーん」

 動揺を察知してくれた。まあ、それでも俺から口を割らないかぎりバレやしない。俺は「人間、生きていたら隠し事のひとつやふたつぐらいあるもんじゃあないですか? 教授にも俺に言えない話、あるでしょ?」と返しておいた。
 参宮隼人(オレ)の話をしよう。

 オレの実家はビンボーで、びっくりするほど金がなかった。中学ん時にぐんと身長が伸びたオレは、年齢を偽ってバイトしまくるようになる。足りないからって誰かから盗むよりはマシだろう? 過ぎた話だと思って見逃してくれ。
 朝は新聞配達、昼間に学校で爆睡、夕方からパチスロ屋のホール。客の吐いたタバコの煙を避けながら、オレは「こうはなりたくねーな」と思っていた。こいつらにもきっと家族がいるだろうに、どうしてこんなところにいるのだか、当時のオレには理解不能だった。
 人には人の事情があるのよ、とキャスターマイルドを吸っていたバイトの先輩はのたまった。ジュースをおごってくれて、そのジュース代をエサに喫煙所まで連れ込み、愚痴を聞かせてくるような女だったのでよく覚えている。きっとこれが初恋。
 その人はオレの知っている限りで五人と付き合って別れてを繰り返し、オレが中学を卒業した三月に、これまで名前を聞いたことのない男と「結婚するから辞めるわ」と言い残して、消えた。その後のことは知らない。人には人の事情がある。オレもパチスロ屋は辞めた。続けていても先輩とまた会えるとは思えなかったから。住所ぐらいなら教えておいてもよかったかもしれない。本当の年齢を教えたときの至極つまらなさそうな顔を思い出すな……。知り合いがきたら困るから、偽名を使っていたんだけど、本当の名前を教えたときも微妙そうな表情をしていた。未練がましいなこの話。やめようか。次、次。
 高校は定時制に通って、バイト先をシフトの融通が利きそうな――ぶっちゃけあまり利かなかったけれど――コンビニを選んで、なんとか卒業。働きぶりをオーナーが評価してくれた結果、コンビニの雇われ店長になる。高卒で、車の免許以外は何の資格を持っていないオレは就職先を探すのに難航していたから、二つ返事で店長になったわけだ。
 オレの父親はオレの就職が決まってから「もういいな」と言い残してどこかに消えた。何が「もういいな」なのかはわからない。探している暇はなかった。探してやったほうがよかったのかな。オレはオレなりに家族のことを考えて、店長になったのに。
 母親は家の中でぶっ倒れて、オレが寝に帰ってきた頃には亡くなっていた。死因は脳卒中らしい。せめて生きている間に親孝行したかったが、二駅先の、行こうと思えばすぐに会いに行ける場所に墓を建てたからそれで勘弁してほしい。
 オレは天涯孤独の身となった。一人っ子だから、実家がそのままオレの家になる。

 子どもは欲しかった。まあ、彼女らしい彼女を作るほうが先だよな。コンビニに客として来る親子連れを見て、バイトの子と話して、パートさんたちの経験談を聞いて、欲しいなって思っていた。思うだけで生まれるのなら誰も苦労しない。

 自分はこう、さきほどから話しているように、若い頃から働いてきたぶん、自分の子には金の面で大変な思いをしてほしくなかった。あと、大学まで行ってほしい。オレは行けなかったから。大学に行けば、いいところに就職できて、オレよりも生涯賃金が高くなるはずだ。だから、将来かかるであろう教育費は、全部貯金していった。なんだか通信教育だったり、塾だったり、習い事だったり、いろいろやらないといけないことがたくさんあるらしいじゃんか。それらにお金がかかる。子どもってそういうもの、らしい。コンビニも人手不足だから、べらぼうに働いて、家は寝床になった。

 オレの息子の拓三、の母親と出会った場所は、オレの働いているコンビニだ。彼女は、客として来店した。

 オレンジ色の瞳の、年上の女性。一目見ただけで恋に落ちたね。見とれてしまって、金庫の金を持ったままぼーっと突っ立っていた。当時高校一年生のバイトくんから「体調悪いんすか?」と心配されて、我に返ったよ。

 彼女が店の前でハンカチを落としていかなければ、接点は生まれなかっただろう。この好機を逃したら、もう二度と出会うことはないと思った。あちらさんから電話がきて、ハンカチを返却するため、として、デートの約束を取り付けた。デートの最後に勢いで告白する。もし断られたら力ずくでホテルへと連れ込むつもりだった。既成事実を作ればなんとかなると思ってしまった。告白にオーケーされたから、卑劣な性犯罪者にはならなかった。無理矢理連れ込まなくても済むならしないほうがいい。

 いいところのお嬢様である彼女のご両親は、オレみたいなのと付き合うのを「認められない」と言ってきた。何処の馬の骨とも知らないやつと「結婚なんてもってのほか」だと。それでも(そんときは)オレと彼女はラブラブだったから、こっそり届け出をして、いそいそと子どもを作った。おなかが大きくなるにつれて、お嬢様のご両親も認めざるを得なくなる。挙げ句の果てには経済的に援助してくれるようにまでなったのだから、孫のパワーはすごい。

 けれども結局は別れてしまったのだよな。この話はあとでする。
 二〇一七年の四月一日の話を先にしていこう。

 「参宮くん、独立しない?」

 かれこれ四半世紀ほどは勤続していて、オーナーの頭髪がかなり薄くなった。勤務明けに「飲みにいこう」と誘われたので、へいへいとついて行ったら、お通しとおしぼりをいただいたタイミングで〝独立〟を持ちかけられる。となると、雇われ店長の座を退き、現場からも離れるのかあ。

 言われて「はあ……」と我が身を慮る。思えばアラフィフ。若い頃よりは動けなくなった。かつてはできたはずの無茶ができない。寝ても疲れが抜けきらず、事務所で発注画面を見ながらうとうとしてしまう日が増えてきた。これが加齢。エイプリルフールでもなんでもない、現実。健康診断には行っている。大きな病気の予兆がないのはいいことだ。健康第一。

 「年寄りは引っ込んでろって話ですか」

 精一杯嫌味ったらしく言ったつもりが、その方向性には受け取られなかったようで、オーナーは「独立して、名実ともに自分の店としてやってみたらどうか、という提案だよ」と真面目な顔をしてくれた。それから、タッチパネルで中ジョッキを二つ注文する。オレが酒に弱いのを知っているのだから頼まないでほしいよな。これでも強くなるために、週一日は飲酒日を作っているんだよ。休肝日ならぬ飲酒日。ぜんぜん強くなれないのだわ。

 オーナーになるには研修を受けなければならなくて、他にも開業に向けていろいろと準備しなくてはならない。オーナーから持ちかけてくるのだから、埋め合わせはオーナーのほうでなんとかしてくれるのだろう。

 オーナーねえ。

 「最初の一年は大変だろうが、軌道に乗せちゃえばこっちのもんよ。僕のように人が足りなくなったら入ればいい。参宮くんがやめて店を持つって言ったら、ついてきてくれるスタッフもいるんじゃないか? ほら、マネージャーの宮下くんとか」

 前に宮下のほうから「参宮さんがオーナーになったら店長をやるんで」と言ってきたな。そのときは忙しすぎて気がおかしくなったか、だなんて笑い飛ばしてやった。ここにきて現実味を帯びてくるか。
 他にも何人かの顔が思い浮かぶ。中にはやめてしまったやつもいるが、オレから連絡したら空いているシフトに入ってくれるような気のいいやつや、本業をしつつ気晴らしにレジを打ちに来てくれそうなやつはいる。うまいこと組み合わせたら最強のシフト表は作れそう。

 「興味が出てきた?」
 「案外いけそうな気がしてきました。でも……」
 「でも?」

 オレの息子、拓三(たくみ)はどう思うかな。オレの仕事に興味なさそうだから、オレが店長からオーナーになろうと関係ないといえばないか。
 拓三の気持ちではなくて、拓三にかかるマネーのほうが問題だよ。オーナーになるのと、このまま雇われ店長を続けるの、どちらが安定して稼げるのかを計算してから決断しなきゃいけない。怠い。来年から拓三は大学生になるのだし、大学生になったら今よりもっと学費はかかる……のかな……そこらへんもよくわからないから、ここで「はい! 研修を受けに行きます!」と答えてしまうのは軽はずみすぎる。何より計算がめんどい。いったん帰って考えさせてほしい。

 「前向きに検討させてください」
 「そうかそうか。……今日はこの話と、もう一件あってな」

 オーナーは満足げに頷いてから、個室の扉を開けて中ジョッキを持ってきた店員さん、の後ろで佇む二人組を「入ってきていいよ」と手招きする。紫がかった髪のストレートにロングヘアな、背が低くておっぱいの大きな女性と、同じように紫がかった髪でこちらはツインテールにしている幼稚園児ぐらいの女の子。髪色と雰囲気からして親子っぽいが、姉妹って言われても納得してしまいそう。

 「紹介しよう。八束(やつか)真尋(まひろ)さんと一二三(ひふみ)ちゃん」

 紹介されて「四方谷(よもや)真尋(まひろ)です。初めまして」と八束だか四方谷だかどちらかの真尋さんはお辞儀した。隣の女の子がマネをしてペコリと頭を下げる。最近目が悪くなってきちゃって、入ってくるまでそのお顔がよく見えていなかった。若い。あれ? 若くない? うちの拓三と同じぐらいに見える。二人は年の離れた姉妹なのでは?

 「名字を戻したの?」
 「初めましての人には四方谷で通してます」
 「……ああ、そうだね……申し訳ない」

 何やら事情があるらしい。オレは一二三ちゃんの方を見る。真尋さんに連れられてきて、所在無げに天井やら壁やらに視線をキョロキョロとさせていた。母親にしては見た目の年齢がなあ。実はアラフォー……美魔女?

 「参宮くん、四方谷さんと付き合わない?」
 「はあ」

 拓三の母親、オレの元妻からは、無実の罪を着せられて国外逃亡されている。別れたと言ったじゃんか。香港の実家に帰らせていただきますってやつね。

 でも、この話さ、まーじおかしいんだって。聞いてくれよ。オレは何もしてねえってのに、オレが元妻の口座から有り金全部引き出したっていちゃもんをつけてきやがる。その時間、オレは働いていたってのは店の監視カメラや一緒に働いていたパートの鈴木さんが証明してくれている。けれども、あの人のキャッシュカードを持って銀行に来店し、窓口でやりとりしている参宮隼人の姿も、銀行の監視カメラにばっちり撮られていた。対応した銀行員もオレを見て「就係人。 毫无疑问」と決めつけやがった。

 嘘やん。オレ、いつの間にか分身できるようになった系? 分身できるんなら分身と二人がかりで仕事するわな。分身のほうは広東語を話すっぽいけれどオレは話せないからな。元妻が通訳してくれないと無理。

 金がなくなっていて、オレもそのおろしたはずの金を持っていないから、どうなっているのかね? な話ではある。が、ともかくこの一件のせいでオレは離婚して、手元には息子が残った。

 そんなことがあったから、もう結婚はしなくていいやと思っていたのですけれども。オーナーは仲人として「彼女、元旦那から逃げてきてね。大変らしいんだよ」とオレに押し付けようとする。

 「助けてください!」

 真尋さんに泣きつかれて「う、うん……?」と首を傾げてしまう。
 美人に泣かれてつらい。断りにくい。いい匂いがする。

 元旦那との間になんかがあって、あちらに非があるということなら、真尋さんから三行半(みくだりはん)を突きつけられることもない……よな、たぶん。別れた事情は後で詳しく聞くとしてだな。三行半って夫から妻にだっけか?

 「よし、今日はパーっと食べようか!」

 オーナーは明るく言い放った。ビールは真尋さんにあげればいいや。どうせオレは飲めないし。

 「成人……はしてるんだよね?」
 「? はい」

 していた。よかった。未成年に酒を勧める悪い大人になるところだった。

 「失礼ですが、おいくつで」
 「二十六です」
 「一二三ちゃんは、娘さん?」
 「はい。……この子、男の人が苦手なもので」

 このやりとりの間、一二三ちゃんはずっと真尋さんの後ろに隠れていた。苦手だとしても、オレはこれから父親ってことになる。それなりになついてくれるといいな。

 「ご実家には帰られないの?」

 離婚したのだったら、再婚相手を人づてにでも探すよりはご実家を頼ったほうが、一般的にはいいのではないかと思った。オレみたいに、両親がもういないのならともかくだ。

 オレの質問に、真尋さんは「母は……」と言葉を濁らせて、俯いてしまった。お若くて小さい子を連れているぶん、複雑な事情があるのだろう。人には人の事情がある。オレはこれ以上、聞かないことにした。なんだかいじめているみたいで嫌だから。

 真尋さんと一二三ちゃんを連れて、初めてオレの家に帰ったのは四月の十日。すぐにとはいかなかったのは、真尋さんと一二三ちゃんが一時的に避難している部屋の片付けがあったり、オレが忙しかったりでタイミングが合わなかったからだ。

 その日の拓三は高校三年生の始業式な日だった。オレと真尋さんと一二三ちゃんで保育園の話をしていたところに帰ってくる。

 一二三ちゃんが拓三のことをえらく気に入った。おにいちゃんとして。オレをおとうさんとしては見てくれないので寂しい。しょんぼり。んまあ、真尋さんの話によれば、元旦那から暴力を振るわれていたってことだから、大人の男性であるオレに対しての苦手意識は強く出てしまうのだろうな。拓三のほうがオレよりデカくて威圧感がある。

 拓三は一二三ちゃんを溺愛し始めた。一二三ちゃんから拓三への想いは、あくまで年上の家族に向けてのもの。義理の兄にあたるわけだし。なのに、拓三から一二三ちゃんへの感情は、崇拝の域にあった。一二三ちゃんこそが、自らを救ってくれる天使だと盲信しているようで、はたから見ていると怖いぐらいだ。オーナーから「家族写真の一枚でもあったほうがいいんじゃないか」って写真館のチケットをいただいて、四人で撮りに行った時なんかまあすごかった。一二三ちゃんを着せ替え人形みたいにするからありえんぐらいに時間がかかって、スタッフさんに止められた。

 真尋さんは拓三にドン引きしている。初対面のタイミングで、真尋さんは拓三から「おかあさん」と呼ばれて、これが鳥肌が立つほど嫌だったらしい。拓三、身長が高いからか怖がられがち。いい子なのにもったいない。オレの子どもにしては成績優秀で、学校に行くたびに先生から褒められるぐらい、いい子。

 いい子なのに、中一の冬に自殺しようとしていたのにはびっくりしたよ。そこまで思い詰めることがあったのなら、実行しようとする前に相談してほしかった。拓三のほうが頭はいいし、力になれないかもしれないけれども、それでも、親子だから。オレはオレなりに拓三のことを愛しているよ。女だったら妊娠させていたかもしれない。よかったな、男で。