無職のススメ、元社畜の挑戦日記


**無職29日目(9月29日)**


心太朗と澄麗は毎日、運動も兼ねて近所のスーパーに買い物に出かける。澄麗はスーパーの達人で、どこの店が何曜日に安売りするかを完全に把握していて、それに合わせて日々の買い物ルートが微妙に変わっていた。彼女の正確さはまるでカーナビのようで、心太朗はそのペースに流されて、ただついていくしかなかった。

ある日の帰り道、二人は掲示板に貼られている松岡神社の「フードフェス」のチラシに目を留める。心太朗にとって松岡神社は毎朝お参りに行く馴染みの場所だったが、フードフェスが開催されることは初耳だった。最近神社で何か準備している様子は感じていたものの、まさか食べ物の祭典だとは思ってもみなかった。チラシによると、地元の店が出店し、射的やくじ引き、高校生の軽音部による演奏なども行われるらしい。「ずいぶん豪華なイベントだな…」と心太朗は驚いた。

しかし、心太朗には一つ問題があった。彼は祭りが大の苦手だったのだ。知り合いや昔の同僚にばったり会うのが嫌で仕方がなかった。それでも澄麗はこのお祭りに行きたがり、心太朗は断ろうとするが、結局はその意志が通ることはなく、強制的に参加が決定した。

フードフェス当日、二人は坂道を上り、踏切を渡ると、すでに多くの人々が集まっていた。澄麗は目を輝かせているが、心太朗は知り合いと遭遇しないかと内心ビクビクしていた。「もしかしたら今回は大丈夫かも…いや、何の根拠があるんだ?」と心配を抱えながら、無意味にサングラスをかけて変装を試みるが、「バレバレのやつ」になってしまっている。

二人はまず神社でお参りを済ませ、次に澄麗が勧める地元の肉屋が出しているというカレーを試すことになった。「肉屋がカレー?」と心太朗は疑問に思うが、澄麗の圧倒的な期待の視線に逆らうことができない。「普通盛りか肉ましがあるよ!」と聞かれ、思わず「肉まし」を選んでしまう。さらに進むと、以前二人がよく通った居酒屋の自家製シュウマイも見つけた。懐かしさに心太朗は思わず足を止め、それを手に取る。

食事エリアに移動し、心太朗は持参した缶ビールを取り出す。節約を意識してのことだ。澄麗は妊娠中のため、お茶を選んでいた。さすがに缶ビールを持ってくることはなかった。

まずはシュウマイを一口。あの頃と変わらぬ味が広がり、心太朗は懐かしさに浸る。そしてカレーを食べてみると、肉がたっぷりと入っていて驚いた。肉屋が本気を出した結果なのだろう。「これは…肉が主役のカレーだ」と心の中で感嘆し、思わず「肉屋さん、やりすぎですよ…」とツッコミを入れたくなった。

お腹も十分に満たされ、そろそろ帰ろうかという話になったが、晩御飯用に何かを買って帰ることにした。心太朗は最近フォロワーがX(元Twitter)に投稿していた餃子が食べたくなっていたが、残念ながら売り切れだった。澄麗も「たこ焼きが食べたい」と言い出すが、神社からの帰り道にあるたこ焼き屋も同じく完売していた。二人は「みんな考えることは同じなんだな」と顔を見合わせて苦笑した。

最終的に心太朗は、知り合いと遭遇することなく祭りを終えることができた。お祭り嫌いの彼だったが、子供が生まれたら澄麗と三人でまたこのフードフェスに来てもいいかもしれないと思い始めた。そんな温かい気持ちが心に広がったせいか、その夜は興奮してなかなか眠れなかった。もっとも、その理由の一つは「肉ましカレーでお腹がまだいっぱいだったから」だったのだが。

**無職30日目(9月30日)**

午前6時、心太朗の朝は爽やか…と言いたいところだが、最悪だった。昨夜の祭りの興奮のせいか、一睡もできなかったのだ。布団の中で「もう一生このまま過ごそうか」と思うも、さすがにそうはいかず、ようやく重い体を起こした。

ふと気づくと、左耳に違和感があった。明らかに聞こえにくく、何かが詰まっているような感覚だった。ソファに座ると、妻の澄麗が左側から話しかけてくるが、何を言っているのかよくわからない。

「もしかして、突発性難聴か?」と心太朗は焦った。生活習慣やストレスが原因と聞いたことはあったが、退職してからというもの、ストレスはゼロ。生活習慣も悪くないどころか、むしろ良すぎるくらい暇を持て余していた。病気はそういう油断して襲ってくるものだと、心太朗は考える。

朝のシャワーを浴びると、水音が耳に響き、やはり詰まりは取れなかった。大病かもしれないという不安が頭をよぎる。シャワーを終えた後、澄麗に相談すると、彼女は病院に行くことを勧めてきた。しかし、心太朗は病院嫌いで、「行かない!」と即答。数年前、42度の高熱で死にかけたときも、ポカリスエットを大量に飲んで自力で治したのだ。ポカリスエットは彼の戦友だった。

澄麗は「大したことないかどうか調べるためだよ!」と説得したが、心太朗が病院嫌いなのは、大したことがあった場合の恐怖からだった。それでも澄麗の押しに負け、結局、病院に行くことになった。耳鼻科を調べると、家から2、3分のところに評判のいい名医がいるという。ただし、「子供を優先するから大人は後回しにされる」という悪い口コミもあったが、もはや心太朗には選択肢がなかった。

病院に着くと、待合室には子供たちがたくさんいた。ここで一生待たされるかもしれないという予感がしたが、意外にもすぐに呼ばれた。悪い口コミは何だったのだろうと不思議に思いつつ、診察室へと入った。

医師は心太朗の耳を一目見るなり、「耳垢が詰まっているかもしれませんね」と言った。耳垢!?心太朗は突発性難聴や脳の病気を覚悟していたというのに、拍子抜けした。しかし、医師が耳をライトで照らすと、「かなり奥に詰まっていますね」とのこと。ここまで詰まっていれば、そりゃあ聞こえないはずだと言う。

それでも心太朗は安心できなかった。耳垢を取っても聞こえないかもしれない、という不安が頭をよぎった。医師が耳垢を吸い取ろうとするが、詰まりが頑固で動かない。心太朗は、まさか耳垢の粘り強さまで遺伝しているのかと、半ば諦めの気持ちを抱き始めた。

医師は耳垢を柔らかくする薬を投与し、5分待つことになった。それでも取れず、再び薬を入れられる。何度か繰り返した末に、ようやく耳垢が取れ始めた。医師は取れた耳垢を誇らしげに見せ、「こんなに大きい耳垢は見たことがない!」と自慢げだったが、心太朗にとっては嬉しくも何ともなかった。

しかし、その瞬間、左耳がクリアに聞こえるようになった。耳垢が原因だったのだ。医師に感謝し、会計を済ませて帰宅すると、澄麗は「ほら、大したことなかったでしょ?」と微笑んだ。彼女の優しい声が、いつもよりも鮮明に響いた。

ただ、長年聞こえにくかった左耳が急に復活したせいで、右耳とのバランスが崩れてしまった。少し違和感が残るものの、心太朗は「まあ、そのうち慣れるだろう」と自分に言い聞かせながら、再び日常に戻っていった。
**無職31日目(10月1日)**

心太朗は、今日もまた眠れなかった。布団の中で「眠気よ、来い!」とひたすら念じて待ち続けたが、結局気づけば朝の6時。時計を見た瞬間、彼は思わず「おい、6時かよ!」と心の中でツッコミを入れた。身体は怠く、心までじわじわと蝕まれている感じがする。マルチタスクの意味すら、違う方向に進んでいるように感じるのだ。

もともと、心太朗は精神的に不安定な人間だった。無職であるため、昼間に寝る時間がいくらでもあるはずなのだが、それすらもできない。「昼寝すら失敗するのか?」と、自分にセルフダメ出しをしながらも、一か月があっという間に過ぎていくことに軽く焦りを覚える。「おいおい、退職してからもう一か月?早すぎだろ!」と、カレンダーに文句を言いたくなるほどだった。

「次に進むために何か始めたい」と心の奥では強く感じている。しかし、結果が出ないことに焦りが募り、「何かしなきゃ」と気持ちばかりが先走る。だが、頭が全然回らず、結局何もできない。時間だけが容赦なく過ぎていき、彼は自分の無駄な時間の過ごし方に感心してしまうほどだった。

その結果、自己嫌悪が再び始まる。「ああ、俺ほんとにダメだな」と何度も繰り返し、無限ループの中に陥っていく。そして、ほんの少しだけ眠るものの、目が覚めると「え、これで回復したのか?いや、してないだろ」と自嘲する始末。

元々夜型の生活ではあったが、2日連続で眠れないのは流石にきつい。夜更かしをしているわけではなく、ただベッドに横たわっているだけなのに、朝が来てしまうのだ。そして無職である以上、時間の無駄遣いに罪悪感が重くのしかかる。「何か始めなきゃ」と思いながらも、何も進展しない日々が続く。

心が崩れると、身体も崩れる――まるでドミノ倒しのように。妻の澄麗は、2日間眠っていない心太朗を心配しているが、心太朗は「こんな状態じゃなかったら、心配をかけることもないのに…」と、無力感に苛まれる。

実は、彼がこんな状態に陥るのは初めてではなかった。寝れない日が続き、精神がズドーンと落ち込み、何もできなくなる。自己嫌悪が募り、希死念慮が顔を出す。「もう病院に行けよ!」と自分でも思うが、病院嫌いの彼はこれまで一度も行ったことがない。過去には「いのちの電話」にかけたこともあるが、夜中は繋がらないことが多く、無念な思いをした。

隣には妊娠中の澄麗とお腹の子供がいるため、ほんの少しだけ救われている気持ちはある。しかし、それでも時折心が重たくなる。「俺は家族を守れる男だ!」と宣言したいところだが、今の状態では「守るどころか、俺が守られているよね?」と自嘲してしまう。

普段、心太朗は澄麗と一緒に夕方の買い出しに行くのだが、この日は彼の体調を気遣った澄麗が一人で出かけた。妊娠中でお腹が大きくなっている彼女を一人にしてしまったことに、心太朗は深い自己嫌悪を感じた。「俺、何してんだ?せめて買い物袋くらい持てよ!」と自分に突っ込まずにはいられなかった。無職という肩書きが、さらに重くのしかかり、「肩書きは無職、しかも買い物すら手伝えません!」という最悪のキャッチコピーが浮かんだ。

澄麗が帰ってきた時、彼女は心太朗を元気づけようとたくさんのお肉を買ってきた。その瞬間、心太朗は「俺、愛されてるなぁ…」と感動したものの、肝心の食欲がゼロだった。「いや、俺の胃袋、今はやる気を出してくれよ!」と願いつつも、食べる気力が湧かない。申し訳ない気持ちで「ごめん」と謝ると、澄麗は優しく「ゆっくり治そうね」と言ってくれた。その言葉に心太朗は「こんなに優しい妻と、これから生まれてくる子供を俺は守りたいんだよ!」と強く思うものの、心と頭と身体が完全にバラバラの方向を向いているのが現実だった。

「今日は、せめて眠れればいいな…」と、彼は静かに思いながら、再びベッドに横たわるのだった。果たして、今夜こそ眠れるのだろうか?

**無職32日目(10月2日)**

朝6時、心太朗はまだ眠りについていなかった。夜明けの光が天井をぼんやり照らし始める頃、彼はベッドの中で天井を見つめていた。まるで自分の未来がそこに書いてあるかのように……しかしもちろん、未来どころか天井にはシミひとつない。瞼がようやく重くなり、眠りに落ちたのはその直後だった。次に目が覚めたのは昼の12時。彼は「しっかり寝たな」と思いたかったが、実際には体がコンクリートブロックのように重く、背中には鉛の板でも入っているかのような鈍い痛み。そして、何よりも心の中に、冷たい海から押し寄せてくるような不安が広がっていた。

「またか……」

彼は小さく呟きながら、ベッドの中で動かずにいた。6時間眠ったはずなのに、心太朗の体はまるで一晩中充電ケーブルを忘れられたスマホのようだ。しかも充電器、接触不良気味だ。「どうしてこうも役に立たないんだろう……自分も、この体も」と、彼はぼんやりと天井を見上げ、自己嫌悪という名の重りがじわじわと心に沈んでいくのを感じる。

そのとき、台所から聞こえてくる物音が彼の意識を引き戻した。「あ、妻が動いてる。人間ってちゃんと起きて動けるんだな」と思いつつ、何とか自分も動こうと試みるが、気力はお留守。妻の澄麗が、心太朗が目を覚ましたことに気づいたのか、寝室に入ってきた。彼女はいつものように穏やかな微笑みを浮かべている。

「少しは眠れた?」

彼女の声は優しい。しかし、心太朗が口にしたのはただ一言。

「まあ、なんとか……」

「なんとか」って何だ。何とか「生きてる」って意味か?彼は自分の言葉にツッコミを入れつつも、澄麗の優しさにほんの少しだけ心が温かくなるのを感じた。彼女がいなければ、心太朗はとうの昔に自分の暗闇の中で迷子になり、「現在地不明」で検索すらできない状態に陥っていただろう。

心太朗は、仕事を辞めてからというもの、無駄に過ごす日々をどうにかしようと、新しい生活リズムを作ろうと必死だった。彼のノートには、まるで誰かがコンサル料を取って作成したかのような完璧なスケジュールが書かれている。

 •6:00〜9:00:起床、歯磨き、トイレ掃除、ストレッチ、筋トレ、朝食、身支度、SNSチェック
 •9:00〜12:00:昼寝、自由時間(自由時間て、昼寝じゃないのか?)
 •12:00〜15:00:神社参拝、昼食、用事
 •15:00〜18:00:日記・小説執筆(執筆!?最近ペン握ったっけ?)
 •18:00〜21:00:買い出し、夕食、お風呂
•21:00〜24:00 : 読書
 •24:00:就寝

計画は完璧に見えた。少なくともノート上では。「これなら大丈夫だ!」と、彼は何度も自分に言い聞かせた。しかし、現実はノートに書かれた文字ほど優しくはない。彼の敵は不眠症と、謎の体調不良。時折襲ってくる「起き上がれない日」のせいで、スケジュールは毎日のように崩壊。「計画通りに進まないことに失望する」という新たな項目が勝手に追加される始末だ。

「また、うまくいかなかった……」

彼はため息をつきながら、ノートをパタンと閉じた。閉じる音すら「ガッカリ感」を象徴しているようだ。計画通りに物事が進まないたびに、心太朗は自分がどんどん遠ざかっていく感覚に襲われる。どこに向かってるのかは分からないけど、とにかく遠ざかっている。

しかし、その日、彼はふと思った。

「スケジュールなんてやめたほうがいいんじゃないか?」

その瞬間、心はふっと軽くなった。「なんで今までこんな計画に縛られてたんだ?」と、急に過去の自分が他人事に思える。そもそも、スケジュールを守る自分って誰だ?どのタイムラインの自分だ?少しずつでもいいから、気の向くままに過ごしてみればいい。無理に何かを達成しようとするのではなく、少しずつ自分を取り戻す。そのほうが実現可能な「計画」なんじゃないか。

その日は特に何の予定もなかった。というか、予定なんて最初からあってないようなものだ。心太朗は、澄麗と一緒にゆっくりと時間を過ごした。気の向くままに本を読み、少し散歩をし、夕食を作る彼女を手伝った。まあ、手伝いと言っても「何か取って」と言われて食器を取ったくらいだが、自分としては大きな進歩だ。そして気づく。「あ、これでいいんだ」と。

心と体の不安定さは相変わらずだが、その中に、ほんの少しだけ余裕が生まれた気がした。心太朗は、少しずつではあるが、自分を許すことを学び始めていた。

「明日の予定? 知らん。それが予定だ!」

**無職33日目(10月3日)**

心太朗は9時に目が覚めた。夜更かしして寝たのは3時頃だったから、睡眠時間は6時間ほど。どう考えても不健康な生活リズムだが、目が覚めると不思議と気分は少しマシだった。「…まあ、気分が良いってことにしておこう」と、自分を無理やり納得させながら布団に横たわる。

最近は「早起きは三文の得とかもういいから、まずは寝かせてくれ」という境地に達し、無理に早起きをやめた結果、心の負担が軽くなった気がする。なんというか、やっと人間らしい生活になったのかもしれない。もっとも、世間的には人間扱いされてるかどうかは怪しいが。

心太朗は、布団の中でごろごろしながらスマートフォンを手に取り、X(旧Twitter)を開く。退職してから「何かしなきゃ…!」という焦りと、「…でも何もしなくても、どうせ誰も気づかないよな」という悟りの間で揺れながら、無職生活の記録をつけ始めた彼。どうせ暇なんだから、と軽い気持ちでSNSを使うようになった。最初はただの愚痴を書き連ねていたが、徐々に日記型短編小説まで投稿するように。動画や画像も試してみたものの、まさかの3日坊主で終了。「いや、継続は力なりって言うけど、力つく前に飽きるから無理だし」と開き直った。

それでも、小さな努力が次第に形を成し、心太朗は同じような境遇の仲間や、精神的に疲れた人たちとのつながりを持ち始めた。「顔も名前も知らないけど、優しい人たちばかりだなあ…」と心の中で密かに思う。SNS上でのつながりに一種の安堵を感じながら、フォロワーたちの投稿を読み進める。皆、失業や休職、うつ病などを抱えながらも、どうにか前へ進もうと奮闘している。彼らの姿勢には素直に励まされる心太朗。

彼自身も、何かに挑戦して失敗し、それでも「どうせやることないし」と言い訳しつつ続けてきた。これって意外と生きてる証なのかも、と彼はうっすらと感じていた。「自分も一人じゃないんだな…他にも同じような人がいるってだけで、なんか安心するな」と、ちょっとほっとする瞬間だ。

しかし、そんな心太朗にも気になることがあった。フォロワーの中には、どうやら、ネガティブな内容を書くのをためらう人が多いらしい。「いや、ネガティブなんて標準装備だろ?」「無職の俺たちがそんなに明るいわけないだろ!」と思うが、どうやら彼らは他人を不快にしたくないらしい。心太朗も同じだった。自分の憂鬱な気持ちを書いて、誰かに「また暗い話かよ」って思われるんじゃないかとビクビクしてしまう。

でも、心太朗が救われるのは、むしろそうしたネガティブな投稿にこそだった。皆が自分の心の中を正直に吐き出している姿に共感し、孤独感が薄れていく。そんな彼らが少しでも前に進もうと奮闘している姿に、心太朗もまた元気をもらう。「俺もいつかは進むんだ…いや、いつかっていうか、今日じゃないけど」と、自分に言い聞かせるように。

「これって、俺も少しずつ社会と繋がってるのか…?」と、心太朗はぼんやり思う。退職してから続いていた孤独な日々が、SNSを通じて少しずつ彩られ始めたのだ。彼はそのつながりを大事に思い始めていた。

その様子を、妻の澄麗は静かに見守っていた。心太朗が少しずつ元気を取り戻していく様子に、「まあ、このペースなら50年くらいで完全復活するかもね」と冗談を言いつつ、彼女はそれでも彼の復活を信じていたのだった。

**無職34日目(10月4日)**


心太朗は毎朝、神社に向かう。彼の住む街の中心から少し外れたところにあるその神社は、急な坂道を上らなければならない。心の静けさを求め、毎日のルーティンとして一人での時間を楽しんでいた。しばらく不調で行けてなかったが、今日は少し回復して来たのでいこうと思っていた。しかし、今日は澄麗が「私も行きたい」と言い出した。

「どうしたの?今日は特別な気分?」心太朗は驚きつつ尋ねる。坂道が澄麗にとってどれほど厳しいか、彼はよく知っていた。

「お宮参りのことを聞きたいの。子供が生まれたとき、どうするのか気になって。」澄麗は目を輝かせて答える。

お宮参りとは、 赤ちゃんが生まれて初めて神社にお参りする儀式のことを指す。通常、男の子は生後31日目、女の子は生後33日目に行われることが多いが、厳密な決まりはない。お宮参りは、赤ちゃんの健康や幸せを祈り、無事に成長することを願うための行事で、両親や祖父母が赤ちゃんを連れて神社を訪れ、神様に感謝を捧げる大切な瞬間だ。

「それに、生まれたときに、どんなことをするのかも気になるし…」澄麗の言葉には、赤ちゃんが生まれた後の未来への期待が混ざっている。

「でも、坂道はきついんじゃない?」心太朗は内心ドキドキしながら言う。「妊婦のお腹を抱えて上る坂道なんて、まるで修行僧の行脚だよ。」

「大丈夫!行きたいの。少しでもお参りしておきたいから。」澄麗は頑固だった。彼女の決意を尊重しつつも、心太朗は坂道を上る彼女の姿を思い浮かべ、気がかりで仕方がなかった。

その前に、毎月一度の恒例行事がある。二人はカフェで家計簿をつけることにしている。コメダ珈琲に足を運び、澄麗はレシートを手に取り、心太朗はノートパソコンを開いた。心太朗は季節限定の月見ハンバーガーとコーヒー、澄麗はレギュラーメニューのパンとカフェインレスのミルクコーヒーを注文した。

「さあ、家計簿を始めよう。」心太朗が言うと、澄麗はレシートを広げて、やや不安そうに言った。「これ、また使い過ぎたかな…?」

「いや、でも子供のためだし、必要なものは買ってるよね?」心太朗は心の中で焦りを感じながら、どこか開き直ったように答える。

計算を始めると、思ったよりも支出が多いことに気づいた。無職になったからあまり使っていないと思っていたが、実際は違った。産まれてくる子供のために、服やチャイルドシート、おむつなどを購入したから、それは納得できる出費だった。しかし、無駄遣いも多い。外食やコンビニでの贅沢が目立ち、心太朗は思わずため息をついた。

「これじゃ、しばらく働かないのは厳しいかもな…。」心太朗は心の中でつぶやく。

「使い過ぎじゃないの?」心太朗が不安そうに言った。

「いや、あくまで育児に必要な投資ってことで!」澄麗はポジティブに振る舞った。

「そういう名目で使ったお金が、レストランのラーメンに化けるなんて、どういう理屈だよ?」心太朗は笑いながら言った。

「まさに、無職ハイで食欲が暴走してたんだな…。」心太朗は自分の無駄遣いを反省した。

家計簿をつけ終わると、二人は神社に向かうことにした。坂道を上りながら、心太朗は澄麗のペースを気遣い、ゆっくりと歩いた。心の中では、もしも澄麗がこの坂道で転んだらどうしようかと、心配でいっぱいだった。

神社に到着すると、ちょうどお宮参りをしている家族がいた。澄麗は目を輝かせ、心太朗に言った。「あの家族、すごく楽しそう!」

「確かに、子供の誕生を祝うなんて、最高のイベントだよね。俺たちもああなれるのかな?」心太朗は澄麗の目を見つめて微笑んだ。

「受付で聞いてみよう。」心太朗が言い、二人は神社の受付に向かった。彼は緊張しながらも、澄麗の手をしっかりと握りしめていた。

受付には穏やかな笑顔の神社の巫女さんが立っていた。「いらっしゃいませ。どういったことでお尋ねでしょうか?」

「はい、実は…」心太朗が口を開くと、澄麗が先に言葉を続けた。「私たち、子供が生まれたらお宮参りをしたいと思っていて、予約が必要かどうかを確認したくて。」

巫女さんは微笑みながら頷き、「お宮参りは予約なしでも大丈夫ですよ。お好きな日を選んでお越しください。ただし、土日は混み合うことがありますので、平日の方がゆったりとお参りできます。」

「本当に予約なしでいいんですか?」心太朗は少し拍子抜けしながら尋ねる。「てっきり、神社の受付で面接でもあるかと思ってました。」

「そんなことはありませんよ。」巫女さんは笑いながら答えた。「お宮参りは赤ちゃんの健康を願う大切な行事ですので、皆さんが安心して来られるようにしています。」

「そうなんですね、安心しました。」心太朗は安堵し、澄麗もホッとした表情を見せた。

「ちなみに、何か特別な準備をしておくことはありますか?」澄麗が尋ねると、巫女さんは「特にありませんが、赤ちゃんの健やかな成長を願う気持ちが一番大切です。着物や衣装はお好きなもので構いません。お宮参りの際には、赤ちゃんの健康を守ってくれるお守りをお受け取りいただくこともできますので、ぜひどうぞ。」と説明してくれた。

「お守り、ぜひ欲しいですね。」澄麗は目を輝かせた。「赤ちゃんのために何かできることがあれば、すごく嬉しい。」

「もちろんです。神社には赤ちゃんを守るための特別なお守りもありますので、お参りの際にぜひお受け取りください。」巫女さんは温かい笑顔で言った。

心太朗は澄麗の横で、彼女がどれほどこの瞬間を大切に思っているかを感じ、心が温かくなった。「良かった、澄麗が行きたいって言ってくれて本当に良かったよ。」と、彼は心の中でつぶやいた。

その後、澄麗は妊娠中のお腹の写真を撮りたいと言い出した。公園に移動し、心太朗はスマホを取り出した。「さあ、準備はいい?」

澄麗は嬉しそうにお腹を手で撫でながら、ポーズを決める。「どう?最高のマタニティーショットになる?」

しかし、実際に見るとお腹はかなり出ているのに、写真にするとなぜか目立たない。心太朗は思わず苦笑いした。「これじゃ、何かのダイエット企画みたいだ。」

「もう、私のお腹はもう宇宙規模なのに、なんで写真にするとそうなるの?」澄麗は自虐的に笑った。

「スマホのカメラ、どうしてこうなった?スティーブ・ジョブズに文句言いたいくらいだ。」心太朗も思わず笑った。

「次は、角度を変えて撮る?これが正面のせいかもしれない!」澄麗は冗談交じりに提案した。

「いや、もしかして俺のセンスの問題かも…」心太朗は自虐的に答え、さらに何度もシャッターを切った。

二人は笑い合いながら、日常の中の小さな幸せを噛み締めた。三人で坂道を一緒に上る日も近い。澄麗のお腹がさらに大きくなるその日まで、心太朗は彼女と手を取り合って、共に歩んでいくのだろう。彼にとって、澄麗と子供との未来がどれほど楽しみで、どれほど大切なことなのか、改めて感じた瞬間だった。


**無職35日目(10月5日)**

”「おい、起きろ!」と、部屋に響き渡る男の声。トニーは、顔をしかめながら目を開けた。目の前にはニック、腕組みをして彼を見下ろしている。

「…なんだよ、もうちょっと寝かせてくれよ。夢の中で金持ちになれそうだったんだぞ」と、トニーは布団の中でもがきながら抗議する。

「夢なんかどうでもいい。会議だ。もう始めるぞ」とニックは冷たく言い放つ。

「会議って、今日はなんの会議だよ?」トニーはベッドからズリ落ちながら、やっとのことで立ち上がった。

「心太朗のことだよ。ほら、あいつ、無職だし、ずっと精神的に落ち込んでるだろ?何かさせようって話だ」とニックは、トニーの耳元でさらに声を張った。

「ああ、そっちか…」トニーは不満げにため息をつく。「でもなんで俺が…」

「お前も実行役だろ?さっさと来い」とニックはトニーの背中を押して、半ば強引に部屋を出た。ニックとトニーは任務の実行役なのだ。

サム、マット、ニック、そして、やる気ゼロのトニー。彼らは会議室に集まっていた。会議の議題はただ一つ――無職で落ち込んでいる心太朗に何かをさせること。

副リーダーであるマットはいつものように会議を仕切る。

「じゃあ、心太朗にどんな行動を取らせればいいか、皆で考えよう。何か前向きなことをさせれば、少しは元気が出るかも知れないからな!」

「前向きなことって…」トニーがぼんやりとつぶやく。「無職だし、どうせ暇なんだから、家でゴロゴロさせておけばいいんじゃね?」

「それだと今と変わらないだろ!」ニックがすかさずツッコミを入れる。「少しは頭使え、トニー。」

「まぁまぁ、落ち着け」と、冷静なマットが会議の進行役として場を仕切る。「彼にふさわしい行動を見つけるのが、今回の会議の目的だ。皆のアイデアを聞こう。」

リーダーのサムが手を挙げて、いつもの笑顔で提案した。「そうだ!チョコザップに行かせよう!運動して、汗を流せば気分も晴れるし、健康にもいいしさ!」

「チョコザップって、あのコンビニ感覚のジム?」トニーが眉をひそめる。「あいつ、そんなん行くか?しかも風呂にも全然入ってないし、どうせ行っても臭いままだろ?」

「そこだ!」ニックが不敵な笑みを浮かべた。「だから、チョコザップに行かせるだけじゃなく、ちゃんと風呂にも入らせるんだよ。二つの問題を一気に解決だ。」

マットは満足げに頷く。「それで決まりだな。ニック、トニー、お前たちに任せたぞ。」

「ラジャー!」とニックは力強く返事をしたが、その隣でトニーは明らかに気が進まなそうな表情だ。「マジで俺も行くのかよ…?」

サムはトニーの肩を叩いて、明るく声をかけた。「大丈夫さ、トニー。終わったらいくらでもyou tube観させてやるよ!」

「…それなら、まぁ考えてやってもいいか」と、トニーは不承不承つぶやきながら、ようやく立ち上がった。

任務遂行のために、トニーとニックは外へと出発する。

「お前、ダルいとか言ってないで、ちゃんとやれよ」とニックが釘を刺す。

「わかったよ…でもさ、俺に任せるってどうかしてるよな。あいつ、俺の言うことなんか聞くか?」

「心配するな。俺がいる。お前はただついてこい」と、ニックは冷静に答えた。

トニーは頭をかきながら、歩き出す。「なんかもう、今日一日が終わった感じがするわ…」

こうして、グズりながらも任務に向かうトニーと、それを無言で引き連れるニックの姿が消えていった。″



心太朗の頭の中には現在、4人の個性的なキャラクターが住んでいる。まるで心の中の委員会だが、彼の思考を整理するために最近学んだ「6色ハット思考法」を基にしている。この手法は、さまざまな視点から問題を考えるためのもので、異なる色のハットをかぶることでその思考スタイルを切り替えられるというものだ。

•白いハットは事実やデータに焦点を当てる。要は、何がわかっているのかを整理する役割だ。

•赤いハットは感情や直感を反映する。自分自身や他人の感情に注目し、主観的な意見を自由に表現する。

•黒いハットは批判的な視点を持ち、リスクや問題点を指摘する役割。

•黄色いハット。これは楽観的な側面を強調し、ポジティブな可能性を探る。

•緑のハットは創造性を刺激し、新しいアイデアや解決策を生み出す。

•青いハット。これはプロセス全体を管理し、次のステップを考える。


ただ心太朗は頭の中に「6人も住ませてられんわ!」と思い、試行錯誤の末、4人まで減らした。愛着が湧くようにそれぞれに名前もつけた。心太朗の頭の中の会議メンバーを紹介しよう。

まずリーダーのサム。彼は常に前向きな意見を出し、「もっと楽しくやろうよ!」と心太朗の背中を押す。「その楽しいの、全然やってないけどね」と、自虐が入る。

次はマット。彼は会議の進行役で、決まった任務を他のメンバーに指示する。冷静で客観的な視点を持っているが、心太朗は「その冷静さ、いつもどこに行ってるの?」とツッコミを入れたくなる。

ニックは実行役で、責任感が強くストイックだ。彼は「やるべきことをやるのは当然だ」と言いつつ、心太朗は「厳しいって!ニック厳しいって!」と訴えている。

そして最後に、最年少のトニー。彼は怠け者で、生意気な性格だ。ちょっとすけべで不安症でもあり、だが時に天才的な創造性を見せることもあるが、「その天才性、いつも出してくれないよね」と内心思う。

この4人のキャラクターたちが心太朗の思考を支えているが、トニーが一番面倒くさいキャラなのだ。「結局、みんなが頑張ってるのに、トニーだけサボってる。彼が俺の中を支配してる気がする」と自虐的に思うこともしばしば。トニーが実際の心太朗と一番仲の良い存在なのだ。

今日はニックのおかげでチョコザップに行き、風呂に入ることができた。心の中のトニーは「風呂は面倒だ」とグズっていたが、ニックが「行くぞ!」と引っ張ってくれたおかげで、無事に行動に移すことができた。「これもニックがいなかったら、ずっと風呂にも入らなかったな」と、反省の気持ちが胸に去来する。
任務を果たしたニックとトニーだが、ニックは早々と姿を消した。「俺の任務は終わりだ。寝るぞ。」と言って。トニーはご褒美にサムとマットからいくらでもyoutubeを見ていいと許可を得た。「今日はサボらずニックによくついていけたな。今日はいくらでもyoutube観たらいいぞ」とマットが言う。「トニー、ありがとうな。いい日になったぜ」とリーダーのさむがとにーにお礼を言う。なんだかんだトニーは彼らには可愛がられている。

こうして心太朗の頭の中は4人のキャラクターたちが繰り広げる小さな冒険の舞台となり、日々の生活を少しでも楽にしている。「やっぱり、俺の頭の中の会議は、いつもこうやって混乱してるんだな」と思いながらも、彼はその冒険を楽しんでいるのだ。これが心太朗の、「4色ハット思考法」を使った奮闘の物語なのである。

**無職36日目(10月6日)**


心太朗は、ようやく数日間の寝不足地獄から脱出した。毎晩、布団に入った途端に脳内で謎の会議が始まり、「次どうする?何が問題?」と詰め寄られ、何も決まらないまま朝が来る。その繰り返しだった。寝ようとするたびに脳が「今が作戦会議の時間だ!」と騒ぎ出すのだ。だが、その悪夢のような日々がついに終わり、心も体も「俺、生きてる!」と感じられるようになってきた。そろそろリハビリを再開しようと思った。

そんな彼がまず決めたのは、神社参り。これまで寝不足やら何やらで参拝に行けてなかったので、神様に「本当にすみません…」と謝らなければならない。心太朗は参道を歩きながら、心の中で「神様、久々に来れてよかったです。ほんとご無沙汰してました、今後はちゃんと来ますんで…」と頭を下げた。まるで職場の上司に言い訳してるみたいだが、神様には通じるはずだと信じるしかない。

参拝を終えて、心太朗の足取りは少し軽くなった。だが、腰と膝は相変わらず。「神様、ここも治してくんねぇかな…」と祈るも、体は正直だ。13時間立ちっぱなしの仕事をやっていたせいで、腰は「も、もう無理っす…」とずっと叫んでいるし、膝も「限界超えてますよ?」と悲鳴を上げている。それでも動かないといけないのが大人の辛いところだ。

家に戻ると、心太朗はお決まりのトイレ掃除に取りかかる。これが彼の数少ない家事担当だ。「他の家事もやらなきゃな」とは思うものの、妻の澄麗がほぼ全てを引き受けてしまうため、結果として彼の役割はトイレ掃除とゴミ捨てだけに落ち着いている。「いや、トイレ掃除も立派な仕事だろ?」と自分に言い聞かせながら、今日もトイレをピカピカに磨き上げた。

掃除が終わると、次の目的地はチョコザップ。これは心太朗にとって「行かなきゃ!」と思っていながら、ずっとサボっていた場所だ。チョコザップは、月額3,000円程度で、24時間いつでも使えるコンビニ感覚のジムだ。簡単なマシンが並んでいて、予約不要で好きな時間に行けるので、初心者でも気軽に通えるのがウリだ。だが心太朗は、忙しさを言い訳にして「まぁ、また明日からでいいや…」を繰り返し、気づけば数ヶ月休会していた。しかし、10月になり「そろそろマジで体動かさないと…」と危機感がじわりと湧いてきた。運動不足が原因でさらに腰と膝が壊れたら、もう立ち直れない。

ジムに着いた心太朗は、まずチェストプレスから始める。15回を3セット。「これ、何キロだっけ?あれ、重くない?」と思いながら、肩と胸にじんわりと効かせる。無理をせず、ペースも控えめに。「俺、無理しない!今日はとにかく無理しない!」と心に誓いつつも、内心「俺、これでいいのか…?」と疑問が浮かぶ。次はラットプルダウン。背中に効かせるこのマシンは、腰を気遣いながら慎重に取り組む必要がある。「もう腰、いじめないでください」って声が聞こえそうだが、心太朗はそれを無視して淡々とこなす。最後はレッグプレス。膝が本気で「おい、そろそろやめとけよ?」と訴えてくるが、軽めの重さで15回3セット。「膝くん、まだ大丈夫だよな?」と自問自答しながら、なんとか乗り切る。

トレーニングは大体20分で終了。「やっぱこれぐらいが俺にとってちょうどいいんだよ」と自分に言い聞かせる。無理をしすぎると、次の日の朝、腰と膝が「おい、やりすぎたろ?」と激しい反抗を見せるので、バランスが重要だ。神社参拝からチョコザップ、そして家に戻るまでの全行程で約1時間。このくらいのペースが、今の心太朗にとってちょうどいい。

家に戻ると、澄麗が笑顔で「どうだった?」と聞いてくる。心太朗は「まぁ、ぼちぼちだよ」と返すが、本音は「腰と膝、死にかけてます…」。でも、そこで弱音を吐いたら「俺、何のために行ったんだ?」と自己嫌悪に陥るので、強がるしかない。結局、澄麗との会話が彼にとって一番のリハビリになっていることに、少しずつ気づいている自分がいる。

こうして少しずつリズムを取り戻す日々。心太朗にとって、このゆるやかな毎日は、腰と膝、そして心の痛みと向き合うための大事なリハビリだ。焦らず、無理せず、少しずつ前に進む。それが今の心太朗の「生き方」になっている。

**無職37日目(10月7日)**

無職無職と言っていたが、実は10月6日までは有休消化だった。それはまるで楽園だったが、いよいよ正式に無職という現実に直面することとなった。仕事を辞めたら自由になるかと思いきや、待っていたのは「手続き」という終わりなき迷路。特に憂鬱なのは、健康保険の切り替えだ。勝手に誰かがやってくれたらどれほど楽か…。

「無職になったら、自動的に国民健康保険に切り替わるんだろ?」と漠然とした期待を抱いていた彼だったが、甘かった。何事も自分でやらなければ進まない。それどころか、選択肢まであるという。国民健康保険か、任意継続か…。保険に悩む人生、予想外だ。

まずは国民健康保険を検討する。

・対象は、自営業者やフリーランス、退職者など。心太朗もこれからフリーランスを目指すかもしれないから、この選択肢は無視できない。
・保険料は収入によって変動し、扶養家族がいれば、その分保険料も増える。「扶養増えたら安くなるとか…ないよな」と皮肉が浮かぶ。
・良い点は、収入が少なければ保険料が安くなることだ。
・しかし、デメリットは顕著だ。収入が増えれば保険料もドーンと上がるし、市区町村ごとに保険料も違う。「引っ越しするだけで、こんなスリルがあるとはな…」と頭を抱える。

「国保はギャンブルだな…俺の収入、安定してなさそうだしな…」と心太朗は苦笑する。

次に、任意継続。

・退職前に会社の健康保険に2ヶ月以上加入していれば、退職後20日以内に申請できる。「20日って、なぜそんな絶妙な期限なんだ?」
・ただし、保険料は会社負担分も含めて全額自己負担。「全額!?」と心太朗は驚愕するが、これが現実だ。
・それでも、良い点は、退職前と同じ保険をそのまま使えること。澄麗が妊娠中で通院が必要だから、この安心感は大きい。しかも扶養家族が増えても保険料は変わらない。「つまり、双子でも問題ないってことか?」と一瞬前向きになる。
・しかし、2年間しか継続できないという制限がある。「2年…その間にフリーランスでちゃんと稼げるのか?」心太朗の表情は曇る。

彼はさらに調べを進めた。どうやら、年収が300万円未満の場合は国保の方が安くなるが、300万円を超えると任意継続の方が得だということがわかった。しかも、扶養家族がいるなら、収入が低いと国保が有利だが、収入が増えれば任意継続が安定してお得になるという。

来年の保険料は今年の収入から計算される。まずは冷静に計算しよう。

心太朗はインターネットで見つけたシミュレーターを試してみることにした。結果は驚きの任意継続優勢。保険料が倍以上違う。「これ知らなかったら、今頃絶望してたかもな…」彼は胸を撫で下ろす。

フォロワーにも意見を聞いてみると、やはり同じ境遇の人たちはほとんどが任意継続を選んでいるようだ。「おお、俺だけじゃないんだな…」と心太朗は妙に安心した。

「任意継続にするしかないな」

退職後20日以内に申請しなければならないため、のんびりしている暇はない。特に澄麗が妊娠中だということもあり、彼は焦りを感じていた。手続きに必要なものは以下だ。



1. 国民健康保険
退職証明書または離職票:退職を証明する書類。

健康保険証:退職前の健康保険証(任意継続をしない場合)。

本人確認書類:運転免許証、パスポートなど。

マイナンバーカード(あれば)

収入を証明する書類(前年の確定申告書や給与明細など)

国民健康保険の加入手続きは、住民票のある市区町村の役所で行う。

2. 任意継続(健康保険)
退職証明書または離職票:退職したことを証明する書類。

健康保険証:退職前に所属していた会社の健康保険証。

本人確認書類:運転免許証、パスポートなど。

口座番号:健康保険料の引き落とし口座情報。

申請書類:任意継続の手続き書類(会社からもらえることが多い)。




心太朗は、ホームページから「任意継続被保険者資格取得申出書」をダウンロードし、書類を持って役所へ向かった。郵送も可能だが、ミスが怖い。慎重派の心太朗は、直接出向くことにした。「ミスしたら面倒だし、妊娠中の澄麗を待たせるわけにはいかない」などと考えていた。

役所での手続きは、マイナンバーカードのおかげで意外とスムーズに進んだ。「えっ、こんなに簡単でいいの?」と疑いながらも順調に進行。だが、澄麗の離職票が必要だと言われた。「あぁ、やっぱり出たか…」心太朗はややがっかりする。さらに、銀行での手続きも必要ということで、その日のうちに全てを終えることはできず、翌日へ持ち越すことに。

その夜。

家に帰り、心太朗は疲れた声で「手続きって本当面倒くさいな…」とこぼした。すると澄麗は笑いながら、「でもこういうことがないと、世の中のこと1センチも知らないままだったんじゃない?」と前向きな返事をした。

「1センチって…少なすぎない?」心太朗は内心でツッコミを入れながらも、澄麗の前向きさにほっとした。

「やっぱり澄麗のこういうとこ、好きなんだよな…」と心の中で密かに思いながら、心太朗は明日の手続きに向けて早めに眠りについた。