くそ、くそ、くそ、と思いながら、俺、相川究は今日も大手通販サイトをスマホで眺める。
休み時間の教室に満ちる、ばかみたいで意味不明な笑い声が耳に入らないように。
高校受験の当日、俺は不運にもインフルエンザで寝込んだ。
ここはそんなことでもなければ絶対に来なかった、この辺りで一番低ランクのあほ高校だ。
あほ高唯一の美点。それはゆるゆるな校則。〈スマホは朝一番に先生に預け、帰りに返却される〉なんていうまどろっこしい決まりもないから、こうして好きなときにいじることができる。
通販サイトの俺のアカウントは、親から小遣いが振り込まれるバンドルカードと紐付けられていた。つまりその範囲内でなら、好きなものがタップひとつでいつでも買える。
「自分でお金の使い方や善悪を判断するのも勉強だから」と、小学生のときからずっと続いているスタイルだ。
うちの両親は、どっちも企業のやり手研究者だった。
父親は研究者にやさしくない日本に見切りをつけ、海外に行ったきり何年も帰ってこない。直接顔を合せたのはもう何年前なのか、ちょっと記憶が怪しい。母親もそんな状況をまったく気にしていないようだった。もっとも、そんなことを深く話し合うほど顔を合わせはしない。
なんでそんなふたりが結婚して子供まで作ったのか、と思うだろう。
その通り。ふたりとも結婚なんかするつもりはさらさらなかった。だけど「人は結婚してこそ一人前」という時代錯誤な考えの上司に当たってしまったのが運の尽き。
しないと出世が望めないという、お互いの利害が一致しての結婚。
結婚したら次は「やっぱり人間は子育てを経験しないと成長しない」云々とやられたのと、「こうなったら研究者として自分の腹の中で子供が育つという興味深い事象を一度は経験しておくかと思った」という母親の考えのもと生まれたのが、俺。
臨月も臨月、生まれるその日まで働いていた母親から未熟児で俺は生まれた。高校生になった今も体は未熟なままで、身長は百六十そこそこだし、しょっちゅう体調を崩す。
受験期にインフルエンザにかかっていたのは、どうしようもない生れながらのフィジカルの弱さ、そして「持ってなさ」だった。
腹の中で生命体を生成して満足したらしい母は、その後の子育てにはまったく興味を持てなかった。
「人にはそれぞれ向き不向きがある。細やかな愛情は注げない代わり、金銭的には絶対に不自由させない」があの人の誓いで、それゆえのバンドルカードだった。つまり「自分でお金の使い方や善悪を判断するのも勉強だから」は、ていのいい口実にすぎない。
脳味噌より体に栄養が回る奴らばかりなのか、教室の真ん中あたりではしゃいでいる奴らはみんな背が高い。俺とだと、大人と子供くらいの差がある。
もちろん友だちなんて、未だにできない。スマホと通販サイトだけが俺の休み時間の共だ。
そういえば、そろそろストックがないな。
履歴から手早く袋麺を検索して、ポチる。食事は親の雇った家事代行サービスの人が作っておいてくれるが、これは夜食用だ。気が向いたときに、ひとりで食べる。
「たまにはジャンクなモノも食べたいよねー」という気持ちを共有する相手も、俺にはいないのだった。
ポチっとしたところで、教室の真ん中がまたどっとわく。ちらっと横目でうかがうと、奴らの態度はどんどんエスカレートして、何人かは机の上にどかっと座っていた。あの辺の席でなくて良かったと俺が心底震える間にも、座った机の上から誰かの椅子をがしがし蹴って爆笑している。
毎日毎日顔つき合せて、なにをそんなに話すことがあるんだろう。そんなに楽しいことが?
……別にぜんぜん気にならないけど。ぜんっぜんまったく一ミリも羨ましくなんかないけど。
俺は笑い声に対抗するように、欲しいものをどんどんカートに入れていく。漫画、ゲーム、スナック菓子に飲み物。母親は履歴を確かめることもしないから――そんなことに時間を使いたくないんだろう――なんでも、好き勝手に買える。
親の詮索なしに、好きなものを好きなときに買える。俺と同じ年代の奴からしたら、きっと夢みたいな話。
だけどオンラインショッピングって、楽しいのは初めのうちだけだ。
なんでもあって、なんでもあるから、段々どれでもいいような、いっそどれも欲しくないような気がしてくる。
俺の欲しいものって、なんだったっけ?
そのとき、ふっと画面に影がさした。
「それ、買い物してんの?」
いつもなら教室の真ん中で喋ってる陽キャ代表、甲斐大河が俺を見下ろしていたからだ。鞄を片手で肩に担いで。
同じ一年だっていうのに、百八十近くある奴にそうされると、巨人のごとき圧迫感がある。ツーブロックにした髪型の、上の方は金色。制服はブレザーだが、ジャケットもシャツの胸
元も、注意された数分間しかとまっているのを見たことがない。もちろんネクタイははずしてポケットに突っ込まれている。
そんなだらしない着こなしでも、俺と同じものを着ているとは思えないほどこなれて見えるんだから人生は不公平だ。心臓がちりっとひっかかれたみたいな不快感。持って生れたフィジカルのアドバンテージにはどうやったって勝てないんだと痛感する。
あいかわとかい。出席番号順で席は前後だけれど、直接話すのはこれが初めてだった。
「通販て、コンビニだるくない?」
「こんびに?」
「支払い」
間抜けに聞き返して、やっとわかった。
未成年はカード支払いが使えないから、せっかくオンラインで買い物しても、コンビニ支払いか代引きになる。
だから普通はそのめんどくささを受け入れるか、親のアカウントで買い物してもらうことになるけど――この学校の連中のような輩は、色々親バレしないものを買いたいのだろう。
俺より図体がでかくてクラスの中心のクソ陽キャでも、しょせん子供は子供。好きなものも自由に買えないのだ。
そう思うと俺は俄然得意になって、頼まれてもないのに説明してやった。
「バンドルカードってのがあって、親がそこに小遣い入れといてくれるから、その範囲ならなんでも好きなもの買えるんだ」
甲斐の顔が驚きに満ちていく。
「へえ、いいなおまえんち」
「いいってほどのことじゃ……」
否定しつつ、内心ほくそ笑む。「いいな」なんて言葉をスクールカースト上位の奴から引き出して、俺は完全にいい気になっていたのだと思う。
その油断を見透かしたように、さっと甲斐がスマホを取り上げた。
俺が取り返す間もなく素早く操作して、支払い完了ボタンを軽やかにタップする。
「な、なにす……!」
「おー、大河、遅刻〜?」
うろたえる俺をよそに、教室の真ん中からはからかう声が飛んでくる。
「重役出勤だっつーの」
甲斐はそう応じると、俺のほうを見もせずにスマホを放って返す。見もしないのに「キャンセルすんなよ」と付け足すのは忘れずに。
翌日の放課後。
「よ」
玄関を開けると、そこに甲斐大河の姿があった。
「な、なんで……」
「送り先住所ここだっただろ?」
けろっと応じる甲斐に俺は青ざめる。あの短い間に覚えたのか。ちなみにオートロックのロビーは「前の人にくっついてスッと入った」らしい。
オッケーグーグル、犯罪者予備軍がここに。
俺は宅配ボックスから回収してあった荷物を無言で突き出した。
甲斐は意外そうな顔をする。
「開けてねーの」
「人のもの勝手に開けるわけないだろ!」
俺が言い捨てると、甲斐は目をぱちくりしたあと「ふーん」となぜだか愉快そうに口の端を歪めた。
「金おまえのアカから出てるけど」
「……!」
そうだった。この場合、開けても良かったのかもしれない。っていうかこれ、新手のカツアゲじゃないか??
俺が自分の不覚に気を取られていると、甲斐は「おじゃましまーす」と勝手に家に上がり込んできた。
「すっげー綺麗なうちだな。モデルルームかよ」
などと言いながら、部屋の中を見渡している。カツアゲ犯を家に上げてしまったとあわあわしている俺を尻目に、甲斐はとうとう俺の部屋のドアを開けた。
「うわ」
瞬間、声を上げて固まる。
リビングは俺が学校に行っている間に家事代行サービスが入っているけれど、俺の部屋までは入らない。さすがにそれは全力で抵抗した。
というわけで、何でも通販で買う俺の部屋には、段ボールが山と積まれたままになっている。いっそ山脈を築いている。
中には届いたまま開けていないものもある。別にいいのだ。どうせやってくる友だちもいない。
「おまえこれなんとかしろよ。座るとこもないじゃん」
「ご、ごめ」
カツアゲされてるのに謝ってしまった。
さすがに情けなさ過ぎないか、俺。セルフ戒めしていると、甲斐はおもむろに段ボールを殴りつけた。
「ヒィ……ッ!」
暴力? カツアゲのみならずいわれなき暴力?
なんでこんな奴の前で自慢話なんかしちゃったんだ俺のばかばか――
震え上がる俺をよそに、甲斐はぼこっと殴ってできた隙間から手を入れて、段ボールを開きにした。
ぴらぴらしたところを中に折り込んでできるだけ小さくすると、部屋の隅にどんどん積み重ねていく。
「……手ぎわいー」
「春休み、スーパーでバイトしたから。よっと」
積み重ねた段ボールを圧縮する意味もあるのだろう。その上に腰掛けると、俺のアカウントで勝手にポチったものの包みを開け始めた。出てきたのは――
「えっちな漫画……」
ある意味想定内すぎて一ミリの驚きもない。
もちろん、俺のアカウントは成人指定商品は買えない設定になっているけれど、指定なしでえっちな商品なんて、この世にあふれてる。実際この漫画も、コンビニでも買える雑誌に掲載されてるもののようだった。
「これ読みたかったんだけど、うちチビが何人もいるからさ。置いとけないだろ?」
「いやうちならいいのかよ!?」
思わず突っ込んでしまう。しかも人のアカウントでポチってるんだが!?
「善悪の基準全然わかんねーよ……」
戸惑い混乱する俺に、甲斐はまた目を瞬いた。
「おまえ突っ込みとかできんのな」
「そこ!? 言うに事欠いてそこ!?」
「他にもっと言うことあるだろ!」と勢いで詰め寄ると、甲斐は一瞬考え込むような顔をする。
そして言った。
「――一緒に読む?」
「ちが……!」
なんでそうなる。
重ねて言い募ろうとしたとき、甲斐は腰かけていた即席段ボール椅子の上で少し体をずらすと、
「ん」
ぽんぽん、と空いたスペースを手のひらで叩いた。
その仕草があんまり自然だったせいだろうか。
親にもされたことないそんな仕草に、ほだされてしまったからだろうか。
気がつくと俺は吸い込まれるようにそこに腰を下ろし、一緒になって漫画をのぞき込んでいた。
それからしばらくして。
「ただのエロだと思ってたのに、回を追うごとに隠されていた深いテーマが浮き彫りになってくる……し、超いいところで終わってる……!」
思わず口にすると、甲斐はふっと笑って「続刊購入待った無しだな」とスマホ(註:俺の)をポチポチと操作する。
カツアゲ犯にがっつり食いつかれてしまったと気がついたのは、
「じゃーな。また明日」
と軽快に告げる甲斐の姿を玄関先で見送ったあとのことだった。
ネット通販は優秀で、翌日にはもう商品が届く。そして甲斐も放課後やってくる。
甲斐は漫画の続きだけでなく、他のものも勝手にポチっていた。
「なんだよこのでかい箱は……!」
「いーもの」
詰め寄ると、甲斐は口の端ににやっと不適な笑みを浮かべる。
いいもの? こういう奴らのいう「いいもの」ってなんだ? まさかもっと過激にえっちな漫画か!?
密かに心臓を高鳴らせながら段ボールを開ける。中から出てきたのは、段ボールを縛る紐と、ラグと、でかいビーズクッションだった。
甲斐は昨日潰して部屋の片隅に積み上げてあった段ボールをビニール紐でさっと縛り、廊下に出す。
なるほど。
いいものだ。
久しぶりに対面した床にラグを敷く。クッションに並んで背を預けて漫画を読んだ。クッションは段ボールの五十六億七千倍くらいは快適で、漫画は今日も面白かった。
「……まさかここで泣かしてくる……?」
「続き、続き!」
甲斐はまた続きをポチった。くどいようだが俺のスマホで。
甲斐はいつも漫画と一緒になにかしらを頼む。最初のラグとビーズクッションに始まって、着心地のいいスウェットの部屋着とか、もこもこのスリッパとか、でかいダイオウグソクムシのぬいぐるみとかだ。
「勝手にもの増やすなよ!」
それもグソクを。
俺が食ってかかっても、甲斐は愉快そうに笑うだけだ。
「だってさびしーじゃん、この家」
そんなわけで、なぜかカツアゲ犯が家にやってきて、一緒に漫画を読むという日々がすっかり定着してしまった。
そんなある日。
漫画を読んでいた甲斐が急に険しい顔になって呟いた。
「……腹減ったな」
人の金で勝手に買い物して、勝手に上がり込んで、勝手に寝転んで、その上食料も要求できる強メンタル。マジで陽キャの脳味噌どうなってんだと思いつつ、俺はキッチンへ向かう。甲斐もあとから着いてきて、冷蔵庫を一緒に覗き込んだ。
色も形も同じにそろえたタッパーが整然と並んでいる様に、また目をぱちくりさせている。
親の依頼で、俺がいない間に家事代行サービスが栄養バランスを考えて作っていってくれた、野菜たっぷり料理だ。
「この辺の、適当に食べていいよ」
「マジか」
甲斐は一瞬顔を輝かせる。が、上から下まで眺め回すと「うーん」と唸った。
「ちょっとこういうのの気分じゃねえっつうか……」
「そりゃおまえの気分に配慮してないからね!?」
この上さらに注文をつけられるって、マジで凄い。
でも、と思う。
実はそんな甲斐の気持ちが、わからなくもなかった。
部屋でごろごろくつろぐ。そういうときに食べたいのは、なんというか、こういう「正しい食べ物」じゃない。
俺はシステムキッチンの一番下、薄い引き出しを開けた。あまり使われることのない、ホットプレートなんかがしまってある片隅にいつも隠してある、激辛ラーメンの袋を取り出す。
「あとはこんなのしかないけど」
甲斐の顔が、朝日を受けたみたいに輝く。
「それ好き!」
「……作るのは自分でやって」
俺はぶっきらぼうに告げる。
危なかった。……うっかり嬉しいとか思うとこだった。
カツアゲ犯なんかと好きなものが一緒だったからって、なんなんだ俺。
意外なことに甲斐は「オッケーオッケー。で、鍋は?」と軽く応じる。腕まくりまでして、やる気満々だ。
「この辺に……」
いつもの引き出しを開ける。が、そこに俺がいつも使う小さな片手鍋の姿はない。まさか勝手に捨てるはずはないから、片付ける場所を変えたのだろう。家事代行の人も母さんも、俺が勝手にくそジャンクなラーメンを作って食べているなんて知らない。
しばらく引き出しの中をごそごそまさぐったが、俺の愛しの片手鍋の姿はどこにもなかった。
と、なると、あとは上の棚か。苦々しい思いでちらっと見上げると、甲斐は目ざとくそれに気がついた。
俺の背後に回り、肩に手を添える。さっと俺の頭越しに手を伸ばす。
「この上?」
すぐ耳元で甲斐の声がする。
肩に触れる手も、やんわり、慈しむみたいな力加減。その仕草が「俺がやるから」と語っている。
教室の真ん中、乱暴に机の上に座って馬鹿騒ぎしている姿からは想像できないやさしい手つきに、俺は驚いていた。
『うちチビがたくさんいるから』
最初に押し入って来た日の言葉を思い出す。いつもこんなふうに下の子たちの世話をしてやってるのかもしれない。
そんなこと、教室で遠巻きに見てるだけじゃわからなかったな――
――ん?
うっかりほっこりしかけ、俺は眉根を寄せる。
ということは今俺「うちのチビ」と同格に扱われたってことか?
「――」
「? なんか急にテンション下がってね?」
などと言いながらも、甲斐は腕まくりすると手早くラーメンを作った。仕上げにスプーンで味噌をひとすくいして入れ、横着にそのまま鍋をかき混ぜる。慣れた手つきだ。
鍋のまま部屋に持っていき、床に座って交互に箸をつけた。
「あつっ。うまっ。あつっ」
「バニラアイスちょっとのせるのも美味いよ」
「悪逆の限りを尽くすって感じだな、内臓的に……」
たわいもないことを話しながら食べる具もないラーメンは、ばかみたいにうまかった。
味噌ちょい足しバニラアイスのせ激辛ラーメンは俺の中でも定番となり、甲斐は毎日やってくる。漫画は巻を重ねるごとにえっちな成分が薄れ、その代わりにシリアスなエピソードでぐいぐい読ませる内容になっていた。
「あれ?」
いつも帰る頃には宅配BOXに入っている通販の荷物が、今日に限って空だ。
あいつ、昨日も続きポチってたよな――?
今日着の予定だったはずだ。いぶかしく思う俺の耳に、スマホのバイブ音が届く。
『すみません、××運輸の者なんですが』
受信をタップして聞こえてきたのは、配達員さんの声。なんだかめちゃくちゃ恐縮している。
『すみません、実はちょっと積み込みミスがあって、そちらにお伺いするのがいつもより遅くなりそうなんです。一時間ほどみていただきたいんですがよろしいでしょうか?』
どうやら走り回りながら電話しているらしく、お兄さんの息は苦しげに弾んでいた。悪いのは毎日ちまちま買い物をする俺のほうだし、元々時間指定なんかしてなかった代物だ。大丈夫ですと答えて電話を切った。
「さて」
ここのところ帰宅してすぐ買ったものの「開封の儀」を執り行うのが常だったから、急に時間がぽっかり空いてしまった。約束しているわけでないので、甲斐が何時に来るかはわからない。
「――塾の課題、やっとくか」
俺は本棚から参考書を取り出した。
なにも俺は毎日甲斐に振り回されているだけではない。(のだ!)土日には塾に通っている。
生れながらの不運と病弱がたたって今の学校に進学せざるを得なかった。でもまだ転入試験を受けて上の高校に行くという希望は残されている。そのための勉強だ。
これも甲斐が勝手にポチった、星型の折りたたみテーブル(使いにくい)を出し、参考書を広げる。
俺の存在に関心が薄い両親だが、幸い頭の良さは授けてくれた。自分たちが研究に生きているんだから、まさか学校を受け直したいと言って反対されることはないだろう。
勉強は好きだ。
将来なんになりたいかなんて真剣に考えたことはまだないけど、少なくとも今よりいい学校に行きたいという欲はある。
編入するなら早いにこしたことはないだろうから、夏休み明けには試験を受けたい。夏なら、インフルの心配も少ないだろうし。
夏。あと、数ヶ月。あほ高に通うのも、それまでの辛抱だ――
ふと、胸のあたりをよぎったものがあった気がした。
ん?
なんだろう。
どこから吹き込んできたかわからない、だけど確かに一瞬ひやっとする風みたいなものが。
なんだ、今の。
体調不良の予兆だろうか。早めに風邪薬飲んでおいたほうがいいか――数式を書き付ける手が止まったところで、インターホンが鳴った。
荷物より先にやって来た甲斐が、片付け切れていなかった参考書たちに目を留める。その、初めて鏡に映った自分の姿を目にした子犬みたいな顔。
ヘイ、シリ。多分こいつ家で勉強する同級生を見たことがない。
「漫画まだ来てない。今日遅れるんだって」
俺は再びテーブルの前に戻る。甲斐はなんだか俺を遠巻きにしながらラグのはしっこのほうに腰を下ろして、積んであった漫画を手に取った。
「それ、もしかして勉強してんの?」
「もしかしなくてもしてる。おまえもする?」
「いやいやいや」
甲斐は怯えるように首を振った。面白い。どうやら今日は主導権がこっちにある。
「俺とかがやっても意味ないだろ」
「意味なくない。おまえ、地頭悪くないじゃん」
薄々感じていたままを俺は口にする。
一瞬でうちの住所を記憶した。
なにをやらせても手際がいい。
段々えっちなだけじゃなくヒューマンドラマの要素が強くなってきた漫画だってちゃんと楽しんでる。
「本気でやったら、勉強けっこうできるんじゃないの」
いつも教室の真ん中、人の机の上に腰かけてばか笑いしている甲斐の友人たちからは、なんとなく「勉強なんかする奴のほうがおかしい」みたいな空気を感じる。
そうやって落ちこぼれの自分から目をそらしてる。
そんな環境の中で、今までの甲斐はたまたま勉強する機会がなかっただけなんじゃないか。
「……おまえらみんな俺より体がでかくて、丈夫で、本気になったらきっと俺よりなんでもできるはずなのに。それをしないっていうのが、腹立たしい」
使わないんなら俺にくれよ、そのいかつい体。
「意味ないとか、無駄とかいうのは、やらない自分から目をそらしたい奴が言うことじゃん」
気づいたらシャーペンを強く握り込んでしまっていて、はっと我にかえった。
毎日顔を合せているから慣れが生じてしまった。今のは明らかにスクールカースト上位様に対して、分を過ぎた発言だった。
高校生にもなれば、人間には生れながらの格や住む世界の違いが存在していて、それを踏み越えればろくな目に遭わないなんてことはわかってる。
初日と同じ過ちに青ざめる。学習しない俺は、人のことなんかどうこう言えないあほだ。
恐る恐る顔を上げると、漫画を読んでいたはずの甲斐は、あぐらをかいた足の間に漫画を伏せて、じっとこちらを見ていた。眼差しは鋭い。
――ヒッ
震え上がったちょうどそのときインターホンが鳴って、俺は飛び上がるようにして玄関に向かった。
「続き、来た? 来た?」
恐る恐る部屋に戻ると、大好きな大学生のお兄ちゃんが帰省してきた柴犬、みたいな顔で甲斐に出迎えられた。
どうやら好きな漫画の前に秒で機嫌が直ったらしい。あほの子で良かった。
さっそく包装を解き、いつものようにクッションに背中を預けて読み始める。
ページをめくるのは甲斐の役目だ。主導権は常に陽キャにある。そうしながら今日の甲斐は、なぜかやたらと肩をぶつけてきた。
初めは気のせいかなと思った。ひとつのクッションをふたりで使っているのだから、偶然ぶつかることは今までにもあったし……などと考えている間に、また、甲斐の肩が俺の肩に触れる。ちょっと小突くように。
もしかしてさっきの俺の偉そうな発言を根に持って?
恐る恐る横顔を盗み見る。甲斐の視線は漫画に向けられたまま、特段俺に対する感情を読み取ることはできない。
気のせいか……?
再び頭を並べると、また甲斐が肩で肩を小突いてくる。頭上に漫画を広げたまま、表情も変わらないけど、これやっぱりわざとだろ。
俺もぐいっと小突いてみた。
甲斐も小突き返す。
俺も負けじとぐいぐい押し返す。
が、生まれながらにフィジカルの劣る俺が力押しで勝てるわけがない。ビーズクッションも高校生ふたりに連日乗っかられていい具合にへたっている。小競り合いののち、俺はあっさりその丸い山から床に転がり落ちた。
漫画から目を逸らさないまま、甲斐が口の端を満足げな笑みの形に歪める。子供か。
甲斐が帰ったその夜、いつものようにスマホで通販サイトをだらだら見ていた俺は天啓を受けた。
「もう一つ買えばいんじゃね? クッション」
そうだ。ひとつしかないからいけないのだ。思い至ってみれば実に単純明快な解決策。なんで今まで気がつかなかったんだろう。
幸い甲斐が山ほどの段ボールを片付けてくれたおかげで部屋は広々とし、今も床は広々とご存命だ。もうひとつふたつクッションが増えたところで邪魔にはならない。
早速通販サイトの履歴を見て、クッションをポチる。三十分もするともう「発送しました」のメールが届いた。色違いのクッションが、明日には手に入る。
「これでもう明日からウザくないぞ、甲斐大河破れたり……!」
俺はグソクに語りかけ、そのまま気分良く眠った。
翌日の放課後、俺はいそいそと家に帰った。いそいそ帰ったから、宅配BOXに荷物を入れようとしていた配達のお兄さんと鉢合わせて、その場で受け取ったくらいだ。
大きな段ボールを部屋に運び込み、中身を取り出してたたむ。甲斐の真似をして習得したから、今では俺の段ボールたたみも堂に入ったものだ。全然なんの自慢にもならないけど。
そうしていつものようにやってきた甲斐は、ふたつ並んだクッションに目を瞬いた。
いいぞ。してやったりだ。
ふふんと鼻を鳴らして一緒に届いた漫画を取り出すと、俺は新品のクッションにぽすっと背中を預けた。
甲斐は無言のままもうひとつのクッションに――は収まらず、わざわざ俺のクッションのほうにやってくる。
「いやなんでだよ!」
「こっちがいい」
甲斐はなぜかむすっとしている。
なるほど、新しいほうがいいってか。当然のようにいいもののほうを要求する陽キャメンタルにおののく。その間にもぐいぐい肩で押してくるのが鬱陶しくて、俺はため息をついた。
「じゃあいいよ、俺がこっちで。」
ジャイアンめ。心の中で言い捨てて起き上がると、俺は古いクッションに移動する。
ああこの包み込む感じ。こっちはこっちで慣れ親しんだ感があって悪くない。
新品は甲斐にくれてやろうなどと悦に入っていると、甲斐がこっちのクッションにやってきて、ぐいぐい肩で押してくる。
全然漫画の内容に集中出来ない。
なんなんだ。俺が包み込まれるようにくつろいでるのを見て、やっぱり古い方がいいと思ったのか!?
ムカついて、ぎゅーむと肩で強めに押し返す。
甲斐も押し返してくる。
俺は再び押し返す。
当然のように甲斐も押し返して来て、結局俺はごろんと床に押し出された。
「なんだよ! 快適な方がいいかと思ってわざわざ買ったのに!」
「あっそ」
なぜか甲斐は不機嫌そうに呟く。
それでも律儀に漫画は一緒に読ませてくれた。
というわけのわからないやりとりがあったりしたが、学校での甲斐は相変わらず休み時間は友だちと教室の真ん中にいて、俺と言葉を交わすことはない。
カツアゲ犯と被害者。俺と奴の関係はそれだけだ。
今のところ暴力をふるわれたことはない。(クッションの取り合いを除いて)
もう来ないでくれと言ったら、案外聞き入れられるかもしれない。
いやでも突然キレられるかもしれないし。フィジカルでいったら大人と子供くらい差があるし。
だから仕方なく、俺は今日も甲斐を迎え入れる。
仕方なく、前に来たとき「これうまいな」とあいつが言っていたドライジンジャエールを箱でポチる。
誰かのためにする買い物は、ちょっと楽しかった。
*********
化学と体育、移動教室を続けて組んだやつは死ねばいい。
俺に化学委員を押しつけた奴らも死ねばいい。
ある日の午後、俺は呪詛の言葉を唱えながら教室へ急いでいた。
要するに前の授業の片付けのせいで体育に遅刻しそうなのだ。
やっと教室へ向かう階段を上っているところで、いつも真ん中でたむろっている奴らが入れ違いに下りてきた。もうみんなジャージに着替え終わっている。
俺の姿に気がつくと、奴らの一人がにやっと口元に笑みを浮かべた。
それに気がついた全員が、だらだらっと階段の幅いっぱいに広がる。通れない。これから着替えないといけないっていうのに。
俺の弱者の嗅覚が嗅ぎつける。これ、わざとだ。
だいたい体のでかい奴は、フィジカルの強さ=優秀さと思っている節がある。
そういう生き物からしたら、高一にもなって身長が百六十にも届かない、ガリガリの痩せっぽちな俺は「特に根拠もなく嫌がらせをしていい超格下の相手」なのだ。
そして体育の教師も同じく俺には好意的じゃなかった。
理由は同じ。体が強い奴は弱い奴を軽んじる。授業に遅れたりしたら、また嫌味や当て擦りを言われるに違いない。胸の中に、じわっと不快感がわき出す。
そのとき。
「うわ、」
階段いっぱいに広がっていた連中のひとりが、突然つんのめった。
転がりおちる――寸前で、なんとか手すりに体を預けて大惨事を免れる。奴はすぐさま振り返って、怒声を飛ばした。
「なにやってんだてめえ!」
怒りの先――階段の上の踊り場に立っていたのは甲斐だった。
たぶん、さっきこいつがつんのめったのは、甲斐が後ろから蹴りをお見舞いしたからなんだろう。着崩したジャージのポケットに両手を突っ込み、足を振り上げたままの姿で固まっている。
「あ……」
おかしなことに、甲斐は「自分でもなんでこんなことをしたのかわからない」みたいな顔をしていた。
「悪ィ。俺の足が長かった」
「はあ!?」
「うける。なに言ってんの?」
蹴られた奴はキレ散らかし、誰かがそう混ぜ返す。
他の奴らの笑い声が重なり、幸い本格的ないざこざには発展しなかった。
その日家に帰って部屋で着替えていると、玄関の開く気配がした。母さんだ。こんな夕方に帰って来るなんて珍しい。
「仕事、早く終わったの?」
「あー違う違う、また泊まり込みだから着替えだけ取りに……それ、どうしたの?」
俺の姿に目を留める。甲斐が勝手にポチった部屋着のパーカーは、胸のところに意味の通じない英語のロゴが入っていて、蛍光紫で、フードには猫耳がついているという気の狂った代物だ。が、着心地がいいのでつい着てしまう。……だってせっかくあるし。それ以外の意味はない。
「と……友だちが、選んでくれて」
「ちょっとカツアゲ? されてて」とはもちろん言えず、どうにか言葉を選んでそう言った。
「そう」
いつも一分一秒も無駄な時間は使いたくない、みたいな母さんが荷造りの手を止めて、微笑む。
「いいわね。似合ってる」
******
その日はなにも荷物が届かなかった。母さんが再び出かけたあと、甲斐も来ず、家は海の底みたいにしんとしている。
毎日少しずつ買っていた漫画はもう最新刊まで読んでしまって、次が出るのは数ヶ月後だ。
ということは、それまで甲斐は来ないのかもしれない。
来ないなら、来ないでもいい。
ただ、なにか今すぐ話したいことがあるような気がして、でも、それがなんなのかわからなかった。
ジンジャエール買いすぎたな……
ダイオウグソクムシのぬいぐるみに頭を預けて、スマホを覗く。
なにも欲しいものはない。
なんでも買えるのに。
昔からそうだ。だらだらと時間を無為に費やして、あとに残るのはむなしさだけ。
そうわかってるのに、ひとりになるとやっぱり通販サイトをのぞくくらいしか俺にはやることがない。
あれ?
俺は眉根を寄せた。
通販サイトに、なにかが未発送になっていることを告げるアイコンバッジがついている。
タップすると、商品が表示される。わたがし器。ピンクやらうすむらさきやらを基調に作られた、いわゆる子供向けのクッキングトイというやつだ。
そういえば数日前「これは金払うから」とかなんとか言って、甲斐がなにかをポチっていた気がする。
「いや他のも払えよ」と思いつつ、もちろんそうは言えず、適当に流していたけれど、ラッピングの指定までしてあるのを見て思い当たった。
これ、もしかして「うちにいるちび」へのプレゼントなんじゃないか?
さすがにあんなに毎日来ていると、甲斐の家の事情もなんとなく察してくる。
下に弟妹が何人もいること。
そのために金のかからない家から一番近い高校に進学することは、親によって勝手に決められていたこと。
春休みのバイト代は、当然のように半分以上家計の支払いに使われたこと。
あんなにフィジカルに恵まれているのに、甲斐はなんの部活にも所属していない。……金と時間がかかるからだろう。
両親は悪い人ではないみたいだが、話を聞いていると、その距離の近さが逆につらい、と俺は思った。
甲斐の人生が、あまりにも自然に「家族という歯車」に組み込まれすぎている。
うちが特殊なだけで、それが普通なのかもしれないけど。
自分一人の部屋なんてもちろんない。自分のバイト代であっても、なにかを買ったりすれば勝手に開けられるのが当たり前。
このおもちゃは、きっとサプライズで、こっそり買いたかったのだろう。
それならそうと言えばいいのに。陽キャのくせに変なところで遠慮するなよ。
俺は鼻の付け根に皺を寄せる。
なんで未発送なんだろう?
詳細をよくよく見て気がついた。
バンドルの口座が空だ。代金の引き落としができてない。
うっかりしていた。「経済的な不自由は絶対にさせない」という言葉通り、俺の口座には小遣いが普通の高校生より多めに振り込まれていたけれど、甲斐が来るようになって、出費が増えていたのだ。
もちろん、今まで勝手に使われたことを思うと、こんなの無視したっていい。
だけど――
『いいわね。似合ってる』
あいつの選んだ服のおかげで、久し振りに母さんが俺を見てくれた。
山ほどの段ボールは、いつの間にか片づけられた。
買い物が、――毎日が、少し楽しくなったんだ。
気づいたら俺は、部屋中の現金をかき集めていた。