男子校的教師と生徒の恋愛事情

「桐枝」

 一成はソファーから腰をあげた。

「ちょっと立て」

 伝馬は一成を見上げて、はいと返事をし、自分も立ちあがる。

 一成は緊張したような教え子を見下ろした。自分より背は低いが、三年間の高校生活の中で、同じぐらいにはなるだろう。そういう気配がする。

「お前が俺を好きだというのは、よくわかった」

 伝馬の息を呑む様子が伝わってくる。

 一成は呼吸を整えるように一つ息を吐くと、教師の声で言った。

「俺も、それに答えようと思う」

 利き腕が、腰のそばで静かに握り拳をつくる。

「これが、俺の返事だ」

 そう言うなり、利き腕を持ちあげて、まるでボクサーのように伝馬の左頬をぶん殴った。





 ドアが壊れるような音を立てて閉じたのを合図に、一成は手をぶらぶらと振りながらソファーに座った。

「――おっかねえ音だな、一成」

 部屋の奥から、中年男性の暢気な声がした。

「ドアなら壊れていないぞ」

 煙草を吸いたくなって、ワイシャツの胸のポケットを探った。だがなかったので、仕方なく立ち上がり、奥の事務用机に取りに行く。

「お前のパンチが凄かったんだよ」

 声は可笑しそうである。

 一成は相談室を区切ってあるキャスター付きの衝立を乱暴にどけた。この部屋を訪れた生徒たちには見えないが、衝立の向こうには事務用机が二つ並べられてあって、その脇に古ぼけたソファーが一個置いてある。その上で靴を脱いで、まるで自室のように横になって寛いでいるのは、もう一人の相談員だった。

「昼寝していたんじゃないのか? じいさん」
「目が覚めたんだ。いや、いいところで起きたもんだ、俺も」

 筒井順慶は寝返りを打って、人の悪そうな笑顔を見せる。

 一成は引き出しから煙草の箱をひったくると、逆さにひっくり返し、一本取り出した。気分を落ち着かせるように口にくわえて、机の上にあった百円ライターで火をつける。

「おい、ここは禁煙だぞ」
「嫌なら、出てけ」

 そう言いながらも、窓際に寄り、少しだけ窓を開ける。

「苛々するな、一成。ここは野郎しかいないんだぞ? 好きだ嫌いだも、指導の一環だ。それなのにいきなり殴るなんて、可哀相だろうか。せっかく暴れん坊なお前を好きだって言ってくれたのに」

 一成は煙草の煙が外へ流れてゆく位置に立ち、順慶の説教をムカムカしながら聞いていた。どう考えても、こっそりと覗き見していたに違いない。

「お優しいな、じいさんは。昔、俺の頭を百科事典で叩いた暴力教師には到底見えない」
「仕方がないだろう。あれは、お前が宿題を忘れたんだから。お前が悪い」

 一成がこの学園の生徒だった頃、三年間ずっとクラスの担任だった順慶は、にべもなく言う。一成にとっては恩師にあたり、同じ教師という立場になってからは目上の人間にあたるのだが、平気でじいさんと呼んでいた。順慶は別段怒りもしないが、じいさんと呼ばれるにはまだ五十代で、壮健な男である。数学教師で柔道部の顧問でもあり、現在三年二組のクラスを担当していた。どんな強面相手にも負けない大柄で頑強な体格と、どこか茶目っ気のある顔立ちに、デリカシーが欠けていると評判の口を合わせれば、筒井順慶というどこかの武将みたいな名前を持つ男になるのである。

「しょうがないだろう、じいさん。目を覚まさせるには、殴るのが一番だ」

 煙草を口から離し、窓の外へ向けて、ふうっと息を吐く。

「桐枝は、男子校特有のウィルスに感染したんだ」
「ウィルス?」
「先生が好きです、同級生が好きですっていうウィルスだ。男子校を卒業すれば完治する。あの気持ちは何だったんだろうって、不思議に思うんだ」
「身も蓋もない言いっぷりだな」

 順慶はソファーの上で感心する。

「言っとくが、ウィルスじゃない場合だってあるんだぞ」
「じいさんの経験か?」
「俺だって、お前より若いときには、色々とあったもんだ」

 一成は疑いの視線を投げた。どれだけ想像を強くさせても、順慶が同性と付きあっている様子など浮かんでこない。

「俺も長くこの学園で教師をやっているんだ。先生が好きですって言われたこともあるさ」
「物好きもいたんだな」
「昔は、こんなにくたびれていなかったからな」

 からからと笑う声は、まだまだ力がみなぎっている。

「男子校で教師をやっている以上、こういうことは一度は経験するんだ、一成。生徒たちには二度とない高校生活なんだから、もう少し優しく対処しろよ」
「優しくした。力は抜いたからな」
「お前のどこが気に入ったか聞いてみろ」

 順慶は呆れたように投げつけて、また寝返りを打つ。

「その子も可哀相だな。お前みたいなデリカシーに欠けた奴に勇気を出して告白したばっかりに殴られるなんて。明日から登校拒否にならないといいけどな。それに、その子の親がうちの子を殴ったって、怒鳴り込んでこないといいけどな」

 嫌味のようなでかい声の独り言に、一成はそれを弾き飛ばすように煙草の煙を室内に大きく吐き出して、近くにあった安物の丸い灰皿に火を押しつけて消す。

「あとで、桐枝は俺に感謝するはずだ」

 順慶にあてこするように言う。

「あの時殴ってくれたおかげで、夢から目が覚めたってな」
「――おい、一成」

 背中を向けていた順慶は、首だけ回して一成を振り返る。

「お前、さっきから随分と突っかかった言い方をするな?」漢字(かんじ)
「じいさんがうるさいからだ」

 その口閉じろと言いたげに、一成も容赦ない。

 すると、順慶じいさんは男っぷりに溢れた顔立ちに、何やら意味ありげな皺模様を浮かばせた。
「もしかして、お前も昔、ウィルスに感染したことがあるのか?」
「ない」

 一成は言下で否定した。

「あるわけないだろう」
「そうだよな。お前みたいな雑で気の荒い奴には及びでないデリケートな話だよな」

 順慶も当然のように頷く。

「悪かったな」

 一成はいくぶん気分を悪くしたが、順慶の言葉には少しだけ警戒した。デリカシーに欠けていると生徒たちからは評判のこの教師は、それと同時に実は洞察力が鋭いのである。

「ま、頑張れや」

 ぽんと手土産を置くような軽さでそう言うと、順慶は顔を引っ込めて、また昼寝の体勢に入った。

 一成も窓辺から離れて、衝立を戻し、またソファーに腰を下ろす。石のようにかたい感触がソファーの古さを物語っているが、もう慣れているので気にもしていない。だが、知らない人間が普通に座ったら、柔らかさにはほど遠い座り心地にびっくりするのではないか。

 ちょっと前まで、自分の前に座っていた生徒はそんな素振りを微塵も見せなかったことに、今になって気がついた。




 綾野勇太(ゆうた)は一年三組の教室のドアから顔だけ覗かせて、廊下をきょろきょろと見渡す。お昼時間もそろそろ終わる頃で、出かけていた生徒たちが教室に戻り始めている。三組にも何人か帰ってきているが、まだ半数しかいない。友人の藤島圭も図書室から帰ってきていないが、もう一人の親友の姿がずっと見えなくて、勇太は心配していた。

「どこ行ったんだろう……」

 もしかして、どこかで迷っているのかもと、勇太は閃いた。自分もいまだに校舎内で道に迷うのである。圭に言わせれば、そんなの勇太だけなそうだが、もしかして、もしかして、もしかしなくてもそうなのかもしれないと思っていると、階段がある奥の廊下から探していた姿が見えてきて、慌てて教室を飛び出た。

「伝馬!」

 勇太はすれ違う生徒を避けながら、小走りに駆け寄る。

「どこ行ってたの? 姿が見えないから心配してたんだよ!」

 二人は幼馴染みで、幼稚園も小学校も中学校も一緒だった仲である。いつも無邪気にドジる勇太と、何やってんだと言いながら毎回世話を焼く伝馬は、まるで少年漫画に出てくるような凸凹コンビで、知り合ってまた一ヶ月しか経っていない圭からも、一生腐った縁が続くねとシュールなコメントを頂戴している。

 そんな間柄なので、互いに気を遣うこともなく、思ったことをズケズケと吐き出すのだが、伝馬はまとわりついてきた勇太を無視して歩いた。

「……伝馬?」

 様子がちょっとおかしいことに勇太も気がついた。何やら、近寄りがたいオーラを出している。だが腐った縁の友人は気にせず追いかけた。

「ねえ、伝馬。具合でも悪いの?」
「……悪くない」

 押し殺したような低い声が洩れる。

 ここで少しでも空気が読めるのなら、そっとしておいた方が無難だと察知するのだが、あいにく勇太のセンサーはその辺が壊れていた。

「えー! でも、具合が悪そうだよ!……大丈夫?」
「……大丈夫だって」

 心配げに寄ってくる勇太に今気がついたというように、伝馬は声を和らげた。

「トイレ行ってくる」

 続けて何かを言いかけた勇太を素通りして、トイレに向かった。

 勇太は置いてきぼりにされたように、教室の入り口の前で立ちすくんだ。何だろう? と、トイレの中へと消えた親友に首を傾げる。もしかしてトイレを我慢していたのかな? と首を傾げるが、どうも違うような気がする。腕を組んで、うーんとひとつ唸ると、いきなり背後から声が飛んできた。

「様子が変だね」

 勇太は慌てて振り返った。いつのまにか後ろに圭が立っていた。

「け、圭ちゃん……ビックリ……」
「させたつもりはないんだけど。勇太が気づかないだけ」

 圭の手には本が数冊ある。図書室から帰ってきたのはわかるが、いつからそこにいたのかは皆目わからない。

「ここにいたら邪魔だから、中へ入ろう」

 戸口に立って思いっきり入室の邪魔をしている勇太を促した。勇太はクラスメートが戻り始めて、しぶしぶ従う。

「何か変な物でも食べて当たったのかなあ……」
「そうかもしれないね」

 圭は同情するように頷いた。だが、その眼鏡の奥にある鋭そうな目つきは、ちらりとトイレの方へ流れる。伝馬の片方の頬が、若干赤くなっていたのを見逃さなかった。




「……くっそ……」

 伝馬はトイレの手洗い台の前で、鏡に映る自分を、鼻息を荒く睨みつける。左頬はまだうっすらとだか赤い。殴られた痛みも、まだおさまっていない。

「何で、殴られなきゃならないんだ……」

 担任に告白しただけなのにと、怒りで頭に血が上りっぱなしである。

 トイレの外からは、休み時間を終えて戻ってくる生徒たちの話し声やかけ声、教室へと急ぐ足音がひっきりなしに聞こえてくる。トイレには自分しかいないが、すぐに誰か入ってくるだろう。

 伝馬は鏡に向かって、しかめ面をする。じくじくと痛む頬を撫でながら、唸るように呟いた。

「……絶対許すもんか……あの暴力教師……」
「万葉集は最古の歌集だが……」

 一成は教科書を片手に説明しながら、目線だけを上げた。一年三組は五時間目、日本史の授業である。私立吾妻学園は、創立百年は過ぎている地元では有名な伝統校で、進学にも力を入れているが、同時に教養もしっかりと学ばせている。すなわち、古典と歴史である。

 社会科の教師である一成は、一学年五クラスの日本史の授業を綾辻寧々子と二人で分担している。寧々子は一成がまだ高校生だった頃から社会科の教師で、その時は「副島君」と呼ばれていたが、同じ教師となった今は「副島先生」に変わった。その呼び名の変遷に、寧々子は自分も歳を取るはずと笑っているが、一成は同じ教師となって初めて、当時の、そして今現在の綾辻先生の苦労が知れた。

 一年三組は自分の担任クラスである。今目の前にいる生徒たちは、この春に桜の花々に祝福されて入学してきた可愛い教え子たちである……が、一成はこめかみに怒りが集中するのを、何とか堪えていた。

 昼食後の五時間目は、昼下がりのまったりとした時間帯で、保育園では子供のたちのお昼寝タイムである。もちろん、一年三組の生徒たちは三歳児でもなければ四歳児でもない。だが重要な日本史の授業で、一年三組の教室は見事に保育園のお昼寝部屋と化していた。

 ――俺の授業で居眠りをするとは、いい度胸だな。

 教師の話を子守唄にしながら、うつらうつらしている生徒たちを目にして、この馬鹿たれどもをどうしようかと一成は考えていた。

 何事も最初が肝心と心得ている一成は、夢の世界に飛んでいる可愛い教え子たちの頬を、平等に平手打ちしていこうかと物騒に思ったが、自分の手が痛くなるので止めた。

 ――気持ちはわかるがな。

 日本史担当の教師も、昔の自分を思い出して唸る。歴史の時間は、とにかく眠たかった。そんな馬鹿相手に、綾辻先生は根気よく教えてくれたと今ならわかる。しかし、自分は教える立場になったのだ。はっきり言って、半分以上の生徒たちが半ば睡魔に襲われているという状況は、非常に憤慨ものだった。

 さて、どうしようか。この「地元で有名な伝統校」には到底思えない光景に、教壇に立つ一成は思案するように教室内をぐるっと見渡す。すぐに、窓側の席の一番手前に座る生徒が目に留まった。

 その生徒は、どこをどう見ても授業を聞いているとは思えなかった。なぜなら、堂々と机に突っ伏して、居眠りをしていたからである。

「……」

 一成はわざと乱暴に教科書を閉じた。真面目に授業を受けていた半分の生徒たちは、あっと息を呑む。その何気にかたまった視線を全く気にせず、容赦ないと評判の日本史の教師はその席に近づくと、その頭に拳骨を喰らわせた。

「……いってえええ……」

 勇太は頭に手をやりながら飛び起きた。

「……いってえ……めちゃいってえ……」
「綾野」

 と、一成は教師にしてはとても怖ろしい声を出した。

「万葉集とは、何だ。答えろ」
「……へっ?……」

 叩かれた部分をさすりながら、涙声の勇太はそばに立っている一成の姿を仰ぎ見て、自分の痛みの原因がわかったらしい。さらに、どうして叩かれたのかも悟ったようだ。

「……ま、まんよーしゅー?……」

 よほど痛いらしく、言葉がひらがな調になっている勇太は、担任のおっかないオーラを本能で感じ取ったのか、両手でさすりながら答えた。

「……えーっと……らーめんとか、だんごとか……」

 一成の背後で、誰かが噴き出した。

「……」

 一成はぐいっと顎を持ちあげると、ゆっくりと肩越しに振り返った。ヤクザのような三白眼が、怒りで満ち満ちている。

 生徒たちは合同練習でもしたかのように、一斉に下を向いた。広げた教科書を読む振りをして、この恐怖の展開に巻き込まれないようにする。

 一成は不機嫌極まりない形相で、俯いた生徒たちを睨みつけたが、その中で、たった一人、平然としている生徒がいるのに気がついた。

 伝馬である。

 伝馬はまっすぐな姿勢を崩さず、一成へ顔を向けていた。その視線は、一成を非難するかのようにきつくて、刺々しい。

 ――俺に、ガンをつけているな。

 数日前、その生徒に告白され、返答としてその頬をぶん殴った一成は、憎い仇でも見るかのような伝馬に少しだけ苛立った。だから面倒臭いんだと毒を吐きたくなったが、その睨みっぷりに免じて、まだ答えがわからないでいる勇太から伝馬へ矛先を変えた。

「桐枝、万葉集とは何だ」

 突然の指名に、何人かの生徒たちが頭を上げて、そっと周囲を盗み見る。当の伝馬は、慌てた様子もなく答えた。

「最古の歌集です」
「あとは?」
「知りません」

 一成はその答えが気に入らないというように、教壇へ戻る。

「万葉集は当時のあらゆる階層の人々の歌をおさめた、世界でも類を見ない歌集だ。日本だけではなく、人類の大切な遺産だ」
「覚えておきます」

 伝馬は喧嘩でも売るような返事の仕方をする。

「そうしろ」

 一成は無視するように教科書を再び開いた。

「万葉集には様々な歌がおさめられている。自然を歌ったものや、人の感情、哀しいことや嬉しいこと、それに恋を歌ったものも多い。お前たちも、一度は読んでおけ。案外、面白く感じるかもしれないぞ」

 実際の自分の経験を踏まえて言ってみたが、おそらく誰も読まないだろうという前提である。

「――読んでみます」

 一成は教科書から顔をあげる。

 伝馬は教壇に立つ担任を睨みつけながら、素っ気なく言った。

「読んだら、先生に感想を言ってもいいですか?」
「……」

 一瞬、一成は何を言われたのかわからなかった。ほんの数秒、伝馬だけを見つめて、その険しい表情のどこかに、混じりけのない率直な気持ちが浮かんでいるのに気がついてしまった。

 数日前の出来事が、甦る。

「……ああ、いいぞ」

 あの時の真っ直ぐな眼差しと重なり、一成は振り払うように背中を向けた。白いチョークを持って、黒板へ書き始める。

「お前ら、いつまでも下を向いていないで、頭をあげろ。授業を進めるぞ」

 いきなり強面の声が教室内に轟き、他人ごとを決め込んでいた生徒たちは、胸座を引っ張られるように黒板へ顔を向ける。勇太も頭をさすりながら、教科書のページをめくる。

「ちゃんと、ノートに書いとけ」

 そう言いながら、一成はただ一人の生徒の視線だけを背中で感じていた。それは、どうとも形容し難いざわつきを、一成へもたらした―― 
「副島先生」

 授業を終えて教室を出た一成は、背後から自分を呼ぶ声に、眉間に皺を寄せながら振り返った。今まで自分の担当である日本史を教えていたのだが、居眠りタイムと勘違いしている生徒たちを夢の世界から目覚めさせるために、拳骨パンチを大盤振る舞いしていた。しかしそのせいで肝心の授業がろくに進まないうちに終了を告げるチャイムが鳴り、消化不良のまま授業を終えてしまった。どうやったらあの馬鹿どもに歴史の大切さを分からせることができるのかと歯軋りしていた時に、名前を呼ばれた。

「どうした、藤島」

 自分が担任として受け持っている一年三組の学級委員長が、廊下の奥から足早に寄ってきた。

「今、体育の授業だったんですけど」

 圭の息は少しだけ速かった。恐らく走ってきたのだろう。

「授業の最中に、綾野君が倒れてしまって、保健室に運ばれました」
「綾野が?」

 一成は怪訝そうに聞き返す。

「何があった」
「校庭でトラックの周りを走っていたんですが、三周目あたりで、バタンと倒れまして。みんなで保健室に運びました。たぶん、貧血じゃないかと保健室の先生は言ってました」

 一成はやれやれと言うように溜息をついた。

「綾野はそんなに体力がなかったのか? いつも食べ物の話しかしないのにな」
「いえ、たぶん、綾野君は昨日食べた物が悪かったんじゃないかと思います。体育の前に、お腹が痛いと言っていましたから」

 冷静と評判の委員長は、しごく淡々と説明する。

「何を食べたんだ?」
「たこ焼きです」

 一成は頭痛を堪えるように、軽く目を瞑った。その状況がありありと瞼に浮かんだ。

「腹を壊して倒れるぐらいたこ焼きを食べるなと言ってやれ、藤島」

 委員長と綾野勇太は仲が良かった。

「僕より、桐枝君が言ったほうがいいと思いますけど」

 圭は担任の冗談にクールに応じる。

 その生徒の名前を聞いて、一成は一瞬黙った。

「……ああ、そうだな」

 そこで話を止めた。

「状況はわかった。連絡ご苦労だった」
「はい、それじゃ失礼します」

 圭は軽く一礼して、帰ってゆく。副島も前を向いて、廊下の端にある階段へ向かった。

 ――全く綾野の奴は。

 この間の授業でも、万葉集とは何だと聞いたら、寝ぼけ眼で、らーめんとかだんごとかとぬかした生徒である。食い意地が張っているという次元を超えて、食べ物こそが我が人生というモットーがぴったりのような生徒だ。

「……ったく」

 それでも、人をいじめたり、騙したり、嘘をついたりするといった本当の意味での大変な生徒ではないので、しょうがないなと呆れながらも、保健室へ足を向けた。自分の受け持つ生徒なので、一応様子を見ておこうと思った。

 保健室は一階にある。お昼休みに突入したので、弁当のない生徒たちが反対側にある学食へと駆け込んでゆく。その運動会のような競争ぶりに、自分がここの学生だった頃の風景が重なって、全然変わらないなと半ば感心しながら、閑散としている保健室の前に来ると、静かにドアを横へと押し開いた。

 室内はひどく静かだった。一成は顔だけを動かして見回す。保健医の姿は見えない。奥にあるベッドの周りが白いカーテンで覆われているので、そこに勇太は寝ているのだろう。起こさないようにドアを閉めると、足音を忍ばせながらベッドに近づき、そっとカーテンを退けた。

 そこにいた生徒が振り返る。

 桐枝伝馬だった。

 一成はカーテンの縁に手を添えたまま、伝馬を見返す。すぐに言葉が出てこなかった。

「……綾野は大丈夫か?」

 伝馬の肩越しに勇太の寝顔が見えて、声を掛ける言葉が見つかったというように訊く。

「はい、大丈夫です、先生」

 突然現れた担任教師を顔色も変えずに見つめていた伝馬は、確かめるようにベッドの上で寝ている勇太に視線を落とす。

 一成も促されるように顔を向けた。勇太は白いシーツの上で両目を瞑っていた。正確に言うと、愉しそうに寝ていた。もっと正確に言うと、暢気に(いびき)をかいていた。さらに正確に言うと、少しだけ開いた唇から(よだれ)をだらーと垂らしていた。

 一成は思わず拳骨を握った。どこが具合が悪いんだと、拳が火を噴きそうになる。この馬鹿小僧とパンチ一発お見舞いしようかと思ったが、からくも担任としての理性が押し留めた。

「綾野は大丈夫そうだな」

 そのうち阿呆でも起きるだろうと確信して、伝馬に声をかける。

「お前も昼休みが終わったら、授業に戻れ」

 しかし伝馬は素っ気なく首を振った。

「まだ少し心配なんで、ここにいます。五時限目の授業にはちゃんと出ますから」
「昼飯はちゃんと食べろ。大事だぞ」

 お昼休みは四〇分程度しかない。一成もお昼休みは食べること以外に色々とやることがあって忙しい。

 桐枝、と口にしかけて、伝馬が勇太から目を離すと、一成へ向いた。いつものように真っ直ぐで若々しい視線が、物言わず一成を見つめ、一成は言いかけようとした口を思わず閉じた。

「先生、俺、万葉集を読みました」

 不意に、伝馬は言う。

「……ああ、この前の話だな」

 一成もすぐにわかった。授業中、万葉集を読んだら感想を言ってもいいかと伝馬が尋ね、一成はいいぞと承諾したのだ。

「どうだった? 面白かったか?」
「はい」

 伝馬はためらいもなく返事をする。その生真面目な態度から、本当に読んだのだと一成は半ば感心した。

「どんな歌に興味を持ったんだ?」

 伝馬はちょっと考えるように俯いた。

「歌じゃないんですが……歌の種類みたいなのに、少し関心を持ちました」
「雑歌や、挽歌というやつだな」
「はい」

 ここで伝馬は考えがまとまったというように、顔をあげた。

「俺が興味を持ったのは、相聞歌(そうもんか)です」

 一成は無言で頷いた。万葉集は三つの部類で編纂(へんさん)されている。雑歌(ぞうか)挽歌(ばんか)、相聞歌。挽歌は死者を悼む歌で、雑歌は挽歌や相聞歌以外の歌を差し、相聞歌はいわゆる男女の恋を詠む歌だ。

「いいことだ」

 あえてその恋の歌の名称を口にしなかった一成である。面倒な展開はご免こうむりたかったので、早々に話を打ち切って保健室を出ることにした。

「ちゃんと飯は食べろよ」

 担任らしい言葉を残して、カーテンを手で押さえながら離れようとした。

「俺がいいなと思ったのは」 

 しかし伝馬は担任の行動を無視して、話を続ける。

「あくまで歌を詠みながら、気持ちを交わしあうところです。気持ちを打ち明けても、殴ったりしないところです」

 ささくれた感情を晴らすかのように、棘にまみれた言葉を一成の背中にぶつける。

 ――やっぱりきたか。

 一成は軽く両目を瞑った。聞くんじゃなかったと頭が痛くなったが、日本史を教える心優しい教師から相談室の問答無用な世話係に心を入れ替えて、伝馬へ億劫げに向き直った。

「桐枝、言っておくが」 

 少々凄みのある声を出す。

「俺はお前のような生徒には、全員同じことを返してやったんだ。それが俺の相聞歌だ」

 有無を言わせない口調で断言すると、今度こそベッドのカーテンを乱暴に引いて保健室を出て行こうとした。

「俺は!」

 だが、伝馬は怯まずに言い返す。

「そんな相聞歌なんかぶっ潰してやる! 絶対に俺は先生に負けない!」

 一成は振り返らずに、後ろ手で保健室のドアを勢いよく横に閉めた。ドアはぶつかるような音を立てて跳ね返りそうになったが、ぐっと手に力を入れて押し留めた。

 ――何を言っているんだ、あいつは。

 ドアを背に立ったまま、一成は唖然となる。

 ――何が絶対に負けないだ。

 その主張に込められた気持ちにうんざりとなる。相談室で告白された時にストレートパンチを喰らわせる形で断ったことを、伝馬はいまだに根にもっているのだろう。

 ――知らんな。

 一成はそっぽを向いて廊下を歩き出す。だが、口から小さなため息が洩れたのは、自分でも不思議だった――
 地元でも古き伝統校として名高い吾妻学園の入学式は、春爛漫に咲き誇る桜に囲まれた校舎内で催される。

 その学園の新入生として入学する伝馬は真新しい学生服に身を包んでマラソン選手のごとく走っていた。入学式に保護者として参列するのをワクワクして待っていた両親は、その前日に前祝いと称して大好きな生牡蠣を食べて揃ってお腹を壊し寝込んだ。どうも中ったらしい。食あたりになったら嫌だからと食べなかった伝馬だけが無事で、たった一人で仕方なく入学式に臨むことになった。しかも当日は父親が車で送迎してくれるはずだったのだが、布団の上でお腹を押さえて唸る父親に運転できるわけがなく、急いで自転車を出して乗った瞬間にタイヤがパンクするという不幸が重なった。タクシーを呼びなさいという母親の呻き声に、伝馬は入学式を欠席して救急車を呼ぼうとした。だが両親から、自分たちは大丈夫だから入学式に急ぎなさいと、全く大丈夫ではない調子で言われ、ちょっと悩んだ末に走って行くことにした。タクシーを待つ時間ももったいなく、それほど学校から離れているわけでもない。しかも伝馬は運動神経が良く、走るのは得意な方だ。走れば何とか式が始まる時間にはギリギリ間に合うと判断して、とにかく走った。走れメロスの実写版のように走った。結果、開始時間十数分前に校門に到着した。

 荒々しく深呼吸しながら、額にかいた汗を手のひらでぬぐう。入学式と達筆にでかでかと書かれた看板が設置されてある校門前には、当たり前だが誰の姿も見えない。もう全員校舎の中だろう。新しい高校生活が始まるんだという感動もそっちのけで、とりあえず教室へ駆け込もうと校舎へ向かって走った。

 目前に見えてきたのは豪快に咲いている桜だった。

 生徒たちが出入りする昇降口から校舎に沿って桜の木が植えられている。今咲かなければいつ咲くんだとばかりに満開で、可憐なピンク色一色に染まっている。

 伝馬は思わず歩調をゆるめて、桜並木を眺めた。綺麗だった。幹はどっしりとして太く、しなやかな枝にはふんだんに花がついている。互いの枝がぶつからないような間隔で木は成長していて、見事に桜の花を咲かせている一連の光景は、まるで一種の晴れ姿のようだった。

 伝馬は入学式に間に合わないかもしれないという現実を一瞬忘れて、桜に手招きされるようにぶらっと校舎沿いに奥へ行こうとした。

「おい」

 いきなり背後から声をかけられた。

 その強面風な声色に、伝馬はハッと我に返って慌てて振り返る。

 ちょうど桜色に染まる花弁がふわりと散ってきた。そこに男性が一人、仁王立ちでいた。

 伝馬は誰だろうと訝しみながら、相手をよく見る。一言で言えば、とてもカッコいい男性だった。背は高く、手足も長い。スポーツ選手のような体形の良さだ。白いワイシャツに黒織柄(くろおりがら)のネクタイを締めて、ブルーグレイのスーツを着ている。伝馬のような十代の若者から見ても、嫌味なしにすごく似合っていると思った。

 そのまま視線を顔へ向ける。これまた男らしくてカッコ良かった。警察や法曹、推理ドラマに出演していそうな雰囲気の顔立ちをしている。演じる役はもちろん主役だ。きっと口数は少ない。けれど責任感は強く、問題を解決してくれる。そういう印象だ。年齢はおそらく二十代。

 ――誰だろう。

 ここにいるということは、学校に関係する人物だろう。よくよく見れば男性が着ているのはフォーマルなスーツだ。入学式などの公式行事に列席するための服装である。フォーマルスーツを身につけた二十代の男性。ということは。

「おい」

 再び、男性は声をかける。

 じっと観察するように見ていた伝馬は、その声の調子と吊り上がった(まなじり)に鋭い眼光で、男性が苛立っているというのがわかった。

「お前、ここで何をしている」

 警察ドラマなら、刑事が容疑者に詰問(きつもん)するシーンである。ちょっとだけムカッとした伝馬は、負けずに礼儀正しく言い返した。

「俺、不審者じゃないです」
「そんなことはわかっている」

 男性はニコリともしない。

「俺が聞きたいのは、お前はこれからどこに行くつもりなんだということだ」

 両腕を組んで立っている男性もまた不遜(ふそん)な態度である。だがそれが堂々としていて、実に(さま)になっている。

 ー―かっこいい。相手への反発心も下がって、伝馬はちょっと素直になった。

「教室へ行きます。俺これから入学式で……」

 そうだ、桜を見ている場合じゃなかったと伝馬は恥ずかしくなって俯く。一人息子の高校入学祝いで、生牡蠣を食べてお腹を壊して式に参列できない不幸な両親のためにも、ちゃんと式に出席しなければ。伝馬は男性に入学式のことを聞こうと顔をあげた。

 その時、ひらひらと桜の花が散り落ちてきた。桃色よりももっと深くて濃い色。紅色を薄くしたような色。一つ、二つ、三つと枝から離れて、男性の前をくるりくるりと舞いながら地面に横たわる。数秒の出来事なのに、なぜか伝馬にはスローモーションで頭の中に流れた。

 綺麗だと思った。桜の花弁が。

 桜の花弁の散る姿が似合うと思った。男性に。

 後で思い返せば、自分は見惚れていたのだ。だから何も言えなくなったのだと気づいた。
 だが無言になった伝馬の思考を叩き割ったのは、くっと顎をあげた男性の怒りに満ちた眼差しと「馬鹿野郎!」という罵声だった。

「桐枝伝馬!」

 突然名前を大声で呼ばれて、伝馬はえっ? と目を大きくする。

「入学式があると分かっているのに、花見をしながら散歩している呑気な新入生を見たのは、お前が初めてだ」

 男性はストレートな言い方という表現を軽く飛び越えて、大根をこま切れするような容赦のなさで切って捨てる。ええっ? と再びあ然となった伝馬は、呑気に花見なんかしていないと果敢に反論しようとしたが口がうまく回らない。と、男性がくるりと背を向けて言い放った。

「行くぞ! 走れ!」

 光沢ある革靴で猛然と走り始める。

 だが伝馬は事の成り行きについて行けず、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす。って、あの人だれ? という初歩的なクエスチョンマークが頭の中を駆け巡る。

 男性はすぐに立ち止まった。伝馬がついてこないので、こちらも驚いたように振り返る。

「早く走れ! 入学式はもうすぐに始まるぞ! お前はそれに出席するんだろう!」

 指を延ばして校舎をさす。

 伝馬はその言葉でスイッチが入った。入学式に遅れる! と認識した瞬間に走り出した。

 家から吾妻学園までも走ってきた伝馬である。当然疲れていたが、ちょっと休息が取れたので疲労回復になった。

 伝馬が走り出したので、男性もまた走り始める。走るのが速い伝馬はあっと間に男性に追いついた。

「すみません、あの」

 楽々と男性を追い抜けたが、どのように行けばよいのかわからなかったので、男性と肩を並べて走る。

「何だ」

 男性は声だけで応じる。その横顔は怒っているというよりも、若干焦っているように見える。

「ちょっと聞きたいことがあるんです」
「だから、何だ」

 男性の息遣いが少し乱れる。あまり運動が得意じゃないのかなと伝馬は思った。スポーツもしくは武道もイケる体に見えるのだが。

「すみません」

 伝馬はなぜか申し訳なさを感じて謝る。すると男性はふうっと息を吐き出して、首を回して伝馬を見る。

「別に謝られることはしていない」

 言い方は不愛想だが、眼差しは優しく温かい。

「それより、聞きたいことは何だ」

 校舎の角を曲がる。視界に入ってきたのは昇降口だ。

「あの……」

 伝馬は照れ隠しで俯く。最初はおっかなく感じたが、桜の花弁がよく似合ってほんとは優しい人――何だか胸の中がじわじわと熱くなるのを感じながら尋ねた。

「あなた、誰なんですか」

 男性は伝馬をちらりと見ると、呆れたように苦笑いした。

「お前の担任だ」

 それが副島一成との出会いだった。 




「で、キッカケはそれなんだ」

 お昼の休憩時間、天気が良いからと外に出て、校庭の片隅にある大きなイチョウの木の下で弁当を広げている圭は、伝馬の話が終わっても取り立てて感情を揺さぶられることなく問いかける。問いかけられた伝馬はようやく口の中でおにぎりを頬張りながら、首を縦に振る。

「キッカケみたいなのはそうなんだけど、あとで松本先生に教えられたんだ」

 喉で呑み込んで、続ける。

「初めての体育の授業で、松本先生に言われたんだ。副島先生は俺が教室に来なかったから、ひどく心配して、昇降口まで探しに行ったんだって。俺に何かあったんじゃないかって」

 体育の授業が終わってから、桐枝伝馬君! と元気に呼び止められ、入学式に間に合って良かったね! 君が来ないから一成が心配して教室を飛び出して行っちゃったんだ! その間新入生たちの面倒を僕が見たんだ! だって僕は副担任だから! 情熱と情熱で頑張ったよ! でも君がちゃんと来たから僕は! ……と、独白が永遠に終わらなそうなところを、数学教師の橋爪(はしづめ)理博(りはく)が通りかかって、お前の口はいつも動いているな、よく故障しないな、とネチネチと絡んでくれたので、伝馬は隣で欠伸をしていた勇太を引っ張って教室へ戻った。だが古矢が喋った内容は伝馬の胸に熱く刻まれて、その後の衝動的行動へと繋がっていった。 

「ふうん」

 圭はお弁当と同様に冷めている。

「伝馬らしいね」

 少しだけ呆れているようだ。

 しかし伝馬は別段気を悪くもしないでおにぎりを食べる。こういう話になったのは、この間伝馬がおかしかったことを心配した勇太が、どうしたの? どうしたの? と人間の言葉を覚えたオウムのように繰り返し、圭が頃合いを見計らって、よかったら話を聞くけどと外へ誘い出したのだ。伝馬も数日過ぎていくぶん気持ちが落ち着いたので、心配する勇太とどこまでも冷静な圭に正直に話すことにした。

「どこが悪かったか、わからないんだ」

 おにぎりの中に入っている梅干しを口に入れて、片手で殴られた頬を撫でる。とっくに痛くはないが、思い出す度にくっそうとムカついてくる。

「そうだね、全部悪かったんじゃないのかな」

 圭はクールに言っておかずのウインナーを口に入れる。タコさんウインナーで、切られた足の部分が綺麗に開いている。

「でもこれで伝馬が荒れていた理由がわかった。荒くもなるよ、殴られたらね」

 そう言って、先程から昼飯に夢中な勇太に目を向ける。どうしたのーでんまー、心配だよーでんまーとうるさかった勇太は、絶賛炊き込みご飯を食べる世界の住人になっていて、伝馬の告白もあまり耳に入っていない。というか、全然聞いていない。

 だがそんな勇太と幼馴染みである伝馬は気にも留めないで、全部悪かったか……と呟く。身も蓋もない言葉でも怒りもしないのは、伝馬の素直な性格のゆえだ。
 それを見抜いている圭は、全く話に加わる気配のない勇太から仕方なさそうに視線を()がすと、下手に言葉を飾ることなく普通に突っ込む。

「パンチをする先生も悪いけれど、いきなり担当クラスの生徒から告白されたらビックリするよ。伝馬はそういう性格だから、即実行しただけだと思うけれど」
「駄目なのか?」

 おにぎりを食べながら元気なく小首を傾げる。何となくだが伝馬もヤバい行動だったと自覚し始めている。

「うーん、ダメだね」

 優しい口調ではっきりと言い切ると、圭は苦笑いする。

「本当に伝馬らしいんだけれど。猪突猛進(ちょとつもうしん)は自分もケガをするよ」
「……あ、そうか……」

 もう痛みはないのに、殴られた頬がチクリとする。

「まあ、でも黙っていたらいたらで、今度は自分がきついだろうし。仕方ないね」

 圭はどこまでも他人事のように喋ると、ちょっとだけ肩を落とした伝馬にひょいと顔を近づける。

「僕は思ったんだけれど。聞く? 伝馬」

 弁当の上にお箸をのせると、右手のひとさし指で眼鏡の縁を軽く押し上げる。入学式で知り合ってからまだ三月(みつき)も経っていないが、普段クールな圭がその仕草をするのはとてもノリノリな時だと知っている伝馬は、黙って頷く。

「伝馬の話を聞いて僕は思ったんだけれど、副島先生、手慣れているよね」
「手慣れている?」
「そう、こういう事態に」

 わかる? というように眼鏡の奥で目が鋭くなる。

「俺が先生に告白したことか」
「そう、今までもいたんじゃないのかな。というより、いたよね、絶対」

 ここは男子校だからと断言する。

「先生がモテたのは間違いない。だから、断り方がパンチをお見舞いすることだったんじゃないかな。そうしないと先生自身が大変だったと思うんだ。殴られて、大体の場合はそれで終わった」

 まるで事件を推理する探偵のようにすらすらと口から出すと、また眼鏡の縁を押す。

「どう、僕の見立ては」
「……ああ、うん」

 伝馬はぼんやりと頷きながら、二個目のおにぎりを食べ終わって、包んでいたラップをくしゃりと丸める。全然頭になかったと思った。先生がモテるとか、他の生徒たちからも告白されたかもしれないとか。

 ――俺には関係ないし。

 ただ自分の気持ちを純粋に伝えたかっただけで。

 うーんと両手で頭を抱え込む。まさに圭が指摘した通り、猪突猛進そのものだ。

「どうしたの?! でんまー!」

 すぐ側からびっくりした声が湧き起こる。

 少し意気消沈していた伝馬も、そんな伝馬に声をかけようとした圭も、見事に揃って勇太を振り返る。

 今まで炊き込みご飯を食べることだけが人生になっていた勇太は、そんな人生から目が覚めたような顔で心配そうに伝馬を見つめている。

「いや、勇太こそどうしたんだ?」

 当然のように伝馬は聞き返す。

「え? 俺はゴハン食べ終わったよ」

 こちらも、さも普通に返答する勇太である。やはり伝馬の話もその後のやりとりを聞いていない。

 圭が再びお箸を握って茹でたブロッコリーを食べながら、手短に話の流れを説明する。

「伝馬は副島先生に告白したけれど、告白の仕方を間違えて落ち込んでいるんだ」
「ええ! そうなの、伝馬?」
「……いや、よくわからない」

 某ホームアローンの主人公がやるキメ演技のように両手を頬っぺたにくっつけてびっくりする勇太だが、はっきりいってちゃんと理解していない。そんな勇太のリアクションから長年の経験でわかっていないことを把握する幼馴染みだが、圭のショートカットな説明にいまいち納得できないでいる。

 そんなこんなな友人二人を眺めながら、本当に凸凹コンビだと感心して圭は弁当箱を(から)にすると、ラストを締めくくる。

「で、伝馬はこれからどうするの?」
「……どうって?」
「このままパンチをされてお(しま)いにする?」

 ちょうど昼食時間終了を告げるチャイムが鳴り響く。

「あ! 教室に戻らなきゃ!」

 炊き込みご飯を食べ終わってもうお腹が満腹だからか、勇太はプラスチック製のタッパーをランチバックに突っ込んでまっさきに立ち上がると校舎へ走る。圭は呆れたような一瞥を呉れたが、手早く唐草模様の風呂敷で弁当箱を包み、勇太に続く。

 伝馬もゴミを握りしめて、二人を追ってその場から駆け足で離れる。だが薄暗くよどんだ(もや)が心にかかって、一向に晴れなかった。




 放課後、今日も一日無事に終了したと胸を撫でおろしながら職員室のドアを開けて、一成は自分の席に着く。すると隣でメールを打ち込んでいた古矢がくるりと椅子を回転させて「一成!」と溌溂(はつらつ)と声をかけてきた。

「今日もご苦労さま! お疲れだね!」

 思わず一成は口を黙らせたくてパンチしたくなったが、理性が止めてくれた。

「松本先生はいつも元気ですね」

 高校時代では先輩後輩の関係で、同じ教壇に立つ立場となってもその延長線上だと認識しているらしい古矢は、一成をいまだに名前で呼ぶ。元担任の順慶をじいさん呼びする一成もその辺はうるさくはないが、古矢に対しては会話が鬱陶しいという気持ちが先に立つので、長いお喋りを牽制する意味を込めて先生呼びしている。

「そう! 今日の僕は全然駄目なんだ! どうしてか聞いてくれ!」

 勿論古矢にそんなガードは効かない。俺は忙しいんだと言いかけた一成の意向などガン無視して話を始めようとしたところ、ガツン! という激しく物がぶつかる音がしてストップした。

五月蠅(うるさ)い」 

 書類や本が積まれている机の向こう側からのっそりと顔を上げて睨んできたのは理博(りはく)である。
 インテリな風貌でいかにも理数系男子二十代バージョンという雰囲気の理博は、理知的な目で二人を見据えたままスッと右手を上げると、その手にある使い古された算盤(そろばん)で、ガツン! と再び机を叩いた。

「お前たち、五月蠅(うるさ)い」

 古矢と一成を苦々しく注意する。

 いや俺は(うるさ)くないだろうと一成は抗議したくなったが、それより先に古矢が目を丸くして言った。

「理博! 物は大切にしなきゃダメだよ! 僕がソロバンだったらびっくりだよ!」

 この馬鹿と一成は手で古矢の口を抑えたくなった。古矢の言葉は正しい。物を乱暴に扱ってはいけない。もし自分の生徒が目の前でこんな真似をしでかしたら、即相談室まで連行して大説教である。だが当の五月蠅い張本人である古矢が絶対に口にしてはいけない正論だ。言ったら相手は当たり前に激怒する。

 案の定、理博はこめかみのあたりに青筋を立てると、算盤を丁寧に置いて、おもむろに事務用椅子から立ち上がった。

「古矢」

 怒りのオーラを(たぎ)らせながら、腕を伸ばして右手のひとさし指を突きつける。

「お前が私の算盤だったら、真っ二つに割って捨てている。生憎だが吃驚(びっくり)する暇もない」
「そうか! それは残念だ! 僕が理博のソロバンじゃなくて良かったね!」

 おどろおどろしい嫌味VSポジティブシンキングの会話が始まる。一成は面倒になったので(いち)抜けすることにした。名前を呼び捨てにしあっていることからもわかる通り、古矢と理博は高校時代この学園の同級生同士であった。しかも友人というプライベートカテゴリーに入る仲である。第三者からすれば(にわ)かに信じがたい事実だが、二人の後輩にあたる一成からすれば別に驚きでも何でもない。喧嘩しているんだかスキンシップしているんだか全く理解できない会話は、当時の在学生時代からやっていた。そのまま成長して仲良く教職になっても変わらない。もっとも、どうしてお互いに友人と思っているのか吾妻学園七不思議の一つではあるのだが。

「一成」

 この間の歴史の小テストを採点しようとプリントを机に出した一成は、理博に不機嫌そうに呼ばれてしぶしぶ顔をあげる。

「何ですか、橋爪先生」
「どうしてお前は私に呼ばれる度に、そんな可愛くない顔をする」

 理博は胸の前で両腕を組み、顎をあげて不満そうにぶちまける。それはあなたに呼ばれたくないからだと一成は正直に言おうかなと思ったが、先に古矢がアッハッハと笑った。

「大丈夫! 可愛くない顔でも可愛いよ! 一成!」

 親指をグッと立ててみせる。いつのまにか二人の会話は終結したようだ。

 どうしたものかと一成は三白眼を物騒に光らせて考える。この二人は邪魔だ。テストの採点ができない。

 ――俺が相談室へ行けばいいんだな。

 平和的な解決方法がすぐに浮かんで、両手でプリントの束を立てて手早く整えると、椅子から腰を上げてさっさと職員室を出ようとした。

「一成」

 蛇がシャーと舌を出すように理博が呼び止める。開けたドアの(へり)を片手で押さえて、面倒そうに一成は振り返った。

「何ですか」
「どこへ行くつもりだ。私の話は終わっていないぞ」

 机の上にある算盤を手に持つと、もう片方の手のひらにボンとぶつける。様々な用途で算盤を愛用している理博は、迷惑そうに顔をしかめた一成に対して、お説教するようにもう一度同じ動作を繰り返した。

「十三分前に筒井先生が来た。お前に(こと)づてだ」

 俺に言づて? と一成は露骨に嫌がる。順慶がわざわざ一年生の職員室まで足を運んで何か言っていく時は、たいてい(ろく)なことではない。長年の経験からわかっている一成は聞き流そうかと不穏に考える。その間、三人しかいない一学年職員室内では、理博はいつも時間が細かいね! 昔から数字だけが友達だもんね! 僕は苦手でキライだな! と古矢がきらきらとディスり、私は時間に正確なだけだ、頭がザル仕様のお前とは違う、苦手で嫌いだから待ち合わせ時間に十七分以上も遅れてくるのかとロケットランチャーならぬ算盤をぐるぐると振り回す理博のツートップが展開する。一成はそれを阿呆(あほ)らしそうに眺めて、そういえば相談室には順慶がいるかもしれないと思い至り、二人のスキンシップに割って入ってその言づての内容を訊いた。

「今すぐに来いと言っていた」
「相談室に?」
「そうではない」

 理博は眉をよせる。

「理事長室だ」

 一成はドアの縁から手を離すと軽く目を(つぶ)る。とっと言えという文句が口から飛び出そうになったが、何とか未遂に終わらせた。

「理事長がお前を呼んでいると、筒井先生からの言づてだ」
「わかりました」

 自分の机に戻り、引き出しにプリントを仕舞う。誰にも見られないためだ。それから椅子にかけていたグレーのスーツの上着を取って、袖を通す。襟元を整えて、手で両肩を払い、身だしなみをきちんとした。

「筒井先生の伝言はそれだけですか?」

 念のために聞いておく。

 理博は重々しく頷いた。

「それ以上も、それ以下もない」

 もっと普通に答えろと一成は疲れてきたが、爛々(らんらん)と輝いた古矢の目と合ってさらに疲れた。

「一成! グッドラック!」

 一成はゲンナリして職員室を出ると、最上階にある理事長室へ向かう。
 途中、下校する生徒たちと挨拶を交わしながらすれ違う。クラブ活動の時間だが、一成は生徒たちのサポート面を担当しているのでどのクラブにも関わっていない。順慶が柔道部の顧問と兼任しているのは、単純に順慶がパワフルティーチャーなだけだ。俺は柔道馬鹿なんだと豪快に笑うが、以前に健康診断で一緒になった時に衣服を脱いだ順慶の肉体は、じいさん呼びするのも失礼なほどに輝かしく鍛えられた柔道マンそのもので、日頃から真剣に稽古に取り組んでいるのがよくわかった。

 ――こんな時間に呼び出されるとはな。

 階段を上がりながら、嫌な予感が頭の中を一周する。ずっと不在で、その間は副理事長の松永栖来(くるす)が理事長代理として学園の運営を仕切っていた。理事長が不在の理由は興味がなかったが、いつ帰って来るのかは知りたかった。

 ――あいつが素直に教えてくれるわけがないか。

 一成は栖来の冷ややかな眼差しとそれ以上に凍った刃で相手を刺すような言動を思い出して、うんざりしたように頭が斜め方向に傾く。どうしてうちの学園には癖の強い男ばかりいるんだと(わずら)わしくなるが、順慶が聞いたら「お前もだぞ、一成」と突っ込まれるに違いない。そんなことは露も思わずに最上階へ到達すると、一成はガランと静まり返った廊下をゆっくりと進んで、そこの階には一つしかないアンティーク調の扉の前に立つと、右拳をグッと握りしめて思い切りガンガンとぶっ叩いた。

「やかましい、早く入れ」

 すると、扉の脇にある小さな絵画から厳しい声が飛んできた。一成はちらりと一瞥をする。純白の額縁で飾られているのは、美しい女性が白百合の花束を両手で抱えて穏やかな笑顔を見せている絵だ。長い黒髪に白い肌に水色のワンピース。見るからに清楚な若い女性の絵だが、この絵画がドアホンになっている。理事長が特注で作らせた一品だ。

 一成の眼差しが呆れを越えて薄気味悪いものでも見るような色合いになる。絵画がドアホンなのは知っていた。だから見ないようにしていたしノックしたのだ。

 ――本当にどうしようもないな。

 肩をすくめてドアノブを回し「失礼します」と室内へ入った。

 理事長室はさして広くはないが、映画やドラマで見かけるような豪奢で重厚な内装になっている。置かれているテーブルやソファーや椅子などのインテリアはオーク材に革張り仕様でグレードが高く、その室内デザインに相応しい高価で格調高い雰囲気を放っている。絨毯が敷かれた床に踏み込んだ一成はドアを閉めると、まっすぐに前へ進んだ。その先にはマホガニーの机を前にふかふかな椅子に座って一成を待っている男性がいた。

「どうしてすぐに来ないんだ、一成」

 第一声が刺々しい非難である。一成も同じ口調で言い返した。

「今聞いたんだ。これでも急いだんだ」
「それが久しぶりに会った叔父さんに対する言い方か、一成」

 吾妻学園の最高責任者である副島冴人(さえと)理事長は甥っ子に似た凄みのある三白眼で睨んだ。

「お前の言い方は思いやりが足りない。教師としての責任を持って、生徒たちを教え導くという使命をちゃんと全うしているのか(はんは)だ心配だ」

 マホガニーの机に両肘をつくと、手前で両手の指を組んで一成をじろりと一瞥する。その目つきは成人した大人へというよりもまだまだ手のかかる甥っ子へのそれで、口調も身内に対するお説教モードだ。一成は引き攣る口の端に命令して、教師として口答えすることにした。

「申し訳ありませんが、生徒たちが楽しく学べる学園生活を送るために日々奮闘しておりますので、生憎ですが、理事長の要請にすぐには応じられませんでした。これでも教師としての責任を持っていますので、生徒たちを教え導くという使命を全うすることに全力を注いでいる次第です」

 文句があるのかと不穏に匂わせて、一成は口元でいつでも言い返せるように戦闘態勢を整える。子供の頃から口うるさい叔父貴だったと頭痛がしてきた。

 冴人は両手を組んだまま睫毛を伏せると、盛大にため息をついた

「お前は本当に可愛くない」

 一成も対抗してため息をつきたくなった。今日は俺が可愛くないとケチをつけられる日なんだなと。しかし、だからどうしたという心境である。

「俺が可愛くないのは今に始まったことじゃないだろう。それよりも、ここへ呼んだ理由を早く言ってくれ」
「お前の良い点は、正確な自己分析をしていることだな」

 五十代になっても端整な顔立ちを維持している冴人は、ニコリともしないで切り出す。

「私が留守の間に、何かあったか」

 一成は嫌な予感が当たったというように、思いっきり顔をしかめた。

「何もない。大体、俺はいつ叔父貴が不在になったのかも知らないんだからな」

 マホガニーの机に向かって猛然と身を乗り出す。

「大方その用件だとは思ったが、毎回毎回、同じ質問を繰り返すのは止めてくれないか。俺よりも副理事長や校長に聞いたらどうだ」
「聞いている。お前に言われるまでもない」

 冴人はにべもない。

 一成も負けない。

「だったら、それで十分だろう。ことさら俺に聞く話か」

 断固とした顔を突きつけて訴える。

 副島理事長の返事は至ってシンプルだった。

「勿論だ。なぜならお前は私の甥だからだ。甥は叔父を助けなければならない」

 鼻先にいる甥の迫力ある顔面に圧力をかけられても、眉一つ動かさない。

 一成はがっかりしたように肩を落とすと、やおら後退(あとずさ)って姿勢を元に戻した。冴人は自分が不在の間、学園で何かあったか必ず一成に聞く。それに対する一成の返答は毎回「何もない」だ。毎回何かあってたまるかというのが一成の感想で、たぶんに常識的な考えだろう。報告なら松永副理事長や大ケ生(おおがゆう)校長で済む話なのに、なぜ俺にも聞くと一成はその都度抗議して、その都度退けられている。