「副島先生」

 授業を終えて教室を出た一成は、背後から自分を呼ぶ声に、眉間に皺を寄せながら振り返った。今まで自分の担当である日本史を教えていたのだが、居眠りタイムと勘違いしている生徒たちを夢の世界から目覚めさせるために、拳骨パンチを大盤振る舞いしていた。しかしそのせいで肝心の授業がろくに進まないうちに終了を告げるチャイムが鳴り、消化不良のまま授業を終えてしまった。どうやったらあの馬鹿どもに歴史の大切さを分からせることができるのかと歯軋りしていた時に、名前を呼ばれた。

「どうした、藤島」

 自分が担任として受け持っている一年三組の学級委員長が、廊下の奥から足早に寄ってきた。

「今、体育の授業だったんですけど」

 圭の息は少しだけ速かった。恐らく走ってきたのだろう。

「授業の最中に、綾野君が倒れてしまって、保健室に運ばれました」
「綾野が?」

 一成は怪訝そうに聞き返す。

「何があった」
「校庭でトラックの周りを走っていたんですが、三周目あたりで、バタンと倒れまして。みんなで保健室に運びました。たぶん、貧血じゃないかと保健室の先生は言ってました」

 一成はやれやれと言うように溜息をついた。

「綾野はそんなに体力がなかったのか? いつも食べ物の話しかしないのにな」
「いえ、たぶん、綾野君は昨日食べた物が悪かったんじゃないかと思います。体育の前に、お腹が痛いと言っていましたから」

 冷静と評判の委員長は、しごく淡々と説明する。

「何を食べたんだ?」
「たこ焼きです」

 一成は頭痛を堪えるように、軽く目を瞑った。その状況がありありと瞼に浮かんだ。

「腹を壊して倒れるぐらいたこ焼きを食べるなと言ってやれ、藤島」

 委員長と綾野勇太は仲が良かった。

「僕より、桐枝君が言ったほうがいいと思いますけど」

 圭は担任の冗談にクールに応じる。

 その生徒の名前を聞いて、一成は一瞬黙った。

「……ああ、そうだな」

 そこで話を止めた。

「状況はわかった。連絡ご苦労だった」
「はい、それじゃ失礼します」

 圭は軽く一礼して、帰ってゆく。副島も前を向いて、廊下の端にある階段へ向かった。

 ――全く綾野の奴は。

 この間の授業でも、万葉集とは何だと聞いたら、寝ぼけ眼で、らーめんとかだんごとかとぬかした生徒である。食い意地が張っているという次元を超えて、食べ物こそが我が人生というモットーがぴったりのような生徒だ。

「……ったく」

 それでも、人をいじめたり、騙したり、嘘をついたりするといった本当の意味での大変な生徒ではないので、しょうがないなと呆れながらも、保健室へ足を向けた。自分の受け持つ生徒なので、一応様子を見ておこうと思った。

 保健室は一階にある。お昼休みに突入したので、弁当のない生徒たちが反対側にある学食へと駆け込んでゆく。その運動会のような競争ぶりに、自分がここの学生だった頃の風景が重なって、全然変わらないなと半ば感心しながら、閑散としている保健室の前に来ると、静かにドアを横へと押し開いた。

 室内はひどく静かだった。一成は顔だけを動かして見回す。保健医の姿は見えない。奥にあるベッドの周りが白いカーテンで覆われているので、そこに勇太は寝ているのだろう。起こさないようにドアを閉めると、足音を忍ばせながらベッドに近づき、そっとカーテンを退けた。

 そこにいた生徒が振り返る。

 桐枝伝馬だった。

 一成はカーテンの縁に手を添えたまま、伝馬を見返す。すぐに言葉が出てこなかった。

「……綾野は大丈夫か?」

 伝馬の肩越しに勇太の寝顔が見えて、声を掛ける言葉が見つかったというように訊く。

「はい、大丈夫です、先生」

 突然現れた担任教師を顔色も変えずに見つめていた伝馬は、確かめるようにベッドの上で寝ている勇太に視線を落とす。

 一成も促されるように顔を向けた。勇太は白いシーツの上で両目を瞑っていた。正確に言うと、愉しそうに寝ていた。もっと正確に言うと、暢気に(いびき)をかいていた。さらに正確に言うと、少しだけ開いた唇から(よだれ)をだらーと垂らしていた。

 一成は思わず拳骨を握った。どこが具合が悪いんだと、拳が火を噴きそうになる。この馬鹿小僧とパンチ一発お見舞いしようかと思ったが、からくも担任としての理性が押し留めた。

「綾野は大丈夫そうだな」

 そのうち阿呆でも起きるだろうと確信して、伝馬に声をかける。

「お前も昼休みが終わったら、授業に戻れ」

 しかし伝馬は素っ気なく首を振った。

「まだ少し心配なんで、ここにいます。五時限目の授業にはちゃんと出ますから」
「昼飯はちゃんと食べろ。大事だぞ」

 お昼休みは四〇分程度しかない。一成もお昼休みは食べること以外に色々とやることがあって忙しい。

 桐枝、と口にしかけて、伝馬が勇太から目を離すと、一成へ向いた。いつものように真っ直ぐで若々しい視線が、物言わず一成を見つめ、一成は言いかけようとした口を思わず閉じた。

「先生、俺、万葉集を読みました」

 不意に、伝馬は言う。

「……ああ、この前の話だな」

 一成もすぐにわかった。授業中、万葉集を読んだら感想を言ってもいいかと伝馬が尋ね、一成はいいぞと承諾したのだ。

「どうだった? 面白かったか?」
「はい」

 伝馬はためらいもなく返事をする。その生真面目な態度から、本当に読んだのだと一成は半ば感心した。

「どんな歌に興味を持ったんだ?」

 伝馬はちょっと考えるように俯いた。

「歌じゃないんですが……歌の種類みたいなのに、少し関心を持ちました」
「雑歌や、挽歌というやつだな」
「はい」

 ここで伝馬は考えがまとまったというように、顔をあげた。

「俺が興味を持ったのは、相聞歌(そうもんか)です」

 一成は無言で頷いた。万葉集は三つの部類で編纂(へんさん)されている。雑歌(ぞうか)挽歌(ばんか)、相聞歌。挽歌は死者を悼む歌で、雑歌は挽歌や相聞歌以外の歌を差し、相聞歌はいわゆる男女の恋を詠む歌だ。

「いいことだ」

 あえてその恋の歌の名称を口にしなかった一成である。面倒な展開はご免こうむりたかったので、早々に話を打ち切って保健室を出ることにした。

「ちゃんと飯は食べろよ」

 担任らしい言葉を残して、カーテンを手で押さえながら離れようとした。

「俺がいいなと思ったのは」 

 しかし伝馬は担任の行動を無視して、話を続ける。

「あくまで歌を詠みながら、気持ちを交わしあうところです。気持ちを打ち明けても、殴ったりしないところです」

 ささくれた感情を晴らすかのように、棘にまみれた言葉を一成の背中にぶつける。

 ――やっぱりきたか。

 一成は軽く両目を瞑った。聞くんじゃなかったと頭が痛くなったが、日本史を教える心優しい教師から相談室の問答無用な世話係に心を入れ替えて、伝馬へ億劫げに向き直った。

「桐枝、言っておくが」 

 少々凄みのある声を出す。

「俺はお前のような生徒には、全員同じことを返してやったんだ。それが俺の相聞歌だ」

 有無を言わせない口調で断言すると、今度こそベッドのカーテンを乱暴に引いて保健室を出て行こうとした。

「俺は!」

 だが、伝馬は怯まずに言い返す。

「そんな相聞歌なんかぶっ潰してやる! 絶対に俺は先生に負けない!」

 一成は振り返らずに、後ろ手で保健室のドアを勢いよく横に閉めた。ドアはぶつかるような音を立てて跳ね返りそうになったが、ぐっと手に力を入れて押し留めた。

 ――何を言っているんだ、あいつは。

 ドアを背に立ったまま、一成は唖然となる。

 ――何が絶対に負けないだ。

 その主張に込められた気持ちにうんざりとなる。相談室で告白された時にストレートパンチを喰らわせる形で断ったことを、伝馬はいまだに根にもっているのだろう。

 ――知らんな。

 一成はそっぽを向いて廊下を歩き出す。だが、口から小さなため息が洩れたのは、自分でも不思議だった――