「それじゃあ、考えよう」
圭は伝馬と勇太を見回して、作戦会議よろしく場を仕切る。
「もう一度、伝馬が先生に気持ちを伝えるとして、どうしたらストレートパンチを回避できるか」
伝馬は口におにぎりを含みながら首をひねる。何か変に違うような。だが圭は五目御飯完食に邁進中の勇太を素通りして、伝馬へ無慈悲に投げかける。
「で、伝馬の考えは?」
で、ってどういう意味だろうと謎に感じながらも、人の良い伝馬はおにぎりを食べ終えて、ペットボトルの水を一口飲み、手でさらっと口元を拭って返答した。
「先生の迷惑にならないように伝えること……じゃないかな」
「そうだね。そのためにはどうすれば良いか、考えようか」
圭は穏やかに頬をゆるめる。見当違いに力んだ言葉が出てこなくて安心したようだ。
うん、と伝馬はペットボトルに口をつける。そこが難題なのだとわかったが、いかんせん、何も浮かばない。
「圭だったら、どうする?」
頭が良く、常識的な友人の意見こそ聞きたい。
圭は考えるまでもないというように、さらりと口にした。
「僕なら押し倒すところだけれど、仕方がないから卒業するまで待つ。その間、先生に好きな相手が出来ないように見張る」
「……」
シーンとなる。いや何を喋っているんだと突っ込みたいワードがフルスロットルで出てきた。だが圭は顔色を変えず結構な本気モードで言い続ける。
「僕ならストーカーになるかもしれない。でも自分が我慢し続けるには、それくらいやらないと将来的に後悔する」
「……いや、俺は……」
そういうことは無理だと言いそうになって、一歩手前で言葉を吞み込んだ。圭が傷つくかもしれない。しかし当の本人は風に吹かれるイチョウの木の下で、すました顔をして胡坐をかいている。
「ちゃんと自覚している、キモいってことは。でも僕はいたって普通だから」
だから大丈夫というように指先で眼鏡の縁を触った。自分のキモさを自覚しながら気持ち悪い言葉を吐き出すのは、ある意味ヤバいじゃないかと伝馬は普通に思ったが、圭との友情を壊したくなかったので黙っていた。
「あのさ」
突然第三の声が割り込んできた。伝馬も圭も同時に声がした方へ振り向く。お弁当の五目御飯に全人生をかけて食べていた勇太が、その人生を終えて空のジップロックタッパーと使い切った割り箸を両手に、満足そうに顔を丸くさせていた。
「そんなの、簡単だよ。まっすぐでいいんだよ」
「ちゃんと聞いていたの? 勇太」
圭は意地悪ではなく本心からの疑問形だ。隣の伝馬も同じく思う。それくらい五目御飯を食べることに熱中していたから。
「聞いていたに決まっているじゃん、ほら俺の耳」
勇太は首を曲げて圭に左耳を見せる。ここから聞いていたと主張したいらしい。
「伝馬はさ、ずっとまっすぐなんだから。まっすぐに、まっすぐに、向かっていけばいいんだ。どこまでもまっすぐに。それが伝馬なんだから」
満腹になったせいか、いつものひらがな口調ではない。しかしながら口元に小さな米粒がくっついていて、伝馬が自分の口元を指して教えると、勇太はひとさし指で取ってぺろっと食べた。
「まっすぐね」
圭は少し丸くなっていた背中を伸ばす。
「勇太の耳が機能していて良かったよ。珍しく感動した」
「あったり前じゃん。食べながらきちんと聞いていたって。俺食べないと死んじゃうし」
勇太の顔つきがとても重大な話であるように引き締まっているが、伝馬はとりあえず黙って聞いていて、圭は瞼を閉じて頭をかしげる。食べないと死ぬのは当たり前だろうと、どちらもリアクションに困ったような様子だ。しかし勇太は気にも留めないで伝馬へ向かって真剣に言う。
「だから、伝馬は伝馬のままでいっちゃえばいいんだよ。そのうちに先生がマイッタってなるから」
言われた伝馬が勇太の意味不明さに参ったような表情になる。どういう意味だろうと突っ込みたいが、突っ込んでも無駄なのは長年の付き合いでわかっている。
「あと、圭ちゃん。マジでキモい」
ついでというように当人を振り返って言葉で刺す。刺された圭は少しだけ頬を引き攣らせる。勇太には言われたくはないようだった。
そんなこんなでお昼休みも終わり、残りの授業も終えた頃には、伝馬は心の中で決意を強くさせていた。勇太が口にした「まっすぐに」という言葉が、不思議と鮮明に残っていた。
しかし――
伝馬は曇り空を胸内に抱えながら自転車を漕いでいく。その雲は段々と重たくなっていく。
前方にコンビニが見えてきた。立ち寄ろうかなと一瞬考えたが素通りする。コンビニで買う気力も湧かない。
次の十字路で交通量の多い基幹道路を左に曲がる。スーパーの大型店やドラッグストアなどの小売店が並ぶ通りを、気をつけながら走る。自宅まではまた距離がある。また十字路を右に曲がった。
一軒家やアパート、マンションがある住宅地に入る。道幅は狭くはないが、道路は網状になっていて今の時間帯だと歩行者や車も多い。伝馬はエコバックを片手に歩く女性を注意しながら追い越し、次に見えてきた歩行者を抜こうとして、急ブレーキをかけて止まった。
まだ周囲は車もライトをつけてはいない明るさだ。
歩いていたのは一成だった。
伝馬はびっくりしつつ、往来の邪魔にならないように脇の塀に自転車を寄せる。見間違いではないかと、もう一度よく目を凝らす。背格好、着ているダークグレーのスーツ、堂々とした歩き方。
――先生だ!
ごくりと息を呑み込む。何でここを歩いているんだろう。自分の通学路だが、一成を目撃したのは今が初めてだった。
――先生は車で通勤しているはず……
確か圭がそう教えてくれた。セイランブルーとブラックカラーのフェアレディZ。教員用駐車場でも一際目立っている。廊下から窓越しにさりげなくチラ見した時、とてもカッコいい車だと思った。カッコいい先生にすごく似合っている。
――それなのに何で歩いているんだろう。
車が故障したのかなと思ったが首をひねる。けれど歩いているのなら自宅は近いのだろう。どう見ても学校帰りである。
……一人で先生が歩いている。
伝馬は自転車のハンドルを握ったまま、どんどん遠ざかっていく後ろ姿を見つめる。だんだんとシルエットになっていく。
ハンドルを握る手が汗ばむ。行く先は同じ方向だ。自分もこの道をまっすぐに進まなければ家へ辿り着けない。
伝馬は深く考えずに本能に従って自転車に飛び乗ると、急いでペダルを漕いだ。周りで車は走っているが、歩行者は一成以外に見当たらない。先程追い越した女性は途中で左に曲がった。
猛然と走らせて、すぐに追いつく。
前にいる一成は何かの気配を感じ取ったかのように肩越しに振り返る。そのタイミングで伝馬はブレーキをかけて叫んだ。
「先生!」
一成は大きな十字路で横断歩道を渡らずに左方向に曲がると、脇目も振らずコンクリートの歩道を歩いていく。普段は自動車通勤をしているので自分の足で歩くのは新鮮だったが、気持ちはあまり愉快ではなかった。
――やっとで今日が終わる。
綺麗なグラデーションになっている夕日を眺めて歩きながら、疲れたような息をつく。朝は自分の愛車を運転してきたのに、一日の終わりを徒歩で帰るというのは今日の締めに相応しいような気がした。
――朝からどうも気分が乗らなかったな。
毎朝スーツの上着と一緒に教師としての自覚を羽織って学校での教職に臨んでいるのだが、職員室で古矢の第一声「おはよう一成! 聞いてくれ!」が始まって「五月蠅い、お前たち」と理博に絡まれるところから気分が下降していった。教室のホームルームでは生徒の出席のチェックをしたが、一人足りなかった。欠席するという連絡を受けてはいなかったので、ホームルームが終わったら速攻で生徒の自宅へ確認の電話をしようと思った矢先に、豪快に教室のドアが開いてその生徒が転がり込んできた。遅刻の理由は「来る途中で自転車で転んじゃったんっス!」と笑いながら元気溌剌に答えた。教室中がドッと湧いたが、そうかと一成は三白眼を吊り上げながら粛々と出席簿に〇を書いた。
それからお昼休みまでそれぞれのクラスで日本史の授業を教えていたが、相変わらず眠そうな生徒がいたり、もう眠っている生徒もいたりと、日本史の教師として怒りと自分の教え方の不味さを味わい、どうしたらよいかと授業をやりながら頭を抱えた。
――昼休みは昼休みで大変だったな……
相談室でコンビニ弁当を食べようとした一成の前に「先生!! 聞いてください!!」と文字通りドアをぶん投げる勢いで現れたのは三年生の宇佐美だった。その海坊主が人になったようなガタイを見た瞬間、一成は椅子の上で仰け反った。宇佐美はドデカい声で喋りはじめて永遠に話が終わらないと、吾妻学園では人気ユーチューバー並みに有名な生徒だった。一成は背後を振り返り、後ろのソファーに座っていた順慶に身代わりになってもらおうとした。三年生なので三年生を受け持つ教師が応対するのが筋だろう。と、思ったのだが、驚いたことに順慶の姿は忽然と消えていた。ドアが開きっぱなしになっていたので、忍者のような素早さで逃げ出したのだろう。一成は苦虫を嚙み潰したような顔になったが、宇佐美のご指名を受けた自分も押しつける気満々だったので、どっちもどっちだと諦めた。そんなくたびれた気持ちなど宇佐美には当然関係がないので、昼休み中、廊下にまで響き渡る大音量で「俺彼女とデートするんです!!!」という一言で終了する話を延々リピートされた。
――俺はよく我慢して聞いていたな……
その後疲弊した一成は、何とかかんとか午後の授業をやり遂げて、放課後の業務も無事にこなし、うるさい先輩ズに無駄に絡まれる前に職員室を辞して帰ろうとしたら、相談室で雲隠れした順慶が柔道着姿で現れて「理事長が呼んでいるぞ」と伝えに来た。昼休みの件もあったので、一成は露骨に嫌な顔をして拒否ろうとした。が、ただの雇われ教師が権力者の命令に逆らえるわけがない。相手は叔父だが、むしろ身内にこそ容赦がないことは実体験で知っている。仕方なしに理事長室へ向かったが、用件は「最近、何かなかったか」だった。何があるんだと一成は噛みつきたくなった。この前から馬鹿のひとつ覚えのように聞いてくる。「何があったら叔父貴は喜ぶんだ」と皮肉半分に聞き返すと「愚か者、何もないことが正しいのだ」とわけわからん言葉が返ってきて、理事長室を退去した時、扉の脇に設置している自分の母親を描かせた絵画ドアホンを拳骨でぶっ叩きそうになった。
――これでようやく帰れると思ったが……
理事長室を出た足で教員用駐車場へ行き愛車のエンジンをかけたら、信じられないことにかからなかった。数回エンジンスイッチを押したり、長押ししたりしたが、フェアレディZはウンともスンとも言わなかった。原因はもちろん不明で、ディーラーに連絡をして翌日引き取りに来てもらう予約をしてから、歩いて帰ることにした。
――災難というか、踏んだり蹴ったりというか……
ある意味グランドフィナーレな一日の幕引きだった。
――まあ、歩いて帰るのも悪くはない。
十字路で右に曲がる。自宅マンションまでは徒歩で三〇分くらいである。代車は借りなかったが、愛車の点検内容によっては日数がかかるかもしれない。その時はディーラーから借りることにして、試しにマンションまで歩いているが、特に大変だとは感じない。肉体的に疲労していたら、自分の足で帰るのは億劫かもしれないが、学園に比較的近いマンションを住居にしたのであともうちょっとで着く。自宅と学校の往復だけならば、たまには歩いてもいいだろうと思った。
――着いたらシャワーを浴びるか。
夕暮れの生ぬるい風に吹かれながら帰るのは、中々気分がいい。仕事終わりの解放感もあって、一成はすっかり寛いだ足取りで車に気つけながら向かっていると、突然後方で気配を感じた。自転車かと思って道を譲ろうと脇に避けながら肩越しに振り返ると、やはり自転車が近づいてきていてブレーキをかけて止まった。
「先生!」
乗っていたのは伝馬だった。
一成は驚いて足を止める。
「どうした、桐枝」
プライベートモードから担任スタンスへと意識が切り替わる。どうしてここにいるんだと訝ったが、伝馬は制服姿だったので学校から帰るところなのだと理解した。
「部活の帰りか」
「はい」
伝馬は自転車を下りると、通行の妨げにならないように端に寄せる。
「先生の後ろ姿を見かけて……」
少しはにかむように語尾が消える。
「通学路なのか?」
自分の後ろ姿を見かけたから声をかけた。まるでどこかのドラマのようなシチュエーションに一成は口元をほころばせる。
「はい」
伝馬は一成の目を見て返事をする。
「歩いている先生を見たのは初めてなんです」
俺も桐枝と遭遇したのは初めてだ、と一成は言いかけて苦笑いした。遭遇って何だ。不意打ちを喰らったような言い方だ。
「俺は普段は車通勤だからな。今日は歩いて帰る羽目になったが」
すると伝馬の表情から嬉しそうだった色合いが、拭い取られたように消えた。
「あの……何かあったんですか?」
一転して硬い声に、一成がびっくりして伝馬を見つめ返す。
「いや、ただ車が不調なだけだ。エンジンがかからないから歩いて帰っている」
逆に心配になった。どうして桐枝がそんな深刻になるんだ?
「あ……そうですか」
見る間に強張っていた頬から力が抜けて、安心したように柔らかくなった。
「俺、変に心配しちゃって」
伝馬は右手で気恥ずかしそうに髪を後ろへ撫でる。
「すみませんでした」
「いや、心配して声をかけてくれたんだな、桐枝」
一成はいたわるように優しい表情を浮かべる。突然伝馬が現れたのには驚いたが、自分のことを心配してくれたのは素直にじわっときた。
――本当に直球な奴だな。
だが全く不愉快ではなかった。
「家は近くなのか?」
歩くぞと、軽く手を振る。この場で立ち止まっていると往来の邪魔だ。
「え? あ、いえ」
伝馬は両手でハンドルを握り、自転車を押して一成の後に続く。
「まだちょっと遠いです」
「なら、俺のことはいいから早く行け。早く帰って休め。家族も待っているぞ」
一成は振り返りながら促す。自分に気を使う必要はないぞという一成の気遣いだが、伝馬は自転車を押して行く。
「歩いて帰っても俺は平気です」
「お前は平気でも、遅くなったら家族が心配する。いいから先に行け」
あくまでも担任としての心配りなのだが、伝馬の返事はひどくぶっきらぼうだった。
「俺が一緒にいると迷惑ですか?」
えっ? と一成は背後を振り返る。自分の後ろから付いてくる伝馬は生真面目な顔つきになっていて、射貫くような眼差しを向けている。
――直球すぎるな……
自分へ告白した時やガンをつけてきた時の態度そのものである。不愉快ではないが、伝馬の気持ちを相手にするには今日の一成は疲れていた。
「そうじゃない」
ちゃんと口に出して否定しておくのが大切だ。だが仕方がない奴だと胸内ではため息を吐く。義務教育が終わってもまだ大人ではない。大人の態度を求めてはいけない。
「教え子と一緒に帰るのは迷惑じゃない。いい機会だから、この間のテストの話をするか」
「えっ?」
今度は伝馬が意外そうに聞き返す。
「テスト、ですか?」
「そうだ。桐枝は悪くない点数だったな」
悪くはないどころか、日本史のテストはクラス内でも三番目に良い点数だった。一位は学級委員長だ。
「万葉集を読んだから、いい調子で勉強できたか」
一成は歩く速度を変えずに、後ろをちらりと振り返る。自転車を押して歩く伝馬と並んでは通行の邪魔だ。伝馬もその辺は考慮しているのか、無理に隣へ来ない。
「そうかもしれません……どうなんだろう」
伝馬は真剣に首をかしげている。
「俺、真面目に読んだつもりなんですけれど、もうあまり覚えていなくて……」
「ああ、それが普通だ。俺も最初に読んだ時は、きつくて目が泳いだ」
一成は昔を思い出して笑う。同時に保健室での出来事も湧いてきて「そんな相聞歌なんかぶっ潰してやる!」と叫んだ当人は、万葉集共々そのことも忘れてしまっているのかもしれない。それならいいと一成は安心した。
「あの……」
一成は肩越しに振り向く。ちょうどその横を自転車の買い物カゴに緑色のエコバックを入れた女性が、よいしょよいしょとペダルを踏んで通り過ぎていく。そのすぐ後ろをホワイト色の軽自動車が速度を落として走っていく。
「聞きたいことがあるんです、先生」
伝馬は妙に神妙な面持ちだった。
「何だ、桐枝」
やはり保健室での一件を忘れていなかったのかと一成は身構えたが、生真面目そうな口元から出てきた言葉は予想外のことだった。
「先生は……どうして教師になったんですか?」
伝馬は言い淀むようにいったん言葉を切るが、すぐに続ける。
「どうして、日本史なんですか?」
一成は小さく目を見開く。シルバーのハイエースが忙しそうに通って行き、一成はさらに車道の端に寄って後ろにいる伝馬に話しかける。
「どうしてそんなことを聞くんだ」
何となくだが予想はつく。教師になってから数年、度々同じことを生徒たちから質問されてきた。
「……いえ、あの」
伝馬は言葉を濁して俯く。どうも何と言おうかと悩んでいる様子で、言葉を探すように下を向いている視線が彷徨っている。
一成は忍び笑いする。
「不思議なのか? 俺が日本史の教師をしているのが」
そのことを質問する時、なぜかみんな目の前の伝馬と同じ態度になる。そんなに聞きにくいことなのかなと毎回疑問に思う一成である。
「あ……そう、そうです」
伝馬は顔を上げて、溺れていた海で浮き輪を投げ入れられたようにホッとしたような表情を浮かべる。
「不思議というか……副島先生に似合わない感じで」
「――そうか」
一成は粛々と頷いた。本当に言葉を選ばない直球な奴だと呆れながらも感心した。今までに「センセー、どうしてセンセ―はセンセ―になったんですかー?」というユルユル系から「先生が教職を目指した理由をお聞きしたいんです。聞くまでここを動きません」というガンコイッテツ系まで色々といたが、伝馬のように似合わないとぶっちゃけた生徒はいなかった。だが態度や言葉でオブラートに包みながらも、なぜ自分が教職を選んだのかを質問してくるのは、結局そういうことなんだろうと感じていた。
それにしてもと、一成は歩きながら指先で顎のあたりを撫でる。そんなに俺は教師のイメージじゃないのか?
「先生、副島先生」
背後から伝馬が必死に呼ぶ。一般的な教師の理想像をあれこれ考えていた一成は、うんと振り返る。
「あの、変なことを聞いてすみません! やっぱりいいです!」
ハンドルを握りながら前のめりで頭を下げる。一成は笑い飛ばした。
「謝らなくていいぞ、桐枝。みんな俺に同じことを聞いてくるから」
素直で真面目な奴だと改めて思った。いい傾向だ。
恐る恐る伝馬は顔を上げる。
「そうなんですか」
「そうだ。よほど気になるんだな」
一成は明るく返す。伝馬が気に病まないように、何てことのない他愛のない話だという雰囲気をつくる。
「俺が教師になったのは、いい先生方に恵まれたからだな。だから俺も教師になろうと思った」
さらっと口に出せた。自然体だ。よしと、一成は波の間を泳いでいるように息継ぎをする。
「日本史を選んだのは、勉強してみると案外楽しかったからだ。歴史というのは、人の物語なんだ。小難しい言葉が並んだ教科書じゃない。それを教えたかった」
そう真から思えたのは自分にとって良かった。一成は歩きながら薄暗くなってきた辺りの色合いを目の中に溜めて、前を見据える。
「まだ俺の教え方は下手くそだが、何か一つの物事に興味を持ってもらえたら、それをきっかけに歴史を勉強してくれるかもしれない。期待しているんだ」
と、日本史の教師らしい願望を吐き出しながらも、今日の授業が頭の中でプレイバックされて背中がナナメになりそうだった。
「先生は、下手くそじゃないです」
間髪を入れず、伝馬は訴える。
「下手くそだったら、俺は先生に勧められた本を読んでいないです」
「お前は優しい奴だな、桐枝」
おためごかしではなく、本気で思っているのが伝わってきて、一成は肩の力がぬけたような和らいだ笑顔を振り返って見せる。
「……」
伝馬は真顔で数回瞬きをすると、肩を上げてまっすぐに下を向く。少しだけ耳が赤くなっている。
いきなりどうしたと一成は訝るが、恥ずかしいのかと思った。だが何が恥ずかしいのかわからない。
――桐枝は俺に告白してきたな。
それがあって恥ずかしいのかと首をかしげたが、もう終わったことだと一成は認識している。
まあいいと、後ろから来た車を避けるようにさらに道の端に寄る。ダークグリーン色の可愛らしい軽自動車が歩行者に気をつけるように、スピードをゆるめて走行していく。
「少なくとも、桐枝にとっては俺の授業が下手くそじゃないとわかって安心した」
冗談めかして言うと、伝馬は自転車を押して歩きながら窺うように顔を上げる。一成を正視できないのか、若干視線を逸らしている。
一成は小さく笑うと、そんな伝馬から目を離して前を向く。自分のマンションまであと少しだ。そこで別れれば、伝馬はまた自転車に乗って行くだろう。早く帰らせてやりたい。
――あの人は、教え方が上手かった。
いつもの夕暮れの穏やかな風景。自分が高校生だった時と何ら変わらない。
一成は込み上げてきた苦々しい記憶の味を押し潰そうとするように、唇を硬く噛み締める。
――上手すぎて、騙されていることもわからなかった。
だから、俺は感染したんだ。
気持ちも――身体も……
「お、一成」
昼休憩時、図書室のドアを開けて入ると、テーブル席にいた七生が気づいて顔を上げた。背の高い男子生徒と文庫本を片手に話をしていたようで、一成が現れると、その生徒は「また来ます」と言って七生から文庫本を受け取り、一成と入れ違うように出て行った。
「なんだ、気にすることはないぞ」
一成は閉じられたナチュラルカラーのドアに向かって洩らす。今の生徒は自分が担任するクラスの子だ。鷹羽遼亜。バスケ部に所属している。物静かだが、大人しいわけではない。
「本の話をしていたんだ。ちょうど解釈が一致したところだから大丈夫」
七生は軽く手を振る。
「盛り上がって、つい話し込んじゃって。悪いことしたよ。お昼休みなのに」
と言いながらも、色気たっぷりの男振りがいい顔が隅々まで笑顔になっている。よほど嬉しいんだなと、親のような気持ちで一成は見守る。おそらく本好きモード全開で感想を喋りまくっていたのだろう。ただ遼亜がそんな七生の相手をするくらいに本を読むとは初めて知った。
「良かったな、七生」
「うん」
七生は少年のように頷く。
「この間の一成が羨ましくて。俺もそういうことをやって欲しいなって思っていたら、すごく本の趣味が合う生徒がいてね。結構図書室を利用してくれる子だったから、活字が好きなんだろうなとは思っていたんだ。確か一成のクラスの子だったかな」
「そうだ。そんなに図書室を利用しているとは知らなかった。本が好きなんだな」
「そうなんだよ」
饒舌に語る口調はとても熱い。
「その子が借りた本がミステリーで俺も面白かったから、なにげなく声をかけたら話が盛り上がったんだ。すごく楽しかったし、幸せだった。わかる? 一成? カクテルを飲みながら空を飛びたい俺の気持ちが」
「良かったな」
なぜカクテルを飲みながら空を飛びたいのかは理解できないが、気持ちが舞い上がっているのはよくわかった。下手なことは口が裂けても言えない。良かったなという言葉が一番ベターである。
一成はそっと周囲を見回す。図書室にはそれなりに生徒たちがいるが、みんな静かだ。自分と七生の会話が静寂な空間にノイズを発している。図書室は基本私語厳禁なので、図書室司書が率先してルールを破っているのは大変によろしくない。でも仕方がないだろうと高校時代からの友人は思う。オタクは推しを喋り始めたら止まらないのだから。
「そうだ、一成にもその本を勧めようと思っていたんだ。ちょうどあの子が返却してくれたから貸すよ」
七生は返却棚から文庫本を一冊持ってくる。
「ほら、深水先生の最新作だ」
一成は目の前に差し出された文庫本を黙って見つめる。表紙の一面は深くて暗い青色で統一され、脆く透明な色で『片想いの相聞歌』と端整に綴られている。まるで日も射さない深海の海中で文字が揺蕩っているような表紙のイメージだ。記されている人名もまた深海の奥底に沈んでいる。
「シリーズの新作だ。一成も読んでいただろう?」
「……そうだったな」
最初に七生から紹介されても読む気は起きなかったが、なぜか本のページをめくっていた。話自体はあまりよく覚えてはいない。
「面白いよね、このシリーズ。高校教師が事件を推理して解決するなんて、深水先生の願望だったのかな」
「さあな」
自分に差し出されたので、流れで一成は受け取った。七生の好意を無下にはできない。
「読み終わったら、また語ろうよ」
七生は気安く誘いながらも、両目は期待に満ち満ちて圧が凄い。一成は文庫本を片手に、内心の複雑な気持ちを押し隠して期待に応えた。
「読んだら返す。今忙しいから、すぐには無理だが」
「いいよ。楽しみにしている」
心底嬉しそうな七生をこれ以上刺激しないように、一成は図書室を去ろうとした。
「あれ、そういえば一成は図書室に何か用事があったわけ?」
ふと思いついたように七生は声をかける。しかし一成は「大した用じゃない」と伝えてドアを静かに閉めた。
まだ昼休憩時間なので、廊下には生徒たちがいて、何やら楽しそうにお喋りしている。それらを背にして職員室へ向かいながら、溜息が出そうになるのを堪える。
――まさかこの本を渡されるとはな。
文庫本なのに無性に重たく感じられる。まるで厚いハードカバーを持っているかのようだ。
――どうしようか……
七生との語る会は別に苦ではない。毎回七生が一人でディープに語りまくるので、自分は聞き役に回ってうんうんと相槌を打っている。それはいい。問題はそのためにこの本を読まなければならないことだ。
――既刊の二冊は目を通しはしたが……
どうして読もうと思ったのか自分でも理解できない。
――俺は……まだ知りたかったんだろうか……
一成は遮るように頭を少し振った。それ以上考えたくはなかった。
職員室へ戻ると、活気みなぎる喧しい声がドアを開けた瞬間に真正面からぶつかってきた。
「では君たち! 今から僕の言うことをよく聞いて!」
古矢が椅子から立ち上がって、スペシャルに盛り上がっている。
「まずは新呼吸だ! さあ吸って! 吐いて!!」
いきなり職員室でラジオ体操かとはた迷惑そうに眉をひそめた一成は、古矢の目の前で棒立ち状態になっている二人に三白眼を見開く。
「まずは君! 桐枝君! 次は君だ! 綾野君!」
名指しされた伝馬は見るからに呆気に取られていて微動だにしない。その戸惑ったような顔つきはどうすればよいかと真面目に逡巡しているようだ。もう一人名指しされた勇太は言われた通りに「吸って! 吐いて!」と腕をでっかく広げて、古矢に負けず劣らず元気いっぱいに深呼吸をしている。
「綾野君いいね!」
と、古矢も親指でグーッドと示しながら、周りの迷惑も顧みずにフルパワーで深呼吸の動作を繰り返している。
「……」
一成はドアを開けたまま、石のように立ち尽くした。一体いつからここで何をどうしてお前たちが深呼吸なんかやっているんだと、5W1Yが頭の中で炸裂して状況を把握するのに数秒かかった。しかし職員室にいる他の教師たちが努めて大人の態度で見過ごしている中、古矢の席の向かい側にいる理博がこの上なく不機嫌そうに睨みつけているのが視界に入った。その手には愛用の算盤が見えて、おもむろに机から浮き上がったのに気が付き、一成は我を取り戻して古矢たちの元にすっ飛んで行った。
「どうしたんだ、お前たち」
まず古矢は無視して、伝馬と勇太に話を聞く。
「あの、先生に用事があって……」
「シンコキューしていました!」
と、それぞれ説明する。
「お帰り一成! 待ちくたびれたよ!」
古矢は腰に両手をやり爽やかに出迎える。
「暇だから、一成が来るまでみんなで体操して待っていることにしたんだ!」
謎に胸を張る。
「――そうですか」
一成は懸命にボコボコに言い返したくなる気持ちを抑えて、また教え子二人に聞いた。
「そんなに待ったのか?」
「……あの、そんなには……」
「全然待ってないです!」
伝馬は言いにくそうに、勇太はあっけらかんと口にする。
「そうなんだ! だから深呼吸から始めたんだ!」
古矢は天真爛漫に言い添える。話が全然繋がっていないぞと一成は突っ込みたかったが、算盤を握りしめて口からシャーとヘビのように威嚇しそうな理博の表情が視界にちらついて鬱陶しい。古矢との会話は適当に打ち切って、改めて伝馬と勇太に向いた。
「で、用件は何だ」
「あ、えーと、この前のプリントなんですけれど」
「はい! 俺また忘れちゃって! すみません!」
勇太が明るく右手を上げる。
ああ、と一成は思い出した。提出期限が三日前のプリントだ。忘れたら今日までに出すよう伝えた。確か忘れたのは約一名。
「さっき思い出したんです! ゴハン食べたら気がついちゃって!」
「提出するのは明日でもいいですか?」
全く悪びれない勇太をフォローするように伝馬が話を進める。伝馬はきちんとプリントを出しているが、忘れてしまった勇太のために一緒に職員室まで来たのだろう。本当に仲が良いんだなと一成は感心した。おそらく自然体すぎる勇太を助けるために付いてきたに違いない。一成は自分の机に文庫本を置きながら、優しいなと思った。
「明日でもいいぞ」
「やったあ!」
両手で無邪気にバンザイする勇太に、伝馬が慌てて「勇太!」と声をかける。しかし当人には届いていない。
「忘れるなよ、綾野」
「はいはーい!!」
「返事は一度でいい」
一成は教師らしく注意するが、何だか小言を喰らわす喧し屋のような気分になってちょっと気が滅入った。「大丈夫! 元気なのは良いことだ!」と古矢が横から口を出してきたので、いい加減にその首を締めたくなった。
「話はそれだけか」
「――はい、ありがとうございます」
伝馬が小さく頭を下げる。お前がプリントを忘れたわけじゃないだろうと一成は苦笑いしながら椅子を引いて座った。伝馬につられて勇太も「すみませんでした!」と笑顔で言ってきたので、もう教室に戻れと二人に手を振った。
「あの、先生」
伝馬は一成の机の上をちらっと見た。何かが気になっている様子である。何だと一成は伝馬が見ている先を目で追う。
「この本がどうかしたのか」
図書室で借りた文庫本である。
伝馬は目線を下げて、じっと見つめている。
「興味があるのか」
どうしてそんなに凝視しているのかがわからない。
「先に読むか。貸すぞ」
ちょうどいい渡りに船だと思った。七生には悪いが、やはり読むのに気が乗らなかった。伝馬が読みたいのなら、七生には自分が説明して本の貸し出し人を変更すればいいだけの話だ。
「いえ、興味があるっていうか……」
伝馬はようやく目を上げて、一成を向いた。
「先生は、こういう本を読むんですか?」
まるでテストの正解を聞くような口調で真剣に聞いてくる。
「まあな。読みたくなったらな」
伝馬の言う「こういう本」の意味合いがよく掴めないが、本は読みたい時に読むのが一番没頭できると一成は考えている。だから今の気持ちでこの本を読むのは難しかった。
「俺も読んでみます」
伝馬は素早く言った。
「先生が読んだら、次に貸して下さい。お願いします」
だからお前が先に読めと一成は言いかけたが、強情そうに結ばれた口元を見てやめた。言い出したら頑固に聞かない伝馬の性格は、あの相談室での一件から一成の脳裏にがっつりと刻み込まれている。
「遅くなるが、それでもいいのか」
「大丈夫です」
伝馬は嬉しそうに表情を崩す。その隣で勇太も覗き込むようにして文庫本を見ているが、タイトルの意味でもわからないのか左右に首を振っている。
「先生、ところでこの本を書いた人は何て読むんですか?」
伝馬は文庫本の表紙の下に記されている作者名をきちんと読もうと目を細めている。「俺もわかんない!」と勇太も投げ出す。一成はふっと息をついた。俺も最初は読めなかったと思い出した。
「それは、ふかみ……」
「深水榮先生だ!!」
唐突に古矢が話に割り込んできた。
「僕と理博の日本史の先生だったんだよ!」
伝馬と勇太がシンクロしたように古矢へ顔を向ける。息の合ったビックリように古矢は満足げに続ける。
「今は作家なんだよ! すごいよね理博!」
突然話を振られた理博は算盤で左の手のひらをペタペタと叩きながら「五月蠅い」とごちたが、一年生二人が今度は理博にシンクロ行動したので、道徳的によろしくないと感じたのか算盤がピタリと止まった。
「お前がそんなに盛り上がることじゃない」
今までうるさかった腹いせとばかりに皮肉で古矢をブッ刺すと、自分に注目している二人にはため息で応じた。
「ここの教師だった方だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「そんなんじゃわからないだろう理博! 数学教師ならちゃんと方程式みたく教えないと!」
「何だと?」
理博の口の端が吊り上がった。神経過敏そうな目元がひくひくと引き攣り、頭のてっぺんから恐ろしい空気を立ち上がらせると、ゆらりと椅子から腰を上げる。忍耐が厳戒突破したようだ。
「お前たち、もう教室に戻れ」
嵐を察した一成は急いで二人へ両手を振る。
伝馬は不服そうに振り返った。だが一成は厳しい顔をして自分の言う通りにするよう促す。
「行こうよー伝馬。なんかヤバい」
まるで災害の前触れを感知したような口調で勇太は伝馬の背中を叩く。伝馬は教師たちのやり取りを聞きたそうであったが、勇太にも言われたので仕方なさそうに職員室を出て行った。ドアを閉める時にちらっと一成を見たが、一成は気に留めなかった。
「大体お前は五分二十一秒も遅れてきた! 私の人生の五分二十一秒が無駄になった!」
「そんな細かい数字を言っちゃダメだよ! 人生は無駄遣いしなきゃだよ! ね!」
「ね! じゃない! 遅刻を正当化するな! あの催しは大切だとあれ程念押しした私の苦労がお前の五分二十一秒で海の藻屑に!」
「あー! そうそう! 楽しかったね理博!」
と、自分の隣で向かい合って楽しく罵り合っている二人に若干の胸焼けを起こしながら、一成は机の引き出しからプリントの束を取り出した。勇太が忘れた代物である。もう一度氏名と枚数を確認しようと思った。
「お前のパッパラ頭でよく聞け古矢! あの催しはな!」
学年主任がいればさっさと注意指導してくれるだろうと我慢しながら、なるべく集中して作業する。
だがすぐに一成はプリントをめくる手を止めた。嫌でも耳から入ってくる内容に一瞬ぼう然となって、先輩教師の胸座を掴んで問いただしたくなるのをぐっと堪え続けた。
放課後、伝馬は颯天と連れ立って剣道部の道場へ行くと、聞いた覚えのある大声が出迎えた。
「おお!! 一年生たちではないか!! 真面目で感心感心!!」
白い空手着を着た宇佐美である。なぜか仁王立ちで更衣室のドアの前にいる。
「あれ……ここって空手部だっけ?」
颯天は天然にきょろきょろと見回して呟く。すると宇佐美は腰に両手をやって胸を張る。
「剣道部だ!! 間違ってはいないぞ!! 俺も間違ってはいない!!」
廊下中に咆哮が轟く。
颯天はヤバい物体に遭遇したように伝馬の腕を掴んで身を引く。伝馬も立ち往生した恰好で、どうしようかと宇佐美を仰ぎ見る。何でここにいるのかは不明だが、とりあえず中に入らないと部活ができない。
「あの」
と、落ち着いて声をかけた時、後ろから「宇佐美、何をやってんだ!」と複数の足音と共に麻樹たち三年生が現れた。
「待っていたぞ!!」
宇佐美はまるで果し合いでもするかのような口上で吠える。対して麻樹は足早に駆け寄って「アホ!」と応戦した。
「待ってんじゃねーよ! お前めちゃくちゃ邪魔だろうが!」
宇佐美の前で固まっている一年生二人の横に立って手で追い払う仕草をする。
「お前のせいで一年生たちが入れねーだろう」
「うむ!! それはすまなかった!!」
とか言いながら、宇佐美は筋肉が盛り上がった胸の前で両腕をがっしりと組む。
「上戸を待っていた!! 話がある!!」
「わかったから、どけろって」
麻樹は一向に動こうとしない宇佐美を両手で押し出しながら、伝馬と颯天に顎をしゃくる。
「お前ら、早く入れ」
「――はい」
二人は急いで空いた隙間にドアを開けて更衣室に入る。
「聞け!! 上戸!! 先程生徒会の会合があった!! 上戸と俺でやることが決まった!!!」
「はあ?! 何の話だ?!」
「なぜなら!! 俺と上戸は無二の親友だからだ!!!」
「意味わかんねーぞ!!」
先輩ズの会話が派手に飛びかうのを横目に、伝馬は更衣室のドアをびちっと閉めた。
「あー、びっくりした。もうヤバいって」
颯天は怪奇現象にでも遭ったかのようなビビり方をする。
「何なんだよ、あの先輩。ちょーヤバいじゃんか」
「うん、びっくりしたな」
伝馬は相槌を打ちながらも、おかしそうに表情をゆるめる。とても個性的な先輩だが、上戸先輩とは本当に仲が良いのだと感じられた。二人の会話が成り立っていないような会話が、どことなく勇太と自分との会話にダブった。
「桐枝って、ヤバいよな」
颯天が感心した口調でロッカーを開ける。
伝馬は詰襟の上着を脱ぎながら、どの「ヤバい」なのか考える。颯天は全て「ヤバい」の一言を駆使して毎日暮らしている。
「全然、落ち着いているよな。ヤバいよ。俺はもう無理」
「俺だってびっくりしているって。でもあまり顔に出ないんだと思う」
前に勇太や圭に言われたような気がする。伝馬はぼやきたくなる。だから今自分が落ち込んでいるのもわかってもらえない。いや、わかってもらいたいわけではないが。
――俺って、馬鹿なんだな。
最近の伝馬のトレンドである。オレッテ、バカナンダナ……
この間のことが胸の中で黒いしこりとなっている。そのしこりの名前は憂鬱だ。
――先生と一緒に帰れたのは嬉しいけれど。
下校途中で偶然一成を見つけて、思い切って声をかけた。帰る方向が同じだったので、少しの間だったが一成と二人っきりになれた。伝馬は舞い上がっていたが、まっすぐに伸びている一成の背中を見つめながら、気になっていることを聞こうかという気持ちが湧いてきた。胸内で重たくなった曇り空が夕暮れ時の景色と染まりあって、背中を後押しした。
いざ切り出してみた。「聞きたいことがあるんです、先生」だが一成が怪訝そうに顔をかしげたのが目に映ると、伝馬は言葉に詰まった。「先生は、恋の話とか、好きじゃないんですか?」まさしく猪突猛進に聞こうとして、急いで呑み込んだ。
――圭に言われたのは、そういうところだよな……
伝馬も怪我をするよというありがたい助言を思い出して踏みとどまった。しかし何かを言わなければ不審がられるだろう。とっさに浮かんだことを口にした。伝馬的にはこれで変に思われずに済んだとホッとしたが、家に帰ってから、逆にどうしてあんなことを聞いたんだろうという後悔の沼に頭のてっぺんまでどっぷりと漬かってしまった。
――どうして教師になったんですかなんて、すごい馬鹿なこと聞いたよな……圭が知ったら呆れるだろうし、勇太も……
いや勇太は何とも思わないだろうなと考えつつ、ため息が出そうになるのを何とか踏ん張る。昼休憩時に一成が読んだ本を貸してくれる約束をしただけで、ちょっとだけ気持ちも浮上した。
「まだ喋っているってヤバくね?」
颯天がドアへ視線を投げる。他の一年生や二年生、三年生たちも更衣室に集まって着替えていて賑やかだ。だが肝心の主将は現れない。ドアを閉めていても廊下の騒々しい空気が更衣室まで伝わってくる。
「上戸先輩も大変そう」
「大変だけど、大丈夫じゃないか」
何だかんだ言って仲良さそうだしと口にすると、颯天はちょっとだけ考えるように白い天井を見て「ヤバい」と呟いた。
道着に着替えた順に道場へ向かう。更衣室を出る度に廊下の声が筒抜けだが、みんな俯きながら通り過ぎる。一年生たちも固まって向かおうとした。
最後に伝馬が更衣室を出ようとして、一応室内を見回したら窓が開いていた。颯天たちには先に行くように伝えて、窓辺に近づき窓を閉めて鍵をかける。以前に窓を開けっぱなしにしていたら、生徒が窓から入ってきたというアニメのような話を聞かされた。その生徒は友達と冗談半分でやった行為のようだが、顧問の雷太に見つかり説教。担任からも説教。学年主任からも説教。もちろん両親からも大説教。一生分の説教を一日で喰らったそうだが、当人は全くノーダメージだったそうだ。ということを麻樹が話してくれたので、麻樹と同じ三年生なのかなと伝馬は推測したりしたが、その話の趣旨は誰もいない時は窓に鍵をかけましょうということなので、それを実行した。
「アホか!」
荒っぽく更衣室のドアが開いて、麻樹が入ってきた。
「俺は宇佐美の母親じゃないっつうの! 宇佐美を体育委員長にしたのは藤島だろうが! 藤島が責任もって宇佐美とやれって!」
全部の窓を閉めて鍵をかけてから、伝馬は振り向く。麻樹は自分のロッカーを開けて黒いバックパックを肩からずり下ろすと、頭に右手をやってハーっと疲れたような息を洩らした
「上戸先輩」
伝馬が声をかけると、え? というように顔を上げて振り向く。人がいることに気づかなかったようだ。
「桐枝? どうした?」
真新しい入部生たちの名前はしっかりと覚えた主将である。伝馬は安心して近づく。
「窓を閉めていました。最後にこの部屋を出るのは自分だったんで」
「なんだ、まだ俺がいるから大丈夫だぞ」
麻樹は表情を崩して笑う。
「本当は先輩の連中がちゃんと確認しなきゃいけないんだ。桐枝はまだ新入生だし、そんなに気を使うことない」
「あ、はい」
麻樹も気遣ってくれているのがわかる。
「桐枝はいつも周りに気を配っているよな。世話焼きっていうか。すげえなって思う。たまには面倒臭がってもいいんだぞ」
部を率いる主将らしく周囲を細かく見ているようだ。くだけた調子ながらも伝馬のことを考えてくれているのが伝わってきて、伝馬は少しだけ俯いた。なんとなく気恥ずかしい。そんなに周りの面倒を見てはいないと思うが、麻樹にはそう見えるのだ。
――上戸先輩こそ気を使ってくれているよな。俺たち一年生にも。
ちょっとほんわかした。
麻樹は手早く制服を脱いで藍色の道着と袴に着替える。手慣れた動きで身だしなみを整えると、伝馬を振り返った。
「さ、行くぞ」
伝馬も「はい」と返事をしてついて行こうとした。だが胸の中の黒いしこりがざわざわした。
――聞いてみようかな。
思い切って。
――誰もいないし。
こんな場面はあまりない。
更衣室を出ていこうとする麻樹を、伝馬は息を呑んで窺う。変に思われたらどうしよう。でもいいか。俺が気になっているんだから。いや気になっていても聞いたら駄目だ。もっとよく考えてから。でも――ハムスターが動かす回し車のように思考回路がクルクルと回転して、さらにコロコロと回転して、まだまだ大回転していく。
「どうした、桐枝」
ドアノブに手をかけて、麻樹は動こうとしない伝馬を振り返る。
「具合でも悪いのか」
心配そうに言葉をかけられて、回し車はぴたっと止まった。
「上戸先輩」
伝馬は思い切ったように前に進み出る。
「あの、聞きたいことがあるんですけれど」
「何だ? どうした?」
麻樹は振り返ったまま、気軽に聞き返す。
「あの」
と、伝馬は何て言おうかと少しまごついた。すると麻樹が先回りして言った。
「二階堂先生なら、風邪を引いて今日は休みだ。だから遅れて行っても大丈夫だぞ」
おそらく伝馬の態度から予想して気を回したのだろうが、伝馬は申し訳なさそうに目線を下げる。
「いえ、あの……部活のことじゃないんですけれど」
「え?……あ、そうか」
麻樹は何かが閃いたというように、闊達そうな顔立ちを引き締める。
「宇佐美のことか。あいつにはマジでびっくりするよな。一年生はほぼ初めてだろうけれど、びっくりするのが普通だから。でも変な奴じゃないから。ただ声がデカいだけだから。意味不明なところもあるけれど、いい奴だから」
突っ込み入れながら真剣にフォローする麻樹である。上戸先輩がいい人なんだなと伝馬は改めて安心した。
「すみません、先輩。俺が聞きたいのは……副島先生のことなんです」
「副島先生?」
麻樹は鸚鵡返しに言う。
「そういや、桐枝の担任だっけ」
「はい」
伝馬は緊張してきて唾を呑み込む。うだうだと悩んでいい加減に疲れた。
――もうどう思われてもいいから聞こう。
俺はそういう奴なんだと半分開き直った。
「副島先生がどうかしたのか?」
麻樹はドアノブから手を離して伝馬に向き直る。ちょっとだけ顔色が難しくなった。
「さっき先輩が言っていた空手部の先輩と喋っていた時に、副島先生のことを話していたのが聞こえてきて」
麻樹は思い出そうとするように頭をかしげる。
「俺たち何か喋っていたっけ?」
「すみません、ほんとに聞こえてきて」
何度もすみませんを繰り返しながら、伝馬はお腹に力を込めた。
「この間、空手部の先輩が副島先生にも話したって聞いて」
「あいつの声、普通じゃないもんな。聞きたくなくても聞こえてくるよな」
伝馬の言いにくさを思いやるように麻樹は頷くと、思い出したという表情になって、ちらっと伝馬に視線を投げた。
「副島先生のことか」
「はい」
伝馬は息をつめる。意味ありげな視線が怖かった。
麻樹は少々考えるように胸のあたりで両腕をゆるく組む。
「桐枝、ちょっと聞くけど」
また視線を投げる。
「どうして副島先生のことを聞きたいんだ? 担任だから?」
その用心深い言い方に、伝馬の心臓の鼓動がマックスまで跳ね上がる。何? 副島先生に何があるんだ?
「あの、実は」
気持ちがどうしようもなく取り乱れて、もうぶっちゃけることにした。
「俺、副島先生に告白したんです!」
「……」
麻樹はパソコンがフリーズしたように数秒間腕を組んだ状態で固まった。それから両目がぱちぱちと瞬きし、身体の起動動作が回復すると、おもむろに前のめりになってゲホゲホッと咳き込んだ。
「……こ、告白?」
声がひっくり返っている。
「桐枝、先生に告白したのか! マジか!」
そのまま腰を抜かしそうになる。吃驚仰天という言葉を体現するのに相応しい剣道部主将のリアクションである。
伝馬はさすがに恥ずかしくなって顔中が火照った。言わなきゃ良かった。しかし頑張って前進した。
「そうです。だから俺」
喉も熱くなる。声がかすれそうになったが、大きく深呼吸をして精いっぱい吐き出した。
「俺、副島先生のことを知りたいんです。できる限り」
そうだと、伝馬は強く肯定した。俺は知りたいんだ。副島先生のことをたくさん知りたいんだ。とにかく知って知って知って。そして、もう一度――
麻樹はまだ驚きの余韻冷めやらぬようだったが、これ以上ないくらい真面目な顔つきの伝馬を前に静かに口をつぐんだ。その両目は気遣うような労わるような温かいもので、新入部員の後輩を見つめる先輩としては本当に優しかった。
「よし」
ほどなく、麻樹は腹が据わったような一声を出した。
伝馬は緊張で顔を強張らせながら麻樹を見上げる。
と、その瞬間、更衣室のドアがド派手に開いた。
「上戸!! 居るのはわかっている!! さあ俺の話を聞け!!!」
ビッグな声と共に両腕を広げた宇佐美が、空手着姿でダイナミックに登場する。その背後には同じ出で立ちの生徒が数人わらわらといて「主将! 早く戻って来て下さい!」「副主将がマジ切れしてるんです!」とギャグマンガのように宇佐美へ口々に訴えていたが、肝心の主将もまたギャグマンガのお約束よろしく聞いていない。
麻樹は表情を変えずに後ろを向いた。意気軒高に立つ友人を冷静に見て「宇佐美」と真顔で言う。
「俺とお前は、無二の親友だよな」
「無論だ!! 俺に二言はない!!」
「だよな。なら、更衣室のドアの前に立って、部屋に誰も入れないようにしてくれ。やれるよな?」
「無論だ!! 俺にできないことはない!!!」
宇佐美は全人類の耳の鼓膜に届けと言わんばかりのデカ声で力強く了承すると、ド派手にドアを閉めた。廊下からぎゃあぎゃあと騒ぐ会話が聞こえてきたが「俺は無二の親友との約束を守らねばならん!! それが俺の使命だと財前に伝えるがいい!!」との宇佐美のどや顔宣言で空手部員たちは絶句したらしく鎮静化した。