「何だ、桐枝」
やはり保健室での一件を忘れていなかったのかと一成は身構えたが、生真面目そうな口元から出てきた言葉は予想外のことだった。
「先生は……どうして教師になったんですか?」
伝馬は言い淀むようにいったん言葉を切るが、すぐに続ける。
「どうして、日本史なんですか?」
一成は小さく目を見開く。シルバーのハイエースが忙しそうに通って行き、一成はさらに車道の端に寄って後ろにいる伝馬に話しかける。
「どうしてそんなことを聞くんだ」
何となくだが予想はつく。教師になってから数年、度々同じことを生徒たちから質問されてきた。
「……いえ、あの」
伝馬は言葉を濁して俯く。どうも何と言おうかと悩んでいる様子で、言葉を探すように下を向いている視線が彷徨っている。
一成は忍び笑いする。
「不思議なのか? 俺が日本史の教師をしているのが」
そのことを質問する時、なぜかみんな目の前の伝馬と同じ態度になる。そんなに聞きにくいことなのかなと毎回疑問に思う一成である。
「あ……そう、そうです」
伝馬は顔を上げて、溺れていた海で浮き輪を投げ入れられたようにホッとしたような表情を浮かべる。
「不思議というか……副島先生に似合わない感じで」
「――そうか」
一成は粛々と頷いた。本当に言葉を選ばない直球な奴だと呆れながらも感心した。今までに「センセー、どうしてセンセ―はセンセ―になったんですかー?」というユルユル系から「先生が教職を目指した理由をお聞きしたいんです。聞くまでここを動きません」というガンコイッテツ系まで色々といたが、伝馬のように似合わないとぶっちゃけた生徒はいなかった。だが態度や言葉でオブラートに包みながらも、なぜ自分が教職を選んだのかを質問してくるのは、結局そういうことなんだろうと感じていた。
それにしてもと、一成は歩きながら指先で顎のあたりを撫でる。そんなに俺は教師のイメージじゃないのか?
「先生、副島先生」
背後から伝馬が必死に呼ぶ。一般的な教師の理想像をあれこれ考えていた一成は、うんと振り返る。
「あの、変なことを聞いてすみません! やっぱりいいです!」
ハンドルを握りながら前のめりで頭を下げる。一成は笑い飛ばした。
「謝らなくていいぞ、桐枝。みんな俺に同じことを聞いてくるから」
素直で真面目な奴だと改めて思った。いい傾向だ。
恐る恐る伝馬は顔を上げる。
「そうなんですか」
「そうだ。よほど気になるんだな」
一成は明るく返す。伝馬が気に病まないように、何てことのない他愛のない話だという雰囲気をつくる。
「俺が教師になったのは、いい先生方に恵まれたからだな。だから俺も教師になろうと思った」
さらっと口に出せた。自然体だ。よしと、一成は波の間を泳いでいるように息継ぎをする。
「日本史を選んだのは、勉強してみると案外楽しかったからだ。歴史というのは、人の物語なんだ。小難しい言葉が並んだ教科書じゃない。それを教えたかった」
そう真から思えたのは自分にとって良かった。一成は歩きながら薄暗くなってきた辺りの色合いを目の中に溜めて、前を見据える。
「まだ俺の教え方は下手くそだが、何か一つの物事に興味を持ってもらえたら、それをきっかけに歴史を勉強してくれるかもしれない。期待しているんだ」
と、日本史の教師らしい願望を吐き出しながらも、今日の授業が頭の中でプレイバックされて背中がナナメになりそうだった。
「先生は、下手くそじゃないです」
間髪を入れず、伝馬は訴える。
「下手くそだったら、俺は先生に勧められた本を読んでいないです」
「お前は優しい奴だな、桐枝」
おためごかしではなく、本気で思っているのが伝わってきて、一成は肩の力がぬけたような和らいだ笑顔を振り返って見せる。
「……」
伝馬は真顔で数回瞬きをすると、肩を上げてまっすぐに下を向く。少しだけ耳が赤くなっている。
いきなりどうしたと一成は訝るが、恥ずかしいのかと思った。だが何が恥ずかしいのかわからない。
――桐枝は俺に告白してきたな。
それがあって恥ずかしいのかと首をかしげたが、もう終わったことだと一成は認識している。
まあいいと、後ろから来た車を避けるようにさらに道の端に寄る。ダークグリーン色の可愛らしい軽自動車が歩行者に気をつけるように、スピードをゆるめて走行していく。
「少なくとも、桐枝にとっては俺の授業が下手くそじゃないとわかって安心した」
冗談めかして言うと、伝馬は自転車を押して歩きながら窺うように顔を上げる。一成を正視できないのか、若干視線を逸らしている。
一成は小さく笑うと、そんな伝馬から目を離して前を向く。自分のマンションまであと少しだ。そこで別れれば、伝馬はまた自転車に乗って行くだろう。早く帰らせてやりたい。
――あの人は、教え方が上手かった。
いつもの夕暮れの穏やかな風景。自分が高校生だった時と何ら変わらない。
一成は込み上げてきた苦々しい記憶の味を押し潰そうとするように、唇を硬く噛み締める。
――上手すぎて、騙されていることもわからなかった。
だから、俺は感染したんだ。
気持ちも――身体も……
やはり保健室での一件を忘れていなかったのかと一成は身構えたが、生真面目そうな口元から出てきた言葉は予想外のことだった。
「先生は……どうして教師になったんですか?」
伝馬は言い淀むようにいったん言葉を切るが、すぐに続ける。
「どうして、日本史なんですか?」
一成は小さく目を見開く。シルバーのハイエースが忙しそうに通って行き、一成はさらに車道の端に寄って後ろにいる伝馬に話しかける。
「どうしてそんなことを聞くんだ」
何となくだが予想はつく。教師になってから数年、度々同じことを生徒たちから質問されてきた。
「……いえ、あの」
伝馬は言葉を濁して俯く。どうも何と言おうかと悩んでいる様子で、言葉を探すように下を向いている視線が彷徨っている。
一成は忍び笑いする。
「不思議なのか? 俺が日本史の教師をしているのが」
そのことを質問する時、なぜかみんな目の前の伝馬と同じ態度になる。そんなに聞きにくいことなのかなと毎回疑問に思う一成である。
「あ……そう、そうです」
伝馬は顔を上げて、溺れていた海で浮き輪を投げ入れられたようにホッとしたような表情を浮かべる。
「不思議というか……副島先生に似合わない感じで」
「――そうか」
一成は粛々と頷いた。本当に言葉を選ばない直球な奴だと呆れながらも感心した。今までに「センセー、どうしてセンセ―はセンセ―になったんですかー?」というユルユル系から「先生が教職を目指した理由をお聞きしたいんです。聞くまでここを動きません」というガンコイッテツ系まで色々といたが、伝馬のように似合わないとぶっちゃけた生徒はいなかった。だが態度や言葉でオブラートに包みながらも、なぜ自分が教職を選んだのかを質問してくるのは、結局そういうことなんだろうと感じていた。
それにしてもと、一成は歩きながら指先で顎のあたりを撫でる。そんなに俺は教師のイメージじゃないのか?
「先生、副島先生」
背後から伝馬が必死に呼ぶ。一般的な教師の理想像をあれこれ考えていた一成は、うんと振り返る。
「あの、変なことを聞いてすみません! やっぱりいいです!」
ハンドルを握りながら前のめりで頭を下げる。一成は笑い飛ばした。
「謝らなくていいぞ、桐枝。みんな俺に同じことを聞いてくるから」
素直で真面目な奴だと改めて思った。いい傾向だ。
恐る恐る伝馬は顔を上げる。
「そうなんですか」
「そうだ。よほど気になるんだな」
一成は明るく返す。伝馬が気に病まないように、何てことのない他愛のない話だという雰囲気をつくる。
「俺が教師になったのは、いい先生方に恵まれたからだな。だから俺も教師になろうと思った」
さらっと口に出せた。自然体だ。よしと、一成は波の間を泳いでいるように息継ぎをする。
「日本史を選んだのは、勉強してみると案外楽しかったからだ。歴史というのは、人の物語なんだ。小難しい言葉が並んだ教科書じゃない。それを教えたかった」
そう真から思えたのは自分にとって良かった。一成は歩きながら薄暗くなってきた辺りの色合いを目の中に溜めて、前を見据える。
「まだ俺の教え方は下手くそだが、何か一つの物事に興味を持ってもらえたら、それをきっかけに歴史を勉強してくれるかもしれない。期待しているんだ」
と、日本史の教師らしい願望を吐き出しながらも、今日の授業が頭の中でプレイバックされて背中がナナメになりそうだった。
「先生は、下手くそじゃないです」
間髪を入れず、伝馬は訴える。
「下手くそだったら、俺は先生に勧められた本を読んでいないです」
「お前は優しい奴だな、桐枝」
おためごかしではなく、本気で思っているのが伝わってきて、一成は肩の力がぬけたような和らいだ笑顔を振り返って見せる。
「……」
伝馬は真顔で数回瞬きをすると、肩を上げてまっすぐに下を向く。少しだけ耳が赤くなっている。
いきなりどうしたと一成は訝るが、恥ずかしいのかと思った。だが何が恥ずかしいのかわからない。
――桐枝は俺に告白してきたな。
それがあって恥ずかしいのかと首をかしげたが、もう終わったことだと一成は認識している。
まあいいと、後ろから来た車を避けるようにさらに道の端に寄る。ダークグリーン色の可愛らしい軽自動車が歩行者に気をつけるように、スピードをゆるめて走行していく。
「少なくとも、桐枝にとっては俺の授業が下手くそじゃないとわかって安心した」
冗談めかして言うと、伝馬は自転車を押して歩きながら窺うように顔を上げる。一成を正視できないのか、若干視線を逸らしている。
一成は小さく笑うと、そんな伝馬から目を離して前を向く。自分のマンションまであと少しだ。そこで別れれば、伝馬はまた自転車に乗って行くだろう。早く帰らせてやりたい。
――あの人は、教え方が上手かった。
いつもの夕暮れの穏やかな風景。自分が高校生だった時と何ら変わらない。
一成は込み上げてきた苦々しい記憶の味を押し潰そうとするように、唇を硬く噛み締める。
――上手すぎて、騙されていることもわからなかった。
だから、俺は感染したんだ。
気持ちも――身体も……