――まあ、歩いて帰るのも悪くはない。

 十字路で右に曲がる。自宅マンションまでは徒歩で三〇分くらいである。代車は借りなかったが、愛車の点検内容によっては日数がかかるかもしれない。その時はディーラーから借りることにして、試しにマンションまで歩いているが、特に大変だとは感じない。肉体的に疲労していたら、自分の足で帰るのは億劫(おっくう)かもしれないが、学園に比較的近いマンションを住居にしたのであともうちょっとで着く。自宅と学校の往復だけならば、たまには歩いてもいいだろうと思った。

 ――着いたらシャワーを浴びるか。

 夕暮れの生ぬるい風に吹かれながら帰るのは、中々気分がいい。仕事終わりの解放感もあって、一成はすっかり(くつろ)いだ足取りで車に気つけながら向かっていると、突然後方で気配を感じた。自転車かと思って道を譲ろうと脇に避けながら肩越しに振り返ると、やはり自転車が近づいてきていてブレーキをかけて止まった。

「先生!」

 乗っていたのは伝馬だった。

 一成は驚いて足を止める。

「どうした、桐枝」

 プライベートモードから担任スタンスへと意識が切り替わる。どうしてここにいるんだと(いぶか)ったが、伝馬は制服姿だったので学校から帰るところなのだと理解した。

「部活の帰りか」
「はい」

 伝馬は自転車を下りると、通行の(さまた)げにならないように(はじ)に寄せる。

「先生の後ろ姿を見かけて……」

 少しはにかむように語尾が消える。

「通学路なのか?」

 自分の後ろ姿を見かけたから声をかけた。まるでどこかのドラマのようなシチュエーションに一成は口元をほころばせる。

「はい」

 伝馬は一成の目を見て返事をする。

「歩いている先生を見たのは初めてなんです」

 俺も桐枝と遭遇(そうぐう)したのは初めてだ、と一成は言いかけて苦笑いした。遭遇って何だ。不意打ちを喰らったような言い方だ。

「俺は普段は車通勤だからな。今日は歩いて帰る羽目になったが」

 すると伝馬の表情から嬉しそうだった色合いが、拭い取られたように消えた。

「あの……何かあったんですか?」

 一転して硬い声に、一成がびっくりして伝馬を見つめ返す。

「いや、ただ車が不調なだけだ。エンジンがかからないから歩いて帰っている」

 逆に心配になった。どうして桐枝がそんな深刻になるんだ?

「あ……そうですか」

 見る間に強張っていた頬から力が抜けて、安心したように柔らかくなった。

「俺、変に心配しちゃって」

 伝馬は右手で気恥ずかしそうに髪を後ろへ撫でる。

「すみませんでした」
「いや、心配して声をかけてくれたんだな、桐枝」

 一成はいたわるように優しい表情を浮かべる。突然伝馬が現れたのには驚いたが、自分のことを心配してくれたのは素直にじわっときた。

 ――本当に直球な奴だな。

 だが全く不愉快ではなかった。

「家は近くなのか?」

 歩くぞと、軽く手を振る。この場で立ち止まっていると往来の邪魔だ。

「え? あ、いえ」

 伝馬は両手でハンドルを握り、自転車を押して一成の後に続く。

「まだちょっと遠いです」
「なら、俺のことはいいから早く行け。早く帰って休め。家族も待っているぞ」

 一成は振り返りながら促す。自分に気を使う必要はないぞという一成の気遣いだが、伝馬は自転車を押して行く。

「歩いて帰っても俺は平気です」
「お前は平気でも、遅くなったら家族が心配する。いいから先に行け」

 あくまでも担任としての心配りなのだが、伝馬の返事はひどくぶっきらぼうだった。

「俺が一緒にいると迷惑ですか?」

 えっ? と一成は背後を振り返る。自分の後ろから付いてくる伝馬は生真面目な顔つきになっていて、射貫くような眼差しを向けている。

 ――直球すぎるな……

 自分へ告白した時やガンをつけてきた時の態度そのものである。不愉快ではないが、伝馬の気持ちを相手にするには今日の一成は疲れていた。

「そうじゃない」

 ちゃんと口に出して否定しておくのが大切だ。だが仕方がない奴だと胸内ではため息を吐く。義務教育が終わってもまだ大人ではない。大人の態度を求めてはいけない。

「教え子と一緒に帰るのは迷惑じゃない。いい機会だから、この間のテストの話をするか」
「えっ?」

 今度は伝馬が意外そうに聞き返す。

「テスト、ですか?」
「そうだ。桐枝は悪くない点数だったな」

 悪くはないどころか、日本史のテストはクラス内でも三番目に良い点数だった。一位は学級委員長だ。

「万葉集を読んだから、いい調子で勉強できたか」

 一成は歩く速度を変えずに、後ろをちらりと振り返る。自転車を押して歩く伝馬と並んでは通行の邪魔だ。伝馬もその辺は考慮しているのか、無理に隣へ来ない。

「そうかもしれません……どうなんだろう」

 伝馬は真剣に首をかしげている。

「俺、真面目に読んだつもりなんですけれど、もうあまり覚えていなくて……」
「ああ、それが普通だ。俺も最初に読んだ時は、きつくて目が泳いだ」

 一成は昔を思い出して笑う。同時に保健室での出来事も湧いてきて「そんな相聞歌(そうもんか)なんかぶっ潰してやる!」と叫んだ当人は、万葉集共々そのことも忘れてしまっているのかもしれない。それならいいと一成は安心した。

「あの……」

 一成は肩越しに振り向く。ちょうどその横を自転車の買い物カゴに緑色のエコバックを入れた女性が、よいしょよいしょとペダルを踏んで通り過ぎていく。そのすぐ後ろをホワイト色の軽自動車が速度を落として走っていく。

「聞きたいことがあるんです、先生」

 伝馬は妙に神妙な面持ちだった。