小四のとき事故に遭ったことも。その際に受けたショックによって奇病を患ったことも。記憶を失ったことも。
そして、記憶を取り戻した場合──サヤカたちとの過去を思い出したら──僕は死ぬかもしれないということも。
相槌を打ちながら、ときに首を大きく振りながら、ユウトは僕の話に耳を傾ける。顔を真っ赤にし、目を潤わせ、肩を震わせた。
これほど悲痛に満ちたユウトの顔を、僕はこれまでに見たことがあっただろうか。
僕は、無理にでも空笑いしてみせる。
「心配ないよ。僕はこんなに元気なんだ。たまに頭痛がするけど、あとは健康。それに、まだ病院で先生から直接話を聞いたわけじゃない。もしかしたら僕が奇病に罹ってるなんて、なにかの間違いかもしれないし」
この期に及んで、僕は「願望」を言葉にして連ねた。
自分で言っていて、虚しくなる。こんなの、現実逃避にすぎない。
ユウトはそれを許してはくれなかった。
「そんな都合のいい話があるわけねえだろ。いまからでも、サヤカちゃんを忘れろよ」
「……そんなの、無理だよ」
「無理でも忘れるんだ! お前、思い出と自分の命、どっちが大事なんだよ!?」
「それは……決まってる。死ぬのは、嫌だよ……」
「だったら、これ以上サヤカちゃんと関わるのをやめろ!」
ものすごい圧で、ユウトは詰め寄ってくる。目が血走っていて、見るからに冷静じゃない。
「関わるのをやめろって、そんなの無茶だ。同じクラスなのに」
「話しかけられたら無視しろよ! とにかく距離を置け!」
「ユウト、お前自分がなにを言ってるかわかってるのか?」
「わかってる。わかってるよ……無理を言ってるのも。でもさ……」
ユウトは一度深く息を吐いた。
「実は俺、サヤカちゃんから聞いてたんだ。事故のことも、奇病のことも」
「……サヤカから?」
「食堂で初めて会ったあと、俺が問いつめたんだよ。あんた誰なんだって。最初はなにも教えてくれなかった。わざと話を逸らされるから、ますます怪しいと思って。だから、お前の姉ちゃんに聞いたんだ。サヤカちゃんを知ってるかって。コハルちゃんなら、引っ越してくる前のショウジの友人関係もなにか知ってると思って」
「……コハルに、わざわざ聞いたのか。というかユウト。コハルの連絡先知ってたのか?」
「いや、知らねえよ。俺の吹部の先輩で、コハルちゃんを知ってる人がいてさ。コンタクト取ってもらったんだ。吹部って縦の繋がりも結構あるからな」
ユウト……いつの間にそんなことを。
「……で? コハルからなにを聞いたんだ」
「あんまり詳しい話はしてくれなかった。けど……これだけは教えてもらった。サヤカちゃんを東高校に呼んだのはコハルちゃんだって。そう言ってた」
初めて聞く話に、僕は目を開く。いつもはお調子者のはずのユウトが、こんなにも真剣に語るのなんて珍しい。
「コハルちゃんから話を聞いて、サヤカちゃんは本当にショウジの幼なじみなんだって、信じるしかなくなった。わざわざお前の姉ちゃんが嘘つく理由もないし、話しかたでガチなんだって思った。だから、俺はもう一度サヤカちゃんに問いつめたんだ。コハルちゃんにまでショウジの進学先を聞き出したりして、どういうつもりなんだって。俺がしつこくしたら、サヤカちゃん、やっと話してくれてさ……。ショウジが小学生の頃に事故に遭って、奇病に罹ったんだって。忘れた過去を思い出すと、死ぬ可能性があることも教えてくれた」
そこで、ユウトの声が震えた。
「俺、それを知って許せなかったんだよ。過去を思い出すとショウジが死ぬかもしれないのに、なんでサヤカちゃんはショウジに近づくんだって。あいつを殺したいのか?って、結構強めの言葉で責めちまった……」
「え……」
ユウトが、サヤカに怒ったのか……?
ハッとした。サヤカが土曜日のコンサートを突然キャンセルした理由は──もしかして、母に言われただけでなく、ユウトにも責められたからなのか。
「サヤカちゃん、すげえ謝ってた。何度も何度もごめんなさいって。わがままでごめんなさいって涙を浮かべながらさ……。俺、冷たい奴だから、泣けば済む話じゃないってそのときは思ったよ」
「ユウト……」
「けどさ、あんなこと言われちまったら、俺もサヤカちゃんを責められなくて。サヤカちゃんも……奇病なんだろ? 後悔のないように生きたいからって泣かれてさ。あんな風に言われたら、怒れなくなった。サヤカちゃんが迷っているのが伝わってきたから……」
「ユウト。やめてくれ」
サヤカは、ユウトに自身の病について打ち明けた。僕には話していないことを、他の人には話している。事情があったのだと理解しているはずなのに、僕の中によくわからない感情が湧き出てしまった。
僕だけじゃないか。なにも知らなかったのは……。
人伝に真実を知っていくのがみじめで。サヤカになにも教えてもらえなかったことが受け入れがたくて。
サヤカにとって僕はなんなんだろう。
「悪いな、ショウジ。これだけは言わせてくれ。俺、お前のお母さんの気持ちもわかるんだよ。サヤカちゃんの話をするたびに態度がおかしくなったんだろ? おばさんも、きっとサヤカちゃんと関わることでショウジの記憶が戻るのが怖かったんだと思うぞ。俺だって、同じ気持ちだから」
「そんな……ユウトまで……」
僕だって、死ぬのは怖い。
ユウトも母さんも、僕のためにサヤカと関わるなと忠告してくれているのもわかってる。
だけど……だからといって、サヤカと疎遠になるなんて、納得いかない。
サヤカはきっと悩んだはずだ。悩んだ末に僕と再会することを選んでくれた。彼女の選択は間違っていたのかもしれない。だけど、サヤカが会いにきてくれなければ、僕はなにも知らずにのうのうと生きていただろう。
サヤカだけ、僕を覚えたまま死を待つことになっていたのだろう。
そんなの、考えただけで悲しい。
「他に、方法はないのか……」
僕は、わがままだ。
「サヤカと離れるなんて嫌だ。どうにかできないのか」
彼女と同じくらい、僕はわがままだ。
これ以上過去を思い出さなくてもいい。忘れてもいい。思い出を捨ててでも、彼女のそばにいたい。
ユウトは、最後の最後まで僕の身を案じていた。心配してくれるのはすごくありがたいし、そこまで思っていてくれてるのは素直に嬉しい。
でも──僕は、決断できずにいる。
放課後になり、僕は誰よりも早く学校をあとにした。
サヤカに会いたい。ひと目でいいから、とにかく会いたかった。
電車に乗り込み、家の最寄り駅を降り、彼女のアパートへ向かった。
今日は一日中、彼女からのメッセージはきていない。本当に体調が悪いのかも。最悪の事態にだけはなっていてほしくないと願った。
無我夢中で帰り道をたどり、アパートの前に行き着いた。
急いだせいで、息が上がってしまった。呼吸を整える間もなく、僕はエントランスのインターフォンでサヤカの部屋番号を呼び出した。
しかし、応答はない。インターフォンの呼び出し音が、数回虚しく響くだけ。
留守か? まさか、本当に倒れているわけじゃないよな?
スマートフォンを手に取り、サヤカの連絡先を表示し、電話をかけてみた。けれど、やっぱり反応はなかった。
どうしたらいいんだろう……
エントランス前からアパートを見上げる。彼女の部屋のベランダを確認してみるが、洗濯物は干されておらず、カーテンも閉まっていて中の様子もわからない。在宅中なのかも確認できなかった。
「……って。なにやってんだ、僕は」
ふと冷静になる。自分の行動が、ストーカーっぽいじゃないかと我に返った。
こんなことなら、帰る前にクラスの誰かにでも聞いてみればよかった。サヤカから連絡はきてないか。どうして今日、休みなのか聞いていないか。本当に体調不良なのか。
彼女とよく話しているクラスメイトなら、なにかしら事情を知っている可能性がある。
でも僕は、サヤカの友人たちの連絡先を知っているわけじゃない。SNSなどで探してみて、誰かとコンタクトを取ってみるのはどうかな。いや、それとも……
と、頭を巡らせているとき。突然、ひらめいた。
『マニーカフェでバイトをはじめたから』
昨日、サヤカはそう言っていた。
そうだ。バイト先に行ってみればなにかわかるかも。
サヤカが働いている場所は、以前ふたりで放課後に訪れたマニーカフェ。捨てられていたろこを、彼女が拾った場所だ。
あそこへ行ってみよう。
踵を返し、僕は急いでマニーカフェへ向かった。大きく両手を振りながら、僕は無我夢中で走っていく。
いま、サヤカがバイト先にいる可能性は極めて低い。学校を休んだのに、働くなんてことは考えにくいから。せめて店の従業員に、事情を説明してサヤカのことをなにか聞き出せたらいい。
やがて、マニーカフェが見えてきた。全速力で走ったせいで息が荒い。僕は呼吸を整え、大きな窓ガラス越しから店内をそっと覗いた。
店のテーブルには数組のお客が寛いでいて、まったりした雰囲気が流れていた。
カウンターには若い男性スタッフが立っており──そのすぐ横で女性店員が接客をしている姿があった。
彼女はオレンジのエプロンをまとい、髪を後ろでまとめ、笑顔でお客のオーダーを受けている。
外から見ても、彼女の愛想のよさが窺えた。
お客の目をまっすぐ見て対応する彼女の瞳は──深い海色。
「なんで。どうして普通に働いてるんだよ」
僕はしばらく、店の外で立ち尽くすしかなった。
──サヤカが、元気な姿で、まるで何事もなかったかのように働いていたのだから。
何度も目をこすり、何度も彼女の顔を確認した。どこからどう見たって、疑いの余地がない。カウンターに立っている人物は、サヤカ本人だ。
お客の注文を受けている彼女は、とても楽しそう。体調が悪い様子などこれっぽっちもない。
心配して損した。
帰るか。と考えたが──いや、やっぱり面と向かって話がしたい。
勤務中に話し込むと迷惑なことくらい僕にだってわかる。ひとことだけ声をかけよう。「バイトが終わったら、連絡して」それだけ伝えよう。
僕は店の正面にまわり、木製のドアに手を掛け、ゆっくりと開いた。入店すると同時に「いらっしゃいませ」と元気な声が響いた。
僕はおもむろに、彼女がいるカウンターの前に立った。
急に僕が来て、驚くに違いない。そう思ったのだが。
「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ!」
満面の笑みで、普通に接客された。
僕は一瞬、怯んでしまう。サヤカは全く動じずに、さっきのお客と同じような対応を僕にも取った。
落ち着け。冷静に見てみろ。サヤカの隣には、男性店員がいる。背が高くて筋肉質で、肌が白い。見たところ、僕たちよりも若干歳上だ。先輩スタッフがいる手前、サヤカだっていつものように「ショウくん、来てくれたんだね!」なんてはしゃげないのだろう。
軽く咳払いをし、僕は空笑いをしてみせた。
「あの、ごめん。今日はなにか注文をしにきたわけじゃないんだ」
「……はい?」
「バイトが終わったら連絡してほしいって、伝えに来ただけで」
僕がそう言うと、サヤカはたちまち困惑した表情を浮かべる。
「あの。お客様。そういうのはちょっと……」
「話したいことがあるんだよ。とにかく、あとでメッセージの返信をくれないかな」
と、僕がサヤカに向かって頭を軽く下げたとき、隣にいた男性店員が間に入ってきた。
「いかがなさいましたか、お客様?」
目の前に立たれると、さらに大きく見える。男性店員の口角は上がっているが、目が笑っていない。
慌てるな。あくまで冷静に答えよう。
「すみません……僕、彼女の友人でして」
「友人、ですか。松谷さん、そうなの?」
男性店員がサヤカに問いかける。サヤカはじっと僕の目を見て、数秒経ってから小さく答えた。
「えっと……ごめんなさい。知らない人、です」
……は? おいおい。そこでとぼける必要はないだろ?
サヤカの思いも寄らない返答に、僕は眉間にしわを寄せた。
「なに言ってるんだ、サヤカ」
「すみません。本当にわからなくて……どなたですか?」
「バイト先に押しかけたのは悪いと思ってるよ。けど、知らないふりをするなんて」
「えっと……。なにを仰っているのか……」
どんどん声が小さくなるサヤカを見て、僕はハッとした。
もしかして……本当に僕を忘れているのか?
サヤカの目をもう一度よく見てみる。
出会ったとき、彼女の瞳は淡い海色だった。けれど──いまはどうだ。入学式の日と比べると、色が変わっていないか……?
意識していないと気にならなかった。だけど、サヤカの瞳の色は……濃くなっている。
まさか。そんな。
「申しわけございませんが、これ以上の対応はいたしかねます。ご注文をされないようでしたら、お引き取り願います」
男性スタッフはかばうようにサヤカの前に立つと、淡々と僕にそう告げた。その背後で、サヤカは眉を落とし、僕から目を逸らしているんだ。
信じられない。サヤカは僕を忘れてしまっているのか? 演技なのか、本気なのか、わからない。もし演技だったとして、なぜ彼女が僕を忘れたふりをするのか、もっと意味がわからない。
「すみませんでした……」
謝るしかなかった。店にも迷惑をかけられないし、サヤカを困らせたくない。
ダッシュで店を飛び出し、僕はマニーカフェをあとにした。
心臓が、ドクンドクンと低い声で叫び続けている。
僕を見るサヤカの目が、脳裏に焼き付いて離れない。まるで「他人」を見るような目だった。
彼女の部屋に上がったときは普通に接してくれたのに。「またね」と笑顔を向けてくれたのに。
家の近くの公園に辿り着いた。僕はベンチに腰かけ、この状況を整理しようとした。
けれど、考えても簡単には答えが出ない。
サヤカの瞳の色を思い出す──たしかに、濃い海色に変化していた。いままでは綺麗な水色だったのに。今日になって、青色に近づいていた。
なんらかのきっかけがあって、僕を忘れてしまったのか。彼女の死期が遠のいた、ということにもなるのか……?
そもそも彼女の余命がいつだったのか、僕は知らない。
サヤカはどこまで記憶を失ってしまったのか。アルバイトは普通にしていたし、その記憶は残っているはず。
学校については?
朝のホームルームで、担任がサヤカは休みと言っていた。
ということは、サヤカはちゃんと学校に欠席の連絡をしたんだろう。だとすれば学校のことは忘れていない。
友だちやクラスメイトのことはどうなんだ?
ああ、考えれば考えるほど疑問が湧き出てくる。
サヤカが僕の存在を忘れていたとして、連絡先を見て違和感を覚えるのではないだろうか。
僕たちはこれまで、何度もメッセージのやり取りをしている。通話記録だって残っているだろう。履歴には、若宮ショウジの名前があるはずだ。
クラスメイトたちだって、僕たちがよく話していたのを知っている。僕らの関係性を誰かしらの口からサヤカに伝えられる可能性だってあるんだ。
サヤカ自身が忘れていたとしても、僕が同じクラスの幼なじみだってことに遅からず気づくんじゃないか?
あんなに元気そうに働いていたんだ。明日はきっと学校に来るに違いない。そのときに、話しかけよう。
もどかしさが募るが、いまはなにもできない。焦らず、落ち着いてこの状況を乗り越えるしかない……。
奇病とは、なんて面倒な病気なんだろう。命に関わるだけじゃなく、身近な人を忘れてしまうなんて。
無意気のうちに大きなため息が漏れた。
そんなさなか、背後から足音が聞こえてきた。人の気配を感じ、僕はふと後ろを振り返る──
目の前にいた人物を目にして、僕は思わず顔をしかめた。
「……母さん」
母さんは僕を見て、固まっていた。大きく口を開けて、震えながらこちらに駆け寄ってきた。
「ショウジ!」
ずいぶんと慌てた様子。僕は思わず身を引いてしまう。
母さんは、落ち着かない様子で僕の腕を掴むと、震えた声になった。
「大丈夫なの!?」
「なにが?」
「目が……目が、水色になってるじゃないの!」
「ああ」
そうだったな。
立て続けに色んなことが起きすぎて、いま自分の置かれている状況を忘れかけていた。
「病院に行くわよ!」
「は? いまから?」
「そうよ! 白鳥先生に診てもらわないと……!」
「そんなに焦る必要なんてないだろ」
「なに暢気なこと言ってるの! だってあなたは……!」
と、母さんはそこで中途半端に口を噤んだ。
まさか、この期に及んで事実を言わないつもりか。
僕はもう、知ってるんだよ。死ぬんだろ? わかってるよ。それくらい。
「白々しいよな、母さんは」
「……え?」
「隠したって無駄だ。僕、聞いたんだ。事故のことも、奇病のことも」
「そんな……まさか、サヤカちゃんから聞いたの!?」
「そうだよ。サヤカからもコハルからも。色々聞いた。過去を思い出すと、僕は死ぬんだろ? 瞳の色が薄くなるほど、死期が近くなるんだよな」
まるで他人事のように、僕はそう言い放った。内心、すごく怖いのに。死にたくないって思ってるのに。
僕の感情は、ぐちゃぐちゃだった。
母さんはこんな僕を見て、顔を真っ赤にする。
「……だから、あの子と近づけたくなかったのよ……!」
語気を強くして、母さんは乱暴に言葉を放つ。
「いつかこうなると思ったのよ……! あなたを守りたいから、忠告もしたのに……! サヤカちゃんと離すために、わざわざ引っ越しもしたの……! なのに、なんで同じ高校になってしまったの……!? どうしてサヤカちゃんは、ショウジに近づいたのよ……!!」
母さんは嘆き、その場に座り込んだ。
そんな母さんの姿を見て、僕は胸が痛くなる。どれだけ必死に僕を守ろうとしていたのか、理解したくなくても気持ちが伝わってきてしまうから。
やっぱり僕は、サヤカと再会しない方がよかったのか。いますぐにでも、彼女のことを忘れた方がいいのだろうか。
僕の腕をガシッと掴み、母さんは素早く歩き出した。引っ張られる形で、僕は母さんのあとをついていく。
マンションの駐車場を訪れ、停めてあった自家用車に乗り込み、母さんは無言でエンジンをかけた。
「本当に病院に行くつもりか?」
「当たり前でしょ!」
「予約もしてないのに」
「緊急事態なのよ! 一秒でも早く行くの!」
母さんはアクセルを踏み、焦った様子でハンドルを回した。
その横顔には、焦燥だけでなく、不安や苛立ちなどさまざまな感情が入り交じっているようにも見える。
いつになく母さんの運転が荒い。ブレーキをかけるときも乱暴だった。こんなに荒れている母さんの姿を見るのは初めてだ。
やがて車は高速に乗り、母さんはさらに加速した。
「なあ、落ちつけよ、母さん」
「落ちついてるわよ」
「この運転のどこが? 事故ったらどうするんだよ」
僕が嫌みたらしく言うと、母さんは束の間泣きそうな顔になる。けれど、すぐに眉間にしわを寄せて強い口調になるんだ。
「あなたを、二度も交通事故に遭わせるわけにはいかない」
重く、のし掛かるように圧のかかった言いかただ。
上手い返しが見つからず、僕はきつく口を結ぶ。
母さんは深く息を吐いてから、さらに続けた。
「お父さんの、二の舞になってほしくないのよ」
「……え?」
「ショウジが生まれてすぐに、お父さんが亡くなったのは知ってるでしょ?」
「ああ、母さんが教えてくれたよな?」
「そうね。ショウジには初めて話すけど……お父さんはね、奇病で亡くなったのよ」
母さんの告白に、僕は一瞬息をするのを忘れてしまった。
──父さんが、奇病に罹って死んだ?
車内には、たちまち暗い空気が流れる。
「国内で初めて奇病を患ったのが、あなたのお父さんといわれているのよ」
突然の告白に、僕は目を見張る。
父さんが、日本で初めて奇病に患った……?
「そう、だったのか?」
前をまっすぐ見ながら、母さんは真顔で頷く。
「それは、知らなかった。まさか、父さんも僕のように事故がきっかけで奇病に罹ったのか?」
「いいえ。それは違うわ。お父さんの場合は、原因がハッキリしていなくて。でも……」
母さんはハンドルをギュッと握りしめる。
「もしかすると、仕事のストレスが原因かもしれないって。当時のお医者さんはそう言ってた。お父さんはその頃、仕事に追われていたの。毎日朝早くに家を出て、帰ってくるのはいつも終電。泊まりがけで仕事をする日もあった。ほとんど家にはいなくて、わたしもあなたたちの子育てでいっぱいいっぱいだったの。お父さんとはすれ違いの毎日で、家の中はギスギスしてたわね……」
母さんの手が、大きく震えている。
当時、赤ちゃんだった僕は少しも記憶にない話だった。コハルなら、もしかするとうっすらと覚えているかもしれないけれど。
車のスピードを落とすことなく、母さんは早口になっていく。
「お父さんはいつも疲れた顔をしていた。ある日、仕事に行く前に頭が痛いと言い出して。本当に辛そうな顔をしてたのをいまもはっきり覚えてる。頭痛を訴えてから数時間後に、お父さんは気絶しちゃったの。呼び掛けても反応がなくて、目を覚ましてくれなくなった……。わたし、すごく焦っちゃって。急いで救急車を呼んだわ。搬送先の病院で検査をしたら、脳が萎縮していることがわかって。そこで、奇病と診断されたの。脳がダメージを受けていて、このままじゃ、半年も持たないと言われたの」
「……半年? 嘘だろ」
僕は、背筋が凍るような感覚に陥る。
「嘘だって思いたかったわよ。でも、お父さんはずいぶん前から奇病に罹っていた可能性もあったらしくて。激しい頭痛が何度もあったはずなのに、よくここまで我慢できましたね、と先生に言われたの……たしかにお父さんは毎日疲れた顔をしていたけど、奇病に罹ってたなんて。わたし、夢にも思わなかった」
母さんの横顔は、これまでにないほど暗い。
日本で初めて奇病を患ったのが、本当に父さんだったのだとしたら──いま以上に未知なる病だったに違いない。診断される前に気づくのなんて、ほぼ不可能だろう。
「余命半年だなんて、あまりにもひどすぎる。お父さんが一番悔しくて怖い思いをしたと思う……、わたしはなんにもしてあげられなかった。どうしようもなかった……。だから、ショウジには絶対に死んでほしくないのよ……!」
母さんは大粒の涙を流し、叫ぶように声を上げた。
──その刹那。
ハンドルを握る母さんの手元が、大きく滑ったように見えた。と同時に車が大きくカーブする。その先には、高速道路の遮音壁。
車は行き場を失い、横転した。
とんでもない衝撃音が耳の奥を攻撃してくる。頭を強く殴られたような激痛が走り、車外の景色がスローモーションのようにぐるぐると回った。
僕の体は車と共に大きく回転し、全身が思いきり叩きつけられた。
なんなんだろう。どうなってるんだ──?
全身に電流のようなものが走った気がした。僕は一瞬にして身動きが取れなくなる。
かろうじて、目は見える。すぐ横を見ると──母さんが、目を閉じて眠っていた。頭からは、おびただしい量の血が。
……あれ? この光景。なんだか数年前にも、経験したような。
僕の周りも、どす黒い血で染まっていた。生ぬるい液体が口の中へと侵入し、鉄の味が舌に広がっていく。
ああ、そうか。わかったぞ。
僕はまた、事故に遭ったんだ……
そう理解した瞬間。僕の意識は、あっという間に遠いどこかへ吹き飛んでしまった。
◆
闇の中へ落ちていく。
目の前には、なにもない。壁も、床も、空も地面も、上も下も、なんにもない。
この世界が暑いのか、寒いのかわからない。朝なのか夜なのかさえわからない。
暗闇の世界に、ひたすら落ちて、墜ちて、おちて。時間感覚すら奪われた僕は、闇の中で彷徨っていくというのか。
否。
無に染められた世界の中、唯一存在しているものがあることに僕は気づいた。
『音』だ──
どこからともなく、聞こえてくる。あたたかみのある『音』が。それはまるで、歌っているかのよう。
美しいメロディを奏でて、暗闇の世界を色づけていく。
──ねえ。聞こえてる?
誰かの声がした。優しい、少女の声。
僕が周囲を見回すと──不意に、闇色の世界に一点の光が照らされた。
目の前に、大きな舞台のようなものが現れる。
僕は、その舞台の上にゆっくりと降り立った。
光がひとつしかない中、目をこらしてみる。すると、いくつもの客席が見えてきたんだ。
どこかのコンサート会場だろうか。客席に観客は一人もいない。舞台の上に、『僕たち』以外誰もいなかった。
僕の目の先に立ち尽くしているのは、どこかの学校の制服をまとったひとりの少女。グレーのスカートを穿いている。
彼女は、黒い楽器を大切そうに握っていて──それは、綺麗に磨かれたクラリネットだった。
「君は……?」
僕の問いかけに、少女はふと笑みをこぼした。顔はぼやけていて認識しづらいが、何度か会ったことがある相手だと、僕は少ししてから気がつく。
「以前、夢の中で君と会った。そうだよね?」
僕がそう言うと、彼女はコクリと頷いた。
一歩一歩ゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、彼女は透き通った声でもう一度問いかけてくる。
「聞こえた? わたしの、クラリネットの歌声」
一音一音強調するように、彼女は言葉を連ねた。まるで、不安を抱いているかのように。
彼女が奏でるクラリネットの歌声は、もちろん僕の耳に届いていた。
柔らかくて、木のぬくもりが感じられる、癒しのあのメロディ。
この世界だけじゃない。以前、夢でも聞いたことがある。
彼女が吹くクラリネットの歌声は、心に残るほど美しいものだ。
「そっか。聞いてくれてたんだね、ショウくん」
そこで──彼女の微笑む顔が見えた。とても優しい眼差しを僕に向けているんだ。
けれど、彼女の瞳には、色がない。
真っ白な瞳で、僕を見ている。
もしかして。
……以前、夢で会ったのは、僕の記憶から消え去ったはずの彼女だったのか。サヤカだと勘違いしていた。どうやらそれは違うことに、僕は今さらながらに気がついた。
「……アサカだよね」
僕の言葉に、彼女は小さく頷いた。
「ショウくんは、忘れてなかったんだね」
悲しげな声でアサカはそう言う。
いや、忘れていたよ。アサカのことも、サヤカのことも。僕は君たちとの思い出を、すっかり忘れてしまっているんだ。
「ごめん。僕は、なにも覚えてないよ」
「ううん。違うよ」
「……違う?」
「あなたは、ちゃんと覚えてる。ずっと、忘れずに。私たちとの思い出を心にしまっているの」
「どういうことだ……?」
アサカの言葉に、僕は疑問符を浮かべるばかり。
「あのね」
と、アサカは僕の隣に並んだ。弾んだ声で、語り紡ぐんだ。
「ここは、ショウくんの記憶の世界なんだよ」
「は?」
「あなたの心の中にある記憶が、形になっているの。だから、わたし自身もショウくんの記憶の表れ」
「えっと……ちょっと、なに言ってるかわかんないな」
僕が困惑する横で、アサカはくすっと笑う。
「わからなくたっていい。でも、話だけは聞いてほしい」
「と言われても……」
「困ってる? ショウくん、可愛いね!」
からかわれた気分になり、僕はアサカから顔を背ける。「ごめんごめん」と軽く謝ると、アサカはさらに続けた。
「高校に入ってサヤカと再会したとき、ショウくんは『久しぶり』って言われて、覚えてるふりをしたと思ってるでしょ?」
「……思ってるって? あれは、わざとだよ」
「ううん。そうじゃない。ショウくん自身の言動だけじゃないから。心の中の記憶があったから、サヤカに『久しぶり』って返したんだよ」
ますますわからない。
たしかに僕は、サヤカに入学式の日に話しかけられて、覚えているふりをした。後戻りできなくなって、幼なじみである演技をして、密かに彼女のことを探っていた。でも、母さんもコハルもサヤカを知らないと嘘をついていたから、余計にサヤカのことが気になって。僕は思い出を甦らせたいと必死になった。
「ショウくんは頭の中にある記憶ばかり探ってたから、なにも思い出せなかったの。心に問いかければ、すぐに思い出せたのに。でも、思い出せなくてよかったと思うよ」
「よかったって……。それは、僕が奇病に罹ってるから?」
「そう。全部思い出したら死んじゃうもの」
アサカはきっぱりとそう言い放った。
なんでもないように彼女が綴ったひとことは、僕にとって恐ろしいものだった。
過去を思い出したら死ぬ。
あまりにも理不尽だ。
それに、疑問も残っている。
「僕の瞳の色が、変わっていた。サヤカのように、水色になっていたんだ」
「知ってるよ。ショウくんの心が、思い出しているから」
「え……」
「言ったでしょう? 頭の中では忘れていても、心が感じてるの。サヤカのことも、わたしのことも。サヤカが教えてくれた、過去も。毎日三人で一緒に登校していたことも。わたしが練習するクラリネットの音も。ショウくんがそれを聞いてくれていたことも。わたしがコハルと一緒にお菓子作りをしたとき、ショウくんに食べてもらったことも。フレンチトーストの味も。全部心の中では忘れずに、覚えてるんだよ。だからショウくんは、心の中でそれらを思い出してたんだよ」
ドキッとした。
そんなところで……僕は知らないうちに、胸中で思い出に浸っていたというのか。
心は覚えているのに。心の中では、思い出せているのに。頭では、思い出せない。だから僕は、過去を取り戻せないでいたんだ。
アサカの話を聞く限りだと、そういうことなんだろうな。
アサカは目を細めた。
「嬉しかったよ……どんなことがあっても、ショウくんはわたしたちとの思い出を残してくれていたんだから」
「……だけど、心の中だけなんだろ? 僕自身が思い出したことに気がつかないと意味がない。アサカと交わした約束も、忘れてしまったから」
僕は自然と、『約束』という単語を口にしていた。
不思議な感覚がした。『約束を交わしたこと』を忘れていないのは、僕の心だけだ。僕自身がはっきりと「思い出した」と言えないのがどうにももどかしい。
アサカはハッとしたように、僕の顔を見た。
「……約束も、心が覚えてるんだね」
「そうみたいだ」
事故に遭う直前、いつもの通学路で僕はアサカとサヤカと会話を交わしていた。
あれは──そう、夏休みに入る直前だ。もうすぐ吹奏楽部の地区大会があると、アサカは語っていた。
その頃のアサカは毎日クラリネットを家に持ち帰り、一生懸命練習していた。家が近い僕は、アサカのクラリネットの音色をいつも聴いていたんだ。
コンクールの自由曲で、海をイメージした演奏をするんだと嬉しそうに語るアサカは、いつか本物の海を見てみたいと言っていた。それをサヤカが聞いて──
「お盆休みになったら、三人で海を見に行こうって約束したんだよな」
僕たちは、海のない街に住んでいた。三人とも本物の海を見たことがなかった。
だからアサカは、海を想像するしかなかった。海の世界を思い浮かべて、演奏しているんだと言っていた。実際の海を見れば、波を奏でたようなメロディを吹けるかもしれない──そう語っていたんだ。
「ショウくん」
アサカは小さな声で僕を呼びかける。
「ありがとう」
目に涙を浮かべながら、彼女は優しく微笑んだ。
「えっと……どうして礼を言うんだ?」
「嬉しいから。約束を思い出してくれて、すごく嬉しいの」
アサカは両手に持つクラリネットを、愛おしそうに眺める。どれほど楽器を愛でていたのか、伝わってくるほどに。
「わたし、必死に止めてたんだよ。ショウくんが、過去を取り戻すのを」
「どういうことだ?」
「この前の夢でも、言ったでしょう? 『過去を思い出さないでほしい』って」
「それは……」
あくまでも、夢は夢だ。アサカ自身の言葉じゃないはず。
「この世界は、僕の心にある記憶の表れなんだろ? だったら、この前見た夢も僕の心が作ったものなんだよな?」
「そうだよ。記憶の中から世界が創られてる」
「だったら『思い出さないでほしい』という言葉は、アサカじゃなくて僕が潜在的に思っていることなんじゃないのか」
自分でそう解釈してみるが、なんとなく矛盾しているな、と感じた。あの頃の僕は、過去を思い出したいと必死になっていたから。
「ショウくんの記憶には、わたしが伝えた言葉も、残ってるの」
「え……?」
「わたしね、事故に遭ってショウくんやサヤカと同じように、奇病に罹っちゃったんだ。全身に衝撃を受けて、そのストレスで奇病を患って……でも、すぐ死んじゃった。わたしは死ぬ前に、ショウくんとサヤカの名前を必死に叫んだ。『絶対に死なないで』って。力尽きるまで、何度も何度も口にした」
アサカの話を聞いているうちに、僕の心拍は上がっていった。
途端に、脳裏にある光景が過った。
朝陽を浴びながら三人で登校中、突然背後から軽トラックが突っ込んできた。
その瞬間、景色は変わり果てた。
アサカは頭から血を流し、虚ろな目を僕に向けていた。僕の名前を呼びながら、懸命になにかを訴えていたんだ。
──わたしは、もう、ダメ。でも、二人は、絶対に死なないで……死んじゃダメ。
息を引き取る前、たしかに、アサカはそう口にしていた。
胸が張り裂ける想いになる。
あれは一瞬の出来事だったんだ。撥ねられてから数秒経って、僕は自分たちが事故に遭ったことに気づいた。
けれど、アサカは軽トラックが突っ込んできた直前、僕たちの盾になるように立ち塞がった。自分の身を差し出してまで、僕とサヤカを守った。
「どうして」
アサカに向かって、僕は疑問を投げつける。
「なんであの日、庇ったんだよ」
「なんでって……わたしは二人より四つも年上なんだよ? 上級生が下級生を守るのは当たり前」
平然と答えるアサカに、僕は全身が震えた。
「違う。そんなの、違う! 死んだらどうしようもないじゃないか。アサカが死んだら悲しむ人たちがいるだろ!」
「それは、ショウくんとサヤカにも言えることだよ?」
「……で、でもっ」
「あの日、もしかしたら三人とも死んじゃってたかもしれない。そうしたら、悲しみの数がもっと増える。そんなの一番よくない。だから、わたしがショウくんとサヤカを守らなくちゃって思ったの。反射的に体が動いてた。二人にはわたしの分まで生きてほしいの」
アサカの考えかたに、僕はもはやなにも言えなくなった。
そうだった……彼女は、昔からそういう人だったんだ。自分のことよりも、他人を優先して。サヤカだけじゃなく、幼なじみである僕のことも気にかけてくれて。
アサカは優しすぎた。他人を思いやる気持ちが、人一倍強かったんだ。
「次にショウくんが目覚めたとき、過去のことは思い出せなくなってるから大丈夫だよ」
「大丈夫って……? そんなの、あんまりだ。アサカのことも、僕はまた忘れるってのか」
「心の中に記憶をしまっておけば、大丈夫だよ」
まるで自分に言い聞かせるように、アサカは何度も「大丈夫」と口にした。
「僕は、サヤカに存在を忘れられたんだ。昨日まで普通に接していたのに……今日会ったとき、僕のことを他人のように接していた。驚いたし、嘘だって思いたかった。でも、サヤカは本当に僕を知らない目をしていたんだ。親しくしていた相手に忘れられるって、ものすごく──辛いんだぞ」
思い返すと、息が苦しくなる。いまでも信じたくない。サヤカから突然、他人行儀でよそよそしくされて。
すごくすごく、ショックだったんだ。
「サヤちゃんも、思い出を手放そうとしてるんだね……」
アサカはぽつりと呟いた。
「サヤカがショウくんを忘れているのは、『生きたい』という気持ちが強くなったからかも」
「……なんだって?」
「過去の記憶を失わない限り、近いうちに死んじゃう。でも、ショウくんと再会したサヤカは、毎日楽しそうでよく笑ってたよね。だから、生きたいって思ったんだよ。わたしたちとの思い出を忘れる覚悟を決めて」
そんな現実、何度突きつけられても納得がいかない。
「そうなると、アサカはどうなる?」
「どうなるって?」
「僕とサヤカが生きるために思い出を忘れたら……僕たちは二人ともアサカを忘れることになるんだぞ。そんなの、君が辛いじゃないか」
どうにか記憶を失わずに生きる方法はないのかと、僕は都合のいいことばかり考えてしまう。
アサカはゆっくりと首を横に振った。
「わたしは、辛くなんかないよ」
「またそんなこと言って。僕の『心』が忘れないから、なんて言うつもりか」
「ううん、違う」
「だったらなんだよ」
「だってわたし、もう死んでるんだよ? 忘れられたって、わたしはいないんだから、悲しみも辛さもなんにもないもの」
白い瞳で、アサカはまっすぐ僕の目を見つめてきた。
どうしても、頷くことができない。アサカの言うことは間違っていない。間違っていないからこそ、否定したくなった。
「そんなこと、言うなよ……」
意図せず、声が震えてしまう。
「そんな寂しいこと言うなよ!」
僕は、いつまで迷っているんだろう。思い出を取り戻す代わりに、死にたいのか?
いや、死にたいわけじゃない。単に、思い出を取り戻したいだけなんだ。
「約束も果たせないまま、生きていけって言うのか?」
「どっちにしろ、約束は果たせないよ。わたしはもう死んでるんだから」
「だからっ。そうじゃなくてっ! 約束したことすら忘れるなんて、嫌なんだよ!」
もどかしさが爆発し、僕はアサカに向かって叫び声を上げた。この広いコンサート会場の端から端まで、声が反響する。
肩で息をする僕に向かって、アサカはあくまでも冷静だった。
「落ち着いて、ショウくん」
僕の右手をそっと握りしめ、ゆったりした口調で彼女は言葉を紡いでいく。
「生きる時間は有限なの。いつどこで誰が死ぬかなんてわからない。元気だった人が、突然明日になったらいなくなることだってある。病気を患った人が、残された時間の中で必死に生きていくことだってある。一生涯、事故にも遭わず病気にもならないで寿命を全うする人だっている。それでも──誰にでも必ず、人生の終わりはくるんだよ。だからこそ、生きる時間を大切にしてほしい。わたしはたまたま、短い人生になってしまったけれど……だからといって、ううん、だからこそ、大切な人にも同じ想いはしてほしくないの」
アサカの言葉が、僕の中に強烈に響く。
生きる時間は有限。誰にでも必ず終わりはくる。
そんな当たり前のことを、僕は考えようともしなかった。
彼女は幾度となく、僕に生きてほしいと伝えてくれたのに……。僕はそれを無視して、現実から目を逸らして、記憶を取り戻そうとしていた。
なんて愚かだったのだろうか。
「ごめん、アサカ」
情けないほどに、声が揺れた。
僕は彼女に、たくさん謝らなければいけないんだ。
「本当に、本当にごめん。僕は、君の気持ちをこれっぽっちもわかっていなかった」
「いいんだよ、謝らないで。平気だよ」
アサカは僕の頭をそっと撫でた。
感触も温度も感じないはずなのに、彼女の優しさが伝わってくる。
「やめろよ……僕を子供扱いするな」
「ふふ。ショウくんはいつまで経っても、わたしにとって可愛い弟みたいなものだよ」
「僕はもう高校生なんだぞ。からかうな」
「残念。もしわたしが生きてたら、いまごろ大学生になってるか、社会人としてバリバリ働いてるお年頃なんですよー」
舌をベッと出し、アサカはいたずらっぽく笑う。見た目は中学生で僕よりも年下に見えるのに、変な感じだ。
「あ……ということは」
彼女のいまの姿は、事故で亡くなったときと変わらないということだ。
アサカが身にまとっている、この見慣れない制服。
……そうだ、思い出したぞ。コハルが中学生のとき着ていた制服と同じものだ。グレーのスカートは、引っ越す前にコハルが穿いていたもの。そして、アサカが身につけていたものでもある。
アサカの姿を改めて見ると、ちょっと切なくなった。
「そうか。君は、いつまでも時が止まったまま思い出の中にいるんだよな」
「うーん。それは、どうかな?」
「だって、いつの間にか僕の方が年上になったんだぞ」
「時が止まってるというよりも、事故の日から私がいないだけ。成長して、大人になったわたしは存在しないんだよ」
「おい、やめてくれ……」
悲しいことを平気で口にするアサカの言葉は、僕の精神衛生上とてもよくない。
僕が怪訝な顔を向けると、アサカは声を漏らして笑った。
「あっ、ごめんね! もう、暗い話はやめにしよっか。そろそろショウくんも目を覚まさないといけないし」
「えっ。目を覚ますって?」
「ん? 忘れちゃったの? ショウくん、また事故に遭って気を失っちゃったじゃない?」
ああ、そういえば……そうだった。
病院に行く途中、母さんの運転する車に乗っていたんだ。母さんがすごく動揺していて、高速道路の遮音壁にぶつかったんだっけ。
「いつまでも眠ってたら、そのうち起きられなくなっちゃうよ。生きてほしいってわたし言ったけど、ずっと寝てるままなのはさすがにやめてほしいなあ」
「なっ。当たり前だろ。寝たきりだなんて、家族も心配するし」
事故発生直後の、母さんの顔を思い浮かべる。血まみれになった母さんの姿は、身震いしてしまいそうになるほど惨い有様だった。
「母さんは、大丈夫なのかな……」
不安になり、僕はぽつりと呟く。するとアサカがゆっくりと頷いた。
「ショウくんよりも先に、目覚めたみたいだよ。話し声が聞こえた」
「ホントか」
「意識の外側から、何度もショウくんの名前を呼んでるよ」
……そっか。そうなのか。
僕は、アサカの話に胸をなで下ろす。
「ショウくんのお母さんも心配してるし、それに……コハルもずっとショウくんを気にかけてるよ」
「コハルも」
「二人とも毎日のように泣いてる。このままショウくんが起きなかったらどうしようって。見るに堪えないくらい、泣いてるの。早く、二人を安心させてあげて」
アサカは、眉を落とした。
母さんは自分の運転で子供が亡くなったとなったら、立ち直れなくなるかもしれない。
コハルだって、父さんとアサカを失ったのに、これ以上また誰かが亡くなったら心が折れてしまうかもしれない。
二人の気持ちを考えると、のんびりしていられない。
「わかった。そろそろ、起きるよ」
僕の言葉に、アサカは目を細めた。とても柔らかい表情だが、目の奥が滲んでいる。
「わたしは二度と、ショウくんの前に現れないから。思い出は心の中だけにしまっておいて。もう二度と、思い出しちゃダメだよ」
「……ああ」
「生きたい気持ちが強ければ、ショウくんは、奇病なんかに負けないで寿命を全うできるはず。だから、強く生きていって」
「わかってる。わかってるよ」
君が守ってくれたこの命を、大切にしていく。必ず。サヤカとともに、生きていくと約束しよう。
「ねえ、ショウくん。最期に、ショウくんが全部を忘れちゃう前に、お願いしたいことがあるの」
「なに?」
「わたしのクラリネットの演奏を、聞いてほしいな」
両手にクラリネットを抱きかかえ、アサカはそう言った。
僕の答えはもちろん。
「聞かせて。アサカのクラリネットの歌声を」
アサカは目に涙を溜めながら、満面の笑みを浮かべた。舞台の中央に立ち、口にマウスピースを当てて堂々たる様で楽器を構えた。
彼女がクラリネットに息を吹きかけると──世界が一気に変わった。
彼女が奏でる曲は、僕が小学生の頃に聴いたことがあるものだった。
吹奏楽の海の歌。
コンクールで、彼女が演奏するはずだった曲だ。
クラリネットのソロパートを、アサカは優しい音色で奏でる。海の波の音が聞こえてきそうな繊細なメロディ──音色の中にほのかに存在する、木のぬくもり。
アサカのイメージする波の音は、クラリネットの歌声に乗ってたしかに僕の心に響いた。
目を覚ましたら、もう二度と君とは会えない。君のクラリネットの音色を聴くこともできない。交わした約束すらも、僕は知らないままだ。
でも、それでも──
君の奏でるクラリネットの歌声は、これからもずっと心の中にしまっておこう。
僕は君を思い出すことができないけれど、君との思い出はいつまでも存在し続けるんだ。