僕は君を思い出すことができない


 カーテンの隙間から、朝陽が差し込んでくる。
 一睡もできなかった割には、妙に頭が冴えていた。
 それよりも、目の回りが痛い。
 僕はゆっくりと起き上がり、ベッドガードを越えて立ち上がった。点滴を引きずりながら、歩いて数歩先にある洗面台の前に立つ。
 鏡の向こうの自分と目が合った。
 ……なんて酷い顔だ。目の下にクマができているし、顔が青白くなっている。一晩寝ていないだけで、こうなってしまうのか。
 それに──瞳の色は今日も青色(・・)だった。

 自分の顔を見れば見るほど別人に感じてしまう。水で顔を洗い、ベッドに戻った。
 サヤカからの返信はいまもなお来ていない。彼女の体調がどうなったのかもわからないし、土曜日の約束をキャンセルした理由も教えてもらってない。
 納得できるわけがない。返事をくれないなら、直接会って訊いてみるしかないよな。
 学校に行かなければ。今日サヤカは登校するかもしれないし。

 僕は寝起きの頭で、これからの予定を組み立て始めた。このまま退院できるなら、午前十時には病院を出られるだろう。母さんが車で迎えに来てくれるとして、家まではだいたい一時間弱。多めに見ても、十一時には帰れる。帰ったらすぐに制服に着替えて準備をして、三十分で家を出て──
 順調にいけば昼休みには学校に着く。遅れても、五時間目の授業には参加できるはずだ。サヤカが登校していたら、放課後に話をしよう。
 一日のスケジュールを決めた僕は、サヤカとの会話のイメージトレーニングも怠らなかった。

 だが、これには母が許さなかった。
 朝八時半頃、白鳥先生が僕の様子を診に来てくれた。顔色が悪いと驚かれたが、僕は夜寝ていないことを正直に告げた。頭痛はないし、食欲もあるし、その他とくに問題はなかったので無事に退院できた。帰り際、先生に「無理をしないで過ごしてください」と念を押されたが。

 母さんに迎えにきてもらい、家に着いたのは十時五十分頃。自室でこそこそと制服に着替えていたところを、母親に見られてしまったのだ。

「ショウジ、なにしてるの? まさか、学校に行くつもり?」

 僕はわざと大きなため息を吐いた。

「そうだけど。なんか問題あるか?」
「さっき退院したばかりなのよ! 今日くらいは……いえ、しばらくは家で休んでなさい!」
「は? 僕はもう、こんなに元気なんだぞ。休む意味がわからない」
「いまは薬が効いてるから動けるだけ! 退院してすぐに学校行くなんて……どういうつもり!?」

 ああ、鬱陶しいな。息子が学校へ行くことに文句を言う母親がいるか? 普通はサボったりしたら注意するもんだろ。
 僕が鞄を背負って玄関に向かおうとすると、腕を掴まれてしまった。母さんの手は、震えている。

「まさか……ショウジ。サヤカちゃんに会いに行こうとしているの?」

 酷く暗い声だった。

「母さんには関係ない」
「そんな理由で学校に行くなんて許しません」
「いや、違う。ただ……もうすぐテストがあるんだ。サボってられないよ」
「だったら、今日くらいは休んで!」

 母さんは、奇声を上げるように言葉を投げつけた。
 やっぱり、おかしい。母さんの態度に、いよいよ僕の怒りが爆発した。
 僕の腕を握る母さんの手を思いっきり振りほどいた。

「うるせぇよ、さっきから! 母さん、おかしいぞ。どうしてサヤカの件になるとそこまでヒステリックになるんだ? 彼女について、なにか知ってるんだろ?」
「いえ……知らない。知らないわ。わたしはただあんたを思って……」
「だったらいちいち口出しするな! 僕が誰と関わろうが母さんには関係ない!」

 僕はいままでの鬱憤を晴らすように怒鳴り込んでやった。
 束の間、母は悲しそうな表情を浮かべる。

「でも……でもね、ショウジ。聞いて。このままじゃ、あんたのためにならないの。死ぬかもしれない(・・・・・・・・)のよ……?」
「は……?」

 思いがけないひとことに、僕は絶句した。
 死ぬかもしれない? どうしてそういう話になるんだ。

「なに言ってるんだ、母さん」
「あの、ね……このままサヤカちゃんと一緒にいたら、あなたの命に関わるかもしれないの……」
「サヤカと一緒にいたら? そんなバカな話があるか。僕とサヤカが関わるのが嫌で、嘘をついてるんだろ。くだらない」
「本当。本当なの……! ねえ、ショウジ。信じて! お願い……! あなたを死なせたくないの……!」

 母さんは、歯をガタガタと震わせた。大粒の涙を流し、その場にうずくまった。

 ──やっぱり、母さんはおかしい。なんで僕がサヤカと関わると死ぬんだよ。精神的におかしくなってしまったんじゃないのか……?

 あまりにも信じかたい話に、僕は母さんの言うことを信じようともしなかった。もう、構ってられない。どうだっていい。
 とにかくいまは、母と離れたかった。一人になりたかった。

 スマートフォンだけを手に持ち、僕は逃げるように家を飛び出した。
 学校に行く気もなくなった。通学鞄も家に置いてきたし、財布もICカードも持ってきてない。電車にも乗れないから、僕は町の中をウロウロするしかなかった。
 あえて駅の反対方向を歩いていると、小さな公園にたどり着いた。ベンチとこじんまりとした砂場があるだけの、窮屈な公園だ。
 
 異様に息が上がっていた。呼吸を落ち着かせるため、僕はベンチに座り込む。
 平日の小さな公園には、ほとんど人が来ない。犬の散歩で訪れるおばさんや、ジョギングする男性が通りかかったくらいで訪問者は非常に少ない。
 一人になりたかった僕にとっては、好都合だ。

 頭を真っ白にして何時間もうずくまっている。けれど、いい加減どうすべきか考えないと。
 顔を上げて空を見ると、曇り空が広がっていた。雨だけは降らないでくれよ、と願いながら制服のポケットにしまっていたスマートフォンを取り出してみる。
 通知を確認して、ギョッとした。

《不在着信 十三件》

 全て、母親からの着信だった。メッセージも何件か来ていて《いまどこにいるの?》《昼ご飯、家で食べるでしょう?》《学校に行ったの?》などという内容がびっしりだった。
 さっきの件について謝罪の文字は一切なしか。
 母が言い放った言葉を思い出してしまう。僕がサヤカと関わっていると「死ぬ」だなんて。普段なら、あんなイカれたことを口にするような人じゃないのに。
 なにがきっかけで、母さんはおかしくなってしまったのだろう。この場合、精神科へ連れていった方がいいのだろうか。呆けが始まってしまったとか……? まだ五十手前なのに、そんなことありえるのか。いや、若い頃からそういう病気になってしまう例もあるらしいから一概には──
 と、ここまで考えたところで一旦思考を停止させた。考えるのもうんざりだ。
 あれは、僕とサヤカを引き離すための戯言に過ぎない。

「……ふざけんなよ!」

 たまらず、叫んだ。誰もいない公園内に、僕の怒りの声が空気に溶けてなくなっていく。
 このストレスをどう解消すればいいものか。悩んで悩んで悩みまくった。答えは簡単には掴めない。

 苛々の解消法を考えているさなか、またもやスマートフォンに着信が入った。また母さんか?
 諦めながらも画面を見ると。

「……ユウト」

 ユウトからの呼び出しに、スッと心が落ちついた。
 通話ボタンをタップしてすぐに元気な声が電話口から聞こえてきた。

『よう、ショウジ! お前、今日は学校休みなのかよ?』
「ああ。病院行ってた」

 ユウトには、入院の話はあえてしないでおく。無駄に心配かけたくないし。
 それよりも、このモヤモヤを聞いてほしい。通話ではなく、できれば対面で。

「ユウト。夕方でいいから会わないか?」
『夕方から? いいけど──』
  
 そのとき、電話の向こうからなにやら雑音が聞こえてきた。ユウトの声が途切れたと思ったら、数秒経って再び声がする。
 
『悪い! 今日は無理だわ!』
「えっ。なんで?」
『部活で遅くなるからさ。明日以降ならいいぞ。ていうかお前、いまどこいんの? 外か?』
「家近くの小さな公園だよ」
『そうか。俺もお前と話したいことあるけど、とりあえず今日はごめんな! 明日、また学校で!』

 ユウトは慌ただしくそう言うと、さっさと通話を切ってしまった。
 僕の耳には、ツーツーという機械音が虚しく響き渡るだけだ。

「なんだよ、ユウトの奴……」

 通話が終わると、スマートフォンには時刻が表示された。すでに二時半を回っていた。いつの間にかこんな時間になっていたのか。
 家には帰りたくない。母とまだ顔を合わせたくない。けれど、外にいてもすることがないし行く場所もない。僕は、ただぼんやりと公園のベンチに座るしかなかった。

 それから何分、何十分経っただろう。ぼんやりしすぎて、魂が抜けたように僕の心は空っぽになった。

 だが、思いがけないことは突然、訪れるものなんだ──

「ショウくん」

 背後から声を掛けられた。僕がよく知っている、優しくて透き通った少女の声。
 振り返ってみれば、目の前には僕を見る海色の瞳。頬を緩ませながら、こちらに歩み寄ってくる。

「サヤカ」

 彼女の姿を前に、僕の心臓がドキッと音を高鳴らせる。

「やっぱりここにいたんだね」
「どうして……?」
「三上くんがここにいると思うって教えてくれたの。さっき、電話してたよね」

 そう言うと、彼女は僕の隣にそっと座った。
 ああ、どうして。僕は、サヤカを見るとこうも安心するのか。
 サヤカは、制服姿だった。今日は学校に行ったんだな。
 なんともいえない表情を浮かべて、彼女はじっと僕の瞳を見つめてきた。きっと、僕の目の色が変わったことに気がついたのだろう。
 けれど、彼女はなにも言わなかった。

「サヤカ、あのさ」

 どこから質問すればいいか迷ってしまう。
 体調は大丈夫か? どうしてメッセージをくれなかったんだ? デートをキャンセルした理由は? 昨日、母と駅でなにを話していた?
 三つの質問は、訊くのに勇気がいる。サヤカは何事もなかったかのような態度を取っているし、余計に言いづらい……。
 だったらまず先に問うべきことは自ずと決まってくる。

「体調は大丈夫なのか?」
「え? 体調って?」
「昨日、学校休んでただろ」
「あっ……」

 サヤカはいたずらっぽく笑う。

「実は、ずる休みしたの」
「……は?」

 サヤカがずる休み? 真面目なイメージがあるのに、かなり意外だ。

「あのね、ろこが寂しそうにしてたから、昨日は一日一緒にいたんだ~」
「……」

 こっちの気も知らずに、サヤカは楽しそうにろこの話をはじめた。「ろこはとってもお利口なんだよ。トイレは一回で覚えるし、遊んでほしいときはおもちゃを咥えて渡してくるの。いまではすっかり元気になって、やんちゃしてるんだよ」と。
 昨日、僕はずっとサヤカを心配してたのに、本人はなんでもない一日を過ごしてたってわけか。言いようのない、変な感情が湧き出てくる。

 ──でも、話を聞いていた僕は、彼女が嘘を言っているとふと気がついた。

「本当にろこが理由で休んでたのか?」
「うん、そうだよ」

 彼女は即答し、笑顔を貫いているが、声が一瞬だけ震えたのを僕は聞き逃さなかった。

「僕、見たんだよ」
「見たってなにを?」
「サヤカが朝、駅前で誰かと話していたのを」
「……え?」

 サヤカは目を見開き、僕から顔を背けた。言い訳を考えるかのように数秒間黙り込むが、すぐに口を開いた。それも、わざとらしい明るい声で。

「そうだった! 私、家出たあとに忘れ物しちゃったの。帰ったら、ろこが寂しそうに鳴いてたんだよ。それで、今日はもう学校行かなくていいやって」

 苦しい言い訳だが、サヤカがそう言うならひとまず信じたふりをしよう。
 僕はさらに詰め寄る。

「駅前で誰となにを話してたんだ?」
「え……誰って? 知らない人だよ」

 嘘だろ。サヤカまで、シラを切るつもりか?
 無理があるよ。君は、僕の幼なじみなんだろ? それが本当なら、僕の母親を知らないと言う方が不自然じゃないか。うちの母親と話していたと、絶対にサヤカは自覚してるはずだ。

「お願いだ、誤魔化さないでくれ。駅にいたのは、うちの母親だぞ。わかってるだろ? 二人でなにを話してたんだ」
「し、知らないよ。ショウくんのお母さんとなにも話してないっ」

 サヤカには、もはや笑顔はない。首をぶんぶんと振り、見るからに焦っている。
 サヤカも、僕になにかを隠しているのか。
 母やコハルだけじゃなく、サヤカまで様子がおかしい。
 もういい加減、僕だけなにも知らない状況に嫌気が差してきた。

「なあ、教えてくれよサヤカ! みんな、僕になにを隠してるんだ!?」

 勢いで、彼女の両肩を掴み取った。
 驚いたようにサヤカは目を見張る。
 ハッとして僕は手を放した。

「ご、ごめん……」
「ううん。私の方こそ、ごめんね。ショウくんに、なんにも話せてない。まだ、迷ってるの。答えが出なくて」
「答えって?」
「私たちの『約束』を思い出すべきか。それとも──ショウくんの()を優先にすべきか」
「は……? どういう意味だ、それ……?」
「こんなの、迷うべきことじゃないのにね……」

 サヤカは、涙声になって俯いた。
 全く理解できない話に、僕は首を傾げる。
 なんの話だよ。約束だとか、命を優先にすべきかって……。

「私もね、本当のこと話したいよ。包み隠さず、全部を。でももし、ショウくんが私のことを思い出したら、ショウくんが危ないの。死んじゃうかも(・・・・・・・)しれないんだよ……?」

 嘘だろ。ついに彼女まで、母さんと同じような戯言をはじめた。
 僕が死ぬかもしれない? サヤカを思い出したら? どう考えたって、ありえないだろ。

「信じられないよね。でも、ショウくんの目の色、青色になってるよね? 私、怖いの。ショウくんまで苦しい想いをすることになっちゃったら。そんなの、絶対に嫌だから!」
「お、おい。落ち着けよ。サヤカ、どうしたんだ」

 サヤカまで僕の目を気にしている。青色に変わっただけで、どうしてそんなに取り乱すのか。
 サヤカを落ち着かせようと、思わず僕は彼女の手を握りしめる。その指先は、驚くほど冷たくなっていた。
 母の言っていたことは、戯れ言じゃなかったのか……? それとも、サヤカまでおかしくなってしまったのか……? なにを信じればいいのかもわからず、僕の頭は混乱している。

 このとき、額に冷たい雫が当たった。空を見上げると──ポツポツと雨が降ってきているではないか。雨雲が果てしなく広がっているので、しばらく雨は止みそうにない。
 本来ならここで帰るべきなのだろうが、僕は家に帰るつもりはない。
 せめて、サヤカだけでも帰らせないと。

「雨が降ってきた。もう、帰ろう」
「……」
「なあ、サヤカ。聞いてるか?」
「……」

 彼女は俯いたまま、返事をしてくれない。
 そっと顔を覗き込むと、サヤカは力のない様で僕を見てきた。
 それから、弱々しくこう言った。

「ショウくん。いまからうちに来て」
 女子の家に上がるのは、これが初めてだったりする。しかも、彼女の両親は不在のようだ。改めて考えると、とんでもない状況だ。
 彼女に誘われ家に帰りたくなかった僕は、強くなっていく雨に逃れるため部屋に来てしまった。
 そう。雨宿りをするために一時的に避難しただけだ。胸中で、僕は自分に対して無意味な言い訳をする。

 室内は甘い香りがして、猫や可愛らしいキャラクターの小物があちこちに飾られている。よく片づけられた部屋の片隅で、僕はサヤカと向かい合ってクッションに座った。
 緊張のあまり肩に力が入り、正座をしても痺れを感じない。僕を眺めるサヤカは、不思議そうな顔をしている。
 彼女の膝の上には、目をとろんとさせてリラックスするろこの姿もあった。
 
 落ち着け、落ち着くんだ。いまは変に緊張している場合じゃないんだ。
 深呼吸をひとつ、ふたつ。とにかく、これからゆっくりと大事な話をしよう。

「ねえ、ショウくん」

 と、先に口を開いたのはサヤカだった。

「一緒に、答えを出してくれない?」
「答えって?」
「私たちの、未来を決める答えだよ」
「は……?」

 やっぱり、わからない。
 疑問符だらけの頭で考えたって、余計にこんがらがるだけ。だったら、彼女の話を最後まできちんと聞いてみるべきだ。

「さっきも言った通り、ショウくんは『私たち』との記憶を思い出すと死んじゃう可能性があるの」
「どういうことだ?」
「……どこまで言っていいかわからないんだけど……。ショウくんは、大きな病気を抱えてるの」
「病気? なんの?」

 僕は、幼い頃身体が弱かった。でもそれは、治療をしたおかげでだいぶよくなったはずだ。いまでも白鳥先生に定期的に診てもらう必要はあるし、頭痛に苦しめられているけれど。「大きな病気」と言われると、あまりしっくり来ない。
 そんな僕の疑問に答えるように、サヤカは言いづらそうに説明した。

「あの、ね……難しい病気なの。『奇病』っていうんだけど、知ってるよね……?」
「……え?」

 言葉が出てこなかった。
 奇病だと? サヤカは僕が奇病を患ってると、そう言ったのか?

「奇病は謎が多い病気。症状も人それぞれだし、治せるかもわからない。ショウくんの場合はね、事故に遭ったことがきっかけで奇病になったって言われてるんだよ」
「事故? 僕が?」
「小学生のとき、トラックに轢かれたの。ショウくんは、覚えてないよね」
「……覚えてない」
「私も事故の記憶はあんまりなくて。白鳥先生から聞いて知った話も多いかな」

 その名を聞いて、僕は息を呑んだ。サヤカの口から出る「白鳥先生」の名は、あまりにも不自然だ。

「なんで、サヤカは白鳥先生を知ってるんだ?」
「……だって。私も、先生にお世話になってるから」
「なんだって?」
「白鳥先生言ってたの。ショウくんの記憶が失われたのは、事故時のショックが原因の可能性もあるけど奇病も関係してるかもしれないって」

 彼女の口から語られる言葉の数々は、受け容れがたい内容の連続だった。
 それでも、僕はこのモヤモヤを消し去りたくてどうしようもなかった。

「なあ、サヤカ」
「うん?」
「僕とサヤカの過去を、全部教えてほしい」

 僕が懇願すると、サヤカの表情が曇った。うつむき加減で、ろこの頭を優しく撫でた。
 この暗い雰囲気を気にも留めず、ろこは気持ち良さそうに喉をゴロゴロと鳴らしている。

「簡単な話じゃないよ」
「なんでだよ?」
「さっきも伝えたでしょ。万が一ショウくんが過去の記憶を取り戻しちゃったら……死ぬかもしれないんだよ?」
「僕が死ぬなんて。こんなに元気なのに? たまに頭痛はするけど、それ以外は問題ないんだぞ」
「でも。それでも、ショウくんは奇病に罹ってる。無理をすると、ストレスで脳が萎縮しちゃう。命に関わるの。奇病は治せないんだよ。怖い病気なんだよ!」

 サヤカは顔を真っ赤にして、涙声で訴えてきた。肩で息をするほど乱れている。
 彼女の異変を察したのか、ろこが目を見開いて弱々しい声で鳴いた。「ごめんね、ろこ。なんでもないよ」とサヤカは言うが、その声は震えている。
 深呼吸してから、サヤカはまっすぐ僕の目を見た。

「ショウくん。やっぱりやめよう。これ以上の話は……」
「やめるって? なんでだよ? サヤカまで僕に隠し事か」
「私だって迷ってる。でも、言わない方がいいのかもって思うの。昨日の朝、ショウくんのお母さんと駅でたまたま会って……止められたから」
「え……?」
「嘘ついてごめんね。本当は私、小学生の頃からショウくんのお母さんを知ってる。お母さんも私を知ってるし」

 ──ああ、やっぱり。
 サヤカが認めてくれたおかげで、僕の中に居座り続けていた疑念はなくなった。なぜか、全然すっきりしないけれど。

「学校行く途中に、お母さんに呼び止められたの。『松谷サヤカちゃんですか?』って。すぐにショウくんのお母さんだってわかったよ。お母さん、すごく心配してた。ショウくんのこと。私といるといつか記憶を取り戻して、死んじゃうんじゃないかって。……私はその話をされたとき、最初は受け入れられなかったの。奇病について知ってたのに、ショウくんのそばにいたかったから、私は現実から目を逸らしてたんだよ」

 サヤカは歯を食いしばり、身体を震わせた。

「でも、それは間違いだったんだって思い知らされた」
「どういうことだ?」
「だって……ショウくん。昨日、倒れたんでしょ? 一晩入院したって、お母さんから聞いたよ……」

 サヤカの話に、僕は目を見開いた。
 ──もしかして、僕が倒れたあとに母が「急用」でいなくなったのは、サヤカと話をするためだったのか。
 まさか。彼女に知らせていたなんて。
 どうにか言葉を探し出し、僕は震えながら答えた。

「いや、たしかに昨日は頭痛がして……ちょっとだけ病院に世話になった。でも、サヤカのせいじゃない」
「激しい頭痛がしたんだよね。気を失うくらいの強い痛みが。きっと私との過去を、ショウくんが無意識のうちに思い出そうとしてるの。だから脳が萎縮して──」
「サヤカ、落ち着いて」
「落ち着けるわけない。私、ショウくんには死んでほしくないの」
「僕は死なないよ」
「そんなのわからない。望みだけじゃ、生きていけないんだよ!」

 サヤカの息は、だんだん上がっていく。目に涙を浮かべ、いまにもこぼれ落ちそうだ。
 ダメだ。そんな顔しないでくれ。
 僕の身体は、勝手に彼女のそばに寄っていった。
 それから、サヤカの全身を抱き寄せた──
 膝の上にいるろこがビックリしたように小さな声で「みゃ」と鳴くが、どく気はないらしい。僕はろこを潰さないように、優しく抱き締める。

「ショウ……くん……?」
「大丈夫だよ、サヤカ。僕は奇病なんて、怖くない。それよりも大切なことを忘れてしまっている方が怖いんだ」
「……そんなの、嘘」
「どうか、教えてくれないかな。サヤカと僕の思い出を。思い出せないかもしれないけど、知りたいんだ」

 彼女はおもむろに、僕の身を抱き返した。

「それが、ショウくんの答えなの……?」
「そうだよ」

 束の間の沈黙。室内には、ろこがゴロゴロと喉を鳴らす音だけが小さく響いた。
 やがて、サヤカは落ち着いた声でこう言った。

「思い出してくれなくて、いいからね」

 そう言って、彼女は『僕たちの思い出』をゆっくりと語りだした──



 僕とサヤカは、北小学校で出会った。一年生から同じクラスになって、家が近かったこともあり、家族ぐるみですぐに仲良くなったようだ。登下校は毎日一緒で、サヤカの姉──四歳年上のアサカと三人でよく通学路を共にしていたそうだ。
 アサカは面倒見がいい女の子で、実の妹のサヤカだけでなく、僕のこともよく気にかけてくれていたという。アサカは、僕の姉のコハルとも仲がよかったらしい。二人は学年も同じで、打ち解けるのに時間はかからなかった。
 僕はその話を聞いて、違和感を覚える。

「僕の姉とアサカは、仲がよかったのか?」
「うん」
「……コハルの奴。アサカのことを訊いたら『知らない』なんて言ったんだぞ」
「それは」

 僕の話に、サヤカは複雑そうな表情を浮かべた。

「コハルお姉さんも、ショウくんを守ろうとしてたんだよ」
「守ろうとしてた? まさか、奇病から……?」
「そう。もしコハルお姉さんが私のお姉ちゃんのこと知ってるって正直に認めたら、ショウくんは絶対問い詰めるでしょ?」
「それは──」

 たしかに。そうだな……。

「コハルお姉さん、心苦しかったと思う。あれだけ仲良しだったのに、アサカお姉ちゃんの存在を否定しなきゃいけなかったんだから」
「あれだけって。二人はどれだけ仲良かったんだ?」
「私の目から見たら、一番の友だち。親友っていう関係に見えた」
「そんなに……?」
「アサカお姉ちゃんね、いつもコハルお姉さんの話してたよ。同じクラスになった年は大喜びして報告してきたし、よく家にコハルお姉さんを呼んでたし」
「……そうなのか」
「それに」

 サヤカは遠くを見ながら、懐かしむような声でこう語った。

「アサカお姉ちゃんは、コハルお姉さんに憧れてクラリネットをはじめたんだよ」
「……え?」

 僕の心臓がドキッと音を立てた。

「コハルに憧れて?」
「コハルお姉さんって小学生のときからクラリネットを続けてるでしょ? アサカお姉ちゃんはいつもコハルお姉さんを応援してたよ。演奏会も聴きに行ったみたい。それで、自分もクラリネットをはじめたくなったんだろうね。コハルお姉さんがクラリネットを吹き始めて半年後に、アサカお姉ちゃんもやり出したの。中学生になったら吹奏楽部に入って、二人してクラリネット奏者になってさ。ホント、仲良しだよね!」

 サヤカは嬉しそうに語り紡ぐが、その瞳の奥はどこか切ない。
 全然、知らなかった。コハルにそんな相手がいたなんて──
 いや、それとも、僕が思い出せないだけなんじゃないか。
 姉の親友でもあり、サヤカの姉であり、僕を幼い頃から知っている松谷アサカ。
 彼女のことを、もっと知りたい。思い出せなくてもいいから、知りたいと強く思った。
「なあ、サヤカ。アサカは、僕たちといつも一緒に登校してくれてたんだよな?」
「うん。アサカお姉ちゃんが中学生になっても、途中まで登校してくれてたよ」
「なんでアサカは、そこまでして?」

 おぼろげに覚えている。
 北小と中学校は離れた位置にあったはずだ。途中まで僕たちと登校するとなると、アサカは遠回りをして中学校に通っていたことになる。
 僕の切実な疑問に、サヤカはクスッと笑った。

「お姉ちゃんはそういう人だもん。面倒見が良くて、優しくて、素敵なお姉ちゃん。人当たりが良くて、歳や性別関係なく誰とでも仲良くする。私はそんなアサカお姉ちゃんが大好き。小学生の頃のショウくんも、アサカお姉ちゃんが大好きだったんだよ」
「……そうなのか」
「たぶんね、ショウくんの初恋相手はアサカお姉ちゃんだったと思うよ?」
「は?」
「ううん。絶対にそう。私、見ててわかったもん」

 サヤカは柔らかい声で、そして──どこか切ない表情を浮かべてそう言った。
 変な感情が湧き出る。僕は、アサカの記憶はないんだ。サヤカにいきなり自分の初恋相手を教えられても腑に落ちない。
 なのに、心臓だけは異様にドキドキしていた。

「サヤカ、からかうなよ」
「からかってないよ? 本当だもの」
「証拠がない」
「証拠なら、ある」
「じゃあ見せてみて」
「見せられないよ」
「だったらこの話はやめだ」

 これで僕の恥ずかしい思い出話は終わると思った。けれど、彼女がそうさせなかった。

「……トランペット」
「え?」
「ショウくんの記憶に残ってる、トランペット。どうして金管バンドに入ったか覚えてる?」

 なにも、答えられなかった。
 僕が金管バンドに入ったきっかけ? なんだったっけ。衝動的にはじめたような気がするが、明確な理由が思い出せない。
 頭を巡らせて僕が取り戻せない記憶を探っていると、サヤカはしんみりとした口調で囁いた。

「アサカお姉ちゃんが、きっかけだよ」

 アサカが? まさか。

「アサカお姉ちゃんがクラリネットを頑張るようになったあとに、ショウくんはトランペット吹きはじめたの」
「クラリネットとトランペットは違う楽器なのに?」
「ショウくん、四年生のときも同じことを言ってた。金管バンドには、木管楽器はないでしょう? 本当はクラがやりたかった。アサカお姉ちゃんみたいに、格好良くメロディを吹きたい!って喚いてたよ」

 なんだそりゃ。小学生のときの僕って、結構幼稚だったんだな。

「トランペットをはじめて数日したら、ショウくん、夢中になって練習してたよ。トランペットはクラのように、曲中でメロディを奏でることがある金管楽器だから。それをアサカお姉ちゃんに言われてやる気が出たみたい」
「……単純だな、僕は」
「単純で純粋なところがショウくんのいいところだよ。金管バンドに入ってからひと月経った頃には、トランペットが大好きになってた。一生懸命練習して、本当に楽しそうだったな……」

 想いに耽るように、サヤカは目を細めた。
 なんだか不思議だ。サヤカやアサカの記憶は穴が空いたように抜けているのに、僕の頭には関連したことだけちゃんと残っている。

 しかしここで、サヤカの表情が変わった。

「ショウくんが金管バンドをはじめたのが四年生のとき。アサカお姉ちゃんは中学二年生だった。楽しくて平和に過ごしていた私たちの日常が、崩れる事故が起きたの」

 サヤカの言葉を聞いて、僕の胸が低く唸る──

「いつものように、私たち三人は登校してたの。なんでもない会話をして。通学路の途中にね、道が狭い場所があったんだ。スクールゾーンになってたから登校時間に車は通らない、はずだったの」

 道が狭い場所──僕はすぐさま記憶を辿る。
 なんとなくだが、覚えている。僕たちの家から学校までの道のりで、一カ所だけ細くて歩きづらい道があったのを。
 車が抜け道として走る場所だから、帰りは道の端に寄って一列で歩きなさいと、学校の先生たちにもしつこいくらい言われていた。

「覚えてる。車が一台しか通れない道だったな」
「その道、朝の七時半から八時半まで車は通行禁止なんだ。でもある日──あれは、夏休みに入る直前だったな、一台の軽トラックが間違えてスクールゾーンに進入しちゃって。運転手は道を早く抜け出そうとして、スピードを上げながらその道を通った。きっと焦っちゃったんだろうね。運転を誤ったせいで壁にぶつかって、そのまま私たち三人が歩いていたところをスピードが出たまま……」

 突っ込んでしまった。
 ──そんなことがきっかけで、僕は彼女たちの記憶を奪われたというのか。

 サヤカは落ち着いた様子で話し続けるが、海色の瞳は悲しさの文字で埋められている。

「私もね、事故当時のことはあんまり覚えてないの。ニュースにもなってて、お父さんたちに色々教えてもらって後から事故を知ったというか」
「そうだったのか……。でも、サヤカは僕のように誰かを忘れるってことはなかったんだな」
「……うん。そうだね。忘れたくなかったの。死んでも(・・・・)ショウくんとアサカお姉ちゃんのことは忘れたくないもの」
「え……?」

 サヤカの言いかたに、どこか違和感を覚える。でも僕は、その言葉の真意を深く聞き出す勇気はなくて。

「死んだら、なにもかもなくなるんだぞ」

 そんな当たり障りのない返答しかできなかった。
 サヤカは僕の顔をじっと見つめてきた。彼女の海色の目は、出会った頃よりも濃い水色に変化している気がする。

「ショウくんの、言う通りだね」
「なにが?」
「死んじゃったら全部『無』になる。意識も、記憶も、思い出も。なにもかもなくなっちゃうんだよね」

 ひとつひとつの単語を強調するように、彼女はそう言った。
 彼女の言葉の意図が汲み取れない。僕がなにげなく返したことに、サヤカはなにか深い意味を感じているのだろうか。
 サヤカは、体を丸めるろこの頭をそっと撫でる。

「だからもう、これ以上はなにも話したくない」
「……え?」

 思いがけない話に、僕は言葉に詰まる。

「どうしたんだよ、サヤカ。まだ、全部教えてくれてないだろ?」
「……うん」
「さっき言ってたよな? 約束がどうのって。なんの約束なんだ?」
「……それは、私たち三人が交わした約束のことだよ。言ったでしょう? 約束を思い出すべきか。ショウくんの命を優先にすべきなのかって。そんなの、考えなくてもわかる。私、ショウくんには生きてほしい。だからもう、思い出を話すのはやめる」
「まさか、うちの母親に言われたからか? 僕とサヤカがいたら、いつか僕が記憶を取り戻して奇病のせいで死ぬかもしれないからって。母親から僕に関わるなって言われたんだろ!」

 思わず大きな声を出してしまった。驚いたろこは目をぱっちりと開けて、イカ耳になって僕を見ている。
 ごめん、ろこ。僕はしばらく冷静になれそうにない。

 これまでの母とのやり取りを思い返す。母は、サヤカの話になるとたびたび不機嫌になっていた。彼女のことを知っているのに「知らない」ととぼけていた。
 奇病が原因で、失った記憶を取り戻すと脳が萎縮して、死に至るかもしれない──それを心配した母が、サヤカに「ショウジと関わらないで」と忠告をした。たぶんそれは、朝に駅で僕が二人を見かけたタイミングだろう。
 サヤカは頷きもしなかったが、気まずそうな顔を見ればわかる。僕の予想は合っている。

「うちの母親の話なら気にしなくていいからな。僕は答えを出した。奇病なんて怖くない。こんなに僕はピンピンしてるんだ。大丈夫だよ」
「違う……ショウくんが思ってる以上に、奇病は厄介なの。それに、私は『答え』を出してなかったんだよ。中途半端な考えのまま、ショウくんと再会したのがいけなかった。高校も一緒じゃなければよかったのに。家も、遠いままの方がよかったんだよ。わがままな私が悪いの。奇病のことをよく理解してなかった私が……」
「……? なに言ってんだよ、サヤカ?」

 僕が顔を覗き込んでも、サヤカは目を合わせてくれない。眉を落とし、目にたまる悲しみの雫を必死に抑えている。

「だったら、ひとつだけ教えてくれ」
「……なに?」
「アサカは、いま、どうしてる? いつ頃帰ってくるんだ」

 サヤカが話してくれないのなら、僕自身でどうにかするしかない。面倒見が良くて優しいアサカなら、全部教えてくれるかも。会って、話がしたい。
 安易に、僕はそう考えていた──でも、それは大きな間違いだったんだ。

 ゆっくりと首を横に振ると、サヤカは切ない表情を浮かべる。

「アサカお姉ちゃんには、会えないよ」
「なんで? 帰ってこないのか?」
「帰ってこないよ。この家には、私だけ……ううん、私とろこだけしか住んでないもの」

 サヤカが、家族と暮らしていない?
 また想像もしてなかったことを返された。

「ショウくん、気づかない? この家、狭いでしょう? 生活部屋はここだけだよ。あとはダイニングキッチンがあるだけ。部屋にも、私とろこのものしか置いてない」

 そう言われ、僕は室内を見回した。
 言われてみれば。
 部屋には若い女の子が好きそうな可愛い小物ばかりだし、部屋の隅にキャットタワーやろこ用のトイレや爪研ぎ場、フードボールがあるのに、他の家族が使いそうなものは一切ない。
 最初にサヤカの家に上がったときは緊張のせいで室内をしっかり見る余裕なんてなかった。だから、部屋数なんて全く把握してなかった。まさか、生活部屋がこの一室だけなんて。
 思えば外観はずいぶんとこじんまりとした印象はあったが。

「なんでサヤカは一人暮らしをしてるんだ?」
「えっと……。東高に通うためだよ」
「東高に?」
「うん。ほら、私が前住んでたところってS県なの。北小の近くで。ショウくんならわかるよね? そこから東高に通うには、都内を通ってK県まで行かなきゃいけない。電車でも一時間半以上かかるから、私だけこっちに引っ越してきたの」

 サヤカは早口になってそう説明したが、なんだか腑に落ちない。
 北小はS県にあって、サヤカの実家はその近くにあるのだろう。そこから東高に通うとしたらたしかに通学が大変だ。
 だけど、東高校は偏差値五十ほどで、どこにでもある普通の学校。なにかの部活の強豪校でそこに入部するためというならわかるが、サヤカは部活にも入ってない。彼女がわざわざ家族と離れて暮らしてまで東高に通う意味がわからなかった。
 僕が、そのわけを彼女に問いかけようとしたとき──

「……うっ……」

 まただ。また、あの頭痛が襲ってきた。
 耳の奥の方で、高い音も鳴っている。
 薬の効果がもう切れたってのか……?

 いま僕が頭痛に苦しんでいるところをサヤカに見られるのはまずい。どうにか、平静を装うんだ。
 口を噤み、目をギュッと閉じ、僕は痛みにじっと堪えた。
 早く、治まれ。治まれ……。
 僕が必死に心の中で叫んでいる、その折だ。

 ──ショウくん──

 頭の中に「なにか」がよぎった。幻聴なのだろうが、この「なにか」は頭痛と共に聞こえてくる。

 ──会いに、来ないでね──
 どこからともなく、少女の声が聞こえた……気がした。
 サヤカのものじゃない。なんとなく似ているが、声質が違う。
 ろこが喋るはずもないし。
 いまのは一体なんだったんだろう。
 この部屋は僕らの他にはいないのだから、きっと気のせいだ。

 考えているうちに、頭痛は消え去っていた。耳鳴りもしない。
 よかった。すぐに落ち着いた……。
 深呼吸してから、僕はもう一度サヤカと向き合う。

「サヤカが家族と離れて暮らしていたのは、驚いたよ。一人で大変じゃないのか?」
「意外に平気。学校帰ってから掃除とか洗濯とか料理するの、結構楽しいし。マニーカフェでバイトをはじめたから自分の時間は減ったけど……」

 彼女はさっきまで泣きそうな顔をしていたが、いまは落ちついてきたようだ。

「そうか。あそこのマニーカフェで働くことになったんだな」
「そうなの。今日も六時からシフト入ってるんだけど──て、あれ? もうこんな時間!」

 サヤカは慌てたように、立ち上がった。ろこは何事だと言わんばかりの顔をしてサヤカを見上げている。
 掛け時計を見てみると、すでに五時を回っていた。

「そろそろ準備してバイト行かなきゃ。あの……ごめん、ショウくん。今日は帰ってもらえないかな?」

 本当はまだまだ聞きたいことはある。でも今日ばかりは仕方がない。
 僕は渋々頷いた。

「わかった。長居して悪かったよ」
「ううん。私が誘ったんだし。ろこも嬉しそうだったよ」

 つぶらな瞳で僕を見るろこが可愛い。
 僕はそっとろこに手を伸ばし、頭に優しく触れた。黒くて艶のある毛が気持ちよくて、何度も撫でる。

「ろこ、喜んでるね。また遊びに来てねって言ってるよ」
「そう思ってくれてたら嬉しいな」
「思ってるよ。ね? ろこ」
「みゃー」

 ろこの返事に、胸が熱くなった。可愛すぎる。本当にまたここに来たくなるじゃないか。
 名残惜しいが、いつまでもいたらサヤカに迷惑をかけてしまう。
 僕は玄関に行き、ローファーを履いて、ドアノブに手を掛けた。

「じゃあまた明日、学校で」

 サヤカはろこを抱っこしながら「またね」と、僕に向かって手を振った。

 ついさっきまで暗い雰囲気だったのに、いまでは心が軽くなっている。これは、サヤカの力のおかげなのかも。彼女は明るくて天真爛漫なところがある。そんな彼女が束の間泣きそうな顔になったのは驚いたが、帰り際は笑っていたから安心した。
 サヤカに、泣き顔は似合わない。

 アパートを出て空を見上げると、雨は止んでいた。地面はまだ濡れていたが、雲から覗き込む夕陽の光はすごく綺麗。
 歩いて数歩先に自宅マンションがある。だけど──やっぱり帰りたくないな。とは言っても行く当てなんてないから、家に戻るしかない。
 帰ったら、真っ先に自室にこもろうか? それとも、どこかへ逃げようか。
 行くとしたら、ユウトの家? いや、部活で忙しいユウトの世話になるわけにはいかない。だとしたら──

 コハルの家に行くのはどうだろう。

 コハルは、アサカの親友だ。
 ……今日はコハルの家に泊めてもらって、その件を聞いてみようか。無事退院したことも報告したいし。
 でも、母さんとケンカしたなんて言ったら、またああだこうだはじまりそうだ。だから、それは黙っておく。母さんがコハルに余計なことを話していたら、面倒くさいけれど。

 とにかくいまは母とは会いたくない。それに、サヤカに色々と話を聞いたあとでは、僕はいてもたってもいられない。
 母親とは落ち着いて話せないだろうし、アサカのことを問いただせるのはコハルだけだ。

 そうと決まれば、僕は行動だけは早い。
 忍び足で自宅へ戻り、母にバレないよう通学鞄を手に持つ。中にICカードや財布が入っているか、明日の授業に必要なものはあるか確認し、そろりと自宅マンションを後にした。

 コハルに連絡もせずに、突撃訪問する気だ。コハルが吹奏楽の練習だったり、バイトだったり、あるいは彼氏が家に来てたりしたら気まずいかもしれないが、とにかく善は急げ。

 そうやって、僕は忠告を無視した行動を取ってしまうのだ。



 僕がコハルのアパートに着いたのは、六時半頃。コハルは不在だった。
 仕方なくメッセージを送る。どうやら今日は大学で吹奏楽部の練習があるらしい。終わるまで僕はアパートの前で待つことにした。
 その間、母さんから何度も連絡が来ていたが無視を貫く。コハルのアパート前にいると正直に伝えたら確実に連れ戻されてしまう。

 アパート前でぼんやりしていると──さっきサヤカから聞いた内容が頭をよぎる。
 思い出を語る彼女の口からは、何度もアサカの名前が出てきた。毎朝一緒に登校して、サヤカだけじゃなく僕のことも面倒を見てくれて、さらには僕が初めて好きになった相手(らしい)。
 事故のショックと奇病が原因で一部の記憶を失った可能性があるとサヤカは言っていたが、正直なところ僕は半信半疑だった。サヤカから話を聞いていたときは受け入れようと思っていた。
 けれど、あまりにも現実味がない。冷静になったいまは、とくにそう思う。

 僕が奇病を患っている? そんなのありえないよ。

 もし事実だとしたら、どうして僕自身が自分の抱える病気を知らないんだって話になる。
 記憶を失っているから、というのは理由にならない。普通、医者や家族から教えてもらえるはずだ。
 定期的に白鳥先生に診てもらっているが、奇病に関する診察ではないはず。僕は、幼い頃体が弱かったから。治療してだいぶよくなった。けれど、不定期にやってくる頭痛はなかなか治らないから、通院し続けているんだ。
 
 サヤカを信用していないわけじゃない。彼女が嘘をついているようには見えないし、嘘をつく意味もない。
 複雑な事情が絡んでいて、サヤカは事実以外のことも言ってしまったのではないか? 途中で思い出を話すのをやめてしまったし。
『約束』ってなんのことだろう。目の色が変わるとどうなるのだろう。
 この他にも気になることや腑に落ちないことが山ほどあるが、サヤカは僕の死を恐れてあれ以上は教えてくれないのだろう。
 だから、コハルから聞き出すしかない。今日は何分、何十分、何時間でもコハルを待ち続けてやる。

 いまいち自分が奇病に罹っている実感がない僕は、とにかく事実を知るために必死になっていた。


 ──コハルがアパートに帰ってきたのは、八時過ぎだった。
 僕が退院し、すっかり元気になったことをコハルは喜んでいた。
 待ちくたびれた僕は、まともな返事なんてできない。
 
「ずいぶん帰りが遅いんだな。吹奏楽の練習、大変なのか?」
「まあね。夏のコンクールに向けて必死なのよ。ていうかうち来るならもっと早めに連絡してよね」

 文句を垂れながらも、コハルは僕を部屋に入れてくれる。対面式キッチンに立ち、料理の準備を始めた。

「テキトーにパスタでも作ろっか?」
「ああ。僕も手伝う」
「いいよ、あんた、待ちくたびれて死にそうな顔してるし。食べ終わったあと食器洗いしてくれるならいまは休んでていいよ」
「じゃあそうする」

 僕はヘトヘトの足を休ませるためソファに腰かけた。
 鍋に水を入れ、火に掛けるコハルは、手を動かしながらこんなことを問いかけてきた。

「ショウジ。ママとなんかあったでしょ?」
「……え」
「ママから連絡あったんだけど。ショウジそっちに来てない?って。電話くらい出てあげなさいよ」
「……」

 うつむき加減になり、僕は口を噤んだ。
 呆れるようにコハルはため息を吐く。

「まったく。高校生にもなって、反抗期?」

 違う。そんなんじゃない。これは、母さんが悪いんだ。僕に嘘をついた母さんが……。
 必死に言い訳を探す自分自身に反吐が出る。
 バカだよな、僕は。
 ──母さんは、僕を心配しているのに。
 それは、わかっている。わかっているけれど。僕の中で整理がつかない。受け入れたくないんだ。サヤカから聞いた話を。
 僕が、奇病だなんて。信じたくないんだ。

「なあ。コハル」

 問いかけるしかない。この不安を解消するために、コハルからの返事が「ノー」であってほしいと思いながら。

「……僕は、本当に奇病なのか?」

 驚くほど、声が震えた。

「サヤカから聞いたんだ。僕が奇病なんだって。小四のとき事故に遭って、それがきっかけで奇病に罹ったことも、そのせいで一部の記憶がなくなったことも。……だけど正直、どこまで本当なのかわからない。受け入れられない自分がいる」

 自分の意思ではなく、まるで勝手に口が動いているように、まとまりのない話しかたになってしまった。
 パスタを作る手を一度止め、コハルはなんともいえない表情を浮かべて相づちを打った。

 僕がひと通り喋り終えたあと、コハルは小さく呟いた。

「なんで、サヤカちゃん……ショウジに話しちゃったのよ……」

 コハルの悔しそうな顔を見て、僕は現実を突きつけられた気分になった。
 まさか、サヤカから聞いた話は本当なのか。