「え…?」
岡野美代は、目の前に突き出されたナイフを呆然と見つめる。頭が働かない。体もうまく動かせない。目の前の男があと少し手を動かせば、自分はいとも簡単に殺されてしまうというのに。
その時。
「あっ…」
意外なほどの速さで、胸にナイフが突き刺さる。口から血が吹き出す。
「ぅあ…どうし…て」
耐えられず、床に倒れ込む。
薄れゆく意識の中、最後に見えたのは___
自分の血で真っ赤に染まったナイフと、あの男の顔。
その顔は、獣のように笑っていた___
神崎真衣(かんざき まい)に出動命令が出たのは、これから夕食の準備を始めようとした時だった。神崎の先輩刑事である和本(かずもと)から電話があり、「今すぐ家を出てこの場所に来い」という言葉とともに事件のあった住所を伝えられた。自宅のあるアパートの前でタクシーをつかまえ、住所を伝える。背もたれに体を預け、小さくため息をついた。
念願だった捜査一課に配属されて1ヶ月。聞き取りと捜査会議と取り調べの記録係以外の仕事をした記憶がない。今日だって、本来なら非番なのだから今頃ゆったりと晩ごはんを食べているはずだったのだ。正直、こき使われているという言葉がぴったりの生活である。
そんなことを考えているうちに現場に到着した。
事件があったのは東京都中央区の閑静な住宅街。普段ならば穏やかな雰囲気に包まれていたであろうその場所は、パトランプの光と捜査員たちの声でかき乱されていた。
事件があったという家に、捜査員が慌ただしく出入りしている。神崎も、周りの人々に軽く会釈をしつつ家に入っていった。
「お疲れ様です」
「あぁ。被害者はこっちの部屋。岡野美代(おかの みよ)という女性だ」
和本と少し言葉を交わし、遺体がある部屋に足を踏み入れる。二十代半ばほどの女性が顔だけを横に向け、うつぶせに倒れていた。見たところ、心臓を刃物で刺されているようだ。スーツのポケットに常備している白い手袋を取り出し、手にはめる。そして、周りの捜査員や鑑識に混じって部屋の中の捜査を始めた。
「被害者は、岡野美代さん、24歳。あの家に夫の岡野一(おかの はじめ)さんと一緒に暮らしていた。心臓をナイフで刺されて亡くなっている。鑑識によると、刃渡り20㎝ほどのナイフだと思われる、とのことだ。これからお前たちには、被害者の人間関係、トラブル関わっていなかったかなど、手分けして捜査してもらう。以上」
捜査会議が終わり、神崎は和本と共に犯行に使われた凶器を突き止めるべく現場付近で刃物を取り扱っている店に片っ端から当たっていった。
「ご遺族の方…えっと、夫の岡野一さんが、捜査員と一緒に現場を確認したところ、通帳や印鑑、それに現金などが盗まれていた、ということでしたよね。強盗の犯行なのか、強盗に見せかけた殺人なのか…」
「…まだはっきりとは分からないが、今回の犯行はかなり計画的と言われている。とにかく調べるぞ」
「はい」
その後、いくつかの店を回ったが、何も収穫はなかった。1店だけ、最近サバイバルナイフを買った客がいるという店が見つかり確認したが、刃渡りなどが一致せず、関連性はなさそうだった。
「現場近くの店で、凶器を購入した痕跡はありませんでした。範囲を広げて調べましょうか」
「…いや、今回の犯人はかなり計画的に犯行を進めている。おそらくだが、凶器もかなり前から準備していたと思われる。痕跡を見つけるのはかなり難しいだろう」
「「はい」」
「2人には、被害者の学生時代のことを調べてきてほしい。連絡がとれた人が何人かいるのだが、そのうち3人が近くに住んでおり、集まっていただけることになった。埼玉県に行って話を聞いてきてくれ」
「「分かりました」」
次の日。2人は埼玉県内のファミレスにいた。先に先に座り、コーヒーを飲んでいると、3人の男女が入店してきた。男性が1人と、女性が2人。スタッフが席に案内しようとするのを断っているところを見ると、あの3人が待ち合わせの相手らしい。
「すみません、待ち合わせした方ですよね?」
「あぁ、はい。えっと…よろしくお願いします」
神崎が声をかけると、相手もやや緊張しつつ応じる。3人を先に座っていた席まで案内し、向かい合うように椅子に座る。
「好きな物を頼んでください」
「あっ…ありがとうございます」
女性の1人がメニューを受け取り、順番に注文していく。スタッフが立ち去ったのを確認して、和本が話し始めた。
「まずは、名前を確認させていただきます。顔と名前を一致させておきたいので」
と前置きし、3人の名前を確認していく。
男性が山川、女性2人はそれぞれ水野、田口と名のった。
「それでは、少しお話を聞かせていただきたいのですが。あなた方の中学校時代のクラスメイト、岡野…あぁ、旧姓は五十嵐美代さんですね。彼女の、中学の時の様子を聞かせてもらいたいんです」
すると、3人はそれぞれ顔を見合わせ、少し言いにくそうな表情になった。やがて、1人の女性が、仕方なく、といった様子で話し始める。
「五十嵐さんは…いじめを、えっと…」
「いじめられていたんですか?」
「いえ、その…いじめていた側…というか…」
もう1人の女性が答える。
「あぁ、なるほど…ちなみに、いじめられていたのは?」
3人は目配せし、相談を始める。
「…誰だったっけ?」
「男子だったよな…」
「それは覚えてるんだけど、名前は…思い出せない」
(いじめられていたのは男子…)
神崎は少し意外な気持ちになりつつ尋ねる。
「他に何か、覚えていることはありませんか?」
「うーん…」
「すみません…私はほとんど覚えてないです」
「僕もです」
「私も…。かなり昔のことなので」
「そうですか。では、また何か思い出せたり、分かったことがあれば連絡をいただけると助かります」
「分かりました」
「ごめんなさい。あまりお役にたてなかったみたいで」
「いえいえ、当時の様子が知れただけでもよかったです」
「協力していただいてありがとうございます」
和本・神崎が礼をいうと、3人は少し安心した様子になった。店を出て3人と別れた後、神崎は内心で首を傾げる。
(いじめ加害者だったということは、恨まれる理由は一応あったということ。でも…中学時代となるとかなり昔のこと。恨み続けていた、という可能性もなくはないけど…)
署に戻ると、他の捜査員たちも次々と戻ってきて、捜査会議が始まった。自分たちの報告を終え、他の捜査員たちの報告を聞く。凶器に関する情報は見つかっておらず、まだ事件の解決に繋がりそうな情報はない。捜査会議の後、今回の事件について整理していると、神崎の携帯電話に電話がかかってきた。
「いじめられていたのは、今の夫…?」
和本が、信じられないという様子で目を見開く。
「はい。先日、中学時代の話を聞かせていただいた3人のうちの1人…水野さんから電話がありました。いじめられていた生徒の名前を思い出したということで電話をしてくださったのですが、それが今回の事件の被害者の夫である岡野一さんだったんです」
「…なるほど」
「この間の捜査会議での報告では、被害者の死亡推定時刻の彼のアリバイはありませんでした。一度話を聞く必要があると思います」
「そうだな。係長に相談して、事情聴取をしよう」
「分かりました」
数日後。
岡野一が、殺人の容疑で逮捕された。取り調べによると、動機はやはり中学時代のいじめ。中学卒業後、忘れて生きていこうとしていたが、社会人になってから入った会社で偶然再会してしまった。出世している彼女を見て、その幸せを壊したいと心から思った。まずは、中学時代のことを忘れているように見せかけて声をかけた。名前を言うと、彼女は一応覚えてはいたらしく、最初はビクビクしていた。しかし、こちらが忘れているようだと気づき、普通に話し始めた。そのまま仲を深め、付き合い、結婚した。完全に油断するまで、さらに何年も共にそして…2人が、会社で再会した…復讐を決意した日に、ナイフで刺した。
強盗の犯行だと思われるよう、家の鍵は開けておき、貴重品を持って家を出た。そして、第一発見者として通報した。
以上が岡野一の供述だった。
「辛いことは忘れて、幸せに生きることが1番の復讐になるのに…」
神崎は1人、呟いた。