4月1日の午前9時ごろ、私はケーブルカーに揺られながら御岳山の山頂を目指していた。そこに私が目指している大岳山の山頂へ続く道があるためだ。そう、私は一人で大岳山への登山を決行することにしたのだ。それはどこか「押すなよ! 絶対押すなよ!」と言われたら押したくなる感覚に近いものがあったのかもしれない。窓から外を眺めると雲一つ無い青空で、まさに絶好の登山日和だし、線路の両脇はヤマツツジの赤い花で彩られていてとても奇麗だ。
 しかし私はそんな景色に見とれながらも一抹の不安も抱えていた。確かに一通り装備は揃えた。しっかり登山道のシミュレーションもしてきた。だけど山に一人で登るのは初めてで、大岳山は今まで登って来た山々よりずっと高い。加えて朝の4時半に起きなければならないプレッシャーに圧されて昨日はろくに眠れなかった。更に言えば地元の横浜駅から乗り換え3回、合計2時間30分弱かけて奥多摩駅までやってきて、そこからさらに電車、バス、このケーブルカーという鬼のような乗り継ぎをこなす必要があった。そんな中では眠る余裕なんて無い上に余計精神力を消費してしまった。私は眠い目をこすって山頂の方を眺めた。
 神本くんを見返すために一人で来たけれど、本当に登り切れるだろうか。大岳山には登らず、そのまま御岳山にある神社を見たり、商店街でご飯を食べたりする観光に切り替えたほうがいいんじゃないだろうか。
「いや、駄目だ」
 私はぶんぶん頭を振った。私だって一人で登れるってことを証明するんだ。大岳山の山頂からの眺めを撮って「一人でも登れたよ」って言って見返してやるんだから。そうして私が一人でぶつぶつと考えている間にケーブルカーは山頂へと到着した。

 山頂一帯は神社になっていて、その神社の石段を下りていくと大岳山へ続く山道があった。ちなみにもっと降りると商店街がある。私は登山道へ続く道を目の前にして、商店街と山道のどちらへ進むか少し迷っていた。慣れない早起きというか、徹夜をしたせいで足元がフラフラするし頭も全然回っていない。ここはコンディションが回復するまでちょっと下の商店街で休ませてもらった方が良いんじゃ……いや無理無理無理無理。コミュ障をこじらせて引きこもった私が知らない人にお願いするなんて無理ゲー過ぎる。
 それに早く登らないと今日中に下山できなくなってしまうじゃないか。うん、きっと大丈夫だ。山の中を歩いていたら調子も上がってくるだろう。そう思って私は山道に足を踏み入れた。しかし私はこれがとんでもない判断ミスだったと後で思い知ることになる。

 どれくらい登っただろうか。分からない。それさえ意識の外に追い出してしまうくらい私はフラフラしていた。いつもとは違う山の景色を楽しめたのは最初の10分だけ。それからはもう本当に息が切れる。心臓の鼓動もさっきからずっと速いまま。上着を一枚脱いで腰に巻いたが、まだ汗だくのままだ。しばらくして道が上りから下りに切り替わると、今度は汗の水分で寒く冷たくなってくる。それでさっき脱いだ上着を着ようとしたけど、まだ汗は止まってなくて、冷たいのに暑いというすさまじい不快感に包まれていた。どうにも我慢できなくなった私はその場で座り込んで休憩しようと思いついた。リュックから500mlの水を取り出し、一気に飲み干す。

「はあ、さっきも一本飲んだ後だからもうお腹タプタプだよ」
 しかしこんな呑気な思考は余裕のない中だと一瞬で引いていくもので、私の頭の中はこの後どうしようかという不安で一杯だった。もう完全に山頂までたどり着ける体力が残っていないのは明白だ。かと言ってここで引き返したら神本くんの言う通りになったみたいで悔しい。その小さい小さいプライドが私を素直に下山させることを拒んでいた。
「そうだ、長尾平まで行こう」

 長尾平とはこのまま山頂へ進む道の途中にある場所で、開けた公園のようになっている。せめてそこまで進んで景色を眺められたら私の気持ちも晴れる気がした。我ながら良い妥協案だ。そうと決まればすぐ出発しよう。私が膝に手をついて立ち上がった、その時だった。自分が立っている道を挟んで上の斜面からガサガサと物音がした。明らかに風の音ではない。未知の音にギョッとして目をやる。草の繁みに何かいる。黒くうごめく何か。それが私の方を伺っている。

『せめてあと一か月待つんだ。それにツキノワグマが出たという情報もあってな』

 神本くんの言葉が脳裏によぎった瞬間、私は悲鳴を上げていた。クマだ。ツキノワグマだ! 私はクマと対峙した時は決して背を向けてはいけないという忠告を完全に忘れていた。冷静に考えることなど出来ず、次の瞬間来た道を駆け出していた。リュックを下したほうが速く走れることも、リュックを捨てればクマの興味がそっちに向くことも考えられなかった。単純に今までの人生で一番の速さで足を動かすことしか思考になかった。
 しかし体調不良の中そんなことなど出来るはずもない。七、八歩走ったところで足がもつれる。
 更に、態勢を整えようとした足が左に逸れる。道を外す。
 あっ、と思った時には既に、私は斜面の下へと放り出されていた。