その日私は中々寝付けなかった。神本くんが言っていた人生詰んでる系中年男性の話はジワジワと私の精神を削っていった。私も将来的には引きこもり無職おばさんになりかねない。嫌だ。このまま中学校もまともに行かないまま卒業して、焦るまま時間だけを無駄に過ごし人生を終えることになるんだろうか。怖い、怖い、怖い……! そうして未来への不安にうなされていた私はいつの間にか眠っていたらしい。
まどろみの中、吹き付ける冷たい風を顔面に感じる。ほとんど眠っている私の頭は本能的にその原因を求めていた。そうだ、神本くんだ。大方あの人が朝早くから窓を開けて入ってきたせいで、部屋の中に風が吹き込んでいるに違いない。
「ちょっと神本くん!」
目を開けた私の前に飛び込んできたのは嘘みたいに澄み切った空だった。視界のすぐ先を小鳥が飛び交い、赤い薄雲の漂う上空には線を引きながら飛行機が飛んでいく。え? ガチの外? 私は反射的に起き上がって辺りを見渡した。私の前には朝日がまぶしく輝いている以外は何も見えない。目線を下に下げると森が連なっていて、ずっと下っていくとオレンジ色にきらめく街と海が見えた。あたかも自分が神様にでもなって、上空からその荘厳な景色を見晴らしているかのような気分になった。
「起きたか」
後ろからの声に振り替えればそこにはいつもの忍者野郎がいた。
「ちょっとここどこなの!?」
「山の上だぞ」
「分かってるわよ!」
「正確に言うと大楠山の山頂にある展望台の上だ」
確かに自分の足元は土ではなく鉄の床だ。というか大楠山って私の家から3㎞くらい離れた場所にある山なんだけど。えっと待って。脳みそがついて行ってないけど私寝てたんだよね? まさか元気に3㎞歩いた後山頂まで登るなんて活力あふれる夢遊病みたいなことしてないよね?
「俺が運んだ」
神本くんはふんす、と鼻から息を漏らした。
「ごめん、もっと分からない。私を担いでここまで来たっていうこと?」
「そうだ」
「3㎞も歩いて……?」
「問題ない」
「山頂まで!?」
「お前は軽かったからな」
「……神本くん、馬鹿なんじゃないの?」
「山頂までぐっすり眠って一切起きなかったお前もどうかと思うが」
くっ。
私はここで初めて自分が肩からつま先まで寝袋に包まれ、マフラーをグルグル巻きにされ、なおかつニット帽もかぶせられていることに気付く。
「……もしかして私が寝ている間にお着換えさせられたの……?」
「お前の着ている物は脱がせていない。上から被せただけだ」
「それでも問題でしょ! あんたセクハラで訴えるわよ!」
「好きにしろ」
腹は立った。もっと汚い言葉で罵倒してやろうかとも思った。だけどそんな事より気になったのは神本くんの動機だ。私を外に出すだけなら近所でも良かっただろう。
「どうして、こんな所まで……」
神本くんは筋肉質だし私を担ぎ上げるなんて大して難しくないのかもしれない。それでも人ひとりを担いで3㎞歩き通した後、この決して低く見えない山を登り切るのは相当骨の折れる仕事だったはずだ。
「どうしてこんな所まで私を運んできたの?」
「だってほら、奇麗だろう。茜にも知って欲しかった」
神本くんは燃えるような光に包まれた街を指さして言った。それはあまりにも単純だけれど十分な説得力を持つ美しい光景だった。
「これでお前はもう引きこもりではない。残念だったな」
私の横で胡坐をかいた神本くんが朝日に向かって呟くように言うのだった。
「うぁあああ、もう無理。歩けないよぉ」
人気のない深夜の住宅街で私は立ち止った。歩いていただけだというのに、私の心臓は馬鹿みたいに早く脈打っている。このまま走りでもしたら心肺停止を起こしそうだ。
「3分だけ休む。3分経ったら再開するぞ」
隣を歩いていた神本くんは極めて機械的な声で言った。
「えええええええ。3分なんて休んだうちに入らないよぉ」
ちょっと甘えた声を出してみたが神本くんの表情は一切動かない。ちっ、この鉄仮面め。
「今のうちに少し水分を補給しておけ」
と思っていると今度は飲料水を差し出してくれた。優しいんだかスパルタなんだかよくわからない。
事の発端は半年ぶりに外に出て山頂から景色を眺めたところまで遡る。あの事件以来私の頭の中は寝ても覚めてもゲームをしていても、大楠山の展望台から見た朝日に染まる美しい景色が幅を利かせ続けていた。なんせ半年間家の中のほの暗い光景と、PCの人工的で有害な明るい画面しか見ていなかったのだ。それにはショック療法的な衝撃があった。それに輪をかけて神本くんが毎日やってきては
「一緒に登ろう」
と私を誘惑してくるのだ。もはや慣れたもので、私は鍵を掛けるのを放棄してしまった(どうせ侵入される)し、親は神本くんが来るとニコニコしながらジュースとお菓子を運んでくる。そうして彼は出されたお菓子を食べこぼしながら、登りやすい山や景色の奇麗なハイキングコースの話を無表情でするのだった。最初は登り切れる自信が無くて、恐怖心から彼の誘いを断っていたのだけれど、でも徐々に私の心は動かされていった。そして大楠山に登ってから一週間経った日、ついに私の方が折れた。
「分かったよ! 行くから!」
私の言葉を聞いた神本くんはお菓子を咀嚼していた口を急に止めた。時間が止まったのかと疑うレベルで止まった。かと思うと口の中にあったものを一気に飲み込んで私の目を見つめ、言った。
「その言葉を待っていた。山に登るためにはトレーニングが必要だ。トレッキングシューズも必要だし他にも必要なものがたくさんある。とりあえず今日からトレーニングを開始するぞ」
そして現在に至るというわけだ。最初は家の外を100歩歩くだけでも凄まじい息切れと筋肉痛に襲われていた。本当は一日目でギブアップしたかったんだけど、そうは問屋が卸、いや忍者が許してくれなかった。
どうやっているのか分からないけど、毎晩毎晩我が家の屋根に登っては部屋の窓をトントン、トントンと叩くのだ。もう恐怖以外の何物でもない。もしかして彼は忍者ではなくて忍者の形をしたゾンビなんじゃないだろうか。……忍者ゾンビって何かB級ホラー映画みたいだな。まあそんなこんなで毎日無理やり外に引っ張り出されて運動していた私だけど、三週間経った頃には何とか1㎞は連続で歩けるように、そしてスクワットを連続で10回出来るまでには筋力が回復していた。きつかった。毎晩寝る時「今日は神本くんが足首をぐねって私の家に来ませんように」と呪いを掛けるくらい彼を嫌いになったけど今は感謝している。いや今でも突き指くらいはすればいいのに、とは思っているけども。
「今日から新しいトレーニングを取り入れるぞ」
「ええっ、まだやるのぉ」
1㎞を歩き終えて座り込んでいた私は非難の声を上げた。
「今は平地で歩いているに過ぎない。だが山は坂道を登らなければならないし、登った後は降りなければならない。少しでも坂道に慣れる必要がある」
「はいはい。要するに坂道を歩くのね」
「違うぞ」
「違うんかい」
神本くんは背負っていた四角いリュックからボクシンググローブを取り出して私に手渡した。
「これからお前に空手を教える」
「ねえ山は!? 坂道は!?」
あと君は空手家じゃなくて忍者ではないのかい?
「もし野生のイノシシに襲われた時にだな」
「どっちにしろ素手じゃ勝てないわよ!」
「あと野生の空手家が飛び出して来たら」
「どこの山よ!」
そんな馬鹿な事もしながら一か月が経ち、ついに私が再び大楠山に登る日になった。もちろん出来ないんじゃないかという不安は消えない。それでも一か月間でやれるだけのトレーニングは積んだ。足にぴったりのトレッキングシューズも買った。可愛い登山用リュックも買った。ちなみに登山道具は神本くんに助言をもらいながら決めて、お金はお父さんにおねだりして出してもらった。思えばこれが半年以上ぶりにお父さんとまともにした会話だった。それはともかく出来る限りの準備はしてきたのだ。自信を持とう。
「さて、準備はいいか?」
舗装されたコンクリートの道から、本格的な山道に入る境目で神本くんは私の方を見た。神本くんは上パーカーに下ジャージという組み合わせで、忍び装束を比べればいくらかまともな格好をしていた。ちなみに「自分一人ならば忍者服のまま登るところだった」と後から本人に聞いたときは開いた口が塞がらなかった。そして私はというと……、ここまで登り坂だったため既に息切れしていた。
「……止めておくか」
神本くんは私の肩に手を置いて言った。
「勝手に諦めないでよ! 私だって一か月トレーニングしてきたんだもん。登れるよ」
「だが無理はするなよ」
「分かってる」
言いながら私は土の地面へと足を踏み入れた。
その瞬間、まるで全く別の部屋にでも入ったかのように空気が変わるのが分かった。普段吸っている家の空気とはまるで違い、澄み切っていて張りがある。吸うたびに自分の意識が明瞭になっていくような感覚さえある。これが……山なんだ。私はこの時点で疲れていることも忘れてどこかハイになっていた。山頂で見た光景ほどインパクトは無いものの、半年以上ぶりに見た自然の景色は鮮やかで、心が洗われるような美しさだ。少し歩くと道端にアヤメに似た花が群生しているのを見つけた。
「わあ可愛い、あれ何の花だろう」
「あれはシャガだ。アヤメ科の花で普通は4月から5月に咲く花だが、最近温かかったから咲いたんだろう」
嬉々としてスマホで写真を撮る私の横で神本くんが早口に解説してくれた。
「……詳しいんだね」
すると神本くんはふんす、と息を漏らし、森のあちらこちらを指さし始めた。
「あれはオオシマザクラ、伊豆諸島に多く生えていて今が花盛りだ。そこに生えているのはクスノキ。この山には多く群生している。あと今鳴いて飛んで行った鳥はモズだな。可愛い顔をしているが獲物を串刺しにする習性を持ったえげつない奴。そして俺は忍者だ」
最後のは言わないといけない決まりでもあるんだろうか。
「っていうか何でそんなに詳しいの? もしかして山オタ?」
「実は中一の頃、山籠もりをしたことがある」
おっと、さらっと衝撃の過去を告白してきよった。そんな空手バカ一代みたいなことを現代にする奴なんて、うん、神本くんならやりかねないな。
「合計で二回やったんだが、一回目は間違って毒キノコを食べてしまってな。危うく死ぬところだったんだ」
「何か笑えそうだけど一切笑い事じゃない話だね」
「その経験から俺は山の植物や動物について調べに調べて詳しくなったというわけだ。死にたくなかったからな」
この人の人生体験を聞いていたらもっと面白い話がたくさん出てくるんだろうなあ。石の橋を渡ってしばらく行くと、傾斜がきつくて幅の狭い階段が現れた。私は一度水分補給をして階段の上を見据えた。行くしか、ない。意を決した私は勢いよく足を踏みこんだ。……一段につき二度足を着きながら。それでも苦しくてちょっと進んだところで立ち止まってしまう。
「大丈夫か」
後ろからぴったり着いてきていた神本くんがひょいと私のリュックを取り上げた。
「俺が持ってやる」
トレーニング中はずっと鬼だと思っていたけど、こんな時に優しいのは何だか神本くんらしい。
「ありがとう」
お礼を言って、深呼吸して、また一歩ずつ私は進んでいった。だけど、またしばらく進んだところで私は足に限界を感じ始めた。未だかつて感じたことのない疲労がふくらはぎ周辺を覆い、心臓はまるでネズミの走る足音のように早く脈打っている。でも、前に進まなきゃ。私は絶対にもう一度あの景色を見るんだ。
「座ろう」
神本くんはまるで先ほどのリュックを担ぐように軽々と私を担ぎ上げ、その場の階段に座らせた。小鳥のさえずりと葉のかすれる音が光の降り注ぐ森を覆っている。
「今日は帰ろう」
「……」
何か言葉を返したかったが息切れしすぎてそれも出来なかった。
「山登りで大事な事は山頂まで登りきることじゃない。無事に下山すること。生きて降りることだ」
「そんなこと、分かってる」
本当はもっとやんわり返したかったんだけど、体力が限界だったせいで棘のある言葉になってしまった。しかし神本くんは意に介していないようだ。
「生きて帰ってもう一度チェスをしよう」
「一回もしたことないんだけど」
あとその死亡フラグみたいな台詞言うのやめて欲しい。
「まあ今回登れなくても気にするな。次に登り切ればいいだけだ」
そう言って私の肩をぽんぽんと叩いた。私は「まだ登りたい」とも「じゃあ降りよう」と言うでもなく、ただただ黙っていた。まだ結論を出したくなかったのだ。神本くんの言う理屈も分かるけどせっかくここまで来たんだ。そう簡単に諦められない。
「登ろう。休みながらならもう少し行けそうな気がするんだ。本当に駄目だと思ったら神本くんが止めてくれて構わないから」
私はゆっくりと立ち上がり、言った。神本くんはしばらく座ったまま私の顔を見ていたが、やがて
「分かった」
と短く言った。
それから私たちは途中で何度も休憩を挟みながら登って行った。本来は山頂で食べる予定だったお弁当も途中で広げることになった。足はパンパンで、息切れは激しく、もう景色を楽しむ余裕なんて一切ない。それでも私は前進を止めなかった。後になって思うとどうしてあそこまで意地になっていたのか分からない。でも私だって一か月間トレーニングを積んできたんだ。絶対にできるはずだ。という根拠のない自信が私を動かしていたんじゃないかと思う。本当に無理だ、帰りたいと思っていた時唐突に神本くんの声が聞こえた。
「着いたぞ」
俯きながらゆっくり登っていた私は勢いよく顔を上げる。
初めに目に飛び込んできたのは空だった。今まで森の木々で覆われていた頭上が開けたことで、一気に解放感のある青が広がった。視線のずっと先には街があるみたいだけど、以前のようにうまく見渡すことが出来ない。
「そうだ、展望台に登ればいいんだ」
私は疲れているのも忘れて、近くにあった展望台へ向かった。
「お前、まだそんな力を隠し持っていたのか」
まるでラスボスの第二形態に驚く子供みたいな反応をしている神本くんに気にせず、私は力を振り絞り、息を切らして展望台の一番上まで登り切った。あの時と同じように空は澄み切っている。視線の遠くに私の住む街と海は、まるで絵画を切り取ったみたいに現実感のない美しさだった。自然と涙が頬を伝っていく。何故だろう、以前見た景色と同じ場所のはずなのに、自分の足で登り切った山頂からの景色は何よりも別格に見えた。
「私、登り切ったんだ」
山から帰った次の日、私は未だかつてないほどの筋肉痛に襲われていた。最早立ち上がるのも寝返りを打つのさえ苦痛で、四六時中呻き声を上げ続けるその姿はアンデッドそのものだったに違いない。そんな悶絶地獄体験中に神本くんがやって来た。
「次は別の山に登るぞ」
「鬼畜か」
「違う、忍者だ」
「はいはい忍者忍者」
「何も今すぐ登ろうというわけではない。お前の筋肉痛が引いてからにしようと思っている」
「うーん、どうしようかなぁ。山に登ったらまた筋肉痛になりそうだしなぁ」
しかしこんな筋肉痛になるくらいならもう山なんて登らなくてもいいかと思う反面、もっと登ってみたい、またあの達成感を味わいたいと思う欲求が生まれていたことも事実だった。
「登るって、どこに登るの?」
結果、また次も登りたいと思っているかのような口ぶりになってしまっていた。
「吾妻山にしようと思っている。標高も低いし、山の中にある公園は桜が植えてある。もう咲いているかもしれない」
「ふーん」
私は素っ気なく返したけど内心はワクワクしていた。やばい、桜超見たい。引きこもりなのに登山にハマってしまうかもしれない。
それから三日経ち、筋肉痛も徐々に引いてきたところで私はトレーニングを再開した。登山をする前より大幅に歩く距離を伸ばし、スクワットの回数も増やした。山に登ることも楽しいけど、こういうトレーニングの中で出来なかったことがどんどん出来るようになることもすごく楽しい。その日のトレーニングが終わり、神本くんと別れて家に帰った時だった。
「茜」
お母さんに呼び止められた。少し怒ったような表情で眉間にしわを寄せている。
「どうしたの?」
「茜、あなた外に出歩けるようになったんだから、そろそろ学校に戻ったらどう?」
私は閉口した。
「そのうち行くよ」
「そのうちっていつなの?」
「そのうちはそのうちだって」
「来月から二年生になるでしょ? 新学期から通えばまた友達も出来るわよ」
「んー」
「何なの、その気の抜けた返事は。新学期から学校に復帰するの? しないの?」
「もううるさいなあ! そのうち行くってば!」
私は逃げるように自分の部屋に引き上げた。あー、お母さん本当にうるさい。せっかくまともに外に出られるようになったんだから、文句じゃなくて少しは褒めてくれても良いじゃんか。それに私だって学校のことは頭にある。私は私でちゃんと考えているのに叱られるのは本当に心外だ。でも今はまだ、学校に行って席に座っている自分を想像するだけで憂鬱で重たい気持ちになってしまう。一度そうなると何も手につかなくなってしまうんだ。でも確かにお母さんが言うみたいに4月から復帰出来れば人間関係を構築しやすいだろうし、授業にだって慣れやすい。今は少しは無理をしてでも、心を殺してでも学校に復帰した方が後々良いのかもしれない。
「学校、か……」
私は押入れの前に立って呟いた。この中に学校用のカバンを入れたのは引きこもってしばらくした時のことだ。視界に入ると嫌な思い出がフラッシュバックしてしまうので、学校で使うものはカバンを含め大きかろうが小さかろうが無差別に放り込んでしまった。……久しぶりに出してみよう。目が慣れれば少しは学校へ行くのが楽になるかもしれない。私はおもむろに扉を開いた。体育座りをした忍者がいた。
「ぎにゃああああああああああああああ!!!」
「おい夜だぞ。静かにしろ」
「黙れぇ!」
神本くんはまるで夜に大声を出すなんて常識が無いみたいな言い方をしているが、無断で人の家に侵入しつつ潜伏している方が断トツで非常識だ。
「っていうか何でそんなところにいるの!! ダニなの!!」
「いやダニではないぞ」
冷静に否定するな。まるで私がボケてるみたいじゃないか!
「実はお前の部屋に忘れ物をしてな」
「普通に入って来なさいよ! 何で毎日毎日一人でミッション◯ンポッシブルしてるのよ!」
「何を言ってるんだ」
「だー、もう! よく分からないのはあんたの奇行でしょ!」
「最初は普通に入ろうとした。だが喧嘩する声が聞こえたから俺なりに気を使ったんだ」
気を使った結果天井から侵入するという斜め上の行動に出たのか。まあ神本くんらしいといえば神本くんらしいけど。
「お母さんと喧嘩したのか」
神本くんは押入れから出て来てベッドの上に腰掛けた。時間帯も時間帯なのでちょっとドキッとする。
「四月から学校に復帰しろって言われたの」
「するのか」
「……しようと思ってる」
私は右手で左の肘をギュッと掴んだ。
「出来るのか」
「苦しいけど、やるしかないじゃん。私もまだ学校に通える状態じゃないと思うけど、このチャンスを逃したら一生を棒に振っちゃうかもしれない」
神本くんは頷きもせず黙って私の話を聞いている。
「それに、もうこれ以上親にも迷惑は掛けられない。半年も引きこもって散々心配させたし、辛い思いもさせたと思う」
「俺はまだ早いと思うとぞ」
神本くんは立ち上がる。
「私だって本当はまだ学校に行ける状態じゃないって分かってる。だけどしょうがないじゃん。多分世の中には割り切らないといけないことがたくさんあるんだよ」
「一つだけ言わせてくれ」
おや、一発ギャグか? それは冗談だけど神本くんなら本当にこのタイミングでかまして来そうだ。
「お前の人生はお前のものだ。他の誰かに従って心を殺す必要はない。いや、心を殺しては駄目だ。例えそれが親の意見だとしてもな」
「頭打ったの?」
神本くんが急にまともな事を言い出したので真面目に心配してしまった。しかし神本くんは構わず続ける。
「実は俺も、お前のお母さんから学校に復帰するよう説得してくれと頼まれている」
そうだったんだ。でも今まで神本くんから外に出ようと(強制的に)促されたことはあっても学校に行こうと説得された事はない。神本くんがその気になれば私を縛ってでも学校に持って行く事は可能なはずだ。というか実体験済みである。
「俺は茜がまだ学校で友達と会う準備ができていないように見える。今お前はお前の心を大切にすることを一番考えないといけない。それこそお前にしか出来ないことだ」
「だからそれは自分でも分かってるよ。だけどこのまま呑気に山に登り続けたって……」
「山には人を癒す力がある。だからお前を連れて行った。そしてお前は歩けるようになった」
うん、確かに。そうか。だからこの人は私を山に連れ回して精神と体調が回復するのを待っていたんだ。一見何も考えず強引に私を引っ張り出したようにも見えたけど、実は私のことを親身に考えてくれていたんだ。それが分かってとても嬉しい気持ちになった。
「そっか、ありがとう、神本くん」
「だからせめてお前が一人でイノシシを殺せるようになるまで」
「ならないわよ!」
「どうした、別にヒグマを殺せるようになれとは言っていないぞ」
「あんた私をキリングマシーンにするつもりなの!?」
やっぱりどこかズレている神本くんだった。
あれから私の気持ちは随分と楽になった。確かに学校へ行って勉強することはやらないといけないことなのは分かっていたし、復帰したい気持ちもあった。だけど今は自分の気持ちを優先しようと思った。学校に通っていた時は潰れてしまった私の気持ちを、今度は準備ができるまで待ってあげようと思った。例え誰に急かされても今は言う事を聞く必要は無いんだ。神本くんの言うように、私の心を大切にしてあげられるのは他の誰でもなく、自分しかいないんだから。
私はこの時の判断を間違っていたとは思わない。毎日欠かさずトレーニングをして、週に一度のペースでハイキングコースを歩くことで私の体力は随分回復していた。それに間食を止めて規則正しい生活を送るようになったことで顔のニキビも自然と消えていき、顔色も良くなってきた。顔色だけなら引きこもる前より良くなったんじゃないかと思う。何よりここ1か月くらいは私の人生で最も充実していたと言える。どんな楽しみにしていたゲームの発売日よりも楽しかったんじゃないだろうか。山の山頂に立つという明確なゴールの元、トレーニングしながら出来ないことが出来るようになるのは嬉しかった。他にも山に生えている山菜を取って料理してみたり、木登りに挑戦したり、他の登山者に挨拶出来るようになって……。そうそう、待ち合わせ駅を神本くんが間違えて他県まで行ってたこともあった。あれは笑ったなあ。いつしか私はそんな神本くんのことをちょっぴり好きになっていたかもしれない。
「ねえねえ神本くん、4月1日は予定開いている? また山登りに行こうよ」
トレーニングが終わった後、私は夜の河川敷で川向うを見つめている神本くんに向かって言った。何故4月1日を選んだかというとその日が神本くんの誕生日だったからだ。別に告白するとかいうつもりじゃないけど、いつもお世話になっているお礼にプレゼントを渡そうと思っていたのだ。
「すまん、その日は予定がある」
神本くんは振り返って言った。私のワクワクしていた気持ちを一蹴された気分だった。予定? そんなのいいじゃん。一緒に登ろうよ。せっかくプレゼントも用意してたのに。
「予定って? 私は朝からでも昼からでも大丈夫だよ。なんせ引きこもりだし」
どっちかというと今はただの不登校かもしれないけど。
「ちょっと野暮用があるんだ」
いや、だから野暮用って何なの。と私は問い詰めそうになったけど、それを言ったら険悪な空気になりかねないので我慢することにした。まあ神本くんの誕生日だし、先に予定が入っているのは仕方ない。流石に後から割り込んで予定をねじ込ませるほど私は横暴じゃない。
「分かったよ。4月1日は諦める。じゃあ別の日でもいいからさ」
「どうした、どこか登りたい山でもあるのか」
「大岳山に登ろうよ!」
「大岳山……奥多摩の方の山か」
「そうだよ!」
大岳山は奥多摩にある山の一つで、標高は1200mを超えている。だけど隣の山の山頂まではケーブルカーで行って、そこから大岳山に入れるので、実質の高低差は500mほどだ。それくらいなら今の私なら簡単に登り切れるはずだし、少し高い山を踏破して成長した姿を神本くんに見せたかった。
神本君なら「登ろう」と二つ返事で了承してくれると思っていた。
ところがこの時、私と神本くんの間には妙に間があった。夜の暗さではっきりとは分からないけど、少し険しい表情になったようにも見える。
「駄目だ。あそこは鎖を使って登らないといけない場所もあるし、意外と険しい山だ。茜にはまだ早い」
頭ごなしに叱るような言葉に私はムッとした。
「登れるよ。もう5回も山に登ったじゃない」
「全て標高300m以下の低い山を選んで登っていただけだ。その感覚で大岳山の登ると痛い目を見るぞ」
「そんな……」
「それにお前は今でも登山中は大分息切れしているだろう」
後から考えれば神本くんの判断は私の安全を考えてくれてのことだったんだけど、自分が今まで培ってきた経験と、「絶対この山に登りたい!」と思って選んだ選択を否定された気がして腹が立っていた。
「登れるよ! 休憩しながら登ったら良いだけじゃん!」
「駄目だ。今はまだ寒いし、お前の筋力もまだ」
「ああもう駄目駄目うるさい!」
「じゃあ『登ってもいい』の反対」
「小学生か!」
神本くんは頑なによしとは言わなかった。それでさらに私はいじけてしまう。
「あー、はいはい分かりました。登りません」
「本当か」
「本当だよ」
「神に誓え」
「何で宗教的な話になってるのよ!」
「せめてあと一か月待つんだ。ツキノワグマが出たという情報もある」
神本くんはなだめるように私の肩に手を置いた。
「しつこいな! もう登らないって言ってるでしょ!」
私はその手を勢いよく振り払ってしまった。やってしまったと我に返ったときにはもう遅くて、神本くんは怒るでも悲しむでもなく、黙ってこちらを見つめていた。その場に居づらくなった私は走って河川敷を後にしたのだった。
4月1日の午前9時ごろ、私はケーブルカーに揺られながら御岳山の山頂を目指していた。そこに私が目指している大岳山の山頂へ続く道があるためだ。そう、私は一人で大岳山への登山を決行することにしたのだ。それはどこか「押すなよ! 絶対押すなよ!」と言われたら押したくなる感覚に近いものがあったのかもしれない。窓から外を眺めると雲一つ無い青空で、まさに絶好の登山日和だし、線路の両脇はヤマツツジの赤い花で彩られていてとても奇麗だ。
しかし私はそんな景色に見とれながらも一抹の不安も抱えていた。確かに一通り装備は揃えた。しっかり登山道のシミュレーションもしてきた。だけど山に一人で登るのは初めてで、大岳山は今まで登って来た山々よりずっと高い。加えて朝の4時半に起きなければならないプレッシャーに圧されて昨日はろくに眠れなかった。更に言えば地元の横浜駅から乗り換え3回、合計2時間30分弱かけて奥多摩駅までやってきて、そこからさらに電車、バス、このケーブルカーという鬼のような乗り継ぎをこなす必要があった。そんな中では眠る余裕なんて無い上に余計精神力を消費してしまった。私は眠い目をこすって山頂の方を眺めた。
神本くんを見返すために一人で来たけれど、本当に登り切れるだろうか。大岳山には登らず、そのまま御岳山にある神社を見たり、商店街でご飯を食べたりする観光に切り替えたほうがいいんじゃないだろうか。
「いや、駄目だ」
私はぶんぶん頭を振った。私だって一人で登れるってことを証明するんだ。大岳山の山頂からの眺めを撮って「一人でも登れたよ」って言って見返してやるんだから。そうして私が一人でぶつぶつと考えている間にケーブルカーは山頂へと到着した。
山頂一帯は神社になっていて、その神社の石段を下りていくと大岳山へ続く山道があった。ちなみにもっと降りると商店街がある。私は登山道へ続く道を目の前にして、商店街と山道のどちらへ進むか少し迷っていた。慣れない早起きというか、徹夜をしたせいで足元がフラフラするし頭も全然回っていない。ここはコンディションが回復するまでちょっと下の商店街で休ませてもらった方が良いんじゃ……いや無理無理無理無理。コミュ障をこじらせて引きこもった私が知らない人にお願いするなんて無理ゲー過ぎる。
それに早く登らないと今日中に下山できなくなってしまうじゃないか。うん、きっと大丈夫だ。山の中を歩いていたら調子も上がってくるだろう。そう思って私は山道に足を踏み入れた。しかし私はこれがとんでもない判断ミスだったと後で思い知ることになる。
どれくらい登っただろうか。分からない。それさえ意識の外に追い出してしまうくらい私はフラフラしていた。いつもとは違う山の景色を楽しめたのは最初の10分だけ。それからはもう本当に息が切れる。心臓の鼓動もさっきからずっと速いまま。上着を一枚脱いで腰に巻いたが、まだ汗だくのままだ。しばらくして道が上りから下りに切り替わると、今度は汗の水分で寒く冷たくなってくる。それでさっき脱いだ上着を着ようとしたけど、まだ汗は止まってなくて、冷たいのに暑いというすさまじい不快感に包まれていた。どうにも我慢できなくなった私はその場で座り込んで休憩しようと思いついた。リュックから500mlの水を取り出し、一気に飲み干す。
「はあ、さっきも一本飲んだ後だからもうお腹タプタプだよ」
しかしこんな呑気な思考は余裕のない中だと一瞬で引いていくもので、私の頭の中はこの後どうしようかという不安で一杯だった。もう完全に山頂までたどり着ける体力が残っていないのは明白だ。かと言ってここで引き返したら神本くんの言う通りになったみたいで悔しい。その小さい小さいプライドが私を素直に下山させることを拒んでいた。
「そうだ、長尾平まで行こう」
長尾平とはこのまま山頂へ進む道の途中にある場所で、開けた公園のようになっている。せめてそこまで進んで景色を眺められたら私の気持ちも晴れる気がした。我ながら良い妥協案だ。そうと決まればすぐ出発しよう。私が膝に手をついて立ち上がった、その時だった。自分が立っている道を挟んで上の斜面からガサガサと物音がした。明らかに風の音ではない。未知の音にギョッとして目をやる。草の繁みに何かいる。黒くうごめく何か。それが私の方を伺っている。
『せめてあと一か月待つんだ。それにツキノワグマが出たという情報もあってな』
神本くんの言葉が脳裏によぎった瞬間、私は悲鳴を上げていた。クマだ。ツキノワグマだ! 私はクマと対峙した時は決して背を向けてはいけないという忠告を完全に忘れていた。冷静に考えることなど出来ず、次の瞬間来た道を駆け出していた。リュックを下したほうが速く走れることも、リュックを捨てればクマの興味がそっちに向くことも考えられなかった。単純に今までの人生で一番の速さで足を動かすことしか思考になかった。
しかし体調不良の中そんなことなど出来るはずもない。七、八歩走ったところで足がもつれる。
更に、態勢を整えようとした足が左に逸れる。道を外す。
あっ、と思った時には既に、私は斜面の下へと放り出されていた。
身体中の痛みを感じながら私は目を開けた。視界の先では鬱蒼と枝葉を茂らせた木々の間から微かに空が覗いている。どうやら私が仰向けに倒れている場所は杉林の中のようだ。どうして私はこんな所に……。確か休憩から立ち上がった時に変な音がして、振り返ったら……。
そうだ、ツギノワグマは?! 私は痛む身体を起こして辺りを見渡した。幸いなことにクマらしき影は確認出来ない。私が凄い速さで落ちていったのでクマの方が諦めたのか、そもそも人間に興味が無かったのか。
その時、私が転がり落ちて来た斜面の上からカラスの鳴く声が聞こえてきた。まるで私をあざ笑うかのようだ。
……もしかして、私が見たのはツキノワグマじゃなくてただのカラスだったか。いや、多分そうだ。あの時は恐怖で何も考えられなかったけど、冷静に考えたら茂みに見えた黒い影はクマにしては小さすぎた。だけどホッとするのはまだ早い。このまま道を外れて座っていても救助が来る保証はない。今は何とか元の道に戻ることを考えよう。私は脇に転がっていたリュックサックを拾おうと立ち上がった。その時鋭い痛みが左の足首を貫く。
「痛っ」
踏ん張りの利かなくなった私は再び座り込んでしまった。痛い。左足を完全に捻っている。多分つまづいて道から外れた時、変な角度で左足に体重が掛かってしまったのが原因だ。どうしよう。これじゃあ登れない。私はもう一度自分が落ちてきた山の斜面を眺めてみた。
傾斜はこれでもかというくらいに急で、辛うじて見える山道の縁は遥か高くに感じられる。とても怪我人一人で登れるような生易しいものでは無さそうだ。不意に近くで獣の鳴き声がして、私は弾かれたようにそっちを見た。木々のざわめき、落ち葉のかすれる音、薄暗い視界、さっきまで何でもなかったはずの山の中。その全てが今は恐怖だった。今にも得体のしれない何かが飛び出してきそうだ。怖い。怪我でまともに動けないのに、何かに襲われたらもう逃げられない。死ぬしかない。
「誰か……助けて……」
大声で助けを呼んだつもりが恐怖のあまり声量が出ない。私は馬鹿だ。ここに着いた時点で登頂を諦めていればこんな事にはならなかった。いやそれより先に神本くんの言う事を聞いていたら……。恐怖と後悔で涙があふれてきた。
「助けて……!」
しかしそんな私の感情なんて無視するかのように、今度は斜面の方から落ち葉を巻き上げるような音が響いてきた。こちらに近づいてくる。もしかしてツキノワグマ? カラスだと思ってたけどやっぱりクマだったの?!
「い、嫌……来ないで……!」
なおも音は近づいてくる。あ、私の人生終わった。呆然と身動きも取れずに座っていると、木の茂みの間から黒い影が現れた。
「目標を確認」
上下黒い忍び装束に目元だけのぞかせた頭巾。それは見慣れた少年の姿だった。
「か、神本くん!?」
「違うぞ、俺はツキノワグマだ」
「何で0秒でバレる嘘つくの?」
間違いない。この意図の分からない冗談を挟んでくるのは神本くんだ。
「茜、大丈夫か」
「ううん、足を捻っちゃって……じゃなくて、どうしてこんな所にいるの? 私がどうしてここだと分かったの?」
神本くんは私の前にかがんで目線を合わせた。
「この前のお前の態度が気になっていた。もしかしたら4月1日、つまり今日大岳山に登るつもりなんじゃないかと。それで今朝早くお前の家を訪ねてみたら居なかった。だから直感的にここだと思った」
すごい。まるで神本くんとは思えないような(非常に失礼だけど)、素晴らしい推理力だ。
「で、でも登る山は分かっても、私がここに落ちているのはどうやって……」
すると神本くんは私のリュックに手を突っ込み、白い手のひら大の機械を取り出した。待って、それ入れたの私じゃない。
「発信機を仕込んでおいた」
「嘘ぉ!?」
「まあ発信機というと聞こえは良いが」
「良くない良くない!」
やっぱりこの人は忍者じゃなくてただの変態なんじゃないだろうか。
「これは普通にネットショップで市販されているものだ。例えばスキー場やライブ会場など、同行者とはぐれやすい場所で使う。これを持っていると、盤面に表示された数字が相手との距離を知らせてくれる」
神本くんは懐から同じ発信器を取り出して言った。なるほど、それの盤面にお互いの距離が表示される仕組みなんだ。いや、なるほどじゃないが。
「……それ、いつから仕込んでたの?」
「お前がそのリュックサックを買った時からだ」
思ったより歴史が古い!
うーん、このプライベート侵害野郎。まあ引きこもりだから居場所はほぼ家の中だったわけだけど。それに彼の性格からしてこの機材を悪用しようとして仕込んだわけではないんだろう。単純に私と山ではぐれないためだったに違いない。現にこうして私は命を救われた。それに神本くんの顔を見た時、すごくほっとしたんだ。これでもう大丈夫だと思った。だって(ある意味)彼より頼りがいのある男の人を私は知らないから。
「さあ、元の道に戻るぞ」
神本くんは私に背を向けて傅いた。
「乗れ」
「まさか私を担いで元の道に戻る気なの?」
「そうだ」
「無理だよ! 幾ら神本くんが力持ちでも……」
「出来る。俺は忍者だ」
いや何の理由にもなっていないんだけど。でも神本くんがその言葉を使うと何故か説得力があるように聞こえてしまうから不思議だ。
「お前は足を捻っているんだろう。早くしろ」
私は何故かドキドキしながら神本くんに体を預けた。
「ねえ神本くん、大丈夫? 私重たくない?」
私は神本くんの背中に揺られながら聞いてみた。
「重たくない。木の葉一枚分の重さもない」
お世辞なのか、私に気を使っているのか、それとも神本くん特有の冗談なのか。しかし私が考えているうちに、神本くんはあっという間に山道までたどり着いてしまった。しかもその後再び私のリュックを回収するため降りていき、すぐにリュックを担いで戻って来てくれた。すごい、流石忍者。こんな観光地まで忍び装束のままやってくるだけある。その後再び私を背負い、神本くんは山道を下り始めた。私も彼も無言である。何か色々と神本くんに言わなければならないことがあることを分かっていたんだけど、一杯ありすぎて何を口にしたらいいのか分からなかった。
「その、今日はもしかして大切な日、だったの?」
私は恐る恐る聞いてみた。
「姉が」
神本くんは一度間を置いてから、また喋り始める。
「姉が下宿先から帰ってきてくれているんだ。俺の誕生日だったから」
私はとてつもない後悔と罪悪感に襲われた。やはり神本くんの大切な日だったんだ。それを私が意地を張ったせいで完全に潰してしまった。
「ごめんね」
私は絞り出すように謝った。謝らなければならないことは一つや二つではないけれど、それが今の私の精一杯の言葉だった。
「いい」
神本くんはそれだけしか言わなかった。
「私が一人で登ったばっかりに」
「気にするな」
神本くんの声はいつものように冷静で落ち着いている。凄いなあ。予定をつぶされて怒っているはずなのに、私を気遣ってくれているんだ。時々強引な事もあるけど本当に優しい人だ。この時私はもっと人の気持ちを思いやれる人になろうという決意が沸々と湧いてきていた。神本くんみたいにとはいかないけれど、困っている人がいたら見て見ぬふりをせず助けてあげられる人間になりたいと誓ったのだ。
「それに俺の方も謝らなければならないことがある」
ん?
「お前に無断で発信器を仕込んでおいたのはすまなかった」
「そんなのいいよ、私のことを考えてくれてたんでしょ?」
「それから」
「あれ、まだあるの」
「押入れからお前の部屋に侵入した時、外した天井の板が元に戻らなくなってしまったんだ、本当にすまない」
「……ま、まあいいよ。あんまり押入れ使わないし、今度直しておいてくれたら」
「それから」
「まだあるんかい」
「お前の部屋でくしゃみをしてしまった時、誤ってお前のカッターシャツで鼻をかんでしまったことがある」
「ちょっと何してるの! っていうかどうやったら間違うのよ!」
「白かったから」
「アンタは牛か!」
「洗って戻しておいたから安心しろ」
「もっかい洗っとこ」
「それから」
「まだあるんかい!」
「お前がトイレに行っている間、ちょっとだけゲームをさせてもらおうと思ってだな……」
「ああ、勝手にFPSやっただけなら別にいいよ。気にしてないから」
「いや、ゲームをしようとしたらデスクトップの中に『ガチムチ野球部男子とインテリメガネ男子 俺のバットがウッホホホー』というゲームを見つけてしまったんだ」
「それ、ここでしなきゃいけない報告!?」
「本当にすまない」
「そしてそれ何の謝罪なのよ!」
うん、神本くんは本当にブレないなあ。
***
通っていた中学の新学期が始まり、私は8か月ぶりに通学を開始した。よーし、これから勉強の遅れを取り戻し、一年生の時は出来なかった友達をたくさん作るぞー! ……と意気込んではいない。学校に復帰するにはしたけれど、今のところは保健室通学だ。でも、これで良いんだ。元の教室に戻れるのはいつになるか分からないけど焦る必要は無い。自分のペースでいい。立ち止まってもいい。大事な事は生きて下山することであり、その速さや山頂に着くことではない。神本くんが教えてくれたことだ。私は通学路の空を見上げた。今や桜が満開で、雨のように花びらが降り注いできている。そうそう、来月改めて大岳山へ登ることになった。今度は神本くんと一緒だ。……次こそは自分の気持ちを伝えられたらいいな。私は桜の舞う並木道を、大きく息を吸い込み一歩一歩ゆっくりと歩いて行った。
引きこもり少女編 おわり
「先週の日曜日は父親とゴルフに行ったんだ。ゴルフなんて興味ないって言ったんだけど、父がどうしても知り合いの方々に僕を紹介したいって言うからさ。で行ってみたらびっくりしたよ。与党議員に官僚、プロゴルファーやベテラン俳優。それから上場企業の社長も何人か居たけど、この方々は僕が小さいころからよく知っている人たちだから敢えて驚いたりはしなかったんだよ。だってほら、父親も上場企業の社長だからさ、つるみの法則って奴だよ。世の中意識の高い者同士が集まるように出来ているんだよ。上流階級の者同士、結婚前提に付き合っている僕と清花ちゃんみたいにね。あーそうそう、ゴルフの話に戻るんだけど」
私と向かい合って胡坐をかいた青年は呪文を詠唱するかのように早口でまくしたて続ける。既に茶碗も急須の中に入っているお湯も空になり、中庭のシシオドシは63回涼やかな音を立てた。急須にお湯を入れるために席を立とうかとも考えたけれど、それだと鯉のごとくパクパク喋り続ける彼に更に活力を与えるようなものだ。私はこの青年こと久保さんに気付かれないよう小さくため息をついた。
当初は二人のお茶会という表向きの名目だったこの会も、いつものように彼の自慢話独演会になってしまった。ここで悲劇的な事が二つある。一つは観客が私しかいないこと。そしてもう一つは私がお金を払ってでもこの自慢話を聞くのを遠慮したいと思っていることだ。親の仕事の都合で一年ほど前からお付き合いをさせていただいているが、正直私にはこの男性の良さが分からない。良いのは家柄と容姿だけ。今日だって私の着ている桜色の着物や髪形には一切触れてくれないし、開口一番から自慢話を続けるだけだ。私の発する言葉といえば「そうなんですか」「すごいですね」「へえ」の3つだけで、最近のAIの方がまともな返しをすることだろう。それでも気分良く話し続けるのだからつくづく単純な生き物だなあと思う。他の男もみんなこうなのかしら。
「いやー、参ったよ。プロゴルファーの人がさ、僕のスイングを見て『本当に素人の方ですか? すごく筋が良いですね! 一年間レッスンすればプロになれますよ』って言うんだよ。まあ僕も昔っから色んなスポーツをやって来たからね、勝手に身体が動いただけなんだよ。でもやっぱりプロの人には分かるんだね。まあお世辞かもしれないけどさ」
……この地獄のような自慢話を少しでも聞かなくて済む時間が生まれるのなら、席を立ってお湯を入れてくる方が良いかもしれない。
私は「すごいですねぇ」と張り付いたような笑顔で言いながら中庭を一瞥した。
薄暗い茶室とは対照的に春の光を浴びた外の日本庭園は鮮やかな緑に色づいている。綺麗だ、もっと見てみたい。私が気晴らしに庭を散歩したいと言っても無駄だろう。久保さんは「良いよ」と言ってくれるだろうけれど必ず私の隣にぴったりくっついて自慢話を続行するに違いないのだから。ああ、何か少しでも私の退屈を紛らわせることが起きないかしら。中庭に犬が乱入するとか、池から上がって来たダイオウイカが久保さんを絡めとって連れ去って行くとか。そうやって私が意味をなさない空想に耽っていた時だった。
スパン、と鋭くふすまを開ける音が響いた。お母さんだろうか。何気なく奥の方に視線を向けた私はそのまま固まってしまった。開け放たれた扉の前に立っていたのが忍者だったからだ。もう一度言う。忍者がいたのだ。頭がおかしくなったの? とか言われそうだけど、目の前には黒い忍び装束に身を包んだ男が実際に立っている。これに忍者以外の呼び方があるのなら教えて欲しい。えっ、待って。この人忍者のコスプレイヤー? それとも私たちはタイムスリップしてしまったの? 私の頭が状況を処理しきれていないうちに忍者が声を発した。
「すまん、通るぞ」
ほぼ同時に彼は跳躍した。軽々と私たちの間を飛び越え、日本庭園の方に走り去っていく。「何だ、お前は!」と久保さんが憤怒の声を上げた時は既に忍者の姿は見えなくなっていた。
忍者……なんで忍者? と思う間もなく今度はドタドタと騒々しい足音が響いて来た。今度は何? 侍でも出てくるっていうの? そんな私のワクワクした期待は一秒後恐怖へと変わる。襖を蹴破る勢いで流れ込んできたのは目を血走らせた男たちだった。それも全員強面で、そっちの筋の人にしか見えない方々が大量に入って来たのだ。あまりの恐怖に思わず身体を硬直させてしまう。しかし彼らのお目当ては私たちでは無かったと見え、すさまじい靴音と振動を響かせながら日本庭園の方へ出て行ってしまった。まるで牛の大群に間近を通られたかのような心持ちだ。ふと向かいに座っている久保さんに目を向けると小刻みに震え、おびえた様子で中庭の様子を伺っている。……あまり見たくないものを見てしまった気分だ。
「忍者おるか!」
「おらんぞ!」
「ぶち殺しちゃるぁ!」
「よう探せ! 生け捕りにせえ!」
「絶対に捕まえろ! 落とし前つけさしちゃるけえのお!」
ヤクザたちが出て行った庭から響いてくるのは、まっとうに生きていれば一生聞くこともなさそうな単語のオンパレードである。彼らの言葉から察するに先ほどの忍者が追われているようだ。あの忍者はどうやってヤクザの方々を怒らせたんだろう。本当に逃げ切ることが出来るのだろうか。そして一体彼は何者なのかしら。知りたい。会って話してみたい。忍者の乱入が私の中で長らく眠っていた好奇心を目覚めさせていた。それは制御できない欲求で、今にも中庭に飛び出していきたい衝動。殺気だったヤクザがうじゃうじゃいる庭に出るのは危険だとか、親の選んだ相手を一人にして行くのは失礼だとかいう理性的思考は完全に私の頭から消え去っていた。足は勝手に動いた。私は自分が着物を着ていることも忘れ、足袋のまま中庭へと飛び出したのだった。後ろからは
「ちょっ、置いてかないで清花ちゃん……」
と掠れるような久保さんの声がわずかに聞こえた気がした。
私は息を切らしながら庭園を見渡した。忍者はいない。右を見ても左を見ても、美しく静かな日本庭園の景色とは不似合いなヤクザたちばかりだ。目を血走らせて駆け回る彼らの姿はさながら抗争でも起きたかのよう。物騒な光景ですこと。しかしこれだけの人数に探されながら見つからないということは、あの忍者は既にこの旅館の敷地内にはいないのかしら。そうだとしたら私は完全に走り損だ。
枯山水を通り過ぎて人工池の傍に着いた時、私はへたり込んでしまった。息が切れる。そこで今更自分が走りづらい着物を着て、尚且つ足袋のまま出て来たことを思い出す。
「やっぱり、もう居ないのかしら……」
私は忍者を諦めて池の鯉を眺めることにした。赤と白の明るい色合いの錦鯉たちは悠然と広い池の中を泳いでいく。いいなあ。私も誰にも邪魔されず自由に泳ぎ回る生活がしてみたい。その鯉たちが池にかかる赤い橋に差し掛かった時だった。
一本の竹筒が池の中から伸びているのを発見した。一見庭の雰囲気とも「マッチしている感」を醸しているその竹筒。でもこの格式ある旅館の日本庭園に竹がお刺さりなさっている光景はよくよく考えると不自然な気がする。
私は近づいて行ってよーく眺めてみた。筒は微動だにせずそこにある。目を凝らしてみたけれど、濁っているため水面より下はよく見えない。うぅん、やっぱりただの竹なのかな。あるいは誰かの何かしらの美意識によってあそこにぶち込まれたのだろうか。私は何の気なしに、本当に息をするのと変わらない感覚で、その筒の先端を手で塞いでみた。
ピクン、と動いたような気がした。気のせいだろうか。と思っていると今度は明確に動く。というか暴れた。まるで釣りたての魚のようにピチピチ動く竹筒。私は恐怖のあまりその手を放すことを忘れていた。すると今度はごぼごぼと水面下に大量の泡が立ち始める。
嘘っ! もしかしてこの竹は池の詮になっていて、それを私が抜いてしまったのでは!? これはいけないわ。早く元通りに刺し直さないと。私は力の限り竹筒を池の底に向かって押し込んだ。何か柔らかい物に当たる感覚があった。泥かな?
私がなおも容赦なく竹筒を押し込んでいると先ほどとはくらべものにならないほど大きな泡が立ち、巨大な何かが浮上してきた。ここで私はやっと竹筒から手を放した。ほぼ同時に浮上してきた何かが現れる。水しぶきを上げながら私の前に出てきたのは、果たしてあの忍者だった。まるで鯉のように口を大きく開けて酸素を大きく取り込んでいる。彼はへたり込んだ私の姿を確認するや否や
「殺す気か」
と息も絶え絶えに言い放った。その言葉にハッとする。もしかして先ほどの竹筒は忍者さんが呼吸をするための物だったのでは? それを私が塞いだり塞ぎ続けたり力いっぱい押し込んでしまったのでは?
「ご、ごめんなさい! 人だとは思わなくって、その、お怪我はありませんこと?」
私は慌てて謝罪の弁を述べた。
「いや明確な殺意を感じたぞ。筒の穴を塞いだり押し込んできたり、ピンポイントに俺の息の根を止めにかかっているじゃないか」
言われてみれば確かにそうだ。もう少しで人殺しになってもおかしくないところだったとの思いが私の背筋を冷たくした。
「あの、私、その何と謝ったらいいか……この埋め合わせは必ず致しますわ。本当にごめんなさい」
私が深々と頭を下げたのを見て忍者は少し黙っていた。そのうちに呼吸と落ち着きを取り戻したようだ。
「いや、怪我はしていない。気にするな」
彼はそう言って一度顔をぬぐった。話の通じそうな人で良かった。改めて彼の顔を見てみると意外にも目鼻立ちの整った男前だ。体格もガッシリしているし、女子から人気がありそうなタイプに見える。忍者のコスプレをして池の中に潜伏していなければ、だけれど。
「えっと、忍者さん。もしかして貴方は今追われていらっしゃるのかしら?」
「そうだ」
私が「それはどうして」と言いかけた時、靴の音がした。革靴を鳴らす音がどんどん近づいてくる。このままだといけない。私のせいで忍者さんが見つかってしまう。
「忍者さん隠れて!」
焦った私は忍者さんの頭をガッと掴み、フルパワーで池の中に押し込んだ。手の下からは激しく抵抗する動きを感じたが私は決して手を緩めなかった。これは忍者さんのためなんだ。
「姉ちゃん姉ちゃん、この辺で忍者の恰好した変質者を見んかったか」
靴の音の主は、先ほど茶室に忍者を追って来たスキンヘッドの男だった。意外にも私に話しかけるその表情は柔らかい。
「いえ、見かけませんでしたわよ。ホホホホホ」
私は左手で口に手を当てて笑ってみせた。忍者は私の右手が掴んでいるわけですけど。
「ああそうそう、さっきは邪魔して済まんかったな」
そう言うと男は財布から一万円札を取り出して私の前に持ってきた。
「い、いえ、いいんですよ。お気になさらないでくださいませ」
私は左手をブンブン振ってやんわり断った。
「まあまあ。邪魔したお詫びじゃけえ、受け取ってえや」
男は両手で包み込むように万札を握らせた。こんなの要らないから早くどこかへ行ってほしい。
「あの、本当にありがとうございます。こんなに貰っちゃって申し訳ないですわ」
「気にすんなや。ところでお嬢ちゃん一人なん? 連れの兄ちゃんは?」
はよどっか行けハゲ。
「ホホホ! 彼は今お手洗いに行ってらっしゃるの! ほら、早くしないと忍者が遠くへ逃げてしまいますわよ!」
「そうだった、じゃあ忍者見つけたら教えてな」
そう言ってようやくスキンヘッドの男は私の傍から離れていった。ほっと胸をなでおろした私は大切な事を忘れていた。主に右手の下にある存在についてである。
「忍者さん! もう大丈夫ですよ」
私は右手を放して呼びかけた。ところが一切反応がない。えっ、嘘!?
「忍者さん! 返事をしてください、忍者さん!」
私は汚れるのも忘れて右手を池の中に突っ込んだ。すると私の手の横の方から大きな泡が立ち、クジラが飛ぶような勢いで忍者さんが現れた。
「殺す気かっ」
彼はゼーゼー息をしながら池の縁に手を掛けた。三分ぶり二度目のセリフである。
「生きてらしたんですね、良かった……」
私は今の今まで自分が殺しかけていたことも忘れていたが、忍者は根に持っていたらしい。
「良いわけがあるか。お前のせいで完全に走馬燈が見えたぞ。保育所の頃アリを食べて死にかけたこととか小学生の頃壁の間に挟まって死にかけたこととか中学生の頃マンションの屋上から落ちて死にかけたこととか」
なんてよく死にかける人生なんだろう。一度息を付いた後彼は脇に浮いている竹筒を掴んだ。
「まあいい、俺はもう少し池の中で身を潜めておく」
「お待ちになってください」
忍者が再び池の中に沈もうとした忍者を私はとどめた。