ある麗らかな春の日。その誘いは突然だった。
「真斗お願い!手芸部に入って欲しいんだ」
昼休み、幼なじみに呼び出されたかと思えば、急に頭を下げられた。二年の教室に来てまで何してんだ。
高瀬雪哉が頭を下げているところを誰かに見られては変に注目されてしまう。彼は品行方正な好青年として学校中で知られていた。柔和な笑みを向けられては、男女問わず見惚れてしまうと評判である。
「いやだよ」
「そこをなんとか!」
お前は部活に入っていなかっただろ?と追い討ちをかけてくる。
確かに俺は部活には入っていない。しかしそれとこれとは別の話だ。
「俺は部活に入らないから。家でごろごろするって決めてんの」
「まずは一回試しに来てくれるだけでもいいんだ。お願い頼む」
これは、はいと返事をするまで一歩も引かない気だ。強い意志を感じる。
思わずため息が出た。雪哉はこうと決めたら曲げない頑固なところがある。そして俺は雪哉に対して強く出ることができない。彼には大きな恩があるから。
「……試しに行くだけだからね」
「本当かっ!?」
ありがとうと言いながら抱きついてくる。正直男からのハグは嬉しくない。女の子からの方が嬉しい。ふわふわしてるし、なんかいい匂いするし。
雪哉はひとしきり喜んだ後、放課後教室に迎えにいくからと言い予鈴に背中を押されるようにして去っていった。
別に入部するって言ったわけじゃないんだけどな。まあいいか。
「やべ、次体育じゃん」
体操服に着替えなくてはいけない。俺は駆け足で更衣室に向かった。
今でこそ帰宅部だが、中学二年生まではバスケットボールをやっていた。地域でも強豪だと言われるチームに所属していて、練習にも欠かさず参加していた。試合では練習した分だけ実力を出せていたし、チームの仲間と点を稼いで勝利するのは気持ちが良かった。
あの時までは。
中学二年生の冬、俺は試合中に足を負傷した。そのまま病院に運ばれ、医者に診断された結果は、全治一カ月の大怪我。治ったとしても、バスケットボールのような激しい運動は控えるようにと言われた。
伝えられた時は、ああもうバスケをすることはできないんだという絶望感に襲われた。小学生の時から続けていたバスケットボール。辛いことも苦しいこともあったけれど、そんなの忘れてしまうくらい楽しい思い出がたくさんあった。
面会時間が過ぎて両親が帰宅し、病室に一人になった時、棚に置かれたスパイクが目に入った。試合の最中に抜けてきたから、靴を履き替える余裕もなかったのだろう。
ボロボロになって、ロゴマークも掠れて見えなくなりつつある。手を伸ばしてみても、ベッドに足が固定されてしまって届くことはない。
ああもう、バスケをすることはできないんだ。
そう実感する。怪我をした時も、医者にもうバスケットボールはできないと言われた時も、両親に気遣われた時も涙は出なかった。
でもその時だけは涙が止まらなくなった。今まで俺の人生の一部だったものが、呆気なく消えてしまった。もう手が届くことはない。大事なものだったことをなくして初めて実感したのだ。
その後俺はバスケットボールチームを引退し、何をするわけでもなく、普通の受験生としての生活を送った。
学校に行って、授業を受けて、受験勉強をして、そんな日々だった。変わり映えのしない毎日。そんな俺をみかねてか母が幼馴染の雪哉の家族と一緒にバスケの試合を見に行こうと提案してきたのだ。
正直俺は、自分が見に行きたいのかそうじゃないのか、自分自身の気持ちがわからなくなっていた。
結局俺はバスケの試合を観戦している途中に、気持ちが悪くなって会場の外に出た。
試合をちゃんと見ないと、と思えば思うほど苦しくなって。もうあの日々には戻れないと突きつけられているような気がした。
じゃあ、これから俺はどうすればいい。バスケに夢中になってきた人生だ。これ以外の生き方を知らない。こんな気持ちを抱えて生きるくらいなら、消えてしまいたい。
親に心配をかける自分も、まだバスケを毎日やっていた頃に戻れるかもしれないと思い続けている自分も。全部、全部消えてしまえばいいのに。
ふらふらと歩きながらたどり着いた先は、バスケの試合が行われている会場のバルコニーだった。
ここから落ちて完全に壊れたら、諦めがつくのかな。
手すりにつかまり、身を乗り出す。辺りは暗くなっていて高い場所にあるここからでは地面を目視することができない。広がっているのは闇ばかり。
きっと、このまま体を預けたら楽になれる。
手すりから手を離そうとした、その時
「何やってんだよ!」
羽交い締めにされて、引き戻される。やってきたのは当時高校一年生の雪哉だった。
「雪哉くん、どうして」
「どうしてじゃねえよ、真斗がいないから探しにきたんだ」
「このまま放っておいてくれたら良かったのに」
雪哉は俺がつぶやいた言葉を聞き逃さなかった。
「何言ってんだよ」
頬を叩かれた。あまりにも衝撃的で、叩かれた部分を抑えることしかできない。何するんだよという言葉は、喉の奥に引っ込んでしまった。
雪哉が泣いていたから。昔からしっかり者で泣いているところなんて見たことがなかった。非の打ち所がない幼なじみ。そんな彼が悔しそうにうつむいている。でも俺の手は握ったまま。
「放っておけるわけないだろ。お前は大事な友達なんだから。今は俺と一緒に踏ん張ろう。いつかまた大切にしたいと思えることに出会えるまで」
声を震わせながら言われたその言葉が今も俺の心の中にとどまり続けている。
その後、俺は受験勉強を必死でして、雪哉と同じ高校に入学した。雪哉がくれた言葉はあの時の自分にとって重要な者だったから。なんとか同じ高校に行こうと頑張った。ここまで集中して続けたのは、バスケをやっていた以来かもしれない。
やっとの思いで雪哉と同じ高校に入学してからも、何か熱中できるものを見つけられるわけでもなく。ただ無気力な日々を過ごしていた。
受験という目標がなくなってからは、惰性で生活をする日常に戻っていた。
その後雪哉は宣言通り放課後に迎えに来た。心なしか浮き足立っている。なぜだ。
「ねえ雪哉くん、俺入部するって言ったわけじゃないからね」
「わかってる。試しに来てくれるだけでも嬉しいよ」
本当にわかっているのか。怪しい。
「あと部室に入った後は雪哉くんはやめてくれ。他の部員と平等に接していたいから。俺も他の部員と同じように苗字で呼ぶから」
雪哉は真面目だ。いつも周囲に気を配っている。それは幼い時からで、そういう部分は単純に尊敬できる。
「なんだよそんなに見つめて」
「いや普通にすごいなって」
「そんなことないよ」
「いや違うね。俺だったらそんなとこ気づかねえもん」
「普通に言われると恥ずいな」
少し顔を赤らめている。こういう素直なところもたくさんの人が雪哉に惹かれる理由の一つだろう。本人は恥ずかしがるのかもしれないけれど。
「あ、着いた」
手芸部の部室は校舎の端にある。教科ごとに使用されている部屋と隣り合っているため人通りはほとんどない。
扉を開けるとすでに二人の生徒がいた。一人は本を読んでおり、制服をきっちりと着こなした真面目そうな男子生徒。
もう一人は猫背で丸まりながらちまちまと何かを作っている。ちょっと熊っぱい。スラックスを履いているため恐らく男だ。しかし髪が伸びているため表情をうかがうこともできなかった。
「お疲れ様です」
雪哉が声をかけると、二人は作業の手を止めてお疲れ様ですと返事をする。俺もそれにならった。
促されてその場にあった椅子に座る。
雪哉は教室を見渡した。
「葉月、今日的場は来ていないよな」
「来てないです」
葉月と呼ばれたのは、猫背の生徒だ。ぼそぼそと話していたが声が低いのがわかった。
回答に対して雪哉はわかったと回答する。表情には呆れが含まれていた。的場という人が来ないのは、いつものことなのだろうか。
「えーそれでは全員集まったということで、今年度初の手芸部の集会を始めます。まずは自己紹介から!まず俺は部長で3年の高瀬雪哉です。部を盛り上げられるように頑張ります!」
部長らしく挨拶をし、続いて葉月、真面目そうな生徒が順番に挨拶をした。
葉月は俺と同じ二年生で副部長。フリネームは葉月景。あの真面目そうな生徒は一年生の水戸七海だそうだ。
最後に一応俺も順当に挨拶をしておいた。
「自己紹介も終わったところで、本日の本題に入っていこうと思います。それでは……」
「あの一つよろしいですか?」
雪哉の言葉を遮るようにして、水戸が聞いた。
「うん、いいよ」
「ありがとうございます。僕と葉月先輩は手芸部に入部していますが、佐倉先輩もこの部に入部したという認識でよろしいのでしょうか?」
「えっ」
いきなりの変化球だ。まさか自分の話題が出るなんて思ってもみなかった。
雪哉の方を見ると少し考えている様子だ。
何を悩んでいるんだ。俺は試しに手芸部に来ているに過ぎない。つまり入部しているわけではないのだ。雪哉がそう説明してくれればいい。それだけの話だ。
「……うん。そういうことになるね」
突然の裏切り。
「そうなんですね。佐倉先輩は一つ上の先輩ですが、手芸部においては同期ですね。これからよろしくお願いします」
一点の曇りのない瞳で見つめてくる。
おいおい、どうすればいいんだ。
いますぐに訂正してくれと雪哉にアイコンタクトを試みるも知らないふりをされた。
絶望である。訂正したいが純粋な瞳の前ではなす術もない。
「あ、あ……。よろしく」
返事をしてしまった手前後には引けず、結局手芸部に入部することになってしまったのだ。
「雪哉くん、昨日のあれはどういうこと?入部するなんて聞いてないんだど」
「うん、俺もそのつもりはなかったけれどね。最終的には真斗が入部を決めただろう。ありがとう入部してくれて嬉しいよ」
それに放課後は特に用事もないだろと言う。その通りだけど、俺は手芸に興味はない。
食堂で問いただすも雪哉にはいまいち刺さっていない。ちっとも悪いと思っていないのだろう。
昨日の出来事も全て仕組まれていたことだと言われても驚かない自信があった。そう考えれば手芸部に顔をだすといった時にすごく嬉しそうな顔をしていたことにも納得がいく。
「……これで手芸部の廃部が免れて本当に良かった」
「手芸部の廃部……?」
「そううちの学校では所属している部員が五名以上いないと部が存続できないんだ。うちの部の場合真斗がその五人目の部員でめでたく存続が決まったわけ」
さらっととんでもないことを言ってきた。つまり俺が退部してしまえば手芸部は廃部決定。
恐らく昨日手芸部に行ってしまった時点でこの結果は決まっていたのかもしれない。
そうでなくとも雪哉はあの手この手で俺を説得するに違いなかった。
「でも、どうしても嫌だと言うなら諦めるよ。水戸くんや葉月は悲しむだろうな。手芸部がなくなってしまうわけだしね」
芝居がかったような態度だ。急に悲しげな演出をしてくる。
これは俺の負けだ。
「……わかったよ、入部する」
結局俺は雪哉のお願いに弱いのだ。
「本当!?」
「断っても逃す気ねえだろ」
「うん、確かに。そういうわけでこれからよろしくね、さ・く・ら・くん」
雪哉は真斗と二人でいる時は佐倉くんなんて苗字で呼ばない。つまりからかっているのだ。
「ふざけんな!!」
どうせ入部するんだ。今肩を叩くぐらい、俺の善行を考えたら安いものだろう。雪哉もされるがままだった。
※
「……くん、佐倉くん」
眠気まなこで周囲を見渡す。
「ん……何?……葉月?」
「ホームルーム終わったよ。全然起きないから起こしちゃった」
どうやらホームルームの途中で寝てしまっていたようだ。教室内には俺たち二人しかいない。リュックを背負っているから、葉月のクラスのホームルームも終わったのだろう。
わざわざ起こしにくるなんで律儀な人だ。
「あんがと。……ところで他のクラスの生徒は他クラスに入っちゃいけない規則があったと思うんだけど」
「周りに先生も生徒もいなかったからいいかなって」
「意外と大胆だな」
真面目そうな雰囲気があるが、そうでもないらしい。あと、俺の机の前に立っている葉月は意外と身長が高い。
「……お前喋れんだな」
「え?」
「前に部室であった時は全然話してなかったから」
「ああ、それは」
恥ずかしいのか、頬をかく。
「俺人見知りで、初対面の人とあんまりうまく話せなくて……。この前の部活の時も緊張してたから」
「でも俺たち今もそんな仲良いわけじゃないだろ」
手芸部の部室で会話をしたのが初めてだ。いや、少し挨拶を交わした程度で話すとはまた違うのかもしれない。
まして、一学年に数十クラスあると見た目を覚えるのですら怪しい。この状況で仲がいいと判断するのは難しいだろう。
「ええ……。同じ部の部員になれたし、もう仲がいいと思ったんだけど違った?ごめん、俺変なこと言っちゃたかな」
明らかに困惑している。これだから人と人の距離感は難しいんだ。
「……いや、なんでもない。これから友達ってことでよろしく」
友達になって困ることもない。同じ手芸部の部員になったのだから仲を深めることに越したことはないだろう。
「べ、別に無理しなくても」
「無理してねえ。部室行くんだろ、荷物持ってさっさと行くぞ」
鞄を持って教室を出ると慌てた様子で葉月がついてくる。猫背で背が高いから少し熊っぽい。
髪が顔を覆ってしまっているせいで表情はわからないが、態度に出ているせいで思っていることが意外とわかる。
「面白いな葉月は」
「そうかな。そんなこと初めて言われた」
「確かに表情は読めないけど、動作で」
「俺、そんな変な行動してた?」
「いや別に」
「えー何それ。俺から見たら佐倉くんも十分面白いけどね」
「どこがだよ」
「なんていうか、ギャップ?もうちょっとヤンキーみたいな人だと思ってた」
「失礼なやつ」
「それは、ごめん」
無駄口を叩きながら部室にむかう。いつもはホームルームが終わったすぐに下校している。
でも、こんな放課後も悪くはない。運動部の掛け声が響く廊下を歩きながらそんなことを思った。