ある麗らかな春の日。その誘いは突然だった。

真斗(まなと)お願い!手芸部に入って欲しいんだ」

 昼休み、幼なじみに呼び出されたかと思えば、急に頭を下げられた。二年の教室に来てまで何してんだ。

 高瀬雪哉(たかせゆきや)が頭を下げているところを誰かに見られては変に注目されてしまう。彼は品行方正な好青年として学校中で知られていた。柔和な笑みを向けられては、男女問わず見惚れてしまうと評判である。

「いやだよ」

「そこをなんとか!」

 お前は部活に入っていなかっただろ?と追い討ちをかけてくる。

 確かに俺は部活には入っていない。しかしそれとこれとは別の話だ。

「俺は部活に入らないから。家でごろごろするって決めてんの」

「まずは一回試しに来てくれるだけでもいいんだ。お願い頼む」

 これは、はいと返事をするまで一歩も引かない気だ。強い意志を感じる。

 思わずため息が出た。雪哉はこうと決めたら曲げない頑固なところがある。そして俺は雪哉に対して強く出ることができない。彼には大きな恩があるから。

「……試しに行くだけだからね」

「本当かっ!?」

 ありがとうと言いながら抱きついてくる。正直男からのハグは嬉しくない。女の子からの方が嬉しい。ふわふわしてるし、なんかいい匂いするし。

 雪哉はひとしきり喜んだ後、放課後教室に迎えにいくからと言い予鈴に背中を押されるようにして去っていった。

 別に入部するって言ったわけじゃないんだけどな。まあいいか。

「やべ、次体育じゃん」

 体操服に着替えなくてはいけない。俺は駆け足で更衣室に向かった。

 今でこそ帰宅部だが、中学二年生まではバスケットボールをやっていた。地域でも強豪だと言われるチームに所属していて、練習にも欠かさず参加していた。試合では練習した分だけ実力を出せていたし、チームの仲間と点を稼いで勝利するのは気持ちが良かった。

 あの時までは。

 中学二年生の冬、俺は試合中に足を負傷した。そのまま病院に運ばれ、医者に診断された結果は、全治一カ月の大怪我。治ったとしても、バスケットボールのような激しい運動は控えるようにと言われた。

 伝えられた時は、ああもうバスケをすることはできないんだという絶望感に襲われた。小学生の時から続けていたバスケットボール。辛いことも苦しいこともあったけれど、そんなの忘れてしまうくらい楽しい思い出がたくさんあった。

 面会時間が過ぎて両親が帰宅し、病室に一人になった時、棚に置かれたスパイクが目に入った。試合の最中に抜けてきたから、靴を履き替える余裕もなかったのだろう。

 ボロボロになって、ロゴマークも掠れて見えなくなりつつある。手を伸ばしてみても、ベッドに足が固定されてしまって届くことはない。

 ああもう、バスケをすることはできないんだ。

 そう実感する。怪我をした時も、医者にもうバスケットボールはできないと言われた時も、両親に気遣われた時も涙は出なかった。

 でもその時だけは涙が止まらなくなった。今まで俺の人生の一部だったものが、呆気なく消えてしまった。もう手が届くことはない。大事なものだったことをなくして初めて実感したのだ。

 その後俺はバスケットボールチームを引退し、何をするわけでもなく、普通の受験生としての生活を送った。

 学校に行って、授業を受けて、受験勉強をして、そんな日々だった。変わり映えのしない毎日。そんな俺をみかねてか母が幼馴染の雪哉の家族と一緒にバスケの試合を見に行こうと提案してきたのだ。

 正直俺は、自分が見に行きたいのかそうじゃないのか、自分自身の気持ちがわからなくなっていた。

 結局俺はバスケの試合を観戦している途中に、気持ちが悪くなって会場の外に出た。

 試合をちゃんと見ないと、と思えば思うほど苦しくなって。もうあの日々には戻れないと突きつけられているような気がした。

 じゃあ、これから俺はどうすればいい。バスケに夢中になってきた人生だ。これ以外の生き方を知らない。こんな気持ちを抱えて生きるくらいなら、消えてしまいたい。

 親に心配をかける自分も、まだバスケを毎日やっていた頃に戻れるかもしれないと思い続けている自分も。全部、全部消えてしまえばいいのに。

 ふらふらと歩きながらたどり着いた先は、バスケの試合が行われている会場のバルコニーだった。

 ここから落ちて完全に壊れたら、諦めがつくのかな。

 手すりにつかまり、身を乗り出す。辺りは暗くなっていて高い場所にあるここからでは地面を目視することができない。広がっているのは闇ばかり。

 きっと、このまま体を預けたら楽になれる。

 手すりから手を離そうとした、その時

「何やってんだよ!」

 羽交い締めにされて、引き戻される。やってきたのは当時高校一年生の雪哉だった。

「雪哉くん、どうして」

「どうしてじゃねえよ、真斗がいないから探しにきたんだ」

「このまま放っておいてくれたら良かったのに」

 雪哉は俺がつぶやいた言葉を聞き逃さなかった。

「何言ってんだよ」

 頬を叩かれた。あまりにも衝撃的で、叩かれた部分を抑えることしかできない。何するんだよという言葉は、喉の奥に引っ込んでしまった。  

 雪哉が泣いていたから。昔からしっかり者で泣いているところなんて見たことがなかった。非の打ち所がない幼なじみ。そんな彼が悔しそうにうつむいている。でも俺の手は握ったまま。

「放っておけるわけないだろ。お前は大事な友達なんだから。今は俺と一緒に踏ん張ろう。いつかまた大切にしたいと思えることに出会えるまで」

 声を震わせながら言われたその言葉が今も俺の心の中にとどまり続けている。

 その後、俺は受験勉強を必死でして、雪哉と同じ高校に入学した。雪哉がくれた言葉はあの時の自分にとって重要な者だったから。なんとか同じ高校に行こうと頑張った。ここまで集中して続けたのは、バスケをやっていた以来かもしれない。

 やっとの思いで雪哉と同じ高校に入学してからも、何か熱中できるものを見つけられるわけでもなく。ただ無気力な日々を過ごしていた。

 受験という目標がなくなってからは、惰性で生活をする日常に戻っていた。

 その後雪哉は宣言通り放課後に迎えに来た。心なしか浮き足立っている。なぜだ。

「ねえ雪哉くん、俺入部するって言ったわけじゃないからね」

「わかってる。試しに来てくれるだけでも嬉しいよ」

 本当にわかっているのか。怪しい。

「あと部室に入った後は雪哉くんはやめてくれ。他の部員と平等に接していたいから。俺も他の部員と同じように苗字で呼ぶから」

 雪哉は真面目だ。いつも周囲に気を配っている。それは幼い時からで、そういう部分は単純に尊敬できる。

「なんだよそんなに見つめて」

「いや普通にすごいなって」

「そんなことないよ」

「いや違うね。俺だったらそんなとこ気づかねえもん」

「普通に言われると恥ずいな」

 少し顔を赤らめている。こういう素直なところもたくさんの人が雪哉に惹かれる理由の一つだろう。本人は恥ずかしがるのかもしれないけれど。

「あ、着いた」

 手芸部の部室は校舎の端にある。教科ごとに使用されている部屋と隣り合っているため人通りはほとんどない。

 扉を開けるとすでに二人の生徒がいた。一人は本を読んでおり、制服をきっちりと着こなした真面目そうな男子生徒。

もう一人は猫背で丸まりながらちまちまと何かを作っている。ちょっと熊っぱい。スラックスを履いているため恐らく男だ。しかし髪が伸びているため表情をうかがうこともできなかった。

「お疲れ様です」

 雪哉が声をかけると、二人は作業の手を止めてお疲れ様ですと返事をする。俺もそれにならった。

 促されてその場にあった椅子に座る。

 雪哉は教室を見渡した。

「葉月、今日的場(まとば)は来ていないよな」

「来てないです」

 葉月と呼ばれたのは、猫背の生徒だ。ぼそぼそと話していたが声が低いのがわかった。

 回答に対して雪哉はわかったと回答する。表情には呆れが含まれていた。的場という人が来ないのは、いつものことなのだろうか。

「えーそれでは全員集まったということで、今年度初の手芸部の集会を始めます。まずは自己紹介から!まず俺は部長で3年の高瀬雪哉です。部を盛り上げられるように頑張ります!」


 部長らしく挨拶をし、続いて葉月、真面目そうな生徒が順番に挨拶をした。

 葉月は俺と同じ二年生で副部長。フリネームは葉月景(はづきけい)。あの真面目そうな生徒は一年生の水戸七海(みとななみ)だそうだ。

 最後に一応俺も順当に挨拶をしておいた。


「自己紹介も終わったところで、本日の本題に入っていこうと思います。それでは……」

「あの一つよろしいですか?」


 雪哉の言葉を遮るようにして、水戸が聞いた。

「うん、いいよ」

「ありがとうございます。僕と葉月先輩は手芸部に入部していますが、佐倉先輩もこの部に入部したという認識でよろしいのでしょうか?」

「えっ」

 いきなりの変化球だ。まさか自分の話題が出るなんて思ってもみなかった。

 雪哉の方を見ると少し考えている様子だ。

 何を悩んでいるんだ。俺は試しに手芸部に来ているに過ぎない。つまり入部しているわけではないのだ。雪哉がそう説明してくれればいい。それだけの話だ。

「……うん。そういうことになるね」

 突然の裏切り。

「そうなんですね。佐倉先輩は一つ上の先輩ですが、手芸部においては同期ですね。これからよろしくお願いします」

 一点の曇りのない瞳で見つめてくる。

 おいおい、どうすればいいんだ。

 いますぐに訂正してくれと雪哉にアイコンタクトを試みるも知らないふりをされた。

 絶望である。訂正したいが純粋な瞳の前ではなす術もない。

「あ、あ……。よろしく」

 返事をしてしまった手前後には引けず、結局手芸部に入部することになってしまったのだ。

「雪哉くん、昨日のあれはどういうこと?入部するなんて聞いてないんだど」

「うん、俺もそのつもりはなかったけれどね。最終的には真斗が入部を決めただろう。ありがとう入部してくれて嬉しいよ」

 それに放課後は特に用事もないだろと言う。その通りだけど、俺は手芸に興味はない。

 食堂で問いただすも雪哉にはいまいち刺さっていない。ちっとも悪いと思っていないのだろう。

 昨日の出来事も全て仕組まれていたことだと言われても驚かない自信があった。そう考えれば手芸部に顔をだすといった時にすごく嬉しそうな顔をしていたことにも納得がいく。

「……これで手芸部の廃部が免れて本当に良かった」

「手芸部の廃部……?」

「そううちの学校では所属している部員が五名以上いないと部が存続できないんだ。うちの部の場合真斗がその五人目の部員でめでたく存続が決まったわけ」

 さらっととんでもないことを言ってきた。つまり俺が退部してしまえば手芸部は廃部決定。

 恐らく昨日手芸部に行ってしまった時点でこの結果は決まっていたのかもしれない。

 そうでなくとも雪哉はあの手この手で俺を説得するに違いなかった。

「でも、どうしても嫌だと言うなら諦めるよ。水戸くんや葉月は悲しむだろうな。手芸部がなくなってしまうわけだしね」

 芝居がかったような態度だ。急に悲しげな演出をしてくる。

 これは俺の負けだ。

「……わかったよ、入部する」

 結局俺は雪哉のお願いに弱いのだ。

「本当!?」

「断っても逃す気ねえだろ」

「うん、確かに。そういうわけでこれからよろしくね、さ・く・ら・くん」

 雪哉は真斗と二人でいる時は佐倉くんなんて苗字で呼ばない。つまりからかっているのだ。

「ふざけんな!!」

 どうせ入部するんだ。今肩を叩くぐらい、俺の善行を考えたら安いものだろう。雪哉もされるがままだった。



「……くん、佐倉くん」

 眠気まなこで周囲を見渡す。

「ん……何?……葉月?」

「ホームルーム終わったよ。全然起きないから起こしちゃった」

 どうやらホームルームの途中で寝てしまっていたようだ。教室内には俺たち二人しかいない。リュックを背負っているから、葉月のクラスのホームルームも終わったのだろう。

 わざわざ起こしにくるなんで律儀な人だ。

「あんがと。……ところで他のクラスの生徒は他クラスに入っちゃいけない規則があったと思うんだけど」

「周りに先生も生徒もいなかったからいいかなって」

「意外と大胆だな」

 真面目そうな雰囲気があるが、そうでもないらしい。あと、俺の机の前に立っている葉月は意外と身長が高い。

「……お前喋れんだな」

「え?」

「前に部室であった時は全然話してなかったから」

「ああ、それは」

 恥ずかしいのか、頬をかく。

「俺人見知りで、初対面の人とあんまりうまく話せなくて……。この前の部活の時も緊張してたから」

「でも俺たち今もそんな仲良いわけじゃないだろ」

 手芸部の部室で会話をしたのが初めてだ。いや、少し挨拶を交わした程度で話すとはまた違うのかもしれない。

 まして、一学年に数十クラスあると見た目を覚えるのですら怪しい。この状況で仲がいいと判断するのは難しいだろう。

「ええ……。同じ部の部員になれたし、もう仲がいいと思ったんだけど違った?ごめん、俺変なこと言っちゃたかな」

 明らかに困惑している。これだから人と人の距離感は難しいんだ。

「……いや、なんでもない。これから友達ってことでよろしく」

 友達になって困ることもない。同じ手芸部の部員になったのだから仲を深めることに越したことはないだろう。

「べ、別に無理しなくても」

「無理してねえ。部室行くんだろ、荷物持ってさっさと行くぞ」

 鞄を持って教室を出ると慌てた様子で葉月がついてくる。猫背で背が高いから少し熊っぽい。

髪が顔を覆ってしまっているせいで表情はわからないが、態度に出ているせいで思っていることが意外とわかる。

「面白いな葉月は」

「そうかな。そんなこと初めて言われた」

「確かに表情は読めないけど、動作で」

「俺、そんな変な行動してた?」

「いや別に」

「えー何それ。俺から見たら佐倉くんも十分面白いけどね」

「どこがだよ」

「なんていうか、ギャップ?もうちょっとヤンキーみたいな人だと思ってた」

「失礼なやつ」

「それは、ごめん」

 無駄口を叩きながら部室にむかう。いつもはホームルームが終わったすぐに下校している。

 でも、こんな放課後も悪くはない。運動部の掛け声が響く廊下を歩きながらそんなことを思った。

「だー!俺には無理かもしれん」

 持っていた布と針を机の上に放り出す。細かい作業が苦手な俺にとって裁縫は人生の中でなるべく避けてきたものの一つだった。

「佐倉くん、もう少しの辛抱だよ。頑張ろう」

 見かねた葉月が隣から作業の手を止めてこちらを覗きこむ。近い、近い。

 現在俺たちは手芸部の部室でクロス直しの作業の真っ最中だ。きっかけは放課後雪哉が部室にやってきたことから始まる。

「おっ二人とも来てる」

「雪哉く……いや高瀬先輩お疲れ様です」

「お疲れ様です」

「二人ともお疲れ様。急で悪いんだけど頼まれごとをしてくれないかな」

「頼まれごと?」

「さっき部室に来る前に教頭先生に会ってさ、この中に入っているクロスを直してくれって頼まれたんだ」

 雪哉は両手に大きなダンボールを抱えている。机の上に置いて中身を確認すると、先ほど言っていたようにクロスが入っていた。しかもかなり大きめの。

「これを直すのを俺らがやるんですか?」

「手芸部として直すのは今回が初めてじゃないんだ。今までも保健室の布団とかカーテンとかを直してきてるんだよね。だから今回もお願いって言われたわけ」

 なんだそれ、雑用を押し付けられてないか。

「俺も一緒に直したいのは山々なんだけどこれから部長会議が入っているんだ。水戸くんも今日は来れないって報告されてるし。申し訳ないんだけど二人で直してくれないかな」

「暇だったから別にいいですけど、俺裁縫とか全然できませんよ」

「大丈夫、簡単な作業だし、いざとなったら葉月が教えてくれるだろうしね」

 アイコンタクトをされた葉月は一瞬動揺したものの、すぐに頑張りますと返事をしていた。

 その後本当に急ぎなのか雪哉は小走りで会議に向かってしまった。

 そして現在、俺は完全に行き詰まっている。クロスは案外硬く、それなりの力を入れないと布を通ってくれないし、まっすぐ縫い進めるのがとにかく難しい。気を抜いたらすぐにずれてしまうのだ。

 それに対して葉月はすごい。針を進めていくスピードが速い上に、縫い目は揃っていて正確だ。

「お前はいいよな、裁縫得意で」

「そんなことないよ、何回かやり直してるし」

「全然だろ。俺なんか何度やり直したかわかんねえ。気を抜くとすぐ失敗する」

「何回もやれば簡単にできるようになるよ」

「器用なやつはすぐそういうことを言うんだ……」

 ふふっと隣から笑いを堪える声が聞こえた。

「……何笑ってる」

「いや、ごめん。すごい不貞腐れてるなって思って」

 前髪に隠れてしまってその表情はわからない。でも随分と楽しそうだ。

 そもそも、前髪があってこちらからは表情がわからないのに、本人はちゃんと見えているんだろうか。いや見えているから作業ができるんだろうけど。

「葉月はその前髪、邪魔じゃないのか?」

「え?いや全然考えたこともなかったな」

「そういうもん?」

「俺にとっては、かな」

 どうやら髪形に頓着しないタイプだっただけらしい。

「髪切ろうとか思わないわけ」

「思わないかなあ。美容室苦手なんだよね」

「あーそれは、なんか話さなきゃって気持ちになるからってこと?」

「そう」

「確かに、それはあるかもな」

 葉月は初対面の人と話すのが苦手だと言っていたし、美容室に行きたがらないのも納得だ。

「でも、言われたらなんか気になってきた。今切っちゃおうかな」

「えっ?」

 葉月はその場にあった布用ハサミを取り出し前髪を掴んだ。

 いやいや、それはまずいだろ。

「待てよ!」

 寸前のところで手首を掴む。なんとか動きを静止することができた。

「お前なあ、急に前髪切ろうとするとか。普通はそうならんだろ」

「え、ごめん。俺また変なことしちゃった……」

  俺に言われてしょぼんとしている。主人に怒られた犬みたいだ。

 普段おとなしいかと思えば、今みたいに突拍子のない行動に出たりする。本当に見かけによらず面白いやつだ。

「あのな」

 しゅんとして背を丸めている葉月の頭を撫でる。

「な、何?」

「別に今切ろうとしなくてもいいだろ。ピンとかで止めるって方法もあるし。自分で切って、ぱっつんになってから後悔しても遅いんだからな」

「確かに、そうかも」

「だろ。今日は俺のやつ貸してやるから、それで我慢しろ」

 鞄からヘアピンを取り出す。これは授業中前髪が邪魔になった時につけているものだ。

「目、閉じて」

 前髪を動かした時に、目に入らないように指示する。前髪をかき分けると、思っていた以上に綺麗な顔が出てきた。

 白く整った肌に薄い唇、意外にも整えられた眉毛。同級生とは思えないような大人な雰囲気があった。夕日に照らされている事も相まって余計にそう見える。

「?佐倉くんどうしたの」

「んっ?何でもないっ!」

 男の顔をじっと見つめていることに気がついて慌ててヘアピンをつけた。

「で、できたぞ」

「本当だ、ありがとう。危うく明日クラスの笑い者になるところだった」

そんなことはないと思うが。

 長い前髪が、次の日極端に短くなっていたら視線を集めることは間違いないだろう。

「……よく見えるね」

「?何が」

「佐倉くんの顔」

「俺?」

「うん、今までぼんやりとしか見えていなかったし。……へえこんな綺麗な髪の色してたんだ」

 俺たちが通っている高校は県内ではトップの高校に入るものの、校則が緩い。そのせいか校内には髪が明るい生徒が多い印象だ。

 俺も例に漏れず髪を染めている。ブリーチはせずに、少し明るくする程度だけど。

「そうか?初めて言われた」

「うん。特に夕日と反射してすごく綺麗」

 夕日。俺も同じようなことを思った。

 葉月の手が伸びてきて、髪の毛に触れる。あまりにも近くて息遣いがすぐそこで聞こえた。

「……赤い」

「そりゃ恥ずかしくもなるだろ。こんなに近くに来られたら!」

「ごめん」

「謝んな!」

 こっちが意識しているみたいで余計に恥ずかしい。あれは不可抗力だ。仕方がない。

「ごめん」

「もういい、続きやるぞ」

 椅子に座り直して布と針をとる。

 先ほどから心臓が鳴り止まない。こいつの変な距離感のせいだ。

 手が変に震えて、糸がうまく針穴に入っていかない。

「……ねえ、佐倉くん」

「っなんだ」

「あのさ、俺いいこと思いついた」

「何がだよ」

「高瀬部長が言っていたみたいに手芸部がこういう雑用やるのって珍しくないんだ。今まで疑問に思ったことはなかったんだけど、ちょっとやり返してみたくなった」

 チラリと隣の様子を伺う。すごくワクワクしているようだ。いたずらっ子が最高の罠を思いついた時のような表情。

 葉月は態度に思っていることが出やすい。思っていることが案外伝わってくる。けれどやはり顔が見えた方がいいと思う。そのくらい魅力的な表情だ。

それに俺も面白いことは嫌いじゃない。

「すごい心の変化だな」

「うん、俺もびっくり」

「で、具体的には何をするんだ」

「あのね……」

 直したクロスを見て、部室に戻ってきた雪哉は驚いたように目を見開いていた。すぐにいつもの表情に戻って、いい仕上がりだね、と返してきた。

 早速教頭先生に見せに行こうと提案されたので三人で教頭室へ向かう。

 葉月は部室を出る時にヘアピンを取ってていた。どうしてかと尋ねると、ヘアピンをつけて自分のクラスに入ったら、ひそひそ声で話され、好奇な目を向けられたからだそうだ。

 そんなに変かなヘアピンつけてるの、と言っていたが多分違う。教室にいきなり美青年が現れたら、クラスメイトも動揺するだろう。自分の顔を見慣れていて美形だと気づいていないのか、はたまたただの天然なのか。途中でその考えは捨てた方がいいと気づいた俺はすごいと思う。

 すると雪哉がクロスをまじまじと見ながら言った。

「これ二人でやったの?」

「そうです。とは言ってもむずいところは葉月がやったんですけど」

「ああ、だよね」

「先輩、それどういう意味ですか?」

「佐倉くんも頑張ったねって意味だと思うよ」

「ちょっと黙ってろ天然」

「……ほらほら二人とも教頭室に着いたよ」

 本当だ。クロスは葉月が抱えている。扉をノックし、取手に手をかけた。

「行こう」

完成を見た時に教頭先生がどんな表情をするか楽しみだ。



「いやー教頭先生の顔見ものだったなー」

「な、俺もあんなに渋い顔は初めて見たよ」

「そうなんですね」

「しかも、あのクロス教頭室の来賓用の机のやつだったんだな」

「教頭先生に来賓の方との話のネタを提供できたね」

「高瀬先輩ポジティブ……」

 葉月が考えたちょっとした復讐。それはクロスの直す部分をただ縫い付けるだけでなく、可愛くプチリメイクすることだった。

 縫い合わせた上から部室にあったワッペンをつけていった。アイロンをかけるだけで簡単につけれるから俺でもできた。

 教頭先生もクロスが綺麗に修復されているのでワッペンについては何もいうことができず、納得のいかないような顔で受け取っていた。今でも笑える。

「うまくいってよかったな、葉月」

「うん、ちょっと緊張したけど」

「よかったな。じゃあ二人とも部室に戻って帰ろっか」

 窓の外を見るとすっかり日が落ちていた。雪哉に言われるまで気が付かなかった。

 葉月は俺たちよりも早足で部室に向かってしまう。相変わらずのマイペース。

「高瀬は背も高くて足も長いから、歩くのが早いのかな」

「いや、だたマイペースなだけだと思うんだけど」

「そう?……何はともあれ、真斗が楽しそうでよかったよ」

「うるさい」

「照れんなよ」

「照れてない」

 雪哉との攻防戦は、部室にたどり着くまで続いた。

「お疲れ様でーす」

 手芸部の部室へ行くと何やら葉月と水戸が頭を突き合わせていた。

何をしているんだろう。いつにも増して真剣な様子だ。

「どうしたんだ?」

「はっ」

 覗きこもうとした瞬間、ものすごい瞬発力で顔を上げスマホを隠されてしまった。葉月は今日もヘアピンをつけているようで赤く染まった頬がチラリと見えた。

 対して水戸はいつも通り落ち着いている。

「お疲れ様です。佐倉先輩」

「おう。二人は何を見てたんだ?」

「あーそれはですね……」

 珍しく目が泳いでいる。本当に何があったんだ。

 水戸が続きを話そうとすると、

「っっ待って!」

 水戸の話を葉月が慌てた様子で静止した。

「水戸くん、言わないで」

「……だそうです」

「何だよ、見せてくれたっていいのに」

「だめ!」

 手を伸ばしてスマホを取ろうとするが、葉月に交わされる。俺よりも背が高く、手足も長いためどう考えたって不利な状況だ。

 両手をあげてお手上げのポーズを取る。

「はいはい、ごめん。そんなに嫌がるなら聞かないよ」

 その場にあった席に座る。そうだ、別に相手が嫌がっていることに対して深入りするもんじゃない。

 でも、何でだろう。すごくもどかしい。そもそも、水戸に言えて俺に言えないことってなんだ。

 手芸部に入部することになって早3週間。それなりの関係を気づいてきたつもりだ。

 葉月と水戸の関係だって、俺よりは長いかもしれないけれど、それも僅かな差だろう。

「……葉月先輩、佐倉先輩には言ってもいいんじゃないですか」

「言わない」

 頑なな様子の葉月に対して、はあとため息を吐いた。

「わかりました。でも僕は佐倉先輩にならいっても大丈夫だと思いますよ」

 それじゃあ、僕はこれでと水戸は鞄を持った。

「もう帰るのか?」

 俺が部室に来るのが遅れたとはいえ、放課後は始まったばかりだ。おそらく水戸や葉月も部室に滞在している時間はそれほど長くないはずだろう。

「はい、両親は仕事が忙しくて迎えに行けないので僕が妹を幼稚園まで迎えに行くんです」

「妹」

「僕のかわいい妹です」

 そこまでは聞いていない。シスコンか。

 そのまま立ち上がりお先に失礼します、と言い残して帰ってしまった。

「年の離れた妹か……水戸も大変だな」

「そうだね」

 無言。気まずい。

 会話を続けることを諦め、部室に置いておいた俺専用の箱を取り出す。

 中には裁縫道具や作りかけの巾着を入れていた。巾着は手芸部で何を作ろうか決めかねていた時に雪哉に勧められたものだった。

 生地は部室に余っているものを使わせてもらった。まあ、練習用だしいいだろう。

 ゆっくり針を進めていく、やり始めはとにかく早く進めようと針を進めていた。しかしそれだと、線がガタガタになるし糸が絡まってしまうのでやめた。

 それにしても、葉月が俺に隠していることって何だろう。そんなに言えないことなのか。

「いてっ」

 考え事をしていたら、手元がおろそかになってしまったらしく針が指に刺さる。最近は指に刺してしまうことも少なくなってきたのに。ちょっと落ち込む。

「大丈夫!?」

 心配した様子で葉月がやってきた。俺以上に痛そうな顔をしている。

「大丈夫、ちょっと針が刺さっただけだ」

「ちょっとじゃないよ、血が出てる」

 棚の中に置かれている裁縫箱を持ってきた葉月は手際よく消毒し、絆創膏を指に巻き付けていく。

「ごめん」

「本当に気をつけて」

 葉月の細長い指が器用に動いている様子は見ていて気持ちがいい。モヤっとしていた気持ちが少し晴れていくような気がした。

「……なあ、さっき話してたことって」

「っ! ほら、絆創膏貼り終えたよ」

 そういうや否や、自分の席に戻ってしまった。何だよ、その態度。そんなに話せないようなことなのか。

「お疲れ様です」

 雪哉が部室に入ってきた。その手には何やらプリントが握られている。

「先輩、それ何持ってるんですか」

「ああ、これは文化祭の提出用紙。もうそろそろ6月に入るし、手芸部として考えないといけないんだ」

 そういえば今日のホームルームで文化祭実行委員から、何やら話が出ていたような気がする。もう考え始めなければいけないのか。

去年は一年生ということもあってか、準備が遅くなりあまりクオリティの高いものはできなかった記憶がある。全クラスが参加しなければいけない制度も、盛り上げるという点ではいいかもしれないが一年生にとっては結構きつい。

「なるほど」

「それで内容について話したいんだけど、二人はこの後時間大丈夫?」

「俺はこの前の巾着の続きをしてただけなんで大丈夫です。葉月は……」

ちらりと伺うと葉月もこちらを見ていて、視線が合ってしまった。慌ててそらすくらいなら、こっち見てんなよ。

「俺も大丈夫です」

「ふーん。ところで葉月は何をしてたんだ」

 雪哉がスマホを覗き込むが、葉月は拒否しようともしない。本当に俺だけ駄目なようだ。

「あーこれか。葉月これ好きだよな」

「はい」

 楽しそうな会話が隣で繰り広げられている。気になる。

 ……でも、こういう時に無理に入り込むのはよくない。落ち着け。束縛がすごい彼女か、俺は。

「佐倉はこれ知ってる?」

「知らないですね、俺には教えてくれないんで」

 少し嫌味を込めていう。視界の端で葉月が気まずそうにしているが、知らないふりをする。

「そうなのか。葉月、俺は佐倉には教えても大丈夫だと思うけど……」

 雪哉は水戸と同じようなことを言う。

「無理です」

 無理、か。俺はよほど信頼がないらしい。

 椅子から立ち上がり近づいていく。葉月が座っている椅子付近の机に手を置くと、大きな体をびくりと揺らした。

「あのさ、お前が俺のことどう思ってようと勝手だよ。でも、あからさまに態度に出すのは違うだろ」

「えっと、その」

 そうだ。葉月がどんな風に俺を捉えようと勝手だ。あの日教室で、仲がいいと思っていたと言っていたこともお世辞だったのかもしれない。

 けれど、

「俺がそんな態度出されて、どんな気持ちになるか考えろよ!」

 部室が静まり返る。言い終えた後で冷静になる。終わった。

 こんな風に感情的になるつもりじゃなかった。葉月はうつむいている。

「……俺帰ります」

「え」

 葉月はそう言うと鞄を持って部室から出ていってしまった。ヘアピンがつけっぱなしだったけれど大丈夫なのかと問いが浮かんで、慌てて思考を隅に追いやる。

 今はそんなこと考えてる場合じゃないだろ。

 雪哉が宥めるように肩に手を添えてくる。

「真斗がああ言う気持ちもわかる。でも、人には人のペースがあるんだ。ちゃんと待ってあげような」

「……わかってるよ」

 わかってたはずだった。

 雪哉は眉を下げてこちらを見つめている。弟が何か失敗したのを、しかたないなと見つめる兄のようだ。

「わかったならよし!そんなにしょんぼりすんなよ、ほら巾着の続きやろう。話し合いはまた今度だな」

「うん」

 真斗がしおらしくなるなんて珍しいと軽口を叩いてくる。対して俺は、うるさいよと返した。

「やっとできたーー!」

 数時間後、固くなった背筋を思いきり伸ばした。日が落ちかけている。

巾着が完成したのだ。初めてにしては上手くできたと思う。ちょっと歪んでいる気がしなくもないがそこは愛嬌ということにしておこう。

「どれどれ」

 雪哉が巾着を裏返して確認していく。自分では上手くできたと思うだけ、緊張する。

「うん、ちゃんとできてると思う。裏地も綺麗に縫えているしね」

「よっしゃ」

 思わずガッツポーズが出た。雪哉には縫っている段階でもあれこれ口出しされていたので、余計に達成感を感じる。

「いやーでも、正直びっくりしたよ。真斗が巾着完成させられるなんて」

「雪哉くんが作れって言ったんだろ」

「そうだけど、真斗は基本的に集中力続かないタイプだろ。手芸部も無理矢理入部させたようなもんだしさ、面倒くさくなって辞められちゃうかなって思ってはいたんだよね」

 確かにそれは俺にとっても予想外だ。手芸部に入部した時は雪哉にはめられたと思ったし、正直言ってやる気がなかった。

 でも、続けてこれたのはきっと、葉月がいたからだ。

 あいつがいたから、続けられた。めげそうになった時には励ましてくれたし、一緒にいるのが心地よかった。

「俺、葉月に強く言いすぎたかもしんない」

「そう思ってるなら上出来だよ。あとでちゃんと謝れたらいい」

 頭を撫でる手をそっとよけて、わかったよと返事をした。
「忘れ物はない?」

「だいじょーぶです」

 雪哉が部室の鍵を閉める。廊下には俺たちの他に誰もいない。夕日が廊下全体を赤く染め上げている。いつもならここには葉月もいるはずなのに。そう思ったら何故か心臓当たりがぎゅっと苦しくなった。

するとその場に響き渡るように携帯が振動する音がした。

 雪哉がポケットから携帯を取り出す。鳴っていたのは雪哉のものだった。応答ボタンを押し、耳に当てる。

 いくつか言葉を交わした後にわかった、と返答して電話を切った。少し焦っているような様子だ。いつもは余裕がある雪哉の表情が硬い。少し胸騒ぎがする。

「水戸の妹がいなくなったらしい」

「は?」

「今は水戸と葉月の二人で探しているみたいだ」

「いや、どういうことだよ」

「詳しいことは歩きながら話そう」

 雪哉はポケットに携帯を入れ足早に歩き出す。俺もそれに続いた。

「水戸の妹の名前は水戸夏葉。二人は幼稚園に迎えに行った帰り、ショッピングモールに寄ったんだ。最近のルーティーンだったらしい。途中までは一緒にいたんだけど、気づいたらいなくなってたみたいで。サービスカウンターで放送をかけてもらってるみたいだけど応答がない」

「妹がいなくなるような心当たりはないのか。喧嘩したとか」

「いなくなる直前に、夏葉ちゃんが好きなキャラクターがショッピングモールに来ていて、それにつられたのかもしれないとは言っていた」

 しかしそれがいなくなった直接的な原因かはわからない。

 葉月とはショッピングモールで妹を探している時に出会った。現在は二人で水戸の妹を探している最中だそうだ。電話越しでも、焦っている様子が伝わってきたという。

「何もないといいな……」

「そうだね。でも水戸も相当焦ってるみたいだから、早く俺たちも行こう」

 校舎を出発して雪哉と急ぎながらショッピングモールへ向かう。道中で帰り際、水戸が妹の話をしていた時の花が綻ぶような笑みを思い出した。

 きっと今は心配で仕方ないだろう。大切な妹なのだから当然だ。

大事なものを失う怖さは誰よりもわかっているつもりだ、

 ショッピングモールに到着すると入口には水戸と葉月が立っていた。水戸の顔は青ざめている。寄りかかっていた壁から背中を離し、こちらに向かってくる。

「高瀬先輩、佐倉先輩」

 足取りがおぼつかない。葉月は後ろから心配そうに見守っていた。

 俺たちを待つ間、水戸と別行動をして探した方が効率はいい。でもあえてそうしなかったのは、こいつの優しさなのだろう。

「妹さんは見つかった?」

 雪哉の問いに、力無く首を横にふる。

「葉月先輩と館内をくまなく見回ったんですけど、居なくて。放送への返事もないまま……」

「わかった」

 水戸を見ると明らかに憔悴していることが俺でもわかった。ショッピングモール内を探し回った上に妹が危険な目にあっているかもしれないという緊張感でずっと気を張っていたのだろう。

 すると雪哉は水戸の頭を撫でた。弟をいたわるように優しく。

「水戸が心配する気持ちもわかる。あまり気負うなとは言わない。でも妹さんが見つかった時君がそんな様子じゃ、逆に心配されちゃうだろ。人手が増えたんだ、きっとすぐ見つかるよ」

 うつむきながら水戸が、はいと返事をする。その声が震えているのは聞かなかったことにした。

 その後の話し合いで雪哉と水戸はもう一度ショッピングモールを探すことになった。対して俺と葉月はショッピングモール周辺を探している。

「見つからないな」

 日が落ちかけている、暗い中で人を探すことは難しい。ましてや小さい子供ならなおさらだ。

駐車場や施設周辺も見てまわったが水戸の妹らしき影は見つけることができなかった。

 葉月が地面に座って汗を拭っている。小走りで長い時間探しているから疲れたようだ。

「……俺、もう一度敷地の周辺見てくる。もしかしたら植え込みのところに隠れているかもしれないから」

「待ってよ、それなら俺も一緒に」

「お前は疲れてるだろ、ここで少し休め」

「でも、それは佐倉くんも同じでしょ」

「お前よりは、体力あるから大丈夫。そこに座って俺の荷物ちゃんと見とけよ」

 葉月はまだ何か言いたそうにしていたけれど、そのままにして走り出す。

 幼稚園児は俺たちが思っているよりも、体が小さい。人が入れないような隙間にも入れてしまうと、別れ際に水戸が言っていた。

 さっき見た時よりも、腰を落としながら植木と植木の間を確認していく。

 バスケをしていた経験がここで役立つとは思わなかった。足を曲げて腰を落とす体制は何百回、何千回と繰り返した動きだ。

「夏葉ちゃーん、いるー?」

 通りすがっていく人の視線が少し痛いが、今は気にしている余裕はない。水戸の妹を見つけ出すことが最優先だ。空が完全に暗くなってしまうまで、あまり時間がない。

「……お兄ちゃん?」

 耳に飛び込んできたのは、普段の生活の中では決して聞くことがない高い声。振り返った先にいたのは、幼稚園の制服を着た小さな女の子だった。道路を挟んだ向こう側にいる。

 ベレー帽にツインテールをした幼稚園児。水戸の妹だ。見せてもらった写真を思い出しても姿が一致している。

 そしてもう一人目に飛び込んできたのは、水戸の妹の手を握る一人の男だった。

 不審者だろうか、このままでは連れ去られてしまうかもしれない。

「ちょっと待てよ!」

 今までの俺だったらこんなに必死になっていただろうか。手芸部に入っていたければ、今頃ベッドの上で漫画でも読んでいる時間だ。

 別にそれが変わったわけではないけれど、自然と足が出ていた。本気で走ったのはいつぶりだろう。

 だって、だって今動かなきゃ寝覚が悪い。

俺には兄弟がいなけれど、何かを大切にする気持ちを、失う怖さを、他の人より少しは知っているから。

「佐倉くん危ない!」

 名前を呼ばれて走るスピードが緩む。その瞬間パッパーと車のクラクションの音がして、俺はヘッドライトに照らされた。

 まずい、轢かれる。

 そう思った時にはもう遅くて、反射的に目を瞑った。

 けれど衝撃は来なかった。左手をぐっと掴まれて、地面の方に引き込まれる。両腕で抱きかかえられてそのまま尻餅をついた。背中側を庇われてるようで痛みはない。

中学三年生の時、バルコニーから身を投げ出そうとした日。雪哉に引き戻されたことを思い出す。

俺はいつでも、誰かに救われている。

「大丈夫か!」

 水戸の妹を連れていた人の声で我にかえる。俺を抱きかかえていたのは、葉月だった。

「葉月!なんでここに……」

 地面に頭をぶつけたのか、頭をさすりながら表情を歪めている。

「佐倉くん、怪我は、ない?」

 こんな時でも、お前は他人を気遣う言葉を選ぶのか。

 俺に向けられた、心配そうな表情。ヘアピンはまだつけっぱなしできちんと目があう。なんだろう、久しぶりにこの顔を見たような気がする。

 思い返せば今日は葉月と一度も目が合っていなかった。部室で、葉月が俺には言えないことを話していた時から、自然と目を合わせないようにしていたのかもしれない。

「怪我はない。大丈夫」

 お前はと聞くと、

「俺も大丈夫。持ってきた鞄を下敷きにしちゃったから中身ぐちゃぐちゃになってるかもしれないけどね」

 頬を掻きながら照れ笑いをする。今はそんなことどうだっていいだろ。危うくお前も車に轢かれかけたんだぞ。もう少し俺に言うことはないのかよ。

 感情が溢れては消えていく。どんな言葉を尽くしても、この気持ちは表せそうにない。

 ならせめて、

「助けてくれてありがとう」

 これはあの日雪哉に言うことができなかった言葉だ。

それを聞いた葉月は、どういたしましてと優しく返してきた。

 また視線があって、心臓が跳ねる。なんだよこれ。まだ車に轢かれそうになった時の体感が残っているのだろう。頬がやけに熱いのもきっとそのせいだ。

「ったく、お前ら大丈夫かって聞いてんだけど」

 反対の歩道からこちらに渡ってきていた。髪が少し伸びているせいか、雰囲気がチャラい。

男と手を繋ぎながら水戸の妹もやってきていた。

「あれ、その顔どこかで……」

「?」

「俺です、葉月景。お久しぶりですね、的場先輩」

「え、ええ?」

 雪哉が言っていたもう一人の手芸部所属の三年生。まさかこんなところで初対面になるとは思わなかった。的場は対して驚くこともなく答える。

「ああ、葉月か。確かそんな顔してたっけ。ところで怪我はないのか?どっかぶつけたとかは?」

「ちょっと頭をぶつけましたが、大丈夫です」

「大丈夫ってお前ねえ。そっちの突っ立ってる君は大丈夫?葉月の友達?」

 的場は俺に視線を向けた。

「俺は大丈夫です。それと新しく手芸部に入りました、佐倉です。それと葉月の友達です」

「おー後輩か、よろしく」

 すると的場の横から水戸の妹が顔を出した。不安そうに瞳が揺れている。

「君が、水戸の妹の夏葉ちゃん?」

 緊張しているのか、俺の問いに黙って首を縦に振るだけだ。すると何かを見つけたのか俺の後ろを指差した。

「あれ……」

「あれ?」

 指がさした方向を見ると道に何かが転がっていた。なんかふわふわした、ぬいぐるみみたいなやつだ。あんなのさっき通った時転がっていたっけ。

「これかな」

 葉月が転がっていたふわふわを手に取って、夏葉に見せる。

 すると途端に目を輝かせた。緊張した硬い表情は無くなっていた。

「うんそれ!わたし、きゅんくまが好きなの」

 なるほど、このふわふわはきゅんくまというらしい。小さい子に人気のマスコットなのだろうか。

「おにいちゃんも、きゅんくまが好きなの?」

 純粋な眼差しを向けられ、葉月は俺の方を気まずそうに見てきた。なんだ、その目は。

「うん、俺も好きだよ」

 照れているのか頬が赤い。どうしてだ。今どきキャラクターが好きなやつなんて、たくさんいるだろうに。

「いっしょだね!ほかにもリボンとかお花とかついてるやつも好き」

「これと、これかな」

「うんそれ!あ、このきゅんくま新しいやつだ!」

 たくさんのくまのマスコットを見て、一層目を輝かせる。

 それにしてもいつまで出てくるんだ。葉月の鞄の中から途切れることなく、きゅんくまのグッズが出てくる。

「葉月、これずっと好きだよな。よく飽きねーもんだ」

 いつの間にか隣でしゃがんでいる的場がぼやいた。

「ずっとって」

「ああ、こいつ手芸部入りたての時に、このくまの画像見ててさ。俺がうっかり話しちゃって、部内で周知の事実になっていたわけ」

「周知の事実……」

「本人は恥ずかしかったみたいだけどな」

 そういうことか。葉月が俺に隠したがっていた理由がわかった。きゅんくまを取り出す時に気まずそうにしていた理由も。

 隣の様子を伺うと水戸の妹と葉月はきゅんくまを手に取りながら、楽しそうに話をしていた。

 俺はこんな風に柔らかく微笑むこいつの表情が好きだ。だから好きなものも隠くして固くなるんじゃなくて、楽しそうに話してほしい。

「葉月、お前こういうのが好きだったんだな」

 話しかけると、また表情が固まった。

「男なのにおかしいって思う?」

 声は緊張を帯びている。

「いいや。それより俺は葉月の好きなものを知れたことが嬉しい」

「隠しててごめん」

 自分が大切にしているものを否定されるのは怖い。時代が変化してきたとはいえ、男が堂々とかわいいものが好きだと言うのは抵抗があるだろう。葉月の気持ちも当然だ。

 隠さずに言って欲しかったという気持ちもある。でもそれは俺のエゴ。

「謝んなよ。俺も強く言ったしお互いさまだ」

 葉月はまだ何か言いたそうにしていたが、タイミングよく俺のポケットの中で携帯が振動した。

「高瀬先輩からだ」

 携帯の画面には雪哉と表示されている。メッセージもいくつか届いていた。葉月の方にもきていたらしい。

 俺たち二人と連絡がつかず、ヤキモキして電話をしてきたのだろう。電話に出ると、せめて携帯は見ろと心配そうな声が聞こえてきた。

「早く戻って合流するか」

「おーそうしろ。俺は帰る」

「ダメです。高瀬先輩に的場先輩も一社だと言ったら引きずってでも連れてこいと言われたんで」

「佐倉、告げ口とはいい度胸だな」

 的場は面倒だと言うように髪をかきあげた。

 夏葉は葉月の手をぎゅっと握っている。すごいなきゅんくま効果。もう心を掴んだのか。

 日がすっかり落ちて、街灯の暖かい光が道を照らす。きっと二人は首を長くして待っているはずだ。

 ショッピングモールへ戻った後の出来事はまた別の話である。

 昼時、スマホをいじりながら葉月の到着を待っていた。休日で駅前ということもあって、それなりに人が行き交っている。

「佐倉くん、お待たせ」

 少し息を切らせた葉月がやってきた。

「別に待ってない。それより病院はどうだったんだ」

「いくつか検査は受けたけど骨とかに異常はないって」

「ならよかった」

 先日水戸の妹である夏葉を探している最中、赤信号の横断歩道に入ってしまった。そして俺は追いかけてきた葉月に助けられた。

 俺自身は体に異常はなかったけれど、葉月は俺を庇った時に地面に体を打ちつけてしまった。

 本人はなんともないと言っていたが、万が一のことがあってはいけないと雪哉が病院に行くようにと言ったのだった。

 そして俺は、どうしてお前は周りを見て歩かないんだと雪哉から説教をされた。

 幼い頃にふざけて遊んで怒られた以来だ。雪哉は普段は穏やかであるがゆえに本気で怒った時の怖さが他の人とは違う。思い出すだけで背筋に悪寒が走った。

 チラリと葉月の様子を伺う。今日はヘアピンをつけていないようだ。やはり手芸部以外の外でつけることはやめたらしい。

 スマホで何かを検索している。右手首には湿布の上から包帯が巻かれていて、胸が痛んだ。

俺の手を引いて尻もちをついた際に捻ったそうだ。本人は大丈夫だと言っていたが、それとこれとは別だ。

「佐倉くん、どうかした?」

「! いや何も。それより葉月が行きたい店ってこれか?」

 葉月が到着するまで見ていた画面を見せる。携帯の画面の一面にたくさんのスイーツが広がる。有名なスイーツバイキングの店だ。葉月はずっと行ってみたいと考えていたらしい。

「うん、この店。ごめんね、俺のわがままに付き合わせちゃって」

「別に、いい。それに今日のは助けてもらった礼もかねてるから」

 助けてくれたお礼に何かできないかと葉月に聞いたら、スイーツバイキングの店についてきて欲しいというものだった。

 内装が女性向けで男一人では入る勇気がなく、一緒にいって欲しいと言われたのだ。

 甘いものは好きな方ではあるので、深く考えることもなく承諾した。

 到着したのは全体的がピンクでまとめられていて、リボンやレースなどの小物があしらわれた店だった。

なるほど。これは男一人では入りずらい。多様性の時代と言えども、好奇の視線は避けられないだろう。

店内に入り席に案内される。ショーケースを見てみると、これまたかわいらしい食べ物が並ぶ。パフェにケーキにパンケーキ。どれも甘くて写真映えするものばかりだ。

葉月は目を輝かせながらショーケースを見ている。よほど楽しみにしていたようだ。

「このケーキもいいし、このパフェも食べてみたい……。佐倉くんは食べたいの決まった?」

「いや、決まってない。葉月が食べてみたいやつとりあえず選べよ。食べ切れなさそうだったら半分こすればいいしさ」

「はんぶんこ」

「? それは嫌か?」

「……いや全然!じゃあ、佐倉くんに甘えさせてもらおうかな」

 左手にプレート右手にトングを持った葉月は、素早くショーケースを開けてお目当てのスイーツを盛り付けていく。

 自分たちの席に戻る時には、プレートいっぱいにスイーツが敷き詰められていた。いくら甘いものが得意とはいえ一人で食べ切るのは難しそうな量だ。やっぱり、俺は取らなくて正解だった。

「いただきます」

 ひとしきり写真を撮った後、一言そう添えた。きっと高校の同級生たちが来たら、好きなものを目の前にして我慢できずに食べ始めてしまっているかもしれないと思う。

「じゃあ、ケーキ半分こしよっか」

 葉月が俺に取り分けるように、もらってきた取り皿を持ちながら言う。

「うん、よろしく」

「は・ん・ぶ・ん・こ、だよ?」

「はんぶんこ……?」

「そう、半分こ」

 半分こ、だろ。何かおかしなところあるか? 葉月はしきりに繰り返してくる。おまけに顔はニヤついていた。

「気づかない?」

「気づかないも何も、おかしなこと言ってないだろ」

「そうだね。じゃあ、もう一回半分こって言ってくれない?」

「半分こ」

「……かわいい!!」

 耐え切れなくなったように葉月がいっった。止めようとしたがうまくいかなかったような感じだ。

 ていうか、かわいいって言ったか、こいつ。俺は高校生で声変わりだってとっくにして低い。身長は葉月には負けるけど低い方ではないし。

「何言ってんだよ。さっさと食べるぞ」

「いつもの口調は少し荒っぽいのに急に、半分こ、とか言い出すからだよ。そのギャップ、かわいいとしか思えない」

「変なこと言うな。時間制限あるんだしたべるぞ」

「あれ、佐倉くん照れてる?」

「照れてねえ」

「顔赤いけど」

「葉月の見間違いだろ!」

わかった、そう言うことにしとくねと言って葉月はスイーツをとりわけ始めた。長い指がちまちまと作業をしているのをみるのは嫌いじゃない。

「……隠さないんだな」

「何を?」

「お前がかわいいもの好きなの」

「あーそれは。この前きゅんくまを見られた時にバレちゃったし。佐倉くんも俺の趣味を変だって言わなかったしね」

「趣味は人それぞれだろ。変だなんて思わない」

「そうだね」

 目を少し伏せながら葉月がつぶやく。雰囲気が少し暗くなる。どうしたんだろう、何か言いたいことでもあるのだろうか

「葉月、何か……」

「ごめんね、変な空気にしちゃった。スイーツ食べよっか」

 綺麗に取り分けられたスイーツを葉月が俺側の机に置いてくれる。その先の言葉をいうことはできなかった。

 その後特に気まずい雰囲気になることもなく、俺たちはバイキングを楽しんでいた。このケーキが美味しかったから後でまた取りに行こうとか、スイーツ一つ一つは小さいものの意外と腹に溜まっていくなとか。

「いて」

 フォークを持っていた葉月が右手首を押さえた。俺を庇って捻った場所だ。

「大丈夫かよ」

「うん平気。変に力入れちゃったみたい」

 葉月は右利きだ。今までは手首を気にしながら食べていたが、加減が難しい。

「そのまま食べられそう?」

「うん。大丈夫だと思うけど……」

 けど。葉月はそのまま話さなくなってしまった。

「あのさ、お願いがあるんだけど」

「なんだよ」

「ここにあるケーキ食べさせてくれないかなって」

 思考が停止する。

 “ここにあるケーキ食べさせて”

 何言ってんだこいつ。本格的に痛くなったのではないかと心配したが、それは損だった。いくら普段独特なムーブをかましてくるとはいえ、これはやばい。

 しない、と返答したい。しかし、葉月が怪我をした原因は俺だ。どうする。

 周りには他のお客さんもいる。食べさせたりなんかしたら、絶対に見られる。

 葉月は食べさせてもらう体制に既に入っている。これは俺も覚悟を決めなければいけない。

 一息ついて、葉月の皿を手元に置きフォークで取る。

「ほら、口開けろ」

 葉月はおとなしく、口を開ける。じっと顔を見ないといけなくて。今日は前髪で顔がよく見えないのに、その奥にある素顔を変に想像してしまう。

 前髪越しに、目が合った気がして恥ずかしくなった。

「あーん。ムゴッ」

 恥ずかしさのあまり、ケーキを思いきり口の中に突っ込んでしまった。葉月がむせる。

「やば、ごめん」

「……大丈夫。ちゃんと美味しいから」

 げほげほと咳を繰り返している。本当に大丈夫なのか。葉月はこれに懲りたのかその後は左手を使ってなんとかスイーツを頬張っていた。

 一通りスイーツを食べ終えた時、葉月がトイレに行くと言って席をたった。俺はお腹がいっぱいだったし、することもなかったので、スマホを操作しつつ少しまわりの様子を伺ってみた。

 やはり、まわりの席には女性しかいない。たまに男の人を見つけたとしても、みんな彼女らしき人と一緒だった。

 葉月がいた時は気づかなかったが、俺たちの席の様子を伺っているような人もいる。男二人でこの店にいるのが珍しいのだろう。

 二人でいる時は気にならなかったのに、葉月がいなくなった途端まわりの視線をひしひしと感じる。

俺が葉月にケーキを食べさせていた場面を見られていたかもしれないと思うとなおさらだ。

「佐倉くん、お待たせ」

「おう」

「佐倉くんはまだ他に食べたいものとかある?」

「いや、俺もう腹いっぱいだし、大丈夫。葉月は?」

「俺もお腹いっぱい。準備して店を出ようか」

 会計を済ませ、店を後にする。バイキング形式とあって好きなものを選んで食べられるのは満足度が高い。

「美味しかったね。今日来ることができて本当によかった」

「な、俺も案外楽しめた」

「佐倉くんはこの後予定ある?」

「いや特にないけど」

「じゃあ、もう少し俺に付き合ってくれない?」

 葉月に連れて行かれた場所は、住宅街にある小さなアクセサリーショップだった。木を基調としたオシャレな店構えで花をモチーフにしたものが多いようだ。

 俺は眺めていただけだったが、葉月はいくつか購入したらしい。

「佐倉くんお待たせ。行こうか」

 近くにあった公園のベンチに座り、休憩する。今日はスイーツバイキングとアクセサリーショップに行った。立っている時間が少なかったとはいえ、一息つく時間がなかったように思う。

 ベンチに座ってぼんやりと空を眺める。季節は夏に向かっており、太陽が昇っている時間がだんだんと長くなっている。

 既に夕方の時間帯だが暗くなる気配は、あまり感じられなかった。

 葉月が袋からアクセサリーを取り出している。先ほど店で購入したものだ。

 出てきたのは2種類のヘアピンだった。一つ目に出てきたのは白い星形のような花がついたピン。もう一つは黄色の花がついたものだった。

「さっきの店は俺が小さい頃、行ってみたかった店なんだ」

 葉月が小学生の頃、一時期この地域に住んでいた時があった。当時からかわいいものが好きで、ピンクや花柄のものを身につけて登校していた時期があったそうだ。

 しかし、同じクラスの男子生徒たちに揶揄われて物を隠されたり、一人だけ仲間はずれにされたりしたそうだ。

 先ほどのアクセサリーショップは、そいつらと同じ通学路を使いたくなくて、違う道を通って行った時に偶然見つけた。

 けれど、店に入ってクラスの誰かしらに見られて揶揄われたりするのではないかと思うと怖くてできなかったらしい。

「この前のこともごめん。俺がちゃんと話せればよかったのに、こういうかわいいもの好きなもの隠して」

 言い訳みたいに聞こえるかもしれないけど、手芸部の先輩や水戸くんには偶然のきっかけでバレちゃったんだよね、と加えた。

 雪哉と的場は部活で知った。これは的場が言っていたこと。

水戸には水戸が妹と訪れていたキャラクターのショップで会った。水戸がショッピングモールから帰宅する時に教えてくれたのだ。

 俺にかわいいものが好きなことを隠していたのは何か理由があるのだと。

 それはこういう意味だったのだ。

「俺の方が、ごめん。当たるような態度とって悪かった」

葉月の事情も考えずに一方的に責めてしまった。何が俺の気持ち考えたことあんのかよ、だ。

誰かに傷つけられた過去があるなら、臆病になるのは当然だ。

俺だって、バスケを辞めざるを得なくなって、荒れている時期を進んで話そうとは思わない。

ついた傷は簡単には癒えない。治ったと思っても些細なきっかけですぐに、元通りになってしまう。

知りたいならもっと、ちゃんと聞くべきだったんだ。拙くても言葉を尽くすべきだった。喉の奥が絞られるような感覚がする。

何度だって、俺は間違った選択をしてしまう。

「佐倉くんは悪くないよ」

 だから、泣かないでと葉月の指が俺の目尻をなぞる。触れ方があまりにも優しくて、涙が溢れそうになる。

「泣いてねえよ」

 そっぽを向くと葉月は俺の顔から手を離した。

「お詫びって言ったら変になるんだけど、これ」

 差し出されたのはさっき葉月が袋から取り出していた星形の白い花がつけられたヘアピンだった。

「佐倉くんヘアピン使うって言ってたし、学校では使いにくいかもだけど、部活とか家とかで使ってほしいなって」

 今日のは俺が葉月にお礼をするという名目で来たのに、お礼をされては本来の目的が何かわからなくなる。

 けれど、受け取らないでいるのもおかしな話だ。

「ありがとう」

 葉月からヘアピンを受け取ろうとすると、目を閉じてと言われた。おとなしく目を閉じる。

 前髪を少しかき分けられた。少しドキドキする。長い指が俺の額に当たる。パチンとピンを止める音が聞こえた。

「できたよ、目開けて大丈夫。……うん、やっぱり似合ってるね」

 満足そうな様子だ。手でヘアピンをつけられただろう場所を触ってみる。

「佐倉くんも俺にピンつけてよ」

 そう言って黄色い花がついたヘアピンを差し出してきた。俺が受け取ると少し身をかがめて、前髪を触りやすいような位置に調整する。いいんだよ、身長アピールは。ちょっとむかつきながら、葉月の前髪をかき分けた。

 余計なことを考えていないと、心臓が飛び出てしまいそう。

 黒くて綺麗な髪だ。それを分けるとさらに綺麗な顔が出てくる。目を閉じているだけでこんなにさまになる人はなかなかいない。そこらの俳優やモデルよりもよっぽど。

 少し指が震えて、ヘアピンの位置がずれる。こんな感じの場面は初めてではないはずなのに、緊張する。

「できた」

 声をかけると葉月がゆっくりと目を開いた。まつ毛が綺麗にカールしていて存在感がある。

「つけてくれてありがとう、佐倉くん」

 本当に嬉しそうに目を細めながら微笑む。その顔は反則だ。

 俺は抱きつかれるなら女の子が良くて、今まで恋してきたのも全員異性だった。

 だからどうしても認めたくなかった。でも、もう自分を誤魔化しきれない。

 俺は葉月が好きだ。

 葉月を見た時の胸の高鳴りも、目があった時の気恥ずかしさも、髪に触るだけで震える手も。それでいて、穏やかな声や存在に安心したり。
 
「どうしたの」

 俺が急にそっぽを向いて変に思ったのだろう。

「いや、なんでもない。似合ってると思う」

「ありがとう」

 今までどんなふうに会話を続けていただろう。緊張してしまって思い出せない。

「……ところで、この花ってなんて名前なんだ」

 咄嗟に出てきたのがそれかよ。

「それならさっき店員さんに聞いてきた。佐倉くんの花が桔梗で俺のがチューリップだって」

「チューリップは小学校の時、育てたことがあるかも」

「チューリップも桔梗も花壇とかに植えられてたよね」

 楽しそうに話す葉月に目が奪われる。上がっている口角も、少し下がった眉尻も。今まで気にしていなかった部分が、どんどん魅力的に思えてくる。

 雪哉くん、俺時間がかかったけど大切にしたいと思える人に出会えたよ。

 誰よりも俺を大切にしてくれて、気遣ってくれる人。そして俺がしたことに対して、ありがとうをたくさんくれる人だ。

 男とか女とか関係ないきっとこれから、どんどん好きになっていくんだろう。この恋が一方的な気持ちだとしても。

 夏の気配が迫ってきている六月中旬。手芸部部長である高瀬雪哉はその場にいる誰よりも気合が入っていた。

「それでは、部員が全員そろったということで、早速今年の文化祭について話していきたいと思います!」

 発言した雪哉の口調にはいつも以上に力強い。

 先日、水戸の妹である夏葉がいなくなってしまった出来事があった。俺、葉月、雪哉、水戸で探している時に偶然手芸部の幽霊部員である的場に出会ったのだ。

 雪哉にこのことを電話で伝えると、絶対に連れてこいと言われた。的場が手芸部に来ないことに相当手を焼いていたらしい。

 夏葉と水戸が再会している隣で、淡々と説教をしていた。

 雪哉の話を聞いた的場は気だるそうにしている。

「はーい。面倒なんで俺帰ってもいいですか?内容は他の4人で決めてもらって」

「うるさい的場。今日という今日はちゃんと出席してもらいます」

「だる」

 心底嫌そうな態度を見て雪哉は顔をしかめた。今すぐにでも言い返したいというような顔だ。

 ただ、今は議題を進めることが先だと考えたのか、それ以上は何も言わなかった。

「えー気を取り直して、手芸部の文化祭の出展内容を決めていきたいと思います」

 文化祭か。去年はクラスの出し物に参加しただけで特に他のクラスを見ることもなく終わった記憶がある。

「去年は作品の展示会をしたんですけど、あんまり人が来なくて。今年は内容をガラッと変えたいと思っています」

「別にそんなもんだろ手芸部の出店なんて誰も興味ないだろうし」

「的場、口を挟むな」

 的場が言ったことに対して雪哉がツッコミを入れる。二人の関係性が少しずつ垣間見えてきたような気がする。

「ともかく、今日は出店の内容をみんなで話し合いながら決めていきます」

 文化祭の出展といってもあまりピンとこない。定番の飲食系は他のクラスや部活がやっているだろうし、手芸部だからこそできるやつにしないと、学校からの許可もおりづらいと雪哉が言っていた。

 案が全く浮かんでこない。それは葉月や水戸も同じようで、携帯で検索してみたり考え込んでみたりしている。

「話し合いで決めるって言ってもさあ、何にも浮かばないわけ。後輩の様子も見てみろよ。頭抱えてんぞ」

 的場に指摘されると、雪哉に言われるよりも自分が情けなく感じるのは気のせいだろうか。

「話し合いで決めるっていても、それぞれにアイデアがないと意味がない。部長さんはそこんとこ考えているわけ?」

 主張は正論だ。この人は三年生の先輩だったと思い直す。初対面から雪哉に注意されている場面しか見ていなかったため、その意識がなかった。

口調に棘が混じっているのが気になるけれど。雪哉や葉月がとやかく言わないので、通常運転なんだろう。

「まあ、考えている。でもこれだけじゃ微妙な感じがするんだよ」

「とりあえず言ってみろよ。ワンチャンいい考えが浮かぶかもしんねえし」

 雪哉が少し悩んだ上で口にする。

「手作り体験会」

 文化祭に参加する生徒や来校者に向けた参加型のプログラムだ。ただ展示をするよりも、興味を持ってくれる人が多そうだ。

「いいじゃん、体験会。俺は別にそれでもいいと思うけど」

「でも、最優秀賞を取るには弱いと思うんだ」

「最優秀賞?」

「文化祭で一番優れた出展をした団体に送られる賞のことで、副賞には豪華な景品がつくんです」

 葉月がすかさず、補足した。去年から手芸部の部員なだけある。水戸は文化祭は今年が初参加だし、俺は興味がなかったし。

 というか、的場は三年生のはずだ。つまり今まで二回は文化祭に参加してきた。それなのに知らないのか。俺が言えた話ではないけれど。

「ふーん、それを目指してんのか」

 それだけ言って黙った。あまりにも沈黙が長かったので、話しかけるべきなのか否か俺たちは目配せを始めていた。

すると、的場が机にかけていた鞄を手に取った。

「じゃあ、この体験会行ってみないか」

 的場が鞄から取り出して見せたのは、今週末に行われる手芸ワークショップのチラシだった。

雪哉は差し出されたチラシ受け取る。大きな机の上に置き、全員が見られるように調整した。

「これならいろんな体験ができるだろうし、いいアイデアが出てくるんじゃね」

 一つの大きな広場に、ワークショップを行う店舗を設置する。それぞれの店舗では異なる体験ができるそうだ。確かにこれなら、さまざまな体験会を見ることができるし、参加することでいい考えも浮かびそうだ。

「確かにいいな」

「だろ、これ事前登録制のやつがほとんどだから、今誰がどこを体験するか決めよう」

 素早く携帯を取り出した的場はチラシからQRコードを読み取る。

「あー結構埋まってんな。空いてんのは…三つか。ま、ちょうどいいんじゃね」

 じゃんけんをした結果、俺と的場、雪哉と水戸、葉月が一人というグループ分けになった。

 正直葉月と同じチームが良かったという気持ちがあった。けれど、二人きりになっても意識してうまく話せない自信があったのでこれで良かったのかもしれない。

 今、部室という同じ空間にいることでさえ少し緊張しているのだ。もう少し胸の高鳴りに慣れてからでもいいだろう。

「編みぐるみ、リボンクラフト、レジンがあるんだね。みんな何かやってみたいのはある?」

 雪哉の質問にいち早く返答したのは的場だった。

「俺はなんでもいい。佐倉が他のやつと決めておけ。今日はもういいだろ俺は帰る」

 それだけ言って、本当に帰ってしまった。手芸ワークショップに参加することを提案しておきながら、飽きたと言わんばかりの態度をとる。

「……みんなごめん。的場には俺から言っておくから」

 雪哉も大変だ。見かねた水戸が発言する。

「ともかく誰がどのワークショップに参加するか決めましょう。こうしている間にも、募集人数に達して締め切られてしまうかもしれませんし」

 水戸の言う通りだ。いちいち的場の行動に圧倒されている場合じゃない。ああいう人なんだと割り切ることも大事だ。

「あの、俺は編みぐるみをやってみたいです」

 編みぐるみというのは、毛糸を編んで動物やキャラクターなどの作り、その中に綿を入れて形にしたものだ。わからなくて検索したら、結構いろんな種類のものが出てくる。色とりどりで見ていて飽きない。

 葉月が好きそうだ。この前もきゅんくまというマスコットキャラが好きだと言っていたし。

「僕はこのレジンをやってみたいです。妹がこういうキラキラしたのが好きで」

 レジンは樹脂の中でビーズや花を入れたりしてLEDライトで固めたものだ。的場が置いていったチラシにも大きく載っている。

 樹脂を入れる型によっては、小物入れやアクセサリーも作れる。

「じゃあ、俺はリボンクラフトで」

 リボンを編んで形にしていくものもあるようだが、まずはリボン結びができれば大丈夫らしい。これなら俺でもできそうだ。

「わかった、俺がみんなまとめて応募しておくね」

 雪哉は携帯で操作を始めた。それが終わるまで俺たちは自由時間だ。

「……的場先輩すごかったですね」

 口火を切ったのは水戸だった。俺もその話をしたかったから渡りに船だ。

 あんなに面倒くさそうな態度をとっていたのに、ちゃんとした意見を言うとは。失礼かもしれないが本心だ。

 しかも、鞄からチラシまで取り出してきたし。

「な、俺もびっくりした。全然やる気ない感じかと思ってたから」

「失礼ですけど、僕も。前から的場先輩ってあんな感じなんですか、葉月先輩」

「俺が入部した時からあんな感じ。結構手芸のワークショップも参加してるっぽい。前紹介してもらったことある」

「人は見かけによらないんだな」

 でも、的場は手芸部には顔を出していない。雪哉もそれに悩んでいた。それはどうしてだろう。

 手芸に興味がなく、面倒くさいから来ないと言うわけではなさそうだ。

「でも、どうして手芸部には来ないんだろう」

「それは週末、本人に聞いてみたら?」

 雪哉が話に入ってきた。応募が完了したらしい。

「的場先輩に?」

「そう、佐倉知りたいんだろ」

 この様子だと、雪哉は事情を知っているようだ。けれど言う気はないらしい。

 この話題は雪哉の介入によって終わり、答えは週末まで持ち越しになった。