いずれ死ぬことになる僕たちへ

 人生にリセットボタンはないなんて言うけれど、それは嘘だと、私は、しおりはそう思う。
 ……だ、だって、いつでも死ねるでしょ?
 だから『死』とは、人生のリセットボタンで、押そうと思えば簡単に押してしまえるもの。死んでやり直しが出来ないって、誰が決めたのだろうか? 出来るかどうかなんて、実際に死んでみなければわからない。なら、ワンチャン死んでリセットするのも、普通にしおり的にはありだ。
 ……だ、だったら、しおりの『生』って、私の価値って、何なの?
 簡単に死ねる自分の人生に、しおりは価値を見いだせない。しおり自身が自分を認められないのなら、私の価値は、どうすれば確かめられるのだろう?
 ……あ、『いいね』ついた!
 石竹商への登校中、しおりは自分のスマホの通知を見て、ほくそ笑んだ。スマホの画面にはSNSのアプリが立ち上がっており、自分の投稿した画像が表示されている。
 先程投稿した画像は、この前カフェでコーヒーをテイクアウトした時の写真だ。カップに入っているコーヒーにはこれでもかとホイップが入っており、さらに溢れんばかりのストロベリーソースがかかっている。写真にはそのカップで口元を隠し、自画撮りをしたしおりが写っていた。着ている服は、胸元がかなり開いている。
 ……こ、これ、加工大変だったんですよね!
 美肌加工に、瞳は一回りほど大きく修正した。胸自体は大きくさせていないが、陰影をつけて谷間をはっきり見せる工夫もしている。
 今もその写真に対して『いいね』が押され、コメント欄にも『今日も可愛い』『エロい』『何食べたらそんなに胸大きくなるの?』といった発言で埋められ、フォロワーも増えていく。
 ……や、やっぱり、こういう路線の方が、注目されやすいですね!
 以前は単にお菓子の写真や、道端で見つけた猫の写真をアップしていた。でも、それだけではどうしても『いいね』の数が、しおりを認めてくれる人の数が、限られてくる。
 それはつまり、しおりの価値の限界だ。
 ……ど、どれぐらいなんでしょうね? 私の、しおりの価値は。一体、どれぐらいの人が、しおりを認めてくれるのかな?
 わからない。だから、試すしかない。自分で自分の価値がわからないなら、他の人に認めてもらうしかないのだ。
 どんどん増えていく『いいね』とコメントにニヤつきながら、しおりは校門を通って、昇降口に入る。すると――
「おはよう、しおり」
「し、静花ちゃん!」
 下駄箱に丁度自分の靴を仕舞う途中だった静花ちゃんに声をかけられ、しおりは思わずスマホを落としそうになる。そんな私を見て、静花ちゃんがくすりと笑った。艶のあるボブカットがサラサラと揺れ、しおりのスマホを握る手に、思わず力が入る。
「どうしたの? しおり。そんなに慌てて」
「だ、だって――」
「静花! 先行くよー?」
 私の声を遮り、静花ちゃんを呼ぶ声が聞こえてくる。その声の方向には三人の女子生徒がおり、同性のしおりから見ても、綺麗な子たちばかりだった。
 ありていな言い方をすると、スクールカーストの上位組。その中の一人に、静花ちゃんが含まれている。
 静花ちゃんは自分を呼んだ彼女たちに振り向いて、笑顔を向けた。
「待ってよ、すぐ行くから! それじゃあしおり、また後でね」
 そう言い残して、静花ちゃんはこの場から去っていく。その背中を、そのグループを、私は羨望と、少しだけ嫉妬の混じった目で見つめていた。
 ……い、いいもんいいもん! しおりには、これがあるもんっ!
 手の中にある無機質な機械(スマホ)の存在を思い出し、しおりは大きく頷いた。リアルで私を認めてくれる人数は、限られている。現実で知り合いになれる人なんて、世界中の何割にも満たないだろう。
 だからより多くの人に自分を認めてもらうために、しおりはSNSを使うことにしたのだ。
 ……だ、だからしおりは、リアルよりもSNSが大切なんですっ!
 スクールカースト的に言えば、私は上位の下の下。悪くもなければ良くもない、中間層。物語的に言えば、主役を引き立てる脇役か、それ以下のモブだ。
 でもしおりは、それでいい。リアルで認められなくても、この『いいね』とコメント、そしてフォロワーの数が、私の存在を認めてくれる証なのだから。
 私は気を取り直し、下駄箱で靴を履き替える。
 ……そ、それにこれからは、もっと『いいね』がもらえそうですしね!
 思い出すのは、一匹の犬。今日から世話をすることになるウェルシュ・コーギーの、トートの事だ。
 ……あ、あれはバズりますよっ!
 動物の写真をアップしていたのでわかるが、そうした写真をSNSで探しているクラスタは一定数いる。犬の写真をアップすれば、犬のクラスタが反応してくれるはずだ。
 犬と一緒に露出を上げた格好で写真を撮れば、そういう格好をしたしおりを求めている人たちの『いいね』だけでなく、犬クラスタの『いいね』もプラスして得られることになる。
 ……そ、それにあの犬は病気ですから! 話題性も十分ですっ!
 犬を同情するコメントと、その犬の世話をするしおりを称賛するコメントが、かなりの数つくに違いない。見てくれる人が増えれば、フォロワーの数の増加も期待できる。
 そして、今日のトートの世話は、私と静花ちゃんの二人の番だった。
 トートを怖がっていた静花ちゃんの姿を思い出し、しおりの口が、暗い笑みをかたどる。その事に気づき、私は顔を振った。
 ……ち、違います違います! これは、今からつくはずの『いいね』とコメントが楽しみなだけですっ!
 自分自身にそう言い聞かせて、しおりは自分の教室へと歩き出した。いずれにせよ、放課後が楽しみで仕方がない。
 
「ねぇ、しおり。あんた、スカートそんなに短かったっけ?」
「え、普通、普通だよ!」
 静花ちゃんと一緒にやってきたのは、古びた一軒家だった。築二十年以上はあろうかという木造のそれは、近所の子供達からは幽霊屋敷と呼ばれていて敬遠されていると聞いても不思議ではない佇まいをしている。人通りも少ないので、他にも家が並んでいなければ、しおりだって進んで近づきたいと思わない場所だった。
 私たちの目的地は、その裏側にある小さな庭。木の囲いが並ぶその裏手に回り、小嶋さんからもらった鍵、六人分用意されていたもので、扉を開ける。
 中に入るしおりの腕に、怯えたような静花ちゃんの腕が絡まった。
「ちょ、ちょっと待って、しおり」
「だ、大丈夫だよ静花ちゃん。ただの犬なんだから!」
「でも……」
「ほ、ほら、早くっ!」
 しおりは満面の笑みを浮かべて、静花ちゃんの腕を引き、扉をくぐった。
 扉の向こうに現れた庭は、家と不釣り合いに手入れが行き届いており、雑草も綺麗に抜かれている。そこにはスチール製の物置と、手洗いや水撒き用のための水栓柱が建っていた。そしてそこに、小さな家が建っている。犬小屋だ。
 その中から、一匹の犬が、トートが飛び出してきた。扉を開けた音に反応して、出てきたのだろう。
「わんっ!」
「ひっ!」
 後ろ足を引きずったトートに吠えられ、静花ちゃんは涙目になってしおりの後ろに隠れる。笑いながら私は、今くぐってきた扉を閉めた。
「さ、トート。こっちにおいで!」
「わんっ!」
「わ、私、ご飯の用意するから!」
 トートを撫で回すしおりから離れて、静花ちゃんは物置の方へと走り出した。静花ちゃんの言った通り、庭の物置の中にはこの犬の餌や、散歩に必要な道具などが入っていると聞いている。
 ……こ、こんなに可愛いのに、静花ちゃんは何がそんなに怖いんですかね?
『死』のリセットボタンは、誰だって持っているし、すぐに押せるものだ。それを過剰に恐れたとしても、その事実には変わりがない。
 スマホで犬の写真を何枚も取りながら、物置のホコリで咳き込む静花ちゃんを、暗い愉悦を持って一瞥する。そんな苦労をしても、誰からも認められない。『いいね』もつかなければ、コメントもフォロワーも増えない。
 ……つ、次はメインの写真撮影の時間ですよっ!
 しおりはこの家に来る前、最寄りの駅のトイレで短くしたスカートを更に捲くりあげて、ギリギリ下着が見えない位置に調整する。
 ……ど、どれぐらい『いいね』が増えるかな?
 きっと、過去最多は軽く超えていくに違いない。そう考えると自然に口元はどんどん緩んでくるし、この犬も愛おしくて仕方がない。ネットで繋がった世界中の人に認めてもらえるためなら、病気の犬に会いに行くのだって、全く苦痛ではなかった。
 犬と一緒に写真を撮る前に、何枚か自画撮りをして、私は口元を隠しながら太ももを大胆に出したベストなアングルを探しだした。やがて満足の行く角度をしおりは見つけ出すと、右手にスマホを持ち、左手で犬を抱えようと手をのばす。のだが――
「こ、こら! 暴れないのっ!」
「わん! わんっ!」
 脇の下に手を伸ばして抱えようとした途端、今までおとなしくしていた犬が急に暴れ始めた。じゃれているつもりなのか知らないが、写真を撮る時には少し大人しくしていて欲しい。ウザい。
「ちょ、ちょっと! 動かないでっ!」
「わん! わんっ!」
「い、いいかんげんにしてよっ!」
「わん! わんっ!」
 悪戦苦闘を繰り広げながら、何枚か写真を撮る。でもどれもベストショットとはいい難く、撮った写真の中にはしおりの顔がもろに写ってしまっているもの、下着が丸見えのものまであった。
 ……さ、流石にこれは使えないよっ!
 怒りでスマホを握る手に力がこもる。でも、これを乗り越えた先の『いいね』が待っている以上、しおりには頑張らないという選択肢はありえない。
 何度目かの失敗の後、ようやく及第点が与えられそうな写真が撮れる。口元は犬で隠れていて、下着が隠れている状態で生足もそこそこ見えていた。犬には両手を上げずにもっとカメラ目線の写真を撮りたかったが、もうこれが限界だろう。
「何してんの? しおり」
「え、写真撮ってるだけだよ? トートのお世話をしたり、気づいた内容は他の四人にも共有することになってたでしょ? だからトートの写真、送るんだっ!」
 犬の餌を持ってきた静花ちゃんに向かって、私は笑いながらそう返す。その隙にトートは体をよじり、しおりの膝の上から地面の方へと転がり落ちた。私は必要な写真は取り終えているので、それを追おうともしない。
「し、静花ちゃんの方こそ、餌は見つかったの?」
「うん。ここに――」
「わんっ!」
「ひっ!」
 静花ちゃんの持つフードボールに気づいたのか、犬が後ろ足を引きずりながら静花ちゃんに向かって走り始めた。
 静花ちゃんは悲鳴を上げながらも、一瞬逡巡した後一歩だけ前に出て、手にしたフードボールを地面に置く。一方犬はボールに頭から顔を突っ込んで、ガシガシとドッグフードを食べ始めた。こうしてみると、トートが病気だなんてあまり感じられない。
 餌を食べる犬の写真を撮りつつ、自画撮りした写真以外をメッセージアプリのトークルームに投稿する。投稿先は、トートの世話をすることになったしおりを含む六人のトークルームだ。もちろん、SNSにアップ予定の写真まで投稿する気はない。
 SNSに投稿するために自画撮りでボツにした写真を削除し、投稿用の写真を加工しようとした所で静花ちゃんがしおりのそばまでやって来る。
「しおり、ちょっと気をつけたほうがいいよ」
 何のことかわからず、しおりは首をかしげる。
「え、写真撮ってただけなのに?」
「違う。さっきの、トートの抱き方」
 何を言われているのかわからないしおりに向かって、静花ちゃんは犬を怯えた様子で横目に見ながら口を開く。
「さっきしおり、トートを脇から抱えて持ってたでしょ? あれ、関節に負荷がかかるから止めたほうがいいんだって」
「……ふ、ふーん」
 冷めたように頷くしおりを一瞥もせず、静花ちゃんは相変わらず餌を貪る犬に目を向けていた。
「後、片手で持つのも。片手だと不安定だし、トートが怪我しちゃうかもしれないから」
「こ、怖いのに、詳しいんだね」
「……怖いからだよ」
「え、ど、どういう事?」
「『死』が、怖いから。だから、それに近づかない方法を調べただけ」
 静花ちゃんの言っていることがよくわからず、しおりは口を少しだけ尖らせた。怖いのに恐れている対象を調べるなんて、意味がわからない。
 ……そ、そんな事したって、誰も認めてくれないじゃん。
「ほら、後は犬小屋の掃除と、あまり行きたくないけど、散歩も行かないと」
 そう言われて、しおりは嫌々静花ちゃんと一緒に物置の方へと向かった。そこから箒にバケツ、雑巾を取り出していく。
 静花ちゃんは箒を持って先に犬小屋へ向かい、しおりはバケツと雑巾を持って水栓柱へと向かう。
 ……も、もう今日はSNSにアップする写真は十分撮れたから、ここにいる必要なんてないんだけどなぁ。
 そう思うものの、多数決で犬の世話をすることになった以上、途中で抜け出すわけにはいかない。
 ……そ、それにここで抜けたら、もう犬との写真が撮れなくなるかもしれないからね!
『いいね』が稼げる機会を、皆に認めてもらえる機会を、しおりは逃すわけにはいかなかった。
 バケツを半分ほど水で満たして犬小屋へ向かうと、犬小屋を挟んで、犬と静花ちゃんが睨み合っている。
「し、しおり! 助けてっ!」
「え、えーっと、どういう状況?」
「多分ご飯が足りないから催促されてるんだと思うんだけど、でも食べ過ぎは太って健康に良くないし、『死』に近づくから私は――」
「わんっ!」
「ひっ!」
「は、はいはーい! トートはあまり静花ちゃんをいじめちゃダメだよっ!」
 バケツを地面に置いて、しおりは犬を抱き上げる。静花ちゃんに注意された事を思い出し、今度は両手で包むように抱き上げた。
 すると、今度は犬は暴れることなくしおりの腕の中にすっぽりと収まる。つぶらな瞳が私の方へと向いて、耳がぴくぴくと動いていた。
「し、静花ちゃん! 写真! 写真撮って、今すぐ!」
「え、そんな急に言われても……」
「は、早く早く!」
 静花ちゃんを急かして、スマホで写真を撮ってもらう。
「写真、トークルームに後で送っておくから」
「あ、ありがとう!」
「それからしおり、そのままトートを抱えてて。私、掃除しちゃうから」
「う、うん!」
 しおりの腕の中にいる温かくて柔らかいそれは、顔をきょろきょろ動かしながら、時折前足で私の腕をぺたぺたと触ってくる。桃色の舌を出したそいつの口は嬉しそうな三日月型で、こちらのことがわかるのか、少しだけ顔を胸に埋めてきた。
「え、えへへへへっ」
「あれ、しおり。これ、何だと思う?」
「な、な、何? 何かな?」
 突然名前を呼ばれ、しおりは狼狽しながら静花ちゃんに返事をする。
 見れば静花ちゃんが、犬小屋の中からいくつかものを取り出していた。それはボロボロになったトラのぬいぐるみであったり、運動会の綱引きで使うような縄の両先端を結んで骨のような形にしたものであったりと、様々だ。
「わんっ!」
「ひっ!」
 静花ちゃんが犬小屋から出してきたそれらに、腕の中の犬が反応してもがき始める。
「こ、こら! 急にどうしたの?」
「ひょっとしてこれ、トートのおもちゃなのかな?」
 言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。しおりがゆっくり犬を地面に下ろすと、トートはすぐさま静花ちゃんが犬小屋から出したものへ突進し、噛み付いたり足で転がしたりしていた。
「お、お気に入りのものは自分の家に溜め込んでいるのかな? この子」
「……そうかもね。一応、この情報も皆に知らせておこうか」
 犬が地面に降り立つと見るや、全力で物置まで避難した静花ちゃんが、こちらを伺うように小さくつぶやいた。
「しおり、ごめん! 後、お願いしていい?」
「も、もう、しょうがないなぁ」
 そう言ってしおりは、静花ちゃんが放り投げた箒を手に取り犬小屋に向かっていく。中を見るとほとんど静花ちゃんが掃除を終えていたみたいだったので、私は雑巾をバケツの水で浸して犬小屋の屋根をふいていった。
 途中、おもちゃに飽きた犬が静花ちゃんに向かっていくのを止めて掃除の手を交代したり、散歩に連れて行ったりして、今日のしおりたちの仕事は終了した。
 いくら夏の日が沈むのが遅いとは言え、辺りはもう薄暗くなっている。
「そ、それじゃあ、またねっ!」
「わんっ!」
 犬に見送られて、しおりたちは庭の扉から出ていく。私が施錠をしたタイミングで、静花ちゃんが安堵のため息をついた。
「……疲れたぁ。やっと終わったよ」
「ま、まぁ、だいぶ元気だったね!」
「それはいいんだけど、安心したら私、ちょっとお腹空いてきちゃった」
「じ、じゃあ、どこかで何か食べてく?」
「いいねいいね! 駅前にバーガー屋があったから、帰りに寄ろうっ!」
 二人で屈託なく笑い合って、しおりたちは駅前に向かって歩き始めた。こうやって純粋に静花ちゃんと笑うのは、久々だった。
 ……が、学校だと、静花ちゃんとしおりは住んでる世界が違うからなぁ。
 スクールカーストの上位の静花ちゃんは、皆から一目置かれる存在だ。脇役どころかモブのしおりは彼女に話しかけるのに、抵抗を感じていた。
 しかし、今一緒にバーガー屋の自動ドアをくぐる静花ちゃんとの距離は、小学生三年生だったあの頃に戻っている気がする。
 ……で、でも、これはあくまで犬の世話をした一環みたいなものだから!
 そう思い直すことで、自分の自惚れを私はかき消す。変な勘違いをして学校で同じ様に振る舞えば、しおりどころか静花ちゃんの立場も悪くなるかもしれない。
 しおりは、今のままでいい。学校では可もなく不可もなくの存在で、SNS上で認められれば、私はそれでいいのだから。
 ……だ、だからしおりは、リアルで必要以上のものは求めませんっ!
 静花ちゃんが注文した後、カウンターでしおりはメニューを注文する。ハンバーガーまで頼むと、家でお母さんが作ってくれている晩ごはんが入らない。どうしようかと思って静花ちゃんの方を見ると、静花ちゃんも同じ考えだったのか、トレイにはナゲット単品とドリンクが鎮座していた。
 ……ど、どうしましょう。
 少し悩んだ後、しおりはポテトを単品とコーラを注文。先に席を取っていてくれた静花ちゃんの待つ席へと向かう。
「何頼んだの? しおり」
「ぽ、ポテトにしたよ!」
「いいじゃん! 交換しよっ!」
「う、うんっ!」
 それからしおりたちは、今日初めてした犬の世話の話で盛り上がった。
「そういえば、しおりが撮って欲しいって言ってた写真、トークルームにアップしておいたよ」
「あ、ありがとうっ!」
 スマホで確認すると、そこには確かにしおりが犬を抱き上げている写真がアップされていた。でも、その写真にはバッチリ私の顔が写っていてる。
 ……こ、これは、SNSにアップ出来ませんね。
 そう思うものの、写真を撮ってくれた静花ちゃんに満面の笑みを浮かべている自分の写真を、私はすぐに保存した。
 死にたくないって思わない人は、いないんじゃないだろうか?
 ずっと生きていたいって思わない人の方が、少ないんじゃないだろうか?
 ……だから僕は、永遠に生きたいって、残り続けたいって、そう思ったんだ。
 放課後、僕は美術室にいた。
 檸檬月高等学校の校舎の四階にあるその教室には、キャンバスを立てるための木製のイーゼルが並び、壁の棚にはデッサン用の彫刻がいくつも並べられている。いくつかのイーゼルの上に鎮座するキャンバスには、美術部の生徒たちが描いた水彩画や水墨画、油絵絵画が並んでいた。絵のモチーフはバラバラで、町並みを描いた風景画もあれば、自分の好きなアイドルの人物画もあり、中にはこの世に存在しないであろう場所や建物を描いた空想画もある。
 それらに囲まれながら、僕は筆をペイントパレットに伸ばす。ペイントパレットに伸ばしたいくつかの色の中から黄色を選択し、僕はその色を筆に宿らせた。そしてそれを振るい、今度は目の前のキャンバスに黄色という彩りを添えていく。
 今僕は、レモネードの絵を描いていた。今日みたいな夏の暑い日に飲むレモネードが、僕は嫌いではない。
 キャンバス上には、透明なガラスのコップが描かれていて、その中に四角い氷と輪切りのレモンが入っている。そのコップの中をレモネードが満たしていて、黄色の小さなプールみたいになっていた。そのプールにはスライダーの代わりとでもいうように、青と白のストライプ色のストローがささっており、青々としたミントも添えられている。
 ……現実のレモネードだと、氷も溶けてなくなり、レモンも腐って朽ち果ててしまう。
 でも、僕のレモネードはそうはならない。コップの表面についた水滴も、みずみずしく透明感を感じさせるミントも、何もかもそのままだ。
 僕の絵の中の存在は永遠に消えることなく、この絵を描いた時のまま生き続けている。レモネードを飲んだ時のスッキリとした爽快感も、この絵に刻みつけておきたい。
 ……『死』が避けられないなら、ずっと残る方法を僕は選ぶよ。
 僕が死んでも、この絵がある限り、僕が生きた証は、僕が絵に残したものは、永遠の『生』を得る。僕という存在がいなくなったとしても、僕が生きていた証は残り続けるのだ。
「あれ、東武君?」
 美術室の扉が開き、美術部の先輩が入ってくる。学年が一つ上の先輩は美術室の扉を閉めると、スカートを揺らしながらこちらに向かってきた。
「今日は用事があるって言ってなかったっけ?」
「ええ、そうですよ。でも、スケッチブックを忘れてしまったので取りに来たんです」
「……じゃあ、何で絵を描いてるの?」
「もっと、ちゃんと残してあげれるんじゃないかと思って」
「……何それ」
 面白そうに笑う先輩が、筆についた絵具を拭き取る僕の隣に立った。彼女は僕が残そうとしているレモネードの絵を見て、感心したように頷く。
「相変わらず上手だよね、東武君」
「上手さは、あんまり気にしたことないんですけどね」
「またまた、そんな事言って! この前のコンクールだって、入賞してたじゃないっ!」
 それは確かに事実だけれど、僕にとって重要なのは他人からの評価じゃない。僕の描いたものが、生きた証がどれだけ残るか否かだ。
 ……昔は大会の賞を取った絵が後世に受け継がれてたけど、今はネットに上げれば残り続けるから。
 だからもう、僕にとってどうやって残していくのか? という問題は解決していた。解決しているが故に、今僕の一番の関心事は、何を残すのか? 何を描くのか? ということだった。
 ……そしてそれを、僕はようやく手に入れた。
 内から沸き起こる歓喜を溢れないようにしつつ、僕は筆洗器で筆を洗う。
「たまたまですよ、先輩」
「……やっぱり、変わってるよね。東武君」
「そうですか?」
「そうだよ。だって、他の一年生の子から、東武君はクラスだと大人しい感じって聞いてるし」
 筆をタオルで拭う僕のそばに、一歩先輩が近づいてくる。
「でも、絵を描いている時は別人みたい」
 それはそうだろう。だってそれが、僕が見出した『死』との向き合い方、折り合いの付け方なのだから。
 ……先生と一緒に、僕が、僕だけが見つけた方法なんだ。
 だから、他人からどう見られているとか、スクールカーストの順位とか、そんなものは僕には全く興味がなかった。
 もっと言ってしまえば、永遠の『生』を、僕の生きた証を残すこと以外、どうでもいい。
「そう言えば、先輩はどうしてここに?」
「なんだか今日は、東武君に会える気がして」
 ……じゃあ、何で美術室に入って僕の姿を見た時驚いたんですか?
 少しだけ、僕の口元が歪む。
 学校の人間関係が必要以上に密接になるのは、僕が望むものではない。唯一家族以外で許容できる人間関係は、一緒にあの『死』を目の当たりにした五人ぐらいなものだ。
「じゃあ、先輩は今日は絵を描いていくんですか?」
「うん。それでね、東武君。私今、描いててちょっと悩んでることが――」
「よかった。それじゃあ美術室の戸締まり、お願いしてもいいですか?」
 筆を乾燥させるための洗濯物ハンガーのハサミに筆を挟んで、僕は笑顔で先輩に美術室の鍵を手渡した。
「え、あ、うん」
 少し表情を固くした先輩の手が、ぎこちなく僕から渡された鍵を握る。
「それでは、僕はこの辺で」
「あ、ちょっと待って! 少しだけでいいから」
 スケッチブックを入れた鞄を担いだ所で、先輩が僕の手を握った。思わず舌打ちしそうなところを、なんとかこらえる。
 ……もう描きたいものは描けたし、早くトートの所に行きたいのに!
 トートは、あの先生が残してくれた大切なものだ。先生は、僕が永遠を求めて生きた証を残したいと思っていることを知っている。だからきっと、先生が生きていた証であるトートは、先生が僕にくれたプレゼントなんだ。それが先生が、僕にトートを残してくれた意味なんだ。
 僕がトートを描くことで、僕がトートを永遠にする事で、僕が生きた証は、先生が残してくれたものは、永遠に残り続ける。
 写真じゃ、駄目だ。それは僕じゃなくてもきっと出来る。僕が手を動かして、僕が僕自身のために行わないと、駄目なのだ。そうでなければ、僕が残したという充実感を、僕が得られない。それなくして、僕は『死』と向き合えない。何かと代替できるものなんて、僕の生きた証になりえない。
 ……だから、早くトートの所に行かせてよっ!
 怒りの形相で振り向こうとした、その瞬間。美術室の扉が、乱暴に開け放たれた。
 美術室に入ってきたのは、不機嫌そうな顔をした、義法だった。彼は苛立たしげに眼鏡を押し上げて、口を開く。
「放課後、昇降口の前に集合って言ったの、寿史だろうが。どれだけ待たせんだ? さっさと来い!」
 
 電車を降りて、僕は義法と一緒に駅の改札を抜ける。居酒屋やバーガー屋が並ぶ南口ではなく、北口のバスロータリーを横切って歩いていると、先に歩いていた義法がこちらに振り向ことなく話しかけてきた。
「弁護士の小嶋が言ってたんだけど、今から向かう家って、元々先生の両親が住んでた家らしいな。ご両親も亡くなってて、たまに先生も掃除をしに帰ってたらしい」
「そうなんだ」
「それが今では犬のために維持してるだなんて、随分変な話だ。それに、犬一匹が住むには贅沢過ぎる。家の維持にかかる税金も、例の百二十万から出てるんだってさ。税金は年間二十万ぐらいらしいから、まぁ、あいつがいなくなるまではもちそうだな」
「そうだね」
 義法の言葉に相槌を打つも、正直僕はこの話に興味がなかった。お金がいくらかかろうとも、先生が残してくれたもの(トート)があれば、その絵が描ければ、僕は何だっていい。
 でも、次の話題は、流石に聴き逃がせなかった。
「……先生は、何を考えてたんだろうな?」
「どういう事だい?」
「小学生三年生のあの日、俺たちは変わっちまっただろ?」
 その問いに、僕は頷く他なかった。
 先生の見立てでは、僕たちが『死』に出会って抱えた疾患は、外傷後ストレス障害(Post-traumatic Stress Disorder)みたいなものだという。
 あの日、周りの大人たちは大騒ぎだったらしい。まず、僕たちがいつまで経っても登校してこない事に不審に思った学校の教師が、それぞれの家に連絡。家を出たはずだという事で学校の教師と両親たちが僕たちを探しに出かけ、彼らは死体の前に立ち尽くす僕らを発見した。
 時間にして、おおよそ二時間程だという。
 二時間の間、僕たちは唐突に出会った『死』を前に、大人たちが駆けつけるまで一歩も動けなくなっていた。
 僕はたまに、ふと思うことがある。
 普通の小学生三年生なら、どんな風に高校生になったのだろう? 将来なりたいものを決めて、成長していったのだろうか? それとも、ただただ毎日はしゃぎながら成長したのだろうか? それとも、成長の実感など得られないままに、高校生活に突入したのだろうか?
 ……でもあの日、僕たちは『死』を知ってしまった。
 言葉としてではなく、現実の存在として、リアルな人間としての『死』をまざまざと見せつけられた。どうしようもなく終わりという存在を、心の奥底まで刻み込まれた。
 その時の事を思い出したのか、義法が自嘲気味につぶやいた。
「それから俺たちは、上手く自分の言葉で話すことも出来なくなった。夜中に急に目が覚めて、滝みたいに汗を流しながら飛び起きる事もあった」
「僕は、まだたまに夜中に飛び起きるよ」
「……俺もだ。先生のカウンセリングを受けて、『死』との向き合い方、折り合いの付け方を模索してなきゃ、俺はきっと、まだあの『死』の前に立ちすくんでいたと思う」
「それは義法だけじゃなくて、僕も含めた他の五人も同じだと思うよ」
 六人全員、どうにかしたいともがいていて、先生がそのもがきを手伝ってくれた。でも不思議なことに、六人が六人とも先生と一緒に『死』の向き合い方を考えたのに、皆違う結論に行き着いた。
「その時からだよね? 僕たちの間で、意見が割れたら多数決で決めるってルールが出来たのは」
「皆、自分の方法が正しいって思ってたし、その方法で他の五人も『死』と折り合いがつけられるって、今でも思ってるからな」
「先生に、どうすればいいと思う? って聞かれなかったら、六人の意見がぶつかり合って、またそこで立ち止まってただろうね、僕ら」
 そして多数決の結果、互いの『死』の向き合い方には口を出さない事に決まったのだ。
 ……そう言えば、このルールも多数決というシステムも、先生と一緒に作ったものか。
 でも、だとしたら僕は――
「なぁ、寿史。先生は、何であの犬を俺たちに残していったんだと思う? どうせ死んだら消えて無くなってしまうのに」
 今湧き上がった違和感の正体に気づく前に、僕の頭は義法の言葉で埋め尽くされる。
 僕は首を振って答えた。
「先生は、トートを僕たちに残していってくれた。それだけで意味があることじゃないか。後は、それを受け継いだ僕が残していけばいい」
「……そうかよ」
 そう言ったっきり、義法は口をつぐんだ。互いの『死』との折り合いの付け方は、知っている。知っているから、僕たちはこれ以上互いに口を挟まなかった。
 
「ここだね」
 あるボロ屋の裏手、その扉の前で、僕はそうつぶやいた。スマホで位置情報を確認し、メッセージアプリで静花たちから送られてきた写真も確認して、この扉が目的地である事を確信する。
 僕は小嶋さんからもらっていた鍵で扉を解錠し、敷地の中へと足を踏み入れた。僕の後ろを、仏頂面の義法がついてくる。
「わん! わんっ!」
 僕たちの姿を見つけたトートが、足を引きずりながら犬小屋から飛び出してきた。僕はしゃがんでトートを受け止めると、わしゃわしゃとその頭を撫でてやる。トートの小さなしっぽが、嬉しそうにひょこひょこと揺れた。
「……じゃあ俺、餌持ってくるわ」
「わんっ!」
「てめぇはついてくるな! 静花からの報告で、お前が餌をどか食いしようとしてたことはバレてんだよ」
「……くぅーん」
「しょげかえっても駄目だ」
「ほら、トート。僕と一緒に遊ぼ?」
「……わんっ!」
「いや、寿史。お前も仕事しろ」
「……くぅーん」
「でも義法。誰かがトートの面倒を見てないと、トートが餌を勝手に食べようとするんじゃないかな?」
「わん! わんっ!」
「うるせぇなぁお前ら……」
 そう言って舌打ちをしながら、義法は一人物置へと向かっていく。ひとまずトートに、餌を与えることを優先したようだ。
 一方僕は、犬小屋からトートの遊び道具を取り出して、庭にばらまいた。それを見たトートが、嬉しそうにおもちゃへかじりつく。
 その様子を横目に、僕は自分の鞄からスケッチブックを取り出した。制服に砂がつくのも気にせず庭に座り込み、僕は筆箱からデッサン用の鉛筆を取り出す。
 最初に使うのは、芯があまり硬くない2Bの鉛筆だ。2Bは紙を傷めずに描けるので、絵の大まかなベースを描く時に僕は多用している。
 トラのぬいぐるみにかじりついているトートを横目に、僕は鉛筆をスケッチブックへ走らせた。
 ……動物を描く時は、相手が止まってくれている方が少ないからね。
 もとより、トートに動き回られる事は覚悟の上だ。だからまず、動き回るトートの大枠を描いた上で、徐々に細部を精緻化して絵を描いていく方法を取る。
 顔の輪郭に、体の大きさ。四本の足のバランスに気をつけながら、丸みの帯びだ耳と短いしっぽの位置までアタリをつけておく。
 少し粗めに描き込んで、僕は今度は筆箱からねり消しゴムを取り出した。ねり消しゴムは平ぺったくして面で消したり、尖らせて線で消したりと、消すことで絵を描く事ができる。
 邪魔な線をねり消しゴムを転がして消していると、義法が物置からこちらに不満の声を上げた。
「おい寿史! 犬こっちにきてんじゃねぇか! 面倒見るなら、ちゃんと見ろっ!」
「わんっ!」
 スケッチブックから顔を上げてみれば、トートは物置の前に立つフードボールを持った義法の周りを走り回っていた。
「手に持ってるものを、地面に置けばいいんじゃないかな?」
「そう簡単な話じゃねぇんだよ! こいつ、物置の中の餌を狙ってやがるっ!」
「わん! わんっ!」
 僕は苦笑いを浮かべて、スケッチブックをたたみながら立ち上がった。制服についた砂を払って、次来る時は折りたたみの椅子も持ってこようと思いながら、物置に向かう。
「ほら、トート。ご飯の時間だよ」
「わんっ!」
 スケッチブックを物置に置いた後、僕はトートを持ち上げて物置から距離を取る。その間に義法が物置の扉を閉めて、フードボールをトートの前に置く。
 トートが食事に夢中になっているのを観察している僕の目の前に、義法が箒を突き出してきた。
「こいつが飯食ってる間に、ちゃっちゃと掃除済ませるぞ」
「……わかったよ」
 本音を言えば、トートを描くために、もう少しトートを観察しておきたい。でも義法が本気で怒っていることがわかったので、僕は素直に掃除をすることにした。
 ……それに僕も、まだ本気でトートを描き始めてないしね。
 義法と犬小屋の掃除を済ませた後、今度はトートと一緒に散歩へ向かう。
 その前に、ある準備が必要だった。
「これ、大丈夫なのかな?」
 トートの下半身に巻きつけられたベルトを手にした僕は、不安げに義法に問いかけた。彼も渋い顔をしながら、手にしたスマホを睨んでいる。
「でも、介護ベルトの使い方はこれであってるはずだぞ」
「わんっ!」
 ベルトで引っ張り上げられ、お尻が頭の位置より高くなったトートが嬉しそうに鳴き声を上げる。
 何も知らずに道端でこんな格好の犬を連れている人を見かけたら、犬を虐待しているのでは? と思う姿なのだが、トートは全く平気そうだ。それどころか、早く散歩に行かせろと言わんばかりに前足を動かして、こちらを急かしてくる。
「変性性脊髄症は下半身が麻痺してるから、犬本人は後ろ足を引きずって歩いても痛みを感じない。だから犬は普通に歩こうとするが、足を引きずっているから怪我をする。だからこうやって引っ張り上げるのが正解なんだが……」
「……まぁ、ひとまず行こうか。静花たちも昨日はこれで散歩してるはずなんだし」
 義法にそう言って、僕たちはトートと庭の外へ繰り出した。扉の鍵を締めていると、義法はまだスマホをいじっている。
「散歩、どこまで行く?」
「静花たちは、菫青公園(きんせいこうえん)まで行ったんだよね?」
「菫青はここから北方向に進んだ団地の近くにある公園だぞ。結構歩いてるな……」
「わんっ!」
「じゃあ、僕たちは反対方向の南側を目指そうか」
「……なら団地沿いの花田天然公園(はなだてんねんこうえん)まで行くか」
「わんっ!」
 トートの声に押されるように、僕たちは道を歩いていく。後ろ足が地面につかないようにベルトで持ち上げているため、トートは下半身が宙に浮いている状態だ。
 下半身が吊られているため、トートは二本の前足でバランスを取って歩いている。しかし、それですんなり歩けるわけがない。特に下半身の位置は、介護ベルトを持つ僕が決めていると言ってもいいのだから、バランスを取るのはかなり難しいはずだ。
 それでもトートは嬉しそうに、自分の身に起こっている事を、これから訪れるであろう終焉を感じさせることなく、その目を好奇心に輝かせて歩いている。
 よたよたとした歩みでも、トートは耳をひょこっと動かしながら前に進んでいた。
 先生が残してくれたそれの姿を見て、その在り方を見て、僕は思わずつぶやいていた。
「美しい……」
「おい、やめろっ!」
 義法が、苛立ったような、切羽詰まったような表情で、僕の肩をつかむ。その力に、僕は僅かに眉をひそめた。
「終わろうとしているものに、意味を見出しすぎるな。お前まで引きずられて――」
「お互いの『死』に対する向き合い方には口を出さないって、そう決めただろ?」
 義法の手を、僕は強かに払いのける。目を細めながら、僕は義法を一瞥した。
「先生の葬儀の時から、続けてだよ? 義法。破るのかい? 僕たちのルールを」
 そう言った僕を見て、義法は狼狽えた。
「ち、違う! 俺はただ、お前が――」
「そう言えば、義法っていつも多数決で誰かの意見を否定する方に投票するよね? そうやって誰かを否定して、楽しい?」
「……何だと?」
「全てが無意味だと思うのは義法の自由だけど、それを僕にまで押し付けないでくれよ。はっきり言って、ウザいよ。それ」
「てめぇ!」
「くぅーん、くぅーん」
 義法が僕へ一歩踏み出した所で、トートが僕たちの間に入り込む。
 トートは義法の足にまとわりつき、義法が一歩後ろに下がった。その後トートは、僕の周りを一周し始める。トートのベルトを握っている以上、僕もその動きに合わせてその場で一回転するしかない。
 一回転し終えると、なんとも言えない表情を浮かべた義法と目があった。
「……勝手にしろ」
 毒気が抜けた表情の義法がそう言って、先に歩き始めた。
「わん! わんっ!」
 トートが元気よく鳴き声を上げ、義法の後を追う。一歩踏み出した所で、トートがこちらを振り向いた。僕は少しだけ、口元を緩める。
「……うん。そうするよ」
 そう言って、僕も歩き始めた。
 夕日に照らされ、二人と一匹の影が道路に伸びている。予定通り花田天然公園にたどり着き、家に帰った所で、僕も義法も帰路についた。
 俺にとって『死』は恐怖の対象ではなく、生きることについて必死に誰かの賛同を得ようとも、無理に面白おかしく生きようとも思わない。自分の生きた証を生み出すことに興味もなければ、虚無感で絶望に苛まれることもない。
 俺はいつだって死んだように生きているし、生きたように死んでいる。
「……これで、気が済んだか?」
 俺の眼前には、六人ほどの学ランを来た男どもが倒れていた。この場所は俺の通う天燈工の校舎裏で、倒れているのはこの学校の生徒たちだ。
 そのうちの一人が体を起こし、恨めしそうに俺を睨む。
「くそっ、一年の分際で……」
「……その一年相手に手も足も出なかったのは、お前らだろ」
 体の大きさと坊主頭という特徴から、俺は入学早々先輩たちからのご指導を受けることになった。
 中学生から高校へ進学して、調子づいている新入生をシメるのが、どうやらこの学校の伝統らしい。今どきこんな学校が残っているのかと最初は呆れたものだが、腕っぷしでスクールカーストが決まるというシンプルな構造は、そこまで嫌いではなかった。
 ……そういう意味で、俺はこの学校のスクールカーストをぶっ壊しちまったのかもな。
 入学式以降、こうして指導をしに来てくれる先輩たちをなぎ倒し続けてきた俺は、クラスどころか学校で浮いた存在だ。
 その原因を作ったやつら、地面に伏している面々を、俺は一瞥する。
「……なぁ、もう止めにしないか? 売られた喧嘩は買うが、放っておいてくれれば、俺はあんたたちにはちょっかいは出さない」
「そういう、わけには行くかよ。一年一人シメれなきゃ、俺らが舐められるんだからな!」
 口から僅かに血を流した一人が立ち上がり、俺に向かって拳を振り上げる。だが既に立っているのだけで限界なのか、彼の足腰は震えていた。
 俺はその攻撃を避けることもせず、拳がこちらに届く前に足刀蹴りを相手の胸に叩き込む。先輩の口が空気の塊を吐き出すように大きく開き、悲鳴を上げて後ろに吹き飛んだ。背中からもろに地面に倒れて、一瞬痙攣したかのように体をビクつかせる。
「……あんたたちのメンツがどうなろうが、俺は知らん」
「くそっ!」
「調子に乗りやがってっ!」
「朱冨の奴らと揉めてるのに、お前に構ってる時間はねぇんだよ!」
 ……だったらなおのこと、ほっといてくれ。
 起き上がって攻撃を繰り出す先輩たちの腕を、足をさばきながら、顔面に右ストレートを、体を捻って背負投を、足払いをした後にみぞおちへ足を振り下ろして、俺は男たちを再起不能にしていく。
 ……意味がわからない。
 本当に、意味がわからない。六人が万全の状態であっても、俺に手も足も出なかったのだ。それが手負いの状態で、俺に敵うはずがない。
 ……それでも、来るなら火の粉を振り払うだけだ。
 それが徒労になるとわかっていながら挑んでくるのであれば、別に俺は止めやしない。徒党を組んで俺に向かってくるのも、対して変わりがなかった。
 結局喧嘩は、やるかやられるかの世界。やるもやられるも、結局は同じことだ。
 ……『生』と『死』の関係と、同じだ。
「これで、勝ったと思うなよ? 後で、吠え面かきやがれ……」
 そう言って倒れた先輩を横目に、俺は辺りを見回した。どうやらもう悪態をつくのが精一杯らしく、立ち上がる先輩はいないようだ。結局、先輩たちが誰も立ち上がることができなくなるまで、付き合ってしまった。
 丁度そのタイミングで、昼休憩を終えるチャイムが鳴る。俺はその音を聞きながら、校舎の塀を超えるように鞄を投げ、その後俺自身も塀をよじ登り始めた。
 ……バイトの時間だ。
 俺は高校に入学して、すぐに始めたことがある。それは原付の免許を取ることだ。理由はどちらかというと前向きなものではなく、後ろ向きなもの。
 ……生きていようが死んでいようが、何をしたって変わらない。
 学校にいれば、授業を受ける以外にも、こうして先輩たちの指導に付き合う必要がある。だから、学校にいない時間帯を作りたかったのだ。
 だが今は、バイト以外にも学校外でする事が、俺には増えていた。脳裏に浮かぶのは、一匹の犬だ。
 ……出席日数は計算してあるし、大丈夫だろう。
 学校の近所の公園、そこの駐車場に俺は原付を停めている。学校にも申請をすれば原付で通学可能だが、俺は学校と家の距離がそこまで離れていないので申請が下りない。だからこうして、学校の近くまで原付で来た後、歩いて学校まで通っているのだ。
 ……免許を取るための教習料と原付の代金はオフクロから借りてるから、バイトして返さないとな。
 原付につけてあったチェーンを暗証番号で外し、鍵を挿入してエンジンを吹かす。中古で激安販売されていた型落ちモデルのそれは、ところどころ塗装がはげ、外観は凸凹している。しかし、初代から受け継がれている丸みを帯びたデザインは健在で、エンジンも問題なく稼働した。
 俺は後頭部まで覆われているスモールジェットのヘルメットをかぶり、補導されないよう制服を鞄にしまって、代わりに取り出したスポーツメーカーの薄手のジャージを羽織る。学校指定の鞄は、無理やり畳んで原付に収納した。
 出発の準備が整った所で、俺はスロットルを吹かして原付を走らせる。
 公園の駐車場を抜けて、道路へと繰り出した。風が頬にあたって、夏の風も涼しく感じる。時速三十キロで過ぎ去る世界は、自転車よりスピード感を感じさせるが、車や電車に乗った時に感じるそれよりも遥かに遅い。
 自転車に乗るのが当たり前の中学生だった時より速さを手に入れたはずなのに、既にそれより速いものを知っているため、何故だか俺は空虚感を得た。先輩たちをどれだけ投げ飛ばせた所で、俺の出来ることには限りがある。
 出来ることなら、無限にスピードを出して、どこまでも駆け抜けて行きたかった。でも、そんな事出来るわけがない。俺の走る速度は免許と年齢に縛られていて、道は有限だ。どこまでも続く道なんて、どこにもない。それはきっと、『生』と『死』が地続きの道になっているのと同じぐらい、普遍的なものなのだろう。
 バイト先の工事現場へたどり着くと、俺は駐車場に原付を止め、ヘルメットを外して、原付から鞄を取り出す。鞄を一度担ぎ直すと、俺は敷居で仕切られた現場へと入っていった。俺のバイトは、肉体労働。工事現場の瓦礫の撤去が、俺の仕事だ。
「……お疲れさまです」
 簡素なプレハブ小屋の扉をたたき、挨拶をして中に入る。小屋の中には、誰もいなかった。
 俺は特に気にした様子もなく、出勤の記録を付けるため、自分の名前が書かれたタイムカードを探す。しかし、見当たらない。
 もう一度カードを上から探し始めた所で、プレハブ小屋に誰かが入ってきた。芳山さんだ。
 芳山さんはこの工事現場の現場監督を務めており、気弱な感じがするが工事の進捗状況など全体を俯瞰して見れており、現場のメンバーからは信頼されていた。
「……芳山さん。俺のタイムカードが見当たらないんですが」
「あ、長谷井くんか。ちょっとこっちに来てくれないかな!」
 肩にかけたタオルで汗を拭いながら、芳山さんは少し慌てた様子で俺を奥のテーブルへと誘導した。簡単な打ち合わせスペースになっているそこに、端に砂が溜まった机を挟んで、俺は芳山さんと向き合って座る。
 芳山さんは申し訳無さそうに一度うつむいた後、俺に向かって口を開いた。
「申し訳ないけど、長谷井くん。君は、もううちで働いてもらうことは出来なくなった」
「……クビ、ってことですか?」
「残念ながら、そうなるね……」
 タオルで額を拭いながら、芳山さんは申し訳無さそうに口を開く。
「実は、本社の方に連絡があったんだ。ここの現場で、素行に悪いバイトを雇ってるって」
「……そのバイトが、俺だと?」
 芳山さんは、唇を噛んで頷いた。それを見ていた俺は、学校を出る前に先輩から言われた言葉を思い出す。
 
『これで、勝ったと思うなよ? 後で、吠え面かきやがれ……』
 
 ……それがこれだとするなら、ダサすぎんだろ、先輩。
 あの先輩たちがやったという証拠は、どこにもない。でも、タイミング的にどうしてもそこと関連付けて考えてしまう。
 俺は少しため息をついた。先輩を叩きのめしている以上、自分は素行が良いだなんて、言えるわけもない。そのため息は、諦めのため息だった。
「……それで、俺はクビですか?」
「すまない。私としては君の働きっぷりには助かっていたし、君がそんな事をするとは思えない。そこは信用している。だが、相手は証拠の動画も撮ってある、すぐに止めさせないと動画サイトにアップしてSNSで拡散するぞ、と言ってきて――」
「……もう、いいですよ。芳山さんが庇ってくれただけで」
 そう言って俺は、芳山さんの言葉を遮り、席を立つ。そしてその場で一礼した。
「……今まで、ありがとうございました」
「そんな、謝らないくれ! こちらの方こそ、力になれずに申し訳ない」
 そう言いながらも、どこか安心したような表情を浮かべた芳山さんは、俺に向かって封筒を差し出した。
「これは、今まで働いてくれた分のバイト代だ。少しだけど、気持ちを入れておいた」
「……ありがとうございます」
 そう言って俺は、プレハブ小屋を後にした。
 駐車場に戻り、停めてある原付に乗る前に、芳山さんから手渡された封筒の中身を確認する。中から出てきたのは、千円札が三枚と、百円玉が二枚。働いて信用されていた俺の頑張りは、合計三千二百円だった。
 ……オフクロに金返せるのは、一体いつになるんだろうな?
 原付を維持するには、税金も保険も必要だし、当然ガソリン代だってかかる。車のメンテナンス代に比べたらかなり安いとは言え、金は必要だ。しかし――
 ……バイト、また探さないとな。
 スクールカーストに興味はない。降りかかる火の粉があれば、払うだけだ。それでもまとわりつかれるから、距離を取ろうと学校を抜け出した。でもその抜け出した場所を、俺は今失った。
 逃れられない。地続きだから。全ては『生』と『死』が続いているように、表裏一体。居場所を変えても、俺の現状は変わらない。
 ……せめてもう少し、金があればな。
 その時ふと、トートの事を思い出した。正確には、先生があの犬と一緒に残してくれた、百二十万円の事を。
 そこで俺は、小さく首を振る。
 ……駄目だ。あの金は、小嶋がトートの世話に必要だと認めないと使えない。
 原付を走らせて、俺は工事現場を後にする。今日は、俺と紫帆がトートを世話する日だ。
 バイトがなくなり時間が余ったので、俺はトートのいる家の近くのコンビニに寄る。ペットボトルのお茶を買い、俺はスマホで少しの間、あることについて調べ物をしていた。
 
 調べ物もある程度終わり、少し早い時間帯だが、俺は原付を走らせてトートの元へと向かう。
 目印のボロボロの家の前でエンジンを切り、原付を押して裏手へと回った。すると、既に扉が空いている。俺はノックもせずに、その中へと入っていった。
「こら、トート、くすぐったいって! あははっ! あ、たけじゃん。おつかれー」
「わんっ!」
 扉の向こうには、予想通りと言うべきか、既に到着していた紫帆がトートと戯れていた。庭の脇には、紫帆のものと思われる鞄とブレザーが置かれている。
 紫帆が喉元を撫でると、トートは気持ちよさそうに目を細めた。いつ見ても笑っているようにしか見えないトートの口から、桃色の舌が上下に揺れている。
 それを横目に、俺は原付を庭の中へと入れると、扉を閉めた。
「……随分早いな、紫帆」
「授業だるいからサボりー。そーゆーたけも、だいぶ時間早いと思うけど?」
「……お前と似たようなもんだ」
「そっかー。じゃあ、二人そろったし、トートにご飯あげよっか」
「わん! わんっ!」
 物置に向かおうとする俺たちの後ろを、トートがついてくる。俺はすっとトートを抱えあげ、餌を勝手に食べられないようにした。
 トートは俺の方を見上げて、どうして僕にそんなに意地悪するの? とでも問いかけてくるような瞳を向けてくる。
「……くぅーん」
「……そんな目をしても駄目だ」
「ちょっとぐらいなら、多めにあげても良いんじゃないのかなー?」
「わんっ!」
「……駄目だ。食べ過ぎは健康に悪いし、太るとその増えた体重で後ろ足を引きずることになるから、怪我の元になる」
「……くぅーん」
「えー、でも、それだとトートが楽しく生きられないかもしれないじゃん? それにあたし、この子がご飯食べてる所見るの好きだしー」
「わんっ!」
「……駄目だ。多数決で、ちゃんと世話するって決めただろ?」
「ちゃんとって文言は、なかったと思うけどなー。でも、たけの言うことにも一理あるねー」
「……くぅーん」
「ほーらトート、そんな声出さないのー。ご飯は一杯食べれないけど、あたしと一杯遊ぼーねー」
「わんっ!」
 紫帆は俺からトートを受け取ると、犬小屋の方へと向かっていった。
 邪魔者がいなくなったため、俺は物置の中でフードボールを探す。棚の奥にしまわれていたそれを手に取り、中に餌を入れようとドッグフードの袋に手を伸ばした。その時――
 
「は? 何してんの? お前」
 
 紫帆の、冷めた声が聞こえてきた。間延び口調でなくなった時、だいたい紫帆はキレている。
 物置の外に出ると、そこには地面から紫帆を見上げるトートと、上半身のシャツが濡れている紫帆の姿があった。
「……何があった?」
「こいつ、あたしにしょんべんかけやがった」
 怒りで紫帆の口角が、若干引きつっている。口の端は上がっているのにその目の温度は冷たくて、今にも紫帆はトートに手を上げそうだった。
 俺は思わず、口をはさむ。
「……トートは、下半身が麻痺している。トイレもあまり上手くできない。だから犬小屋も水拭きしてるんだろ?」
「だから、しょんべんかけられても笑って許せって? あたし、無理かも」
「……だが、飼い犬を傷つけたら最低でも器物破損罪だぞ。警察が入ったら、動物愛護法違反の可能性だって出てくる」
「は? 犬なのに、器物破損? 何いってんの、たけ」
「……ペットも物として扱うことがあるんだよ。器物破損罪は親告罪だから、物の所有者が告訴する事で裁かれる。お前がトートを傷つけた場合、寿史やしおりならやりかねんだろ? それはきっと、楽しくない」
「…………まぁ、ひさとしおしおなら、そーかもねー」
 そう言って、紫帆は険のある表情を少しだけ和らげた。
 それを見た俺は、後ろ手に物置の扉を閉めて、紫帆の方へ歩いていく。
「……俺のジャージでよければ、使ってくれ。物置の中でなら、着替えられるだろ?」
「うーん、じゃーそーする」
 俺はジャージを脱いで、紫帆に差し出す。それを受け取った紫帆は、無言で物置の方へと歩いていった。
 紫帆が物置の扉に手をかけた時、僅かに俺の方へ視線を送ってくる。
「でも、よく知ってたねー? 器物破損とかなんとかって」
「……たまたまだ」
「ふーん」
 そう言って、紫帆は物置の中へと入っていった。それを見送り、俺は内心ため息をつく。
 俺が紫帆に言ったのは、嘘だ。
 ここに来る直前のコンビニで、俺は動物を虐げた時の事を調べていた。何故なら先生の遺言でトートと、トートを世話するための金が俺たちに残されている。
 ……だったら、トートがいなくなれば、その金はどうなる?
 今は弁護士の小嶋の管轄だが、あの金は先生がトートの世話をするために俺たちに残してくれたものでもある。だからトートがいなくなれば、百二十万を俺たちのものだと主張するのはそこまでおかしなことではないと思ったのだ。
 ……百二十万を六人で割れば、一人あたり二十万になる。
 実際はトートの食費などが発生しているため、もう少し得られる金額は下がるだろう。それでも今トートに何かあれば、各人の取り分は十万以上になるはずだ。
 しかしそれは何かが起こる前提で、今すぐそれが起こるだなんて偶然はありえない。だから誰かが何かを起こさなければならないのだが――
 ……トートは、法律に守られている。
 俺たち六人が六人とも共謀すれば、その何かを起こしても勝算がある。全員で口裏を合わせて、不慮の事故という形にすればいいからだ。
 しかし先程俺が紫帆に言った通り、寿史としおりはトートを守ろうとするだろう。ひょっとすると、静花も反対するかもしれない。そうなれば、彼ら(トートの所有者)はトートに何かをした人を糾弾する。つまり、親告罪で訴えられる事になる。
 俺たち六人の中の誰かがトートを守ろうとする限り、トートのために残された金を手に入れることは出来ない。
 ……だから、そんな心配そうな目で俺を見なくても大丈夫だぞ。
 こちらを見上げるトートの頭を、俺は撫でる。トートは俺にされるがまま、黙ってその身をこちらの手に委ねていた。
「ありがとー、たけ。着替え終わったよー」
「……ああ」
 ジャージに着替えた紫帆が、物置から出てくる。それを見たトートが俺の手から離れて、紫帆の方へと歩いていった。
「……くぅーん」
「……いいから、ご飯にしよーか」
「わんっ!」
 そこから俺たちはトートに餌を与え、淡々と犬小屋の掃除を行った。紫帆も、トートに対して何かしようとする素振りも見せない。
 散歩のコースは南側の団地沿いを選び、藍銅公園(らんどうこうえん)を目的地にして歩き始める。
 その間トートは、相変わらず笑ったような表情で俺と紫帆を見つめていた。
 私は、冬が嫌いだ。
 あの静寂で、止まったような冷たい空気が嫌いだ。雪が積もって、全てを覆い隠してしまいそうな気配も嫌い。年末の、今年一年の終わりを告げる鐘の音が嫌いだった。
 終わってしまうことは、『死』は、怖い。
 だから夏は、今の季節は、まだマシだ。
「ねぇ、今度の休み、皆でプール行かない?」
「あ、いいねいいね!」
 学校のお昼休み。クラスの友達とお弁当を食べながら、私は笑顔を浮かべてその話題に頷いてから口を開いた。
「でも、その前に水着買いに行かないとじゃない?」
「あー、確かに!」
「私去年より太ったからなぁ」
 お弁当箱に箸を置き、スマホで水着を調べ始めた友達を横目に、私もスマホを取り出した。
 ……ひとまず、すぐにプールに行くことにならなくて、よかった。
 私は自分から活発にどこかに行くようなタイプでもなければ、率先して誰かを導いていくタイプではない。
 ただ周りの空気を悪くしないように、それでいて話が転がるような言葉を口にしているだけだ。
 ……私は、終わらなければいいから。私の存在を、認めてくれればいい。
 自分の意見を通すよりも、相手の意見に乗り、その相手から自分の存在を認めてもらうほうが、私には重要だ。
『死』は、終わってしまうことだ。無くなってしまうことだ。私は、それが怖い。目の前に居るのに、いないように扱われるなんて、それはもう死んでいるのと同じだ。
 それが怖くて空気を読んで、読み続けて、気づけば私は今のポジションになっていた。
 ……スクールカーストとか、別にそんな事、気にしたことなかったけど。
 空気を読んで生きてきた私は、私が周りからどう見られているのかもわかっている。むしろ『死』を恐れる私には、その能力こそが重要だった。
 ……キャラと違うことをすると、皆引くから。
 引かれると距離が取られ、人間関係は疎遠になる。離れれば離れるほどその関係は薄まっていき、ついには無くなって消えてしまう。
 ……怖い。
 終わって、無くなって、消えてしまうのは、怖い。それはもう、『死』そのものだ。だから私は、気づいたらなっていたスクールカーストの上位というキャラを維持する必要があった。
 ……だから話がつまらなくならないように気を使うし、おしゃれの話にもついていけるように、閲覧用にSNSのアカウントも毎日チェックしてる。
 学校での友人との関係を維持することで、私は他の人から金丸静花という存在として認知される。このキャラを維持できなければ、私は私の居場所を失い、死んでしまう。
「え、ちょっと待って。この水着ヤバくない?」
「めっちゃ可愛いじゃん!」
「でも、攻め過ぎじゃない?」
「これぐらい普通っしょ。あ、フォロワー増えた」
 その声に、周りの子たちから歓声が上がる。
「え、やば。フォローしてくれた人、フォロワー八千人超えるじゃん」
「マジ? 私バズるかな?」
「企業案件来るかもよ?」
「そうなったら、何かおごってよ」
 私がそう言うと、周りに笑いが広がった。
「マジで? インフルエンサー狙っちゃう?」
「てか、静花は自分の写真上げないの? アカウント持ってるんでしょ?」
「確かに! 静花なら絶対フォロワーつくっしょ。芸能事務所からスカウトされたりして」
「えー、そんな事ないよ」
 そう言いながら、私は若干頬を引きつらせる。
「私、見る専だからさ。それに、写真撮るの下手だし」
「そうかな? でも皆顔なんて加工して上げてるんだから、気にしなくてよくない?」
「てか待って。ちょーエモい動画見つけたんだけど」
「えー、どれどれ?」
 話題が変わったのをこれ幸いに、私は動画の話に食いついた。他の子達も、動画の話に夢中になる。それを横目に、私は自分の思考に沈んでいった。
 ……SNSで誰かと繋がるなんて、無理。怖い。
 私にとっての世界は、ここなのだ。この、目で見えて、手で触れれて、声が聞こえるリアル。私の生きている世界は、私の見えている範囲でしかありえない。
 顔も知らない誰かと繋がるのが怖いのではない。ボタンひとつで解消できてしまう、SNS上での関係が怖いのだ。
 ……簡単に消せてしまえる関係なのに、何で皆夢中になれるの?
『いいね』やコメントをつけるのは、まだいい。フォロワーが増えたことに一喜一憂するのも、理解できなくはない。
 でも、簡単にアカウントを作り変えれてしまえるという環境が、私には恐ろしすぎた。
 SNSのアカウントは、ネット上の自分自身だ。
 その自分自身の振る舞いによって、時にアカウントは凍結され、炎上もする。あるいは、パスワードを忘れれば、もう二度とログイン出来なくなってしまうだろう。
 もしそうなった時、ほとんどの人はアカウントを作り直す。有名人でも企業アカウントでもなければ、それはごく一般的に普通に行われていることだ。
 ……でも、アカウントは自分自身なのよ?
 アカウントを作り直すというのは、新しい自分自身に生まれ変わることでもある。でもその前に、まず自分自身(アカウント)を殺さないと(消さないと)いけない。
 ……そんなの、自殺と同じじゃない! そんなの私、耐えられないっ!
 だから私はSNSは見る専で、何も投稿しないし、誰もフォローしない。あんなに『死』が近い環境を、自分の生活の一部になんてしたくなかった。SNSはログインが必要なニュースサイトと変わらない使い方しか、私は絶対にしないのだ。
 ……それ以上、近づきたくもない。
 そう思いながらも、今日も私はその顔に笑顔を張り付かせる。
 
 カラオケに向かうという友達と別れて、私は一人学校を後にする。学校のグラウンドから運動部の掛け声が聞こえてくるのを横目に、私は帰宅する生徒たちの列に混じって最寄り駅まで歩いていった。放課後なのに、まだ気温が高い。夏の太陽は、どうしてこうも元気なのだろうか?
 地下の改札を通って、駅のホームで次の電車を待つ。二、三分も待たないうちにやってきた電車に乗り込むと、自然と額から汗が流れ落ちてきた。私はそれを拭いながら、空いている席へ腰を下ろす。
 動き出した電車の進行方向は、私の帰宅経路とは反対側。今日、私はトートの世話をする日だった。
 席に改めて座り直し、私は大きなため息をつく。
 ……本当に、どうしたらいいの?
 最近、寝ても覚めてもトートの事を考えてしまっている。見た目はとても可愛い犬なのに、もう終わりが近づいているあの犬が、私は怖くて仕方がない。
 ……他の五人には気にしすぎだって言われるけど、『死』は、怖いよ。
 自分が『死』に敏感になっている自覚はある。しかし、これが私の『死』に対する向き合い方、折り合いの付け方なのだから、仕方がない。
『死』は怖くて、恐ろしい。だからなるべく離れていたい。近づきたくない。死体を見つけたあの日にだって、それに気づいていたら、私は皆の手を引っ張れていたのかもしれないのだ。
 怖いから、離れよう。私がそう言えれば、二時間も皆死体の前で立ちすくむ必要もなかったはずだ。
 怖くて、恐ろしいものからは、逃げてしまえばいいのだ。
 ……でも、実際に逃げれるかどうかは、話が別だよね。
 現に今も、私は私が恐れるトートの元へと向かおうとしている。『死』を強烈に連想させるトートが、怖い。
 犬の世話が嫌だとか、そういうレベルではなく、もう会うのすら怖くて嫌なレベルだ。
 ……でも、お世話するって、多数決で決まっちゃったから。
 死体の前で動けなかった私たちが歩き始めるきっかけとなったのが、多数決だ。
『死』に対しての意見が六人とも分かれた時、それでも私たちはどうすべきなのか? という行動指針を決めるためのシステム。皆と歩いていくためのルールを決めるもの。それが、私たちの多数決だ。
 ……だから義法も嫌がってたけど、多数決に従うんだよね。
 そうしないとまた、目の前の『死』から動けなくなってしまいそうだから。次にそこから動けなくなったら、他の五人に取り残されたら、きっと誰もが色々なものに耐えられなくなると、誰も口に出さなけれど皆そう気づいている。
 ……だから私も今日、トートに会いに行くんだよね。
 窓の外を流れる風景を見ながら、私はもう一つの、トートに会いに行く理由を考えていた。
 ……誰かがお世話をしないと、あの子、多分すぐに死んじゃうから。
『死』は、怖い。だから逃げたいし、離れたい。
 でも、その『死』に近づいていってしまう状況も、私には耐え難かった。何もしなければ『死』に近づいていってしまうなら、それを少しでも止めたいと思っている。
 でもトートの変性性脊髄症は、原因が解明されていない、治療できない病気だ。
 だから今、この瞬間ですらその病はトートの体を蝕んで、その寿命を削り取っている。それを想像するだけでたまらなく怖くなるが、トート自身はその事に気づいていない。
 ……本当は、庭でも走り回って欲しくないんだけど。
 足を引きずって歩けば、そこが傷つく。しおりと一緒にお世話をしに言った時、ご飯に凄い反応していた。反応して走り回るから、トート自身がトートを傷つけてしまうから、出来るだけおとなしくしていて欲しい。
 ……紫帆たちからも、おしっこを漏らしちゃったって聞いたし。
 だいぶ、下半身が麻痺してきているのだろう。そうなると、今後は食欲もなくなってくるはずだ。そういう意味では、元気なうちにご飯を食べてもらった方がいいのだろうか? でも、間違いなく食べ過ぎはトートの健康に良くない。
 あれこれ悩んでいるうちに、目的地の駅に到着した。
 電車を降りながら、私はため息をつく。
 ……何でこんなに怖いもののために、私、悩んでるんだろ?
 釈然としない思いを抱え直すように、私は自分の鞄を背負い直して、改札口へと向かっていく。
 
 扉を開けると、嗅いだことがない臭いがして、私は思わず顔をしかめた。トートの待つ庭には既に先客がおり、キャンバスの前にその人が立っている。
 私はその人物に向かって、声をかけた。
「寿史、何してるの?」
「見ての通りさ。絵を描こうとしてるんだよ」
 見れば、寿史の足元には絵画用のバケツにペイントパレットなどが用意されている。臭いの原因は、そのペイントパレットトに出された絵具だった。
「……くぅーん」
 いつもなら誰かが現れた瞬間ご飯を求めてこちらに走り寄ってくるトートだが、今日は様子が違うみたいだ。お腹まで地面に押し付けた状態で、犬小屋の前から遠巻きにこちらを見ている。
 私は寿史に問いかけた。
「トート、どうしたの?」
「さぁ? 僕が最初に来た時は、いつも通りだったけどね。こうやって絵の準備をしてたら、あんな感じになっちゃって」
「それ、完全に寿史の絵具の臭いが原因でしょ……」
 そう言いながら、私は寿史が用意したキャンバスに近づいていく。キャンバスにはまだ下書きしか描かれていない。
 私の視界の隅に、寿史の鞄から覗いているスケッチブックが目に入った。
「それ、見てもいい?」
「どうぞ」
 私がスケッチブックを手に取る横で、寿史はブレザーを脱いでシャツの腕をまくる。折りたたみの椅子も持ってきており、それを組み立てる寿史から少し離れて、私はスケッチブックを開く。
 そこには全ページにわたって、びっしりとトートの絵が描かれていた。
 正面からこちらを向いているものもあれば、全く違う方向に顔を向けているものもある。おもちゃで遊んでいる姿の隣には、フードボールに入ったご飯を嬉しそうに食べているトートの姿もあった。
 顔だけの絵や、全体を描いたもの。あくびをしている姿や、寝転んでいるもの。それら全てにおいて、あらゆる角度から精緻に描かれたトートの姿が、スケッチブックの中にあった。
 私は思わず、こうつぶやく。
「凄い……」
「そのままそこに色をつけても良かったんだけど、やっぱりちゃんと絵で、油絵でトートを残しておきたくてね。スケッチしたおかげで、もう今のトートを残すのにそれは(トート)必要なくなったよ」
 寿史の言葉に、私は首をひねった。絵を描くのに、その対象が必要ないなんて、私にはイメージがつかない。
 ……でも、絵を描く人たちの間では、それが普通なのかも。
 私はスケッチブックを閉じて鞄を置くと、寿史の方へ振り返る。
「それじゃあ、トートが大人しくしている間に、ご飯の準備と掃除を終わらせましょう」
「うん、そうだね」
 そう言うものの、寿史は組み立て終えた椅子に座ると、ペイントパレットと筆を手にする。
 私はスケッチブックを寿史に突き出すと、少しだけ眉を釣り上げた。
「言ってることと、行動が伴ってないんだけど」
「ごめん静花。でも、今気分がノッててさ。いい絵が残せそうなんだよ」
「……そういうのは、やることをちゃんとやってからしてよ」
「だから、ごめんって。きりが良い所でちゃんと手伝うから。あ、スケッチブックは物置に適当に置いておいてくれればいいよ」
「……くぅーん」
 寿史はもう私の方を見もせず、キャンバスに筆を走らせている。そのキャンバスに描かれる対象のトートは、お腹が空いたよ、早くご飯が食べたいよ、と言うように切なげな声を上げていた。
 その姿を見て、私は少し言葉を詰まらせる。正直、トートには今のまま大人しくしてて欲しい。でも私がご飯を用意し始めるのを見たら、こちらに駆け寄ってくるかもしれない。怖い。
 ……だからって、このままご飯が食べれないとトートも辛いだろうし、ストレスが溜まると体に良くないだろうし。
 くっ、と下唇を噛んで、私は意を決したように物置に向かって歩き出した。それを見たトートが、瞳を輝かせる。お腹を引きずりながら、トートがこちらに向かってきた。
「わん! わんっ!」
「ひっ!」
 ……ああ、もう! どうして皆こう身勝手ないのっ!
 トートは怖いし、寿史はムカつく。怒りと恐怖で内心ごちゃまぜになりながら、私は物置の中に駆け込んだ。
「わん! わんっ!」
「も、もう! 静かにしてよっ!」
 物置の前で、早く早くと舌を出したトートがこちらを見上げて吠えてくる。
 反射的に、手にしたスケッチブックを投げそうになるが、そんな事をしてトートが傷ついてしまったらどうするのかと、ギリギリの所で私は堪えた。トートが傷つけば、トートの『死』がそれだけ近づく。そんな事、私に出来るわけがなかった。
「わんっ!」
「お、お願いだから、静かにしてっ!」
「わん! わんっ!」
 ……こっちの気も知らないで、そんなに嬉しそうな顔してっ!
 スケッチブックを物置の棚に乱暴に放り投げ、私は震える手でドッグフードの袋に手を伸ばす。だが、手が震えて上手く袋がつかめない。二回、三回と手を伸ばして、ようやく袋をつかむことが出来た。
 額に汗が滲み、目にもうっすら涙が浮かぶ。何で? だとか、どうして? という単語が頭の中をぐるぐる駆け巡るが、もう意地でもなんとかしてやろうという気持ちで、私はフードボールにドッグフードを注いでいった。
 私はヤケクソ気味になりながら、ボールをトートの前に置く。
「ほ、ほら! これでいいでしょっ!」
「わんっ!」
 トートは嬉しそうに吠えると、フードボールの中に頭を突っ込んだ。ガリガリとドッグフードをかじるトートを見ることもせず、私は物置から出て汗を拭う。
 本当に、色々と無茶苦茶だ。一人でトートの世話を出来るわけがないと思ったから、二人制にしてもらったのに。
 今だって、自分一人で餌の準備が出来たのは、奇跡に近い。普通だったらトートに追いつかれ、物置の中に侵入を許していただろう。そう、普通だったら。
 そこで私ははっとなって、トートに駆け寄った。
 そうだ。普通なら私は、トートに追いつかれる。でも、トートが私に追いつけなかったということは、普通じゃないことがトートの身に起こっているということだ。そう言えばトートは、今日は後ろ足だけでなく、お腹まで地面に引きずって走っていた。
 トートが病気だということで、最悪の想像が私の頭の中を駆け巡る。
「ご、ごめんね。ちょっと触らせて」
「わん! わんっ!」
 ご飯を食べている所を邪魔されたからか、トートは私の手を邪魔そうに振りほどこうとする。必死に抵抗されるが、私だって必死だった。
「お願い、ちょっとだけだからっ!」
「きゃんきゃん!」
「お願い、お願いよ、トートっ!」
「……くぅーん」
 私の必死さが伝わったのか、トートが私の手の中で大人しくなる。お腹をこちらに向けるように、私はトートをひっくり返した。そして、目をひそめる。
 トートのお腹から足にかけて、血が滲んでいた。
 体を引きずるように無理やり動いていたので、体が傷ついてしまったのだ。傷を負っても、変性性脊髄症で体が麻痺しているため、痛みに気づかずにトートは走ってしまう。
「寿史、スマホ持ってる?」
「え、どうして?」
「トートが怪我しているのっ!」
 振り向くと寿史は先ほどと変わらず、絵を描いている。
 怒りで一瞬我を忘れかけるが、私はトートを抱えて自分の鞄まで走り、スマホを取り出して電話を掛ける。
 電話の宛先は、弁護士の小嶋さんだ。
『……もしもし?』
「もしもし? 私、トートのお世話をする事になった金丸です! 金丸静花ですっ!」
『ああ、金丸さんですか。お久し――』
「トートが怪我をしてるんです! 病院の手配をお願いできませんかっ!」
 小嶋さんの言葉が言い終わる前に、私はそう叫んでいた。
 私の焦りが伝わったのか、小嶋さんもすぐに対応してくれる。
『わかりました。すぐに手配します。通院費等は気にしないでください。怪我をしている部分は、足ですか?』
「足から、お腹にかけてです」
『では、患部を水で洗ってください。砂やバイキンがついているかもしれませんから』
「わかりました」
 電話を切り、トートを洗おうと顔を上げると、寿史は相変わらず絵を描いていた。
 そこで、私の中で何かが切れる。
「……寿史、いい加減にしなさいよ」
「何が?」
「あなた、トートがこんな事になってるのになんとも思わないの? てか、そもそも絵を描くためにトートのことよく見てたんでしょ? 怪我してたって気づかなかったの?」
「さっきも言っただろ? 僕はもう、トートを残すのに必要なものは見たんだよ」
 そこでようやく手を止め、寿史はこちらに振り向いた。
 その瞳は、ここではない、どこかを見ているようながらんどうなものだった。
「これから僕は、トートを絵に残すんだ。トートを永遠にするんだよ? それが傷が出来たとかどうとか、何をそんな事で騒いでいるんだい?」
 その言葉に、私は絶句して何も言えなくなる。
 寿史はもう、現実のトートを見ていなかった。彼はトートを絵に残すことで、永遠という形にすることで、トートの『生』にも、トートの『死』にも折り合いをつけてしまっている。
 ……そうじゃない、そうじゃないよ、寿史!
 そう言いたいが、他の五人の『死』との向かい方には口を挟めない。私の口はなんと言葉を作ればいいのかわからなくて、私は結局顔を伏せた。
「……くぅーん、くぅーん」
 うなだれた私の顔を、傷だらけのトートが慰めるように舐めてくれる。
 ……私のこと、心配してくれてるの?
 何故だか私はとても悲しくなって、少しだけ、泣いた。
 どうせ死ぬなら、人生を楽しんでから死にたくない?
 辛いことや悲しいことなんて、経験しない方がいいに決まっている。
 ……一秒後に死ぬかもしれないなら、楽しくて、面白くて、気持ちいい事を選んだほうがいいよねー。
 そう思いながら、あたしはトートに会いに行くため立ち上がろうとする。
「おい、ちょっと待てよ」
 そう言って塩畑 海(しおはた かい)は、手をとてあたしを引き止めた。風が吹いて、あたしのポニーテールが雑に揺れる。あたしたちは今、校舎の屋上にいた。
「紫帆。お前、最近付き合い悪ぃぞ」
 そう言って海は、口からタバコの煙を吐き出す。煙は彼の金髪をくゆらせて、青いペンキをぶちまけたような夏の青空へと消えていった。
 海はあたしと同じ、朱冨澤高等学校に通う三年生。新入生として入学してそうそう、あたしは海に告られた。
 ……特に断る理由もないから、OKしたんだよねー。
 海は顔も整っているし、お金も持っている。話も面白いので、今の所あたしは積極的に別れようとは思っていない。
 ……まぁ、あたしの知らない所で色々してるっぽいけどねー。
 朱冨は、どちらかと言えば進学校に分類される。偏差値もそこまで低くなく、国立大学への進学者も毎年出していた。しかし、だからといって生徒全員が素行がいいわけではない。悪知恵が働く分、たちの悪い生徒が一部存在する。
 その総元締めみたいなのをやっているのが、海だった。
「別に、犬の世話なんて二、三日放っておいたって平気だろ?」
 そう言って海は、吸い終えたタバコの火を消しもせず、吸殻を排水口に投げ捨てる。
 そう言えば、こうして学校の屋上でタバコを吸えるようになったのは、教師の弱みを握って強請り、屋上の鍵を手に入れたからだと海が言っていた。彼が用意した女子高生とラブホに入っていく写真を撮って、金も取っているのだという。
 そういう話を海から聞けるのも、あたしが彼と関係を続けている理由だった。普段聞けない、聞く機会がない話を聞くのは純粋に楽しいし、面白い。
 ……あたしに関係ない所で何してても、どーでもいーしねー。
 女子高生に手を出す高校教師も、その高校教師を強請っているのも、その強請った相手から成功報酬を受け取る女子高生も、その女子高生に売春を斡旋しているのも、あたしじゃない。あたしにとって重要なのは楽しいか否かで、楽しくないものには興味がなかった。
 ……でも、こうやってあたしの行動に口出ししてくるのは、ちょっとウザいかなー。
 海に向かってあたしが何かを言う前に、彼の取り巻きの一人、ドレッドヘアーの向家 康治(むかいえ やすはる)が冗談めかしたような口調でこう言った。
「ぎゃはははは! 紫帆、ひょっとして他に男が出来たんじゃねぇの?」
 康治は海と同じ三年生。常に海の後ろについて回り、後ろ暗いことをするのにも積極的に手を貸しているようだ。
 その康治に向かって、海は立ち上がる。そしてそのまま無言で、海は康治の顔面を殴りつけた。殴られた康治は、面白いように吹き飛んでいく。
 仰向けで転がる康治を、殺気立った海が見下ろした。
「……紫帆が浮気するわけねぇだろ。次くだんねぇ事言ったら殺すぞ」
「そうっすよね、海さん! 紫帆ちゃんがそんなマネするわけないもんねっ!」
 そう言って海にすり寄ってきたのは、犬飼 千春(いぬかい ちはる)。頭の両サイドを刈り上げた千春も海の取り巻きで、確か二年生だったはず。
「ご、ごめん海くん。冗談だったんだよ」
「いくら冗談でも、言っていい冗談と悪い冗談があるっすよ、康治さん」
 よろよろと立ち上がる康治を、千春は蔑んだ表情で一瞥する。一方の康治も、千春に向かって舌打ちをした。二人共海の手足のようにこき使われているが、海のそばにいるのは旨味があるから今の立場に甘んじている。そんな自分を情けなく思っている部分が二人の中にあるから、二人は互いを同族嫌悪しているのだ。
 ……あー、めんどくさいめんくさーい。
 そう思っているあたしに向かい、康治に向けたのもとは打って変わって、千春が満面の笑みを浮かべてくる。
「オレは紫帆ちゃんのこと、そんな浮気者だなんて思った事は一度もないからね!」
「あはは、ありがとー」
 乾いた笑みを浮かべて、あたしはもう屋上を離れようと立ち上がった。
 千春の好意には気づいているが、正直そういう関係は海で間に合っている。そもそも千春は、顔も金も海に劣っており、話もたいして面白くない。更に言えば、海のコバンザメでありながら、海の彼女のあたしをあわよくば的な感じで狙っているのが最高にダサい。
 あたしが海から千春に乗り換える理由が、一ミリたりとも存在していなかった。
「じゃー、あたしそろそろ――」
「だから、待てって」
 スカートをはたき、屋上を後にしようとするあたしの背中から、海が抱きついてくる。
「ちょ、何!」
「紫帆の恩人だかなんだかしんねーけど、犬の世話なんて止めて、もっと楽しい事しようぜ」
 楽しい事、と言われて、あたしの抵抗が一瞬弱まる。
 トートの世話をするようになって一ヶ月。ぶっちゃけ、あたしはもうそれに飽きていた。
 最初の方は犬と遊ぶのが楽しそうだと思っていたのだが、しょんべんかけられたり、餌やりや掃除も地味に大変。そして何より、下半身の麻痺が進行しているトートの散歩が一番大変だった。
 ……あーあ、こんな事なら、反対票を入れておくんだったなー。
 そう思うものの、あの時は楽しそうだと思ったのだから仕方がない。今あたしがつまらないと思えているのは、たまたまあたしが今日まで死ななかった結果に過ぎない。こうしている今だって、一秒後にはあたしは心臓麻痺で死んでしまうかもしれないし、隕石がぶつかって死ぬかもしれない。
 ……だったら、その時その時で楽しそうな選択をしてくだけだよねー。
「ほら、動きが止まってるぞ? 紫帆。残れよ。な?」
「ちょ、どこ触って、あっ! もう! こんな所で止めてよっ!」
 抵抗を止めたあたしを強引に迫れば残せると思ったのか、海があたしの胸を弄ってくる。そんなあたしたちを、康治は下卑た笑みで、千春は嫉妬で頬を引きつらせて見ていた。
「なになに? 海くんここでおっぱじめるの? 俺、カメラ係やろうか?」
「ちょ、さ、流石にここはまずいっすよ、海さんっ!」
 千春のその反応を見て、海は口角を釣り上げる。海も千春のあたしへの想いに気づいていて、わざとやっているのだろう。
 ……あー、めんどくさー。
 あたしは自分の肘を海の顎にぶつけるように振るい、彼の拘束から逃れた。
「もう行くって言ってんでしょ? 邪魔しないで」
「……紫帆。お前、俺よりもその犬の方が大切なのか?」
「はぁ?」
「その犬がいなくなれば、お前はもうどこにもいかねぇのか?」
「……あんた、何いってんの?」
 ただでさえ子供じみた海の独占欲がめんどくさすぎるのに、彼は更にめんどくさい事を言い始めた。
 あたしはポニーテールを揺らしながら、海を少しだけ睨む。
「トートは、怪我した部分の包帯がようやく取れたところなの。バカなこと言わないで」
「そう、それ。それだよ、紫帆。俺が気になってたのは、そこなんだ」
 海は胸ポケットからタバコを一本取り出し、ライターで火を付ける。
「その犬の治療費、誰が出してんだ? 昔の仲間と一緒に世話してるって言ってたけど、男か?」
 その言葉に、あたしはちょっと海に幻滅した。あたしが浮気をするようなやつじゃないと康治を殴っておきながら、結局その可能性をずっと考えていたのだ。呆れ過ぎて、逆に冷静になってきた。
「だからー、前に言ったじゃん。トートをあたしらに残した先生が、お金も一緒に残してくれたんだってー」
「でもよぉ、紫帆。動物を病院に連れてった通院費、かなりかかんだろ? その先生以外が支援してんじゃねーのか?」
「大丈夫だよー。まだ百万ぐらいあるはずだしさー」
「……何?」
 目の鋭くなった海を見て、あたしは自分の失言に舌打ちをした。海の素行を知っているあたしは、先生が残してくれた大金の話だけは彼にしていなかったのだ。百万以上の金の話を聞いて、海が大人しくしているとはあたしには思えなかった。
 あたしは取り繕うように、すぐに言葉を重ねる。
「あー、でもそのお金、弁護士が預かっててあたしたちの自由には使えないんだよねー。通院費とか食費とか、犬の世話に必要だ、ってその弁護士が認めたものしか、弁護士からもらえないんだー」
「だが用途が限られているとはいえ、その金を使えるってことは、だ。紫帆、お前にもその金の相続権があるってことだよな? 犬のために用意された金なら、犬がいなくなればお前に金が入ってくる」
「だめだめー。そんな簡単な話じゃないんだってー」
 あたしのことを自分の彼女ではなく、金として見始めた海に内心冷や汗を流す。でも、海の考えた方法は実現できない。
「誰かの飼い犬を傷つけたりすると、損害賠償とかになったりするらしいから、割にあわないと思うよー」
 たけから一度聞いたうる覚えの話を、あたしは海に向かって披露する。流石に海も、明らかに訴えられる可能性を犯してまで百万円を取りに行こうとは思わないはずだ。
 しかし、海はスマホを取り出し、何かを調べ始めた。
「損害賠償は、三年以下の懲役、または三十万円以下の罰金もしくは科料、か。俺らは少年法あるし、罰金も百万なら釣りが来る額だな」
「……ちょっと、本気で止めてよね」
 話すあたしの言葉にも、怒気が交じる。海の言葉を、あたしは許すことが出来なかったからだ。
 トートが死んだ場合、海の言う通り、あたしたち六人は百万円というお金を手に入れれるかもしれない。そうなれば、そのお金は六人で山分けすることになるだろう。
 ……でも、海は百万円を手に入れた場合の事を口にした。
 つまり、あたし以外の五人からも金を巻き上げることを考え始めたのだ。五人の弱みを握って、強請ることでも考えたのかもしれない。
 でもそれは、ダメだ。絶対ダメだ。
 だってそんなの、楽しくない。面白くない。気持ちよくないどころか、それはあたしが絶対に避けたい、辛いことや悲しいことだ。
 だからあたしは、それを許せない。
「……変なこと考えてるなら、もうあたし、あんたと別れるから」
「……悪い悪い、冗談だって。紫帆があんまり構ってくれないから、ちょっとからかっただけだよ。な?」
「そうだよ紫帆ちゃん! そんなにキレんなってっ!」
「そうですよ。海くんの冗談に決まってるじゃないですか!」
 ……言っていい冗談と悪い冗談があるんじゃなかったのかよ。
 あたしは何も言わずに踵を返すと、そのまま屋上を後にする。
 鞄を自分の教室に置いたままなので、まずはそれを取りに行く。あたしは自分の教室へ向かっている途中、廊下である人から声をかけられた。
「あれ、紫帆?」
「春華さん」
 二年生の境田 春華(さかいだ はるか)は、よくあたしとつるんでくれる先輩だ。海たちとも交流があるが、犯罪などには一切関わっていない。むしろ、あたしがそれに巻き込まれないように、色々と気を使って声をかけてくれていた。
 春華さんはパーマをかけた髪を揺らしながら、こちらに近づいてくる。
「今日は一人なの? 海たちは?」
「屋上っすー。あたしは、もう帰ろうかとー」
「ああ、例のわんこ君の所ね」
 春華さんはそう言って、少しだけ嬉しそうに笑った。
「紫帆、最近いい顔になったよね?」
「え、そーですか? 自分じゃ普通にしてるつもりなんですけどねー」
「変わったよ。だってあんた、最初に会った時はなんか、こう、今しかないって感じの切迫感というか、刹那主義っぽいところあったからさ」
「……そうっすかねー?」
 内心、自分の考え方を言い当てられて驚いていると、春華さんは更に笑いながら口を開く。
「そうよ。塩畑たちは、色々危ないことやってるみたいだけど、短絡的に考えて紫帆が巻き込まれないようにしなさいよ。ズルズルと周りに流されちゃうと、大切なものが何なのかわからなくなっちゃうから。あんた自身も含めてね」
「は、はぁ」
 生返事を返すあたしをみて、春華さんはばつの悪そうな表情になる。
「あー、私、説教臭かったね。そう言うんじゃなくて、ちゃんと考えて行動しなよって事が言いたかっただけなの。って、それだとやっぱり説教か。こうやってババアになってくのかなぁ、私」
「ババアって、春華さんあたしと一つしか違わないじゃないっすかー」
「その一年の大きさを、紫帆も来年実感する時が来るって。それじゃ、わんこ君のお世話、頑張ってね」
「はい、ありがとうございますー」
 春華さんの言葉を、すぐにあたしは自分の中に消化することが出来なかった。でも、その言葉だけは頭の片隅に入れておこうと、そう思った。
 
「ど、どういうことなんですかっ!」
 庭に入った途端、しおしおの怒号が聞こえてくる。
 トートを見れば、怯えた様子で犬小屋の中からこちらを伺っていた。
 私は自分の鞄を置いて、しおしおの方へと向かっていく。
「え、えーっと、どーしたの?」
「ど、どうしたもこうしたもないです! 『いいね』が、『いいね』が全然つかないんですよっ!」
 必死の形相になったしおしおが、割れんばかりにスマホを握りしめていた。
 しおしおは震える指でスマホのディスプレイを、必死に操作している。
「そ、それどころか、炎上! 炎上してるんです、しおりのアカウント!」
 しおしおのスマホを覗き込むと、そこにはいくつもの誹謗中傷のコメントが並んでいた。
『こんな抱っこの仕方、ありえない!』
『犬が可愛そう!』
『その子はあなたを引き立てる道具じゃないのよ?』
『障害犬を使ってフォロワーを稼ごうだなんて、気が狂ってる』
『そういう可愛そうなのは求めてない』
『余計なことせずに素直に脱いどけばいいんだよ!』
『動物虐待だ!』
『体見せて『いいね』稼いでたんだろ? だったらその路線だけにしとけよ』
「な、何でですか何でですか何なんですか! 皆、『いいね』押してくれてたじゃないですか! フォローしてくれてたじゃないですか! コメントで褒めてくれてたじゃないですか! 私を、しおりを認めてくれてたじゃないですか! 皆が求めてたものを、しおりは提供してたじゃないですか! それが、何でっ!」
 スマホを落とし、しおしおは庭にうずくまる。
 しおしおのスマホを拾い、あたしは彼女のアカウントの投稿履歴を眺めていく。
 トートの世話をあたしたちがし始めた時の投稿は、『いいね』の数もフォロワーの数もどんどん増えていたし、コメントも絶賛の嵐だった。それから一週間、二週間と、同じ様な状況が続いている。
 所が三週間目になって、様子が変わり始めた。
 ……あー、動物愛護のNPOが拡散したのかー。
 しおしおがアップした写真から、トートが変性性脊髄症であることに気づいたのだろう。病気の犬に対しての扱い方や、病気の犬を自分の『いいね』やフォロワー稼ぎに使っていることに対して、批判的なコメントと共にしおしおのアカウントが非難されていた。
 ……一応、しおしおもちゃんと世話してるって言ってるんだけどねー。
 食事の管理や、介護ベルトを使って散歩をしている事等、必要だと思われることは全部している、としおしおは投稿している。だが、それが逆に火に油を注ぐ結果になっていた。今までアップしていた写真が、しおしお自身を強調しているものが多かったため、彼女はトートを引き立て役に使っているとSNS上で断定されていた。
 ……まぁ、あながち間違いじゃないんだけどねー。
 四周間目では、もうしおしおを庇う人すらいなかった。それどころか、彼女を称賛していた人たちも、手のひらを返したようにしおしおをバッシングしていた。
『いいね』とフォロワーの数は一気に減り、それと反比例するようにネガティブなコメントがどんどん増えていく。
「……くぅーん」
 うずくまっているしおしおを心配してか、トートが犬小屋からゆっくりとこちらへやってきた。
 トートがしおしおにすり寄ろうとした所で、彼女はツインテールを揺らしながら、恨みがましい表情でトートを睨む。
「お、お前が、お前さえいなければっ!」
「しおしお、ダメ!」
 あたしの言葉を聞き、しおしおははっとしたようにこちらを振り向いた。自分が今どんな表情を浮かべていたのか理解したのか、わなわなと震え始めた。
「し、しおりは、しおりは、今……」
「大丈夫、大丈夫だよー、しおしお」
 彼女にスマホを返し、あたしはしおしおの頭を撫でる。
「そんな怒ってちゃ、つまんないよーしおしお。つまんないことは止めて、楽しいことしよーよ」
「し、紫帆ちゃん……」
 しおしおは自分のスマホを握りしめると、下唇を噛んだ。
「で、でも、しおりには、しおりにはこれしかないの。ごめん、頭冷やしてくるっ!」
「え、ちょ、しおしおっ!」
 そう言ってしおしおは自分の鞄を手に取ると、庭の外へと出ていった。
 残されたあたしは、トートと互いに顔を見合わせる。
「ひょっとしてあたし、今日はあんたの世話一人でしないといけないのかなー?」
「わんっ!」
 ……やっぱり、来るんじゃなかったかなー。
 でもあたしが来なければ、しおしおはトートに何をしていたのかわからなかった。しおしおも、一人で自分の状況を抱え込むより、あたしに知られた方が良かった部分もあるだろう。
 ……でも、今日はちょっと、色々とめんどくさすぎる日だなー。
「……くぅーん」
 見れば、トートが心配そうな顔であたしの事を見上げている。そこであたしは、今日春華さんに言われた事を思い出した。その場でしゃがみ、あたしはトートの頭を撫でる。
「そんな顔すんなよー、トート。お前は死ぬまで、死ぬその最後の一瞬まで、笑って生きてりゃいいんだからねー。だから、精一杯、死ぬまで一杯笑いなよー」
「わんっ!」
 その時、あたしは初めて、心の底からこの子の世話をするのが楽しいと思った。
 油絵を描くことは、命を作ることに似ているんじゃないか? と、僕は思う。
 絵に命を吹き込むという言葉があるが、油絵を描く場合、使う絵具の調合にも気をつけなければならない。
 ……百年前の絵より、五百年前の絵の方が美しく残っている事もあるからね。
 油絵の絵具をそのまま使うと、いつまで経っても絵具が乾かず、乾いた後も時間が経てばひび割れてしまい、絵がダメになってしまう。そのため絵具は、溶き油と混ぜて利用する必要があった。油の種類も、乾きの早い揮発油、乾いた後固まって艶を出す乾性油と様々で、用途に合わせて使用する。
 ……ここに気をつければ、トートは永遠に残り続ける。
 ネットにトートを残し続けれるとはいえ、その元となる絵を描くのに手を抜くというのは、僕には考えられなかった。そんな、プールに遊びに行くのに水着を持っていかないような中途半端さで僕は絵を描きたくないし、描くことが出来ない。
 僕が残す生きた証を、そんな形で残せない。
 僕は下塗りが終わったキャンバスに、ナイフで色を塗り重ねていく。ペイントパレットに出した絵具を練って、ナイフですくってパンにジャムを塗るようにキャンバスに塗るのだ。ナイフは筆よりも絵具の厚みを持たせられるので、色を大きく塗りたい時は僕はナイフを使うようにしている。
 キャンバスの中では、足を地面に引きずっているあの時のトートの輪郭がほぼほぼ出来上がっていた。もう少し描き込んだ後、立体感を出すように明暗を入れ、細部の描き込みをしていけば、先生が残してくれた僕の残すべきトートが完成する。
「……くぁぅ」
 キャンバス越しに見れば、現実のトートはあくびをして犬小屋の近くで横になっていた。絵を描き始めたときよりはリラックスしているようだが、臭いにはまだ慣れていないらしく、僕のそばに来る気配すらない。
 僕がナイフから筆に持ち替えようとした時、扉が開いて剛士が入ってくる。僕は剛士の姿を見て、自分の手を止めた。
「どうしたの? 随分汚れてるけど」
「……朱冨の奴らと、ちょっとな」
「また喧嘩かい?」
「……したくてしているわけじゃない」
 呆れながら筆を取る僕の視界の端で、剛士は憮然としながら鞄を地面に下ろした。その後彼はジャージについたホコリを払うと、物置の方へ向かう。
「……それに、今回は俺が絡まれたんじゃない。先輩が朱冨の奴らに絡まれてたんだ」
「へぇ。じゃあ剛士、その先輩を助けたんだ」
 剛士の言葉に、僕は素直に驚いた。
 剛士のスタンスは、基本的に受動的だ。多数決でも常に保留で、剛士自身が煩わしいと感じたり、不利益があるような場合じゃないと行動しない。例外があるとすれば、それは僕ら五人が関係することだけだった。
 僕は薄く笑って筆を動かしながら、物置の中でフードボールを探す剛士を一瞥する。
「剛士は、そういう人を作らないと思ってたよ」
「……馬鹿言え。そういうもんじゃねぇよ」
 ドッグフードを手にした剛士が、フードボールにそれを注いでいく。
「……先に先輩が俺に絡んできて、その先輩が絡まれたんだよ」
 忌々しげにそう言って、剛士は犬小屋まで歩き、餌をトートの元へと運ぶ。それを耳をひくひくさせ、瞳を輝かせていたトートが待ってましたと言うように声を上げた。
「わん! わんっ!」
「……お前は変わらず元気だな」
 剛士にわしゃわしゃと撫でられながら、トートはがつがつと餌を食べていく。
「じゃあ、剛士はその先輩に巻き込まれただけってことなの?」
「……まぁ、そういうことだな。先輩に絡みに来た朱冨に、絡まれたんだ。喧嘩を売られたから、買った。それだけだ」
 餌を食べるトートを見ながら、剛士は思い出したようにつぶやいた。
「……そう言えば、犬がどうとか、団地がどうとか言ってた朱冨のドレッドヘアーと刈り上げは、まぁまぁ強かったな」
「へぇ、そんな二人がいたんだね」
 枕詞はさておき、剛士が強かったと評するのであれば、その相手は一般的にはかなり喧嘩は強い部類に入る。剛士が強すぎるので彼には他の人がそこまで強く思えないかもしれないが、僕からするとその二人とはできれば一生縁がない事を祈りたい相手だ。
「それで朱冨の人たちと喧嘩になったんだ。それで、剛士の先輩はどうなったの?」
「……朱冨をボコった後にボコった」
「何だよ、それ」
「……売られた喧嘩を買った結果だ」
 笑う僕を横目に、剛士はトートの喉を撫でる。トートはフードボールから顔を上げて、剛士の手に顔を擦り付けた。
「くぅーん」
 剛士が小さく笑ったタイミングで、彼のスマホが鳴った。
 剛士はスマホの画面を見ると、すぐに立ち上がる。
「……すまん。ちょっと外す」
「どうしたの?」
「……バイトの面接に行った店からだ」
「そ。言ってらっしゃい」
「わんっ!」
 僕の言葉を聞き終える前に、剛士は扉を開けて敷地の外へと出ていった。
 僕は改めてキャンバスに向き合うと、こちらを見つめるトートと目があう。嬉しそうに笑った口から桃色の舌が伸びて、何か気になることがあるのか少しだけ首を傾げていた。
 ……餌は、もういいのかな?
 トートの前に置かれたフードボールの中には、まだドッグフードが三分の一ほど残っている。いつもなら撫でられるのも気にせずに食べ続けているのに、今日はいつもの勢いがない。
 ……まぁ、僕が絵を描くのに支障がないからいいけどね。
 僕が生きた証を残すことの邪魔にさえならなければ、他のことは正直どうでもいい。それは剛士が誰と喧嘩しているとか、そういう話もそうだ。口を動かしながら絵が描ける状態だったので世間話に付き合う程度に話していただけで、もし剛士が新しい原付を買ったという話しをしていたのならば、絵を描くのに邪魔にならない範囲で僕はそれにあわせて喋っていただろう。
 今の僕にとって、先生の残してくれたトートの絵を描くこと以外、興味がない。
 筆を操り、キャンバスにまた色を重ねていく。筆を動かしていく度、絵の中のトートは精緻に描いたスケッチブックの形に近づいていき、どんどんとまだ膝しか引きずっていなかった時の姿になっていく。
 筆が乗ってきた所で、何かが地面に落ちた音がした。音がしたほうをキャンバス越しに見ると、被写体だったもの(トート)が横たわっている。僕は絵を描くのに支障がないと判断し、そのまま絵を描き続けた。
 それから少し経って、剛士が戻ってくる。僕は視線をキャンバスから動かすことなく、口だけ開いた。
「どうだった? バイトの面接」
「……落ちた」
 少しだけ落胆したような剛士の声が、次の瞬間には切羽詰まったものに変わる。
「……おい、寿史。トート、吐いてるんじゃないか?」
「え?」
 言われてみれば、地面に横になったトートの口から吐瀉物のようなものが見える。それに息が出来ないのか、トートは僅かに痙攣していた。でも、それは絵を描くことに関係のない事だ。
 しかし剛士はすぐにトートを抱き上げると、水栓柱のそばまでより、トートの口の中から吐瀉物を水で洗いながら取り除く。その後トートの体を横にすると、剛士は心臓マッサージを始めた。
 剛士が何度かトートの胸を押した後、咳をするようにトートが息を吹き返す。
 僕は絵を描き進めながら、感心したように剛士に向かって口を開いた。
「随分手慣れてるんだね」
「……工事現場のバイトで、救命研修受けたんだよ。犬でも人でも、呼吸止まってたら同じだろ? やること」
「そういうものかなぁ」
「……寿史。小嶋に連絡しろ」
「え? 弁護士の小嶋さん?」
「……俺は今からトートを連れて、動物病院に向かう」
「前に、トートの怪我を診てもらったとこ?」
「……ああ。お前は小嶋に通院費と、お前のタクシー代も請求しとけ」
「え、僕も行くの!」
「……小嶋に連絡した時点で、まともにトートの世話ができない状態なのは知られるだろ。トートの世話をしないやつを小嶋はここに立ち入らせないし、絵も描かせないんじゃないか? それに何もしないのは、明らかに多数決の結果と違う行動だろ」
 そう言って剛士は僕の返事も聞かず、庭を飛び出していった。
 僕はすぐに動かず、剛士の言葉を反芻する。
 ……トートの絵は、もうここに来なくても描ける。それでも僕がここで絵を描いているのは、皆で決めた多数決の結果があるからだ。
 多数決は、先生が僕たちに残してくれた意思決定の大切なシステムだ。先生が残してくれたものは、トートと同じように僕にとって特別なものでもある。
 ここに来て僕が絵を描いていれば、トートはだいぶ大人しくなる。ここで絵を描くことで、トートを大人しくする世話をしているのだから、僕が絵を描くことと、トートの世話をすることは、僕の中で何ら矛盾した行動になっていない。だから絵を描くのを邪魔されたくなかったのだ。
 ……でも、ここで絵を描いてたらトートの世話が出来なくなるのは確かだね。
 多数決の結果を無視するのは、僕の望むところではない。
 キャンバスやイーゼルを物置に片付けた後、僕はスマホで小嶋さんに連絡をし始める。
 
 タクシーを降りて病院の自動ドアをくぐると、ロビーには剛士の姿があった。
 今の時間帯は他の来院はないのか椅子に座っているのは剛士だけで、受付にも看護師さんの姿は見えない。ロビーの一番奥の蛍光灯が、瞬きするみたいに点滅を繰り返している。
「……トートは、命に別条はないみたいだ」
「そっか」
 そう言った僕を、椅子に座った剛士が睨む。
「……それだけか?」
「何がだい?」
「……言うことは、それだけかって聞いてんだよ」
 剛士にそう言って凄まれるが、僕は本気で剛士が何を言っているのかわからない。
 だって僕は、多数決で決めたようにトートを残そうとしているし、多数決で決めたようにトートの世話も行っている。
「僕は、やるべきことをちゃんとやっているよ」
「……ふざけんな!」
 剛士が立ち上がり、僕の胸元をつかむ。剛士のぎらつく瞳が、僕の眼前に突きつけられた。
「……何でトートを見てなかったんだ」
「見てたよ。だから絵にちゃんと描けてる」
「……絵の中のトートの話をしてるんじゃない!」
「それ以外に、何が必要なんだよ!」
 喉元を握る剛士の手を、僕は強く握りしめる。
「僕がどうやって『死』と向き合っているのか、知ってるだろ?」
「……知ってるよ」
「なら、皆で多数決で決めた結果なのに口を出すなよ!」
「……あの絵じゃなきゃ、ダメなのか?」
「え?」
「……あの絵じゃないと、お前の残したいものは残せないのか?」
「ば、馬鹿な事を言うなよ……」
 そう言いながらも、僕の剛士の手を握る力が弱まっていく。
 それでも僕は気を取り直すように、口を開いた。
「あの絵は、トートなんだよ? 先生が残してくれた、先生を残すための、先生が残してくれた時のトートなんだよ? だから僕は、僕が残していかないといけないんだ! だからその絵を描かないで――」
「……わかってんだろ? 俺が何を言ってるのか」
 剛士の言葉に、僕は口をつぐむ。そんな僕に畳み掛けるように、剛士は僕を握る手に力を込めた。
「……今描いてる絵に、お前が固執しないといけない理由はねぇだろ? あの絵をもう一度描き直したって、お前の残したいものは残せるんじゃないのか? 今あの絵を描かなくたって、お前が残したいものは永遠に出来るんじゃねぇのかよ?」
「そ、それは……」
 どうにかそう口にできたが、僕は剛士の言葉に明確な答えを出せないでいた。そんな僕を、剛士が嘲るように笑う。
「……どっちでもいいんだよ、俺は。今描いてる絵だろうが、これからお前が描く絵だろうが、どっちになろうとも対して大差ない。でもな、寿史。俺が怒ってるのは、あの時俺たちが互いに見つけた『死』の向き合い方に、折り合いの付け方に中途半端な態度で接してるお前が許せねぇんだよっ!」
 胸元が締まり、呼吸しづらくなる。それでも剛士は、僕を放そうとしない。
「……お前のやろうとしてることは、写真を撮るのと変わらねぇ。写真みたいにその時の一瞬を切り取るためにシャッターを切るみたいに、お前は絵を描こうとしてんだよ」
「ち、違う。僕は……」
「……違わねぇ。絵は、絵だから何度もやり直せるんだろうが? 描き直せるんだろうが? 写真みたいに、その一瞬を逃したってお前の記憶の中にあれば、いつだって残せる。お前がいたら残せるんだ。だからお前は、そのやり方で『死』と向き合ったんじゃねぇのかよっ!」
 剛士に突き飛ばされ、僕はロビーの廊下に強かに尻餅をつく。見上げると、僕を見下ろす剛士の顔があった。蛍光灯が瞬き影ができて、彼の表情が読みづらい。
 それでも剛士の口元ははっきりと見えて、彼は口を歪めていた。
「……わかんなくなっちまったんなら、壊してやろうか? 俺が今、お前の描いている絵を」
「ふざけるなっ!」
 激情にかられ、僕は膝をついて立ち上がる。
 そして、剛士を射殺すように見つめた。
「そんな事、させない! もしそんな事をしたら、僕は絶対剛士を許さないからなっ!」
「……だったら今、何でてめぇがそんなに怒ってんのか、もう一度よく考えろっ!」
 僕の視線を、剛士は真正面から受け止める。その上で剛士は、物分りの悪い生徒へ丁寧に説明する教師のような口調で、僕に向かって話しかけてきた。
「……寿史。お前、自分の絵が壊されることだけに怒ってんのか? あの絵に込めた、先生とトートへの想いが壊されるから怒ってんのか?」
「ぼ、僕は……」
「……お前が絵で残そうとしてるもんはな、トートは今生きてんだよ。確かに美しい理想も辛い現実も、『死』も『生』も地続きだ。でもな? 今生きてるやつは、生かし続けようと思えば、まだ今に残し続けれるんだぞ」
「でも、トートだっていつかは死ぬ」
「……だったら何でお前は、俺がトートの救命活動をしている時、俺の方を見ていたんだ?」
「……」
「……あの日『死』に晒されたよしみで、もう一度言ってやる。お前は、何で怒った? お前は何を残したい? 残そうとしているもの(トート)は、まだ続けられるんだ(生きていられるんだ)。辛い現実だって、絵の中では美しい理想も描けるんじゃないのか?」
 そう言われた僕は、何も言えずに佇むことしか出来なかった。
 ……ぼ、僕は、僕が絵を描いている理由は、永遠の『生』を求めている理由は、生きた証を残したいと思った理由は――
 切れかけの蛍光灯が、僕をちかちかと照らしている。学芸会で失敗した子供を労う拍手のようなタイミングで瞬くその光を受けて、僕は内側から湧き上がってくる羞恥心で自分の唇を血が出るまで噛み締めた。
 もう消えてしまいたいって思ったことはないか?
 俺はある。
 今も、そう思っている。
 校舎の四階。美術室がある棟とは反対の棟。その一年生の教室が並ぶその階の空き教室で、俺は授業をサボっていた。
 もちろん、学校側も空き教室は鍵を閉めている。でも、鍵がかかっている窓ごと抜いてしまえば、それは全くの無意味。木でできた窓枠を斜めにして何度も動かせば、こういう窓は以外に簡単に開くものだ。
 後は教室に入り、今度は窓を抜くのとは逆の方向に動かせば、窓は俺が忍び込む前の状態になる。
 ……まぁ、こんなこと知ってたって、結局無意味なんだけどな。
 檸檬月高等学校に入学してから、俺は度々こうやって授業をサボっていた。
 今回俺が選んだ教室は、物置程度にしか使われていない場所だった。中は若干ホコリっぽい。土っぽさも感じるのは、体育祭の時に使うであろうリレーのバトンや縄跳び、たすきなどが置かれているからだろう。
 他にも理科準備室からあぶれたであろうよくわからない生物の模型や、社会準備室に入り切らなかったに違いない甲冑の上半身だけが置いてあったりもした。
 俺は誰もいない教室の中、外から見つからないように窓側の壁に背を預け、イヤホンを耳につけてスマホの音楽プレイヤーを起動する。自分のスマホでランダム再生をしている曲を聞きながら、今この曲を聞いている俺に意味なんてないんだと、そう思った。
 ……本当に、何やってんだろうな、俺。
 この世界に意味はない。何故なら最後は皆死ぬからだ。だから日々の積み重ねなんて意味がないと、こうしてサボってみても得られるのはどうしようもない虚無感だけだ。
 ……本当に、生まれてこなければよかったのに。
 どうせ全て無くなるなら、この虚無感を今すぐにでも消して欲しかった。『死』が待っているなら、どうあがいても逃れられないのなら、もういっそ消えてしまいたい。消えて、無くなってしまいたい。
 音楽プレイヤーからどれだけポジティブな歌詞が流れてきても、その歌は俺以外の誰かのために歌われているものだとしか思えなかった。
 そうやって斜に構えていれば、当然自分のクラスでの居場所も無くなっていく。別に進んで誰かとつるむつもりもないが、スクールカーストのはみ出し物になっても、やっぱり得られるものは虚無感だけしかない。
 そう思うと、この教室に置かれている備品たちの無秩序感が俺そのものの様に感じてくる。明確な行き場がなくて、とりあえずここに詰め込まれている感じに共感を覚えてしまい、俺は思わず皮肉げに笑った。
 虚無感を感じる度、右手がじんわりと痛む。もう完治していると医者には言われているが、この幻痛がある限り俺は全ては無意味だという現実を突きつけられた気がした。お店で見つけた欲しいおもちゃを買うために必死にお小遣いをためたのに、いざ必要な金額が貯まって買いに行った時にはもうそのおもちゃは売り切れていたような、そんなどうしようもなさ。金はあるのだから別のおもちゃを買う選択肢だってあるのに、どれを選んでもきっと満たされない。
 コンクリートの壁に、俺は頭を押し付ける。冷たさと硬さが返ってきて、俺はその冷たさと硬さだけの存在になりたくなった。
 
 ホームルームの内容を聞き流して、俺はいつもよりも早く校舎を後にする。今日はトートの世話をする日で、寿史と約束がなければいつもならダラダラと向かうのだが、今日は早く学校を離れたい気分だった。
 放課後を迎えた校舎からは、帰宅や部活に向かう生徒たちが溢れている。俺はその波の間を抜け、やかましく鳴く蝉の声に揺られながら、校門を目指していた。
 すると、俺の足に何かが当たる。視線を足元に向けて、俺は硬直した。
 俺に当たったのは、テニスボールだった。
 足にあたったものだけでなく、何個かボールが俺の方に転がってくる。
「すみません! それ、拾ってもらえますか?」
 声のした方を見ると、練習着を着たテニス部だと思われる連中がテニスボールが詰まったかごを運んでいる所だった。
 俺の右腕が、痛む。
 その痛みを誤魔化すように、俺は転がってきたテニスボールを無言で拾ってテニス部の方へ投げてやる。転がってきた全てのボールを投げ終える前に、テニス部の一人が俺の顔を見て首を捻った。
「あれ? 君、全中のシングルスで出てた――」
「悪い。俺、用事あるから」
「あ、ちょっと!」
 そう言って俺は、その場から逃げるように立ち去る。
 痛い。右腕が。右腕が、痛い。二年前、交通事故で傷を負った、いわゆるテニス肘と呼ばれる場所が、ズキズキと痛んだ。
 ……そうだった。運動部の奴らと会わないようにするために、時間をずらしていつも帰ってたのに。
 うかつな自分に対する怒りと痛みがごちゃまぜになり、俺の心はかき乱される。
 そのまま走るように駅まで向かうと、改札で鞄の中から左手でICカードを取り出すのに手間取りながら、俺は電車に乗り込んだ。乗った電車は家とは反対方向で、トートが住む家の方角に向かう電車だ。
 俺の乗った車両には、俺以外にもまばらにサラリーマンや大学生らしい人の姿があった。
 俺は空いている座席を見つけると、倒れ込むようにどっ、腰を下ろす。そこで、俺は右手にあるものを握っていることに気がついた。
 テニスボールだ。
 昔の話をされそうになって慌ててしまい、そのまま持ってきてしまったのだ。
 ……最悪だ。
 俺はそれを、握りつぶすように右手に力を込める。懐かしいボールの感触と肘の痛みで、もうどうしたらいいのかわからなくなった。
 テニスを始めたのは、親の頼みだった。『死』で変わってしまった俺に、何かしら集中して取り組めるようなものを作ってほしかったのだろう。そういうものがあれば、彼らとして安心出来たのだ。何をやっても無意味だという考えに変わりはないが、体を動かすのは小学校三年生の時から嫌いじゃなかった。
 だから俺はテニスをやることを受け入れて、それは全て間違いだった。
 ……何かを積み重ねたって、意味が無いて俺は、知っていたはずなのに。
 告白しよう。テニスをするのは、楽しかった。ボールに追いつき、次はどうやって相手のコートを責めるのか考えるのが、好きだった。イメージ通りのサーブが打てた時は心が踊ったし、渾身のスマッシュが決まった時は喉が裂けそうなほど歓喜の声を上げた。
 ……だから俺は、間違えたんだ。
 皆で、決めたはずなのに。『死』に対する向き合い方を、折り合いの付け方を各々決めたはずなのに、俺は自分で決めた方法を破ったのだ。多数決をして一人一人決めた事を、守れなかった。
 ……告白というより、これは懺悔に近いな。
 がむしゃらに練習した。
 全力で走り続けた。
 テニスボールを追って、俺はより先を追い求め。
 そして最終的には、事故で積み重ねてきたものが無意味になった。
 ……やっぱり、この世界に意味なんてねぇよ。
 電車の窓から、風景がどんどん流れすぎていく。今視界から消え去ってしまったものは、実はこの世界から消え去ってもわからないのではないか? と思った。だって見えなくなったものの存在を把握する方法を、俺は持っていないのだ。だからもしそうなっていたとしても、俺はなくなったことに気づけない。
 ……そんなわけ、ないのにな。
 馬鹿な事を考えていると、電車が目的の駅に到着する。
 俺は乱暴にテニスボールを鞄に仕舞うと、それを担いで列車を降りた。俺が今やって来た方向へ視線を向ける。やはり、窓から消え去った風景はその場に残っていた。
 ……でも、どれだけ頑張ってトートの世話をしたって、あいつは死んじまうんだぞ。
 そう思いながら、俺は駅の改札へと足を向ける。一歩一歩歩く度、消え去ってしまいたいという気持ちが強くなっていった。
 
「あ、義法」
「静花か……」
 トートが待つ庭へ続く扉の鍵を開けようとした所で、今日ペアとなる静花から声をかけられる。
 鍵を開けて静花と一緒に扉をくぐると、トートが元気よくこちらに向かって駆けてきた。
「わん! わんっ!」
「おまたせ、トート」
「わんっ!」
 嬉しそうに笑う静花に撫でられ、トートがその嬉しさに応えるように吠える。そのトートの体には、あるものが付いていた。車輪だ。
 体を固定し、後ろ足が地面に引きずらないように調整された、犬用の車椅子らしい。これなら下半身の麻痺が進行しているトートでも、補助輪があるので前足を使って移動することが出来る。
 最近では庭を歩き回ることも少なくなっていたトートも、二輪の車椅子をつけてからは以前のように歩くようになり、心なしか元気になったように見えた。車椅子の費用は小嶋の承認が降りて、先生が残してくれたお金で賄われている。
 ……これをトートにつけることを言い出したのが、よりにもよってお前かよ。
 車椅子の発案者の静花ははしゃいだような笑顔を浮かべて、トートと戯れている。その様子を見ていたら、静花が最初トートを極端に恐れていた時のことが、幻だったのではないか? と思えてくる。
「ほーらトート。そろそろご飯にしようねー」
「わんっ!」
「……どうしたんだよ、お前」
「ん? 何が? 義法」
「お前、トートのこと怖かったんじゃねーのかよ……」
 何故そんな事を言ってしまったのか、自分でもよくわからない。ただ俺は、変わっていく静花を見て、どうしようもない焦燥感に駆られていた。
「静花は、『死』が怖かったんだろ?」
「うん、今でも怖いよ」
「だったら!」
「でも、放っておいたら『死』がどんどん近づいてくるなら、それを遠ざけるように頑張ろう、って思ったの。トートが傷ついているのを見て、本当に強くそう思った」
 その話は、俺も知っている。寿史が全てを静花に押し付けた時の事だ。
 でも、だったらなおのことわからない。
「静花は、『死』を恐れることで折り合いをつけたんだろ? なのに、そこに向かっていくなんて変だろ」
「変じゃないよ。誰も私から『死』を遠ざけてくれないなら、私が自分でするしかないって、ただそれだけ。後ろ向きなんだよ、結局私も」
「くぅーん」
 そんな事はないとでも言うように、トートが静花にすり寄った。そのトートを撫でる静花を見て、俺はだんだんど苛立ちを隠せなくなってくる。
「そんな、そんなに都合よく考え方変えていいのかよ! 俺たちの『死』との向き合い方を、折り合いの付け方をっ!」
「ちょ、ちょっと! 急に大きな声出さないでよ。トートが驚くでしょ?」
「わんっ!」
 ああ、もう本当に消えてしまいたい。何をやっているんだ、俺は? 静花を怒鳴るつもりも、トートを怯えさせるつもりもなかったのに。
 顔を歪め、一歩下がる俺に向かって、静花がトートを優しく撫でながら口を開いた。
「……大丈夫だよ。なんとなく、わかってるから。テニスのことでしょ?」
 違う!
 そう言いたかったのに、俺の口は何故かその言葉を吐き出さない。
 黙り込む俺に向かって、静花はゆっくりと言葉を重ねる。
「私ね。本当の意味で『死』と最初に折り合いをつけれて、向き合うのは、義法だと思ってたんだよ」
「な、何を言ってるんだ? 静花。俺は、俺たちは多数決で――」
「違うの、違うよ義法。義法は事故にあわなければ、きっとテニスを続けてた。私を含めた他の五人も、きっと義法にとってのテニスを見つけることになるんだよ」
「静花……」
「私、なんとなくわかってきた。先生が、先生が私たちにトートを託してくれた意味が」
「わん! わんっ!」
 そのタイミングで、何故かトートが俺の方に向かって走り出した。何事かと一歩下がると、いつの間にか俺の鞄からテニスボールが零れ落ちている。
 トートはテニスボールを加えると嬉しそうに俺の周りを一周回って、ボールを俺へ差し出した。
 ……意味が、わからない。
「遊んで欲しいんだよ、きっと」
 静花が毒気を抜かれたような表情で、そうつぶやいた。
 俺は、更に混乱する。
「は? 何で俺が――」
「わん! わんっ!」
 トートは俺の足元にテニスボールを置くと、てくてくと距離を取り始める。そしてその後、今か今かと瞳を輝かせて、俺の方へ振り向いた。
「投げてあげたら?」
「わんっ!」
「え、でも――」
「私、トートのご飯の準備してくるから」
 そう言い残し、静花は物置の方へ向かってしまった。
 釈然としないままではあるが、俺は鞄を下ろしてテニスボールを拾い上げると、下投げでトートの頭を越すように放り投げる。
「わん! わんっ!」
 俺の投げたボールを追って、トートが楽しそうに走り出した。からからと車輪が回り、やがてトートはボールへとたどり着く。そしてそれを加えた後は、一目散に俺の方へ戻ってきた。
「わん! わんっ!」
「……まだやるのか」
「わんっ!」
 足元に置かれたテニスボールを握り、俺は再度トートに向かって投げた。ゆるい放物線を描いたそれは、庭に二度、三度と叩きつけられる。しかし、四度目の地面との接触の前に、トートがそれを口で捉えた。
 嬉しそうな顔をしたトートが、また俺の方へ戻ってくる。それを見て俺は、どうしようもない嫌悪感を覚えた。
 トートに対して、ではない。
 俺自身に対して、だ。
 トートは、懸命にボールを追うことを選んだ。下半身が動かないながらも車椅子を動かして、嬉しそうに庭を駆け回っている。
 ……それに比べて、俺はどうだ?
 右腕が、ズキズキと痛む。
 傷は、完治しているはずなのだ。一度怪我をしてブランクが出来ているとは言え、テニスを続けることは可能だった。
 でも、俺はやらなかった。諦めた。足掻かなかった。何故なら死んだら全部、無くなるからだ。無意味だからだ。無価値だからだ。
 最後に死ぬのなら、この世界に意味はない。
 しかし、本当に無意味で無価値なのは、俺だ。
 何を頑張っても最終的になくなり、結果は無意味だと定めたのは、俺自身だから。
 自分で決めた『死』への向き合い方を使って、俺は何もしないことを肯定し続けようとしていたのだ。
 別に、何もしないという選択を否定するつもりはない。納得しているのであれば、すればいい。
 でも俺は、トートと自分を比べて嫌悪感を抱いた。俺より先に変わっていく静花を見て、焦燥感を得た。
 ……全然、納得なんてしてねぇじゃねぇか。
 積み上げたもの全てが無価値なら、積み上げようとした行動も、積み上げないという行動も、等しく無価値なのだ。どちらを選んでも、無意味なのだ。
 だったら、自分の納得する方を選択すべきなのだ。欲しいおもちゃがお店にあるうちに買って後悔するか、買わなくて後悔するかの違い。金はもう持っている(傷はもう治っている)。
 そして俺は、買わない方(続けないこと)を選んでいた。
 ……それなのに、消えてしまいたいだと? 自分で選んだくせに、自分の選択にグチグチ言ってんのか、俺は!
 自分の矮小さに気づき、俺の口から引きつるような声が出る。気持ち悪い。
 偉そうに寿史に説教しようとしていた自分が気持ち悪い。
 全てを諦めた風に見せかけて授業をサボっていた自分が気持ち悪い。
 今日テニス部のやつらから逃げ出した自分が気持ち悪い。
 自分の存在、全てが本当に気持ち悪い。
「……くぅーん、くぅーん」
 テニスボールを手に持ち固まった俺に、トートがからだを擦り付けてくる。
 その優しい暖かさを感じ、より惨めになった俺は、トートから距離を取ろうとする。
「やめろ……」
「くぅーん、くぅーん」
 しかし、どれだけ下がっても、トートは俺のそばから離れない。
「無理よ。その子、頑固だから」
 顔を上げると、ドッグフードが入ったフードボールを持つ静花が、こちらに向かってくる。
 静花の手にした餌に気づいたトートは一瞬顔を俺から静花へ向けるが、すぐにこちらの方を振り向き、俺の顔をじっと見つめ始めた。
「義法も一緒に、ドッグフードに近づいて欲しいのよ」
「わんっ!」
「……お前、よくわかるな」
「簡単よ。その子、素直だもん」
「わんっ!」
「義法を放って置けないけど、ご飯も食べたいのよね?」
「わんっ!」
「そんないいとこ取りなんて、やっていいのかよ……」
「いいのよ。きっと」
「わん! わんっ!」
 俺は観念したように、静花の方へ歩みを進める。トートも同じ速度で、俺の隣に付いてきた。
 静花が俺の足元にフードボールを置くと、トートは嬉しそうにそこへ顔を突っ込ませる。そしてたまにこちらを仰ぎ見ながら、ボリボリと餌を貪っていった。
 そのトートの頭を撫でながら、静花が口を開く。
「多分、多分ね? 私たち、固執しすぎてるんじゃないかな?」
「……何に?」
「一度決めたことに。一度決めた内容じゃなくて、その形を、体裁を取り繕うことばっかり気にしてるんじゃないかと思う」
 静花の声に答えることをせず、俺は腰を屈めてトートとの距離を近くした。
「……静花。トート、撫でていい?」
「どうぞ」
 静花と入れ替わりに、俺はトートの頭を撫でる。するとふわふわした毛並みの感触がして、トートの暖かさをより近くに感じることが出来た。
 自分の頭を撫でる俺を、トートがフードボールから顔を出して振り向く。
 ドッグフードのかけらを口の周りにつけながら、トートは嬉しそうに笑った顔で、気持ちよさそうに目を細めていた。
 放課後、鼻歌交じりにあたしは校舎を歩いていた。楽しいことや面白いことがあった翌日は、とても気分がいい。あたしの気持ちを表すように、ポニーテールが軽快に揺れる。
 ……昨日のトートも、可愛かったなー。
 静花の案で車椅子をつけたのは、大正解だったと思う。出会った時のドッグフードに目がなくて、散歩も駆け回るトートが戻ってきたみたいだ。一日中わしゃわしゃしていても飽きない。
 ……そう言えば最近、康治と千春がトートのことやたらと聞いてくるんだよねー。
 どこで世話してるのだとか、他に誰と世話してるのだとか、何かに付けてトートの話をしようとしてくる。他にも天燈工に知り合いがいるか聞かれたけど、面倒くさそうな話になりそうなので誤魔化しておいた。
 ……海にはトートの事、一応釘刺しといたけど、今日ぐらいもう一度言っておいたほうがいいかなー。
 そう決めると、私の足は自然と屋上へと向かう。最近、海たちが集まる場所は屋上になっていた。
 ……まーた海がトートに嫉妬したら、今日はちょーっとぐらいならエロいことも許してやるかー。あたし、今日はトートのお世話係じゃないしねー。
 軽快な足取りで階段を登り、最上階へ。屋上へと続く扉のドアノブを握り、捻った所で鍵がかかっている事に気がついた。
 ……あれ? まーだ誰も着てないのー?
 いつもなら誰かしら屋上でだべっていたり、タバコをふかしていたりするはずだ。
 若干の違和感を覚えつつも、いないのであれば仕方がないと、あたしは登ってきた階段を降り始めた。
 ……直接、海の教室覗いて見ようかなー?
 それとも、康治か千春を捕まえて海の居場所を聞いたほうが早いだろうか? そう悩んでいると、後ろから声をかけられる。
「あれ? 紫帆?」
「あ、春華さん。お疲れ様っすー」
 あたしを見て不思議そうな顔をする春華さんに対して、逆にあたしの方が不思議そうな顔になる。
「どーしたんですか? 春華さん。あたし、なんか変なことしてますかー?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。紫帆、あんた塩畑たちと一緒に行かなかったの?」
「え……?」
 春華さんの言葉に、一瞬あたしの時間が凍りつく。何も言わないあたしに向かって、春華さんは小首を傾げた。
「さっき塩畑たち、学校出てったわよ?」
「……康治も千春も、一緒にですかー?」
「ええ、そうよ。あんた、何か塩畑から聞いてないの?」
「全く聞いていないっすねー」
 嫌な、予感がする。
 放置していたら絶望的な状況になる予感はありありとするのに、それが何なのかわからない焦りであたしの額に若干汗が滲んだ。
 あたしは春華さんに問いかける。
「海たち、出かける時何か言ってませんでしたかー? 行き先とか、そーゆーの」
「ああ、そうそう、変なこと言ってたわよ。公園の遊具なら、事故? にできるとかなんとか」
「……あははははははっ。よくわかんないっすね、それ。じゃ、あたし海たち探してきますね」
「え、紫帆? ちょっと、紫帆っ!」
 春華さんの言葉に答えることもせず、あたしは自分の教室まで駆け出した。
 トートだ! トートだ! トートだ! トートだ!
 あの野郎(海)は、事故死に見せかけてトートを殺す気だっ!
 確かに事故死として処理されるなら、器物破損罪にはならないだろう。そしてその後、あたしたちから先生が残してくれた金を巻き上げようとしているのだ。
 ……最近トートの事をやたらと聞いてくると思ったら、そういうことかよクソったれっ!
 海たちにメッセージを送るが、既読が付くのをあたしは期待してはいない。
 自分の教室に飛び込んで鞄を担ぐと、あたしはすぐに下駄箱まで走る。その最中、あたしは他の五人に向けてトークルームにメッセージを送った。
『皆、今すぐトートに会いに行って!』
『は? 何いってんだ紫帆』
 すぐによっしーから返信がくるが、走りながらでは上手くスマホを操作出来ない。
 だから短く簡潔に伝えたいことを書くと、こうなった。
『トート殺される』
『え? 紫帆、どういうことなの?』
 静花のメッセージを横目に下駄箱で靴に履き替えて、あたしは校門をくぐり、駅まで向かう。真夏の太陽が眩しくて、海にトートの事を話したうかつなあたしを責めている様に感じられた。
 トークルームを見ると、あたしのメッセージを、たけが『確かな情報なのか?』と怪訝に思い、しおしおは『別に今じゃなくてもよくない? 今日当番じゃないんだけど』と否定的な意見を出し、『トートだけが襲われるってこと? 物置にある僕の絵が無事なら、そんなに急ぐことじゃないんじゃない?』とひさは自分の絵のことしか気にしない。
 あたしは駅の改札をくぐり、汗だくになりながら階段を登る。
 駅のホームにたどり着くと、あたしはトークルームへこうメッセージを投げ込んだ。
 
『今すぐ殺されそうなトートの元に皆で集まるかどうか、多数決しない?』
 
 あたしたちの間で、この提案に異論が出るはずもない。
 ……でも正直、分が悪いかなぁー。
 賛成票は、あたしの一票が確実に入る。たけはまた保留だろう。そうなると後二人、賛成票に投じて貰う必要がある。
 ……しずーは、多分賛成だよねー。
 車椅子を提案した件等、最近のトートへの接し方を見ればしずーがトートを可愛がっているのはわかる。
 では後一人、賛成票に投じてくれそうな人は誰なのか?
 ……しおしおは、多分反対かなー。
 先程の否定的なメッセージといい、しおしおのトートの世話をするモチベーションは格段に落ちている。SNSが炎上して以来、トートの写真は撮っているが投稿は控えているみたいだ。載せない写真を撮るために、今から進んでトートの元へ駆けつけようとは思っていないだろう。
 ……ひさは、どうかな?
 ひさは、自分の描いた絵にしか関心がなかった。ひさに賛成させるには彼の絵が危ないと伝えるだけでいい。でもそれが嘘だと判明した場合、あるいは絵が無事だとわかった場合、あまりよくない事態になる。
 ……多分、海たちは先にトートの元に到着するよねー。
 やつらの狙いは、トートを公園の遊具で事故死に見せかけることだ。そのためトートをさらって、どこかの公園まで運ぶ必要がある。
 いや、そう考えるのは軽率かもしれない。トートが生きていれば、吠えるし、下半身が麻痺しているとは言え抵抗するはずだ。先に殺して、その後公園へ移動して偽装工作をするのかもしれない。
 いずれにせよ、あたしたちはトートがどこにさらわれたのか探す必要があるのだ。
 ……だからもしあたしが今ひさを誘導して賛成票を入れさせても、ひさの絵が無事だったら場合、その場でトートの捜索をするか否かの投票をされたら、ひさは多分、反対票を入れるよねー。
 そうなると多数決が行われること事態をあたしは避けようとするだろう。でもそうなると、最悪しずーとあたしの二人で海たちを探さなければならなくなる。探すのも大変だが、そもそも女子二人で海たち三人に勝てる要素がない。
 そうなると、ひさに未確定の情報は伝えられないのだ。彼の票は、最悪反対票に入るものだと思っていたほうがいいだろう。
 ……ここは素直に、トートを心配してくれる人が賛成に回ってくれる事を期待するしかないんだけど。
 だが残りの一票は、あのよっしーだ。
 よっしーの『死』の向き合い方は、虚無みたいなものだと、あたしは思う。最終的に死んでしまうのだから、全てに意味がないと思っている。
 それは酷く退屈に思えるが、今その価値観で投票した場合、反対に票を入れる確率がかなり高いのではないか? とあたしは思った。
 ……よっしー、最初からトートを保健所に連れてこうとしてたもんなぁー。
 どうせ死ぬんだから、早く死ぬ分には構わない、という考えで反対票を入れるよっしーの姿が、容易に想像出来た。
 だとすると、ひさが気まぐれで賛成票に入れてくれる事を祈るしかない。
 ……お願い、お願いだよっ!
 そして、投票が開始され、ものの数秒で投票が終わる。
 投票の結果は、トートの世話をするときと全く同じだった。
 つまり、賛成三、反対二、保留一。
 でも、賛成と反対に投票した人が違う。
 保留は、たけの一票。
 反対は、しおしおとひさの二票。
 そして賛成は、あたし、しずー、そしてよっしーの三票だった。
 よっしーはトークルームで、こんなメッセージを投稿していた。
 
『見れるのなら、あいつの今際の際に少し興味がある』
 
 
 例のボロ屋の裏に回ると、扉は鍵がかかったままだった。でも木製の囲いの上には、泥が付着している。恐らく海たちはここからよじ登り、中に入ったのだろう。
 この扉を開けたら海たちと遭遇することも考えて、深く深呼吸をする。
 そして扉の鍵を開け、中へと足を踏み入れた。でも、想像していたように海たちとの遭遇もない。そこには、何もなかった。
 そう、何もなかったのだ。
 皆で毎日掃除をしていた犬小屋は、屋根から押しつぶしたように粉砕していた。
 水を入れるのに使っていた水栓柱はへし折れ、周りを水浸しにしている。
 スチール製の物置も、扉や壁がボコボコにへこまされていた。
 そしてトートが身につけていたはずの車椅子は真っ二つにされ、片方の車輪がカタカタと音を立てながらいびつに回っている。
「と、トート……?」
 遅まきながら名前を呼ぶが、トートがここにいないのは明白だった。
 そう、ここにはもう何もない。
 トートとふざけて遊んだ光景も、しょんべんをかけられキレたあの日も、日々弱っていくトートをあたしたちが世話をしていた日常も、もうここには何もなかった。
 ……これはきっと、見せしめだ。
 トートを事故死に見せかけて殺し、その後あたしたちから金を巻き上げるための布石。自分たちに逆らったら、お前らもこうしてやるという、海たちのあまりにも暴力的なメッセージだ。
 ……海はもう、あたしのことを彼女じゃなくて、ただの金づるだって思ってんだね。
 こんなの、全然楽しくない。面白くない。気持ちよくない。つまらない。辛い。痛い。きつい。こんなの、こんな気持、耐えられない。
 海に対する怒りと、自分に対する不甲斐なさと、他の五人への申し訳無さと、何よりトートの心配で。
 あたしは一人、絶叫した。
 しおりの目の前には、かなり異質な光景が広がっていた。多数決の結果を受けてやってきたのだけれど、今まで自分たちが通っていた場所とは思えないほど、トートと一緒に過ごした庭は荒れている。
「あたしが、あたしのせいで!」
「紫帆! 違うよ紫帆! しっかりしてっ!」
 うずくまり、かなり取り乱している紫帆ちゃんを、静花ちゃんが背中を擦ってなだめていた。紫帆ちゃんはかなり自分を責めているようで、血走った目には涙が浮かんでいる。
「……酷いな」
 その一言に全ての感情を込めて、剛士くんは顔をしかめながらつぶやいた。
 反対に、剛士くんから少しだけ離れた場所に立つ義法くんは、全く表情を変えていない。その様子は、不気味なほど達観しているようにも見えた。
「ふざけんな! ふざけんなよっ!」
 ボコボコになった物置から、鬼のような形相になった寿史くん飛び出してくる。
「絵が、僕の絵が! 僕のトートがズタズタじゃないか! キャンバスもバキバキに割られてスケッチブックもビリビリに破かれて、何でこんな事になってるんだよっ!」
 寿史くんは気でも振れたかのように頭をかきむしり、歯茎をむき出しにしながら歯ぎしりをした。やがて彼の焦点があっていない瞳は、紫帆ちゃんへと向けられる。
「紫帆のせいだ……。紫帆が彼氏に先生が残してくれたトートと金の話をしたから、こんな事になったんだっ!」
「やめてよっ!」
 静花ちゃんが、寿史くんを睨む。
「紫帆がやったわけじゃないでしょ? やったのは別の人で、寿史の絵をめちゃくちゃにしたのも他の人でしょ?」
「でもこの自体を引き起こしたのは、間違いなく紫帆が――」
「……よせ、寿史」
 剛士くんに止められ、寿史くんは面白くなさそうな表情を浮かべる。そんな彼を横目に、剛士くんは紫帆ちゃんに問いかけた。
「……お前の彼氏には、まだ連絡がつかないのか?」
「うん。電話も出ないし、既読もつかない……」
「じゃあ、探しに行こうよ!」
 そう言って静花ちゃんは、しおりたちの方を見渡す。
「皆で探せば、まだ間に合うかもしれない」
「どこ探すんだ?」
 凍てつく氷のような温度の声で、義法くんはそう言った。彼は一瞬口を歪めた後、不格好な笑みを作る。
「当てもないだろ? 闇雲に探すのか? そもそもどうやって探すんだ? 剛士みたいに皆原付持ってれば多少は違うんだろうが、徒歩で探し回っても多分、見つけれねぇぞ」
 そして義法くんは、全てを諦めたような吐息をした。
「やっぱり、何かを積み上げようとしても無駄なんだよ。最後は全部、『死』で終わる。全てが無駄、無意味だったんだ」
「あんた、まだそんな事言ってるわけっ!」
 静花ちゃんは義法くんにそう言うものの、それ以上上手く言葉が出てこないか少しだけ悔しそうな顔をして、顔を伏せた。
 口をつぐんだ静花ちゃんの代わりに、剛士くんが紫帆ちゃんに向かって問いを投げる。
「……トートを連れてった奴らは、どんなやつなんだ?」
「……海は、金髪でタバコ吸ってる。顔も悪くない。康治はドレッドヘアーで、千春は頭の両サイドを刈り上げてる」
 それを聞いた剛士くんは、舌打ちをした。
「……団地がどうとか言ってたやつらか。なら、あいつらの言ってた犬がトートの事だったわけだ」
 一人納得したようにうなずくと、剛士くんはこの場から立ち去ろうとする。
「ど、どこに行くんですか? 剛士くん!」
「……トートを探す」
 そう言って、剛士くんはしおりの質問に迷いなく答えた。
「……あの時から、売られてた喧嘩だからな」
 後はもう、振り向きもしなかった。そんな剛士くんの後を、寿史くんが追う。
「僕も行くよ!」
「……私たちも、行きましょう」
 静花ちゃんが紫帆ちゃんの手を取って、立ち上がる。そして静花ちゃんは、しおりの目を真っ直ぐと見つめた。
「しおり」
「あ、う、うん!」
 反射的にそう言ってしまい、しおりは静花ちゃんたちと一緒に走り始める。
 去り際に一瞬、しおりは後ろを振り返った。
 義法くんは立ち去るしおりたちを見向きもせず、ただ黙って、じっ、と壊れた犬小屋を見つめていた。
 
 適宜、各自で見つけた情報はトークルームで共有する事になった。先に出発した剛士くんと寿史くんも、少しでも手がかりになりそうなものを見つけたらすぐに共有してくれると返事がある。
「それじゃあ、何かあったらトークルームで」
「絶対トート、取り戻そうねー!」
 静花ちゃんが弁護士の小嶋さんにも事情を説明する電話をした後、しおりは二人と分かれて、一人で走り始めた。
 ……。
 …………。
 ………………。
 ……も、もう静花ちゃんと紫帆ちゃん、行ったかな?
 後ろを振り返るが、誰かがしおりのことを見ている様子はない。その事実を確認して安堵のため息を付いた後、私はガードレールに腰掛けてスマホをいじり始める。トートの家から、そう離れた場所ではなかった。
 ……な、なんか雰囲気でついてきちゃいましたけど、しおり、そんな必死になってトートを探したいって思えないんですよねぇ。
 むしろ逆に、トートがいなくなってくれてよかったとすら思っている自分もいる。それが酷い考えであることも理解しているが、事実なのだから仕方がない。
 ……だってSNS、ずっと炎上しっぱなしですから。
 しおりのアカウントは相変わらず『いいね』の数も増えず、コメントも荒れている。フォロワーは逆に面白半分でフォローしてくる人がいるので、一時期減った数に比べたら若干増えていた。
 ……で、でも、そういう人たちにフォローして欲しいわけじゃないんですけどねぇ。
 しおりが求めているのはしおりを認めてくれる人であって、しおりを否定する人ではない。今まで誰かに認めてもらうために使っていたSNSは、今やしおりを攻撃する見たくもないものに変貌していた。
 ……そろそろ、新しいアカウントの開設準備もしてたんですけどね!
 アカウントだけ変えても、中の人が同じだとバレれば、今炎上している炎が別のアカウントに飛び火するだけだ。そうなれば今度は、より大きな炎となるのは目に見えている。
 ……だから新しいアカウントは、慎重に作ろうと思ってまだ作れてないんですよねぇ。
 そういう意味でしおりは少し、誰かに認めてもらうことに飢えていた。だからかもしれない。静花ちゃんに自分の名前を呼ばれて、しおりは静花ちゃんが求めているであろう行動をとっさに取ってしまっていた。
 ……で、でも、それだけなんですかね?
 もしあの場に残っていたら、義法くんを一人にしない、という認められ方だって出来たはずだ。
 しおりは少し、首をかしげる。
 ……しょ、正直、炎上の原因がいなくなれば、今のアカウントをそのまま使えるんじゃないか? って思ってたんですけどねぇ。
 それはつまり、トートの死によって自分のアカウントが炎上から復活しないか? という最低な考え方だ。でも、どれだけ最低でも、しおりにはしおりを認めてくれる存在が必要なのだ。
 ……や、やっぱり、しおりは何もしないのが正解なんですよ!
 最低で最悪な結論にたどり着くが、それだとやはりあの場に残るのがしおりにとって最善だったのに、何故そうしなかったという矛盾が生じる。
 でも、しおりはそれを無視した。
 何故なら今、しおりはトートを探していないからだ。
 ……こ、これなら結局、あの場に残っているのと変わりがないですよね!
 小さく頷き、しおりはスマホの画面をスワイプする。撮りだめた写真を眺めようと思ったのだ。理由は単純で、炎上してからアップしてない写真がどれぐらいあるのか、気になったからだ。
 写真の一覧が、しおりのスマホに表示される。
「……え?」
 スマホを見て、しおりは思わずそうつぶやいていた。
 画面に表示された写真が、全体的に茶色い。スクロールしてもスクロールしても、同じ様な画面が続く。色の系統だけで言えば、あまりバズりそうもない写真ばかりだ。
 では一体、何故そんな事になっているのだろう?
 トートだ。
 しおりが撮った直近の写真には、ほとんどトートが写っているもので占められていた。
 SNSに写真をアップしていた時は、むしろSNSのためにバズりそうな写真を撮りに行っていた。でも炎上してからは投稿も控えていたので、SNSにアップするとかしないとか関係なく、最近では撮りたいものだけを撮るようにしている。
 ……え、え? 嘘。え?
 自分でもよくわからない感情に突き動かされながら、しおりはスマホの画面をタップする。
 スマホいっぱいに、ドッグフードを貪るトートの姿が映し出された。スワイプする。
 スマホいっぱいに、トラのぬいぐるみにかじりつくトートの姿が映し出された。スワイプする。
 スマホいっぱいに、介護ベルトをしながらも楽しそうに散歩するトートの姿が映し出された。スワイプする。
 スマホいっぱいに、スマホが気になって興味津々な瞳でこっちを見るトートの姿が映し出された。スワイプする。
 スマホいっぱいに、水を浴びて嬉しそうにはしゃぐトートの姿が映し出された。スワイプする。
 スワイプする。スワイプする。スワイプする。スワイプする。スワイプする。
 どれだけ指を動かしても、やって来るのはトートとの思い出ばかりだった。
 しおりが撮った写真もあれば、他の五人が撮った写真もある。でもそれら全ての写真で、トートは自分を撮った人と寄り添っているようだった。
 ……ち、違う、違うよ。
 寄り添っているのではない。認めてくれているのだ。ただそばにいることを、そこにいてもいいのだと、トートは寄り添うことで認めてくれていたのだ。SNSで炎上したことを八つ当たりしようとしたしおりさえ、認めてそばにいてくれていたのだ。
 ……だ、だからしおりは、私は、トートの写真ばっかり!
 何故気づけなかったのだろう? 何故もっと早く気づけなかったのだろう? 自分にはもうこんなに自分を認めてくれる存在がいて、無意識でそれがわかっていたからこんなに写真を撮っていたのに、何で自分はもっと早く気づけなかったのだろう?
 他の人から見れば、所詮犬じゃないかと思われるかもしれない。でも、トートはしおりを認めてくれる存在なのだ。どれだけ非難のコメントに晒されても、トートは私のそばにいてくれたのだ。
 涙で視界が滲む中、スワイプしていたしおりの指が、止まる。
 その写真はまだトートに静花ちゃんが怯えていた頃、最初にトートのお世話をしに行った時に静花ちゃんに撮ってもらった写真だった。トートを抱き上げて、しおりは嬉しそうに笑っている。
 何故自分はあの時、静花ちゃんに写真を撮るようにお願いしたのだろうか?
 ……き、決まってるじゃないですか! トートが、トートが愛おしかったからに決まってますっ!
 自分よりも大きな存在に抱かれているというのに、その身を預けてくれたトートの暖かさが、記憶から蘇ってくる。
 あの時しおりは抱っこの仕方もわからなくて、怯える静花ちゃんから聞いてもう一度トートを抱き上げたのだ。すでに嫌がる抱き方をしたしおりを、トートはあの時から受け入れてくれていた。だからSNSにアップすることがない写真でも、こうしてまだ自分は残していたのだ。出会った時から残していたのだ! それなのにっ!
 ……し、しおりは、本当に、本当にバカです!
「……しおり?」
 自分の名前を呼ぶ声に、しおりは顔を上げる。その拍子に、両頬から涙が零れ落ちた。
 しおりが顔を上げた、その視線の先にいたのは――