親族控え室は、階段を上がって左側、葬儀が行われていたホールとは反対側に位置していた。控え室は左右に八畳ほどの部屋が存在している。ふすまで閉じられたその部屋、控え室に入って向かって右側のふすまを、小嶋と名乗った男が開けると、中は畳と机、座布団などが用意された和室となっているのが見えた。
「こちらで、少々お待ちになっていてください」
「……どこに行く」
「遺言の内容に関係するものを取ってまいります」
 俺の言葉にそう答えて、小嶋は親族控え室を出ていく。その背中を見送って振り返ると、靴を脱いで静花と紫帆が畳に上がるところだった。
「先生の遺言って、何だろう?」
「さーねー。でも、隠し財産とかだったら、楽しーよねー」
「そ、それ、投稿したらバズるやつ!」
 二人に続いて、しおりが靴を脱ぐ。
「き、金塊とかだったら、凄い拡散されちゃうよねっ!」
「流石に、そんな即物的なものを先生が残していくとは思えないけどね」
 苦笑いを浮かべた寿史は、脱いだ靴を丁寧に並べた後に、畳の縁を踏まないように部屋の中へと入っていく。
 横を見れば、義法が俺の方を睨むように見つめていた。
「お前は、入らないのか」
「……義法は、どうなんだ?」
「俺、あいつの事、まだ信用してないから」
 ……その意見には、賛同する。
「だいたい先生は、何のために俺たちに遺言なんて残したんだ?」
 ……それは、話を小嶋から聞いてみなければわからない。
 憶測で話すことは出来るだろうが、それはもう妄想と言っていいだろう。でも、その真実を追い求めることに、一体どんな意味があるのだろうか?
 ……生きていようが、死んでいようが、それは大差ないだろ?
「……そう言えば、義法。もう、ラケットは握ってないのか?」
「中二で止めた。知ってんだろ? お前も」
 そう言って義法は、不機嫌そうに眼鏡を押し上げた。その後手持ち無沙汰になったのか、左手で右肘をさすっている。
 やがて小嶋が、控え室に戻ってきた。その手には何故か、キャリーケースが握られている。
「おまたせしました」
 そう言って小嶋が、畳の上にキャリーケースを乗せた。その中には――
「え、可愛い!」
「わ、ワンちゃんだねっ!」
 静花としおりが歓喜の声を上げて、キャリーケースへと近づいていく。彼女たちの言った通り、その中には犬が不思議そうな、それでいてどこか楽しそうな顔をして俺たちを見つめていた。
「この子、名前はなんてーの?」
 静花たちの後に続き、キャリーケースへ近づいていく紫帆が、小嶋に向かってそう言った。小嶋は小さく微笑むと、その口を開く。
「彼の名前は、トートと言います。品種はウェルシュ・コーギーで、年齢は十二歳になります」
「十二歳……」
 義法がそう言って、僅かに顔を歪める。その義法の脇を通って、小嶋は黒の革靴を脱いで畳に上がると、キャリーケースの鍵を開けた。
 途端、扉を開けて三十センチほどの大きさの犬が、トートが飛び出してくる。
 茶色い毛並みのトートは、後ろの両足を畳の上に押し付けるような格好で、辺りを興味深そうに見つめていた。それは子供が初めて訪れた遊園地で、どのアトラクションに乗ろうか目を輝かせながら悩んでいるようにも見える。初めて見る俺たちがよほど気になるのか、トートは両の耳を忙しなく動かしながら、顔を左右に振って辺りを見渡していた。
 そいつの顔を見ながら、俺は制服に両手を突っ込む。
 ……こいつ、何がそんなに楽しいんだ?
 笑っているようにしか見えないその犬は、口から舌を垂らして、自分に近づく人影に視線を送った。
「小嶋さん。この犬と先生からの遺言は、何か関係があるんですか?」
 犬のそばによった寿史が、トートの頭を撫でた。よほど人に懐いているのか、その犬は無抵抗に頭を撫でられ、気持ちよさそうな鳴き声を上げる。
 その様子を見ながら、小嶋は小さく頷いた。
「ええ、そうです。君たちに、この犬の世話を頼みたい、と」
 その言葉に舌打ちをしたのは、義法だった。俺はいちいち靴を脱ぐのが面倒なので畳に上がらないのだが、義法は明らかにトートと近づきたくないらしく、眉間に皺を刻み、腕を組んで俺のそばに立っている。
 そんな俺たちをよそに、女子三人は寿史に続いてトートとじゃれ合い始めた。しおりはスマホを手にして、トートの写真を撮りまくっている。
「か、飼いましょうよ、皆で! この子の可愛さなら、絶対バズるしっ!」
「そうは言っても、どこで飼うの?」
「まー、何でもいいよーわたしは。楽しそーだしねー」
「場所や餌代等の心配もいりませんよ。トートの面倒を見るお金も、私の方で預かっておりますので」
 そう言った小嶋に向かって、義法は胡乱な目を向ける。
「先生から、いくら預かってるんだ?」
「そうですね、百二十万円ほどになります」
「ひ、ひゃくにじゅうまんえんっ!」
 しおりが驚愕の表情を浮かべるが、他の五人も同じ様な表情を浮かべている。それを見て、小嶋が朗らかに笑った。
「大丈夫ですよ。大金ですし、そのお金は一旦私の方で預からせて頂きます。本当にトートの世話に必要だと私が認めた場合に限り、必要な金額を私の方から皆さんにお渡ししましょう。そういう遺言ですから」
「……待てよ、おかしいだろ」
 俺は小嶋を見下ろすように睨みつける。
「……いくらなんでも、高すぎる」
「今調べてたんだけど、犬の生涯必要経費は大体百八十万弱ぐらいらしいね」
 寿史が手にしたスマホを見ながら、そう言った。
「犬の平均寿命が十四歳を少し超えたぐらいらしいから、十二歳のトートに残していく金額としては、百二十万円は高すぎるかな」
 寿史のその言葉に、静花が少し顔を曇らせる。おそらく、静花には寿史の言葉がこう聞こえたのだろう。
 後二年で死ぬトートに百二十万も必要ない、と。
 ……だからって、それでいちいち『死』に敏感になる必要もないだろうに。
 どんなに恐れていても、『死』は必ずやって来る。だから生きることは死ぬことで、その二つは合わせ鏡のようで、地続きに伸びている道みたいなものだ。
 ……だから、同じだろ? 生きていても、死んでいても。
 そう思う俺の隣で、義法が舌打ちをした。
「その犬、保険には入ってんのかよ」
「いいえ、入っておりません」
 小嶋の答えに、義法は顔を憎々しげに歪める。
「だったら決まりだ。先生がそんな大金残していったのは、その犬の通院費のためだな」
「なるほど、確かにそれなら、百二十万円を残していく意味がある。流石先生だ」
「えー? 何? どーゆーこと?」
 したり顔で頷く寿史に対し、紫帆は小首を傾げている。そんな彼女に向かって、しおりが口を開いた。
「た、確か動物って、治療費は全額負担なんだよねっ!」
「そうです。人間の場合、健康保険があればその費用は三分の一程度ですみますが、ペットの治療は全額自己負担となります」
 しおりの発言に、小嶋がそう補足した。
「つまり、この子は、何か重い病気に罹ってるんですか?」
 静花がそう言って、少しだけトートと距離を取る。
 小嶋は小さく頷き、こう口にした。
「トートは、変性性脊髄症を患っているのです」