死体を見つけたのは、小学校三年生の夏だった。
公園の蝉がしきりににうるさく鳴くのも、太陽がこれでもかと熱線を送ってくるのも気にせず、僕たちはいつものように一緒に登校していた。
その日は暑いくせに風が強くて、涼しいというより熱風のそれに晒されて、息苦しかったのを覚えている。
でもあの時、誰の通学帽が飛ばされたのかは、よく覚えていない。
飛ばされた帽子は風に乗り、渡っていた橋の下へと舞い降りる。それを、僕たち六人は追いかけたのだ。
雑草の生える斜面を下り、河川敷へと足を運ぶ。その日、浅い小川は太陽の光を反射して、やけに目が痛かった。
だから、それに気づくのに、遅れたのだ。
事故による、転落死だったらしい。
頭から落下して河川敷の岩にぶつかり、その付近は雑に赤で汚れていた。鮮血という言葉があるのだから、血は綺麗な赤色をしているのだと思っていたのだけれど、夏の日差しに照らされて乾燥したのか、それから流れる血は赤茶色を通り越してどす黒い。
熱風が僕たちの間を吹き抜けて、蝉はうるさく鳴き叫び、太陽は煌々として僕らを照らす。その光を反射する小川の煌めきが、僕らの目の前のそれを隠すかのように眼球に飛び込んでくる。
でも僕らの眼球は、瞬きを忘れたように、それを凝視していた。
頭部の割れた、夏の死体。
あまりにも突然突きつけられたその『死』に、僕たち六人は、変わってしまった。
ある者は、生に執着し。
ある者は、この世に懐疑的になり。
ある者は、人生の価値を求め。
ある者は、生と死を同視し。
ある者は、生を謳歌しようとし。
ある者は、永遠の生を求めた。
これは、『死』によって変わってしまった、僕たち六人の物語。
いずれ死ぬことになる、僕たちの物語。
先生が死んだ。
そう連絡を受けたのは、高校一年の梅雨時。だから今日の葬儀も、残念ながら雨が降っている。
残念だと思いながらも、鈍色の雲から落ちてくる雨で、いっそこの世界を全て水で押し流してしまえばいいのにとも思った。
……だって、どうせ最後は、皆死ぬ。
死んだら、もう何も残らない。一切合切、終わって、無くなるのだ。
なら、この世界に意味なんてあるのか? ないだろ? 最後は死んで、何も無くなるのに。無くなるとわかっているのに何かを成そうと足掻くなんて、無意味以外の何ものでもない。
いや、それ以上だと言ってもいい。例えるならそれは、毎朝毎朝一生懸命浜辺に砂の城を作りに行くようなものだ。それは次の朝には必ず潮に流され、崩れ落ちる定めと決まっている。それなのにその行動を繰り返すのは、ある種哀愁すら感じさせるものにならないだろうか?
……だったら、最初から砂の城なんて作らなければいい。
右肘を少しさすった後左手でブレザーのネクタイを少し緩めながら、俺は雨の中、葬儀会館への道のりを歩いていた。ビニール傘に雨粒が当たり、安っぽい音を立てて、次第に俺の鞄を濡らす。
その鞄を何度か肩に掛け直しながら歩いていると、葬式会館が見えてきた。スマホの地図アプリで場所が間違いない事を確認して、俺は更に足を進める。葬式会館自体は二階建てでそこまで大きく見えないのに、駐車場はやたらと広くて、そのアンバランスさに妙に俺の心がざわめいた。
会場は二階がエントランスに覆いかぶさるようなL字型になっていて、入り口の自動ドアの前が駐車場と直結されており、自動ドアの前に車を横付け出来るようになっている。二階が突き出ている構造のため、エントランス付近ではもう傘は不要だった。雨の中でも故人を見送れるように、配慮してこうした作りになっているのかもしれない。
……ホテルのエントランスも同じ様な形だけど、こっちはなんだか味気ないな。
エントランス前で傘を畳む俺のそばを、喪服姿をした人が、ぽつり、ぽつりと葬儀会場へと吸い込まれていく。葬儀会場の案内板には先生の名前しか記載がなかったため、きっと彼らも先生の関係者なのだろう。黒と白の彼らの隣を、深緑色のブレザーを着た俺が立っていることに居心地が悪くなり、無意味にリムレスフレームの眼鏡を押し上げる。その自分の行動に、俺はわずかに苛立った。
……居心地の悪さなんて、感じる必要なんてないのに。
あの夏、眼前に突きつけられた『死』に変わってしまった俺たちを、最後まで診てくれたのが先生だ。先生がいなければ、俺たちは今もまともに話せなかったかもしれない。だから先生は俺たちの恩人で、恩人を見送るのに、告別式に参加するのに疎外感なんて感じる必要なんて、どこにもない。
でも、俺たちを診てくれていた先生も、やっぱり最後は死を迎えた。
俺たちは、今を生きているんじゃない。
まだ、死んでいないだけだ。
右腕が、少し痛む。
自動ドアをくぐって会場の中へ入ると、喪服姿の大人が二、三人、エレベーターを待っているのが見えた。それを見た俺は内心舌打ちをして、二階への階段を登っていく。二階へ登ると、ホールの前には更に黒白の姿をした人々がいて、俺は少し眉をひそめた。
小さく唇を噛んで、俺は受付の列に並ぶ。受付でお香典を渡そうとするが、故人の意向で受け取れないと言われ、少しだけ俺は肩の力が抜けた。お香典を受け取らないという配慮が、先生らしいと思ったのだ。
受付で自分の名前や住所を記入し、礼状をもらってホールの一番後ろの席に腰を下ろす。百名ほど入れるホールには、先生の顔写真が飾られた祭壇が佇んでいる。その中で、俺は式が始まるのを待っていた。もう、居心地の悪さは感じない。
やがて坊さんがホールに訪れ、俺を含む参列者が起立して頭を下げた。司会者の開式の辞に続いて、坊さんがお経を読み始める。俺はそれを、数珠を手でいじりながら黙って聞いていた。数珠なんて普段握らないから、手のひらの異物が少し気になる。
弔辞と弔電が読み上げられると、次は焼香だ。坊さんの後に続いて、先生の親類、関係の親しい人から列をなして、焼香を行っていく。俺の番は、最後の方だった。
先生の親類に一礼をして、見様見真似で抹香をつまんで、自分の額の所まで持ってくる。そして静かに、香炉へそれをくべた。
席に戻り、抹香をつまんだ指を擦り続ける。指差にについた香の感触と臭いが、気持ち悪い。
焼香が終わり、坊さんが退出する。すると参列者は、また列を作り始めた。次は先生の眠る棺に、花を入れるのだ。
焼香をしたのと同じ順番で並び、俺は用意された花を手に取り、棺の前に立った。その中には、先生の姿がある。先生は花の中から顔を出し、文字通り眠ったような表情をしていた。
先生の顔の近くに花を挿し、俺は物言わぬ先生の顔にそっと触れる。
温度は、冷たい。
感触は、ゴムを触ったみたいだ。
冷たいゴムみたいな感触なのに、俺の指が先生から押し返される不思議な感覚。これが、先生の『死』なのだ。
……先生も、終わって、無くなったんだ。
参列者全てが花を入れ終え、それから閉式の辞が終わると、ホールから徐々に人が外へ出ていく。出棺を、つまり、棺で眠る先生を火葬場へ連れて行くのを、見送るためだ。
俺も自分の席から立ち上がり、ホールを出て、一階に降りる階段に足をかける。一段一段踏みしめるように下っていくと、参列者たちが一階のエントランスに集まっていた。その一階に、制服を着た五人組がいるのが見える。制服の種類は同じ学校のものを着ている人もいれば、違う制服を着ている人もいた。俺はその一人と、目が合う。あれは――
……静花、か。
「義法」
二階から降りてくる彼に、私は声をかける。義法は気むずかしげに、眼鏡を押し上げた。その仕草が小学生三年生の時と変わらなくて、私は少しだけ安堵のため息をつく。その動作で、私のボブカットが揺れた。
深緑色のブレザーを着た彼は、私から視線を左へずらすと、少しだけ目を細める。
「……寿史も来てたのか」
「先生の葬儀だからね」
そう言って、義法と同じ檸檬月高等学校(ねいもうづきこうとうがっこう)の制服、深緑色のブレザーを着た東武 寿史(とうぶ ひさし)が柔らかく笑う。少し茶色がかった髪を揺らしながら、寿史は周りを一瞥した。
「あの夏を経験した僕たちの中に、今日ここに来ない人なんていないよ。紫帆も、そう思うだろ?」
「まー、そーだねー」
そう言って杉崎 紫帆(すぎさき しほ)が笑った。朱冨澤高等学校(あけとみざわこうとうがっこう)の制服である濃い赤紫色のブレザーを着崩した紫帆が、自分のポニーテールを右手で触って揺らす。髪が軽薄に揺れ、短すぎるスカートも一緒に揺れて、彼女の口が三日月型になった。
「でも皆と会うの、中学卒業以来なのに、なんだか久々だねー。よっしーとひさは同じがっこーで、しずーとしおしおも同じ学校なんだっけー?」
紫帆が私たちの事を、昔のあだ名で呼んだ。高校生にもなって小学生の時のあだ名で呼ばれるのは、なんだかこう、むず痒い気持ちになる。
「……え? え、あ、え、あ! そ、そうそう! 私今、静花ちゃんと一緒に石竹商に通ってるんだっ!」
ワンテンポ遅れて、賀勢 しおり(かせい しおり)はスマホから顔を上げる。しおりの言った通り、私たち二人は石竹商業高等学校(せきちくしょうぎょうこうとうがっこう)に通っている同級生だ。しおりは手にしたスマホが気になるのか、チラチラと視線をそちらへ向ける。その度に、ツインテールと、セーラー服の上からでもわかる膨らみが揺れた。
しおりと同じセーラー服に身を包む私は、残りの一人に視線を向ける。
「剛士は、天燈工だっけ?」
「……ああ」
天燈工業高等学校(てんとうこうぎょうこうとうがっこう)の学ランを着崩した長谷井 剛士(はせい たけし)が、ぶっきらぼうに答える。長身で胸板も厚い坊主頭の彼は、私たちの方へ視線を向けることもしない。
剛士の目は、一階奥に設置されているエレベーターに向けられていた。
義法が私たちのそばまでやってきたタイミングで、エレベーターが一階に到達。チン、とチャイムがなって、エレベーターの扉が開かれた。
中から現れたのは、棺。出棺の時間だ。
白く、冷たいそれが現れた瞬間、私の体が震え始める。あの中に、先生がいる。
先生の、死体。
棺に花を入れた時にも感じた、あの恐怖が蘇ってくる。
もう先生は、目を開けることも、声を上げることも、私の頭を撫でてくれる事も、もうない。
あれは、『死』だ。
『死』の象徴だ。
……私は、棺が、先生が、あれが、怖い。
ストレッチャーのようなものに乗せられたそれが、エレベーターから私たちの方にやって来る。車輪が床の上で回り、カシャカシャと音を立てて、棺がこちらにやって来る。
『死』が、私に向かってくる。
……嫌っ!
一歩後ろに下がるが、それより棺がこちらに向かってくる速度の方が早い。更に後ろに下がる前に、それは私の脇を通り抜けて、自動ドアを通過する。それを追って、参列者たちは自動ドアの前に横付けされている車のそばへとよっていった。
故人を葬儀会場まで運ぶ車を寝台車といい、葬儀会場から火葬場へ搬送する車を霊柩車というらしい。だから、今棺が乗せられている車は、霊柩車だ。
……怖い。
寝台車も霊柩車も、『死』を運ぶという意味では変わりない。
……それじゃあまるで、死神じゃない。
それなのに、私たち六人以外の参列者たちが霊柩車の周りに集まって平然としていられる理由がわからない。
焼香は、まだ先生と距離があったから、大丈夫だった。
花を添えるのも、まだ先生の顔が見えたから、我慢できた。
でも、今は無理だ。
触れたくない。近づきたくない。怖い。
私は、『死』が、ただひたすら、怖い。
棺を乗せた霊柩車が、雨の中参列者たちに見送られて、今出発した。雨に濡れないように並んでいた参列者たちは、それが視界から消えるまで見送ると、パラパラと解散していく。
帰路につく参列者たちを、私たちはしばらく黙って見つめていた。そしてエントランスから人影がいなくなった所で、紫帆がポツリと、こう言った。
「死んじゃったね、せんせー」
「う、うん。死んじゃったね、先生」
紫帆の言葉に、しおりはそう言って同調した。
行った、ではなく、死んだ。
棺の中にいる先生が火葬場へ移動した事ではなく、私たちの会話の主題は、棺に入る前の、先生の『死』だった。
「しお、私たちをあの時から診てくれていた先生を、沢山の人がお見送りに来てくれてたね! 良かったねっ!」
「……だが、死んだ」
しおりの言葉に、剛士が小さくつぶやいた。
「……生きてりゃ、死ぬ。『死』は、俺たちのすぐそばにあるものだ」
「でも、どーせなら、めいっぱい楽しんでから死にたいよねー」
剛士に向かって、紫帆が軽薄な笑みを浮かべる。
「せんせー、楽しんでから死んだのかなー?」
「くだらない」
義法は、苦々しげにそう言って吐き捨てた。
「死んだら、無くなってしまうんだ。楽しいとか苦しいとかも、無くなるんだよ。だから、そんなの無意味だ」
「でも、あの人のことだから、何か残していきそうなものだけどね」
「……何?」
義法が、同じ制服を着た寿史へ訝しげに視線を送る。
「残すって、寿史、お前まだそんな事言ってるのか?」
「僕にとっては、大切なことだよ。『死』との向き合い方、折り合いをつける考え方は人それぞれで、そのやり方に口は出さない。多数決で、そう決めただろ?」
その言葉に義法が舌打ちをするのと同時に、一階エントランスの自動ドアが開いた。私たち以外いない、閑散とした葬儀会場を訪れたのは、礼服を着込んだ眉雪の男性だった。年齢は五十代ぐらいに見えるが、背筋はピンと伸び、両目には力がある。
彼は水滴を垂らす漆黒の傘を丁寧に畳むと、私たちに向かって微笑んだ。
「君たちの中に、金丸静花さんはいるかな? あるいは庄野義法くん、賀勢しおりさん、長谷井剛士くん、杉崎紫帆さん、もしくは、東武寿史くんに用事があるんだが」
「……何だ、てめぇは?」
剛士が目を吊り上げ、初老の男性の前に一歩踏み出す。自分を見下ろす剛士に僅かも怯むこともなく、彼は懐から名刺を取り出した。
「失礼しました。私、こういうものです」
私たちは、彼から名刺を受け取る。名刺には小嶋 護(こじま まもる)という名前と、彼の名前の弁護士事務所の名前が刻まれていた。
私たちも小嶋さんに自分の名前を明かすと、私は彼に向かって問いかける。
「弁護士さんが、私たちに何の用ですか?」
「実は、先程お見送りをした故人の方から君たちに、遺言を預かっておりましてね」
「遺言?」
「せ、先生から?」
私としおりは、困惑げな表情を浮かべる。剛士も似たような表情だ。紫帆は軽く口角を釣り上げ、義法は不機嫌そうな表情を浮かべ、寿史は一瞬瞳を輝かせた。
そんな私たちの表情を頷きながら見つめた後、小嶋さんはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「では、お手数ですが二階にお戻り頂けますか? この会場の親族控え室、そこを使えるように手配しておりますので」
親族控え室は、階段を上がって左側、葬儀が行われていたホールとは反対側に位置していた。控え室は左右に八畳ほどの部屋が存在している。ふすまで閉じられたその部屋、控え室に入って向かって右側のふすまを、小嶋と名乗った男が開けると、中は畳と机、座布団などが用意された和室となっているのが見えた。
「こちらで、少々お待ちになっていてください」
「……どこに行く」
「遺言の内容に関係するものを取ってまいります」
俺の言葉にそう答えて、小嶋は親族控え室を出ていく。その背中を見送って振り返ると、靴を脱いで静花と紫帆が畳に上がるところだった。
「先生の遺言って、何だろう?」
「さーねー。でも、隠し財産とかだったら、楽しーよねー」
「そ、それ、投稿したらバズるやつ!」
二人に続いて、しおりが靴を脱ぐ。
「き、金塊とかだったら、凄い拡散されちゃうよねっ!」
「流石に、そんな即物的なものを先生が残していくとは思えないけどね」
苦笑いを浮かべた寿史は、脱いだ靴を丁寧に並べた後に、畳の縁を踏まないように部屋の中へと入っていく。
横を見れば、義法が俺の方を睨むように見つめていた。
「お前は、入らないのか」
「……義法は、どうなんだ?」
「俺、あいつの事、まだ信用してないから」
……その意見には、賛同する。
「だいたい先生は、何のために俺たちに遺言なんて残したんだ?」
……それは、話を小嶋から聞いてみなければわからない。
憶測で話すことは出来るだろうが、それはもう妄想と言っていいだろう。でも、その真実を追い求めることに、一体どんな意味があるのだろうか?
……生きていようが、死んでいようが、それは大差ないだろ?
「……そう言えば、義法。もう、ラケットは握ってないのか?」
「中二で止めた。知ってんだろ? お前も」
そう言って義法は、不機嫌そうに眼鏡を押し上げた。その後手持ち無沙汰になったのか、左手で右肘をさすっている。
やがて小嶋が、控え室に戻ってきた。その手には何故か、キャリーケースが握られている。
「おまたせしました」
そう言って小嶋が、畳の上にキャリーケースを乗せた。その中には――
「え、可愛い!」
「わ、ワンちゃんだねっ!」
静花としおりが歓喜の声を上げて、キャリーケースへと近づいていく。彼女たちの言った通り、その中には犬が不思議そうな、それでいてどこか楽しそうな顔をして俺たちを見つめていた。
「この子、名前はなんてーの?」
静花たちの後に続き、キャリーケースへ近づいていく紫帆が、小嶋に向かってそう言った。小嶋は小さく微笑むと、その口を開く。
「彼の名前は、トートと言います。品種はウェルシュ・コーギーで、年齢は十二歳になります」
「十二歳……」
義法がそう言って、僅かに顔を歪める。その義法の脇を通って、小嶋は黒の革靴を脱いで畳に上がると、キャリーケースの鍵を開けた。
途端、扉を開けて三十センチほどの大きさの犬が、トートが飛び出してくる。
茶色い毛並みのトートは、後ろの両足を畳の上に押し付けるような格好で、辺りを興味深そうに見つめていた。それは子供が初めて訪れた遊園地で、どのアトラクションに乗ろうか目を輝かせながら悩んでいるようにも見える。初めて見る俺たちがよほど気になるのか、トートは両の耳を忙しなく動かしながら、顔を左右に振って辺りを見渡していた。
そいつの顔を見ながら、俺は制服に両手を突っ込む。
……こいつ、何がそんなに楽しいんだ?
笑っているようにしか見えないその犬は、口から舌を垂らして、自分に近づく人影に視線を送った。
「小嶋さん。この犬と先生からの遺言は、何か関係があるんですか?」
犬のそばによった寿史が、トートの頭を撫でた。よほど人に懐いているのか、その犬は無抵抗に頭を撫でられ、気持ちよさそうな鳴き声を上げる。
その様子を見ながら、小嶋は小さく頷いた。
「ええ、そうです。君たちに、この犬の世話を頼みたい、と」
その言葉に舌打ちをしたのは、義法だった。俺はいちいち靴を脱ぐのが面倒なので畳に上がらないのだが、義法は明らかにトートと近づきたくないらしく、眉間に皺を刻み、腕を組んで俺のそばに立っている。
そんな俺たちをよそに、女子三人は寿史に続いてトートとじゃれ合い始めた。しおりはスマホを手にして、トートの写真を撮りまくっている。
「か、飼いましょうよ、皆で! この子の可愛さなら、絶対バズるしっ!」
「そうは言っても、どこで飼うの?」
「まー、何でもいいよーわたしは。楽しそーだしねー」
「場所や餌代等の心配もいりませんよ。トートの面倒を見るお金も、私の方で預かっておりますので」
そう言った小嶋に向かって、義法は胡乱な目を向ける。
「先生から、いくら預かってるんだ?」
「そうですね、百二十万円ほどになります」
「ひ、ひゃくにじゅうまんえんっ!」
しおりが驚愕の表情を浮かべるが、他の五人も同じ様な表情を浮かべている。それを見て、小嶋が朗らかに笑った。
「大丈夫ですよ。大金ですし、そのお金は一旦私の方で預からせて頂きます。本当にトートの世話に必要だと私が認めた場合に限り、必要な金額を私の方から皆さんにお渡ししましょう。そういう遺言ですから」
「……待てよ、おかしいだろ」
俺は小嶋を見下ろすように睨みつける。
「……いくらなんでも、高すぎる」
「今調べてたんだけど、犬の生涯必要経費は大体百八十万弱ぐらいらしいね」
寿史が手にしたスマホを見ながら、そう言った。
「犬の平均寿命が十四歳を少し超えたぐらいらしいから、十二歳のトートに残していく金額としては、百二十万円は高すぎるかな」
寿史のその言葉に、静花が少し顔を曇らせる。おそらく、静花には寿史の言葉がこう聞こえたのだろう。
後二年で死ぬトートに百二十万も必要ない、と。
……だからって、それでいちいち『死』に敏感になる必要もないだろうに。
どんなに恐れていても、『死』は必ずやって来る。だから生きることは死ぬことで、その二つは合わせ鏡のようで、地続きに伸びている道みたいなものだ。
……だから、同じだろ? 生きていても、死んでいても。
そう思う俺の隣で、義法が舌打ちをした。
「その犬、保険には入ってんのかよ」
「いいえ、入っておりません」
小嶋の答えに、義法は顔を憎々しげに歪める。
「だったら決まりだ。先生がそんな大金残していったのは、その犬の通院費のためだな」
「なるほど、確かにそれなら、百二十万円を残していく意味がある。流石先生だ」
「えー? 何? どーゆーこと?」
したり顔で頷く寿史に対し、紫帆は小首を傾げている。そんな彼女に向かって、しおりが口を開いた。
「た、確か動物って、治療費は全額負担なんだよねっ!」
「そうです。人間の場合、健康保険があればその費用は三分の一程度ですみますが、ペットの治療は全額自己負担となります」
しおりの発言に、小嶋がそう補足した。
「つまり、この子は、何か重い病気に罹ってるんですか?」
静花がそう言って、少しだけトートと距離を取る。
小嶋は小さく頷き、こう口にした。
「トートは、変性性脊髄症を患っているのです」
変性性脊髄症(Degenerative Myelopathy)は、人間で言うところの筋萎縮性側索硬化症(Amyotrophic lateral sclerosis)と似ている病気なのだという。
痛みはなく、ゆっくりと進行する脊髄の病気だ。後ろ足の麻痺から症状が始まり、麻痺が進行していくと最終的に呼吸不全に陥り、死に至る。
犬種を問わず、変性性脊髄症の原因は不明な点が多く、未だにはっきりした原因は解明されてはいないようだ。
……まー、ぜーんぶあの弁護士さんの受けおりなんだけどねー。
あたしには、そーいう難しー事はわからない。わかるのは、二つだけだ。
トートがもう、あまり長い間生きられないということ。
そしてトートがキャリーケースから出てきて、後ろ足を畳の上に押し付けるように座っているのは自分の意志ではなく、病気のせいだということだけだ。
「では、後は皆様でお話になってください。私は、一階で待っておりますので」
そう言って、弁護士さんは親族控え室から出ていく。彼があたしたちに話し合えと言ったのは、トートの事だ。
……トートの世話を、引き受けるか、引き受けないかー。
部屋に残っているのは、あたしたち六人。そして話題の中心のトートが、つぶらな瞳であたしたちを見上げている。そのトートを囲み、あたしたち六人は畳に腰を下ろしていた。
「で、どうするんだ?」
あたしたちの中でトートから一番離れた場所に座るよっしーが、不機嫌そうにそうつぶやいた。
「その犬の、トートの世話すんのは、平日の放課後だけって話だけど」
よっしーの言葉に、しずーがすぐに反応する。
「……私は、嫌」
「ど、どうして? 静花ちゃん」
「怖い」
しおしおの言葉にそう答えた後、しずーは震える両手を握りしめて、顔を伏せる。トートと最初に出会った時とは打って変わり、しずーはまるでトートのことを自分に『死』を宣告しに来た死神を見るような目で見つめていた。
……まー、しずーは仕方がないかー。
彼女の『死』の向き合い方を、あたしはどうこう言うつもりはない。ただ、それで楽しいのかな? とは、少し思う。
……そう思うのは、しずーだけじゃないんだけどねー。
「わ、私は、引き受けてもいいと思うな!」
「僕も、しおりと同じ意見だよ」
しおしおの意見に、ひさが賛同する。
その二人に、よっしーは冷たく言い放った。
「俺はもう、こいつを保健所に連れてってやった方がいいと思ってる」
「ちょ、ちょっと義法くん! なんてこと言うのっ!」
「病気の事、さっきスマホで調べた。この病気、痛みもないままどんどん歩けなくなって、最後は自分で動くこともできなくなって、終わるんだ」
よっしーは淡々と、しおしおに向かって言葉を紡ぐ。
「だったら、早く終わらせてやったほうが、こいつのためだろ」
「そ、そんな事ないよ! しおり、この子のお世話をすれば皆から認めてもらえるんだもんっ!」
「そもそも、これは先生が死んだ後も僕たちに残していってくれたものなんだよ? 先生が生きた証を、僕たちが引き継がなくてどうするのさ」
しおしおとひさの言葉に、よっしーは嫌そうに顔を歪めて舌打ちをした。しずーは黙ったまま震え続け、たけも同じく口を開かない。たけの場合は、恐れなどではなく単にトートへの向き合い方に無関心なだけだろう。
違う理由で寡黙な二人をよそに、よっしーとしおしお、ひさの噛み合わない会話が続いていく。
……やっぱ、みーんな楽しそーじゃないなー。
あたしは、楽しいことを求めている。
一分一秒、あたしが生きている限り、ずっと楽しいほうがいい。気持ちいことが続いたほうがいいに、決まっている。
だってあたしは、必ず『死』を迎える。
なら、辛いことや悲しいことより、楽しいことや気持ちいいことで、自分の人生を満たしていたい。
楽しくないと、つまらない。
だからあたしは、じゃあさ、と口を開いた。
「多数決で、決めよーよ。昔やってたみたいにさー」
それは昔、あたしたちが小学生三年生から使っている、取り決めだ。
意見が割れたら、多数決。その決定に、皆従う。それが、あたしたちのルールだった。
投票権を持つあたしたちは六人いる。偶数だが、この多数決で意見が決まらなかったことは、かつて一度もない。
あたしの言葉によっしーは舌打ちをしたが、しおしおはすぐに手を上げた。
「わ、私はトートのお世話をするの、賛成っ!」
「僕も、賛成に一票だ」
ひさも右手を、まっすぐ伸ばして自分の意見を口にした。
「……私は、反対」
一方しずーは、両手で自分の震える体を抱いた。
「『死』を、『死』が近いものを、私に近づけないで……」
「……同じだろ。『生』も、『死』も」
しずーの反応に、たけはぶっきらぼうにそう言った。
「……なら、どれを選んでも同じだ」
「相変わらず、剛士は保留かよ」
そう言ったよっしーの方を、たけが一瞥する。
「……保留じゃない。どちらでもいいと言ったんだ」
「どちらか選ばず結論を出さないんだから、保留じゃねぇかよ」
よっしーは舌打ちするが、たけが毎回答えを出さないため、六人いるあたしたちの多数決は必ず何かしらの結論が出てもいるという事実もある。
あたしは眼鏡を押し上げるよっしーに向かって、問いかけた。
「それでー? よっしーはどっちなの?」
「当然、俺は反対だ」
あたしの言葉に、憮然としながらよっしーは腕を組んでそう口にする。
「と、言うことは――」
そう言ってあたしは、現在の投票結果を頭の中に思い浮かべた。
賛成:しおしお、ひさ 計二票
反対:しずー、よっしー 計二票
保留:たけ 計一票
つまり――
「あー、あたしの投票で決まるのかー」
それは、ちょっと面白い。だって、あたしが楽しいと思える事に、皆が付き合ってくれるからだ。
「で、どうするんだ?」
弁護士さんが出ていった時と同じセリフを、よっしーが再度口にした。
だからあたしは、小さく頷いてこう言った。
「あたしは賛成かなー」
これで、賛成三、反対二、保留一。
多数決の結果、あたしたちはトートの面倒を見ることに決まった。
しおしおは歓声を上げ、ひさは嬉しそうに笑う。たけは相変わらず、余計なことは口にしない。
「お前は本当に、何でそうも考えなしなんだよ……」
恨めしげにこちらを睨むよっしーに向かって、あたしは小さく肩をすくめた。
「だってー、そっちの方がなーんか楽しそーだったしー」
「……私、無理。一人でこの『死』と、犬と一緒に居なきゃいけないなんて、絶対無理!」
しずーがそう言って、悲鳴を上げる。そのためあたしたちは、一日ごとに二人一組の持ち回りでトートの世話をする事に決めた。
その間、渦中のトートはというと、暴れることも吠えることも、まったくなかった。
もう感覚の無くなっている後ろ足を畳に押し付けたまま、トートはあたしたちの事をただただ黙って、楽しそうに見つめていた。
人生にリセットボタンはないなんて言うけれど、それは嘘だと、私は、しおりはそう思う。
……だ、だって、いつでも死ねるでしょ?
だから『死』とは、人生のリセットボタンで、押そうと思えば簡単に押してしまえるもの。死んでやり直しが出来ないって、誰が決めたのだろうか? 出来るかどうかなんて、実際に死んでみなければわからない。なら、ワンチャン死んでリセットするのも、普通にしおり的にはありだ。
……だ、だったら、しおりの『生』って、私の価値って、何なの?
簡単に死ねる自分の人生に、しおりは価値を見いだせない。しおり自身が自分を認められないのなら、私の価値は、どうすれば確かめられるのだろう?
……あ、『いいね』ついた!
石竹商への登校中、しおりは自分のスマホの通知を見て、ほくそ笑んだ。スマホの画面にはSNSのアプリが立ち上がっており、自分の投稿した画像が表示されている。
先程投稿した画像は、この前カフェでコーヒーをテイクアウトした時の写真だ。カップに入っているコーヒーにはこれでもかとホイップが入っており、さらに溢れんばかりのストロベリーソースがかかっている。写真にはそのカップで口元を隠し、自画撮りをしたしおりが写っていた。着ている服は、胸元がかなり開いている。
……こ、これ、加工大変だったんですよね!
美肌加工に、瞳は一回りほど大きく修正した。胸自体は大きくさせていないが、陰影をつけて谷間をはっきり見せる工夫もしている。
今もその写真に対して『いいね』が押され、コメント欄にも『今日も可愛い』『エロい』『何食べたらそんなに胸大きくなるの?』といった発言で埋められ、フォロワーも増えていく。
……や、やっぱり、こういう路線の方が、注目されやすいですね!
以前は単にお菓子の写真や、道端で見つけた猫の写真をアップしていた。でも、それだけではどうしても『いいね』の数が、しおりを認めてくれる人の数が、限られてくる。
それはつまり、しおりの価値の限界だ。
……ど、どれぐらいなんでしょうね? 私の、しおりの価値は。一体、どれぐらいの人が、しおりを認めてくれるのかな?
わからない。だから、試すしかない。自分で自分の価値がわからないなら、他の人に認めてもらうしかないのだ。
どんどん増えていく『いいね』とコメントにニヤつきながら、しおりは校門を通って、昇降口に入る。すると――
「おはよう、しおり」
「し、静花ちゃん!」
下駄箱に丁度自分の靴を仕舞う途中だった静花ちゃんに声をかけられ、しおりは思わずスマホを落としそうになる。そんな私を見て、静花ちゃんがくすりと笑った。艶のあるボブカットがサラサラと揺れ、しおりのスマホを握る手に、思わず力が入る。
「どうしたの? しおり。そんなに慌てて」
「だ、だって――」
「静花! 先行くよー?」
私の声を遮り、静花ちゃんを呼ぶ声が聞こえてくる。その声の方向には三人の女子生徒がおり、同性のしおりから見ても、綺麗な子たちばかりだった。
ありていな言い方をすると、スクールカーストの上位組。その中の一人に、静花ちゃんが含まれている。
静花ちゃんは自分を呼んだ彼女たちに振り向いて、笑顔を向けた。
「待ってよ、すぐ行くから! それじゃあしおり、また後でね」
そう言い残して、静花ちゃんはこの場から去っていく。その背中を、そのグループを、私は羨望と、少しだけ嫉妬の混じった目で見つめていた。
……い、いいもんいいもん! しおりには、これがあるもんっ!
手の中にある無機質な機械(スマホ)の存在を思い出し、しおりは大きく頷いた。リアルで私を認めてくれる人数は、限られている。現実で知り合いになれる人なんて、世界中の何割にも満たないだろう。
だからより多くの人に自分を認めてもらうために、しおりはSNSを使うことにしたのだ。
……だ、だからしおりは、リアルよりもSNSが大切なんですっ!
スクールカースト的に言えば、私は上位の下の下。悪くもなければ良くもない、中間層。物語的に言えば、主役を引き立てる脇役か、それ以下のモブだ。
でもしおりは、それでいい。リアルで認められなくても、この『いいね』とコメント、そしてフォロワーの数が、私の存在を認めてくれる証なのだから。
私は気を取り直し、下駄箱で靴を履き替える。
……そ、それにこれからは、もっと『いいね』がもらえそうですしね!
思い出すのは、一匹の犬。今日から世話をすることになるウェルシュ・コーギーの、トートの事だ。
……あ、あれはバズりますよっ!
動物の写真をアップしていたのでわかるが、そうした写真をSNSで探しているクラスタは一定数いる。犬の写真をアップすれば、犬のクラスタが反応してくれるはずだ。
犬と一緒に露出を上げた格好で写真を撮れば、そういう格好をしたしおりを求めている人たちの『いいね』だけでなく、犬クラスタの『いいね』もプラスして得られることになる。
……そ、それにあの犬は病気ですから! 話題性も十分ですっ!
犬を同情するコメントと、その犬の世話をするしおりを称賛するコメントが、かなりの数つくに違いない。見てくれる人が増えれば、フォロワーの数の増加も期待できる。
そして、今日のトートの世話は、私と静花ちゃんの二人の番だった。
トートを怖がっていた静花ちゃんの姿を思い出し、しおりの口が、暗い笑みをかたどる。その事に気づき、私は顔を振った。
……ち、違います違います! これは、今からつくはずの『いいね』とコメントが楽しみなだけですっ!
自分自身にそう言い聞かせて、しおりは自分の教室へと歩き出した。いずれにせよ、放課後が楽しみで仕方がない。
「ねぇ、しおり。あんた、スカートそんなに短かったっけ?」
「え、普通、普通だよ!」
静花ちゃんと一緒にやってきたのは、古びた一軒家だった。築二十年以上はあろうかという木造のそれは、近所の子供達からは幽霊屋敷と呼ばれていて敬遠されていると聞いても不思議ではない佇まいをしている。人通りも少ないので、他にも家が並んでいなければ、しおりだって進んで近づきたいと思わない場所だった。
私たちの目的地は、その裏側にある小さな庭。木の囲いが並ぶその裏手に回り、小嶋さんからもらった鍵、六人分用意されていたもので、扉を開ける。
中に入るしおりの腕に、怯えたような静花ちゃんの腕が絡まった。
「ちょ、ちょっと待って、しおり」
「だ、大丈夫だよ静花ちゃん。ただの犬なんだから!」
「でも……」
「ほ、ほら、早くっ!」
しおりは満面の笑みを浮かべて、静花ちゃんの腕を引き、扉をくぐった。
扉の向こうに現れた庭は、家と不釣り合いに手入れが行き届いており、雑草も綺麗に抜かれている。そこにはスチール製の物置と、手洗いや水撒き用のための水栓柱が建っていた。そしてそこに、小さな家が建っている。犬小屋だ。
その中から、一匹の犬が、トートが飛び出してきた。扉を開けた音に反応して、出てきたのだろう。
「わんっ!」
「ひっ!」
後ろ足を引きずったトートに吠えられ、静花ちゃんは涙目になってしおりの後ろに隠れる。笑いながら私は、今くぐってきた扉を閉めた。
「さ、トート。こっちにおいで!」
「わんっ!」
「わ、私、ご飯の用意するから!」
トートを撫で回すしおりから離れて、静花ちゃんは物置の方へと走り出した。静花ちゃんの言った通り、庭の物置の中にはこの犬の餌や、散歩に必要な道具などが入っていると聞いている。
……こ、こんなに可愛いのに、静花ちゃんは何がそんなに怖いんですかね?
『死』のリセットボタンは、誰だって持っているし、すぐに押せるものだ。それを過剰に恐れたとしても、その事実には変わりがない。
スマホで犬の写真を何枚も取りながら、物置のホコリで咳き込む静花ちゃんを、暗い愉悦を持って一瞥する。そんな苦労をしても、誰からも認められない。『いいね』もつかなければ、コメントもフォロワーも増えない。
……つ、次はメインの写真撮影の時間ですよっ!
しおりはこの家に来る前、最寄りの駅のトイレで短くしたスカートを更に捲くりあげて、ギリギリ下着が見えない位置に調整する。
……ど、どれぐらい『いいね』が増えるかな?
きっと、過去最多は軽く超えていくに違いない。そう考えると自然に口元はどんどん緩んでくるし、この犬も愛おしくて仕方がない。ネットで繋がった世界中の人に認めてもらえるためなら、病気の犬に会いに行くのだって、全く苦痛ではなかった。
犬と一緒に写真を撮る前に、何枚か自画撮りをして、私は口元を隠しながら太ももを大胆に出したベストなアングルを探しだした。やがて満足の行く角度をしおりは見つけ出すと、右手にスマホを持ち、左手で犬を抱えようと手をのばす。のだが――
「こ、こら! 暴れないのっ!」
「わん! わんっ!」
脇の下に手を伸ばして抱えようとした途端、今までおとなしくしていた犬が急に暴れ始めた。じゃれているつもりなのか知らないが、写真を撮る時には少し大人しくしていて欲しい。ウザい。
「ちょ、ちょっと! 動かないでっ!」
「わん! わんっ!」
「い、いいかんげんにしてよっ!」
「わん! わんっ!」
悪戦苦闘を繰り広げながら、何枚か写真を撮る。でもどれもベストショットとはいい難く、撮った写真の中にはしおりの顔がもろに写ってしまっているもの、下着が丸見えのものまであった。
……さ、流石にこれは使えないよっ!
怒りでスマホを握る手に力がこもる。でも、これを乗り越えた先の『いいね』が待っている以上、しおりには頑張らないという選択肢はありえない。
何度目かの失敗の後、ようやく及第点が与えられそうな写真が撮れる。口元は犬で隠れていて、下着が隠れている状態で生足もそこそこ見えていた。犬には両手を上げずにもっとカメラ目線の写真を撮りたかったが、もうこれが限界だろう。
「何してんの? しおり」
「え、写真撮ってるだけだよ? トートのお世話をしたり、気づいた内容は他の四人にも共有することになってたでしょ? だからトートの写真、送るんだっ!」
犬の餌を持ってきた静花ちゃんに向かって、私は笑いながらそう返す。その隙にトートは体をよじり、しおりの膝の上から地面の方へと転がり落ちた。私は必要な写真は取り終えているので、それを追おうともしない。
「し、静花ちゃんの方こそ、餌は見つかったの?」
「うん。ここに――」
「わんっ!」
「ひっ!」
静花ちゃんの持つフードボールに気づいたのか、犬が後ろ足を引きずりながら静花ちゃんに向かって走り始めた。
静花ちゃんは悲鳴を上げながらも、一瞬逡巡した後一歩だけ前に出て、手にしたフードボールを地面に置く。一方犬はボールに頭から顔を突っ込んで、ガシガシとドッグフードを食べ始めた。こうしてみると、トートが病気だなんてあまり感じられない。
餌を食べる犬の写真を撮りつつ、自画撮りした写真以外をメッセージアプリのトークルームに投稿する。投稿先は、トートの世話をすることになったしおりを含む六人のトークルームだ。もちろん、SNSにアップ予定の写真まで投稿する気はない。
SNSに投稿するために自画撮りでボツにした写真を削除し、投稿用の写真を加工しようとした所で静花ちゃんがしおりのそばまでやって来る。
「しおり、ちょっと気をつけたほうがいいよ」
何のことかわからず、しおりは首をかしげる。
「え、写真撮ってただけなのに?」
「違う。さっきの、トートの抱き方」
何を言われているのかわからないしおりに向かって、静花ちゃんは犬を怯えた様子で横目に見ながら口を開く。
「さっきしおり、トートを脇から抱えて持ってたでしょ? あれ、関節に負荷がかかるから止めたほうがいいんだって」
「……ふ、ふーん」
冷めたように頷くしおりを一瞥もせず、静花ちゃんは相変わらず餌を貪る犬に目を向けていた。
「後、片手で持つのも。片手だと不安定だし、トートが怪我しちゃうかもしれないから」
「こ、怖いのに、詳しいんだね」
「……怖いからだよ」
「え、ど、どういう事?」
「『死』が、怖いから。だから、それに近づかない方法を調べただけ」
静花ちゃんの言っていることがよくわからず、しおりは口を少しだけ尖らせた。怖いのに恐れている対象を調べるなんて、意味がわからない。
……そ、そんな事したって、誰も認めてくれないじゃん。
「ほら、後は犬小屋の掃除と、あまり行きたくないけど、散歩も行かないと」
そう言われて、しおりは嫌々静花ちゃんと一緒に物置の方へと向かった。そこから箒にバケツ、雑巾を取り出していく。
静花ちゃんは箒を持って先に犬小屋へ向かい、しおりはバケツと雑巾を持って水栓柱へと向かう。
……も、もう今日はSNSにアップする写真は十分撮れたから、ここにいる必要なんてないんだけどなぁ。
そう思うものの、多数決で犬の世話をすることになった以上、途中で抜け出すわけにはいかない。
……そ、それにここで抜けたら、もう犬との写真が撮れなくなるかもしれないからね!
『いいね』が稼げる機会を、皆に認めてもらえる機会を、しおりは逃すわけにはいかなかった。
バケツを半分ほど水で満たして犬小屋へ向かうと、犬小屋を挟んで、犬と静花ちゃんが睨み合っている。
「し、しおり! 助けてっ!」
「え、えーっと、どういう状況?」
「多分ご飯が足りないから催促されてるんだと思うんだけど、でも食べ過ぎは太って健康に良くないし、『死』に近づくから私は――」
「わんっ!」
「ひっ!」
「は、はいはーい! トートはあまり静花ちゃんをいじめちゃダメだよっ!」
バケツを地面に置いて、しおりは犬を抱き上げる。静花ちゃんに注意された事を思い出し、今度は両手で包むように抱き上げた。
すると、今度は犬は暴れることなくしおりの腕の中にすっぽりと収まる。つぶらな瞳が私の方へと向いて、耳がぴくぴくと動いていた。
「し、静花ちゃん! 写真! 写真撮って、今すぐ!」
「え、そんな急に言われても……」
「は、早く早く!」
静花ちゃんを急かして、スマホで写真を撮ってもらう。
「写真、トークルームに後で送っておくから」
「あ、ありがとう!」
「それからしおり、そのままトートを抱えてて。私、掃除しちゃうから」
「う、うん!」
しおりの腕の中にいる温かくて柔らかいそれは、顔をきょろきょろ動かしながら、時折前足で私の腕をぺたぺたと触ってくる。桃色の舌を出したそいつの口は嬉しそうな三日月型で、こちらのことがわかるのか、少しだけ顔を胸に埋めてきた。
「え、えへへへへっ」
「あれ、しおり。これ、何だと思う?」
「な、な、何? 何かな?」
突然名前を呼ばれ、しおりは狼狽しながら静花ちゃんに返事をする。
見れば静花ちゃんが、犬小屋の中からいくつかものを取り出していた。それはボロボロになったトラのぬいぐるみであったり、運動会の綱引きで使うような縄の両先端を結んで骨のような形にしたものであったりと、様々だ。
「わんっ!」
「ひっ!」
静花ちゃんが犬小屋から出してきたそれらに、腕の中の犬が反応してもがき始める。
「こ、こら! 急にどうしたの?」
「ひょっとしてこれ、トートのおもちゃなのかな?」
言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。しおりがゆっくり犬を地面に下ろすと、トートはすぐさま静花ちゃんが犬小屋から出したものへ突進し、噛み付いたり足で転がしたりしていた。
「お、お気に入りのものは自分の家に溜め込んでいるのかな? この子」
「……そうかもね。一応、この情報も皆に知らせておこうか」
犬が地面に降り立つと見るや、全力で物置まで避難した静花ちゃんが、こちらを伺うように小さくつぶやいた。
「しおり、ごめん! 後、お願いしていい?」
「も、もう、しょうがないなぁ」
そう言ってしおりは、静花ちゃんが放り投げた箒を手に取り犬小屋に向かっていく。中を見るとほとんど静花ちゃんが掃除を終えていたみたいだったので、私は雑巾をバケツの水で浸して犬小屋の屋根をふいていった。
途中、おもちゃに飽きた犬が静花ちゃんに向かっていくのを止めて掃除の手を交代したり、散歩に連れて行ったりして、今日のしおりたちの仕事は終了した。
いくら夏の日が沈むのが遅いとは言え、辺りはもう薄暗くなっている。
「そ、それじゃあ、またねっ!」
「わんっ!」
犬に見送られて、しおりたちは庭の扉から出ていく。私が施錠をしたタイミングで、静花ちゃんが安堵のため息をついた。
「……疲れたぁ。やっと終わったよ」
「ま、まぁ、だいぶ元気だったね!」
「それはいいんだけど、安心したら私、ちょっとお腹空いてきちゃった」
「じ、じゃあ、どこかで何か食べてく?」
「いいねいいね! 駅前にバーガー屋があったから、帰りに寄ろうっ!」
二人で屈託なく笑い合って、しおりたちは駅前に向かって歩き始めた。こうやって純粋に静花ちゃんと笑うのは、久々だった。
……が、学校だと、静花ちゃんとしおりは住んでる世界が違うからなぁ。
スクールカーストの上位の静花ちゃんは、皆から一目置かれる存在だ。脇役どころかモブのしおりは彼女に話しかけるのに、抵抗を感じていた。
しかし、今一緒にバーガー屋の自動ドアをくぐる静花ちゃんとの距離は、小学生三年生だったあの頃に戻っている気がする。
……で、でも、これはあくまで犬の世話をした一環みたいなものだから!
そう思い直すことで、自分の自惚れを私はかき消す。変な勘違いをして学校で同じ様に振る舞えば、しおりどころか静花ちゃんの立場も悪くなるかもしれない。
しおりは、今のままでいい。学校では可もなく不可もなくの存在で、SNS上で認められれば、私はそれでいいのだから。
……だ、だからしおりは、リアルで必要以上のものは求めませんっ!
静花ちゃんが注文した後、カウンターでしおりはメニューを注文する。ハンバーガーまで頼むと、家でお母さんが作ってくれている晩ごはんが入らない。どうしようかと思って静花ちゃんの方を見ると、静花ちゃんも同じ考えだったのか、トレイにはナゲット単品とドリンクが鎮座していた。
……ど、どうしましょう。
少し悩んだ後、しおりはポテトを単品とコーラを注文。先に席を取っていてくれた静花ちゃんの待つ席へと向かう。
「何頼んだの? しおり」
「ぽ、ポテトにしたよ!」
「いいじゃん! 交換しよっ!」
「う、うんっ!」
それからしおりたちは、今日初めてした犬の世話の話で盛り上がった。
「そういえば、しおりが撮って欲しいって言ってた写真、トークルームにアップしておいたよ」
「あ、ありがとうっ!」
スマホで確認すると、そこには確かにしおりが犬を抱き上げている写真がアップされていた。でも、その写真にはバッチリ私の顔が写っていてる。
……こ、これは、SNSにアップ出来ませんね。
そう思うものの、写真を撮ってくれた静花ちゃんに満面の笑みを浮かべている自分の写真を、私はすぐに保存した。
死にたくないって思わない人は、いないんじゃないだろうか?
ずっと生きていたいって思わない人の方が、少ないんじゃないだろうか?
……だから僕は、永遠に生きたいって、残り続けたいって、そう思ったんだ。
放課後、僕は美術室にいた。
檸檬月高等学校の校舎の四階にあるその教室には、キャンバスを立てるための木製のイーゼルが並び、壁の棚にはデッサン用の彫刻がいくつも並べられている。いくつかのイーゼルの上に鎮座するキャンバスには、美術部の生徒たちが描いた水彩画や水墨画、油絵絵画が並んでいた。絵のモチーフはバラバラで、町並みを描いた風景画もあれば、自分の好きなアイドルの人物画もあり、中にはこの世に存在しないであろう場所や建物を描いた空想画もある。
それらに囲まれながら、僕は筆をペイントパレットに伸ばす。ペイントパレットに伸ばしたいくつかの色の中から黄色を選択し、僕はその色を筆に宿らせた。そしてそれを振るい、今度は目の前のキャンバスに黄色という彩りを添えていく。
今僕は、レモネードの絵を描いていた。今日みたいな夏の暑い日に飲むレモネードが、僕は嫌いではない。
キャンバス上には、透明なガラスのコップが描かれていて、その中に四角い氷と輪切りのレモンが入っている。そのコップの中をレモネードが満たしていて、黄色の小さなプールみたいになっていた。そのプールにはスライダーの代わりとでもいうように、青と白のストライプ色のストローがささっており、青々としたミントも添えられている。
……現実のレモネードだと、氷も溶けてなくなり、レモンも腐って朽ち果ててしまう。
でも、僕のレモネードはそうはならない。コップの表面についた水滴も、みずみずしく透明感を感じさせるミントも、何もかもそのままだ。
僕の絵の中の存在は永遠に消えることなく、この絵を描いた時のまま生き続けている。レモネードを飲んだ時のスッキリとした爽快感も、この絵に刻みつけておきたい。
……『死』が避けられないなら、ずっと残る方法を僕は選ぶよ。
僕が死んでも、この絵がある限り、僕が生きた証は、僕が絵に残したものは、永遠の『生』を得る。僕という存在がいなくなったとしても、僕が生きていた証は残り続けるのだ。
「あれ、東武君?」
美術室の扉が開き、美術部の先輩が入ってくる。学年が一つ上の先輩は美術室の扉を閉めると、スカートを揺らしながらこちらに向かってきた。
「今日は用事があるって言ってなかったっけ?」
「ええ、そうですよ。でも、スケッチブックを忘れてしまったので取りに来たんです」
「……じゃあ、何で絵を描いてるの?」
「もっと、ちゃんと残してあげれるんじゃないかと思って」
「……何それ」
面白そうに笑う先輩が、筆についた絵具を拭き取る僕の隣に立った。彼女は僕が残そうとしているレモネードの絵を見て、感心したように頷く。
「相変わらず上手だよね、東武君」
「上手さは、あんまり気にしたことないんですけどね」
「またまた、そんな事言って! この前のコンクールだって、入賞してたじゃないっ!」
それは確かに事実だけれど、僕にとって重要なのは他人からの評価じゃない。僕の描いたものが、生きた証がどれだけ残るか否かだ。
……昔は大会の賞を取った絵が後世に受け継がれてたけど、今はネットに上げれば残り続けるから。
だからもう、僕にとってどうやって残していくのか? という問題は解決していた。解決しているが故に、今僕の一番の関心事は、何を残すのか? 何を描くのか? ということだった。
……そしてそれを、僕はようやく手に入れた。
内から沸き起こる歓喜を溢れないようにしつつ、僕は筆洗器で筆を洗う。
「たまたまですよ、先輩」
「……やっぱり、変わってるよね。東武君」
「そうですか?」
「そうだよ。だって、他の一年生の子から、東武君はクラスだと大人しい感じって聞いてるし」
筆をタオルで拭う僕のそばに、一歩先輩が近づいてくる。
「でも、絵を描いている時は別人みたい」
それはそうだろう。だってそれが、僕が見出した『死』との向き合い方、折り合いの付け方なのだから。
……先生と一緒に、僕が、僕だけが見つけた方法なんだ。
だから、他人からどう見られているとか、スクールカーストの順位とか、そんなものは僕には全く興味がなかった。
もっと言ってしまえば、永遠の『生』を、僕の生きた証を残すこと以外、どうでもいい。
「そう言えば、先輩はどうしてここに?」
「なんだか今日は、東武君に会える気がして」
……じゃあ、何で美術室に入って僕の姿を見た時驚いたんですか?
少しだけ、僕の口元が歪む。
学校の人間関係が必要以上に密接になるのは、僕が望むものではない。唯一家族以外で許容できる人間関係は、一緒にあの『死』を目の当たりにした五人ぐらいなものだ。
「じゃあ、先輩は今日は絵を描いていくんですか?」
「うん。それでね、東武君。私今、描いててちょっと悩んでることが――」
「よかった。それじゃあ美術室の戸締まり、お願いしてもいいですか?」
筆を乾燥させるための洗濯物ハンガーのハサミに筆を挟んで、僕は笑顔で先輩に美術室の鍵を手渡した。
「え、あ、うん」
少し表情を固くした先輩の手が、ぎこちなく僕から渡された鍵を握る。
「それでは、僕はこの辺で」
「あ、ちょっと待って! 少しだけでいいから」
スケッチブックを入れた鞄を担いだ所で、先輩が僕の手を握った。思わず舌打ちしそうなところを、なんとかこらえる。
……もう描きたいものは描けたし、早くトートの所に行きたいのに!
トートは、あの先生が残してくれた大切なものだ。先生は、僕が永遠を求めて生きた証を残したいと思っていることを知っている。だからきっと、先生が生きていた証であるトートは、先生が僕にくれたプレゼントなんだ。それが先生が、僕にトートを残してくれた意味なんだ。
僕がトートを描くことで、僕がトートを永遠にする事で、僕が生きた証は、先生が残してくれたものは、永遠に残り続ける。
写真じゃ、駄目だ。それは僕じゃなくてもきっと出来る。僕が手を動かして、僕が僕自身のために行わないと、駄目なのだ。そうでなければ、僕が残したという充実感を、僕が得られない。それなくして、僕は『死』と向き合えない。何かと代替できるものなんて、僕の生きた証になりえない。
……だから、早くトートの所に行かせてよっ!
怒りの形相で振り向こうとした、その瞬間。美術室の扉が、乱暴に開け放たれた。
美術室に入ってきたのは、不機嫌そうな顔をした、義法だった。彼は苛立たしげに眼鏡を押し上げて、口を開く。
「放課後、昇降口の前に集合って言ったの、寿史だろうが。どれだけ待たせんだ? さっさと来い!」
電車を降りて、僕は義法と一緒に駅の改札を抜ける。居酒屋やバーガー屋が並ぶ南口ではなく、北口のバスロータリーを横切って歩いていると、先に歩いていた義法がこちらに振り向ことなく話しかけてきた。
「弁護士の小嶋が言ってたんだけど、今から向かう家って、元々先生の両親が住んでた家らしいな。ご両親も亡くなってて、たまに先生も掃除をしに帰ってたらしい」
「そうなんだ」
「それが今では犬のために維持してるだなんて、随分変な話だ。それに、犬一匹が住むには贅沢過ぎる。家の維持にかかる税金も、例の百二十万から出てるんだってさ。税金は年間二十万ぐらいらしいから、まぁ、あいつがいなくなるまではもちそうだな」
「そうだね」
義法の言葉に相槌を打つも、正直僕はこの話に興味がなかった。お金がいくらかかろうとも、先生が残してくれたもの(トート)があれば、その絵が描ければ、僕は何だっていい。
でも、次の話題は、流石に聴き逃がせなかった。
「……先生は、何を考えてたんだろうな?」
「どういう事だい?」
「小学生三年生のあの日、俺たちは変わっちまっただろ?」
その問いに、僕は頷く他なかった。
先生の見立てでは、僕たちが『死』に出会って抱えた疾患は、外傷後ストレス障害(Post-traumatic Stress Disorder)みたいなものだという。
あの日、周りの大人たちは大騒ぎだったらしい。まず、僕たちがいつまで経っても登校してこない事に不審に思った学校の教師が、それぞれの家に連絡。家を出たはずだという事で学校の教師と両親たちが僕たちを探しに出かけ、彼らは死体の前に立ち尽くす僕らを発見した。
時間にして、おおよそ二時間程だという。
二時間の間、僕たちは唐突に出会った『死』を前に、大人たちが駆けつけるまで一歩も動けなくなっていた。
僕はたまに、ふと思うことがある。
普通の小学生三年生なら、どんな風に高校生になったのだろう? 将来なりたいものを決めて、成長していったのだろうか? それとも、ただただ毎日はしゃぎながら成長したのだろうか? それとも、成長の実感など得られないままに、高校生活に突入したのだろうか?
……でもあの日、僕たちは『死』を知ってしまった。
言葉としてではなく、現実の存在として、リアルな人間としての『死』をまざまざと見せつけられた。どうしようもなく終わりという存在を、心の奥底まで刻み込まれた。
その時の事を思い出したのか、義法が自嘲気味につぶやいた。
「それから俺たちは、上手く自分の言葉で話すことも出来なくなった。夜中に急に目が覚めて、滝みたいに汗を流しながら飛び起きる事もあった」
「僕は、まだたまに夜中に飛び起きるよ」
「……俺もだ。先生のカウンセリングを受けて、『死』との向き合い方、折り合いの付け方を模索してなきゃ、俺はきっと、まだあの『死』の前に立ちすくんでいたと思う」
「それは義法だけじゃなくて、僕も含めた他の五人も同じだと思うよ」
六人全員、どうにかしたいともがいていて、先生がそのもがきを手伝ってくれた。でも不思議なことに、六人が六人とも先生と一緒に『死』の向き合い方を考えたのに、皆違う結論に行き着いた。
「その時からだよね? 僕たちの間で、意見が割れたら多数決で決めるってルールが出来たのは」
「皆、自分の方法が正しいって思ってたし、その方法で他の五人も『死』と折り合いがつけられるって、今でも思ってるからな」
「先生に、どうすればいいと思う? って聞かれなかったら、六人の意見がぶつかり合って、またそこで立ち止まってただろうね、僕ら」
そして多数決の結果、互いの『死』の向き合い方には口を出さない事に決まったのだ。
……そう言えば、このルールも多数決というシステムも、先生と一緒に作ったものか。
でも、だとしたら僕は――
「なぁ、寿史。先生は、何であの犬を俺たちに残していったんだと思う? どうせ死んだら消えて無くなってしまうのに」
今湧き上がった違和感の正体に気づく前に、僕の頭は義法の言葉で埋め尽くされる。
僕は首を振って答えた。
「先生は、トートを僕たちに残していってくれた。それだけで意味があることじゃないか。後は、それを受け継いだ僕が残していけばいい」
「……そうかよ」
そう言ったっきり、義法は口をつぐんだ。互いの『死』との折り合いの付け方は、知っている。知っているから、僕たちはこれ以上互いに口を挟まなかった。
「ここだね」
あるボロ屋の裏手、その扉の前で、僕はそうつぶやいた。スマホで位置情報を確認し、メッセージアプリで静花たちから送られてきた写真も確認して、この扉が目的地である事を確信する。
僕は小嶋さんからもらっていた鍵で扉を解錠し、敷地の中へと足を踏み入れた。僕の後ろを、仏頂面の義法がついてくる。
「わん! わんっ!」
僕たちの姿を見つけたトートが、足を引きずりながら犬小屋から飛び出してきた。僕はしゃがんでトートを受け止めると、わしゃわしゃとその頭を撫でてやる。トートの小さなしっぽが、嬉しそうにひょこひょこと揺れた。
「……じゃあ俺、餌持ってくるわ」
「わんっ!」
「てめぇはついてくるな! 静花からの報告で、お前が餌をどか食いしようとしてたことはバレてんだよ」
「……くぅーん」
「しょげかえっても駄目だ」
「ほら、トート。僕と一緒に遊ぼ?」
「……わんっ!」
「いや、寿史。お前も仕事しろ」
「……くぅーん」
「でも義法。誰かがトートの面倒を見てないと、トートが餌を勝手に食べようとするんじゃないかな?」
「わん! わんっ!」
「うるせぇなぁお前ら……」
そう言って舌打ちをしながら、義法は一人物置へと向かっていく。ひとまずトートに、餌を与えることを優先したようだ。
一方僕は、犬小屋からトートの遊び道具を取り出して、庭にばらまいた。それを見たトートが、嬉しそうにおもちゃへかじりつく。
その様子を横目に、僕は自分の鞄からスケッチブックを取り出した。制服に砂がつくのも気にせず庭に座り込み、僕は筆箱からデッサン用の鉛筆を取り出す。
最初に使うのは、芯があまり硬くない2Bの鉛筆だ。2Bは紙を傷めずに描けるので、絵の大まかなベースを描く時に僕は多用している。
トラのぬいぐるみにかじりついているトートを横目に、僕は鉛筆をスケッチブックへ走らせた。
……動物を描く時は、相手が止まってくれている方が少ないからね。
もとより、トートに動き回られる事は覚悟の上だ。だからまず、動き回るトートの大枠を描いた上で、徐々に細部を精緻化して絵を描いていく方法を取る。
顔の輪郭に、体の大きさ。四本の足のバランスに気をつけながら、丸みの帯びだ耳と短いしっぽの位置までアタリをつけておく。
少し粗めに描き込んで、僕は今度は筆箱からねり消しゴムを取り出した。ねり消しゴムは平ぺったくして面で消したり、尖らせて線で消したりと、消すことで絵を描く事ができる。
邪魔な線をねり消しゴムを転がして消していると、義法が物置からこちらに不満の声を上げた。
「おい寿史! 犬こっちにきてんじゃねぇか! 面倒見るなら、ちゃんと見ろっ!」
「わんっ!」
スケッチブックから顔を上げてみれば、トートは物置の前に立つフードボールを持った義法の周りを走り回っていた。
「手に持ってるものを、地面に置けばいいんじゃないかな?」
「そう簡単な話じゃねぇんだよ! こいつ、物置の中の餌を狙ってやがるっ!」
「わん! わんっ!」
僕は苦笑いを浮かべて、スケッチブックをたたみながら立ち上がった。制服についた砂を払って、次来る時は折りたたみの椅子も持ってこようと思いながら、物置に向かう。
「ほら、トート。ご飯の時間だよ」
「わんっ!」
スケッチブックを物置に置いた後、僕はトートを持ち上げて物置から距離を取る。その間に義法が物置の扉を閉めて、フードボールをトートの前に置く。
トートが食事に夢中になっているのを観察している僕の目の前に、義法が箒を突き出してきた。
「こいつが飯食ってる間に、ちゃっちゃと掃除済ませるぞ」
「……わかったよ」
本音を言えば、トートを描くために、もう少しトートを観察しておきたい。でも義法が本気で怒っていることがわかったので、僕は素直に掃除をすることにした。
……それに僕も、まだ本気でトートを描き始めてないしね。
義法と犬小屋の掃除を済ませた後、今度はトートと一緒に散歩へ向かう。
その前に、ある準備が必要だった。
「これ、大丈夫なのかな?」
トートの下半身に巻きつけられたベルトを手にした僕は、不安げに義法に問いかけた。彼も渋い顔をしながら、手にしたスマホを睨んでいる。
「でも、介護ベルトの使い方はこれであってるはずだぞ」
「わんっ!」
ベルトで引っ張り上げられ、お尻が頭の位置より高くなったトートが嬉しそうに鳴き声を上げる。
何も知らずに道端でこんな格好の犬を連れている人を見かけたら、犬を虐待しているのでは? と思う姿なのだが、トートは全く平気そうだ。それどころか、早く散歩に行かせろと言わんばかりに前足を動かして、こちらを急かしてくる。
「変性性脊髄症は下半身が麻痺してるから、犬本人は後ろ足を引きずって歩いても痛みを感じない。だから犬は普通に歩こうとするが、足を引きずっているから怪我をする。だからこうやって引っ張り上げるのが正解なんだが……」
「……まぁ、ひとまず行こうか。静花たちも昨日はこれで散歩してるはずなんだし」
義法にそう言って、僕たちはトートと庭の外へ繰り出した。扉の鍵を締めていると、義法はまだスマホをいじっている。
「散歩、どこまで行く?」
「静花たちは、菫青公園(きんせいこうえん)まで行ったんだよね?」
「菫青はここから北方向に進んだ団地の近くにある公園だぞ。結構歩いてるな……」
「わんっ!」
「じゃあ、僕たちは反対方向の南側を目指そうか」
「……なら団地沿いの花田天然公園(はなだてんねんこうえん)まで行くか」
「わんっ!」
トートの声に押されるように、僕たちは道を歩いていく。後ろ足が地面につかないようにベルトで持ち上げているため、トートは下半身が宙に浮いている状態だ。
下半身が吊られているため、トートは二本の前足でバランスを取って歩いている。しかし、それですんなり歩けるわけがない。特に下半身の位置は、介護ベルトを持つ僕が決めていると言ってもいいのだから、バランスを取るのはかなり難しいはずだ。
それでもトートは嬉しそうに、自分の身に起こっている事を、これから訪れるであろう終焉を感じさせることなく、その目を好奇心に輝かせて歩いている。
よたよたとした歩みでも、トートは耳をひょこっと動かしながら前に進んでいた。
先生が残してくれたそれの姿を見て、その在り方を見て、僕は思わずつぶやいていた。
「美しい……」
「おい、やめろっ!」
義法が、苛立ったような、切羽詰まったような表情で、僕の肩をつかむ。その力に、僕は僅かに眉をひそめた。
「終わろうとしているものに、意味を見出しすぎるな。お前まで引きずられて――」
「お互いの『死』に対する向き合い方には口を出さないって、そう決めただろ?」
義法の手を、僕は強かに払いのける。目を細めながら、僕は義法を一瞥した。
「先生の葬儀の時から、続けてだよ? 義法。破るのかい? 僕たちのルールを」
そう言った僕を見て、義法は狼狽えた。
「ち、違う! 俺はただ、お前が――」
「そう言えば、義法っていつも多数決で誰かの意見を否定する方に投票するよね? そうやって誰かを否定して、楽しい?」
「……何だと?」
「全てが無意味だと思うのは義法の自由だけど、それを僕にまで押し付けないでくれよ。はっきり言って、ウザいよ。それ」
「てめぇ!」
「くぅーん、くぅーん」
義法が僕へ一歩踏み出した所で、トートが僕たちの間に入り込む。
トートは義法の足にまとわりつき、義法が一歩後ろに下がった。その後トートは、僕の周りを一周し始める。トートのベルトを握っている以上、僕もその動きに合わせてその場で一回転するしかない。
一回転し終えると、なんとも言えない表情を浮かべた義法と目があった。
「……勝手にしろ」
毒気が抜けた表情の義法がそう言って、先に歩き始めた。
「わん! わんっ!」
トートが元気よく鳴き声を上げ、義法の後を追う。一歩踏み出した所で、トートがこちらを振り向いた。僕は少しだけ、口元を緩める。
「……うん。そうするよ」
そう言って、僕も歩き始めた。
夕日に照らされ、二人と一匹の影が道路に伸びている。予定通り花田天然公園にたどり着き、家に帰った所で、僕も義法も帰路についた。