もう消えてしまいたいって思ったことはないか?
 俺はある。
 今も、そう思っている。
 校舎の四階。美術室がある棟とは反対の棟。その一年生の教室が並ぶその階の空き教室で、俺は授業をサボっていた。
 もちろん、学校側も空き教室は鍵を閉めている。でも、鍵がかかっている窓ごと抜いてしまえば、それは全くの無意味。木でできた窓枠を斜めにして何度も動かせば、こういう窓は以外に簡単に開くものだ。
 後は教室に入り、今度は窓を抜くのとは逆の方向に動かせば、窓は俺が忍び込む前の状態になる。
 ……まぁ、こんなこと知ってたって、結局無意味なんだけどな。
 檸檬月高等学校に入学してから、俺は度々こうやって授業をサボっていた。
 今回俺が選んだ教室は、物置程度にしか使われていない場所だった。中は若干ホコリっぽい。土っぽさも感じるのは、体育祭の時に使うであろうリレーのバトンや縄跳び、たすきなどが置かれているからだろう。
 他にも理科準備室からあぶれたであろうよくわからない生物の模型や、社会準備室に入り切らなかったに違いない甲冑の上半身だけが置いてあったりもした。
 俺は誰もいない教室の中、外から見つからないように窓側の壁に背を預け、イヤホンを耳につけてスマホの音楽プレイヤーを起動する。自分のスマホでランダム再生をしている曲を聞きながら、今この曲を聞いている俺に意味なんてないんだと、そう思った。
 ……本当に、何やってんだろうな、俺。
 この世界に意味はない。何故なら最後は皆死ぬからだ。だから日々の積み重ねなんて意味がないと、こうしてサボってみても得られるのはどうしようもない虚無感だけだ。
 ……本当に、生まれてこなければよかったのに。
 どうせ全て無くなるなら、この虚無感を今すぐにでも消して欲しかった。『死』が待っているなら、どうあがいても逃れられないのなら、もういっそ消えてしまいたい。消えて、無くなってしまいたい。
 音楽プレイヤーからどれだけポジティブな歌詞が流れてきても、その歌は俺以外の誰かのために歌われているものだとしか思えなかった。
 そうやって斜に構えていれば、当然自分のクラスでの居場所も無くなっていく。別に進んで誰かとつるむつもりもないが、スクールカーストのはみ出し物になっても、やっぱり得られるものは虚無感だけしかない。
 そう思うと、この教室に置かれている備品たちの無秩序感が俺そのものの様に感じてくる。明確な行き場がなくて、とりあえずここに詰め込まれている感じに共感を覚えてしまい、俺は思わず皮肉げに笑った。
 虚無感を感じる度、右手がじんわりと痛む。もう完治していると医者には言われているが、この幻痛がある限り俺は全ては無意味だという現実を突きつけられた気がした。お店で見つけた欲しいおもちゃを買うために必死にお小遣いをためたのに、いざ必要な金額が貯まって買いに行った時にはもうそのおもちゃは売り切れていたような、そんなどうしようもなさ。金はあるのだから別のおもちゃを買う選択肢だってあるのに、どれを選んでもきっと満たされない。
 コンクリートの壁に、俺は頭を押し付ける。冷たさと硬さが返ってきて、俺はその冷たさと硬さだけの存在になりたくなった。
 
 ホームルームの内容を聞き流して、俺はいつもよりも早く校舎を後にする。今日はトートの世話をする日で、寿史と約束がなければいつもならダラダラと向かうのだが、今日は早く学校を離れたい気分だった。
 放課後を迎えた校舎からは、帰宅や部活に向かう生徒たちが溢れている。俺はその波の間を抜け、やかましく鳴く蝉の声に揺られながら、校門を目指していた。
 すると、俺の足に何かが当たる。視線を足元に向けて、俺は硬直した。
 俺に当たったのは、テニスボールだった。
 足にあたったものだけでなく、何個かボールが俺の方に転がってくる。
「すみません! それ、拾ってもらえますか?」
 声のした方を見ると、練習着を着たテニス部だと思われる連中がテニスボールが詰まったかごを運んでいる所だった。
 俺の右腕が、痛む。
 その痛みを誤魔化すように、俺は転がってきたテニスボールを無言で拾ってテニス部の方へ投げてやる。転がってきた全てのボールを投げ終える前に、テニス部の一人が俺の顔を見て首を捻った。
「あれ? 君、全中のシングルスで出てた――」
「悪い。俺、用事あるから」
「あ、ちょっと!」
 そう言って俺は、その場から逃げるように立ち去る。
 痛い。右腕が。右腕が、痛い。二年前、交通事故で傷を負った、いわゆるテニス肘と呼ばれる場所が、ズキズキと痛んだ。
 ……そうだった。運動部の奴らと会わないようにするために、時間をずらしていつも帰ってたのに。
 うかつな自分に対する怒りと痛みがごちゃまぜになり、俺の心はかき乱される。
 そのまま走るように駅まで向かうと、改札で鞄の中から左手でICカードを取り出すのに手間取りながら、俺は電車に乗り込んだ。乗った電車は家とは反対方向で、トートが住む家の方角に向かう電車だ。
 俺の乗った車両には、俺以外にもまばらにサラリーマンや大学生らしい人の姿があった。
 俺は空いている座席を見つけると、倒れ込むようにどっ、腰を下ろす。そこで、俺は右手にあるものを握っていることに気がついた。
 テニスボールだ。
 昔の話をされそうになって慌ててしまい、そのまま持ってきてしまったのだ。
 ……最悪だ。
 俺はそれを、握りつぶすように右手に力を込める。懐かしいボールの感触と肘の痛みで、もうどうしたらいいのかわからなくなった。
 テニスを始めたのは、親の頼みだった。『死』で変わってしまった俺に、何かしら集中して取り組めるようなものを作ってほしかったのだろう。そういうものがあれば、彼らとして安心出来たのだ。何をやっても無意味だという考えに変わりはないが、体を動かすのは小学校三年生の時から嫌いじゃなかった。
 だから俺はテニスをやることを受け入れて、それは全て間違いだった。
 ……何かを積み重ねたって、意味が無いて俺は、知っていたはずなのに。
 告白しよう。テニスをするのは、楽しかった。ボールに追いつき、次はどうやって相手のコートを責めるのか考えるのが、好きだった。イメージ通りのサーブが打てた時は心が踊ったし、渾身のスマッシュが決まった時は喉が裂けそうなほど歓喜の声を上げた。
 ……だから俺は、間違えたんだ。
 皆で、決めたはずなのに。『死』に対する向き合い方を、折り合いの付け方を各々決めたはずなのに、俺は自分で決めた方法を破ったのだ。多数決をして一人一人決めた事を、守れなかった。
 ……告白というより、これは懺悔に近いな。
 がむしゃらに練習した。
 全力で走り続けた。
 テニスボールを追って、俺はより先を追い求め。
 そして最終的には、事故で積み重ねてきたものが無意味になった。
 ……やっぱり、この世界に意味なんてねぇよ。
 電車の窓から、風景がどんどん流れすぎていく。今視界から消え去ってしまったものは、実はこの世界から消え去ってもわからないのではないか? と思った。だって見えなくなったものの存在を把握する方法を、俺は持っていないのだ。だからもしそうなっていたとしても、俺はなくなったことに気づけない。
 ……そんなわけ、ないのにな。
 馬鹿な事を考えていると、電車が目的の駅に到着する。
 俺は乱暴にテニスボールを鞄に仕舞うと、それを担いで列車を降りた。俺が今やって来た方向へ視線を向ける。やはり、窓から消え去った風景はその場に残っていた。
 ……でも、どれだけ頑張ってトートの世話をしたって、あいつは死んじまうんだぞ。
 そう思いながら、俺は駅の改札へと足を向ける。一歩一歩歩く度、消え去ってしまいたいという気持ちが強くなっていった。
 
「あ、義法」
「静花か……」
 トートが待つ庭へ続く扉の鍵を開けようとした所で、今日ペアとなる静花から声をかけられる。
 鍵を開けて静花と一緒に扉をくぐると、トートが元気よくこちらに向かって駆けてきた。
「わん! わんっ!」
「おまたせ、トート」
「わんっ!」
 嬉しそうに笑う静花に撫でられ、トートがその嬉しさに応えるように吠える。そのトートの体には、あるものが付いていた。車輪だ。
 体を固定し、後ろ足が地面に引きずらないように調整された、犬用の車椅子らしい。これなら下半身の麻痺が進行しているトートでも、補助輪があるので前足を使って移動することが出来る。
 最近では庭を歩き回ることも少なくなっていたトートも、二輪の車椅子をつけてからは以前のように歩くようになり、心なしか元気になったように見えた。車椅子の費用は小嶋の承認が降りて、先生が残してくれたお金で賄われている。
 ……これをトートにつけることを言い出したのが、よりにもよってお前かよ。
 車椅子の発案者の静花ははしゃいだような笑顔を浮かべて、トートと戯れている。その様子を見ていたら、静花が最初トートを極端に恐れていた時のことが、幻だったのではないか? と思えてくる。
「ほーらトート。そろそろご飯にしようねー」
「わんっ!」
「……どうしたんだよ、お前」
「ん? 何が? 義法」
「お前、トートのこと怖かったんじゃねーのかよ……」
 何故そんな事を言ってしまったのか、自分でもよくわからない。ただ俺は、変わっていく静花を見て、どうしようもない焦燥感に駆られていた。
「静花は、『死』が怖かったんだろ?」
「うん、今でも怖いよ」
「だったら!」
「でも、放っておいたら『死』がどんどん近づいてくるなら、それを遠ざけるように頑張ろう、って思ったの。トートが傷ついているのを見て、本当に強くそう思った」
 その話は、俺も知っている。寿史が全てを静花に押し付けた時の事だ。
 でも、だったらなおのことわからない。
「静花は、『死』を恐れることで折り合いをつけたんだろ? なのに、そこに向かっていくなんて変だろ」
「変じゃないよ。誰も私から『死』を遠ざけてくれないなら、私が自分でするしかないって、ただそれだけ。後ろ向きなんだよ、結局私も」
「くぅーん」
 そんな事はないとでも言うように、トートが静花にすり寄った。そのトートを撫でる静花を見て、俺はだんだんど苛立ちを隠せなくなってくる。
「そんな、そんなに都合よく考え方変えていいのかよ! 俺たちの『死』との向き合い方を、折り合いの付け方をっ!」
「ちょ、ちょっと! 急に大きな声出さないでよ。トートが驚くでしょ?」
「わんっ!」
 ああ、もう本当に消えてしまいたい。何をやっているんだ、俺は? 静花を怒鳴るつもりも、トートを怯えさせるつもりもなかったのに。
 顔を歪め、一歩下がる俺に向かって、静花がトートを優しく撫でながら口を開いた。
「……大丈夫だよ。なんとなく、わかってるから。テニスのことでしょ?」
 違う!
 そう言いたかったのに、俺の口は何故かその言葉を吐き出さない。
 黙り込む俺に向かって、静花はゆっくりと言葉を重ねる。
「私ね。本当の意味で『死』と最初に折り合いをつけれて、向き合うのは、義法だと思ってたんだよ」
「な、何を言ってるんだ? 静花。俺は、俺たちは多数決で――」
「違うの、違うよ義法。義法は事故にあわなければ、きっとテニスを続けてた。私を含めた他の五人も、きっと義法にとってのテニスを見つけることになるんだよ」
「静花……」
「私、なんとなくわかってきた。先生が、先生が私たちにトートを託してくれた意味が」
「わん! わんっ!」
 そのタイミングで、何故かトートが俺の方に向かって走り出した。何事かと一歩下がると、いつの間にか俺の鞄からテニスボールが零れ落ちている。
 トートはテニスボールを加えると嬉しそうに俺の周りを一周回って、ボールを俺へ差し出した。
 ……意味が、わからない。
「遊んで欲しいんだよ、きっと」
 静花が毒気を抜かれたような表情で、そうつぶやいた。
 俺は、更に混乱する。
「は? 何で俺が――」
「わん! わんっ!」
 トートは俺の足元にテニスボールを置くと、てくてくと距離を取り始める。そしてその後、今か今かと瞳を輝かせて、俺の方へ振り向いた。
「投げてあげたら?」
「わんっ!」
「え、でも――」
「私、トートのご飯の準備してくるから」
 そう言い残し、静花は物置の方へ向かってしまった。
 釈然としないままではあるが、俺は鞄を下ろしてテニスボールを拾い上げると、下投げでトートの頭を越すように放り投げる。
「わん! わんっ!」
 俺の投げたボールを追って、トートが楽しそうに走り出した。からからと車輪が回り、やがてトートはボールへとたどり着く。そしてそれを加えた後は、一目散に俺の方へ戻ってきた。
「わん! わんっ!」
「……まだやるのか」
「わんっ!」
 足元に置かれたテニスボールを握り、俺は再度トートに向かって投げた。ゆるい放物線を描いたそれは、庭に二度、三度と叩きつけられる。しかし、四度目の地面との接触の前に、トートがそれを口で捉えた。
 嬉しそうな顔をしたトートが、また俺の方へ戻ってくる。それを見て俺は、どうしようもない嫌悪感を覚えた。
 トートに対して、ではない。
 俺自身に対して、だ。
 トートは、懸命にボールを追うことを選んだ。下半身が動かないながらも車椅子を動かして、嬉しそうに庭を駆け回っている。
 ……それに比べて、俺はどうだ?
 右腕が、ズキズキと痛む。
 傷は、完治しているはずなのだ。一度怪我をしてブランクが出来ているとは言え、テニスを続けることは可能だった。
 でも、俺はやらなかった。諦めた。足掻かなかった。何故なら死んだら全部、無くなるからだ。無意味だからだ。無価値だからだ。
 最後に死ぬのなら、この世界に意味はない。
 しかし、本当に無意味で無価値なのは、俺だ。
 何を頑張っても最終的になくなり、結果は無意味だと定めたのは、俺自身だから。
 自分で決めた『死』への向き合い方を使って、俺は何もしないことを肯定し続けようとしていたのだ。
 別に、何もしないという選択を否定するつもりはない。納得しているのであれば、すればいい。
 でも俺は、トートと自分を比べて嫌悪感を抱いた。俺より先に変わっていく静花を見て、焦燥感を得た。
 ……全然、納得なんてしてねぇじゃねぇか。
 積み上げたもの全てが無価値なら、積み上げようとした行動も、積み上げないという行動も、等しく無価値なのだ。どちらを選んでも、無意味なのだ。
 だったら、自分の納得する方を選択すべきなのだ。欲しいおもちゃがお店にあるうちに買って後悔するか、買わなくて後悔するかの違い。金はもう持っている(傷はもう治っている)。
 そして俺は、買わない方(続けないこと)を選んでいた。
 ……それなのに、消えてしまいたいだと? 自分で選んだくせに、自分の選択にグチグチ言ってんのか、俺は!
 自分の矮小さに気づき、俺の口から引きつるような声が出る。気持ち悪い。
 偉そうに寿史に説教しようとしていた自分が気持ち悪い。
 全てを諦めた風に見せかけて授業をサボっていた自分が気持ち悪い。
 今日テニス部のやつらから逃げ出した自分が気持ち悪い。
 自分の存在、全てが本当に気持ち悪い。
「……くぅーん、くぅーん」
 テニスボールを手に持ち固まった俺に、トートがからだを擦り付けてくる。
 その優しい暖かさを感じ、より惨めになった俺は、トートから距離を取ろうとする。
「やめろ……」
「くぅーん、くぅーん」
 しかし、どれだけ下がっても、トートは俺のそばから離れない。
「無理よ。その子、頑固だから」
 顔を上げると、ドッグフードが入ったフードボールを持つ静花が、こちらに向かってくる。
 静花の手にした餌に気づいたトートは一瞬顔を俺から静花へ向けるが、すぐにこちらの方を振り向き、俺の顔をじっと見つめ始めた。
「義法も一緒に、ドッグフードに近づいて欲しいのよ」
「わんっ!」
「……お前、よくわかるな」
「簡単よ。その子、素直だもん」
「わんっ!」
「義法を放って置けないけど、ご飯も食べたいのよね?」
「わんっ!」
「そんないいとこ取りなんて、やっていいのかよ……」
「いいのよ。きっと」
「わん! わんっ!」
 俺は観念したように、静花の方へ歩みを進める。トートも同じ速度で、俺の隣に付いてきた。
 静花が俺の足元にフードボールを置くと、トートは嬉しそうにそこへ顔を突っ込ませる。そしてたまにこちらを仰ぎ見ながら、ボリボリと餌を貪っていった。
 そのトートの頭を撫でながら、静花が口を開く。
「多分、多分ね? 私たち、固執しすぎてるんじゃないかな?」
「……何に?」
「一度決めたことに。一度決めた内容じゃなくて、その形を、体裁を取り繕うことばっかり気にしてるんじゃないかと思う」
 静花の声に答えることをせず、俺は腰を屈めてトートとの距離を近くした。
「……静花。トート、撫でていい?」
「どうぞ」
 静花と入れ替わりに、俺はトートの頭を撫でる。するとふわふわした毛並みの感触がして、トートの暖かさをより近くに感じることが出来た。
 自分の頭を撫でる俺を、トートがフードボールから顔を出して振り向く。
 ドッグフードのかけらを口の周りにつけながら、トートは嬉しそうに笑った顔で、気持ちよさそうに目を細めていた。