私は、冬が嫌いだ。
あの静寂で、止まったような冷たい空気が嫌いだ。雪が積もって、全てを覆い隠してしまいそうな気配も嫌い。年末の、今年一年の終わりを告げる鐘の音が嫌いだった。
終わってしまうことは、『死』は、怖い。
だから夏は、今の季節は、まだマシだ。
「ねぇ、今度の休み、皆でプール行かない?」
「あ、いいねいいね!」
学校のお昼休み。クラスの友達とお弁当を食べながら、私は笑顔を浮かべてその話題に頷いてから口を開いた。
「でも、その前に水着買いに行かないとじゃない?」
「あー、確かに!」
「私去年より太ったからなぁ」
お弁当箱に箸を置き、スマホで水着を調べ始めた友達を横目に、私もスマホを取り出した。
……ひとまず、すぐにプールに行くことにならなくて、よかった。
私は自分から活発にどこかに行くようなタイプでもなければ、率先して誰かを導いていくタイプではない。
ただ周りの空気を悪くしないように、それでいて話が転がるような言葉を口にしているだけだ。
……私は、終わらなければいいから。私の存在を、認めてくれればいい。
自分の意見を通すよりも、相手の意見に乗り、その相手から自分の存在を認めてもらうほうが、私には重要だ。
『死』は、終わってしまうことだ。無くなってしまうことだ。私は、それが怖い。目の前に居るのに、いないように扱われるなんて、それはもう死んでいるのと同じだ。
それが怖くて空気を読んで、読み続けて、気づけば私は今のポジションになっていた。
……スクールカーストとか、別にそんな事、気にしたことなかったけど。
空気を読んで生きてきた私は、私が周りからどう見られているのかもわかっている。むしろ『死』を恐れる私には、その能力こそが重要だった。
……キャラと違うことをすると、皆引くから。
引かれると距離が取られ、人間関係は疎遠になる。離れれば離れるほどその関係は薄まっていき、ついには無くなって消えてしまう。
……怖い。
終わって、無くなって、消えてしまうのは、怖い。それはもう、『死』そのものだ。だから私は、気づいたらなっていたスクールカーストの上位というキャラを維持する必要があった。
……だから話がつまらなくならないように気を使うし、おしゃれの話にもついていけるように、閲覧用にSNSのアカウントも毎日チェックしてる。
学校での友人との関係を維持することで、私は他の人から金丸静花という存在として認知される。このキャラを維持できなければ、私は私の居場所を失い、死んでしまう。
「え、ちょっと待って。この水着ヤバくない?」
「めっちゃ可愛いじゃん!」
「でも、攻め過ぎじゃない?」
「これぐらい普通っしょ。あ、フォロワー増えた」
その声に、周りの子たちから歓声が上がる。
「え、やば。フォローしてくれた人、フォロワー八千人超えるじゃん」
「マジ? 私バズるかな?」
「企業案件来るかもよ?」
「そうなったら、何かおごってよ」
私がそう言うと、周りに笑いが広がった。
「マジで? インフルエンサー狙っちゃう?」
「てか、静花は自分の写真上げないの? アカウント持ってるんでしょ?」
「確かに! 静花なら絶対フォロワーつくっしょ。芸能事務所からスカウトされたりして」
「えー、そんな事ないよ」
そう言いながら、私は若干頬を引きつらせる。
「私、見る専だからさ。それに、写真撮るの下手だし」
「そうかな? でも皆顔なんて加工して上げてるんだから、気にしなくてよくない?」
「てか待って。ちょーエモい動画見つけたんだけど」
「えー、どれどれ?」
話題が変わったのをこれ幸いに、私は動画の話に食いついた。他の子達も、動画の話に夢中になる。それを横目に、私は自分の思考に沈んでいった。
……SNSで誰かと繋がるなんて、無理。怖い。
私にとっての世界は、ここなのだ。この、目で見えて、手で触れれて、声が聞こえるリアル。私の生きている世界は、私の見えている範囲でしかありえない。
顔も知らない誰かと繋がるのが怖いのではない。ボタンひとつで解消できてしまう、SNS上での関係が怖いのだ。
……簡単に消せてしまえる関係なのに、何で皆夢中になれるの?
『いいね』やコメントをつけるのは、まだいい。フォロワーが増えたことに一喜一憂するのも、理解できなくはない。
でも、簡単にアカウントを作り変えれてしまえるという環境が、私には恐ろしすぎた。
SNSのアカウントは、ネット上の自分自身だ。
その自分自身の振る舞いによって、時にアカウントは凍結され、炎上もする。あるいは、パスワードを忘れれば、もう二度とログイン出来なくなってしまうだろう。
もしそうなった時、ほとんどの人はアカウントを作り直す。有名人でも企業アカウントでもなければ、それはごく一般的に普通に行われていることだ。
……でも、アカウントは自分自身なのよ?
アカウントを作り直すというのは、新しい自分自身に生まれ変わることでもある。でもその前に、まず自分自身(アカウント)を殺さないと(消さないと)いけない。
……そんなの、自殺と同じじゃない! そんなの私、耐えられないっ!
だから私はSNSは見る専で、何も投稿しないし、誰もフォローしない。あんなに『死』が近い環境を、自分の生活の一部になんてしたくなかった。SNSはログインが必要なニュースサイトと変わらない使い方しか、私は絶対にしないのだ。
……それ以上、近づきたくもない。
そう思いながらも、今日も私はその顔に笑顔を張り付かせる。
カラオケに向かうという友達と別れて、私は一人学校を後にする。学校のグラウンドから運動部の掛け声が聞こえてくるのを横目に、私は帰宅する生徒たちの列に混じって最寄り駅まで歩いていった。放課後なのに、まだ気温が高い。夏の太陽は、どうしてこうも元気なのだろうか?
地下の改札を通って、駅のホームで次の電車を待つ。二、三分も待たないうちにやってきた電車に乗り込むと、自然と額から汗が流れ落ちてきた。私はそれを拭いながら、空いている席へ腰を下ろす。
動き出した電車の進行方向は、私の帰宅経路とは反対側。今日、私はトートの世話をする日だった。
席に改めて座り直し、私は大きなため息をつく。
……本当に、どうしたらいいの?
最近、寝ても覚めてもトートの事を考えてしまっている。見た目はとても可愛い犬なのに、もう終わりが近づいているあの犬が、私は怖くて仕方がない。
……他の五人には気にしすぎだって言われるけど、『死』は、怖いよ。
自分が『死』に敏感になっている自覚はある。しかし、これが私の『死』に対する向き合い方、折り合いの付け方なのだから、仕方がない。
『死』は怖くて、恐ろしい。だからなるべく離れていたい。近づきたくない。死体を見つけたあの日にだって、それに気づいていたら、私は皆の手を引っ張れていたのかもしれないのだ。
怖いから、離れよう。私がそう言えれば、二時間も皆死体の前で立ちすくむ必要もなかったはずだ。
怖くて、恐ろしいものからは、逃げてしまえばいいのだ。
……でも、実際に逃げれるかどうかは、話が別だよね。
現に今も、私は私が恐れるトートの元へと向かおうとしている。『死』を強烈に連想させるトートが、怖い。
犬の世話が嫌だとか、そういうレベルではなく、もう会うのすら怖くて嫌なレベルだ。
……でも、お世話するって、多数決で決まっちゃったから。
死体の前で動けなかった私たちが歩き始めるきっかけとなったのが、多数決だ。
『死』に対しての意見が六人とも分かれた時、それでも私たちはどうすべきなのか? という行動指針を決めるためのシステム。皆と歩いていくためのルールを決めるもの。それが、私たちの多数決だ。
……だから義法も嫌がってたけど、多数決に従うんだよね。
そうしないとまた、目の前の『死』から動けなくなってしまいそうだから。次にそこから動けなくなったら、他の五人に取り残されたら、きっと誰もが色々なものに耐えられなくなると、誰も口に出さなけれど皆そう気づいている。
……だから私も今日、トートに会いに行くんだよね。
窓の外を流れる風景を見ながら、私はもう一つの、トートに会いに行く理由を考えていた。
……誰かがお世話をしないと、あの子、多分すぐに死んじゃうから。
『死』は、怖い。だから逃げたいし、離れたい。
でも、その『死』に近づいていってしまう状況も、私には耐え難かった。何もしなければ『死』に近づいていってしまうなら、それを少しでも止めたいと思っている。
でもトートの変性性脊髄症は、原因が解明されていない、治療できない病気だ。
だから今、この瞬間ですらその病はトートの体を蝕んで、その寿命を削り取っている。それを想像するだけでたまらなく怖くなるが、トート自身はその事に気づいていない。
……本当は、庭でも走り回って欲しくないんだけど。
足を引きずって歩けば、そこが傷つく。しおりと一緒にお世話をしに言った時、ご飯に凄い反応していた。反応して走り回るから、トート自身がトートを傷つけてしまうから、出来るだけおとなしくしていて欲しい。
……紫帆たちからも、おしっこを漏らしちゃったって聞いたし。
だいぶ、下半身が麻痺してきているのだろう。そうなると、今後は食欲もなくなってくるはずだ。そういう意味では、元気なうちにご飯を食べてもらった方がいいのだろうか? でも、間違いなく食べ過ぎはトートの健康に良くない。
あれこれ悩んでいるうちに、目的地の駅に到着した。
電車を降りながら、私はため息をつく。
……何でこんなに怖いもののために、私、悩んでるんだろ?
釈然としない思いを抱え直すように、私は自分の鞄を背負い直して、改札口へと向かっていく。
扉を開けると、嗅いだことがない臭いがして、私は思わず顔をしかめた。トートの待つ庭には既に先客がおり、キャンバスの前にその人が立っている。
私はその人物に向かって、声をかけた。
「寿史、何してるの?」
「見ての通りさ。絵を描こうとしてるんだよ」
見れば、寿史の足元には絵画用のバケツにペイントパレットなどが用意されている。臭いの原因は、そのペイントパレットトに出された絵具だった。
「……くぅーん」
いつもなら誰かが現れた瞬間ご飯を求めてこちらに走り寄ってくるトートだが、今日は様子が違うみたいだ。お腹まで地面に押し付けた状態で、犬小屋の前から遠巻きにこちらを見ている。
私は寿史に問いかけた。
「トート、どうしたの?」
「さぁ? 僕が最初に来た時は、いつも通りだったけどね。こうやって絵の準備をしてたら、あんな感じになっちゃって」
「それ、完全に寿史の絵具の臭いが原因でしょ……」
そう言いながら、私は寿史が用意したキャンバスに近づいていく。キャンバスにはまだ下書きしか描かれていない。
私の視界の隅に、寿史の鞄から覗いているスケッチブックが目に入った。
「それ、見てもいい?」
「どうぞ」
私がスケッチブックを手に取る横で、寿史はブレザーを脱いでシャツの腕をまくる。折りたたみの椅子も持ってきており、それを組み立てる寿史から少し離れて、私はスケッチブックを開く。
そこには全ページにわたって、びっしりとトートの絵が描かれていた。
正面からこちらを向いているものもあれば、全く違う方向に顔を向けているものもある。おもちゃで遊んでいる姿の隣には、フードボールに入ったご飯を嬉しそうに食べているトートの姿もあった。
顔だけの絵や、全体を描いたもの。あくびをしている姿や、寝転んでいるもの。それら全てにおいて、あらゆる角度から精緻に描かれたトートの姿が、スケッチブックの中にあった。
私は思わず、こうつぶやく。
「凄い……」
「そのままそこに色をつけても良かったんだけど、やっぱりちゃんと絵で、油絵でトートを残しておきたくてね。スケッチしたおかげで、もう今のトートを残すのにそれは(トート)必要なくなったよ」
寿史の言葉に、私は首をひねった。絵を描くのに、その対象が必要ないなんて、私にはイメージがつかない。
……でも、絵を描く人たちの間では、それが普通なのかも。
私はスケッチブックを閉じて鞄を置くと、寿史の方へ振り返る。
「それじゃあ、トートが大人しくしている間に、ご飯の準備と掃除を終わらせましょう」
「うん、そうだね」
そう言うものの、寿史は組み立て終えた椅子に座ると、ペイントパレットと筆を手にする。
私はスケッチブックを寿史に突き出すと、少しだけ眉を釣り上げた。
「言ってることと、行動が伴ってないんだけど」
「ごめん静花。でも、今気分がノッててさ。いい絵が残せそうなんだよ」
「……そういうのは、やることをちゃんとやってからしてよ」
「だから、ごめんって。きりが良い所でちゃんと手伝うから。あ、スケッチブックは物置に適当に置いておいてくれればいいよ」
「……くぅーん」
寿史はもう私の方を見もせず、キャンバスに筆を走らせている。そのキャンバスに描かれる対象のトートは、お腹が空いたよ、早くご飯が食べたいよ、と言うように切なげな声を上げていた。
その姿を見て、私は少し言葉を詰まらせる。正直、トートには今のまま大人しくしてて欲しい。でも私がご飯を用意し始めるのを見たら、こちらに駆け寄ってくるかもしれない。怖い。
……だからって、このままご飯が食べれないとトートも辛いだろうし、ストレスが溜まると体に良くないだろうし。
くっ、と下唇を噛んで、私は意を決したように物置に向かって歩き出した。それを見たトートが、瞳を輝かせる。お腹を引きずりながら、トートがこちらに向かってきた。
「わん! わんっ!」
「ひっ!」
……ああ、もう! どうして皆こう身勝手ないのっ!
トートは怖いし、寿史はムカつく。怒りと恐怖で内心ごちゃまぜになりながら、私は物置の中に駆け込んだ。
「わん! わんっ!」
「も、もう! 静かにしてよっ!」
物置の前で、早く早くと舌を出したトートがこちらを見上げて吠えてくる。
反射的に、手にしたスケッチブックを投げそうになるが、そんな事をしてトートが傷ついてしまったらどうするのかと、ギリギリの所で私は堪えた。トートが傷つけば、トートの『死』がそれだけ近づく。そんな事、私に出来るわけがなかった。
「わんっ!」
「お、お願いだから、静かにしてっ!」
「わん! わんっ!」
……こっちの気も知らないで、そんなに嬉しそうな顔してっ!
スケッチブックを物置の棚に乱暴に放り投げ、私は震える手でドッグフードの袋に手を伸ばす。だが、手が震えて上手く袋がつかめない。二回、三回と手を伸ばして、ようやく袋をつかむことが出来た。
額に汗が滲み、目にもうっすら涙が浮かぶ。何で? だとか、どうして? という単語が頭の中をぐるぐる駆け巡るが、もう意地でもなんとかしてやろうという気持ちで、私はフードボールにドッグフードを注いでいった。
私はヤケクソ気味になりながら、ボールをトートの前に置く。
「ほ、ほら! これでいいでしょっ!」
「わんっ!」
トートは嬉しそうに吠えると、フードボールの中に頭を突っ込んだ。ガリガリとドッグフードをかじるトートを見ることもせず、私は物置から出て汗を拭う。
本当に、色々と無茶苦茶だ。一人でトートの世話を出来るわけがないと思ったから、二人制にしてもらったのに。
今だって、自分一人で餌の準備が出来たのは、奇跡に近い。普通だったらトートに追いつかれ、物置の中に侵入を許していただろう。そう、普通だったら。
そこで私ははっとなって、トートに駆け寄った。
そうだ。普通なら私は、トートに追いつかれる。でも、トートが私に追いつけなかったということは、普通じゃないことがトートの身に起こっているということだ。そう言えばトートは、今日は後ろ足だけでなく、お腹まで地面に引きずって走っていた。
トートが病気だということで、最悪の想像が私の頭の中を駆け巡る。
「ご、ごめんね。ちょっと触らせて」
「わん! わんっ!」
ご飯を食べている所を邪魔されたからか、トートは私の手を邪魔そうに振りほどこうとする。必死に抵抗されるが、私だって必死だった。
「お願い、ちょっとだけだからっ!」
「きゃんきゃん!」
「お願い、お願いよ、トートっ!」
「……くぅーん」
私の必死さが伝わったのか、トートが私の手の中で大人しくなる。お腹をこちらに向けるように、私はトートをひっくり返した。そして、目をひそめる。
トートのお腹から足にかけて、血が滲んでいた。
体を引きずるように無理やり動いていたので、体が傷ついてしまったのだ。傷を負っても、変性性脊髄症で体が麻痺しているため、痛みに気づかずにトートは走ってしまう。
「寿史、スマホ持ってる?」
「え、どうして?」
「トートが怪我しているのっ!」
振り向くと寿史は先ほどと変わらず、絵を描いている。
怒りで一瞬我を忘れかけるが、私はトートを抱えて自分の鞄まで走り、スマホを取り出して電話を掛ける。
電話の宛先は、弁護士の小嶋さんだ。
『……もしもし?』
「もしもし? 私、トートのお世話をする事になった金丸です! 金丸静花ですっ!」
『ああ、金丸さんですか。お久し――』
「トートが怪我をしてるんです! 病院の手配をお願いできませんかっ!」
小嶋さんの言葉が言い終わる前に、私はそう叫んでいた。
私の焦りが伝わったのか、小嶋さんもすぐに対応してくれる。
『わかりました。すぐに手配します。通院費等は気にしないでください。怪我をしている部分は、足ですか?』
「足から、お腹にかけてです」
『では、患部を水で洗ってください。砂やバイキンがついているかもしれませんから』
「わかりました」
電話を切り、トートを洗おうと顔を上げると、寿史は相変わらず絵を描いていた。
そこで、私の中で何かが切れる。
「……寿史、いい加減にしなさいよ」
「何が?」
「あなた、トートがこんな事になってるのになんとも思わないの? てか、そもそも絵を描くためにトートのことよく見てたんでしょ? 怪我してたって気づかなかったの?」
「さっきも言っただろ? 僕はもう、トートを残すのに必要なものは見たんだよ」
そこでようやく手を止め、寿史はこちらに振り向いた。
その瞳は、ここではない、どこかを見ているようながらんどうなものだった。
「これから僕は、トートを絵に残すんだ。トートを永遠にするんだよ? それが傷が出来たとかどうとか、何をそんな事で騒いでいるんだい?」
その言葉に、私は絶句して何も言えなくなる。
寿史はもう、現実のトートを見ていなかった。彼はトートを絵に残すことで、永遠という形にすることで、トートの『生』にも、トートの『死』にも折り合いをつけてしまっている。
……そうじゃない、そうじゃないよ、寿史!
そう言いたいが、他の五人の『死』との向かい方には口を挟めない。私の口はなんと言葉を作ればいいのかわからなくて、私は結局顔を伏せた。
「……くぅーん、くぅーん」
うなだれた私の顔を、傷だらけのトートが慰めるように舐めてくれる。
……私のこと、心配してくれてるの?
何故だか私はとても悲しくなって、少しだけ、泣いた。
どうせ死ぬなら、人生を楽しんでから死にたくない?
辛いことや悲しいことなんて、経験しない方がいいに決まっている。
……一秒後に死ぬかもしれないなら、楽しくて、面白くて、気持ちいい事を選んだほうがいいよねー。
そう思いながら、あたしはトートに会いに行くため立ち上がろうとする。
「おい、ちょっと待てよ」
そう言って塩畑 海(しおはた かい)は、手をとてあたしを引き止めた。風が吹いて、あたしのポニーテールが雑に揺れる。あたしたちは今、校舎の屋上にいた。
「紫帆。お前、最近付き合い悪ぃぞ」
そう言って海は、口からタバコの煙を吐き出す。煙は彼の金髪をくゆらせて、青いペンキをぶちまけたような夏の青空へと消えていった。
海はあたしと同じ、朱冨澤高等学校に通う三年生。新入生として入学してそうそう、あたしは海に告られた。
……特に断る理由もないから、OKしたんだよねー。
海は顔も整っているし、お金も持っている。話も面白いので、今の所あたしは積極的に別れようとは思っていない。
……まぁ、あたしの知らない所で色々してるっぽいけどねー。
朱冨は、どちらかと言えば進学校に分類される。偏差値もそこまで低くなく、国立大学への進学者も毎年出していた。しかし、だからといって生徒全員が素行がいいわけではない。悪知恵が働く分、たちの悪い生徒が一部存在する。
その総元締めみたいなのをやっているのが、海だった。
「別に、犬の世話なんて二、三日放っておいたって平気だろ?」
そう言って海は、吸い終えたタバコの火を消しもせず、吸殻を排水口に投げ捨てる。
そう言えば、こうして学校の屋上でタバコを吸えるようになったのは、教師の弱みを握って強請り、屋上の鍵を手に入れたからだと海が言っていた。彼が用意した女子高生とラブホに入っていく写真を撮って、金も取っているのだという。
そういう話を海から聞けるのも、あたしが彼と関係を続けている理由だった。普段聞けない、聞く機会がない話を聞くのは純粋に楽しいし、面白い。
……あたしに関係ない所で何してても、どーでもいーしねー。
女子高生に手を出す高校教師も、その高校教師を強請っているのも、その強請った相手から成功報酬を受け取る女子高生も、その女子高生に売春を斡旋しているのも、あたしじゃない。あたしにとって重要なのは楽しいか否かで、楽しくないものには興味がなかった。
……でも、こうやってあたしの行動に口出ししてくるのは、ちょっとウザいかなー。
海に向かってあたしが何かを言う前に、彼の取り巻きの一人、ドレッドヘアーの向家 康治(むかいえ やすはる)が冗談めかしたような口調でこう言った。
「ぎゃはははは! 紫帆、ひょっとして他に男が出来たんじゃねぇの?」
康治は海と同じ三年生。常に海の後ろについて回り、後ろ暗いことをするのにも積極的に手を貸しているようだ。
その康治に向かって、海は立ち上がる。そしてそのまま無言で、海は康治の顔面を殴りつけた。殴られた康治は、面白いように吹き飛んでいく。
仰向けで転がる康治を、殺気立った海が見下ろした。
「……紫帆が浮気するわけねぇだろ。次くだんねぇ事言ったら殺すぞ」
「そうっすよね、海さん! 紫帆ちゃんがそんなマネするわけないもんねっ!」
そう言って海にすり寄ってきたのは、犬飼 千春(いぬかい ちはる)。頭の両サイドを刈り上げた千春も海の取り巻きで、確か二年生だったはず。
「ご、ごめん海くん。冗談だったんだよ」
「いくら冗談でも、言っていい冗談と悪い冗談があるっすよ、康治さん」
よろよろと立ち上がる康治を、千春は蔑んだ表情で一瞥する。一方の康治も、千春に向かって舌打ちをした。二人共海の手足のようにこき使われているが、海のそばにいるのは旨味があるから今の立場に甘んじている。そんな自分を情けなく思っている部分が二人の中にあるから、二人は互いを同族嫌悪しているのだ。
……あー、めんどくさいめんくさーい。
そう思っているあたしに向かい、康治に向けたのもとは打って変わって、千春が満面の笑みを浮かべてくる。
「オレは紫帆ちゃんのこと、そんな浮気者だなんて思った事は一度もないからね!」
「あはは、ありがとー」
乾いた笑みを浮かべて、あたしはもう屋上を離れようと立ち上がった。
千春の好意には気づいているが、正直そういう関係は海で間に合っている。そもそも千春は、顔も金も海に劣っており、話もたいして面白くない。更に言えば、海のコバンザメでありながら、海の彼女のあたしをあわよくば的な感じで狙っているのが最高にダサい。
あたしが海から千春に乗り換える理由が、一ミリたりとも存在していなかった。
「じゃー、あたしそろそろ――」
「だから、待てって」
スカートをはたき、屋上を後にしようとするあたしの背中から、海が抱きついてくる。
「ちょ、何!」
「紫帆の恩人だかなんだかしんねーけど、犬の世話なんて止めて、もっと楽しい事しようぜ」
楽しい事、と言われて、あたしの抵抗が一瞬弱まる。
トートの世話をするようになって一ヶ月。ぶっちゃけ、あたしはもうそれに飽きていた。
最初の方は犬と遊ぶのが楽しそうだと思っていたのだが、しょんべんかけられたり、餌やりや掃除も地味に大変。そして何より、下半身の麻痺が進行しているトートの散歩が一番大変だった。
……あーあ、こんな事なら、反対票を入れておくんだったなー。
そう思うものの、あの時は楽しそうだと思ったのだから仕方がない。今あたしがつまらないと思えているのは、たまたまあたしが今日まで死ななかった結果に過ぎない。こうしている今だって、一秒後にはあたしは心臓麻痺で死んでしまうかもしれないし、隕石がぶつかって死ぬかもしれない。
……だったら、その時その時で楽しそうな選択をしてくだけだよねー。
「ほら、動きが止まってるぞ? 紫帆。残れよ。な?」
「ちょ、どこ触って、あっ! もう! こんな所で止めてよっ!」
抵抗を止めたあたしを強引に迫れば残せると思ったのか、海があたしの胸を弄ってくる。そんなあたしたちを、康治は下卑た笑みで、千春は嫉妬で頬を引きつらせて見ていた。
「なになに? 海くんここでおっぱじめるの? 俺、カメラ係やろうか?」
「ちょ、さ、流石にここはまずいっすよ、海さんっ!」
千春のその反応を見て、海は口角を釣り上げる。海も千春のあたしへの想いに気づいていて、わざとやっているのだろう。
……あー、めんどくさー。
あたしは自分の肘を海の顎にぶつけるように振るい、彼の拘束から逃れた。
「もう行くって言ってんでしょ? 邪魔しないで」
「……紫帆。お前、俺よりもその犬の方が大切なのか?」
「はぁ?」
「その犬がいなくなれば、お前はもうどこにもいかねぇのか?」
「……あんた、何いってんの?」
ただでさえ子供じみた海の独占欲がめんどくさすぎるのに、彼は更にめんどくさい事を言い始めた。
あたしはポニーテールを揺らしながら、海を少しだけ睨む。
「トートは、怪我した部分の包帯がようやく取れたところなの。バカなこと言わないで」
「そう、それ。それだよ、紫帆。俺が気になってたのは、そこなんだ」
海は胸ポケットからタバコを一本取り出し、ライターで火を付ける。
「その犬の治療費、誰が出してんだ? 昔の仲間と一緒に世話してるって言ってたけど、男か?」
その言葉に、あたしはちょっと海に幻滅した。あたしが浮気をするようなやつじゃないと康治を殴っておきながら、結局その可能性をずっと考えていたのだ。呆れ過ぎて、逆に冷静になってきた。
「だからー、前に言ったじゃん。トートをあたしらに残した先生が、お金も一緒に残してくれたんだってー」
「でもよぉ、紫帆。動物を病院に連れてった通院費、かなりかかんだろ? その先生以外が支援してんじゃねーのか?」
「大丈夫だよー。まだ百万ぐらいあるはずだしさー」
「……何?」
目の鋭くなった海を見て、あたしは自分の失言に舌打ちをした。海の素行を知っているあたしは、先生が残してくれた大金の話だけは彼にしていなかったのだ。百万以上の金の話を聞いて、海が大人しくしているとはあたしには思えなかった。
あたしは取り繕うように、すぐに言葉を重ねる。
「あー、でもそのお金、弁護士が預かっててあたしたちの自由には使えないんだよねー。通院費とか食費とか、犬の世話に必要だ、ってその弁護士が認めたものしか、弁護士からもらえないんだー」
「だが用途が限られているとはいえ、その金を使えるってことは、だ。紫帆、お前にもその金の相続権があるってことだよな? 犬のために用意された金なら、犬がいなくなればお前に金が入ってくる」
「だめだめー。そんな簡単な話じゃないんだってー」
あたしのことを自分の彼女ではなく、金として見始めた海に内心冷や汗を流す。でも、海の考えた方法は実現できない。
「誰かの飼い犬を傷つけたりすると、損害賠償とかになったりするらしいから、割にあわないと思うよー」
たけから一度聞いたうる覚えの話を、あたしは海に向かって披露する。流石に海も、明らかに訴えられる可能性を犯してまで百万円を取りに行こうとは思わないはずだ。
しかし、海はスマホを取り出し、何かを調べ始めた。
「損害賠償は、三年以下の懲役、または三十万円以下の罰金もしくは科料、か。俺らは少年法あるし、罰金も百万なら釣りが来る額だな」
「……ちょっと、本気で止めてよね」
話すあたしの言葉にも、怒気が交じる。海の言葉を、あたしは許すことが出来なかったからだ。
トートが死んだ場合、海の言う通り、あたしたち六人は百万円というお金を手に入れれるかもしれない。そうなれば、そのお金は六人で山分けすることになるだろう。
……でも、海は百万円を手に入れた場合の事を口にした。
つまり、あたし以外の五人からも金を巻き上げることを考え始めたのだ。五人の弱みを握って、強請ることでも考えたのかもしれない。
でもそれは、ダメだ。絶対ダメだ。
だってそんなの、楽しくない。面白くない。気持ちよくないどころか、それはあたしが絶対に避けたい、辛いことや悲しいことだ。
だからあたしは、それを許せない。
「……変なこと考えてるなら、もうあたし、あんたと別れるから」
「……悪い悪い、冗談だって。紫帆があんまり構ってくれないから、ちょっとからかっただけだよ。な?」
「そうだよ紫帆ちゃん! そんなにキレんなってっ!」
「そうですよ。海くんの冗談に決まってるじゃないですか!」
……言っていい冗談と悪い冗談があるんじゃなかったのかよ。
あたしは何も言わずに踵を返すと、そのまま屋上を後にする。
鞄を自分の教室に置いたままなので、まずはそれを取りに行く。あたしは自分の教室へ向かっている途中、廊下である人から声をかけられた。
「あれ、紫帆?」
「春華さん」
二年生の境田 春華(さかいだ はるか)は、よくあたしとつるんでくれる先輩だ。海たちとも交流があるが、犯罪などには一切関わっていない。むしろ、あたしがそれに巻き込まれないように、色々と気を使って声をかけてくれていた。
春華さんはパーマをかけた髪を揺らしながら、こちらに近づいてくる。
「今日は一人なの? 海たちは?」
「屋上っすー。あたしは、もう帰ろうかとー」
「ああ、例のわんこ君の所ね」
春華さんはそう言って、少しだけ嬉しそうに笑った。
「紫帆、最近いい顔になったよね?」
「え、そーですか? 自分じゃ普通にしてるつもりなんですけどねー」
「変わったよ。だってあんた、最初に会った時はなんか、こう、今しかないって感じの切迫感というか、刹那主義っぽいところあったからさ」
「……そうっすかねー?」
内心、自分の考え方を言い当てられて驚いていると、春華さんは更に笑いながら口を開く。
「そうよ。塩畑たちは、色々危ないことやってるみたいだけど、短絡的に考えて紫帆が巻き込まれないようにしなさいよ。ズルズルと周りに流されちゃうと、大切なものが何なのかわからなくなっちゃうから。あんた自身も含めてね」
「は、はぁ」
生返事を返すあたしをみて、春華さんはばつの悪そうな表情になる。
「あー、私、説教臭かったね。そう言うんじゃなくて、ちゃんと考えて行動しなよって事が言いたかっただけなの。って、それだとやっぱり説教か。こうやってババアになってくのかなぁ、私」
「ババアって、春華さんあたしと一つしか違わないじゃないっすかー」
「その一年の大きさを、紫帆も来年実感する時が来るって。それじゃ、わんこ君のお世話、頑張ってね」
「はい、ありがとうございますー」
春華さんの言葉を、すぐにあたしは自分の中に消化することが出来なかった。でも、その言葉だけは頭の片隅に入れておこうと、そう思った。
「ど、どういうことなんですかっ!」
庭に入った途端、しおしおの怒号が聞こえてくる。
トートを見れば、怯えた様子で犬小屋の中からこちらを伺っていた。
私は自分の鞄を置いて、しおしおの方へと向かっていく。
「え、えーっと、どーしたの?」
「ど、どうしたもこうしたもないです! 『いいね』が、『いいね』が全然つかないんですよっ!」
必死の形相になったしおしおが、割れんばかりにスマホを握りしめていた。
しおしおは震える指でスマホのディスプレイを、必死に操作している。
「そ、それどころか、炎上! 炎上してるんです、しおりのアカウント!」
しおしおのスマホを覗き込むと、そこにはいくつもの誹謗中傷のコメントが並んでいた。
『こんな抱っこの仕方、ありえない!』
『犬が可愛そう!』
『その子はあなたを引き立てる道具じゃないのよ?』
『障害犬を使ってフォロワーを稼ごうだなんて、気が狂ってる』
『そういう可愛そうなのは求めてない』
『余計なことせずに素直に脱いどけばいいんだよ!』
『動物虐待だ!』
『体見せて『いいね』稼いでたんだろ? だったらその路線だけにしとけよ』
「な、何でですか何でですか何なんですか! 皆、『いいね』押してくれてたじゃないですか! フォローしてくれてたじゃないですか! コメントで褒めてくれてたじゃないですか! 私を、しおりを認めてくれてたじゃないですか! 皆が求めてたものを、しおりは提供してたじゃないですか! それが、何でっ!」
スマホを落とし、しおしおは庭にうずくまる。
しおしおのスマホを拾い、あたしは彼女のアカウントの投稿履歴を眺めていく。
トートの世話をあたしたちがし始めた時の投稿は、『いいね』の数もフォロワーの数もどんどん増えていたし、コメントも絶賛の嵐だった。それから一週間、二週間と、同じ様な状況が続いている。
所が三週間目になって、様子が変わり始めた。
……あー、動物愛護のNPOが拡散したのかー。
しおしおがアップした写真から、トートが変性性脊髄症であることに気づいたのだろう。病気の犬に対しての扱い方や、病気の犬を自分の『いいね』やフォロワー稼ぎに使っていることに対して、批判的なコメントと共にしおしおのアカウントが非難されていた。
……一応、しおしおもちゃんと世話してるって言ってるんだけどねー。
食事の管理や、介護ベルトを使って散歩をしている事等、必要だと思われることは全部している、としおしおは投稿している。だが、それが逆に火に油を注ぐ結果になっていた。今までアップしていた写真が、しおしお自身を強調しているものが多かったため、彼女はトートを引き立て役に使っているとSNS上で断定されていた。
……まぁ、あながち間違いじゃないんだけどねー。
四周間目では、もうしおしおを庇う人すらいなかった。それどころか、彼女を称賛していた人たちも、手のひらを返したようにしおしおをバッシングしていた。
『いいね』とフォロワーの数は一気に減り、それと反比例するようにネガティブなコメントがどんどん増えていく。
「……くぅーん」
うずくまっているしおしおを心配してか、トートが犬小屋からゆっくりとこちらへやってきた。
トートがしおしおにすり寄ろうとした所で、彼女はツインテールを揺らしながら、恨みがましい表情でトートを睨む。
「お、お前が、お前さえいなければっ!」
「しおしお、ダメ!」
あたしの言葉を聞き、しおしおははっとしたようにこちらを振り向いた。自分が今どんな表情を浮かべていたのか理解したのか、わなわなと震え始めた。
「し、しおりは、しおりは、今……」
「大丈夫、大丈夫だよー、しおしお」
彼女にスマホを返し、あたしはしおしおの頭を撫でる。
「そんな怒ってちゃ、つまんないよーしおしお。つまんないことは止めて、楽しいことしよーよ」
「し、紫帆ちゃん……」
しおしおは自分のスマホを握りしめると、下唇を噛んだ。
「で、でも、しおりには、しおりにはこれしかないの。ごめん、頭冷やしてくるっ!」
「え、ちょ、しおしおっ!」
そう言ってしおしおは自分の鞄を手に取ると、庭の外へと出ていった。
残されたあたしは、トートと互いに顔を見合わせる。
「ひょっとしてあたし、今日はあんたの世話一人でしないといけないのかなー?」
「わんっ!」
……やっぱり、来るんじゃなかったかなー。
でもあたしが来なければ、しおしおはトートに何をしていたのかわからなかった。しおしおも、一人で自分の状況を抱え込むより、あたしに知られた方が良かった部分もあるだろう。
……でも、今日はちょっと、色々とめんどくさすぎる日だなー。
「……くぅーん」
見れば、トートが心配そうな顔であたしの事を見上げている。そこであたしは、今日春華さんに言われた事を思い出した。その場でしゃがみ、あたしはトートの頭を撫でる。
「そんな顔すんなよー、トート。お前は死ぬまで、死ぬその最後の一瞬まで、笑って生きてりゃいいんだからねー。だから、精一杯、死ぬまで一杯笑いなよー」
「わんっ!」
その時、あたしは初めて、心の底からこの子の世話をするのが楽しいと思った。
油絵を描くことは、命を作ることに似ているんじゃないか? と、僕は思う。
絵に命を吹き込むという言葉があるが、油絵を描く場合、使う絵具の調合にも気をつけなければならない。
……百年前の絵より、五百年前の絵の方が美しく残っている事もあるからね。
油絵の絵具をそのまま使うと、いつまで経っても絵具が乾かず、乾いた後も時間が経てばひび割れてしまい、絵がダメになってしまう。そのため絵具は、溶き油と混ぜて利用する必要があった。油の種類も、乾きの早い揮発油、乾いた後固まって艶を出す乾性油と様々で、用途に合わせて使用する。
……ここに気をつければ、トートは永遠に残り続ける。
ネットにトートを残し続けれるとはいえ、その元となる絵を描くのに手を抜くというのは、僕には考えられなかった。そんな、プールに遊びに行くのに水着を持っていかないような中途半端さで僕は絵を描きたくないし、描くことが出来ない。
僕が残す生きた証を、そんな形で残せない。
僕は下塗りが終わったキャンバスに、ナイフで色を塗り重ねていく。ペイントパレットに出した絵具を練って、ナイフですくってパンにジャムを塗るようにキャンバスに塗るのだ。ナイフは筆よりも絵具の厚みを持たせられるので、色を大きく塗りたい時は僕はナイフを使うようにしている。
キャンバスの中では、足を地面に引きずっているあの時のトートの輪郭がほぼほぼ出来上がっていた。もう少し描き込んだ後、立体感を出すように明暗を入れ、細部の描き込みをしていけば、先生が残してくれた僕の残すべきトートが完成する。
「……くぁぅ」
キャンバス越しに見れば、現実のトートはあくびをして犬小屋の近くで横になっていた。絵を描き始めたときよりはリラックスしているようだが、臭いにはまだ慣れていないらしく、僕のそばに来る気配すらない。
僕がナイフから筆に持ち替えようとした時、扉が開いて剛士が入ってくる。僕は剛士の姿を見て、自分の手を止めた。
「どうしたの? 随分汚れてるけど」
「……朱冨の奴らと、ちょっとな」
「また喧嘩かい?」
「……したくてしているわけじゃない」
呆れながら筆を取る僕の視界の端で、剛士は憮然としながら鞄を地面に下ろした。その後彼はジャージについたホコリを払うと、物置の方へ向かう。
「……それに、今回は俺が絡まれたんじゃない。先輩が朱冨の奴らに絡まれてたんだ」
「へぇ。じゃあ剛士、その先輩を助けたんだ」
剛士の言葉に、僕は素直に驚いた。
剛士のスタンスは、基本的に受動的だ。多数決でも常に保留で、剛士自身が煩わしいと感じたり、不利益があるような場合じゃないと行動しない。例外があるとすれば、それは僕ら五人が関係することだけだった。
僕は薄く笑って筆を動かしながら、物置の中でフードボールを探す剛士を一瞥する。
「剛士は、そういう人を作らないと思ってたよ」
「……馬鹿言え。そういうもんじゃねぇよ」
ドッグフードを手にした剛士が、フードボールにそれを注いでいく。
「……先に先輩が俺に絡んできて、その先輩が絡まれたんだよ」
忌々しげにそう言って、剛士は犬小屋まで歩き、餌をトートの元へと運ぶ。それを耳をひくひくさせ、瞳を輝かせていたトートが待ってましたと言うように声を上げた。
「わん! わんっ!」
「……お前は変わらず元気だな」
剛士にわしゃわしゃと撫でられながら、トートはがつがつと餌を食べていく。
「じゃあ、剛士はその先輩に巻き込まれただけってことなの?」
「……まぁ、そういうことだな。先輩に絡みに来た朱冨に、絡まれたんだ。喧嘩を売られたから、買った。それだけだ」
餌を食べるトートを見ながら、剛士は思い出したようにつぶやいた。
「……そう言えば、犬がどうとか、団地がどうとか言ってた朱冨のドレッドヘアーと刈り上げは、まぁまぁ強かったな」
「へぇ、そんな二人がいたんだね」
枕詞はさておき、剛士が強かったと評するのであれば、その相手は一般的にはかなり喧嘩は強い部類に入る。剛士が強すぎるので彼には他の人がそこまで強く思えないかもしれないが、僕からするとその二人とはできれば一生縁がない事を祈りたい相手だ。
「それで朱冨の人たちと喧嘩になったんだ。それで、剛士の先輩はどうなったの?」
「……朱冨をボコった後にボコった」
「何だよ、それ」
「……売られた喧嘩を買った結果だ」
笑う僕を横目に、剛士はトートの喉を撫でる。トートはフードボールから顔を上げて、剛士の手に顔を擦り付けた。
「くぅーん」
剛士が小さく笑ったタイミングで、彼のスマホが鳴った。
剛士はスマホの画面を見ると、すぐに立ち上がる。
「……すまん。ちょっと外す」
「どうしたの?」
「……バイトの面接に行った店からだ」
「そ。言ってらっしゃい」
「わんっ!」
僕の言葉を聞き終える前に、剛士は扉を開けて敷地の外へと出ていった。
僕は改めてキャンバスに向き合うと、こちらを見つめるトートと目があう。嬉しそうに笑った口から桃色の舌が伸びて、何か気になることがあるのか少しだけ首を傾げていた。
……餌は、もういいのかな?
トートの前に置かれたフードボールの中には、まだドッグフードが三分の一ほど残っている。いつもなら撫でられるのも気にせずに食べ続けているのに、今日はいつもの勢いがない。
……まぁ、僕が絵を描くのに支障がないからいいけどね。
僕が生きた証を残すことの邪魔にさえならなければ、他のことは正直どうでもいい。それは剛士が誰と喧嘩しているとか、そういう話もそうだ。口を動かしながら絵が描ける状態だったので世間話に付き合う程度に話していただけで、もし剛士が新しい原付を買ったという話しをしていたのならば、絵を描くのに邪魔にならない範囲で僕はそれにあわせて喋っていただろう。
今の僕にとって、先生の残してくれたトートの絵を描くこと以外、興味がない。
筆を操り、キャンバスにまた色を重ねていく。筆を動かしていく度、絵の中のトートは精緻に描いたスケッチブックの形に近づいていき、どんどんとまだ膝しか引きずっていなかった時の姿になっていく。
筆が乗ってきた所で、何かが地面に落ちた音がした。音がしたほうをキャンバス越しに見ると、被写体だったもの(トート)が横たわっている。僕は絵を描くのに支障がないと判断し、そのまま絵を描き続けた。
それから少し経って、剛士が戻ってくる。僕は視線をキャンバスから動かすことなく、口だけ開いた。
「どうだった? バイトの面接」
「……落ちた」
少しだけ落胆したような剛士の声が、次の瞬間には切羽詰まったものに変わる。
「……おい、寿史。トート、吐いてるんじゃないか?」
「え?」
言われてみれば、地面に横になったトートの口から吐瀉物のようなものが見える。それに息が出来ないのか、トートは僅かに痙攣していた。でも、それは絵を描くことに関係のない事だ。
しかし剛士はすぐにトートを抱き上げると、水栓柱のそばまでより、トートの口の中から吐瀉物を水で洗いながら取り除く。その後トートの体を横にすると、剛士は心臓マッサージを始めた。
剛士が何度かトートの胸を押した後、咳をするようにトートが息を吹き返す。
僕は絵を描き進めながら、感心したように剛士に向かって口を開いた。
「随分手慣れてるんだね」
「……工事現場のバイトで、救命研修受けたんだよ。犬でも人でも、呼吸止まってたら同じだろ? やること」
「そういうものかなぁ」
「……寿史。小嶋に連絡しろ」
「え? 弁護士の小嶋さん?」
「……俺は今からトートを連れて、動物病院に向かう」
「前に、トートの怪我を診てもらったとこ?」
「……ああ。お前は小嶋に通院費と、お前のタクシー代も請求しとけ」
「え、僕も行くの!」
「……小嶋に連絡した時点で、まともにトートの世話ができない状態なのは知られるだろ。トートの世話をしないやつを小嶋はここに立ち入らせないし、絵も描かせないんじゃないか? それに何もしないのは、明らかに多数決の結果と違う行動だろ」
そう言って剛士は僕の返事も聞かず、庭を飛び出していった。
僕はすぐに動かず、剛士の言葉を反芻する。
……トートの絵は、もうここに来なくても描ける。それでも僕がここで絵を描いているのは、皆で決めた多数決の結果があるからだ。
多数決は、先生が僕たちに残してくれた意思決定の大切なシステムだ。先生が残してくれたものは、トートと同じように僕にとって特別なものでもある。
ここに来て僕が絵を描いていれば、トートはだいぶ大人しくなる。ここで絵を描くことで、トートを大人しくする世話をしているのだから、僕が絵を描くことと、トートの世話をすることは、僕の中で何ら矛盾した行動になっていない。だから絵を描くのを邪魔されたくなかったのだ。
……でも、ここで絵を描いてたらトートの世話が出来なくなるのは確かだね。
多数決の結果を無視するのは、僕の望むところではない。
キャンバスやイーゼルを物置に片付けた後、僕はスマホで小嶋さんに連絡をし始める。
タクシーを降りて病院の自動ドアをくぐると、ロビーには剛士の姿があった。
今の時間帯は他の来院はないのか椅子に座っているのは剛士だけで、受付にも看護師さんの姿は見えない。ロビーの一番奥の蛍光灯が、瞬きするみたいに点滅を繰り返している。
「……トートは、命に別条はないみたいだ」
「そっか」
そう言った僕を、椅子に座った剛士が睨む。
「……それだけか?」
「何がだい?」
「……言うことは、それだけかって聞いてんだよ」
剛士にそう言って凄まれるが、僕は本気で剛士が何を言っているのかわからない。
だって僕は、多数決で決めたようにトートを残そうとしているし、多数決で決めたようにトートの世話も行っている。
「僕は、やるべきことをちゃんとやっているよ」
「……ふざけんな!」
剛士が立ち上がり、僕の胸元をつかむ。剛士のぎらつく瞳が、僕の眼前に突きつけられた。
「……何でトートを見てなかったんだ」
「見てたよ。だから絵にちゃんと描けてる」
「……絵の中のトートの話をしてるんじゃない!」
「それ以外に、何が必要なんだよ!」
喉元を握る剛士の手を、僕は強く握りしめる。
「僕がどうやって『死』と向き合っているのか、知ってるだろ?」
「……知ってるよ」
「なら、皆で多数決で決めた結果なのに口を出すなよ!」
「……あの絵じゃなきゃ、ダメなのか?」
「え?」
「……あの絵じゃないと、お前の残したいものは残せないのか?」
「ば、馬鹿な事を言うなよ……」
そう言いながらも、僕の剛士の手を握る力が弱まっていく。
それでも僕は気を取り直すように、口を開いた。
「あの絵は、トートなんだよ? 先生が残してくれた、先生を残すための、先生が残してくれた時のトートなんだよ? だから僕は、僕が残していかないといけないんだ! だからその絵を描かないで――」
「……わかってんだろ? 俺が何を言ってるのか」
剛士の言葉に、僕は口をつぐむ。そんな僕に畳み掛けるように、剛士は僕を握る手に力を込めた。
「……今描いてる絵に、お前が固執しないといけない理由はねぇだろ? あの絵をもう一度描き直したって、お前の残したいものは残せるんじゃないのか? 今あの絵を描かなくたって、お前が残したいものは永遠に出来るんじゃねぇのかよ?」
「そ、それは……」
どうにかそう口にできたが、僕は剛士の言葉に明確な答えを出せないでいた。そんな僕を、剛士が嘲るように笑う。
「……どっちでもいいんだよ、俺は。今描いてる絵だろうが、これからお前が描く絵だろうが、どっちになろうとも対して大差ない。でもな、寿史。俺が怒ってるのは、あの時俺たちが互いに見つけた『死』の向き合い方に、折り合いの付け方に中途半端な態度で接してるお前が許せねぇんだよっ!」
胸元が締まり、呼吸しづらくなる。それでも剛士は、僕を放そうとしない。
「……お前のやろうとしてることは、写真を撮るのと変わらねぇ。写真みたいにその時の一瞬を切り取るためにシャッターを切るみたいに、お前は絵を描こうとしてんだよ」
「ち、違う。僕は……」
「……違わねぇ。絵は、絵だから何度もやり直せるんだろうが? 描き直せるんだろうが? 写真みたいに、その一瞬を逃したってお前の記憶の中にあれば、いつだって残せる。お前がいたら残せるんだ。だからお前は、そのやり方で『死』と向き合ったんじゃねぇのかよっ!」
剛士に突き飛ばされ、僕はロビーの廊下に強かに尻餅をつく。見上げると、僕を見下ろす剛士の顔があった。蛍光灯が瞬き影ができて、彼の表情が読みづらい。
それでも剛士の口元ははっきりと見えて、彼は口を歪めていた。
「……わかんなくなっちまったんなら、壊してやろうか? 俺が今、お前の描いている絵を」
「ふざけるなっ!」
激情にかられ、僕は膝をついて立ち上がる。
そして、剛士を射殺すように見つめた。
「そんな事、させない! もしそんな事をしたら、僕は絶対剛士を許さないからなっ!」
「……だったら今、何でてめぇがそんなに怒ってんのか、もう一度よく考えろっ!」
僕の視線を、剛士は真正面から受け止める。その上で剛士は、物分りの悪い生徒へ丁寧に説明する教師のような口調で、僕に向かって話しかけてきた。
「……寿史。お前、自分の絵が壊されることだけに怒ってんのか? あの絵に込めた、先生とトートへの想いが壊されるから怒ってんのか?」
「ぼ、僕は……」
「……お前が絵で残そうとしてるもんはな、トートは今生きてんだよ。確かに美しい理想も辛い現実も、『死』も『生』も地続きだ。でもな? 今生きてるやつは、生かし続けようと思えば、まだ今に残し続けれるんだぞ」
「でも、トートだっていつかは死ぬ」
「……だったら何でお前は、俺がトートの救命活動をしている時、俺の方を見ていたんだ?」
「……」
「……あの日『死』に晒されたよしみで、もう一度言ってやる。お前は、何で怒った? お前は何を残したい? 残そうとしているもの(トート)は、まだ続けられるんだ(生きていられるんだ)。辛い現実だって、絵の中では美しい理想も描けるんじゃないのか?」
そう言われた僕は、何も言えずに佇むことしか出来なかった。
……ぼ、僕は、僕が絵を描いている理由は、永遠の『生』を求めている理由は、生きた証を残したいと思った理由は――
切れかけの蛍光灯が、僕をちかちかと照らしている。学芸会で失敗した子供を労う拍手のようなタイミングで瞬くその光を受けて、僕は内側から湧き上がってくる羞恥心で自分の唇を血が出るまで噛み締めた。
もう消えてしまいたいって思ったことはないか?
俺はある。
今も、そう思っている。
校舎の四階。美術室がある棟とは反対の棟。その一年生の教室が並ぶその階の空き教室で、俺は授業をサボっていた。
もちろん、学校側も空き教室は鍵を閉めている。でも、鍵がかかっている窓ごと抜いてしまえば、それは全くの無意味。木でできた窓枠を斜めにして何度も動かせば、こういう窓は以外に簡単に開くものだ。
後は教室に入り、今度は窓を抜くのとは逆の方向に動かせば、窓は俺が忍び込む前の状態になる。
……まぁ、こんなこと知ってたって、結局無意味なんだけどな。
檸檬月高等学校に入学してから、俺は度々こうやって授業をサボっていた。
今回俺が選んだ教室は、物置程度にしか使われていない場所だった。中は若干ホコリっぽい。土っぽさも感じるのは、体育祭の時に使うであろうリレーのバトンや縄跳び、たすきなどが置かれているからだろう。
他にも理科準備室からあぶれたであろうよくわからない生物の模型や、社会準備室に入り切らなかったに違いない甲冑の上半身だけが置いてあったりもした。
俺は誰もいない教室の中、外から見つからないように窓側の壁に背を預け、イヤホンを耳につけてスマホの音楽プレイヤーを起動する。自分のスマホでランダム再生をしている曲を聞きながら、今この曲を聞いている俺に意味なんてないんだと、そう思った。
……本当に、何やってんだろうな、俺。
この世界に意味はない。何故なら最後は皆死ぬからだ。だから日々の積み重ねなんて意味がないと、こうしてサボってみても得られるのはどうしようもない虚無感だけだ。
……本当に、生まれてこなければよかったのに。
どうせ全て無くなるなら、この虚無感を今すぐにでも消して欲しかった。『死』が待っているなら、どうあがいても逃れられないのなら、もういっそ消えてしまいたい。消えて、無くなってしまいたい。
音楽プレイヤーからどれだけポジティブな歌詞が流れてきても、その歌は俺以外の誰かのために歌われているものだとしか思えなかった。
そうやって斜に構えていれば、当然自分のクラスでの居場所も無くなっていく。別に進んで誰かとつるむつもりもないが、スクールカーストのはみ出し物になっても、やっぱり得られるものは虚無感だけしかない。
そう思うと、この教室に置かれている備品たちの無秩序感が俺そのものの様に感じてくる。明確な行き場がなくて、とりあえずここに詰め込まれている感じに共感を覚えてしまい、俺は思わず皮肉げに笑った。
虚無感を感じる度、右手がじんわりと痛む。もう完治していると医者には言われているが、この幻痛がある限り俺は全ては無意味だという現実を突きつけられた気がした。お店で見つけた欲しいおもちゃを買うために必死にお小遣いをためたのに、いざ必要な金額が貯まって買いに行った時にはもうそのおもちゃは売り切れていたような、そんなどうしようもなさ。金はあるのだから別のおもちゃを買う選択肢だってあるのに、どれを選んでもきっと満たされない。
コンクリートの壁に、俺は頭を押し付ける。冷たさと硬さが返ってきて、俺はその冷たさと硬さだけの存在になりたくなった。
ホームルームの内容を聞き流して、俺はいつもよりも早く校舎を後にする。今日はトートの世話をする日で、寿史と約束がなければいつもならダラダラと向かうのだが、今日は早く学校を離れたい気分だった。
放課後を迎えた校舎からは、帰宅や部活に向かう生徒たちが溢れている。俺はその波の間を抜け、やかましく鳴く蝉の声に揺られながら、校門を目指していた。
すると、俺の足に何かが当たる。視線を足元に向けて、俺は硬直した。
俺に当たったのは、テニスボールだった。
足にあたったものだけでなく、何個かボールが俺の方に転がってくる。
「すみません! それ、拾ってもらえますか?」
声のした方を見ると、練習着を着たテニス部だと思われる連中がテニスボールが詰まったかごを運んでいる所だった。
俺の右腕が、痛む。
その痛みを誤魔化すように、俺は転がってきたテニスボールを無言で拾ってテニス部の方へ投げてやる。転がってきた全てのボールを投げ終える前に、テニス部の一人が俺の顔を見て首を捻った。
「あれ? 君、全中のシングルスで出てた――」
「悪い。俺、用事あるから」
「あ、ちょっと!」
そう言って俺は、その場から逃げるように立ち去る。
痛い。右腕が。右腕が、痛い。二年前、交通事故で傷を負った、いわゆるテニス肘と呼ばれる場所が、ズキズキと痛んだ。
……そうだった。運動部の奴らと会わないようにするために、時間をずらしていつも帰ってたのに。
うかつな自分に対する怒りと痛みがごちゃまぜになり、俺の心はかき乱される。
そのまま走るように駅まで向かうと、改札で鞄の中から左手でICカードを取り出すのに手間取りながら、俺は電車に乗り込んだ。乗った電車は家とは反対方向で、トートが住む家の方角に向かう電車だ。
俺の乗った車両には、俺以外にもまばらにサラリーマンや大学生らしい人の姿があった。
俺は空いている座席を見つけると、倒れ込むようにどっ、腰を下ろす。そこで、俺は右手にあるものを握っていることに気がついた。
テニスボールだ。
昔の話をされそうになって慌ててしまい、そのまま持ってきてしまったのだ。
……最悪だ。
俺はそれを、握りつぶすように右手に力を込める。懐かしいボールの感触と肘の痛みで、もうどうしたらいいのかわからなくなった。
テニスを始めたのは、親の頼みだった。『死』で変わってしまった俺に、何かしら集中して取り組めるようなものを作ってほしかったのだろう。そういうものがあれば、彼らとして安心出来たのだ。何をやっても無意味だという考えに変わりはないが、体を動かすのは小学校三年生の時から嫌いじゃなかった。
だから俺はテニスをやることを受け入れて、それは全て間違いだった。
……何かを積み重ねたって、意味が無いて俺は、知っていたはずなのに。
告白しよう。テニスをするのは、楽しかった。ボールに追いつき、次はどうやって相手のコートを責めるのか考えるのが、好きだった。イメージ通りのサーブが打てた時は心が踊ったし、渾身のスマッシュが決まった時は喉が裂けそうなほど歓喜の声を上げた。
……だから俺は、間違えたんだ。
皆で、決めたはずなのに。『死』に対する向き合い方を、折り合いの付け方を各々決めたはずなのに、俺は自分で決めた方法を破ったのだ。多数決をして一人一人決めた事を、守れなかった。
……告白というより、これは懺悔に近いな。
がむしゃらに練習した。
全力で走り続けた。
テニスボールを追って、俺はより先を追い求め。
そして最終的には、事故で積み重ねてきたものが無意味になった。
……やっぱり、この世界に意味なんてねぇよ。
電車の窓から、風景がどんどん流れすぎていく。今視界から消え去ってしまったものは、実はこの世界から消え去ってもわからないのではないか? と思った。だって見えなくなったものの存在を把握する方法を、俺は持っていないのだ。だからもしそうなっていたとしても、俺はなくなったことに気づけない。
……そんなわけ、ないのにな。
馬鹿な事を考えていると、電車が目的の駅に到着する。
俺は乱暴にテニスボールを鞄に仕舞うと、それを担いで列車を降りた。俺が今やって来た方向へ視線を向ける。やはり、窓から消え去った風景はその場に残っていた。
……でも、どれだけ頑張ってトートの世話をしたって、あいつは死んじまうんだぞ。
そう思いながら、俺は駅の改札へと足を向ける。一歩一歩歩く度、消え去ってしまいたいという気持ちが強くなっていった。
「あ、義法」
「静花か……」
トートが待つ庭へ続く扉の鍵を開けようとした所で、今日ペアとなる静花から声をかけられる。
鍵を開けて静花と一緒に扉をくぐると、トートが元気よくこちらに向かって駆けてきた。
「わん! わんっ!」
「おまたせ、トート」
「わんっ!」
嬉しそうに笑う静花に撫でられ、トートがその嬉しさに応えるように吠える。そのトートの体には、あるものが付いていた。車輪だ。
体を固定し、後ろ足が地面に引きずらないように調整された、犬用の車椅子らしい。これなら下半身の麻痺が進行しているトートでも、補助輪があるので前足を使って移動することが出来る。
最近では庭を歩き回ることも少なくなっていたトートも、二輪の車椅子をつけてからは以前のように歩くようになり、心なしか元気になったように見えた。車椅子の費用は小嶋の承認が降りて、先生が残してくれたお金で賄われている。
……これをトートにつけることを言い出したのが、よりにもよってお前かよ。
車椅子の発案者の静花ははしゃいだような笑顔を浮かべて、トートと戯れている。その様子を見ていたら、静花が最初トートを極端に恐れていた時のことが、幻だったのではないか? と思えてくる。
「ほーらトート。そろそろご飯にしようねー」
「わんっ!」
「……どうしたんだよ、お前」
「ん? 何が? 義法」
「お前、トートのこと怖かったんじゃねーのかよ……」
何故そんな事を言ってしまったのか、自分でもよくわからない。ただ俺は、変わっていく静花を見て、どうしようもない焦燥感に駆られていた。
「静花は、『死』が怖かったんだろ?」
「うん、今でも怖いよ」
「だったら!」
「でも、放っておいたら『死』がどんどん近づいてくるなら、それを遠ざけるように頑張ろう、って思ったの。トートが傷ついているのを見て、本当に強くそう思った」
その話は、俺も知っている。寿史が全てを静花に押し付けた時の事だ。
でも、だったらなおのことわからない。
「静花は、『死』を恐れることで折り合いをつけたんだろ? なのに、そこに向かっていくなんて変だろ」
「変じゃないよ。誰も私から『死』を遠ざけてくれないなら、私が自分でするしかないって、ただそれだけ。後ろ向きなんだよ、結局私も」
「くぅーん」
そんな事はないとでも言うように、トートが静花にすり寄った。そのトートを撫でる静花を見て、俺はだんだんど苛立ちを隠せなくなってくる。
「そんな、そんなに都合よく考え方変えていいのかよ! 俺たちの『死』との向き合い方を、折り合いの付け方をっ!」
「ちょ、ちょっと! 急に大きな声出さないでよ。トートが驚くでしょ?」
「わんっ!」
ああ、もう本当に消えてしまいたい。何をやっているんだ、俺は? 静花を怒鳴るつもりも、トートを怯えさせるつもりもなかったのに。
顔を歪め、一歩下がる俺に向かって、静花がトートを優しく撫でながら口を開いた。
「……大丈夫だよ。なんとなく、わかってるから。テニスのことでしょ?」
違う!
そう言いたかったのに、俺の口は何故かその言葉を吐き出さない。
黙り込む俺に向かって、静花はゆっくりと言葉を重ねる。
「私ね。本当の意味で『死』と最初に折り合いをつけれて、向き合うのは、義法だと思ってたんだよ」
「な、何を言ってるんだ? 静花。俺は、俺たちは多数決で――」
「違うの、違うよ義法。義法は事故にあわなければ、きっとテニスを続けてた。私を含めた他の五人も、きっと義法にとってのテニスを見つけることになるんだよ」
「静花……」
「私、なんとなくわかってきた。先生が、先生が私たちにトートを託してくれた意味が」
「わん! わんっ!」
そのタイミングで、何故かトートが俺の方に向かって走り出した。何事かと一歩下がると、いつの間にか俺の鞄からテニスボールが零れ落ちている。
トートはテニスボールを加えると嬉しそうに俺の周りを一周回って、ボールを俺へ差し出した。
……意味が、わからない。
「遊んで欲しいんだよ、きっと」
静花が毒気を抜かれたような表情で、そうつぶやいた。
俺は、更に混乱する。
「は? 何で俺が――」
「わん! わんっ!」
トートは俺の足元にテニスボールを置くと、てくてくと距離を取り始める。そしてその後、今か今かと瞳を輝かせて、俺の方へ振り向いた。
「投げてあげたら?」
「わんっ!」
「え、でも――」
「私、トートのご飯の準備してくるから」
そう言い残し、静花は物置の方へ向かってしまった。
釈然としないままではあるが、俺は鞄を下ろしてテニスボールを拾い上げると、下投げでトートの頭を越すように放り投げる。
「わん! わんっ!」
俺の投げたボールを追って、トートが楽しそうに走り出した。からからと車輪が回り、やがてトートはボールへとたどり着く。そしてそれを加えた後は、一目散に俺の方へ戻ってきた。
「わん! わんっ!」
「……まだやるのか」
「わんっ!」
足元に置かれたテニスボールを握り、俺は再度トートに向かって投げた。ゆるい放物線を描いたそれは、庭に二度、三度と叩きつけられる。しかし、四度目の地面との接触の前に、トートがそれを口で捉えた。
嬉しそうな顔をしたトートが、また俺の方へ戻ってくる。それを見て俺は、どうしようもない嫌悪感を覚えた。
トートに対して、ではない。
俺自身に対して、だ。
トートは、懸命にボールを追うことを選んだ。下半身が動かないながらも車椅子を動かして、嬉しそうに庭を駆け回っている。
……それに比べて、俺はどうだ?
右腕が、ズキズキと痛む。
傷は、完治しているはずなのだ。一度怪我をしてブランクが出来ているとは言え、テニスを続けることは可能だった。
でも、俺はやらなかった。諦めた。足掻かなかった。何故なら死んだら全部、無くなるからだ。無意味だからだ。無価値だからだ。
最後に死ぬのなら、この世界に意味はない。
しかし、本当に無意味で無価値なのは、俺だ。
何を頑張っても最終的になくなり、結果は無意味だと定めたのは、俺自身だから。
自分で決めた『死』への向き合い方を使って、俺は何もしないことを肯定し続けようとしていたのだ。
別に、何もしないという選択を否定するつもりはない。納得しているのであれば、すればいい。
でも俺は、トートと自分を比べて嫌悪感を抱いた。俺より先に変わっていく静花を見て、焦燥感を得た。
……全然、納得なんてしてねぇじゃねぇか。
積み上げたもの全てが無価値なら、積み上げようとした行動も、積み上げないという行動も、等しく無価値なのだ。どちらを選んでも、無意味なのだ。
だったら、自分の納得する方を選択すべきなのだ。欲しいおもちゃがお店にあるうちに買って後悔するか、買わなくて後悔するかの違い。金はもう持っている(傷はもう治っている)。
そして俺は、買わない方(続けないこと)を選んでいた。
……それなのに、消えてしまいたいだと? 自分で選んだくせに、自分の選択にグチグチ言ってんのか、俺は!
自分の矮小さに気づき、俺の口から引きつるような声が出る。気持ち悪い。
偉そうに寿史に説教しようとしていた自分が気持ち悪い。
全てを諦めた風に見せかけて授業をサボっていた自分が気持ち悪い。
今日テニス部のやつらから逃げ出した自分が気持ち悪い。
自分の存在、全てが本当に気持ち悪い。
「……くぅーん、くぅーん」
テニスボールを手に持ち固まった俺に、トートがからだを擦り付けてくる。
その優しい暖かさを感じ、より惨めになった俺は、トートから距離を取ろうとする。
「やめろ……」
「くぅーん、くぅーん」
しかし、どれだけ下がっても、トートは俺のそばから離れない。
「無理よ。その子、頑固だから」
顔を上げると、ドッグフードが入ったフードボールを持つ静花が、こちらに向かってくる。
静花の手にした餌に気づいたトートは一瞬顔を俺から静花へ向けるが、すぐにこちらの方を振り向き、俺の顔をじっと見つめ始めた。
「義法も一緒に、ドッグフードに近づいて欲しいのよ」
「わんっ!」
「……お前、よくわかるな」
「簡単よ。その子、素直だもん」
「わんっ!」
「義法を放って置けないけど、ご飯も食べたいのよね?」
「わんっ!」
「そんないいとこ取りなんて、やっていいのかよ……」
「いいのよ。きっと」
「わん! わんっ!」
俺は観念したように、静花の方へ歩みを進める。トートも同じ速度で、俺の隣に付いてきた。
静花が俺の足元にフードボールを置くと、トートは嬉しそうにそこへ顔を突っ込ませる。そしてたまにこちらを仰ぎ見ながら、ボリボリと餌を貪っていった。
そのトートの頭を撫でながら、静花が口を開く。
「多分、多分ね? 私たち、固執しすぎてるんじゃないかな?」
「……何に?」
「一度決めたことに。一度決めた内容じゃなくて、その形を、体裁を取り繕うことばっかり気にしてるんじゃないかと思う」
静花の声に答えることをせず、俺は腰を屈めてトートとの距離を近くした。
「……静花。トート、撫でていい?」
「どうぞ」
静花と入れ替わりに、俺はトートの頭を撫でる。するとふわふわした毛並みの感触がして、トートの暖かさをより近くに感じることが出来た。
自分の頭を撫でる俺を、トートがフードボールから顔を出して振り向く。
ドッグフードのかけらを口の周りにつけながら、トートは嬉しそうに笑った顔で、気持ちよさそうに目を細めていた。
放課後、鼻歌交じりにあたしは校舎を歩いていた。楽しいことや面白いことがあった翌日は、とても気分がいい。あたしの気持ちを表すように、ポニーテールが軽快に揺れる。
……昨日のトートも、可愛かったなー。
静花の案で車椅子をつけたのは、大正解だったと思う。出会った時のドッグフードに目がなくて、散歩も駆け回るトートが戻ってきたみたいだ。一日中わしゃわしゃしていても飽きない。
……そう言えば最近、康治と千春がトートのことやたらと聞いてくるんだよねー。
どこで世話してるのだとか、他に誰と世話してるのだとか、何かに付けてトートの話をしようとしてくる。他にも天燈工に知り合いがいるか聞かれたけど、面倒くさそうな話になりそうなので誤魔化しておいた。
……海にはトートの事、一応釘刺しといたけど、今日ぐらいもう一度言っておいたほうがいいかなー。
そう決めると、私の足は自然と屋上へと向かう。最近、海たちが集まる場所は屋上になっていた。
……まーた海がトートに嫉妬したら、今日はちょーっとぐらいならエロいことも許してやるかー。あたし、今日はトートのお世話係じゃないしねー。
軽快な足取りで階段を登り、最上階へ。屋上へと続く扉のドアノブを握り、捻った所で鍵がかかっている事に気がついた。
……あれ? まーだ誰も着てないのー?
いつもなら誰かしら屋上でだべっていたり、タバコをふかしていたりするはずだ。
若干の違和感を覚えつつも、いないのであれば仕方がないと、あたしは登ってきた階段を降り始めた。
……直接、海の教室覗いて見ようかなー?
それとも、康治か千春を捕まえて海の居場所を聞いたほうが早いだろうか? そう悩んでいると、後ろから声をかけられる。
「あれ? 紫帆?」
「あ、春華さん。お疲れ様っすー」
あたしを見て不思議そうな顔をする春華さんに対して、逆にあたしの方が不思議そうな顔になる。
「どーしたんですか? 春華さん。あたし、なんか変なことしてますかー?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。紫帆、あんた塩畑たちと一緒に行かなかったの?」
「え……?」
春華さんの言葉に、一瞬あたしの時間が凍りつく。何も言わないあたしに向かって、春華さんは小首を傾げた。
「さっき塩畑たち、学校出てったわよ?」
「……康治も千春も、一緒にですかー?」
「ええ、そうよ。あんた、何か塩畑から聞いてないの?」
「全く聞いていないっすねー」
嫌な、予感がする。
放置していたら絶望的な状況になる予感はありありとするのに、それが何なのかわからない焦りであたしの額に若干汗が滲んだ。
あたしは春華さんに問いかける。
「海たち、出かける時何か言ってませんでしたかー? 行き先とか、そーゆーの」
「ああ、そうそう、変なこと言ってたわよ。公園の遊具なら、事故? にできるとかなんとか」
「……あははははははっ。よくわかんないっすね、それ。じゃ、あたし海たち探してきますね」
「え、紫帆? ちょっと、紫帆っ!」
春華さんの言葉に答えることもせず、あたしは自分の教室まで駆け出した。
トートだ! トートだ! トートだ! トートだ!
あの野郎(海)は、事故死に見せかけてトートを殺す気だっ!
確かに事故死として処理されるなら、器物破損罪にはならないだろう。そしてその後、あたしたちから先生が残してくれた金を巻き上げようとしているのだ。
……最近トートの事をやたらと聞いてくると思ったら、そういうことかよクソったれっ!
海たちにメッセージを送るが、既読が付くのをあたしは期待してはいない。
自分の教室に飛び込んで鞄を担ぐと、あたしはすぐに下駄箱まで走る。その最中、あたしは他の五人に向けてトークルームにメッセージを送った。
『皆、今すぐトートに会いに行って!』
『は? 何いってんだ紫帆』
すぐによっしーから返信がくるが、走りながらでは上手くスマホを操作出来ない。
だから短く簡潔に伝えたいことを書くと、こうなった。
『トート殺される』
『え? 紫帆、どういうことなの?』
静花のメッセージを横目に下駄箱で靴に履き替えて、あたしは校門をくぐり、駅まで向かう。真夏の太陽が眩しくて、海にトートの事を話したうかつなあたしを責めている様に感じられた。
トークルームを見ると、あたしのメッセージを、たけが『確かな情報なのか?』と怪訝に思い、しおしおは『別に今じゃなくてもよくない? 今日当番じゃないんだけど』と否定的な意見を出し、『トートだけが襲われるってこと? 物置にある僕の絵が無事なら、そんなに急ぐことじゃないんじゃない?』とひさは自分の絵のことしか気にしない。
あたしは駅の改札をくぐり、汗だくになりながら階段を登る。
駅のホームにたどり着くと、あたしはトークルームへこうメッセージを投げ込んだ。
『今すぐ殺されそうなトートの元に皆で集まるかどうか、多数決しない?』
あたしたちの間で、この提案に異論が出るはずもない。
……でも正直、分が悪いかなぁー。
賛成票は、あたしの一票が確実に入る。たけはまた保留だろう。そうなると後二人、賛成票に投じて貰う必要がある。
……しずーは、多分賛成だよねー。
車椅子を提案した件等、最近のトートへの接し方を見ればしずーがトートを可愛がっているのはわかる。
では後一人、賛成票に投じてくれそうな人は誰なのか?
……しおしおは、多分反対かなー。
先程の否定的なメッセージといい、しおしおのトートの世話をするモチベーションは格段に落ちている。SNSが炎上して以来、トートの写真は撮っているが投稿は控えているみたいだ。載せない写真を撮るために、今から進んでトートの元へ駆けつけようとは思っていないだろう。
……ひさは、どうかな?
ひさは、自分の描いた絵にしか関心がなかった。ひさに賛成させるには彼の絵が危ないと伝えるだけでいい。でもそれが嘘だと判明した場合、あるいは絵が無事だとわかった場合、あまりよくない事態になる。
……多分、海たちは先にトートの元に到着するよねー。
やつらの狙いは、トートを公園の遊具で事故死に見せかけることだ。そのためトートをさらって、どこかの公園まで運ぶ必要がある。
いや、そう考えるのは軽率かもしれない。トートが生きていれば、吠えるし、下半身が麻痺しているとは言え抵抗するはずだ。先に殺して、その後公園へ移動して偽装工作をするのかもしれない。
いずれにせよ、あたしたちはトートがどこにさらわれたのか探す必要があるのだ。
……だからもしあたしが今ひさを誘導して賛成票を入れさせても、ひさの絵が無事だったら場合、その場でトートの捜索をするか否かの投票をされたら、ひさは多分、反対票を入れるよねー。
そうなると多数決が行われること事態をあたしは避けようとするだろう。でもそうなると、最悪しずーとあたしの二人で海たちを探さなければならなくなる。探すのも大変だが、そもそも女子二人で海たち三人に勝てる要素がない。
そうなると、ひさに未確定の情報は伝えられないのだ。彼の票は、最悪反対票に入るものだと思っていたほうがいいだろう。
……ここは素直に、トートを心配してくれる人が賛成に回ってくれる事を期待するしかないんだけど。
だが残りの一票は、あのよっしーだ。
よっしーの『死』の向き合い方は、虚無みたいなものだと、あたしは思う。最終的に死んでしまうのだから、全てに意味がないと思っている。
それは酷く退屈に思えるが、今その価値観で投票した場合、反対に票を入れる確率がかなり高いのではないか? とあたしは思った。
……よっしー、最初からトートを保健所に連れてこうとしてたもんなぁー。
どうせ死ぬんだから、早く死ぬ分には構わない、という考えで反対票を入れるよっしーの姿が、容易に想像出来た。
だとすると、ひさが気まぐれで賛成票に入れてくれる事を祈るしかない。
……お願い、お願いだよっ!
そして、投票が開始され、ものの数秒で投票が終わる。
投票の結果は、トートの世話をするときと全く同じだった。
つまり、賛成三、反対二、保留一。
でも、賛成と反対に投票した人が違う。
保留は、たけの一票。
反対は、しおしおとひさの二票。
そして賛成は、あたし、しずー、そしてよっしーの三票だった。
よっしーはトークルームで、こんなメッセージを投稿していた。
『見れるのなら、あいつの今際の際に少し興味がある』
例のボロ屋の裏に回ると、扉は鍵がかかったままだった。でも木製の囲いの上には、泥が付着している。恐らく海たちはここからよじ登り、中に入ったのだろう。
この扉を開けたら海たちと遭遇することも考えて、深く深呼吸をする。
そして扉の鍵を開け、中へと足を踏み入れた。でも、想像していたように海たちとの遭遇もない。そこには、何もなかった。
そう、何もなかったのだ。
皆で毎日掃除をしていた犬小屋は、屋根から押しつぶしたように粉砕していた。
水を入れるのに使っていた水栓柱はへし折れ、周りを水浸しにしている。
スチール製の物置も、扉や壁がボコボコにへこまされていた。
そしてトートが身につけていたはずの車椅子は真っ二つにされ、片方の車輪がカタカタと音を立てながらいびつに回っている。
「と、トート……?」
遅まきながら名前を呼ぶが、トートがここにいないのは明白だった。
そう、ここにはもう何もない。
トートとふざけて遊んだ光景も、しょんべんをかけられキレたあの日も、日々弱っていくトートをあたしたちが世話をしていた日常も、もうここには何もなかった。
……これはきっと、見せしめだ。
トートを事故死に見せかけて殺し、その後あたしたちから金を巻き上げるための布石。自分たちに逆らったら、お前らもこうしてやるという、海たちのあまりにも暴力的なメッセージだ。
……海はもう、あたしのことを彼女じゃなくて、ただの金づるだって思ってんだね。
こんなの、全然楽しくない。面白くない。気持ちよくない。つまらない。辛い。痛い。きつい。こんなの、こんな気持、耐えられない。
海に対する怒りと、自分に対する不甲斐なさと、他の五人への申し訳無さと、何よりトートの心配で。
あたしは一人、絶叫した。
しおりの目の前には、かなり異質な光景が広がっていた。多数決の結果を受けてやってきたのだけれど、今まで自分たちが通っていた場所とは思えないほど、トートと一緒に過ごした庭は荒れている。
「あたしが、あたしのせいで!」
「紫帆! 違うよ紫帆! しっかりしてっ!」
うずくまり、かなり取り乱している紫帆ちゃんを、静花ちゃんが背中を擦ってなだめていた。紫帆ちゃんはかなり自分を責めているようで、血走った目には涙が浮かんでいる。
「……酷いな」
その一言に全ての感情を込めて、剛士くんは顔をしかめながらつぶやいた。
反対に、剛士くんから少しだけ離れた場所に立つ義法くんは、全く表情を変えていない。その様子は、不気味なほど達観しているようにも見えた。
「ふざけんな! ふざけんなよっ!」
ボコボコになった物置から、鬼のような形相になった寿史くん飛び出してくる。
「絵が、僕の絵が! 僕のトートがズタズタじゃないか! キャンバスもバキバキに割られてスケッチブックもビリビリに破かれて、何でこんな事になってるんだよっ!」
寿史くんは気でも振れたかのように頭をかきむしり、歯茎をむき出しにしながら歯ぎしりをした。やがて彼の焦点があっていない瞳は、紫帆ちゃんへと向けられる。
「紫帆のせいだ……。紫帆が彼氏に先生が残してくれたトートと金の話をしたから、こんな事になったんだっ!」
「やめてよっ!」
静花ちゃんが、寿史くんを睨む。
「紫帆がやったわけじゃないでしょ? やったのは別の人で、寿史の絵をめちゃくちゃにしたのも他の人でしょ?」
「でもこの自体を引き起こしたのは、間違いなく紫帆が――」
「……よせ、寿史」
剛士くんに止められ、寿史くんは面白くなさそうな表情を浮かべる。そんな彼を横目に、剛士くんは紫帆ちゃんに問いかけた。
「……お前の彼氏には、まだ連絡がつかないのか?」
「うん。電話も出ないし、既読もつかない……」
「じゃあ、探しに行こうよ!」
そう言って静花ちゃんは、しおりたちの方を見渡す。
「皆で探せば、まだ間に合うかもしれない」
「どこ探すんだ?」
凍てつく氷のような温度の声で、義法くんはそう言った。彼は一瞬口を歪めた後、不格好な笑みを作る。
「当てもないだろ? 闇雲に探すのか? そもそもどうやって探すんだ? 剛士みたいに皆原付持ってれば多少は違うんだろうが、徒歩で探し回っても多分、見つけれねぇぞ」
そして義法くんは、全てを諦めたような吐息をした。
「やっぱり、何かを積み上げようとしても無駄なんだよ。最後は全部、『死』で終わる。全てが無駄、無意味だったんだ」
「あんた、まだそんな事言ってるわけっ!」
静花ちゃんは義法くんにそう言うものの、それ以上上手く言葉が出てこないか少しだけ悔しそうな顔をして、顔を伏せた。
口をつぐんだ静花ちゃんの代わりに、剛士くんが紫帆ちゃんに向かって問いを投げる。
「……トートを連れてった奴らは、どんなやつなんだ?」
「……海は、金髪でタバコ吸ってる。顔も悪くない。康治はドレッドヘアーで、千春は頭の両サイドを刈り上げてる」
それを聞いた剛士くんは、舌打ちをした。
「……団地がどうとか言ってたやつらか。なら、あいつらの言ってた犬がトートの事だったわけだ」
一人納得したようにうなずくと、剛士くんはこの場から立ち去ろうとする。
「ど、どこに行くんですか? 剛士くん!」
「……トートを探す」
そう言って、剛士くんはしおりの質問に迷いなく答えた。
「……あの時から、売られてた喧嘩だからな」
後はもう、振り向きもしなかった。そんな剛士くんの後を、寿史くんが追う。
「僕も行くよ!」
「……私たちも、行きましょう」
静花ちゃんが紫帆ちゃんの手を取って、立ち上がる。そして静花ちゃんは、しおりの目を真っ直ぐと見つめた。
「しおり」
「あ、う、うん!」
反射的にそう言ってしまい、しおりは静花ちゃんたちと一緒に走り始める。
去り際に一瞬、しおりは後ろを振り返った。
義法くんは立ち去るしおりたちを見向きもせず、ただ黙って、じっ、と壊れた犬小屋を見つめていた。
適宜、各自で見つけた情報はトークルームで共有する事になった。先に出発した剛士くんと寿史くんも、少しでも手がかりになりそうなものを見つけたらすぐに共有してくれると返事がある。
「それじゃあ、何かあったらトークルームで」
「絶対トート、取り戻そうねー!」
静花ちゃんが弁護士の小嶋さんにも事情を説明する電話をした後、しおりは二人と分かれて、一人で走り始めた。
……。
…………。
………………。
……も、もう静花ちゃんと紫帆ちゃん、行ったかな?
後ろを振り返るが、誰かがしおりのことを見ている様子はない。その事実を確認して安堵のため息を付いた後、私はガードレールに腰掛けてスマホをいじり始める。トートの家から、そう離れた場所ではなかった。
……な、なんか雰囲気でついてきちゃいましたけど、しおり、そんな必死になってトートを探したいって思えないんですよねぇ。
むしろ逆に、トートがいなくなってくれてよかったとすら思っている自分もいる。それが酷い考えであることも理解しているが、事実なのだから仕方がない。
……だってSNS、ずっと炎上しっぱなしですから。
しおりのアカウントは相変わらず『いいね』の数も増えず、コメントも荒れている。フォロワーは逆に面白半分でフォローしてくる人がいるので、一時期減った数に比べたら若干増えていた。
……で、でも、そういう人たちにフォローして欲しいわけじゃないんですけどねぇ。
しおりが求めているのはしおりを認めてくれる人であって、しおりを否定する人ではない。今まで誰かに認めてもらうために使っていたSNSは、今やしおりを攻撃する見たくもないものに変貌していた。
……そろそろ、新しいアカウントの開設準備もしてたんですけどね!
アカウントだけ変えても、中の人が同じだとバレれば、今炎上している炎が別のアカウントに飛び火するだけだ。そうなれば今度は、より大きな炎となるのは目に見えている。
……だから新しいアカウントは、慎重に作ろうと思ってまだ作れてないんですよねぇ。
そういう意味でしおりは少し、誰かに認めてもらうことに飢えていた。だからかもしれない。静花ちゃんに自分の名前を呼ばれて、しおりは静花ちゃんが求めているであろう行動をとっさに取ってしまっていた。
……で、でも、それだけなんですかね?
もしあの場に残っていたら、義法くんを一人にしない、という認められ方だって出来たはずだ。
しおりは少し、首をかしげる。
……しょ、正直、炎上の原因がいなくなれば、今のアカウントをそのまま使えるんじゃないか? って思ってたんですけどねぇ。
それはつまり、トートの死によって自分のアカウントが炎上から復活しないか? という最低な考え方だ。でも、どれだけ最低でも、しおりにはしおりを認めてくれる存在が必要なのだ。
……や、やっぱり、しおりは何もしないのが正解なんですよ!
最低で最悪な結論にたどり着くが、それだとやはりあの場に残るのがしおりにとって最善だったのに、何故そうしなかったという矛盾が生じる。
でも、しおりはそれを無視した。
何故なら今、しおりはトートを探していないからだ。
……こ、これなら結局、あの場に残っているのと変わりがないですよね!
小さく頷き、しおりはスマホの画面をスワイプする。撮りだめた写真を眺めようと思ったのだ。理由は単純で、炎上してからアップしてない写真がどれぐらいあるのか、気になったからだ。
写真の一覧が、しおりのスマホに表示される。
「……え?」
スマホを見て、しおりは思わずそうつぶやいていた。
画面に表示された写真が、全体的に茶色い。スクロールしてもスクロールしても、同じ様な画面が続く。色の系統だけで言えば、あまりバズりそうもない写真ばかりだ。
では一体、何故そんな事になっているのだろう?
トートだ。
しおりが撮った直近の写真には、ほとんどトートが写っているもので占められていた。
SNSに写真をアップしていた時は、むしろSNSのためにバズりそうな写真を撮りに行っていた。でも炎上してからは投稿も控えていたので、SNSにアップするとかしないとか関係なく、最近では撮りたいものだけを撮るようにしている。
……え、え? 嘘。え?
自分でもよくわからない感情に突き動かされながら、しおりはスマホの画面をタップする。
スマホいっぱいに、ドッグフードを貪るトートの姿が映し出された。スワイプする。
スマホいっぱいに、トラのぬいぐるみにかじりつくトートの姿が映し出された。スワイプする。
スマホいっぱいに、介護ベルトをしながらも楽しそうに散歩するトートの姿が映し出された。スワイプする。
スマホいっぱいに、スマホが気になって興味津々な瞳でこっちを見るトートの姿が映し出された。スワイプする。
スマホいっぱいに、水を浴びて嬉しそうにはしゃぐトートの姿が映し出された。スワイプする。
スワイプする。スワイプする。スワイプする。スワイプする。スワイプする。
どれだけ指を動かしても、やって来るのはトートとの思い出ばかりだった。
しおりが撮った写真もあれば、他の五人が撮った写真もある。でもそれら全ての写真で、トートは自分を撮った人と寄り添っているようだった。
……ち、違う、違うよ。
寄り添っているのではない。認めてくれているのだ。ただそばにいることを、そこにいてもいいのだと、トートは寄り添うことで認めてくれていたのだ。SNSで炎上したことを八つ当たりしようとしたしおりさえ、認めてそばにいてくれていたのだ。
……だ、だからしおりは、私は、トートの写真ばっかり!
何故気づけなかったのだろう? 何故もっと早く気づけなかったのだろう? 自分にはもうこんなに自分を認めてくれる存在がいて、無意識でそれがわかっていたからこんなに写真を撮っていたのに、何で自分はもっと早く気づけなかったのだろう?
他の人から見れば、所詮犬じゃないかと思われるかもしれない。でも、トートはしおりを認めてくれる存在なのだ。どれだけ非難のコメントに晒されても、トートは私のそばにいてくれたのだ。
涙で視界が滲む中、スワイプしていたしおりの指が、止まる。
その写真はまだトートに静花ちゃんが怯えていた頃、最初にトートのお世話をしに行った時に静花ちゃんに撮ってもらった写真だった。トートを抱き上げて、しおりは嬉しそうに笑っている。
何故自分はあの時、静花ちゃんに写真を撮るようにお願いしたのだろうか?
……き、決まってるじゃないですか! トートが、トートが愛おしかったからに決まってますっ!
自分よりも大きな存在に抱かれているというのに、その身を預けてくれたトートの暖かさが、記憶から蘇ってくる。
あの時しおりは抱っこの仕方もわからなくて、怯える静花ちゃんから聞いてもう一度トートを抱き上げたのだ。すでに嫌がる抱き方をしたしおりを、トートはあの時から受け入れてくれていた。だからSNSにアップすることがない写真でも、こうしてまだ自分は残していたのだ。出会った時から残していたのだ! それなのにっ!
……し、しおりは、本当に、本当にバカです!
「……しおり?」
自分の名前を呼ぶ声に、しおりは顔を上げる。その拍子に、両頬から涙が零れ落ちた。
しおりが顔を上げた、その視線の先にいたのは――
慌ただしい気配が去っていき、振り返るまでもなくトートのいたこの庭にいるのが俺一人だけだというのを理解する。
……結局、見れそうもないな。
トートの今際の際がどうなるのか、笑ったまま逝くのか、それとも全く見たこともない顔で逝くのか、興味があった。
何事もなく後数年もすれば、もっと短いかもしれないが、その答えを見ることも出来たかもしれない。しかし、トートが連れ去られた今となっては、もはやそれも望めないだろう。最悪、もう死んでいる。
……こんなの、最初からわかってたはずだろ? 最後は、こうなるって。
トートの面倒を見ると決めた時から、あいつの命は長くないことはわかっていた。それが早まっただけ。最終的な結論は、あの頃と変わっていない。
無くなって、おしまいだ。
それでも俺は、わけもなく歯噛みした。
どうせ最後に死ぬのなら、この世界に意味なんてない。
このスタンスは、俺の『死』への向き合い方は変わらないし、そう簡単に変わるようなものではない。
……だって、八年だぞ? 小三から高一の今までの八年間。俺はずっとこの考え方で生きてきたんだ。
二十代の人からみた八年という時間と、三十代の人が感じる八年という時は、多分違った受け止められ方をするのかもしれない。その時間を長いと感じる人もいるかもしれないし、短いと感じる人もいるかもしれない。
……でも、俺にとっての八年という時間は、十六歳の俺にとっての八年は、今まで生きてきた人生の半分の時間なんだよっ!
だからもう、このスタンスは俺の体の半分を占めている。それはきっと、他の五人も同じはずだ。それを、そう簡単に変えることなんて、出来るわけがない。
『一度決めたことに。一度決めた内容じゃなくて、その形を、体裁を取り繕うことばっかり気にしてるんじゃないかと思う』
少し前に静花から言われた言葉が、脳裏をよぎる。
二年前の、まだテニスをしていた時の俺なら、まだこの『死』との折り合いの付け方が自分の半分を占めていない頃の俺だったら、また違う行動が出来たのだろうか? していたのだろうか?
でも、もう今の俺は自分自身への虚無感すら感じない。じんわりと口元に冷笑が浮かぶだけだった。
……もう、ここに来ることもないだろう。
後片付けをした後に立ち去ろうと思い、俺はようやく足を動かし始める。
そう言えば、自殺を決意した人はその行動を起こす前に身の回りの整理を始めると聞いたことがある。今の俺は、少しだけその理由がわかった気がした。どうせ終わるなら、綺麗に終わりたい。たとえ全て、無になるのだとしても。
俺が最初に向かったのは、水栓柱だった。
ここで毎回、犬小屋の掃除をする時に水を汲んでいた。たまにトートが構って欲しがって、結果水浴びみたいになったこともあった。
近づいて折れている部分をどうにか直せないかと思うが、折れた部分を塞ごうとしても、無駄に水しぶきが舞ってこちらが濡れるだけだった。流石にこれは溶接などをしないと対応が難しい。水が出続けているので水道代もかかり続けていると思うが、その辺りは小嶋がどうにかするだろう。そう思い、俺は別の場所へ足を動かす。
次に向かったのは、物置だ。
ここはトートの餌やフードボール、車椅子をトートがつけてから使わなくなったが、散歩をする時に使っていた介護ベルト等がしまってあった。こちらが餌の準備をしているのだとわかると、トートは必ずはしゃぎだした。多分、食い意地が張っているのだろう。介護ベルトを使っての散歩は、下半身が動かないくせにトートが走り回るのでついていくのが大変だった。
今ではドッグフードを入れるフードボールは皿の底が反対側にへこんで、山が出来ている。そこに入れるはずだったドッグフードは袋ごと破れて、中身が散乱していた。ご丁寧に介護ベルトまでも、ちぎれてズタズタにされている。
半分にへし折られた箒を使い、物置からゴミになりそうなものを掃き出していると、物置の脇にすでに何かが集められている事に気がついた。
吹けば飛んでしまいそうなそれらをよく見ると、それが寿史の持ち込んだものだとわかる。俺はその事実に驚いた。
……あいつ、あんなに絵をダメにされた事に怒ってたのに。
俺が今物置から掃いた中に、寿史の絵だったものや、寿史が持ち込んだキャンバスの破片等はなかった。つまり、先に寿史が集めていたのだ。
もう絵と呼べない、欠片となったそれらを丁寧に集めたであろう寿史の行動に、俺は寿史の絵に対する執着以上のものを感じ取る。ひょっとしてあいつはトートの絵を描きながら、その過程で何か思う所があったのだろうか?
……はっ! バカバカしい。
俺は自分の考えを、鼻で笑う。
もしそうなら、どうだというのだろう? 今更羨ましいと感じる自分に、俺はただ呆れて笑うしかない。
……トートを探しに行かなかった俺が、何を今更。
俺は黙々と掃除を続け、車椅子の残骸もまとめていく。不燃物可燃物にある程度わけたところで、俺はふと気づいた。
……血とか、吐いた跡がないな。
俺がトートを事故死に見せかけるのだとするなら、この場で、そして一撃で、苦痛を感じさせる間もなく終わらせてやる。吠えられる事もないし、運ぶのも楽だからだ。
殺す方法は、撲殺を選ぶ。首を絞めると暴れられそうだし、刃物を使うと血が出るし、一発で終わらせてやれるか自信がない。薬品を使うのはそもそもそれを手に入れるのが難しいし、事故死に見せかけるのならその方法は取れない。
やはり事故死に見せかけるなら、撲殺してから運ぶことになる。そして殴るなら一撃で決められる、頭を狙うだろう。でも殴った時に血や、吐瀉物が出ることだって――
そこまで考えて、俺は頭を振った。
……何を考えてるんだ、俺は。
終わったはずだ。もう死んでいる可能性も考えたはずだ。なのに俺は性懲りもなく、まだトートが生きている可能性を考えている。生きていても、どこにいるのかわからないのに。
……気持ち悪い。
終わるなら綺麗に終わりたいと思った矢先に、往生際悪くそんな事を考えている。本当に、ダサすぎて、キモすぎて、自分が嫌になる。
だからもう終わらせようと、俺は最後に犬小屋の前へ立つ。
トートはたいてい犬小屋の周りか中にいて、俺たちの誰かが来ると元気よく駆け寄ってきた。犬小屋の中からおもちゃを引っ張り出してきて、トートが遊んでいたときもある。
今は屋根が入り口を塞ぐように陥没していて、見る影もない。粉々になった破片を集めて、俺は解体するために屋根を思いっきり引っ剥がした。その下からは、トートのおもちゃがいくつも出てくる。トラのぬいぐるみ、縄を結んで骨の形にしたものに、そして――
「は?」
思わず、そんな声が出ていた。だってそこに、あるはずのないものを見つけたから。
……なんでだよ。おかしいだろ?
俺は混乱しながら剥がした屋根を地面に捨て、見つけたそれを右手で拾い上げる。
痛い。
……だって、おかしいだろ?
右手が、痛い。
……トークルームでトートが犬小屋に溜め込んでるものって、そういうことだって!
静花たちからは、トートはお気に入りのものを犬小屋に溜め込んでいると聞いていた。
……なのに、何で俺が持ってきたテニスボールが犬小屋の中から見つかるんだよっ!
「クソがっ!」
叫んだ時には、俺はテニスボールをつかんだまま走り始めていた。頭の中にはもう、あのクソ犬(トート)の事でいっぱいだった。
クソが! クソが! クソが! クソが! あのクソ犬がぁっ!
何でまだ持ってやがるんだよ! 何で犬小屋にしまってやがるんだよ! 何で俺はこんな気持になってやがんだよ! 何で面見てぇ時にてめぇ(トート)がここにいねぇんだよ、クソがっ!
あぁ、クソ! ほんとにクソ! クソ! 涙で前が見えずれぇじゃねぇかクソっ!
涙を拭いながら息切れした所で、俺は少し立ち止まる。
……ダメだ、落ち着け。こんなの俺らしくない。落ち着くんだ。無様にあがき続けたって、結果は結局変わらない。
なら、なんで俺はトートを探しに走り始めた? 決まっている。多数決の結果だ。その結果に従うにはこうするしかないと、そう気づいたからだ。
だって紫帆は、こう言って多数決を取ったじゃないか。
『今すぐ殺されそうなトートの元に皆で集まるかどうか、多数決しない?』
……だから俺は、今すぐ、殺されそうなトートの元に、何が何でも行かなきゃなんねぇんだ。殺されてない可能性が残ってるのなら、あいつに会いに行かなきゃならねぇんだよ!
ガードレールに寄りかかり、俺は自分の情けなさで笑ってしまい、次から次に出てくる涙を拭うことが出来ない。
……本当に、いちいちこういう言い訳をしないと動けない自分が嫌になるぜ。
でも、いいぞ。調子が出てきた。いつもの無意味で無価値の俺の思考が戻ってきた。いきなり熱血キャラみたいなのは俺の性分じゃないし、きっとそれは俺の役目じゃない。
……そういうのは、先に行動した五人に任せるさ。
だから俺は他の五人と違って、すぐにトートを探しに行けなかった俺だからこそ出来ることをすべきだし、出来ることがあるはずだ。
そもそも、俺は静花たちになんて言った? そうだ。どこ探すんだ? と、俺はそう言った。
かなり冷静になってきた俺は、スマホを取り出す。トークルームの覗いてみても、各自情報共有をする事になっているみたいだが、まだ有益な情報は入手出来ていないみたいだ。
……他の五人は、どう動く? 何を考えて動く?
トートを連れ去ったやつらの考えはわからないけど、他の五人の考えならよく知っている。既にあいつらがやっていることを俺がやっても、あまり効果はない。二度手間になるだけだ。
剛士は、原付がある。一番移動距離が稼げるから、近場は他のやつに任せて距離の離れた場所から探しているはずだ。
静花、しおり、寿史は、移動手段が徒歩しかない。近場から探していくが、手がかりが少ない状況では、探す方向ぐらいは分担しているだろうが、闇雲に探すしかないだろう。
紫帆は、静花たちと同じ状況ではある。でも、紫帆はトートを連れ去ったやつらに連絡が出来る。これは今も継続して行われているはずだ。トークルームへの情報共有がないので、まだ連絡はついていないのだろう。
犯人への連絡、闇雲とはいえ遠距離の捜索と近場の捜索は、他の五人がやってくれている。
……だったら俺は、根暗で陰気で後ろ向きな俺にしか出来ない、キモくて痛い発想をここで捻り出すしかない!
そう思うと情けなさ過ぎて涙が出そうになるが、それが俺が他の五人と違う所だ。どれだけ情けなくても、他の五人と違う所はここしかない。俺が今できるのはそこしかない。
自分のスマホを操作して、俺はトークルームの過去メッセージを読み漁る。
……どれだけ積み重ねても、最後は消えて無くなる。だったら残ってるものに、過去と今に賭けるしかない!
静花の、しおりの、寿史の、剛士の、紫帆の、そして俺がトートと過ごした記録(思い出)から、今まで見聞きしたものをどうにか関連付けて、結びつけて、発想を飛躍させる。たとえ買えないおもちゃであっても、それに憧れてはいけないなんてこと、きっとないはずだから。
そして、スマホをなぞる俺の指が止まった。飛躍しすぎた発想が、俺の頭の中に生まれる。
「はっ!」
やがて俺は、乾いた笑いを浮かべた。自分でも無茶な、そんなバカな、というアイディアを思いついた。思いついたが――
……ここぞって場面で、こんなアホみたいなことしか考えられねぇのか俺はっ!
涙が溢れるぐらいの自己嫌悪で消え去りたくなるが、そうも言っていられない。どんなにバカなことでも、思いついてしまった以上は動かざるを得ない。
……俺の考えがあってるなら、もう時間がない。
俺が探すべき場所は、三箇所もある。ガードレールから腰を上げ、スマホで地図アプリを立ち上げた。涙をふいて再度走り出そうとした道の脇で、俺はある人物を見かける。
「……しおり?」
顔を上げたしおりと、目があう。
「お前、なんでまだこんな所にいるんだ? 俺より先に出たはずだろ?」
「よ、義法くんこそどうして……どうして、泣いてるんですか?」
「ばっ! こ、これは、って、泣いてるのはお前もだろうが」
涙を拭いながら、俺はしおりの方へと向かっていく。何故しおりがこんな所にいるのかわからないが、正直助かった。
「しおり。お前、こんな所にまだいるってことは、トートを探す当てはないんだろ?」
しおりは涙を拭いた後、小さくうなずいた。
「は、はい、そうですけど……」
「なら、俺に考えがある。協力しろ」
「え、ど、どういうことですか? 義法くん」
「多分トートは、藍銅公園、花田天然公園、菫青公園のどこかにいるはずだ」
俺がそう言うと、しおりは驚愕の表情を浮かべる。
「ど、どうしてそう思うんですか? 紫帆ちゃんの彼氏たちはトートを事故死に見せかけたいと思っているはずですけど、トートを別の場所で殺す可能性もありますよね?」
「それは否定しない。でも、トートの犬小屋を見ても、庭を見ても、トートの血や吐いた跡は見つからなかった。公園の遊具で事故死に見せかけたいなら、やつらはトートを殴り殺すはずだ。別の場所に運んでから殺すより、殺してから運んだほうが楽なのに、あの場所にはそうした痕跡はなかった。だから多分、まだトートは生きてるよ」
「じゃ、じゃあトートがまだ生きていて、公園に連れて行かれて殺される事になっていたとするよ? でも、なんでその三つに絞れるの?」
「団地だ」
しおりの疑問に、俺はそう言い切る。
「トートをさらったやつらと喧嘩した時に、剛士は犬という単語を聞いている。その犬が剛士が言った通りトートの事なら、その時剛士が聞いた団地というキーワードは、トートをさらった件と何かしら関係がある可能性が高い。この辺りで団地が近い公園っていうと、俺たちがトートの散歩コースで使っていた藍銅、花田、菫青の三つの公園に候補に絞られるんだ」
「な、なるほど。じゃあ義法くんの考えをトークルームに――」
「待て、それが正解みたいに書くな!」
俺はスマホを操作しようとしたしおりを、慌てて止める。
改めて口にしてみて、自分の考えのバカらしさを痛感した。可能性、多分、はずだ、という確定情報のない不確かすぎる俺の考えは、推理だなんてとても呼べるような代物ではない。
「相手が車とか、移動手段を持っていたらもっと公園の対象は広がる。事故死に見せかける偽装工作の準備だって、前もってやっておけばトートを庭で殺さなくても、用意していた場所に運び込む事を優先するはずだ。それっぽくは言ったが、俺が考えた三つの候補なんて、ほぼ当てずっぽうに等しいんだよ」
「じゃ、じゃあ、皆にはなんて言いましょうか?」
「……俺とお前が、藍銅、花田、菫青のどこに向かうかだけ伝えればいいだろ。南側が藍銅、花田の二つで、北が菫青だから、しおりは北の――」
「い、いえ! しおり、南の方に行きますっ!」
俺の言葉を遮って、しおりが自ら手を挙げる。
「よ、義法くんはそうやって色々考えられるから、候補を一つ確認したら、別観点でトートがいそうなところを考えてください。しおりはそういうの出来ないから、とにかく走って頑張りますっ!」
かつてないほど積極的に自分の意見を述べるしおりに、俺は思わず圧倒された。こいつも、トートに何かしら感化されたことがあったのかもしれない。
「……わかった。じゃあ、南は任せた」
「り、了解ですっ!」
トークルームへメッセージを入れ始めたしおりと分かれて、俺は北に向かって走り出す。
右肘の痛みが、もっと早く走れと、俺を急かした。
僕はただ、体の奥底から湧き上がってくる衝動に突き動かされて走っていた。
怒りだ。
僕が今走っている原動力。それは、自分の怒りだった。体の内側から溢れるそれにしたがって、ただただ足を動かしていく。もう沈もうとする夕日に照らされて、橙色に染まる町並みが僕の視界を通り過ぎていった。
……でも、なんで僕は怒ってるんだろう? なんでこんなに怒ってるんだろう?
『……寿史。お前、自分の絵が壊されることだけに怒ってんのか? あの絵に込めた、先生とトートへの想いが壊されるから怒ってんのか?』
トートが嘔吐して病院に連れて行ったあの日、剛士に言われた言葉を思い出して僕は歯噛みする。
……僕が今怒ってるのは、間違いなく絵が台無しにされた事が関係している。
誰だって、時間をかけて作ったものを壊されて、いい気持ちになるわけがない。だから、僕の怒りは正しいはずだ。
『……あの絵じゃないと、お前の残したいものは残せないのか?』
剛士の言葉が、また脳裏によみがえってくる。
僕が絵を描くのは、それが僕の『死』との向き合い方、折り合いの付け方だからだ。永遠の生を求め、生きた証を残したいからだ。
僕がいなくなっても僕の描いた絵が残り続ければ、それは僕が生きた証となる。
……だから僕は、僕は先生が残してくれたトートを残したくって、そうすればトートも、トートを残そうとした時の先生の想いも残せるから、だから僕は――
『……今描いてる絵に、お前が固執しないといけない理由はねぇだろ? あの絵をもう一度描き直したって、お前の残したいものは残せるんじゃないのか? 今あの絵を描かなくたって、お前が残したいものは永遠に出来るんじゃねぇのかよ?』
剛士の言葉は、正しかった。永遠に残したいものが壊されたのなら、もう一度作ればいい。描けばいい。まだその時間は残っている。絵を破かれた悔しさは確かに残っているが、それでの僕の中の優先度は、生きた証を残すこと、絵を描くことだ。
……だったら僕は、なんで怒ってるんだ? なんで破れた絵を描き直さずに、僕はトートを探しているんだ?
『……あの日『死』に晒されたよしみで、もう一度言ってやる。お前は、何で怒った? お前は何を残したい? 残そうとしているもの(トート)は、まだ続けられるんだ(生きていられるんだ)。辛い現実だって、絵の中では美しい理想も描けるんじゃないのか?』
先生が残してくれたものは、僕にとって大切なものばかりだ。トートもそうだし、多数決という取り決めだってそうだ。
多数決という、姿形のない意思決定システムを、僕は既に大切に扱っている。形がなくても大切なものがあると、僕はもう知っているのに。
それでも僕がトートを、絵という形で残したい、描きたいと思う理由は、一体何だ?
僕が描きたいと思っているものは、何だ?
僕が残したいと思ったのは、本当は何なんだ?
……写真みたいな絵じゃ、ダメだ。僕がちゃんと手を動かして、僕自身が描くことで、僕は『死』と向き合える。だから、僕は――
『終わろうとしているものに、意味を見出しすぎるな。お前まで引きずられて――』
唐突に、義法に言われた言葉を思い出した。あの時僕は、下半身が不自由なトートが懸命に歩こうとする姿に目を奪われて。
……美しいと、そう感じたんだ。
だから、あの時のトートを残そうと思ったのだ。あの時のトートの姿に固執してしまったんだ。あの時から僕は、ずれてしまっていたんだ。
あの時僕が美しさを感じたのは、残したいと思ったのは、懸命に生きようとするトートの在り方だったのに!
だから僕は、絵の中のトートですら傷つけられたくなかったのだ。だから僕は、怒っているのだ。
トートを傷つけられた。僕が怒っているのは、そんな単純な理由だった。
……僕は、僕は、僕は今、トートに会いたい! 皆と会いたいっ!
その時、僕のスマホが震えた。見れば、紫帆からトークルームにメッセージが三つ、入っている。
そのメッセージを見て、僕は愕然とした。
『トートは菫青公園』
『皆急いで』
『よっしーが殺されちゃう!』
あたしは焦っていた。トートが海たちにさらわれたのは、あたしのせいだ。トートに何かあったらと思うと、胸の奥が痛くてたまらない。
海に電話をかける。出ない。康治に電話をかける。出ない。千春に電話をかける。出ない。額から流れる汗を拭い、もう一度海から電話をかけ直す。
しおしおとよっしーがそれぞれ、藍銅公園、花田天然公園と菫青公園へ向かうと連絡があったのは、十分ほど前のことになる。
……よっしーも、探してくれてるんだねー。
彼の中でどういう変化があったのかはわからない。でも、今は一人でも人手が欲しかったし、どこに向かうというアイディアを出してくれるだけでも助かった。彼らの行動から、何故そうしたのかあたしは推測する。
……よっしーとしおしおは、剛士の話から団地に近い公園に絞ったんだねー。
かなり飛躍した発想だが、だとするとあの二人はまだトートが生きていて、海たちが公園でトートを殺そうとしていると考えているのだろう。あたしもまだトートは生きていると思っていたいし、まだ間に合うと信じていたほうが体が動く。
……ならあたしは、これから藍銅、花田付近を見て回ろうかなー。
元々トートの家から東南方向の空き地や公園を調べていたあたしは、南へと足を向ける。その時――
『電話出れなくてごめんね、紫帆ちゃん』
千春と、電話がつながった。
声をすぼめたような千春の声が、スマホ越しに聞こえてくる。
『それにしても、オレに鬼電してくるなんて珍しいじゃん? どうしたの?』
「ど、どうしたのって、千春たちがあたし置いてどっかいっちゃったんでしょー」
あたしは落ち着け、と自分に言い聞かせながら、予め用意していたセリフを口にする。海たちの誰かにつながった場合、どうやって情報を聞き出すのか、トートを探している間に考えていたのだ。
……千春が大きな声を出さないってことは、一緒に行動している海と康治には内緒であたしとの電話に出たってことだよねー。
海よりあたしを取ったということは、千春はあたしの心象を良くする事を優先したのだろう。
……このタイミングで電話に出た理由は、トートを事故死に見せかける計画がある程度一段落ついた、ってことかなー。
だとすると、かなりまずい状況だ。でも、その状況だからこそ千春の気が緩んだのも事実。ここでどれだけ千春から情報を引き出せるかが、トート救出の鍵になるはずだ。
『ごめんごめん! オレは紫帆ちゃんにも話したほうがいいって言ったんだけど、海さんが黙っとけって』
自分ではなく海が悪いということにしたい、という意思がありありと見える千春の言葉に、あたしは辟易する。
そう言いつつも、結局海の言うことにあんたは従ったんでしょ? と思わなくもないが、それでもあたしは手応えを感じていた。
……自分を悪者にしたくないって口にしたからには、海とは違ってあたしに味方してくれる意思を今は持っている、ってことだよねー?
あたしは少し、すねたようにつぶやいた。
「えー、あたしだけ仲間はずれー?」
『いや、そういうわけじゃないんだけど……』
「だったら今、何してんのー? 教えてよー」
『いや、それを言うとオレが海さんに怒られちゃうから』
「海には内緒にしとくからさー。お願いー」
『……本当に、内緒にしてくれる?』
「するするー」
『……いやぁ、でもなぁ』
……じれったいなぁ、こいつ。
どうせあたしの電話に出た以上、千春はあたしにある程度従うしかないのだ。
「じゃー、海に言っちゃうからねー」
『へ? 何を?』
「海に、千春が今あたしの電話に出たってことー」
『え、ちょっとそれは勘弁してよ紫帆ちゃん!』
あたしの言葉を聞いて、千春が慌てたようにそう言った。
海に黙ってあたしの電話に出た以上、それすらも千春は海に内緒にしておく必要がある。だからこの電話そのものが交渉材料になるのだ。
「だったら、今どこにいるのか教えてよー。あたしも混ぜてー」
『うーん、でも、もう紫帆ちゃんにやってもることは、今はないからなぁ』
「……え? どーゆーこと?」
『前に、紫帆ちゃんが犬と百万円の話してたでしょ? あれ、犬を事故死に見せかければ金が手に入りそうなんだよね。犬も大人しくさせたし、紫帆ちゃんに手伝ってもらうのはその後のお金の受け取りのところかな』
「お、大人しくさせたって、殺したの?」
冷や汗が、頬を流れ落ちる。そんなあたしをよそに、千春は小さく笑った。
『違うよ。口と足にガムテープを巻いたんだ。巻くの、大変だったんだよ紫帆ちゃん』
その言葉に一瞬、安堵しそうになる。しかしトートが酷い目にあっている状況には違いない。
ふつふつと、海たちへの怒りが沸き起こってきた。
怒れるあたしとは対象的に、千春は自慢話をするように言葉を紡いでいく。
『いやぁ、本当に大変だったんだよ。あの犬抵抗するし、海さんの手も引っ掻いちゃったから海さんブチギレちゃって、その場にあったものに当たり散らすし。まぁ苦労させられたのはオレたちも同じだったから、ムカついて犬小屋も犬が描かれてた絵も康治と一緒にめちゃめちゃにしたんだけどさ。でもこれで、紫帆ちゃんの仲間もオレたちには敵わないってメッセージ、伝わったんじゃないかな』
「……まぁ、そうかもね」
暴力的な一面を話せば女子へのアピールになるとでも思っているのか、あれだけ話すのを渋っていたくせに千春は嬉々としてトートを連れ去った時の事を話していく。
上がっていく千春のテンションとは反対に、あたしの心は白けていった。ネタが全てわかっているお化け屋敷を、わざわざこれからゴールまで歩かなくてはならないようなダルさだ。
それに気づいた様子もなく、千春の口は軽快に回る。
『その犬の殺し方なんだけど、ブランコを使うことにしてね。海さんが一回転できそうなぐらい勢いをついけてこいでいるブランコに、たまたま犬が入ってきちゃった、っていう設定なんだ。今、どこに犬を置けばブランコが頭に当たるのか調整中で――』
『おい、千春! 誰と電話してやがんだっ!』
……まずい。海に気づかれたっ!
トートがまだ生きている事を確認出来たのはよかったが、それでもピンチなのは変わりがない。
……時間も、あんまりなさそうだしねー。
『す、すみません海さん! すぐ行きますっ! ごめん、紫帆ちゃん。オレもう――』
「待って、千春! 大事な話があるのーっ!」
とにかく電話を切られないために、あたしはどんどん言葉を作っていく。
『いや、でも海さんが――』
「あたし、最近、海と上手くいってなくてさー」
自分でも気持ち悪いぐらい媚びた声で、千春に話しかける。
「他に頼れる人がいたら、あたし、乗り換えちゃおうっかなーって思っててー」
『え! そ、それってどういう事?』
電話の向こうで、千春が鼻を伸ばしているのがわかった。そのキモさに舌打ちしたくなるのを堪えながら、あたしは口を開く。
「えー、どーゆーことだと思うー?」
『……いや、でも海さんに悪いし』
「千春に、会いたいなー」
『し、紫帆ちゃん!』
「千春、今どこー?」
『いや、でも、それは――』
『わ、何だこの犬! 急に暴れ始めてっ!』
康治の慌てた声が聞こえてくる。そして、くぐもった犬の鳴き声も。
……トートっ!
間違いない。トートの声だ。でも、どうして急にトートは暴れ始めたんだろう? どこか怪我でもして、苦しくて鳴いているのだろうか?
千春が移動しているのか、通話音にノイズが走る。何かを拾い上げたのか、千春が小さくつぶやいた。
『テニスボール? なんでここに』
『トート! 鳴き声がしたってことは、いるんだろ? トートっ!』
……よっしーの声だっ!
と、いうことは、トートが今いるのは菫青公園という事になる。
……よっしー、ナイスだよーっ!
あたしは飛び上がりたくなる自分を抑えて、右手を握る。でもその後すぐ、あたしの背筋が凍りついた。
『おい千春! 今入ってきたやつ黙らせてこっちに連れてこいっ!』
康治の言葉に、千春が反抗する。
『はぁ? なんでオレが』
『犬の名前知ってるって事は、百万が分配される残りの五人の一人だろ。追ってきたってことは、抵抗する意思があるんだよ。一人ぐらい血祭りに上げときゃ、他のやつも流石に諦めんだろ』
『だから、なんでオレが――』
『ダラダラ電話してるぐらいだらから余裕だろ? だよねぇ、海くん』
『……千春。行って来い』
『……わかりました』
海の言葉を聞いた千春の不機嫌そうな声がして、電話が切られた。
あたしの頭から、血の気が引いていく感じがした。
……ダメだ。よっしー一人じゃ、あいつらには勝てない!
あたしは震える指でスマホを操作し、トークルームへメッセージを送った。