ピッピッピッピッ





 閉ざされた世界に光が眩しかった。目やにが貼り付いた(まぶた)は思いの外重く開くまで少々時間が必要だった。メリメリとまつ毛が剥がれ黒い世界に一筋の光が差し込むと真っ先に蛍光灯の明かりが視界に飛び込んだ。眼球を動かすと涙を流す母親の顔と目を真っ赤に泣き腫らした父親の顔が見えた。


「・・・・かあ・・さ」


 母親が枕元のナースコールのボタンを押して声を大にした。


「どうされましたか」

「おき、起きました!目を覚ましました!」

「分かりました」

「せ、先生、先生をお願いします!」


 先生・・・・高等学校の担任を呼んだのだろうか口煩くて面倒だなと思っていると目の前に現れた男性は白衣を着て胸にネームタグをぶら下げていた。(まぶた)が上下に開かれ目の中が黄色く光った。ペンライトで瞳孔の動きを確認したのだと思う。


「僕」

「雨月さん、あなたは交通事故に遭いました」

「交通事故」

「はい、ここは病院です。雨月さんは8日間意識不明の状態でした」


 白衣の医者は両親に向き直ると今後の治療方法について説明を始めた。


(明日、検査を受けるのか)


 僕は明日MRI検査とCTスキャンの検査を受けるらしい。看護師が「ブドウ糖のパックです、取り替えますね」と左腕に刺さった点滴の針に管を差し込んでいた。点滴の雫が腕に飛びその冷たさを右手で払おうと腕を上げた瞬間違和感を感じた。


(・・・・・重い)


 右腕は鉛を付けた様に重く持ち上がらなかった。それは掛けられた布団の重さかと左腕を動かしてみたがそれはいとも簡単に容易く持ち上げる事が出来た。右脚を動かそうとしたが動かない。


(左脚も・・・・重い)


 どうやら両脚はギプスで固定され包帯が巻かれていた。鼻にはビニールの管が差し込まれ呼吸がしにくかった。


「先生、息が出来ません」

「もう問題なさそうだね。じゃあ外そうか」


 看護師がその管を引き抜く時、咽頭に痛みを感じ吐き気がした。


「うえっ」

「はい、ごめんねもうちょっと」

「うえっ」

「はい良いよー大丈夫?」

「は、はい」

「痛かったねぇ、頑張ったね」


 看護師は優しく微笑んだ。


(痛い、痛い?)


 そこでようやく事の重大さに気が付いた。


(そうだ、僕は自転車に乗っていて後ろには)


 僕は母親に向かって叫んだ。


「莉子は、莉子はどうなったの!」


 父親の表情は暗く眉間にはシワが寄っていた。僕はまさかと思い悲痛な声で莉子の名前を呼んだ。


「莉子は!」


 母親は目を逸らした。


「莉子はどうなったの!」

「蔵之介、市原さんは亡くなったわ」

「・・・え」


 僕は母親の顔を凝視した。


「お気の毒に」

「・・・亡くなった?」


 母親の言葉が理解出来なかった。


「嘘」


 次第に目頭が熱くなった。


「嘘だ!」

「嘘じゃないわ」

「嘘だ!!」

「市原さんは亡くなったのよ!」

「嘘だ!!!」

「いい加減にしなさい!」


 普段温厚な父親が声を荒げた。


「蔵之介、今は自分の事だけ考えなさい」

「・・・嘘だ」

「市原さんは亡くなったのよ」


 莉子が死んだ。目尻からとめどなく涙が溢れたが腕を動かす事すら出来ない僕は涙や鼻水を母親に拭いてもらうしかなかった。僕の身体は鉛で出来た人形の様に重く身動きが取れなかった。脚のギプスは下半身の自由を奪い、頸椎カラーと呼ばれる首のコルセットは視野の自由を奪った。排尿は尿道にカテーテルを差し込みパッドに溜め、大人用のおむつに排便した。耐え難い現実と莉子のいない世界で悲嘆に暮れても空腹は訪れ酷く不味い経口栄養剤で腹を満たした。


「蔵之介くん動かすよ、痛いかもしれないけど我慢してね」

「・・・はい」

「はい、せーのっ!」

「痛っ!」


 検査室への移動は看護師が5人がかりで僕を寝台車に乗せなければならなかった。そして皆、額に汗を浮かべていた。誰かの介助が無ければ今の僕にはなにも出来なかった。


(いつまでこんな生活が続くんだろう)


 僕は薄暗いMRI検察室に運び込まれた。


「雨月さん、気分が悪くなったらボタンを押して下さい」

「はい」

「うるさいのでヘッドフォンを付けますか」

「このままで良いです」


 これ以上なにかで身体を締め付けたくなかった。窮屈な機械に押し込まれた僕の身体は頭の天辺から足の爪先まで何十分も掛けて輪切りにされた。確かにMRI検査は工事現場の中に放り込まれたような騒音を伴った。けれどようやくひとりになれた開放感で静かに目を(つむ)った。


(・・・・莉子)


 あの夜、僕が莉子を誘い出さなければ莉子は生きていた。
 あの夜、星を見に行こうなんて言い出さなければ莉子は生きていた。
 あの夜、僕が自転車のスピードを出さなければ莉子は生きていた。


 交差点の信号機は黄色で点滅していた。赤色点滅信号の一時停止を無視して交差点に進入した新聞配達のバイクが僕と莉子を乗せた自転車を()ね飛ばした。


「そうだったんだ」


 父親が僕に8月23日の朝刊新聞の記事を見せてくれた。


「大丈夫ですか、気分はいかがですか」


 思わず涙を流した僕の異変に気付いたMRI操作技師がマイク越しに声を掛けて来た。


「だ、大丈夫です」

「中止しますか」

「続けて下さい」


 僕は身動きの取れない薄暗闇の中であの夜を何度も後悔し莉子に懺悔(ざんげ)した。


(・・・・あ、指輪は)


 その時僕は財布に入れていたマリーゴールドの指輪の事を思い出した。


(退院したら莉子のお墓に持っていこう)


 そしてまた涙が溢れた。

 ほどなくして僕はICUから一般病棟の個室のベッドへと移された。


(体育祭も終わったよね)


 夏の気配はとうに過ぎ(かえで)の葉が黄色く色付き始めた。僕はテレビを見る気力もなく窓ガラスをただぼんやりと眺める日が続いた。


(莉子)


 晴れの日はまだ良かった。曇天(どんてん)や雨降りの薄暗いベッドに横たわっていると莉子のいない悲しさとあの夜への後悔でとめどなく涙が溢れ頬を伝った。その頃には自分で涙を拭い鼻をかむ事が出来たのでゴミ箱はあっという間に濡れたティッシュペーパーで山盛りになった。母親はそれを何も言わずに片付けた。


(もう、僕も死にたい)


 泣いて泣いて泣き暮れて身体が溶けて消えてしまえば良いと思った。出来る事なら明日の朝、目が醒めなければ良いと思った。それでも朝日は昇りカーテンから柔らかな日差しが差し込んだ。病院の屋上から飛び降りたかった。しかしながらベッドの上で身動きひとつ出来ない僕には叶わぬ願いだった。