恋愛話になったとき、『恋に落ちた』とか『きゅんとした』とか、そういった言葉で出会いを例えたり、ビビビッて雷みたいな表現をする人がいる。
個人の感性は様々だから別に文句をつけたいわけじゃない。共感できるかどうかは別として、どう表現しようが自由だ。それを否定する気持ちは微塵もなかった。
一目惚れならなおのこと、衝撃的な出会いを的確に表すのは難しいだろう。
けれど僕の恋は違った。
初めて会ったときに目すら合わなかったし、ズギュンという効果音も鳴り響いてはいない。
なんの変哲もないありふれた教室。僕の席のひとつ後ろで、クラスメイトの一人。
優しくて温かな彼はそうやって音も立てずに、ゆっくりゆっくり僕の中で広がっていた。
■□■
入学してから早三週間が経っていた。
今日も今日とて教室へ入り自分の席へ向かう。窓側の後ろから二番目。そこが僕の席だ。
『大和田万里』という僕の名前は出席番号順の並びで、一列目の席に収まることがほとんど。すなわちこれまで七番以内であり、このクラスでもそうだった。席替えが行われるまでのどかな陽気に誘われ、何度も窓の外へ目を向けることになるだろう。
窓から眩しいくらいの光が入り、今日は暑くなるかもしれない。もわっとする空気を感じながら背負っていた鞄を机の上にドサリと置き、ひとつ後ろの席に声を掛けた。
「おはよう」
「……おー、はよ」
顔を上げてようやく僕に気づいた、という感じ。パックジュースをストローでズズッと吸い、ノートへ書き込んでいる手を止めた小笠原優吾が挨拶を返してくれた。ニカッと浮かべた笑顔は人懐っこいもので、僕の頭の中に大型犬が浮かんだ。
さながらゴールデンレトリバーといったところだろうか。ふかふかの柔らかい雰囲気が小笠原と似ているのかもしれない。それで大型犬が浮かんだんだ。
「何してんの?」
僕は必要な荷物を机にしまいながら尋ねた。小笠原の登校が普段と比べて一〇分以上も早いのだ。いつもなら僕より後に教室へ入ってくるのに今日はもう席にいる。
「んー、数A」
そしてすぐに端的な言葉で返ってきた。
先に着いているという行動に加え、机上に広げられたノート。数Aという返し。これらが揃って導き出せる答えといったら──嫌な予感がした。
「え、何か提出するんだっけ? やばい、何もしてない……」
「この問題やっとけって言ってたハズ。すっかり忘れてたんだよな。今朝思い出したから早く来たわけ」
「あー、そうだったかも……やってないや」
「だよな。先生、ボソッと言っただけだし。まだ時間あるから間に合うだろ」
やっぱりだ。嫌な予感は的中してしまった。先に問題を解き始めていた小笠原は『平気平気大して難しくない』と、すっかり忘れていた僕を安心させるように言ってくれた。ホントかな。その言葉信じるぞ。
教室を見渡してみれば、同じように机へ向かっているクラスメイトが数人いた。みんながみんな同じことをしているわけではないだろうが、この中の何人かはきっと仲間だ。やってこなかったの、僕だけじゃないらしい。
周りの様子にちょっと安心して、机の中からペンケースや教科書を取り出し、急いで取り掛かるべく僕も机に向かった。
(あれ? ……ここがこうなって、これをこうして……)
解き始めて数分後、小笠原は難しくないと言っていたのに、勘違いをしているのか考え方が間違っているのか、出てきた答えは正解からほど遠いものだった。これ絶対違うな。確実に間違えている。
僕は頬杖をついて机を爪の先でカツンカツンと音を鳴らしていた。考え事をするときのクセだ。うーん、おかしい。どこを間違えているんだろう。パッと見ただけじゃ自分の間違いに気付けない。変な焦燥感でじわじわ追い詰められる。まだ時間があるとはいえ、さっさと解いてしまいたかった。
というわけで、僕はノートを手に持ち、くるりと後ろの席へ体を向ける。
「これ、どっか間違えちゃったみたいで解けない」
「あー、んー……」
そう。後ろの席は小笠原だ。早く登校していたから既に問題を解き終えている。
僕がノートを見せると小笠原は嫌な顔をせず、どこだーって一緒に考えてくれた。だって同じ問題を解くんだから、これほど頼りになるヤツは他にいない。答えを教えてくれと言ってるわけじゃなく、問題の解き方を教えてほしいと頼んでいるだけだ。
答えを求めていることと同義だとしても、今は気にしないことにする。
「ここまで合ってるから、この先かあ」
僕がノートに書いた数式を小笠原が視線で辿り、どうしても見つけられなかった間違えを探してくれた。優しい。
一六九センチの僕とは違い、小笠原は一八九センチもある。二〇センチ差。やや細身の僕に比べ、体格もガッチリだ。少しウェーブのかかった茶色っぽいくせっ毛をしている。こうやって面倒見もよく、話し方だって穏やか。大型犬のような、どっしりとした安心感があった。
ちょっと前に見た犬の動画がめちゃくちゃ面白くて、お腹が痛くなるほど笑った。遊びに夢中なあまり転んだ犬の表情や動きがなんとも人間っぽく、肩を落としてしょんぼりしているように見えた。
その犬と小笠原がどことなく似ている気がした。だから、つい。
「ふはっ」
「なんだよ、突然。面白いことあったか?」
「いや、なんか小笠原が……かわいいなぁと思って」
「は?」
突然かわいいと言い出した僕を小笠原は訝しむ。訝しんでいるのにどこかきょとんとした様子もあるから、それがやっぱりワンコみたいな表情で、たまらず僕はまた笑ってしまった。
「ふふっ かわいいっていうか愛しいっていうか……やっぱりかわいいかな」
「なんだ、それ」
たぶん小笠原を評するなら『男らしい』や『たくましい』とか『頼りになる』だ。そういった類の褒め言葉が当てはまるだろう。何しろこの高身長。体格だってがっしりしている。わかるよ、スポーツマンタイプの顔立ちだもん。
だから真逆にあたる今まで言われたことはなさそうな『かわいい』という単語は、小笠原を警戒させるにはじゅうぶんだったらしい。
「ああ、ごめんごめん。変な意味じゃなくて。性格というか優しいじゃん、小笠原って。安心感あるなーと思ったらこうさ、ゴールデンレトリバーが浮かんじゃって」
「あー、なるほど……いや、なるほどじゃないな? かわいいなんて言われたことない。確かに図体はでかいけど」
「似てるにてる。こういうとことかさ、ぜんぜん僕と違うから。ね?」
どうも僕の例え話に納得がいかないようでコイツ何言ってんだみたいな顔をするから、思わず小笠原の左手首を掴んだ。言葉で説明するよりもどういうことか示したほうがわかりやすいだろうから。
背の高さや身体的なことじゃなく『安心するんだよ』っていうことをわかってほしかった。
「ほら、見てよ。こんなに違う」
いわゆる手の大きさ比べだ。やや強引に小笠原の左手の中へ僕の右手を潜り込ませた。中途半端に丸まっている小笠原の指をぐいぐい広げ、手のひら同士を合わせる。
比べるために手首に近い位置で揃えてみれば、案の定、僕の指先は小笠原の関節ひとつ分くらい下だ。大人と子供くらいの差があった。これだけ大きさが違うと、彼の手中にすっぽり収まってしまう。
「バスケのボール、持てそう」
「まあ……掴めるな」
「やっぱりそうなんだ。大っきいよね」
ここまで違えば自分の手が小さい部類に入るとしても、なんら劣等感には繋がらない。バスケのボールが掴めるって、相当だよ。むしろ感心してしまう。
「ふーん、なるほど。大和田の手、ちっちゃいな」
何がなるほどなのかよくわからないが、急にこんなことをやり始めた僕へ小笠原がじゃれてきた。いやホントにワンコかな。僕の指と指の間に自身の指をぐにぐにと差し入れてきたのだ。これ一体どういう遊び?
(ふぁ!?)
ボールが持てるほど大きな手だ。当然、長さだけでなく指の太さもあって、僕の指の谷間はみちみちに広げられた。
指を組むような、いわゆる恋人繋ぎと呼ばれるもので、けれどそんな雰囲気にはならない。どちらかといえば拘束に近いだろうか。もしくは何かの罰ゲームみたいな。
「ちょっ、むり、無理だって〜 あっ、あ、そんなしないでよ」
「……お前な、言い方」
激痛というわけじゃない。でもみちみちに広げられたらやっぱり指の谷間ははち切れそうになる。
自分以外の誰かとこうして指を組むことなんてない。思っていたよりも圧迫感があったから、驚いたというかなんというか。大げさに反応してしまった。
それにこのムチムチとしたなんともいえない力の強さ。指の血流が止まりそうだ。早々に小笠原へギブアップを伝え、拘束されている指の解放を求めた。
僕から仕掛けたことだというのに返り討ちにあった気分だ。
「ごめん、かわいいとか言って。小笠原はかっこいいです」
小笠原は僕のギブアップに満足したのか、指を解放してくれて、ふっと笑いながら『……次は、優しくする』と言った。
次って、なんだろう?