三者懇談会が終わって夏休みに入った。
受験生の夏が全く「休み」ではないことは、
私のことを教室で待ち構えている星宮君を見たらよくわかる。
「おはよう!」
今日は土曜日だから来ないだろうと、
久々の「静かな一人の教室」を期待していた私を裏切り、
星宮君の声が聞こえる。
おはよう、と返事をしながら自席に向かう。
「今日土曜日だから、てっきり下原さん来ないかと思った。」
「いや、くるよ。せっかくの学校解放日だし。」
「そっか、よかった。」
安心したように笑う星宮君。
(じゃあ結局二人ともお互いが来ないことを想定していたのか…)
早起きした甲斐があったー、と伸びをしている星宮君を見ながら思う。
私と星宮君の三者懇談会の翌日から三日間。
星宮君は本当に毎日朝学習にやってくる。
(今日で終わったら、ほんとに三日坊主だけどね)
まるでマンツーマンレッスンをしているかのように、
淡々と朝学習の会は続いている。
「二人で解いたら満点取れそう。」とか言って
模試の過去問をもってきた星宮君と問題を解き直したり、
解説を確認したりしている。
解説を見ても納得いかない表情をした星宮君に、
「どこが気に食わないの?」と尋ね、
彼がつまずいているところを自分で言語化できるように導く。
「いや、ここが…」と言って
わからないところをピンポイントに示す星宮君に、
教科書や参考書を参照した説明をすることが私の役目。
「わからない」ところがわかっているだけで、
星宮君のレベルは低くないっていうことを痛感する。
(だったら尚更、一人で勉強した方が伸びそうだけどな…)
と私の解説を口に転がしている星宮君に目をやる。
「あ、わかった!」
とシャーペンを動かし、解答欄を埋めていく彼の様子を見ていると、
教えている側として勝手に達成感を感じてしまう。
そして、解説と照らしながら自分の解答用紙を眺めたあと、
「ありがとう。」
と笑顔で言ってくれるのをみると、
今まで知らなかった星宮君の表情がひとつ学べたな、と思う。
今日もそんな問題演習、解説、確認。
とステップを踏んでいたら、
「今日、土曜日だから、朝学習延長しない?」
完成した解答用紙と、八時を指す時計を目の前に星宮君が提案してくる。
「延長したら、『朝』学習じゃないよ…」
「あ、そっか。」
つまらない私のツッコミに軽く笑った星宮君。
その表情が少し残念そうで、
私は、今日ぐらいいいか、なんて考え直す。
「いいよ、少し休憩したら私と付き合って。」
「え、いいの?」
「うん、私も私で、今日やりたいことあったから。」
私がいいよ、と言うことがあまりにも予想外だったのか、
星宮君は目を丸くする。
「今日、って一日限定ってこと?」
「えっと…そうだなぁ。」
(今日だけ延長許可をあげたら、まるで私の都合だけで決めているみたい。)
そう思った私は、ある条件を加えることにした。
「夏休み、毎日来れたら、
二学期からは八時までっていう時間制限を考え直してもいいかな。」
「あ、『付き合って』って、朝学習のことかぁ。」
「え、他に何が…」
言いかけた私は自分が言葉選びを壮大に誤ったことに気づく。
「…っ!ごめん、いや、その。
なんかあるじゃん!『ちょっと付き合って』みたいなフレーズ。
それだよ、それ!」
慌てふためく私を見て、星宮君が笑う。
「なんか、今日の下原さん、いつもより元気?」
ハッとした私に、
真面目、勉強、陰キャというキャラ設定が降りかかる。
(え、いつの間に忘れてたんだろう…?)
自分の言葉に動揺したせいか、
父の言った「ありのままのひなた」が少しだけ顔を覗かせたことに気づく。
「いや、暑いからだよ。夏の暑さで脳が溶けてる。」
冷静さを装って、星宮君に向き直った。
「そっか、そっか。」と適当に返事をし、私をじっと見つめてくる星宮君。
「…っとにかく、今日のところは、延長許可願いを受理したっていうことで。
一旦休憩にしよっ。」
このまま二人きりで居続けると、どんどん「ありのままのひなた」が出現しそうで、
居た堪れなくなった私は教室を飛び出した。
「『付き合って』ってこれのこと?」
私が気まぐれに始めて、気まぐれに終わらせた休憩時間が終了し、
再び星宮君と向かい合った。
(廊下を散歩して、外に出て新鮮な空気を吸ってきた。
大丈夫。いつもの私だ。真面目、勉強…、…?)
あと一つのキャラ設定を思い出すことができず悶々とした私に、
星宮君がもう一度言う。
「下原さん、『付き合って』ってこれのこと?」
そう言った彼の机には、私のノートと三十cm定規が置かれている。
「うん、赤本を解くノートを作りたくて、もってきた。
学習、とはちょっと違うけど、今日私がやりたかったこと。」
「このノートと定規で何をすればいい?」
「えっと、まずは…」
道具だけ用意して、手順を説明し忘れていた私は一旦席から立ち上がり、
星宮君の隣の机に腰掛け、
ノートを広げる。
赤本を解く専用のノートは、A4サイズ。
ドットが入っている罫線ノートだから、
縦にまっすぐ線を引くことができる。
右から五行目のところで縦に線を引っ張って、
ノートを二分割する。
左側で問題を解いて、
右側には気づいたことや、ミスをしたところなどを書き込む。
「だから、その線を引く作業を終わらせないと、問題演習に進めなくて…」
手伝ってくれる?と定規を差し出す。
説明がされていたノートから、
私へと視線をうつした星宮君は言った。
「これが、下原さんが『付き合って』って言ったこと…」
「…っもういいから!」
いつまでも過去の自分の言葉を後悔する私から、
ハハッと笑った星宮君が定規を受け取った。
「二人で作業すると、あっという間だね。」
数学と英語のノートをもってきていた私は、
線引きが終了し、
ただのノートから赤本演習ノートに生まれ変わった二冊を抱えて言う。
「線引くくらいは、俺でもできる。」
「俺でも、って…」
変なところで自分を卑下する星宮君。
「生徒会長」が口癖で、自分のことが大好きな五十嵐君とは対照的に、
目の前の星宮君は少し大人に感じる。
(そう言えば、私、星宮君のこと何も知らないかも。)
すぐ横にいるのに、口癖も、話し方も、好きなものも、嫌いなものも
そして、文系か理系かすらもわかっていない。
しばらく黙り込んでいる私に、
星宮君が話しかけてきた。
「そういえばさ、下原さんってどこの大学目指してるの?」
どの大学の赤本を解くのかも教えずに、
赤本ノート作りを手伝わせてしまっていた自分に気づく。
「大学は…、秘密ってことでいい?」
手伝わせたくせに、なんとも自己中心的な人なのだろうと、
自分が自分で嫌になる。
だけど、
私の志望校を言ってしまったら、なんとなくいけないような気がした。
もし、星宮君がその大学を目指していて、
私が行きたい大学って知ったとして。
彼の決断に迷いが生じるかもしれない。
下原と同じ大学は嫌だ、とかね。
そんなことがあっては困ると、
沈黙を保っている方が楽だと私は思う。
「下原さんは、秘密が多いね。」
今、志望大学という一つの秘密しか作らなかったはずなのに、
星宮君は笑いながら言う。
「そうでもないよ。
ただ、言わなくてもいいなら言わないでおいたほうがいいと思って。」
「そっか。」
私の言葉に納得いったのか、星宮君は自分の机に向き直る。
その横顔をみていて、
星宮君のことを何も知らないでおくことが怖くなった。
「あのさ、」
と彼に声をかける。
私の方を見た星宮君は、ん?と私に続きを促す。
「星宮君は?大学、どこ行くの?」
「俺は…」
少し考えるように上を仰いだ星宮君が再度私の方を見て言った。
「『秘密ってことでいい?』」
「…星宮君は、今日私の真似するのが多いね。」
「バレたか。」
ハハッと笑った星宮君に
再度同じ質問を聞くことのできない私だった。
日曜日は学校がしまっているから、
久々に一人で勉強できた。
とかいって、
満足感満載の一日になるかと思っていたけど、
そうでもなかった。
私の家は「リビング学習」を進めている、
なんてかっこいいこと言ったけど、
実際はリビングで集中できる時間は限られている。
日曜日、仕事が休みになる父と母の生活圏は
リビングになる。
つまり、私だけの空間ではないっていうこと。
映画鑑賞が趣味の父と母は、
私の学習デスクの隣にあるテレビをつけ、
仲良く映画をみはじめる。
「ひなたも一緒にみる?」
どこからか甘い天使のお誘いが聞こえてきて、
悪魔の私(私の理性)が息を吸って返事をする。
「遠慮しとく。」
そんな理性は映画が始まった途端、
どこかに飛んでいってしまって、
気づけばテレビの前に座って父と母と笑い合っている。
お菓子を食べる前の高揚感と、
その後の罪悪感。
そんなものに苛まれるダイエッターをみていて、
なかなかその感覚を共有できなかった私だけど、
映画を観始める前のドキドキ感、
観ている時のハラハラ感。
そして、観終わった後の
「二時間勉強できたはずなのに」という背徳感。
受験生になって、
こういうものと繋がっている気がした。
思うように勉強が進まない。
家だと誘惑がたくさんありすぎる。
そんな課題にぶち当たって一人、不安げな顔をしていると、
「ひなたはいつも勉強ばかりしてるからね。
たまには息抜きが必要だよ。」
と父が声をかけてくる。
(息抜きって、入れてもない息を抜き続けてたらなくなるよ。)
なんて思いながら、
「息抜きって、受験が終わったらできるよ。」
そう言った私に母が言う。
「今できること、今やらないと。
いつ死ぬかわからないしね。」
どこかの偉い人が言っていた言葉を思い出す。
「明日死ぬかのように生きろ。
永遠に生きるかのように学べ。」
(…私の母は後半部分を聞き逃していたみたい)
「死ぬ」というワードが出てきた瞬間に、
「死ぬまでにやりたいことリスト」の話で盛り上がり始める
父と母。
そんな二人を見て、
(早く学校に行きたいな。)
と一人で思う。
こんなふうに思ったのは、何年ぶりだろう、
と過去に思いを馳せていたら、
日曜日は終わっていた。
翌日。
学校に着くと、三日坊主ではなかった星宮君に会った。
「おはよう。」
「おはよう、今日も早いね。」
「まぁ、三日坊主じゃないしね。」
朝から笑顔の星宮君を見て、
彼は意外と朝が強い人なのではないかと疑う。
「今日はさ、昨日解いててわからなかった問題
持ってきたんだよね…」
そう言いながら星宮君は赤本を手にとる。
赤本、ということに気づいて
顔を背けた私に、どうしたの?と星宮君が尋ねる。
「いや、この間『秘密』って言ってたから。
赤本見たら、どこの大学かわかるでしょ。
だから、見ないようにしないとって…」
「あ、そういうことか。」
(いや、どういうことって思ったの?)
自分のした行動が秘密を暴く行為だって気づいた星宮君は、
手元の赤本に目を落とす。
「でも、俺、この大学行く気ないからなぁ〜。」
「え?」
(行く気もない大学の過去問を解いてるの?)
と不思議に思った私に、星宮君は続ける。
「だから、この大学以外が俺の大学候補ってことで。
別に、赤本見ても大丈夫。」
大丈夫、と言われたのだから大丈夫なのだろうと
気を取り直して星宮君に近づく。
「どの問題?」
「2018年の、大門三なんだけど…」
そう言いながら赤本を開けた星宮君。
「あ、その問題はね…」
と黒板に文字を書いていく私を、
星宮君がそっと眺めていた。
大門三の解説が終わり、
星宮君の「ありがとう、わかった!」
という言葉に自席に戻った二人。
(教室には二人しかいないのに、
自分の席は守っているんだな。)
と斜め前の席で勉強する星宮君を見ながら考える。
一人黙々と問題を解いている様子に、
今日はもう質問ないかなと判断した私は、
自分の勉強するべき赤本を広げ、問題を解き始めた。
「下原さん、もう八時だよ。」
何分問題を解いていたのか、すっかり時間の流れを忘れていた私に
星宮君が声をかける。
「あぁ、ありがとう。」
そう返事をし、今日も延長申請とか出してくるのかな、
と次の言葉を待つ。
何かを言い出そうとする星宮君もいなく、
ただ私に注がれ続ける視線を感じて顔を上げる。
「下原さん、もう八時だよ。」
「うん、わかった。」
「今日、月曜日だよ。」
「うん、そうだね。」
「今日、なんの日か…」
朝のテレビアナウンサーにでもなったかのように、
現在の情報を伝え続ける星宮君。
その星宮君に曖昧な返事ばかりをしていた自分を、
数秒先の未来の私が後悔する。
「…っ!なつ、課外の日っ!」
今日、なんの日、という質問を頭に繰り返し、
やっとのことで自分が「遅刻組」の一員になりかけていることに気づいた。
朝からバタバタと机の上に広がっている
筆記用具とノート、そして赤本を鞄に詰める。
そんな私を星宮君が、
「珍しいね、下原さんが忘れてるなんて…」
「忘れてないよ!」
「いや、でもさっきまで覚えてなかったでしょ。」
「…っ、それは、他のことを考えてたから。」
言い訳にもならない言い訳を言って後悔する。
「『他のこと』?」
きょとんとした目に見つめられ、
自分が何考えていたか忘れてしまう。
「…っ、とにかく、思い出したから!」
「うん、どういたしまして。」
(普通、ありがとうを言われる前に先に返事する?)
ちょっと皮肉ってみたけど、星宮君のおかげだなと思い返し、
ありがとう、と鞄を肩にかけながらお礼を言う。
「うん。いいよ。課外、いってらっしゃい。」
バタバタと人生でほぼ初めて、
教室の中をかけていく私に星宮君が声をかける。
「いってきます!」
走っているせいか、
どこか高くなった声を出して返事をした。
(いってらっしゃい、といってきますって…)
自分の口から出てきた言葉に、
そして私を見送り、手をヒラヒラ振る星宮君に、
突然照れくささを感じる。
(いや、そんなことない。
普通の私だよ、真面目、勉強…)
自分の中に湧き上がる感情を掻き消すように、
階段を急いで駆け上がった。
「遅れてすみませんっ!」
慣れない言葉を口にしながら教室に入ると、
驚くべき先客がそこにいた。
「おー、下原、おはよう!
てか、まだあと三分あるから、遅れてないない。」
「え、五十嵐君…?」
頭をよぎったその先の言葉、
「え、五十嵐君がなんでここにいるの?」
それは口に出ていなかったみたいで安心する。
「俺、ウェルカムじゃない感じ?」
「え、そうじゃないけど…」
明らかに自分がいるせいで動揺した私を感じた、
というか見た五十嵐君の言葉を咄嗟に訂正する。
「ならよかった。」
ほっと息をついた五十嵐君の隣には、
どこか見慣れたツヤツヤの長い髪の少女が…
机にうつ伏せになって寝ていた。
自分の隣に視線が移ったことに気づいたのか、
五十嵐君が私に声をかける。
「あ、コレ、ゆりだよ。
なんか、夏休み暇だってぼやいてたから、連れてきた。」
「あ、そうなんだ…」
まるで、
「学校へ行こうとしたら、飼い犬が付き纏って離れてくれなくて、
一緒に校門くぐっちゃいましたぁー」
みたいなノリで五十嵐君は説明する。
二人の邪魔にならないように、どこか遠い席に座ろうと
周りを見渡し始めた私。
今年の課外はやけに人が多いな、と空いている席を探す。
そこに、教室の扉を勢いよく開けた、
数学の先生が入ってきた。
「おーい、みんな席につけー。
待ちに待った課外の時間だぞー。」
暖かい雰囲気で、のほほんとした小谷先生とは対照的に、
課外担当の神木先生は朝から熱がこもっている。
サッカー部の顧問として名が高く、つまり、鬼教師としてみんなに恐れられている存在だ。
私はハッと我にかえり、遅刻レベルでバタバタと教室に来たことを思い出した。
五十嵐君、林さん二人から遠い席に移動する時間もなく、
五十嵐君の隣に腰掛ける。
夏課外では、各クラスごとに室長がいないから、
号令はなく、そのまま授業が開始された。
「はい、じゃあチャートの60ページを開けて、今日は数学1でよく出題される…」
「下原、すまん。俺、チャート忘れてきたから見せてくれん?」
先生の指示を聞いていた私に五十嵐君が横から尋ねてくる。
「え、いいけど…」
「おっ!助かる!サンキュっ!」
短く答えた五十嵐君が私のチャートを見ようと、
机を動かす。
「そこ、何やってんだ?」
声がした方を振り向く、というか顔をあげると、
いつの間にか教卓から私と五十嵐君の机の前に移動してきた
神木先生が立っていた。
一番前の席でコソコソしていたことが悪く、
すみません、と小声で謝る五十嵐君。
「何やってんだ。」
もう一度尋ねた先生に、私が説明する。
「あの、五十嵐君…五十嵐さんがチャートを忘れてきたというので、
私のものを見せてあげようと思い、席を移動してもらっていたところです。
コソコソしてしまい、すみませんでした。」
長年にわたって培った真面目雰囲気を存分に発揮し、
おまけに最後に頭まで下げて私が説明した。
「そうか、次は忘れてくるなよ。」
私の答えに満足したのか、
神木先生はくるりと振り返り、教卓の方へ歩き出した。
(はぁ、よかった。課外開始早々に怒られるかと…)
神木先生の後ろ姿に安心していた私。
そのまま、先生の指示通りに問題を解けばいい…はずだった。
「え、颯太、チャート忘れたなら、ゆりの見せてあげるよ。
ていうか、貸してあげる。ゆり、どうせ寝てるだけだし。」
神木先生のドスのきいた声で目が覚めていたのか、
てへっと笑いながら、林さんがほぼ何も手をつけていない、
新品のようなチャートを五十嵐君に手渡す。
きっと、自分にはいらないチャートを五十嵐君に渡す、という
優しさに溢れた計画のはずだった。
「どうせ、寝ている?」
ありがとう、と言いながらチャートを受け取る五十嵐君と、
笑っている林さんの間に神木先生が立つ。
その目は赤く燃え、神木先生の背景には山火事が広がっていた。
「「あ、」」
そもそも、チャートを忘れてきた五十嵐君にも責任があるが、
林さんの発言もまずかった。
「「すみませんっ」」
同時に頭を下げる二人を眺めていた私は、
二人の仲の良さに思わず微笑んでしまった。
「全く、どいつもこいつも…」
と爽やかな朝には全く似合わないセリフを吐きながら、
神木先生は教卓に戻る。
その、どいつもこいつも、に私が含まれていると気づく頃、
記念すべき初の課外は終わっていた。
休み時間になり、
五十嵐君と林さんと席が近い私は決して休まらないことを予測した。
私の予想は的中していて、
休み時間だというのに二人は全く休まらない。
「うわー。さっきの数学めっちゃむずかった…」
「そもそも、チャート持ってきてなかったもんね。」
「いや、忘れたからしょうがないだろっ!」
「はいはい、ひなたにちゃんとお礼言わないとね。」
林さんに促された五十嵐君は隣に座る私に向かって、
「ありがとっ!」
と元気よく言った。
「どういたしまして。」
と五十嵐君の方を見て言うと、満足気に頷いた林さんが、
「私、文系だから、この数学の課外、本当は受けなくてもいいんだよねー。」
とつぶやいた。
「え、そうなの?」
と林さんが文系だということを初めて知った私が尋ねる。
そうそう、と林さんは首を縦に振った後、
「でも、夏休み暇だし、せっかくなら颯太に付き合ってあげてもいいかなーって。」
ハハッと笑った林さんの言葉を聞いて、
(あ、付き合うってそうやって使うんだ。)
と日本語を勉強する私。
土曜日の星宮君とのやりとりを思い出して、
顔が赤くなる。
そんな私に気づく様子もなく、五十嵐君は不意に
「な、下原は次の課外もでるの?」
次の課外、とは次の時間にある国語の課外のことだろうか、
そう思った私は、
「二限目の国語の課外のこと?参加するつもりだけど…」
と答える。
「あー、私もだよ!」
机から身を乗り出し、私に近づいた林さんと目が合う。
「ほら、私、国語得意じゃないけど、好きだから文系なんだよね。」
「そうだったんだ…」
「特に、国語の望月先生。可愛くて、ふわふわしてて、雰囲気が好きなんだー」
大学を卒業したばかりの新人教師、望月先生を思い出したのか、
うふふっと笑いながら上を見上げる林さん。
そんな彼女を見ていて、好きなものを好きってまっすぐ言えるの、
かっこいいなと思ってしまった。
大好きな先生を思い出してお花畑にいる林さんに、
現実的な声で五十嵐君が言う。
「ま、俺は理系だし、国語は捨て教科だから。じゃあ、これで。」
「捨て教科って何よ!」
と膨れる林さんを置いて、五十嵐君は教室から出ていく。
林さんと二人きりになった私は、何を話せばいいのか分からず、
平常授業よりも長い休み時間の時計が進むことを待つことにする。
五十嵐君の言葉に納得がいかない林さんは、
もう、とため息をついている。
そのため息を背景に、私は机の中に数学のチャートをしまい、
古文の問題集を机の上に出そうとした。
コツン、
空っぽのはずの机の中に、何かが入っていて
分厚い数学のチャートが入りきらなかった。
(なんだろう…?)
恐る恐る机の中に手を伸ばし、
中にあるものをとり出そうとする。
私たちが夏課外で使用している教室は、
二階にある学習室。
普段は、数学の授業で使用している少し広めの教室だから、
夏休み前に誰かが忘れ物でもしたのだろうか、という考えに行き当たる。
机の中にあったのは、一冊のノート。
A4サイズのノートで、私が使っている赤本ノートに似ている。
そこには黒いマジックで「数学」と記されている。
数学のノートの忘れ物。
それは、職員室に届ければいいだけ。
そう思った私の目に飛び込んだのは、
「星宮晴輝」という名前だった。
(え、星宮君の忘れ物…?)
「ひなた、どうしたの?」
机の中を漁ったっきり俯いて黙っている私を不自然と感じたのか、
うしろから林さんが声をかける。
「あ、いや、机の中にノートの忘れ物があって。」
どれどれ、と顔を覗かせた林さんが、あ、星宮のじゃん!
と口にする。
「星宮なら、夏休み明けに渡すしかないよね。
あの人、絶対家で勉強する派だから。」
そうだね、と頷こうとした私は、踏みとどまる。
「家で勉強する派だから…?」
私の疑問は、
思っただけじゃなくて、口に出てたみたいで、
林さんがうん、と頷く。
「私さ、星宮と小学校が同じで。あ、颯太もだよ!幼馴染ってやつ!
小学校の時は割と友達いっぱいって感じだったのに、中学校なってから一人でいる方が好き、
というかなんか大人になったんだよね。」
昔のことを懐かしむように、
林さんが話す。
「あ、でも、星宮には言っちゃダメだよ。私が言ったこと。
あの人、過去の話はあまりしたがらないからさ。」
ちょっと悲し気な顔で林さんが私に伝える。
「うん、わかった。」
そう答えた私だったけど、何をわかったのか、ちっともわかっていない。
「星宮に夏休み明け、渡すのお願いしていい?」
私の手元にあるノートを見て、林さんが言う。
「うん、もちろん。」
そう返しながら抱えたノートは、
明日の朝、星宮君に返せるということをなぜか私は、
口にすることができなかった。
翌日。
星宮君が忘れていったノートをすぐ返せるように、
胸に抱えながら教室の扉を開こうとする。
「おはよう。」
「っ!おはよう…」
急に後から飛んできた声に驚き、
思わずノートを落としそうになる。
「あ、それって…」
私の手元にあるノートにすぐ気がついた星宮君。
「あ、これ、昨日学習室で見つけて。引き出しに忘れてたよ。」
そう言ってノートを差し出す。
「ありがとう、これ、探してたんだよね。」
「言ってくれたら、みんな探してくれたと思うよ?」
「ま、いつか見つかるかなって思って。ほら、見つかった。」
何かを探してた素振りなんて全く見せていなかった星宮君は、
手元に戻ってきたノートをひらひら振りながら、自席につく。
私なんか、ペン一本無くしただけで家中を探し回っていたのに。
星宮君って諦めよくて、大人だなと思う。
大人、その言葉だけで、昨日林さんが言っていたことを思い出す。
『家で勉強する派だから。』
もしそれが本当なら、今、彼はここにはいない。
だけど、本当なら、私も邪魔をしてはいけないのかもしれない。
そう考えながら窓際の自分の席につく。
朝の太陽を浴びながら、今日の日差しは一段と強いな、なんてぼんやり考える。
「今日さ…」
そう言いながら振り向いた星宮君にとって、
私はどんな顔をしていたのだろうか、
「え、下原さん、大丈夫?」
心配そうな顔をした星宮君が私の顔を覗き込んでくる。
「え、大丈夫だよ。どうしたの?」
「だって、顔が真っ青…」
そこで、世界が真っ白になった。
「貧血ですね。」
気がつくと、私は保健室のベッドに仰向けになり、
保健の先生の診断結果を耳にしていた。
私が知っている保健の先生は優しく、お大事にしてくださいねと
にこやかに言ってくれる先生。
鉄の女と呼ばれている緑先生の冷静な診断に、
はい…と頷くしかない。
私に言っているのか、
生徒情報を入力しているパソコンに向かって言っているのか、
全く分からない緑先生の横には、なぜか星宮君が座っている。
「え、貧血って、親に電話して迎えにきてもらわないと。」
貧血ぐらいで親を呼ぼうとする星宮君に思わず笑ってしまう。
「連絡は一応入れておきますが、下原さんの体調が回復するのなら、
今すぐ帰れ、とは言いません。」
事務連絡的なことしか言わない緑先生に、
「わかりました。お手数おかけしてすみません。」
と頭を下げたつもりだが、なんせ寝転がっているからうまくいかない。
「仕事なので。」
長々しい生徒情報を打ち込みながら、
こちらをチラリとも見ずに緑先生が答える。
「ですが、しばらく安静にしていてください。」
そう言い残し、緑先生はどこかに退出する。
いつまでも心配そうに見つめてくる星宮君と二人っきり、
保健室に取り残された私。
「今日、朝学習、できなくなっちゃってごめんね。」
「いや、そんなの全然いいよ。」
私が世界を真っ白に染めてどこかに行った間、
保健室にまで運んできてくれた星宮君にお礼よりも先に、
朝学習、とか言い出してしまう自分に呆れる。
(朝学習って、『そんなの』なんだな…)
星宮君の言葉にちょっと心がズキっとなる。
「やっぱり朝早くって、ちょっとしんどかった…?」
「いや、そんなことないよ。」
「じゃあ、俺、質問しすぎて頭いっぱいになっちゃった…?」
「それも違う。」
「じゃあ…」
どこまでも貧血の原因を自分との朝学習に結びつけようとする星宮君。
そんな彼を見て、また笑ってしまう。
「貧血は食べ物とかストレスとか…」
だから、朝学習は関係ない、と言おうとしたが、失敗した。
「ストレスっ!」
ストレス、という言葉に反応した星宮君の方が顔色を悪くした。
「あ、いや、そんなストレスってほどストレスかかってないから…」
はぁ、とため息をついた星宮君は私に向き直り、
「以後、気をつけます…」
と口にした。
(別に、星宮君のせいじゃないのに。)
そう思った矢先、緑先生が戻ってきた。
「ご家族に連絡をしておきました。
今日のところは、とりあえず、帰宅するように。では。」
またもや事務連絡だけをして立ち去る緑先生の後ろ姿に
はい…とぺこりと頭を下げるふりをする。
「じゃあ、荷物まとめてくるよ。」
「あ、ありがとう。ごめんね。」
「大丈夫。」
そう言って、保健の先生よりも保健の先生っぽい星宮君が、
失礼しました、と一礼し、保健室を後にする姿が目に映った。
次の日から、私と星宮君の朝学習は、ちょっと変わったものになった。
まず、星宮君からの質問が減った。
次に、朝、学習ではなくなった。
朝の八時までと決めていたのはどこに消えたのか、
私が課外から教室に戻ると、星宮君が「おかえり」と口にする。
「ただいま」と返事をすることはハードルが高すぎるから、うん、と頷くことしかできない。
そのままお昼休憩を挟み、夕方学習にまで及ぶ。
そして、星宮君は、下校のチャイムが聞こえる頃、
私にはい、とチョコレートを手渡す。
夏場なのにチョコレートを抱えて学校に来たら溶けるでしょ、と突っ込んだ私に
「保冷バッグに入れてるから。」
なんて笑いながら答えた星宮君。
彼がくれるチョコレートは、
私が好きな、カカオ72%のアーモンドチョコレート。
私の好みがどうしてわかるのかな、と思っていたら、
スーパーで売られているアーモンドチョコレートのパッケージに
「鉄分豊富」と記載されていることが目に入り、
笑い出した私を母が不思議そうな顔をして眺めてきたことを思い出す。
私にくれるだけではなく、
星宮君も「今日のご褒美」とか言いながら口にするから、
二人にとって「勉強お疲れ様」の代わりになった。
受験生って、ばっちばちしていて、競争ばかりで、
つまらないものかと思っていたけど、
隣に仲間がいるってすごく嬉しいことだと気づくことができた。
そして、夏休み中、毎日チョコレートを食べていたせいで、
私がすっかりカカオ中毒になってしまったことは、また別の話。
九月。
謎の教育改革か何かのせいで、
夏休みは年々短くなっている。
最も、受験生の夏休みは、
課外でスケジュールがいっぱいになっていたし、
意外と毎日続いた「朝学習」のおかげか、休みなんていう色はどこにもなかった。
夏休み中、オープンキャンパスに出かけていった日だけ、
朝学習を休ませてもらった。
その一日を除いた他の日は、
星宮君におはよう、を言うことが日常になっていた。
約束通り、夏休み期間、毎日続けてもらっていたから、
朝学習、延期ということにした。
夏休みの最後の土曜学校開放日、
「もうすぐ夏休み終わるね。」
朝学習が延期して夕方まで学校に残っていた
星宮君が帰り際に話しかけてきた。
そうだね、と頷いた私。
「月曜日からさ、っていうか、二学期も朝学習続けていいかな?」
赤本ノートと筆箱を鞄にしまいながら、
星宮君は私に尋ねてきた。
三日坊主で終わるだろうという私の予想に反して毎日来てくれた
星宮君を見ていると、このままやめにするのは名残惜しかった。
「いいよ。」
朝、教室に来て勉強する自由は誰にとっても等しくあるものなんだけどな、
なんていう考えが頭をよぎる中、星宮君は
「よかった。」
と安堵の表情を浮かべていた。
そういうわけで、
夏休み明け、二学期の始まりの今日も、
星宮君のおはようで私の一日が始まる。
二学期は席替えがある。
星宮君の背中が斜め前に見えるこの景色が変わってしまう
と思うと、どこか寂しく感じてしまう。
そんな私を置いて、
朝の予鈴が鳴り始めた。
久しぶりの登校のせいか、
クラスメイトの表情はいつにも増して明るく感じられた。
予鈴が鳴り終わってすぐ教室に入ってきた林さんは、
わざわざ、というか今日はいつもよりも余裕があったみたいで、
私のところまで挨拶をしにきた。
「おはよ〜、ひなた!夏休み、終わっちゃったねぇ…
ひなた、夏休みどうだった?」
残暑厳しいこの夏だから、長い髪をポニーテールにまとめ、
いつもよりも短めにセットしたスカートを揺らしながら駆け寄ってくる。
「おはよう、林さん。うん、学校の課外と勉強って感じだったかな。
林さんは?夏休み、楽しめた?」
「優秀だぁ。私なんて、勉強=課外のみって感じだよ笑
今年の夏はちょっと張り切って課外に出てみたけど、意外と楽しかった!」
「そっか、よかった。」
課外が楽しかった、という意味だろうけど、
勉強が楽しかったと聞こえて、なんだか嬉しく思った。
「え、ゆり、今日は早いじゃん。」
夏休みを思い出して、表情が明るいままの林さんを
意外そうに五十嵐君が見つめる。
ひとテンポ遅れて教室に入ってきた五十嵐君に気づいた林さんは振り返り、
「颯太ぁ!おはよう!」
「おう、おはよう。」
五十嵐君をじっと見つめ続ける林さんに、
「なんだよ。」
と五十嵐君が口をひらく。
ニヤッと笑った林さんが、
「今日は遅いじゃん。」
とたっぷりの皮肉を持って言うのと、
本鈴のチャイムの音が重なった。
「皆さん、おはようございます。
夏休みが終わり、二学期を迎えました。」
新学期のワクワク、ドキドキ感で胸をいっぱいにしている
三年八組を前に、小谷先生が朝のHRを始める。
「二学期といえば、文化祭ですね。
明日の総合の時間では、文化祭の出し物を決めようと思っているので、
皆さん、考えておいてください。」
文化祭、というワードに湧き立った三年八組。
小谷先生からの連絡事項をこれ以上聞き取ることはできなく、
日本語のリスニングテストの難しさを痛感した。
「な、文化祭の出し物、何にする?」
朝のHR後の短い休み時間の中、
一限目が移動教室の手間がない国語の授業ということで、
会話が弾む。
「文化祭、三年は何をテーマにするんだっけ?」
文化祭の大役を担う五十嵐君に、星宮君が尋ねる。
「一年と二年は、飲食以外のレクリエーション系。
例えば、お化け屋敷とか、劇とか、食べ物を出さなければなんでもよし。
三年は、売店が出せるから、基本、飲食関係の出し物になるはず。
例年、チーズボールとか、ホットドッグとか、あと、ポテトが多いかな。」
「さっすが、生徒会長〜。頼りになる〜。」
出し物の例まであげた説明をしてくれた五十嵐君を、
林さんがはやしたてる。
「ま、でも、このクラスの文化祭の主役は俺じゃないしな。」
林さんに流石、と言われたせいか、紅潮した顔の五十嵐君。
その彼の視線が私に注がれていることに気づき、顔を上げる。
「文化新星委員の下原ひなたっ。三年八組をよろしく頼むっ!」
わざとらしく一礼する五十嵐君をみて、
一学期の委員会決めのことを思い出す。
***
林さんが室長に立候補し、他に候補者がいなかったことで、
林さんが室長に任命された。
その後、決めないといけない主要な委員は、「文化新星委員」だった。
文化新星委員とは、名前だけがかっこいい肩書きで、
実質は文化祭の運営を任される、多忙な委員だ。
受験生、ということもあるし夏休み後に本格的に仕事が始まり、
責任感と提出書類が肩にのしかかる役職だからこそ、
立候補者は誰もいなかった。
すでに、前日の自己紹介で時間を使いすぎていた三年八組であったのにも関わらず、
翌日の委員会決めでも時間を使いすぎるとは一体どういうことか。
先生も手に負えない、とでもいうかのように頭を抱えている。
考える前に行動しがちな私だけど、
このまま誰も立候補せずに、時間が経つことだけを待つのは嫌だと思い、
「他に立候補者がいないなら、私がなってもいいです。」
一人、挙手をしてしまっていた。
***
そんな、一学期の思いつきの行動のツケがまわってきたのか、
二学期の初っ端から、その先の多忙さを心配する私。
(よろしく、と言われても…)
五十嵐君の言葉になんて返事すればいいのか分からずに、
「頑張ります。」と頷くことしかできなかった。