「ちょ、俺が救世主!?」~転生商人のおかしな快進撃~

 宮崎の火口のだだっ広い神殿で、レヴィアはゴロンと冷たい大理石の床に転がってユータの目論見(もくろみ)を考えていた。その姿は、まるで悩める少女のようだった。

 ユータたちがヌチ・ギの屋敷からこっそりドロシーを奪還する? どう考えても無謀で滑稽な挑戦だった。管理者をなめ過ぎではないだろうか……? その思いが、レヴィアの心を重く覆う。

 何か策があるか……、特別な情報を持っているのか……、いろいろなケースを想定してみた。頭の中で、様々な可能性が交錯する――――。

「いや、違う!」

 突如として湧き上がった確信に突き動かされ、レヴィアはガバっと起き上がった。

「あやつら、死ぬつもりじゃ……」

 レヴィアは唖然(あぜん)とし、胸中には驚きと恐れ、そして何か別の感情がグルグルと渦巻く。

 晴れ晴れとした口調だったから気づかなかったが、成功確率など微々たるものだと本人たちも分かっているに違いない。だが、彼らにはたとえ死んでも成し遂げねばならぬことがあるのだ――――。

 その覚悟にレヴィアは思わず震える。その震えは、恐怖というよりも、何か深い感動のようなものだった。

 レヴィアは大きく息をつき、金髪のおかっぱ頭をぐしゃぐしゃとかきむしる。

「我も覚悟を決める時が来たようじゃ……。お主らに教えられるとはな……」

 レヴィアの目には自嘲の色と共に、新たな決意が滲んでいた。

 今まで事なかれ主義で、現状維持さえできれば多少の事は目をつぶってきた。でも、それがヌチ・ギの増長を呼び、世界がゆっくりと壊れてきてしまっていることは認めざるを得ない。

 しかし今、ユータたちの覚悟を見せつけられた瞬間、レヴィアの心に重い責任感が芽生えた。

 スクッと立ち上がるとレヴィアは、空間の裂け目からイスとテーブルを出して座り、大きな情報表示モニタを次々と出現させる。壮大な大理石の神殿の中、青白い画面の光がレヴィアの幼い顔を照らす。それは、まるで古代の神官が神託を受けているかのようだった。

 レヴィアは画面を両手でクリクリといじりながら情報画面を操作し、何かを必死に追い求める。

「ふーん、暗号系列を変えたか……、じゃが、我にそんな小細工は効かぬわ、キャハッ!」

 レヴィアはニヤリと笑うと、画面を両手で激しくタップし続けた――――。

 静かな神殿には、レヴィアの指が画面をタップする音だけが響く。その音の中に、世界の運命を左右する重大な変化の予感が潜んでいた。

 ただ、ヌチ・ギは同じ世界の管理者、一筋縄ではいかないし、こんなトラブルは決して女神の知るところになってはならない。

 無理筋の挑戦はレヴィアをも巻き込みながら、その渦をどんどんと急速に大きくしていったのだった。


       ◇


 早速奪還作戦開始だ――――。

 俺は救出に使えそうな物をリュックに詰めていく、工具、ロープ、文房具……。一つ一つの道具に、ドロシーを救出するという思いを込めながら、慎重に選んでいく。

 そして、最後にドロシーの服に手を伸ばした。麻でできた質素なワンピース……。その質素さに、ドロシーの純粋さを感じる。

 俺は思わず広げて、そしてぎゅっと抱きしめた。ほのかにドロシーの匂いが立ち上ってくる……。その香りが、俺の決意をさらに強くする。

「待っててね……」

 俺はそうつぶやき、ゆっくりと大きくドロシーの香りを吸い込んだ。ドロシーとの思い出を胸に抱き、ギュッと奥歯を噛み締める――――。

 決意のこもった目で立ち上がった俺は動きやすそうな服に着替え、革靴を履き、靴紐をキュッと結んだ。
「よし! 行こう!」

 俺はパンパンと自分の頬を張ると、アバドンを見上げてグッとサムアップする。

 アバドンもニヤッとサムアップしながら静かにうなずき、お互いに目で最後の確認をした。死を覚悟した無理筋の救出劇、もはや後戻りはできない――――。

「では王都まで参りますよ。ついてきてください」

 アバドンは壁に金色に光る魔法陣を浮かべ、その中へと入っていく。まるで異世界への扉である。

 俺も恐る恐る魔法陣の中に潜っていく。

 魔法陣の中は真っ暗で、上下もない無重力空間だった。アバドンが呪文をつぶやくと、向こうの方でピンク色の魔法陣が浮かび上がる――――。

「さぁ行きましょう」

 俺の手を取ったアバドンは魔法陣までスーッと移動する。

 どんどんと大きくなっていく魔法陣。

 闇の中で美しく輝きながら揺らめく魔法陣、それは希望か絶望か……。俺はゴクリと息を呑んだ。

 魔法陣の前にそっと止まると、アバドンはそっと魔法陣の向こうに顔を出し、辺りをうかがった――――。

「大丈夫です。行きましょう!」

 魔法陣を抜けるとそこは人気(ひとけ)のない(すさ)んだダウンタウンだった。王都の中なのだろうが、荒廃した街並みからはすえた悪臭が漂い、俺は思わず顔をしかめる。さわやかな高原の空気とは大違いだった。

「旦那様こっちです」

 スタスタと歩き出すアバドン。その大きな背中に、頼もしさを感じる。彼には本当に感謝しても感謝しきれない。

「凄い魔法陣だね。いきなりヌチ・ギの屋敷には繋げないの?」

 追いかけながら聞いてみる。

「元々ヌチ・ギの作った魔法ですから、セキュリティかかってて使えないですね」

 アバドンはチラッとこっちを見て肩をすくめた。現実は厳しい。

「そりゃそうか……」

 魔法では攻略できないようになっている。当たり前の話ではあるが、世界の管理者という存在の破格さに圧倒された。

「ヌチ・ギの屋敷まで二十分くらいです」

 アバドンの説明に俺は静かにうなずく。

 憧れの王都に着いたが、治安はアンジューの街よりは悪そうだった。俺たちはチンピラたちの目に留まらないよう、静かに歩く。

 道すがら、俺はドロシーを思い浮かべる。酷い目に遭わされてはいないだろうか? 泣いてはいないだろうか? 思えば思うほど気は焦る。しかし焦っても解決には近づかない。今はただ静かに歩く以外ない。その現実が胸をきつく締め付けるのだった。


        ◇


 高級住宅地に入ってくると、豪奢な石造りの邸宅が続く。それぞれが静かな威厳を放ち、まるで富と権力の展示場のようにすら見えた。

「左側三軒目がターゲットです」

 アバドンは隠しきれない緊張感を滲ませながら、静かに言う。

「了解、まずは一旦通り過ぎよう」

 見えてきたヌチ・ギの屋敷の玄関には警備兵が二名、槍を持って前を向いている。姿勢正しくビシッと直立し、彫像のようにすら見える。

 石造り三階建ての邸宅は、その威圧的な佇まいで周囲を睥睨していた。入り口には黒い巨大な金属製のドアがあり、固く閉ざされている。この辺りの邸宅は隣家とのすき間がなく、通りに沿ってまるで一つの建物のようにピタリと並んでいた。なので、身を隠す場所がないのだ。

 くぅぅぅ……。どうしたら……。

 と、その時、向こうの方から荷馬車がやってきてヌチ・ギの屋敷前に止まった。どうやら荷物の配達らしい。これは思いもよらなかった絶好のチャンスである。俺の心臓がドクンと高鳴った――――。
 俺たちは素知らぬ顔で屋敷の玄関を通り過ぎ、衛兵と配達員が話し始めるタイミングを見計らう――――。

 俺は隣家の玄関のドアを素早くナイフで切ってググっと大きく広げた。

 ドアの向こうがどうなっているかなんて全く分からない。完全なる賭けだった。

 素早く物音も立てずに自然にすっと二人は忍び込む――――。

 嫌な汗が背中を流れた。

 潜り抜けると玄関はホールになっており、左右に廊下が続いている。

「誰も……、いない? 良かった……」

 とりあえずはセーフのようで、俺は安堵の息をついた。ヌチ・ギの屋敷に忍び込む前に終わってしまっては泣くに泣けない。

 俺はアバドンと目配せをしてヌチ・ギの屋敷側へと早足で進む。

 その時だった――――。

 ガチャッ!

 前の方でドアが開いてしまう。

 もはや逃げ場もない。ぶわっと全身が総毛立つ感覚が広がった――――。

 果たして、出てきたのはメイド。

 さてどうする?

 俺は心臓が止まりそうになる。

 大ピンチではあるが、ビビる姿を見せるのは絶対にダメだ。

 俺は何食わぬ顔で、

「ご苦労様です!」

 と、手を軽く上げ、ニコッと笑った。マズい時こそ笑顔で。日本の自己啓発本に書いてあったような気がした。

 メイドは怪訝(けげん)そうな顔をしながら会釈する。その目には、疑いの色が浮かんでいるが、彼女にもすぐに騒ぐだけの情報が無かった。

 騒がれなければ勝ちなのだ。俺はニヤッと笑いながら足早に廊下を進んでいく。

 俺は思わず笑いそうになった。命すら惜しくない奪還計画において、この手の障害はむしろ楽しくすら感じてくる。普段やらないとんでもないことを堂々とやる、そんな機会はそうそうないのだ。

 廊下の突き当りまでくると、俺は壁をナイフで素早く切り、アバドンとすぐに潜り込む。後ろの方で悲鳴が聞こえたが気にせずに進んでいく。まるでその悲鳴が、俺たちの背中を押すかのようだった。

 壁をくぐればもうヌチ・ギの屋敷――――。

 いよいよ敵陣潜入である。俺はこれから始まる無理筋の挑戦にゴクリと息を呑んだ。

 降り立つとそこは、薄暗いガランとした部屋だった。ほこりをかぶった椅子や箱が並んでおり、長く使われていない様子である。

 俺は神経を研ぎ澄まし、部屋の中を静かにチェックしていく。ここは世界の管理者の屋敷である。常識でとらえてはならない。

 するとドアのむこうから声が響いてくる。どうやらさっきの警備兵と配達員らしい。俺はそっとドアに近づくとナイフでドアに切れ目を入れた。

 大きく深呼吸すると息を止め、そっと開いて向こうをのぞく――――。

 ドアの向こうはエレベーターホール。配達員が世間話をしながら大きなエレベーターに台車の荷物を載せている所だった。エレベーターを鑑定してみると、『空間転移装置』と出た。つまり本当の屋敷への転送装置という事らしい。やはり予想通りこの屋敷はただの玄関だった。

 と、なると、自分たちもこのエレベーターに乗る以外ない。

(これに……乗るか?)

 俺の心臓が激しく鼓動するのを感じた。エレベーターの起動方法が分からない以上、今この荷物と共に転送してもらうしかないがそれは大いなる賭けになる。

 くぅぅぅ……。

 しかし、このエレベーターの向こうにドロシーがいる。乗る以外ないのだ。

 「あと一個です」

 そう言って配達員が台車を押して玄関へと移動し、警備兵も後をついて行った。

 いきなり訪れた絶好のチャンス。行くならここしかない――――。

 汗ばんだ額を腕で拭う配達員の背中に、ユータは緊張の面持ちで目を凝らした。玄関から彼らが消えるのを確認し、俺とアバドンは顔を見合わせ、無言で頷き合う。

 俺たちは忍び足で部屋を抜け出し、エレベーターに飛び込むと、奥の木箱の裏側にそっと身を潜める。

 息を殺しながらアバドンを見れば、その瞳は薄暗がりの中で不気味に輝き、決意の色を帯びていた。

 バレたら殺される。その薄氷を踏むような挑戦の連続に二人の感覚はギリギリまで研ぎ澄まされていく――――。

 やがて警備兵と共に戻ってきた配達員が最後のひと箱を積む。

「これで最後だ……。ヨイショッとーっ!」

 目の前でドサッと乗せられた箱からボフッとほこりが舞った――――。

 う……。

 俺は不覚にもほこりを吸い込んでしまい、(せき)が出そうになる。喉の奥がむずがゆく、思わず体が震えた。

(マズい、マズい、マズい……)

 俺は真っ赤になって必死に口を抑え、咳を押しとどめる――――。

 咳などしようものならバレてしまう。そして、バレたらもうドロシーの奪還どころか俺たちの命はない。

 ヌチ・ギは万能の権能を持つ男。俺たちが奪還に動いていることを知ったら、権能を使って探し出し、確実に俺たちを殺すだろう。

 脳裏に、ドロシーの笑顔が浮かぶ。彼女を救うため、そしてみんなで無事に帰るため、絶対にバレてはならなかった。

「これで完了です」

 配達員の声を聞きながら、早く扉を閉めてくれー!! という声にならない悲痛な願いが脳をグルグルと回っている。

 額には玉のような汗が浮かび、シャツの背中まで汗で濡れそぼっていた。

 こみ上げてくる咳の衝動を必死に抑え込み、扉が閉まるのを今か今かとジリジリしながら待つ。喉の奥がヒリヒリと痛み、目に涙が浮かんだ。こんなことで全てが台無しになってしまう訳にはいかない。

「じゃぁ閉めるぞ」

 警備兵がそう言った瞬間だった――――。

 ヘックショイ!

 アバドンの盛大なくしゃみがホール中に響いた。その音は、静寂を破る雷鳴のように鮮烈だった。

 俺は凄い目をしてアバドンをにらむ。アバドンは申し訳なさそうな表情を浮かべ、小さく首を縮めた。

 固まる警備兵……。空気が凍りつく。

「お前、くしゃみ……した?」

 配達員に聞く。その声には疑惑と恐怖が混ざっていた。

「いえいえいえ! 私じゃ……ないです……よ?」

 配達員の声が裏返る。

 明らかな異常事態に配達員も警備兵も緊張を隠せない。

 警備兵から異常が報告されてしまうとそこでアウトだ。俺は必死に息を殺し、祈った。心臓の鼓動が耳に響き、時間が止まったかのように感じられた。

「おい! 誰かいるのか!? 出てこい!!」

 警備兵は魔法ランプを掲げ、なめるようにエレベーターの中を見ていく。その鋭い眼光に、俺は背筋が凍るのを感じた。

 俺は必死に考える。倒してしまうか? いや、もう一人警備兵がいるからダメだ! では釈明……出来る訳がない。まさに絶体絶命である。冷や汗がタラりと流れる。

「ちょっと報告するから待て」

 警備兵がそう言いながら何やら魔道具を取り出す。それは通信用の水晶玉(すいしょうだま)のようだった。

 万事休す――――。

 俺はいきなりのピンチに絶望して気が遠くなった。頭の中で、ドロシーとの思い出が走馬灯のように駆け巡る。

 飛び出さねばなるまい、しかし、どのタイミングで……?

 くぅぅぅ……。

 頭の中で、様々な作戦が組み立てられては崩れていく。

 冷や汗がタラリと流れてくる。その一滴が、エレベーターの床に落ちる寸前だった――――。

 ボン!

 アバドンが小柄な男に変身して飛び出した。その渾身の魔法が作り出した姿は、巨体な魔人の片りんもなく、目を疑うほどの変貌ぶりだった。
 この姿は……ヌチ・ギだ! ユータの心臓が大きく跳ねる。

「エークセレンッ!! お見事! それだよ!」

 アバドンはキザな仕草で警備兵の肩を叩いた。その声は甲高く、ヌチ・ギそのものだった。アバドンの変装の完璧さに、ユータは思わず息を呑む。

「ヌ、ヌチ・ギ様……?」

 警備兵の声が震える。その顔には驚きと畏怖の色が混ざっていた。

「今、屋敷の警備体制を抜き打ちチェックしてるのだよ。君の今の動き、良かったよ!」

 アバドンはヌチ・ギ特有の傲慢(ごうまん)さと優しさが絶妙に混ざった笑顔で笑いかける。

「きょ、恐縮です……」

 うれしそうにビシッと敬礼する警備兵。

「怪しいと感じたらまず連絡。基本を押さえたいい動き……。エレベーターの中まで入ってきたら殺されるかもしれないからな? 君の査定は高くしておこう! 君、所属と名前は?」

 アバドンは警備兵の肩に手を置き、腹心(ふくしん)の部下に語りかけるような親しみを込めて顔をのぞきこむ。

「はっ! 自分は第一分隊所属ハーヴェルです!」

 その表情には、思わぬ褒美に有頂天になった様子が見て取れた。

「ハーヴェル……いい名前じゃないか。なお、これは抜き打ち調査なので、他の人には話さないように……。分かったね?」

 ニッコリと笑うアバドン。

「は、はい! かしこまりました!」

 警備兵の返事は、弾むように力強い。その瞳には、ヌチ・ギへの忠誠心が燃えていた。

「では、私は屋敷に戻る。引き続き頼んだよ!」

 ツカツカとエレベーターに乗りこんだアバドンは、くるっと振り向いて警備兵ににこやかに笑った。

 どこまでもヌチ・ギそのものの演技に俺は感心せずにはいられない。

「では、扉、閉めさせていただきます!」

 警備兵はガチリとボタンを押しこむ。軋みながら閉じていく扉――――。

 その瞬間、九死に一生を得た安堵感が俺の胸に広がった。

 はぁぁぁ……。

 俺はアバドンをジト目でにらむ。その眼差しには、「危なかったぞ」という非難の色をこれでもかと込めておいた。

 アバドンはバツが悪そうな様子で頭をかく。それは、まるで悪戯を見つかった子供みたいに見えた。

「くしゃみは止められないんですよ……」

 アバドンは小声で謝る。

「まあ、なんとかなったからいいさ」

 俺は溜息まじりに答えた。


       ◇


 扉が閉まってしばらくすると、全身が浮き上がるような奇妙な感覚が全身を貫いた。まるで体が霧のように軽くなり、次の瞬間には別の場所へと引き寄せられるような不思議な感覚だった。屋敷の本館へ転送されたに違いない。俺は緊張で汗ばんだ手のひらをズボンで拭った。

 荷物受け取りの人と鉢合わせるとまずいので、ナイフを用意してタイミングを計る。ナイフの冷たい金属の手触りが、現実の危険を思い出させた。心臓の鼓動が早くなる。

 チーン!

 鳴る音と同時に、俺はエレベーターの奥をナイフで切ると確認もせずに飛び込んだ。

 うわぁ!

 いきなりまぶしい光に当てられ、爽やかな空気に包まれる――――。

 目が慣れてきて辺りを見回すと、目の前には鬱蒼(うっそう)とした森が広がっていた。サラサラと木々の葉が風にそよぐ音だけが辺りに満ちていた。

「こ、ここは……?」

 俺はいきなり広がる大自然の風景にたじろぐ。

 エレベーターはまるで地下鉄の出入り口のエレベーターのように、森を切り開いた敷地の境目にポツンと立っていたのだ。その不自然な光景に、俺は現実感を失いそうになる。
 そっと扉側の様子を伺うと、豪奢な装飾が施された鉄のフェンスが張り巡らされていた。その向こうには見事な庭園が広がり、奥には真っ黒いモダンな建物がそびえている。あれがヌチ・ギの屋敷だろう。高さは五階建てくらいで、現代美術館かと見まがうばかりの前衛的な造りをしており、中の様子はちょっと想像がつかない。それは、周囲の自然と不釣り合いなほど無機質で冷たい印象を与えた。なるほど、ヌチ・ギらしい。

 あの中でドロシーは俺の助けを心待ちにしてるはずだ。胸にキュッと切ない痛みが走る。

「ドロシー、待ってろよ……」

 俺はギュッとこぶしを握り、ドロシーがまだ無事であること、それだけを祈りながら必死に屋敷の様子を調べてみる。

 鑑定を使ってセキュリティシステムを調べてみると、門やフェンスには多彩なセキュリティ装置が多数ついており、とても超えられそうにない。さらには庭園のあちこちにも見えないセキュリティ装置が配置されており、とても屋敷に近づくのは無理そうだった。さすが管理者である。その精巧さと複雑さに、思わずため息が出てしまう。

「旦那様……、どうしますか?」

 アバドンがひそひそ声で聞いてくる。

「すごい警備体制だ、とてもバレずに屋敷には入れない……」

 すると屋敷から人が出てきた。見ていると、メイドらしき女性が宙に浮かぶ不思議な台車を引き連れながら大きな鉄製の門を開け、エレベーターまでやってくる――――。

 メイド服に身を包んだ彼女は何も言わず、淡々と台車に荷物を載せ、また、台車を引っ張って屋敷内へと戻っていく。

「彼女に付いていきましょうか?」

 アバドンがニヤリと笑う。

「いや、無理だ。荷物の中に隠れてもセキュリティ装置に引っ掛かるだろう」

 俺は渋い顔をしながら首を振る。

 いろいろ考えてはみるものの、庭園を超え、多くのセキュリティ装置を突破するのは現実的ではなかった。何しろ見つかったら作戦は失敗、そこに待っているのは死なのだ。賭けるのは今じゃない。

「困りましたね……」

 アバドンは首をひねる。

 静寂が二人を包んだ。遠くで鳥のさえずりが聞こえる――――。


       ◇


「持ってるのはナイフだけだしなぁ……」

 ため息をつくと、俺は取り出したナイフをクルクルッと手のひらの上で回した。

 と、その時、ビビッと何かが閃いた。壁以外にも斬れるのでは?

 そう、このナイフは空間を切断するだけだ。何だって斬れる。であれば――――。

「ヨシ! 地中を行こう!」

 俺はニヤッとアバドンに笑いかける。

「はぁっ!?」

「こうするんだよ」

 驚くアバドンの目の前で、俺はナイフで地面を一直線に切り裂いた――――。

 雑草の生える地面はいとも簡単に斬り裂かれ、こんにゃくみたいに揺れながら切り口を晒す。地面は壁と同様に、まるでコンニャクのように柔らかく広げることができたのだ。

 両手で切り口をググっと広げてみると、三十センチくらいは斬れている。俺は中へと入ってさらに奥を切り裂いた。するとさらにまた三十センチくらい進める。

「行ける、行ける! さぁ、行くぞ!」

「うはぁ……。こんなの見たことないですよ。さすが旦那様」

 アバドンは目を丸くしながら、ナイフでトンネルを掘っていく俺を見下ろした。

 俺はアバドンと共に、一緒に地中を進む。一回で三十センチくらい進めるので、百回で三十メートル。三百回も斬れば屋敷には到達できるだろう。無理のない挑戦だ。

 アバドンに魔法の明かりで照らしてもらいながら淡々と地中を進む。途中、地下のセキュリティシステムらしいセンサーの断面を見つけたが、俺たちは空間を切り裂いているのでセンサーでは俺たちを捕捉できない。ここはヌチ・ギの想定を超えているだろう。

 俺はついニヤッとほくそ笑んでしまう。管理者だって神じゃない。奴の想定を超えさえすれば出し抜けるのだ。

「ドロシー、今行くぞ!」

 俺は気合を入れなおし、何度も何度も斬り進めていった。

 足場の悪い中、苦労しながら斬り進んでいると急に断面が石になった。いよいよ屋敷にたどり着いたようだ。

 俺は深呼吸をしてはやる気持ちを落ち着かせると、そーっとナイフを入れた――――。

 明かりだ!

 俺は高鳴る心臓の鼓動を聞きながら、切り口をゆっくりと広げながら中をのぞく……。

「はぁっ!?」

 俺は思わず声を出してしまった。

 なんと、そこに広がっていたのは、たくさんの美しい女性たちの舞う姿だったのだ。

 俺は唖然として凍りつく。管理者の特権を使い、漆黒の巨大建造物の中でひそかに作られていたのは禁断の美の世界だった。

 そこは地下の巨大ホールで、何百人もの女性たちが美しい衣装に身を包み、ゆったりと空中を舞っている。百人近い女性たちが何重かの輪になって、それが空中に何層も展開されている。それぞれ煌びやかなドレス、大胆なランジェリー、美しい民族衣装などを身にまとい、ライトアップする魔法のライトと共に、ゆっくりと舞いながら全体が少しずつ回っていた。また、無数の蛍の様な光の微粒子が、舞に合わせてキラキラと光りながらふわふわと飛び回り、幻想的な雰囲気を演出している。

 それはまるで王朝絵巻さながらの絢爛豪華な舞踏会だった。

 フェロモンを含んだ甘く華やかな香りが漂ってくる。

 ほわぁ……。

 見ているだけで幻惑され、恍惚(こうこつ)となってしまう。

「な、何ですかコレは……」

 国中の美女を少しずつ集めて作り上げていた狂気のアートに、アバドンは呆れ果て、首をかしげる。

 ちょうど俺たちの前に、碧眼を煌めかせる美しい女性がゆっくりと近づいてきた。スローモーションのような優雅な動きで、彼女は空中を舞う。二十歳前後だろうか、真紅のドレスを身にまとい、露出の多いハートカットネックの胸元にはつやつやとした弾力のある白い肌が魅惑的な造形を見せている。まるで生きた芸術品のようだった。

 彼女はゆっくりと右手を高く掲げながら回っていく――――。

 そのすらりとしたスタイルの良い肢体の作る優美な曲線に、俺は思わず息をのんだ。その姿は、まるで神話の妖精を思わせるほどの美しさだった。

 彼女に限らず、美女たちが次々と広い空間を埋め尽くすように舞っている。

「いや、ちょっと、何だよこれ……」

 俺はその常軌を逸した狂気に圧倒された。

 広間の中央には身長二十メートルくらいの巨大な美女がいる。最初はモニュメントか何かだと思っていたが、よく見ると彼女も動いているではないか。彼女も生身の人間かもしれない。

 彼女は、この幻想的な空間の中でさえ、異質な威圧感を放っていた。革製の巨大なビキニアーマーを装着してモデルのように体を美しくくねらせている。軽く腹筋が浮いた美しい体の造形には思わずため息が出てしまうほどである。その姿は、美と力の化身とでも言うべきものだった。

「美しい……」

 俺は不覚にもヌチ・ギの作り出した美の世界に引き込まれ、慌てて自分の頬をパンパンと張った。

 美しいことと、非人道的な犯罪は別の話だ。どんなに美しくても彼女たちが望んでいない以上許されない。

 それよりもドロシーだ。俺は銀髪の娘はいないかと一生懸命探してみる。

「ど、どうしましょう……?」

 アバドンはあまりの狂気に圧倒され、困惑していた。

「ヌチ・ギの狂気に流されちゃダメだ。ドロシーいないか探してくれ」

「わかりやした!」

 二人でしばらく探してみたが、まだ居ないようだった。しかし放っておくとここで展示されてしまうだろう。

 ドロシーがこんな所に展示され、永遠にクルクル回り続けるようなことになったら俺は死んでも死にきれない。その想像だけで、胸が締め付けられるような痛みを感じた。

「ドロシー……」

 俺はドロシーの柔らかな笑顔を思い出し、ギュッと目をつぶった。

 絶対に奪還せねばならない。たとえ命を失うことになろうとも必ず奪還してやると、俺はグッとこぶしを握った。
 俺は鑑定でホールの隅々まで慎重にセキュリティ装置を探したが、見つからなかった。ヌチ・ギもここまで侵入されることは想定外らしい。その事実に、わずかな安堵を感じる。

「上の階も探してみよう。ドロシーはきっとどこかにいる」

 アバドンは無言で頷く。二人の目には、揺るぎない決意の色が宿っていた。美しくも危険なこの空間を抜け出し、ドロシーを救出するための新たな挑戦が始まる。

「では、行くぞ!」

 俺はアバドンの耳元で囁いた。

 アバドンはサムアップをすると俺を背中につかまらせ、飛行魔法を使ってそっと床にまで降りていく。二人の呼吸が重なり、心臓の鼓動が同期するかのようだった。

 目の前を通り過ぎていく(きら)びやかな踊り子たち――――。

 俺は彼女たちの無念が胸に刺さるようで苦しく感じた。その美しさの裏に潜む悲しみが、ユータの心を締め付けた。やはりヌチ・ギの蛮行は許しがたい。彼女たちも解放してあげねばならないと心に誓った。

 静かに床に降りたった二人――――。

 その時、目の前を通り過ぎる露出の多いピンクのドレスで舞っている女性と目が合った。その瞳には、悲しみと諦めが宿っている。一瞬の交錯で、ユータは彼女の心の叫びを聞いたような気がした。

「え!?」

 驚いて見回すと全員が我々を見ていたのだ。意識があるのか!? その事実に、俺は背筋に冷たいものを感じる。

 唖然(あぜん)としていると、次にやってきた女性に声をかけられた。その声は、かすかに震えていた。まるで長い沈黙を破るかのようだった。

「そこのお方……」

 俺は驚いて声の方向を見ると、美しいランジェリー姿の女性が、手を後ろに組んで胸を突き出すような姿勢でこちらを見ていた。ブラジャーは赤いリボンを結んだだけの大胆なもので、左の太腿にも細いリボンで蝶結びがされていた。何とも煽情的(せんじょうてき)ないで立ちに俺は顔を赤くして、身体を見ないようにしながら、駆け寄った。その姿は美しくも悲しげで心を揺さぶってくる。

「話せるんですね、これ、どうなっているんですか?」

 スッと鼻筋の通った整った小顔にクリッとしたアンバーな瞳の彼女。心をざわめかせるほどの美しさに、俺は戸惑いを覚えながら聞いた。

「私はまだ入って間がないので話せますが、そのうち意識が失われていって皆植物人間みたいになってしまうようです」

 その言葉に、ユータは怒りと悲しみを感じた。何という非人道的な話だろうか。

「助けますよ!」

 俺は彼女の手を掴み、思いっきり引っ張ってみた。しかし、とても強い力で操作されているようで、舞いの動きを止める事すらできない。まるで目に見えない鎖で縛られているかのようだった。

「な、何だこれは……」

 その無力感に、俺は歯噛みした。歯ぎしりの音が、静かな空間に響く。

「ヌチ・ギ様の魔法を解かない限りどうしようもありません……。それより、あの中央の巨人が心配なのです」

 彼女の声には、恐怖と懸念が滲んでいた。

「やはり彼女も生きているんですか?」

 嫌な予感が当たり、心臓が早鐘を打つ。

「そうです。ヌチ・ギ様は巨大化装置を開発され、私たちを戦乙女(ヴァルキュリ)という巨人兵士にして世界を滅ぼすとおっしゃってました」

 そのとんでもない計画に、心臓が凍りついた。

「な、なんだって!?」

 俺は戦慄する。単に女の子をもてあそぶだけでなく、兵士に改造して大量殺戮(さつりく)にまで手を染めようだなんて、もはや真正の狂人ではないか。俺の頭の中で、巨大な戦乙女たちが街を火の海へと変えていく光景が浮かび上がり、言葉を失った。
「ラグナロクだ……」

 アバドンの低い声が、重い空気を切り裂く。

「ラ、ラグナロク……?」

 その重い運命を予感させるような響きに、俺は背筋が寒くなる。

「女巨人が大挙して空から降ってきて、世界を滅ぼす終末思想の神話があるんです。ヌチ・ギはその神話に合わせて一回この世界をリセットするつもりじゃないでしょうか?」

 アバドンの言葉が、俺の心に重くのしかかった。

「マ、マジかよ……、狂ってる……」

 俺はブルっと震える。世界の終焉を目論む狂気の計画。その底知れぬ残虐さに、言葉を失った。

 このまま世界の発展が進まなければ、この星自体が女神によるお取り潰しに遭う。であれば一旦リセットして新たな文明の萌芽を呼ぼうという目論見だろう。しかし、多くの人を殺すような計画などとても容認できない。その思いが、俺の中で熱く燃え上がる。

「私は人を殺したくありません……。何とか止めてもらえないでしょうか……?」

 彼女はポロリと涙をこぼす。その一粒の涙に、無数の命の重みが込められているようだった。

 ラグナロクなんて起こされたらアンジューのみんなも殺されてしまう。そんな暴挙絶対に止めないとならない。俺の心に、孤児院のみんなの顔が次々と浮かび上がる。笑顔で駆け寄ってくる子供たち、優しく微笑む院長。彼らの笑顔は守らねばならない。

「分かりました。任せてください!」

 俺は言葉に揺るぎない決意を込める。相手は世界の管理者、難しいのは百も承知だ。だが、できるかできないかじゃない。やらなければみんなが死んでしまう。

 もはや世界の管理者に立ち向かおうなんてクレイジーなことをするのは、自分たちしかいない。やるしかないのだ。

 女性の瞳にキラッと小さな希望の光が灯った。

「お願いします……。もうあなたに頼る他ないのです……」

 彼女はさめざめと泣きながら、またポーズを変えられていく。その姿は、美しくも悲しく、心を深く揺さぶった。

「では行ってきます! 幸運を祈っててください」

 俺は彼女の手をしっかりと両手で包んだ。まだ温かい彼女の手の温もりが、勇気を与えてくれる。


       ◇

 
 ホールの出入り口へと駆け寄り、俺はドアを切り裂いてそっと向こうをうかがった。薄暗い人気(ひとけ)のない通路が見える。その不気味な静寂に、緊張が走る。

 俺はアバドンとアイコンタクトをし、うなずき合うとそっとドアの切れ目を広げた。

 その時だった――――。

「やめてぇぇぇ!」

 かすかだが声が聞こえた。ドロシーだ! 心臓がキューっと痛くなり、冷や汗が流れる。

 俺の愛しい人がひどい目に遭っている……。

「は、早くいかなくちゃ……」

 俺は足音を立てぬよう慎重に早足で声の方向を目指した。

「ドロシー……、ドロシー……、くぅぅぅ……」

 一歩一歩が、永遠のように感じられる。

 通路をしばらく行くと部屋のドアがいくつか並んでおり、そのうちの一つから声がする。その扉の向こうに、ドロシーが待っているのだ!

 俺は震える手でドアを斬り裂く――――。

 そっと切り裂いて中をのぞき、その衝撃的な光景に思わず息が止まった。

 なんと、ドロシーが天井から(はだか)のまま宙づりにされていたのだ。その美しい無防備な姿に、怒りと悲しみで言葉を失う。

 俺は全身の血が煮えたぎるかのような衝動を覚えた。

 俺の大切なドロシーになんてことしやがるのか! その怒りは、まるで火山のマグマのように激しく沸き立つ。

「ほほう、しっとりとして手に吸い付くような手触り……素晴らしい」

 ヌチ・ギがいやらしい笑みを浮かべ、ドロシーを味わうかのようになでる。その声には、嗜虐的(しぎゃくてき)な喜びが滲んでいた。