高校三年生、夏。部活の大会に燃える者や、恋人を作ろうと躍起になる者など、皆様々な想いを持って過ごしているだろう。
この部屋の主である津内 夏はため息をついた。
宿題もやり終わった残りの夏休みをどう過ごすかで悩んでいた。夏休みが終わるまではまだ二週間もある。今日も図書館に行って借りてきた本を読んでいたのだが、流石に飽きてきた。もっと刺激的なことがしたい――という気分になっている。
とはいえ、一人でどこかに行く気にもなれない。なにしろ、まだ朝なのに三十度をとうに越している。こんな気温の中出ていったら死んでしまう、と夏は考えた。
「なっつー!! 海に行こうぜー!」
そこへ大声と共に部屋に熱気が入ってきて、夏は目を丸くして背後を振り返る。部屋の扉をノックもせずに開け放ったのは、明るい金の髪を持つ大柄の男だ。
鹿川 雪輝。三軒隣の家に住む、夏の同じく今年で十八歳になる幼馴染である。
雪輝の明るい茶色の髪は日に焼けてしまって、まるで金髪のような色をしている。くっきりとした二重をした目は、黒がかった茶色だ。今年の春に百八十五を越えた! とVサインをして帰ってきたが、更に高くなっていそうだった。陸上で短距離走をしているから、太く筋肉の締まった足をしている。部分部分は日本人の父親にも似ているが、全体的にフランス人の母親に似ているところが多い。
対して夏は父親似で、典型的な日本人顔だ。切れ長の目は、白目の部分が青みがかっていて澄んでいる。ハリとコシのある黒髪は首の付け根までで切っていた。地味ではあるが、涼しげで清潔感の漂う佇まいだ。
金で縁取りをされたロゴ付きの黒いTシャツに、派手な赤いボタニカル柄の七分丈のパンツを合わせている雪輝と、薄い青色のストライプが入ったクレリックシャツと黒の九分丈パンツを着ている夏。二人は正反対ともいえる容姿をしていた。
夏は右の目頭よりも上の辺りに握った拳を押し付ける。
「雪輝……ノックしないのは、もういい。けど、静かにしろ」
「あ、俺またノックしなかった? ワリーワリー、許して!」
両目を閉じ、顔の前に手を上げながら「なっ?」と言う男に、夏は仕方ないなと眉を下げて鼻から長い息を吐きだした。
「いいから早く入ってこい。冷たい風が逃げるだろ」
「つーか、この部屋寒すぎじゃね? 風邪引くぞ」
片眉をしかめながら入ってきた雪輝は夏の腕を握る。長時間クーラーを付けた部屋にずっといた夏の冷たい腕に、雪輝の大きな手は熱すぎる程だった。見上げると、雪輝が目を覗き込んでくる。これは雪輝の癖だった。
夏が自分の体に悪いことをすると――ずっと素麺とアイスのみで暮らしていたり、家族ぐるみでバーベキューをした時に自分の分の肉を「胃に重たい」と言って全て雪輝の紙皿に入れたり、本ばかり読んで外に出ていないことを知った時――こうして、じっと夏を見つめてくる。
夏は、どうにも雪輝のこの目が苦手だった。眼差しに叱咤以外のなにかが宿っているのではないかと探してしまう自分が嫌になって、落ち着かなくなってしまう。
「明日からは気を付ける」
先手を打って謝罪を口にすると、雪輝は「ん」と鼻にかかった声を出して目尻を下げて笑った。そうすると、ぐっと印象が柔らかくなる。
(火傷をするかと思った……)
雪輝に握られた腕を、夏はそう思いながら擦った。まだジンジンと痛みに近い感覚が走っているような気がしてしまう。
夏が腕を抱えて考えこんでいる間に、雪輝はクーラーのリモコンを机の上から取り上げてスイッチを切った。そしてパタパタというスリッパの足音を聞き取ると、もろ手を上げて廊下へと走り出していく。
「おばちゃーん、夏借りていいー!?」
「いいよー。あれで良けりゃ持ってきなー!」
アイロンが終わったらしい洗濯物を持ってきた夏の母親を目ざとく発見した雪輝は、「やったー、おばちゃん愛してる!」と抱きしめた。
「あらまあ、雪ちゃんったら一段と逞しくなったわねえ」
目元に出来た皺をさらに増やして微笑む母親に、雪輝は「そーだろー」と言いながら、右の二の腕を見せつけるように肘を曲げる。母親はそれを見て目を輝かせて上腕二頭筋の硬さを楽しむ。
「母さん……なにしてんの」
部屋から出てきた夏が冷めた目で二人を見ると、母親はあらっと顔を夏の方へと向けた。
「夏! 凄いのよ、雪ちゃんの腕っ。夏も触ってみなさいよー」
「夏も触れよ! かったいぞ~」
「いや、俺はいいよ」
なにを嬉しそうにしているんだ…と夏は肩の力を落として脱力し、自分よりも余程気が合っている雪輝と母親を見つめて大きくため息を吐きだす。
「そんな冷てーこと言わねーで、ほら!」
楽しくなってきたらしい雪輝は自分の二の腕を左手で叩いた。急かされた夏は仕方ないなと思い、雪輝の二の腕をつかむ。
「……ん、確かに硬いな」
「だろ!?」
雪輝は夏が褒めると特にいい顔になった。いつもそうなのだ。テストで良い点数を取ったり誰かから褒められた時はすぐに夏のところに走ってきて、褒めて褒めてとばかりに話してくる。まるで犬のようだが、そんなところが可愛いとも思えてしまっていた。
「それで、どこへ行くって言ったんだ?」
「海、海! ちょー行きてえ!」
「あらっ、いいわねー! 行ってらっしゃい!」
両手を合わせて同意する母親に、雪輝はだろー? と笑う。だが、外には出たくないと思って十分経ったか経たないかの夏は嫌だった。
「いや、俺は」
「いいじゃない、アンタもたまには外に出ないと! 雪ちゃんお願いねえ~」
断ろうとした夏の背中を押した母親に「はい!」と手を上げての元気な返事をした雪輝は、
「なっ、なっ、いいだろ!? 行こーぜ夏ぅ~」
と屈んで顔を覗いてくる。猫のような目に見つめられた夏は、くっと唇を噛みしめた。
「……分かった」
「マジ!? やったー!!」
良い返事を貰った雪輝は両手を真っ直ぐ上げて飛び跳ねる。大きい体がどすどすと跳ねるので床が悲鳴を上げた。
「飛び跳ねるのは止めろ。ウチが壊れる!」
それを聞いた夏は慌てて雪輝の腕を取って、止めさせる。だが、雪輝はそれでもにこにこと上機嫌に笑っていた。余程嬉しいのだろう。
「凍らせたペットボトルがあるから持って行きなさいな! おにぎりでも作ろっか?」
「いいんですか!? やったあ!」
同じく上機嫌な母親が「いいのよー」と言って、夏に服を押し付ける。そして、音痴にも関わらず下手な鼻歌を奏でながら階段へと歩いていった。
「夏のおばさん、相変わらず優しいな!」
「お前にだけだよ。俺と父さんにはキツイから、あの人」
えーそうかあー? という幼馴染の声を背中にして、夏は自分の部屋へと戻る。服をタンスに収め、本棚に立てかけていたナイロン素材でできたグレーのボディバッグを手に取る。
「しかしお前、海だと時期が遅くないか? クラゲに刺されるぞ」
「おう、だから行くだけ! 泳がねーよ」
勝手に夏のベッドに腰掛けた雪輝は、手を体よりも後ろの位置につけて足を伸ばした。こうして見ると、大きい体がようやく縮こまった世界から抜け出して自由になったような気分を感じる。
「なんのために行くんだ、それは」
「えー、なんのためって」
そこでまた、夏と雪輝の目が合う。なぜか雪輝と一緒にいると、合わせようともしていないのにカッチリと合わさる時があった。まるで自分を狙う猟師のライフルに気が付いた草食動物のようで、なにかが嫌だった。
「夏と海を見るために決まってんじゃん」
雪輝はじっと夏の目を見てそう言う。
「……そ、そうか」
カッと頬が熱くなったのを感じた夏は、雪輝に顔を見られることのないように横を向いた。意味もなく本棚の本を取ってみては直してみる。その行為をどういう目で雪輝が見ているか気になりつつも、夏は自分から顔を向けることができなかった。
「なら水着はいらないな」
「お? そうだな、いらねーな」
「すぐに準備をするから、待て」
ボディバッグのファスナーを上げて口を開いた夏は、なにを入れようかと考える。タオルと財布は絶対に必要だ。
「おう、わかった!」
ベッドの方から聞こえてくる溌剌とした声に、どうしようもなく勝手に自分の体温が上がっていくような気分になる夏は、目を閉じる。そうすると、雪輝の人懐っこい笑みが浮かび上がってくる。
この幼馴染はなんとも思ってはいないのだろうか。一体あの猫のような茶色の目の奥にはなにが潜んでいるのか。自分では到底分からない問いの答えが欲しくて欲しくてたまらない。
(――教えてくれ、雪輝)
この部屋の主である津内 夏はため息をついた。
宿題もやり終わった残りの夏休みをどう過ごすかで悩んでいた。夏休みが終わるまではまだ二週間もある。今日も図書館に行って借りてきた本を読んでいたのだが、流石に飽きてきた。もっと刺激的なことがしたい――という気分になっている。
とはいえ、一人でどこかに行く気にもなれない。なにしろ、まだ朝なのに三十度をとうに越している。こんな気温の中出ていったら死んでしまう、と夏は考えた。
「なっつー!! 海に行こうぜー!」
そこへ大声と共に部屋に熱気が入ってきて、夏は目を丸くして背後を振り返る。部屋の扉をノックもせずに開け放ったのは、明るい金の髪を持つ大柄の男だ。
鹿川 雪輝。三軒隣の家に住む、夏の同じく今年で十八歳になる幼馴染である。
雪輝の明るい茶色の髪は日に焼けてしまって、まるで金髪のような色をしている。くっきりとした二重をした目は、黒がかった茶色だ。今年の春に百八十五を越えた! とVサインをして帰ってきたが、更に高くなっていそうだった。陸上で短距離走をしているから、太く筋肉の締まった足をしている。部分部分は日本人の父親にも似ているが、全体的にフランス人の母親に似ているところが多い。
対して夏は父親似で、典型的な日本人顔だ。切れ長の目は、白目の部分が青みがかっていて澄んでいる。ハリとコシのある黒髪は首の付け根までで切っていた。地味ではあるが、涼しげで清潔感の漂う佇まいだ。
金で縁取りをされたロゴ付きの黒いTシャツに、派手な赤いボタニカル柄の七分丈のパンツを合わせている雪輝と、薄い青色のストライプが入ったクレリックシャツと黒の九分丈パンツを着ている夏。二人は正反対ともいえる容姿をしていた。
夏は右の目頭よりも上の辺りに握った拳を押し付ける。
「雪輝……ノックしないのは、もういい。けど、静かにしろ」
「あ、俺またノックしなかった? ワリーワリー、許して!」
両目を閉じ、顔の前に手を上げながら「なっ?」と言う男に、夏は仕方ないなと眉を下げて鼻から長い息を吐きだした。
「いいから早く入ってこい。冷たい風が逃げるだろ」
「つーか、この部屋寒すぎじゃね? 風邪引くぞ」
片眉をしかめながら入ってきた雪輝は夏の腕を握る。長時間クーラーを付けた部屋にずっといた夏の冷たい腕に、雪輝の大きな手は熱すぎる程だった。見上げると、雪輝が目を覗き込んでくる。これは雪輝の癖だった。
夏が自分の体に悪いことをすると――ずっと素麺とアイスのみで暮らしていたり、家族ぐるみでバーベキューをした時に自分の分の肉を「胃に重たい」と言って全て雪輝の紙皿に入れたり、本ばかり読んで外に出ていないことを知った時――こうして、じっと夏を見つめてくる。
夏は、どうにも雪輝のこの目が苦手だった。眼差しに叱咤以外のなにかが宿っているのではないかと探してしまう自分が嫌になって、落ち着かなくなってしまう。
「明日からは気を付ける」
先手を打って謝罪を口にすると、雪輝は「ん」と鼻にかかった声を出して目尻を下げて笑った。そうすると、ぐっと印象が柔らかくなる。
(火傷をするかと思った……)
雪輝に握られた腕を、夏はそう思いながら擦った。まだジンジンと痛みに近い感覚が走っているような気がしてしまう。
夏が腕を抱えて考えこんでいる間に、雪輝はクーラーのリモコンを机の上から取り上げてスイッチを切った。そしてパタパタというスリッパの足音を聞き取ると、もろ手を上げて廊下へと走り出していく。
「おばちゃーん、夏借りていいー!?」
「いいよー。あれで良けりゃ持ってきなー!」
アイロンが終わったらしい洗濯物を持ってきた夏の母親を目ざとく発見した雪輝は、「やったー、おばちゃん愛してる!」と抱きしめた。
「あらまあ、雪ちゃんったら一段と逞しくなったわねえ」
目元に出来た皺をさらに増やして微笑む母親に、雪輝は「そーだろー」と言いながら、右の二の腕を見せつけるように肘を曲げる。母親はそれを見て目を輝かせて上腕二頭筋の硬さを楽しむ。
「母さん……なにしてんの」
部屋から出てきた夏が冷めた目で二人を見ると、母親はあらっと顔を夏の方へと向けた。
「夏! 凄いのよ、雪ちゃんの腕っ。夏も触ってみなさいよー」
「夏も触れよ! かったいぞ~」
「いや、俺はいいよ」
なにを嬉しそうにしているんだ…と夏は肩の力を落として脱力し、自分よりも余程気が合っている雪輝と母親を見つめて大きくため息を吐きだす。
「そんな冷てーこと言わねーで、ほら!」
楽しくなってきたらしい雪輝は自分の二の腕を左手で叩いた。急かされた夏は仕方ないなと思い、雪輝の二の腕をつかむ。
「……ん、確かに硬いな」
「だろ!?」
雪輝は夏が褒めると特にいい顔になった。いつもそうなのだ。テストで良い点数を取ったり誰かから褒められた時はすぐに夏のところに走ってきて、褒めて褒めてとばかりに話してくる。まるで犬のようだが、そんなところが可愛いとも思えてしまっていた。
「それで、どこへ行くって言ったんだ?」
「海、海! ちょー行きてえ!」
「あらっ、いいわねー! 行ってらっしゃい!」
両手を合わせて同意する母親に、雪輝はだろー? と笑う。だが、外には出たくないと思って十分経ったか経たないかの夏は嫌だった。
「いや、俺は」
「いいじゃない、アンタもたまには外に出ないと! 雪ちゃんお願いねえ~」
断ろうとした夏の背中を押した母親に「はい!」と手を上げての元気な返事をした雪輝は、
「なっ、なっ、いいだろ!? 行こーぜ夏ぅ~」
と屈んで顔を覗いてくる。猫のような目に見つめられた夏は、くっと唇を噛みしめた。
「……分かった」
「マジ!? やったー!!」
良い返事を貰った雪輝は両手を真っ直ぐ上げて飛び跳ねる。大きい体がどすどすと跳ねるので床が悲鳴を上げた。
「飛び跳ねるのは止めろ。ウチが壊れる!」
それを聞いた夏は慌てて雪輝の腕を取って、止めさせる。だが、雪輝はそれでもにこにこと上機嫌に笑っていた。余程嬉しいのだろう。
「凍らせたペットボトルがあるから持って行きなさいな! おにぎりでも作ろっか?」
「いいんですか!? やったあ!」
同じく上機嫌な母親が「いいのよー」と言って、夏に服を押し付ける。そして、音痴にも関わらず下手な鼻歌を奏でながら階段へと歩いていった。
「夏のおばさん、相変わらず優しいな!」
「お前にだけだよ。俺と父さんにはキツイから、あの人」
えーそうかあー? という幼馴染の声を背中にして、夏は自分の部屋へと戻る。服をタンスに収め、本棚に立てかけていたナイロン素材でできたグレーのボディバッグを手に取る。
「しかしお前、海だと時期が遅くないか? クラゲに刺されるぞ」
「おう、だから行くだけ! 泳がねーよ」
勝手に夏のベッドに腰掛けた雪輝は、手を体よりも後ろの位置につけて足を伸ばした。こうして見ると、大きい体がようやく縮こまった世界から抜け出して自由になったような気分を感じる。
「なんのために行くんだ、それは」
「えー、なんのためって」
そこでまた、夏と雪輝の目が合う。なぜか雪輝と一緒にいると、合わせようともしていないのにカッチリと合わさる時があった。まるで自分を狙う猟師のライフルに気が付いた草食動物のようで、なにかが嫌だった。
「夏と海を見るために決まってんじゃん」
雪輝はじっと夏の目を見てそう言う。
「……そ、そうか」
カッと頬が熱くなったのを感じた夏は、雪輝に顔を見られることのないように横を向いた。意味もなく本棚の本を取ってみては直してみる。その行為をどういう目で雪輝が見ているか気になりつつも、夏は自分から顔を向けることができなかった。
「なら水着はいらないな」
「お? そうだな、いらねーな」
「すぐに準備をするから、待て」
ボディバッグのファスナーを上げて口を開いた夏は、なにを入れようかと考える。タオルと財布は絶対に必要だ。
「おう、わかった!」
ベッドの方から聞こえてくる溌剌とした声に、どうしようもなく勝手に自分の体温が上がっていくような気分になる夏は、目を閉じる。そうすると、雪輝の人懐っこい笑みが浮かび上がってくる。
この幼馴染はなんとも思ってはいないのだろうか。一体あの猫のような茶色の目の奥にはなにが潜んでいるのか。自分では到底分からない問いの答えが欲しくて欲しくてたまらない。
(――教えてくれ、雪輝)