高校三年生、夏。部活の大会に燃える者や、恋人を作ろうと躍起になる者など、皆様々な想いを持って過ごしているだろう。
 この部屋の主である津内(つない) (なつ)はため息をついた。
 宿題もやり終わった残りの夏休みをどう過ごすかで悩んでいた。夏休みが終わるまではまだ二週間もある。今日も図書館に行って借りてきた本を読んでいたのだが、流石に飽きてきた。もっと刺激的なことがしたい――という気分になっている。
 とはいえ、一人でどこかに行く気にもなれない。なにしろ、まだ朝なのに三十度をとうに越している。こんな気温の中出ていったら死んでしまう、と夏は考えた。

「なっつー!! 海に行こうぜー!」

 そこへ大声と共に部屋に熱気が入ってきて、夏は目を丸くして背後を振り返る。部屋の扉をノックもせずに開け放ったのは、明るい金の髪を持つ大柄の男だ。
 鹿川(かがわ) 雪輝(ゆきてる)。三軒隣の家に住む、夏の同じく今年で十八歳になる幼馴染である。

 雪輝の明るい茶色の髪は日に焼けてしまって、まるで金髪のような色をしている。くっきりとした二重をした目は、黒がかった茶色だ。今年の春に百八十五を越えた! とVサインをして帰ってきたが、更に高くなっていそうだった。陸上で短距離走をしているから、太く筋肉の締まった足をしている。部分部分は日本人の父親にも似ているが、全体的にフランス人の母親に似ているところが多い。

 対して夏は父親似で、典型的な日本人顔だ。切れ長の目は、白目の部分が青みがかっていて澄んでいる。ハリとコシのある黒髪は首の付け根までで切っていた。地味ではあるが、涼しげで清潔感の漂う佇まいだ。

 金で縁取りをされたロゴ付きの黒いTシャツに、派手な赤いボタニカル柄の七分丈のパンツを合わせている雪輝と、薄い青色のストライプが入ったクレリックシャツと黒の九分丈パンツを着ている夏。二人は正反対ともいえる容姿をしていた。
 夏は右の目頭よりも上の辺りに握った拳を押し付ける。

「雪輝……ノックしないのは、もういい。けど、静かにしろ」

「あ、俺またノックしなかった? ワリーワリー、許して!」

 両目を閉じ、顔の前に手を上げながら「なっ?」と言う男に、夏は仕方ないなと眉を下げて鼻から長い息を吐きだした。

「いいから早く入ってこい。冷たい風が逃げるだろ」

「つーか、この部屋寒すぎじゃね? 風邪引くぞ」

 片眉をしかめながら入ってきた雪輝は夏の腕を握る。長時間クーラーを付けた部屋にずっといた夏の冷たい腕に、雪輝の大きな手は熱すぎる程だった。見上げると、雪輝が目を覗き込んでくる。これは雪輝の癖だった。
 夏が自分の体に悪いことをすると――ずっと素麺とアイスのみで暮らしていたり、家族ぐるみでバーベキューをした時に自分の分の肉を「胃に重たい」と言って全て雪輝の紙皿に入れたり、本ばかり読んで外に出ていないことを知った時――こうして、じっと夏を見つめてくる。
 夏は、どうにも雪輝のこの目が苦手だった。眼差しに叱咤以外のなにかが宿っているのではないかと探してしまう自分が嫌になって、落ち着かなくなってしまう。

「明日からは気を付ける」

 先手を打って謝罪を口にすると、雪輝は「ん」と鼻にかかった声を出して目尻を下げて笑った。そうすると、ぐっと印象が柔らかくなる。

(火傷をするかと思った……)

 雪輝に握られた腕を、夏はそう思いながら擦った。まだジンジンと痛みに近い感覚が走っているような気がしてしまう。
 夏が腕を抱えて考えこんでいる間に、雪輝はクーラーのリモコンを机の上から取り上げてスイッチを切った。そしてパタパタというスリッパの足音を聞き取ると、もろ手を上げて廊下へと走り出していく。

「おばちゃーん、夏借りていいー!?」

「いいよー。あれで良けりゃ持ってきなー!」

 アイロンが終わったらしい洗濯物を持ってきた夏の母親を目ざとく発見した雪輝は、「やったー、おばちゃん愛してる!」と抱きしめた。

「あらまあ、雪ちゃんったら一段と逞しくなったわねえ」

 目元に出来た皺をさらに増やして微笑む母親に、雪輝は「そーだろー」と言いながら、右の二の腕を見せつけるように肘を曲げる。母親はそれを見て目を輝かせて上腕二頭筋の硬さを楽しむ。

「母さん……なにしてんの」

 部屋から出てきた夏が冷めた目で二人を見ると、母親はあらっと顔を夏の方へと向けた。

「夏! 凄いのよ、雪ちゃんの腕っ。夏も触ってみなさいよー」

「夏も触れよ! かったいぞ~」

「いや、俺はいいよ」

 なにを嬉しそうにしているんだ…と夏は肩の力を落として脱力し、自分よりも余程気が合っている雪輝と母親を見つめて大きくため息を吐きだす。

「そんな冷てーこと言わねーで、ほら!」

 楽しくなってきたらしい雪輝は自分の二の腕を左手で叩いた。急かされた夏は仕方ないなと思い、雪輝の二の腕をつかむ。

「……ん、確かに硬いな」

「だろ!?」

 雪輝は夏が褒めると特にいい顔になった。いつもそうなのだ。テストで良い点数を取ったり誰かから褒められた時はすぐに夏のところに走ってきて、褒めて褒めてとばかりに話してくる。まるで犬のようだが、そんなところが可愛いとも思えてしまっていた。

「それで、どこへ行くって言ったんだ?」

「海、海! ちょー行きてえ!」

「あらっ、いいわねー! 行ってらっしゃい!」

 両手を合わせて同意する母親に、雪輝はだろー? と笑う。だが、外には出たくないと思って十分経ったか経たないかの夏は嫌だった。

「いや、俺は」

「いいじゃない、アンタもたまには外に出ないと! 雪ちゃんお願いねえ~」

 断ろうとした夏の背中を押した母親に「はい!」と手を上げての元気な返事をした雪輝は、

「なっ、なっ、いいだろ!? 行こーぜ夏ぅ~」

 と屈んで顔を覗いてくる。猫のような目に見つめられた夏は、くっと唇を噛みしめた。

「……分かった」

「マジ!? やったー!!」

 良い返事を貰った雪輝は両手を真っ直ぐ上げて飛び跳ねる。大きい体がどすどすと跳ねるので床が悲鳴を上げた。

「飛び跳ねるのは止めろ。ウチが壊れる!」

 それを聞いた夏は慌てて雪輝の腕を取って、止めさせる。だが、雪輝はそれでもにこにこと上機嫌に笑っていた。余程嬉しいのだろう。

「凍らせたペットボトルがあるから持って行きなさいな! おにぎりでも作ろっか?」

「いいんですか!? やったあ!」

 同じく上機嫌な母親が「いいのよー」と言って、夏に服を押し付ける。そして、音痴にも関わらず下手な鼻歌を奏でながら階段へと歩いていった。

「夏のおばさん、相変わらず優しいな!」

「お前にだけだよ。俺と父さんにはキツイから、あの人」

 えーそうかあー? という幼馴染の声を背中にして、夏は自分の部屋へと戻る。服をタンスに収め、本棚に立てかけていたナイロン素材でできたグレーのボディバッグを手に取る。

「しかしお前、海だと時期が遅くないか? クラゲに刺されるぞ」

「おう、だから行くだけ! 泳がねーよ」

 勝手に夏のベッドに腰掛けた雪輝は、手を体よりも後ろの位置につけて足を伸ばした。こうして見ると、大きい体がようやく縮こまった世界から抜け出して自由になったような気分を感じる。

「なんのために行くんだ、それは」

「えー、なんのためって」

 そこでまた、夏と雪輝の目が合う。なぜか雪輝と一緒にいると、合わせようともしていないのにカッチリと合わさる時があった。まるで自分を狙う猟師のライフルに気が付いた草食動物のようで、なにかが嫌だった。

「夏と海を見るために決まってんじゃん」

 雪輝はじっと夏の目を見てそう言う。

「……そ、そうか」

 カッと頬が熱くなったのを感じた夏は、雪輝に顔を見られることのないように横を向いた。意味もなく本棚の本を取ってみては直してみる。その行為をどういう目で雪輝が見ているか気になりつつも、夏は自分から顔を向けることができなかった。

「なら水着はいらないな」

「お? そうだな、いらねーな」

「すぐに準備をするから、待て」

 ボディバッグのファスナーを上げて口を開いた夏は、なにを入れようかと考える。タオルと財布は絶対に必要だ。

「おう、わかった!」

 ベッドの方から聞こえてくる溌剌とした声に、どうしようもなく勝手に自分の体温が上がっていくような気分になる夏は、目を閉じる。そうすると、雪輝の人懐っこい笑みが浮かび上がってくる。
 この幼馴染はなんとも思ってはいないのだろうか。一体あの猫のような茶色の目の奥にはなにが潜んでいるのか。自分では到底分からない問いの答えが欲しくて欲しくてたまらない。

(――教えてくれ、雪輝)
「ところで、なにを使って行くんだ?」

 階段を下りつつ訊ねると、雪輝は顔だけ夏に向けて歯を見せた笑みを繰り出した。

「秘密っ!」

 口の前に人差し指を立てる姿に、夏は眉を下げて苦笑する。雪輝の図体は大きいが、こういう所作に愛嬌や可愛げがあるところが夏は好きだ。

「そんな、子どもみたいなことを……」

「だって俺まだ子どもだもーん」

 唇を鳥のクチバシのように尖らせ、手を広げながら雪輝が階段を下りて行く。収まりが全くついていない髪のグシャグシャ加減を見つめた夏は、はあと短くため息を吐いた。

「じゃあ、母さん行ってくるよー」

 一階に下りてすぐに台所がある方に向かって叫ぶと、スリッパの音を響かせて母親が走ってくる。部屋の前で会った時には着けていなかったピンクの花柄のエプロンを着ていた。

「二人共、気を付けて行ってきてね」

「はい!!」

「分かってるよ」

 元気よく右手を挙げる雪輝と、目を逸らす夏。二人を代わる代わる見た母親は、ふっと笑って手に持っていた包みと凍ったお茶の入ったペットボトルを「はいっ」と言って突き出した。

「おにぎり! どっかで食べなさい」

「本当に作ってくれたの?」

「もっちろん!」

 受け取りながら夏が訊ねると、母親は胸をどんと叩いて首を頷かせる。

「ありがとう、母さん」

「おばちゃんサンキュー!」

「さっ、早く行かないと遅くなっちゃうわよ」

 早く行きなさいと母親は、夏の肩を叩いた。夏は部屋を出る時に付けてきた腕時計を見ると、時計の針は十時五分を指している。それもそうだと夏は雪輝に腕時計を見せた。

「あまり遅くなったらダメよ」

「はーい、気を付けます!」

 二人が玄関の方向に歩き出すと、母親も後ろからついてくる。狭い戸口に二人も入りきらなかったので、先に雪輝がスニーカーを履いてドアを開けた。真夏の空気が入ってきて、夏の肌に生ぬるい感触を与えてくる。

「事故にあったり、クラゲに刺されたり、溺れないようにね」

「母さん、泳がないから大丈夫だよ。見に行くだけ」

「そうなの?」

 うんと首を縦に頷かせると、母親はほっと息を吐いて胸を撫で下ろした。

「そうだよ」

 夏はスニーカーの紐を結い直して、踵を調整するために床をトントンと蹴る。

「それじゃ、行ってきます」

 ここまででいいよ、と暗に伝えると母親は「気を付けてね」と手を振った。首を一度縦に振って、二人は家の外に出る。

「うわ……暑」

 出た途端、太陽がジリジリと肌を焦がしてくるような錯覚に陥った。この直射日光と湿気が夏にとっての最大の敵だ。

「レンジに入れられたナゲットの気分」

「なんだそれ」

 太陽を親の仇のように睨み付ける夏に、雪輝はぷっとふき出して笑う。夏はそれを睨み付けて、「それで」と話しかけた。

「一体なにで行くんだ」

 ふふんと腰に手を当てて胸を張った雪輝は、よくぞ訊いてくれました! とばかりの自信さで、夏の家の左側に歩いていく。そこには自転車置き場がある。

「雪輝、俺の自転車はパンクしてるんだが」

「マジでー?」

 パンクのことを伝えてみても、残念そうな感情を表に出すことはなかった。じゃあなんだ? と夏は首を傾げながらついていく。

「じゃーん! 二人乗り自転車!」

 雪輝が得意げに鼻をツンと上げ、右手で指し示したのは、黒いサドルが二つ付いた明るい真っ黄色の自転車だった。まさか出てくると思ってもいなかった物体の登場に、夏はパチパチと瞬きをする。

「タンデム自転車なんてお前持ってたか?」

「こないだ買った!」

 腰に両手を当ててふんぞりかえる雪輝に、夏ははあ? という大声を出して詰め寄った。

「こ、小遣いでか? 高いだろ、これ」

「ちっげーよ、バイトしてたから、それで!」

 バイト、とますます自分の知らない雪輝のことが出てきて夏の頭は混乱する。いつ、どこで、誰と、なにをした。小学生の頃クラスの遊びの時間でやったゲームのお題のような単語が浮かんでは消えていく。

「新聞配りと運送業と工事現場のバイト! 特に新聞配りは走るから練習になったし、一石二鳥だったぜー」

 ラッキーだった! と笑いかけてくる雪輝に、そんな時間どこにあったんだとか、部活もやってそれもやってよく体力が持つなとか、だから今年は俺の部屋にあまり出入りしなかったのかという考えが浮かんでくる。その考えの幼稚さや、自分勝手さに夏は恥ずかしくなり、口を手で覆った。気持ちが口から出て行ってしまったらどうしよう、と思ったからだ。

「夏? どした?」

 だが、そんな夏の様子を雪輝は不審に思って腰を下げて夏の顔を覗きこもうとする。それに気づいた夏は、すぐさま顔を上げて、なんでもないと首を振るった。

「自転車を買うために自転車で走ってたのかと思うと笑いが込み上げてきただけだ」

「違う違う、自転車じゃなくてマジで走ってやってたんだって!」

「……それでよく配りきれたな」

「おーよ! さっすが俺だよな!」

 目を細めて楽しそうに笑う雪輝に、夏の胸中にできた黒い煙が大きくなっていく。それを振り払うために、夏は手で足を叩いた。
 雪輝はタンデム自転車に二人分の荷物を放り込んで、前のサドルに乗る。

「夏、後ろ乗れよ!」

「はいはい」

 親指で指し示された夏は、自転車に近寄ってサドルに跨った。雪輝が夏のために調節してくれていたのか、サドルの高さはピッタリ合っている。よく分かったな、と夏は雪輝の見立てに感心した。

(あ…動かないのか)

 ハンドルを握ってそれが動かないことを知ると、夏は厄介だなと眉をしかめる。だが、すぐに前には雪輝が乗っているんだということを思い出して、その想いを払拭させる。

「最初に回すのは左! で、地面に着くのは右でいい?」

「いいよ」

 後ろから話しているため、普段よりも少し大きめの声で返答する。

「ちょっと練習してみるぞー」

「わかった」

 漕ぎ出す前に雪輝は夏を振り返り、にっこりと穏やかな笑みを浮かべた。

「大丈夫! 俺はちょっと乗って慣れたから、安心しろよ」

「……しばらくは前も向けないだろうから、安全運転で頼むぞ」

「オッケーオッケー! 任せろ!」

 雪輝が片腕を挙げたためにぐらついた車体に、夏が「おい!」と叫ぶ。それに雪輝は頭の天辺辺りを掻いて、舌を出した。

「んじゃ、行くぞー!」

 ペダルの位置を合わせてから、二人はゆっくりペダルを踏み出す。動かないハンドルにはまだ慣れないが、すぐに慣れるんだろうなと夏は思った。
 肌と汗ばんだシャツに風が触れてくる。ふわりと髪が後ろに流されるが、夏は前を見ることができない。見れば車体を揺らしてしまいそうだった。それに、一人で乗るよりも大分スピードが出るのだ。

「こわ……下しか見れない」

「大丈夫大丈夫! すーぐ慣れるって!」

 元々あまり力強く踏み込むタイプではない夏は、後ろ側には適している。前は見られないが雪輝が逐次停止や発進のタイミングや曲がる方向などを教えてくれるので、次第に慣れてきた。

「どう? いけそう?」

「今どこにいんのか全然分からないけどな、いけそうだ」

 スタートしてからずっとハンドルを睨んでいると伝えると、雪輝は大口を開けて笑う。

「俺が場所分かるし、何度か自転車で行ったことあっから迷わねーし、大丈夫だって!」

 と、なんとも頼もしいことを言ってくれる。三十分程走っていると、ようやく余裕が出てきて、夏はほっと息を短くもらした。

「大丈夫だからいっぺん周り見てみろよ」

 それを感じ取ったのか、雪輝がそう言ったので夏は勇気を振り絞って顔を上げてみる。緊張で汗だくだったため、風が直接当たってきて気持ちが良い。耳や頬をくすぐる風に夏は強張っていた顔の筋肉を綻ばせて微笑んだ。

「気持ちいー」

「だろ!?」

 上体が倒れると車体が揺れるため、雪輝越しに前の景色を見たりすることはできなさそうだが、横くらいは見ることはできるようになるだろう。そう夏は考えた。

「二人乗りだったらこーやってさあ、夏と一緒に走れるだろ?」

「ん? ああ、そうだな」

「だから、買ったんだよ」

 雪輝の向こうに、白い雲をまとわせた青い空が見える。その色はまるでサファイヤのように青々としていた。

 輝とは、光が四方に広がるということ。自分ばかり目立とうとはせず、周りにもその光を広げてほしい。純粋な子どもに育ってほしいからそう名付けたのだと雪輝の両親から聞いたことがある。その時は子どもながらに大げさだなと夏は思ったのだが、今となるとその名前に負けていないと幼馴染を誇れるようになった。

 雪輝の強すぎない柔らかい光は、皆を包む。小学生の頃に雪輝は窓を割ってもいない生徒にかかった疑惑を晴らしたことがあった。それは今も同じなのだろう。裏表がなく、誰かの汚名を雪ぐことができる彼が愛おしい。

「たまには外もいいものだな」

「だろ!? 夏!」

 夏が小さく零した言葉も聞き取った雪輝は勢いよく振り返った。そのせいで車体が揺れ、右に傾く。

「うわっ、倒れる倒れる!」

 二人は叫びながらも足を地に付けて車体を真っ直ぐに立て直した。はーはーと息を乱し、胸に手を当てる。

「べー! ワリー、夏!」

「謝るくらいなら気を付けろ、馬鹿!」

 手を振り上げて怒鳴ると、彼はごめんごめんと言いながらまた走り出す。その背中を見つめた夏は、目を和ませて微笑した。彼と一緒ならば、どこだって行けると思うのだ。

(お前はズルいよ、雪輝……)

***

「そーだ! 夏、俺さあ途中で寄りたいトコがあんだけど、いいかー!?」

「……別にっ、いいが! どこに行きたいんだ!」

 お互いあまり余所見をしたり、ましてや振り返ることなど危険でできないため、大声で会話をする。近所迷惑なのではとも思ったが、今は市街からは遠く離れた小高い山の道を走っている途中だ。整備された道路には、人も車も今日はあまり走っていない。

「海の近くに神社があんだよ! そこ!」

「じ、神社ぁ!?」

「そー!」

 誰もいない山道と田舎道を走り続けて三時間。二人はようやく海のある五つ隣の市に辿り着いた。

「そろそろ飯も食いたいしさ!」

「分かった! 近いのかー?」

「もうちょっとで着くー」

 汗だくになりつつもぐっぐと足に力を入れてペダルを漕ぐ。途中でボディバッグから取り出したタオルを首に巻き、視界がふさがることがあればそれで拭うようにしていた。

「だから、頑張れ!」

「……ああ!」

 自分一人や、一人一台で来ていたら気持ちが萎えてしまっていたかもしれない。だが、雪輝と二人で同じ自転車に乗っているということが夏の心を励ました。

 道端に置かれていたベンチの前に自転車を停めた二人は、そこで昼食を摂る。ついでにお茶も無くなっていたので、隣に置いてある自販機でスポーツドリンクを買った。夏はボディバッグの中に、雪輝は前カゴの中に入れる。

「神社はどこだ?」

「こっから五分くらい!」

 と雪輝が言うので、二人はまた自転車に乗って走っていく。辿り着いたのは、長い石階段のあるこじんまりとした神社だった。

「ここか……?」

「そっ!」

 先に階段を上り始めた雪輝に夏は後ろからついていく。一体何段あるんだ、と夏は眉をしかめさせた。一人ぐんぐんと上っていく雪輝についていけなくなった夏は五段上の階段に手をついて肩で息をする。

「おーい、大丈夫かー!?」

「へっ、平気だ……さ、きに行っててくれ」

 なんでお前はそんなに元気があるんだ、と荒い息の中言うことはできなかった。這いずるようにして夏は階段を上がっていき、最後は上で待っていた雪輝に引っ張り上げてもらう。

「ありがとう」

「どーいたしまして」

 礼を言いながら、汗で湿った手を二人は離した。古めかしい木造の拝殿とその後ろに小さな本殿。横の小道には稲荷神社があった。
 手水鉢に二人は近寄ったが、水が出ていない。誰も使わないのか、溜まってさえいなかった。これでは手を洗うことはできないな、と夏は首を振る。

「残念だな」

「んー。まあ、仕方ねえな」

 二人は苦笑しつつも、本殿へと近づいていく。参拝の方法を見ながら手を合わせた。なにを願おうか考えてきていなかったので、無難に大学の受験に合格しますように、と心の中で語りかける。

 目を開けると、雪輝はまだ手を合わせていた。雪輝の真剣な顔に目が惹かれる。吸い付くように全身が雪輝のみに集中した。周りの景色も、音も全て消えて世界が雪輝だけになる。茶色の髪の輪郭が日の光に照らされて金色に輝く。手の甲から指先までの骨ばった手の節々が愛おしい。

「――よっし!」

 雪輝が顔を上げる。爛々としている目に、またハッと引き寄せられた。どうして、自分はこんなにも雪輝に惹かれるのかと夏は恥ずかしくなり、ボタンを一つ開けたシャツの胸元を指で引っ張る。

「お待たせ!」

 顔を綻ばせて笑った雪輝が、夏にそう言ってきた。夏はそれにわざと何気ないフリをして、ふっと唇に手を当てて作った笑みを見せる。

「随分長かったな。なにを願っていたんだ?」

「秘密!」

 へへっとイタズラっぽい笑みになる雪輝に夏は眉を引き寄せて、「またそれか」と言った。

「まあまあ、いーじゃん?」

「よくない」

 二人は頭を下げてから階段の方へと向かっていく。階段の一番上からだと高く見え、高所恐怖症じみたところがある夏は体を震わせた。

「手ぇ繋ぐか? 高いトコ嫌いだろ」

 そう言って雪輝が手を差し出してくるが、夏はそれはできないと思って頭を振るう。男二人で手を繋いでいるなど、誰か人に見られたらおかしいと思われるのではないかという考えが頭にあった。

「大丈夫だ」

 階段を無言で下りた二人は、雪輝から先にサドルに尻をのせる。後ろを振り返った雪輝は、ハンドルを握って乗り込むところだった夏に顔を向けた。

「もう後30分くらいで着くぜ!」

「分かった」

 夏は首を振ってサドルに乗り、ペダルを合わせる。そうして、二人はまた走り出した。坂の上から見下ろす市街は、遠い世界に見える。人が生きている感じもするし、そうでない感じもした。不思議だな、と夏は目を前に戻す。
 すると、えっと思うような光景が目に入り込んできた。それは、四十度はあるのではないかという急な坂道だった。

「夏! 坂キツイからなー、頑張れよ!」

 雪輝は立ち上がりながらそう叫ぶ。

「うっわ、物凄い長い坂……」

 口を歪ませてそう言った夏に、雪輝は「頑張れ!」と大声を張り上げた。

「これ上れば、後は下るだけだから!」

 夏は唇を噛みしめて、んっと声を出す。今はなにを口から出してもまともな言葉にはなりそうになかった。夏は肩甲骨が浮き出て、二の腕が盛り上がった雪輝の背中を見つめながらペダルを漕ぐ。
 あちこちに跳ねた髪が光の集合体のように思えて、眩しい。ずっとずっとついていきたいけれど、いつかどこかで二人は別れないといけないのかもしれない。それを想うと、夏の胸が痛んだ。

「後もうちょっとだー!」

 雪輝が叫び、夏が分かったと叫び返す。重量があるからか、一人乗りの時よりも坂はキツかった。これまでも何度か坂を二人で上ったが、今回が一番急で辛い。
 ぜっぜと夏の息が上がってくるが、雪輝はまだ余裕があるようで踏み込みが力強い。まくり上げた彼の腕に細かな汗がついていて、それが日の光を反射させている。

「綺麗だな……」

 思わず声に出すと、雪輝が「ああ!」と返してきて目をぎょっと剥いて驚いた。

「すっげえ綺麗な空だよな!」

 坂の頂上まで上った雪輝は、上れた嬉しさと青空の美しさから込み上げてくる笑みを抑えきれずに、満面の笑みを浮かべる。

「ああ」

 それを知らない夏は、自分がずっと雪輝を見つめていたことに気づかれなかったことを喜んだ。だが、なぜかざわつく胸を撫で下ろして首を傾げる。バレない方が良かったというのに、バレなかったことを残念がっていた。

「綺麗だ」

 自転車から下りてすぐ、防波堤の階段を下りていった雪輝が両方の手を振り上げる。

「つーいたあー!!」

 置いていかれた夏は防波堤の上で止まり、「おい!」と叫んだ。

「おい、って! 雪輝!」

 雪輝はスニーカーと靴下を脱ぎ捨てて海へと足を突っ込んでいく。それを見た夏はあの馬鹿ッ、と手の平を右目の上に勢いよく当てた。

「クラゲに刺されても知らないぞ……」

 そうは言いつつも、夏は階段を下りて水遊びをしている雪輝の元へと走っていく。

「夏ーっ! めっちゃくちゃ気持ちいーぞー!」

 近づいたら、雪輝がそう言いながら海の水を手にすくって夏にかけた。夏はうわっと叫んでよろめき、後退する。

「なにするんだ!」

「冷たくて気持ちよくねえ?」

「生ぬるいわ! 馬鹿か!」

 大きな声を出してみても、雪輝は笑ったままだ。心配して損をした、という気分になってきた夏は大きく息を吐きだして背中を向ける。

「馬鹿らしい。水遊びが終わったら声かけろ」

「えーっ」

「一緒に遊ばない。クラゲに刺されるんだったら一人で刺されてろ」

 俺は知らないと冷たく言うと、雪輝は分かった分かったと言って海から上がってくる。放り投げていたスニーカーに靴下を詰め込んで、持ち上げた。

「悪かったって、夏。拗ねんなよー」

「拗ねてない」

 後から追ってきた雪輝は夏を追い越して、目の前に立つ。いきなりのことで、雪輝とぶつかりかけた夏は衝突を避けるために立ち止まった。

「な、なんだ」

 腰に手を当てた雪輝は、左に体の重心を倒して夏の顔を覗きこんでくる。

「……心配した?」

 背中がぞくっとするくらいに甘い笑顔に、ぼっと火が点いたように顔が熱くなった。慌てて顔を反らしたものの、今度は雪輝も追ってくる。

「したさ。悪いか」

 下唇を押し上げながら言うと、雪輝はははっと明るい笑い声を上げた。

「ぜんぜん! サンキューな、夏」

「別に」

 いいから戻るぞと言って背を向けると、雪輝はまだニヤニヤとした笑いを浮かべながら後をついてくる。

「なあ、雪輝」

 砂浜に落ちている石を蹴り飛ばしながら、問うた。答えることはないとは思いつつも、白くて細かい砂をじゃりじゃりとスニーカーの底でかき混ぜる。中にまで入ってきて気持ちが悪いが、それ以上に胸のわだかまりの方が気になっていた。
 だが雪輝は黙ったままだった。答えるはずがないかと眉を強く寄せて目を閉じて歩き始める。その時、ふいに後ろから腕が伸びてきて、熱い体に抱き締められた。

「夏がどこにも行かないように――って、お願いしてたんだ」

 耳をくすぐるように囁かれた言葉に驚いて振り返ると、雪輝は目を凛々しく開いた真剣な表情をしていた。だが、言われた言葉が頭の中でぐるぐると渦を巻いて、処理しきれない。

「――は?」

 自分が考えていたことがバレてしまったのではないかと怖くなった夏は眉をしかめて口の右側を上向け、「一体なんことだ」と感情を出さないように努めて呟いた。

「だから、お前に置いてかれないようにって」

「いつ俺がお前を置いていくと言ったことがあるんだ」

 置いていかれたくないと思っていたのは、自分の方だ、雪輝じゃないと夏は自分自身に頭の中で言い聞かす。

「だってよお、夏……東京行くんだろ!?」

「だからそれはなんの妄想だ」

 雪輝の腕を振り払った夏は、雪輝の顔を正面から見た。ぺったりと垂れた犬の耳が見えるようである。

「雪輝、宿題のしすぎてネジでも飛んだか?」

「飛んでねえし、宿題はまだやってねーよ」

「なら、なんなんだ。分かるように話せ」

 あえて宿題には触れずに訊くと、雪輝は夏の手を握ってきた。

「夏は東京の大学に進むんだろ?」

「ああ。学びたい分野を専門にしている教授の元で研究をしたいと思っているからな。だが、それは一年の時にはお前に言ってただろ」

 夏は答えつつ、なぜ雪輝が神に願ったのかを納得する。

「……お前は地元で進学するんだったか?」

「決まってねえ、けど。俺馬鹿だからさ」

 東京は無理かも、と小さな声で呟く雪輝に、夏ははあ? と首を傾げた。

「お前は本当に馬鹿だな」

 そう言うと、雪輝は勢いよく顔を上げて「馬鹿って言うなよ! 最近めちゃくちゃ気にしてんだから!」と叫ぶ。

「気にしてるなら勉強しろよ」

「なにが分からないのかが分かんねーんだって!」

 これは問題だなと雪輝が通う学校の教師に申し訳なく思いながらも、夏は額より少し下のところに手を押し当てた。

「俺も教えてやるから頑張れ」

「マジ!?」

「本当だ。それに、雪輝」

 胸倉をつかんで引き寄せた夏は口の片端を吊り上げて、また「馬鹿」と言う。

「なんのためにスポーツ推薦があるんだ」

 それを聞いた雪輝は目を輝かせて口を大きく開けた。そして、夏の鼓膜が破れるんじゃないかと思う程の音量で「すっげえー!」と叫ぶ。両拳を握って、中腰になった雪輝に、夏は目をしばたたかせた。

「……気づかなかった! そっか、その方法もあんだ」

「お前なあ」

 頭痛がしそうだと細く息を口から吐きだす夏に、大型犬のように雪輝は飛びつく。飛びつかれた夏は自分よりも大柄な雪輝を受け止めきれずに砂浜に転がった。起き上ろうとするが、胸に雪輝が顔を擦りつけてきてそれもできなくなる。

「好きだ、夏!」

 とびっきり人懐っこい笑顔でそう言われた夏は顔を赤らめ、眉間の皺を取り去った。

「俺もだよ、雪輝」

 答えた途端に頬を大きな手で包み込まれ、雪輝の唇が瞼の上辺りに押し当てられる。二人の目がピッタリ合って、気恥ずかしくなった夏は目を閉じた。雪輝の体の温かさが、先程かけられた海水に似ているようで、波に攫われるような心地に陥ってしまう。
 熱い唇が合わさって、夏の喉が鳴った。高揚感が喉から抜け出てしまうのが怖くて、夏は雪輝の首に腕を回す。幾度が重ね合わせて目を開けた二人はまた見つめ合い、微笑み合った。

「ずっと一緒だ、雪輝」

「……うん」

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