この想いに気づいたのは結構早かったと思う。
同じクラスの西尾ゆかりさんが気になり始めたのは夏休みに入る前、テストの日の直前だった。この日、僕は学校の図書室にいた。一年生だったから塾に行くにはまだ早い、けど家では気が散ってしまう。無料で涼しく、しかも気も散らない空間といえば図書室だ。部活動もテスト休みに入ったその日、僕はテストの教科を持って図書室に行った。そこで西尾さんと会った。
「東野くん」
西尾さんは自習室コーナーに来た僕をいち早く見つけた。何せ入り口に一番近い席に座っていたから、僕のような来訪者にはすぐ気づけたのだろう。
「西尾さん」
僕は小さく手を振った。この時の僕と西尾さんの関係は……まぁ、顔を合わせれば挨拶する程度だ。総合学習の授業であった地域調査の時に同じ班になった関係で、しゃべる機会はあった。
しかし勉強している間、僕は西尾さんと一言も交わさなかった……というか、交わせる環境になかった。自習机は個室仕様だったからだ。
なので、僕と西尾さんの会話はそのまま下校時刻、夜七時にまで時計が進む。四時から始めた勉強も三時間やるとなかなか達成感があるというか、やり切った感じがある。西尾さんも同じだったのだろうか。靴箱で再会した彼女の顔も、妙に晴れやかだった。
ただ、計算外もあった。
雨である。夕立だった。突発的な大雨。ゲリラ豪雨というやつだ。天気予報でこのことを漠然と把握していたのに傘を持っていなかった僕は、出るに出られず空の様子を伺った。暗い空の底に厚い雲が流れていて、すぐに止むだろうか、と僕は心配していた。
「傘、ないの?」
僕の後ろをぼんやり歩いていた西尾さんが声をかけてきた。僕は苦笑いした。
「それが、うっかり。予報じゃこのくらいの時間に降るようなこと言ってたよね。持ってくるの忘れちゃった」
自分の立場が悪くなるとどうしても言い訳みたいな口を利いてしまう僕は、「何を取り繕っているんだ」と馬鹿馬鹿しく思った。だが西尾さんは笑った。
「私も傘忘れちゃって」
あはは、と笑っている。
「東野くんの傘に入れてもらおうかなー、とか思ってたんだけど」
西尾さんと、一つ傘の下。
多分、この時初めて、僕は異性を認識した。西尾さんの気配が傍に来ることを想像して少し、意味もなく、震えたのだ。
「すぐ止むかなー」
西尾さんも空の様子を見る。僕はつぶやく。
「きっと通り雨だよ」
そう、僕の中で芽生えたこの感情も、きっと通り雨のはずだった。
なのに、どうだろう。今もこうして、僕の心に綺麗な水を流してくれている。
さて、この日こうして恋をした僕は、ある気持ち悪い試みを開始する。
それはただ単に、僕に度胸がないからというか、意気地なしで、姑息な僕らしい手段だったというか。
けど僕は、この日から毎日伝えることにした。
僕の想いを、僕の気持ちを。
長いことかかった。この気持ちに素直になるまで。
総合学習の、地域調査の発表の時だったと思う。スライドを作って、教壇に立って、スクリーンの前でみんなに発表する。四人一班。私と東野くん、それから千堂さんに三島くん。それぞれ担当を持って発表。千堂さんが人口、地理について。三島くんが「この街の好きなところは?」というアンケート調査の結果について。東野くんが歴史と産業について、そして私が文化について。
この「文化について」は曲者だった。まず「文化」の切り口が大きすぎる。地域に根付いたお祭りも文化だし、市民文化センターで開かれるパソコン教室だって文化だ。正直、何を調べていいかも分からないくらいだった。そんな時に東野くんが手を貸してくれた。
「この街は古くから工業地帯で、特に金属製品の生産は盛んだったみたい。そのせいか、金管楽器にまつわるイベントが昔からよく開かれてたみたいよ。音楽の街、なんて謳ってるみたい。僕も大会でこの町の体育館使ったことある」
すごくありがたいパスだった。私はこの街の音楽関係の文化について調べた。
そもそもこの辺りのお祭りには笛がよく使われていたらしく、時代の変遷とともにその笛が金管楽器へと進化していった。マーチングバンドやジャズコンサートなど、お祭りは様々な音楽イベントに発展し、今ではこの地域で開かれる音楽系のイベントには必ず「コンペイ」という、お祭りの母体となった神社の名前がつくようになっている。
さぁ、そんなことをまとめた発表。しかし私はあがり症だった。だから、躓いた。
「あっ、えっと、その……」
お祭りの神様の名前、「コンペイ」が出てこなかった。すると東野くんがすかさず手助けしてくれた。
「歴史の項目でも触れましたが、古くからこの地では『コンペイさま』という神様の信仰がありました」
このおかげで私はすぐに気を取り直した。
「この『コンペイさま』のコンペイの名が街の音楽イベントで使われるようになり……」
そして、おかげさまで。
私たちの発表は無事に、終わった。
放課後。お疲れ様会としてみんなで購買で買ったお菓子とジュースで乾杯した。そしてこの時、東野くんが出してきたお菓子が忘れられなくなった。
「金平糖」
彼が私の顔を見てきた。
「コンペイさま、関係あるのかも?」
カリッと噛んだあの甘さが、今でも忘れられない。
「昔の人が信じたものを言葉として生かし続けるのって素敵だよね」
東野くんの言葉が私の胸に染みていった。
そして、思った。
私も、私の言葉を……。
「そのシュシュ、いい色だね」
僕は西尾さんの後頭部にあるそれを褒めた。彼女はパッと表情を明るくすると返してきた。
「ほんと? この間藤沢で買ったの」
藤沢。そういえば彼女あっち方面だっけ。そんなことを思う。僕は微笑む。
「色のセンスいいと思う」
「ありがと」
ニコッと笑う西尾さんを見て、愛しくなる。
僕の隣で、ずっとその笑顔でいてくれたらいいのに。
「はー、アイスも早く溶けちゃうね」
夏休み。夏期講習を一緒に受けていた私は、購買で買ったアイスを食べながら、東野くんの隣でつぶやいた。公立高校なので、冷房のある部屋とない部屋とある。どういうわけか夏期講習『数学I』は冷房のない部屋で開かれていた。窓を開けて、ムッとする空気の中。私と同じかそれ以上に汗をかいてる東野くんに告げる。
「東野くんといるとあついね」
「え、なんかごめん」
ちょっと申し訳なさそうにする彼を見て、何だかおかしくなる。
「一口いる?」
アイスをそっと彼に向け、そんなことを訊いてみる。しかし彼はそっぽ向く。
「いい」
やった。照れてる。
「髪切った?」
別に西尾さんの見た目にそんな変化はなかったけど、敢えて訊いてみる。やはり彼女は「へ?」という顔をする。
「切ってないよ?」
「前髪も?」
と、じっと彼女の顔を見る。しかしニコッと、笑い返されてしまった。
「ちょっとだけね。かわいい?」
それは反則だろ……。
昼休み。
友達何人かと一緒に図書室に来ていた。読書家の玲美ちゃんがおすすめの本について話している。その横で。
「西尾さん、本読むの?」
東野くんに訊かれる。私は「読むよ」と答える。本当はあまり、読まないけど。
「どんな本?」
続けて訊かれた彼に、私は本棚のある場所を指す。カズオ・イシグロ。そこにあったのは。
「『わたしを離さないで』」
『わたしを離さないで』
カズオ・イシグロさんの小説だ。
普段僕は小説を読まない。そもそも本をあまり読まない。
だがこの小説だけは特別だ。だって西尾さんが読んでいたのだから。
本を開き、文字を追う。だが内容が頭に入ってこない。油断すると心が西尾さんの元へはばたき、さまざまな妄想をしてしまう。この本の感想を言い合う時の西尾さん。「読んでくれたんだ」と微笑む西尾さん。図書室の中でひそひそ話したりするのだろうか。二人の空気を共有する西尾さん。ダメだ、全く集中できない……。
場所は学校近くの河川敷。休みの日、僕はいつもここでブレイクダンスの練習をしている。見た目に似合わない、とはよく言われるが、こちとら小学一年生の頃からの十年選手、その気になればコンクリートの床の上でもバク宙ができる。
定期券でいつでも来られて、なおかつ生活圏からも離れられるこの場所は練習するには最高だ。地元だと中学の知り合いやら何やらに絡まれて練習にならないことがある。その点ここはいい。人気が少ないし、広さは十分あるし。
今日もそんな練習に来たつもりだったのだけれど、僕はカバンからあの『わたしを離さないで』を取り出して黙々と読んでいた。ウォーミングアップもして、いつでも飛んだり跳ねたりできる状態だったのに、座り込んで読書とは我ながらかっこ悪い。
僕はページをゆっくりめくった。僕の背後で何かが揺れたのはその時だった。
学校の正門に続く道から一本ずれると、そこには大きな川が流れている。ちょっと立派な橋がかかっていて、車や人の往来も多い。
東野くんがブレイクダンスをしていることを知ったのはついこの間のこと。同じクラスの玲美ちゃんが東野くんと同じ中学の出身だった。
「休みの日はいつも学校の近くの河川敷で練習してるみたいよ。橋の下は静かで落ち着くんだって」
そんな耳より情報を聞いての訪問だ。にしてもあの大人しそうな東野くんがブレイクダンス。まぁ、ビッグシルエットに斜めのキャップ、似合わないわけではなさそう。まぁでも、練習の時は単に動きやすい格好でいるのかな? そういえばコンペイさまの話をした時も、この町の体育館を大会で使ったことあるって言ってたっけ。音楽関係。ダンスも音楽関係だ。
そんなことを考えながら橋の下に行くと、いた。
橋の影で丸まった背中。もしかして本、読んでる……?
そうしてすぐに、頭に浮かんだのが。
「カズオ・イシグロ、『わたしを離さないで』」
私がそう声に出すと、丸まっていた背中がびくんと跳ねた。彼がびっくりして振り返る。
「に、西尾さん?」
私はニコッと微笑んだ。そりゃもう、東野くんが練習しているかもしれない場所に行くんだ。おしゃれだってバッチリだ。
「読んでくれてたんだ」
頬が緩むのを堪えきれずにいると、東野くんはついと目線を伏せて「気になってたから」とつぶやいた。だから私も返した。
「私も気になってたよ」
「えっ」
「その本読んでくれるかなーって」
あ、そっちか……という顔をする東野くん。ふふ。
思えば奇妙なものだ。大勢の前だとあんなに緊張する私が、好きな彼の前ではこんなに大胆に振る舞えるなんて。そして同時に、大勢の前ではあんなに丁寧な発表ができる東野くんが、こんなにどぎまぎしているのを見て、私はもしや……と思った。いや、あくまで可能性の話で、確証なんてないに等しいけれど、でも……。
でも、どうせ、今までもバレないように言ってきたわけだし。
今この場でも、バレないように言えばいいか。
そう思った私はすっと動いて彼の隣に座ると、彼の顔を覗き込んで、こう告げた。
「アイスが早く溶けちゃいそう」
すると、少しの間、東野くんがポカンとした。私は彼の目を見た。
一秒、真剣に、見つめ合う。
どうなのかな。東野くんも私のこと想ってくれてるのかな。この息はいつまで止めてたらいいのかな。何だかちょっと、苦しいな。
やがて我慢ができなくなって、私はそっと訊ねる。
「この意味、分かる?」
静かに問うと、東野くんが首を傾げた。
「あなたといると体温が高くなるの」
なるべく、迂遠に。
でも今までよりは近く。
想いを伝える。
すると私の意図が通じたのか、東野くんは頬を赤らめた。
――ぼ、僕も……。
そんな言葉が返ってくるだろう。
そう期待していた。
我ながら卑怯な女だ。こちらから好きとは言わないで、でも相手の「好き」は引き出して。だけどその罪が心地いい。そんな気持ちに浸っていたのに。
しかし東野くんは、私の想像とは違う答えを返してくる。
「そのシュシュ、いい色だね」
……シュシュ?
そんなもんしてないんだが?
んんー? と思っていると、東野くんが追撃してきた。懸命な顔で。真っ直ぐな顔で。
「髪切った?」
「髪ぃ?」
かなり前の話だし、何ならそのかなり前の段階であなた気づいてましたよね?
おかしい。何かミスマッチがある。
そう思っていた時だった。
「気づいて」
東野くんがそう、つぶやいた。そこでようやく、私も気づいた。
思えば、これまで東野くんは事あるごとに褒めてくれた。シュシュだって、髪だって。今だって褒めてる。ここに何か、意図があるのかな。
もしかして?
もしかして、私と同じことを、していたとしたら。
それってとっても……。
だから、口を開いた。
「『わたしを離さないで』」
それは、本のタイトル。
今彼が持っている、本のタイトル。
「……アイスが早く溶けちゃいそう」
私が最初の言葉を繰り返すと、すぐに東野くんが応じてくれた。
「そのシュシュ、いい色だね」
「ふふ」
私は思わず笑ってしまう。やっぱりそうだ。そういうことだったんだ。
それから私たちはゆっくり、答え合わせをする。
まず口を開いたのは東野くんだった。
「『シュシュの色がいい』っていうのは、『そのシュシュを選んだ西尾さんのセンスが好き』っていう意味だったんだ。だから、その……」
うん。私は頷く。
「多分、同じ理由でアイスが溶けちゃうんだと思う」
「『髪を切ったか?』なんて訊いたのは、そんな細かいところに気づくくらい西尾さんのことを……」
「うん。だから」
私は東野くんの顔をさらに覗き込んだ。
「私も、『わたしを離さないで』って……」
ふふ。
私が笑うと、東野くんも照れくさそうに笑った。
そうだ、そうだったんだね。私たちはずっと、言い合ってたんだ。お互いにバレなさそうな範囲で、でもハッキリと……
――ずっと好きだった。
――ずっと好きだったんだよ。
そんな気持ちを、遠回しな言葉に乗せて。
了