「おらおらおらー、一年坊主走れ走れー!」
「脚止まってんぞー!」
広いグラウンドに陸上部の二、三年生の声が響く。桜の薄桃色の花が少し残る校庭をヘロヘロになりながら百人近い新入部員が団子になって走っている。その団子から半周先にふたつの影。小柄な影と背の高い影。
ここは私立杜の丘学園高等部の校庭。百メートルのラインが三本は直線で取れるくらい広々とした校庭だ。ここは幼稚舎から大学院まであり、中高は一貫教育の全寮制の男子校だ。男子寮だけなら大学院まである。文武両道がモットーで偏差値も高く、それでいて自由な校風。そして陸上部はインハイで優勝の常連校に名を連ねる程の強豪だ。
そこに属して今、一年坊主としてグラウンドの先頭を走っているのは、小柄な方が四百メートルハードルのタカスギアキミ。よく日に焼けた肌と、小柄な体はハードルを軽く越えて、まるで木々の間を渡る風のようだ。そしてもうひとり、背の高い方はハイジャンプのテヅカヤマカズナリはそのスラリとした長身生かした、空気の重さを感じさせないジャンプ力で、それは空を舞う鳥のようだった。このふたりは一年ながらすでに一目置かれていて、期待の新人扱いだった。
ふたりは産まれた時から同じ産院で、数日しか誕生日が違わない。親同士が意気投合したので、それからふたりはずっと一緒の幼なじみだった。
初等部一年からふたりとも陸上部に所属している。中等部の頃にはもう向かうところ敵なし、ということもあって、学生陸上界ではちょっとした有名人だった。
揃って種目こそ違うが陸上が大好きで、毎日の練習で真っ黒に焼けた肌と、しなやかな筋肉がその莫大な練習量を物語っている。
いつまでもふたりは一緒に陸上を続けるのだろう。誰もがそうそう思っていた。お互いに切磋琢磨して、陸上の高みに昇っていくのだろう、そう本人たちすら信じて疑わなかったけれども。
「……カーズ、カズナリってば! 聞いてる?」
部室でジャージに着替えながら、カズナリがアキミにわざとらしく耳元で怒鳴られて、うんざりした顔をする。
「残念ながらよく聞こえてるよ」
アキミの魂胆は見えている。今日出された地学の宿題だった。
「アキはいちページ五百円な」
「ええ? 高いー!」
「文句あんなら自分でやるんだな」
「そんなあ。三百円でどお?」
「イヤだね」
「うー、分かった、俺も男だ! 学食のデザート一週間! これでどうだ!」
「――乗った」
甘党敗れたり。
部活が同じ、クラスもずっと一緒、そして寮の部屋まで同じなら、いい加減嫌になりそうなものだが、なにせ幼稚舎に入る前から隣にいたのだから、いるのが当たり前。いないほうが不自然だ。
幼稚舎の時、どうしても食べられなくて半べそをかくアキミのにんじんを、カズナリが見つからないようにそっと食べたり。セミが怖くてびくびくしていたカズナリの虫かごに、自分の捕まえたとびきり大きなクマゼミをアキミがさりげなく入れたり。
お互いができること、できないことを、フォローしあってそれが当たり前のこととして成長し、生きてきた。
「よかったあ。今晩写させて」
「一週間、忘れんなよ」
「そりゃあもう、カズナリ様のデザートになりますからあ」
くねくねともみ手をするアキミを、気色悪いよとスパイクで蹴る。
「……おーい、高等一年、準備しろー」
上級生の声に、高等部の一年がわらわらと自分のポジションにつく。
ハードルのアキミは、他の一年生とえっこらハードルを並べて、ラインを引いている。他の一年生と混ざってもひときわ小柄な体つきなのに、動きは一番早い。チョロチョロ動くさまはまるで子犬のようだった。
ハイジャンプのカズナリは他に一年生がいないので、一人で分厚いマットを一枚ずつ、全部で三枚運んでから、バーと計測器を一度に運ぶ。身長百八十六センチと大きめで、痩せて筋肉質のカズナリは先輩方の覚えもめでたく、期待の新人として注目されていた。
「ハードルの一年、柔軟しとけー」
「うぃーっす」
先輩の指示の下、アキミたちは二人一組になって念入りに柔軟を始める。
「あー、俺らは軽くランニングでもすっか」
ハイジャンプは全部で六人しかいないので、なんだか家庭的だ。だが、軽くランニング、とは言葉だけで、走りつつダッシュしたり、ゆるく走ったり、と自分のペースでは走れないので結構キツい。キツいながらもほとんど桜の花が散って青葉がその枝を飾っているのをなんとなく見ながら、気持ちいいなあ、とのんびり考えながらカズナリは先輩たちの中でランニングしていた。キャプテンの次くらいに背が高いので、見晴らしはいい。
――日が落ちて、宵闇が迫る頃やっと陸上部の練習は終わる、毎日のことだが、ヘトヘトでズタボロの雑巾みたいになるまで練習は終わらない。最初の一週間ほどは血尿も出たが、今では幾らか慣れて血尿までは行かなくなっていた。
後片付けを終えた一年生たちは、疲れすぎて空腹なのかどうかもわからない胃袋に無理やり食事を詰め込んで、風呂に入る。同じ様に雑巾状態の一年生が何十人かいて、眠気と戦いつつ頭や体を虚ろな目で洗っていた。
「……なあなあカズ」
「なんだ」
頭を洗いながら、シャワーボックスから身を乗り出すアキミに、面倒くさそうな様子でカズナリが返す。
「レギュラー取れそう?」
「はあ? まだ入って一週間ちょっとしか経ってないのに、わかるかそんなもん」
「そうかなあ。俺は取れる気がしてる」
「お前のその根気のない自信の出どころは何だ」
溜め息混じりのカズナリに、だって俺もお前もすっけぇ練習してんじゃん、とアキミがこともなげに笑顔で答える。
「先輩の練習のほうがキツいって」
「そうかなあ。お前なんか一年ひとりでしごかれてんじゃん」
「まあな。でも先輩はみんないい人たちだから」
「出た。優等生発言」
「うるせ」
「ま、いいや。俺は絶対に二人ともレギュラー取れるって信じてる……シャワーから出たら、宿題よろしくな」
「――ああ」
にかっと笑うアキミの、根拠のない自信がちょっと羨ましくて、少し乱暴にカズナリはシャワーを浴びた。
「……カズさあ、進学うちの大学行くの?」
「は?」
寮の部屋で多額の宿題を写しながら、アキミの唐突な問いに、カズナリがきょとんとする。
「お前頭いいから、外部行けんじゃん」
「ウチの大学もそこそこ難関だぞ」
「内部からならそうでもないんじゃね。それに俺らは陸上やってりゃ推薦で行けそうだし」
「わかんないぞ。陸上だって成績出さなきゃダメなんだし、ケガしたらアウトだし」
「うっわ、マイナス思考」
「――真面目と言え。そりゃ初等部と中等部ではたまたまいい成績出せただけで、高等部でもそうとは限らないだろ」
「慎重すぎると人生つまんねえぞ」
「あー、無駄口はいいから早く写せ。寝るぞ、俺は」
「わー、タンマタンマ。ちょっと待ってて」
慌ててアキミがガシガシとノートを写す。
「うーわ、ここわかんねえ」
ぴたり、と宿題を写す手が止まる。
「どこだ」
「ここ、ここ。地層がどーたらってとこ」
「ああ、これは……」
なんだかんだ言って面倒見のいいカズナリ。昔からそうだった。いつもカズナリはアキミの少し先をいっている。
「だいたい写し終わったろ。残りは明日の朝に写せばいいんじゃないか?」
もうほとんど船を漕いでいるアキミに、カズナリが提案する。うんうん、とアキミはうなづくが、机に張り付いてほとんど寝ている。明日も朝練があるから、あまりいつまでも夜更かしはできないのだ。
「ったくもう」
べりり、と机から引き剥がして、無理矢理二段ベッドの下に追いやる。するところん、とベッドに転がると、そのままでくうくうと寝てしまう。
「ほら、布団かけろよ。風邪ひくぞ」
「あーいー」
夢の中からアキミが返事をする。返事のわりに布団は丸まって隅に追いやられている。
仕方ねえなあ、とぶつぶつ言いながら布団をかけてやるとその暖かさにアキミがにへ、と幸せそうに笑った。
なんでいつもこうなるかなあ、と溜め息をひとつ吐いて、机の上を片付ける。いつものような、何も変わらない夜だった。
――静かな夜は、ふたりがぐっすり眠るにはぴったりで、泥のように寝た。ただその夜は短く、五時には目覚まし時計は無情にもジリジリとけたたましく鳴る。
「……アキ、起きろ。時間だ」
「にゅふふふふふ、しょんらこと言っれにゃーい」
「アキ!」
カズナリにくるまっていた布団を引っ剥がされて、その寒さに目を覚ます。
「にゅ? カズ?」
「カズ? じゃない! 朝練だ!」
「へーい」
もぞもぞとベットの中で着換えて、じゃーん、とベッドを出る。
「はいはい。行くぞ」
もうすっかり着替え終わったカズナリが、その背をどんどん押してゆく。これもいつもの光景だった。
「脚止まってんぞー!」
広いグラウンドに陸上部の二、三年生の声が響く。桜の薄桃色の花が少し残る校庭をヘロヘロになりながら百人近い新入部員が団子になって走っている。その団子から半周先にふたつの影。小柄な影と背の高い影。
ここは私立杜の丘学園高等部の校庭。百メートルのラインが三本は直線で取れるくらい広々とした校庭だ。ここは幼稚舎から大学院まであり、中高は一貫教育の全寮制の男子校だ。男子寮だけなら大学院まである。文武両道がモットーで偏差値も高く、それでいて自由な校風。そして陸上部はインハイで優勝の常連校に名を連ねる程の強豪だ。
そこに属して今、一年坊主としてグラウンドの先頭を走っているのは、小柄な方が四百メートルハードルのタカスギアキミ。よく日に焼けた肌と、小柄な体はハードルを軽く越えて、まるで木々の間を渡る風のようだ。そしてもうひとり、背の高い方はハイジャンプのテヅカヤマカズナリはそのスラリとした長身生かした、空気の重さを感じさせないジャンプ力で、それは空を舞う鳥のようだった。このふたりは一年ながらすでに一目置かれていて、期待の新人扱いだった。
ふたりは産まれた時から同じ産院で、数日しか誕生日が違わない。親同士が意気投合したので、それからふたりはずっと一緒の幼なじみだった。
初等部一年からふたりとも陸上部に所属している。中等部の頃にはもう向かうところ敵なし、ということもあって、学生陸上界ではちょっとした有名人だった。
揃って種目こそ違うが陸上が大好きで、毎日の練習で真っ黒に焼けた肌と、しなやかな筋肉がその莫大な練習量を物語っている。
いつまでもふたりは一緒に陸上を続けるのだろう。誰もがそうそう思っていた。お互いに切磋琢磨して、陸上の高みに昇っていくのだろう、そう本人たちすら信じて疑わなかったけれども。
「……カーズ、カズナリってば! 聞いてる?」
部室でジャージに着替えながら、カズナリがアキミにわざとらしく耳元で怒鳴られて、うんざりした顔をする。
「残念ながらよく聞こえてるよ」
アキミの魂胆は見えている。今日出された地学の宿題だった。
「アキはいちページ五百円な」
「ええ? 高いー!」
「文句あんなら自分でやるんだな」
「そんなあ。三百円でどお?」
「イヤだね」
「うー、分かった、俺も男だ! 学食のデザート一週間! これでどうだ!」
「――乗った」
甘党敗れたり。
部活が同じ、クラスもずっと一緒、そして寮の部屋まで同じなら、いい加減嫌になりそうなものだが、なにせ幼稚舎に入る前から隣にいたのだから、いるのが当たり前。いないほうが不自然だ。
幼稚舎の時、どうしても食べられなくて半べそをかくアキミのにんじんを、カズナリが見つからないようにそっと食べたり。セミが怖くてびくびくしていたカズナリの虫かごに、自分の捕まえたとびきり大きなクマゼミをアキミがさりげなく入れたり。
お互いができること、できないことを、フォローしあってそれが当たり前のこととして成長し、生きてきた。
「よかったあ。今晩写させて」
「一週間、忘れんなよ」
「そりゃあもう、カズナリ様のデザートになりますからあ」
くねくねともみ手をするアキミを、気色悪いよとスパイクで蹴る。
「……おーい、高等一年、準備しろー」
上級生の声に、高等部の一年がわらわらと自分のポジションにつく。
ハードルのアキミは、他の一年生とえっこらハードルを並べて、ラインを引いている。他の一年生と混ざってもひときわ小柄な体つきなのに、動きは一番早い。チョロチョロ動くさまはまるで子犬のようだった。
ハイジャンプのカズナリは他に一年生がいないので、一人で分厚いマットを一枚ずつ、全部で三枚運んでから、バーと計測器を一度に運ぶ。身長百八十六センチと大きめで、痩せて筋肉質のカズナリは先輩方の覚えもめでたく、期待の新人として注目されていた。
「ハードルの一年、柔軟しとけー」
「うぃーっす」
先輩の指示の下、アキミたちは二人一組になって念入りに柔軟を始める。
「あー、俺らは軽くランニングでもすっか」
ハイジャンプは全部で六人しかいないので、なんだか家庭的だ。だが、軽くランニング、とは言葉だけで、走りつつダッシュしたり、ゆるく走ったり、と自分のペースでは走れないので結構キツい。キツいながらもほとんど桜の花が散って青葉がその枝を飾っているのをなんとなく見ながら、気持ちいいなあ、とのんびり考えながらカズナリは先輩たちの中でランニングしていた。キャプテンの次くらいに背が高いので、見晴らしはいい。
――日が落ちて、宵闇が迫る頃やっと陸上部の練習は終わる、毎日のことだが、ヘトヘトでズタボロの雑巾みたいになるまで練習は終わらない。最初の一週間ほどは血尿も出たが、今では幾らか慣れて血尿までは行かなくなっていた。
後片付けを終えた一年生たちは、疲れすぎて空腹なのかどうかもわからない胃袋に無理やり食事を詰め込んで、風呂に入る。同じ様に雑巾状態の一年生が何十人かいて、眠気と戦いつつ頭や体を虚ろな目で洗っていた。
「……なあなあカズ」
「なんだ」
頭を洗いながら、シャワーボックスから身を乗り出すアキミに、面倒くさそうな様子でカズナリが返す。
「レギュラー取れそう?」
「はあ? まだ入って一週間ちょっとしか経ってないのに、わかるかそんなもん」
「そうかなあ。俺は取れる気がしてる」
「お前のその根気のない自信の出どころは何だ」
溜め息混じりのカズナリに、だって俺もお前もすっけぇ練習してんじゃん、とアキミがこともなげに笑顔で答える。
「先輩の練習のほうがキツいって」
「そうかなあ。お前なんか一年ひとりでしごかれてんじゃん」
「まあな。でも先輩はみんないい人たちだから」
「出た。優等生発言」
「うるせ」
「ま、いいや。俺は絶対に二人ともレギュラー取れるって信じてる……シャワーから出たら、宿題よろしくな」
「――ああ」
にかっと笑うアキミの、根拠のない自信がちょっと羨ましくて、少し乱暴にカズナリはシャワーを浴びた。
「……カズさあ、進学うちの大学行くの?」
「は?」
寮の部屋で多額の宿題を写しながら、アキミの唐突な問いに、カズナリがきょとんとする。
「お前頭いいから、外部行けんじゃん」
「ウチの大学もそこそこ難関だぞ」
「内部からならそうでもないんじゃね。それに俺らは陸上やってりゃ推薦で行けそうだし」
「わかんないぞ。陸上だって成績出さなきゃダメなんだし、ケガしたらアウトだし」
「うっわ、マイナス思考」
「――真面目と言え。そりゃ初等部と中等部ではたまたまいい成績出せただけで、高等部でもそうとは限らないだろ」
「慎重すぎると人生つまんねえぞ」
「あー、無駄口はいいから早く写せ。寝るぞ、俺は」
「わー、タンマタンマ。ちょっと待ってて」
慌ててアキミがガシガシとノートを写す。
「うーわ、ここわかんねえ」
ぴたり、と宿題を写す手が止まる。
「どこだ」
「ここ、ここ。地層がどーたらってとこ」
「ああ、これは……」
なんだかんだ言って面倒見のいいカズナリ。昔からそうだった。いつもカズナリはアキミの少し先をいっている。
「だいたい写し終わったろ。残りは明日の朝に写せばいいんじゃないか?」
もうほとんど船を漕いでいるアキミに、カズナリが提案する。うんうん、とアキミはうなづくが、机に張り付いてほとんど寝ている。明日も朝練があるから、あまりいつまでも夜更かしはできないのだ。
「ったくもう」
べりり、と机から引き剥がして、無理矢理二段ベッドの下に追いやる。するところん、とベッドに転がると、そのままでくうくうと寝てしまう。
「ほら、布団かけろよ。風邪ひくぞ」
「あーいー」
夢の中からアキミが返事をする。返事のわりに布団は丸まって隅に追いやられている。
仕方ねえなあ、とぶつぶつ言いながら布団をかけてやるとその暖かさにアキミがにへ、と幸せそうに笑った。
なんでいつもこうなるかなあ、と溜め息をひとつ吐いて、机の上を片付ける。いつものような、何も変わらない夜だった。
――静かな夜は、ふたりがぐっすり眠るにはぴったりで、泥のように寝た。ただその夜は短く、五時には目覚まし時計は無情にもジリジリとけたたましく鳴る。
「……アキ、起きろ。時間だ」
「にゅふふふふふ、しょんらこと言っれにゃーい」
「アキ!」
カズナリにくるまっていた布団を引っ剥がされて、その寒さに目を覚ます。
「にゅ? カズ?」
「カズ? じゃない! 朝練だ!」
「へーい」
もぞもぞとベットの中で着換えて、じゃーん、とベッドを出る。
「はいはい。行くぞ」
もうすっかり着替え終わったカズナリが、その背をどんどん押してゆく。これもいつもの光景だった。