「あはは。可愛いなぁ。ありがとう、猫ちゃん」
猫ってそんなに可愛いのかしら。人間の真依は男性とスキンシップなんてしたことはないし、こんなふうに愛しい存在のように優しくされた経験は初めてで、どうしていいのかわからなくなる。
そんな戸惑いを隠すかのように顔をプイッと背けた時、真依は彼のカバンからはみ出ていたスケッチブックを見つけた。途端に彼が昨日描いていた絵を思い出して、思わずそのスケッチブックを爪で引っ掻く。
「ん? これが見たいの?」
真依の仕草に気付いた絵の具くんは、スケッチブックを取り出して、真依の前にスケッチブックを開いて見せる。そこにはここだけでなく、様々な場所やアングルのデッサンが溢れていた。
「昔から絵を描くのが好きなんだ。美大に行くほどの実力はないから趣味で続けてるレベルだけど、今も時々絵画教室で描いてたりするんだよ」
あっ、この公園知ってる。あっ、これはあそこの橋から見える景色だーー同じ場所を知っているのに、どうして会ったことがないのだろう。
ページをめくると、今度は都心のビル群の絵が現れる。自然の絵からのギャップと、それぞれの特徴の描き方の違いに驚きつつも、真依はその絵から目が離せなかった。
「美大は諦めたけど、今は大学で建築家を目指して勉強してるんだ。いつか自分が設計した家に住みたいなぁっていうのが夢かな」
そう語る彼の目はきらきらと輝いていて、どこか大人びて見える。明確な夢を持ち、それに向かって頑張る姿は、なんてカッコいいんだろうと思った。目に見えるものだけが事実ではないということを目の当たりにした瞬間だった。
彼に比べたら私なんて、夢があるわけもなく、ただ毎日を楽しいことを想像しながら生きているだけのちっぽけな存在に感じる。
しかし絵の具くんがページをめくった瞬間、真依は全ての考えを忘れてしまうくらいの驚きと衝撃を受け、大きく目を見開いた。
「あぁ! これはダメ!」
「にゃにゃにゃにゃん!」
スケッチブックを閉じようとした絵の具くんの頬にパンチをかまし、スケッチブックの上に飛び乗った。
「ちょっと猫ちゃんっ!」
彼の言葉なんか聞こえないくらい、真依はその絵に釘付けだった。だってそこには、カフェで接客をする真依の笑顔が描かれていたのだから。
これは一体どういうこと……? なんで私がいるの?
「これはね、いつも行くカフェの店員さん。僕の下手な絵じゃ伝わらないかもしれないけど、すごく笑顔が可愛いくて、しかもいろいろ気遣いの出来る人でさ……。まぁはっきり言うと、僕の憧れの人。でも今は会える状況じゃないから、ここからこうして祈るしか出来ないんだけどね」
そう言って、川の向こう側へと視線を移した。その動作には覚えがあった。昨日彼とここで初めて会った時も、絵の具くんは真っ直ぐに対岸を見つめていた。
真依は突然息苦しくなり、心拍数が徐々に上がっていくのを感じる。そしてゆっくりと彼の視線の先へと目をやると、ハッとして息を呑んだ。真依の目には第一総合病院の建物が目に飛び込んできたのだ。
もしかして私はあそこにいるの? もしそうだとしたら、どうして絵の具くんがそのことを知っているの? 聞きたくても聞けないことが、こんなにももどかしいとは思わなかった。
「あっ、そうだ。今日絵画教室でこれをもらったんだ。教えてくれている先生が猫好きで、家でもいっぱい飼ってるんだって」
絵の具くんがカバンをガサゴソと探り始めたが、それどころではない真依は、眉間に皺を寄せてじっと病院を見つめた。
「はい、猫ちゃん」
目の前に何かを差し出され、無意識のうちに口に入れてしまう。あら、甘くて美味しいーーそう思った瞬間、自分の口に入れられたものが猫用のおやつだと気付いて飛び上がった。
「にゃーっ!」
「あれ? 口に合わなかった?」
「にゃ……にゃんにゃーん」
あぁ、自分が猫だから、きっと猫用のものが美味しく感じるのね。やっぱり糖分って大事なのかしらーーついさっきまで気持ちはどん底に落ちていたが、少しだけ這い上がった気がする。今だって自分の意思で猫になっているわけではないし、この場所に来ているわけでもない。この先どうなるかは、神様しか知らないだろう。
キョトンとした顔で真依を見つめる絵の具くんを見ていると、不思議と元気が湧いてきた。可愛いと思っていた人が、こんなも頼もしい存在だったなんてーー胸の中がじんわりと温かくなる。
「おぉ、完食してる……美味しかった? 猫ちゃんってば食いしん坊なんだ。また持ってくるからさ、楽しみにしてて」
出来れば次は人間用のおやつをお願いしたいわ。
「じゃあそろそろ帰るよ。猫ちゃん、風邪ひかないようにね」
「にゃーん」
絵の具くんはスケッチブックをカバンにしまうと、真依をタオルに包んだままその場に下ろし、頭を何度も撫でた。それから手を振り去っていく彼を見送りながら、今宵も眠りの世界へと引き込まれていった。
ピッ、ピッ、ピッーー。静かな部屋の中に、無機質な機械音が響き渡る。ゆっくりと目を覚ましたが、部屋の明るさに耐えきれず、再び目を閉じた。
「眩しい……」
ぼそっと呟いた瞬間、
「真依⁈ 起きたの⁈」
と取り乱した様子の母親の声が耳に入る。
それから母は真依の頭上にあるナースコールを押し、看護士にそのことを伝える。その様子を見ながら、自分が生きていることに心の底から安堵した。
「大丈夫? 真依、丸二日も寝ていたのよ! もう心配で心配で……」
うちの家族は本当に賑やかなんだからーーうっすらと目を開けて部屋を見渡せば、ここが病室であることは一目瞭然だった。
「ねぇお母さん、ここってもしかして第一総合病院だったりする……?」
「あら、どうして知ってるの? あなた、酔って足を踏み外して川に落ちたのよ」
絵の具くんがあの川縁から見ていた第一総合病院。彼は真依がそこに入院していることを知っていた。
「川底にあった石に頭を打ったらしくてなかなか目覚めないし……すぐに川に飛び込んでくれた人がいなかったら、助かってないかもしれなかったんだから」
飛び込んでくれた人ーーあの時、私たちの周りに人はいなかった。じゃあ史絵が飛び込んでくれた? いや、泳ぐのは得意じゃないと言っていたし、きっとそれはないはず。それなら誰が私を助けてくれたんだろうかーー。
ふと頭に浮かんだのは絵の具くんの姿だった。彼が泳げるのか知らないし、あの場に彼がいたかも不明だが、なんとなく彼であるような……彼であって欲しいと思う自分がいた。
「あの……私を助けてくれた人ってーー」
そこまで言いかけた途端、病室の扉がノックされ、数人の看護士が入ってくる。
「失礼します。ご気分はどうですか?」
「あ……今のところ大丈夫です。少しぼんやりしてますが……」
「二日間、寝てましたからねぇ。じゃあ詳しく見ていくので、お母様は少し外で待っていただけますか?」
「はい、よろしくお願いします」
母親に助けてくれた人のことを聞く間もなく、真依の診察が始まってしまった。
* * * *
あれから母親に助けてくれた人物のことを聞いたが、真依を助けた後にいなくなってしまったそうで、結局お礼を伝えられなかったという。
ただその言葉ではっきりしたのは、助けてくれたのは史絵ではなく別人ということだった。史絵が助けたのであれば、すぐに判明したはずだから。
母親が帰ってから、何度も川に落ちた時のことを思い出そうとした。しかし頭を過ぎるのは落ちた瞬間のことだけで、助けられた時のことは思い出せなかった。
頭を打ったと言っていたし、その瞬間に気を失ったか、衝撃で忘れてしまったかのどちらかだろう。
ベッドの上に横になり、ぼんやりと天井を見つめていると、
「真ー依! 私だよ。入っていい?」
とカーテン越しに史絵の声が聞こえた。
久しぶりに聞く友人の声に、真依の心に明るい光が差し込む。
「もちろん! 来てくれて嬉しいよー!」
するとベッドを囲っていたカーテンの一部が開かれ、その隙間から史絵が笑顔を覗かせた。
「あぁ良かったぁ。真依が生きてるー!」
泣きそうになりながら真依に抱きついてきた史絵の背中を優しく叩き、真依はクスクスと笑った。
「縁起でもないこと言わないでよー。でも私もほっとしてる」
真依がそう言うと、史絵は真依の顔を真剣な目で見つめる。
「あれは事故なんだよね? 自分からってことはないよね?」
目をぱちぱちと瞬くと、彼女の言葉の意味を理解して肩を落とした。そうか……史絵にそんな心配をさせてしまったんだーー自分が目を覚まさないばかりに、余計な心配をさせてしまったことを申し訳なく思った。
「もちろん、事故だよ。心配かけちゃってごめんね」
真依の言葉に安心したのか、史絵は体の力が抜けてベッドに突っ伏した。
「本当だよぉ。でも安心した」
「そんな時にこんなこと聞くのもアレなんだけど、私を助けてくれたのって、もしかして絵の具くんだったりする?」
すると史絵は勢いよく起き上がり、驚いたように目を見開いて真依をみたのだ。もうそのリアクションだけではっきりとわかり、そして胸が熱くなるのを感じた。
「やっぱりそうなんだ……。どうしよう、嬉しすぎるかも」
「えっ、ちょっと待って。なんで知ってるの? あの時、まだ意識があった?」
「意識はなかったよ。ただ……」
そこまで言いかけてから、真依は口をきゅっと閉ざした。どうせ夢だと信じてもらえない。だって真依ですら夢かもしれないと思っているのだから。それならば答え合わせは絵の具くんと一緒にしたいと思った。
「ただそんな気がしただけ」
「うーん……それってすごい直感だね。絵の具くんも同じことを言ってたから」
「どういうこと?」
史絵は微笑むと、ベッドの横に置いてあった椅子に腰を下ろし、窓の外に目をやった。彼女の視線の先を目で追うと、遠目にだが真依が落ちた場所に掛かる橋が見え、絵の具くんが見ていた場所がこの病院であることがわかる。
「絵の具くん、真依が落ちた場所のすぐそばに住んでるんだって。あの夜、外から真依の声が聞こえて、なんだか嫌な予感がしたらしいよ。慌てて家から飛び出したら、真依が川に落ちるのが見えて、何も考えずに川に飛び込んだって言ってた」
「私の声がわかった……?」
「うん、そう言ってた。まぁ真依に会いにカフェに来ているような人だからね。そりゃわかるでしょ」
絵の具くんとと過ごした時間が本物ならば、あのスケッチブックに描かれていた真依の姿と、彼が発した言葉でなんとなく察しがつく。しかし何も知らないはずの史絵が、どうしてそこまでわかるのか理解できなかった。
「えっ、な、なんでそう思うの⁈」
「だって真依がレジに入るまで、絵の具くん、店の外で待ってるんだよ。買ってからも、しばらくレジが見える席に留まってたし。知らないのは本人ばかりなり、って感じ?」
「し、知らなかった……」
「それに絵の具くん、助けたことは真依に言わないでくれって。変な印象を植え付けなくなかったみたい」
「変な印象って?」
「だーかーらー、真依にちゃんと告白したかったんでしょ? 助けてくれた人だからオッケーされたくなかったんだよ。ちゃんと自分自身と向き合って欲しかったんじゃないかな」
確かに助けてくれた人なら断りにくい。同情なんかで始まりたくないと思うのは当然だろう。そんなふうに考える彼の芯の強さを、この数日間で垣間見たような気がした。そしてそんな彼を意識し始めている自分にも気付く。
「それにしても、水木さんのことは吹っ切れたの? 全然話題に出てこないけど」
水木さんーー史絵に言われてようやく彼のことを思い出す。一年間片思いをしてきた人なのに、今は絵の具くんが気になって仕方なかった。
カッコよくて優しく仕事が出来る水木さんをずっと見てきたはずなのに、なんだかその感情が薄っぺらく思えた。それはきっと水木さんのことを深く知らない自分に気付いたからかもしれない。
でも彼だって、私の見た目とか接客している姿だけを見て『憧れてる』って言ってくれたわけだし、本当の私を知ったら幻滅したりしないかなーーそんな不安を抱えながらも、彼が恋しくてたまらなくなる。
「あぁ、うん、もう大丈夫」
「それなら良かった」
真依は窓の外の、あの川縁に想いを馳せる。目を覚ました真依が、再び猫になることはないだろう。だとしたら、彼はまた一人であの場所で絵を描いているのだろうかーーそう考えると、今すぐにでもあの場所へ飛んで行きたくなった。
更衣室のロッカーを開け放ち、扉裏に付いている鏡の前でスプレーを使いながら前髪を整える。束感、長さ、形、うん、バッチリ。メイクもしっかり直して、よし、完璧ーー真依は満面の笑顔を作ると、ロッカーの扉を閉めた。
退院してから初めてのシフト。そして今日は火曜日。きっと絵の具くんが来てくれるはず。もし会えたら、自分から声を掛けると心に決めていた。
久しぶりのバイトに対する緊張と、彼に会えるドキドキ感。少しだけ息苦しさを感じながら、真依は普段とは違う気持ちで店舗へのドアを開けた。
「おはようございまーす!」
入った瞬間、真依に気付いた店員たちが、皆驚いたような笑顔を浮かべてこちらを見た。その中でも水木は持っていたカップを置いて、真依の方へ駆け寄ってくる。
「鈴内さん! もう大丈夫なの?」
「はい、しっかり完治しました! ご迷惑をおかけしてすみません」
「それは気にしなくて大丈夫だよ。みんな心配してたから、元気になって安心した。でも無理しないで、具合が悪かったらすぐに言ってね」
ずっと憧れていた人が私を見て微笑んでいるーー前までの真依なら卒倒するほどの喜びを感じていたに違いない。でも今は上司に褒められたという喜びに留まった。嬉しいけど、ドキドキはしない。一つの恋が終わりを告げたことを実感した。
バイト仲間たちに挨拶をしながらレジカウンターに向かうと、ちょうど客のいないタイミングだった史絵が笑顔で迎えてくれた。
「おはよう。レジ、代わるね」
「はいはーい。久しぶりのバイトだけど、気分はどう?」
「ちょっとドキドキしてる。あの……絵の具くんってもう来た?」
「いや、まだかな」
「そっか……」
そんなお喋りをしていると、店のガラス戸が開いて一人の青年が入ってきた。その瞬間、真依の心臓が大きく跳ねた。
あっ、絵の具くんだーーすると彼も真依に気付いて、大きく目を見開いたのだ。
ニヤニヤしている史絵に脇腹を小突かれ、真依は慌ててレジの前に立つ。しかしいざ本人を前にすると頭の中が真っ白になって、何をすればいいのか、何を話せばいいのかわからなくしまう。
「い、いらっしゃいませ! ご注文をお伺いしますっ……」
なんとか接客マニュアルを思い出し、噛みそうになりながらも言葉を絞り出す。
「あのっ……アイスのカフェラテを一つ、テイクアウトでお願いします」
今日は右腕の肘のそばに肌色の具の跡を見つけ、それが懐かしくてつい頬が緩んだ。あぁ、やっぱり絵の具くんだーーそんないつもと変わらない時間の流れにホッとする。
「かしこまりました。サイズはいつもと同じ、Lでよろしいでしょうか?」
真依が尋ねると、彼はどこか嬉しそうに微笑む。
「はいっ! お願いします!」
それからお礼を伝えようとしたが、タイミング悪く客が押し寄せ、店が混雑し始めたため、二人の時間はあっという間に終わってしまった。
接客をしながらも、彼が気になりチラッと見てしまう自分がいるのに、こんな時に限って客足が途絶えず、なかなか声をかけられない。
店内の中央にある向かい合わせの席の一つに座り、スマホを見ながらカフェラテを飲む。店内にいる時の彼はあんなふうに過ごしていたのだと、今まで知らなかった彼の姿を知り、新鮮な気持ちになった。
こうして見ていると今時の普通の男の子だけど、川縁にいる時の彼はどこか寂しげで、少し大人びて見えた。それもそのはず、だって彼が本音を口にするのはあの場所だけだから。そして真依が気になったのは、橋の下で二人きりで話した彼の方だった。
ふと真依の視界の片隅で、絵の具くんがカバンを持って立ち上がるのが見えた。あっ、行っちゃうーーそう思い、徐々に心拍数が上がり始める。
このまま見送ったとしても、きっとまた明日来てくれるはず。その時に声をかければいいーーでももし来なかったら? 明日も客足が途絶えなかったら? 彼の家まで行くの? 不安と焦燥感を覚え、息苦しくなっていく。
「真依、レジ代わるよ」
背後から史絵の声が聞こえ、驚いた真依は勢いよく振り返る。
「えっ、でも……」
その間に絵の具くんは店から出て行ってしまった。追いかけたい気持ちと、仕事中に公私混同はすべきではないという考えが入り混じり、頭が混乱し始める。
「大丈夫。水木さんにもちゃんと言ってあるから。『真依の命の恩人が来ていて、お礼が言いたいそうなんです』って」
水木の方を見ると、まるで『行っておいで』とでも言うかのような笑顔で店の外を指さしている。
「ほらほら、早く追いかけないと行っちゃうよ!」
「う、うん! ありがとう!」
史絵に背中を押され、真依は急いで店を飛び出したが、すでに彼の姿はなかった。きっと自転車に乗って行ってしまったのだろう。あのスピードに追いつく自信はなかったが、真依は彼がどこにいるのか見当がついていた。彼は絶対にあの場所にいるはずーーだってここの常連だって口にしていたもの。
深く息を吸うと、大きく膨らんだポケットをギュッと握りしめ、あの川縁へと足早に歩き始めた。
いるだろうか。いたらなんて声をかけようーー川縁の遊歩道を歩きながら空を見上げると、白い雲が風に流されているのが目に入る。
まるで私と絵の具くんみたい……。お願いだから、彼があの場所で待っていてくれますようにーーそう心の中で願っていると、ようやくあの橋の下が見えてきた。
祈るように胸の前で両手を握り合わせ、一歩一歩、足の重さを感じながら近付いていく。すると川縁のコンクリートの階段に座るTシャツを着た後ろ姿を発見し、真依の胸が熱くなった。
今更彼がどんな反応をするかとか、ぐちぐち考えていても仕方ない。それに彼が野良猫にも優しい人だっていうことは、身をもって知っている。その事実だけで、不安材料が消えていくようだった。
意を決した真依は、
「あのっ!」
と声をかけるが、思っていた以上に大きな声が出てしまったことに驚き、慌てて口元を両手で押さえた。
絵の具くんは体をビクッと震わせ、恐る恐る振り返る。そして声の主が真依だと気付いて口をあんぐりと開けて顔を真っ赤に染めた。
「えっ⁈ な、な、なんで⁈」
彼があたふたしている姿を見た瞬間、緊張がほぐれて安心感が身体中に広がっていく。やっぱり絵の具くんは、私が思っている通りの人に違いないわーー不思議とそう思えた。
真依は彼のそばまで歩いていくと、俯きがちに隣にしゃがみ込む。それから深呼吸をして、彼の方を向いて口を開いた。
「私を助けてくれたって友だちから聞きました。ありがとうございました」
「い、いえ……! あなたがご無事で何よりです。元気になったみたいで良かった」
絵の具くんの笑顔に胸がキュンと締め付けられる。その時、彼の傍に水のペットボトルがあることに気付いた。
「あれっ……カフェラテは?」
すると絵の具くんは頭を掻き、苦笑いをしながら下を向く。
「実はカフェで飲みきっちゃって……その、あなたがいたから、いつもより滞在時間が長くなってしまったんです……」
「私がいたから……?」
「本当はここで仲良くなった猫ちゃんに持ってきた水なんだけど、その子も最近見なくなってしまって……」
「……もしかして、猫ちゃん用のおやつも持っていたりする?」
「えっ、どうして知ってるんですか?」
その言葉を聞いて、真依は涙が出そうになった。今の言葉でようやく、あの時間が現実のものであると自信と確信を持つことが出来た気がした。
「その猫ちゃん、いつから現れたか覚えてる?」
唐突に始まった会話に、絵の具くんは少し戸惑った様子を見せつつも、すぐに口を開いた。
「えっと……確か……あなたを助けた翌日です」
あぁ、ちゃんと覚えてくれているんだーー人間の真依のことも、猫の真依のことも同じように話す様子にささやかな喜びを感じる。
彼なら信じてくれるはずーー真依はポケットからある物を取り出すと、彼にスッと差し出した。
「えっ……これって……」
それは彼が猫だった真依を包んでくれたタオルで、今もあの時と同じ絵の具の香りがした。そのタオルを受け取った彼の顔が、驚きと困惑で歪むのがわかる。真依とあの猫に関係があるとは想像もしていないに違いない。
「猫田くん、良かったら下の名前を教えてもらえる?」
「ど、どうして僕の名前ーー」
それから口をあんぐりと開けて、ハッとしたように目を見開くと、真依とタオルを交互に見た。
「まさかこのタオルって……⁈」
病院で目覚めた時、診察のために体を起こした真依の体の下から見つかったのだ。
「私、猫ちゃん用のおやつより、人間用のケーキとかが食べたいな。あっ、お水は大賛成だけど」
「えっ、ちょ、ちょっと待って……えっ⁈」
真依の言葉が理解出来ずにあたふたする彼に、真依は答え合わせ用のヒントを少しずつ提示していく。
「あっ、そうだ。スケッチブックの絵は増えた? また続きを見せてほしいな。私の顔も、今度は目の前で描いてくれたら嬉しいんだけど」
「あのっ、ま、まさか……あなたが猫ちゃん……?」
返事の代わりににっこりと微笑むと、絵の具くんは両手で顔を覆って下を向いた。
「……猫ちゃんが風邪をひいたりしてないから気になって、次の日の朝にここに来たんだ。でもタオルごと姿が見えなくて……すごく心配してた。どこかで生きててくれたらいいなって、そう思ってたんだ」
その言葉を聞いて、真依が思っているよりもずっと繊細で優しい人なのだと感じ、ポカポカと温かくなる胸を、服の上からギュッと握りしめる。
「またここで猫田くんとお喋りしたいな……」
「……で、でも僕、もしあなたが本当に猫ちゃんだったとして、かなり本性を曝け出していた気がするんだけど……それで引いたりしてない?」
きっと彼が隠してきた本音の部分を、言葉を話せない猫の前では隠す必要がなかったのだろう。
「私、本当の君に触れて、もっと絵の具くんのことが知りたいって思ったの。猫になっていなかったらこんな気持ち、知らなかった。だから……これからも一番近くで本当の君に触れていたいって思うの。ダメかな……?」
猫になって彼の傍に寄り添っていたあの時間が懐かしく感じる。