目覚ましのアラーム音に時計を見る。
午前6時30分。
目覚ましを仕掛け間違えたかと思ったけど、そういえば今日は、家政婦サンが来てくれないので、朝ごはんの用意を自分でするよう早めにセットした事を思い出した。
今は夏休みだけど、高校受験を控えてる身としては、名目だけの「長期休暇」だ。
起きて服を着替えた僕はキッチンに向かった。
「あっ、シノさん、フライパン火に掛けすぎてるとバターが焦げちゃいますよー」
「フライパンはハルカがみてくれよ、俺、こっちでお茶煎れてて忙しいンだから」
「しょーがないなぁ」
キッチンのドアを開けた途端、先客がそこでウロウロしてるのを発見する。
朝寝坊の親父が起きてたのも驚いたけど、オマケまで付いてるなんてまったく予定外だ。
早々に退散しようと後ろを向いたが、時既に遅し、一歩も進まず背後から羽交い締めにされた。
「モーニンッ桃ちゃ〜ん、早起きさんだな〜!!」
「うわっ、放せってばっ!」
「なんだ、ハルカが居るからってテレてんのか、桃ちゃんはいつまでもカワイイなぁ、ん〜〜〜〜!」
「ちょっ、このっ…やーめーろーよーっ!」
もがく僕を意にも介さず、親父は自分と同じ背丈の息子の頬に、マジで吸い付いてくる。
「シノさん、桃くん嫌がってるみたいですよ?」
「何いってんだ、桃ちゃんは俺と桃ちゃんの愛の結晶だぞ! 海より深い俺の愛を拒むわけないぢゃん、なぁ桃ちゃん!」
笑顔大全開で勝手な決めつけをする。
「拒むよっっ!!!!」
「ん〜? 桃ちゃんも、とうとう反抗期か…」
「そんなもんとっくに終わってるよ! パパがうざ過ぎなんだよ!」
しかし何を言ったところで、この自己中親父は凹む事もなければ折れることもない。
「そーか、そーか! パパは感慨深いぞ〜!」
「は〜な〜せ〜〜〜〜〜っっ!!」
俺の苦情なんてカケラも受け付けず、朝っぱらからハイテンションの親父は、まだヒゲも剃ってないジョリジョリした頬を更に擦りつけてこようとする。
僕は最後の手段で、先日道場で習った護身方法を使って、抱きついてる親父の腕を振りほどき、ついでに一発かましてやろうとした。
が…、
「さぁ〜て! パパが超美味朝食を用意してるからネ! はい、そこ座って座って♪」
まるで僕の一撃を見透かしたみたいに、親父はスルッと身をかわすと、ついでみたいに僕の身体の向きをクルリと操縦してテーブルの方へ向けてしまう。
相手を失った僕の鉄拳は、宙を切っただけに終わった。
こうなったらどうせ、親父の気の済むまでつきあわされるのだ。諦め顔で椅子に座った僕に向かって、親父のオマケの神巫ハルカがニコニコ挨拶してきた。
「おはよう、桃くん」
「…おはようございます」
本当は挨拶するのも億劫なんだけれど、挨拶されたのに返事もしないのは不作法だと思うので、僕も一応、返事をする。
「おいハルカ、なんか焦げ臭くねェ?」
「大丈夫ですよ。ちょっと焦げ目が付いている方がカリカリして美味しいですからね」
キッチンにはもう、噎せるほどの甘い匂いが立ち込めている。
神巫ハルカは皿を取り出すと、フライパンの上に乗っていた四角い物を皿に移した。
「桃ちゃん、トッピングはチョコレートソースとバニラアイスとどっちがイイ?」
「それ、なに?」
「パパ特製のフレンチトースト☆ 美味しいぞ〜!」
目の前に突き出されたのは、室内にこもる甘い匂いの元凶物体だった。
デニッシュ生地に染みこませてあるミルクと卵と砂糖の融合した甘々溶液が、皿の上でじんわりと液溜まりを作っている。
「もっと普通のごはん、無いの?」
「なんだよ、桃ちゃん。変なコト言うなぁ? フレンチトーストは一般的にフツーの朝ごはんで、しかもコイツはパパの特製だぜ!」
「僕は朝からそんな甘いモン、食べたくない」
「じゃあ桃ちゃんは、あの家政婦が作った激まじィ朝メシの方が好きだっちゅーの?」
「なんでそこで家政婦の朝ごはんの話になるんだよ! そりゃ、あの家政婦さんは料理あんまり上手じゃなかったけど、そもそも親父が家政婦サンをあんなに怒らせなきゃこんなことには…!」
「スト〜ップ、桃ちゃん。パパ、でしょ?」
「ええ?」
「だから、パパ、でしょ?」
「なに言ってンだかワカンナイよ!」
「桃ちゃん。パパ、だよ、パ〜パ。ね?」
ガッキッ! と僕の肩を掴んだ親父は、ニッコリ笑った顔をずずず〜っと寄せてくる。
「あーもぅ分かったよ! パパッ!」
「そうそう。桃ちゃんは桃ちゃん似のプリティフェイスなんだから、オヤジなんてカワイクナイ単語使っちゃダメだよ〜」
「話逸らすなよ!」
「だって桃ちゃん。パパがせっかく桃ちゃんの為に作った、特製フレンチトースト食べないとかゆーんだもん! パパは桃ちゃんの為に、特製のロイヤルミルクティーだって煎れてあげてるのに!」
ドンッ! と目の前に出てきたカップには、これまた甘い匂いを紛々とまき散らしている怪しげな液体が、なみなみと満たされている。
「なんでロイヤルミルクティーからメープルシロップの匂いがするんだよ!」
「フレンチトーストがハニー風味だから、ミルクティはメープル風味の方が変化があっていいじゃん」
「そーいう問題じゃなくて、僕は甘いのあんまり好きじゃないって言ってンだよ!」
「大〜丈夫! 桃ちゃんの為にパパが特別に愛情込めて作った朝ごはんだもん、絶対美味しいって!」
ニッコニコの笑顔になってる親父には、たぶん本当に、悪意なんてこれっぽっちもない。と思う。
しかしその笑顔はどう見たって悪魔の微笑みだ。
僕は半ば諦めの溜息を吐いた。
「それで、トッピングはチョコレートとバニラ、どっちがイイ?」
「どっちもいらない」
「それじゃあカルピスバターを乗せよう! ほんと美味いよなー、このバター!」
言ってる傍からもう、たっぷりのバターがフレンチトーストの上に乗っかってしまう。
既にバター焼きにされて脂でギトギトのデニッシュパン(とゆーか、デニッシュパンってのは生地が既に甘々でギトギトだっ!)の上に、追い打ちのバターを乗せられてウンザリしたけど。
ハーシーの激甘チョコソースや、乳固形分17%を優に超えたバニラアイスを乗せられる事を考えたら、多少はマシと諦めるしかない。
「ハルカ、その腕ンとこ、どしたの?」
ようやく僕から関心の逸れた親父は、2枚目と3枚目の皿に盛りつけをしている神巫ハルカの二の腕を指差した。
「ヤダナァ、シノさん。話したじゃないですか、新しく買った自転車でコケたんですよ」
「そーだっけ? ちゅーか、昨日の夜は気付かなかったぞ?」
「そりゃ暗かったからですよ…あっ、やめてくださいよぉ、まだ痛いんですから! あ、イタ、イタ、イタイってばシノさん! フライパン落としちゃいますよ!」
痣をグリグリ押されて、神巫ハルカが悲鳴を上げている。
でもそんな新鮮な青タンを見て、ウチの親父がチョッカイ出さないワケがないのだから、痣丸見えのノースリーブなんか着ている方が悪いのだ。
もっとも神巫ハルカの場合、親父に痣を押されるのも一種の楽しみというか、マゾっぽい悦びなのかもしれないが。
だいたい「昨日の夜は気付かなかった」なんていう親父の台詞からして、神巫ハルカは昨夜「お泊まりコース」だったに違いない。
少なくとも昨日の夕方、地下のスタジオから出てきた時は、親父は一人きりだった。
僕が部屋に入った後…もしくは寝てしまってから、勝手に訊ねてきたンだか、親父に呼び出されたンだか、したんだろう。
親父はミュージシャンでロックヴォーカル、神巫ハルカはギタリストで、親父のサポートバンドの一人なのだ。
で、この親父。
年中オトコをベッドに引っ張り込む、実に悪い性癖がある。
高校受験を間近に控えるような年齢になれば、それがどういう意味なのか解らないワケじゃない。
しかし、僕という息子がいる…という事実からするに、親父は生粋のホモというワケでも無い…らしい。
少なくとも僕の母親と結婚したのだし、オマケにちゃんと、母を愛していたのだ(たぶん)。
世間的な評判では、親父は「カリスマミュージシャン」だの「孤高のヴォーカリスト」だのと呼ばれ、早い話が自他共に認める「大物」ってヤツらしいが。
でも生まれた時からずっと一緒にいる僕には、親父のネームバリューの大きさはサッパリ分からない。
僕の親父に対するイメージは「人格壊れ気味で底抜けに甘党な始末に負えない自己中男」でしかないし、これが我が家の事実なのだ。
一口一口を辟易しながら食わねばならない甘味なフレンチトーストを、親父は早々にペロリと平らげて、着々と2枚目の製造に取りかかっている。
こういう場合の親父のマメさは普通じゃない。というか、親父はマメと無精がモノスゴク極端な男だ。
己の食べる甘味食の製造ともなれば、頭部に見えない黒い触覚がニョッキリと生えて、丁寧に卵黄を撹拌したり隠し味にコンデンスミルクを練り混んだりエッセンスを垂らしたりと、一手間どころか二手間三手間掛けることも惜しまない。
が、食事が終われば後の片付けなんて、絶対やりゃしないのだ。
神巫ハルカなどに言わせると、仕事の時の親父は丁度飯を作っている時と同じ状態らしく、絶対に手を抜かない、完璧を探求する男らしい。
だがオフを過ごす時は、それこそテレビのリモコンを操作すすら億劫がる、激烈不精者だ。
「ねぇ桃ちゃん、今日さぁ」
「桃ちゃん呼ぶな!」
「どしたの桃ちゃん、今日は虫の居所悪いね?」
「さっきまでは全然悪くなかったけどね!」
「それってアレだな、寝起き悪いのきっと俺のDNAだ。桃ちゃんは実に寝起きが良くて、いつだってパパより先に起きて、パパ好みの激うま朝ごはんを作ってくれたもんだよ。あー思い出すとナミダ出ちゃうなぁ、桃ちゃんお手製の、愛情たぁ〜っぷりのモーニング・セット…」
半ばウワゴトに近い親父の発言は、自分のカミサン(つまり僕の母親)と息子(つまり僕)を同じニックネームで呼ぶので、モノスゴク分かりづらい。
先にも述べた通り、この親父はホモのクセに、カミサンが居たのだ。
なぜ過去形なのかというと、僕の母親は息子(つまり僕)を出産した時に、他界したからだ。
親父はミュージシャンなどというヤクザな商売をしていて、若い頃から写真はもちろんVTRも腐るほどあって、例え僕の生まれる前に親父が死んでいたとしても、その姿形を見るには事欠かない状態だ。
しかし親父は、最愛のヒトであるカミサンをマスコミから徹底的にガードしていて、超大物ミュージシャンの妻であるにも関わらず、母さんの顔写真はいわゆるパパラッチじみた写真週刊誌の記者が撮った顔の判別のままならないようなピンぼけしか世間には出回っていない。
オマケにこの親父、自分はカメラが大好きでヒマな時はずっとカメラを弄り回しているし、自宅に暗室まで作ってるようなカメラオタクなのにも関わらず、カミサンの写真はほとんど撮ってない。
つまりそれがどういう事かというと、僕は母親の顔をモノスゴク偏った数枚の写真でしか知らないのである。
子供の頃、親父にその事を訊ねたら「桃ちゃんの美しさは印画紙如きに焼き付けられるモンじゃない!」とか言っていた。
だがこの親父、僕の写真は、ヒマさえあれば撮って撮って撮りまくっているのだ。
この親父が何を考えているのか、ちゃんと解る人がいたらぜひ解説して欲しい。
「桃ちゃんはさぁ」
「もう母さんの話は良いよ!」
「ママ、だよ」
「だからもういいって!」
「ママ、でしょ?」
「…………………」
「マ〜マ」
「分かったよ! ママの話はもう良いってばっ!」
「いや俺ももう桃ちゃんの話はしてなくて、桃ちゃんに話しかけてるんだよ」
すっかりウンザリして、僕はもう返事をしなかった。
死んでしまった母さんを恨む気はないけど、でも自分のこの名前に関してだけは「母さんが生きててくれさえしたら、バカ親父の暴走を止めてくれたかもしれないのに」と思う。
母さんの名前は「桃香」だった。
親父はカミサンにくびったけで、親父曰く「桃ちゃんは俺の運命のヒト!」なんだそうである。
だから親父は息子に、最愛のカミサンの名前を1字取って「桃太郎」と名付けたのだ。
こうした話は親父の側から見ると美談なのかもしれないが、そんな名前を付けられたこちらは、たまったモンじゃない。
お陰で、名前を理由に小さい頃からイジメのターゲットにされた。
母さんが生きていてくれれば、もう少し常識的な判断で名前を選んでもらえたんじゃないかと思いたくなるのも、当然ってもんだろう。
母さんについて僕の知っている正確な情報は(顔も含めて)極端に少ない。
なぜならば、僕に母さんの情報をくれる人間=バカ親父のみで、その話のほぼ9割方は鵜呑みにしたら危険すぎるデタラメ情報だからだ。
親父は、僕の事を「桃ちゃんにソックリ!」とか言う。
だけど親父を取り巻いている連中で母さんを少しでも知っている人間は、僕を「お父さんにソックリ」という。
僕としては、あんな壊れた親父に似ていると言われてもちっとも嬉しくないけれど、母さんを全く知らない神巫ハルカのような人間にまで「シノさんのチビクローン」などと呼ばれる始末だ。
親父と母さんがソックリの顔をしてたんじゃない限り、親父の「桃ちゃんにソックリ!」という発言は、まったくの事実無根…というか、要するに親ばかの一環なのだろう。
こんな親父に「仕種も、声音も、顔もソックリ」といわれるのは、僕には不愉快極まりないことだ。
でも実際、僕には親父に似てる部分がある。
不本意ではあるが、それに関しては自覚もあるので否定はしない。
例えば僕の「短気でケンカっ早く負けず嫌い」な気質は、親父にそっくりだと思う。
オマケに子供の頃から「護身の為に」とか言って太極拳の道場に通っていたりするから、無駄に腕っ節があったりする。
だからまだ分別がちゃんとしていない小さい頃は、僕の名前をからかった連中に尽く正義の鉄槌を食らわせてやったりもした。
この歳になればそんなくだらない事でわざわざ僕をからかいに来るアホンダラもほとんどいなくなったし、幼少の頃の武勇伝が響き渡って尚更そうした輩も減り、僕自身もやたらに他人を張り飛ばしてはイケナイと学んだのでそんなコトは(親父以外の人間には)しないけれど。
それでももめごとを起こすたび、そういう自分の性格をモンダイだと感じるので、親父に似てるのなんて僕にはちっともいいことじゃないのだ。
「そんでさぁ、桃ちゃんさぁ、こんなに早く起きてきたって事は、今日出掛ける予定なンだよねェ?」
子供に過干渉の親父は、僕が夏休みだって事くらい、当然知っている。
「うん、これ食べ終わったらゼミに行くよ」
「ゼミ行くのはナシにしようよ」
「はぁ?」
「だって最近、物騒ジャン。特に夏休み中なんてアブナイよ、カワイイ桃ちゃんが誘拐とかカツアゲとかされたらって思うと、パパ心配なんだもん」
「カツアゲなんてされないよ」
「そりゃー桃ちゃんはパパの次くらいに強いから、そんな連中鼻にも引っかけないかもしれないけど。でもカワイイ桃ちゃんの顔に向こう傷でも出来たら、パパはショックで寝込んじゃうぜ? それに、いざとなったら人質を生かしているフリをして殺しちゃうようなのが最近はいっぱいウロウロしてるみたいだし。ゼミなんて特に見知らぬ連中が簡単に混ざるから、特にキケンじゃん!」
僕は小学生の時に、大物ミュージシャンの子供という肩書き(?)の所為で、誘拐され掛けた事がある。
学習塾からの帰り道は遅くなるので、他の家の子達はほとんどが母親が車で送迎していたし、ウチも親父の付き人が僕の送迎をしてくれていた。
でも親父の付き人は「親父の面倒を見る」のが本来の仕事だから、僕の送迎は「オマケのついで」程度でしかなく、僕もついでの順番を待たされるくらいなら、さっさと一人で帰った方が気楽だったのだ。
そこを狙ってきた犯人は、乗用車で乗り付けてきて僕に声を掛け、僕が車に乗ろうとしないと、力ずくで車内に押し込めようとした。
でも前述の通り僕は親父似のトラブルメーカー気質をしていたし、その頃はまだ自分の性質に「問題アリ」の自覚もなかったから、習ったばかりの護身術を振るった。
拳法を習い始めて間もない子供だったから、習ったワザを試す機会に遭遇して喜びいさんで会心のキンケリをカマし、さっさと逃げてきて事なきを得たんだけど。
その一件から親父は僕の外出を過度に警戒するようになり、GPS携帯を持たされたり、遠出をする時はボディガードまで付けられるようになった。
子供の親としてはあたりまえの反応だったと思うけど、でも僕はもう小さな子供じゃないし、この歳に至って昼日中ゼミに通う事まで干渉されるのは、ただの迷惑でしかない。
「シノさんってホントに子煩悩ですね〜」
のほほんとした顔で、神巫ハルカはそんなコメントをしている。
でもそこは「シノさんっていいかげん親バカですね」と突っ込むべきところだろう。
「ゼミ行かないわけにいかないよ、受験があるんだから!」
「受験? だって桃くんってK大の一貫校行ってるんじゃなかったっけ?」
「一貫校でも進学するのに試験くらいあります。特にウチんとこは、シビアなんです」
神巫ハルカに向かって、僕が冷ややかに答える。
「俺は学歴なんてどーでもイイって思ってるヨ。でも桃ちゃんは将来的には大学行きたいって言ってるし、それに桃ちゃんも、息子が生まれたら絶対K大ボーイにしたいって言ってたからさー。桃ちゃんは桃ちゃんに似て頭イイんだよ!」
この親バカ親父は高校中退だが、母さんはK大卒業という学歴を持つ。
そこで「息子もK大ボーイに」ってのはかなりミーハーだと思うけど、母さんの母校に通うことは、僕にもちょっとだけ意味があることだと思う。
「頭なんか良くないよ。苦手なとこちゃんと押さえておかないと、K大進むのキツくなっちゃうし、自習だけじゃ無理だってば」
「そんなことないって、桃ちゃんならダイジョーブ! それにゼミの代わりに、今日からまた敬ちゃん来てくれるようにって、中師サンに頼んであるよ」
「え、ホント? ホントに敬一さん来るの?」
中師というオッサンは、親父の所属するレーベルのお偉方だ。
レーベルのドル箱である親父は、そういう上の方の人間とも懇意にしていて、件の中師氏はCEOなんていう超! トップ! の人物である。
そのレーベルの中でも発言権の大きな超! トップ! な中師氏と懇意に出来るクセに、トラブルメーカーな親父の生態がどうなってるのか、僕には理解しがたい。
だが、そういう企業のトップな人間が親父に融通を利かせてくれるのは、例えば先述のボディガードを雇いたいとかいう「非日常」な話になった時に、なにげなくサクッと用意されちゃったりするワケだ。
親父は自分が学校嫌いの勉強嫌いだったので、僕の事も幼稚園と小学校に関しては近所の公立に通わせていた。
だけど件の誘拐未遂があった後、親父は僕にボディガードを付けてくれたワケなんだけれど、公立の小学校ではそうした特例(?)に関してイイカオされなかった事と、母さんが僕をK大に進学させたいと言っていた事を合わせて、中学はK大付属の私立にすると言いだした。
だが私立の中学には入試がある。
その為の学習塾通いを警戒した親父は、家庭教師を雇ってくれた。
それが親父のセリフに出てきた敬一さんなのだ。
敬一さんは中師氏の息子だけど、本当は遠縁の人で養子になっているそうだ。
これは親父のネタなので信憑性に乏しい情報なのだが、
「敬ちゃんのお母さんは、中師サンのお母さんの叔母さんの娘だったんだけど、駆け落ちをした先で夫婦とも死んじゃって、その時にはもう中師サンのお母さんの叔母さんも心労が祟ってこれまた死んじゃってて、他に親戚が居なかったから中師サンのお母さんに預けられて、それを中師サンが養子にしたんだってサ!」と言う。
養子になったのは、敬一さんが中学に進学するちょっと前の頃の話らしい。
中師氏は既に50になろうってジジイだが、これまたどーいう偏屈モンなのか、妻帯した事はない。
つまり、当時40代の独身オトコがいきなり小学生を養子にした…って事だが、中師氏は少々偏屈ではあるが、少なくともウチの親父みたいにイカレているワケではないらしいので、敬一さんは中師氏の息子として大学まで進学させて貰っているありがたい身の上だ、…と言っていた。
親父がカテキョを雇うと言いだした時はどうしてくれようかと思ったが、敬一さんはすごくいい人で、むしろこんなバカな親父やらそのお取り巻きやらがウロウロしてる家に来て貰ってたのが申し訳ないぐらいだった。
「敬ちゃんなら桃ちゃんもOKでしょ?」
「あ、そーいえば、敬一くんもK大でしたっけ?」
「桃ちゃんも中師サンもミーハーだよな、K大ってそんなにカッコイイかな? もっとも、K大行けって言われてストンと入学出来ちゃう敬ちゃんもデキすぎだよなあ。あー、いっそ敬ちゃんをウチの子にしたいなぁ!」
「ええ! シノさん、あーいうタイプ好みだったんですか!?」
「バッカ! 俺は色情狂かっちゅーの!」
すぱーん! と音がするほどのイキオイで、親父が神巫ハルカの後頭部をひっぱたく。
「桃ちゃんは勉強家だけど世間知らずだろ、敬ちゃんみたいな真面目なのがウチにいてくれれば、俺も安心してられるつーの」
「あの〜シノさん、お言葉ですが敬一くんもかなり世間知らず…っていうか…ある意味桃くんよりスゴイですよ? そーとーな天然と思いますけど…」
「敬ちゃんが天然なことくらい解ってるって。でもダイジョーブなんだよ、それにあれくらい頭固い方が操縦しやすいってもんだ。なぁ、桃ちゃんだって敬ちゃんがずっと居てくれたらイイって思わねェ?」
「そりゃあ敬一さんが居てくれたら、嬉しいけど。でもそんなの敬一さんに迷惑だからダメだよ!」
僕にしてみれば、この家にまともな家族が増えればバカ親父とふたりっきり状態から脱出出来るし、それが敬一さんだと言うなら申し分ない。
だけどそんな非常識な提案をそのまま肯定したら、僕まで親父と同レベルになってしまう。
「そっか〜。じゃあ仕方ないからまた中師サンに家政婦探しを頼まなくちゃナ〜」
「それってつまり、シノさんは家政婦代わりに敬一くんを養子にしたいってことですか?」
「ハルカ。オマエってホントは俺のコト鬼と思ってるのか……」
「そーじゃないですよ、シノさんの発言の真意は俺は理解してますけど、場合によってはそーいう受け取り方をされかねないって言ってるんですよ。ほら、桃くんだって呆れてるじゃないですか」
「別に……今更じゃないから驚かないし」
実際、呆れはしたけど。
しかし神巫ハルカの言葉じゃないが、親父の本音は分からなくもない。
というかむしろ、分かりすぎるほど分かっているのさ。
ワガママ親父の超身勝手発言ではあるが、実のところそのことに関しては、僕の本音も同意見だからだ。
もしも敬一さんがこの家で、なにもかもやってくれたら、僕だってどんなに嬉しいかしれない。
「だってハルカ、昨日クビにしたオバサンもそーとーなアレだったケド、家政婦ってマジろくなのがいないんだぜ?! だからって家政婦が見つからない間、いつもスタッフに家事まで兼任して貰ってるのもどうかと思うし。ってか、そもそも俺ン家のプライベートと俺の仕事をごっちゃにするコトが間違ってンじゃん!」
超! 身勝手で非常識のカタマリのような親父だが、なぜか時々こういう的を射た発言もする。
父子家庭でしかもミュージシャンなんてヤクザな商売をしている家に、女手が必要なのは火を見るよりも明らかだ。
だがその「ヤクザな商売」が仇になって、ウチには家政婦が居着かない。
僕が本当に小さかった時は、おばあちゃん(父方の祖母…つまり親父の母親だ)が僕の面倒を見てくれてたらしい。
だけどおばあちゃんという人は、かなりテンションの振り切れた老婆で、自称「モガ」のあか抜けて洒落っ気のある人だ。
ある意味、その人となりは「確かに親父の母親だなぁ」と思える部分がなきにしもあらず…だったりする(しかし同じ性格でも、女だと言うだけでおばあちゃんの時には許せるのはなぜだろう?)。
だから親父から僕の世話を頼まれた時も、快く承諾した…らしいのだけど。
しかし、僕が赤ん坊よりもうちょっと大きくなった時に僕を抱き上げようとしてぎっくり腰になり、入院してしまった。
おばあちゃんは自分が年より若く見られたり、僕と一緒にいる時に「息子サンですか?」とか言われたりするのを無上の喜びとするような人だから、ぎっくり腰になったのはかなりショックだったらしい。
親父に向かって「もう乳飲み子ってほどでもないんだから、自分の子ぐらい自分で面倒見なさい!」と引退宣言してしまった。
洒落た老婆だったから、選りに選って「ぎっくり腰」なんてかっこの悪い病(?)になってしまったのがショックだった上に、医者に「一旦なったら、再発するから」と言われたのも堪えたんだろう。
今でも遊びに行くと僕の事は可愛がってくれるけど、その時の話は絶対にしたがらない。
そして親父は「愛する桃ちゃんの顔を見たい時に見られないのは俺もツライと痛感したから、男手一つで桃ちゃんを立派に育てようと決心したんだよ!」と称し、家の地下を改造してスタジオにした。
自分の仕事のほとんどを自宅で済ませる為だ。
とはいえ、ミュージシャンの仕事ってのは創作が主だから、時間を決めてなにをどう…なんてのは出来ないし、まず親父のザッパな性格から言って不可能だ。
インスピレーションが湧いたら全てを放り出して地下に駆け込み、まかり間違うと三日三晩出てこない…なんて事もザラだ。
ある時、親父が地下にこもりきりで作業をしていたら、友人であるタモン蓮太郎が訪ねてきた。
何げに地上に戻った親父は、自分が地下に駆け込んでから丸二日も経過している事にその時になってようやく気付き、ベビーサークルの中で半ば力尽き果ててグッタリしてた僕を発見した…とか言う。
仕事と子育ての両立が出来ない…と思い知った親父は、家政婦を雇わなければ僕を餓死させると確信した…と言う。
それに、どんなにちゃんと「改造」してあらゆる機材を運び込んである…と言っても、本当に本物のスタジオ機材には及ばないし、自宅の地下にあるスタジオで手内職風に創った作品は、最初はリスナーも面白がるけれど長く続けば飽きられる。
結局実際のレコーディングなんかは、機材や参加ミュージシャンの都合などからちゃんとした大きいところに行ってやらなきゃならないし、そうなったら2〜3日どころか1週間〜数ヶ月に及んで家を空けなければならない。
と言うワケで、親父は中師氏に頼んで家政婦を雇ったのだが。
最初に来た熟練の家政婦は、親父の乱れた生活(衣食住はもとより、性生活なども含めて!)にたまげて逃げていってしまった。
以降、年配のヒトの8割方の退職理由がソレだ。
もちろん逃げ出さなかったヒトもいたけれど、逃げないヒトは今度やたらと親父に説教をする。
義務教育ではなくなった高校に行った途端にスピンアウトしたような、トラブルメーカーで集団生活の出来ないこの親父に、協調性があるワケも無い。
もちろん高校を中退した後も一つとしてまともな職歴がつかないまま、たった一つ生まれ持った音楽の才能(人間として当たり前の全てと引き替えにそれだけをカミサマにねだって生まれてきたに違いない!)によって、なんとか食うに困らない程度の生活が確保出来たような人間だ。
そんな真っ当な説教が、通じるワケがありゃしない。
結局は親父の逆鱗に触れてクビとなる。
だが、今度ちょっと思考の柔らかい若年層の家政婦を雇うと、それはもう十中八九親父にコナを掛けてくる。
もっとも、それはちょっと考えてみれば当たり前なのだ。
親父は「有名人・人気歌手」なところもってきて、カミサンが他界した「やもめ」なんである。
玉の輿が服を着て歩いているようなモンだ。
あげくにウチに飾ってある数少ない母さんの写真を見ると、大概の女の人は「その気」になる…というか。
親父は自分の死別したカミサンを「絶世の美女!」と称するが、母さんの遺影は息子の僕が見ても決して美人じゃない。
となったら、普通の人は親父が「面食いじゃない」と思うだろう。
確かに親父は、面食いじゃない。
運命のヒト…と称する母さんもそうだけど、ウチに連れてくる親父のセフレ(男だけど)だって顔だけ見れば十人並みって感じだ。
もっとも、親父の選択基準がどうなってるのかまでは、僕の知ったこっちゃないけれど。
二枚目(面食いじゃないけど本人は容姿端麗なのだ!)で有名人の人気歌手で特別面食いってワケでもなく、オマケに親父は猫かぶりの天才で馴染まない相手への態度は「礼儀正しい」そのものだから大概のヒトは「素敵なイイヒト!」と勘違いする。
だけど。
みんなは親父の本性…というか、親父と母さんの(異常とも言うべき)関係を知らない。
まず(これは親父の話なので、どこまでホントか分からないけれど)、親父と母さんは運命の出会いをして大恋愛の末にめでたくゴールインした…んだと言う。
だから、親父の「死んだカミサン」への想いってのは、そこらにあるフツーの「グリーフ・ワーク」とは訳が違う。
というか、普通「グリーフ・ワーク」ってのは喪失した事実を受け止めて、悲しみから精神的にも現実的にも立ち直る為の言葉であって、親父みたいな状態の人間に使うのがそもそも筋が違いすぎる。
第一、親父は単に「今でも最高の女は桃ちゃん!」と思いこんでいるだけで、母さんが死んでしまった事…つまり喪失感からはすっかり立ち直っているんである。
そも、親父が母さんと結婚して、僕という子供まで産まれている状況から、コナを掛ければなびくとフツーは考えるだろうが。
親父にとってカミサンは「運命のヒト」であって、この世で唯一の「異性」だった。
どういう意味かというと、ウチの親父はカミサン以外に関しては基本的に「ホモセクシャル」なのだ。
つまり、死んじゃったカミサン以外の異性には全く興味がないンである。
親父にとってセックスは、便所に行ったり飯を食ったりするのと同じレベルの「生理現象」の一つに過ぎず、そしてその生理現象を解消するのは同性とする方が良い! ってのが持論なのだ。
さすがに人気歌手という立場上、それを「公言」はしてないけれど。
もっともそれだって、レーベル会社や所属事務所の偉い人達(すなわち、件の中師氏とか)が「社会に与える影響が好ましからぬ物になるので」と言って口止めしているに過ぎず、本人は「何処に出しても恥ずかしくない」と思っているフシがある。
とにかくそういう思考をしているところにもってきて、一部の好事家には親父の外見及び言動はモノスゴク好まれるらしい。
夜のベッドの相手に関して、親父は事欠いた事がない。
神巫ハルカは最近やたら気に入りの相手で、このところ良く見かけるようになったけれど。
親父のセフレは神巫ハルカの他にも、若い頃からの付き合いがあるタモン蓮太郎とか、ミュージシャンとしてメジャー活動を始めた時からずっとサポートをしているヒロオ文明とか、やっぱりサポートをしている青山タケシとか……その他諸々、片手で足りないほどだ。
僕が生まれる前からつるんでいるタモン蓮太郎辺りは、話によると母さんが生きていた頃から親父とそういう付き合いがあったらしい。
一体、そんな壊れた男とどうして母さんが知り合って付き合って結婚までしたのか、僕には全く理解出来ないのだけど。
そういう連中と親父の付き合いに関して、母さんはハッキリ「悪い病気さえ貰ってこなければ、別に何してても構うコトじゃないでしょ?」と答えたらしい。
最初にそれを聴いた時、僕は母さんが親父の財産(というか地位とか名誉とか)欲しさに我慢して付き合っていただけだったのかと思ったし、それならコナを掛けてくる家政婦さん達となんら違いがないと思ったけど。
しかし親父との付き合いが長いタモン蓮太郎曰く「桃ちゃんはシノさんの才能の熱烈なシンパだったンだよ」だそうで、つまり母さんはミュージシャンとしての親父を愛していた…というか、むしろ「崇拝していた」らしいのだ。
故に「悪い病気さえ貰ってこなければ〜」という台詞は、ミュージシャンという職業柄、創作活動をする為のインスピレーションを得るには、常識で物事を計ってはイケナイ…という、モノスゴイ持論の元に発言された言葉なのだ。
親父は母さんを「運命のヒト」と呼び、どんなにとてつもないタガの外れた乱れた生活をしていても、カミサンだけは別格で大事にしてたという。
そして母さんは親父がどんなトンデモナイ発言をし、奇矯な行動を取り、日常で迷惑この上ないしわ寄せを食わされても、常に微笑んで親父を甘やかしていた…らしい。
となると、親父の「運命のヒト」発言も、まんざらウソでもないんだろう。
タモン蓮太郎の教えてくれた母さんの名言(?)には、「シュウチャンの気にそぐわないなら、辞めちゃいなさいよ」と言うのがある。
何を辞めちゃうのかというと、アルバイトだ。
そういうミュージシャンにありがちな状況として、親父は売れるまでの間ずっと母さんのヒモ状態だったらしいのだが。
同じようなヒモ生活をしていても、タモン蓮太郎は付き合っていたオンナに愛想を尽かされて出て行かれる事があっても、親父の元から母さんが出ていこうとした事は一度もなく、あまつさえバイト先の店長と些末な事でモメてクビを宣告された親父に、母さんは「辞めちゃいなさいよ」と笑っていたと言うのだ。
そんな変な夫婦だったから、家政婦にきたオンナのコナぐらいで何かが揺らぐはずもない。
というか、ある意味で女性は全てアウトオブ眼中だから、掛けられたコナに気付かないのだ。
事実無根の「既成事実」を作って裁判沙汰にもつれ込もうとしたのもいたけど、「鏡見たコトねェのか、ブース!」の一言で撃退するのを僕は目の当たりにした事がある。
家政婦が居ない事で、確かに色々なしわ寄せを食わされていると思うけれど。
しかし、もっと言ってしまうと親父がそうまでして家政婦を雇おうとしている理由は偏に僕の日常を円滑に運ばせる為だし、家政婦とのトラブルの原因は家政婦側にあると僕も思う。
確かに親父は桁外れのトラブルメーカーだが、本来の仕事(家政婦業)をそっちのけで親父を口説いたり叱責したりしている方が間違っているんだから。
「桃ちゃん。パパは朝ごはん終わったら地下にこもっちゃうけど、敬ちゃん来たら声掛けてね。あと、ゼミの連絡先教えて。パパがキャンセルの連絡しておくから」
「それぐらい、自分で出来るよ」
「だって、中師サンに頼んで弁護士の弥勒寺センセイから言ってもらった方が面倒少ないし、手間も掛からないジャン」
「そんなところで親だの弁護士だの出てこなくても、ちゃんとキャンセルも出来るし問題もないから!」
「なぁんでそうやって、行き先をパパに隠すんだよ〜! 教えろよ〜」
こうなると、親切心じゃなくてただの好奇心としか思えない。
「うるさいなぁ! 僕はコレでも受験生で忙しいんだから、煩わさないでよ!」
「あ、桃ちゃん!」
いい加減うんざりしたので、僕は親父が引き止めている声を無視して自室に戻った。
結局、親父は僕に無視されたのがよっぽどお気に召さなかったのか、地下に降りる前に僕の部屋の前までやってきてなんだがごちゃごちゃ言っていたが。
しばらくしたら神巫ハルカがやってきたらしい気配がして、「全く、シノさんってば俺がいるのに、桃ちゃん桃ちゃんなんだから〜」なんて言いながら、巨大な駄々っ子を連れ去ってくれた。
親父の愛人達に僕はなんの興味もないし、むしろあんな手間の掛かるトラブルメーカーのどこがイイのか? と彼らの精神を疑いたくなるが。
だがその反面、親父の気を惹きたくて日夜努力しているあの連中のお陰で、僕の静かな時間が確保されている事実も判っているから、そういう意味では彼らの努力を僕は高く評価している。
ゼミに行くのを中止したので、親父にちょっかい出される前にこれからの授業は全てキャンセルにして、僕は参考書とドリルを広げて、時々気晴らしにネットサーフィンなんかしていた。
時計が11時をちょっと回った頃、玄関チャイムの鳴る音がする。
玄関には隠しカメラが備えてあって、僕の部屋のパソコンにも回線が繋いである。
「はい?」
「こんにちわ、中師です」
「敬一さん、お久しぶりです!」
僕は二階から駆け下りて、玄関の施錠を外した。
「やあ、桃太郎くん。元気だったかい?」
現役の大学生で、K大のバスケ部のキャプテンをしている…という敬一さんは、筋肉がバッチリ付いた均整の取れた体格をしているけれど、性格はどちらかというと穏やかで口調も態度も礼儀正しい。
日に焼けた健康的な褐色の肌に、ちょっと日本人離れした彫りの深い顔立ちをしている。
「じゃあ、僕の部屋にどうぞ」
「えっ? お父さん、いらっしゃるんだろう? 挨拶してくるよ」
「いいですよ、あんな親父になんか」
「ダメだよ、そんな風に言っちゃ。それに桃くんは構わないかもしれないけれど、そんな事をしたら俺が礼儀知らずだと思われてしまうじゃないか」
ちょっと色素の薄い琥珀色の瞳は穏やかに微笑みかけてくれていたけれど、口調はきっちり僕を窘めている。
「そうですか…。…父さんは、地下のスタジオにいるから、呼んできましょうか?」
「いや、呼び出すのは悪いから…」
敬一さんは靴を脱ぐと、そのまま真っ直ぐ地下のスタジオに降りていった。
僕は敬一さんの後に付いて行ったけど中には入らずに、ドアを薄く開けて中の様子を立ち聞きする。
「おはようございます。またしばらくお世話になります」
「あ、敬ちゃん。遅かったねぇ? 中師サンは朝一で敬ちゃん来るようなコト言ってたけど?」
「余所のお宅に伺うのに、そんなに早くから来ても迷惑でしょう?」
「ぜ〜んぜん! ちゅーかむしろ、俺は敬ちゃんにウチに住んで貰いたいくらいだよ!」
全く、本気かよ、あのバカ親父!
「そういう事なら、明日は9時頃にお伺いしますけど。……でも、一緒に住むのはちょっと……」
唐突な親父の発言に、敬一さんは戸惑ったような返事をした。
「やっだなー! ジョーダンに決まってンじゃん! ちゅーかそんなの、中師サンが許可してくれないよ! 敬ちゃんは中師サンのご自慢の息子だもん!」
「お義父さんには、本当に良くしてもらってます」
「そーだよなぁ! あ、そんならいっそ中師サン家に俺と桃ちゃんがイソウロウしちゃおっかなぁ〜!」
「…あの……東雲さん?」
「ジョーダンだって!」
あはははは! とか笑っている親父を、なんだか不満そうに神巫ハルカがつついたらしく、親父の笑いは途中から「いていていててて」とかいう悲鳴に変わった。
「じゃあ、桃ちゃんのコトよろしくね。あと、お昼なんだけどさぁ、家政婦いないから桃ちゃんになんか作ってやってくんない? 俺とハルカは、昼前にココ切り上げて午後からいないから」
「え? 家政婦さん、また辞めちゃったんですか?」
「ん〜? 今回は辞めたんじゃなくて辞めさせたの。も〜、ホンットまいっちゃうよね〜。中師サンが敬ちゃんは料理上手だって絶賛してたけど、ホントなの?」
「いや、あの〜。絶賛されるようなモンじゃないですよ。普通にちょっと食えるモンが作れるだけで」
「桃ちゃんもアレで結構ヤルから、二人でテキトーにやってよ」
「分かりました」
「桃ちゃんさぁ、敬ちゃん来るのスゲー楽しみにしてたンだぜ! 中学受験の時に敬ちゃんに見てもらって、そのあと敬ちゃんが来なくなってからずっと拗ねてたンだ! 桃ちゃんは兄弟とかいないし、ウチの事情が事情だからあんまり友達付き合いとかも出来ないからさぁ…………」
僕がドア越しに立ち聞きしているのを知らずにいるのか、はたまた知っててワザとそんな話を始めたのか?
親父の真意は解らないけれど、途中から僕はメチャクチャ恥ずかしくなってきてしまって慌てて二階の自室に駆け戻った。
敬一さんに、あんな話するコト無いじゃないか!
ヒデー親父だっ!
部屋でしばらく待っていると、敬一さんが戻ってきた。
「敬一さん、親父になんか言われたの?」
「いや、別に普通に挨拶してきただけだよ?」
「どうせまた、超! 身勝手発言連発だったんでしょ? あのバカ親父」
「そんな風に言っちゃいけないな。東雲さんは桃太郎くんの事を一番に考えてくれているんだし」
「余計なお世話だよ」
そっぽを向いた僕に、敬一さんは諦めたみたいに溜息を吐く。
でも、敬一さんの溜息を訊いたら、なんだか急に自分がモノスゴク子供っぽい態度を取ったような気になって僕は慌てて振り返った。
「あのさ、僕ここがどうしても良く解らなくて。ネットで調べてみたんだけど、なんかやっぱり分かんないんだ。敬一さん、解るかなぁ?」
「ん? どこだ?」
僕が差し出した参考書を受け取り、敬一さんは僕の疑問にすらすら答えてくれた。
親父の台詞じゃないが、引き取った敬一さんをいきなりK大に入れようとした中師氏はかなりのミーハーだと思うが、しかし中師氏は引き取った敬一さんの成績を見てK大に入れると思ったから受験させたのだろう。
それこそ敬一さんはゼミの教師なんかよりずっと色んな事を知っているし、教え方も上手い。
僕が中学受験する時、敬一さんはK大2年生だったから、今は現役K大4年生になる。
「やっぱり、ここに一過程あったんですね。僕、どうしてもそこのところの繋がりが解らなくて」
「うん、ちょっと解りにくいな」
敬一さんは今年で卒業してしまうから、せっかく高校が大学のキャンパス内にあるにも関わらず一緒に通う事は出来ない。
でもまぁ、敬一さんと先輩後輩になるのはちょっとだけ嬉しい。
それから僕は、今までゼミで解らなかった色々な事を敬一さんに訊ねた。
ゼミで講習を受けている時や、学校で授業を聴いていると、全く退屈でスゴク眠くなるのに。
同じ内容であるはずの話を敬一さんにして貰うと、全然つまらなくなんか無いし、むしろ夢中になって色々質問したくなる。
「桃太郎くんは勉強好きだなぁ」
なんて言って敬一さんは笑うけど、僕の学校での評価はそんなに良くもない。
もっとも、ワル目立ちするほどでもないから、中ぐらいってのが正しいところだろうけど。
「別に、好きってワケじゃないです」
「お母さんは成績優秀だったって、東雲さんが言っていたからなぁ」
「でも、親父は高校中退だよ?」
「う〜ん、でも東雲さんはああいう性格だから、きっと集団生活に合わなかったんだろう。むしろ頭の良い人だと思うよ?」
「そうかなぁ?」
「なんだい、桃太郎くんはお父さんの評価が低いんだね?」
「だって、バカみたいじゃんか。それに、毎日のように違う男が泊まっててさ。不潔だよ」
「確かにそういうところは、桃太郎くんぐらいの年齢だとすごく反発したくなるかもしれないけれど。でもそれはただの反抗心だけで見ている、公平な評価じゃないんじゃないかい?」
「そうかなぁ? でも親父は猫かぶりの天才だから、敬一さんが騙されてるだけかも」
「どうかな?」
敬一さんはニコッと笑って、僕を見る。
「でも桃太郎くんは俺を敬一さんと呼ぶし、母親は母さんって呼ぶけど、父親だけは親父って呼ぶだろう? それはやっぱり、反抗心の現れだと思うし。尊敬をするのは無理かもしれないけど、でもやっぱり年上に対してはある程度の敬意は払わないとな」
敬一さんにそう言われると、そうしなくちゃダメかなって思うんだけど。
あの親父の事を考えると、ちょっとでも敬意なんて払おうモンならいくらでも図に乗って来そうな気もする。
「や、もうこんな時間か。昼飯にしよう桃くん」
慌ただしく立ち上がってキッチンに向かう敬一さんに、僕も着いていった。
冷蔵庫の中を見ると、昨日まで来ていた家政婦さんが買い置いたと思わしきモノが多少入っていたけど。
「キノコと大根しかないですよ?」
「こっちの棚にスパゲティの乾麺があるから、昼はこれにしよう。桃くんはその大根をおろしておいてくれ」
僕は大根を適当な長さに切ると、敬一さんに言われた通りにおろす。
その間に敬一さんは鍋に水を張って火に掛けスパゲティを茹でる準備をし、湯が沸くまでの間にキノコをばらしてフライパンにバターを溶かした。
今朝、地獄のようなフレンチトーストを作成してたフライパンが、敬一さんの手に掛かると良い匂いのするキノコのソテーを作る魅惑の調理器具に変わる。
キノコに火を通すとそこにしょうゆをパッと掛け入れて火を止め、それから茹で上がったスパゲティを火から下ろすとオリーブオイルで仕上げる。
皿に盛られたスパゲティの上にキノコのソテーと、僕のおろした大根をのせて、それから最後に敬一さんはたっぷりの刻み海苔とカツオブシを上に盛った。
「ここにカップスープのコンソメでいいだろう?」
「うん」
ちゃちゃっとこんな風に昼食の用意が出来ちゃうところはもちろん、食べても抜群に美味しいところが敬一さんの凄いところだ。
「敬一さんの料理は、家政婦のオバサンよりずっと美味しい」
「そうか? そんな事はないと思うがなぁ?」
敬一さんはなんでもスゴク上手く出来るけど、でもそれを全然威張らないところがスゴクかっこいいと僕は思った。
夕方になったら、親父が帰ってきた。
丁度敬一さんは中座していて、部屋には僕一人だった。
「たっだいまー、桃ちゃ〜ん!」
帰ってきたなり、二階に駆け上がってきて僕を背後から羽交い締めにして、あげく頬に「ちゅ〜〜〜!」だ。
「やめろよっ!」
「アレ? 敬ちゃんは?」
「敬一さんはトイレ! ちょっと! 敬一さんにまでチューすんのやめろよな!」
「なに? 桃ちゃん妬いてるの? あっはっはっ、いくらパパが博愛主義でも他人ン家の子にチューしたりしないよ〜」
「親父のソレは、博愛じゃねェ! このホモ!」
「あ〜、親父とか言われるとパパ傷付いちゃうな〜」
「勝手に傷付いてろ!」
「んも〜、ホントに桃ちゃん反抗期」
とか言いながら、僕の頬をプニッとか押してくるので、僕はその手を邪険に払いのけた。