真っ白なキャンバスを前にして、葵は大きく深呼吸をした。入学して早々、とんでもない難関が来たものだ。

「顔も名前も知らない、そんな者同士が仲良くなるきっかけになればいいね」
 今岡先生は黒縁の眼鏡の奥で笑みを深くして、生徒たちひとりひとりをイーゼルの前に座らせた。
 中学校で触ったかどうかもわからないイーゼルを広げるだけでもやっとだというのに、クラスメイトの似顔絵を描いてみましょうかと言うのだ。
 もちろんデッサン用の鉛筆というものは持ち合わせていない。自宅から2Bの鉛筆があれば持ってきなさい、無理ならHBでも構わないというざっくりとした指示を出され、葵はHBの鉛筆を持って椅子に腰掛けている。
 そしてその目をキャンバス──その奥にいる生徒へと向けて顔を顰めた。向こうもそれに気が付いたのか、不本意そうな顔をこちらに向けて同じように鉛筆を構えている。
 藤堂イツキ。
 ほっそりとした顔立ちだが、垂れ下がった前髪が顔半分を覆い、暗い空気を醸し出している。
 静かな男だ。
 実を言えば、彼とまともに会話をしたことは今の今まで一度もない。
「よろしく、藤堂くん」
 ここは笑顔だ、瀬戸葵。
 そう自分に言い聞かせて微笑んでみたが、藤堂はちらと目を合わせただけで、頷くことすらなかった。ひとつとして反応のない相手を前にして、葵は顔に笑みを張り付かせたまま、早くこの時間が終わってしまえばいいのにと願った。

 鉛筆が滑る音が聴こえる。
 戸惑いつつも皆スケッチというものに挑戦している。葵の鉛筆もそれなりに形を捉えようとしたが、縦横に十字線を描いたきりだ。キャンバスと、藤堂とを交互に見るだけでも眼の奥が疲れてくる。
 まだ動物園の動物を追いかけているほうがマシだ。対象が動き、時には鳴き声を上げるから目も耳も楽しい。
 しかし、藤堂は違った。
 暗い顔をしていたはずの顔に精気が宿り、ただ黙々とこちらを見ながら腕を動かしている。
 彼の目が触れた。
 この顔に、首筋に。
 たったそれだけのことなのに、葵の心は一気に藤堂に吸い寄せられた。ただ黒いだけだと思った瞳に、少しだけ赤みがあるように思えた。
 なんだろう、なんだか明るいぞ。
 まるで、炎のような何かが、そこに。
 そう思った時には、手が伸びていた。届きもしない彼の前髪を払うように、手が動いた。不可思議な行動に、藤堂が眉を顰めるのは当然のことだ。
「何をしている」
 初めて聴いた、声変わりもすっかり終えてしまった深みのある声音。虚空を掴んだその手で、藤堂の線の細い輪郭をなぞりながら、葵は気恥ずかしそうに俯いた。


 両手の指でファインダーを作り、その囲いの中に教室を静かに歩く藤堂を捉える。
 賑やかな生徒たちの笑い声など気にも止めずに、椅子へと腰掛ける姿。手入れが行き届いていないのか、寝癖の多い黒髪が項のあたりであちこちに跳ねている。少し猫背気味な彼の様子に目を細める葵の肩に、誰かが手を置いた。
「あおいちゃん、何やってるんだい」
 肩を揉みこむようにしなだれかかってきたのは、金川だ。
 ポニーテール姿で錯覚されてしまいがちだが、れっきとした男子高校生だ。彼の長い髪がふわりと頬を掠めて、女子にも似た甘ったるい匂いが降ってくる。そのさらさらの髪を鬱陶しそうに払いながら、葵は「べつに」と口を尖らせた。
「藤堂なんか見て、何が面白いんだよ」
 ぶっきらぼうにそう言って隣に腰を掛けたのは、金髪の男──本野だ。彼は、男にしては妙に女っぽい風貌をした金川を見上げると、見えない火花を散らすようにして葵の隣に陣取った。指定のブレザーを着込んではいるが、中に着ているシャツは真っ赤だ。彼なりのお洒落であるらしい。
 葵は校則をきっちり守っているので、その辺りの着崩し方の加減はよくわからない。
 ふたりぶんの視線に促されて、葵は吐息を零した。
「……藤堂の目の奥に、炎が見えたんだ」
「炎?」
 金川と本野は、互いにいがみ合っていることも忘れて顔を見合わせた。それから、夢見がちに頬杖をついてしまった葵に視線を落とした。
「あの色、何だったんだろう」
 二人は人間の目の奥に炎なんてありませんよと諭すことは諦めて、葵を囲んだ。次に飛び出すであろう葵の言葉を待つ仕草は、命令を待つ従者にも似ていた。
「俺、藤堂のことをもっとよく知りたい」
 何となく感じていたことを声に出すと、まさしく今までずっとそれを考えていたのだという実感が、葵の中で湧いた。
「知りたいって言っても、藤堂なんてただの根暗じゃん」
 金川は自慢の長い髪を揺らしながら、つまらなそうに藤堂が座る背中に目を向ける。噂話など聞こえていないのだろう、当人は静かに本を広げているようだった。
「入学式の日に話しかけても、うんともすんとも言わないような奴だろ。あおいちゃんにだって冷たい態度とっていたって聞いたけど。ああいう男と仲良くなんてなれるわけないって、コミュニケーション能力が欠けてんの」
 金川は自慢の髪先をくるくる指に巻き付けながら、そう零した。その様子を横目に、「けっ」と本野が悪態をついた。
「金川の言葉を借りるわけじゃねえけど、俺もあんまり藤堂のことは好きになれねえな」
 本野は、背もたれにぐっと体重をかけて大仰に足を組んだ。
「名前を聞いても答えなかったやつだぜ。授業でもボソボソした声で何度も言い直せって教師に言われるようなアホだし、そこんとこは金川と同意見だな。気に食わねーけど」
「あら珍しい、本野と意見が合うなんて」
 にっこりと微笑んだ金川と、本野との間に再び火花が散ったようだが、葵にとってはどうでもいいことだった。友達はこの二人だけではないし、こうやって自分を中心にして誰かが小競り合いをするのも当然のことだったからだ。
 けれど、藤堂だけは違う。
 今一度指先で窓を作って、その中に藤堂の姿だけを閉じ込めた。振り向くことのないその背中を、どうやったらこちらに向かせることができるだろうか。


 似顔絵の授業はまだ続いていた。
 他にも教えることはあるだろうに、美術の今岡先生はそれはそれは楽しそうに生徒たちのキャンバスの仕上がり具合を眺めている。その足が葵の後ろに止まると、少しだけ気落ちしたような吐息が落ちた。
 それもそうだ、葵のキャンバスにはまだ十字線しか描かれていない。向かい合って座った藤堂の真剣な眼差しにばかり気を取られて、いっかな鉛筆が動いてくれないのだ。
 やがて先生は、その藤堂の背後に移動して、自身の顎の下を撫で擦った。黒縁眼鏡の奥に、藤堂の絵はどう映っているのだろう。
 それはそれとして、藤堂の瞳が顔のあたりを撫でる感覚は心地よいものがあった。
 教室の隅で、誰とも群れず、誰とも話さず、ひっそりと本を読んでいるような男の目が、一心に葵に注がれているのだ。その目の鋭さや、熱さを目の当たりにして、興奮せずにはいられない。
 教師がまた、生徒たちひとりひとりの絵を見回っていく。遠ざかる音だけを耳に、ただじっと、藤堂の顔を見つめる。轟々と燃え盛る松明が、そこにある気がした。
 あの指先で捉えた自分は、一体どんな顔をしているのだろう。

「どこまで描けたのか、見せてよ」
 休憩時間、葵は藤堂に声を掛けた。この休憩時間の後、あと一時間もすればこの似顔絵の授業は終わるのだから、今見る必要などないのだけれど。
 それでも興味があったのだ。
 あの熱い視線のもとで描かれた自分はどのようなものなのか、知りたかったのだ。
 藤堂は眉間に皴を寄せていたが、首を振ることはなかった。それを諾と捉えて、ひょいと彼の後ろからキャンバスを覗き込んで──葵は息を飲んだ。
 黒鉛で描きこまれた緻密な線は、写真と見紛うほどの迫力があった。
 青みがかった色彩の、肩ほどにかかった葵の髪は、一本一本の線に透明感を含んで描かれていた。浮世離れした水色の瞳は、遠縁に異国の血が流れているせいなのだが、そのクリスタルにも似た色合いが見事に鉛筆によって表現されていたのだ。
「もういいだろ……」
 藤堂はそう言って、モデルの対象が横にいるにも関わらずに鉛筆を手に持った。クラスメイトたちは休憩時間を楽しんでいる。けれど彼はそんなことを知らないのか、忘れてしまったのか、夢中で手を動かしていた。
 その横顔の、ハッとするほどの美しさに見惚れたまま、葵はしばらく彼のそばから離れることができなかった。
 褒めようと思えばいくらでもできた。
 きれいだね、細かいね、写真みたいだね。
 でも、そんな陳腐な言葉では彼の絵を賞賛することはできない気がして、少しだけ誇らしい気持ちになりながら、葵も自身のイーゼルの前に座った。
 向かい合うように鉛筆を手にした葵に、藤堂の瞳が少しだけ撓んだような気もした。
 その優しい色が見えただけで、充分な気がした。


「藤堂、一緒に帰らないか」
 似顔絵の授業を終えた放課後、葵は意気揚々と藤堂のもとに訪れた。いつも一緒に帰宅している金川と本野がお互いに目を丸くして顔を見合わせているが、そういう光景は昼間にも見た気がする。
「藤堂の家に行ってみたいんだ!」
 勢い余って飛び出た言葉に、帰り支度をしていた藤堂の手が止まる。前髪でほとんど表情が隠れてしまっていて、彼の気持ちは汲み取り難い。だから葵は、自身の武器である美少年フェイスを利用した。
 自分が微笑めば、どんな強面の男性であっても道を通してくれるのだ。
 にこりと、口もとを綻ばせて口を開く。
「俺さ、もっと藤堂のことを知りたいんだ、だから一緒に帰ろうよ、そして、できたら俺と友達になって欲しいな」
 背後で金川と本野が「ぎょえー!」と妙な声をあげているけれど、構うものかと葵はさらに一歩踏み込んだ。
「俺、藤堂のことが気に入ったから!」
「気に入ったから、なに」
 低い声が、浮足立つ気持ちを一気に下降させる。
「そういうの、迷惑だから」
 藤堂は感情の波すら見せず、静かに鞄に教科書を詰め込むと、そのまま教室を後にしてしまった。その堂々たる足取りをぽかんと見送って、それから葵は弾けたように走り出した。
「あおいちゃん!」
「葵!」
 金川と本野の呼びかけを後ろに、葵は廊下を走り抜けた。思っていた以上に足の速い藤堂を追いかけて。


 校門を出てすぐの交差点の信号あたり。漸く藤堂に追いついた葵は、ゼエゼエと肩で息をしながら「藤堂!」と叫んだ。
 夕方の、下校する生徒で行き交う道々に、葵の大きな声が響き渡る。幾つもの視線を受けながら、すうっと息を吸い込んだ。
「一緒に帰ろう、藤堂!」
 自分でも小学生みたいなことをしていると思ったけれど、もうこうなればヤケなのだ。衆目があれば、さすがの藤堂でも自分と帰らざるを得ないだろう。
 藤堂は飽きれたようなため息を零して、振り返ってくれた。そのことに気を良くしてそばに駆け寄っていくと、
「いつもの取り巻きはどうした」
 不機嫌そうに問われた。
「取り巻きって?」
「……髪の長いやつと、金髪のやつ……」
「ああ、金川と本野のこと? 別に取り巻きじゃないよ、ただの友達」
 藤堂は前に向き直って、青になった信号を渡る。葵もそれに遅れまいと着いていった。
「友達と一緒に帰ればいいだろう」
 無口な藤堂にしては、随分と饒舌だ。葵は目を輝かせた。彼と会話できること、それ自体が嬉しいのだ。
「友達だったら、藤堂がいるじゃないか! 家はどのあたり? 徒歩で帰れる距離なら、近所かな!」
 葵は藤堂の顔の険しさが増していくことになど気付くことはなく、次から次へと話題を振っていく。信号を渡り切る頃には、自分の家が城下町の住宅街にあることをペラペラと喋ってしまっていた。
「瀬戸」
 ふいに、藤堂の足が止まった。
「友達を大切にできない人間と、友達になるつもりはない」
 彼の眼には鋭さがあった。睨んでいるわけではない、けれど、有無を言わさぬ凄みがあった。思わず止まった足もとに、藤堂の視線が落ちる。
「俺は、誰とも友達になるつもりはない」
 それだけを言い残して、藤堂は駅の方へと足を向けた。
 遠くから「あおいちゃーん!」「葵ー!」と、金川と本野の声が追いかけてくる。彼らの足が自分のところに辿り着くまでの間、葵はその場から一歩も踏み出すことができなかった。
 藤堂の背を追いかけることができなかった。

 友達を大切にしないやつという言葉が、胸に刺さったまま抜けることがない。


 友達なら、いくらでも出来た。
 幼稚園の頃から今に至るまで、友達のいない日々はなかった。きっとそれは、持って生まれたコミュニケーション能力がもたらすものだと思ってきた。今でもずっと、そう思い込んでいる節がある。
 ふと、立ち止まった場所は流行りの服が集うショップだった。そのショーウインドウに映った自分の姿に目を向ける。
 日本人離れした色素の薄い肌、空色の瞳に、黒髪とは程遠い青みがかった髪質。背丈だけは日本人らしい小柄さがあったけれど、どこからどう見ても異国の少年風情である自分が、ただ社交力があるだけで友達を増やせたわけでもない。
 この見た目を盾に、この人間離れした容姿を笠に着て、他者をコントロールしていたじゃないか。
 藤堂に話し掛けた動機だって、そういう優越感から来るものだったのではないか。
「……俺、馬鹿みたいだ……」
 誰にも聴こえないように零した言葉は、想像以上に胸を抉った。


 生成色のキャンバスの縦横に引かれた頼りげのない線を見下ろしては、葵の頭はゆっくりと項垂れていく。
「瀬戸、棒人間だって表現方法のひとつだろうが、さすがにこれでは描かれたほうも悲しいだろう」
 美術教師の今岡先生は、十字線しか描かれていないキャンバスを手に深いため息を零していた。
 話しがあるからと呼び付けられた美術教室で、葵は中途半端に投げ出してしまった似顔絵と向き合い、教師からのダメ出しを食らっていた。
「少しだけ時間を上げるから、相手を思って描きなさい。なに、そう難しいことでもないさ」
 励ますように背を叩かれたが、美術学校でもないのにとんでもない仕打ちである。これは成績に響くのでしょうかと聞こうにも、先生は用事があるからと言って葵を一人、美術室に残して行った。

 イーゼルを立て、キャンバスを載せる。手に持つのは鉛筆だが、向き合う空間には誰もいない。静寂だけが、教室を包み込んだ。
 そっと目を閉じて、藤堂の顔を思い浮かべる。
 不機嫌そうな顔が浮かんでは消える。
 キャンバスに何を描いたらいいと言うのだろう。
 モデルである藤堂はここにはいない、もうとっくに帰宅しているに違いない。金川と本野にも、先に帰ってもらうように言ってしまったから、ただの一人きりだ。
 廊下の向こうから、威勢のよい運動部の掛け声や、コーラス部の歌声が響いている。
 要は人の形を描けばいいのだ、小学生の頃だって描いたじゃないか、お友達の顔を描いてみましょうと。そういう授業はなにも、はじめてというわけでもない。
「せとくんって、ばけものみたい」
 ふいに、幼い誰かの声が聴こえた気がした。
 咄嗟に振り返ったけれど、誰もいない。
「その目、きもちわるい」
 覚えのある言葉だ。幼い頃、悪気なくクラスメイトから言われた言葉たちだ。

 やめろ、やめろやめろ。

 カタン、震えた手から鉛筆が床の上へと転がり落ちる。葵は頭を抱えたまま、嘲笑う幻聴の声に身を小さくさせた。
 青い目、色素の薄い髪、白すぎる肌の色。
 今では武器として全面に押し出していたこの容姿を、かつて憎んでいた時期もあった。周りのみんなと同じ姿ではないから、同じ容姿ではないからと爪弾きにされたのだ。
 だからこそ、この容姿を武器にして、武装して、そうして友達を作ってきた。見た目の整った人間と過ごすことの優越感をみんなに植え付けさせて、この容姿に価値を見出すようにして。
 果たして、それは友達と呼べるような関係なのだろうか。
 カツ、と床を踏む靴音が響いた。
「居残りか」
 静かな声に導かれるように顔を上げて、葵は息を呑んだ。帰宅したはずの藤堂が、鉛筆を拾い上げてくれていたのだ。


「まずは形をとらえる、おおまかでいい」
 キャンバスに向かう葵の前で、藤堂は姿勢を正して椅子に腰掛けてくれている。彼から受け取った鉛筆を手に、葵は恐る恐る彼に目を向けた。
「なんで、来てくれたの」
「……ここで時々、絵を描いているから」
「美術部だったっけ」
「いや、どの部活動にも入っていない」
 ついこの間、冷たい態度で葵を突き放した男と同一人物なのかと疑うほどに、藤堂の受け答えはしっかりしていた。
 夕陽が彼の頬を撫でて、凛とした雰囲気を醸し出している。目線でそれをなぞって、それから鉛筆を動かした。
「上手に描こうとしなくていい」
「……そうは、言っても……藤堂の顔だし……」
 前髪がほとんどの表情を奪ってしまう彼の顔。どこにでもいる、普通の男子高校生だ。良くも悪くもない、ごくごく普通の顔だと思う。でも、どうしてもその顔を見つめ続けていたい。
 葵は、最初の授業でもそうしたように、遠くから彼の前髪をかき上げるような仕草をした。
 一瞬の沈黙の後、藤堂がその意を汲み取ったのだろう、彼が重く垂れ下がった前髪をかき分ける。それはきれいに片耳にかかり、伏せていた瞼がふわりと持ち上がった。
 夕陽の色を受けて煌めく、炎のような瞳。
 ただ真っ直ぐに、見つめてくる瞳。
 今にも、胸が弾け飛んでしまいそうなほど──美しかった。


「瀬戸……この間はすまなかった」
 キャンバスの中の藤堂が形になっていく。
「いや、俺もごめん……急に友達になりたいとか言って……気持ち悪かったよな」
 苦笑いを浮かべる葵に、藤堂は片眉をあげたままじっとしている。
 前髪を上げた彼の顔は、文句のつけようがないほどきれいで、カッコ良かった。輪郭がシャープなのだ、すでに大人への階段をしっかりと登っている。そして、見慣れない赤っぽい瞳の色合い。
「藤堂って、女の子にモテそう」
 拗ねるような声が出て、葵は慌てて顔の前で手を振った。
「ああいや、べつに、変な意味はないよ! 藤堂の顔ってきれいだし、かっこいいから、きっとどんな子でも好きになって──」
 言いかけた口をさっと閉じるけれど、もう遅い。こちらの顔は熱く火照り、胸のうちは震えてしまっている。とうとう目線が下がってしまい、スケッチどころではない。藤堂からは何の返答も、何のリアクションもない。
 怒らせてしまっただろうか。
 そっと、盗み見るように見上げた藤堂の顔は、その端正な顔立ちとも相まって、穏やかな美しさを湛えていた。それは外見の持つ美しさだけではないような気もして、きっと自分はそういうものに触れたかったのだと、今になって気が付いた。


「ごめん、付き合わせてしまって」
 あれから、どうにか形になった似顔絵を今岡先生に提出して、学校を出る頃にはすっかり日も落ちてしまっていた。
 校門前で小さく頭を下げる相手は藤堂だ。彼は文句を言うでもなく、ここまで付き添ってくれたのだから。
「問題はない、少しぼんやりしていたかったから」
「あ、あの、よかったら今度埋め合わせに何か奢るよ!」
 ぽんと頭に浮かんだファストフード店の映像に、いいアイデアだとばかりに身を乗り出したけれど、彼は首を振った。
「買い食いは親に禁止されてるから」
「いや、俺がお金出すから、奢るって言ったよね、俺」
「だから、そういうのは迷惑で……」
 そう言いさした藤堂は、ふいにその目もとを緩ませた。下ろした前髪のせいでその表情はやっぱり読み取り難いものだったけれど。それでも今の葵には少しだけわかるのだ。藤堂が喜んでくれていることを。
「じゃあ……また……」
 控えめに手を振って別れた藤堂の、照れたような顔を思い返す。
 深く、深く、もっと深くに息を吸って、吐いた空気は胸の中を甘く震わせた。


 Ꮮ字に見立てた親指と人差し指のファインダー。
 どこかの知識で得た、構図を決めるためのその枠の中に藤堂の後ろ姿を捉える。
「まーたやってるよ、あおいちゃんは」
 金川は飽きれたものねと肩を竦めて、長い毛先にブラシを通していた。いつもは真っ直ぐなストレートヘアだが、今日に限って寝坊をして、ろくにヘアセットができなかったのだと嘆いていたのだ。
「あんな無愛想なやつより、俺達のほうがいいと思うけどな」
 ちゃっかり葵の横に座っている本野は、ブレザーの下に着込んだ自慢の黄金色のシャツを煌めかせている。登校時に教師から叱責を受けたらしいが、懲りずに着ているところを見ると、かなり性格は図太いところがあるのだろう。
「金川も本野も、いい友達だと思ってるよ。何だかんだ言いながら、俺のことを心配してくれているし──でも……」
 指で作った窓枠の中、ふいに藤堂が振り返る。
 あの日の美術室で強請った両目が、きれいに揃ってこちらを見つめ返してくれる。あの鬱陶しいほどの前髪を切り揃え、寝癖ばかりだった髪を整えてくれたのだ。おかげさまで、このクラスはもとより、隣近所のクラスの女子が休み時間になる度に藤堂の顔を盗み見に来ているようだ。
 藤堂は何も言わない、含みを持たせたように微笑んで、それからまたくるりと背を向けてしまう。
 でもそれだけでいい。
 たったそれだけのことで、葵の心は満たされている。
「俺は藤堂のことが大好きだからな!」
 教室の隅々にまで届くように声を上げる葵に、ぎょっと驚くクラスメイトはひとりもいない。藤堂本人でさえそうだ。穏やかな表情で本に目を落としている。

 一目惚れという陳腐な表現もあるけれど、葵はとろんとした目でこの感情を撫で擦る。その手触りは柔らかく、あたたかく、擽ったささえ含んでいる。
 今はまだ恋人のような関係とは程遠いけれど、藤堂が前髪を切ってくれて、あの炎のような目でこちらを見てくれる。
 今はそれが只々嬉しいのだ。

 これからも、君が持つ、ありとあらゆる色彩を見続けられるのだから。だからどうか、もう隠さないで欲しいと、葵は念じるようにそっと目を閉じた。