【白河春子 編】


 ――2011年9月、大阪。

 私が故郷を離れてから15年が経った。
 私は33歳になり、今は大阪で黒山大樹(たいき)さんと結婚をし子供と三人で暮らしている。
 大樹さんは当時、仕事仲間でもあり、都会の大阪に慣れない私の良き相談相手でもあった。親身になって話を聞いてくれ、またそれがきっかけで付き合い始めた。
 20歳の時に二人の間に子供ができ、周囲の反対を押し切り入籍し子供を産んだ。その為か、親戚とも疎遠になっている。
 大樹さんは元々、私がパートで勤めていた小さな病院の研修医だった。今では市民病院の脳外科医として働いている。彼のおかげで私の人生は救われたのかもしれない。
 子供は春子と大樹から一文字ずつ取り、春樹と名付けた。決して裕福ではないが、子供には苦労させまいと頑張ってきたつもりだ。
 春樹が中学校に上がって間もなくしてからだった。
 いつもと変わらない日常が、ある日突然変わり始める。15年もの間、思い出さない様にしていた母さんの夢を見たのだ。

『――春子、母さんはね……』
「母さんっ!」

 『母さんっ!』と声を出し、自分の声で目覚めたのは、残暑がまだ厳しい9月の朝の事だった。
 母さんは夢で何かを言いかけて……夢の続きを思い出そうとするが、慌ただしい朝の家事に追われ夢の事を後回しにしていた。
 しかし2日後、さらに2日後……繰り返してまた同じ夢を見る。

『――春子、母さんはね……』
「はっ!?……はぁはぁ……夢?また、同じ夢……」

 夢の言葉の意味を考えるが、どうしても続きが思い出せない。母さんは何を言おうとしたんだろう……?今までこんな事なかったのに。
 どうしても夢が気になった私は、思い切って夫にこの夢の話をした。


……
………

「――ていう夢をな……最近良く見るんよ」
「朝方うなされてたんはそれやったんか。……ええよ、僕が休み合わせて春樹と留守番しとくから、一回お墓参りに行ったらええわ」
「せやな……うん……。せやな、ありがと」

 夫がこの不思議な夢を理解してくれて、ほっとした反面、15年間一度も帰郷しなかった言いようの無い不安に襲われる。
 様変わりしてしまっているだろうか。故郷を捨て一度も帰らぬ私を近所の人達はどう思っているだろうか。
 そんな不安がありながらも、何かに突き動かされる様に電車の時刻表を調べ、宿を予約し、故郷へと一度帰ることにした。

 ――9月23日、朝。

「ほんなら……行ってきます」
「あぁ、気ぃ付けてな。留守は任せとき」
「お母さん、行ってら!」

 15年ぶりに帰る故郷。しかも一人旅。電車に乗るのも幾分か緊張した。
 大阪を出発し岡山駅で乗り換え、岡山駅から米子駅に向かい、そこからさらに境港線に乗り換える。片道4時間程度。道中、揺られる電車の中で色々考えていた。
 住んでた家ももうないだろう。故郷に帰って何があるんだろう?ただの自己満足……かもしれない、と。
 スマホを見たり景色を眺めていても、最終的に同じ事を考える様になっていた。何度も繰り返し、自問自答をする。
 お昼前、窓の向こうには懐かしい風景が見えて、もうすぐ終点の境港駅だと言うことがわかった。
 駅に着くと、様変わりした周辺の様子に驚いた。昔はさびれたイメージの商店街だったのだが、今では妖怪人気もあってか、商店街の至る所に妖怪の像が並び、観光客で活気に満ちていた。
 
「へぇ……今はこんなんなってんのや……」
「あだんっ!?おめぇ、春子ちゃんでねぇか!」

 たまたま駅近くのバス停で、急に声をかけられ驚いた。それは昔近所に住んでいた青井のおばちゃんだった。すっかり白髪になり年老いていたがすぐにわかった。正直あまり近所の方には出会いたくはなかったが致し方ない。
 私は平然を装い、挨拶をする。

「ご無沙汰してます。青井のおばちゃん、お元気そうで」
「あだぁ……ほんと春子ちゃんだわぁ……こげに大きいなってぇ……」
「はい、その節はお世話に――」
 
 言葉を続けようとした時、おばちゃんが泣きながら抱きついてきた。

「元気で良がっだ!!ほんと良がっだ!!」
「!?」

 帰郷した私を迎えてくれた第一声が、泣きながら喜ぶおばちゃんの姿だった。
 しばらく泣いていたおばちゃんは、私の手を取り急に歩き出す。そしてタクシーに乗り込んだ。
 おばちゃんはタクシーのナビ画面を指差し、運転手さんに指示を出す。

「運転手さん、ここの港町までちょっこぅ頼むわ」
「はい、わかりました。こちら108号車ドウゾ――」
「お、おばちゃん!私、バス待つよ!タクシー使ったら高いけん!」
「いいけんいいけん、わしが出しちゃるけん」

 おばちゃんにつられて、いつの間にか忘れていた方言が自然と口から出る。
 タクシーで地元へ向かう道中、おばちゃんはひっきりなしに話をしてくれた。タクシーは境港大橋を渡り、島根県に入ると、海岸線を走り懐かしい港町が見えてくる。

「ほんとあんたが元気で良かったわ。さ、着いたで。春子ちゃん、後でうちにも寄ってごしない。運転手さん、そこで止めて……そうそう、そこの……」
「……おばちゃん、ありがとう」

 タクシーが止まったのは地元のお寺さんだった。
 おばちゃんにお礼を言い、私はお寺さんへと続く参道に入る。木々が生い茂り、日陰に入ると一気に涼しく感じ汗が引くのがわかる。9月とはいえ、まだ照りつける太陽は暑くタクシーもエアコンをつけていたほどだ。

 参道を抜けると、目の前が開けお寺さんが見えてくる。
 境内にはたくさんの白色の彼岸花が咲いていた。あまりに綺麗だったので、写真を撮ったのを覚えている。

「そうだ!この写真をあの人にもメールして、ついでに待受にしよっ!」

 ――メールを夫に送信しスマホの待受を変えた後、境内のお地蔵さんに手を合わせ、住職さんが住む本堂の隣の住まいでインターホンを押した。

『ピンポーン』
「はぁい、今、行きます!」

 玄関のドアは開けっ放しだ。田舎ならではの光景なのかもしれない。広い土間のある玄関の中で待っていると、どたどたと廊下を走る音が聞こえ、住職さんが玄関に現れた。

「はいはい、お待たせしま……」
「あのぉ……こんにちは。覚えておられるかわかりませんが、黒山……いえ、白河春子です」
「白河春子……白河……!!えっ!春子ちゃん!!?」
「はい、ご無沙汰しています」
「いやぁ……大きいなって……!何年、いや何十年ぶりかいね!」
「15年……ですかね。住職さんは変わられませんね」
「はっはっは!そげかいね。わしも歳を取ったんだけどねぇ……さっ、上がって上がって。今、お茶入れて来るけんね」
「あっ、はい。失礼します」

 玄関を入ってすぐの応接間に通され、周りを見渡す。15年前に私が知ってる住職さんは、歴代の住職さんに並び額縁の中に収まっておられた。先程の住職さんは息子さんなのだ。
 応接間はひんやりとし、違う空間にいるんじゃないかと思うほど空気が澄んでいる気がした。

「お待たせ、春子ちゃん。お茶どうぞ」
「ありがとうございます」
「しかし、良く来てくれたね。15年ぶりって言ったか……そげか。もう15年も経つんか……」
「はい。境港の駅で偶然、おばちゃ……青井さんに会って……それでお寺さんに行くように言われて来ました……」
「そげだったか。……青井さんか。あぁそう言う事か。ちょっと待っちょってよ」
「はい」

 お茶を飲みながら住職さんを待ってると、一個の段ボールを持って住職さんは戻ってきた。

「春子ちゃん、開けてみて」
「はい」

 ガムテープに「白河家」と書かれた段ボールには、当時の私では到底受け入れられなかったであろう現実が詰まっていた。
 中を開けると、母さんと父さんの位牌があり、そして一度は飾られていたであろう写真もあった。他にもアルバム、通帳、市役所からの手紙……箱の中はあの日から時間が止まったままだった。ずっと住職さんが大事に保管してくれていたのだと言う。
 胸の奥がズキンと痛んだ気がした。

「なぁ、春子ちゃんや。郁子(いくこ)さん……いや、君のお母さんは何で死んだと思う?」

 そう、住職さんが母さんの写真を見ながら私に問いかける。

「……わかりません。当時の記憶では借金苦か、父さんの看病疲れか。でも……ひとつ言えるのは私を捨てて……身投げをした……!」

 押し殺してきた感情がむき出しになりそうになる。それをグッと抑えると、なぜか無意識に涙が流れた。
 私はカバンからハンカチを取り出し、目頭に当てた。

「それは違う……勘違いしちょるよ、春子ちゃん」
「え?」
「あの日――」

 住職さんは当時の様子を思い出す様に、時々窓の外の中庭を見ながら話を続ける。

 ――母さんが亡くなったあの日、実は二人の遺体が海から上がったそうだ。一人は母さん。もう一人はこの町の人ではなく身元がわからない女性。
 遺書があり彼女は自殺だったそうだ。女性は鑑識と、司法解剖のため他の病院へ移されたという。
 その為、遺体が発見された翌日、お寺さんに戻って来たのは母さんの遺体だけだった。
 それを見た近所の人達は母さんが自殺をしたのだと勘違いし、そんな噂が流れた……。

「いいかい?春子ちゃん。私はね、春子ちゃんのお母さんはその人を助けようとして海に飛び込んだんだと……そんな気がしてならないんだ」
「え……?で、でも!誰もそんなこと教えてくれなかった!!皆が母さんは自殺したって――!!」
「近所の人はそう思うだろうね。実際、ここに帰ってきたのはお母さんだけ。後日、警察が来て事情を聞くまで私も知らなかったんだ」
「嘘よ……だって、そんな事言ってくれな……!?」
「四十九日の日……一度、話したよ。でもその時の春子ちゃんは聞く耳を持たなかった……。覚えてないかい?私に言った言葉を……」

 私の頭の中にある閉じ込めていた箱の蓋が開こうとしてる。それは自分を保つ為の開けてはいけない箱。その箱の蓋がゆっくり開き始める。

「……そんな作り話をして……慰められても……惨めな……だけ……」

 自分の意思とは無関係に口が開く。怖くて住職さんの目を直視出来ない。葛藤で胸が苦しくなる。
 なぜあんな事を言ったんだろう。なぜ住職さんの話を素直に聞けなかったんだろう……。
 そんな私と、18歳の頃の私が閉まっていたはずの箱から覗き込み話しかけてくる。

『――そんなの嘘だ!嘘だ嘘だっ!母さんは私と病気の父さんを捨てて一人で逝ったんだ!』

 私が困った顔をして言葉に詰まると、住職さんが通帳を段ボールから取り出し見せてくれた。

「これ……春子ちゃんが町を出てからしばらくして、ご近所さんと一緒に家の遺品整理をして出てきた物なんだ。お寺で預かっちょったんよ」

 親戚の立ち合いで近所の方々が手伝い、家の整理をしてくれたそうだ。そういえば当時の私は就職先の会社の寮に入り、お世話になった親戚の家にもほとんど帰らず連絡もあまりしていなかった事を思い出す。

 住職さんに渡された通帳に目を通すと、母さんが亡くなった前日の日付まで入金がされていた。
 そして通帳の裏表紙には『春子がお嫁に行くまでに100万円貯める!』と、マジックで書いてあった。
 それはまぎれもなく……母さんの字だった。

「春子ちゃんや。自分の子供を置いて先に逝きたいなんて母親はおらんけん。これが証拠だよ。春子ちゃんのお母さんは死ぬ直前まで春子ちゃんのことを考えていたと思う。それにね、飛び込んだ周辺の海にその日の夕食の買い物が散乱していたそうなんだ……お母さんの気持ちがわかるかい?」
「そ……んな……こ……と……」

――それ以上、言葉が出なかった。

 自殺しようとする人がその日の夕食の買い物をしたりするだろうか……!!
 自殺しようとする人が子供の積立貯金を前の日までするだろうか……!!
 母親になった今なら母さんの気持ちが汲み取れる気がし、急に胸が熱くなり、涙が止まらなくなる。

『――母さん……母さん!!母さんっっ!!!うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』

 箱の中にいた18歳の私が一気に飛び出してくる。15年間閉じ込めていた箱はいとも簡単に壊れ、もう一人の私が、私の頭の中で泣く。

「なんで……!なんで知らない人を助けて母さんが死なないといけなかったの!なんでっ!!」
「春子ちゃん、落ち着いて」
「なんでよ……!」

 その時住職さんの目の前にいたのはたぶん、18歳の頃の私だったのだろう。年甲斐もなくわめき散らし、大声を出していた。

 ――私はそれからの記憶があまりない。
 いてもたってもいられず通帳を握りしめたまま、靴も履かずお寺を飛び出していた。
 ここに来た時に見た綺麗な彼岸花も目に入らないくらい走って……それでも走って走って走った!
 涙が止まらなかった。今思えば、葬儀の時もこの町を出る時も一回も涙は出なかった。それが今頃になって涙が止まらず溢れてくる……。