「いや驚いた、あんな凄い風呂場を、どうやって作ったんです?!」
部屋に戻ったファルサーは、そこに居たアークにやや興奮気味に話しかけた。
「私がそんな土木労働をするような、物好きに見えるかね?」
「物好きかどうかはともかく、労働をするようなタイプには見えないな」
「そうだろうな。そこに食事を用意した。物足りなかった場合は言ってくれれば、追加を用意する」
テーブルの上には、パンとスープが置かれていた。
「いただこう」
ファルサーは椅子に腰を降ろし、食事に手を付けた。
手に取ったパンは石のように堅く、スープは熱々だったが味が殆どしない。
だがファルサーはそのことに文句は言わなかった。
アークは部屋の奥にある調合台に向かって、なにやら作業をしている。
「ここに、ずっと独りで?」
食事をしながら、ファルサーはなんとなく作業をしているアークに話し掛ける。
「そうだ」
「寂しくはないのか?」
「独りのほうが、気兼ねがなくて良い」
アークの返事は素っ気なかったが、話し掛けられることを拒絶している様子では無い。
「何の作業をしてるんだ?」
「薬の調合だ」
「秘薬か何かの?」
「ただの血止めの軟膏や、咳止めのドロップだ」
「僕が集めていた植物は、それに使われているのか?」
「一部はな」
「それを、どうする?」
「町の市場に持っていく。ただの暇つぶしだ」
「収入ではなくて?」
「収入など、必要無い」
奇妙な返事だな…とファルサーは思った。
しかし一方で、どれほど整えられた軍隊であっても、湖を渡るにはアークの手を借りねばならないとの話を、此処に来る前に聞かされていたから、そんなものなのかもしれないな…とも考えた。
島に棲むドラゴンは非常に危険な妖魔で、ちょっとした軍備を所持しているならば、この近隣で被害を受けた歴史を持たない国は無い。
過去においては、各国の協力の下、大掛かりな討伐隊が編成され派遣されたが、未だ討伐されること無く、棲み続けている。
強国が所有する巨大な弩から打ち出された、鉄製の矢を受けてなお傷一つつかず、射掛けられたそれを噛み砕き、あまつさえそれら鉄製の巨大な武器を、口から放つ火炎で易々と溶解し食らったと言う。
また周囲への魔気も討伐の際の障害になっていて、最大規模の遠征時には、魔障を防ぐために100人以上の高位魔導士を揃えたとも伝えられている。
簡単に言えば殲滅させることが不可能な最上級の幻獣族であり、どんな周到な準備をした軍隊であっても、最後は這々の体で逃げていくのがお決まりのパターンと言われている。
そんな軍隊でさえも、湖を渡るためには "隠者のビショップ" の手を借りねばならない…と、ファルサーにアークの存在を教えた老爺が語っていたのを思い出す。
更にアークは、ファルサーに対して渡航するのに具体的な金額を請求しなかったことも考え合わせると、それらの軍が渡航する時にかなりの金額を渡されたのだろうな…と想像出来た。
堅いパンを噛み締めながら、ファルサーはふと、自分が一人で食事をしていることに気が付いた。
「あなたはもう食事を済ませたのか?」
「必要無い」
「なぜ?」
「君に食事をしろとは言ったが、私を質問攻めにしろとは言ってないぞ」
ずっと自分の手元だけを見て作業をしていたアークが、顔を上げてファルサーを睨みつけてくる。
「質問攻めにしているつもりは無い。ただ、あまりにも不思議な…常識から外れた返事ばかりするから、つい訊いただけだ」
「君の常識が全てに通用しないと、考えたことは無いのか」
「確かにここの状況からすれば、僕の常識が当てはまらないのは当然だと思う。だが、飯を食う必要が無いなんて、僕以外の誰にだって当てはまらないだろう」
「それは "人間の常識" だ、私には関係無い」
アークの答えに、ファルサーはびっくりした。
「待ってくれ、それではあなたはまるで、人間では無いみたいじゃないか」
「私は人間では無い。町で、そう聞いてきたのではないのかね?」
ピシャリとした口調で言われたその態度より、言葉の内容に衝撃を受ける。
町の老爺はアークのことを "山の精霊の加護を受けた長命の者" と言った。
学の無いファルサーでも、世界を維持するために六柱の精霊族が存在することは、当たり前の常識として知っている。
所属する国や、暮らす地域によって、宗教観や信仰する対象が違っていたりもするが、魔法を行使できるのは精霊族が存在するからだ、という程度の知識は、一般的な常識だからだ。
だが精霊族は幻獣族と同様に、異形の超越せし者であり、一般的にはヒトガタをした人間を超える生命…つまりヒトならざる者は、おとぎ話にしか存在しないと言われている。
故にファルサーは、アークのことも風変わりな魔導士なんだろうと思っていた。
「あなたは……ヒトならざる者なのか?」
「だから、なにかね?」
「能力値は人間を上回るのか?」
「だから、なにかね?」
「魔力も高い?」
「だから、なにかね?」
「僕と同行願えないだろうか?」
唐突な申し出に、アークは絶句したようだった。
実を言えば、それを口にしたファルサー自身も驚いていた。
だが、アークの存在が本当にヒトならざる者なのだとしたら、これは千載一遇の機会でもあった。
「突然こんなコトを言われて迷惑なのは充分承知してる。だがあなたが言った通り、僕に科せられた命令は、物好きを通り越した無謀な命令だ。おとぎ話に出てくるような "ヒトならざる者" の手でも借りねば、達成は不可能だと散々言われてきた。ここであなたに出会えたのは…」
「冗談じゃない!」
バンッと、アークはテーブルを叩いた。
ファルサーは黙ったが、それでもジッとアークの顔を見つめ続けている。
「私が君に同行する、義理は一切無い」
「無理な頼みだと解っている」
二人はしばらく互いを睨み合っていたが、やがてアークのほうが視線を逸らし、部屋から出て行ってしまった。
部屋に入ったアークは扉を閉め、大きな溜息を吐く。
部屋には水晶を加工して作った水槽がたくさん並べてあった。
水槽では種々雑多な昆虫を飼育していて、アークはこの部屋で昆虫の研究をしていた。
アークは部屋の中央に進み、そこに置かれた安楽椅子に身を沈める。
なにをする訳でも無く、アークは取り出した水晶球をもて遊びながら、隣の部屋にいる人物のことを考えていた。
ルナテミスに誰かが訪ねてくるのは久しぶりだった。
しかしそれはただ久しぶりと言うだけで、格別珍しいことでは無い。
湖の向こうのドラゴン討伐に来た者は、必ず此処を訪ねて来る。
湖の中央にある島にドラゴンが存在し、それを討伐しようと思う者が居る限り、どんなに期間が開いたとしても、此処には誰かがやってくる。
そういう意味ではファルサーも、それら十把一絡げの訪問者の一人に過ぎない。
なのにどうして、こんなにファルサーのことが気に掛かるのか?
どんなに考えても、ファルサーの申し出に応える義理は何も無い。
アークは目を閉じて、自分がこんな人里離れた山の上に、独りで暮らしている理由を思い出す。
それは自分が人間とは異なる種族だと気付いたからだ。
だがそのことに気付いたのが、いつのことだったのか、あまりにも遠くて思い出そうにも思い出せない。
記憶にある子供の頃には養父母がいて、人間の村落で暮らしていた。
当時から既に自分と周りとの違和感に気付いていたが、養父母はアークを家族としてきちんと扱ってくれたし、村落の養父母以外の者達もアークの異質を受け入れてくれていた。
違和感がハッキリとした疎外感に変わったのは、流行り病で養父母を亡くしてからだ。
病魔は養父母のみならず村人達の命も奪い、最終的に村落そのものが離散した。
そして、それを境に温かみのある生活とは無縁になった。
流行り病で村落がほぼ壊滅したような場所からやってきた孤児…と言うだけでも忌み嫌われる要素として充分だが、更にアークは魔力持ちだった。
養父母に守られていた頃は、アークが魔力を使うことを、誰も忌避しなかった。
だからそのつもりで術を使ったアークは、人間が魔力を忌み嫌うことをそこで初めて知ったのだ。
同じように魔力持ちだとして、持たざる者のコミュニティから弾き出されてしまった者達が集まっているところに身を寄せてみた。
だが、先程ファルサーの問いに答えた通り、アークの能力値は特出している。
単なる魔力持ちではないために、アークは彼等のコミュニティからもまた、弾き出されてしまった。
コミュニケーション能力もろくに身に付けていない子供が、周囲から距離を置かれる理由も解らないまま疎外され、孤立させられてしまった。
アルビノのような色素の薄い相貌を持っているが、本当のアルビノでは無い。
それどころか、アークには性別すら無かった。
不幸中の幸いは、飛び抜けた魔力を持つことと、アルビノ紛いの外見によって、極端に忌避されたことだ。
後ろ盾の無い容姿の整った子供は、年上の子供や更にその上の大人などから、手篭めにされることがままあるが、上記の理由により避けられたために、アークはそうした乱暴をされることは無く、性別が無い事実も周りに知られず済んだのだった。
ただそれは、アークのアイデンティティを揺らがせる理由にもなった。
当時のアークは、ファルサーと同様に、ヒトガタをした種族は人間しか存在しないと思っていた。
怪力で苛烈だが心優しき角を持つ者、自然と調和して森と心を通じ合わせる耳の長い者と言った "おとぎ話" は存在するが、そこに登場するヒトならざる者は、あくまでも想像だと教えられた。
それが人間の常識であり、そう教育されるのが当たり前だったからだ。
人間の村落で平穏に暮らすには、アークの持つ素養は異質な点が多すぎた。
迫害を受け、職にも付けず、生活に行き詰まったが、助けてくれるものはいない。
だが食うにも困る状況にまで追い詰められても、一向に生命の危機を感じない。
そこで初めて、自分がヒトならざる者だと気が付いた。
人間であれば、どうあってもコミュニティと繋がりがなければ生きていくことが出来ないが、抜きん出た能力値を持ち、更に食う必要が無いとあれば、その限りでは無い。
それに気付いたところで、アークは人里離れた場所で生活を始めた。
しかし不思議なことに、そうして人間から離れた暮らしをしていると、なぜかわざわざアークを探し出して会いに来る者が現れるようになった。
はじめのうちは応じていたが、それがアークの飛び抜けた能力値を利用するのが目的で、いざともなれば裏切られたり迫害を受けたりする。
そうした経験を経て、アークは更に人里離れた場所を求めて放浪し、辿り着いたのがこの辺鄙な場所だった。
この土地を選んだのは、標高が高い山の上のほうに興味深い遺跡があったからだ。
それに山の中腹にある丘と、隆起した岩壁のロケーション。
そこから一望できる、麓と湖のコントラスト。
軽い気持ちで人間が訪れるのが難しい環境など、理想的な場所と言えた。
移り住んで間もない頃は、悪心を抱いた者に利用された不愉快な思い出から人間を避け、遺跡を歩いて一人で時間を過ごしたが、しばらくしたらやはり人恋しさを感じた。
アークが居を構えた当初は、麓の村落は人口も数えられるぐらいしかおらず、非常に貧しい環境だった。
だが、アークが人恋しさを覚えて再び麓に降りた時には、湖の島で鉄の精錬をしており、人間の数もかなり増えていて、活気にあふれる町に成長していた。
そこで時折、山から降りて村人と交流を持った。
こちらから干渉はせず、ある程度の距離を置くことで上手く付き合えることを学び、ささやかな友情のようなものも交わすことが出来たと思った。
だが、ほんの少し時間が開くと、村落の世代交代が二つ三つ進んでいたことがままあった。
人間の里で養父母と暮らしていた頃の時間の感覚は、しばらく一人で過ごしているうちにすっかり失われてしまっていた。
どれほどの好感を抱いていようと、時は無慈悲にその者の寿命を区切っていく。
アークが必死になって手を伸ばしても、彼等はアークを残して去っていく。
まるで薄い玻璃のように脆弱で儚い彼等の存在は、身近に感じれば感じるほど、アークの孤独感がいや増すだけだった。
だが、どうすればいいのか?
一つの転機が訪れたのは、偶然町にやってきていた旅芸人達と出会った時だ。
丈の長いローブを着ていた占い師の肌に、蛇のような鱗があることに気付き、声を掛けた。
最初は警戒されたが、酒場でエールを奢り「自分は魔力持ちだ」と告げると色々と話をしてくれた。
曰く、この世界には人間以外のヒトガタ種族が多く存在すること。
人間は数が多く、コミュニティも発展しているので、自分達のような獣人族は生計を立てるために里を出て巡業をしていること。
人間のコミュニティで過ごすために、変幻術という古代魔法を使って人間のフリをしていること。
鱗が見えた占い師は、ローブに隠れることを過信しすぎて変幻術を怠っていたこと。
自分達は人間に紛れているために彼等を "頂点に立つ者" と呼ぶが、仲間内では "数の多い者" と呼んでいること。
詩人が詠う英雄譚や、語り継がれるおとぎ話の中には、世界の真実の一部が含まれていること。
とはいえ、そのどこまでが史実であるかは解らないこと。
といったようなことを、教えてくれた。
そこでアークは、千年生きるヒトならざる者は存在しないのかと訊ねた。
すると彼等はヒトならざる者とは、人間以外のヒトガタをした種族をまとめた総称であると言い、獣人族の寿命は人間よりも長く、五百年ほどだと教えてくれた。
そして獣人族よりも長く生きる種族はいるらしいが、実際に見聞きしたという話は聞いたことが無いとも言われた。
おとぎ話に出てくる "神にも等しいヒトならざる者" には、不老不死を思わせる描写もあるが、人間からすれば獣人族の寿命でさえも気が遠くなるほど長いので、実際に存在するかどうか怪しい…と。
その問答から、アークほどの能力値を持つ種族の話は、事実かどうか判らない詩の断片程度しか情報が無いことが伺えた。
世界中を見て回れば、同じ種族に出会えるのかもしれない。
幾度もそう考えた。
だが実行には移せなかった。
自分と同じ種族が、この世界に存在するのかどうかも解らない。
親しんだ人間を失った時の喪失感は、いつも心に刺さった。
この孤独を埋めてくれる誰かを夢見て探しに行き、誰も見つけられなかったら?
いつまで続くのか解らない孤独を埋められる者が、この世に誰一人居ないとしたら?
それを冷静に受け止められるとは、とても思えなかった。
取り残されて孤独になることに怯え、それ故に他者と懇意になるのを避けるようになった。
特定の誰かと穏やかで幸せな時を過ごしてしまったら、その後に訪れる孤独と寂寥感を癒す術など考えもつかない。
そしてただひたすらその恐怖を避けるため、長い長い年月を独りで過ごしている。
独りで居るだけなら、そのうち痛みもぼやけてきて、どんなに長い時の流れも、やがて一瞬と区別がつかなくなる。
そこまでして自分ひとりの居場所を作ってきたのに、どうして扉の向こうに居る、十把一絡げの、ただ一瞬の行きずりの人物を、こんなに気に掛けているのか?
幻獣族とは、ヒトガタをしておらず、更に強大な能力を備え持った生命の総称である。
能力の大きさによって上級・中級・下級と大まかな分類はされ、人間にとっては生命を脅かす危険な天敵の一つと言えた。
ドラゴンは最上級とも言われる幻獣族で、その能力値は人間から見たら生ける天災そのものと言えた。
そもそもドラゴンの身体能力やら頑健さやらを挙げ連ねる前に、その身に備わった魔力の大きさの前に、人間如きは近づくことすらままならない。
好物は鉱石で、特に精錬された物を好む傾向があった。
人間の文明が進み、金属加工の技術が上がったのは、ドラゴンにしてみれば美味しい餌場が提供されたような状態だったと言える。
しかもドラゴンの体は、人間の軍隊がどれほど頑張ったところで、ウロコ一枚剥がすことも出来ない。
一方で、湖の島からは非常に稀で価値の高い、特殊な金属が産出される。
この地の利がさほども無いような山間の湖のほとりに、わざわざ人間が村を作った理由はそれだった。
近隣諸国はこぞって此処から産出される鉱石を買い求め、ドラゴンが現れる以前は各国が採掘の主導権を争ってしのぎを削っていたほどだ。
争いの火種になりかねないその金属の存在は、同時に各国が切磋琢磨して技術や文明を進歩させる原動力にもなった。
件の金属以外の鉱物の精錬技術も進み、この周辺の鉱物加工技術はどんどん進んだ。
そうなれば、当然ドラゴンが好みの匂いを嗅ぎつけてやってくる。
結果的に、人間達はなるべくしてドラゴンを呼び寄せてしまったのだ。
件の金属が特にお気に召したらしいドラゴンは、当然といった様子で坑道に棲み着いた。
そうなってしまうと、どれほど人間達が奮戦したところで、ドラゴンを討伐どころか、追い払うことすらできるはずも無い。
金属に固執した幾つかの国は、ドラゴン討伐に国力を傾けすぎて他国からの侵略を許してしまい、国の存在そのものが歴史から消えていった。
一方のドラゴンは、より好ましい食料がある坑道から出てくることは無い。
結果として "触らぬ神に祟りなし" の構図が出来上がり、更に人間は、いつしか最初の理由であった "稀少な金属" の存在さえも忘れた。
そしてドラゴンの存在は、それが冒険者であれ国家元首であれ、よほどの功名心に駆られた愚か者だけが挑む以外には、誰も触れなくなったのだ。
ドラゴンが島に巣食った直後は、湖はそれほど危険な場所では無かった。
しかし大きな魔力は、それを持つ者が周辺への影響をコントロールせずにおくと、魔障を起こす。
強大な存在であるドラゴンは当然のように魔力も大きいのだが、幻獣族は敢えて周辺を魔障させ、妖魔化した生き物を自身の傘下へと引き込む本能を持つ。
その結果、湖は妖魔の巣窟へと変貌した。
そんな場所にある麓の町が魔障されていないのは、町に降りた時に相談を持ちかけられたので、アークが魔障を防ぐ印を主要な場所に刻みつけたからだ。
それは町の人々を守ってやりたいと思ったからではなく、ただアークが人恋しい時に人の気配を感じるために、麓の町が無くなっては不便だと思ったからだった。
アークの実力を持ってすれば、魔障を完全に防ぐ…どころか、指先一つでドラゴンを島に封じ込めることすら可能だったが、それはしなかった。
なぜ、あえて手間と面倒が掛かり、更に効能が頼りない方法を選んだのかと言うと、アークはドラゴンに対して、個人的に全くなんの関心も無かったのか大きな理由だった。
こちらから一方的に、ドラゴンに喧嘩を仕掛けるような "面倒" に巻き込まれることを避けた…と言ったほうがいいかもしれない。
更に、町の人間達にアークの能力を推し量られたくなかった。
故に、わざと "頼りない" 風を装って、町に居る人々がギリギリで魔障しない、必要最低限の防壁を作ってやった。
だが湖を渡るとなれば、魔障を防ぐだけでは済まない。
ドラゴンの傘下となった妖魔が、行く手を阻んでくるからだ。
元々湖に生息していた魚類が妖魔化した妖魔は、水中行動が得意である。
ドラゴンが棲まう以前、島からの産出物を利便良く運ぶために、岸と島とを繋ぐ橋があったが妖魔の巣窟となった時にその橋は失われてしまった。
いくら街道を整備しようと、標高の高いこの町に軍艦を運び込むのは至難の業であり、妖魔の巣食う湖畔に造船所を作ることも出来ない。
湖を渡る術を持つのは、山の上の "隠者のビショップ" だけだ。
となれば、人間達は必ずアークの助力を請うてくる。
そうして申し出てきた者達を、アークはほとんど躊躇もせず島に渡していた。
渡してやった連中の結末にもまた、アークは興味を持っていなかったからだ。
島に渡った殆どの者は、生きて戻っては来ない。
坑道から命からがら逃げ出すことが出来ても、迎えの取り決めがなければアークは出向かなかったし、例えその約束があったとしても、迎えに行くまで永らえる者はそう滅多に居なかったからだ。
そして誰にも討伐されないドラゴンは相変わらずあの島に棲み続け、高額の懸賞金や功名心に駆られた者達が次々に訪れる。
そんなことが長く繰り返されてきた。
だが、ファルサーにあるのは功名心では無い。
ただ "王命" を押し付けられ、貧相な装備のまま、たった独りで立ち向かうことを強いられている。
そこにあるのは、理不尽極まりない横暴な、エゴだけだ。
アークが抱える憂鬱の全てを思い出させる、ファルサー。
湖を渡せば最後、彼の運命は火を見るよりも明らかだ。
アークは閉じていた瞼を開いた。
弄んでいたはずの水晶球は、関節が白く浮き上がるほど強く握りしめたために、粉々に砕け散っている。
この心の端に刺さった棘のような苛立ちの原因は、ファルサーが "たった独り" だからだ。
そのことにようやく気付き、アークは大きく溜息を吐いた。
事情も、理由も、知らない。
彼の為人すら知らない。
解っているのは、彼が虐げられ、追いやられて、たった一人で此処に来たことだけだ。
時に寂しさに耐えかねて、どうしても麓の町との交流を断ち切ることが出来ない自分を知っている。
あまり懇意になると、失った時に深い寂寥感に襲われることも解っている。
それでも、ふとした瞬間に好ましい人格の者と友人のような関係が出来てしまうこともある。
合力してやる理由も義理も無い。
理性では解っている。
けれど感情が、どうしても、割り切ることを拒絶している。
一瞬、頭を掠めたのは "引き留めようか?" と言う気持ちだったが、全く違う時間を生きている自分が、人間に軽率に関わることは良い結果を生まないことも、アークは知っていた。
「莫迦げている」
アークはもう一度、深い溜息を吐いた。
翌日ファルサーが目覚めた時、テーブルの上には昨晩と同じパンとスープが用意されていたが、室内にアークの姿は無かった。
少なくともファルサーは、部屋に誰かが出入りをすれば、目が覚める程度に気配を察知できる自信があった。
不思議なほど気配のない人物だ。
とはいえ、用意された食事はアークの厚意だと思っていたから、ファルサーは礼を言ってから食事に手を付けた。
相変わらず石のように堅いパンと塩気の足りない味の薄いスープだったが、どちらも冷めていない。
まだ熱いと思えるスープを啜りながら、ファルサーは再び同じことを考える。
料理がこんなに温かいということは、これらはテーブルに運ばれまだ間もない証拠だろう。
アーク自身が運んだにしろ、それ以外の方法にしろ、ファルサーに配膳の気配を全く気付かせずに運んできた、それはアークの能力が非常に高い証明のひとつになる。
食事を済ませたファルサーは、昨日の作業の続きに取り掛かった。
できることならば、この家の主人を討伐に同行させたい。
だが昨夜の様子では、それはまったく無理な願いだ。
そしてアークが同行してくれなくとも、自分は湖の向こうに渡り、科せられた使命を果たさなければならない。
だとしたら、自分は昨日の約束を果たすことで、湖を渡してもらわねばならない。
昨日作業した様子から、アークの言う通り、この仕事はまだ数日掛かりそうだった。
日が暮れる頃に戻ると、テーブルの上には食事の用意があり、使えと言わんばかりに風呂への扉が開け放たれていた。
それらが全て、適宜なタイミングで用意されている様は、まるで奇術のようだ。
こうして食事と居場所を与えられているということは、どうやら追い返す気もないらしい。
ファルサーはそれらのものをありがたく使わせてもらった。
だが、三日経っても、四日経っても、アークは全く姿を現さない。
会う度に懇願されてはたまらないと思い、避けているのだとしたら、それも仕方がないと思う。
ただ、そうした "接待" をされているのに、誰の気配も感じないのが、一抹の寂しさを感じさせた。
ファルサーは自分にできること、つまり報酬として要求された労働作業を黙々と続けて、五日目にリストに書かれた全ての収集を達成した。
「リストの項目は全て満たした。約束を果たして欲しい」
ファルサーは、飼育室のプレートが付いた扉に向かって声を掛けた。
「君には頼みごとを二つ、果たしてもらうと、言っただろう」
扉は閉じたままだったが、中から返事があった。
そう言われれば確かにそう言われたと思い出し、ファルサーは訊ねた。
「では、次は何をすればいいんですか?」
少し間を置いてから、扉が音もなく開き、幽鬼のような静けさでアークが出てきた。
なぜか解らないが、アークは酷く思いつめた顔をしているように見える。
「君はなぜ、ドラゴンの元へ行くのか?」
「王命です。そう言ったでしょう」
「だが、君の様子は "常識" には合わない」
「僕の常識は、あなたの常識じゃないんでしょう?」
「この場合の "常識" は、君達の基準に合わせたほうで話をしている」
「一体僕の何が非常識だと?」
やはり幽鬼のように音もなく、アークはテーブルの傍の椅子に座った。
そして最初の日と同じように、向かい側に座るようにテーブルを指先でコツコツと叩いてみせる。
ファルサーは黙って従った。
「アレを討伐するつもりの者達は、誰もがもっと大掛かりだ。懸賞金目当ての冒険者であれ、君と同じく "王命" を受けた軍であれ、アレに対抗するために、装備に金を惜しまず、できる対策を全て講じてから挑む。つまり、それがドラゴン討伐をする者の "常識" という訳だ。だが、君はなんだ? ろくな装備も持たず、旅費すらまともに持っていない。そんな者など、初めて見た」
「しかしそれは、あなたに関係ないでしょう」
「私に同行して欲しいと、君は言った。この程度の質問は、最低限必要だと思うが?」
「確かに僕は同行を申し出ましたが、あなたは断った」
「だが、思い直す時間はあった。君が私にした願いごとを撤回するのならば、話は違うがね」
「撤回はしません。もし出来うるなら、同行してもらいたい」
「では、改めて訊ねる。なぜ君は、そんな身なりをして、独りで討伐に向かうのか?」
アークの問いに、ファルサーは諦めたように溜息を吐いた。
「麓の町に来るまでに、僕の足で二週間掛かった。この辺りとは、統治者が違う国から来た。僕の父親は、その国の剣闘士だった」
「それは戦士とどう違うのかね?」
「戦士でもありますが、剣闘士は奴隷です。観客の前で闘いをショーとして見せ、王に命を買われている…」
「剣を持った奴隷とは、私の持つ "奴隷" の概念を覆すような話だ」
「王は民衆に娯楽を提供するコトで、人気を集めるんです。剣闘士は "王のため、民衆のため、帝国のため、死を賭して闘う" ことを旨として、獣や妖魔、時には同僚である剣闘士と戦うんです」
「疑問に思ったので聞きたいのだが、あの島のドラゴンは、ここしばらくは巣穴から出た記憶が無い。また、私が気付かぬ間にアレが出掛けたことがあったとして、国がドラゴンの脅威に晒されているのに、国民はそのような娯楽に興じていて、大丈夫なものなのかね?」
今までの冷淡な態度からは想像出来ない、むしろ嬉々としているように見えるアークの様子は、ある意味、幼子が新しい知識を前に次々に湧き出す疑問の答えを求める姿にも似ていた。
「直接、ドラゴンの被害が出たコトはありません。それに現在の帝国は、近隣の小国を属国化して税収も多く、市民一人に奴隷が一人付いているのが普通だと聞いています」
「ますます理解に苦しむ話だな。君はドラゴンのような上級幻獣族を、人間が狩れると思っているのか?」
「王は僕に、何らかの策を講じなければ、持たざる者なんて傍にも寄れないと言いました」
「ふむ、その辺りは解っているのか…」
アークは頷き、話の先を促してくる。
「奴隷である剣闘士の息子は、当然生まれながらの奴隷で剣闘士です。僕は歩く前から剣を持たされ、構え方から言動まで、いかに民衆を虜にできるかを徹底的に教育されました。おかげでデビュー戦からかなりの功績も上がったし、一躍人気の闘士になれた。…でもある日、後宮から呼び出されて、僕の人生が一変した」
「後宮とは?」
「王の正妻や愛人が住んでいる宮殿です。少し人気が出始めた頃は、王も僕の闘いぶりが気に入ったと言って、褒めてくれた。けれど、王のお気に入りの公妾に呼び出されて、褒美の酒と言うのを貰ったら、急にこの拝命を下された」
「つまり嫉妬か。くだらんな」
「僕もそう思う。だけど王と公妾に取って、最下層の奴隷の命なんて、羊皮紙よりも価値が低い。あの女は僕に褒美を与えるコトで、王が更に自分のコトを気に掛けるようになると思って、ああいう行動に出たのかもしれない。僕はあの女に、なんの興味もなかった。だけど王は僕に嫉妬して、僕に最も残酷な刑を科すことで意趣返しをすることを決めてしまった」
「疑問に思ったことがあるので、訊ねても良いだろうか?」
「なんですか?」
「剣闘士という職業は、死を賭して闘うのだろう? ドラゴンと対峙しても、やはりそれは命がけということになる。何が違う? 死は一様に同じだろう」
「あなたから見たら、同じでしょう。でも僕にとっては全く違う」
「どのように?」
「尊厳…なんて、奴隷の僕には無いって思うんですか? 少なくとも、闘技場で剣闘士として戦っている時の僕は、勝利さえすれば観客から称賛を得て、周りから人並みに扱ってもらえる可能性があります」
「私の知る奴隷とは、待遇からして全く違うようだ」
アークの答えに、ファルサーは乾いた笑いを浮かべる。
「この旅の間の僕は、そのあなたの想像する "奴隷" そのものの扱いを受けましたよ。王命を証明する手形のおかげで逃亡を疑われるコトはありませんでしたが、屋根のある場所で寝るコトが出来た回数のほうが少ない。こんな…片道にも満たない旅費と、古びてボロボロの装備を持たされ、周囲から蔑まれるコトはあっても、助けを得るコトなんて絶対に無い旅に放り出されるいわれは、本当はなんにも無いんです」
「…君の矜持の問題か…」
「でも、これは公式な王命として下された。将軍ですら王命には逆らえないのに、たかが奴隷の剣闘士に否は無い。選べるのは精々、反逆罪で死刑になるか、ドラゴンに殺されるかのどっちかだ」
「逃げるという選択肢は?」
「それは無い。父は既に他界しているが、母はまだ存命だ」
「人質…か。しかし逃げても殺されても、向こうには判らんのでは?」
「ちゃんと判るように、上手く出来ている」
ファルサーは、苦々しげに微笑んだ。
「僕の話はこれだけです。次の用事というのはなんですか?」
「出発は、明朝だ」
アークはそれだけ言うと、立ち上がって奥に行こうとする。
「ちょっと、待っ………」
引き止めたファルサーの声は、閉じた扉によって無言の拒絶をされた。
「時間だ、起きたまえ!」
突然響いたアークの声に、床で寝ていたファルサーはビックリして飛び起きた。
「え………ええっ?」
「準備をしたまえ。食事はそこに用意してある。身支度が整ったら出発する」
「あ、……はい!」
身支度だの出発だのと言っているが、アークの身なりも様子も昨晩と大差ない。
どういうつもりでそう言っているのかも分からないまま、ファルサーは用意されていた件のパンとスープを慌てて口に詰め込んだ。
もちろんアークは、特別何かを口にした様子もなく、ファルサーの身支度が整え終わるのを見届けもせずに、スタスタと扉の向こうに出て行ってしまう。
「あの、戸締まりは?」
「必要無い」
「なぜ?」
「君は本当に、質問の多い男だな。私が必要無いと言ったら、必要無い」
「はあ…」
高圧的と言うか高飛車と言うか、とにかくアークの態度は一貫して権高く、取り付く島が無い。
岩肌が剥き出しの傾斜が厳しい山道を、アークはなんの苦もなくスタスタ歩いて下って行く。
剣闘士の質素な装備しか身に付けていないファルサーは、足元はサンダルを履いているが、悪路を上り下りするのに苦労している。
一方アークは、足全部を包むような黒い革製の靴を履いているようだが、それだとて特別登山に向いているとは言い難いだろう。
その様子から、アークの身体能力の優秀さを垣間見たような気がした。
麓の町には、まだ陽が昇り始める前の、薄っすらと朝もやの掛かった頃に到着した。
当然、町の者は皆まだ寝静まっていて、湖までの道のりで人に会うことも無い。
アークは黙々と町を突っ切り、湖畔の波打ち際まで真っ直ぐに突き進んだ。
そして波打ち際で立ち止まると、スッと屈んで水面の端に手を触れる。
パキパキと奇妙な音がすると思った時には、その音は大音響に変わっていて、湖面が見る間に銀盤へと変化した。
「早くこちらに来たまえ」
驚いている暇もなく、ファルサーは慌ててアークの傍に駆け寄った。
「これから、湖面を一気に駆け抜ける。君はせいぜい自分の命を守りたまえ」
「どういう意味です?」
「君は、此処に妖魔が棲んでいることを知らんのか?」
「知りません。僕が湖を渡るために船を探していたら、町の人があなたの所に行くように教えてくれただけなので」
「湖には、下等な妖魔が大量に巣食っている。今は湖面が凍っているので数はかなり抑えられるが、それでも割って襲いかかってくる。襲撃が始まったら、自分の命は自分で守ってくれたまえ。移動はソリを使うが、振り落とされたら回収は出来ない。解ったかね?」
「解りました」
ファルサーが頷くと、不意に頬を冷たい風がよぎる。
気付いた時には、氷で出来たソリに乗って、湖面の上を滑りだしていた。
「来るぞ!」
アークが叫ぶのとほぼ同時に、メキメキと不気味な音を立てて湖面の氷に亀裂が走る。
氷を割って飛び出して来たのは、魚ともヒトとも解らない、全身がウロコに覆われた妖魔だった。
それらがソリに襲いかかってくる…と思った瞬間に、いきなりソリの進行方向が変わる。
「うわっ!」
ファルサーは思わず、自分よりずっと小柄なアークの肩に掴まっていた。
「振り落とされるなと、言ってあるだろう!」
「まだ、落ちてませんよ!」
次々と現れる妖魔達を、アークは絶妙なソリの操作で避けた。
だが敵は圧倒的な数に任せて行く手を阻み、時にソリにしがみついてくる。
ファルサーは利き手の左にグラディウスを構えると、ソリのフチを掴んで這い登り、踊りかかってきた妖魔をまず一匹、殴打した。
ファルサーの持つ武器は、量産型のグラディウスだ。
軍の放出品を大量に仕入れ、剣闘士達に行き渡らせた武器の一つで、この旅に出る時に渡された。
奴隷のファルサーに私物などなく、試合で使っていた剣もあくまで "貸与品" ではあったが、それでも戦績が良ければより上物の武器や防具を渡される。
つまり、この旅に出る時に渡された剣と防具は、それまでファルサーが使っていた物よりも数段劣る装備なのだ。
試合で勝つために、より攻撃を鋭くするための手入れ方法なども学んできたが、今まで支給されていた手入れのための道具は、旅に出る前に取り上げられてしまった。
有り合わせの物と知識でできるだけの手入れはしてきたが、正直さほどの切れ味は期待出来ない。
剣の重量に己の力と振り回す勢いを加えた打撃、それに刃物の形で加えられた申し訳程度の斬撃によって、相手にダメージを与えることができる。
当たりどころが良ければ一撃で屠れるが、そんなことは稀だ。
だが、一撃を見舞われ怯んだところに、致命傷の二撃目を送れば問題は無い。
二匹、三匹と相手にした辺りでコツが掴めてきた。