浜から少し歩いたところに、廃墟があった。
ただ打ち捨てられたような感じは無く、明らかにドラゴンとの攻防が見て取れる、家屋や機材を打ち壊された跡が残っている。
だが、ファルサーはそれらを見ても怖じけること無く、どんどんと森へ向かう。
廃墟から森に続く道は、元は採掘坑から鉱石を運び出す時に使われていたものらしく、整地された形跡があった。
長年使われずに放置された道は、重い荷馬車に踏み固められた轍の跡を除けば殆どが雑草によって埋もれている。
更に進んで森に入ると、道はますます見分けが難しくなった。
そして湖と同様に、妖魔化した森の生き物にも警戒しなければならず、なかなか前には進めなかった。
「暗いな…」
グラディウスで突き出ている枝を叩き折ったところで、ファルサーは独り言のように呟いた。
「森に来たことは無いのかね?」
「僕は、闘技場の外に出たコトが殆ど無いので、こういう場所は不慣れなんです」
「君の言う闘技場という場所は、野外劇場のような物を想像していたんだが。そこに寝泊まりまでするのかね?」
「ええっと…、すみません。僕は学が無くて…。ヤガイゲキジョウってなんですか?」
「うむ。私も書籍に掲載されていた挿絵程度の知識しかないが、アリーナと呼ばれる平地を中心に、周囲を階段状の、集まった者が観覧しやすい構造にした、巨大な建物だそうだ。ルナテミスのある山の頂上付近に、似た形の遺跡があるが、そこは中央に非常に大きな平たい巨石を据えてあるので、違うかもしれない」
「闘技場の試合を披露する場所は、そんな形ですね。ただ、近隣の宿舎や訓練場なども含めて、闘技場って呼んでいるんです」
「なるほど、宿舎を置いて剣闘士の管理もしているのだね」
「宿舎とは名ばかりの、監視の緩い獄舎のようなものですけどね。一部の者を除いて、ほとんどがそこで家族ともども暮らしてますよ」
「その、除かれた一部の者とは?」
「反抗的で逃亡の可能性がある者は、本当の獄舎に閉じ込められています。逆に功績を認められて准市民になったり、出資者が付いて私物の剣闘士になった者なんかは、宿舎を出て市内で部屋を与えられたり、出資者の屋敷で暮らしたりしてますね。僕はまだ駆け出しだから、そこそこ名前が売れ始めたばっかりなので、出資者もいません。だから、宿舎の外に出る機会はあんまりなかったんです」
「その機会が、ドラゴン討伐か?」
アークの答えに、ファルサーは自嘲気味に笑んだ。
「結果的に、現在はそうなってしまいましたね。他にも、貴族が自身の荘園で特別な試合をセッティングした時に、選抜メンバーに選ばれたりすると出掛けました。でも、だいたいは道が整備されたところを通るので、道の悪い場所や森なんかは、この旅で初めて経験しました」
「君は、死を賭して戦うと言っていたが。その闘技場の中にはどれぐらいの数の剣闘士が暮らしていたのかね?」
「いや、死を賭してと言っても、毎試合死人が出るワケじゃないんです。試合運びが面白くなくて観客の不興を買えば、例え勝っても死の制裁が下されるコトもあるケド。でもあくまでメインはショーですから、そんなにどんどん死なれたら、運営が出来なくなってしまう」
「なるほど、剣闘士の数はある程度維持しなければならないのだな」
アークは、昨日と同じように好奇心旺盛な様子で話を聞いている。
どうやら自分の知らない知識に遭遇すると、こうした態度になるらしい。
「頻繁に死者が出たらマンネリ化を招いて、せっかく育てた剣闘士の命掛けの舞台でも、観客の興味を引けなくなってしまいます。王が、民衆からの人気を得るために開催するショーですから、そうなっては元も子もありません」
「なかなか興味深い話だ」
なるほどと言った顔で、アークは頷いた。
「僕は駆け出しですけど、剣闘士に向いているんだと思います。デビュー戦から連戦連勝して、最近では僕が試合に出るコトで客を集められる程度に人気も上がり、"左利きの闘士" なんて二つ名まで付けられてましたから。それで良くも悪くも人目を引き、剣闘士の試合なんかにさほどの興味を持っていないような後宮の愛妾まで、僕の顔と名前を知るようになったんです。でも逆に、そんな愛妾が僕に褒美をくれたことは、ゴシップとして民衆に知れ渡ってもいたので、王は自分の嫉妬心から僕を殺すワケにはいかなかったんです」
「そうだな。そんなことをしたら、人気取りのための企画で人気が下がってしまうな。しかしだからといって、全く勝機の無いドラゴン討伐などに行かせたら、大差ないと思うが?」
「そこは王も、ぬかりがありませんよ。僕は名誉を得るために、自主的に名乗りをあげたコトになっているんです」
「そういうことを言い出すのが、普通なのかね?」
「多くは無いけど、無いワケでもない。英雄行為で准市民に成り上がった剣闘士は、過去にちゃんと存在します。討伐を口実に、逃亡を画策する者もいたりしますけどね」
「君は家族を質に取られているから、逃亡は出来ないと言っていたな」
「母のコトもありますが…。逃亡すれば、必ず追手が掛かります」
「手配書でも回るのかね?」
ファルサーは振り返ると、左肩の肩当てを持ち上げてみせた。
そこには肩から背中にかけて、焼きごてで付けられたらしき大きな焼き印がある。
「帝国の所持品だと、一目瞭然でしょう? 通行手形に行くべき場所や、通るべきルートが記載されているので、そこから少しでも外れた場所に居たら、逃亡奴隷とみなされます。逃亡奴隷を訴えでれば、微々たるものですが報奨金も出ますし、著名な学者や、敵対している国で支持されている政治家などなら、亡命を手助けしてくれる支援者がいますが、奴隷の逃亡を手伝うバカはいません。あなたは麓の町は中立だと言ってましたが、協定があるならそこには逃亡奴隷や犯罪者の引き渡しなどの項目があるはずです。コレが付いている限り、結局どこに行っても奴隷扱いされます。逃げたところで、状況は変わらないどころか、むしろ悪くなる可能性のほうが大きい」
「酷いことをするものだな」
「これが僕の "常識" です」
「やはり君達の常識は、私には理解しがたい」
不愉快そうに表情を曇らせたアークに、ファルサーは苦笑を浮かべただけだった。
「ええっと…、方向は……」
生い茂った葉の隙間から日が差している場所で立ち止まり、ファルサーは地図を広げる。
「こんな地図が出回っているのかね?」
ドラゴンによって追い散らされた鉱夫達が、島の見取り図程度の物を作成するのは容易だっただろう。
だが、ファルサーの持っている地図には、島の見取り図の他に坑道の詳細まで描き込まれていた。
奇跡的に生き延び、九死に一生を得、更に気丈にも精神を崩壊させなかった者が、討伐時の記録や記憶を持ち帰り、坑道の地図に貢献したのかもしれない。
「この先の廃坑の奥に、ドラゴンが巣食っているって話です。あんまりアテにはならないと言われましたけどね」
「最近はほとんど見かけなくなったが、坑道の奥に棲んでいるよ」
地図を覗き込んできたアークは、図面を正面から見ようとしたのか、ファルサーに触れるほど近付いた。
しげしげと地図に見入っているアークの横顔を、思いがけなく間近で見たファルサーは、地図よりもアークの顔を注視してしまう。
初めて見た時から、アークの印象は "白" だった。
プラチナブロンドの髪も、白い肌も、薄氷のようなブルーの瞳も、全てが光に透けるガラス細工のように繊細で美しい。
俯いている横顔の長い睫毛さえも、光をそのまま湛えたような白だ。
アークが地図から顔を上げ、ファルサーを見た。
近距離で視線が合ったことで、ファルサーは狼狽える。
「物珍しいか?」
「そんなコトは…」
「この容姿については、昔から奇異だと言われている。珍しげに見られるのも、慣れている」
皮肉めいた微笑みの中には、ファルサーの理解出来ない不思議な憂いも含まれていた。
「色々言われたのは、珍しいという以上に、あなたがとても美しいからでしょう」
「美しい?」
「ええ。僕の見識は狭いけど、あなたみたいに美しい人は見たコトがありません」
「君は見識が狭いのではなくて、視力に問題があるんじゃないかね?」
眉をひそめて、アークは少し怒ったような顔をしたが、その態度や様子からは、戸惑っている印象を受けた。
ファルサーが見せた "頼りにならない地図" で見当をつけ、ドラゴンの棲む場所に繋がる廃坑の入り口を目指して二人は進んだ。
しかしアテにならない地図は、その名の通り不備が多く、廃坑の入り口らしき場所に行っても完全に潰れて入れなかったり、廃坑とは無関係な獣の住処であったりと、無駄足に終わることが度々続いた。
前を行くファルサーの背中を眺めながら、アークはぼんやりと、先ほど見せられた肩の焼き印のことを考えていた。
彼に同行して来たのは、良い選択だったとは思えない。
彼にすぐにも訪れるであろう死を、なんとかして退けようとしているが、それが正しい選択なのかどうかすら、迷っている。
この危機を脱することが出来れば。
運の悪さで招いてしまった彼のこの窮状に、少し手を貸してやれば。
そうすれば彼にも、平穏が戻るのではないかと思った。
だが此処に至るまでに聞いたファルサーの話から、それは到底不可能だと解った。
生きて戻ったところで、王は彼に次の試練を課すだけだろう。
詩人の歌う神の試練を受ける英雄譚よりも、酷い重荷を背負わせられている。
しかも彼の場合、神の寵愛を受けておらず、ただ運が悪いだけだ。
「ファルサー」
少し開けた窪地に抜けた所で、アークは前に進もうとする背中に声を掛けた。
「なんですか?」
「もう、日が沈む。今日はこの辺りで夜を明かしたまえ」
アークの発言に、ファルサーは改めて辺りを見回し、息を一つ吐いてから頷いた。
「そうですね」
ファルサーが休む気になったのを見てから、アークは窪地の真ん中に立って身を屈める。
薪を集めた訳でも無いのに、そこに赤々と炎が燃え始めた。
それからアークは窪地の中をグルリと見回してから、おもむろに右手を掲げた。
アークの掌から小さな灯りが、ふわふわと飛び立っていき、窪地の四方に散っていく。
「それは、なんですか?」
「昆虫だ」
「虫…? なんのために?」
「昆虫は、連れ歩くのに便利な生き物だ。ちょっと手を加えたり、交配を重ねるだけで、こちらの都合に適った変異をするのも面白い」
「面白い…ですか? どうだろう? 僕は虫についてそこまで考えたコトはありません」
「そうか、残念だな。昆虫の交配や草木の配合を試行錯誤して、期待以上の結果が出た時は爽快だ。つまりあれが、達成感というものだろう」
「それなら、僕も解ります。剣技の練習をして、実践時にそれが上手く決まった時は、達成感がありますから」
「少し違うような気がしなくもないが、それぞれの得意分野が違うのだから、当然と言えば当然なのだろうな」
「それで、今は何をしたんです?」
「私は魔法を使わずに、昆虫を放つだけで結界を作る研究をしている」
「すみません。僕は学が無いので、魔法の知識が無いんです」
申し訳無さそうに、ファルサーは頭を下げた。
「うむ。結界は古代魔法なので、知識が無いのでは、更に解らんかもしれんな。簡単に言うなら、目に見えない壁を作る術だ」
「壁? じゃあ、ココから出入りが出来ないんですか?」
「土壁のような物理的な制限ではなく、魔術的な方法なので、任意で出入りができる物を選り分ける。今は、身の安全を図れる場を維持するように指示を出した」
「安全…なんですか?」
「うむ。この窪地は昆虫達によって守られているのだよ」
「虫が…ですか?」
「うむ。あの昆虫達は未だ研究の途中なのだが、分泌物や羽音によって、妖魔や獣が嫌うニオイや音を出す。安心して休みたまえ」
「どうしてそんなに僕に気を遣ってくれるんですか」
「興味が湧いたからだ」
アークは窪地の中を見回し、炎が燃えている場所から適当な距離の場所に立ち、炎を作った時と同じように身を屈ませた。
植物もまた妖魔化されて禍々しく変質しており、微量だが毒性を持った雑草となって蔓延っている。
しかし、アークが身を屈ませて地に指先を触れさせた瞬間、柔らかな緑色のオーラが窪地の中に満ち溢れ、瑞々しいクローバーが生い茂る草地へと一変した。
倒木の中に隠れていた虫達は、まるで息が苦しくなったように窪地から逃げ出し、見ると湿っていた倒木が調子のいい背もたれに変貌している。
自身の身を置く場所を整えたアークは、当然といった様子でそこに腰を降ろし、目線だけでファルサーにも座るように促してきた。
なんとなく示されたアークの隣に、ファルサーも腰を降ろす。
そうしてファルサーが落ち着いたところを見計らって、アークが何かを寄越してきた。
何を渡されたのかと見ると、ここ数日食事として提供されていた、あの何とも言いかねるような硬くて味のないパンだった。
「あなたは?」
「必要無い」
「僕のためにわざわざ持ってきてくれたんですか?」
「君が食料を持っているようには見えなかったからだ」
「いただきます」
パンの端を毟って、口に運ぶ。
今まではこのパンの他に、塩味がほとんど無いスープが添えられていた。
口にしていた時にはお湯なのかスープなのか分からないなどと思っていたが、パンだけが提供されて初めて、それでもあっただけマシだったのだと思った。
「ファルサー」
「はい?」
何事かとアークを見ると、今度は瓶を一本差し出されていた。
瓶の口には半分突き出た形でコルクが差されており、引くと簡単に開いた。
塩味のないパンで口の中が乾いていたこともあり、ファルサーは瓶の中身を口に流し込み、次の瞬間、息がつけないほど噎せていた。
「大丈夫かね?」
「これ、なんですか?」
「ワインだと思う」
「だと思う?」
「最近、町の者から貰った」
「そう…ですか…」
その "最近" とは、ファルサーの知る時間にしてどれくらいなのか?
なぜコルクが、簡単に引き抜ける程度にしか刺さっていなかったのか?
最初に良く確認しなかったが、瓶の中身は全量だったのか?
色々と疑問が浮かんだが、アークから返される答えが恐ろしかったので、ファルサーはそれらを問うのを躊躇した。
「かなり刺激的な味わいです」
「もしかして、水のほうが良かったかね?」
「ご厚意には、感謝してます」
それでもぎりぎり酢になるやら腐るやらの一歩手前程度だったので、気をつけて飲めば、ワインのような気がしなくもない。
ファルサーは黙ってパンとワインを平らげた。
日暮れが夜に変わるのは、まさに釣瓶落としだった。
樹木に覆われた場所にいるからだろうと頭では解っていても、慣れない場所でこれからドラゴンに立ち向かうことを思うと、気が落ち着かない。
「国が恋しいかね?」
「どうでしょう…」
「母親を質に取られているのだから、帰りたいだろうと思ったが?」
「一人で国の外に出て、僕は今まで知らなかった世界を見聞しました。行く先々で虐げられもしましたけど、でも他人に指図をされない自由も知ってしまった。自分がどれほど狭い視野の、狭い世界に生きてきたのかも思い知った気分です」
「うむ。その気持ちは、私にも理解できる。…君ほど、自由を制限されていたことは無いがな」
アークの答えに、ファルサーはちょっと意外な顔をした。
現状のアークしか知らないファルサーからしたら、一人で自由気ままに生きているような印象しかなかったからだ。
「母のコトは、取り戻せれば…と思っています。王は僕に、生きて戻ったら准市民の資格を与えると言いましたが、全く信じられません。奇跡的にそれが叶ったとしても、僕は剣闘士以外の何にもなれはしませんし、旅の間のようになんでも自分で決められるような自由は与えられないでしょう。正直、あそこに帰りたいかと問われて、即座に "はい" と答えるコトは出来ませんね」
「しかし、此処に討伐にやってきた者達は皆、最後は故郷に帰りたいと言っていた」
「僕にとってあそこは、故郷じゃないんでしょう」
「故郷とは、生まれ育った場所なのではないのかね?」
「少なくとも、僕の還りたい場所じゃありません」
「還りたい場所…か。そんな場所は、私にも無いな」
「それは違うでしょう?」
「どういう意味かね?」
「あなたは、自分自身で己のいる場所を作ってあるじゃないですか。故郷では無いかもしれませんが、あなたの還る場所はルナテミスだと思います」
「そんなことは、考えたことも無かったな」
指摘されたことをしみじみと感慨深げに思案するアークは、珍しく口元に微笑みを浮かべているように見えた。
「あの…、とても不躾なコトを訊ねても良いですか?」
「随分と謙虚じゃないか。最初は何の前触れもなく、私を質問攻めにしていたのに」
「あなたが怒ったから、いきなり質問をぶつけられるのが、あなたには不愉快だと学んだだけです」
「質問は構わないが、答えるかどうかは保証出来かねる」
「構いません」
「では、聞こうか」
「あなたは、どれぐらいあそこで暮らしているんですか?」
「日数を数える習慣が無いので、正確な数字は判らんな。だが少なくとも、これから君が討伐しようとしているドラゴンが、此処に棲みつく以前から、私はあそこで暮らしている」
「ええっ!」
ファルサーは、思わず頓狂な声を出してしまった。
アークからすれば、人間は "玻璃のように薄く脆弱" と感じるのだから、逆に人間側からすれば、アークの存在は永遠不滅のように見える。
ファルサーの驚きは、至極当然と言えた。
アークが人間以外の、伝説に語られるヒトならざる者だとは思っていたが、しかし千年以上棲んでいると言われているドラゴンが現れる以前から…などという答えが返ってくるとは思いもしなかったからだ。
だがそれは、ファルサーの好奇心を刺激する答えでもあった。
「失礼ですが、年齢を教えてもらえます?」
「知らん」
「年齢って単語が、理解出来ないって意味ですか?」
「自分がいつ出生したのか、知らんという意味だ」
「親御さんは?」
「人間の養父母はいた」
「いつからそこに?」
「君が、自我を持った時に母親が傍に居たのと、状況は一緒だと思うが」
「なんだか托卵みたいな話だなぁ…。でもやっぱり、あなたはヒトならざる者なんですね」
ほうっと、ファルサーは溜息を吐いた。
「ヒトならざる者は、種族の名称では無いよ」
感心したようなファルサーに、アークは簡素な訂正をする。
「そうなんですか?」
「ヒトならざる者とは、人間より優れた "なにか" の能力を持っている者を総じて呼ぶ、呼称なのだそうだ」
「それじゃあまるで、人間以外の人間みたいな者が、たくさんいるみたいに聞こえます」
「そう、言ったよ」
「そうなんですか?!」
ファルサーの反応を予想していたらしいアークは、その驚きをさほど気にも止めずに話を続ける。
「人間の "常識" では、人間こそが生物のヒエラルキーの頂点に立つ存在とされている。そこに君の身の上を加えると、国の王とは生き物の王を統べる王、即ち神の如き存在…になるんだろう」
「でも、あなたのような存在を知ってしまうと、人間が生き物の王とは、とても思えません」
「うむ。そもそも、先程言った通り、世界にヒトガタをしている種族は、多様に存在しているのだよ。だが、そのことを知らない人間は、それらの種族をまとめてヒトならざる者と称しているのだ」
「人間以外のヒトガタをした種族…なんて、信じがたいなぁ…。あなたの存在を知ったあとでも、やっぱりなんだか…夢みたいです」
「私も獣人族の旅芸人に出会わなければ、知ることは無かったから、君がそう感じるのは当然だと思うよ」
「僕からすると、あなたの存在は "神にも等しい" って思えますけど」
「…だとしたら、神とは無力な存在だな…」
アークの表情にはほとんど変化が無く、ファルサーにはその言葉の真意は解らなかった。
「なぜ、傍に誰も置かないんですか? あんな場所に独りでいたら、僕なら寂しいと感じます」
「考え方の相違だろう。傍に誰かを置いて、常にその誰かを見送ってばかりいるほうが、私は気分が滅入る」
返された答えの意味を理解するまでに、数秒掛かった。
だが "見送る" と言う言葉が、相手との死別であることに気付いた瞬間、ファルサーは想像を絶する恐怖を感じた。
同時に、先程の言葉の意味や、無表情に見えるアークの顔は、複雑な感情が入り混じった憂いの現れなのだろうか? と思う。
「申し訳ない質問をしてしまいました」
「君の常識が、全ての常識では無いと言っただろう」
相変わらずアークは仏頂面で、声音もまたぶっきらぼうだった。
しかしその時、不意にファルサーは気付いてしまった。
そういうアークの無愛想な態度は、人を寄せ付けないための手段なのだと。
アークがファルサーの無謀な使命に同行してきたのも、ここに至るまでの気遣いも、全部ただの気まぐれと思っていた。
他に考えようがなかった。
なぜならアークには、ファルサーのことを気にかけたり、面倒を見たりする義務も理由も何もなかったからだ。
だがむしろ今までの小さくて細やかな気遣いこそがアークの真実で、傲慢で高飛車な態度のほうが仮面に過ぎないのだと気付いたら、ファルサーは無性にアークのことが知りたいと思った。
「どうして町の酒場では、あなたのことを "隠者のビショップ" と呼んでいたんでしょう?」
「私がちゃんと名乗らないからだろう。通名のようなものでも、名前が世間に知れ渡ると、面倒や厄介事にまきこまれる」
「でも僕には、アークと名乗ってくれたじゃないですか」
「それは仮名だ」
「じゃあ本当は、なんて言うんですか」
ファルサーの質問に、アークは一瞬、妙な感覚に襲われた。
頭痛と動悸。
だがそれらの症状は "気がした" だけで、実際には頭痛も動悸もしていない。
アークは、ファルサーの顔を見た。
ずっと正面の炎を眺めながら応対していたアークに対して、ファルサーはこちらを見て話をしていたらしい。
ほとんど真正面から、ファルサーの顔を見る形になった。
奇妙な頭痛や動悸は、自分の本能が本当の名は口に出すべきでは無いと、教えていたような気がする。
しかしそんな本能の警告は、ファルサーの顔を見た瞬間にどうでもいいと思ってしまった。
「ディザート」
「可愛い名前だ」
穏やかに微笑み掛けられて、ひどくこそばゆくなり、アークは目線を逸らす。
「先程、君が言ったことに賛同する」
「なんのコトでしょう?」
「君の見識が無いと言う発言だ」
「褒めたのに」
「残念だが、それを褒め言葉と受け取るのは不可能だ」
ファルサーとの会話で感じている奇妙な居心地の悪さと、固い樹木に寄りかかっている座り心地の悪さが相まって、アークは幾度か身体を動かした。
「寒いんですか?」
「いや、別に…」
ファルサーは自分の荷物の中から、質素だが柔らかな毛布を取り出した。
「これを」
広げて肩に掛けると、アークは黙って毛布に包まれた。
つと顔を上げると、間近にアークの顔がある。
アークの姿は、色素の薄さやその佇まいの美しさを除けば、自分となんら変わりのないものに見える。
だが例えば、この窪地での野営のための準備の手際や、決して狭いとは言えぬ湖面を瞬時に凍りつかせた魔力など、折々にアークが見せる特出した能力は、アークが言葉通りの存在であることがあきらかだ。
人間から見たら、永遠とも不滅とも思えるような時間を生きている。
百年生きることすら難しい人間からすれば、それは羨ましいと思えるような能力だろう。
しかしその永遠にも等しい時間を "独りで" 生きているとなれば、話は全く違う。
もっと無機質で感情の無い存在ならば、ただ意のままに生きていればそれでいいだろう。
はっきりと感情を持ち孤独を感じる生き物が、必ず独りで取り残されることばかりを繰り返して生きていくなんて、恐怖と思わずにいられない。
色の薄い瞳は視線が合っても逸れることなく、静かにファルサーを見ている。
まるで一種の催眠術のように、緩慢に瞬きを繰り返すアークの瞳から、ファルサーも視線を外せなくなっていた。
白く美しい端正な顔からは、年齢を推し量ることが出来ない。
命令口調で指示を出す時は、経験と歳を経た自信に裏付けされた、まるで軍の司令官のような顔になる。
でもこんな無防備なまま見つめ合ってしまうと、むしろその性別が判らない童顔故に、少女のような儚さしか感じなくなる。
青い瞳はずっと、ゆらゆらと揺れながらファルサーを見つめている。
焚き火の炎が白い顔の淡い唇を照らし、ファルサーはその色に引き寄せられ、そっと唇を重ね合わせていた。
ほんの一瞬。
これと言った空気の動きも感じなかったはずなのに。
気付いた時には、辺りは様子が一変していた。
自分が、どこに居るのかも判らない。
景色が消え、上下の感覚も曖昧で、時間すら止まっているみたいだ。
しかも自分の周りから景色が全て消え去っていると解るのに、自分の視線はアークに当てられたまま、動かすことが出来ない。
更に、目の前に居るアークを見ているはずなのに、それがアークだと解っていながら、姿は判然としていなかった。
自分達は、まるで裸で抱き合っているようで、それでいて先刻と同じ場所に同じ姿勢で居るようで…。
アークが手を伸ばして、ファルサーの肩の焼印に触れたような気がしたが、それも現実かどうか分からない。
けれど視線を外せないアークの瞳に、微かな笑みが浮かんだように見えた時、ファルサーは得も言われぬ満ち足りた気持ちになった。
"其処" には、ファルサーの望む全ての自由があった。
初めてトーナメントで優勝した日よりも、闘技場で王が直に褒め言葉を掛けてくれた時よりも、闘士のランクが上がったことを母が祝ってくれた時よりも…。
そんな凡庸な喜びや晴れがましさなど、全て吹き飛ぶ充足感だ。
今まで誰にも認められることのなかった、ファルサーのアイデンティティが尊重され、ファルサーの矜持が重んじられ、ありのままのファルサーの存在が肯定されている。
夢と現の間で、ファルサーはかつて味わったことのない歓喜と満足に満たされていた。
「今…のは…?」
ハッと我に返ると、自分は変わらず窪地の焚き火の前に居て、そしてアークはなぜか疲労困憊したような様子でくったりとファルサーに寄り添っていた。
「だ…大丈夫ですかっ?」
「……ああ、大丈夫だ……」
戸惑った様子のファルサーに顔を覗き込まれて、アークは微かに頭を振った。
ファルサーにキスをされた時、それまで感じていた微妙な不快感が消えた。
唇にキスをされたのは、記憶にある自身の生の中で、初めてのような気がする。
まだ幼い頃、眠る前に養母が額にしてくれた以外に、他人の唇に触れられたことは無いように思うが、幼少期の記憶はあまりに遠くよく覚えていない。
キスされたかったのかと問われれば、たぶん否と答えるだろう。
だがあくまでもそれは "たぶん" であって、確信を持ってハッキリと拒絶したかったのかどうか、アーク本人にも判らなかった。
ただ、ファルサーの顔が迫ってきた時、先程感じた頭痛と動悸も感じたような気がした。
それを、本能が発する警告だとするなら、ファルサーの好意を拒絶するべきだったのだろう。
しかし…。
ファルサーの境遇に同情するのも、旅に同行するのも、本当の名を教えるのも、理性では間違った選択だと思っている。
間違っていると解っていても、自分はその選択を捨てることが出来なかった。
今も、なぜかファルサーを拒絶する気にはなれないまま、その行為を受け入れてしまった。
様々な才に恵まれながら、運には見放されているファルサー。
孤立してしまった彼の立場、追いやられるようにしてアークの住まいを訪れた経緯。
どんなに間違っていても、手を差し伸べずにいられなかった。
尊大な態度や突き放すような物言いで隠せたはずの小さな心遣いを、ファルサーには見透かされてしまった。
そして、ファルサーから返される好意が心地良かった。
どんなに本能と相反していたとしても、アーク自身にも止めようが無く、ここに至るまでファルサーと共にした道のりは、アークの想像を遥かに越えて充実していた。
この先の未来に訪れる後悔がどれほどのものか解っていても、他の選択肢を選ぶことなど出来なかった。
そうして、ファルサーの気持ちを受け入れると心に決めた瞬間に、本能からの警告のような頭痛と動悸が、綺麗さっぱり消え去ったのだ。
人を遠ざけるために、アークは常に相手が少し不愉快に感じるような尊大な態度を取っている。
ルナテミスにやってきた時、ファルサーはそんなアークに向かって逆らうような態度は一切取らなかった。
それは彼の生きてきた履歴ゆえの態度だ。
奴隷として散々に踏みにじられてきたファルサーは、心に重い屈託を抱えていた。
だが、アークがファルサーを一個の人格だと認め、それを受け入れようと思った瞬間、なぜかファルサーの心に重くのしかかっていたそれらの屈託が取り払われ、彼がアークのためならばその生命すらも惜しまないと思っている気持ちが伝わった。
そして、それまで己の心に突き刺さっていた、このままゆけばファルサーをただ失ってしまうのだ…という、不安と傷みがないまぜになった棘が、不思議と感じられなくなった。
ただ、ファルサーに出逢えた歓びと、彼と一つになった安心感だけがある。
人間の町で偶然に小さな友情を得た時に感じた幸福感よりも、遥かに大きな満ち足りた感覚。
アークは今まで生きてきて初めて、一人では無いことがどういうことなのかを知ったような気がした。
しかし同時に、まるで人間の大きな国を一つ滅ぼしたような、それに匹敵する魔力をいっぺんに使い果たしたような、酷い倦怠感にも襲われていた。
心配げに覗き込むファルサーに、アークは何事もなかったような顔を向ける。
「君こそ、大丈夫かね?」
「え……、あ、はい、なんでもありません」
改めて問われて、ファルサーは首を振った。
たぶん、気の迷いのようなものだったのだろう。
虐げられるばかりだった自分が、なにもかもを肯定してくれるアークと過ごす時間の中で、そんな奇妙な幻覚を見てしまったのだ。
「ねえ、ディザート。どうやったら僕の気持ちを、正確にあなたに伝えることができるんでしょう?」
アークを想う気持ちは、ファルサー自身でさえ極端に相反していると思ったし、それを言葉にして伝えることなど、到底不可能だ。
自分がどんなにアークを傷付けたくないと思っていても、必ず最後は裏切ることになる。
けれどこの止めようもない感情の迸りや、結果必ずアークの期待には応えられずに傷付けることになろうとも、自分の気持ちは変えられないことを、どうしても伝えたかった。
そんなファルサーの苦悩に、アークは簡潔な返事をした。
「君の考えていることなんて、口に出さなくても私は知ってるよ」
「本当に…?」
「ああ、解ってる。君が私をどれほど大事に想ってくれているか、君を失ったあとの私の心情を慮って、どれほど苦悩しているかも」
やや酷薄にも思えるあの鋭い視線で、アークはファルサーの顔を見る。
「ディザート……」
「そんな顔をするな。これは私が自分で選択した結果でしかない。君が後ろめたさを感じる必要など無い」
アークの両手がファルサーの頬を包み、薄く柔らかい唇が、しっとりと触れてくる。
本当に全ての気持ちを読み取られていると、ファルサーは思った。
アークからキスをして欲しいと、思っていたからだ。
ファルサーがアークにキスを返すと、アークが言った。
「そんなことをしたら、君は一生後悔するだけだ」
「え…」
ファルサーの心を過ぎった気の迷いまでも、アークは見透かしていた。
「君は今、君に与えられた使命を放棄してしまいたいと考えた。だが、それをしたら、君は必ず後悔を覚える」
「しかし、明日の危険は回避出来ます」
「それでどうするのかね? 時が経てば故郷に残してきた母親のことも気掛かりになるだろう。君の矜持も傷付くだろう。死が訪れた時に、君の手に残るのは後悔だけになる。私に、そんな姿を見届けろと、君は言うのか?」
アークの言葉の、全てが真実だった。
生まれながらの剣闘士として人格も感情も否定され、理不尽な討伐を押し付けられた。
それでも、今でも自分はそのちっぽけな矜持を握りしめて、手放すことが出来ないままだ。
アークにこれほどまで魅了されたのも、元を辿ればそれが理由なのだから。
透明な青い瞳が、心の奥底までを鋭く見透かしてくる。
「こんな時に、こんなことを思うのは、おかしいのかもしれません。あなたが僕の気持ちを察することができると言うなら、もう感じ取っていると思います。でも、僕はどうしても、自分の言葉であなたに告げたい。僕が、あなたを愛しているということを」
「その言葉の意味を、私はたぶん正確に理解出来ないと思う」
「それでも、構いません。あなたは僕の好意を受け入れ、僕の無礼を許してくれました。僕を尊重し、僕の人格を肯定してくれた。もし僕が奇跡的にドラゴンの元から生きて戻って来られたら、僕は王に国外追放を願い出ます。僕の全てを、あなたに捧げたい。例えそれがあなたの時間の中のほんの一瞬であったとしても、僕はあなたに "幸せな時間の記憶" を残してあげたい。あなたを取り巻く孤独の中で、心の慰めになるような時間をあなたに残したいです」
ファルサーは、その目線でアークの全てを愛でているようだった。
髪を梳く指先の感触が、不思議なほどアークを夢見心地にする。
しかしファルサーは解っていない。
最後には、彼の言葉の全てが欺瞞になってしまうということを。
そして、アークはそれを知っていた。