全ての演奏が終わり、ローソクの火は消え、窓は開け放たれた。
まだ時刻は夕方、そこからは立食パーティーが催され私はサンタ衣装のまま、振舞われたお料理に舌鼓を打った。
フライドチキンやポテト、チーズたっぷりのピザまで、たくさんのお皿が並べられたようで、楽しげな声がいっぱい聞こえてきた。
「郁恵、とっても素敵な演奏だったよっ! 華鈴さんもピンク色のドレスを着てフルート演奏してて、全然普段と雰囲気違って、もうたまんないくらいラブリーだったよっ!」
華鈴さんのことをラブリーと表現するのが恵美ちゃんらしいなと思いつつ私は歓喜の声を受けた。
「ありがとう、恵美ちゃん。集中してたから、一気に気が抜けちゃった」
演奏が終わった後は心地いい達成感で心はいっぱいだったが、身体の方は炭酸の抜けたソーダのように気の抜けた感じだった。
「本当に私もびっくりしちゃったわ。誰もがびっくりしてたと思う。
目が見えないのにあれだけの演奏が出来るんだから。
人間って不思議な生き物だなって思うの、可能性に満ちてて、どんなことでも不可能じゃないって思わせてくれて」
今では全盲の視覚障がいを持っていてもプロの演奏が出来ることが証明されているが、一昔前はそんなこと出来るはずがないと思われていた。
だが、それも勝手な思い込みに過ぎない。
そんな風に言われてしまい、落ち込むこともあるが、強い心があれば反骨心で立派な演奏を披露するまでに成長することが出来る。
人間という生き物の可能性……それは五感の一つを失ってもそれを補おうと補完し合う力にあるのかもしれない。
パーティーが終わり、店の扉が閉められたのは夜八時を回った頃だった。
私は疲れはありながらも、着替えをすることなく荷物をまとめて出掛ける支度をしていた。
「そろそろ、往人君のところに行くのかしら?」
「はい、待ってくれていますから」
華鈴さんから声を掛けられる。私に迷いはなかった。
「一人で大丈夫?」
「今日はクリスマス、街の街灯も賑やかです。フェロッソがいれば往人さんのところに行けますよ」
出来る限りの笑顔を浮かべ、安心させようと私は返事をした。
マフラーを巻き、手袋を着けて、フェロッソのリードを握り、準備は終わっていた。
「分かったわ、それじゃあ、これを郁恵さんに預けるわね」
「これは……クリスマスケーキですか? それとも、お誕生日ケーキですか?」
販売をしていたのですぐに手触りで分かったが、五号サイズはありそうなケーキが手渡された。
冗談交じりに余計な詮索をしてしまったが、きっと中身はこの喫茶さきがけで作られた立派なクリスマスケーキだろう。
ケーキの味は少し味見をさせてもらっているので知っている。
すぐに完売した人気商品なのに、ずっと残してくれたのだと思うと嬉しさが込み上げて来る。
「さぁ、それはどちらかしらね……楽しみにしてちょうだい、きっと往人君にも喜んでもらえるわ。
どちらにしても二人で一緒に食べなさい。きっといい思い出になるはずよ。
素敵な演奏を一緒にしてくれたお礼だと思って」
「ありがとうございます。華鈴さんと出会えて私は幸せでいっぱいです!」
感極まって私は声を震わせながら言った。
「私もよ、健闘を祈るわね」
「はい!」
演奏の後にも受けた抱擁をもう一度私は受けた。
華鈴さんは随分前から、素敵な演奏を聴いてもらった後に往人さんに想いを伝えたいと話してある。
だから、これは応援のエールとして譲ってくれているのだ。往人さんがここに来れなくなるというイレギュラーはあったけど、今日という日に想いを伝えるために。
私はサンタ衣装の上に厚手のコートを着ると、みんなに別れを告げてフェロッソと一緒にまだ賑やかさの残る喫茶さきがけを後にした。
クリスマスの日、立食パーティーまでの熱気によって未だ興奮冷め止まらぬ中、冷たく乾いた外気に晒されながら日が暮れていく街を歩いていく。
「はぁ……緊張するなぁ……」
喫茶さきがけを後にした私は往人さんが一人待つ家に向かっている。
冷えた外の空気は私を現実へと押し戻し、会うだけでも緊張してしまうにもかかわらず、これから告白しようとしていることを余計に意識させられてしまう。
すっかり日が暮れたクリスマスの夜。プレゼントするつもりのマフラーの入った紙袋とクリスマスケーキが入った半透明のレジ袋を手に街を歩く。
期待と不安が交錯する脳内を落ち着かせようとずっと”ジングルベル~ジングルベル~鈴が鳴る~”とジングル・ベルの歌詞を馴染みあるメロディーで思い出していた。
観光地や繁華街の駅前などに行くとカップルが多いそうだが、ここはそういうことはない。
往人さんの暮らすお師匠さんのアトリエには何回も行った経験があるから、現在地さえ見失うことがなければ一人でも到着できるようになってきた。
道順を覚えることは何よりも大切だ。
地図アプリがあるからといって工事で通行止めになっている場合もあり、その通りに行けるとも限らず、想定通りに行かないこともある。
障害物があればフェロッソが教えてくれるので、黄色い点字ブロックがあればそれを目印にして、時にその上を歩きながら進んだ。
音声案内の声が聞えて来る駅まで着くと、私は気負い過ぎないよう電車の車内へと乗り込んだ。
一人で電車に乗るのはなかなか慣れることの出来ないことの一つだ。
フェロッソに待機の指示を出し床に寝そべらせる。
目的地までは数駅ほどで長い時間はかからない。
気持ちが落ち着かず、車内では先頭車両に立ってやり過ごした。
「忍ぶれど 色に出ゐでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで…フェロッソは往人さんのこと好き?」
駅を出て、また寒空の下を歩いて行く。
一人の不安から平兼盛による小倉百人一首の一首を詠い、夜道を歩いていると私は少し心細くなりフェロッソに話しかけていた。
「自分から気持ちを伝えるのは緊張するね。
フェロッソは平気そうだけど……」
フェロッソは危険を伝えてくれるが会話に付き合ってはくれない。
でも、私と同じで甘えん坊なところがあって私は好きだ。
だからつい本音を独り言のように口から滑らせてしまう。
「私ね……大学で階段から落ちた時、フェロッソが吠えて助けを周りに求めてくれた時、とっても嬉しかったよ。私が教えたわけじゃないのに、びっくりしちゃった。私はまだ怖いことがあっても、上手に叫んで助けを呼んだりできないよ」
フェロッソがいるから、寒い日も一人じゃないって、寂しくないって思えたことが何度もあった。
私にとって大切な家族。
いつまでも一緒にいて欲しい相棒。
寂しくて泣いてしまう夜も身体を貸してくれる私のパートナー。
「恋人なんていなくても大丈夫だってずっと思ってたのに……。
私も変わったね。こんなに夜遅くなってるのに、好きな人に会いに行こうとしてるんだから。ちょっと悪い子になっちゃったみたいだね、フェロッソ」
そんなことまで考え始めた頃、私は目的地に到着した。
考え事をしながら歩いてきたが、特に足元が寒かった分、ここまでの道のりは長く感じた。
手を伸ばし、手探りでチャイムを鳴らそうと試みる。
でもなかなか見つけられなくて、結局あまりの寒さに耐えられず私は往人さんのスマホに連絡した。
「往人さん、家の前まで着いたよ」
私はスマホを耳に当てゆったりとした声色で伝える。往人さんは”分かった”と一言告げて通話を切った。
ネックストラップを使い首から下げているスマホから手を離す。ちょっとしたやり取りなのに、堪らなく胸が苦しくなった。
雪が降り出しそうな冷たい夜風を浴びていると、すぐに扉は開かれた。
「寒かっただろ? 早く家の中に入ろう」
「うん、ありがとう。日本の冬は寒くて困っちゃうね」
優しい歓迎を受けてそのまま私の手に触れる往人さん。私は肘を掴み、往人さんに誘導されながら階段を上がった。
不思議だ……お見舞いに来たつもりなのに、往人さんに心配されて介抱されてるみたいだ。
でも、悪い気分はしない。むしろ、心細かったのが溶けていくように温かい気持ちになった。
「もう大丈夫なの? 往人さんは?」
「あぁ、心配かけたな。ただの貧血だから、一日ゆっくりしてたら元気になったよ」
声を聞くだけで、身体が過敏に反応して心が満たされていく。
胸がギュッと苦しくなる、この会いたくて焦がれてしまうような感覚が恋なんだということがよく分かる。
ダイニングまで来て、椅子に案内された私は少し躊躇いながらコートも手袋も脱いだ。
雰囲気を壊したくなくて、神崎さんから聞いた話をする気にはなれなかった。
「ごめんなさい、本当は演奏が終わったらすぐに感想を聞くつもりだったのにバタバタしちゃって、聞きそびれたね」
椅子に座ってようやく暖房の効いた室内にいる安心感に包まれると私は往人さんに言った。
映像では見せていたけど、やっとこの場でサンタ衣装を往人さんに見てもらうことが出来た。意外と生地はしっかりしていて温かいけど、やっぱりスカートが短いことが気になる。ハイソックスを履いているのに太股部分の肌が露出したままだ。
「そうだな……あんなに盛り上がってたら仕方ねぇだろ。気にしてないよ。
華鈴さんもいつも以上に気合が入ってて、いい演奏だったな。
郁恵のことみんな驚いてたろ? 遅くまで練習していた甲斐があって良かったよ。
努力を重ねれば、目が見えなくても出来ることがある。ちゃんと証明できたじゃないか」
往人さんが演奏を手放しで私のことを褒めてくれる。声にも力が戻ったようで体調が良くなったのは間違いではないようだ。
「ありがとう、恵美ちゃんや静江さんも褒めてくれて。
華鈴さんとは長い期間を掛けて練習いっぱいしたから、凄い達成感でいい思い出になったよ。
去年は私が腕を怪我したせいで開催できなくて哀しかったけど、頑張り続けて良かった。
嬉しい時に出る涙は格別だなって」
「演奏会に向けて頑張って来た分、喜びもひとしおか。
よかったな……俺も店にいたかったよ」
一息つきながら、やり遂げられたことの達成感に包まれる。
こうして二人きりでいるのが不思議なことのはずなのに、望んでいた通りに二人きりでいると、これが運命であるように感じてしまう。
「うん……往人さん……私のこと、見えてるよね?」
「当然だろ」
「私、恥ずかしい格好してないかな?」
足を閉じて、上目遣いに私は聞いた。
「まだ自分に自信が持てないのか? 綺麗だよ……ちょっとスカートが短くて目のやり場に困る気がするけど」
会話が途切れて沈黙に包まれるのが嫌で、ついつい何でも口から出てしまう不自然なくらいに緊張する私がいた。
意識すればするほど、たまらなく恥ずかしいくらい恋をしている自分がいる。
何だろうこの空気は……お互いドラマの演技をミスしないように一生懸命に振舞ってるみたいだ。
けど、往人さんが私のことを見てくれているんだと分かると嬉しいのにさらに恥ずかしくなってしまう自分がいた。
「そうだよね……華鈴さんの趣味が入ってるから。
そうだ、クリスマスケーキ貰ってきたから、一緒に食べよう?
往人さんの分、華鈴さんがこっそり置いておいてくれたから」
この浮ついた空気を紛らわすように私はクリスマスケーキの入った紙袋をテーブルに置いた。
こっそりではなく、堂々と確保して私に託す満々だったと思うけど、少しだけ私は嘘を付いた。だってこれは、往人さんへのサプライズ誕生日ケーキでもあるんだから。
往人さんが上質な喫茶さきがけのケーキをカットしてローソクを立ててくれる。
私は誘導を受けながら、ローソクに火を付けて、ハッピーバースデーを歌って一緒に息を吹きかけて火を消した。
「上手に消せた?」
自然と笑顔が零れる中、私は聞いた。
「あぁ、何だか二人でこんなことしてるのが不思議な気分だ」
「それはそうだよ……でも、お祝い出来てよかった……」
息を吹きかけるために少し顔を近づけすぎたかもしれない。
いつもより優しく柔らかい気配を纏った往人さんを一瞬だけど凄く近くに感じてしまった。
「これってやっぱり、クリスマスケーキじゃなくて誕生日ケーキだったのか?」
「そうかもしれないね、ちょっとだけフライングだけど」
販売されたショートケーキのクリスマスケーキは試食で食べたが、渡されたこのケーキについては私は何も聞かされていないからこういう返答になった。
大勢で騒がしく過ごす時間とはまた違う、二人の時間。
身体の疲れなんて吹き飛ぶくらい、ドキドキしながら、私は往人さんと一緒にケーキを食べた。
私は一切れ食べたら胃袋が限界で胸やけしてしまったから、往人さんがほとんど食べてくれた。
「美味しかったね、ハッピーバースデーの板チョコも入ってたし」
「サンタとトナカイもいたから、これは確かにクリスマスケーキでもあったな」
往人さんが板チョコを食べて、私はサンタとトナカイの砂糖菓子を食べた。
中身は苺の乗ったショートケーキではなくて、甘く蕩けるようなチョコレートケーキだった。それは往人さんからの情報によると私の知らなかった裏メニューようなお得意様用だったらしい。
「それとね……今日はもう一つ、プレゼントがあるんだ」
私は一緒に美味しいケーキを食べると、タイミングよく紙袋からマフラーを取り出した。
喜んでくれることを期待しながら苦労して編みこんだ手編みのマフラーを往人さんへ手渡す。
「マフラーか……これは白色か?」
「分かりますか?」
「予想だけどな」
「正解だよ。ちょっとは色を取り戻せてるのかな?」
躊躇うことなくマフラーを受け取ってくれた往人さん。
大切なことだが、私たちが一緒にいることの意味、その一つに往人さんが色を取り戻すことがあった。
「どうだろうな……色に関しては感覚的なものだから明確に見えるようになって来たっていうのとは異なるが、少しずつってところかな。
それでも六龍は完成したから、郁恵と一緒にいる効果は十分にあったぞ」
六龍……。去年のノーマライゼーション絵画展にて、刀を口に咥えた青龍図を公開してから一年以上かけて往人さんは立派な六龍を完成させた。
残念なことに私ではその大作をこの目で鑑賞できないけど、往人さんからの話しを聞いた限りの情報では六龍はそれぞれが全く異なる刀を口に咥えていて、その不思議を解き明かしたい意識を鑑賞者に意図的に宿らせるように仕組まれている。
そうした効果も巧みに使いこなしたことで話題性が立ち上り、評価は高いものになったそうだ。
六龍という発想自体、そう簡単に構想できるものではない。
当初は青龍から一番連想されやすいであろう、伝説上の神獣で京都の東西南北を守護する四神、朱雀、玄武、白虎が連作として描かれていくと予想されていた。
往人さんの母親、桜井深愛さんも京都の景色をキャンバスに多く描いてきたから、京都の東西南北を守護する守護聖獣を描くことは不思議ではなく、むしろそれが一番期待され、望まれた展開であるはずだった。
だが、それをもちろん知りながら、往人さんはその予想を裏切り、多くの伝承が世界に残る、神々しく美しい龍の姿を六作続けて描いて見せた。
赤龍や緑龍など、一色に色分けされた六つの龍が並んだ姿は見るものに衝撃を与えるだけの迫力があり、その光景はまさに壮観だという話だ。
そんな作品を制作した理由は意外にも単純、最初の青龍を発表した令和六年が辰年だからだというもの。
それ自体は真っ赤な嘘というわけではないではないけど、六龍であるもう一つの理由があることを私は後になって聞いた。それは天地東西南北の方向を示しているかららしい。
答えを二つ用意している辺り、私は往人さんらしいなという感想を持った。
「油絵って一枚描くのに何か月も製作期間をかけたりするんだね……。私ってば無知が過ぎるからビックリしちゃったよ」
六龍はそれぞれ二十号サイズに揃えていて、家に飾る場合はリビングルームなどでないとなかなか難しい大きさだ。それを油絵で仕上げるのには画力に限らず、相当な時間を要するとのことだった。
「完成度って意味では時間をかけてクォリティーを上げられる油絵は根強い人気があるな。描く方の労力でいえば価格に見合うとは限らねぇが」
「でも、六龍は喜んでもらえた」
「見るものを魅了し代表作になれたのなら、苦労も報われる。美術に限らず、芸術という分野はそういうものだよ」
想像するだけでも六龍が並んだ姿は幻想的で美しい。龍は願いを叶えてくれる伝説上の生き物と言われているが、六龍が揃えば叶わない願いはないような気さえする。
世の中には六龍法占いなるものもあり、月龍、火龍、水龍、地龍、風龍、空龍と六つの龍タイプに見立てることで、様々なことが分かり、開運に導く生き方を探ることが出来るそうだ。
占いというのはその多くが善行を重ねて行けば良いことを待っているという導き方に寄っていて、占いを信じることで自然と人々の調和を目指しているのだろうと私は思っている。
それはそうと、往人さんは大きな声で言わないが、最初に六龍の絵画を買ってくれたのは何を隠そう坂倉さんだ。
画商の役割はいい物を適切な値段で買い取り市場に出すことだと坂倉さんは口にしていた。その言葉通り、坂倉さんの展開した言葉の力のおかげで六龍の価値は大きく跳ね上がって、コレクターの目にも止まり見る者を惹き付けている。
言葉で通じ合ったわけではないが、糸が切れることなく、二人の関係が継続しているだけで私は安堵すると共に心まで安らいだ。
「往人さんのためになれてるなら良かった。
マフラー大切にしてくださいね」
「もちろんだよ。手編みのマフラーなんて大層なものを貰うの初めてだ。
大事にするよ、すげぇよく出来てて郁恵は器用なんだな」
「器用というほど上手ではないです……。
試行錯誤の賜物です。往人さんが頑張っているのを見ていたら、私も何か作りたいなって思ったので」
毎日の積み重ねて完成したマフラーが往人さんの下へ旅立った。
往人さんは過剰な褒め方をせず私を子ども扱いしない上に、何にどう苦労をしているかも分かってくれる。私を弱い人間じゃないと認めてくれている証拠だ。
「俺も実はクリスマスプレゼントがあるんだ」
そう言って今度は往人さんからネックレスをプレゼントしてくれた。
手に取り、感触を確かめるとチェーンの先端には水玉の形をしたものが付いているのが分かった。
「凄い……本物のネックレスだ。これは、何が付いているの?」
「ラピスラズリだよ。深い瑠璃色の天然石だ」
「12月の誕生石だよね? 往人さんにお似合いなのに」
「俺は師匠からラピスの付いたブレスレットをプレゼントされたことがあってな。海外でついでに買って来たらしいが。そういうことで、これはお揃いだ」
「本当に? 嬉しい……お師匠さんも可愛いところがあるんだね」
聖なる宝石と呼ばれる美しい青色をしたラピスラズリ。
神秘的に深く濃いブルーの夜空に帆の輝きのような模様が浮かび、「幸運、真実、健康」などの石言葉がある宝石。
和名を『瑠璃』、世界で最初に「パワーストーン」と認識された宝石と言われているものだけど、何よりお揃いというのが私にとっては嬉しかった。
クリスマスケーキを一緒に食べて、プレゼント交換をして、満たされた気持ちの中で私はここに来た一番の目的を思い出した。
二人きりでいる今この時が千載一遇のチャンス。
これ以上ないシチュエーションの中で、私は一歩を踏み出そうと緊張を堪えて声を掛けた。
「ねぇ……ずっと伝えたかった気持ちを言葉にしてもいいかな?」
「俺が先に言いたいなって思ってたんだが……」
「そこはレディースファーストがいいかな。これでも覚悟を決めてここまできたんだから」
「分かったよ、会いに来てくれたんだもんな」
「うん、だから、聞いてください……」
心が通じあっているような、そんな気持ちが湧き立つ会話のやり取り。
プレゼントのネックレスを首に掛けて、キュンと胸が締め付けられ、さらに勇気をもらった私は想いを届けと願いながら口を開いた。
「私ね……最初から往人さんは特別だなって気がしてたの。
名前も知らない人なのに……助けてくれたこと、絵の具の匂いがしたこと、忘れられなくって。いつか再会できたらいいなって思ってた」
”優しくするのに理由が必要か?”
あの時の往人さんの言葉が頭の中で蘇る。
心が震えた瞬間だった。
「打ち上げパーティーの時にまた助けてくれて、仲良くなることが出来て、往人さんのこと、たくさん知って考えるようになって、それがまた嬉しくって、いつもドキドキしていた」
めぐる春夏秋冬。往人さんと過ごした時間、場所。
新しい毎日。思い出を積み重ねていくかけがえのない日々。
今の関係のままじゃなくて、もっと一緒にいられる安心感が欲しいって思うようになった。それが恋なんだということも自覚した……だから。
「好きだよ、大好きだよ、往人さん。
これからも私の隣で手を握っていてくれませんか?
どこまでも、私と一緒に支え合って歩いて行きませんか?」
声が裏返りそうになりながら、心臓が飛び出そうになりながら、私は心を解き放って想いを言葉にして伝えた。
そして、深呼吸する間もなく往人さんの返答が始まった。
「こんな俺でいいのか……今だって不自由しているのに。
今日倒れてしまったのは、師匠からクリスマスプレゼントにって郁恵の描いた絵を渡されて、それに小さく付いてた赤い血で貧血を起こして倒れたからだ。克服出来るのかも分からねぇし、不甲斐ないって思ってる。
それに将来この目は失明するかもしれない。それでも、俺のそばにいてくれるのか?
こんな不自由な俺でも、彼氏にふさわしいって思ってくれるのか?」
往人さんの視力は0、1以下だと前に聞かされていた。
全色盲は非常に稀な病気で視力が低く、有効な治療法がないと。
往人さんの言葉通り、いつか私と同じように全盲になって私のことも見えなくなるかもしれない、それは妄言ではない本当のことだ。
だけど、私はそれでも往人さんのそばにいたいと心から思っている。
往人さんを色のない灰色の世界から救い出したいと思ってる。
だってもう、この身体が往人さんを受け入れてしまったから。欲してしまったから。
「往人さんじゃないと嫌だよ。私にとって一番一緒にいて安心できる人なんだから。
それにね、往人さんは自分の不自由さに負けてない。周りの期待に応えようと頑張っているよ。私もそうなりたいって思って生きてるからよく分かるよ。
往人さんは私のこと好き? 一緒にいたいって思ってくれてる?
私は往人さんの気持ちが知りたい。
往人さんの気持ちを大切にしたいから」
私は往人さんの素直な気持ちを知りたくて意地悪に聞いた。
人間は産まれた時から不自由な生き物なんだと私は思う。
自分で立ち上がることも出来なくて、言葉も話せなくて、泣いてばかりいて。
それでも、時を刻み身体も心も少しずつ、着実に成長していく。
人という生物は社会的な生物で、言葉を使ってコミュニケーションを取ることを知って他者から学び、模倣していく。
だけど、感情があって、仲良くなりたいと思ってもなかなか通じないこともあって。
だからこそ、支えになる誰かが必要で、何時まで経っても人恋しいんだ。
言葉や身体で分かり合おうと、一生懸命になってしまう生き物なんだ。
「好きだよ……郁恵のこと。
最初にあった日、これは夢か幻なんじゃないかと心を震わせながら思ってた。
でもさ、喫茶さきがけで郁恵を見掛けるようになって、死んだ母親のように色を持った郁恵は、今この瞬間も息をしている実在する本物なんだって分かった。
こんなに綺麗で人間味があって、目が見えなくても前向きで充実した顔をしていて、母親以上の色彩を持った女性がいるんだって惹かれていった。
求めてしまうことで傷つけてしまうんじゃないかと話しかけるのを躊躇ってしまってずっと話しかけることが出来なかった。
でも、今こうして二人で言葉を交わし合っていて思うんだ。
好きって気持ちを我慢するのは堪らなく辛いことだって。
俺は郁恵の笑顔を奪いたくない、郁恵を笑顔にしてやりたいんだ。
精一杯、好きって気持ちを守りたいんだ」
往人さんの返答に感動を覚えた。
一人の女性として、これほどに想ってもらえている私は幸せだ。
高鳴る鼓動と共に、心から感謝を噛み締めることが出来た。
「往人さん……ありがとう。
私達、相思相愛だね。好きって気持ち、一緒に守って行こうね」
心からの祝福を抱き、私から手を差し出して往人さんがそれを握る。
往人さんの温もりを感じられること、それがどれだけ安心を与えてくれるかよく分かった。
「初めて出来る彼氏さんなんだから。そばにいてくれないと嫌だよ」
「責任重大だな……」
「そうだよ、ちゃんと幸せにしてくれるって信じてるから」
優しく微笑んで、私は愛情いっぱいに言葉を紡いだ。
「分かったよ。俺も嬉しい、まるで夢を見ているみたいだ。郁恵が俺の彼女だなんてな」
その紡がれた言葉で何があっても大丈夫だって思えるようになった。
往人さんは歳の差を気にしていたけど、もうそれも過去のことになっているようだった。
「うん、私もお願い、ギュッと抱き締めて、離さないでよ……」
下を向いて、嬉しさのあまり涙声になってしまう私を優しく抱き寄せる往人さん。その愛おしくて逞しい、大きな身体に受け止められる。
「どこにも行くなよ、俺のそばにいろよ」
弱さを強さに変えて身体を重ね合わせ、一つになった瞬間、全てを理解したような気がした。
この世界にありふれているたくさんの愛言葉。
その全てが今この瞬間と重なっているんだ……。
「私はここにいるよ……目が見えなくてもここにいるよ……」
嬉しくて、切なくて、愛情に満たされていく中で声が震えていた。
今日、二度目の嬉し涙を流し、往人さんは私という存在を身体に刻み付けるように抱き締めて、おでこにキスをして頭を撫でてくれた。
天に昇るような心地で私もその想いに応えようと、ギュッと抱き締め返した。
「すっかり、遅くなってしまいましたね……」
往人さんの淹れてくれた温かいココアを飲んで落ち着いてきたところで私は丁寧な言葉遣いで話しかけた。
家の中ではイヤホンを付けないから、スマホを操作して時刻を確認する仕草は往人さんにも伝わっていた。
「今日は泊っていくか? 師匠の部屋のベッドなら空いてるから」
今から帰ることに抵抗感のあった私に往人さんは提案した。
「いいのですか? お師匠さんにもご迷惑なのでは……」
「気にしなくていいよ。いや、まぁ少しは気にした方がいいとは思う。家にいるのは俺一人だけだから」
少し躊躇いがちにドキッとするようなことを往人さんは口にした。
交際を始めたばかりで大胆なことを言われると余計に意識させられてしまう。
「もしかして、手を出しますか……?」
「そんないきなり手を出したりしない」
「そうですか……まだ早いですよね」
いきなり手を出されたいわけではないがちょっと寂しさを覚えてしまう。
十分な性知識のない私には何をどうされるのか、正確な手順というものも分からず、情けないやり取りになった。
それからフェロッソはリビングで寝てもらうことにして、神崎さんの寝室に案内してもらった。
寝室にはベッドが二つあり、それが何故なのかは教えてはくれなかった。
往人さんから普段使ってない方のベッドを教えてもらい、今日はそこで寝かせてもらうことになった。
「お風呂、一人で入れるか?」
着替えを持っていなかったので、往人さんの私服を貸してもらい、お風呂に入ることになった。
「入れないって言ったら、一緒に入ってくれるんですか?」
「それは考えてなかった」
「そうだと思いました……。大丈夫ですよ、少し教えてもらえれば一人で入れますから」
一緒にお風呂に入るというイベントは次回に持ち越して、私は浴室内の配置や使っていいシャンプーやトリートメントなどを教えてもらい、疲れた身体をお風呂で洗い流すことにした。
往人さんの気配が消えたところで、半日近く着ていたサンタ服を脱いでいく。
恵美ちゃんと銭湯に行った時も周囲の視線が気になって緊張してしまったが、好きな人が暮らす家のお風呂を使わせてもらうのは、その時以上に恥ずかしい心境になった。
「邪念を振り払って、無心の境地で早くお風呂に入らないと!」
もし一緒にお風呂に入ったらどうなっていたのだろうか。
そんな危険な思考を振り払い、裸になって寒さから逃れるように浴室に入っていく。
何でだろう……こういう時に限って、普段考えもしないようなことまで考えてしまうのは。
「往人さん……往人さん……」
湯船に浸かりぬくぬくと身体を温め、何度も繰り返し往人さんの名前を呼ぶ。
通じ合えた気持ちを噛み締めるように繰り返していると、すぐにのぼせてしまいそうなくらい火照った気持ちに包まれた。
「恋人が出来ちゃった。信じられないね……真美。
私……これからもっとドラマみたいなこと、たくさんしちゃうのかな」
ほとんどの恋愛知識は映画やオーディオブックから得たものだ。
他の人が実際にどんな恋愛をしているのか、話しを聞いたことはほとんどない。
恋愛という関係は私にとって本当に未知の領域だった。
でも、思い続ける日々は辛く、切ないものだった。
気持ちを伝えたいと思っても、傷つくのが怖くて躊躇してしまうことが何度もあった。
それでも、伝えて良かったと思う。勇気を出してよかったと思う。
この想いが届いて得た、この満たされた感情は言葉では形容しがたい。唯一無二のものだ。
だから、これからも大切にしていかなければならない。
私を見つけてくれた、往人さんのためにも。
長い間、想いを募らせて、勇気を出して告白をした自分自身のためにも。
どこまでも一緒に幸せへの道を歩み続けたいから。
「分かっているよ……ちゃんと明日は真美に報告しに行くから。
往人さんを連れて行くから待っていて、あの日の砂浜で」
音が反響するお風呂場で私は明日のデートに向けて、思いを馳せた。
二人で向かうこれからの道はきっと幸せに繋がっている。
そう信じているから、私は往人さんとあの日の海岸を一緒に歩きたいと思った。
彼女の描いた絵を思い出そうとするとずきりと頭が痛くなり、元々ぼやけて見える視界がさらに霞んだ。
俺は具合が悪くなり貧血を起こした原因であるその風景画を布で巻き、押し入れの中に封じた。
好きだという気持ちと、俺の方が迷惑を掛けてしまい、立場が逆転してしまうのではないかという恐怖が同時に胸の中にある。
きっと、俺は彼女が怪我をして身体から流れ出した血で再び貧血を起こしてしまうのが怖くてならないのだろう。
母親の身に起こったようなことがま起これば、今度こそ精神的に立ち直れないほどに壊れてしまうかもしれない。
だが、そばにいるだけで満たされてしまう自分がいる。
少しでも離れたくないと思うほどに愛おしい欲情がある。
だから、母が予言した通り、俺は郁恵を”運命の人”として捉え、これからも一緒にいることに決めた。
色を持ち、光に包まれる唯一無二の彼女はどんな存在よりも美しく、尊い存在だから。
*
――明日はね、往人さんに連れて行ってほしいところがあるの。
告白劇から少し時が経過し、お互い風呂に入った後で、俺が渡した白いYシャツの下に薄ピンク色のブラトップを着た郁恵は、師匠の寝室に戻ると話を切り出した。
「そういえばどこに行くか決めてなかったな。それはどこなんだ?」
俺は師匠のベッドに座り、互いに郁恵と向かい合って話すことにした。
ハーフパンツを履いているので目線に困ることはないが、風呂上がりの郁恵はいつもとは雰囲気が違って見えた。
正面からまだ濡れた髪を下ろした艶やかな肌をした郁恵の姿が妖艶に映り込む。
それは俺にとって少女の面影を帯びたまま大人へと成長を遂げていく女性の姿だ。
慈愛の精神を持った、芯の強い女性。目が見えなくてもそれに臆することのない強さを持っている。
俺に対して迷いのない信頼を寄せるその姿を見ていると、もっと強くならなければという感情が湧き上がって来る。
郁恵に相応しい男になりたいのだ……随分と歳も離れているというのに。
「海水浴場になってない、砂浜海岸があるんだ。
四年前、入院していた頃の夏に行ったことがあって思い出に残ってる場所なの。
その時に行った時のことはよく覚えていて、心地良い波風が吹いていて、波の音と潮の香りがしてね、ずっと先まで砂浜が続いているの。
そこにね、一緒に行ってみたいなって。
あぁ……できれば朝から行きたいかな、ダメかな?」
そう優しく強請るように俺に伝える郁恵は開いた瞳を遠い方角へ向けていた。
こうしてお願いをするからには明確な理由があるのだろう……俺の誕生日に、それも付き合い始めて最初のデートで行きたいと口にするくらいなのだから。
「分かったよ、一緒に行こう。
俺の身体は陽射しに弱くて海水浴に行ったことないから、本当に海に行くのは久しぶりだな。
寒すぎて風邪を引かないように気を付けないとな」
夏はそもそも陽射しが強すぎて俺は行けないが、冬の海にも喜んで行く人間はそうそういない。
閑散として、厳しい寒さとなっていることが安易に今から想像できる。
でも、それでも郁恵が行きたいというなら俺に迷いはなかった。
「ありがとう……。そうだね、冬の寒さに負けないようにしっかり防寒装備していこう。明日が楽しみだね、往人さん」
笑顔を浮かべて正面を向く郁恵。
俺のことが見えていないのに、会話をしながら声に反応して視線をこちらに向けるその仕草がたまらなく愛おしく見えた。
「そうだな、そうと決まったら、このくらいで今日は休もう」
「うん、名残惜しいけど、おやすみだね。大好きだよ往人さん」
”さん”付けをするところはまだ変わらない様子の郁恵がおやすみの言葉を告げる。
軽く抱擁を交わし、それ以上の密着をグッと堪えて俺はおやすみの言葉を返した。
こうしていると、いつまで自制を続けて郁恵を求めてしまう感情を我慢し続けられるか分からない。
それほどに、信頼を寄せてくれる彼女は魅力に溢れていた。
翌朝、朝食の準備をする俺の前にやって来た郁恵は寝起きでふらついていて、まだ意識がはっきりとしていない調子のようだった。
「まだ朝食の準備をしてるから、もう少し部屋に戻って支度をしていてくれ。
準備が出来たら呼びに行くよ」
俺がフライパンを手にそう声を掛けると寝ぼけた様子でそのまま小さく郁恵は頷いた。
振り返り、部屋に戻って行こうとする背中が見えたところで聞いておきたいことがあり、一度引き留めた。
「あぁ……一つ聞きたいことがあった。
マスタードは抜いといた方がいいか?」
「うん……辛いのは苦手……」
俺の質問に可愛くそう返事をすると、郁恵は大人しく壁づたいに部屋に戻っていった。
朝食の準備が終わり、郁恵を呼びに行くため師匠の部屋へ向かうと、郁恵は髪を結び終えて、ロングスカートと白いセーターを着て出かける格好に装っていた。
「もう起きたか?」
「うん、今行こうとしてたところ」
「そっか、白いセーター似合ってるよ」
背筋を伸ばして支度を終えたばかりの郁恵は、昨日プレゼントしたネックレスも早速身に着けてくれていて俺は嬉しい気持ちになった。
「本当に? 嬉しい……」
すっかり目が覚めた爽やかな郁恵はパッと表情を明るくして心地の良い声を聞かせてくれる。
朝は目覚めが悪い日もあり、憂鬱になるが、朝から郁恵の笑顔を目の当たりにすると、ずっと世界を明るく感じることが出来た。
「色盲になると視界が灰色に見えるから、本当は服の色より郁恵の肌の方がはっきりとした綺麗な白に見えるんだよ」
普段から灰色の視界に染まっている分、郁恵の姿には明らかな光の濃度の差がある。
色白の肌が鮮明にはっきりと見ているのは俺にとって特別なことだ。
視力も悪く、紫外線などの光に弱い俺は目の負担になるため、あまり郁恵のことを直視できず、それも一つの不安だった。
「そうなんだ…? 美白を意識してるわけじゃないけど、スキンケアは欠かさないようにしてるんだ」
「凄いな郁恵は。自分の姿を鏡で見れないのに、そこまで日頃手入れしてるなんて」
見られていることを意識していなければ美容に気を遣うことはない。
そういう意味も含めて俺は言った。
「自分では分からないから出来ることをやっているだけなの。
私には鏡で自分の姿が見えたとしても、比較対象がいないから美人かどうかなんて分からないと思うから」
誰の顔を知ることなく、人よりも少ない情報で人となりを見極める。
感情は確かに声や態度にも表れるが、周りの風景まで見えないのは明らかに取得できる情報に差が生じる。
いくら感覚を先鋭化させても、視覚から得られる八割の情報がないことは大きな不安材料であることに変わりない。
手を貸し過ぎるのもまた尊厳を奪うことになりかねないが、俺は出来るだけ郁恵の目になりたいと思った。
「そうか……ミスコンに参加したのもそういう意識があったからだよな」
「そうだね。自分のことを知ることは大切なことだと思ったから。
その時は自分のことは自分で守らないと、自衛しなきゃいけないって意識が強かったよ。だって、時々信じられない気持ちになるけど、私はもう大学生だから」
オーストラリアの四年間で成長して日本に戻って来た郁恵。
大学生になったことでその成長をより感じているのだろう、時の流れを早く感じてしまうほどに。
「そういう自意識を持ってる郁恵と一緒にいられるのは俺も安心だな。
俺は腕っぷしが強いわけでもない、いつでも傍にいられるわけでもない。
一緒にいて安心できるのは俺だって同じだから」
「一緒にいる時間が確かな絆になって力へと変わる、そんな関係ってきっと素敵だと思うよ。
ねぇ? 往人さんから見て私はこれでいいのかな?
もっと、服装に気を遣った方がいい?」
恋人同士になったことで少し遠慮がちな姿から変わった郁恵が積極的になって聞いて来る、
俺は自然と明るい気持ちになって考えた。
「今のままで十分魅力的さ。それに、大切なのは統一感があることかなって思う。心と体がちぐはぐなのは見ていて疑心を抱くものだ。
郁恵は心も体も綺麗だ。それは違和感なく見ていられるよ」
「そうかな、こんなに穏やかな気持ちでいられるのは往人さんが隣にいてくれるからだよ。それに人を憎んだり妬んだりするのは怖いことだよ。自分を破壊に追い込んでしまう行為だから……」
しみじみと口にした郁恵の言葉は実に俺の胸に染み渡った。
こうして幸せな心地を共有していると、人を憎んだり嫉妬したりする感情が馬鹿らしくなる。
それなら、こうして郁恵と楽しい時間を過ごしている方がずっと有意義な時間だと思えるのだった。
*
ついつい話し込んでしまったが、朝食の準備が出来たことを伝えて一緒にダイニングに向かった。
まだ師匠の家を歩くのに慣れていない郁恵のため俺は手を繋いで案内した。
郁恵が席に着いたのを見て朝食を運んでいく。
献立は朝はパンをよく食べることを知っていたからあまり迷いはなかった。
バターロールとミネストローネ、それにオムレツと生野菜サラダを用意した。
「凄い豪華な朝食だね! ホテルの朝食みたい!」
俺が朝食のメニューを口頭で説明して、配置まで伝えると郁恵は驚いた様子で喜びの声を上げた。
「そんなに手間はかかってないよ。普段から師匠と俺はこれくらい食べるから、ちょっと量は多いかもしれねぇがな。
後、向こうで食べられる用にサンドイッチも作ってあるから。
海で一緒に食べよう。ちと寒いかもしれないが、外で一緒に食べると美味しいだろうからな」
「うん! 凄く楽しみ! それでマスタードを抜いた方がいいか聞いたんだ!
喫茶さきがけのシェフさんのサンドイッチが食べられるなんて私ってば役得だね!」
「シェフって呼べるほど調理の勉強はしてねぇって……」
俺は調子のいい期待の込められた郁恵の声を聞いて苦笑いを浮かべた。
交際を始めて初めてのデートにこれから出掛けるのだ。
落ち着きなく舞い上がってしまうのも仕方のないことだろう。
郁恵と一緒に迎えた朝の朝食を終えて、出掛ける支度を済ませると、俺たちはフェロッソを連れて玄関を出た。
郁恵は昨日着ていたコートを羽織り、ニット帽を被っている。
俺はいつものサングラスのような遮光眼鏡を着け、ウール100%素材のブラウンカラーをした中折れフェルトハットを被る。
相変わらず人を寄せつけない赤髪をしているが、郁恵が気に掛けることは今のところないので、気にしないことにしている。
「両手が塞がっちまうのに、いいのか?」
玄関を出ると、郁恵は朝から準備万端な様子の元気なフェロッソと繋がったリードを掴んだまま俺の手を握った。
「うん、平気だよ。それより、私のカバンまで持ってもらっていいの?」
「もちろんだ、気にするな。この方が手を繋ぎやすいだろ」
貴重品が入った郁恵のハンドバックも肩に掛けているが、荷物は普段から少ないため負担にはならなかった、
一つ一つの小さなやり取りにも恋人同士になった愛情を感じつつ、俺は時折前を向く郁恵を横から見つめながら、一緒に砂浜海岸を目指して駅へと向かった。
手の感触をより感じていたいからか、俺と同じように郁恵も手袋は着けず素手のままだった。
「今日もまた外は冷えるね……雪が降り始めても不思議じゃないくらいだよ」
「そうだな、今年はまだ降ってないか……そろそろ頃合いかもしれないな」
冷たい寒気が頬を撫でると身体が寒さで震えてしまう。
陽が昇って晴れているのは間違いないが、確かにいつ雪が降っても不思議ではない天候だった。
郁恵の歩幅に合わせて駅まで歩き、人の列に並び電車に乗る。
俺は郁恵を席に案内して吊革を持った。フェロッソは余程盲導犬として上手に躾けられているのか、平日で乗客も多いにもかかわらず、寝そべったまま動じる様子はなかった。
「もう少し早く来れたらよかったね」
「朝食を食べるのも大事なことだからな、寝るのも遅かったから我慢だな」
満員電車というほどではないが、朝の時間帯は昼間より乗客が多い。
盲導犬を連れて目立つような恰好もしているので、注目を浴びていた。
もう八時前の時刻を指していたから仕方のないことだった。
電車は走り続け、風景が瞬く間に通り過ぎていく。
不意にカーブで電車が激しく揺れ、郁恵は身体が揺れられて姿勢を崩した。
「あわわわ……ごめんなさい」
俺の股間に頭をぶつけて郁恵は倒れることはなかったが、どうにも申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「急な大きい振動だったな、平気か?」
「私は大丈夫だけど、往人さんは大丈夫、変な所に当たらなかった?」
「特に問題ないよ。倒れなくてよかった」
俺は反射的に股間が反応しなくてよかったと思いつつ、何とかこの場を乗り切った。
「往人さんは、交際始めたこと、誰かに報告した?」
先程まで楽な姿勢を取り少し下を向いていたが、顔を上げて郁恵は聞いてきた。
「まだ誰にも話してないな。わざわざ電話とかメッセージを送らなくても、会った時にでも話せばいいんじゃないか?」
「そうかな…? 朝メッセージアプリ起動してたら、報告待ってるみたいだったから……特に恵美ちゃんとか。でも急いで報告しなくていいよね、今日は往人さんとのデートをじっくり楽しみたいから」
友人からの催促が来るという自然な会話から甘い言葉を掛けてくれる郁恵。不意打ちを食らった形で俺は照れてしまい、返す言葉を失った。
デートを楽しみたいか……郁恵を無事に案内することばかりに神経を尖らせていたが、これは付き合って最初のデート。しっかりエスコートしつつも思い出に残るデートにしたいと思った。
目的地の駅に着く前にもう一度地図アプリを起動する。
駅に着いてから砂浜海岸まではバスに乗って徒歩も含めると一時間程度。
郁恵はそこまで一人で辿り着いたと聞いたが、にわかに信じられなかった。
電車を乗り継ぎ、駅員の姿も見えない閑散とした田舎の駅に到着して、バス停に向かった。
季節が夏ならセミの合唱が聞えてきただろうが、今は冬。凍えるような冷たい風が吹いているのみだった。
「郁恵は本当に海まで一人で行ったのか?」
半信半疑のまま海に到着してしまうのも悪いと思い、俺は確かめたくなり思い切って聞いてみた。
寒さを凌ぎ、一時間に一本しか来ないバスに乗り込んて席に座わってゆっくり腰を落ち着けたところだった。
隣に座る郁恵に確認するのは酷なことかもしれないが、現実味が湧いてこないことがずっと気掛かりでならなかった。