「絵を描くことが大好きな以外は普通の母親だったさ。
 俺には兄弟がいなかったから、母はつきっきりになって珍しい色覚特性を持ってしまった俺の面倒を見てくれていた。
 自分にもこんな風に風景画を美しく描くことが出来たらどれだけ幸福で楽しいだろうかと母の描くキャンバスを眺めていた」

「それは……私を描きたいと思ったことと関係があるのでしょうか?」

 気になっていたのだろう。ただ一緒の時間を過ごしたいからこんな約束を俺が取り付けたわけではない。そのことにとっくの昔に気付いていただろうから。

 人はつい意味を求めてしまう。知的好奇心もあるが、気になる相手であればなおさらだ。少なからずこれからの関係に関わる問いに対して、逃げる選択肢は俺にはなかった。


「そうだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 俺には今まで母だけが色を持った人間だった。母の描く絵画が唯一、この世界の色彩を直接的に知る方法だったんだ」


 俺はどんな反応をされるかも予測できないまま、全てを曝け出した。

 最初に出会った時から今まで……運命のように感じていたこと。

 どうして、無視することが出来ず助けてしまったのか。はっきりとしたことだろう。

「君をずっと見ていたら、失われていった色を取り戻せるんじゃないかと思った。

 青龍を描いた時もそうだ。もっと青を正確に思い出せれば美しい作品に仕上がったかもしれない。青一色に絞った分、描きやすくはなっているが、歪な色を描いているのではないかという不安は最後まで拭えなかった。

 この目が白と黒で見えていたとしても、頭の中でもっと色のある姿に変換できるようになりたいんだ……。それが不可能なことかもしれなくても」

 沈黙に耐えられず俺は続けざまに秘めてきた想いを言い放った。
 記憶の中から色が抜け落ちていく感覚。
 色が想像できなくなってしまった時が来てしまう度、画家としての才能が止まってしまったような感覚がしていた。
 どうすることも出来ない苦しみだった。

「そんなにも切実な想いがあったなんて……。
 話しを聞く限り、やっぱりお母様は……」

「あぁ、四年前に亡くなったよ。
 まだ慶誠大に通っている頃だった。
 大きな喪失感だったが、絵を描く行為だけが母との繋がりだ。
 辛くはあったが、そこで一時は逃げられても、辞めることは出来なかった」

 唯一無二の母を失い、世界から色を失っても、この才能を信じたかった。

 母から教えてもらった大切なことを引き継ぎたかった。

 それを父も望んでいただろうから。

 そこで沈黙が流れ、俺は彼女の傍に近づき彼女を家まで送ることにした。

 そして、帰り道の最中、ずっと黙ったままだった前田郁恵は口を開いた。

「私には……そこまで力になれるかは分かりません……。
 それでも、往人さんが私を助けてくれた事実に変わりはありません。
 だから、必要だと言ってくれるなら光栄です。
 ありがとうございます。よく分かりました。
 往人さんは本当にお母様のことを愛していたんですね」

 そこまで心打たれるようなことだったのか、俺は驚かされたが。
 彼女は瞳を潤ませ、共感したのか涙声でその気持ちを口にした。

「ありがとう。君に依存して迷惑を掛けないよう、近づかないように努めていたが、もうそれも過去のことだ。
 これからは少しばかり力を貸してくれると嬉しい」

「やっぱりそういうことだったんです。
 少しと言わず、私を頼ってください。
 その代わり、私のことは名前で呼んでくださいね」

「ははっ……分かったよ、郁恵さん」

「さんはなくていいですよ、歳の差が六つもあるんですから」

 機嫌を良くすると途端に滑らかな口調で彼女は声を発した。

 俺が帰り際に”郁恵、今日はありがとう、おやすみ”と簡単に別れの挨拶をすると、はにかんだ笑みを浮かべて”おやすみなさい、往人さん”と返事をした。

 二人の時間が風が吹き抜けるように通り過ぎていく。
  
 寮室に入っていく郁恵を見送り、俺は満たされた心地で家路へと向かった。

 一人の帰り道は秋風を一段と激しく感じて、家までの距離も遠く段々と心細さを覚えた。

 落ち葉が舞い、日に日に冷たさを増していき、夜になるとさらに寒気を感じる。
 季節の変わり目にあるこの秋の日に、俺はまた大きな転機を迎えた。

 それから俺は眠くなるまで、色鉛筆を手に取って郁恵の持つ色を思い出しながら情熱が舞い戻ってきたように色彩を加えた。

 キャンバスに浮かび上がった、今までで一番よく出来た郁恵の姿を前に、俺は母の面影を感じてしまい、瞳から涙を何度も溢れさせた。

 こうして芸術の秋と評するに相応しい一日を終えて、俺は彼女のことを郁恵と呼ぶ間柄になった。