外の空気を吸って落ち着きを取り戻し始め、往人さんが拾ってくれていたピアノシューズを履いて真っ直ぐに立って、ようやく私は無事であることに安堵した。
そして、ホテルを出るまでは慌てて急いでいたが、その必要もなくなり、私は往人さんに誘導され、ゆっくりとした足取りになった。
私は大きく息を吐き、この状況について再確認をしないといけないと思い口を開いた。
「こんな形で再会することになるなんて……もしかしたらって思っていたんです。
私の鼻は敏感であなたから絵の具の匂いがするのを印象的なこととして覚えていました。
そして、ノーマライゼーション絵画展で坂倉さんが見ていた絵画、その絵を描いたのが桜井往人という名前の画家で、こんな偶然があるんですか……」
「まさか、君が俺の絵を知っていたなんてな……。
確かに俺は絵描きだ。まだまだプロを名乗れるほどの実力はないがな」
一つ一つの事象を別々の出来事として記憶していたのに、全てが線と線で繋がっていくような不思議な感覚だった。
これを人は運命とでもいうのだろうか……あまりに唐突な出来事でまだ私には気持ちの整理が付かなかった。
「名前くらい、別れる前に教えてくれてもよかったのに……」
私はやっと再会できたのが嬉しくて、切なさが込み上げて来て、つい構って欲しさに悪態をついてしまう。
「それはすまなかった。また会うことなるとは思ってなかったんだ」
「私だってそうです……今もまだ胸がドキドキしていて、信じられないです」
胸に手を当てながら私は言葉を紡いだ。
あの場で何かしら約束を交わさなければ会う機会が訪れることはない。普通なら相手のことを諦めて早く忘れなければならない出来事だった。
でも、こうして奇跡的に再会をしている、私は胸のドキドキが止まらない状態だ。
往人さんの上腕部の位置からしてもあの時と同じ身長差を実感する。大きな男性の包み込むような安心感。
それは、父と似て私を守ってくれるナイトのようだった。
「そうだろうな……信じられない再会だと俺も心底思う。君の友達が盲導犬を喫茶さきがけまで連れて行ってくれている。俺たちも早く合流しよう」
「待ってください……それはダメです。
一緒に坂倉さんに謝りに行きましょう」
はっと気づいて夜の歩道で私は立ち止まって手を放した。
私は大切なことを見失っていた。自分だけが浮かれて気持ちよくなって終わりにしようとしていた。
でも、このままではいけない。
これでは迷惑を掛けてばかりで申し訳が立たない。
「ダメだ、今になって坂倉に会いに行けば余計にあいつの機嫌を損ねるだけだ。それに、今度は帰してくれないかもしれない」
この場の状況を鑑みて、もっともな返答をする往人さん。だけどそれは、遺恨を残してしまうことになる。
それに気付いてしまった私は感情を剥き出しにしてでも訴えかけなければならない。
「でもっ!! このままだと往人さんの絵を買ってくれなくなるかもしれません。
坂倉さんは往人さんの絵を見ている時、往人の話しをしている時、とても楽しそうにしていました。
二人の仲がこのまま険悪になっていいはずがありません!!
私のせいで、私が余計なことをしたせいで、二人の関係が壊れてしまうなんて、断じて許せません!!」
「そんなことはいいんだ、これ以上心配をかけるのは良くない、今は早くみんなのところに帰ろう」
「ダメです……ここで諦めてしまったら、この先ずっと後悔することになるじゃないですか…!!」
大きく叫び訴えかけた私は脱力して往人さんに頭からもたれかかってしまう。
無理に感情を剥き出しにしたせいで涙腺が決壊し涙が溢れてくる。
胸が苦しくて堪らない。坂倉さんは往人さんの絵を楽しんでいたのに、今は修復困難なほどに理性もなく許せない感情に支配されている。
深い憎しみの感情に染まってしまっては対話なんて出来なくなる。
二人の関係を壊してしまったのは……。
私が招いてしまった愚かな罪だ。
「それは俺とあいつの問題だ、君がそこまで気に病むことはない……」
「そんなのは無理ですよ……それに、本当の坂倉さんは悪い人ではありません。私のような人にも、往人さんのような人にも手を差し伸べられる優しい人です」
瞳から零れる涙が止まらない。泣き崩れてしまう私の背中をさするように優しく往人さんは触れていた。
慌ただしい感情の変化に気持ちが追い付いて行かない。
いつも以上に身体に力が入らず、やりきれない想いでいっぱいだった。
「ありがとう、心配してくれて。でも本当にいいんだ。
あの時にも言っただろう? 俺はお金に執着はないって。
だから、これでいい。君をまた助けることが出来た。
それで十分、俺は前に進むことが出来るだろう」
「それは……優し過ぎますよ……」
零れて落ちてしまう言葉と涙。
涙もろい私のことを気遣った言葉を何度も掛けてくれる往人さん。
往人さんは強い覚悟を持って、私を助けて来てくれたのだと実感した。
これ以上困らせるわけにはいかない。歩道の真ん中で泣いてしまった私はもう一度何とか立ち上がり、もう振り返ろうとはしない往人さんと一緒に喫茶さきがけへと帰ることにした。
「郁恵!! 無事でよかった!!」
喫茶さきがけに着いた私は早速恵美ちゃんの抱擁を受けた。
泣きながら帰ってきてしまったせいで、往人さんは何か華鈴さんに問い詰められているようだった。
私はフェロッソのことも優しく胸に抱き入れ、無事に帰って来れたことを喜んだ。
もう時刻は二一時を回っている。静江さんや恵美ちゃんにも長居させてしまい迷惑を掛けてしまった。
―――あの……それでどうして桜井往人さんが私をホテルまで助けにきてくれたんですか?
私は喫茶さきがけでお気に入りのアイスミルクティーを飲みながら聞いた。
「それはね……桜井往人君はこの喫茶さきがけのシェフだからよ」
何と驚いたことに往人さんはアトリエに住み込みで暮らして絵を描きながら、この喫茶さきがけで厨房のアルバイトをしているそうだ。
「それじゃあ……私がいつも食べてるオムライスやスパゲティー、サンドイッチはみんなみんな往人さんがお料理されているってことですか?!」
皆からその通り! とはっきり言われてしまう。
もちろん全ての営業日を働かされているわけではないだろうが、衝撃的事実が明らかになった。
私は何も知らなかったが、みんなは往人さんのことを知っていたようだ。
それも、私が閉店後にピアノを演奏していると、よく席に着いてスケッチブックに私のことを描いていたという。
往人さんはあの日助けた私がよく喫茶さきがけに通うようになったにも関わらず今日まで声を掛けることなく黙っていたのだ。
なんということか……驚きで開いた口が塞がらないとはこういうことを言うのだろう。私はあまりに自分が置いてけぼりを食らっていたことに驚かされて返す言葉を失った。
その後、喫茶さきがけでも長居して話しに夢中になってしまったことでさらに帰りが遅くなり、私は周りの後押しのせいもあり、往人さんに学生寮まで送ってもらうことになった。
着替えを済ませて、みんなに見送られながら往人さんと喫茶さきがけを出る。静江さんと恵美ちゃんは二人で仲良く帰るようだった。
「再会を迎えるにしても、こんなことになるとは思いませんでした」
「確かに、俺だって君がここに通うことになるとは想定外だったよ」
運命の赤い糸で繋がっていたなんてドラマみたいに言いたいところだけど、未だ理性的な思考が出来るほど冷静になれていない私は全てが華鈴さんの手のひらの上で踊っている、弄ばれているように思えた。
あの人ならやりかねない、今も喫茶さきがけで愉快な笑みを浮かべていることだろう。
「ほら、手を出してください。私のこと、送ってくれるんですよね?
ちゃんと、夜の街を歩くんですから私を安心させてください、慶誠OBの先輩」
私にとっては朝も昼も夜も大きく変わらないが、世界は違う。
夜の一人歩きは田舎でも危険だとよく言われる時代になった。
フェロッソも夜目が利くわけではないので、無理に頼ってしまっては悪い。
ここは往人さんに頼るのが最善だった。
「仕方ないな……。坂倉から何を吹っ掛けられたか知らないが、俺のことを多少知ってるようだから、今日は従っておこう」
いきなり距離を詰められるのは往人さんでも緊張するようだった。
しぶしぶ私の手を掴み、ゆっくりと足を伸ばす。
温かくて大きな、がっしりとした男性の手。それなのに、柔らかくてサラサラで、不思議な感触をしていて包み込まれるような感覚がした。
「ちなみに私の住んでいる学生寮は女子寮なので残念ですが往人さんは中に入れませんよ」
「学生寮まで送るだけだ、中まで入るつもりはないっての……」
高揚感が続いているせいでつい嬉しさ交じりに会話してしまう。
往人さんも嫌そうな様子はなく、どこか照れている様子だった。
「それにしても、本当にもう、私に恥をかかせましたね。黙っているなんて酷いです。華鈴さんなんて私のことを見てずっと爆笑されてたんですから」
「それは俺も同じだよ。大体、あの人が大変なことになる前に助けに行った方がいいんじゃない?ってしつこく言って来てなかったら……」
「そういうことは聞きたくありません!
それより、大学入試の日のお礼をさせて下さい。
今日の分は私のことを知っててずっと黙って見ていたので帳消しですから。
お願いします、何なりと私めにお申し付けください!」
私はずっと胸に秘めていた言葉をやっと届けた。
もう大学入試の日から随分と月日が過ぎてしまった。
だけど、あの日の出来事を忘れた日はなかった。
「そう言われると迷うなぁ……。
そうだ、うちのアトリエで君のことを描かせてくれないか?」
「そ、そんなことでいいんですか? 噂によると普段ピアノを弾いてる私のことをスケッチしてるみたいなのに」
「キャンパスに描いてみたいんだよ。ちゃんと正面から君を見ながら」
この時、私には往人さんの提案は実にシンプルで簡単なものに思えた。
それほどに、あの日の出来事を私はずっと感謝していたのだ。
「分かりました、お安い御用ですよ! 往人さん」
私は頭の中でその情景を思い浮かべ、恥ずかしい気持ちを隠すように勢いに任せて返事をした。
「そうか……そこまであの日のことをずっと覚えていてくれていたなんてな。
君の律義さには驚かされるよ」
「覚えていたのは、往人さんだって同じでしょう。
そう思ってくれるなら、君って呼ぶのはそろそろやめて欲しいですね」
「思っていたより積極的だな……次に会う日までに考えておくよ」
往人さんがそう返答したのに対して、私は”検討お願いしますよ”と軽く返した。
信じられないくらいに自然に会話が続けられて楽しい時間が過ぎていく。
異性に対して、こんなにも積極的に会話をしている自分が信じられなかった。
日本に帰って来て、大学生活を始めてミスコングランプリにも参加して、人
と会話する機会が増えて慣れてきたのかもしれない。
「……着いたよ」
唐突に往人さんの足が止まって、優しい声色でそう言った。
着いてしまったのだ、話しているとあっという間の出来事だった。
不思議なことが多すぎて、知りたいことが多すぎて、話しに夢中になっていた自分がいた。
そして……繋いだ手を離したくない自分が……。
「今日の最後に聞いてもいいですか?」
「何をだい?」
「気になっていたことの答え合わせです」
寂しい顔をしているのを見られたくなくて、俯いたまま言葉を交わす。
そして、私は勇気を出して確かめたかったことを聞いた。
「往人さんに私が見えていることはもう疑いようのないこととして分かっています。だとしたら、往人さんには世界はどんな風に見えているんですか?」
答えを知るのが怖かったわけではない、ただ自分から聞くのが怖かったのだ。
―――俺は色覚異常を持っていてね、色の判別が出来ないんだよ。
はっきりとした言葉で、往人さんはそう答えた。
私は確かに知りたいと心から思っていたが、いざ聞いた瞬間、鳥肌が立ってしまった。
ノーマライゼーション絵画展に絵が飾ってある時点で何らかの障がいを持っていることは予想できた。
そして、坂倉さんは私達のことを同じ障がいを持つ者同士と言っていた。
だからそう……出会った日の別れ際、空耳のように聞こえた”色が判別できない”という言葉は文字通りの意味だったのだ。
優しいそよ風を受けながら私は往人さんの抱えている一番大切なことを知った。
私は往人さんがそれでも絵を描きたい理由が何なのか。
さらに謎が深まったが、今聞くことではないと思い踏みとどまった。
私は今日という日が二度は来ないことを名残惜しく思いながら手を離し、思いがけない邂逅を果たした往人さんに別れを告げて学生寮に入っていった。
「桜井往人さんか……大学生にもなって、こんな出会いがあるんですね……」
自分の寮室に入った途端、両足の痛みや肩の痛みを感じ、どっと強い疲労感に襲われる。
私はフェロッソのお世話をして一息付いて、思い出に残る長い一日を終えたのだった。
※ここでは『登場人物紹介①』で紹介できなかった人物を中心に紹介しています。
※年齢は2024年、前田郁恵の慶誠《けいせい》大学入学時。
9、桜井往人
175cm 24歳
慶誠大学卒業生。色覚異常を持った視覚障がい者で、中でも珍しい全色盲を患っている。
モノクローム絵画を主体として活動を続け、画家修業を続けながら”喫茶さきがけ”で調理担当をしている。
得意料理はオムライス。
師匠である神崎倫太郎のアトリエの上階で共に暮らしている。
どうせ色が見えないならと、何故か師匠に赤髪に髪染めされていて、遮光眼鏡を付けていると人を寄せ付けない得体の知れない雰囲気を漂わせている。
色覚異常は父親の影響を受けている。
直射日光などの眩しい光に目が弱いためサングラスのような遮光眼鏡を着けている。これにより信号の変化などコントラストがはっきり分かりやすくなる。
先天性障害のため、色が元々見えないが、母親の身体と母親の描く絵画だけは例外で色がついて見えていた。
大学入試の帰りに札束の入ったアタッシュケースを発見してしまった郁恵を助け、その後、打ち上げパーティーにて再会を果たして親交を深めていく。
10、神崎倫太郎
182cm 28歳
桜井往人の師匠で若き画家。一階のアトリエで仲間と共に共同作業も行っている。生まれ持ったシルバーカラーのロングヘアが特徴。
父親は日本人だが母親がイギリス人で欧米人の血を引いている。里帰りも含め、頻繁に海外へ出張に出掛ける。
青い瞳の色をしていて、高身長で肌も白く無駄な贅肉がついていない。サンドイッチやクッキーなど手でそのまま食べられるものが好き。
彼の絵画は非凡の神童と呼ばれていたこともあり平均5万ドルで取引されており、コンクール受賞作の場合は20万ドルを超える。投資家人口の増加によりその価値は年々跳ね上がっている。
桜井往人の母親、桜井深愛とも親交があり、往人をアトリエ兼自宅に招き入れる。
11、川崎翠
155cm 42歳
歩行訓練士の資格を持つ郁恵のガイドヘルパー。
普段から身の回りの手伝いをしたり、買い物の手伝いをしている。
彼女自身は既婚者で主婦をしながらガイドヘルパーの仕事を空き時間にしている。
12、前田吾郎
郁恵の父親、都市計画を中心に行う建築家。
カトリック神父としての一面もある。
冷静で落ち着いた性格で感情的になることはほとんどない。
郁恵とはオーストラリアで四年間共に暮らし、断絶していた二人きりの家族関係は改善された。
13、桜井深愛
往人の母親。郁恵の父親である前田吾郎に郁恵を描いたサンドアートを送る。郁恵と同じく視覚障がい者である深愛の夫と吾郎が親友関係にあり、その縁によりサンドアートを送った経緯がある。
多くの風景画を遺した画家として有名。京都を拠点に活動をしていて京都の四季の風景を切り取ったものが多い。有名なものでは現代の哲学の道や嵐山、清水寺などをスケッチして描いていた。
真美と同じく四年前に他界している。
14、佐々倉奈美
郁恵が入院していた頃、お世話になっていた看護師。
現在も勤務を続けていて、真美と郁恵の秘密を知っている数少ない人物。
記憶の回廊を遡って辿り着いた最初の地点。
俺にとっての原風景はもうこの世にいない母がキャンバスに向かう姿だった。
鉄道が走る橋を見渡すことの出来る河川敷。
その場所で咲く草花と一緒に、自然な空の景色や橋を母はずっと座り続けたまま描き続けていた。チューブ絵の具をパレットに注ぎ、様々な筆を使い分け自然な姿をキャンバスに描き込む。
カメラの性能が向上を果たし、手軽に風景を撮影できるようになった現代においても、画家である母は風景画を好んで描いた。
心地よい風を受けながら母は飽きることなく、季節ごとに変わる風景を夢中になってキャンバスに投影していく。
しかし、俺にとって世界はモノクロに染められていて味気ないほどに殺風景なものだった。
空の色も信号機の色も全部が全部白と黒に分かれている。
ある人はそれを白黒映画のようだと言った。
色彩に溢れた世界の美しさを知ることが出来ないことは物悲しいものだとも。
でも、父は持って生まれた己の視界を悲観しなくていいと言った。
父は同じく視覚障がい者だったが、理解ある母と暮らしている毎日があればそれ以外は何もいらないくらい幸せだったと微笑みながら言葉を漏らした。
俺の持っている視覚障がい、先天性色覚異常、その中でも一色型色覚、いわゆる全色盲と呼ばれているものは、色に対する感覚が全くなく、モノクロ写真のように全てが灰色に見えてしまう。この場合は視力も非常に悪く、光に弱いのが特徴だ。
色覚異常自体は男性では二十人に一人程度発症するため珍しくはないが、全色盲ともなると五万人に一人が発症する稀な病だと言われている。
この世に生を受けた以上、持って生まれた障がいからは逃げることは出来ない。
それ故に悩み苦しむことが多いのが当たり前の世の中。
俺だけでなく、様々な障がいや病気が世の中には混在し、人々はそれらと日々戦っている。
だが、俺の視界には一つだけ決定的に異端な例外があった。
”母親の肉体と母親の描く絵画だけは色がついて見えていたのだ”
何故と言われても困る。原因は不明で持って生まれたものだった。
母は信号機の色が三色あることや、空の色は時間経過によって刻々と変わっていく事をキャンバスに描きながら教えてくれた。
どうして空の色はそんなにも複雑に変化していくのか、正確な説明を母はしてくれたが、まだ幼い頃の俺には理解が追い付かなくて、ただキャンバスに描かれた美しい空の景色を憧れをもって眺めていた。
母の見える世界が美しいからキャンバスに描かれるものが美しいのか、元々世界はこれほどに色鮮やかなに美しく出来ているのか、判断は出来なかった。
―――お母さんがいなくなっちゃったら、色のない世界になっちゃうよ。そんなのヤダよ。
何の話をしていたかまでは思い出せないが、ある時そんなことを訴えていたことだけをよく覚えていた。
マザコンといえばそれらしく聞こえるが、唯一色を持つ母の姿を追いかけて日々を過ごしていた。きっと母は困ったことだろう。いつまでも自分の傍から離れようとしないのだから。
―――いつか、往人にも運命の人が現れるわよ。だから大丈夫、お母さんだけが往人の味方じゃないわ。世界はあなたを受け入れてる、だからあなたは産まれてきたのよ。
母が口にしたのは、まだ幼い俺がいつか羽ばたいていけるためのおまじないだった。
―――運命の人?
抱き寄せてくる母のぬくもりを感じながらも、いつか母を失う恐怖を考えると心がざわついて堪らなかった。
俺は優しさを持って接してくれる母の言葉の真意を知りたかった。
母の愛が本物であるからこそ、他の人なんていらないと思っていたから。
―――ええそうよ、あなたの目がその誰かのための力になる。そして、同時にあなたを支えてくれる光にもなってくれる。それが運命の人よ。
支え合い生きていける相手、互いに持つ不自由さを補完しながら、共存できる相手。
きっと、いつか会えるわ。だからね、お母さんのことだけを見ていなくても大丈夫よ。あなたはお母さんの大切な息子なんだから。
同じような障がいを持ち、支え合っていける相手。
父が母と出会ったように、盲学校に通い続けていれば、いつか会えるのだろうか。そんなことを当時は思った。
母のように色のある姿をした人にもし出会えたなら……そんな空想を俺はこの時から抱き始めた。
たぶん、世界が怖いというより、母が恋しくて堪らなかったのだろう。
母のぬくもりを……優しさを噛み締めながら……夢の時間は白く染まっていった。
長く追想をしていた感覚から覚醒して静かに目覚めの朝が訪れる。
あの頃から時が経ち、もう自分は24歳になってすっかり大人に成り果てていることに気付かされた。
遅すぎるということはない。だが、これほど風化した記憶になって舞い降りてきた運命とどう向き合うべきか、迷いが消えることはなかった。
「往人、そろそろ起きて朝食の準備をしてくれないか?」
「し、師匠……」
「起きたか、昨日は夜遅くまでアトリエを使っていたようだが、寝坊は許さんぞ」
「はい……」
師匠の乾いた温和な声で寝ぼけた調子から解放される。
陽の光に弱いため、常にカーテンを閉め切っているが、時刻を確認すると既に朝食を準備をしなければならない時間だった。
微睡にいざなう布団を剥がし、ベッドから降りた頃には師匠の姿はそこになく、静けさに包まれる中、俺は洗面所に慌てて向かい朝支度を始めた。
台所に立ち、朝食の準備をしている間、師匠はテレビを眺め続けていて、仮装する人々を映すハロウィンの報道を見ながら下品なせせら笑いを繰り返していた。
美術仲間には見せられない歪んだ表情を浮かべ、そうじゃねぇだろと世間の風潮をあざ笑っている。二面性を感じる光景だが、俺にとっては日常茶飯事な光景だった。
「今日は随分と早いっすね」
白いYシャツの上に珍しくスーツ姿をして、これから出掛ける様子の師匠に話しかける。家政婦のように洗濯をしてアイロンまで掛けているから、師匠が着ている衣服は視界に入れただけで鮮明に思い出せた。
バターロールと大きめのオムレツにポテトサラダを添えた朝食プレートをテーブルに置くと、師匠は一瞬目を輝かせて、すぐにいつもの表情に戻りナイフとフォークを手に持った。
父親は日本人だが母親がイギリス人の血が流れている師匠は青い瞳をしていて手足は長く、筆を握る手はシミ一つなく綺麗だ。
色の判別できない俺でも、瞳の色は何となく青色と言われれば納得できるものだった。
「おう、今日は絵画展でインタビューがあるからな。忙しいんだよ」
疲れの色は伺えるが、いつもの様子で身体に悪そうな真っ黒いブラックコーヒーを飲む師匠。
貴族のような佇まいに見えて、日本文化に馴染んでいる。
そういうところも、不思議と親しみやすさを覚えるのだろう。
俺が師匠と呼んでいる、神崎倫太郎はカリスマ性を持った現代美術を中心として様々なことを手掛ける画家だ。
まだ28歳の若さで、多くの仲間が集い作品を作り上げている。
師匠の開く現代アートの展覧会は世界を股にかけて開かれていて、独特の世界観が好評を博している。
幼い頃から師匠の描く絵画は頭角を現し、非凡の神童と呼ばれていたこともあって現在では平均5万ドルで取引されており、コンクール受賞作の場合は20万ドルを超える。
あまり版画や絵画を描かなくなったこともあり、投資家人口の増加によりその価値は年々跳ね上がっている。
現代アートを描くことが増えた近年はクライアントの依頼も多様で、テーマが決まってから仲間達を指揮しながら製作している。
スケールが大きい作品の場合は数年単位で時間がかかり、いくつも同時並行で製作に臨むことになるため多忙を極めることになる。
アトリエの真上にある師匠の自宅ではリラックスしているため、だらしないところもあるが、美術への道を志す者にとって価値あるものを生み出し続ける師匠は憧れの対象であることに変わりない。
その容姿はシルバーカラーの長い髪が特徴で、高身長で肌も白く、その芸術家らしい奇抜なビジュアル面でもファンが多い。
俺はどうしてかそんな敬愛する画家の自宅に居候して共同生活を送っている。モノクロームを主体とする絵画をずっと描き続けてきた俺になぜそこまで手を掛けてくれるのか、不思議に思うこともあるが、俺は師匠の期待に応えたいと思い、日々美術活動に勤しんでいる。
「あ……そうだ、今日はアトリエに一人招待することになってるから」
正確には一人と一匹だが、細かい詳細は省いた。
「珍しい……いや、初めてだな。往人がアトリエに人を呼ぶのは。
アトリエを使うのは問題ないが、まさか運命の相手が現れたのか……?」
師匠が心の内を見透かしたような瞳で真っすぐに見つめてくる。
”母親のようにカラーで見える存在のこと”を指して師匠は運命の人と位置付けているのだろう。
しかし、俺は今年の一月に偶然にも出会った前田郁恵のことをこれまで話してこなかった。
その身体に色彩を宿していたとしても、関わることなく遠くからずっと見ているつもりだったからだ。
「いや、そんなに期待するようなことじゃないよ。
そいつは目が見えないからさ。母親のように絵を描いたりすることは出来ないんだ」
期待させては悪いと思い、俺は先に釘を刺しておいた。
「それでも……初めてなんだろう? 母親以外で色のある人間と出会ったのは」
師匠は表情を少し曇らせながら聞いた。
母が描き残してきた心に訴えかけるような暖かさを持った絵画を好きだっただけに落胆もあるのだろうと俺は想像した。
「うん、だからその子を描けば少しは色を取り戻せるような気がするんだ」
「そうか、お前の才能の足しになるなら、利用するといい。
余計なレッテルを剥がせるようになるまで、俺も手は尽くしてやる」
「はい、師匠。感謝しています」
それから無言のまま朝食を終えて師匠が立ちあがると、考えがまとまったかのように言葉を投げかけてきた。
「来るのは女か、歳はいくつだ?」
どうしてそこまでと思ったが、新通力のような鋭い洞察力を持っている師匠には隠し事など出来ないと俺は悟った。
「大学一回生なので、恐らく十八か十九かと」
「若いな……よくアトリエまで誘ったものだ」
「まぁ……成り行きです」
「好きにすればいい。だが女は繊細な生き物だ。今の内から相手の気持ちを考えて自分がどうしたいのか決めておくことだな」
それ以上、深掘りしてくることなく、師匠はダイニングから消えて行った。
大きなチャンスであることを師匠は知っているからこそ、余計な詮索はせず気を遣ってくれたのだろう。
色恋沙汰として興味津々に根掘り葉掘り聞かれても困るが、これだけ放任されると自分で考えるしかなくなる。それが師匠の思惑なのだろうが、複雑な気持ちだった。
師匠は以前から結婚には興味がないと口にしていた。
束縛されることや約束事を強制されるのが何より受け入れがたいのだそうだ。
結婚観も変わって来た昨今、地方と都会では未だ差はあるものの、結婚して子孫繫栄を第一に考えることも減ってきている。
自由に生きることを選び、または選ばされる社会で幸せを自力で獲得し、実感することは簡単なことではないが、師匠は今の生活に不満はないらしい。
「お前は気を張らなくて接しやすい。余計なストレスも干渉もしてこないしな。何より家事全般が出来て飯が上手い。だから、気にせずここで絵を描き続けるといい」
これを男同士の同棲生活と想像すると吐き気を催すが、そういう想像はしないことしている。
そんな師匠も聖人などではなく女遊びをしていないわけではない。
時折、朝帰りして帰る日もあって、そういう日は朝食を食べずに部屋に入ってすぐに就寝してしまう。どこに行ってきたという報告もなく、絵描き仲間と会ってきた様子もないので多少は察することが出来た。
性欲は発散しなければ溜まっていく一方だ。だから仕方なく発散していると師匠は言っていた。女は心変わりがしやすく後腐れのない関わり方が楽だと。
異性にモテる師匠の言動にいちいち共感をすることもなく、女性に対して幻想を抱いているわけではないが、俺にはどうにも腑に落ちない話だった。
昼頃になって俺は待ち合わせ場所になっている喫茶さきがけへと向かった。
何故か美桜さんによってアトリエ滞在時間が決められ、俺は前田郁恵の行き帰りの送迎までさせられることになっていた。
横暴なやり方だが、女の子を安心させるためにそれくらいはしなさいということのようだ。大学生にもなった女性に対してその過保護ぶりはどうなのかといっそ愚痴りたくなったが、美桜さんの前では反抗した態度が取れないほど圧倒的な立場の違いが存在している。
いい歳して若作りしているおばさんと投げかけてやりたいが殺されかねないので、俺は大人しく従うことにした。
あの人だけは敵に回してはならない。以前に美桜さんをストーカーしてしまった男性が社会的に抹殺された恐ろしい過去を知っている俺には陰口すら口にすることは出来ない。
くだらない余談を考えている内にアルバイト先に俺は到着した。
今日は非番だから裏口ではなく正面扉を開き、そのまま店に入っていく。
クラシック音楽が掛かった店内のいつもの席に盲目の少女が座っていた。
そこは常連かつ喫茶さきがけのピアニストである彼女の特等席、目が見えなくても経験を頼りに自力で辿り着ける場所。予約席の札が置いてあり、満席の時以外はいつも彼女用に空けてあるテーブル席だった。
長い黒髪を下ろしたその姿を視界に入れたままゆっくりと席まで近づいて行く。色を宿しているだけで、白黒の背景の中に天女のように光を帯びて活き活きとしているように見えた。柄にもなく俺は緊張していた。
不自由をもろともせず、明るく元気に振舞う姿が印象的だが、それだけではない喜怒哀楽をこれまで見てきた。
最初に出会ったあの日の衝撃を忘れた日はない。何とか必死に関わらないように努めなければならないほどに、目に入るたび惹かれてしまい動揺が走った。
線が細く強く握ってしまったら簡単に壊れそうに見える頼りない身体。
ただ一人、色を認識できるその姿は母よりもさらに色白な美肌で生を感じるその血の巡る肌が恋しくも愛おしく感じてならない。
彼女はまだ俺の秘密を知らない。
俺から見て死に別れた母と同じく色を持った特別な人であることを。
気付かれることなく俺はテーブルまで辿り着き、そっと肌を露出させている首元に手を触れた。
「わぁーーーー!! やっぱり往人さんですか。お、驚かせないでください……もう、心臓が止まるかと思いましたよ」
前田郁恵が振り返り悲鳴に似た大きな声を上げる。
全盲だとすぐに相手が誰かを判別できないことが多いが、俺が軽く声を掛けるとすぐに判別できたようだ。
彼女は点字楽譜に指を添えて譜面を読むのにずっと集中していたようだった。
驚かせて悪かったと思い俺は謝罪をして許してもらった。
「往人さん……緊張してるんですか?」
「周りの目を気にしてるだけだよ」
「そうですか……隠さなくてもいいのに、私も緊張していますから」
往人さんと同じですよと自然体で言い放つ彼女。
図星だったが俺は何とかやり過ごすことにした。
「昼食は食べたのか?」
「あっ、一応、タマゴサンドを。往人さんの作った料理じゃないからちょっと味気なかったですけど」
天然で言っているのか分からないが、何とも恥ずかしくなるようなことを口にする。
レシピは同じなんだから誰が作っても同じだと言ってやりたかったが、そう言い返すことが出来なかった。
「……食べたのなら行くぞ、制限時間まで付けられてるんだからな」
「はい。あの……白杖は閉っていてもいいですか?」
俺のジャケットの袖を掴み、遠慮がちに彼女は言った。
上品な白い薄手のコートの下に着た、薄ピンク色のワンピースが袖を掴んだ瞬間小さく揺れた。
「あぁ、好きにしろ。どうせアトリエのある師匠の家までの順路を知ってるのは俺だけだからな」
無理矢理素っ気なく言って、俺は目と鼻の先にある彼女の表情を見た。
それはズルいことかもしれない。きっと、彼女の目が見えていたら俺は真っすぐに彼女の表情を見ることが出来なかっただろう。
白杖をカバンに閉まって、盲導犬のリードを握りながら俺の肘から二の腕を掴み両手が塞がった彼女は頬を赤らめていて、緊張を表すように耳まで紅潮させていた。
俺は威嚇するように真っすぐ無言で見つめてくる美桜さんの殺気立った視線を浴びながら、彼女を連れて喫茶さきがけを後にした。
昼食を食べることなくそのまま出てきてしまったが、そんなことは気にならないほどに、胸の鼓動は高鳴っていた。
「私って……最近気づいたのですが、甘えん坊なようでして……ご迷惑ではございませんか?」
情緒不安定な口調で彼女は言った。今までより歩幅も小さく俺はゆっくりとした彼女の足取りに合わせる他なかった。
「いや、気にしてない。俺のような年上の男相手に緊張するのは当然だろう。無理なお願いを言ったことは自覚しているよ」
俺は彼女の気持ちを察して素直な言葉を伝えた。
「そんなことないです! 感謝もしていますし、今日を楽しみにしていました。まだ往人さんこと、知らないこと……知りたいこと……たくさんあります。だから、これからはこっそり裏で見てるのは禁止ですからね」
初々しい反応ばかりを見せる少女にしか見えない女性相手に妙に懐かれてしまった感覚を覚えつつ、電車に乗り、アトリエまでの道のりを二人で歩いた。
女性とこんなに密着して歩くような経験は記憶にない。
師匠はその魅力的な外見と人当たりの良い内面で異性を吸い寄せるように惹き付けるが、俺は全くの逆で近寄りがたい空気を漂わせている。
それは、彼女の口にする絵の具の匂いのせいではなく、日射し避けのためのサングラスのような遮光眼鏡と赤髪のせいだ。
バンドマンでもなく、ほとんど表に出ることない絵描きが派手な格好をしていても人が寄り付くはずがなく、好感を持たれることもない。
髪の色は師匠に面白がってされているものだが、今更それに逆らう気力もない。そもそも、俺には自分の髪色が実際どんな色なのか見ることが出来ないのだから。
唯一の例外が隣にいる前田郁恵だ。俺の外見については多少聞いているようだが警戒心なく接してくる。
実際に見ているわけではない彼女にとっては視覚的情報よりも他の五感から得られる情報の方が正確であるため重要度が高くなる。
その特殊な要因が俺を受け入れている材料になっているのだろう。
「ここがアトリエだ。無闇に物に触れると身体が汚れるから気を付けろよ」
「わぁ……凄く絵の具の匂いがします……」
俺の言葉を聞いているのか、アトリエに入った途端に笑顔を浮かべて喜んだ様子を見せる。このアトリエの空気が余程新鮮なのだろう。
「あの……今日はお師匠さんはいらっしゃらないんですか?」
「あぁ、出掛けているよ。君が来ることを伝えてあるから、夜遅くまで帰って来ないかもな」
俺のことを考えて、君を描くことに集中させるため帰って来ないかもしれないと事情を伝えるのを躊躇ったため、適当な返事になった。
「そうですか……往人さんのお世話になっているのに、残念です……」
なぜ俺にお世話になっているという理由で挨拶したがるのか意味不明だったが、問いただすのも面倒で俺は早速準備を始めた。
「私はどうすればいいですか?」
「あぁ、そこのソファーに座ってくれていればいい。椅子に座るよりは幾分楽だろう」
途中で休憩時間は取るつもりだがどれだけの時間が必要か想定できない。だから負担の少ないよう、ソファーに腰掛けてもらうことにした。
「フェロッソも一緒で大丈夫です?」
「もちろんだ。時間が余ればワンコロも描いてやるよ」
「それは嬉しいお知らせです! よかったね、フェロッソ」
もはや愛犬となっている盲導犬までソファーに座らせ、優しく体毛に覆われた身体を撫でている。自分の目の代わりをしてくれているのだから、よほど大切なのだろう。見ているだけで深い愛情を注いでいるのを感じた。
俺が必要なものを揃えてアトリエに戻って来ると、思わぬ状況になっていた。
「ちょっと恥ずかしいけどフェロッソ、私頑張るからねっ!」
「おい、何をしている。何で服を脱いでいるんだ」
そこには盲導犬の隣で下着姿になっている、あられもない姿の彼女がいた。
現実の光景とは思えず、イーゼルスタンドにキャンバスボードを置いたまま呆然と立ち尽くしてしまう俺。
直視できないほどの肌の露出。恥ずかしがる乙女を目の当たりにして俺は正気に戻り反射的に視線を逸らした。
「えっ、裸の私で写生するんじゃないんですか?」
「それは最悪の勘違いだよ。早く服を着てくれ……」
刺激的な光景に思わず下半身が反応しそうになるのを堪え、服を着るのを待つ。
かなりの年の差があるというのに、少しでも色気を感じてしまった自分が情けなかった。一回生にしてミスコン四位という快挙があったからだとは思いたくないが、確かに彼女が美しく可憐であることは否定しようがなかった。
「失礼しました。酷い誤解をしてしまったようで……もう大丈夫です」
茹でダコのように赤らめた表情で足を閉じて小さくなっている彼女に視線を戻す。
とても大丈夫な様子には見えないが、続ける意思はあるらしい。
二人きりという状況で前途多難だが、今は余計な事故が起きないよう誠意をもってやるしかないと俺は考えを改めた。
「あぁ、このことは美桜さんには秘密にしてくれると助かる。俺の命が危ういからな」
「はい……もちろんです。私が至らないばかりにやってしまった失態ですから」
俺の頭の中では包丁を手に殺人鬼のように半狂乱になって襲い掛かって来る美桜さんが容易に想像できた、ホラーすぎる。
気を取り直して、俺はアングルを決めて彼女に指示を与えていく。
彼女の視線が真っすぐ俺の方を向いたところで静止してもらい、出来るだけその姿勢から外れないようにしてもらうよう指示した。
「私の目はちゃんと往人さんのことを見てる?
見つめ合っていられてますか?」
「あぁ、見つめ合っているよ」
彼女には俺が見えなくても、俺は見ている。
だから大丈夫だと、気持ちを込めて伝えた。
「よかった……綺麗に描いてね、私のこと」
緊張が声からも伝わって来る。
考えれば考えるほど、相手の心は見えなくなる。
二人きりで不安を感じているのかもしれないと俺は思った。
「退屈なら会話を続けながらでもいい。その方が緊張も解れる。姿勢を維持するにも会話をしている方が気が紛れて効果があるだろう」
長時間無言で集中して描いていると対象者が眠りに落ちてしまうこともある。そうなってしまっては台無しなので、俺はそういう方針で描くことにした。
リラックス効果のあるクラシック音楽を流しながら、HBの鉛筆を手にしてキャンバスへ輪郭を入れていく。
作業時間は休憩を省くと四、五時間ほどしかない。
人物デッサンをするのに十分な時間はないため、俺は右腕に力を込めて迷いなく線を描いて行く。
「それでは、聞いてもいいですか?
どうして往人さんは画家になろうと思ったのでしょうか?」
最初の問いを彼女は俺に投げかけた。
集中力を研ぎ澄ませ腕の力を維持したまま、俺は曖昧な誤魔化し方をしないよう正直に答えようと口を開いた。
「最初は母親に喜んでもらいたかったからだろうな。
自分に少しでも才能があると分かってからは、ただ認められたくて描いてるだけだったが」
「認められたい……?」
「あまり口にしたことはないが、俺の絵は障がいを持っているから多くの人に見てもらえる機会を得ている。だから実力が認められたわけじゃない。それを自覚しているから、もっと人を惹きつけるような絵を描きたいんだ」
「謙虚で立派な考えですね…お師匠さんも理解がある方なんですよね。一緒に同居しているんですから」
「そうだな……家事全般は俺がやっているが、絵のことも教えてくれる。随分と世話になっているよ。
君だって立派じゃないか……あれだけピアノを上手く弾くのは健常者であっても難しいことだろう。
それに加えて、大学生になって卒業を目指して頑張っているんだから、俺よりもずっと立派だ」
「そんなことないですよ……一人では到底ここまで来ることは出来ませんでした。私は普通の人の何倍も多く人からの支援を受けています。
だから、その恩を仇で返すことは出来ません。
お父さんやフェロッソだけじゃない、たくさんの人に感謝しながら私は生きて社会の役に立てるようにならないといけないんです。
だって、大学生にまでなれて、今は毎日が充実していますから」
その瞬間を切り取りたくなるくらい、彼女は眩しい笑顔を見せた。
感謝しながら生きているからこそ、他人を恨むことも妬む事もないのだろう。それはある意味、多くの現代人が欲しているものでもある。
不自由を引き換えに手に入れた財産。それを平等と呼ぶのかもしれない。
「成長できることは自分を肯定できる重要な要素でもある。
生まれながら不自由を背負わされた者にとって大切なことだな……」
しみじみと俺は言った。両親が理解のある人達であったおかげで生まれの不幸を呪ったことはないが、それでも普通学級への憧れはあったというものだ。
「あっ……そうだ、もう一つ聞きたいことがあったんです。
”美とは一体何なのでしょうか?”
目が見えない私には、よく分かりません。
時々、整理が付いて分かったような気がしても、すぐに分からなくなります。
綺麗だと褒められるのは嬉しいことですが、誰かに対して綺麗だと褒めてあげることは私には出来ません。そんな私のままでいいのでしょうか?」
美とは何か……大学生らしいとも言えるが難しいことを考えるものだと思った。
だが、人とは違うという自覚があればあるほど、つい考えてしまうことでもある。
「気にせずに生きたいように生きろと言いたいところだが、俺も三流の画家だ。少しは参考になる話しでもした方がいいんだろうな」
「はい、ご面倒なことを承知で是非お願いします。
往人さんの意見を聞いてみたいです」
期待を寄せてくれているのをひしひしと感じてしまった俺は、芯の強い彼女の参考になる回答を導き出すため、真面目に思考を巡らせた。