くらげ王子と台風の目

「若王子くん、帰るで」

終業式が終わっても、委員会の係決めが終わっても、俺等の登校は明日も続く。
コイツのせいで。

うんざりしながらも、田島くんに「うん」と返事した。
自分が嫌だと、嫌いだとはっきり態度には出せなくて、曖昧に濁したまま返事をする。そんな自分にも嫌気が指した。

下駄箱へ行くと女子たちが集団で話し込んでいた。そのうちの一人が俺を見て、ヒソヒソともう一人の女子の背中を押した。
見覚えあるようなないような女子たちだ。
この風景と展開すら何度も繰り返して、何度も同じセリフを言わされてきた。

どっちの展開にいっても最終は別れるのに、なんで告白なんかするんだろう。より戻そうとかいうんだろうか。


「環、久しぶり」

久しぶりと言われたけど、記憶を探っても、あまり思い出せない。元カノ?何番目?指折り返して考えるけどそんな時間も無駄な気がして、「久しぶり」と返した。できるだけ目を合わせて。
今まで後腐れなく別れてきたから、逆恨みはされたことないはず。
きっとこの子とも、綺麗な終わりをしたんだろう。
彼女がふふ、と笑った。

かっこいい、好きですも言われ慣れた。推しです、は最近よく言われる様になった。
推しですって何?言われてなんて返せば正解?推しって言われても返す言葉がないのに。

何を言われるか予想するくらいには、このシチュエーションには慣れていた。


「元気してた?」

要件が見え透いているのに、本題にすぐ入らないその踏み切れなさ、俺に似ていた。

「まあ、普通だよ」

「久しぶりに夏祭り、一緒に行かない?」

久しぶりということはこの子は夏に付き合えていた子なんだと気がつく。
不定期に入れ替わる彼女。季節のイベント毎に一緒に過ごしていた顔は違うかった。
振られて悲しむ事も、新しい恋人ができて喜ぶこともなく、ただ四季が移ろうのを見つめているような感覚だった。

「あー…夏祭り、ね」

「そう、また着物着たくなっちゃって。あたし一人なんて浮かれちゃってるじゃん?噂で今彼女いないって聞いたからさ」

茶と黒が混じったような艷やかな髪が肩で跳ね上がっている。それを手持ち無沙汰にくるくると人差し指で巻き付けていた。
その人差し指の付け根にホクロがあって、珍しいなと思っていた。それくらい、夏祭りなんてどうでもよかった。

夏休み前、冬休み前は特に恋人関連のイベントを逃したくないからか、こうやって告白されることが多かった。
そのとき俺がフリーだったら付き合うし、彼女がいたら断る。ただそれだけのアルゴリズムで返事しているだけだった。最低、そう思われても仕方ない。


ただ、断る理由がないから付き合っただけなのに。
付き合う理由?相手がそれを望んでいるから。それしか無かった。
人を好きになる、とか、よく分からなかった。

「ゴメン。えー、と…どなたかは知らんけど!
今年は俺が先約入れちゃってん。俺も一緒に行っていい?3人で行くか?」

ぐい、と肩を組まれて、体が田島くんに引き寄せられた。背中から感じる田島くんの胸板は厚く、体温も高い。
俺の胸の前を通る右腕は筋肉質で力強い。貧弱な俺ではその腕を振りほどけずにいた。

体全体が人肌で温められて、しかも玄関は冷房がないから蒸し暑い。
でも、なぜか頼ってしまいたいと一瞬でも思ってしまった自分がいて、自戒を込めて唇を噛んだ。

「あ、…その、大丈夫です」
突然出てきた声でかい体もデカい知らない男に抱かれる元カレをみて、女の子は引いていた。


「え、まじ?俺にコイツとの夏祭り譲ってくれるん?ありがとう!名前なんていうの?」

「い、いや。名乗るほどでもないから!さようなら!」

足早にかけていく元カノを、俺は羨ましく思った。
俺もこの腕から逃げたい。
「…さすがに怒った?なんか返事するん困ってそうやったから」

「うん、ちょっとね。…なんて嘘だよ」
どっちかっていうとすぐにはっきりした返事がいえない自分に怒った、という主語には()に入れた。

田島くんが肩を組みながら俺を覗き込む。

俺とは真逆のパーツ、ツリ目でシャープな顎のライン、笑うたびに見える八重歯。犬みたいだ。
身長はほぼ同じなのに、ガッチリした体をしたコイツのほうが背が高く見える。


「田島くんってさ、本当に友達いんの?」
勢い任せて出た言葉は失礼なもので、でも、これだけ自由奔放にしている彼に友達がいるのかも疑問で。

「え。クラスの人気者ですけども。若王子くん見てるやろ。
てか、凄いな。あの子、今更より戻そうとするなんて」

確かに男女分け隔てなく関わっている田島くんは人気者なのかもしれない。俺とはまた違う意味で。


「別にいいやんな。若王子くんが誰と一緒に夏祭り行ったって。どうせ夏休み俺と過ごすんやから」

「田島くんが勝手に決めたせいでね」

「なんだかんだで若王子くん、抵抗はしやんから不思議やわ。普通、嫌なもんとか嫌っていわへん?」


「…田島くんには多分理解できないだろうから言うつもりない」

「ふーん。まあ、他人やから理解できんとこはあるわな」

俺への拘束を解いた田島くんはニッコリ笑った。ちょっと不気味だった。

「正直、元カノがあんだけたくさんいて、新しい彼女の次々できるなんて。俺には理解でけへん」

俺にもなんでこんなことになるのか分からないと言ったら、
コイツも、「見た目が良いモテ男はいいな」と毒を吐いていくんだろうか。試したかったけどそれより先に彼が動き始めたから叶わなかった。

「ほな、帰ろうぜ。先に校門抜けた方がジュース奢りな」

「え、なんで?」

「えー!!やろうや!」

「ちょっと声小さくして!」

靴箱で、俺はローファー、田島くんはランニングシューズに履き替えて校舎を後にした。

17時を過ぎているのに青々とした空を仰ぐ。

いつもと違う夏休みが、始まる。

「看板の下書き、やっときました」
「あ、ありがとう。俺等で絵の具で縁取りしていくよ」

後輩から下書きされた模造紙を受け取り、教室に広げる。

机と椅子は全て教室の後ろに積み重ねられていた。小学生の掃除の時以来久々に見た光景に懐かしさを覚えた。

早速与えられた仕事は、文化祭の時、校門に貼り付ける大きな看板の色つけだった。
下書きはある程度他の委員の子たちがやってくれていた。

「なぁなぁ、若王子くん。これ、縁取り黒?」
「黒だよ」
「筆でやったら手が震えそうやからマーカーでやったら駄目なんかな」
「さあ。一応全部ポスターカラーって聞いてたけど」
「聞いてくるわ。失敗したら時間もったいないしな」

終業式の後、圧に負けた俺は田島くんとは帰るまでにジュースじゃんけんして、1勝した。
いきなり初戦で勝ったとき、田島は思いの外悔しそうだったから、

次帰る時もじゃんけんしてあげたら、俺が負けた。
田島くんに負けるのは何か嫌、というか田島の煽りがウザくて、その次の日もう1戦したらまた負けた。

田島くんはブラックコーヒーかジンジャーエール、俺はコーラかいちごミルクを飲む。それもお決まりだった。

『コーヒー飲まれへんの?あら!まだまだ子供やな』

おばちゃんみたいな煽りは、ちょっとだけウザくて、ちょっとだけ笑った。男の子と純粋に遊んで馬鹿やって、なんで何年ぶりなんだろうかと振り返る。もしかしたらかなり前かもしれないな。

「いいよーって先生言うてるわ」

走って帰ってきた田島くんは教室のドアを開けるなり俺を見て言った。

「はい、マーカー」

マーカーも手に待っていて、仕事が早い。

俺は、田島君はいつも陽気でアホな男子だとばかり勝手に思っていたから、意外と冷静さもあると知って勝手に見直していた。

「はよやろうや」

教室の3分の1くらいある紙にうずくまるようにして線をなぞっていく。

終わる頃には他の生徒もまばらになっていた。
ちょうど15時頃で作業が終わった生徒は休憩に入ったり帰ったりしているようだった。

「これ、中の色はさすがに筆やな。太いマーカーでは間に合わん」

「そうだね」

「若王子先輩、私等がやるんで休憩入ってください」

後輩が俺に声かける。いつも名前を呼ばれるのは俺で、仕事をテキパキする田島くんはなかなか呼ばれない。
それがもどかしかった。美容師のカット写真と同じで、俺にばかりみんなが目を引いてしまう。

田島も田島でいつもみたいに自己主張したらいいのに、何でかこんな時は後ろに寄っている。


「ありがとう、ほな若王子くん休憩いこう」

「若王子くん、やっぱりめちゃめちゃモテるな。すごいわ。あの後輩の子、すごい喜んでたし。話しかけただけなのにな」

教室を出て、すぐ右に曲がる。

廊下はワックスがけが終わってから、鏡面かのように窓から射す太陽を乱反射させた。眩しくて顔をしかめた。
横に並びながら彼は日差しと、むわっとした湿度の高い風が吹くのを気にすることなく悠長に渡り廊下を進む。

スポーツ科と普通科とを結ぶこの渡り廊下のちょうど終わり、俺等から見てスポーツ科寄りのところに職員室と、下駄箱へ続く階段がある。その階段を降りるのが購買に一番近い道だった。

スポーツ科は基本運動部所属の子しかいない。1クラス編成。大会や遠征メインのため、基本学校の行事には参加してこない。夏休みの今は甲子園やインハイがあるからほとんどの子は登校していなかった。
同じ校舎なのに別世界みたいに静まり返ったそこに近づくと温度が2度下がった。

「あんまり自分で言いたくないんだけどさ。俺の事、知らないカンジ?」

自惚れるつもりはないけど、口に出せば調子に乗っていると思われるセリフを彼に向けた。

「へ?若王子 環くんやん。同じクラスのめちゃめちゃイケメン。基本女子に囲まれてる子。なんでもかんでも言われた事にヘラヘラしながら流されてる子。話しかけられたくない時、わざとイヤホンしてるスカした子」

何を今更、と言わんばかりにこちらを見ながら田島くんは両手を頭の後ろに組んだ。
階段を先に降りた彼のつむじを見つめる。

大体合っている情報を言われて、何も言い返せない。
結果、俺がすごい自惚れている奴みたいに認識された気がした。

「でもそれ以外は知らん。今回まで関わらんかったし。若王子くんのこと、そんな噂と数日関わっただけで知ってるとは言えん」

俺を見上げる顔は、教室でバカみたいに口をあけて笑う顔ではなくて、
俺よりもずっと歳上のように見えた。
さっきまで同い年だったはずなのに、先に行く人だった。

さっきだけの情報で俺のことを『知って』『好き』になる子がたくさんいた。
逆に言えば俺にはその情報が『全て』なのかもしれない。

コイツはどれだけ俺のことを知ろうとするんだろうかと思って怖くなった。
「若王子くんは?俺の事、知ってる?…知らんやろ」

「…田島くん。周りが標準語なのに臆する事なく関西弁を堂々と話す人。明るくて声がデカい」

「明るく声デカいって…」

ちょっと呆れたような声が聞こえた気がした。
なんでちょっと物足りないみたいな反応してるか分からない。
明るくてデカい声。今まで並行世界から発せられる音だったのに、今は俺に向けて、俺の世界に踏み込んでくる。
俺に向けられるだなんて今まで考えたこともなかったのに、いつの間にずっと前からそうだったかのように俺の隣にいる。
アホそうに見えて、意外と周りをよく見ている、俺の世界にはいなかった人。宇宙人。

「…ジュースじゃんけんが好きな、変なやつ」


なんて言えないから、誤魔化してちょっとだけ付け足す。


「やっぱ、他人はわかり合えんな」

ニヤリ、笑って俺を置いて行く。
なにが彼の心に刺さったのかイマイチ分からなかったけど、
さっきの回答が良かったらしい。
変な奴っていうのは、普通に嫌味なんだけど。変な奴なのは事実。だって俺の世界にはいなかったタイプだから。

「あ、若王子くん。次、色塗る時、刷毛足らへんかも。帰り、職員室に取りに寄るん忘れんといて」

「はいはい。ジュースは?」

「今ちょっと小銭がないねん。…え、奢ってくださるんですか?」

「じゃんけんして、田島くんが勝てばね」

俺が横に並ぶように一段飛ばしで降りていく。

「え?勝つに決まってんやん」

「…フッ、どや顔すごいね」

俺が思わず笑うと、田島くんは

「ほんま。若王子くんがいつもそんくらい笑えればいいのにな」

と指さしていつもみたいに口をあけて、笑った。

いつも笑ってたつもりなのに意味が分からなくて、
そのことに返事はできなかった。
キンキンに冷やされたジンジャーエールの缶をじゃんけんの勝者に手渡すまで
その言葉の真意を考え続けていた。
2人で、ベンチに横並びに座る。
プラスチック製の、スポーツドリンクの名前が記されたそれは、かなり昔からあるのか風化して白っぽい青になっていた。

売店自体は昼休みしか空いてなくて、自動販売機が5、6台まとめて置いてあるエリアには、俺たち以外にも生徒が飲み物やパンを買いに来ていた。

中学生のころはこんなエリアなんかなければ買い食いも禁止だったから、初めてここに来たときはワクワクしてしまった。
一人でいちごミルクの紙パックを買いに来た。
それが、噂になって一人、また一人と俺の後についてくる人がいた。

女子の先輩が窓から俺を見下ろして、ヒソヒソと何かを話していた。

とりあえず会釈したら、キャーと手を振り替えしてくれた。

それから、売店にはあまり行かなくなった。何か実害があったとか、嫌な事をされたわけじゃない。

自意識過剰だと言われればそれまでだ。女子達だってただ飲み物を買いに来ていただけかもしれない。
女子先輩だって、本当は俺じゃなくて、他の話をしていただけかもしれない。

モテ自慢だと言われて終わる、なんて思って誰にも話したことはない。

ちょうど、今、田島くんが座っているベンチの位置が、その時、俺が座っていた場所だった。


スナイパーがいたら確実に当てられる場所に能天気に座りながら、田島くんが俺に笑いながら言った。

「かー!人の金で飲むジュースうまぁ!」

…さっき一瞬俺の心を揺らしたヤツとは別人なんだろうか。

「それは良かったね」

ムスッとした気持ちは底に沈めた。


「休憩終わったらあの子らが休憩入れるようにせんとな」

「そうだね。作業、あと文字色塗るだけかな?」

「せやな。でもだいぶ早めのペースで終わっていってる気がするわ。もうちょいや」

田島くんは、飲みきった空き缶を、ゴミ箱に放り投げた。放物線を描いて、金属製のゴミ箱をカタカタと鳴らした。

「う〜ん、やっぱり疲れるなあ。不器用で不慣れやし」

「そうかな。だいぶ田島くんに助けられてると思うよ。すぐ先生に聞いたりしてくれるし」

「俺、逆にみんな聞かない意味がわからんねん。みんなで話し合って決まるのが一番いいけど、意見言わんやん。無言の時間生まれるやん。その時間もったいないわ」

びし、と指差して俺のおでこをつく。

「せっかくやるなら全力で。これ、俺のモットー」

ああ、ぽいな。なんて納得させられる。
「若王子くんは?ないん?そういうの」
「うーん…ない、かも」

かも、というかない。
座右の銘や好きな言葉とか、俺を構成してくれていた言葉や気持ちは全部置いてきてしまった。
身軽になった俺は、ただ、なんとなくを繰り返して揺蕩いながら生きていた。

かも、なんて言葉で自分の気持に保険をかけた。

田島くんほどしっかり両足付けて歩ける自信ない。

「そっか。ない人もあるわな」

田島くんは俺から目線を外した。
ホッとした自分がいた。

「あったほうが、助けてくれんねん。言葉と知恵と経験は」

「…急に賢くなったね」

「は?遺憾の意やわ。俺、賢いねん元々…じゃなくて。

俺のオカンの受け売り。全部、自分の意志で手に入れたそれらは使い方を間違えない限りは、自分の事、ある程度助けてくれんねんって」

あっつ、と言いながら彼は立ち上がった。

白いシャツの第二ボタンまで開けて、あつい、と空気を胸元まで送り込む。

「絶対、あるよ。若王子くんにも。自分を助けてくれるやつ」

そろそろ帰ろ、と昇降口を指差した田島くんにうなづいて、俺も席を立つ。



『そんなもんかよ』

後ろからあの時の少年の声がした気がした。

ツリ目で、真っ黒の肌と白目のコントラストがはっきりしたサッカー少年がそこにいたけど、蜃気楼だったのかすぐに消えた。

いつもいた、俺を支える、叱ってくれるサッカー少年。

未だに小学生のとき、一度だけ会った少年に発破かけられているのを、田島くんが知ったら笑うだろうか。
「ガーッ!この花飾りホンマにいるん?」

ティッシュみたいな薄さの上を何枚も重ねて、それを一枚ずつ広げていくと花のようになる飾り。

これも作るようにと指示があった手前、いらないなんて言えなかった。

今日の机を向かい合わせにして、段ボール箱から、花紙を取り出す。給食以来の机の使い方で、懐かしさを感じた。

この箱に、来年からは花飾りをそのまま使いまわせるように置いておこう。

「必要なんじゃない?」

不慣れな作業なのか、細かな作業が嫌いなのか、田島くんの机に置かれたそれは花というより、鼻をかんだティッシュみたいだった。

「まあ、そんなに個数は必要じゃないみたいだし」

学校の偉い人がくる、来賓室前の掲示板にに気持ち程度に貼り付けるから30個ぐらい必要だと言われた。

多分、偉い人はこんな飾りになんか興味ないと思う。でも、一応。なんて言われたらしかたなかった。

これを忖度というのかもしれない。

「田島くん。俺やっとくよ」

これ以上、鼻かんだティッシュ作られてもめんどくさいし。

「え?嫌や。俺もやるわ」

「じゃあ、せめて一緒に行程合わせてやってみようよ」

「ほんま?やり方教えてくれるん?ありがと!」

身を乗り出しながら俺の手元を覗き込む。

さほど変わったことはしていないのに、まじまじと見つめる姿を見て、真面目なんだなと新たな一面を知った。

「なるほどな。俺とやり方一緒なのに、何でか俺がやったらくちゃくちゃになるな」

「指先、あんまり力入れないほうがいい、かも。俺より指先太いし、多分力も強いから」

節くれた、男性らしさを感じる指先を田島くんは見つめた。

華奢な俺の指と違って、すぐに曲げ伸ばしができる筋肉の太さが感じて取れるその指は、慎重に動き出す。

「…できた」
ちゃんと花に見えるそれを両手で掲げて俺に見せてくれた。

「良かった。じゃあ続き、頼むね」


「若王子くん、教えてくれてほんっまにありがとう!」

真っ白な歯を見せて笑う。鋭い犬歯がちらりと見えた。

「大したことじゃないよ」

「教えてくれたやんか」

直ぐコツを掴んだのか綺麗な花を量産させながら俺に言う。

やっぱり、彼は、吸収力がすごい。
「俺の、やりたいを尊重してくれたし」

ルンルン、と指を動かす田島くんは鼻をかんだティッシュを創作しなくなった。

俺も置いていかれないように必死で、指を動かした。
電車通学は憂鬱だ。
たった数駅の間、
同じ時間、同じ車両。
決まった時間に乗るのが、当たり前。
この、7時28分発の電車は、夏休みになってから、グッと制服姿の人が減った。息を吸い込む、ちょっと埃っぽい。
でも、幾分、前を向いて過ごしやすかった。

今まで、何度か、時間を変えてみたけど、どれに乗ってもちらちらと目線やカメラが自分に向けられるのが分かった。

たった数駅、我慢をすればいい。
それだけを繰り返してここまで来た。
夏休みがこれだけ学生の生活を変える力があるのか。
“これ”が続けばいいのに、とぼんやり考えながら、イヤホンをいじった。


「ねぇ、君。アイドルとか興味ない?」

駅構内で、スカウトマンを名乗る変な男性に捕まった。
最悪だった。

まだ、彼に出会わなければ、いつもの慣れた生活リズムで(田島くんのせいで、夏休み返上することになっているけど)
時間が潰れていくだけだったのに。

夏休みの駅構内は、制服姿の人は少ない。
だから余計に俺の存在が目立ったのだろう。

「…すみません。急いでて」

笑って誤魔化して横をすり抜けようとした。

俺の目の前を通せんぼする20代くらいの男性は、スーツなのに、黒いシャツは胸元まで開かれていた。
明らか俺が知っているような社会人ではない。

視界の片隅に入った『悪質なスカウト、客引き禁止!』と書かれたポスター。
この人はこのポスターを見たうえでやってるならすごい根性だな、と変に納得してしまう。

「いや、君のこと、SNSで見かけて。でも君のアカウントはないから。探してたんだよ」

「人違いです」

「人違いじゃないよ」

「すみません、本当に急いでて」

「今日君の学校別に模試とかないでしょ?」

左右に避けるように俺が動くと、スカウトマンもそれに合わせて動く。

周りの人はそれを避けるようにして、俺等を見捨てていく。

お前たちが勝手に盗撮したり写真アップロードするから俺がこんな目にあってるのに、どうして誰も手助けしてくれないんだ。
俺は観賞用だからか?なんて
勝手にネガティブになっていく。

「本当にすみません。友達が待ってて。学校行かないと行けないんで」

咄嗟に俺が右へ行くフェイントをかけて、スカウトマンが俺に合わせて動いた瞬間に左に抜ける。

「あっ!?ちょっと!」
まだ、足が、体が、サッカーをしていた時の動きを覚えてくれていて、助かった。
ただ、あの時より、体は重たくて、トップスピードには慣れなかった。ローファーが、固くて爪先で地面を強く蹴り出せない。ああ、やっぱりあの時より大人にはなってしまったのか。

「これ以上は、すみません!」

走る俺に振り返りながら、スカウトマンが言う。

「また、声かけさせてね!君!」

俺は一応お辞儀をして、駅を駆け抜けた。