カーテンの向こうの萩ちゃんは、何とも言えない複雑な表情をしていた。それで、僕を頭のてっぺんからつま先まで――って言っても僕は座った状態なんだけど――何かを確認でもするかのように見つめてきた。

 何だろ。僕なんかおかしなところあるのかな。髪の毛が乱れてるとか? いや、違うな。そうか、テーピング用のテープを探してるんだ。僕が持ってると思ったのかも。違う違う。テープはここ、テーブルの上だ。といっても届かないよな。僕が取らないと。

「萩ちゃん、グラウンド戻らなかったの? ええと、これ、お願いします」

 テープを受け取った萩ちゃんは、何だかしどろもどろだ。

「いや、その、まぁ。何ていうか、その、心配で」

 あぁ、そうだよね。萩ちゃんは自分が僕に怪我させたと思って責任を感じてるんだ。僕が鈍臭いだけなんだから気にしなくて良いのに。

「そんな心配してくれなくても大丈夫だよ。とりあえず今日一日様子見て、痛くなったり腫れたりしたら明日病院に行く感じだって」

 そう言いながら、湿布越しに患部に触れる。もうそこまで痛みはない。ただ、捻るとピリッとはするけど。

 さっきまで先生がかけていた椅子に座り、向かい合うと、萩ちゃんは慣れた手つきでテーピングしてくれた。萩ちゃん家はスポーツ一家なので、怪我はつきものらしく、小さい頃からお兄さんの椰潮さんに巻いたり巻かれたりしてたって言ってたっけ。

「……何か変なことされなかったか?」
「変なことって?」
「いや、その、変にべたべた触られるとか? 必要以上に、っていうか」
「大丈夫だよ、全然」
「……ほんと?」
「どうして疑うの?」
「疑ってるっていうか、そういうんじゃなくて。いや、疑ってるのか? 何だ、ええと、クソ、わかんねぇ」
「わからないの? 何か萩ちゃん変だよ? どうしたの?」

 今日の萩ちゃん、何だか変だ。
 僕に怪我させたこと、そんなに気にしてるのかな。なんて言ったら萩ちゃんは安心してくれるんだろう。

 萩ちゃんは僕の問いには答えず、ただ、唇をむぐむぐとさせながらテープを巻き終えた。処置に使ったハサミとテープを置いて、思い詰めたような顔で、僕を見つめる。

「あのさ、さっきの続きなんだけど」
「さっきのって?」
「その、借り物のお題。あれは――」
「ま、待って萩ちゃん! 良い良い、言わなくても! もうわかってるから!」

 やめて! ぶり返さないで!
 もう僕は足よりも胸が痛いよ!

 僕だってね、そりゃあ自覚はしてるけど、萩ちゃんから突きつけられたくないんだ。いままで何とかごまかしごまかしやって来たけど、やっぱりスポーツ万能の萩ちゃんの隣に立つのはふさわしくないんだろう。

 例え、そう思っているんだとしても、口にさえ出さなければセーフなのだ。逆に言うと、指摘されてしまったらおしまいなのである。

「え? 何で? わかってるって、え?」
「なんていうか、その、それを聞いたら何か立ち直れない気がして」
「えぇっ!?」

 だってだって、午前中の八百メートルだって三位だったもん。萩ちゃんはどんな種目でも一位だしさ。ほんと恰好悪いったらない。こんな鈍臭い僕が萩ちゃんの親友だなんて、おこがましいよね。

「ごめん、なんて言ったら良いのかわかんないんだけど、その、たぶん、萩ちゃんが思ってる以上にダメージを受けることになりそうっていうか」

 たぶん僕、しばらく学校来れないと思う。文化祭は……それぞれのクラスの出番が終わったら一緒に回る約束してるから行きたいけど、だけどどんな顔して行けば良いんだ!

「め、迷惑だった……?」
「違うよ! その、迷惑とかじゃなくて! 僕の気持ちの問題ってだけなんだけど、ほんと! ほんとに!」
「いやでも、俺はその」
「大丈夫! わかってる! ちゃんとわかってるから!」

 むしろ迷惑なのは萩ちゃんでしょ?! 僕、萩ちゃんの友達みたいに明るい感じでもないし、ほんと勉強だけだし、それにしたってそこまですごいわけでもないし!

「ちょ、ちょっと待って夜宵。お前、え? わか、わかってんの?!」
「わかってるよ、そりゃ」
「嘘、俺そんな、わかりやすかった?! え? 嘘」
「だ、だって、普段から……」

 わかってる。普段から僕がそう言ってるから、萩ちゃんはなんてことないと思って選んでくれたんだろうって。それに関しては僕が悪い。

「え、ちょ、てことは、その、夜宵は、その、なんていうか。俺のこと、その、き、嫌いなん……?」

 何言ってんの――?!
 萩ちゃん何言ってんの――?!
 
 むしろ好きだよ!
 僕は毎時間毎秒好きって叫びたいくらい君のことが好きだよ! 嫌いになることなんて未来永劫絶対にないよ! あり得ないよ! だけど僕は男だから。萩ちゃんの言う『好き』とは絶対に違う意味合いのやつだから。

 え、ちょっと待って。
 泣いてる! 萩ちゃんが泣いてる!? えっ、これ僕が泣かせたの!?

「えぇぇっ!? は、萩ちゃん? どうしたの!? 何で泣くの?!」
「だ、だって、そういうことだろ、お前」
「そんなことないよ! どうしてそうなっちゃうの?!」
「だって、全部わかってるんだろ。わかってて、聞きたくないんだろ」
「そ、そりゃそうだけど……。だって、僕にも一応、その、なけなしのプライドってものが……」

 上にばっかり伸びて、だけど筋肉なんてちょこっとしかつかなくて、ひょろひょろの僕だけど、それでも、男であることには変わりないし、好きな子のことはバシッと守りたい願望だってある。だけど、そんなの叶いそうにもない夢だってこともわかってる。だけど、僕にだって、一応男のプライドってやつくらいはあるんだ。……ちっちゃいけど。

 すると、萩ちゃんが「プライド?」と首を傾げた。あ、あれ? もしかして萩ちゃん「プライド」って言葉知らない……?

「え? プライドっていうのは、日本語で言うと、自尊心とか、誇りとかそういう意味で――」
「違くて。それくらいわかるよ俺だって」
「ご、ごめん」
「そうじゃなくてさ。そこまで夜宵のプライドを傷つけるようなやつなのかよ」
「え?」
「だとしたら、やっぱり夜宵は俺のこと、嫌い――まではいかなくても、好きじゃないってことに」
「ならないよ! 何でなると思ったの? むしろ逆だよ! 僕はいよいよ萩ちゃんに情けないやつって愛想尽かされちゃうって思って」
「何でだよ。なるわけないじゃん!」
「だって!」

 だって、萩ちゃんは恰好良いのだ。
 みんなから頼りにされて、周りを明るくして、人気者で。みんな、萩ちゃんのことが大好きなはずだ。萩ちゃんが嫌われる要素なんて一つもない。それなのに、僕みたいな鈍臭いやつが親友だなんて、マイナスにしかならないかもしれない。その上、その僕は、男なのに、萩ちゃんのことがそういう意味で好きなのだ。気持ち悪いって思うに決まってる。

 だから僕は少しでも萩ちゃんのプラスになれるような友達でいないといけないのに。何をやっても駄目だ。いつもいつも。

「良いか、夜宵。よく聞け」
「やだ。聞きたくない!」

 死刑宣告みたいなものだよ。
 僕はまだ、君と親友でいたい。
 君の汚点だなんて自覚したくない。

 思わず両手で耳を塞ぎ、目をギュっと閉じる。
 僕の耳にさえ入らなければ、聞こえていないのと同じだ。

 と。

 こわごわと、僕の手首に触れたものがある。それが萩ちゃんの指先だと気付くのにそう時間はかからなかった。だってこの場には、僕と萩ちゃんしかいない。萩ちゃんは、僕の両手首をそっと掴んできた。無理やり剥がそうとするでもなく、ただ、優しく握っている。次いで、僕の額に、こつん、と柔らかいものが触れた。目を瞑っててもわかる。これは、萩ちゃんの髪だ。萩ちゃんの髪は、猫っ毛で柔らかいのだ。手首と額から、じんわりと温かさが伝わってきて、力が抜ける。わずかに生まれた隙間に、萩ちゃんの優しい声が届く。

「お願い。ほんとに、夜宵を傷つけたいわけじゃないんだ。ただ俺は、『大切な人』って書いてあったから、そんなの、夜宵しかいないって思って」

 ――は?
 
 え、いま、え? 何? なんて?
 萩ちゃんいまなんて? いま『大切な人』って言った?!

「た、『体育の苦手な人』、じゃなくて……?」
「え、違うけど。何? お前、そんなお題だと思ってたのかよ!」
「だっ、だって、絶対眼鏡だと思ってたら、高野君じゃなくて僕だったし、それで、『たい』から始まる言葉なんて言ったら、もう『体育の苦手な人』しか浮かばなくて……!」
「そんなわけねぇだろ! お前、体育の成績なんぼだよ!」
「四だけど」
「四取れるやつは苦手じゃねぇんだよ!」
「だって、それは筆記で……」
「筆記だけで取れるか!」

 なぁんだ、と一気に力が抜ける。口から魂も出てしまいそうだ。

「し、しかし、アレだな! 俺達、マジで馬鹿みたいだな! ハハハ!」

 しんと静まり返った保健室に、萩ちゃんの明るい声が響く。

「そうだね、馬鹿みたい。お互い勘違いして。でも、僕の方が馬鹿だね。萩ちゃんのこと疑うなんて」
「そうだぞ、俺を疑うなんて」
「ごめん。もう疑わないよ。萩ちゃん、僕のこと大切に思ってくれてるんだね」
「ンッ、お、おう! もちろんだよ! だ、大事な親友だしな!」

 親友、の言葉が胸に刺さる。
 そうだよね。萩ちゃんは、親友だと思ってくれてるんだよね。

「……だよね。僕もそう思ってる。僕も萩ちゃんのこと、大切に思ってるよ」
 
 ただ、僕の方は『親友』だけじゃないんだけどさ。それが言えたら良かったのに。でもきっと、言ってしまったら、僕らはもう親友にすら戻れなくなっちゃうだろう。それが怖い。