なんやかんやで!〜両片想いの南城矢萩と神田夜宵をどうにかくっつけたいハッピーエンド請負人・遠藤初陽の奔走〜

「絶対一位取って来るからな!」

 そう言って大きく手を振り、目が眩みそうになるくらいの笑顔を僕に向けて、萩ちゃんは集合場所へと駆けていった。頑張って、とその背中に声をかけると、ぐっと拳を振り上げて応えてくれる。

 コースの途中には、一階の教室から運んで来た机がいくつか並んでいる。その上には、風で飛ばされないように養生テープで貼り付けた借り物札と――、

「はちまき?」

 赤組でも白組のものでもない、ピンク色のはちまきが置かれていた。あれも何かに使うのだろう。細かいルールなどは当日まで知らされないのだ。何せ、走って、札を見て、それに書かれた『物』をどこからか調達して走る、それだけの競技である。

 萩ちゃんはウチのクラスの南雲君と何やら親し気に会話をしている。あんなに仲良かったっけ、あの二人……?

 そう思って首を傾げていると、後ろから肩をトントンと叩かれた。振り向くと、そこにいたのは同じクラスの紺野那由多――なゆ君だ。

「ねぇねぇやよちん」
「なゆ君、どうしたの? ……南雲君の応援?」

 声を落としてそう言うと、なゆ君は、へへ、と笑ってから「そうそう」と返してきた。彼らのお付き合いは順調のようだ。

「それもそうなんだけど。南城さ、俺の(そん)ちゃんとちょっと近すぎじゃない?」
「そうかな? 萩ちゃんは誰とでもあんな感じだよ?」
「あのコミュ力おばけめ……。ちょっとやよちんから釘刺しといてよ、村ちゃんはあげないよ、って」
「釘刺さなくても大丈夫だと思うけどなぁ」

 だって萩ちゃんは普通に女の子が好きだと思うし、と言うと、なゆ君は、ぴゃっ、と飛び上がって「嘘だ!」と驚いた。なゆ君は小動物っぽい。小柄で、いつも何かとぴょこぴょこしているのである。

「嘘だ、って何で? そんな驚くこと?」
「俺、絶対南城ってやよちんのこと好きなんだと思ってた。だからてっきり男もイケるんだと。だってほら、村ちゃんって、スラッとしてるし、さっぱりしたイケメンだから、どっちかっていうとやよちんと系統似てるかなって」
「なゆ君さっきから何言ってるの? 萩ちゃんは僕のこと、親友としては好きでいてくれてると思うけど、そういうんじゃないし。僕、南雲君みたいな爽やかなスポーツマンでもないよ?」
「そうかなぁ?」

 そんな話をしていると、パァン! とピストルが鳴った。話は一旦中断して、僕達はそれぞれの応援に集中する。なゆ君は南雲君を、僕は萩ちゃんを。何となくどちらの方がより大声で応援出来るか、みたいな意地の張り合いになり、喉が破けるんじゃないかってくらいの声で僕は萩ちゃんを応援した。敵チームだって構うもんか。

「うぐぅぅぅぅ、南城めぇぇぇぇ、何であいつ帰宅部の癖に速いんだよぉぉぉぉぉぉ」

 村ちゃんが二位になっちまっただろぉぉぉぉ、と小さな手をぎゅっと握って、なゆ君が悔しそうな声を上げる。ぎりぎりという歯ぎしりまで聞こえてくるようだ。ねぇ、いつもとキャラ違わない?

「不思議だよねぇ。萩ちゃん、足も速いしさ、球技も何でも出来ちゃうんだよ。そうそう、こないだなんて一緒に音楽番組見てたんだけど、そこで流れてたアイドル――『SNOW−GUYS』のダンスも一回で覚えちゃって、踊って見せてくれてさぁ。僕、うちわとか本気で作るところだったよ。すごくない?」

 萩ちゃんのすごさを我がことのように語っていると、なゆ君は、あからさまに嫌そうな顔をして「チッ、彼氏自慢かよ」とどすの効いた声を出した。

「だから、僕と萩ちゃんはそういうんじゃ――」

 両手を振って否定していると、なゆ君が「あ」とグラウンドを指差した。思わず僕もそちらを見る。

「あれ、萩ちゃん。こっちに走って来る」
「何かやよちんに借りたい物でもあるんじゃない?」
「え? 僕? だけど、僕何も持ってないよ? あ、眼鏡?」
「眼鏡は借り物競争の定番だもんね。うん、眼鏡だねこれは」

 そうこう話しているうちに、息を切らせて萩ちゃんはやって来た。膝に手を当て、はぁはぁと荒く呼吸している。

「萩ちゃんどうしたの? 何? 僕、何か貸せば良いの? やっぱり眼鏡?!」

 ていうか、生徒全員、身に着けているものはほぼほぼ同じなのだ。だから、他の生徒が持っていなそうなものと言えば、眼鏡くらいしかない。まぁ、それにしたって、他にも眼鏡の人はいるけど。そう早合点して眼鏡を外そうとすると、その手を取られた。

「ちょ、来て」
「は?」

 眼鏡じゃないの?
 状況がつかめず、呆けている僕の前に、萩ちゃんが右足を前に出して、手に持っているピンク色のはちまきを振って見せてきた。

「はぁ、あ、足」
「あ、足?」

 あっ、もしかして二人三脚!? 僕を連れてくってことだね? そうか、眼鏡なんて手で持ったら危険だもんね? 本人ごと連れて来いってことなのかも! そうか、つまりお題は『眼鏡をかけた人』だ! 

 そういうことならお安い御用だよ! と左足を出す。萩ちゃんは二人の足をぎゅっとはちまきで束ねて、行くか、と顔を上げた。うわわ、萩ちゃんが近い。ちょっと恥ずかしい。

「だけど、僕、萩ちゃんの速さにはついていけないと思うよ」
「全力で走らねぇから大丈夫! ちゃんと合わせるから。せーの!」

 萩ちゃんは、優しい。
 同じ眼鏡君でも、もっと足の速い生徒はいただろうに。
 何とか足手まといにならないよう、頑張らなくちゃ、と気負ったのがまずかったのかもしれない。

「どわぁっ!?」
「わ、わわわ!」

 どちらの足から出すかを決めずに勇んでスタートした僕達は、ものの見事にすっころんだ。萩ちゃんはちゃんと手をついて顔面直撃は免れたけど、僕はやっぱり鈍臭い。ほっぺたから着地である。ああ恰好悪いなぁ。

 頬についた土を払っていると、萩ちゃんが気の毒なくらいに青い顔で心配してくる。大丈夫大丈夫、こんなのかすり傷だから。それよりも――、

 どうやら左足を軽く捻ってしまったらしい。

 上手く力が入らない。どうしよう、走れるかな。いまからでも他の子に代わってもらった方が良いかな。だけど、本当は萩ちゃんと一緒に走りたい。こんなに公然とくっつけることなんてそうそうないし。

 まぁ別に多少悪化したとしても僕は運動部でもないし、その後の生活に支障はないから、ちょっとくらい無理しても大丈夫。

 そんなことを考えて、仕切り直し、とばかりに「こっちの足からにしようか」と努めて明るい声を出す。少し動かすと、ぴきり、と痛みが走った。でも大丈夫、我慢出来ない痛みってわけでもない。

「夜宵、何か足変じゃねぇか?」
「え? そんなことないよ。大丈夫。ほら、早くしないと出遅れちゃうよ」

 何でそんなに察しが良いんだ、萩ちゃん。
 でも、走り出しちゃえば――、などと考えていると、萩ちゃんは、すっと腰を落とした。どうしたの? と声をかけたけど、それには答えてくれず、ただ無言ではちまきを解き、おっかない顔で僕を見上げた。怒ったのかな。僕が嘘をついたから。どうしよう。

「ごめ――」
「ごめん!」

 僕の声をかき消すボリュームで、そう叫んだあと、萩ちゃんは、僕を横抱き――いわゆるお姫様抱っこで持ち上げた。

「え? ちょ、萩ちゃん?!」
「揺れるからしゃべんな! 舌噛むぞ!」
「そ、それは萩ちゃんもおな、同じなん、じゃ……!」
「スピード上げるから、マジでしゃべんな!」

 こめかみから汗をだらだらを流しながら、萩ちゃんは、ものすごい勢いでコースを走っていく。

 応援席からは、萩ちゃんを揶揄うような応援が聞こえてくる。だって、同い年の男をお姫様抱っことか、なんの罰ゲームだって話だし。

 申し訳なさすぎる。このまま丸まって、小さくなって、消えてしまいたい。

「萩ちゃん、ごめ、ごめん! なんか、僕のせいでっ」
「良いから! 夜宵は気にすんな!」
「重いでしょ? 僕、走れるし」
「重くねぇ! 何のために鍛えてると思ってんだっ!」
「な、何のため……?」
「っこ、こういう時にっ、お前抱えて走るために決まってんだろっ!」

 萩ちゃんは、その場しのぎの嘘なんかつかない。だからきっと、本当なんだろう。だけどたぶん、僕を、っていうのはさすがにリップサービスだと思う。正しくは、怪我人を、とかそういうことなのだ。救急隊員でも目指してるのかな。萩ちゃんならきっとなれるよ。

 萩ちゃんは、僕を抱えたまま走り切った。そして、そのままの状態で保健室へ向かうと言い出した。

 玄関が近付くと、さすがに人気もなくなる。
 揶揄ってくる人がいなくなると、逆に恥ずかしさが込み上げてくる。無言が怖くて、恐る恐る、そろそろ下ろしても良くない? とお伺いを立てた。

「いーや、駄目だ。ここまで来たら、これで保健室まで行く」

 強い口調ではあったけど、声のトーンはいつもの優しい萩ちゃんだ。そのことにホッとする。けど。

「そんなぁ……」

 さすがに僕だってお姫様抱っこは恥ずかしいよ。

「だいたいな、何で我慢しようとすんだよ。あのまま走ってたら、悪化してたんだぞ」
「だって、萩ちゃんの足手まといになると思ったし。一位取るって言ってたから」
「そんなの、どうだって良いんだって。夜宵の足の方が大事に決まってんだろ」

 萩ちゃんは、何でも真っすぐだから。
 たぶん本当にそう思ってくれているのだ。
 僕のこと、本当に心配してくれたのだろう。

「……ありがと」

 その後に続けたかった「大好き」の言葉はぐっと飲み込んだ。その代わりに吐き出した、せめておんぶにして、というお願いは聞き入れてもらえた。恥ずかしいし、情けないけど、萩ちゃんの背中は、僕より大きくて、温かかった。
 やって来ましたァ、体育祭!
 今日こそは決めてやるぜ! とぎゅっとはちまきを締める。何なら(ふんどし)だって締めたい気分の俺である。

 やはりコトを起こすならイベントなのである。
 相も変わらずあの『矢×夜』と来たら、なんやかんやでちょいちょいイチャつく癖に、ちっとも進展しないと来たもんだ。何が恐ろしいって、何となく良い感じだなと思えば必ず邪魔が入る上に、その後は一旦感情もリセットされるのか、「前回あんな感じで邪魔が入ったけど、今回はその続きからスタート!」ってことがないのである。毎回仕切り直しなのだ。どういうこと?!

 こいつらの短期記憶に何かしらの問題があるのかもしれないが、そこを議論したって始まらない。俺が出来ることは、一分一秒でも早くこの二人をくっつけて、なんやかんやでくっつくまでのじれじれもだもだを楽しむのではなく、次のステップ、付き合ってからの甘々イチャイチャを楽しみたいのである。

 そうと決まれば、黙ってなどいられない。それがこの俺、ハッピーエンド請負人・遠藤初陽だ。今回こそハッピーエンドにしてみせる。

 というわけで、今回は何かと都合よく進められるよう、体育祭実行委員に立候補した俺である。

 なんやかんや根回しをして、南城を借り物競争に出場させることに成功したので、ここは一つシンプルに、借り物札で想いを伝えてもらう作戦でいこうと思う。

 南城のレーンに置いた札は『大切な人』。良いでしょう。これくらいのシンプルさで良いでしょう。

 それで、重要なのは南城と一緒に走るモブ共である。絶対にこいつらに邪魔されたくはない。今日の俺はもう鬼神だ。推しカプ成立のためならば、手段を選ばない。というわけで、他のやつら(モブ共)の札は少々難易度を上げさせていただいた。それが嫌なら、お前らが南城よりも速く走り、どういうわけだか無理やり南城のレーンに侵入してその札を取れば良いだけのことである。別に、他のレーンの札を取ること自体は問題ではない。ただ、それが出来ないなら、己のレーンの札に従うしかないわけだが。

 不安要素としては、サッカー部エースの村井である。こいつも結構速いのだ。あと、特進クラスの癖に何か馬鹿なんだよな。いわゆる勉強の出来る馬鹿というか、力業の馬鹿というか。まぁ、神田もある意味勉強の出来る馬鹿ではあるんだけど、それは置いといて。南城の方が速いので、何事もなければ札を取られる心配はないが、力業でお題をこなしてしまう可能性がある。そこで、念には念を入れ、村井の札は★★★★★レベルにしておいた。たぶん大丈夫……だと思いたい。

 ムキムキ体育教師寿都(すっつ)のピストルで、選手が一斉に走り出す。おお、やっぱり南城はクソ速い。何であいつ陸上入らねぇんだろ。よしよし、想定通りに札を取った。良いぞ。そんで一目散に神田の元へ走ったな。オーケーオーケー完璧だ。さぁ! とっととそのピンクのはちまきで互いの足をキュッと括り、肩なんか組んじゃって、仲良くゴールするんだ! この場合のゴールはもうアレだから。そういう意味での『ゴールイン』でもあるから! 俺はもう心の中でクラッカーも鳴らしまくるし、脳内でくす玉も割って屋上から『お幸せに!』って垂れ幕もダララララッて下ろすし、イマジナリー白い鳩も飛ばすし、あの空き缶がガラガラついたオープンカーも手配するから! あっ、その前に神父か! だよな! アハハ!

 が、油断は出来ない。
 どんな時だって俺の想像の斜め上を行くのがこの『矢×夜』なのである。今回はどんな刺客が現れるか……、

 と思ったら、二人仲良くすっころんだァ――!!
 お前ら、いつもは息ぴったりじゃねえか! なぜそれをここで発揮しない!

「遠藤、どうした?」
 
 自前のオペラグラスを片手に固唾をのんで見守っていると、寿都が心配そうに声をかけて来る。

「先生、お気になさらず」
「いや、気になるだろ」
「先生は次の走者を誘導したり並ばせたりしてくださいよ」
「いや、どちらかというと、それはお前の仕事というか」
「見てわかりませんか? 忙しいんですよ! こっちはね、瞬きすら我慢してるんですから!」
「知るか、お前の瞬き事情など。だが、まぁ、一応気持ちだけは汲んでやろう。お前は今日まで何かとよく働いてくれたしな」
「わかってくれれば良いんですよ」

 やはり日頃の行いが物を言うのである。
 まぁ、『何かとよく働いていた』のは、推しカプ成立のための裏工作部分がその大半を占めるんだけどな。胸が痛むぜ。嘘。微塵も痛まねぇ。だって俺、鬼神だから。

「ン゛ン゛ッ!」

 何やらごそごそごとやっていた『矢×夜』に動きがあったのである。さっと腰を落とした南城が次に立ち上がった瞬間――!

「行ったァァァァァァ!」
「なっ、ど、どうした遠藤!?」
「お気になさらずゥゥゥゥ!」
「気になるわ!」

 お姫様抱っこだ――!
 種目会議で二人三脚orお姫様抱っこを強く推した数日前の俺グッジョブ! 愛してる! 愛してるよ俺! 天才か俺! いやぁ、それほどでもないよ俺!

 うはァ――! 堪りませんわ! 推しカプのお姫様抱っこが見られるなんて眼福眼福! よっしゃオーディエンス! もっとはやし立てろ! そんで、あいつらをもっと意識させるんだ! 俺だって本当はマイクを片手に実況したい! 南城選手、神田選手をお姫様抱っこでぶっちぎりの一位だァァァァ! とか言いたいよ。クッソ、マイク貸せよ放送部ゥ! お前らあれ見て何も思わないわけ? 良いんだよ、他のやつらが難易度★★★☆☆~★★★★★の札で右往左往する部分にはいっそ触れなくても! むしろこっちだろ!? 痩せ型とはいえ、自分よりでけぇ同級生お姫様抱っこして何であんな走れるんだよアイツ! 愛の力か?! って声を大にしてアナウンスするところだろうがよ! お前もうマイク置け! 普通の男子校生に戻れよ!

 超人的な力を発揮してぶっちぎりの一位ゴールを決めた南城は、神田を抱っこしたまま、駆け足で校舎の方へと向かって行った。これはもしや、看病イベント発生なのではあるまいか? アレだな?! BLの定番シチュ、何でかわからないけど保健室で二人きりになるやつ! オーケーオーケー、ここで決めるんだな、南城! そうなんだな?!

 とはいえ、そんな都合よく二人きりになんてなれるわけがないのである。そりゃあ本物のBLであれば、なんやかんや上手くいって、常駐しているはずの養護教諭が席を外すことになっているのだが、現実はそう甘くない。

 甘くないのだが、そう、ここにはこの俺がいる!
 ハッピーエンド請負人、またの名を推しカプ成立見届け人、そして鬼神と化した遠藤初陽がな!

 養護教諭(邪魔者)なんて無理やりにでも席を外させれば(排除すれば)良いのだ!

「ククク……、南城、神田……今日こそは……」
「遠藤、大丈夫か? お前ちょっと働きすぎなんじゃないか?」

 勝利を確信し一人ほくそ笑んでいると、寿都が心配そうに覗き込んで来た。

「ふふふ、大丈夫ですよ寿都先生。先生は景気良くピストルでもパンパン鳴らしててくださいよ」
「いや、それがそうもいかなくてだな」
「どうしました?」
「いや、あれを見てみろ」

 彼が指差した方を見ると――、

 いまだにコースの途中で選手達がうだうだしている。

 しまった!
 札が難しすぎたか!
 ていうか、お前ら、そんな律儀に守んなよ! 何かテキトーで良かったはずだろ!
 
 橋田! お前のは『いまだにかーちゃんのことを【ママ】って呼んでるやつ』だろ? 俺には出来ない……っ! あいつを売ることなんて……! じゃねぇんだよ! とっとと売れ! ていうか、知ってんのか!

 三田! お前のだって『アルファベット柄のトランクスを履いてるやつ』だったはずだ。そんな難しいか? あいつのパンツを晒すわけには……っ! って、いや、晒す必要はないしな?! 

 そんで村井! お前のはマジでごめん! それは時間かかると思っ……って、お前はお前で何とかなったの!? もう紺野と二人三脚してやがる! むしろお前すごいな!?

 村井がゴールしたタイミングで、さすがに残りの走者が切れ始め、それに応援席のやつらが悪ノリして、グラウンドは阿鼻叫喚の乱闘騒ぎに発展した。

 ええい畜生! こんなことしてる場合じゃないのに! 鎮まれ、モブ共がぁぁ!

 いや、待て。
 むしろこれは好都合だ!
 このチャンスを活かすんだ、俺!


★次回予告★
 なんやかんやで負傷した夜宵を保健室へと運ぶ矢萩!
 これはBLのド定番『保健室で二人きり』コースか?!
 けれどそこには校内人気ナンバーワンのセクシー美人養護教諭(♂)が!
 鬼神と化した遠藤が、今回もナイスアシスト?!

 次回、『なんやかんやで体育祭を楽しむ二人・保健室編』
 ご期待ください!
 靴を履き替え、夜宵を背負ってペタペタと廊下を歩く。
 お姫様抱っこからおんぶに切り替えたから、まぁぶっちゃけかなり楽ではある。夜宵は俺より身長があるけど、どう考えても体重は俺よりもない。とはいえ、背負ったまま階段を上るのは厳しいと思っていたので、保健室が一階にあって本当に良かった。

「そういえばさ」

 夜宵がぽつりと言う。

「何」
「借り物のお題って、やっぱり『眼鏡をかけた人』だったの?」
「――ウッ、え、えっと、何でそんなこと聞くんだ?」
「いや、もしそうなら、近くに陸上部の高野君もいたから、どう考えてもあっちを選ぶべきだったんじゃないかな、って」

 いまさらだけど、と、気持ち寂しそうな声で言うものだから、もしかして迷惑だったんじゃないかと思って、嫌な汗が流れる。

「や、やだった……よな? 俺ちょっと強引だったかも、だし。結局、怪我もさせちまったし。お姫様抱っことか恥ずかしかったよな。ごめん、マジで」

 怪我までさせて、さらにはお姫様抱っこだもんな、どんな辱めだよ、って。うわぁ、俺もう最低じゃん!

「ちっ、違っ! やじゃない! 嫌とかそういうことじゃなくて! 同じ眼鏡なら、僕より高野君の方が速いから、そっちの方が良かったんじゃないかと思って、それで。結果的に一位だったから良かったけど、僕は、萩ちゃんに一位取ってほしくて、だけど僕ならきっと足手まといになっちゃうから。でも」

 でも、と繰り返して、夜宵が、俺の肩をぎゅっと掴んだ。

「僕を選んでくれたの、嬉しかった。ほんとは最後まで萩ちゃんと二人三脚で一緒に走りたかった」

 あぁだから夜宵は、足の痛みを黙ってたのか。

「だけど、僕の方こそ、ごめん。僕はいつも肝心な時に駄目だね」

 そんなことを言って、弱い声で笑う。ぐす、と鼻を鳴らす音が聞こえた。もしかしたら泣いているのかもしれない。

 夜宵は、昔、結構泣き虫だった。もう引っ越したけど、近所にガキ大将みたいなのがいて、夜宵はそいつに目をつけられていたのだ。そいつに泣かされる度に俺が飛んでいって、夜宵の仇を討つ。俺は悪者からお姫様を救うヒーローだった。きっとその時から、俺は夜宵が好きだったんだと思う。

「駄目じゃねぇよ。これからもいつだって走れば良いじゃんか」
「体育祭でもないのに? 二人三脚?」
「良いじゃん。流行らせようぜ」
「あはは。流行るかな」
「流行る流行る、大丈夫」

 夜宵が笑ってくれたことにホッとする。二人三脚が本当に流行るかは別として。

 保健室の前まで来て、足を止める。本来、体育祭なんていう屋外イベント時には専用のテントを張って、養護教諭を常駐させるものだと思うのだが、ウチの学校は保健室が一階にあることと、グラウンドへの出入り口から近いという理由でそれをしないのである。噂によると、養護教諭の門別(もんべつ)が日光アレルギーで、外に出たがらないとか何とか。本当だろうか。噂レベルの話ではあるが、確かに門別は夏でも長袖を着ていて、通勤時には日傘を差して首にはストール、それから手袋、さらにサングラスである。信憑性は高い。

 それは置いといて。

「夜宵、あのさ」

 その場に腰を落とし、慎重に夜宵を床に下ろす。
 多少バランスを崩してよろけたのを支えてやると、左足を軽く浮かせて、身体を少し右側に傾けて立った。

「何?」
「あの、借り物のお題なんだけど」
「うん」
「眼鏡じゃないんだ。眼鏡をかけた人でもない」

 そうなんだ、じゃあ、何だったの? と夜宵が首を傾げる。柔らかい黒髪が、さら、と流れた。

「あれは、その、たい――」

 大切な人、と、言う前に、保健室の引き戸が開いた。

「こんなところで何をしているんです? 怪我ですか? それとも体調不良ですか?」

 門別(養護教諭)である。
 むしろこっちの方が病人なのでは? と思うくらいに、いつも気怠そうで、何となく顔色が悪い。本人は、ただ低血圧で色白なだけと言っているけど、開いた戸に凭れかかるようにして立つ姿を見ると、何だか本当に気分でも悪そうに見えてしまう。けれど、長身でモデル体型且つ美形で、妙な色気があるため、一部の生徒からはものすごく人気があるのだ。ええと、ウチは男子校なんだけど。まぁそういうことである。これもあくまでも噂だが、言い寄ってくる生徒に対し、据え膳食わぬは男の恥、などと言ってちょいちょいとつまみ食いしている、なんてことも聞く。

「君ですか? 南城君」
「いえ、俺じゃなくて、こっち。やよ……神田です」
「あぁ、神田君の方でしたか。いらっしゃい。どうしました?」

 左足を、と言いながら、ひょこひょこと歩く。肩を貸そうかと手を伸ばすと、「大丈夫、私が」と遮られた。何かもう、これぞスマートな大人、みたいな動きで、サッと夜宵の肩を抱く。何だよこいつ、慣れてんな。

「南城君はもう戻っても良いですよ。君は出番が多いんじゃないです? 体育では大活躍ですもんね」
「あぁ、まぁ……よくご存知で」
「ここは生徒数もそう多くありませんし、あなたは有名ですから。神田君は……この後、何の競技に出るんですか?」
「えっと、玉入れと、騎馬戦に」
「玉入れは……飛び跳ねるのは危険ですね。ただまぁ騎馬戦の方は、ガチガチにテーピングして、上に大人しく乗ってるくらいなら、イケるかもしれませんが……。とりあえず、診ましょうか」

 そう言いながら、後ろ手で戸を閉める。途中まで閉めればあとは勝手に締まるタイプのやつだ。
 それがゆっくりと完全に閉まり切る前に、慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げようとした、その時。

 おや、頬も擦りむいているではありませんか、と門別の細く白い指が、夜宵の頬をなぞるのが見えた。

「ちょ」

 例え擦りむいた程度でも、傷口を直接触るのはどうなのかとか、そういうことではなく、ただ単純に、ムカッとした。何勝手に触ってんだ、と。だけど相手は養護教諭である。まさか傷口を直接触るなんてことはしないだろうし、触れたとしても、きちんと消毒済みであるだろうし、それだって処置に必要なことかもしれない。それでも単純に嫉妬した。

 短く発した俺の声なんて届くわけもなく、引き戸はぱたりと閉まった。別に何が起こるわけでもない。ただの処置だ。だけど、やけに手慣れた様子で肩を抱いたり、頬に触れたりしたのがどうしても引っ掛かる。もし噂が本当だったら? 噂では、言い寄ってくる生徒を――ということだったが、安心は出来ない。処置のためだとか言って、色々脱がせてあれこれするかもしれない。夜宵は美人だしな、大いにあり得る。そう考えると、あの触り方だって何かやらしいやつだった!

 だけど、どうすれば。
 
 俺も怪我するか? そんで、俺もやっちゃいました、って乗り込めば!? そうと決まれば、いっちょ派手に転んでくるか!?

 保健室の前を行ったり来たりしながらそんなことを考えていると、キンコンカンコン、と校内放送が鳴った。

『養護教諭門別先生、グラウンド本部テントBまでお越しください。繰り返します、養護教諭門別先生……』

 この声は……遠藤!?

 一体どんなトラブルがあったのか知らんけど、何というタイミング! でかした、体育祭実行委員!

 引き戸の前でしゃがみ込み、小さくガッツポーズをしていると、それは再び開かれた。門別は、戻れと言った俺がまだここに残っていることに一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの顔に戻り、「ちょうど良かったです」と言って、腰を落とした。

「南城君、テーピング出来ます?」
「はぁ、一応」
「それじゃ神田君のテーピングお願いしても良いですか? 特に問題はなさそうなので、ちょうどいま湿布を貼ったところなんです。私は、本部テントに呼ばれてしまいましたので」
「……ウス」
「頬の擦り傷の消毒は済んでます。――神田君、無茶をしないと約束出来るなら、騎馬戦は出ても大丈夫ですよ。玉入れも、棒立ちで投げられるなら構いません。まぁ、騎馬戦については早めの離脱をお勧めしますが」

 室内に向かってそう言うと、再び俺の方を向いて、「よろしくお願いしますね。あまり長居はしないように」と、何やら含みのある笑みを浮かべ、意外にもしゃきっと立ち上がると、駆け足で行ってしまった。意外と機敏に動けるんだな。

 サングラスとか日傘とか、良いのかな。首回りもがっつりあいてる服だったけど。

 そう思ったが、黙った。
 そんなことより夜宵なのだ。

 引き戸は開いたままではあるが、カーテンがあるので、夜宵の姿は見えない。けれど、いまのやりとりは聞こえているはずだし、俺がここにいることもわかっているだろう。

「夜宵、テーピング……」

 先生に頼まれたんだけどさぁ、と言いながら、入室し、カーテンに手をかける。一応「開けるな?」と断ってから、それをシャッと開けた。
 何とかお姫様抱っこをやめて、おんぶにしてもらい、しんと静まり返った廊下を歩く。萩ちゃんの体温と、規則的な揺れが心地よく、そんな場合じゃないとわかっているのに、ちょっとうとうとしそうになる。

 だけどさすがにここで寝るわけにはいかない。何か、会話でもしないと。そう考えた時に、ふと浮かんだのは、借り物の札だ。あれは本当に『眼鏡』、ないしは『眼鏡をかけた人』だったのだろうか。まぁ、十中八九そうだとは思うけど。だってそうじゃなきゃ僕を選ぶ理由がない。

 でも実はあの場には、高野君という陸上部の眼鏡君がいたのだ。陸上部は代表リレーや徒競走に出られないという制限はあるが、時の運の要素がある借り物には出られる。だからもちろん、借りられる側でもOKのはずだ。

 それなのに萩ちゃんは僕を選んだ。すごく嬉しかったけど、でも、本気で一位を取ろうと思ったら、確実に僕ではないはずだ。それが気になって。もしかしたら、高野君の眼鏡では駄目だったのかもしれない。彼のは太めの黒縁だし。そういうことだろうか。いや、そんな細かい指定あるかな?

「借り物のお題って、やっぱり『眼鏡をかけた人』だったの?」

 そう尋ねると、萩ちゃんは、何だかものすごく動揺した。

「――ウッ、え、えっと、何でそんなこと聞くんだ?」
「いや、もしそうなら、近くに陸上部の高野君もいたから、どう考えてもあっちを選ぶべきだったんじゃないかな、って。いまさらだけど」
 
 高野君は身長だって萩ちゃんと同じくらいだし、足も速い。絶対に彼の方が走りやすい。

「や、やだった……よな? 俺ちょっと強引だったかも、だし。結局、怪我もさせちまったし。お姫様抱っことか恥ずかしかったよな。ごめん、マジで」

 えっ、うわ、どうしよ。この反応は想定外だった! 違う! そうじゃないんだよ萩ちゃん!

「ちっ、違っ! やじゃない! 嫌とかそういうことじゃなくて! 同じ眼鏡なら、僕より高野君の方が速いから、そっちの方が良かったんじゃないかと思って、それで。結果的に一位だったから良かったけど、僕は、萩ちゃんに一位取ってほしくて、だけど僕ならきっと足手まといになっちゃうから。でも」

 萩ちゃんの背中が小さく震えていたから。
 彼を悲しませてしまったと焦って、僕はどうにか気持ちを伝えねばと、言葉を並べた。

 でも。
 でも、僕はね。

「僕を選んでくれたの、嬉しかった。ほんとは最後まで萩ちゃんと二人三脚で一緒に走りたかった」

 別に最後の体育祭ってわけじゃない。だけど、もしかしたら来年は『誰かの萩ちゃん』になってるかもしれない。僕は、萩ちゃんとの、どんな一瞬もほしいんだ。どんな些細なことでも、誰のものにもなってない萩ちゃんとの思い出がほしかった。

「だけど、僕の方こそ、ごめん。僕はいつも肝心な時に駄目だね」

 中学生の頃、流星群がすごい年があって、僕達はそれぞれの両親から承諾をもらい、二人で家の裏にある公園にテントを張ってお泊まりする計画を立てた。その時も、僕は楽しみすぎて熱を出し、結局それは叶わなかったのだ。

 だけど萩ちゃんは、

「大丈夫、俺に任せろ!」

 そんな頼もしいことを言って、一人で計画を遂行し、流星群をテレビ電話で見せてくれた。病人なのに夜更かしさせてごめんなんて済まなそうに笑いながら。画質の悪いキッズスマホでは流星群なんてほとんど見えなかったけど、たった一人で深夜の公園なんて心細かっただろうに、萩ちゃんは僕のためにしてくれたのだ。

 萩ちゃんはいつだって優しい。僕はその度に萩ちゃんを好きになって、好きの気持ちを濃くしてしまうけど、同時に虚しくもある。どうして僕は女の子じゃなかったんだろう、って。僕が得られるのは、萩ちゃんの背中の体温がギリギリだ。そんなことを考えると、鼻の奥がつんとしてくる。もう高校生なのに、どうして僕はすぐ泣いてしまうんだろう。

「駄目じゃねぇよ。これからもいつだって走れば良いじゃんか」
「体育祭でもないのに? 二人三脚?」
「良いじゃん。流行らせようぜ」
「あはは。流行るかな」
「流行る流行る、大丈夫」

 やっぱり萩ちゃんは優しい。
 僕のこんなワガママも聞いてくれる。だからもしかして、僕が好きって伝えても、俺も好きだよ、なんて笑ってくれるんじゃないかなんて期待してしまうんだ。君と僕の『好き』は絶対に違うのに。

「夜宵、あのさ」

 保健室に着き床に下ろしてもらうと、萩ちゃんが何やら神妙な顔つきで「あの、借り物のお題なんだけど」と言った。何だかものすごく言いにくそうだ。何だろ。

「眼鏡じゃないんだ。眼鏡をかけた人でもない」
「そうなんだ、じゃあ、何だったの?」
「あれは、その、たい――」

 たい、の続きは、引き戸の開く音で消されてしまった。たい……、たい? 『たい』から始まる、僕に関する言葉って何があるかな。しかも、萩ちゃんのこの表情からして、たぶん僕にはすごく言いづらいやつだ。

 あっ! もしかして『体育が苦手な人』!? だとしたら高野君ではない、確実に! あーもー絶対に僕だよそれなら。うわぁ、萩ちゃん、それならもう言ってくれなくても良いよぉ。あぁ、ショックだなぁ。自覚はしてるけどさ。

 戸を開けて現れたのは、この保健室の主、門別先生だ。北海道出身で、肌の色が雪のように白い。背が高くてモデルみたいな体型をしていて、肩まである髪をいつも後ろで束ねている。『門別』というのは北海道の地名で、確か日高の方にある町の名前だったはずだ。血圧が低いらしくて、いつもなんだか気怠そうにしているのだが、それが妙に色気があるとかで、僕のクラスでも密かに人気だったりする。ええと、もちろん、そういう意味で。まぁ、男子校だしね、うん。

「こんなところで何をしているんです? 怪我ですか? それとも体調不良ですか?」

 僕は門別先生と萩ちゃんが話しているのを他人事のように見つめていた。最早足の痛みとか、そういや頬も擦りむいてたっけなとか、そんなことはどうでも良くなってた。それよりも、萩ちゃんに『体育が苦手な人』と思われていたのが悲しくて。まぁ、普段からさんざん苦手苦手って言ってるのは僕なんだけどさ。萩ちゃんから言われるとダメージが尋常ではない。

 どうしました? と名前を呼ばれ、捻った左足を軽く持ち上げてから、入室しようとひょこひょこ歩く。途中から先生に身体を支えられたりして。僕が言うことではないけど、門別先生、めちゃくちゃ細いのに、案外力持ちだ。

 先生は萩ちゃんにグラウンドへ戻るように言い、引き戸に手をかけた。ここの引き戸は、どんなに勢いをつけても、閉まる直前にブレーキがかかって静かに閉まるようになっている。また、軽くでも動かしさえすれば、最後まで勝手に閉まる。僕らが入学するずっと前に、勢い良く閉めた引き戸で生徒が指を切断するという痛ましい事故が起こったらしく、それ以来、校内の引き戸はすべてこのタイプになったのだそうだ。

「おや、頬も擦りむいているではありませんか」

 その引き戸が勝手に閉まり切る直前、先生の指が僕の頬をなぞった。痛みはなかったので、擦りむいた箇所に触れたわけではないらしい。結構酷いですか? と尋ねると、「全然?」と意味ありげに笑い、引き戸にちらりと視線を向けた。

「ただまぁそのきれいな頬に傷でも残れば大変です。消毒しましょう。若いからと言って過信せず、お肌は大事にするんですよ」

 私なんて若い頃遊びすぎてもうボロボロですよ、なんて笑いながら処置の準備をする門別先生は、イメージよりもずっと気さくだった。全然ボロボロじゃないし。

「だいたい、秋だって紫外線は強いんです。なのに君達はろくに日焼け止めも塗らずに……。日焼けを気にするなんて男らしくないとか言う人もいますけど、五年後、十年後に後悔するのはそういう人達なんですからね」

 ぶつぶつとそんなことを言いつつ、沁みても我慢ですよ、と頬を消毒してくれる。

「先生は日光アレルギーだと伺いましたが」

 処置が終わった後で、そう尋ねてみる。すると、先生は何やら驚いたような顔をしてから、ふるふると首を振った。

「そこまでではないです。ただ、日に焼けると、真っ赤になって酷いんですよ。ですので、外へ出る時はなるべく肌を出さないようにしているわけです。それに――」

 あまり露出するとうるさい人もいますから、と、何やら遠い目をして言う。僕の肩越しに、誰かを思い浮かべているようだ。たぶん、恋人だろうな。恋人の肌を見せたくないなんて、随分と独占欲がある彼女さんのようだ。まぁ、門別先生はきれいな人だし、それがこんなむさ苦しい男(僕らも含めて)しかいない職場で働いているのだから、何かと心配なのだろう。現にそういう目で見ている生徒はいるし。

 その後は足首に湿布を貼ってもらい、とりあえず今日一日様子を見て、腫れて来たり痛みが強くなったりしたら病院へ行くように、と指示を受けた。あとはこの湿布の上からテープを、という段になって、

『養護教諭門別先生、グラウンド本部テントBまでお越しください。繰り返します、養護教諭門別先生……』

 校内放送だ。
 この声は……遠藤君?

「おや、どうしたんでしょう。神田君、申し訳ありませんが、誰か代わりの人を呼んできますので、待っててもらえますか? あとはテーピングだけですから」
「あ、はい、大丈夫です」

 台の上にある紫外線対策セットらしきもの達に目もくれず行こうとするその背中に、「良いんですか、何も着けないで」と声をかけると、

「緊急性の高い呼び出しですから」

 と返して、カーテンの向こうへ行ってしまった。そういえば、お姉ちゃんが昔働いていたスーパーでは緊急性の高い店内放送は、従業員にしかわからない独特の言い回しがあると言っていたっけ。たぶんさっきのにも何か、そういうキーワードが含まれていたのだろう。

 カーテンの向こうで何やら話し声が聞こえてくる。萩ちゃんの声だ。まだいたんだ。どうしたんだろう。

 そんなことを考えていると、「夜宵、テーピング、先生に頼まれたんだけどさ。開けるな?」とそれは再び開かれた。
 カーテンの向こうにいた夜宵は、ジャージの裾を捲り、左足首を露出させた状態で座っていた。先生が言った通り、そこには湿布が貼られている。

「萩ちゃん、グラウンド戻らなかったの? ええと、これ、お願いします」
 
 不思議そうな顔で、テーブルの上に置いてあったテープを俺に渡してくる。まぁそうだよな。そこ、疑問だよな。どう考えてもグラウンドから駆け付けたにしては早すぎるし。ていうか、さっきの先生とのやりとりだって聞こえてただろうし。

「いや、その、まぁ」

 だけれども、正直に「なんか門別がエロい目でお前のことを見ている気がしたから、張ってました」なんて言えるわけがない。おっとり天然気味の夜宵のことだから、ワンチャン、「そうなんだ、萩ちゃん優しいね」なんて超解釈してくれる可能性もあるが、普通なら「考えすぎじゃない? ていうか、萩ちゃんがそういう風に僕を見てるから、そう見えちゃうんじゃないの? 萩ちゃんのえっち!」となるだろう。ていうか夜宵の口から「えっち」なんて単語が出て来る方が何かヤバいな……。って俺は何を考えてるんだ!

「何ていうか、その、心配で」
「そんな心配してくれなくても大丈夫だよ。とりあえず今日一日様子見て、痛くなったり腫れたりしたら明日病院に行く感じだって」

 そう言いながら、湿布を擦る。折れそうなほど――は言い過ぎだけど、俺よりも細い足首だ。

 さっきまで門別が座っていたであろう向かいの椅子に腰かけ、ビッ、とテープを出す。親がジム経営というのもあって、この手の作業は慣れてる。多少無理して筋を痛めてしまう初心者は多い。その度に父さんは「俺がついてたのに、情けない」と肩を落とすのである。怪我や無理をさせずに理想の身体を作るサポートをするのがパーソナルトレーナーであるわけだから、本来はあってはならないことだと。けれども、痛みや己の限界を知らせずに頑張ってしまう人はいるらしい。

 そんなの言わねぇやつが悪いじゃんと思っていたが、うん、確かにこれは堪える。どう考えても俺のせいだもんな。夜宵が言ってくれなかったことも含めて。父さんもきっと、無理をしていると気付けなかったことにももちろんだが、そもそもそれを言い出しやすい関係を作れていなかったことが悔しかったのだろう。いまならわかる。

「……何か変なことされなかったか?」

 テープを巻きながら、恐る恐るそう尋ねてみる。もし何かあったとしても、たぶん夜宵は、俺が聞かなければ自分からは言わない。

「変なことって?」
「いや、その、変にべたべた触られるとか? 必要以上に、っていうか」
「大丈夫だよ、全然」
「……ほんと?」
「どうして疑うの?」
「疑ってるっていうか、そういうんじゃなくて。いや、疑ってるのか? 何だ、ええと、クソ、わかんねぇ」
「わからないの? 何か萩ちゃん変だよ? どうしたの?」

 テープを巻き終え、置いてあったハサミで切る。巻き終わりが浮かないよう、足首全体を包むようにして軽く押さえた。

「あのさ、さっきの続きなんだけど」
「さっきのって?」
「その、借り物のお題。あれは――」
「ま、待って萩ちゃん!」

 意を決して『大切な人』と伝えようとしたところで、待ったが入る。何やらかなり慌てた様子の夜宵が、「良い良い、言わなくても! もうわかってるから!」と両手を俺の顔の前に出してきた。

「え? 何で? わかってるって、え?」
「なんていうか、その、それを聞いたら何か立ち直れない気がして」
「えぇっ!?」

 大切な人って言われるのそんなに嫌なの?!

「ごめん、なんて言ったら良いのかわかんないんだけど、その、たぶん、萩ちゃんが思ってる以上にダメージを受けることになりそうっていうか」

 えぇ――っ!?
 
「め、迷惑だった……?」
「違うよ! その、迷惑とかじゃなくて! 僕の気持ちの問題ってだけなんだけど、ほんと! ほんとに!」
「いやでも、俺はその」
「大丈夫! わかってる! ちゃんとわかってるから!」

 えっ、わかってるって何……?
 どこまでバレてんの……?

「ちょ、ちょっと待って夜宵。お前、え? わか、わかってんの?!」
「わかってるよ、そりゃ」
「嘘、俺そんな、わかりやすかった?! え? 嘘」
「だ、だって、普段から……」

 普段から――?!
 普段の俺のどんな態度で――?!

「え、ちょ、てことは、その、夜宵は、その、なんていうか」

 ヤバい、声が震える。
 どうしよう。

 俺が夜宵のこと、そういう風に思ってるってバレた上でってことだろ? てことは、めっちゃ迷惑に思ってたってことじゃん? 夜宵は優しいから「迷惑とかじゃない」なんて言ってくれてるけど、つまりはそういうことじゃん? 決定的なことは聞きたくないってことだろ?

「俺のこと、その、き、嫌いなん……?」

 その言葉と同時に、ぼろ、と涙が落ちた。
 おかしいな、俺、普段そんな泣く方じゃないのに。全然泣くつもりなんてなかったんだけど。

「えぇぇっ!? は、萩ちゃん? どうしたの!? 何で泣くの?!」
「だ、だって、そういうことだろ、お前」
「そんなことないよ! どうしてそうなっちゃうの?!」

 だって、と言いながら、ぐいっと袖で涙を拭う。

「全部わかってるんだろ。わかってて、聞きたくないんだろ」
「そ、そりゃそうだけど……。だって、僕にも一応、その、なけなしのプライドってものが……」

 プライド?
 
「プライド?」
「え? プライドっていうのは、日本語で言うと、自尊心とか、誇りとかそういう意味で――」
「違くて。それくらいわかるよ俺だって」
「ご、ごめん」
「そうじゃなくてさ。そこまで夜宵のプライドを傷つけるようなやつなのかよ」
「え?」
「だとしたら、やっぱり夜宵は俺のこと、嫌い――まではいかなくても、好きじゃないってことに」
「ならないよ! 何でなると思ったの? むしろ逆だよ! 僕はいよいよ萩ちゃんに情けないやつって愛想尽かされちゃうって思って」
「何でだよ。なるわけないじゃん!」
「だって!」

 一瞬、間があく。
 こうやって夜宵と言い合いになることなんて最近ではほぼない。うんと昔は、それこそ当時流行った漫画だかアニメだかで、どっちの好きなキャラが最強か、みたいなくだらない言い合いを良くしていたものである。

 だって、と夜宵が繰り返し、ぐっと下唇を噛む。言えば夜宵を傷つけることになるんだろうか。そう思ったけれども、何となくだが、夜宵は何か勘違いしているようにも思える。どうして俺が愛想を尽かすなんて結論に至るんだ。

 それに、『大切な人』って言葉は必ずしも、恋愛的な意味を含むとは限らない。もし仮に夜宵がそっちの意味で嫌がったら、「親友としてだよ」って逃げれば良い。そんなずるいことを考える。いや、親友として大切に思っていることももちろん間違いではないんだし。

「良いか、夜宵。よく聞け」
「やだ。聞きたくない!」
「頼むから。俺は、夜宵のこと、絶対に愛想尽かしたりなんてしないから」

 余程聞きたくないのだろう、両手で耳を塞いで、いやいや、と首を振る。
 どうしてそこまで頑なに聞いてくれないんだろう。
 俺のこと嫌いじゃないとは言ってくれたけど。

 ぎゅっと目まで瞑り、必死に耳を塞いでいる夜宵の、その細い手首をそっと掴む。怖がらせないよう、優しく握ったつもりだったが、驚いたのだろう、びくりと身体を強張らせている。塞いでいても、うんと近付けば聞こえるのではないかと浅知恵を働かせて、こつん、と額同士をくっつけた。

「お願い。ほんとに、夜宵を傷つけたいわけじゃないんだ。ただ俺は、『大切な人』って書いてあったから、そんなの、夜宵しかいないって思って」

 話しているうちに、強張っていた力が抜けていく。夜宵はというと、何だかぽかんとした顔をして、「ふえぇ」と気の抜けた声を発している。

「た、『体育の苦手な人』、じゃなくて……?」
「え、違うけど。何? お前、そんなお題だと思ってたのかよ!」
「だっ、だって、絶対眼鏡だと思ってたら、高野君じゃなくて僕だったし、それで、『たい』から始まる言葉なんて言ったら、もう『体育の苦手な人』しか浮かばなくて……!」
「そんなわけねぇだろ! お前、体育の成績なんぼだよ!」
「四だけど」
「四取れるやつは苦手じゃねぇんだよ!」
「だって、それは筆記で……」
「筆記だけで取れるか!」

 ああもうクソ、なんだよ夜宵ぃ~。ビビらせんじゃねぇよマジでよぉ~。

 俺もまた、「ぶへぇ」と息を吐く。そうしてから、いまだに夜宵の手首を掴んでいたことを思い出し、慌てて放した。

「し、しかし、アレだな! 俺達、マジで馬鹿みたいだな! ハハハ!」

 気まずい空気を吹き飛ばそうと、無理やり明るい声を出す。

「そうだね、馬鹿みたい。お互い勘違いして。でも、僕の方が馬鹿だね。萩ちゃんのこと疑うなんて」
「そうだぞ、俺を疑うなんて」
「ごめん。もう疑わないよ。萩ちゃん、僕のこと大切に思ってくれてるんだね」
「ンッ、お、おう! もちろんだよ! だ、大事な親友だしな!」
「……だよね。僕もそう思ってる。僕も萩ちゃんのこと、大切に思ってるよ」

 そうだ。大切に思ってることに変わりはないんだ。
 俺は、親友としてだけじゃなく、お前のこと、恋愛の対象として大切に思っているけど。
  
 カーテンの向こうの萩ちゃんは、何とも言えない複雑な表情をしていた。それで、僕を頭のてっぺんからつま先まで――って言っても僕は座った状態なんだけど――何かを確認でもするかのように見つめてきた。

 何だろ。僕なんかおかしなところあるのかな。髪の毛が乱れてるとか? いや、違うな。そうか、テーピング用のテープを探してるんだ。僕が持ってると思ったのかも。違う違う。テープはここ、テーブルの上だ。といっても届かないよな。僕が取らないと。

「萩ちゃん、グラウンド戻らなかったの? ええと、これ、お願いします」

 テープを受け取った萩ちゃんは、何だかしどろもどろだ。

「いや、その、まぁ。何ていうか、その、心配で」

 あぁ、そうだよね。萩ちゃんは自分が僕に怪我させたと思って責任を感じてるんだ。僕が鈍臭いだけなんだから気にしなくて良いのに。

「そんな心配してくれなくても大丈夫だよ。とりあえず今日一日様子見て、痛くなったり腫れたりしたら明日病院に行く感じだって」

 そう言いながら、湿布越しに患部に触れる。もうそこまで痛みはない。ただ、捻るとピリッとはするけど。

 さっきまで先生がかけていた椅子に座り、向かい合うと、萩ちゃんは慣れた手つきでテーピングしてくれた。萩ちゃん家はスポーツ一家なので、怪我はつきものらしく、小さい頃からお兄さんの椰潮さんに巻いたり巻かれたりしてたって言ってたっけ。

「……何か変なことされなかったか?」
「変なことって?」
「いや、その、変にべたべた触られるとか? 必要以上に、っていうか」
「大丈夫だよ、全然」
「……ほんと?」
「どうして疑うの?」
「疑ってるっていうか、そういうんじゃなくて。いや、疑ってるのか? 何だ、ええと、クソ、わかんねぇ」
「わからないの? 何か萩ちゃん変だよ? どうしたの?」

 今日の萩ちゃん、何だか変だ。
 僕に怪我させたこと、そんなに気にしてるのかな。なんて言ったら萩ちゃんは安心してくれるんだろう。

 萩ちゃんは僕の問いには答えず、ただ、唇をむぐむぐとさせながらテープを巻き終えた。処置に使ったハサミとテープを置いて、思い詰めたような顔で、僕を見つめる。

「あのさ、さっきの続きなんだけど」
「さっきのって?」
「その、借り物のお題。あれは――」
「ま、待って萩ちゃん! 良い良い、言わなくても! もうわかってるから!」

 やめて! ぶり返さないで!
 もう僕は足よりも胸が痛いよ!

 僕だってね、そりゃあ自覚はしてるけど、萩ちゃんから突きつけられたくないんだ。いままで何とかごまかしごまかしやって来たけど、やっぱりスポーツ万能の萩ちゃんの隣に立つのはふさわしくないんだろう。

 例え、そう思っているんだとしても、口にさえ出さなければセーフなのだ。逆に言うと、指摘されてしまったらおしまいなのである。

「え? 何で? わかってるって、え?」
「なんていうか、その、それを聞いたら何か立ち直れない気がして」
「えぇっ!?」

 だってだって、午前中の八百メートルだって三位だったもん。萩ちゃんはどんな種目でも一位だしさ。ほんと恰好悪いったらない。こんな鈍臭い僕が萩ちゃんの親友だなんて、おこがましいよね。

「ごめん、なんて言ったら良いのかわかんないんだけど、その、たぶん、萩ちゃんが思ってる以上にダメージを受けることになりそうっていうか」

 たぶん僕、しばらく学校来れないと思う。文化祭は……それぞれのクラスの出番が終わったら一緒に回る約束してるから行きたいけど、だけどどんな顔して行けば良いんだ!

「め、迷惑だった……?」
「違うよ! その、迷惑とかじゃなくて! 僕の気持ちの問題ってだけなんだけど、ほんと! ほんとに!」
「いやでも、俺はその」
「大丈夫! わかってる! ちゃんとわかってるから!」

 むしろ迷惑なのは萩ちゃんでしょ?! 僕、萩ちゃんの友達みたいに明るい感じでもないし、ほんと勉強だけだし、それにしたってそこまですごいわけでもないし!

「ちょ、ちょっと待って夜宵。お前、え? わか、わかってんの?!」
「わかってるよ、そりゃ」
「嘘、俺そんな、わかりやすかった?! え? 嘘」
「だ、だって、普段から……」

 わかってる。普段から僕がそう言ってるから、萩ちゃんはなんてことないと思って選んでくれたんだろうって。それに関しては僕が悪い。

「え、ちょ、てことは、その、夜宵は、その、なんていうか。俺のこと、その、き、嫌いなん……?」

 何言ってんの――?!
 萩ちゃん何言ってんの――?!
 
 むしろ好きだよ!
 僕は毎時間毎秒好きって叫びたいくらい君のことが好きだよ! 嫌いになることなんて未来永劫絶対にないよ! あり得ないよ! だけど僕は男だから。萩ちゃんの言う『好き』とは絶対に違う意味合いのやつだから。

 え、ちょっと待って。
 泣いてる! 萩ちゃんが泣いてる!? えっ、これ僕が泣かせたの!?

「えぇぇっ!? は、萩ちゃん? どうしたの!? 何で泣くの?!」
「だ、だって、そういうことだろ、お前」
「そんなことないよ! どうしてそうなっちゃうの?!」
「だって、全部わかってるんだろ。わかってて、聞きたくないんだろ」
「そ、そりゃそうだけど……。だって、僕にも一応、その、なけなしのプライドってものが……」

 上にばっかり伸びて、だけど筋肉なんてちょこっとしかつかなくて、ひょろひょろの僕だけど、それでも、男であることには変わりないし、好きな子のことはバシッと守りたい願望だってある。だけど、そんなの叶いそうにもない夢だってこともわかってる。だけど、僕にだって、一応男のプライドってやつくらいはあるんだ。……ちっちゃいけど。

 すると、萩ちゃんが「プライド?」と首を傾げた。あ、あれ? もしかして萩ちゃん「プライド」って言葉知らない……?

「え? プライドっていうのは、日本語で言うと、自尊心とか、誇りとかそういう意味で――」
「違くて。それくらいわかるよ俺だって」
「ご、ごめん」
「そうじゃなくてさ。そこまで夜宵のプライドを傷つけるようなやつなのかよ」
「え?」
「だとしたら、やっぱり夜宵は俺のこと、嫌い――まではいかなくても、好きじゃないってことに」
「ならないよ! 何でなると思ったの? むしろ逆だよ! 僕はいよいよ萩ちゃんに情けないやつって愛想尽かされちゃうって思って」
「何でだよ。なるわけないじゃん!」
「だって!」

 だって、萩ちゃんは恰好良いのだ。
 みんなから頼りにされて、周りを明るくして、人気者で。みんな、萩ちゃんのことが大好きなはずだ。萩ちゃんが嫌われる要素なんて一つもない。それなのに、僕みたいな鈍臭いやつが親友だなんて、マイナスにしかならないかもしれない。その上、その僕は、男なのに、萩ちゃんのことがそういう意味で好きなのだ。気持ち悪いって思うに決まってる。

 だから僕は少しでも萩ちゃんのプラスになれるような友達でいないといけないのに。何をやっても駄目だ。いつもいつも。

「良いか、夜宵。よく聞け」
「やだ。聞きたくない!」

 死刑宣告みたいなものだよ。
 僕はまだ、君と親友でいたい。
 君の汚点だなんて自覚したくない。

 思わず両手で耳を塞ぎ、目をギュっと閉じる。
 僕の耳にさえ入らなければ、聞こえていないのと同じだ。

 と。

 こわごわと、僕の手首に触れたものがある。それが萩ちゃんの指先だと気付くのにそう時間はかからなかった。だってこの場には、僕と萩ちゃんしかいない。萩ちゃんは、僕の両手首をそっと掴んできた。無理やり剥がそうとするでもなく、ただ、優しく握っている。次いで、僕の額に、こつん、と柔らかいものが触れた。目を瞑っててもわかる。これは、萩ちゃんの髪だ。萩ちゃんの髪は、猫っ毛で柔らかいのだ。手首と額から、じんわりと温かさが伝わってきて、力が抜ける。わずかに生まれた隙間に、萩ちゃんの優しい声が届く。

「お願い。ほんとに、夜宵を傷つけたいわけじゃないんだ。ただ俺は、『大切な人』って書いてあったから、そんなの、夜宵しかいないって思って」

 ――は?
 
 え、いま、え? 何? なんて?
 萩ちゃんいまなんて? いま『大切な人』って言った?!

「た、『体育の苦手な人』、じゃなくて……?」
「え、違うけど。何? お前、そんなお題だと思ってたのかよ!」
「だっ、だって、絶対眼鏡だと思ってたら、高野君じゃなくて僕だったし、それで、『たい』から始まる言葉なんて言ったら、もう『体育の苦手な人』しか浮かばなくて……!」
「そんなわけねぇだろ! お前、体育の成績なんぼだよ!」
「四だけど」
「四取れるやつは苦手じゃねぇんだよ!」
「だって、それは筆記で……」
「筆記だけで取れるか!」

 なぁんだ、と一気に力が抜ける。口から魂も出てしまいそうだ。

「し、しかし、アレだな! 俺達、マジで馬鹿みたいだな! ハハハ!」

 しんと静まり返った保健室に、萩ちゃんの明るい声が響く。

「そうだね、馬鹿みたい。お互い勘違いして。でも、僕の方が馬鹿だね。萩ちゃんのこと疑うなんて」
「そうだぞ、俺を疑うなんて」
「ごめん。もう疑わないよ。萩ちゃん、僕のこと大切に思ってくれてるんだね」
「ンッ、お、おう! もちろんだよ! だ、大事な親友だしな!」

 親友、の言葉が胸に刺さる。
 そうだよね。萩ちゃんは、親友だと思ってくれてるんだよね。

「……だよね。僕もそう思ってる。僕も萩ちゃんのこと、大切に思ってるよ」
 
 ただ、僕の方は『親友』だけじゃないんだけどさ。それが言えたら良かったのに。でもきっと、言ってしまったら、僕らはもう親友にすら戻れなくなっちゃうだろう。それが怖い。
「寿都先生、出番です! 暴動を止めてこい、行けぇ、体育教師ぃ!」

 ビシッ、とグラウンドを指差すと、ムキムキ体育教師寿都は「おう!」と元気よくそれに応えて数歩走り出してからくるりと振り向き「いまお前、俺に命令した?」と尋ねて来た。気づくの遅くね?

「気のせいじゃないですかね。ご武運を」

 敬礼をして送り出すと、少々腑に落ちない表情をしていたが、それでも暴動は止めねばならんと思ったのだろう、首を傾げつつも走っていった。

 すげぇ、「コラーお前達ー!」って拳を振り上げながら走る人って、令和の時代に実在するんだ……などと感心している場合ではない。駒其の一を動かしたから、次は其の二を動かさねばならないのだ。

 こんな時のために、俺は職員間の『緊急校内放送』をチェック済みなのである。というか、放送に携わる人間は大体知ってる。もちろん、それなりに教師から信頼を得ておく必要はあるが、問題はない。何せ俺はC組学級委員長にして体育祭実行委員! 推しカプ成立のためならば己のプライベートをも犠牲にする男、遠藤初陽なのである!

「『養護教諭門別先生、グラウンド本部テントBまでお越しください。繰り返します、養護教諭門別先生……』」

 これでよし。 
 ちなみに、通常の校内放送と、緊急のそれとの違いはというと、二箇所だ。まず、『養護教諭』という部分だ。通常は『門別先生』のみである。まずここで、「緊急放送ですよ、あなたに関する緊急放送ですよ」と伝えるわけである。

 ここでズバリ「緊急放送です」と言わないのには理由があって、まだ大きな事件ではなく、職員のみで処理出来そうな場合など、「緊急」とアナウンスしてしまうことで、それを知らない生徒がパニックを引き起こす可能性があるため、速やかに校内の人間全員に知らせなくてはならない非常事態――地震や火事などを除いて、この方法が用いられる。

 それからもう一つ、『B』である。これは緊急の度合いだ。テントの番号ではない。その場合は『Bテント』になる。
 今回の門別(養護教諭)パターンだと『S』が意識不明レベルの重体、『A』は意識ははっきりしているが重症、『B』は軽症、『P』は集団食中毒である。

 まぁ、いまのところ負傷者は出ていないんだけど。ただ、白熱した生徒達が一斉に寿都に向かって行ったから、もしかして、ということもある。寿都もまさか生徒達を怪我させるわけにはいかないだろうから、防戦一方だろうし。

 おっ、来た来た。おっとり刀で門別が来た。ていうかマジで何か長いの持ってるぞアイツ。何だ? 竹刀……? あっ、職員室の前に立てかけてあるやつか! 

「鎮まれぇっ、馬鹿共ぉぉぉぉっ!」

 ――!!?

 校内一の美人教諭と名高い門別は、普段は声も細いし食も細い。もちろん身体も細くて、常に気怠げな雰囲気を纏っている、存在そのものが何となくエロい人だ。授業を担当しているわけでもないから関わる人間は少ないが、保健室でその気怠い雰囲気のまま生徒を受け入れ、数分〜数時間後に出て来たその生徒の七割は彼の虜になるという魔性の男である。打率七割バッターなんて恐ろしすぎて懐に入れない。

 そんな美人(男)養護教諭の聞いたこともない怒声である。腹から声が出まくっている。普段のあの吐息混じりのセクシーボイスはどこにいってしまったんだ。

 誰もが手を止め、ごくりと喉を鳴らして彼に注視している。その中でも全身をガタガタと震わせているのは、乱闘のど真ん中で、果敢にも生徒達を身一つで止めていた寿都だ。

「も、門別先生……!」

 青い顔で、その名を呼ぶと、それに気付いたか、門別が、すぅ、と目を細め、口元にうっすらと笑みをたたえた。『必殺・氷の微笑』だ。たったいま俺が名付けた。数人はそれにやられたらしく、うっ、と胸を押さえて悶絶してる。やめろやめろ、これ以上俺を忙しくするな。それにハーレム展開は管轄外なんだ。俺は一対一の幸せ甘々なイチャラブカップル派なんだ。いろんな生徒をとっかえひっかえする噂があるようなセクシー養護教諭は及びではないのである。それはR18もOKのところでやってくれ。

「寿都君、君ですか」
「ち、違う! 俺じゃない! 俺はむしろこの暴動を止めようと……!」

 ぷるぷると小刻みに震えながら首を横に振る寿都は、何だかいつもより一回りは小さく見える。縮んだ? すると門別はその辺にいた放送委員に「そこの君」と声をかけた。

「は、はいっ!」
「寿都先生が言ったことは本当ですか?」
「そ、そうです! 寿都先生は、暴動を止めようとしてましたぁ!」
「よろしい。まぁ、許してあげましょう。全員速やかに持ち場に戻れぇ! 体育祭を続行する! 寿都君はこちらへ来なさい」
「ひ、ひえぇ」
「返事はぁっ!」
「は、はいぃ!」

 何だ、そういうプレイか? いやいや、こいつらに構っている場合ではない。俺には推しカプ誕生の瞬間を見届ける義務があるのだ。悪く思うな寿都。どうせお前ら早晩デキるんだろ? 俺が手を下さずともさ。

 残念ながら、俺の特殊スキル・地獄耳に入ってきたのはそこまでだった。この後教師二人が別室に消えようが、そこでどんなアレコレが展開されようが知ったことではない。いまの俺は、友のために走るメロスだ。待ってろよ、セリヌン&ティウス!
 なるべく音を立てないように校内を走り――というか、保健室は玄関から近くにあるため、そこまで長い距離でもないんだけど、とにかく急いだ。あいつら以外に保健室を利用しているやつはいないはずだ。保健室といえば、当然ベッドもカーテンもばっちり揃っている。具体的にナニをとは言わないが、何かが三段飛ばしでおっ始まってる可能性だってある!

 あるよな!?
 お前達もういい加減にしろよ!?

 神田は足首をやっちゃってたみたいだし、そこのお触りから何かが始まれよ!

 呼吸を整えて、戸に耳をつける。精神を統一すれば、どんな囁き声だって俺には聞こえる――はずだ。

「あのさ、さっきの続きなんだけど」
「さっきのって?」
 
 さっきのとは何だろう。
 頭上に疑問符を浮かべつつ、その続きを待つ。

「その、借り物のお題。あれは――」
「ま、待って萩ちゃん! 良い良い、言わなくても! もうわかってるから!」

 成る程、借り物の札の話題だったんだな。そんで、いつものように邪魔が入った、と。そして、どういうわけだか神田はそれを知っている。なぜ知っているんだ。あいつ普段はめちゃくちゃ鈍感なのに、どうしてそんな鋭いんだよ。
 
「え? 何で? わかってるって、え?」

 うん、南城の動揺も最もだ。うん、俺も同じ気持ち。

「なんていうか、その、それを聞いたら何か立ち直れない気がして」
「えぇっ!?」 

 えぇっ!?
 
 いや、これアレだ。
 確実に神田は何か勘違いしてるな。
 そうだなぁ、神田が立ち直れないと思うようなお題と考えると――。

 体育が苦手とか、その辺りだろうか。体育も『たい』から始まるしな。南城が『たい』まで言いかけたところで邪魔が入り、神田が勘違いした可能性は大いにあり得る。あいつ、勉強は出来る癖にその辺がとにかく馬鹿だから。そう仮定すると、

「ごめん、なんて言ったら良いのかわかんないんだけど、その、たぶん、萩ちゃんが思ってる以上にダメージを受けることになりそうっていうか」

「違うよ! その、迷惑とかじゃなくて! 僕の気持ちの問題ってだけなんだけど、ほんと! ほんとに!」

 神田のこの反応も、頑なに聞きたがらないのも納得だ。うん、今回も底なしの馬鹿だな。

「え、ちょ、てことは、その、夜宵は、その、なんていうか。俺のこと、その、き、嫌いなん……?」

 ぉおっとぉ!? 南城が拗らせたァ――! どうしてそうなる!? いや、むしろそうなるのか!? しかしこれは案外良いパスかもしれない! 違うよ、好きだよ、とかそんな感じのことを言えぇぇぇ!

 そこからは、嫌われていると勘違いした南城と、それをなだめようとする神田の、全くかみ合ってはいないけど、第三者からしてみれば「お前らそれはもうほぼほぼ告ってるからな?」というツッコミ待ちなんじゃないのかって思えるような応酬が続いた。

 えぇ、どうすっかな、これ。
 もう俺が乗り込んで、解説した方が良くないか? 保健室ってホワイトボードくらいあるよな? 

 そう思って、腰を浮かせた時。

「お願い。ほんとに、夜宵を傷つけたいわけじゃないんだ。ただ俺は、『大切な人』って書いてあったから、そんなの、夜宵しかいないって思って」

 おっ?!

 南城?!
 南城お前、そういうこと言えんの?!
 どう出る?! どう出るんだ、神田ァ! もうお前にかかってるぞ、ここは!

「た、『体育の苦手な人』、じゃなくて……?」

 ビンゴ――!
 いやもう俺すごくね? 逆に俺がすごくね? 『名探偵・遠藤初陽』爆誕してね? おいやめろ話のジャンル変わるだろうが! 

「え、違うけど。何? お前、そんなお題だと思ってたのかよ!」
 
 全くだよお前!

「だっ、だって、絶対眼鏡だと思ってたら、高野君じゃなくて僕だったし、それで、『たい』から始まる言葉なんて言ったら、もう『体育の苦手な人』しか浮かばなくて……!」
「そんなわけねぇだろ! お前、体育の成績なんぼだよ!」
「四だけど」
「四取れるやつは苦手じゃねぇんだよ!」
「だって、それは筆記で……」
「筆記だけで取れるか!」

 南城のツッコミが冴えわたる。今日のお前、多方面で大活躍だな。MVPだわ。マジで。

 まぁでも、誤解も解けたことだし、ここからはゆっくり気持ちを確かめ合えば良いだろう。さすがに邪魔も入らないだろうし、ベッドも存分に使え。代表リレーの時間には呼びに来てやるし、こっそりシーツも替えてやるから。

 カップル成立の瞬間を見届けたい気持ちもあるが、場所も場所だ。告白と同時に何やらが始まる可能性もあるし、さすがにその辺を出歯亀する趣味はない。結果だけでも後で教えてくれよ。

 ハッピーエンド請負人はクールに去るぜ。

 多少後ろ髪を引かれる思いもあったが、振り切って立ち上がる。

 と、そのタイミングで、引き戸が勢いよく開いた。

「よーし、騎馬戦頑張るぞー!」
「おう、無理すんなよ! ――って、あれ、遠藤?」
「ほんとだ。遠藤君、どうしたの、こんなところで」

 何とも晴れやかな顔をした二人である。神田に至っては拳まで振り上げている。お前そういうことするんだな。意外だわ。

「え。お前ら、何で」
「何でって、何のこと?」
「え? だって神田、お前足は?」
「軽く捻っただけだから大丈夫だよ。ガチガチにテーピングしてもらったし、騎馬戦って言っても、僕は作戦上、一番後ろにいるだけだから」
「へ、へぇ……」

 ぎっちり固定しているせいで多少歩き方はぎこちないものの、それでも案外しっかりとした足取りで、玄関へと向かう神田と、その肩をちゃっかり支える南城。さっき漏れ聞こえた会話からして、決定的な一打があったわけではないにせよ、ほんのわずかに進展した気がする。もうこいつらは牛歩なのだ。いや、牛に失礼かもしれないな。牛の歩みより遅い。


 結局、どこからどう見ても弱そうな神田(ヒョロ眼鏡)を大将を据えた白組だったが、口に出すことも憚られるほどのエグい戦術により、あっさりと赤組を撃破した。足を負傷している神田は、定位置から動かず、眉一つ動かさず、ただただ笛の音だけで騎馬達に指示を出していて、その様が、昔の戦争映画に出て来る独裁者のようで、応援席は震え上がったものである。そんな中でも南城だけは「さすが夜宵だ! すっげー! 角田瞬殺じゃん! あっはっは!」と馬鹿みたいにはしゃいでいたが。気持ちはわかるけど、お前、敵チームだからな? 指差して笑うのやめてやれよ。

 赤組の大将である角田が、目も当てられないくらいに凹み、同じクラスの兎崎にさんざん馬鹿にされていたのが印象的だった。

 ちなみに、代表リレーは南城がぶっちぎりの一位でゴールし、それを誰よりも喜んだ神田が「貴様敵チームを応援するなんて!」と皆から責められたものの、「お前ら夜宵に何すんだよ」と未来の彼氏が助けに来るという茶番もあった。

 良いからはよ付き合え。

 その場の全員の心が一つになり、そうして体育祭は幕を閉じたのである。

 結果はまさかの引き分けだった。
 現場からは以上です。


★次回予告★
 ついに来た文化祭!
 なんやかんやで白雪姫を演じることになった二人!(他クラスなのにね)
 ヤハギ王子はヤヨイ姫を口づけで目覚めさせることは出来るのか!?
 あと一歩の勇気が出ないその時、DJポリス・遠藤が動く!

 次回、『なんやかんやで文化祭を楽しむ二人・白雪姫編』!
 ご期待ください!
 体育祭も無事終わり、文化祭である。

 なんやかんやで俺はいま、コテコテの王子衣装に身を包み、ダンボールで作られた棺の中を覗き込んでいる。王子様が棺を覗き込む、でもうおわかりだろう、白雪姫である。いや別に、白雪姫は王子が棺を覗き込む話ってわけじゃないけど。だけど白雪姫以外に王子が棺を覗き込む話ってあるか? 少なくとも、俺は知らない。――眠れる森の美女? いやあれはベッドで寝てるやつだろ? 生きてるから。棺に入れんな。

 男子校の――しかも一般公開している文化祭というのは、とりわけ、近くにある女子高や共学校の女子生徒を意識しまくった催し物が多い。いくら同性カップルが多い我が校とて、やはり大半は女子が好きなのである。明らかに女子受けを狙ったであろう『執事喫茶』や『女装喫茶』、それからズバリそっち方面の受けを狙った『BL喫茶』なんてものもあるらしい。喫茶店がとにかく多い。ここはフードコートか。

 それで、だ。
 
 こんなにも何らかの変わり種喫茶店が乱立する喫茶店競合区において、俺のクラスは何をしているかというと、見ての通り演劇だ。別に競っているわけではないにしろ、出てきた案はことごとく何らかの喫茶店と被っていたため、そっち方面はすっぱり諦めたのである。
 じゃあ何をするかという話になった時、遠藤(委員長)が立ち上がった。

「いっそ演劇をやろう! 演目は白雪姫だ!」

 ウチのクラスにはちょうど演劇部が数人いるのだが、部員数の少なさから今年は部としての活動が出来ないらしい。それを知っていた遠藤が同情して発案したという流れのようだ。言い出しっぺだからと、脚本家兼監督を務めるとまで言い出し、クラスメイトはもちろん担任の度肝を抜いた。あいつ、マジで多才だな。

 シーンはいよいよクライマックス。毒林檎で倒れた姫にキスするシーンである。その棺の中にいるのは、美術室にある石膏像か人体模型――のはずだった。もちろん白雪姫は白雪姫でいるのだが、このシーンだけは、その後の演出の兼ね合いと、あと普通に男同士でキスとか演技でもしたくないし、フリだとしても嫌だ、と俺が駄々をこねたために、石膏像か人体模型になる予定だった。俺は頼むから石膏像にしてくれ、とお願いした。

 なのに、当日の土壇場になって急に遠藤(監督)が言い出したのである。

「この劇にはリアリティが足りない!」と。

 だとしたら脚本の段階で気付け。当日に気付くな。

 そんなことを言われても白雪姫役の角田ははっきり言ってウケ狙い白雪姫なので、ゴリゴリマッチョの空手部だ。何なら最後、王子()を軽々とお姫様抱っこして退場することになっている。そんなやつにいまからキスしてくださいと言われても、絶対に嫌だ。いや、角田じゃなくても嫌だけど。というか、夜宵(好きなヤツ)以外は絶対に嫌だ。

 という俺の思いが通じたのか。

 クラスの仕事(夜宵のクラスのA組はさすが特進クラスだけあって、何かよくわからない文豪だの何だのの展示だった)を終えた夜宵を「ちょうど良いところに来てくれた神田! なぁお前この後二時間くらいあいてない?」と無理やり引っ張って来て予備のドレスを着せ、「何もしゃべらなくて良いから、ここに寝て、ずっと目を瞑っててくれ!」と、断る隙も与えずに棺の中に寝かせてしまったのだとか。もちろん眼鏡も没収だ。

 お前夜宵に何てことさせてんだ!

 いや、正直、グッジョブとしか言いようがない。
 遠藤、お前なんかよくわからないけど、すごいな。もしかして俺の気持ち知ってたりする? なわけないか。

 とにもかくにも、ダンボールで作られた棺の中には、じっと目を瞑ってこちらのアクションを待っている夜宵がいる。客席からは見えないはずなんだけど、ロングヘアのウィッグまで被せ、ご丁寧に軽くメイクまでさせて。ええと、普通に可愛いです。脳が混乱する。えっ、マジで普通に可愛いんだけど。こんな可愛い夜宵が、まさにキス待ち顔で横たわっている。いや、本当にするわけじゃないんだけど。

 ないんだけど。

 ……しても良くね?

 り、リアリティ!
 だってほら、リアリティを追求した結果だから!
 俺ってそういうところ本格志向だから!

 だけど、夜宵の了承もなしにやってしまって良いのだろうか。これで嫌われたりなんかしたら、俺もう生きていけない。俺は良くても夜宵は嫌だよな、男とキスなんて。
 
 まずい。
 客席がざわつき出した。
 そりゃそうだろう。「あぁ姫よ! どうか私の口づけで!」って叫んで棺の中に顔を突っ込んだ王子が微動だにしないのである。何らかのトラブル発生ではと思うところだ。するにせよ、したことにするにせよ、いずれにしても、動かなくてはならないのである。

 だけれども、勇気が出ない!
 出ないんだったら、したことにして顔を上げ、舞台袖に控えている照明担当にアイコンタクトすれば良いのだ。そうすれば暗転からの棺撤収、ムキムキマッチョの角田白雪姫がじゃじゃーんと現れる手筈になっている。

 だけど、こんなチャンス、二度と来ない!

 どうする。悩む時間はない! だけれども勇気が出ない!

 と、

『話は三週間ほど前に遡る――』

 !!?

 こ、これは、遠藤の声!?

『狩りの途中で道に迷ったヤハギ王子は、どこからともなく聞こえてくる美しい歌声に馬を止めた』

 遠藤!
 お前! 劇中では一切語られていないエピソードをアドリブで――!?

 なんかお前、俺へのサポートが手厚いな! 俺前世でお前のこと火事場から救ったりしたっけ!?

『ら゛~ら゛ら゛~ら゛ら゛ら゛~♪ る゛る゛~る゛る゛る゛~♪』

 ちょっと待て。それ白雪姫の歌!? そこまでいる!? あのさ、助けてもらっといてこんなこと言うのもなんだけど、お前の歌、下手(ジャイアンリサイタル)なんだよ。あぁもう、客席が別の意味でざわつき出したぞ。

 いや、遠藤の歌に色んな意味で聞き入っている場合ではない。友が時間を稼いでくれているうちに覚悟を決めるんだ!

 夜宵ごめん。
 これはその、演技のやつだから。リアリティを追求した、その、アレだから!

 棺の縁に手をかけ、ぐ、と身を乗り出す。

 と。

「!?」

 夜宵の手が伸びて、衣装の襟を掴まれた。
 閉じられていた瞳が、うっすらと開く。そしてうんと密やかな声で、夜宵は言った。

「良いよ」
「い、良いよ、って」
「しても、良いよ」
「や、やよ――」