何とかお姫様抱っこをやめて、おんぶにしてもらい、しんと静まり返った廊下を歩く。萩ちゃんの体温と、規則的な揺れが心地よく、そんな場合じゃないとわかっているのに、ちょっとうとうとしそうになる。

 だけどさすがにここで寝るわけにはいかない。何か、会話でもしないと。そう考えた時に、ふと浮かんだのは、借り物の札だ。あれは本当に『眼鏡』、ないしは『眼鏡をかけた人』だったのだろうか。まぁ、十中八九そうだとは思うけど。だってそうじゃなきゃ僕を選ぶ理由がない。

 でも実はあの場には、高野君という陸上部の眼鏡君がいたのだ。陸上部は代表リレーや徒競走に出られないという制限はあるが、時の運の要素がある借り物には出られる。だからもちろん、借りられる側でもOKのはずだ。

 それなのに萩ちゃんは僕を選んだ。すごく嬉しかったけど、でも、本気で一位を取ろうと思ったら、確実に僕ではないはずだ。それが気になって。もしかしたら、高野君の眼鏡では駄目だったのかもしれない。彼のは太めの黒縁だし。そういうことだろうか。いや、そんな細かい指定あるかな?

「借り物のお題って、やっぱり『眼鏡をかけた人』だったの?」

 そう尋ねると、萩ちゃんは、何だかものすごく動揺した。

「――ウッ、え、えっと、何でそんなこと聞くんだ?」
「いや、もしそうなら、近くに陸上部の高野君もいたから、どう考えてもあっちを選ぶべきだったんじゃないかな、って。いまさらだけど」
 
 高野君は身長だって萩ちゃんと同じくらいだし、足も速い。絶対に彼の方が走りやすい。

「や、やだった……よな? 俺ちょっと強引だったかも、だし。結局、怪我もさせちまったし。お姫様抱っことか恥ずかしかったよな。ごめん、マジで」

 えっ、うわ、どうしよ。この反応は想定外だった! 違う! そうじゃないんだよ萩ちゃん!

「ちっ、違っ! やじゃない! 嫌とかそういうことじゃなくて! 同じ眼鏡なら、僕より高野君の方が速いから、そっちの方が良かったんじゃないかと思って、それで。結果的に一位だったから良かったけど、僕は、萩ちゃんに一位取ってほしくて、だけど僕ならきっと足手まといになっちゃうから。でも」

 萩ちゃんの背中が小さく震えていたから。
 彼を悲しませてしまったと焦って、僕はどうにか気持ちを伝えねばと、言葉を並べた。

 でも。
 でも、僕はね。

「僕を選んでくれたの、嬉しかった。ほんとは最後まで萩ちゃんと二人三脚で一緒に走りたかった」

 別に最後の体育祭ってわけじゃない。だけど、もしかしたら来年は『誰かの萩ちゃん』になってるかもしれない。僕は、萩ちゃんとの、どんな一瞬もほしいんだ。どんな些細なことでも、誰のものにもなってない萩ちゃんとの思い出がほしかった。

「だけど、僕の方こそ、ごめん。僕はいつも肝心な時に駄目だね」

 中学生の頃、流星群がすごい年があって、僕達はそれぞれの両親から承諾をもらい、二人で家の裏にある公園にテントを張ってお泊まりする計画を立てた。その時も、僕は楽しみすぎて熱を出し、結局それは叶わなかったのだ。

 だけど萩ちゃんは、

「大丈夫、俺に任せろ!」

 そんな頼もしいことを言って、一人で計画を遂行し、流星群をテレビ電話で見せてくれた。病人なのに夜更かしさせてごめんなんて済まなそうに笑いながら。画質の悪いキッズスマホでは流星群なんてほとんど見えなかったけど、たった一人で深夜の公園なんて心細かっただろうに、萩ちゃんは僕のためにしてくれたのだ。

 萩ちゃんはいつだって優しい。僕はその度に萩ちゃんを好きになって、好きの気持ちを濃くしてしまうけど、同時に虚しくもある。どうして僕は女の子じゃなかったんだろう、って。僕が得られるのは、萩ちゃんの背中の体温がギリギリだ。そんなことを考えると、鼻の奥がつんとしてくる。もう高校生なのに、どうして僕はすぐ泣いてしまうんだろう。

「駄目じゃねぇよ。これからもいつだって走れば良いじゃんか」
「体育祭でもないのに? 二人三脚?」
「良いじゃん。流行らせようぜ」
「あはは。流行るかな」
「流行る流行る、大丈夫」

 やっぱり萩ちゃんは優しい。
 僕のこんなワガママも聞いてくれる。だからもしかして、僕が好きって伝えても、俺も好きだよ、なんて笑ってくれるんじゃないかなんて期待してしまうんだ。君と僕の『好き』は絶対に違うのに。

「夜宵、あのさ」

 保健室に着き床に下ろしてもらうと、萩ちゃんが何やら神妙な顔つきで「あの、借り物のお題なんだけど」と言った。何だかものすごく言いにくそうだ。何だろ。

「眼鏡じゃないんだ。眼鏡をかけた人でもない」
「そうなんだ、じゃあ、何だったの?」
「あれは、その、たい――」

 たい、の続きは、引き戸の開く音で消されてしまった。たい……、たい? 『たい』から始まる、僕に関する言葉って何があるかな。しかも、萩ちゃんのこの表情からして、たぶん僕にはすごく言いづらいやつだ。

 あっ! もしかして『体育が苦手な人』!? だとしたら高野君ではない、確実に! あーもー絶対に僕だよそれなら。うわぁ、萩ちゃん、それならもう言ってくれなくても良いよぉ。あぁ、ショックだなぁ。自覚はしてるけどさ。

 戸を開けて現れたのは、この保健室の主、門別先生だ。北海道出身で、肌の色が雪のように白い。背が高くてモデルみたいな体型をしていて、肩まである髪をいつも後ろで束ねている。『門別』というのは北海道の地名で、確か日高の方にある町の名前だったはずだ。血圧が低いらしくて、いつもなんだか気怠そうにしているのだが、それが妙に色気があるとかで、僕のクラスでも密かに人気だったりする。ええと、もちろん、そういう意味で。まぁ、男子校だしね、うん。

「こんなところで何をしているんです? 怪我ですか? それとも体調不良ですか?」

 僕は門別先生と萩ちゃんが話しているのを他人事のように見つめていた。最早足の痛みとか、そういや頬も擦りむいてたっけなとか、そんなことはどうでも良くなってた。それよりも、萩ちゃんに『体育が苦手な人』と思われていたのが悲しくて。まぁ、普段からさんざん苦手苦手って言ってるのは僕なんだけどさ。萩ちゃんから言われるとダメージが尋常ではない。

 どうしました? と名前を呼ばれ、捻った左足を軽く持ち上げてから、入室しようとひょこひょこ歩く。途中から先生に身体を支えられたりして。僕が言うことではないけど、門別先生、めちゃくちゃ細いのに、案外力持ちだ。

 先生は萩ちゃんにグラウンドへ戻るように言い、引き戸に手をかけた。ここの引き戸は、どんなに勢いをつけても、閉まる直前にブレーキがかかって静かに閉まるようになっている。また、軽くでも動かしさえすれば、最後まで勝手に閉まる。僕らが入学するずっと前に、勢い良く閉めた引き戸で生徒が指を切断するという痛ましい事故が起こったらしく、それ以来、校内の引き戸はすべてこのタイプになったのだそうだ。

「おや、頬も擦りむいているではありませんか」

 その引き戸が勝手に閉まり切る直前、先生の指が僕の頬をなぞった。痛みはなかったので、擦りむいた箇所に触れたわけではないらしい。結構酷いですか? と尋ねると、「全然?」と意味ありげに笑い、引き戸にちらりと視線を向けた。

「ただまぁそのきれいな頬に傷でも残れば大変です。消毒しましょう。若いからと言って過信せず、お肌は大事にするんですよ」

 私なんて若い頃遊びすぎてもうボロボロですよ、なんて笑いながら処置の準備をする門別先生は、イメージよりもずっと気さくだった。全然ボロボロじゃないし。

「だいたい、秋だって紫外線は強いんです。なのに君達はろくに日焼け止めも塗らずに……。日焼けを気にするなんて男らしくないとか言う人もいますけど、五年後、十年後に後悔するのはそういう人達なんですからね」

 ぶつぶつとそんなことを言いつつ、沁みても我慢ですよ、と頬を消毒してくれる。

「先生は日光アレルギーだと伺いましたが」

 処置が終わった後で、そう尋ねてみる。すると、先生は何やら驚いたような顔をしてから、ふるふると首を振った。

「そこまでではないです。ただ、日に焼けると、真っ赤になって酷いんですよ。ですので、外へ出る時はなるべく肌を出さないようにしているわけです。それに――」

 あまり露出するとうるさい人もいますから、と、何やら遠い目をして言う。僕の肩越しに、誰かを思い浮かべているようだ。たぶん、恋人だろうな。恋人の肌を見せたくないなんて、随分と独占欲がある彼女さんのようだ。まぁ、門別先生はきれいな人だし、それがこんなむさ苦しい男(僕らも含めて)しかいない職場で働いているのだから、何かと心配なのだろう。現にそういう目で見ている生徒はいるし。

 その後は足首に湿布を貼ってもらい、とりあえず今日一日様子を見て、腫れて来たり痛みが強くなったりしたら病院へ行くように、と指示を受けた。あとはこの湿布の上からテープを、という段になって、

『養護教諭門別先生、グラウンド本部テントBまでお越しください。繰り返します、養護教諭門別先生……』

 校内放送だ。
 この声は……遠藤君?

「おや、どうしたんでしょう。神田君、申し訳ありませんが、誰か代わりの人を呼んできますので、待っててもらえますか? あとはテーピングだけですから」
「あ、はい、大丈夫です」

 台の上にある紫外線対策セットらしきもの達に目もくれず行こうとするその背中に、「良いんですか、何も着けないで」と声をかけると、

「緊急性の高い呼び出しですから」

 と返して、カーテンの向こうへ行ってしまった。そういえば、お姉ちゃんが昔働いていたスーパーでは緊急性の高い店内放送は、従業員にしかわからない独特の言い回しがあると言っていたっけ。たぶんさっきのにも何か、そういうキーワードが含まれていたのだろう。

 カーテンの向こうで何やら話し声が聞こえてくる。萩ちゃんの声だ。まだいたんだ。どうしたんだろう。

 そんなことを考えていると、「夜宵、テーピング、先生に頼まれたんだけどさ。開けるな?」とそれは再び開かれた。