靴を履き替え、夜宵を背負ってペタペタと廊下を歩く。
お姫様抱っこからおんぶに切り替えたから、まぁぶっちゃけかなり楽ではある。夜宵は俺より身長があるけど、どう考えても体重は俺よりもない。とはいえ、背負ったまま階段を上るのは厳しいと思っていたので、保健室が一階にあって本当に良かった。
「そういえばさ」
夜宵がぽつりと言う。
「何」
「借り物のお題って、やっぱり『眼鏡をかけた人』だったの?」
「――ウッ、え、えっと、何でそんなこと聞くんだ?」
「いや、もしそうなら、近くに陸上部の高野君もいたから、どう考えてもあっちを選ぶべきだったんじゃないかな、って」
いまさらだけど、と、気持ち寂しそうな声で言うものだから、もしかして迷惑だったんじゃないかと思って、嫌な汗が流れる。
「や、やだった……よな? 俺ちょっと強引だったかも、だし。結局、怪我もさせちまったし。お姫様抱っことか恥ずかしかったよな。ごめん、マジで」
怪我までさせて、さらにはお姫様抱っこだもんな、どんな辱めだよ、って。うわぁ、俺もう最低じゃん!
「ちっ、違っ! やじゃない! 嫌とかそういうことじゃなくて! 同じ眼鏡なら、僕より高野君の方が速いから、そっちの方が良かったんじゃないかと思って、それで。結果的に一位だったから良かったけど、僕は、萩ちゃんに一位取ってほしくて、だけど僕ならきっと足手まといになっちゃうから。でも」
でも、と繰り返して、夜宵が、俺の肩をぎゅっと掴んだ。
「僕を選んでくれたの、嬉しかった。ほんとは最後まで萩ちゃんと二人三脚で一緒に走りたかった」
あぁだから夜宵は、足の痛みを黙ってたのか。
「だけど、僕の方こそ、ごめん。僕はいつも肝心な時に駄目だね」
そんなことを言って、弱い声で笑う。ぐす、と鼻を鳴らす音が聞こえた。もしかしたら泣いているのかもしれない。
夜宵は、昔、結構泣き虫だった。もう引っ越したけど、近所にガキ大将みたいなのがいて、夜宵はそいつに目をつけられていたのだ。そいつに泣かされる度に俺が飛んでいって、夜宵の仇を討つ。俺は悪者からお姫様を救うヒーローだった。きっとその時から、俺は夜宵が好きだったんだと思う。
「駄目じゃねぇよ。これからもいつだって走れば良いじゃんか」
「体育祭でもないのに? 二人三脚?」
「良いじゃん。流行らせようぜ」
「あはは。流行るかな」
「流行る流行る、大丈夫」
夜宵が笑ってくれたことにホッとする。二人三脚が本当に流行るかは別として。
保健室の前まで来て、足を止める。本来、体育祭なんていう屋外イベント時には専用のテントを張って、養護教諭を常駐させるものだと思うのだが、ウチの学校は保健室が一階にあることと、グラウンドへの出入り口から近いという理由でそれをしないのである。噂によると、養護教諭の門別が日光アレルギーで、外に出たがらないとか何とか。本当だろうか。噂レベルの話ではあるが、確かに門別は夏でも長袖を着ていて、通勤時には日傘を差して首にはストール、それから手袋、さらにサングラスである。信憑性は高い。
それは置いといて。
「夜宵、あのさ」
その場に腰を落とし、慎重に夜宵を床に下ろす。
多少バランスを崩してよろけたのを支えてやると、左足を軽く浮かせて、身体を少し右側に傾けて立った。
「何?」
「あの、借り物のお題なんだけど」
「うん」
「眼鏡じゃないんだ。眼鏡をかけた人でもない」
そうなんだ、じゃあ、何だったの? と夜宵が首を傾げる。柔らかい黒髪が、さら、と流れた。
「あれは、その、たい――」
大切な人、と、言う前に、保健室の引き戸が開いた。
「こんなところで何をしているんです? 怪我ですか? それとも体調不良ですか?」
門別である。
むしろこっちの方が病人なのでは? と思うくらいに、いつも気怠そうで、何となく顔色が悪い。本人は、ただ低血圧で色白なだけと言っているけど、開いた戸に凭れかかるようにして立つ姿を見ると、何だか本当に気分でも悪そうに見えてしまう。けれど、長身でモデル体型且つ美形で、妙な色気があるため、一部の生徒からはものすごく人気があるのだ。ええと、ウチは男子校なんだけど。まぁそういうことである。これもあくまでも噂だが、言い寄ってくる生徒に対し、据え膳食わぬは男の恥、などと言ってちょいちょいとつまみ食いしている、なんてことも聞く。
「君ですか? 南城君」
「いえ、俺じゃなくて、こっち。やよ……神田です」
「あぁ、神田君の方でしたか。いらっしゃい。どうしました?」
左足を、と言いながら、ひょこひょこと歩く。肩を貸そうかと手を伸ばすと、「大丈夫、私が」と遮られた。何かもう、これぞスマートな大人、みたいな動きで、サッと夜宵の肩を抱く。何だよこいつ、慣れてんな。
「南城君はもう戻っても良いですよ。君は出番が多いんじゃないです? 体育では大活躍ですもんね」
「あぁ、まぁ……よくご存知で」
「ここは生徒数もそう多くありませんし、あなたは有名ですから。神田君は……この後、何の競技に出るんですか?」
「えっと、玉入れと、騎馬戦に」
「玉入れは……飛び跳ねるのは危険ですね。ただまぁ騎馬戦の方は、ガチガチにテーピングして、上に大人しく乗ってるくらいなら、イケるかもしれませんが……。とりあえず、診ましょうか」
そう言いながら、後ろ手で戸を閉める。途中まで閉めればあとは勝手に締まるタイプのやつだ。
それがゆっくりと完全に閉まり切る前に、慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げようとした、その時。
おや、頬も擦りむいているではありませんか、と門別の細く白い指が、夜宵の頬をなぞるのが見えた。
「ちょ」
例え擦りむいた程度でも、傷口を直接触るのはどうなのかとか、そういうことではなく、ただ単純に、ムカッとした。何勝手に触ってんだ、と。だけど相手は養護教諭である。まさか傷口を直接触るなんてことはしないだろうし、触れたとしても、きちんと消毒済みであるだろうし、それだって処置に必要なことかもしれない。それでも単純に嫉妬した。
短く発した俺の声なんて届くわけもなく、引き戸はぱたりと閉まった。別に何が起こるわけでもない。ただの処置だ。だけど、やけに手慣れた様子で肩を抱いたり、頬に触れたりしたのがどうしても引っ掛かる。もし噂が本当だったら? 噂では、言い寄ってくる生徒を――ということだったが、安心は出来ない。処置のためだとか言って、色々脱がせてあれこれするかもしれない。夜宵は美人だしな、大いにあり得る。そう考えると、あの触り方だって何かやらしいやつだった!
だけど、どうすれば。
俺も怪我するか? そんで、俺もやっちゃいました、って乗り込めば!? そうと決まれば、いっちょ派手に転んでくるか!?
保健室の前を行ったり来たりしながらそんなことを考えていると、キンコンカンコン、と校内放送が鳴った。
『養護教諭門別先生、グラウンド本部テントBまでお越しください。繰り返します、養護教諭門別先生……』
この声は……遠藤!?
一体どんなトラブルがあったのか知らんけど、何というタイミング! でかした、体育祭実行委員!
引き戸の前でしゃがみ込み、小さくガッツポーズをしていると、それは再び開かれた。門別は、戻れと言った俺がまだここに残っていることに一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの顔に戻り、「ちょうど良かったです」と言って、腰を落とした。
「南城君、テーピング出来ます?」
「はぁ、一応」
「それじゃ神田君のテーピングお願いしても良いですか? 特に問題はなさそうなので、ちょうどいま湿布を貼ったところなんです。私は、本部テントに呼ばれてしまいましたので」
「……ウス」
「頬の擦り傷の消毒は済んでます。――神田君、無茶をしないと約束出来るなら、騎馬戦は出ても大丈夫ですよ。玉入れも、棒立ちで投げられるなら構いません。まぁ、騎馬戦については早めの離脱をお勧めしますが」
室内に向かってそう言うと、再び俺の方を向いて、「よろしくお願いしますね。あまり長居はしないように」と、何やら含みのある笑みを浮かべ、意外にもしゃきっと立ち上がると、駆け足で行ってしまった。意外と機敏に動けるんだな。
サングラスとか日傘とか、良いのかな。首回りもがっつりあいてる服だったけど。
そう思ったが、黙った。
そんなことより夜宵なのだ。
引き戸は開いたままではあるが、カーテンがあるので、夜宵の姿は見えない。けれど、いまのやりとりは聞こえているはずだし、俺がここにいることもわかっているだろう。
「夜宵、テーピング……」
先生に頼まれたんだけどさぁ、と言いながら、入室し、カーテンに手をかける。一応「開けるな?」と断ってから、それをシャッと開けた。
お姫様抱っこからおんぶに切り替えたから、まぁぶっちゃけかなり楽ではある。夜宵は俺より身長があるけど、どう考えても体重は俺よりもない。とはいえ、背負ったまま階段を上るのは厳しいと思っていたので、保健室が一階にあって本当に良かった。
「そういえばさ」
夜宵がぽつりと言う。
「何」
「借り物のお題って、やっぱり『眼鏡をかけた人』だったの?」
「――ウッ、え、えっと、何でそんなこと聞くんだ?」
「いや、もしそうなら、近くに陸上部の高野君もいたから、どう考えてもあっちを選ぶべきだったんじゃないかな、って」
いまさらだけど、と、気持ち寂しそうな声で言うものだから、もしかして迷惑だったんじゃないかと思って、嫌な汗が流れる。
「や、やだった……よな? 俺ちょっと強引だったかも、だし。結局、怪我もさせちまったし。お姫様抱っことか恥ずかしかったよな。ごめん、マジで」
怪我までさせて、さらにはお姫様抱っこだもんな、どんな辱めだよ、って。うわぁ、俺もう最低じゃん!
「ちっ、違っ! やじゃない! 嫌とかそういうことじゃなくて! 同じ眼鏡なら、僕より高野君の方が速いから、そっちの方が良かったんじゃないかと思って、それで。結果的に一位だったから良かったけど、僕は、萩ちゃんに一位取ってほしくて、だけど僕ならきっと足手まといになっちゃうから。でも」
でも、と繰り返して、夜宵が、俺の肩をぎゅっと掴んだ。
「僕を選んでくれたの、嬉しかった。ほんとは最後まで萩ちゃんと二人三脚で一緒に走りたかった」
あぁだから夜宵は、足の痛みを黙ってたのか。
「だけど、僕の方こそ、ごめん。僕はいつも肝心な時に駄目だね」
そんなことを言って、弱い声で笑う。ぐす、と鼻を鳴らす音が聞こえた。もしかしたら泣いているのかもしれない。
夜宵は、昔、結構泣き虫だった。もう引っ越したけど、近所にガキ大将みたいなのがいて、夜宵はそいつに目をつけられていたのだ。そいつに泣かされる度に俺が飛んでいって、夜宵の仇を討つ。俺は悪者からお姫様を救うヒーローだった。きっとその時から、俺は夜宵が好きだったんだと思う。
「駄目じゃねぇよ。これからもいつだって走れば良いじゃんか」
「体育祭でもないのに? 二人三脚?」
「良いじゃん。流行らせようぜ」
「あはは。流行るかな」
「流行る流行る、大丈夫」
夜宵が笑ってくれたことにホッとする。二人三脚が本当に流行るかは別として。
保健室の前まで来て、足を止める。本来、体育祭なんていう屋外イベント時には専用のテントを張って、養護教諭を常駐させるものだと思うのだが、ウチの学校は保健室が一階にあることと、グラウンドへの出入り口から近いという理由でそれをしないのである。噂によると、養護教諭の門別が日光アレルギーで、外に出たがらないとか何とか。本当だろうか。噂レベルの話ではあるが、確かに門別は夏でも長袖を着ていて、通勤時には日傘を差して首にはストール、それから手袋、さらにサングラスである。信憑性は高い。
それは置いといて。
「夜宵、あのさ」
その場に腰を落とし、慎重に夜宵を床に下ろす。
多少バランスを崩してよろけたのを支えてやると、左足を軽く浮かせて、身体を少し右側に傾けて立った。
「何?」
「あの、借り物のお題なんだけど」
「うん」
「眼鏡じゃないんだ。眼鏡をかけた人でもない」
そうなんだ、じゃあ、何だったの? と夜宵が首を傾げる。柔らかい黒髪が、さら、と流れた。
「あれは、その、たい――」
大切な人、と、言う前に、保健室の引き戸が開いた。
「こんなところで何をしているんです? 怪我ですか? それとも体調不良ですか?」
門別である。
むしろこっちの方が病人なのでは? と思うくらいに、いつも気怠そうで、何となく顔色が悪い。本人は、ただ低血圧で色白なだけと言っているけど、開いた戸に凭れかかるようにして立つ姿を見ると、何だか本当に気分でも悪そうに見えてしまう。けれど、長身でモデル体型且つ美形で、妙な色気があるため、一部の生徒からはものすごく人気があるのだ。ええと、ウチは男子校なんだけど。まぁそういうことである。これもあくまでも噂だが、言い寄ってくる生徒に対し、据え膳食わぬは男の恥、などと言ってちょいちょいとつまみ食いしている、なんてことも聞く。
「君ですか? 南城君」
「いえ、俺じゃなくて、こっち。やよ……神田です」
「あぁ、神田君の方でしたか。いらっしゃい。どうしました?」
左足を、と言いながら、ひょこひょこと歩く。肩を貸そうかと手を伸ばすと、「大丈夫、私が」と遮られた。何かもう、これぞスマートな大人、みたいな動きで、サッと夜宵の肩を抱く。何だよこいつ、慣れてんな。
「南城君はもう戻っても良いですよ。君は出番が多いんじゃないです? 体育では大活躍ですもんね」
「あぁ、まぁ……よくご存知で」
「ここは生徒数もそう多くありませんし、あなたは有名ですから。神田君は……この後、何の競技に出るんですか?」
「えっと、玉入れと、騎馬戦に」
「玉入れは……飛び跳ねるのは危険ですね。ただまぁ騎馬戦の方は、ガチガチにテーピングして、上に大人しく乗ってるくらいなら、イケるかもしれませんが……。とりあえず、診ましょうか」
そう言いながら、後ろ手で戸を閉める。途中まで閉めればあとは勝手に締まるタイプのやつだ。
それがゆっくりと完全に閉まり切る前に、慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げようとした、その時。
おや、頬も擦りむいているではありませんか、と門別の細く白い指が、夜宵の頬をなぞるのが見えた。
「ちょ」
例え擦りむいた程度でも、傷口を直接触るのはどうなのかとか、そういうことではなく、ただ単純に、ムカッとした。何勝手に触ってんだ、と。だけど相手は養護教諭である。まさか傷口を直接触るなんてことはしないだろうし、触れたとしても、きちんと消毒済みであるだろうし、それだって処置に必要なことかもしれない。それでも単純に嫉妬した。
短く発した俺の声なんて届くわけもなく、引き戸はぱたりと閉まった。別に何が起こるわけでもない。ただの処置だ。だけど、やけに手慣れた様子で肩を抱いたり、頬に触れたりしたのがどうしても引っ掛かる。もし噂が本当だったら? 噂では、言い寄ってくる生徒を――ということだったが、安心は出来ない。処置のためだとか言って、色々脱がせてあれこれするかもしれない。夜宵は美人だしな、大いにあり得る。そう考えると、あの触り方だって何かやらしいやつだった!
だけど、どうすれば。
俺も怪我するか? そんで、俺もやっちゃいました、って乗り込めば!? そうと決まれば、いっちょ派手に転んでくるか!?
保健室の前を行ったり来たりしながらそんなことを考えていると、キンコンカンコン、と校内放送が鳴った。
『養護教諭門別先生、グラウンド本部テントBまでお越しください。繰り返します、養護教諭門別先生……』
この声は……遠藤!?
一体どんなトラブルがあったのか知らんけど、何というタイミング! でかした、体育祭実行委員!
引き戸の前でしゃがみ込み、小さくガッツポーズをしていると、それは再び開かれた。門別は、戻れと言った俺がまだここに残っていることに一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの顔に戻り、「ちょうど良かったです」と言って、腰を落とした。
「南城君、テーピング出来ます?」
「はぁ、一応」
「それじゃ神田君のテーピングお願いしても良いですか? 特に問題はなさそうなので、ちょうどいま湿布を貼ったところなんです。私は、本部テントに呼ばれてしまいましたので」
「……ウス」
「頬の擦り傷の消毒は済んでます。――神田君、無茶をしないと約束出来るなら、騎馬戦は出ても大丈夫ですよ。玉入れも、棒立ちで投げられるなら構いません。まぁ、騎馬戦については早めの離脱をお勧めしますが」
室内に向かってそう言うと、再び俺の方を向いて、「よろしくお願いしますね。あまり長居はしないように」と、何やら含みのある笑みを浮かべ、意外にもしゃきっと立ち上がると、駆け足で行ってしまった。意外と機敏に動けるんだな。
サングラスとか日傘とか、良いのかな。首回りもがっつりあいてる服だったけど。
そう思ったが、黙った。
そんなことより夜宵なのだ。
引き戸は開いたままではあるが、カーテンがあるので、夜宵の姿は見えない。けれど、いまのやりとりは聞こえているはずだし、俺がここにいることもわかっているだろう。
「夜宵、テーピング……」
先生に頼まれたんだけどさぁ、と言いながら、入室し、カーテンに手をかける。一応「開けるな?」と断ってから、それをシャッと開けた。