正午を迎えた空は、まだ夏の出口が見えないような、重い暑さを孕んでいた。
 真新しい緑のフィールドは、踏みしめるたびに少し沈み込み、ゴムチップが舞う。風が時折フィールドを横切り、選手たちの汗と熱気を一瞬だけ冷やしていくが、すぐにまた試合の熱に包まれる。

 「ゴール前中央、13番警戒!」

 敵ディフェンスの声が響く。密集した臙脂色の合間を縫って夏樹へと向かうパス。夏樹は、それを受け取ると無理やり体を反転させ、ディフェンスのマークを受けながらシュートを放った。しかしシュートは大きく枠を外れ、ゴール裏へ吸い込まれるように消えていった。

 「くそっ!」
 予想していた通り、関東選抜選考会の紅白戦は苛烈なものであった。
 石岡を中心とした敵チームは、カウンター主体の4―4―2のフォーメーションを組んだ。この布陣は、1950年代のイタリア代表が用いた、同国の言葉で『南京錠』を意味する『カテナチオ』と言う堅守速攻の戦術であった。
 ディフェンスの最終位置を高めに設定する事で、敵フォワードをオフサイドにかけ易くする。こうしてフォワードが無力化する事で、敵チームに対して数的優位を確立するのだ。その上で、中盤から総力をかけてボールを追い、敵陣地付近で奪ったボールを起点にカウンターを発動する。そのまま、前のめりになった相手の隙をついて、雪崩れ込むように、短時間でゴールを狙うのだ。
 この戦術は、石岡の所属する明光高校の戦術と全く同じだ。恐らく、彼を中心にチーム全体で戦術の共有を行っているのだろう。彼は今回で2度目の召集だと話していた。その為、二年生以上の選手とは旧知の中、一年生は古株に従わざるを得ないというこれ以上ない環境が醸造されているのだ。用意周到な事で。
 対して、夏樹のチームは全員が初対面、それぞれが得意なポジションにつくだけで、具体的な戦術も決まっていなかった。ゾーンプレスの対策として、選手同士の距離をとったものの、その開いた距離すらも、敵選手達は鍛え上げた肉体とスタミナを躍動させて追い詰めた。
 負けじとパスを回すも、迫りくるプレッシャーに耐えかねて、ロングパスを選択する局面が多くなった。その結果、空中戦での競り合いに負け続けてはカウンターの餌食となり、前半のうちに2失点を許してしまった。
 夏樹も、自分と同等かそれ以上の体格をもち、そして自分のチーム以上に統制された動きをとる相手に、ボールを抑えるだけで精一杯であった。試合前に溢れていた自信も掻き消え、度重なるダッシュの影響で、水中を歩いているように全身が重い。

  敵ゴールキーパーがボールを回収しに向かう間、フィールド選手達は布陣を整える。
 夏樹は、息を整えつつ、自分を採点している観客席に視線を投げた。古びたスタンドには、応援に来た親や友人たちが詰めかけているが、それらをかき消すように、全身を黒にまとめた男達が、真っ直ぐにこちらを見てはペンを動かしている。
 このままではまずい。まだ一本シュートを打ったきりだ……

 「……くそ」
 夏樹は、足元の大きなゴムチップを蹴飛ばした。
 「夏樹」
 その最中、敵チームのトップ下の長谷川が、夏樹のもとへ駆け寄ってきた。
 「なんですか? ゴールキックきますよ」
 40分にも及ぶ時間の中、攻撃と守備の両方で貢献した疲労からか、長谷川の白色のビブスに、汗の黒い染みが出来ている。
 ドリブル突破から2得点を上げた長谷川への劣等感で、夏樹はその顔を見ることができずに、そのまま所定の位置に戻ろうとした。しかし、長谷川はそのまま夏樹に、声をかける。

 「なーに、お利口なプレイしているんだよ。お前の持ち味は執念だろ?」
 「執念も何も、レベルが高すぎます」
 「俺はそうは思わないけどな。ディフェンスラインを見てみろよ。お前が思うよりも、苦労しているみたいだぜ?」
 長谷川の視線の先では、石岡を中心としたディフェンスラインが肩を上下させ、苦しそうに息をしている。空を仰ぐように上を向く選手に、膝に手をついて俯く選手。

 「敵に、そんな事を伝えてもいいんですか……?」
 「いいんだよ別に。兎に角いいとこ見せくれよ。兄弟」
 「わかりましたよ。敵に塩を送った事、後悔させてやります」
 満面の笑顔を浮かべると、そのままポジションへと戻って行く長谷川。こんな時でさえ、俺を鼓舞してくれるこの人に、夏樹は頭が上がらない。
 敵のゴールキックが伸びる。センターラインを超えたそれは、中盤選手同士での競り合いへとつながった。後半のこの時間帯は、ミスが増え始め、得点の可能性が高まる時間帯でもある。競り合ったボールがあらぬ方向に行かないよう、夏樹は競り合いの勝利を願った。
 コートの中央に落ちるボールを二人の選手が競り合うが、若干背の高い敵選手に軍配が上がった。少しでも敵陣へとボールを進めるために、後頭部でヘディングをされたボールが、夏樹達のゴールへと迫る。そのこぼれ球を、ディフェンスがいち早く蹴り出した。この時間帯で3点目を決められては、もはや試合が決まってしまう為の判断だ。

 大きく伸びたボールは中盤の頭上を通り、夏樹のいる前線へと届いた。落下地点を読んで素早く駆け寄るが、石岡が素早く体を入れ、落下地点を奪う。

 「今日は、お前に仕事をさせるつもりは無い。このまま御退去願おう……!」

 荒れる息の中、煽る石岡。夏樹は、審判に気取られないように石岡のビブス、その背中を引っ張り、体制を崩させた。一瞬よろめいた隙をつき、再度落下地点に入りボールをトラップする。それと同時にドリブルを開始し、石岡を抜き去った。
 一見隙の無い『カテナチオ』だが、大きな弱点が一つある。それは、一度密集地帯を抜け出せば、大きなチャンスが訪れる事だ。
 自陣のゴールから離れた位置に密集するという事はつまり、その背後に広大なスペースが生まれることを意味する。石岡を抜き去った今、夏樹の目の前にはキーパーしかいない。

 夏樹は、全速力で無人のスペースをドリブルし、ペナルティエリアへと侵入した。
 ゴールまで残り5メートル弱、ディフェンスも必死に夏樹の背後へと迫るが、そのスピードに追いつく事は無かった。

 迸るアドレナリンに全身が加熱されるのを感じながら、夏樹は、あえてゴールから遠ざかるように、ゴールとは逆方向、右側へとドリブルした。そのままサイドへ追いやろうと追って来たキーパーを視界の端で捉えると、重心が傾いた敵の上半身に、左腕を預ける。そしてそれを起点にし、迫るキーパーを、ルーレットで躱し、無人のゴールへとボールをたたき込んだ。
 轟くような、絶叫がグラウンドに響き渡る。夏樹は、その声の主が自分であることに、数秒を有した。
 人工芝の上をボールが駆ける。美しい弧を描きながら地を這い、最終ライン裏のスペースに向かう白黒のボールには、上りきった太陽の身を焼くような陽光が煌めいていた。
 夏樹は右にフェイクの動作を入れ、白いビブスを着た敵選手の視界から消失した。ユニフォームが揺れ、一迅の風となる。
 スコアは2対2。試合終了目前、選手達は既に体力の限界を超え、勝利の渇望だけが彼らを走らせる最後の燃料だ。

  ————行ける、行けるぞ……!

 夏樹が敵のマークを外した瞬間、タイミングを見た中盤選手から、スルーパスが発射された。夏樹は最終ラインを抜け、迫り来るスルーパスの軌道に合わせて強く加速する。人工芝をスパイクが踏みつけ、大腿四頭筋が収縮と膨張を繰り返しながら、彼の大きな身体を前へと押し出す。
 加速する身体、上がる体温に反比例して、視界はスローになり、余計な情報が遮断された頭は冷静になってゆく。この瞬間、夏樹はあらゆる柵から解放され、ゴールを決めるだけに存在する生物になる。
 突然、右腿に鈍い痛みが走ると共に視界が揺れた。右側から強靭な腕が伸び、進路を妨害された夏樹は、一段と走るスピードを落とした。首を振ると、右側から石岡が猛然とプレスに来ているのを捉えた。ピタリと体に張り付いたユニフォームが、はちきれそうに怒張している。
 後半に夏樹が決めた2点は、両方とも、石岡との対決が起点だった。1点目では、石岡をドリブルで突破したことによるディフェンスラインの破壊。そして2点目では、石岡のトラップミスを夏樹が拾い、バイタルエリアからミドルシュートを放ったのだ。
 自身の落ち度で同点を許した石岡の視界は血走っており、これ以上の失態は許されないという自責の念と、夏樹に対する対抗心が、大きな炎となって彼の身を包んでいる。

 「これ以上は、やらせねぇぞ!」

 声を張り上げる石岡。丁寧な語気が消え、ただ憎悪だけが込められた声。

 (このままではスルーパスに間に合わない……!)

 右頬に矢印が刺さるような感覚を覚え、夏樹は首をそらした。瞬間、先程まで顔のあった場所を、岩のような拳が通った。どさくさに紛れて石岡が拳を振ったのだ。夏樹は必死に体をぶつけ、石岡の白い布に巻かれた膝に、審判から気取られない程度に軽く膝を当てた。

 「ぐ……っ!」

 悶える石岡の声が耳元で聞こえたのと同時にプレスが弱まる。その隙を逃さずに夏樹は、前に躍り出た。残るは相手キーパーのみである。 ハイプレス、およびゾーンプレスを完遂するには、夥しい量のスプリントが必要となる。後半も終了間際となった今、敵選手達は疲労困憊しており、試合開始当初のスピードもなく、他の守備選手は夏樹のはるか後ろだ。
 夏樹は、左から迫るボールの軌道と、ゴール前に立ち塞がるキーパーの重心を確認すると、より一層の集中を自分に課した。応援の叫び声、選手達のコーチングの声が消えると、相手キーパーさえも消えた。無音の世界には、ボールとゴールしか無い。

 この全能感にも似た孤独な世界を、夏樹は愛していた。

 タイミングを合わせて右足を振り抜き、相手キーパーの重心と逆方向、ゴールの左下隅に叩き込む。力強い、キーパーの長い腕を潜り抜けるような、内巻きの回転をかけるイメージ。

 (決まった……!)

 夏樹は一瞬、ゴールの歓喜に胸を膨らませた。次の瞬間、響いたのは、得点を告げる歓声ではなく、彼のスパイクが、肉を断裂する音だった。

 「ぐああ!」

 聴き覚えのある声。だが、一度も聞いたことの無い悲痛に溢れる絶叫が、グラウンド全体に木霊した。その声にハッとし、視線を下す。

 パーツを間違えたプラモデルのようだった。

 長谷川の右脚は、不自然な角度でねじ曲がり、その膝は本来の位置から完全に外れている。膝から下が、接続を失い、ただぶらりと力なく垂れ下がっている。発達したハムストリングスも、普段の力強さを失い、出来の良い模型のように無機質に見えた。彼の脚全体が、まるで生命を失ったかのように、そこに存在するものの、生気がまったく感じられない。

 そして、何より恐ろしかったのは、その場には一滴の血も流れていないことだった。あり得ないほどの重症なのに、血の気配すらない。それが、却って異様で、まるで彼の脚が既に死んでしまったかのように、生命の兆しが失われている。

 「膝が……膝が……!」

 長谷川の声がかすれた声で震えていた。彼の手は無意識に膝を掴み、必死にその破壊された部分を確認しようとしていたが、その触れた指先にさえ、感覚があるのかどうか、疑わしかった。長谷川が、痛みに耐えかねて転げ回るたびに、力なく膝が揺れる。
 涙を滲ませて、虚空を見つめる長谷川。みしみしと、骨が軋み、肉が裂ける音が、虫が這うように夏樹の鼓膜を伝う。

 「お、俺は……!」

 夏樹は、その場で膝から崩れ落ちた。試合の時とは違うアドレナリンが脳内に溢れ、吐き気すらする。そのまま固まった二人の周りに、次々に人が集まった。

 「長谷川……長谷川!」
 「おい、やばいだろこれ!」
 「宿直の保険医と……救急車を呼んでくれ! 豊島スタジアムと言えば直ぐ伝わる!」
 駆け寄った選手やコーチ達に囲まれたまま、苦しそうにもがく長谷川の姿を見て、夏樹は今朝のテレビを思い出していた。穏やかな男性の声ではなく、電車で聞いた女性の機会音声が、淡々と続ける。

 「白殺しとは、相手の呼吸点をじわじわと減らし、最終的に全ての白石を取る戦略図面を見て黒が左上隅で白石を囲んでいる黒は慎重に呼吸点を制限し、白が動けなくなるように仕掛けます。この戦略が、『白殺し』です」

 「囲まれた白石には、もう道はありません。これで黒の勝ちが決定します」

 黒いビブスの選手達に囲まれる長谷川。その姿は、まるで、『白殺し』に嵌った碁石のようだった。脱出するどころか、動くことさえかなわない閉鎖的な状況。
 呼吸が乱れる。試合中に10キロ近く走った時よりも、苦しい。汗で湿った黒い練習着を掴んで、夏樹はそのままグラウンドへと懺悔するように突っ伏した。

 「どけ……! 通してくれ!」
 「先生が来たぞ。道を開けろ!」

 混沌と化したフィールドの上には多くの声が行き交う。それらを押し除け、白衣の男が長谷川の横に膝をつけた。そのまま素早く長谷川の膝に慎重に触診を行う。膝の異常な動きを感じ取り、眉をひそめながら判断を下す。

 「膝の不安定感と腫れが酷いな。前十字靭帯が断裂している可能性が高い。アイシングと膝を固定して、すぐに救急車を手配してください。今すぐ整形外科での診断が必要です」
 「救急車、呼びました! 5分ほどで到着するとの事です!」
 うなずく医者の男。そのまま、苦悶に表情を歪めた長谷川に優しく声をかける。

 「長谷川君、聞こえるかい? もう少しの辛抱だよ。ゆっくり深呼吸をして、落ち着くんだ」
 「全部……全部終わるんですか……?」

 虚な目で青空を見上げながら、ゆっくりと、長谷川は口を開いた。

 「大丈夫。回復の可能性は高いよ。数ヶ月安静にすれば、また直ぐにサッカーができるさ」

 その言葉を聞くや否や、ゆっくりまぶたを閉じて、深呼吸をした。

 「夏樹……いるか?」
 「います……! ここにいます!」

 夏樹は、顔を上げて、長谷川の顔を覗き込んだ。小麦色に焼けた肌は青白くなり、一筋の滴が頬を伝っている。端正な顔は痛みに耐えかねて歪み、全身に黒いゴムチップがまとわりついているのが見えた。

 「ご……」
 「え……?」

 夏樹は、一瞬呼吸を忘れた。

 「ごめんな……」
 「意識を失った……! 早く氷を取ってきてくれ!」

 医師の絶叫が響くのも束の間、夏樹は一人駆け出した。更衣室へ駆け込むと、自分の荷物を雑に詰め、練習着のままスタジアムを飛び出す。目的地などない。ただ少しでも、あの場所から遠ざかることができればそれで良い。
 近づくサイレンの音が、茜色に染まり始めた青空に響く。地平線の向こうに聳える暗い積乱雲が、罪を犯した自分を捕まえる為に手を伸ばしているように思えた。

 迫りくる、白く大きな手から逃れ、ただ只管に公道を走る。リュックが揺れ、地面に着地する度にスパイクのポイントが削れる感覚と、鈍い痛みが足首に刺さる。それでも、全力で力強く走った。電車など使う気にならなかった。あの無機質な、理性を直接揺さぶる密室に乗り込んでしまったら、そのままどこかに消えていってしまいそうで怖かった。
 見知らぬ住宅街に入る。既に食卓が囲まれているのか、窓からカレーや焼き魚の匂いが香る。その匂いを消すように、更にスピードをあげた。心臓が張り裂けそうに痛むが、いっその事このまま止まって欲しかった。上がる体温と共に溶け、このまま透明になって、夏の残り香がある景色に吸い込まれるように消えて行きたかった。
 池袋駅前へと続く大通りに至ると、薄暗い外灯の下、帰路につくサラリーマンがゾロゾロと歩いていた。多くのオフィスが並ぶこの通りを、スパイクを着用した青年が走る光景は、さぞ滑稽に映る事だろう。そのまま池袋平和記念館を超え、豊島原爆ドームを横目に、駅の地下へと進んだ。暖色の蛍光灯に照らされた大理石の壁面には、戦死者達の名簿と、彼らを悼む声明文が描かれている。無数の死者に見られているような気がして、夏樹は再び速度をあげた。
 心臓が限界を迎え、疲労に足が動かなくなると、沈み行く太陽の向こうに見知らぬ中学校が見えた。藍色の闇と血のような赤い夕暮れに染められた校舎に釣られ、夏樹は重い脚を引きずって進んで行く。校門にたどり着くも、既に施錠されていた。しかし、警備が鳴り出そうと、どうでもよかった。夏樹は背丈ほどの門を飛び越え、校舎内に入った。
 すると、夏樹の視界に映り込んだ校舎は、非日常に染まっていた。白を基調とした校舎は見る影もなく、看板やテント、巨大広告といった色とりどりの装飾で彩られている。そしてそれら全てを、夕焼けと闇が染め上げていた。
 祭の期待を感じさせる光景にも関わらず、周囲には誰一人もいない。軒を連ねる模擬店や出店だけが、祭の到来を待ちわびているかの様に、静けさを纏って校内に佇んでいるばかりである。

  夏樹はスパイクのまま昇降口を抜け、階段を登る。火照った体が冷えていく感覚の中、廊下を進むと、声をかけられた。
「止まりなさい!」
 振り返ると、この学校の女生徒らしい少女がこちらを見据えていた。
 「校内でスパイク履いてるなんて信じらんない」
 「ごめん。すぐに脱ぐよ」
 茶色がかった髪を一つに束ねた少女に指摘され、スパイクを脱いだ。どうやら、不法侵入者であると思ってないらしい。見た目の活発さに違わぬ、純粋で真っ直ぐな、疑う事を知らない性格のようだ。

 「昨日は、文化祭か何かだったのか?」
 「何言ってるの。文化祭は明日。それで皆、こんな遅くまで残ってるんじゃない」
 「そうだった。互いに楽しもう」
 「もちろん。明日、私のクラスでたこ焼き売るから、絶対来てよね」
 「それは良いな。楽しみにしておくよ」
 照れくさそうに笑うと、少女は、自分の教室へと戻っていった。その姿を見送り、そのまま、ガラス張りの廊下を抜けて、再び階段を登ると、屋上へ出た。

 雨の到来を予感させる湿った風が吹く。人の立ち入りが想定されていないのか、屋上はまるで清掃がなされておらず、所々に、黴びた灰色の斑点がある。
 スパイクに締め付けられていた足に血が通い、幾分楽になったような気がする。
 そのまま柵に手を預けて、遠くを見据える。真紅の夕焼けと闇が混ざった空の下に、池袋駅の夜景があった。乱立するオフィスビルの間に、大きな緑と噴水を携えた、豊島原爆ドームがある。

 1日の終焉を表すような景色を見ていると、きっと、この街が一度終わった時、原子爆弾が落とされた時も、こんな景色だったのだろう。そう思った。
 ふと、音楽を聴こうとイヤホンを探すも、更衣室においてきたようだった。仕方なく、スピーカーで流す。
 プレイリストからレディオヘッドの「Creep」を選ぶと、ゆっくりと海中に沈んで行くような浮遊感と質量のあるメロディと、サビ前に訪れる、心が摩耗するようなギターの音に聞き入る。しかし、いくら浸ろうと、目蓋の裏に、あの、プラモデルのようにねじ曲がった膝が鮮明に浮かび上がってくる。

 「くそ……!」

 震える声と、柵を叩いた音が屋上に響いた。長谷川は、尊敬していた先輩だった。憧れていた存在だった。サッカーを共に戦い、共に走り、共に駆けた仲間だった。なのに、あの瞬間、夏樹は自分の力で彼の未来を奪い、呪いの言葉をかけられたのだ。
 『ごめんな』と。

 「なんで、あんたが謝るんだよ……」

 重傷を負って尚、他人を案じる優しさを持つ彼を……俺は……!

 『I wish I was special.』
 『特別でありたかった』

 トム・ヨークのかすれた声が、まるで自身に向けた呟きのように耳に届く。夏樹は目を閉じ、歌詞に込められた自虐的な痛みが胸に突き刺さるのを感じた。
 長谷川を壊してしまった————その罪が、彼の中で絶えず燃え続けている。
 目の前には成功への道が閉ざされ、どれだけ努力を重ねても自分が呪われているかのような感覚に襲われるばかりだ。いつの間にか、頬に筋が流れていた。

 「泣いているの?」

 透き通るような声だった。
 その流麗な声は、水が泥を流してしまう様に、夏樹に取り憑いた黒い感情を取り払った。
 顔を上げ、慌てて振り返る。しかし、そこには誰もいない。風に揺れる屋上のフェンスだけが視界に映る。だが、再び声が聞こえた。

 「どうして、泣いてるの?」

 声の主は確かにすぐそばにいる。夏樹は息を飲んだ。精神的な限界に達しているのか? 混乱の中、彼の目の前でゆっくりと何かが形作られていく。
 夏樹は、いつか見た、水が凝固し、氷へと変化する映像を思い出した。何も存在しないかのような、液体がゆっくりと、白く、塊へと変化していく。その映像に合わせるように、彼の前では、最初はぼんやりとしていた輪郭が、藍色や白色の布へと変わって行き、徐々に顕になる。
 しかし、その全身は透明だった。本来あるはずの、若さに溢れた顔、艶やかな髪、しなやかな手脚。それらは全て存在せず、向こうの景色が透けて見え、制服だけが風に靡いていた。   

 

 目の前には、透明人間がいた。
 「なんだ、お前」
 「見てわからない? 透明人間よ」
 身構える夏樹の前で、制服がくるりと回転する。
 「冗談だろ?」
 「所がどっこい現実です。頬をつねってみたら?」
 頬をつねる。どうやら、夢ではないようだ。ならば幻覚だろうか。
 「言っておくけど、幻覚でも無いからね。ほら、手を出してみて」

 夏樹が言われるままに手を突き出すと、虚空に触れた。差し出した掌に、自分の物よりも小さな、柔らかな掌が触れる。

 「これでわかったでしょ。ほら、ちょっと座って話そうよ」
 「あ、ああ」
 そのまま透明人間に促され、屋上へ続くドアの前に腰を下ろす。
 すると、ひんやりとしたアスファルトの感触が下半身から伝った。
 「で、なんで泣いてたの?」
 「顔も見せない奴に教える必要はない」
 「あら、酷い」
 異常な相手を前にしても、夏樹は不思議と落ち着いていた。1日のうちに感情が動きすぎたのか、まるで驚きも恐怖も感じない。それに、このままこの怪異に殺されようが、どうでもよかった。

 「レディオヘッド。好きなの?」
 「ああ。お前も知ってるのか?」
 「勿論。1985年にイギリスのオックスフォードで結成されたオルタナティブロックの象徴的バンド。今君が流しているのは、代表曲の『creep』。身長の低いトムの疎外感と劣等感を歌った曲だね」
 「随分、詳しいな」

 正直、目の前が透明人間である事実よりも、このバンドを知っていることの方が衝撃的だったかもしれない。十数年の中で出会った同年代の学生は皆、流行りのポップスを聞くのみで、会話も、カラオケも、酷く退屈なものだった。

 「好きなんだよね。UKロック特有のメランコリーな雰囲気が。思うんだけど、イギリスの、雨と霧ばっかりの天候も影響してると思うんだ。南国でこんな曲は絶対に生まれない」
 持論を展開する透明人間。視線を向けると、虚空に浮いている制服は、先程夏樹が出会った女子生徒と同じものだった。しかし、声は先ほどの彼女よりも低い。
 「中でも『creep』は別格。よくこの曲を聴くと沈んでいきそうって人が居るんだけど、私はそうは思わない。この曲って、自分の劣等感や孤独を前面に打ち出してるでしょ? 無数の観客の前でこんな歌詞を歌うなんて、よっぽどの勇気がないとできないよ」
 目の前の相手は、姿も、表情も、何もかもわからない、怪異である。

 「自分の醜さを曝け出して、必死に足掻いている曲。だから、この曲を聴くと、前へ進もうって気持ちになるんだ」
 「なるほど」
 けれど、ただこうして、他人と音楽談議ができているだけで満足だった。彼女と話している間は、先ほど自分を覆っていた黒い感情を忘れることが出来た。夏樹は、笑顔で口を開く。

「この曲は、中々ライブでも聴けない。トムがこの曲に固執してバンドが停滞する事を嫌がったからだ。その証拠に、次のアルバムでは前衛音楽を取り入れた全く違う曲調になっている。変わろう、という強い意志があるんだ」
 「お。さすがに詳しいねえ」

 透明人間も嬉しそうに笑った。すると、そのまま立ち上がって口を開く。

 「私も今日、ここに、変わる為に来たんだ」
 「実体を持つようになるとか?」
 冷笑しつつ夏樹が言うと、制服が揺れた。首を横に振ったのだろう。
 「理由も、目的も、言う事は出来ない。けれど一つだけ君に言える事がある」
 「なんだよ。勿体ぶるなよ」
 立ち上がりつつ夏樹が言うと、透明人間は振り返った。

 「すぐに、この学校から立ち去って。悪い事は言わないから」

 夏樹は、違和感を覚えた。何かが欠落しているような空虚が、屋上に溢れている。そうだ、いつの間にか曲の再生が止まっている。アルバムの曲が全て流れたのだろう。だったら、もう一度新しい曲をかけ直さなくては。

 「お願いだから。今すぐここを出て行って欲しいの」
 そんな甘い考えを切り落とすように、彼女は再度現実を突き付けた。
 「私は今から、この学校、いや、世界中の人から恨まれる事をしなくてはならない。嫌われる事も、恐れられる事も覚悟はしているけれど、貴方だけには、そう思って欲しくないの」

 「なんだよ、それ」
 「お願い」
 「……わかったよ」

 懇願する彼女を前に、夏樹は気怠い脚で立ち上がると、リュックを背負った。
 元々、不法侵入している身、従うほかはあるまい。そして、彼女の言う通り、階段へと続く、黒い扉を開いた。

 「おいバケモノ。お前、アメリカのロックもいけるのか?」
 帰り際、夏樹は振り返って透明人間に尋ねた。
 「う、うん」
 「じゃあ、次はそれを語るぞ。逃げたら承知しないぜ」
 「オラオラ系かよ。うざー!」
 立ち去る夏樹に、彼女は笑って声をかけた。その返事に満足すると、夏樹は戸を引き、足を進めた。先程まで、音楽と笑い声で溢れていた屋上で、一人、少女は呟いた。
 「大丈夫だよ、大澤くん。また学校で会えるよ」
 その数分後、大きな光が校舎全体を包んだ。



 旧豊島区立中学校透明化現象について

 事件発生時刻:2021年 9月4日 午後6時頃

 発生場所:旧豊島中学校(住所: 東京都豊島区)



 事件概要:2021年9月4日午後6時頃、旧豊島中学校において前例のない異常現象が発生。校舎及び備品を含む全ての無機物が突然透明化し、現場に居合わせた生徒および教職員に極度の混乱を引き起こした。現象発生時、校舎では文化祭の準備が行われており、現場に居合わせた生徒および教職員、合わせて102名が事態に巻き込まれた。

 発生状況:現象発生直後、透明化した校舎や備品などの影響により、生徒たちは空中に浮遊しているように錯覚し、錯乱状態に陥った者が多数確認された。特に二階および三階の教室にいた生徒の中には、透明になった床に対する錯誤から転倒に伴う負傷が複数発生している。また、前述した混乱が比較的軽度であった一階では、事態に気づいた教職員による避難誘導が即座に開始されたものの、透明化した校舎が障害物となり、避難経路の確保に困難を伴ったと報告されている。

 初動対応:異常事態発生の報告を受け、警察は直ちに付近の警察署に応援を要請。合わせて救急隊も出動し、現場の安全確保と、生徒および教職員の避難を指導した。透明化した校舎内部では従来の物理的構造が視認できなくなっている為、警察と救急隊の初動対応にも大きな困難が生じた。事件の異常性と透明化現象の広範な影響を考慮し、午後6時33分、政府機関の判断により自衛隊への出動要請がなされ、午後7時には第一陣の隊員が現場に到着。空中浮遊するかのように見えた生徒達を保護し、近隣住民の安全確保に努めた。さらに、透明化した校舎内に残留した危険物の有無や人体への影響が懸念された為、科学防護服を着用した調査が進められた。

 調査について:事件後、日本政府は旧豊島中学校を対象とした高度な調査を行う為、国内外の専門家からなる調査団体を編成し、透明化現象の原因調査を開始した。しかし、数か月にわたる徹底的な調査にもかかわらず、校舎や備品の透明化の原因については一切の手がかりが得られていない。また、人体への直接的な影響や長期的な健康リスクも不明であるため、校舎および周辺地域は政府管理下に置かれ、厳重な立ち入り禁止措置が取られている。

 結論:旧豊島中学校における透明化現象は、国内外の専門家によって今後も継続的に調査が進められる予定であるが、透明化の原因や影響については現時点で明らかになっていない。事態の再発防止に向けて、現場での調査及び安全確保が引き続き重要視されており、現場周辺の住民への注意喚起が継続されている。

 青城祭二日目 2022年9月31日 pm 15:32:大澤夏樹

 最初に感じたのは、饐えた、吐瀉物のような匂いだった。数時間の間、屯し続けていた数千もの人間の汗や食べ物の匂い。全てが混ぜ合わさり、およそ、普段の生活で嗅ぐ事のない、原始的な匂いが校内に満ちている。
 扉を開けると、本校舎に閉じ込められていた重々しい空気が鼻からに侵入し、その匂いを危険分子と判断した脳は、食道から胃酸ごと吐き出そうとした。
 耐えきれず、夏樹は蹲って嘔吐する。
 やっとの思いで、前を見据えると、

 「なんだよ……これ」

 その情景は、子供の頃に観た映画に似ていた。
 少女が不思議な世界に迷い込み、異世界の住人達の騒動に巻き込まれる映画。そのワンシーン。食器達が躍り狂い、屋敷を訪れた主人公をもてなす場面だ。
 夏樹の眼前では、教室の机や椅子、トンカチや鋏が、狂ったように一人でに空中を動いている。ただ、一つ違う点があるとすれば、それらは訪問者へ歓迎のダンスを踊るのではなく、窓や教室、文化祭展示を破壊していた。
 ガラスを引っ掻く鋏。壁を乱暴に叩くトンカチ。黒板を打ちつけ続ける机。
 ヒステリックに暴れ狂う道具達は、『学校が、憎くて仕方ない』と怒っているようにも思える。
 呆然と、部活棟へと続く鉄扉の前で、学校が蹂躙される様子を傍観していると、突然、ガラスが断末魔をあげた。すぐ横の窓ガラスを、椅子が叩き割ったのだ。ガラス片が飛沫のように飛び散る。

 「うわあ!」

 とっさに横に移動した為、夏樹は教室のドアにぶつかった。鈍い音が廊下の騒音に溶ける。 荒れ狂う道具達に存在がばれ、破壊の対象が自分になる事を危惧したが、道具達は襲い掛かるばかりか、夏樹の存在に気づいてすらいない。まるで意に介さず、破壊を続けている。
 (俺のことを認識していない、のか……?)

 夏樹は、荒れる息を整え、すでに割れた窓を叩き続けている椅子から、ゆっくりと距離を取った。むせ返るような暑さと、立ち昇った埃の匂いの中、震える手を必死に押さえながら周囲を窺う。すると、一つ、分かった。

 何かが、何か透明な生き物が、椅子を振っている。

 夏樹の視線の先では、先の飛び散ったガラス片が、丁度、足のような形で空白になっており、その空白は、椅子が動く度に変化していた。先日受け取った怪文書。目の前の、校舎を破壊する透明の怪物達。そして、いつか出会った透明人間の少女。点と点が結びつき、夏樹は荒れ狂う思考の中、結論を導いた。

 目の前にいるのは、透明人間だ。透明化した人々が校舎を破壊している……!

 その事実に戦慄し、夏樹の体は一段と体温を下げた。文化祭に訪れた人々全てが、透明人間になっているのであれば、その数は8000では足りない。夥しい量の透明人間達が、この青城高校に存在する事となる。

 (なんで、彼等は学校を破壊しているんだ……?)
 (いや、そもそも何故透明人間になっている……?)

 思考を巡らす夏樹を嘲笑するように、廊下中から、けたたましい破裂音が上がる。
 夏樹は唾を飲み込み、浅い呼吸を繰り返す。

 (兎に角、逃げるしかない。 部室棟には何もいなかったはずだ)
 パニックに陥っている頭で、捻り出した結論。
 『部活で鍛えた脚を信じ、ドアを再度開けると部室へと走る』
 決心し、行動に移そうとしたその瞬間、何かに左腕を掴まれる感覚と共に、後頭部に鋭い痛みが走った。

 「ぐあ……!」

 何か、硬い物で叩かれたような感覚とともに、視界が揺れる。一瞬、視界が暗転しかけるが、普段の練習から激しい競り合いをしていた事が幸いし、なんとか踏み止めた。瞬間、後頭部に再び大きな矢印が刺さる感覚が走った。必死に左腕を振り解き、距離を取る。咄嗟の行動が功を奏し、必殺の二発目は外れ、教室の壁を叩いた。

  痛みに顔をしかめながら前を睨み付けると、夏樹の血で濡れた、黒板消しほどの大きさの木材を抱えた、全身黒服姿の大男が立っていた。

 (に、人間……?)

 一撃目の傷は思ったよりも深い様で、頭がクラクラとする。目出し帽のせいで、誰かもわからない。しかし、その屈強な体に漲る殺意は、ふらつく頭でも感じとれた。夏樹は、一歩、また一歩と、ゆっくりとした足取りであとずさる。それに合わせるように、黒服の男も、着実に距離を詰める。
 その動きは、『ここがお前の墓所だ。絶対に逃しはしない』、そんな明確な目的意識さえ感じさせる。夏樹は、目の前の男を牽制する一方で、時折、背後に視線を配り、透明人間達から挟み撃ちに遭わないように最新の注意を払う。

 その最中、夏樹は鼻の中で、血が流れるのを感じた。鉄と埃の混ざった粘液が、口へと流れ落ちる。頭痛。血の匂い。周囲の透明な怪物が校舎を壊す音。目の前に溢れた、殺意。

 ————きっとこれは、俺への罰だ。あの日以来、全てから目を背け、決断を、行動を遠回しにしてきた自分に呪いが追い付いたのだ。呪われた人間の行く先は、惨めな敗北と惨たらしい死だ。このまま、終わる。誰にも見つけて貰う事もないまま、俺の人生は幕を閉じるのだ。過去に呪われたアイツのように、消えて行く。

 「ははっ」

 乾いた笑いが溢れ出すと共に、夏樹の脳内に走馬灯が浮かんだ。
 2022年9月8日:大澤夏樹 青城祭まであと22日

 一年後の晩夏も、昨年と同様に、終わりのない暑さが続いていた。
 重い目蓋を擦りつつ、夏樹は校門をスルーして歩き続けると、道路を跨ぎ、校舎の側面にある桜並木に入った。そしてそのまま、一際大きな桜の間を抜けると、草木が生茂る草原へ進む。
 雨露が残る雑草を踏みつける毎に、ぐしゃりぐしゃりという音がたち、ぬるい雨水がローファーに入り込む。小さな水溜まりには太陽光が反射しており、目を開けられない程に眩しい。解放感のある澄んだ緑の中、朝の空気を噛み締める様に、息をした。そして、紺色のスラックスに熱を感じ始めた頃、それを見つけた。

 その箱は、古びた桜の下にあった。

 今年の春、何気なく散歩をしていた時に見つけた、公衆電話ボックスだ。管理会社の対象外となっているのか、電話線は断たれ、通電すらしていない。人々から忘れ去られたその箱を慈しむかのように、葉桜が、上から優しく覆い被さっている。  
 薫風が吹き、木々が漣のような音を奏でると、首筋に心地良い空気が流れた。
 しかし、日光に晒されていてはまた汗をかくと考え、すぐさま作業に取り掛かる。
 先日設置した不法投棄の椅子を公衆電話ボックスの横につけると、それを踏み場に、公衆電話ボックスの天井に設置したソーラーパネルからポータブルバッテリーを取り外す。そして、開閉するたびに軋みを上げる扉を開くと、バッテリーを携帯型扇風機に接続した。
 反射材を張り巡らせた甲斐もあって、室内は想定よりも涼しかったが、念には念を入れ、先ほどコンビニで買った冷凍スポーツ飲料を扇風機前に置く。すると、冷たい風が室内の空気を循環させる。
 夏樹は、公衆電話ボックス内の椅子にもたれかかるように座ると、サラダパスタを取り出し、遅めの朝食を始めた。梱包を外し、ドレッシングを雑にパスタと絡ませると、甘い胡麻の香りと薫製チキンの匂いが立ち昇る。そのまま、貪る様に麺をすすり、サラダを噛みちぎった。

 食後、夏樹は、公衆電話ボックス内の電話帳を入れるスペースから、小説を取り出した。

 『風の又三郎』。

 自分ではおよそ手に取ることの無い小説。本の交換の醍醐味は普段触れない作品に触れられる点だ、と夏樹は改めて感じた。
 夏樹はこの公衆電話ボックスで、顔も名前も知らない生徒と、本の交換を行う。
 初めは、自分以外にこの溜まり場を利用する不届き者の存在に不愉快な気分になったが、相手はどうやら律儀な人間のようで、ここを利用する代わりに、幾つかの菓子と文庫本を置いていく。
 自身も無断でここを利用している反面、追い出す気にもなれず、夏樹はその置いて行った本と菓子の礼として、その本の感想と共に、自分の勧める小説を置いた。すると相手も、夏樹の本に対する感想を書いたメモと、新たな本をこの場所に置いていくようになったのである。
 夏樹は、中学の頃に『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』などを読んだ記憶があったが、『風の又三郎』を読んだかは曖昧であった。しかし、なんとなくのストーリーは記憶の片隅にあった。
 風の又三郎は、田舎の小学校に三郎という転校生が訪れる話、だったと思う。東京語を話す赤髪の三郎は、地元の子供達には面妖な人物として写り、又三郎という伝承の人物なのではと勘繰られる。そんな少年少女の話。
 夏樹は、『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』がかなり好きだった。
 当時の文体で描かれた繊細な情景描写と、現代人の心に訴えかけるノスタルジックな雰囲気の中に描かれる『死』の扱いを美しいと感じたのである。
 しかし、田舎の少年達のゴタゴタを描いたこの作品には、それらのような身に迫るような没入感はないだろうと思い、あまり期待しないままページを進めた。

 『どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう』

 不安を煽るような、濁音の羅列からその小説は始まった。脚を組んでページをめくり続ける。しばらく読み進めると、学校に行くのも億劫になり始め、今日くらいサボってしまってもいいかもしれないと考え始めた矢先、スマホに着信があった。手を止め、イヤホンのまま通話する。

 「もしもし?」
 『夏樹。お前今どこにいる?』
 おっとりとした、伸びる様な声。
 「溜まり場で朝飯食ってる。まだ、ホームルームの時間じゃないだろ?」
 室内に設置した安物の時計を確認する。午前8時。登校の予鈴まであと30分以上ある。
 『いやいや、今日は連絡事項があるから、いつもより早く来いって言われただろ?
宇田の野郎、カンカンだぜ。悪いことは言わないから早く来い』

 大袈裟に、「不快極まりない」と宇田の口癖を真似ながら捲し立てる。

 「完全に忘れてた。すぐに行く」
 『おう。早く来いよ』

 そのまま相手は電話を切った。朝の穏やかな時間を奪われた事を不服に思いつつも、バッテリーを扇風機から取り外し、再び屋根の上へ設置した。そのままサラダパスタのゴミと文庫本を抱えて、溜まり場を後にする。
 軽快に水たまりを飛び越えて、桜並木に飛び出す。駆け足で坂を降ると、信号待ちで車道に並ぶ数台の間を走り抜けた。運転手の不快そうな視線が刺さるが、気にする間も無く、車両用出口から校内に入り、ボーカルの絶叫を聴きながら、下駄箱で校内靴へ履き替えた。

 一年間使ったことで埃や土汚れが付着し始めた靴を上下し、階段を登る。その最中、夏樹の周囲には、青色の線が入った校内靴を身につけた多くの生徒達がいた。その光景を見て夏樹は眉を潜める。

 「あの野郎……」
 そのまま、2年8組の教室に着くや否や、後ろから肩を叩かれた。

 「おはよう夏樹! 先週の試合大活躍だったらしいじゃん!」
 振り返らずとも、その明るい声の主が誰かを理解した。非難の視線を浴びせながら、振り返る。

 「『おはよう』じゃない。宇田がいるどころか、まだ皆、登校すらしてないじゃないかこの野郎」
 「ごめん、ごめん、夏樹に早く会いたくてさ」
 「うるせえ、言い訳すんな」

 そう言って、両手を顔の前で合わせているのは、伊藤学。通称ガク。夏樹の数少ない友人であるが、揶揄う為にあの手この手を尽くす悪友でもある。
 今日も、冗談か本当かわからぬガクの言葉に騙されてしまった。夏樹たちの周りには、数人分のスクールバッグが置かれているだけで、ほとんどの生徒達は未だ登校中のようだ。平謝りを続けるガクを他所に、夏樹は自分の席にスクールバッグを下ろした。

 「けど、連絡事項があるってのは本当だぜ」
 言い訳するガクは、茶色がかった長い前髪を中央で分け、その間からは爽やかな笑顔が浮かんでいる。
 「そうかよ」
 そのまま自席について文庫本取り出す夏樹。ガクは、夏樹の前の席に後ろ向きで腰掛けた。

 「朝練があるんじゃないのか。エースがいない練習も締まらないだろう?」
 「んー。まだ行かなくていいや」

 ガクは、黒色に赤い線が入ったバスケ用の練習着と、バスケットシューズを身につけた、そのまま体育館から抜け出してきたような格好だった。加えて、幾筋か体を流れる汗を見て、大方練習を抜け出してきたのだろう、と夏樹は考えた。

 「聞いたぜ。先週末、ハットトリックしたんだって?」
 「ああ」
 夏樹は、文庫本を机の上においた。

 「まじかよ、俺の負けかぁ。今月デート四回もあるのによお!」
 「うるせえ、黙って買ってこい」
 「おー、こわこわ。やっぱ関東選抜様は違えや」
 「ていうか、デート四回ってなんだよ。まさか全員違う子とか言わないよな?」
 「え、そうだけど」
 けろっと答えるガク。そのまま二人で、ガクの提唱するデート必勝法だとか、文化祭デートを一度は経験するべきだとか、他愛のない会話をした。
 「じゃあ、朝練行くわ」
 「おう。朝練終わりにコーラ忘れるなよ」
 「うげ」と顔を曇らせたガクは体育館へと走っていった。

 その姿に、頬を緩ませると、夏樹はそのまま、文庫本を読み進める。しかし、ある一文を目に入れると、夏樹はページをめくる手を止めた。

 『みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の鷹にも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上の野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう』

 教師が何気なく語りかけるその文章は、単なる日常の一コマのようでいて、ノスタルジーが漂っていた。

 終わりゆく少年時代への淡い憂いと、新たに訪れる青年期への物悲しさが、夏休みという輝きの終焉と肌寒い秋の訪れによって暗示されている。その文章の奥に秘められた、静かな時間の流れを、夏樹は感じ取った。だが、彼が感じたのは、ただの懐古ではなかった。

 ————そうだ……俺は、彼を終わらせてしまったのだ。

 一年の時を経て歪に繋ぎ合わさった記憶が、無人の教室で再上映されるようだ。
 立ち上がって周囲を見回すも、穏やかな朝日と眠気を纏ったような気怠い空気が、整然と並べられた机と共にあるだけだ。

 「くそ……」
 乱暴に本を閉じて裏返しにすると、小説の背面に、何かが書き込まれているのが見えた。

 『33876%(8→%2→♪☆%※+2:9〜#+(○%・☆ー』

 意味不明な数字の羅列が、小説の背表紙の下、空白のスペースに油性ペンで書かれていた。夏樹は、体に巣食う黒い蟠りから逃げるように、その数字列について考えてみることにした。

 一瞬、交換相手の連絡先が書かれているのかもと思ったが、こんな電話番号は存在しないし、彼の使うSNSでも、%などの記号を自身のアカウントIDに使う事はできない。念を入れ、SNSの検索機能で調べてみるが、意味不明なアラブ語で書かれた海外のアカウントが出てくるだけで、そのアカウントの番号も、33876まで合致しているだけである。
 しばらく考え込んでいると、いつの間にかクラスメイト達が登校しており、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。夏樹は、急かされるように小説を仕舞う。
 そのビッグベンに由来する鐘の音に乗って、制服姿に着替えたガクが慌てて教室に駆け込んだ。着替えは中途半端で、第三ボタンまで開いたシャツが、タックインせずにはみ出している。自席に着くすんでのところで、こちらに炭酸飲料を投げ渡す。
 夏樹がうまくキャッチして観察すると、缶の下に油性ペンで『次は負けないゾ!』と書かれていることに気づいた。思わず、その中年男性のような文面に吹き出す。
 それと同時に、担任教師の宇田がやってきた。元柔道国体選手の肩書きに恥じぬ、老いても鍛え上げられた肉体。その豪快そうな見た目に反して毎回一分一秒遅れず几帳面に入室することから、生徒の間でサイボーグなのでは無いかと言う噂が流れていた。

 「伊藤、お前は少し、落ち着きってもんを覚えろ。不快極まりない」
 「サーセン」
 「出席をとるぞ。赤沼」
 ガクの気の抜けた返事が聞こえたのか判らぬまま、宇田はメガネを指先で持ち上げ、業務的に生徒の名前を呼び出した。独特な緊張感を伴う、出席確認が始まる。
 「はい」
 淡々と、生徒達の名前が呼ばれてゆく。暑さからか、皆、声に生気が無い。
 「よし。全員いるな。一旦そのまま座っとけ」
 数十人分の点呼を終えると、普段は興味を失ったかのように即座に退出する宇田だが、今日は教室に留まり、教室の端に座っている。どうやらガクの言った通り連絡事項があるらしい。

 十中八九、文化祭の事だろう、と夏樹は考えた。

 夏樹達の通う青城高校は、明治華族の通う私学校に起源を持つ歴史ある私立一貫高校である。その名残か、今日も多くの社長子息や未来の経営者達が通っており、各家庭の経済力に依拠した自由を謳う実践的な学習をウリとしていた。
 その中でも特に、青城高校の文化祭、通称『青城祭』が校内外で最も注目されるイベントであった。
 『青城祭』の特筆すべき点は学校外部との協力が認められている点だ。生徒達は、自ら校外の店舗や企業に連絡を取り、彼らと協力することで高校生の範疇を超えたクラス企画を運営する。その活力に溢れた若いアイデアの発露を見ようと、三日間で延べ、1万人以上の来場者が訪れる一大イベントであった。
 しかし彼の文化祭に対する情熱は欠如しており、来年の受験戦争を控える身として、一刻も早く授業を開始し、準備に勤しみたいと思うばかりであった。
 少しでも時間を無駄にしないように、一限の日本史の用語集を開き、鎌倉仏教開祖の名前を考える。

 「失礼します」

 風が吹いた気がした。ざわめいていた教室が静まり返り、荘厳な空気さえ帯びる気がする。入室し、教室を見据える女子生徒。たったそれだけの仕草に目を奪われ、記憶から捻出した日本史の用語など、とうに頭から霧散していた。
 少女は、黒い絹の様に艶やかな髪を靡かせ、教壇に上がった。透き通る様な肌と白を基調としたセーラー服が、髪の漆黒をさらに強調させている。

 「生徒会長、西園寺薫です。今日は文化祭について、少しお時間を頂きます」
 心なしか、彼女が言葉を発する度にクラス全体に活力が戻る様だ。
 「今年のテーマは『花』に決まりました。私の名前が、花に関係ある物なので少し気恥ずかしいのですが」
 そう言って苦笑する西園寺。
 「皆さん、2年8組は、『椿』をイメージした展示を作って頂こうと思います。
 ご存知とは思いますが、ご親族の手を借りる事も外部業者と提携する事も自由です。ただし運営規約や先生方のアドバイスには、最大限従う様にお願いします」
 堂々とした振る舞いが、彼女の自信と経験を感じさせる。自分と同い年である彼女に、どこか大人びた雰囲気を感じるのはそれが原因だろう。

 だが、夏樹が彼女に熱中する理由はその振る舞いでも、美貌でもなかった。

 ————俺は、この声を聞いたことがある。

 すると、目が合った。
 こちらの考えを見透かされている様に思われ、夏樹は思わず心拍数が上がった。
 扁桃型の美しい瞳が、真っ直ぐに夏樹を見つめる。永遠に続くかにも思える数秒の後、西園寺はクラス全体を見渡し、最大限の笑顔で宣誓した。

 「クラス内外問わず協力し、最高の青城祭にしましょう」
 満面の笑みを浮かべる。
 それで、連絡事項は終わりかと思ったのも束の間、

 「というのは建前で、本当は、お願いがあって時間を頂いたんです……!」
 困ったような笑顔を浮かべる彼女の姿は、年齢相応の笑顔に戻っていた。

 「実は、生徒会の一人がしばらくの間、登校できなくなってしまって……」

 必死に頼み込む西園寺。

 「文化祭開催までの間、私たちのサポートをしてくれる生徒を探しているんです!」

 それを聞くと、先ほどまで静寂に包まれていた教室中がざわめき始めた。
 「おい、お前行けよ。どうせ暇だろ」「大会近いから無理」「うちのクラス何やるか決まってたっけ?」そんな生徒達の声が混ざり合って、大きな雑音として教室を埋め尽くす。その音に負けないよう、西園寺は声を張り上げた

 「興味のある生徒は放課後、生徒会室まで来てくださーい! よろしくお願いします!」
 再度、黒髪をなびかせて礼をすると、教室から去って行った。次のクラスでも同じような勧誘を行うのだろう。
 「というわけだ。来週の月曜日まで募集しているらしいから、立候補するか考えておけよ。それじゃ授業の準備しろ」
 宇田が、話のオチをつけた。夏樹は、反社会勢力員にも似た宇田の強面に感謝した。彼の強面がなければ、挙手していたかもしれない。そんな浮き足だった興奮に包まれていたのだ。
 宇田が退室した瞬間、再度ざわめき始めたクラスの中で、のぼせきった頭に鞭を打ち、夏樹は、授業の準備へと取りかかる。そんな平生を装う頭の中で、あの一文がずっと流れていた。

 『どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹き飛ばせ すっぱいかりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう』
 食堂は、腹を空かせた生徒達でごった返していた。昼間の陽光が差し込む白い空間の中では、食器が重なる音や生徒達の談笑する声、時折、食券機と厨房のタイマーの電子音も響き渡る。
 ようやくA定食をトレーに受け取ると、回鍋肉から漂う甜麺醤と甘い豚肉の香りに食欲を刺激されながら、夏樹は待ち合わせ相手を探した。
 同じくトレーを持った生徒とぶつかりそうになりつつ周囲を見回すと、中央のほうでこちらに手を振るガクの姿が見えた。
 「おせーぞ夏樹。先に食べてるからな」
 「悪い。やっぱり、定食じゃなくてラーメンにすればよかったな」
 二人は食堂内の横並びの大テーブルにスペースを確保し、先に来たガク、その向かいに夏樹が座る形で食卓を囲う。
 「いやあ、今日は朝から良い事尽くしだとは思わんかね? 夏樹クン」
 麺をすすりつつ、ニヤニヤした顔でガクが言う。
 「なんでさ」
 「そりゃ、西園寺さんに会えたからに決まってるだろ。俺たちと同じ、高校からの編入生ながら生徒会長に就任した文武両道の才女だぞ? おまけに、可愛い」
 それだけ言うと、更に麺を啜る。ラーメンの熱で汗が額を滑るが、お構いなしと言わんばかりの食いっぷりだ。
 同様に、食事を貪る夏樹だったが、その名前を聞いて、腕を止めた。

 「どうせ最後のが一番の理由だろ」
 再度手を動かし、ピーマンと豚肉、白米を同時に口に運ぶ。

 「バレてたか。いいよなー、生徒会は。毎日西園寺さんと会えるんだから」
 「ああ。正直、羨ましいよ。あんなに綺麗な人なんだな。西園寺さんは」

 夏樹が思うままの事を口にすると、ガクは麺を啜る最中だったので、麺をどんぶりへと吹き出した。

 「お、おい、あの夏樹が女子を褒めたぞ……!」
 むせながら、声を張り上げるガク。
 「そんなに驚く事か? ていうか、汚ねぇ」
 「いや、驚くべき事だって! 可愛い制服に、可愛い女子で有名なうちで、食指を動かさないどころか食欲を感じさせないお前を心配していたんだぞ、俺は!」

 そして、「てっきり、そっちの気があるのかと思っていた」などと言う爆弾発言をかまし、夏樹は、強めの否定を入れた。

 「いい加減、彼女作れよ」
 「俺は良いんだよ。そう言うのは」
 「大事だぜー? 『恋愛をすることでガキは大人になっていくんだ』って親父も言ってたしよ。それに来年の三年生になったらもう受験一色で恋愛してる暇なんてないぜ?」
 「考えとくよ」
 「誰か、いい人いないのかよ?」
 「久々に帰省した時の母親みたいだな」

 冗談半分で返しつつ、夏樹は、公衆電話ボックスでの見知らぬ生徒と行っている本交換の話をした。数ヶ月前から関係が続いている事。感想文の文字態から、おそらく女子生徒である事。誕生日にはチョコレートが多めに置かれていた事。

 「……ロマンチックで良いな、それ」
 ガクは、思ったよりも興味津々で話を聞いていた。色恋のことになると目の色が変わるのはおそらく気のせいではないだろう。
 「よし。命令だ、夏樹。その子の正体を探れ」
 「なっ」
 夏樹は、顔が赤くなるのを感じた。
 「だって、もう数ヶ月以上もそんな関係が続いているんだろ? 相手だって、そろそろ会ってみたいと思ってるはずさ」
 「まあ、そうかもしれないけれど」
 「何か手がかりはないのかよ? 溜まり場で出待ちするのはつまら……ロマンチックさに欠けるし」
 「……まあ強いて言えば、今朝見つけたこれだな」
 ガクの失言は聞かなかった事にして、夏樹は、今朝発見した文庫本の裏の文字列を見せた。

 『33876%(8→%2→♪☆%※+2:9〜#+(○%・☆ー』

 「何だよ、これ?」
 その数字列を見ると、ガクは怪訝そうな顔になった。
 「文庫本の裏に書いてあったんだ。今までは、こんなの無かったんだけど」
 そう言う夏樹には目もくれず、ガクは数字列を眺める。いつか夏樹が彼の試合を観戦した際に見せた、普段の軽快な雰囲気にそぐわない猛禽類のように鋭い目が文字列へと向けられている。

 「だめだ、さっぱり分からねぇ」
 「だろ? 下らない悪戯だよな」

 「最初は、二進法かシーザー暗号を使っているのかと思ったけど、そうなると記号が出てくる時点でおじゃんだし、ポリビオスの正方形にするにも、1から10までの数字に加えて、どれだけの記号があるか分からないから無理だもんなぁ。兎に角、記号がノイズすぎる」
 「随分、詳しいんだな……」
 普段の彼らしからぬ、理知的な雰囲気に夏樹は驚いていた。

 「前に、ミステリー小説にハマってた時期があってよ……! 探偵気取っちまった!」
 夏樹の指摘を聞いたガクの表情が、一瞬固まったのを、夏樹は見逃さなかった。そのまま、二人は何となく無言で食事を進める。回鍋肉の苦味が口内に広がる。

 「あいつか? 長谷川の脚ぶっ壊したやつ」

 沈黙していたせいで、その声はよく聞こえた。
 相手に気づかれないように目を向けると、二人の男子生徒がこちらを指差しているのが見えた。赤い校内履を着用しているのを見るに、三年生だろう。

 「そうそう。よくもまあ、人の人生ぶっ壊しておいて楽しそうに笑えるよな」
 「んな。しかも、長谷川が怪我したおかげでレギュラーに定着したらしいぜ」
 「おっかねー。やっぱり『あの噂』って本当なんじゃないか……?」

 そう言ってクスクスと笑っている。夏樹は、ガクに聞こえているかを確かめようと、窺った。すると、その顔からは先ほどの笑顔が消えている。夏樹が気づかぬ振りをして会話を再開しようとするが、

 「悪い。ちょっと行ってくるわ」
 ガクは立ち上がり、男子生徒達の席へと向かった。
 「お、おい」
 予想外の行動に戸惑う夏樹をよそにズカズカと進むと、男子生徒達の食事のすぐ近くに乱暴に手を着いた。ばんと言う音ともに、彼らの食事に添えられた水が揺れた。
 「こんにちは、先輩方。言いたい事があるなら直接言ったらどうすか?」
 詰め寄るガクの表情は、あくまでも柔らかい。何も知らない周囲から見れば、三人で会話をしているようにしか映らないだろう。
 「べ、別に何もでねぇよ。なぁ……?」
 「お、おう。そんなマジになるなよ」
 「動揺する位なら、最初から悪口なんか言うなよ、カス」
 去り際に、言葉を残すと、そのまま不機嫌そうにどかっと腰を下ろした。
 「いやーびびった、びびった。でも一発かましてやったぜ」
 夏樹に非を感じさせまいと、大袈裟な素振りを見せる。
 「……ありがとな」
 「よせやい! ほら、飯冷めるぞ!」
 煮えきらない表情の夏樹の下に、赤黒い甜麺醤が残っている。夏樹はそれを、ゆっくりと口に運んだ。
 すると、昼休みの終わりが近づいてきた。楽しい時間は甘美な食事の様で気づいたら終わりが近づいている。
 二人は手早く食器を片付け、食堂を後にした。

 「てかスルーしてたけど、お前、吹き出したラーメン全部食ったのかよ」
 「ったりまえよ。『アレルギー以外で食べ物を残すな』と親父に言われているからな」
 「うげえ」
 部活のせいで夏休みなど無かっただとか、隣のクラスの子が気になるだとか、他愛もない話をしながら廊下を進む。誰かが廊下の窓を開けているのか、色なき風が生徒の話し声で溢れる廊下を吹き抜け、一瞬夏樹は、ガクの声が聞こえなくなった。

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