太陽の光が顔に当たり、眩しさで麗奈は目を覚ました。あと五分寝ようと布団の中に潜り込み、あれっと思う。
 布団がいつも自分が着ているものではない。
 数秒間考えて、がばりと起き上がった。
(ここ、あたしの家じゃなかった!)
 確か昨日、雨の中さまよい歩いて民宿に辿り着き、熱を出して寝込んでいたのではなかったか。
 時計を見るために慌てて枕元にあった携帯を手に取り、電池がなかった事を思い出す。充電器を使おうと、鞄を探して部屋を見回すと、鞄の中にあった荷物が丁寧に新聞紙の上に広げて、部屋の隅で乾かしてあった。
 濡れたはずの洋服は、全て乾いて綺麗に畳んである。夜の間に洗って干してくれたのかもしれない。
「……ここまでしなくてもいいのに……」
 取り敢えず着ていたパジャマを脱いで着替えると、荷物の中から充電器を探し、部屋の隅にあったコンセントにプラグを差し込んで携帯を繋ぐ。電源を入れると、なんと二十通ものメールが届いていた。
「新着メール二十通……えーと、母、華奈、母、母、父、華奈、母、父、華奈……家族ばっかり」
 それだけ心配を掛けてしまったという事だろう。メールの内容も、麗奈の居場所を尋ねるものばかりだった。
 早く無事を知らせようと、麗奈は母の携帯に電話を掛けた。
『もしもし! 麗奈!?』
「あ、お母さん」
 電話を取った母の声は、前日に公衆電話越しに聞いた時とは裏腹にひどく焦っていた。
「ごめん、電話するの忘れてた」
『忘れてたじゃないでしょ、どれだけ心配したと思ってんの! 昨日は大丈夫だった? 泊まるところはあった?』
「うん、一応。連絡できなくてごめんなさい」
『できなかったの?』
「うーん、風邪引いちゃって」
『えぇ、大丈夫なの!?』
「薬貰ったし、もう元気だから」
『そう……』
 そこで母は一旦黙った。何かを考えているようだ。
『昨日からそのあたりの下宿先調べてるんだけど、これがなかなかなくてね』
「うん。あたしも昨日探してみたけど、全く。民宿があって助かった」
『ほんとに。……ねえ、その民宿、宿泊費いくら?』
「え……そういえばまだ聞いてない」
 ぼったくられたりしないか、やや不安になった。
『まあいいわ、いざとなったら私が出すから。ちょっとお願いがあるんだけど、二、三日そこに泊まっててくれないかしら』
「え?」
『だって、往復したら交通費が勿体無いじゃない。その間に、その辺に他の下宿先無いか探せるでしょ? 私も探しとくから』
「……宿泊費は勿体無くない?」
『全然! だって麗奈が親元離れて泊まるっていう、貴重な経験をする為のお金だもの』
 あっけらかんと笑う。何を言っても通用しない気がして、麗奈は素直に了承した。
「……分かった」
『それじゃ、また電話するから』
 ガチャ、と一方的に切られる。

 麗奈が携帯を置いて立ち上がり、宿の人に昨日の礼を言いに行こうと振り返ったとき。
「うわぁびっくりした!!」
 昨日の少年――ユウが入り口に立っていた。
「失礼だな。そんな驚く事ねーだろ」
「だって気配もなく立ってるから……ていうか勝手に開けないでください」
「一応ノックはしたんだが。電話中だったか」
「うん……あ、昨日は有難うございました」
「いーえ。もう昼飯だけど、食う?」
「あ、じゃあ頂きま……って、昼飯!? 今何時」
「十一時半。おそよーさん」
「……っ」
 揶揄うように言われて、なんだかひどく悔しかった。

「あ、おはようございます」
 ダイニングへ行くと、テーブルで新聞を読んでいた昨日の青年――コウが顔を上げた。
「昨日は有難うございました」
「気にしないでください、熱も下がったみたいで良かったです。お食事召し上がりますか?」
「い、頂きます」
 麗奈は勧められた椅子に座り、部屋を見渡した。
(ここ、本当に民宿……?)
 この宿に来た者は誰もこう思わずにはいられないだろう。それくらい、麗奈のイメージする「民宿」像とはかけ離れていたのだ。
 先程の泊まっていた部屋を出ると狭い廊下が右に広がり、襖があと二つあった。どうやら客室はあと二部屋あるらしい。廊下の向かい側のドアを開けると昨日見た玄関前の廊下だ。
 そこまではまだ良いのだが、その廊下を突っ切って反対側のドアを開けると、そこにあったのはダイニングルームだった。
 どこからどう見ても普通のダイニングだ。一般民家に泊まっているような気分になった。
 昨日見た建物の外観がもし古めかしい和風建築等であれば、まだ民宿の人達の居住スペースも兼ねているのだろうと考えることもできたのだが、外観はどうみても築数年以内のコンクリート住宅で、しかも周囲には似たような家が立ち並んでいた筈だった。
 民宿というより、お泊まりというかホームステイというか。

「はい、どうぞ」
 青年が盆に載った白飯と味噌汁、焼き魚を持ってくる。
「わ、美味しそう」
「有難うございます。召し上がってください」
 そう言って彼はあと二人分を麗奈の向かい側に置き、少年と二人並んで座った。
「頂きます」
 麗奈が箸を持つと、青年はにこにこして麗奈が味噌汁を飲むのを見ていた。
「どうですか? お口に合います?」
「はい。美味しいです!」
「良かったです」
 本当に嬉しそうに笑う。それを見て、隣の少年は呆れたような顔をした。
「自信ない飯を出したのか?」
「そんなものありませんよ、いつも食べるのは私たちだけなんですから。それにユウは、ちょっとやそっと分量を間違えても気付きませんからね」
「……そうかよ」
 麗奈は魚にも箸を伸ばしながら、目の前に座っている二人の顔を盗み見た。昨日は彼等の顔をまともに見ていなかった事を思い出したのだ。

 ユウといった少年の方は見た目十五、六歳くらいで、恐らく麗奈と同じ年頃だ。昨日も見ていたが、やはり髪は金茶色。瞳も髪と同じく金色に近い色をしている。コンタクトでもしているのだろうか。
 そして顔はというと、なかなか整った顔立ちをしていた。切れ長の目に少し長い睫毛、整った眉にすっと通った鼻。世間の若者の目から見れば、イケメンに分類されるだろう。麗奈はもともとそういうのに疎いので、ときめいたりはしなかったのだが。
 そして何故か、頬には名刺ほどの大きさの絆創膏が貼られていた。これで学ランを着崩したりしていたら、金髪と相まって不良にしか見えないだろう。
 一方コウと呼ばれた青年の方は見た目二十代くらい、特に目立った特徴はなく、優しげな瞳が印象的なお兄さん、といったところだ。ただ、髪も目も少しだけ色が薄くグレーがかって見えた。こちらもやはり顔立ちは綺麗なほうで、少年とは違うものの、大人っぽいイケメン人種である。

 この民宿には、この二人以外には人がいないようだった。会話の話題にも出ないし、料理もここにいる三人分しか用意されていない。
「あの……失礼ですけど、お二人はご家族ですか?」
 少し気になって尋ねてみると、青年は困ったような顔をし、少年は逆に尋ね返した。
「どう見える?」
 意地悪な質問だ。
「え? ……お友達、とか……親戚?」
 親子にしては歳が近すぎるし、兄弟にしては全然似ていない。
「まあ似たようなもんだ」
「はあ」
「それより、あんたいつまで泊まる?」
 話を逸らされたような気がした。
「え? 何で」
「だって、さっき電話で何か……二、三日泊まるとか言ってなかったか?」
「あたし、言ったっけ?」
「……受話器の向こうから聞こえた。声がでかい」
「……耳良いんだね。そうそう、下宿先探しててね。家族で田舎の村に引っ越したんだけど、あたしは一人で出て来て」
「ふーん」
 二人が少し興味深そうにしたので、麗奈は村を出てこの民宿に辿り着くまでの経緯を簡単に話すことにした。

「下宿先が見つからなくて住宅街を彷徨っていた」くだりを話したとき、不意に少年が麗奈の話を遮った。
「あんたが探してる“下宿”の条件って、何?」
「は? 条件?」
「そう。駅が近いとか、学校が近いとか、宿泊費はいくらだとか」
「特にない。強いて言えば、安いとこ。あ、でもバイト先が見つかればそこに近いところかなぁ」
「……そっか」
 それだけ言って少年はふと黙り込み、少し考えてから顔を上げた。
「あんた暫くここに泊まれば? 通う学校が決まったら他のところに移動しても良いけど、今だけ取り敢えず」
「えっ……良いの?」
「うん」
 泊めて貰えることにほっとしたが、一つの不安が浮き上がる。
「宿泊費は……?」
「三食の飯付きで、ズバリ一泊一万円也」
………………。
「ええぇぇっ!?」
 麗奈の声と青年の声が、見事に重なった。
「一万って、観光地でもないのに高校生相手に高すぎませんかそれ、ぼったくりじゃないですか! うちは今までそんなに高くはなかった筈です!」
 麗奈の変わりに、何故かこの宿の経営者であるはずの青年が反論する。
「なんだと、ケチ付けんのか」
「そうじゃなくてですね……」
 青年は少年に睨まれ、もどかしそうに口を閉じた。
「そういえば、この民宿二人で切り盛りしてるから家事とか片付けとか、いろいろ大変なんだよな」
 少年は青年の言葉を無視して、少し芝居がかったように呟いた。
「そこでだ。あんたここで暫くアルバイトしないか? どうせバイト先もこれから探すんだろ」
「へっ――バイト?」
「そう。時給は千円、一日十時間働けば宿泊費はチャラ。どうだ?」
「……それって労働基準法に背いてない?」
 確か雇用者は、労働者を一日八時間以上働かせてはいけなかったのでは。
「深いことは気にすんな。十時間ぶっ続けでこき使ったりしねぇよ」
 要するに、お手伝いさんとしてタダで泊めてやる、と言っているのだ。
「え……本当にいいの? あたしお金払わないってことでしょ?」
「良くなかったら提案したりするかよ。で、どうすんだ?」
「そんな急に言われても」
 お金も絡むし、親と話してみないことには何とも言えないし――と、ここまで考えて、自分はお金を出す必要がないことに気付いた。よくよく考えてみると、こんないい話はない。
 ひとまずは学校が決まるまでという事で、若干の不安はあるがとりあえず承諾する事にした。
「じゃあ……よろしくお願いします」
 麗奈が頭を下げると、少年は満足そうに頷いた。
「よし、じゃあ改めて。俺の名前はユウ。裕福の“裕”な。で、こっちがコウ。ひろしって書いて“宏”だ」
「……よろしくお願いします」
 宏が挨拶を返したが、その笑顔がなんだか明るくなかったので麗奈は少し不安になった。そういえば裕は、彼の意見を全く聞いていない。彼はもしかしたら、麗奈がバイトとして居座る事にあまり賛成していないのではないだろうか。優しいから口に出せないだけで。
 それにはお構いなしに、裕が食器を持って立ち上がる。
「じゃあお前、食い終わったら部屋を二階に移すぞ」
「えっ?」
「だって取り敢えず従業員側に回ったわけだから。食べ終わったら荷物をまとめて上に来い」
「あー……そっか。うん、じゃあそうします」
 裕は自分の食器を下げてリビングを出て行った。
 麗奈は食事を続けながら、宏の顔を覗き見る。しかし彼はまた静かに新聞を読み始めていた為、その表情を窺う事は出来なかった。

 食事を終えた麗奈は泊まっていた部屋に戻り、乾かしてあった荷物を全て鞄にまとめた。それを持って部屋を出ると、ちょうど裕が階段から降りてきたところだった。麗奈に向かって手招きし、再び二階へ上がっていく。来い、と言っているらしい。
 玄関の正面にある階段は右に半回転し、一階の民宿にあたる部分の真上の廊下に繋がっていた。一階と同じく廊下には扉が三つ並んでいる。
「こっちだ」
 裕に案内されて二階の最奥、道路側の部屋に入った。
「うわ……綺麗」
 中に入ると下の階とは違ってその部屋は洋室で、新築の家のようにピカピカだった。
「俺が今掃除したから。埃だらけだったし」
「凄い、ピカピカだね」
「倉庫に使ってない家具があるから、取りに行くぞ」
「え? 今?」
「遅くなったら面倒だ」
 裕が麗奈を待たずにスタスタ歩いて行ってしまったので、麗奈は部屋の隅に鞄を置いて慌てて後を追った。
 玄関から出て裏庭に回ると、家の裏側に倉庫の入り口があった。倉庫は家に備え付けのようだが、入り口が裏庭側にしかないらしい。中はかなり広く、中にはベッドや机のほかに箪笥やら自転車やら色々な物があった。
「使わない物がこんなにあるなら、売っちゃえばいいのに」
「……二部屋しか使ってなかったから、後一部屋分が残ってるんだ」
「あ、予備か」
「そう」
 裕は、ビニールで包まれた箪笥を斜めに倒して片方を支えた。
「ほら。そっち持て」
「あ、はい」
 二人で箪笥を抱えて二階へ上がるのは重労働だった。中身は入っていないから少し軽いものの、階段のカーブではかなり時間が掛かってしまう。
 箪笥を置いた後、分解されたベッドや机、椅子などを全て運び入れ終わった時には、準備を始めてから既に二時間が経過していた。

「取り敢えず終わったな」
「有難う」
 麗奈が礼を言うと裕は一瞬キョトンとして、それからふいと目を逸らした。
「別に」
(……無愛想)
 思えば、会ってから一度も彼が笑うところを見ていない。人見知りなのか、こういう性格なのかは分からないが、ニコリともしないのだ。客に対してくらい、もう少し愛想良くしてくれてもいいような気がする。
(あ、もう客じゃないのか)
 住ませてもらえる事になったのなら尚更だ。何でもいいから話題を見つけようと思って、窓を開けて外を見ていた裕に声を掛けた。
「ねえ」
「ん」
「その……、髪の色、綺麗だね。本物?」
「……それは、ズレるかどうかって訊いてんのか?」
「は? 違う違う! そうじゃなくて、染めてるのかなーと」
「これは地毛。目も本物」
「そうなの? ふーん……でもハーフっぽくないし……そういう血筋?」
「……まぁね」
 不思議な事もあるものだ。
 そして、再び沈黙。会話が続かない。
「あの……、顔のそれ、どうしたの? 怪我」
「喧嘩した」
「喧嘩したんだ……」
「向こうが売ってきたんだ。だから買った」
「あー、そう」
 顔が綺麗なんだから、あまり傷つけないほうがいいんじゃない。……とは流石に言えない。麗奈が次の話題を探していると、裕は窓から離れてドアに向かった。
「荷物、片付けとけよ。俺は下に降りるから」
「うん……あ、はい」
 裕が部屋を出て行ったので、麗奈は鞄から荷物を出し、置かれたばかりの箪笥や机の引き出しに入れていく。あまり多くもないので、数十分もしないうちに全て片付け終えてしまった。

 さっき裕が外を見ていた窓から外を見ると、住宅街の向こうに麗奈が電車を降りた霞原駅が見える。その更に遠くには、山がある。
 長閑な町だな、と思った。都会から離れていて、随分静かだ。
 麗奈は歓喜のために窓を全て開け放して部屋を出た。階段を降りて一階に足を付いた時、ダイニングのドアの向こうから裕と宏の話し声が聞こえ、麗奈は思わず足を止めた。
「……だから、どうして」
「何べんも言ってるだろ。何となく」
「何となく、ではないでしょう。今までこんな事は無かったのに……」
「今まで無かったらこれからも無いのか? 大体、従業員が増えるのがどうして悪いんだ。家事の手間が減るし、給料も払わなくていいし、十分じゃないか」
「確かにそれはいいかもしれませんが」
「だったらいいだろ」
「そうではありません! どうして、にん――」
「片付けは終わったのか?」
 裕が急にドアの外に向かって声を掛けてきたので、麗奈は飛び上がった。立ち聞きするつもりはなかったのだが、まさかあちらが気づいていたとは思わなかったのだ。
「う……うん、終わったよ」
「そうか」
 リビングに入ると、ダイニングテーブルの上には救急箱が広げられていて、宏が裕の左腕に巻かれた包帯を解いているところだった。
 喧嘩をしたという時に付けられた傷だろうか。顔だけでなくあちこちにある。包帯の下の傷はかなり深くて目も当てられないほどだ。
 にもかかわらず宏はピンセットで消毒液の染み込んだ脱脂綿を取って、バチンと音がするほど勢い良く傷口に叩きつける。
「痛ってえ!!」
 裕が悲鳴を上げた。
「我慢」
「今絶対わざとやっただろ!」
「喧嘩したのが悪いんです」
「……お仕置きかよ」
「そういう訳ではありませんが。ほら動かないで、消毒しないと化膿してしまいますから」
 宏が裕の左手首をがっちり固定して消毒を続け、裕は歯を食いしばって耐えている。暇を持て余した麗奈は、空いた椅子に座ってその様子を眺める。
 やがて、治療が終わって絆創膏や包帯の全てが取り替えられた。宏が救急箱を持って席を立った後、麗奈は立ち上がって裕に声をかけた。
「あの……ちょっと出掛けても良いかな?」
「は? 別に許可なんて取らなくても。何処か行きたいのか?」
「町の探検。駅前とか、お店が色々あったから見て回りたいなと思って」
「ご自由に。迷うなよ」
「う……気を付ける」
 麗奈は二階に上がって携帯と財布を鞄に入れ、民宿を出た。駅まではほぼ一直線とのことだったが、迷わないように何度も振り返って元来た道を確かめながら進む。傍から見れば挙動不審の怪しい人物に見えたかもしれないが、そうでもしないとまた昨日のように迷ってしまうから仕方ない。

 予定よりも少々時間は掛かったものの、無事に駅まで辿り着くことは出来た。
 駅前の商店街には服や雑貨などの店が色々あって、近くの学生らしき若者たちや、子連れの母親たちが楽しそうにおしゃべりしながら歩いていた。中高生がぶらぶらするのには持って来いの場所だ。
 今はまだあまり金を使う訳にはいかないので今日は見て回るだけにしたが、そうこうしているうちに気付けば一時間を軽く越していた。気になる店をいくつか見つけたので、また今度来ようと決めて携帯にメモを保存した。