授業中の腹痛を必死に耐え抜き、なんとか迎えた放課後。ガヤガヤといつまでも雑談に励むクラスメイトたちを横目に、私は体育委員会で配られた書類と担任教師から預かった鉄製の小箱を持って結川の席へと向かった。
「結川くん。」と声をかければ、結川は人の良さそうな笑みを浮かべる。
「あぁ、三上さん。早速始めようか!」
「うん。」
私は持ってきた書類を結川の机の上に広げて、鉄製の小箱を置いた。担任教師から預かった鉄製の小箱の中には、このクラス全員分の氏名入り判子が入っている。
プログラム制作とは言っても、以前体育委員会で配られた書類の中には、競技種目別に各クラスの参加メンバーを纏める表が何枚かあった。その表に、アンケートで決まった競技に参加するクラスメイトたちの氏名入り判子を押していくのだ。
それを体育教師に提出し、各クラスの体育委員が提出した表と共に纏められ、コピーされたものが一つの冊子になる。この冊子を体育祭当日にプログラムとして使うことになっている。
今から行う作業は、この数枚の表にクラスメイトたちの氏名入り判子をひたすらに押していく事だった。結川と手分けして競技種目別に、決まった参加メンバーを確認しながら、用紙に氏名入り判子を押していく。
「あー!ちょっと結川、何やってんの?」
黙々と作業をしていると、その手を止めるように騒がしい声が割り込んできた。用紙から顔を上げると、スクールカースト上位集団の一人でいつも田所たちと共にいる女子が結川に絡んでいた。
結川はその女子に向かって、ヘラリとした笑みを貼り付けて曖昧に首を傾げる。
「何って体育委員の仕事?」
「結川って体育委員だっけ?」
「いや、違うけど。田所が部活忙しいから、変わってくれって。」
「うわー、田所めっちゃ言いそう!」
女子は何がそんなに面白いのかケラケラ笑いながら、結川を肩をバンバン叩いた。
「てか、それで委員会代わってあげてるとか、結川めっちゃ良い奴じゃん!」
「そうかな?」
女子が言った『良い奴』という言葉が、やけに私の中で引っ掛かる。確かに結川は良い奴だと思うけれど、それは所謂『都合の良い奴』って意味ではないのだろうか。
「まぁ、体育委員の仕事ガンバ〜」
そんな軽い一言を残し、女子は教室に残っていた他の女子たちと騒がしく談笑しながら去っていく。それに続くように、今だに教室に残っていた他のクラスメイトたちも一人、また一人と居なくなっていった。
気付けば、教室には結川と私の二人だけになっていた。静かな空間で無言のまま結川と二人きりで作業していると、なんだか無意識に緊張して、いつものように下腹部が張っていくのを感じる。
またか、最悪だ。こんな時でも、私の腹は思い通りにならない。
人が居る静かな空間が苦手になったのは、一体いつからだろう。この空間に居ると、正常に自分が機能しなくなっていくのを感じるのだ。もともと、私が異常なだけかもしれないけれど。
どんどん活発になり始めた下腹部に焦り、それを誤魔化すように目の前の用紙に氏名入り判子をバンッ、バンッとあえて力強く押していく。
不意に、無言で作業していた結川が慌てたような声を上げた。
「うわー!間違えて同じ人の判子押しちゃいそうになった、危ねー!」
静かな空間を割くように、大袈裟に響いた声に私は密かに安堵する。
「これずっと判子押してると、頭おかしくなってこない?」
「なんか、どの判子押してたっけ?ってなるよね。」
「そう!これ全部やるの面倒くさいね…まだこんなにある!」
結川はパラパラと用紙を捲りながら、ガクリと肩を落として口を尖らせた。
「体育祭なんて無きゃいいのに。」
「ほんとにね。学校行事って大変なだけだよね。」
勝手にこんな面倒くさい仕事を押し付けられて、結川も散々な思いをしているだろう。そして、この何とも言えない遣る瀬無さは、きっと誰にも理解してもらえない気がした。
私の言葉に頷いた結川は、そっと目を伏せて小さく呟いた。
「ねー。もう、学校なんて無きゃいいのに。」
その聞き逃してしまいそうな程の小さな声に、私はこの学校で初めて同志を得たような感覚になる。
「無くなれば、もっと楽になれるのにね。」
「…三上さんも、そんな事思うんだ。」
「え、皆思うんじゃない?」
「そうかな?」
結川は私に向かって、意外そうな視線を送りながら俯いた。
「早く、楽になりたいな。」
祈るようにそう言った結川の表情は、前髪に隠れてよく見えない。けれど、その気持ちは痛い程に理解出来た。
いつになったら、私達は楽になれるのだろうか。学校が終われば、少しは生きやすくなるんだろうか。
どうにも出来ない気持ちをぶつけるように、私は手元の用紙にバンッと判子を押した。力を込めすぎたせいか、白い紙の上に押した名前が少し滲んでいる。ズラリと並んだクラスメイトの名前を視線でなぞり、小さく溜め息を吐く。
「…俺さ、なんか変だよね。」
「え?」
唐突に、結川が脈絡のない事を言ってきた。何の話だろうかと首を傾げれば、結川は何処か遠いところを見ながら深刻そうに口を開く。
「いや、なんていうか俺、体育委員じゃないから、こんなの田所にやらせればいいのに『都合の良い奴』がやめられない。」
結川の発言に、私は静かに目を見開く。それは、スクールカースト上位集団でいつも田所たちとワイワイ騒いでいる結川が言ったとは到底思えないものだった。
クラスのムードメーカーの思ってもみなかった本音を聞いてしまった衝撃で何も言えずにいれば、結川はハッとしたように顔を上げる。
「…あっ、いきなりこんなキモい事言ってごめん。やっぱ俺、変だよな。」
必死に自分の言葉を訂正するように、ハハハッと乾いた笑みを零す表情は何処か痛々しく見える。クラスのムードメーカーとして、いつもヘラヘラと笑う結川の秘密を知ってしまったような気がした。
「そんな事、ないよ。」
私の声に結川は笑う事をやめて、真っ直ぐに私を見た。その視線から逃れたいような気持ちになりながら、私も普段の結川のようにヘラッと笑って口角を上げる。
「…私も変だからさ。だから、大丈夫。」
何が大丈夫なのか、自分言ったのに全く意味が分からない。
けれど、目の前の結川の首から垂れ下がる赤い縄先が、その白い首にぐるぐると巻き付いていくのが見えて声を掛けずには居られなかったのだ。
まるで、数時間前に保健室から出て行った時のように、赤い縄は容赦無く結川の首を締め付けた。ギュッと肌に食い込んでいく赤い縄は恐ろしくて、背筋から冷や汗が流れる。
ゴクリと息を呑み結川を見れば、結川は無くしていた表情を少しずつ作り上げるように瞳を緩める。
「三上さんは、優しいね。」
その表情はいつものようなヘラヘラとした笑みを貼り付けたものではなく、とても自然で柔らいものに見えた。
結川の柔らかな表情に釣られるように、結川の首をぐるぐると絞めていた赤い縄も徐々に力を無くしていく。ダラリと縄先を垂らして、普段のようにゆらゆらと呑気に揺れ始めたその様子にホッと息を吐く。
赤い縄を見ていた視線を上げれば、結川は柔らかな表情のまま私を見ている。先程の結川の言葉を思い出しながら、私は目を逸らして呟いた。
「…そうでもないよ。」
私の言葉に結川は「えー?」と首を傾げながら、軽く眉を下げる。
本当に、私は結川の言うような優しい奴なんかじゃない。今の言葉だって、赤い縄が怖かったから言ったものだ。いつも自分の事で精一杯で、周りへの配慮なんか出来やしない。
そればかりか会話もろくに出来ず、いつまで経ってもクラスに馴染めない私は、高校へ入学してから友達の一人も出来なかった。人に合わせようと頑張ってはみたけれど、どうしたって私だけがズレている気がして居心地の悪いままだった。そんな出来ない事ばかりの欠陥人間が、私なのだ。
だからこそ私なんかよりも、結川は全然大丈夫だと思えた。スクールカースト上位集団の中に居て、皆とコミュニケーションが取れる結川は本当に凄いと思う。
「結川くんは『都合の良い奴』というか、真面目で優しいだけなんだと思う。人の優しさを自分の都合良く使う奴の方が、よっぽど変なんだと思う。」
先程の発言を聞いて、私は今まで結川をずっと誤解していたのだと気付いた。
結川はきっと、田所にとって自分が都合の良い奴でしかないと分かっているのだ。それでも、イジられキャラとしてヘラヘラと笑って理不尽を飲み込みながら、この学校という狭い世界で自分を必死に守っていたのかもしれない。
体育の授業中に笑われた私が、歪に笑って時間が経つのを待っていたように。そんな都合の良い奴になってしまう結川の気持ちが、ほんの少し私にも分かる気がした。
「三上さんは、やっぱり優しいよ。」
私の言葉をどう取ったのか、結川はそう言ってまた柔らかな表情になった。それを素直に受け入れることが出来ない私は「だから、そうでもないって。」と、そっぽを向く。
教室の窓から西日が入り込んで、風景が茜色に染まっていく。いつもは息苦しい教室が、今この瞬間だけは少し呼吸が楽になったように感じた。
あれから、結川と一緒にひたすらに氏名入り判子を押しまくり、競技種目別にクラスの参加メンバー表を完成させた。全ての作業を終えた頃には、すっかり日が沈み辺りは暗くなっていた。
帰宅部な為、普段はこんなに遅くまで学校に残る事がない私は、夜の校舎に少しの非日常を感じる。暗い窓の外では、巨大な電灯に照らされたグラウンドで今だに部活に励む運動部の声が響いていた。
蛍光灯が照らす廊下を結川と歩き、職員室まで向かう。
「プログラム制作、無事に終わって良かったよね!」
「本当に、結川くんが居なきゃ出来なかったよ。」
「ヘヘッ、じゃあ頑張った甲斐があるわ〜」
結川は頬を指でかきながら、得意気に笑った。クラスのムードメーカーらしく、ノリが良いリアクションは見慣れた姿でもあるが、その表情はいつもよりも何処か自然に見える。
職員室に着いて、体育教師に今日やった成果を全て提出する。そのついでに、担任教師から預かった氏名入り判子の入った鉄製の小箱もきちんと返しておいた。その際、私達を見た担任教師に「お前ら、まだ作業してたのか?」と驚いたような反応をされた。
そんな担任教師に向かって結川は一瞬のうちにいつものヘラヘラした笑みを貼り付けて「そーなんですよ!マジ大変でした!」と軽口を叩く。担任教師は結川の反応を「はいはい、お疲れさん。」と面倒くさそうにあしらった。
担任教師はきっと、結川が体育委員ではないと分かっている筈だ。それなのに、その事に触れずに居るのは一体何故なのだろうか。
生徒の事に深く突っ込まない方が、楽だと判断してるからなんじゃないのか。
見えてしまった大人の勝手さに、幻滅しそうになってから気付く。私だって田所よりも結川の方が都合が良いから、結川の申し出に甘えているだけではないか。人の優しさを自分の都合の良いように使っているのはどっちの方だと、先程結川に向かって自分が言った発言にも酷く吐き気がした。
私は、担任教師の事も田所の事を悪く言えないかもしれない。心の中で気に入らない相手に、自分の歪んだ正義を振りかざしているだけだ。やはり私は優しくなんかない、どこまでも卑しい人間なのだと思い知らされたように感じる。
「じゃ、三上さん。書類も提出したし、判子も返し終わったからもう帰ろっか!」
こちらを振り向いた結川の瞳が、真っ直ぐに向けられる。ヘラリとした笑みは、きっと結川なりの防御壁だ。その表情に、なんだか罪悪感を感じて視線を反らした。
「うん、そうだね。」
「じゃ、先生。俺達帰ります!失礼しました〜」
そう告げて結川と共に職員室を後にすれば、廊下のシンッとした静寂に包まれた。やるべき事が終わったという開放感と、結川に対しての複雑な心持ちで私は頭の回転が鈍くなるのを感じた。
結川の隣に並んで学校内を歩くなんてこれが初めてで、体育委員の仕事さえなければ私達の間には何の接点も無かっただろう。だからこそ、この不思議な感覚がやけに私の中で主張してくるのだ。
「あっ、もう完全に夏の匂いだね。」
そんな事を考えながら校舎から出た瞬間、結川は鼻をスンッとさせて何やら感慨深そうに言った。
暗いアスファルトの上を、夜風が緩やかに流れて運んで来た匂いは、確かに結川の言う夏の匂いに当てはまる気がした。
「本当だ。」と一言結川に同意しようとした時、グラウンドの方からやたらと騒がしい声が飛んできた。
「結川ー!お前、こんな時間まで何してんだよ!」
結川はその声に一瞬、ビクリッと肩を震わせた。声の主は、サッカー部の練習着を着た田所だ。
「何って、体育委員の仕事だよ!」
田所を見た結川はそう言って、態とらしく頬を膨らませる。その何処か冗談めいた仕草に、田所は意気揚々と結川の背負っていたリュックを掴んだ。
「あー?マジ?体育委員って、そんな大変なの?」
「そーだよ!誰かさんが、部活が忙しくて出来ないって言うから!」
「ごめんごめん!マジでサンキューって!」
噛み付く結川の言い分を、田所はケラケラと笑って流す。
そんな田所の背後から「田所ー!早く着替えろや!部室閉めんぞ!」と、グラウンドに居るサッカー部の野太い声が上がった。
「分かったって!今行く!」
田所はそれに対して、煩いと言わんばかりに吠える。額に浮かんでいた汗を乱雑に練習着で拭うと、結川の身体に思いっきり肩をぶつけて楽しそうに笑った。
「そんじゃ、結川一緒に帰ろーぜ!支度するから待ってて!」
「えっ、ちょっと!」
グラウンドへと走り去っていく後ろ姿に、結川は焦ったように声を上げたが、田所はそんな結川を知らんふりでサッカー部の部室へと消えていった。
嵐が過ぎ去ったように静かになった空間に、夏の匂いを含んだ風が流れる。その風が、私と結川の首に括りつけられた赤い縄を揺らしていく。
ゆっくりと私を振り向いた結川は、また普段通りのヘラヘラとした笑みを貼り付けていた。
「ごめん、三上さん。俺は田所待ってるから、先に帰っていいよ?」
「うん、分かった。」
先程までの自然な表情はもう、結川には無かった。それを少し残念に思いながらも、私は仕方がないように口角を上げる。
「じゃ、今日はお疲れ様。色々ありがとうね。」
「うん、三上さんもお疲れ!」
結川はハの字に眉を下げて、ふらふらと頼りなく手を振った。それを一瞥し、私は結川に背中を向けて足を進める。
街頭がチカチカと点灯を繰り返すのを眺めながら、今日一日の事を無意識に振り返った。私に何処かおかしな所は無かったか、適切な振る舞いだっただろうか。
予想外であった結川との会話を何度も思い出しては、自分の悪いところを嫌に実感して、頭を抱えてしまいたい気持ちになった。
後悔してもどうにもならない事をうだうだと考えていたら、いつの間にか駅に着いていた。帰宅ラッシュというやつか、駅構内は沢山の人々が行き交っている。
その中に紛れるようにして歩けば、首に赤い縄が括りつけられている人たちがやたらと目に付いた。私と同じ学生、スーツを着こなす大人、私服の大学生らしき人、派手な服装の若い女の人、色々な人が気味の悪い赤い縄を首から垂らして忙しなく歩いている。
彼らと私の共通点は、一体何なのか。擦れ違う様々な人達の首に見える赤い縄は、どんな理由で彼らの首に括りつけられているのか。
そもそもこれが全て私の妄想だとしたら、私は彼らをどのように認識しているのだろう。私の首に括りつけられている赤い縄は、彼らの首に括りつけられている赤い縄と同じものなのだろうか。
考えれば考える程に分からなくて、自分の首から垂れ下がった赤い縄を睨む。本当に何でこんな得体の知れないものが見えるようになってしまったんだ。
深い溜め息を吐きながら駅のホームで電車を待っていれば、見覚えのあるスーツ姿のサラリーマンが居た。何処か虚ろな目のサラリーマンの首からは、赤い縄が振り子のように大きく揺れている。
そして、以前見た時のようにその赤い縄は、サラリーマンの頬へ向かって縄先を強く打ち付け始めた。バシッバシッと音が聞こえて来そうなくらいに、容赦無く頬を叩かれているのにも関わらず、サラリーマンは虚ろな目でただただ線路の上を見ているだけだった。
赤い縄どころか、この世の全てが見えていないようなサラリーマンの姿は少し異様に思えて、思わず目を逸らす。
赤い縄は何故、あんなにもサラリーマンの事を叩いているのだろうか。
目の前のサラリーマンの姿が、学校で赤い縄に首を絞められていた結川の姿に重なった。結川の白い首にぐるぐると巻き付いた赤い縄は、今にも結川を絞め殺そうとしているように見えてとても恐ろしく感じた。
赤い縄が見えない結川にとっては特に何の異常も無いようで、息苦しい様子などは見れず至って普通に過ごしている。それが余計に、私にしか見えていない異様さを際立てているようで怖い。
私の赤い縄と結川の赤い縄には何か違いがあるのか、それとは逆に私と結川には何か共通点らしきものが存在するのだろうか。
私の首に括りつけられている赤い縄には、目の前のサラリーマンのように頬を強く叩かれたり、結川のように首を絞められた事は一度も無い。常に首から垂れ下がってゆらゆらと揺れたり、私を引っ張るように縄先を伸ばしたりするだけだ。
サラリーマンや結川の赤い縄は、一体彼らをどうしたいのだろう。脳裏で首を絞められた結川の姿を、もう一度思い返した。ぐるぐるとキツく首を締め付けた赤い縄を見て、そのまま放って置いたら、いつか結川がプツリと糸が切れた人形のように動かなくなってしまいそうな気がして背筋がゾッとする。
この数日間、体育委員を通して結川と関わる事が一気に増えた。以前のスクールカースト上位集団で、いつもヘラヘラしているクラスのムードメーカーという結川の印象は既に私の中で大きく変わっている。
結川は私が思っていたよりも穏やかな人柄で、スクールカースト上位集団に居るとはとても思えないくらいに人に対して気を遣う奴だった。今思えば、イジられキャラを演じているような、自分を都合の良い奴と認識している危なっかしさが、私が結川に対して少し気の許せるところのような気がする。
もしかしたら、そんな結川の見えない心境に呼応するように、赤い縄が揺れ動き時に激しく結川を責めるのかもしれない。首を絞められていると錯覚する程に息苦しい世界で藻掻く気持ちは、私にもよく分かる気がした。