制服を着た学生にスーツ姿のサラリーマン、清潔感のある服を着こなすOLや薄手のカーディガンを羽織る婦人。様々な人たちが集まる朝の駅のホームは、いつも通りに居心地が悪い。電車の到着時刻が迫り、徐々に人が増えていくのをなるべく視界に入れたくなくて足元に視線を落とす。
周囲を人に囲まれていると、どうやって立っていたら良いのか、何をしていれば周りから変に思われないだろうかと無駄に不安になって焦る。ただ電車を待っているだけなのに、今日も私だけが世界に上手く馴染めていないような気がして仕方なかった。
不意に、視界の先で赤い縄が揺れる。それは私の首を一周するように巻き付いて、顎の下、喉仏の辺りから鳩尾辺りにまで縄先が伸びてだらんと垂れ下がっている。その垂れ下がった縄先を天井や軒にでも縛り付けてしまえば、今すぐにでも首を吊る事が出来そうな気味の悪い縄だ。そっと手を伸ばして赤い縄先に触れようとすれば、私の手は想像していた通りに縄を擦り抜けて宙を掻く。己の首に巻き付いているのに触れる事の出来ない不思議なこの赤い縄は、今からちょうど二週間前に突如として私の首に現れたものだ。
二週間前の朝のこと、目が覚めて起き上がると見慣れない赤い縄が首に巻き付いていた。手でその縄に触れようとしても何故か全く触れられず、結び目さえも存在しない赤い縄は首から取り外すことが出来ない。寝る前には存在していなかった筈の縄は、まるで血で染めたようなどす黒い赤色で異質そのものだった。気味が悪い。
まだ自分が寝ぼけているのかと疑いたいが、鏡を覗き込みながら何度も何度も縄に触れようと悪戦苦闘している内にすっかり目は覚めてしまっていた。一体、この気味の悪い縄は何なのか。冷や汗をかきながら自分の部屋を出て、リビングに居る母に変な赤い縄が首に巻き付いていると必死に訴えるも、母は「…何か首にあるの?」と不可解そうな顔をして首を傾げた。
どうやら、母にはこの気味の悪い縄は見えていないらしい。未知のものへの恐怖が、一気に背中から全身へと流れて鳥肌が立つ。見えない母が可怪しいのか、見えてる私が可怪しいのか分からないが、ただただこの異質な赤い縄が怖い。襲い来る恐怖と謎の焦りに勢い任せて何度も何度も赤い縄の存在を口にするも、ついに母が赤い縄を見ることは無かった。
そんな馬鹿なと、どうしようもない絶望が私を襲う。けれども、日常生活からは逃れられないもので、自分の身に異変が起きようが行きたくもない学校に行かなければいけない。そんな脅迫じみた固定観念に背中を押されて、首の縄を気にしながらも恐る恐る家の外へと出れば、すれ違う人々は誰一人として私の首に纏わりつく赤い縄に反応を示さなかった。母と同じように、この異質な縄は誰の目にも見えていないようだ。
私だけが見えているという気味の悪さに、再び体内の温度が下がったような感覚になる。行き交う人々の中で、為すすべもなく戸惑う私を嘲笑うように、赤い縄はゆらゆらと怪しく揺れていた。その日から、私は突然首に現れた赤い縄と共に日々を送り始めることになったのだ。
少し離れたところから踏切の警報音が聴こえ始めて、駅のホームにアナウンスが流れる。暫くすると、柔らかな風を巻き込みながら電車がやって来た。その勢いのある風に靡くように、赤い縄の先が流されていく。自動ドアが開いてぞろぞろと人並みに呑まれるように電車に乗れば、より一層身体が重たくなった。逃げ出したくなるような憂鬱さに視線だけでも自動ドアに向ければ、残酷に電車内は閉ざされる。流れるように進み始めた窓の外の景色は、人が邪魔で僅かにしか見えない。周りを囲む人、人、人。その存在を考えただけで、一気に呼吸がしづらくなる。いつから私は、こんなにも人間というものが苦手になったのだろうか。
多くの人々が利用する密閉された電車内は、どこにも逃場が無くて気が狂いそうになる。周囲の人々も私と同じ人間という括りであるはずなのにまるで違う別の生き物のように思えて、どう足掻いても不完全な自分だけが酷く劣っていて、生き恥を晒しているような気がするのだ。
そして、やはりそんな私の醜さを表すようにぎゅるぎゅると腹が痛くなった。パンパンに張り出した腹が暴れ出しそうになるのを、冷や汗をかきながら必死に抑える。もう嫌だ。お願いだから誰も私に近付かないで。誰も私を見ないで。そうやって毎日毎日、息を押し殺しながら自分も殺す。この世界の何もかもうんざりして俯けば、視界に入るのはあの血の色のようなどす黒い赤。ああ、首に纏わりつくこの赤い縄が、私が大衆に醜い恥を晒す前にキュッと締まって絞め殺してくれれば良いのに。
無情にもそんな願いは届かず、惨めさに自己をボロボロに崩されながらも学校の最寄り駅に着いた。同じ学校の制服を着た学生たちが楽しそうに会話して歩く中を、逃げるように足を進めて駅のトイレに駆け込む。極限まで張り詰めた腹をなんとか緩めれば、惨めさは尚更増す。トイレの音姫の水の音が優しく響くのを、蛍光灯がチカチカと瞬く個室の中でただただ聴いていた。こんな朝がずっと続いていくならば、もうこのまま此処で死んでも良いと思った。
けれど刻々と過ぎていく時間に、無意識に心が騒ぎ出す。真面目とかそんな大層な人間じゃないのに、幼少期の頃から学校へ行かなければいけないと、大人たちに何度も刷り込まれてきた呪いのようなものが身体を動かすのだ。つまり、学校をサボる勇気が無い。きっと行きたくないと訴えたところで、学校を辞めるか辞めないかの選択があって、辞めたところでその先の将来が見えないし、このまま学校に行き続けるのは苦痛で明日も見えない。
どちらにせよ、地獄のように思える。私が真っ当に生きていける道はもう何処にも無いのかもしれないと、諦めの気持ちを抱えて便器から立ち上がった。
駅のトイレから出て、通学路を埋め尽くす学生たちに無理矢理に混ざるように歩く。朝から元気な女子高生たちのキャハハッという笑い声が、全て自分に向けられているような気がして居心地が悪かった。世界中の皆が、私を見て嘲笑っている気がしてならないのだ。今歩いている奴ら、皆死ねばいいのにと密かに心の中で罵倒する。
重い足取りのまま学校に辿り着けば、ざわつく校舎にまた腹が痛くなってきた。階段を上がって廊下を進み教室の前まで来ると、朝から盛り上がる男子や女子たちの会話が聞こえて一気に呼吸がしづらくなる。
「結川〜、今日の委員会代わりに行ってくんね?」
「えー!やだよ!」
「いいじゃん〜この前はトイレ掃除も変わってくれたじゃん〜。放課後に、体育委員は仕事あるって先輩が言ってたんだけど、俺部活行きてぇしさ。」
騒がしい声に顔を顰めながらも教室を覗き込めば、クラスでも目立つ生徒、所謂スクールカーストの上位の男女が教室の中心で一人の机を囲むように集まっていた。
「この前は大会が近くて部活が大変だからとか何とか言ってたから、仕方なくトイレ掃除代わってあげたんじゃん!体育委員とか絶対面倒くさいやつ!」
「だって、お前帰宅部じゃん?何か予定でもあんの?」
「無いけど、嫌だよ!」
囲まれた中心でそう騒ぐのは、このクラスのムードメーカー的な存在の結川周だ。スクールカースト上位集団の中でも、結川は皆のイジられキャラとして確立した地位を築いていた。
そんな結川に「頼むよ〜」とふざけたように声を掛けるのは、このクラスのリーダー的な存在である田所諒だ。サッカー部に所属している田所は女子からの人気も高く、何処か垢抜けた雰囲気で男子からも一目置かれている。
「行ってあげなよ結川〜、うちら応援してあげるからさ。」
「ね〜!ガンバ〜!」
「そんな応援いらないし!」
田所に便乗してギャーギャーと嫌がる結川を面白がるように、周りに居た女子たちも声を掛けている。よくある学生のノリ。今日も今日とて、あの場所は近寄り難くてうんざりとする。なるべく彼らを視界に入れないように、俯きながら窓際の後から二番目の自分の席に座った。
「まぁ、とりあえずそういう事で頼むよ結川〜」
「そういう事って何!?」
まるで漫才のように大袈裟にツッコんで、頭を抱えながら机に突っ伏した結川をケラケラと楽しげにスクールカースト上位集団は笑っていた。それを遠目に、何がそんなに楽しいんだろうなと冷めた事を思う。視線を集団の中心へと向ければ、机から突っ伏していた顔を上げて、唇を尖らせながら「不満気です」という表情をしている結川がいた。それは、本気で嫌がっていないような冗談まじりの表情で、また彼らはそんな結川をイジって一層笑う。
ふとその時、ゆらりと集団の間からよく見慣れた赤い色が揺れた。ケラケラと笑いが渦巻く中心に居る結川の首には、私と同じ気味の悪い赤い縄が巻き付いている。どす黒い血のような色をした縄は、あの楽しげな空間に恐ろしく似合わない。結川はこのクラスで唯一、私と同じように赤い縄が首に巻き付いている存在だった。コロコロと表情を変えて騒ぐ結川の首で、不気味に揺れている縄先にはなんだか禍々しさえ感じる。
この縄が現れた二週間前、最初は自分の首に巻き付いた縄しか見えなかったが、時間が経つたびに他の人の首にも同じような赤い縄が巻き付いているのが見えるようになっていった。通学中に擦れ違う人や同じ学生の中でも、首を一周するように赤い縄が巻き付いていて顎下から鳩尾辺りまでその縄先を垂らしている人たちが、決して多くはないが少なくもない。私と同じように異質な赤い縄が巻き付いた人とそうではない人の違いはよく分からないが、赤い縄が巻き付いた彼らは私と違って、自分の首にある赤い縄の存在が見えていないような気がする。
というのも以前、首に巻き付く赤い縄がブラブラと激しく揺れているサラリーマンを駅で見かけた事があった。気味の悪い赤い縄に意志のようなものがあるのかは知らないが、とにかくそのサラリーマンの首に巻き付いた赤い縄は自由気ままに縄先を遊ばせていて、振り子のように大きく揺れた縄先でサラリーマンの頬を何度も叩いていたのだ。縄に触れられないとはいえ、そう何度もバシバシと音が聞こえてきそうな程に暴れられたら、流石に不快に感じて手で縄先を振り払うような仕草をしてもおかしくない。けれど、そのサラリーマンは微動だにせず己の頬を叩く赤い縄の存在など、まるで認識していないかのようにぼんやりと線路を眺めているだけだった。それからも、何人か首に赤い縄が巻き付いている人を見かけたりしたが、皆その縄を認識している素振りを見せたことは無かった。
そして現在、教室の真ん中でクラスメイトたちに囲まれた結川も、己の首に巻き付く赤い縄に気付いている様子は今のところ見られない。男子高校生にしては色が白い結川の首に、赤黒い血の色をした縄はよく目立っていた。人の首に垂れ下がるそれは、まるで犬の首に着けられたリードのようにも思えて何度見ても強烈な違和感がある。
突然現れて見えるようになったこの縄は、一体何なのだろう。そう考えたところで分かる事なんて何も無いのだけれど、自分の首に巻き付く縄の存在があまりにも未知すぎてとても考えずにはいられない。こんな有り得ない現象を誰かに話したところで、到底信じてもらえるはずがないし何の理解も得られないだろう。そもそも、こんな話をできる誰かなんて私には居ないのだけど。
視線を落とせば、首から垂れ下がった赤い縄先が目に入る。今見えているものを他の誰かに証明する術は何もなくて、もしかしたらこの赤い縄は全て私の妄想なのではないかとも考える。この世界で私だけにしか支障をきたしていないとすれば、ただの妄想であっても何ら不思議ではないのだから。まぁ、例えこれが妄想であったとしても気持ちが悪い事に変わりはない。とうとうそんなものが見え始める程に、私は壊れてしまったのだろうかと自虐的に思った。
不意に、チャイムが鳴って長い一日の始まりを告げる。無理矢理に檻に入れられたような感覚が襲った。教室は一気に人口密度が増えて、少しすると担任教師が軽快な声で朝の挨拶をしながらやって来る。その声に結川の席に集まっていたクラスメイトたちも散り、全員が席に着くと静かな空間が訪れた。担任教師は教室内を一瞥すると、連絡事項を淡々と告げ始める。
静かな空間に響くその声を聞きながら、私は周りを囲むクラスメイトたちの気配に恐怖して、だんだんと身体が上手く動かなくなっていく。同級生が何十人も静かに座る教室内は、いつものように地獄だ。怖くて仕方がない。人に囲まれていると何処にも逃げ場がないように思えて、少しでも変な行動をとったら惨めさを含んだ視線を向けられそうで私はとてもまともでは居られなくなる。敵しかいない教室内で何も失敗は許されないのに、この空間に焦れば焦る程またぎゅるぎゅると腹が痛くなってきた。最悪だ。この空気の読めない己の腹に、もう何度絶望してきたことか。この腹を掻っ捌いて、中の役立たずな腸を引き摺り出してやりたいくらいだ。
こんな状況下で何故他の人は普通に過ごせているのか分からないし、私もいつから普通に過ごせなくなってしまったのかも分からない。クラスメイト達がいる教室でただ席に座って教師の話を聞く普通のことが出来ない私だけが、欠陥品のように思えて惨めで堪らない。とにかく早くこの時間を終わらせてくれ。そう願っても、担任教師の話はやたらと長くてなかなか終わる気がしない。
どんどん腹が張ってくる恐怖と焦りで額からは汗が流れて、呼吸も上手く出来ない。腹が痛い。ガスが溜まって死にそうだ。一層の事、盛大に恥を晒す前に殺してほしい。毎日、毎日嫌になるくらい何度も繰り返すこの瞬間にどれだけの死を願えば良いのか。汗で湿る手の平を痛めつけるように爪を立てて強く握り締める。
「えー、それから体育委員は今日の放課後に活動があるので三年一組の教室に行ってください。一ヶ月後にある体育祭の準備の事で色々と仕事があるそうです。」
そんな私の地獄を知る由もない担任教師は呑気に連絡事項を告げたかと思うと、何かを思い出したというように顔を顰めた。
「…そういえば、女子の体育委員は葉山だったな。」
担任教師の発言に、教室内の雰囲気が少し変わった。教師の告げた『葉山』とは、一週間ほど前に突然学校を辞めた葉山由香里のことだ。高校二年の四月の終わりという、新学年が始まったばかりの微妙な時期に学校を辞めた彼女には、援助交際が学校にバレただとか子供を妊娠しただとか、あらゆる噂がされていて、暇な学生たちのスキャンダルの的となっていた。
葉山由香里が何を思って学校を辞めたのか理由は分からないが、本当に急なことだったので担任教師も彼女の所属していた委員会のことまで気が回らなかったのだろう。
「えーと、急遽葉山が辞めてしまったので、女子の体育委員を決めます!委員会に入っていない女子は、挙手してください。」
担任教師の突然の物言いに、静かだった教室は少しざわめき出した。その薄っすらとしたざわめきに、苦しい静寂から解放されたと安堵したのも束の間ことで、私は自分が委員会に所属していない担任教師の求めている生徒の一人であることを思い出した。注目は避けたいけれど批判される事も避けたいので、私は爪の食い込んだ掌を恐る恐る上げる。担任教師の呼びかけに手を挙げたのは、私を含めて三人しかいなかった。
「この中で体育委員をやりたい奴は…いないよな?」
そう言った担任教師の視線が怖くて、目の焦点を宙に彷徨わせる。少しのざわめきの中、手を挙げた三人のうちの一人が、痺れを切らしたように声を張り上げた。
「先生ー!私、部活があるんですけど!夏帆も今日バイトだよね?」
そう言った三人のうちの一人、木嶋佳奈は積極的に自分には予定がある事を担任教師にアピールした。それに釣られるようにもう一人も「そー!そー!私もバイトあるから!」と何処かわざとらしいような口調で言う。
そんな彼女らの強引なアピールを面倒くさそうに一瞥した担任教師は、溜め息を吐きたそうな顔で私に問いかけてきた。
「あー、じゃあ三上はどうだ?」
「…えっ、」
何の心の準備もさせてくれない理不尽な問いかけに、私はまともな反応の一つも出来なかった。
「体育委員、やってくれるか?」
念を押されるよう言われた担任教師の言葉と共に、周りからの「面倒くさいからお前がやれよ」という冷めた視線が容赦無く身体中を刺す。最初からこの理不尽な提案を拒否する権利など私には存在していない。
何の抵抗も出来ず項垂れるように「…あっ、はい。」と小さく呟けば、教室内の滞っていた空気が再び緩やかに流れ出す。
「じゃあ、体育委員は放課後頼むな。次の授業遅れないように!解散。」
素早くそう告げた担任教師の言葉に、被さるようにHRの終わり知らせるチャイムが鳴り響く。ざわつき始めた校内に習うように、担任教師は言いたいことだけ言って足早に教室を出ていった。呆気なく終わったHRに、クラスメイト達はだらだらと雑談混じりに次の授業の準備をし始める。先程、担任教師に向かって部活があると強引なアピールをしていた木嶋佳奈は、集まってきた友人たちに向かって「まじセーフ!委員会とかダルくね?」と可笑しそうに笑っていた。
それを何処か冷たい目で見ながら、私は重たい身体をなんとか動かして席を立ち上がる。そのまま急ぎ足でトイレへ駆け込むと、世界を区切るように個室のドアを強く閉めた。薄暗いトイレの個室の中で、ゆっくりと目を閉じて瞼の裏の深い闇を見つめる。そうやって全ての感情を押し殺して、溢れ出しそうになるものをただただ必死に耐えた。
何度か諦めを重ねてトイレから出て教室に戻ると、教室には誰一人居なかった。予定表を見れば次の授業は移動教室であるため、授業の準備を終えたクラスメイト達は既に教室を去ったのだろう。自分以外に誰も居なくなった教室で、私はようやく深く息を吐き出した。静かな空間に始業の合図をするチャイムが再び流れて、少しの間立ち尽くす。そしてゆっくりと教室を出ると、私はすでに授業が始まっている移動教室ではなく一階にある保健室に向けて足を進めた。
保健室までやって来ると、ドアには『保健医不在』と書かれた看板が掛けられていた。それでも、ここ以外に行く宛の無い私は諦め悪くドアに手を掛ける。
すると、鍵は掛っていなかったのか保健室のドアは何の抵抗も無く簡単に開いた。白い壁に囲まれた空間は、消毒の匂いがほのかに鼻を掠める。開けっ放しの窓からは暖かい日射しが差し込み、室内に入ってくる緩やかな風がふわりとカーテンを膨らませていた。強張っていた身体が、少しだけ自由を取り戻したように呼吸がしやすい。
室内に置かれている長椅子に座りながら、誰も居ない保健室で何もしない時間を過ごした。首に括りつけられている赤い縄が、呑気に視界の端で揺れているを眺めながらぼんやりとした心地でいると、人気の無い廊下に一人の足音が響く。
徐々に近付いてきた足音に無意識に息を止めていれば、不意にガラッと保健室のドアが開けられた。驚いてビクッと肩を跳ねさせながら視線をドアへと向けると、そこには私と同じように気味の悪い赤い縄を首から垂らした結川周が居た。結川は今朝見た時とは違って、血の気が引けたように青白い顔色をしている。
「あっ、…三上さん。」
私の存在に気付くと、結川は少し目を見開いてから覇気の無い声で小さく呟いた。突然のことで私は「…ぁ、」とまともな反応も出来ずに、一人あたふたと情けない表情を作る。
そんな私に結川もどう反応したら良いのか分からないようで、「…保健室の先生、いないよね?」なんて誰がどう見ても分かりきっている事をわざわざ聞いてきたりした。それに対して情けない表情のまま「うん…」と答えれば、結川は「そっか。」と眉を下げて軽い声を出す。何故、私という人間はただの会話でさえも上手くこなす事が出来ないのだろうか。数秒間の言葉のやり取りでも躓き、結川に要らぬ気を遣わせてしまった。
それから特に何の会話もする事もなく、保健室には再び静寂が訪れた。遠くから授業をする声が聞こえるだけの穏やかな空間は、先程と違って居心地が悪く感じる。突然、現れた結川の存在が私は気になって仕方がないのだ。
ちらりと盗み見るように結川に視線を送れば、結川の白い首に巻き付いた赤い縄が嫌でも目に入る。ゆらゆらと振り子のように縄先が揺れて、その縄先がいつか駅のホームで見たサラリーマンの時のように結川の頬を何度か強く叩いていた。結川が縄先で叩かれている異様な光景を横目にしながらも、私は結川との会話で悪かったところを無意識に振り返り自分を責めることがやめられない。
何処か変なところはないか、私は正常な人間に見られているだろうか。ああ、結川はクラスの中心にいる人種だから、私とは違うあちら側の人間だから、絶対に変な事は出来ない。この嫌なくらい穏やかな静寂の中で、この忌まわしい腹でも鳴ったら私はもう終わりだ。
考えたくもないのに碌でも無い思考が止まらなくて、それに反抗するようにどんどん私の腹は活発になり始めた。必要のない緊張感で、私は身体を支配される。額から冷や汗が流れ始めたその時、結川は何を思ったのか、静かに保健室のドアを開けた。
「…なんか保健室の先生来なそうだし、俺、やっぱ授業に戻るわ。」
「…え、」
結川は血の気が引けたように青白い顔をしながらも、私を振り返って律儀にそう告げると保健室を出ていく。その何処かふらふらとした足取りに、私はハッとして座っていた長椅子から立ち上がった。
結川の体調は大丈夫なのだろうか。保健室へ来たということは、きっと体調が悪かったに違いない。結川の顔色の悪さを見ればそんな事一目で分かったはずなのに、私は自分の居心地の悪さに精一杯で何の気を遣うことも出来なかった。
自己嫌悪に襲われながら、結局自分はどうするべきだったのかと終わりのない反省に明け暮れようとしていたら、ガラッと再び保健室のドアが開けられた。結川と入れ違うようにして、室内にやって来たのは保健室の先生だった。
「あら、三上さん来てたの?」
保健室の先生は私に視線向けて、慣れたように声を掛けた。それに対して私は「…あ、お腹痛くて。」といつものように小さく告げる。
こうしてもう何度か保健室に訪れている私を、保健室の先生はどう思っているのか知らないが、毎回授業を抜け出してお腹が痛いとやって来る私に、少なくともあまり良い印象は無いのだろう。そんな事は分かっている。けれど、それでもお腹が痛いのは本当のことなのだ。
保健室を利用した後、授業へ戻ってもやはり毎回のように腹痛に襲われた。そう何回も保健室に向かうわけにもいかず、狭い教室内でクラスメイトたちに囲まれた席で何度も正気を失いそうになりながら、一日の長い授業を終える。やっとの思いで帰りのHRの時間になったと思ったら、担任教師は朝よりも簡潔に連絡事項を告げると、HR終了のチャイムが鳴ったところで「じゃあ、体育委員は放課後頼むな。」と朝と同じように軽々しい声を残して教室を去っていた。
その吹けば飛んで行きそうな程の軽い声に、重く深い絶望へと落とされる。私は一体何度地獄に落ちれば良いのだろう。朝のHRで理不尽に告げられた体育委員会の仕事を、私はこれからやり遂げなくてはならないのだ。最悪だ。もう立ち上がれない。既に私は私の限界を超えている。
このままならない感情をどうにもしようがなくて、席に座ったまま視線を落とせば、首から垂れ下がった赤い縄が見えた。相変わらず気持ちが悪い。
「佳奈ー!部活行こう!」
校内が一斉に騒がしくなって、教室内も友人たちで談笑する者や呑気に帰り支度をする者で溢れる中、隣クラスの少し派手な女子の大きな声が教室に響いた。
「あー!待って、今行く!」
その派手な女子の言葉に返すように、慌ただしく木嶋佳奈が荷物を持って教室内を駆けていく。
「てか、今日顧問来ないから自主練だっけ?」
「そーだって!」
廊下に出て行ったのにも関わらず彼女たちの大きな声のやり取りは、いまだ教室に居る私にまで聞こえてくる。何がそんなに面白いのか知らないが、足取り軽く部活へと向かう木嶋佳奈とその友人のケラケラと笑い合い声がうっとおしく耳に残った。気持ちが悪い。
身体から沸き上がってくる気持ちの悪さに、視線の先で揺れる赤い縄を睨み付けながら必死に耐えた。
「あの、三上さん。」
騒がしい教室内で突然、自分の名前が呼ばれた。その事に驚きながら振り返れば、眉を下げてこちらを伺うような表情の結川周がいた。
「…結川、くん?」
声をかけられるとは思ってもみなかったので、おどおどしながらも名前を呼べば、結川は少しぎこちなく口角を上げた。
「田所が部活忙しいみたいでさ、俺に変わってくれって事で体育委員のやつに行くことになったんだけど、一緒に行かない?」
そう言った結川の顔色は、保健室で会った時に比べてほんの少しマシになったように見える。けれど、結川の肌は依然として青白く首に括りつけられている赤い縄がよく目立っていた。
結川がふらふらとした足取りで保健室を出て行った後、
私は一限目の授業が終わってから教室へと戻った。
教室には既に移動教室から戻って来たクラスメイトたちが何人か居たが、その中でも何でもないような顔をして田所諒を含めたスクールカースト上位集団とヘラヘラ笑っている結川が目についた。
その姿は保健室で見た青白い顔色をした結川とは、まるで別人のようで、何処か無理をしているように思えて仕方なかった。
保健室で見た結川を再度思い出しながら、目の前に立つ結川をまじまじと観察するように見ていれば、結川は少し困ったように首を傾げる。そんな結川の様子に気付き、私は慌てて「うん、行こうか。」と返事をした。
朝のHRで担任に告げられた委員会が行われる三年一組の教室へ結川と共に向かうと、もう既に何人かの体育委員が集まっていた。見知らぬ他学年の生徒たちが集まる教室内は、とても居心地が悪くて気分が重たくなる。
体育委員長だという一人の先輩の「同じクラスや学年ごとに纏まって近くの席に座ってほしい」という指示に従って結川と私は隣同士の席に着いた。
暫くしてから体育教師がやって来て、今回体育委員が集められた説明を聞く。要するに来月行なわれる体育祭の準備の為らしい。
「体育委員の皆さんには、これから体育祭のクラスの種目決め、プログラム制作、当日のテント張りや競技の準備をやってもらいます。」
体育教師が書類など配りあれこれと説明をしている中、私はじわじわと焦っていた。何人もの見知らぬ生徒たちが私の周りの席に座り、教師内で静かに体育教師の話を聞いている。こんな状況で、一体どうやって正常でいられるんだろうか。
それでも正常で居なくてはいけないという緊張感と今にもとんでもない事をしでかしてしまいそうな不安感で、もう私の腹は条件反射のように痛くなり始めた。冷や汗が流れる。ただの授業でさえ毎日が戦いなのに、突然体育委員会に参加しなくてはいけないなんて、私の狭いキャパは既に限界を超えている。
そもそも体育委員なんて、運動神経が良くて元気があり、コミュニケーション能力も高い者がやるべきではないのか。帰宅部で運動神経も悪く、根暗で教室の何処にも居場所が無い私のような存在がやるべきではないだろう。
痛む腹を押さえて周囲を盗み見れば、同じ学年の体育委員は知っているかぎり皆、運動部に所属している者だった。陸上部にバレー部にサッカー部、話したことはないけれどノリが運動部というか、私とは全く別の人種である事は確かだ。
あぁ、本当に居心地が悪い。
そう無意識に思う気持ちは制御できず、空気を入れ続けた風船のように膨らんだ腸は、今に出口を求めて飛び出して来そうなほど私の下腹部でぎゅるぎゅると活発的になっている。
静まり返った教室内に体育教師の溌剌とした声が響く。こんな状況で恥を晒すなんて絶対に嫌だ。嫌に決まってる。そう焦れば焦るほどにお腹の痛みも張りもは酷くなって、どうしたらいいのか分からないまま、必死にこの状況が終わるのを耐えていた。
「三上さん、」
「…えっ?」
手に汗握りながら毎回のように起こる腹痛に耐えていれば、唐突に名前を呼ばれる。汗が流れた額を上げると、隣の席に座った結川が心配そうに私を見ていた。
「大丈夫?体調悪い?」
今だ体育祭の説明を行う体育教師に気を使ってか小声で話す結川に、私は一瞬何が起きてるのか分からなくてポカンとする。その瞬間、私は少しだけパニックになりかけていた思考から解放された。
けれど、結川の言葉を動きの悪い頭で理解すると同時に私は焦った。この静かな教室内で一人異常な腹痛を耐える私に、結川は気付いてしまったというのか。結川に声をかけられるほど、私は普通ではなかったのだろうか。そうだとしたら、それは余りにも私が惨めだ。ずっと一人で抱えてきた誰にも知られたくない秘密が、明かされてしまったような心地で呆然とする。
スクールカースト上位の集団にいる結川に、絶対に変な奴だと思われたくない。私は普通の事を普通にこなせる人間で居たいのだ。そうでなければならないのだ。人に囲まれると腹痛が止まらないなんて、こんな情けない理由があってたまるか。
感情がジェットコースターのように吹き抜けていき、残ったなけなしの理性で結川の首に巻き付いた赤い縄を見ながら歪に笑った。
「…だっ、大丈夫!ありがとう。」
そう言った声は我ながら情けなく震えていたけれど、結川はそれを特に気にする事もなく「そっか。」と一言呟いて、私の真似でもするように下手くそな笑みを浮かべる。
そんなやり取りをしていれば、やたらと長かった体育教師の説明もようやく終わりが見えて、今日の委員会活動はこれで解散になるようだった。形ばかりの挨拶を終えて、集められた体育委員たちは忙しなく教室を後にする。その様子を眺めながら、徐々に冷静さを取り戻した私はゆっくりと荷物を手にした。
どうやら、私は今回もギリギリ恥を晒さずに済んだらしい。けれど、膨れ上がった下腹部がいつか取り返しのつかない事をしてしまいそうで私は毎日気が気ではなかった。
そして先程、結川に体調不良ではないかと指摘されたことが一層重く心に伸し掛かる。やはり、腹痛に耐えながら必死に普通を装っていた私は何処かおかしく見えたに違いない。結川には大丈夫だと言うしかなかったけれど、私はいつだって全く大丈夫なんかじゃないのだ。
視線の先で、己の首に括りつけられた赤い縄が蠢くように怪しく揺れるのを冷めた目で追う。それは今にもこの首を絞め殺そうとしているようにも見えるのだが、意思があるのかないのか、生き物のように縄先を宙を泳がすだけでいつになっても呼吸は苦しくならない。
何もかもが、ままならない。
赤い縄へ向けていた視線を、他の体育委員が立ち去った教室で未だに私の隣の席に居た結川に移す。結川は荷物を片手にしながら、体育教師から配られた書類を静かに眺めて何か考えるように口を開く。
「体育委員の仕事、ヤバそうだね。」
きっと私に向けられているだろう発言に、私は少し慌てながら結川と同じく体育教師から配られた手元にある書類に目を向ける。あれやこれやと体育教師が長い説明をしていたが、正直腹痛に襲われて全く内容を聞いていなかった。
結川の発言に改めて書類に書かれた体育委員の仕事内容を見ると、とにかく仕事量が多い事が分かった。体育祭は六月の最初の週に予定されている。つまり今から約一ヶ月後だ。その間、この長々と書かれた仕事内容をやらなければならないと思うとうんざりする。
「…うん、そうだね。」
「多分、田所はこんなのやらないだろうな…」
結川のぼんやりとした声で、呟かれた言葉にハッとする。そうだ、本来ここに居るはずの体育委員は結川では無い。部活があるという田所諒に頼まれて、結川は今回の委員会に一時的に参加してくれたに過ぎないと今更ながらに実感した。
ということは、これから本来の体育委員である田所諒と協力して、体育祭まで続く大量の仕事をやっていかなけばいけないということなのか。私は今日何度目かの絶望した。
クラスのリーダー的な存在の奴と、協力なんか出来るわけがない。今日だって結川に無理を言って、自分の代わりに委員会に参加させる奴だ。そんな自分勝手な奴がこんな面倒くさい事をするわけがない。そんな状態でこれから先、一体どうやって体育委員の仕事をやっていけばいいのか検討もつかなかった。
「とりあえず明日、クラスで種目決めのアンケートでもとろうか?」
「 えっ!?」
これから先の事を考えて頭を抱えていると、結川は何でもないような顔をして簡単な提案をしてきた。その事に驚いて、思わず目を見開き結川を見る。
「…結川くん、体育委員の仕事やってくれるの?」
戸惑いながらそう聞くと、結川はヘラリと人の良さそうな笑みを浮かべる。その表情は、スクールカースト上位集団と一緒に居る時によく見かけたことがあるものだった。
「うん。というか、田所は絶対にやらないと思うからかさ。流石に三上さん一人じゃあ、無理でしょ?」
なんて良い奴なんだと思うと同時に、結川は本当にそれで良いのかという疑問が生まれる。私的には有り難いが、こんな面倒くさい仕事は誰もやりたくないだろう。
「本当にいいの?」
「うん、大丈夫。…それに、俺もきっと田所にやれって言われたら断れないし。」
そう言った結川の何処か諦めたような表情に、なんとなく共感が出来た。スクールカースト上位の集団に居る結川でさえ、クラスのリーダー的存在の奴に逆らう事は難しいのだろう。
自分を犠牲にして保たれる人間関係は虚しく、きっと長く続くものでは無い。それなのに正直、こんな面倒くさい委員会の仕事までわざわざ肩代わりしてやる結川の気がしれなかった。
けれど、私としては田所なんかよりも話がわかる結川と共に委員会の仕事をやる方がよっぽど良いので、何の不都合もない。
「そっか。じゃあ、これから大変になると思うけど、よろしくね。」
「うん。頑張ろー。」
結川は相変わらずヘラヘラとしながら、「じゃあ、明日のHRで体育祭の種目決めの事を話そう。んで、それが決まったらプログラム制作をして体育教師に提出しにいこう。」とこれからの流れを軽く打ち合わせをする。クラスへの連絡事項など苦手な事しかない作業だったので、コミュニケーション能力が高い結川が居るだけでも助かる事が多い。
「じゃ、三上さん、今日はお疲れ。」
「うん、お疲れ様。」
必要なことだけ簡単に話し合うと、結川は荷物を持って教室を出て行った。去っていく結川の背中を見送りながら、はぁーと深く息を吐く。
ようやく、長かった今日が終わりそうだ。誰も居なくなった教室で、緊張の糸が切れたように私はしゃがみ込んだ。膝に顔をめり込ませるようにして目を瞑ると、暗闇に溶け込んでいくような気持ちになる。このまま、何も見ずに終わりたい。
教室の開けっ放しにされた窓から、部活に励む学生たちの明るい声が聞こえてくる。グラウンドから響き渡るその声がなんだか辛くて、早くこんな場所から帰ろうと重たい身体を立ち上がらせた。
荷物を持って、教室から出てて廊下を歩く。首に括りつけられた赤い縄の先が、藻掻くように私の前を行く。まるでその縄先に、私の全てが握られているような気持ちになって、無抵抗のまま引っ張られるようにして歩いた。
まだ五月の始め頃というのに、一層暑さを感じるような日だった。眩しい太陽の日差しが降り注ぐグラウンドで、二限目の体育の授業が行われていた。
「体育委員はソフトボールとグローブの用意しといて!」
まだ本格的な夏が来ていないのに、既に若干日焼けした体育教師がそう言って私に指示を出す。それに小さく「…はい。」と答えて、一人自信無さげに体育倉庫まで授業に必要な道具を探しに行く。
運動部でも無い私は、体育倉庫に入ること事態が初めてだった。薄暗い倉庫の中では、何処に何が置いてあるのかよくわからない。目を凝らしてなんとか指示されたボールとグローブを探し出すと、籠いっぱいに入れられたボールをよたよたと倉庫から運び出した。
「キャッチボールとかダルくない?」
「ねー!グローブとかはめたくないんだけど!」
背後から聞こえてくる会話に目を伏せて、もたつきながらもボールの籠を置くと、今度はグローブを運び出すために再び倉庫へと戻った。
小さな事でキャハハッと騒ぐ女子たちの声が、少し遠くに感じる薄暗い倉庫内は何故か落ち着く。
突然、体育委員に決められてから一週間が経った。あれから、結川は一緒に体育委員の仕事を手伝ってくれている。数日前は、クラスメイトたちに体育祭の種目決めのアンケートを取ったところだ。
現在の体育の授業は男子と女子が別々の内容を行っているため、女子の体育委員の仕事は全て私がやらなければいけない。体育の授業がある度に体育委員は、授業の準備や運動前の体操などクラスメイトをまとめる仕事があるのだが、皆の前で何かをしなければいけないのは、私にはとても気が重くて全く慣れる気がしなかった。
「じゃあ、キャッチボールするから二人組作ってくれ!」
外から聞こえてきた体育教師の溌剌とした声に、慌ててグローブの入った籠を持ち上げる。急いで外に出てクラスメイトたちが集まる場所にグローブを持っていくと、既に二人組を作った者たちが次から次へと運んで来たばかりのグローブを持って行った。
その様子に焦って周りを見渡せば、既に女子全員が二人組を作り終えていて、私はそれを一人ポツンと見ている事しか出来なかった。あぁ、私はいつもこうだ。
先程、キャッチボールがダルいと文句を言っていた女子たちも、あーだのこーだの言いながら結局楽しそうにキャッチボールをやり始めている。太陽の光を浴びた彼女たちの着ている体操着の白が、やけに眩しく見えて目を背けた。
無意識に溜め息を吐いて、ソフトボールとグローブを持って一人とぼとぼと体育教師の元へと向かう。
「ん?何だ、三上はまた余りか?」
私を見ると、体育教師は冗談交じりに笑って言った。きっと、そこまで悪気は無いんだろうなと分かっている。けれど私は、体育教師の言葉に笑い返しながら器用に返事をする事が出来ない。全然、笑えない。
そんなやり取りを見ていた近くの女子たちが「ちょっと、センセーひどい!」とケラケラ笑いながら言う。それに対して体育教師は「えぇ?」なんて、惚けたような声で調子良さげに笑うのだ。この人たちは、一体何がそんなに面白いんだろう。
途方もない息苦しさが私を襲う。こうゆう時、一人の惨めさを感じる。狭い教室内で、誰とも仲良くなれないのはそんなにいけない事だろうか。私は何か笑われるような事をしているんだろうか。
それでも、私はこの人たちに合わせるように歪な笑みを浮かべるのだ。読みたくもない空気を読んで「あはははっ、」と無理矢理に笑う。その度に何かを失っていくような気持ちになりながら、時間が過ぎていくのをひたすらに耐えた。
けれど、やっぱり酷い疲労感に耐えられなくて、気付けば持っていたソフトボールもグローブも置いて体育教師に声を掛ける。
「先生、体調が悪いので保健室に行ってもいいですか?」
「ん?あぁ、行って来い。」
曖昧な表情でそう言った私に、体育教師は特に何も気に止める事もなく、授業をする為にキャッチボールをする女子たちの元へと戻って行く。
その体育教師の無関心さに、私は心置きなく授業を抜け出して保健室へと向かった。
保健室へと向かう途中、広いグラウンドの反対側からクラスの男子たちのふざけ合う声が聞こえて来る。女子のソフトボールの授業とは違い、男子たちは野球の授業を行っているのだ。
なんとなく視線を送ると、田所諒を含めたスクールカースト上位集団の男子たちが楽しそうに野球をやっている。その中に、いつも居るはずの結川の姿が見えなくて私は首を傾げた。
不意に、視界を赤い縄先が横切る。そして、赤い縄は私の行く手を示すように、日差しの眩しいグラウンドから薄暗い日陰の校舎内に縄先を伸ばした。触れることも出来ない赤い縄からは大した力を感じる事も無いのに、私は犬のように引き摺られるようにして校舎内へと入っていく。
赤い縄先の示すまま、気配を消すように廊下を歩いて目的の保健室まで辿り着いた。慣れたように保健室の引き戸をガラッと開けると、微かな消毒の匂いが鼻を掠めて深く息を吐く。
室内はあの日のように保健室の先生は不在のようであったが、病人用の二つあるベッドのうち、片方だけが外を遮断するようにベッド全体をカーテンで囲まれていた。
どうやら私よりも先に来た誰かが、もう既に保健室を利用しているようだ。なんというか、一人になりたくてこの場所に来たのに、同じ空間に同じ学生の誰かが居るという居心地の悪さに内心落ち込む。何だか、全部上手くいかない。
こんな情けない私をこの世の全てが嘲笑っているように思えて、八つ当たりのようにカーテンの向こうの見えない存在を睨み付けた。
すると、唐突に睨み付けていたベッドのカーテンが揺らめいて中に居る誰かの気配が濃くなった。
「先生、今日はもう帰りたいです。」
低く吐き捨てるような声と共に、ベッドを囲んでいたカーテンがシャーッと勢い良く開けられる。
カーテンの中から出て来たのは、首によく見慣れた赤い縄を垂れ下げた結川だった。結川は私と目が合うと、瞳を大きく見開いて驚いたような表情をする。
今の言葉から察するに、きっと結川は保健室にやって来たのが私ではなく、保健室の先生だと勘違いして声を発したのだろう。
授業の真っ最中である今の時間に保健室を訪れる者は少なく、きっと保健室の先生が居ないと分かったら諦めて授業に戻る生徒もいるはずだ。
そんな状況の中、立ち去る事もなく堂々と保健室内にやって来た私の気配を結川が保健室の先生のものだと勘違いしても何も不思議ではない。
目の前で無言のまま立ち尽くす結川は、以前見た時のように顔色を真っ青にしていて酷く体調が悪そうに見えた。その様子から、体育の授業に参加していなかった事にも納得がいく。
「…なっ、なんだ、三上さんだったんだ。保健室の先生かと思って喋っちゃったよ。」
なんとなく気まずいような空気を誤魔化すように、結川は「ハハッ」とおちゃらけたように笑った。それはクラスメイト達に囲まれている時と同じような軽い口調であるものの、無理矢理に口角を上げている表情は歪で全然笑えていない。今にも倒れそうなほどに青白い顔色は、むしろ心配になる程だ。
そんな結川の様子に、私は思わず口を開く。
「結川くん、体調悪そうなら、そんな無理しなくていいよ。」
「えっ、」
以前はスクールカースト上位集団にいる結川が少し苦手だったけれど、体育委員会を通して結川と関わってから、私の中で結川の印象が大きく変わっていった。
教室内でクラスメイトたちに囲まれ、ムードメーカーとして騒いでいたりする結川は今も若干近寄りがたいけれど、こうして結川一人と向き合うと結川は案外穏やかで、想像以上に人に気を遣っている人間なのだと感じる。
それこそ、体育委員の仕事も含めて、友達も居ないスクールカースト底辺にいる私のような奴にまで気を遣ってくれたりするのだ。
「顔色悪いし、ベッドに戻った方がいいよ。保健室の先生呼んで来ようか?」
「えぇ!?いや、大丈夫!大丈夫!」
私の言葉に結川は青白い顔色のまま、慌ててブンブンッと手を振った。以前も顔色を悪くしながら、保健室にやって来た結川の姿を思い出す。もしかしたら、結川はあまり身体が丈夫な方ではないのかもしれない。
「三上さんこそ体調悪いの?大丈夫?」
そんな事を考えていれば、私よりも重症そうな結川が心配そうに眉を下げて声を掛けてきた。その自分を優先しない優しさは、見ていてとても危なっかしいと思う。
唐突に、ガラッと音をたてて保健室のドアが開けられた。
「あぁ、三上さん来てたのね。どうしたの?」
保健室へ戻って来た先生が、いつもように優しげな口調で私に聞く。それに少し安堵したような、後ろめたいような気持ちになった。
「ちょっと、気分が悪くなって…」
「確かにそんなに顔色は良くなさそうね。とりあえず、体温測ってみて。」
「はい。」
保健室の先生に、手渡しされた体温計を受け取った。保健室の中心には一台のテーブルとそのテーブルを挟むように二脚の長椅子が置いてあり、保健室に来ると他の生徒たちが、度々この長椅子に座って怪我の手当を受けたり、保健室の先生と会話をしたりしているのを見かけた事がある。
私もそれを真似するように、長椅子に座りながら大人しく体温を測った。体温を測り終えると、目の前のテーブルの上に置かれていた冊子を広げる。この冊子は、保健室にやって来た生徒たちの氏名や体温、時間帯や症状などが細かく記録されているものだ。
一番新しく書かれている名前は、そこに居る『結川周』のものだった。その結川の下に『三上律』と自分の名前を慣れたように記入する。測った体温は、特に異常もなく平熱だった。
「体育の授業だったの?今日は暑いから、気分も悪くなるわね。」
体育の授業中を抜けて来た体操着姿の私を見て、保健室の先生は部屋の窓を開けながらそう言った。そして、その足で私の方へ近寄ると、テーブルの上の記入したばかりの冊子を覗き込む。
「熱は無さそうね。ちょっとの間、保健室でゆっくりしていって。」
「はい。」
保健室の先生は「一応、これ使って」と、保健室の片隅に置いてある冷蔵庫から保冷剤を取り出して渡してくれた。それを額に当てると、じんわりと冷たさが肌に伝わり気持ちが良い。
開けられた窓から室内に入り込んだ生温い風は、私の首に括りつけられた赤い縄を揺らし、結川のいるベッドのカーテンもふわりと揺らす。
「結川くんは、もう大丈夫なの?」
「はい、大丈夫っす。」
保健室の先生の声にまだ少し顔色が悪いにも関わらず、結川はヘラリと笑ってベッドのカーテンから出て来る。
「えっ、でもさっき帰りたいって…」
「そうなの?」
平然と笑っている結川に、私は数分前に保健室にやって来た時の事を思い出す。結川が私を保健室の先生と間違えて言った言葉は、今の結川の発言とは真逆のものだったはずだ。
私の指摘に、保健室の先生も結川を伺うように首を傾げた。
「いや、そんな事!もう、全然大丈夫なんで!」
しかし、結川は焦ったようにその事を否定してヘラヘラ笑いと元気をアピールする。ベッドのカーテンから出て来た結川は軽い足取りで、テーブルを挟んで私の正面の長椅子にどさりと座った。
「…まぁ、分かったわ。本当にしんどくなったら、ちゃんと言ってね?」
結川の言い分に保健室の先生は、何か考えるようにしながら心配そう微笑んだ。今だに顔色が優れない結川の顎の下、白い首から垂れ下がった赤い縄先が目の前でふわふわと宙を漂っている。
「体育祭も近付いて来たし、二人とも体調管理気を付けないとね。」
保健室の先生が言った言葉に結川はガクッと俯き、テーブル上に顔を押し付けた。
「はぁー、嫌だな体育祭。」
結川の少しぐもった低い声に、私は思わず顔を上げた。
保健室の先生は結川の寝ていたベッドのカーテンを全部開けて、布団を整えながら会話を続ける。
「暑いし、大変だものね。出る種目とかは決まったの?」
「リレーと障害物競走と綱引きと大縄と二人三脚と…」
「そんなに出るの!?」
作業していた手を止めて、保健室の先生は驚いたように声を上げた。
「だって、皆出たくないって…ね、三上さん。」
「まぁ、そうだね…」
結川に話を振られて、私は以前結川と共に体育祭の種目決めについてクラスメイトにアンケートを取った時の事を思い出した。とりあえず、一人二種目は確実に出なくてはいけないのだが、体育祭の種目は割と多いのでクラスでも何人かは二種目以上の種目に出ることになっている。
しかし、誰も積極的に参加したくないので「てか結川、運動神経良さそうじゃん?出れば?」という理不尽な田所の発言に、スクールカースト上位集団を含めたクラスメイトたちが便乗したのだ。それに対して結川はいつもようにヘラヘラしながら否定するも、結川のイジられキャラ故に皆まともに取り合わなかった。
クラスのリーダー的存在の田所の発言に誰も歯向かう事は出来ず、結局結川が一番多く種目に出る事になってしまったのだ。
「何それ、酷いわね。」
「まぁ、結局誰かがやらなきゃいけないしね。三上さんも、四種目も出てることになっちゃって。」
「えっ!?三上さんも?」
「…はい。」
重々しく返事をする。種目決めはとても難航し、結川があまりにも不憫だったので、運動は苦手であるが体育委員という事で私も四種目ほど参加する事になった。綱引きや玉入れなど、なるべく体力を使わない種目を選んだので、そこまでハードなスケジュールでは無いはずだ。
本来は運動部が率先して競技に出れば良いのに、どいつもこいつも本当に碌でもない。最悪だ。体育祭なんて大嫌いだと、心の中で暴言を吐く。
「無理そうなら、断っても大丈夫よ?私から担任の先生に話をしましょうか?」
「…いえ、大丈夫です。」
保健室の先生の言葉は凄く有り難いし、こんな話出来れば断りたい。けれど、断ったところでクラスメイトたちに非難されるのは目に見えている。今以上に、教室に居づらくなったら困るのは私だ。
「そういえば、三上さん。体育祭のプログラム制作って、明後日締め切りだよね?」
「うん。そろそろ、やらなきゃいけないよね。」
「種目決めも終わったし、今日の放課後に作業して明日あたりにでも提出しにいこうか。」
「私は全然大丈夫なんだけど…結川くんは大丈夫なの?」
「ん?何が?」
コテンと首を傾げる結川に、顔色悪く帰りたいと言っていた結川を再度思い出し、「体調とか…」と聞きたくなった。けれど、きっと結川は何度聞いても先程のように「全然大丈夫!」と言って、ヘラリと笑うような気がする。
「いや、やっぱ何でもない。」
「そ?じゃあ、放課後よろしくね!」
結川がそう言った瞬間、空間を区切るように授業終了のチャイムがなった。次第にざわつき始める校内に、気分は徐々に重たくなる。次の授業は、確か数学だ。クラスメイトに囲まれた息苦しい教室に戻って、襲ってくる腹痛と格闘しなければならないと思うと、とても長椅子から立ち上がる気が起きない。
「あー、もう戻んなきゃ。」
時計を見ながらポツリと呟かれた結川の声も、何処か重苦しく聞こえる。
それ同時に、保健室の前の廊下を横切る生徒たちのガヤガヤした声と、バタバタと煩い足音が聞えて思わず眉を寄せた。
「結川ー!」という大きな声と共に、保健室のドアが勢いよく開けられる。私と同じように体操着姿の田所が、ズカズカと遠慮なく保健室に入って来て、長椅子に座っていた結川の肩に遠慮なく腕を回した。
「おーい、体調大丈夫かよ?次数学だぞ?早くしねぇと、先生うるせぇからさ。」
「分かった分かった、今行くって!」
田所に促されるようにして結川は立ち上がると、保健室の先生を振り返り「じゃ、先生、俺戻ります。」と律儀に告げた。そんな結川に、保健室の先生は「うん、頑張ってね。」と微笑みながら返す。
騒がしい田所を連れ出すように、結川はそのまま足早に保健室を後にする。その背中から微かに見えた赤い縄は、ゆらゆらとその縄先を揺らしたかと思うと、突然マフラーのようにぐるりと結川の白い首に巻き付いた。
ぐるぐると巻き付きついていく縄先は、まるで結川を絞め殺そうとしているみたいでゾッとする。やはり奇妙な動きをする赤い縄には、何らかの意思があるのだろうか。赤い縄に首を絞められている結川は、特に何の変化もなくいつものようにヘラヘラと笑って田所と呑気に歩いていった。
その光景に、思わず鳥肌の立った肌を擦った。俯くと視界には、自分の首に括りつけられた赤い縄が揺れている。まるで血で染めたかのような気味の悪い縄は、いつか私の首も絞めるだろうか。強く、息苦しさも分からなくなるくらい強く、縄がギチギチと私の首に食い込むのを想像した。
「三上さんは、どうする?」
保健室の先生から声を掛けられ、そっと視線を赤い縄から外す。
「…私も、戻ります。」
「そっか。」
叶うならばずっと此処に居たいけれど、そうゆう訳にもいかない。まだまだ授業は続くし、放課後は結川と体育祭のプログラム制作をする予定がある。
それに今日、体調不良で帰宅が許されたとしても、結局は明日も明後日も学校に行かなければいけない。この理由のわからない異常な腹痛にどれだけ悩まされても、私は卒業するまで授業に出続けるしかないのだ。
私を突き刺す痛い程の現実に、諦めの感情で長椅子から立ち上がる。持っていた保冷剤を保健室の先生に渡して、保健室のドアを静かに開けた。
保健室の先生はそんな私を見送るように、一緒に保健室の外まで出て来てくれる。「行ってらっしゃい。」と授業に戻る私に向かって微笑む姿が、あまりにも優しくてなんだか泣きそうになった。
高校二年生が始まったばかりで、卒業までの道のりは途方もなく遠い。電車に乗ることも、学校に来て授業を受けることも、いつの間にか普通に出来なくなってしまった。教室には一人も友達が居ないし、居場所も無い。そんな状態で、この先どうやって学生をやっていけばいいのか不安でしかない。
普通の事が普通に行えない虚しさと惨めさで、どんどん私は可怪しくなっていく。こんな気味の悪い赤い縄なんて見えるのだから、本当にどうしようもない。心底、自分が気持ち悪い。
一人廊下を歩きながら、首に巻き付く赤い縄にそっと触れた。触れたと言っても、縄の感触もないので触れているのかは分からない。
やはり私の妄想なんだろうか。けれど、それでもいい。もう何でも良いから、教室に着く前に私の首を絞めてほしい。いつになったら、私は終われるのだろうか。早く、出来るだけ早く、この首にある赤い縄が、私を終わらせてくれたらいい。
授業中の腹痛を必死に耐え抜き、なんとか迎えた放課後。ガヤガヤといつまでも雑談に励むクラスメイトたちを横目に、私は体育委員会で配られた書類と担任教師から預かった鉄製の小箱を持って結川の席へと向かった。
「結川くん。」と声をかければ、結川は人の良さそうな笑みを浮かべる。
「あぁ、三上さん。早速始めようか!」
「うん。」
私は持ってきた書類を結川の机の上に広げて、鉄製の小箱を置いた。担任教師から預かった鉄製の小箱の中には、このクラス全員分の氏名入り判子が入っている。
プログラム制作とは言っても、以前体育委員会で配られた書類の中には、競技種目別に各クラスの参加メンバーを纏める表が何枚かあった。その表に、アンケートで決まった競技に参加するクラスメイトたちの氏名入り判子を押していくのだ。
それを体育教師に提出し、各クラスの体育委員が提出した表と共に纏められ、コピーされたものが一つの冊子になる。この冊子を体育祭当日にプログラムとして使うことになっている。
今から行う作業は、この数枚の表にクラスメイトたちの氏名入り判子をひたすらに押していく事だった。結川と手分けして競技種目別に、決まった参加メンバーを確認しながら、用紙に氏名入り判子を押していく。
「あー!ちょっと結川、何やってんの?」
黙々と作業をしていると、その手を止めるように騒がしい声が割り込んできた。用紙から顔を上げると、スクールカースト上位集団の一人でいつも田所たちと共にいる女子が結川に絡んでいた。
結川はその女子に向かって、ヘラリとした笑みを貼り付けて曖昧に首を傾げる。
「何って体育委員の仕事?」
「結川って体育委員だっけ?」
「いや、違うけど。田所が部活忙しいから、変わってくれって。」
「うわー、田所めっちゃ言いそう!」
女子は何がそんなに面白いのかケラケラ笑いながら、結川を肩をバンバン叩いた。
「てか、それで委員会代わってあげてるとか、結川めっちゃ良い奴じゃん!」
「そうかな?」
女子が言った『良い奴』という言葉が、やけに私の中で引っ掛かる。確かに結川は良い奴だと思うけれど、それは所謂『都合の良い奴』って意味ではないのだろうか。
「まぁ、体育委員の仕事ガンバ〜」
そんな軽い一言を残し、女子は教室に残っていた他の女子たちと騒がしく談笑しながら去っていく。それに続くように、今だに教室に残っていた他のクラスメイトたちも一人、また一人と居なくなっていった。
気付けば、教室には結川と私の二人だけになっていた。静かな空間で無言のまま結川と二人きりで作業していると、なんだか無意識に緊張して、いつものように下腹部が張っていくのを感じる。
またか、最悪だ。こんな時でも、私の腹は思い通りにならない。
人が居る静かな空間が苦手になったのは、一体いつからだろう。この空間に居ると、正常に自分が機能しなくなっていくのを感じるのだ。もともと、私が異常なだけかもしれないけれど。
どんどん活発になり始めた下腹部に焦り、それを誤魔化すように目の前の用紙に氏名入り判子をバンッ、バンッとあえて力強く押していく。
不意に、無言で作業していた結川が慌てたような声を上げた。
「うわー!間違えて同じ人の判子押しちゃいそうになった、危ねー!」
静かな空間を割くように、大袈裟に響いた声に私は密かに安堵する。
「これずっと判子押してると、頭おかしくなってこない?」
「なんか、どの判子押してたっけ?ってなるよね。」
「そう!これ全部やるの面倒くさいね…まだこんなにある!」
結川はパラパラと用紙を捲りながら、ガクリと肩を落として口を尖らせた。
「体育祭なんて無きゃいいのに。」
「ほんとにね。学校行事って大変なだけだよね。」
勝手にこんな面倒くさい仕事を押し付けられて、結川も散々な思いをしているだろう。そして、この何とも言えない遣る瀬無さは、きっと誰にも理解してもらえない気がした。
私の言葉に頷いた結川は、そっと目を伏せて小さく呟いた。
「ねー。もう、学校なんて無きゃいいのに。」
その聞き逃してしまいそうな程の小さな声に、私はこの学校で初めて同志を得たような感覚になる。
「無くなれば、もっと楽になれるのにね。」
「…三上さんも、そんな事思うんだ。」
「え、皆思うんじゃない?」
「そうかな?」
結川は私に向かって、意外そうな視線を送りながら俯いた。
「早く、楽になりたいな。」
祈るようにそう言った結川の表情は、前髪に隠れてよく見えない。けれど、その気持ちは痛い程に理解出来た。
いつになったら、私達は楽になれるのだろうか。学校が終われば、少しは生きやすくなるんだろうか。
どうにも出来ない気持ちをぶつけるように、私は手元の用紙にバンッと判子を押した。力を込めすぎたせいか、白い紙の上に押した名前が少し滲んでいる。ズラリと並んだクラスメイトの名前を視線でなぞり、小さく溜め息を吐く。
「…俺さ、なんか変だよね。」
「え?」
唐突に、結川が脈絡のない事を言ってきた。何の話だろうかと首を傾げれば、結川は何処か遠いところを見ながら深刻そうに口を開く。
「いや、なんていうか俺、体育委員じゃないから、こんなの田所にやらせればいいのに『都合の良い奴』がやめられない。」
結川の発言に、私は静かに目を見開く。それは、スクールカースト上位集団でいつも田所たちとワイワイ騒いでいる結川が言ったとは到底思えないものだった。
クラスのムードメーカーの思ってもみなかった本音を聞いてしまった衝撃で何も言えずにいれば、結川はハッとしたように顔を上げる。
「…あっ、いきなりこんなキモい事言ってごめん。やっぱ俺、変だよな。」
必死に自分の言葉を訂正するように、ハハハッと乾いた笑みを零す表情は何処か痛々しく見える。クラスのムードメーカーとして、いつもヘラヘラと笑う結川の秘密を知ってしまったような気がした。
「そんな事、ないよ。」
私の声に結川は笑う事をやめて、真っ直ぐに私を見た。その視線から逃れたいような気持ちになりながら、私も普段の結川のようにヘラッと笑って口角を上げる。
「…私も変だからさ。だから、大丈夫。」
何が大丈夫なのか、自分言ったのに全く意味が分からない。
けれど、目の前の結川の首から垂れ下がる赤い縄先が、その白い首にぐるぐると巻き付いていくのが見えて声を掛けずには居られなかったのだ。
まるで、数時間前に保健室から出て行った時のように、赤い縄は容赦無く結川の首を締め付けた。ギュッと肌に食い込んでいく赤い縄は恐ろしくて、背筋から冷や汗が流れる。
ゴクリと息を呑み結川を見れば、結川は無くしていた表情を少しずつ作り上げるように瞳を緩める。
「三上さんは、優しいね。」
その表情はいつものようなヘラヘラとした笑みを貼り付けたものではなく、とても自然で柔らいものに見えた。
結川の柔らかな表情に釣られるように、結川の首をぐるぐると絞めていた赤い縄も徐々に力を無くしていく。ダラリと縄先を垂らして、普段のようにゆらゆらと呑気に揺れ始めたその様子にホッと息を吐く。
赤い縄を見ていた視線を上げれば、結川は柔らかな表情のまま私を見ている。先程の結川の言葉を思い出しながら、私は目を逸らして呟いた。
「…そうでもないよ。」
私の言葉に結川は「えー?」と首を傾げながら、軽く眉を下げる。
本当に、私は結川の言うような優しい奴なんかじゃない。今の言葉だって、赤い縄が怖かったから言ったものだ。いつも自分の事で精一杯で、周りへの配慮なんか出来やしない。
そればかりか会話もろくに出来ず、いつまで経ってもクラスに馴染めない私は、高校へ入学してから友達の一人も出来なかった。人に合わせようと頑張ってはみたけれど、どうしたって私だけがズレている気がして居心地の悪いままだった。そんな出来ない事ばかりの欠陥人間が、私なのだ。
だからこそ私なんかよりも、結川は全然大丈夫だと思えた。スクールカースト上位集団の中に居て、皆とコミュニケーションが取れる結川は本当に凄いと思う。
「結川くんは『都合の良い奴』というか、真面目で優しいだけなんだと思う。人の優しさを自分の都合良く使う奴の方が、よっぽど変なんだと思う。」
先程の発言を聞いて、私は今まで結川をずっと誤解していたのだと気付いた。
結川はきっと、田所にとって自分が都合の良い奴でしかないと分かっているのだ。それでも、イジられキャラとしてヘラヘラと笑って理不尽を飲み込みながら、この学校という狭い世界で自分を必死に守っていたのかもしれない。
体育の授業中に笑われた私が、歪に笑って時間が経つのを待っていたように。そんな都合の良い奴になってしまう結川の気持ちが、ほんの少し私にも分かる気がした。
「三上さんは、やっぱり優しいよ。」
私の言葉をどう取ったのか、結川はそう言ってまた柔らかな表情になった。それを素直に受け入れることが出来ない私は「だから、そうでもないって。」と、そっぽを向く。
教室の窓から西日が入り込んで、風景が茜色に染まっていく。いつもは息苦しい教室が、今この瞬間だけは少し呼吸が楽になったように感じた。
あれから、結川と一緒にひたすらに氏名入り判子を押しまくり、競技種目別にクラスの参加メンバー表を完成させた。全ての作業を終えた頃には、すっかり日が沈み辺りは暗くなっていた。
帰宅部な為、普段はこんなに遅くまで学校に残る事がない私は、夜の校舎に少しの非日常を感じる。暗い窓の外では、巨大な電灯に照らされたグラウンドで今だに部活に励む運動部の声が響いていた。
蛍光灯が照らす廊下を結川と歩き、職員室まで向かう。
「プログラム制作、無事に終わって良かったよね!」
「本当に、結川くんが居なきゃ出来なかったよ。」
「ヘヘッ、じゃあ頑張った甲斐があるわ〜」
結川は頬を指でかきながら、得意気に笑った。クラスのムードメーカーらしく、ノリが良いリアクションは見慣れた姿でもあるが、その表情はいつもよりも何処か自然に見える。
職員室に着いて、体育教師に今日やった成果を全て提出する。そのついでに、担任教師から預かった氏名入り判子の入った鉄製の小箱もきちんと返しておいた。その際、私達を見た担任教師に「お前ら、まだ作業してたのか?」と驚いたような反応をされた。
そんな担任教師に向かって結川は一瞬のうちにいつものヘラヘラした笑みを貼り付けて「そーなんですよ!マジ大変でした!」と軽口を叩く。担任教師は結川の反応を「はいはい、お疲れさん。」と面倒くさそうにあしらった。
担任教師はきっと、結川が体育委員ではないと分かっている筈だ。それなのに、その事に触れずに居るのは一体何故なのだろうか。
生徒の事に深く突っ込まない方が、楽だと判断してるからなんじゃないのか。
見えてしまった大人の勝手さに、幻滅しそうになってから気付く。私だって田所よりも結川の方が都合が良いから、結川の申し出に甘えているだけではないか。人の優しさを自分の都合の良いように使っているのはどっちの方だと、先程結川に向かって自分が言った発言にも酷く吐き気がした。
私は、担任教師の事も田所の事を悪く言えないかもしれない。心の中で気に入らない相手に、自分の歪んだ正義を振りかざしているだけだ。やはり私は優しくなんかない、どこまでも卑しい人間なのだと思い知らされたように感じる。
「じゃ、三上さん。書類も提出したし、判子も返し終わったからもう帰ろっか!」
こちらを振り向いた結川の瞳が、真っ直ぐに向けられる。ヘラリとした笑みは、きっと結川なりの防御壁だ。その表情に、なんだか罪悪感を感じて視線を反らした。
「うん、そうだね。」
「じゃ、先生。俺達帰ります!失礼しました〜」
そう告げて結川と共に職員室を後にすれば、廊下のシンッとした静寂に包まれた。やるべき事が終わったという開放感と、結川に対しての複雑な心持ちで私は頭の回転が鈍くなるのを感じた。
結川の隣に並んで学校内を歩くなんてこれが初めてで、体育委員の仕事さえなければ私達の間には何の接点も無かっただろう。だからこそ、この不思議な感覚がやけに私の中で主張してくるのだ。
「あっ、もう完全に夏の匂いだね。」
そんな事を考えながら校舎から出た瞬間、結川は鼻をスンッとさせて何やら感慨深そうに言った。
暗いアスファルトの上を、夜風が緩やかに流れて運んで来た匂いは、確かに結川の言う夏の匂いに当てはまる気がした。
「本当だ。」と一言結川に同意しようとした時、グラウンドの方からやたらと騒がしい声が飛んできた。
「結川ー!お前、こんな時間まで何してんだよ!」
結川はその声に一瞬、ビクリッと肩を震わせた。声の主は、サッカー部の練習着を着た田所だ。
「何って、体育委員の仕事だよ!」
田所を見た結川はそう言って、態とらしく頬を膨らませる。その何処か冗談めいた仕草に、田所は意気揚々と結川の背負っていたリュックを掴んだ。
「あー?マジ?体育委員って、そんな大変なの?」
「そーだよ!誰かさんが、部活が忙しくて出来ないって言うから!」
「ごめんごめん!マジでサンキューって!」
噛み付く結川の言い分を、田所はケラケラと笑って流す。
そんな田所の背後から「田所ー!早く着替えろや!部室閉めんぞ!」と、グラウンドに居るサッカー部の野太い声が上がった。
「分かったって!今行く!」
田所はそれに対して、煩いと言わんばかりに吠える。額に浮かんでいた汗を乱雑に練習着で拭うと、結川の身体に思いっきり肩をぶつけて楽しそうに笑った。
「そんじゃ、結川一緒に帰ろーぜ!支度するから待ってて!」
「えっ、ちょっと!」
グラウンドへと走り去っていく後ろ姿に、結川は焦ったように声を上げたが、田所はそんな結川を知らんふりでサッカー部の部室へと消えていった。
嵐が過ぎ去ったように静かになった空間に、夏の匂いを含んだ風が流れる。その風が、私と結川の首に括りつけられた赤い縄を揺らしていく。
ゆっくりと私を振り向いた結川は、また普段通りのヘラヘラとした笑みを貼り付けていた。
「ごめん、三上さん。俺は田所待ってるから、先に帰っていいよ?」
「うん、分かった。」
先程までの自然な表情はもう、結川には無かった。それを少し残念に思いながらも、私は仕方がないように口角を上げる。
「じゃ、今日はお疲れ様。色々ありがとうね。」
「うん、三上さんもお疲れ!」
結川はハの字に眉を下げて、ふらふらと頼りなく手を振った。それを一瞥し、私は結川に背中を向けて足を進める。
街頭がチカチカと点灯を繰り返すのを眺めながら、今日一日の事を無意識に振り返った。私に何処かおかしな所は無かったか、適切な振る舞いだっただろうか。
予想外であった結川との会話を何度も思い出しては、自分の悪いところを嫌に実感して、頭を抱えてしまいたい気持ちになった。
後悔してもどうにもならない事をうだうだと考えていたら、いつの間にか駅に着いていた。帰宅ラッシュというやつか、駅構内は沢山の人々が行き交っている。
その中に紛れるようにして歩けば、首に赤い縄が括りつけられている人たちがやたらと目に付いた。私と同じ学生、スーツを着こなす大人、私服の大学生らしき人、派手な服装の若い女の人、色々な人が気味の悪い赤い縄を首から垂らして忙しなく歩いている。
彼らと私の共通点は、一体何なのか。擦れ違う様々な人達の首に見える赤い縄は、どんな理由で彼らの首に括りつけられているのか。
そもそもこれが全て私の妄想だとしたら、私は彼らをどのように認識しているのだろう。私の首に括りつけられている赤い縄は、彼らの首に括りつけられている赤い縄と同じものなのだろうか。
考えれば考える程に分からなくて、自分の首から垂れ下がった赤い縄を睨む。本当に何でこんな得体の知れないものが見えるようになってしまったんだ。
深い溜め息を吐きながら駅のホームで電車を待っていれば、見覚えのあるスーツ姿のサラリーマンが居た。何処か虚ろな目のサラリーマンの首からは、赤い縄が振り子のように大きく揺れている。
そして、以前見た時のようにその赤い縄は、サラリーマンの頬へ向かって縄先を強く打ち付け始めた。バシッバシッと音が聞こえて来そうなくらいに、容赦無く頬を叩かれているのにも関わらず、サラリーマンは虚ろな目でただただ線路の上を見ているだけだった。
赤い縄どころか、この世の全てが見えていないようなサラリーマンの姿は少し異様に思えて、思わず目を逸らす。
赤い縄は何故、あんなにもサラリーマンの事を叩いているのだろうか。
目の前のサラリーマンの姿が、学校で赤い縄に首を絞められていた結川の姿に重なった。結川の白い首にぐるぐると巻き付いた赤い縄は、今にも結川を絞め殺そうとしているように見えてとても恐ろしく感じた。
赤い縄が見えない結川にとっては特に何の異常も無いようで、息苦しい様子などは見れず至って普通に過ごしている。それが余計に、私にしか見えていない異様さを際立てているようで怖い。
私の赤い縄と結川の赤い縄には何か違いがあるのか、それとは逆に私と結川には何か共通点らしきものが存在するのだろうか。
私の首に括りつけられている赤い縄には、目の前のサラリーマンのように頬を強く叩かれたり、結川のように首を絞められた事は一度も無い。常に首から垂れ下がってゆらゆらと揺れたり、私を引っ張るように縄先を伸ばしたりするだけだ。
サラリーマンや結川の赤い縄は、一体彼らをどうしたいのだろう。脳裏で首を絞められた結川の姿を、もう一度思い返した。ぐるぐるとキツく首を締め付けた赤い縄を見て、そのまま放って置いたら、いつか結川がプツリと糸が切れた人形のように動かなくなってしまいそうな気がして背筋がゾッとする。
この数日間、体育委員を通して結川と関わる事が一気に増えた。以前のスクールカースト上位集団で、いつもヘラヘラしているクラスのムードメーカーという結川の印象は既に私の中で大きく変わっている。
結川は私が思っていたよりも穏やかな人柄で、スクールカースト上位集団に居るとはとても思えないくらいに人に対して気を遣う奴だった。今思えば、イジられキャラを演じているような、自分を都合の良い奴と認識している危なっかしさが、私が結川に対して少し気の許せるところのような気がする。
もしかしたら、そんな結川の見えない心境に呼応するように、赤い縄が揺れ動き時に激しく結川を責めるのかもしれない。首を絞められていると錯覚する程に息苦しい世界で藻掻く気持ちは、私にもよく分かる気がした。
キーンコーンカーンコーンと間が抜けたようなチャイムを耳にして、私の午前中の格闘が終わった。教師の挨拶と共に私は急ぎ足でトイレに駆け込むと、ぎゅるぎゅると動く、張りに張りまくった下腹部を必死で落ち着かせる。
暫くして教室に戻れば、ガヤガヤと相変わらず騒がしいクラスメイトたちが、机をくっつけ合って弁当を食べ始めていた。
「結川ー!購買行くなら、ついでにカレーパン買って来て!」
「えー。まぁ、どうせ行くからいいよ?お金は?」
「結川の奢りで!」
「絶対、買わないからね!」
その中でも、田所の声は人一倍大きくてよく響く。チラリと視線を声が聞こえた方へ向けると案の定、また田所に結川が絡まれていた。
田所は弁当をかき込みながら、「えー!いいじゃん!奢って!」と容易く結川に強請る。そんな光景をクラスメイトたちも見慣れているのか、スクールカースト上位集団もケラケラと笑いながら二人の様子を見て楽しんでいた。
「結川奢ってやれよ〜」
「嫌だってば!なんで俺が!?」
必死に噛み付く結川が面白いのか、いつの間にかスクールカースト上位集団は田所の味方をするように結川を誂い始めた。
「早く行かねぇと売り切れるぞ〜?」
弁当を口いっぱいに頬張りながら、田所は結川の薄い肩を遠慮なくバンバン叩いて促す。そのあまりのしつこさに、結川は諦めたように「もう、分かったってば!行ってくるから!」と告げて教室を出て行った。
そんな結川の後ろ姿に、スクールカースト上位集団は再びケラケラと笑う。アイツらは知らない。このやり取りの間で、結川の首に括りつけられた赤い縄がどれだけ忙しなく動いていたのか。その光景がどれほどに気味悪く、危ういものかを。
やりきれないような気持ちになりながら自分の席に向かうと、既にクラスの女子グループの一人、木嶋佳奈が私の席を占領していた。女子グループは私の席を含めた他人の机同士ををくっつけ合って、我が物顔で弁当を食べている。
大袈裟にキャハハッと笑って、私の席で弁当を食べている木嶋佳奈を横目に、机の横に吊るしたスクールバッグから弁当箱を手早く取り出した。弁当を食べている木嶋佳奈には、まるで私の姿が見えていないようで、私の行動に対して特に何の反応もされなかった。
その事に安堵するような苛立つような微妙な気持ちなりながら、私は弁当箱を持って静かに教室を出て行った。昼休みのざわつく校舎内を歩いていると、三人組の女子生徒たちと擦れ違った。見る限り他の学年だと思われるが、三人のうち、一人の首からは赤い縄が垂れ下がっている。
この女子生徒のように学校内でも度々、赤い縄を首から垂らしている人は存在する。無意識に、その揺れている赤い縄を視線で辿ってからそっと外した。この赤い縄も、随分見慣れたものだ。
不意に、天井に付けられたスピーカーからジジッとマイクの入る音がした。
「あー、体育委員に連絡します。今日の放課後、明日の体育祭準備があるので体操着に着替えてからグラウンドに集まってください!繰り返します。体育委員は…」
体育教師の溌剌とした声が、校内に響き渡る。朝のHRで担任教師からも伝えられた連絡ではあるが、体育委員の参加をより促す為か念を押すように再度、校内放送が流れた。
突然、体育委員に決められてしまってから約一ヶ月が経った。この一ヶ月は結川の助けを借りながら、非常に面倒な体育委員の仕事をやり遂げてきた。それが、体育祭で一段落つくと思うと少し感慨深く感じる。けれど、やはり大変なのでさっさと早く終わってほしいのが本音だ。
今だに放送が流れる校内の階段を、テンポ良く下りて外へと向かう。その途中で購買の前を横切ったが、人が凄い勢いで押し寄せていて結川の姿は見えなかった。
そのまま外に出ると太陽の日差しが眩しくて、思わず目を細めた。肌へと当たる熱に、徐々に本格的な夏が近付いて来たのだと実感する。
眩しい日差しから逃れるように日陰になっている校舎裏に足を進めると、そこは相変わらず人気が無くて静かだった。ポツンと置かれた古いベンチに、慣れたように腰を降ろし、背もたれに力の抜けた上半身を押し付ける。
深く息を吐くと、一気に脱力感が伸し掛かった。持っていた弁当箱を開くこともせずにベンチに置いて、何をするわけでもなくボーッと空中を見つめる。
昼休みはこの場所で、ただただ時間が過ぎるのを待つのが私の日課だった。力が抜けていく身体に反応するように、空腹の腹が間抜けに鳴る。それを無視してひたすらに目を瞑る。
欠陥品である私の腹は、昼ご飯を食べると腹痛が余計に酷くなるのだ。昼ご飯を食べてしまうと消化もあり、腹が一段と活発的になって午後の授業がどうしてもキツい。ぎゅるぎゅると腹が鳴ってパンパンに膨らんでお腹が痛くなって、酷い時は全く身体が動かせなくなる。そんなの、とても授業を受けられる状態ではない。
毎日こんな様子ではどうしようもないので、いつからか私は昼ご飯を食べる事を止めた。昼ご飯を食べる事は止めても、私の腹の異様さを知らない母に上手く説明も出来ないので、作ってもらった弁当は家に帰ってから気付かれないように全て食べている。
遠くではしゃぐ学生たちの声を聞きながら、閉じていた瞼を開けた。ゆらりと視界を横切る赤に、もはや今は少しの親しみさえ感じる。私の首に括りつけられた赤い縄は、まるで空中を泳ぐように縄先を揺らしていた。背景の空の色に、赤はよく映える。
この見慣れた不思議な光景は、時に私を和ませ始めていた。現実か妄想かなんてそんな大差ないように思えて、ただ自由気ままに揺れている赤い縄が少し羨ましい。
「…早く、楽になりたい。」
いつの日か、結川が言った言葉を無意識に呟いた。私の声は、校舎裏の静寂に転がっていくように消えていく。
不意にゆっくりと流れていた時間を断ち切るように、耳障りなチャイムが鳴った。また、地獄のような時間が始まる。教室に戻りたくない気持ちに必死に抗い、なんとか立ち上がって中身が入ったままの弁当を手に取った。
重たい足で踏み出せば、赤い縄は揺れる。校舎裏の日陰から、眩しい日差しの下に出る。校舎に入って階段を上って、一歩一歩教室へと近付く度にまた呼吸がしづらくなった。
あまりの息苦しさに、もしかしたら赤い縄に首を絞められているのではないかと下を向けば、いつものように縄先は鳩尾辺りで揺れている。
学校が息苦しいのはいつもの事だ。そう分かっている筈なのに、最近は酷く嫌気が差して、こんな場所に居られるわけがないと喚き散らしたくなる。
教室へ入ると、一層酸素が薄くなったように感じた。上手く動かない身体を操ってなんとか自分の席に着けば、視界の端を結川が通り過ぎていく。
その白い首にぐるぐるとキツく赤い縄が巻き付いていて、それを心配に思うのと同時に何故か少しだけ安心した。
昼休みに流れた校内放送に従って、放課後私と結川は体操着姿でグラウンドに向かった。グラウンドには既に何人かの体育委員が集まっていて、体育教師に指示を受けている。
「うわー、なんか大変そう…」
「そうだね…」
結川の発言に即答してしまう程、忙しなく動き回る体育委員の姿に自然と腰が引けた。
グラウンドを見渡せば、明日の体育祭に向けて体育委員だけでなく、運動部も総出でグラウンド整備に励んでいるようだった。その中に田所の姿も見えて、なんだかやりきれないような気持ちになる。
「体育委員は早くこっちに来なさい!」
大きな声にビクッと肩を揺らせば、グラウンドの隅で突っ立っていた私達を体育教師が手招きして呼んでいる。思わず隣りに居た結川と顔を見合わせれば、結川は「ゲッ…」と言いたげに顔を引き攣らせていた。
「…行くしかないよね。」
「そうだよね〜、腹括りますか!」
結川はゴクリと息を呑んで、「今行きまーす!」と返事をしながら体育教師の元へと走り出す。それを私も追いかけて、体育祭準備に取り掛かった。
競技に必要な道具を体育倉庫から運び出したり、待機所のテントを張ったりと動き回っていれば、いつの間にかグラウンド一帯が夕焼けに染まっていた。
「じゃあ、今日はこれで準備は終了です。明日の体育祭、頑張りましょう!お疲れ様でした!」
たくさん動き回っていたのに、相変わらず溌剌とした声で話す体育教師に形だけの挨拶をして、体育祭準備が終わった。
「やっと終わった」という開放感と「明日嫌だな」という絶望感が混ざり合い、深く息を吐く。
ちらりと隣を見れば、結川もガクリと肩を落として「もう、へとへとだよ〜」と情けない声を出していた。それに同意しながら、遠い目をして頷く。
「明日体育祭なんて、とても出来ない…」
「それな〜!」
夕焼けに染まった空に、結川はグッと両腕を伸ばす。グラウンドに伸びた影には、当たり前に赤い縄の存在は映っていなかった。
解散した体育委員たちは、ダラダラと歩きながら校舎に戻って行く。その後を追いかけながら、結川と一緒にのろのろ歩いた。
教室に着けば、想像した通りにクラスメイトは誰も居なかった。とりあえず体操着から制服に着替えようと更衣室に向かい、手早く着替えを済ませてから再び教室に戻る。
教室に入ると既に制服に着替え終えた結川が、窓を開けてぼんやりと外を眺めていた。
入り込む風がカーテンを膨らませて、私の髪やスカートを揺らす。そっと結川へと近付くと、結川の赤い縄が風に流されて私の腕に触れてから、するりと擦り抜けていった。
初めて誰かの赤い縄に触れてしまった事に、少し驚いたがやはり感触は何も感じなかった。改めて、この赤い縄は誰にも触れる事が出来ないのだと実感する。
体育祭のプログラム制作をした時のように、茜色に染まった教室で結川と二人きり。あの時から、結川との距離は少しだけ近付いたような気がする。
窓の外を見つめる結川の隣に並んでみても、結川は私の存在に気付いていないのか、暫く窓の外を見つめていた。その眼差しは真っ直ぐで、夕日に照らされた横顔になんだか胸がざわつく。
「あっ、三上さん帰る?」
不意に私の存在に気付いた結川が、何て事ないように言う。
「うん、帰るけど…?」
「そっか!じゃあ、俺も帰ろっと。」
結川の反応に「え、」と声を出す前に、結川は開けていた窓を静かに閉める。そして、そのまま席に纏めていた荷物を軽やかに背負った。
「どうせだから、駅まで一緒に帰ろ。」
緩く瞳を細めながらそう言った結川に、私は反射的に頷いた。確かにこの学校に通っている殆どの生徒が電車通学で来るので、下校するなら自然と駅へと向かうことになる。
けれど、結川と二人きりとなると少し、変な意味合いが含まれてしまうんじゃないかと密かに戸惑った。以前はそんな事を気にする前に田所が結川に絡んできたので、結局一緒に帰る事はなかったからそこまで気にも止めなかったのだが、今更ながらに学生特有の気恥ずかしいような感覚が私を襲った。
「いや〜疲れたけど、あんまり遅くならなくて良かったよね!」
そんな私の心情を知る由もない結川は、労るように自分の肩を撫で歩きながら気軽に話を振ってくる。そのおかげか、私の感じていた気恥ずかしさは直ぐに薄れていった。
緊張すると無駄に痛くなる腹が厄介だけど、穏やかな人柄の結川の前ではそこまで気を張り詰めなくても良いかと私は無意識に肩の力を抜く。
体育祭の準備が整ったグラウンドでは、まだ運動部が何人か残って作業をしていた。それ以外の部活動は普段通りに活動しているようで、遠くから吹奏楽部の演奏が風に乗って聴こえる。
下校している生徒もちらほらいるが、友人同士の会話で盛り上がっていて誰も私達を気にする者は居なかった。私は自分が思っていたよりも、色々な事を深く気にしすぎていたのかもしれない。
「俺、明日体力持つかな…」
「結川くん、出る種目多いもんね。」
「そうなんだよ〜」
結川の気の抜けた声が可笑しくて、思わずクスリと笑みを零した。口角が自然と動くのは、随分と久しぶりかもしれないと我ながら悲しい事を思う。
「俺帰宅部なんだし、体育祭とか勘弁してほしいよね!」
「でも、結川くん運動神経良さそうに見えるよ?」
「いや〜、一般的だと思うよ?」
流石クラスのムードメーカーといったところか、結川との帰り道はそこまで会話が途切れる事もなく、気まずい雰囲気になる事も全くなかった。もしかしたら、結川はコミュニケーションが苦手な私に色々と気を遣ってくれていたのかもしれない。
お互いの首に括りつけられた赤い縄も、縄先を揃えるように優雅に揺れていた。こうやって誰かの隣を歩くのは、いつぶりだろうかと考える。少なくとも高校生になってからはあまり記憶に無くて、それだけ私は人と接する事が無かったのだと情けなくなった。
結川とたわいもない会話をしながら歩いていれば、あっという間に駅に着いた。茜色に染まっていた空は僅かに藍色が混ざり始めているが、夏が近付き随分と日が長くなったように感じる。
今日も時間帯故にか、帰宅を急ぐ人々で駅構内は混雑していた。見慣れた赤い縄を揺らしている人とも、何人か擦れ違う。
「三上さんは、何番線のホームなの?」
人々の間を歩きながら結川にそう聞かれ、行き先を答えようとした瞬間、結川の隣を通り過ぎようとした他校の制服を着た集団が不自然に足を止めた。
「あれ、結川?」
その声に、結川はバッと勢いよく顔を上げる。そして、声を掛けられた集団を視界に入れると大きく目を見開いた。他校生の集団もそんな結川の顔を今一度確認すると、ニヤリと嫌な笑みを浮かべて意気揚々と声を上げる。
「なんだ結川じゃん!てか、めっちゃ見た目変わってね?」
「うわー、マジで垢抜けたなお前!最初誰かと思ったわ!」
他校生の彼らは結川と知り合いのようで、ゲラゲラと笑いながら結川に馴れ馴れしく話しかけて来る。結川へ向けられた容赦の無い言葉が、何処か田所を思い出させた。
突然の事に戸惑い結川を伺えば、そこにいつもようなヘラヘラとした笑みは何処にも無かった。表情が抜け落ちたように目の前の集団から目を離さず、結川は呆然と立ち尽くしている。
「お前の事、地元でなかなか見かけねぇと思ったら、こんな離れた高校通ってたのかよ!」
「あの時も頑なに志望校黙ってたもんな〜!まじウケる!」
他校生たちと結川が一体どのような関係性だったかは知らないが、彼らからぶつけられる言葉に結川は徐々に顔色を真っ青にして、怯えたように唇を震わせていた。
そんな結川の反応を見て他校生たちは大層面白がっていたが、ずっと黙ったまま一言も発せない結川をなんとなくつまらなく感じ始めたのか、他校生たちの興味は直ぐに隣りに居た私に移っていった。
「つーか、何?結川の彼女?」
「あの結川が!?嘘だろ?マジ生意気〜!」
機関銃のように容赦無く次から次へと言葉を掛けられて、正直どう反応をしたら良いのか分からない。
「い、いや、違っ…」
とりあえず否定しなければと勇気を持って声を出した筈だが、私の声はあまりにも小さく駅を行き交う人々の雑踏に呑まれ、他校生たちには全く届いていなかった。
この他校生たちの人を煽るような言い方はとても不快なのに、どうしてか臆病になってしまう自分がいる。どうでも良い他人にまで顔色を伺って、「不快です」と主張出来ない自分が酷く情けなく思った。
「おい、結川なんとか言えよ?」
「人がせっかく話しかけてやってんのに、黙りやがって。」
今まで黙りを貫いていた結川に、他校生たちは分かりやすく不満を露わにする。その理不尽さに、私はちゃんとした怒りを覚えた。
ふと隣に居る結川に視線を送った時、私は思わず息を呑む。
結川の首に括りつけられた赤い縄は、異常な程に揺れ動いていた。そして、勢い良くぐるぐると首に巻き付くと、いつか学校で見た時のように結川をきつく絞め上げる。
けれどあの時とは違い、赤い縄先は結川の首を一層強く締め上げるように上へと伸ばされていて、足は地面に着いたままだが、見た目はまるで首吊のような状態になっていた。
そして、その赤い縄に吊られるように、結川の呼吸が心做しか荒くなっているような気がする。隣から伝わってくる不自然な息遣いに、私は結川に何か異変が起こっている事を確信した。
「…っ三上さんに絡むのはやめて、」
「あ?」
結川は眉を歪ませてながら、声帯を無理矢理痛め付けるような掠れた声で言った。息苦しそうに揺れる肩が、今にも崩れてしまいそうでどうにかしたくなる。
その血の気が引けたような真っ青な顔色は変わらないが、結川の瞳は目の前の他校生たちを強く睨み付けている。これまで見た事がない結川の表情からは、何か気迫が迫るものを感じた。
そんな結川の声を聞いても、他校生たちは品の無い笑みを浮かべたまま、結川を馬鹿にしたように見ていた。
「何だよ?女の前だからカッコつけてんの〜?」
「てめぇ、俺らにそんな事言っていいのかよ?」
「てか、俺等から離れたくてわざわざこんな遠い学校通ってんじゃねーの?」
繰り返される不快でしかない言葉に、私は胃の辺りが燃えて頭から血の気が引けていくような感覚になった。結川とどうゆう関係かは分からないけれど、そんなものはどうだっていい。コイツらが、結川を心底馬鹿にしてわざと傷付けている事くらいは分かる。それで十分、最悪な関係性だと私は理解した。
「…あの!結川くん、時間大丈夫?用事があるって言ってたよね?」
目の前で起こる理不尽な言葉の暴力を、これ以上聞いていたくない。それに苦しそうに赤い縄に首を絞められている結川の姿を、私はこれ以上見たくはないのだ。
私にしては結構勇気を振り絞って、他校生たちの一方的な物言いを邪魔するように声を上げれば、結川はやはり声が上手く出ないのかコクコクと必死に頷いた。
「…っ、」
「じゃあ、早く帰ろ!」
目の前の他校生たちを無視して、私は結川の腕を掴むと一気に走り出した。「は?ちょっと、待てよ!」と慌てたように吐き捨てた他校生たちは、納得がいかないような険しい表情で私達を追いかけて来る。
まさか追いかけられるとは思わず、「ひぃっ!?」と情けない声を上げて、私は結川を掴む手に力を入れて駅構内を爆走した。行き交う人々の間を縫うように走り、何度も人にぶつかりそうになってはひたすらに謝りながら逃げた。
暫く経ってから振り返ると、もう私達を追いかける他校生の姿は何処にも見当たらない。他校生たちを撒く事が出来たのか、途中で他校生たちが私達を追いかける事を止めたのかは分からないが、ともかく無事に逃げれたので良しとしよう。
手を膝に付き上がった息を整えようとした所で、随分長い間結川の腕を掴んだままだった事を思い出した。
「あっ!いきなり掴んじゃって、ごめん!」
そう言って慌てて、結川の腕から手を離した。力無くだらりと離されたその手に、心配になって隣に立ち尽くす結川の様子を伺えば、顔を隠すように深く俯いていて表情はよく分からない。けれど、その肌は今だに血の気が引けたように青白いままで心配になる。
結川の首に強く巻き付いていた赤い縄は走っている途中で緩んだのか、結川の首から縄先を離し、いつものようにゆらゆらと鳩尾あたりに垂れ下がっていた。呼吸もまだ若干荒いけれど、先程に比べて少しずつ酸素を取り込めているように見える。
その事に安堵してそっと胸を撫で下ろせば、不意に私達の間に消えてしまいそうな声が零れ落ちた。
「…ごめん。俺、ほんと情けない。」
その弱りきった声は、混雑する駅の雑踏の中に直ぐに呑まれていく。男にしたら随分と薄い結川の肩が、行き交う人々にぶつかりそうになる度にふらふらと危なっかしく揺れていた。
それを見た私は思わず、結川の腕を再度掴んで駅の端の方まで連れて行く。トイレの前を通り過ぎて行き止まりになった薄暗い場所は、人気がなくて先程までの人々が行き交う忙しなさは無い。その隅に隠れるように置かれたベンチに、今にも崩れてしまいそうな結川を座らせた。
「ちょっと、待ってて。」
何の抵抗も示さず、されるがままにベンチに腰を降ろした結川にそう告げると、私は足早にその場を離れた。帰宅していく人々の間をまた縫うように進み、駅に設置された自販機で水を買うと、それを取って急いで結川の座るベンチに戻る。
先程居た場所まで戻ると、結川は微動だにしないまま深く俯いていた。
「…顔色悪いから、飲んで。」
そう言って買ってきたばかりの水のペットボトルを渡すと、私の声に俯いていた結川の視線がゆっくりと上げられる。そして、差し出した水を結川は力無く受け取った。
「気遣わせちゃって、ごめんね。」
声は少し掠れているものの、段々と落ち着いたのか呼吸はもう普段通りに戻っていてホッとする。
結川は泣き出しそうなほど眉間に皺を寄せて、苦しげに口を開いた。
「俺…、」
そう一言発してから、結川はなかなか言葉が上手く出てこないようで「えっと…」としきりに声を詰まらせる。きっと結川の事だから、今起きた事について律儀に説明をしてくれようとしているだと思う。
けれど、人間そんな簡単な生き物ではないから、自分の中で物事の踏ん切りがつかない限り、誰かに自分の事を上手く話すなんて出来ないだろう。私だってそうだ。異様な腹痛の事も赤い縄の事も、全部誰にも話せる気がしない。
「大丈夫だよ、無理に話さなくて。」
私の声に結川は顔を上げて、何処か困ったように眉を下げた。
「…ありがとう、三上さん。」
そう言った結川の表情は少し柔らかくて、私も自然と口角を上げる。
「明日は体育祭なんだし、とりあえず落ち着いてから帰ろう。」
「うわ…そうだった、体育祭じゃんね。」
忘れてたと言わんばかりにヘラリと笑った結川に、私は何とも言えない気持ちになった。体育祭の準備で慌ただしく動き回ったと思ったら、不快な他校生たちに絡まれて、きっと結川にとっては散々な一日だったに違いない。
「もう、なんか疲れちゃって…明日が本番かぁ。」
疲れ切ったような結川の声に、私は黙ったまま頷く。そして、結川は座っていたベンチから立ち上がると私に向かって丁寧に頭を下げた。
「三上さん、凄い迷惑かけて本当にごめん。」
重々しい口調で、結川は本日何度目かの謝罪をする。それに驚いて、私は慌てて手を振った。
「全然、気にしてないよ。私も体育委員の事で、結川くんには散々助けてもらったし。」
「…でも、」
「本当に、心配しなくても大丈夫だよ。それより、早く帰って明日の体育祭に備えなきゃ。」
「…そうだね。」
いつもとは逆で、結川よりも私の方が口数が多くなる会話は何処か落ち着かない。
結川は下げていた顔を上げると、私に向かって申し訳なさそうに微笑んだ。そして、私が渡したペットボトルの水をコクリと飲み込む。
「これ、ありがとね!そういえば、いくらだった?」
元の調子を取り戻していくように、結川の声はやたらと明るくなる。それは若干の不自然さを含んでいて、また結川の自分を優先しない悪い癖が出ていた。
私はそれに対して「そんな、いいよ。」と言ったが、結局結川に半ば強引にお金を渡される。その律儀さが、とても結川らしいと思った。
「三上さん、今日は本当にありがとう。また、明日頑張ろうね!」
私の乗る電車とは別のホームだと言った結川と別れる時、結川は何度目かの「ありがとう」を私に伝えてきた。本当にそんな気にする事ではないのに、結川は自信無さげに眉を下げる。相当、今日の出来事が結川にとってはショックな事だったのだろう。
それに頷き「うん、また明日。」と、私は結川と別れた。結川と別れて、一人駅のホームに出て電車を待つ。カンカンカンと電車が遠くから近付いて来るのを眺めながら、私はいつもように無意識に今日一日のことを振り返った。
脳裏に重く焼き付いたのは、結川の首を絞めた赤い縄と苦しげな表情。そんなものは、もう見たくないと思う。結川は誰かに、理不尽な言葉を投げかけられて良い人間では無いのだ。そんな事があって良いわけがない。
アナウンスと共に電車がホームにやって来て、夏の匂いを含んだ風に髪やスカートが流されていく。首に括りつけられた赤い縄も、視界の先で踊っていた。
明るい電車の中にはすし詰め状態の人々が見えて、一気に気分が下がる。果たして、私はこの電車に乗れるのだろうか。そんな私の動揺は、直ぐに自分の腹へと伝わった。
逃げ出したいような気持ちで人の波に押し込められるように電車に乗ると、ぎゅうぎゅうと四方八方を人に囲まれて、私は速攻で白目を剥きそうになる。
無理だ。とてもじゃないけど、こんな状態で正常に居られるわけがない。あまりの人口密度の濃さに、条件反射ように下腹部がパンパンに張っていくのを感じる。焦りからか額から流れる汗が止まらなくなって、ひたすらどうしよう、どうしようと心の中でパニックになっていた。
人の気配を全身で浴びながら、私は毎回のごとく自分が情けなくなって絶望する。どうして私だけが、こうなのだろう。お腹が痛くて、鳩尾あたりの制服をギュッと握りしめる。もう、勘弁してほしいと思った。
人々に囲まれてきっと惨めな表情を浮かべているであろう私の首で、赤い縄は優雅に人々をすり抜けていく。こんな状態でも私の赤い縄は、結川のように私の首を締めない。
これまで、赤い縄が巻き付き首を絞められている結川を何度か見た事があったけれど、今日みたいに苦しそうに声を掠れさせて呼吸を乱す結川は見た事がなかった。
赤い縄に首を絞められたら苦しくなるのかは、私には分からないけど、少なくとも結川の心と赤い縄は何ならかの形で繋がっているのではないかと思う。
いつか、結川の首に括りつけられた赤い縄が、結川を何処か遠くに連れて行ってしまうような気がして怖くなった。
ジャーッと流れていく渦を眺めながら、深く溜め息を吐いた。重たい身体に鞭を打って、トイレの個室から出る。手を洗いながらふと目の前の鏡を見れば、鏡の中の自分と目が合った。
伸びきった前髪の下から覗く小さな瞳は、やけに野暮ったく見えて一層自分が嫌になる。それから逸らすように視線を下へと向ければ、トイレに二人組の女子が入って来た。既に体操着に着替えた同学年の女子たちは、トイレに入る様子も無く、手を洗う私の隣の流しを占領する。
「見てコレ!朝から、髪ちょー頑張ったんだけど。」
「やば!気合い入り過ぎっしょ!」
女子たちは鏡の前で自分の丁寧に編み込まれた髪を見せ合ったり、ケラケラと談笑しながらメイク道具を広げて入念にメイクをし始めた。
今日は体育祭だからか、いつも以上に髪やメイクにこだわりがあるのだろう。女子特有のイベントへの積極性は、私には全く湧き上がらないものなのであまり理解出来ない。けれど、明るく楽しそうに自分を飾る女子たちと暗くて垢抜けない私との決定的な差を感じて、酷く気分が落ち込んだ。
洗っていた手を拭き、素早くトイレから出て教室へ入ると、先程トイレに居た女子と同様に髪型にこだわる女子たちが、鏡を片手に最終調整を行っている。どうやら、仲の良い友人とお揃いでお団子頭にするのが流行りらしい。
それを横目に、私は体操着を片手に更衣室に向かった。更衣室でも女子たちが、鉢巻をリボンのようにアレンジしたりネクタイのように首から垂らしたりと入念に身なりをチェックしている。皆、朝から楽しそうだ。
体育祭ではクラスごとに色別対抗で競い合うため、自分のクラスの決められた色の鉢巻を身に付ける事になっている。赤、青、黄色、緑、白と五色のチームがあり、皆それぞれの色の鉢巻を付けていた。
私のクラスは黄色の鉢巻を身に付ける事になっているので、更衣室の壁に貼られている鏡の前でそれを適当に頭に巻き付ける。鏡の中の私は、頭には黄色の鉢巻を巻き、首には赤い縄が括りつけられてる異様な姿で、思わず顔を引き攣らせた。色と色の主張が激しく、赤い縄の存在は自分にしか見えないとはいえ、あまりの格好のダサさに我ながら笑ってしまいそうになる。
体操着に着替え廊下を歩いていると、既に何人かの生徒が自分の椅子をグラウンドに運び出し始めていた。体育祭の時は、クラスの応援席に自分の椅子を置いて観戦するのがこの学校の習わしだ。
再び教室に戻り、私も自分の椅子をグラウンドに運び出そうとすると、今日も相変わらず騒がしいスクールカースト上位集団の中から、人一倍大きな田所の声が上った。
「てか、アイツ今日なんか遅くね?」
田所は、今だ空席のままの結川の席を見ながら不満そうに言う。
「まさか、サボりか〜?」
「マジかよ、体育祭なのに!?ありえねぇ!」
そんな田所に同意するように、スクールカースト上位集団の中の何人かが、今だに学校に来ていない結川に対して冗談交じりの文句を言い始めた。いつもならあの集団の中で、ヘラヘラと笑ってイジられながらも皆を盛り上げている結川の姿が今日は無い。
どうしたのだろうと考えたところで、私は昨日の下校中にあった出来事を思い出した。下校中、駅で結川と知り合いだと思われる他校生たちに絡まれたのだ。その時の結川は、酷く動揺していたように見えた。それに、きっと結川にとっては話す事も呼吸をする事も上手く出来なくなるくらいに、あの他校生たちとの遭遇はショックな事だったのだろう。
赤い縄に首を絞められていた結川を脳裏に浮かべながら、もしかしたら今日結川は来ないかもしれないと密かに思った。
正直、私一人では体育委員の仕事をやり遂げられるか不安でしかない。けれど、あの不安定な状態の結川が休んだとしても仕方がないだろう。そもそも結川は本来体育委員ではないのだから、体育祭の日に調子が悪くて休もうが何も気にする事はないのだ。
そう何度か思っても、やはり一人で体育委員の仕事をしなきゃいけないのは、私にとってとても気が重かった。結川の存在を都合の良いように思いたくはないのに、心の何処かで結川が居てくれたらなと思ってしまう自分が嫌だ。
体育祭の間、体育委員の仕事は各競技の準備やクラスメイトの誘導、開会式の体操などがある。その中でも、この我の強いクラスメイトたちを上手く誘導出来るかが一番の難点だと言っていいだろう。
そんな事を思っていれば、不意に教室のスクールカースト上位集団が騒がしくなった。
「あっ!結川来た!」
その声に思わず顔を上げて教室の入り口を見ると、首から赤い縄を垂らした結川が居た。
「おい結川!お前、遅ぇぞ!」
「もう、サボったかと思ったわ〜!」
待ちに待った結川の登場に、スクールカースト上位集団は必要以上に騒ぎ立てる。それに対して結川は、「いや〜、寝坊しちゃってさ!」と相変わらずヘラヘラして笑っていた。
「てか、皆そろそろ、外に椅子持った方が良いんじゃないの?」
「え〜、もうそんな時間?」
いつもより少し遅れて来たというのに、結川はこのクラスの誰よりも時間を把握している。HRや開会式は外で行う事になっているので、クラスメイトたちには早いところ椅子を運び出してもらいたいところだ。
スクールカースト上位集団と話しながらも、いつの間にか体操着に着替え終えていた結川は椅子を持ち上げなから、「だって隣のクラス、皆もう外行ってたよ?」と腰の重たいクラスメイトたちに促していた。
「体育祭マジ面倒くせぇ〜」
田所はそう言いながらも、結川と共に自分の椅子を外へと運び始める。それに続くように、スクールカースト上位集団ものろのろと椅子を持って外へと向かった。
あっという間に教室は誰も居なくなり、結川の凄さを改めて実感する。そして、やっぱり結川が来てくれて良かったと心底思った。
一人で体育委員の仕事が不安な事もあるが、やはり昨日の事も気になっていたので、いつものようにスクールカースト上位集団の中でヘラヘラ笑っている結川にホッとしたのだ。それと同時に、その様子があまりにもいつも通りで、私は少しだけ心配になった。
もう、とっくに見えなくなってしまった結川の背中を追いかけるように、私も急いで自分の椅子を外まで運んだ。
「よーい、パンッ!」
合図と共に、体操着姿の学生たちがグラウンドを一斉に走り始める。あちこちから聞えてくる「頑張れ〜!」なんて声援を耳にしながら、私はグラウンドの端にある競技に必要な道具がごちゃごちゃと置いてあるスペースで待機していた。
体育祭が始まってから、少しの時間が経った。現在は障害物競走の真っ最中で、体育祭員の私はこの競技の準備や片付けをする役目を背負っているのだ。
キラキラと容赦無く照り付ける太陽が、肌をじんわりと焼いていく。額に滲む汗は、いつものような腹痛の焦りから来る冷や汗でなく、ごく自然な暑さから来るものだ。雲一つない真っ青な晴天は、まさに体育祭日和というやつだろう。
グラウンドを走り抜ける学生たちに、耳に付き纏うたくさんの甲高い歓声。お手本のような学生らしい光景を、何処か遠い目で見ている自分が居る。
「三上さん、お疲れ様。」
「結川くんこそ、お疲れ。障害物競走、速かったよ。」
背後から声を掛けられて振り向けば、そこには今しがた障害物競走に出ていた筈の結川がそこに居た。結川は自分の出番が終わって直ぐにも関わらず、体育委員の仕事である競技の片付けの為に私の元へと来たのだろう。
競技種目の参加数の多さも相まって、流石にハードスケジュール過ぎて心配になる。私も出来る限りは手伝っているけれど、昨日の事もあるので結川の体調も含めて気を付けてほしいところだ。
「ありがとう!三上さんは、後綱引きで午前は終わり?」
「うん。殆ど午前の競技だから、午後は大縄だけ。」
「そっか、お互い頑張ろうね!」
結川は、そう言って私にヘラリとした笑みを向けた。ひたすらに口角を上げているような、不自然なそれは正直違和感しか感じない。
今日の結川は、いつも以上にヘラヘラと笑い続けている気がする。その表情が顔に張り付いて取れないのではないかと、私は結川の顔をまじまじと眺めていれば、当の本人は「ん?どうかしたの?」なんて言って首を傾げるのだ。
やはり、昨日の事が影響しているのだろうか。
視線を、結川の首に括りつけられている赤い縄に移す。いつもは優雅にゆらゆらと揺られている縄先が、今日は微動だにせず真っ直ぐに垂れ下がっていた。まるで、生き物が死んだかのように動かないその様子が、一層不気味に感じる。
「あっ、障害物競走終わったみたいだよ。」
グラウンドを退場していく学生たちを眺めながら、結川は呑気に声を上げた。そして直ぐさま「じゃあ、俺こっち側片付けくるね!」と、無造作にグラウンドに置かれていた道具たちに向かって走り始めた。
私もそれに続くように慌てて道具を片付け、次の種目へ向けての準備をする。結川の状態がいつかポッキリと折れてしまいそうで心配になりながらも、今の私は自分の役割をこなす事だけで精一杯だった。
その後、無事に午前の最後の種目である綱引きを終えて、昼休憩の時間になった。その放送が流れると共に生徒たちは、一度椅子と共に教室へ戻って各自好き勝手に昼食を取り始める。
私はいつものように弁当箱を持って、人気の無い校舎裏に足を運んだ。古いベンチに腰掛けて、上半身の力を抜きながら現実を遮断するように目を瞑る。あと、残り半日だ。この半日やり遂げれば、忙しい日々から少しはマシになる。
暗い瞼の裏を見ながらそんな事を思っていると、グ〜ッと空腹を訴えるように腹が鳴った。いつもよりも運動量が多かったせいか今日はやたらとお腹が減り、もう既に競技の最中から何度か鳴っている。そんな腹を、私は呆れたように擦った。
普段ならば、午後から授業が怖くて弁当を食べずにいるのだが、一日グラウンドに出て比較的に行動の自由が利く体育祭の今日くらい、弁当を食べても大丈夫なのではないかと安易な考えが頭に浮かぶ。
腹痛になっても毎回教室から出れない普段の授業と違って、体育祭は基本的に自分の応援席に必ず居なければいけないわけではない。体育委員や係の仕事がある者は頻繁に席を立つし、他の生徒たちも友人同士で隣クラスに顔を出したり、自販機まで飲み物を買いに行ったりと皆好き勝手に行動している。
もしお腹が痛くなった時はトイレに駆け込んで、最悪応援席に戻らなくても良いのだから、今日くらいは弁当を食べたところでそんなに支障は無いんじゃないか。そんな事を思いながら、結局空腹に負けた私は弁当を食べてしまった。
弁当を食べ切ったところで、昼休憩の終了時間が迫っている事に気付く。慌ててベンチから立ち上り、念の為に一度トイレに寄ってから再びグラウンドへと戻った。
グラウンドでは既に何人かの生徒が応援席に着いていて、午後の最初の種目に向けて準備している。
「結川〜、次の種目何だっけ?」
「え〜と、確か大縄だったと思うよ?」
「マジで?クソだるいやつじゃん!」
その言葉を聞いて、私は内心焦った。そういえば、午後の最初の種目は私も参加する予定の大縄だった。
大縄といえば、何十人が列になって一斉に縄を跳び、縄を跳んだ回数を競い合う種目だ。そんな競技の最中にいつもの腹痛が襲ってきたら、もう縄を跳ぶどころではないだろう。
けれど、授業よりも長い時間大縄を跳ぶわけではないので、何とかなるんじゃないかと必死に自分を落ち着けさせた。徐々に、グラウンドには生徒たちが集まって騒がしさが戻って来る。
暫くして、本部席のテントから午後の部が始まるアナウンスがグラウンドに響き渡った。
「大縄種目に参加する生徒たちは、速やかに入場口に集まってください。」
その放送に、応援席に居たクラスメイトたちはダラダラと立ち上がって「飯の後の大縄はしんどくね?」なんて軽い口調で、入場口に向かっていく。そんな彼等の後ろ姿を少しの間眺めてから、観念したように私も立ち上がった。
入場口には、既に大縄に出場する生徒たちがずらりと並んだ列が出来ていた。その中にクラスメイトたちの列を見つけて、重たい気分になりながら列に加わった。
周囲を人に囲まれている居心地の悪さに、私の中で少しずつじわじわとした焦りが広がっていく。頼むから、お腹が痛くなりせんように。そうひたすらに願っていも、必要のない緊張に身体を支配されて、私の下腹部は膨らみ始める。
ぎゅるぎゅると動きが活発になる腹に「落ち着け」と念じながらも、やっぱり昼ご飯を食べなければ良かったと後悔が止まらなかった。昼ご飯を食べてしまったら、消化する為に腹が動いて、腹痛がいつも以上にキツくなるのは分かっていた筈なのに。
そんな馬鹿な私を嘲笑うように、腸は動きを止めない。生まれてくるガスを無視しようがなくて、掌に爪を突き刺しながら必死に耐えた。
なるべく人を見ないように視線を下げれば、赤い縄が今日もゆらゆらと人の気も知らずに揺れている。ふざけんな。何で、私ばかりがいつもこうなのだろう。
「おい、結川!気合い入れて回せよ〜」
「分かってるよ!」
聞こえてきた名前に、下げていた視線をそっと上げる。クラスメイトたちがずらりと並んだ列の先には、クラスメイトに絡まれながらも、縄を持って待機している結川の姿があった。
そういえば、大縄には結川も回し手として参加することになっていたんだった。結川程ではないが、どうやら私も慣れないハードなスケジュールで色々な事が頭の中でこんがらがっているらしい。
「次の競技種目は大縄です。参加生徒はグラウンドに入場してください。」
そんなアナウンスと共に、待機していた列がぞろぞろと動き出す。各チームがグラウンドの指定位置に着いて、縄を広げ始めた。
クラスメイトたちは二列に並んで、それを挟むように先頭と後方に結川ともう一人の回し手が立っている。結川はヘラヘラした笑みを絶やさず、「よっしゃ!頑張りますか!」なんて縄を伸ばしながら声を掛けていた。
「よーい、パンッ!」
ピストルの合図が鳴って、各チームが一斉に縄を跳び始める。それに促されるように結川も「せーのっ!」と声を掛けて私たちのチームも大縄を跳び始めた。
一、二、三、四、と皆で数を数えつつ、必死に飛びながら私は冷や汗が止まらなかった。縄を跳ぶ衝撃が、全身にくる。腹痛が始まったばかりのお腹が揺れて、一歩間違ったら取り返しのつかないことが起こりそうで怖い。最悪な状況だ。
痛い苦しいキツい辛い早く、誰か、縄に引っ掛かってくれ。そうは願っても、こんな時にだけ皆は団結して学生らしく真剣に競技に向き合うのだから、本当に勘弁してほしい。縄を跳ぶ回数が増えるほどに、私のガスで膨らんだ下腹部が出口を求めて暴れ出す。
風を切る縄の音に急かされるように、必死で地面を蹴って足を上げる。周囲を人に囲まれている緊張と、腹痛を耐えなければいけない不安で私の身体はもうコントロールが効かない。
キツい痛い痛い辞めたい無理。早くこの競技が終わるように何度も願っても、大縄を跳ぶ回数はどんどん増えていく。だからと言って自分が縄に引っ掛かれば、絶対にクラスメイトたちから批難を受けるだろう。
スクールカースト上位集団の「引っ掛かったの誰だよ!?」という犯人探しが始めるのは、もう目に見えている。それも嫌だ。絶対に嫌だ。
けれどこの際、腹の中のものをぶちまけるか、縄に引っ掛かる犯人になるかの二択であれば、後者の恥を晒す方が絶対的にマシに決まっている。当たり前に、縄に引っ掛かった方が良い。
そう思った瞬間に、少し気が緩んでしまったのか私の足は縄に引っ掛かってしまった。
「おーい!誰だよ!」
「マジで、今引っ掛かった奴誰〜!?」
予想していた通りにスクールカースト上位集団が、やたらと声を上げて騒ぎ立てる。
「あーもう!あと二回で新記録だったのに!」
腹痛に耐えることしか頭になかったので、詳しく跳んだ回数は覚えてないが、どうやら私達のチームが跳んだ新記録まであと少しだったらしい。
引っ掛かった瞬間、慌てて足を縄から離したけれど、目敏いクラスメイトたちはひそひそと私に視線を突き刺した。
「引っ掛かったの、三上さんじゃね?」
「うわ、マジかよ〜」
いつも私が居ようが居まいが気にも止めないくせに、こんな時ばかり私の存在を認識するなんて、本当に都合の良い奴らだ。
「皆、早くもう一回跳ぼう!」
結川がそうクラスメイトに呼び掛けたところで、大縄種目の終了の合図が「パンッ!」と鳴り、アナウンスが流れる。
「うわー、これ負けたわ。」
その私のせいで負けたような雰囲気は、一気にチーム内に充満した。クラスメイトたちの容赦無い視線が、ナイフのように私を突き刺していく。ズタズタに穴の空いた心は、もう既に使い物にならない。
悪化していく腹痛とどうしようもない現実で、私はだんだん呼吸がしづらくなっていく。苦しくてお腹が痛くて逃げ出したくて、助けるようを求めるように視線を首から垂れ下がる赤い縄に走らせる。
けれど、やはり赤い縄はゆらゆら揺れるばかりで、私の首は絞めてくれない。私を消してはくれないくせに、この赤い縄は一体なぜ存在しているんだろう。クラスメイトたちの私を責める視線を受けながら、そんな的外れな事を思った。
大縄の結果はどのチームも僅差で、私達の黄色チームもあと数回の差で最下位という成績に終わった。放送席からアナウンスが流れて、グラウンドから退場する。
競技を終えて好き勝手にバラけていく生徒たちの中、逃げるように私はトイレに向かって走り出した。
腸がパンパンに張った腹はもう限界で、個室に入り便器に座った瞬間、自分のことが本当に惨めになった。なんで、私はこんなに情けない人間なんだろう。生きてるのが恥ずかしくて仕方なくて、そんな自分が本当に大嫌いだ。死ねばいいのに。
自分を呪う言葉ばかりが、私の中から生まれる。どうしようも無いことばかりで、この世の全部が嫌になった。このまま、薄暗いトイレの個室の中で終わりたい。二度と外へ出たくないし誰にも会いたくない。何よりこれ以上、自分の恥を晒したくない。
無意識に脳裏に浮かび上がるのは、先程のクラスメイトたちに言われた言葉と視線。私を責めるように、一連の流れが何度も何度も脳内で再生されて、その度に私の心をへし折っていく。
消したくても消えない記憶がこびり付いていて、湧き上がる苛立ちに頭をぐしゃぐしゃに抱えた。
ふわふわと目の前で揺れている赤い縄は、いつまで経っても私を楽にしてくれない。全く役に立たなくて嫌になる。八つ当たりをするように、揺れる縄先をギュッと掴む。けれど、やはり触れられないそれは手を擦り抜けて、握りしめた掌に爪が刺さっただけ。
首に括りつけられている赤い縄を真似るように、両手で自分の首に触れてみた。触れた肌に、どうにもならない苛立ちをぶつけるように力を加える。赤い縄がやってくれないのなら、自分でやってやる。
そう自分の首を両手で絞めたって、いつまで経っても酸素がなくなる事はない。いつもの生きている息苦しさだけが、私に重く付き纏うだけだった。
そのまま、暫くトイレに閉じ籠もっていたが、他の女子生徒たちも頻繁に使うトイレに何時間も居られるわけがなく、私は全てを諦めて便器から立ち上がった。
トイレから出ると行く宛の無い私は、赤い縄に引っ張られるようにしてふらふらと歩く。そして、気付けばいつものように保健室へと向かって足を運んでいた。
体育祭中の体育委員の仕事はもう終わったし、他に出る競技もない。そんなどうでも良い事を、言い訳のように考えながら保健室に向かう。
誰も居ない校舎に入って、静かな廊下を歩く。保健室のドアを開けようと手を掛けると、どうやら鍵が掛かっているようで全然動かない。
そういえば、体育祭の最中は競技中に怪我をした生徒や気分の悪くなった生徒の為に、保健室の先生は常にグラウンドにある救護テントで待機していた筈だ。
この無人の保健室にやって来る人間はそうそう居ない為、施錠されているのだろう。
なんだか今日は何もかもが上手くいかない気がして、酷く落ち込む。鍵の閉まったドアの前でしゃがみ込み、抱えた膝に顔を押し付けて項垂れた。
溢れてきそうなものを堰き止めるように、強く目を瞑る。目の前に広がった暗闇に、思考さえも呑まれていくように深く沈んだ。
何やっているんだろうな、私。
こんな腹で、私はこの先も生きていけるんだろうか。皆と同じ事が出来なくて、普通の生活がどんどん難しいものになっていく。
私だって引っ掛かりたくて、縄に引っ掛かったんじゃない。そもそも体育祭なんてやりたくないし、体育委員にもなりたくなかった。毎日学校なんて行きたくもないし、さっさと辞めてしまいたいに決まってる。
それより何より、こんな私になりたくてなっているわけじゃない。全部全部、私が望んでなんかいないのに。いつだって、この世界は私の望まない事ばかりで成り立っている。
「…早く、楽になりたい。」
いつかの放課後、結川が言っていた言葉をまた無意識に呟く。願っている事はただそれだけなのに、なんでこんなにも難しいのだろう。
「…あれ、三上さん?」
突然真っ暗な世界で聞こえた声に、驚いて顔を上げる。ずっと瞼を閉じていたせいか目の前がチカチカした。よく見ると、薄暗い廊下に一人立っていたのは結川だった。
「どうしたの?体調悪い?」
こんな所で一人しゃがみ込んでいる私を、結川は心配そうに伺ってくる。結川の方こそ、こんな所に何をしに来たんだと視線を向けたところで「あっ、」と思った。
「…転んだの?」
体操着姿の結川の膝には、大きなガーゼが貼られていて少量の血滲んでいる。その様子を見るに派手に転びでもしたのだろうか、随分と痛々しかった。
「あー、リレーで転んじゃってさ。お陰でチーム最下位!」
結川は何でも無いように、ヘラヘラと笑いながらそう言った。けれど、その顔色は若干青白く見えて、何処か無理をしているじゃないかとも思う。
そんな結川を見ながら、しゃがみ込んでいた足に力を入れて立ち上がる。少々、足が痺れた。
「一応、救護テントで手当てしてもらったんだけど、先生に保健室に行きたいって言ったら鍵貸してくれたんだ。」
手に持っていた鍵をチャリンッと鳴らすと、結川は得意気に保健室の鍵を開けた。ガラッと開いたドアに、私は重たかった心が少し軽くなるのを感じる。
結川は「いてて、」と怪我した足を引き摺りながら、閉め切っていた保健室の窓を開けた。私もそれを真似するように、反対側の窓を開ける。
少しの風と共に室内に入り込んできた蝉の声に、本格的な夏の訪れを感じた。七日で消えゆく命に抗っているかのように力強い鳴き声は、どうしてか私の胸を打つ。
耳障りな人の声なんかよりも、よっぽど聞いていられると思った。
「なんか、蝉の声ってさ『死ね』って言ってるように聴こえない?」
「え、」
唐突な結川の発言に顔を向ければ、結川は窓の外に視線を向けたまま、瞳を細めてヘラリと笑みを浮かべていた。
窓の外から聞こえる蝉の声に耳をすませば、確かに結川の言った通り「シネシネシネシネ」と言ってるように聞えてくる。
「…本当だ、聞こえる。」
一度そうだと思ってしまうと、どうしても「死ね」以外には聞こえなくて、蝉がひたすらに「シネシネシネシネ」言っていると思ったらなんだか笑えてきた。
「なんか、死ねって言われてるみたい。」
「ねー。」
まるで呪いのように浴びせられる蝉の声を聴きながら、結川と二人ただただ窓の外を見ていた。その時間が今日一日の中で、一番有意義なものだと思った。
夏風が室内の空気を循環して、一層呼吸がしやすくなる。頭に巻き付けていた黄色を鉢巻を取れば、固まっていた髪をほぐすように風がさらりと撫でていく。
「結川くんも、蝉の声聞いてそんな風に思うんだね。」
「えー、だって聞こえるじゃん!」
結川の態とらしく弾むような声が保健室に響く。そして、急に静かになったかと思うと、今度は随分と真面目な表情になって結川は慎重に言葉を発し始めた。
「俺さ、どんな風に見られてるか分かんないけど、すっごい根暗な奴なんだよ。」
「…そうなの?」
結川の言葉が意外というよりかは、結川と関わるようになってからはその「根暗な奴」という表現にそこまで驚きはなく、やけにしっくりと来るような気もする。
田所たちスクールカースト上位集団に都合の良い存在と思われても、それを分かっていながら、まるで道化のように振る舞う結川には健全な明るさを感じない。
それにきっと暗い奴じゃなかったら、蝉の声が「死ね」と言っているようにはとても聞こえないだろう。
「うん、いつも暗い事ばっかり考えてる。…昨日の俺見て分かったでしょ?」
秘密を共有するような結川の言葉に、思わず息を呑む。そして思い出されるのは、昨日の下校中での出来事だ。結川の知り合いだと思われる他校生が、結川を馬鹿にしたように絡んできたのを頭に思い浮かべて、再びその時の苛立ちが蘇った。
「俺、中学の頃アイツらいじめられててさ、どうしょうもなかったんだよね。」
「…そっか。」
昨日の他校生たちとの様子を見るにもしかしたらと、少し想像はしていた。けれど、やっぱり本人の口から聞くその事実はショックだ。
「だから俺、高校生になったらもういじめられないように、自分を変えたかったんだけど…」
結川は今だに窓の外を見ていて、私と視線が合うことは無い。目の前の外の景色よりも遥か遠くを見ているようなその横顔が、酷く疲れているように見えた。
「なんか、難しい。」
ポツリと消えてしまいそうに零された小さな声は、蝉の声にかき消されていく。結川の苦悩が、痛いくらいに私に伝わる。
本当に人生ってやつは、上手くいかない。いつまで経ってもなりたい自分になれなくて、「こんな筈じゃなかった」を繰り返している。どうやったって私は私にしかなれないのに、私は私になんてなりたくないのだ。
「……っ、」
結川の言葉に何か声を掛けたいのに、何を言ったら良いのか分からなかった。
そんな過去がありながらも、自分を変えようとここまで必死に頑張れる結川は本当に凄いと思う。スクールカースト上位集団の中に居て、クラスメイトたちの関心を浴びる存在になるのはとても難しくて、恐ろしいことだったに違いない。
だからこそ、そんな簡単に言葉なんて掛けれなかった。たった一言で片付けられるようなそんなものを、結川に向けたくはない。それくらいに、結川は学校という狭い世界で必死に生きている。
なんだか、どうしょうもなく泣きたくなって、誤魔化すように視線を窓の外へと向ける。外を流れるそよ風が瞳を乾かしてくれるのを待った。
不意に離れたグラウンドから、放送席による次の競技を呼び掛けるアナウンスが聞こえてきた。それに結川は、クラスのムードメーカーに似合わない程の重たい溜め息を吐く。
「…次の種目も出なきゃだから、もう戻らないと。」
結川は名残惜しそうに窓の外から視線を外すと、怪我した足でよたよたと歩き保健室を出て行く。その姿に釣られるように私も窓の側から離れると、結川は表情をやわらげて振り返った。
「俺はもう行くけど、三上さんがまだ保健室に居たかったら居てもいいよ。」
「…大丈夫なの?」
「まぁ、保健室の先生じゃないから俺が偉そうな事言えないけど、多分大丈夫だと思うよ!」
正直、今の私が居られる場所はこの保健室以外に無いので、結川の言葉はかなり有り難い。保健室の壁に貼られている時計を確認し、「鍵は、後で保健室の先生に渡しといて!」と言い放った結川は足早に保健室を後にする。
そんな結川を私は慌てて追いかけ、立ち去る背中に届くように声を上げた。
「結川くん、ありがとう…!」
私の声が届いたのか、結川は軽く手を挙げて微笑む。
「それはお互い様だよ。」
そう言って振り返った結川の表情が、酷く優しくて落ち着いたはずの涙腺がまた緩みそうになる。それを必死に耐えながら、パタパタと静かな廊下に響く足音を見送った。
再び、静寂に包まれた廊下から保健室へ戻る。保健室の中心に置かれた長椅子に腰掛けて、体育祭の最終種目のアナウンスが流れるまで一人の時間を過ごした。
最後のアナウンスが流れてから、どれくらいの時間が経っただろうか。そろそろグラウンドに戻らなくてはいけないと思うのに、私の身体は全く動かない。長椅子に座ったまま、目の前のテーブルに項垂れて目を瞑る。
その時、誰の気配もしなかった静かな廊下を誰かが歩いてくる音がした。ガラッと保健室のドアが開き、テーブルに伏せていた顔を上げる。
「三上さん、来てたのね。さっき、結川くんから三上さんが保健室に居るって聞いてきたの。」
保健室の先生がそう説明しながら、室内に入って来る。 そして、結川がわざわざ保健室の先生に私の事を伝えてくれたのだと思うと、嬉しくて有り難かった。
「今は閉会式とかも終わって、もうじき皆も校舎に戻って来ると思う。」
その言葉通りに静かだった校舎内が、次第にざわざわと騒がしくなってきた。一気にたくさんの人の気配を感じて、なんだか胃のあたりが落ち着かない。
閉会式が終わったとなると、私も本当にそろそろ戻らなくてはいけないようだ。あれほど、準備に追われていた体育祭が終わる。まぁ、これから体育委員は体育祭の後片付けをしなければならないのだけど、それもあと少しの辛抱だろう。
力を振り絞って立ち上がりながら、「先生、私戻ります。」と保健室の先生に向かって声を掛ける。それに対して、保健室の先生は「うん、体調には気を付けて。今日はお疲れ様。」と、いつもと変わらない微笑みで送り出してくれた。
椅子を抱えて校舎に戻って来る生徒たちに、逆らうようにグラウンドへ戻る。砂埃が舞うグラウンドには、まだ何人かの生徒が残っていた。その中には、私のクラスメイトたちも殆ど残っていて、各々が好き勝手にはしゃいだり、担任教師に向けられたカメラの前で楽しそうにポーズを決めている。
体育祭のお手本のような過ごし方をしているクラスメイトたちに、薄暗い気持ちが湧き上がってくる。自分の椅子を片付ける為に彼らに近付いても、私の存在なんて誰も気にしてなんかいなかった。空気のように扱われるのは、もう慣れている。
「結川ー!お前、こっち来いよ!」
「センセー!俺等も写真撮って〜!」
少し離れた場所では、田所に肩を組まれてスクールカースト上位集団の中で写真を撮られる結川の姿があった。
昨日、他校生たちに遭遇してあんなに動揺していたのに、それを感じさせずにヘラヘラ笑ってあの場に居る結川はやっぱり凄いと思う。
そんな結川とも、体育祭が終わってしまったらもう関わる事も少なくなるんだろうか。一時的に体育委員の仕事してくれていただけだから、きっとこれまでの関係に戻る筈だ。
スクールカースト上位集団に居る結川と、スクールカースト最下層に居る私。そこには、本来なんの繋がりも無かったのに、結川の存在は私とって不思議なくらいに悪いものではなかった。むしろ、ほんの少しの居心地の良ささえも感じていた。
何の危な気も無く、クラスメイトのたちの中でヘラヘラ笑う結川のその首には、相変わらず気味の悪い赤い縄が括りつけられている。けれど、やはりそれはいつものように揺れておらず、ただじっと息を潜めるようにだらりと垂れ下がったままだった。
体育祭が終わってから、一週間が経った。相変わらず、私は異様な腹痛に悩まされる毎日を送っていて、自分の首からは私にしか見えない気味の悪い赤い縄が垂れ下がっている。
けれどその日、目が覚めるとやけに朝が綺麗だった。いつもは空なんて見ないくせに、なんとなく見上げた空には少しの雲間から降り注いだ何本のも光の柱が、青空を金色に塗り替えている。空気が澄んでいるからなのか、いつもよりも世界の輪郭がはっきりと見えているような気がした。
起き上がって、今日一日の事を考えて絶望する。いつものように学校に行きたくないと訴える私を、心の中でもう一人の私が殺して諦めさせるのだ。
なんとか準備をして家を出る。その重い足取りで最寄り駅までやって来ると、いつも以上に多くの人が駅構内に押し寄せていた。蟻の行列のように、次から次へと人々は駅に入っていく。あまり見た事がないくらいに混雑している駅の様子に、思わず何事だと眉を寄せる。
人混みには近寄りたくないけれど、状況が分からない事にはどうしようもない。覚悟を決めて駅の中へと足を踏み入れると、すぐ近くに居た二人組の女性たちの話し声が聞こえてきた。
「なんか、人身事故らしいよ?」
「えっ、そうなの?」
「うん、SNS情報だけどね。」
「うわー。それって、いつ電車動くんだろ〜」
人身事故という言葉に、私の中の何かが小さく反応する。
混雑する人混みの中で、改札口の近くに立っている駅員が拡声器を片手に持った。
「えー、ただいま○○駅にて人身事故の為、電車が停車しております。運転再開の目処は今のところ立っておりませんが、普及作業に尽力していますのでもう暫くお待ち下さい。繰り返します…」
駅員さんの声が、人の気配の中を伝染していく。説明を聞くに、どうやら私が登校する為に使っている電車が止まっているらしい。
朝から予期せぬ出来事に、駅構内は騒然としていた。足止めをされている人々はスマホを片手に情報を確認したり、電車以外の交通手段に変更したりして慌ただしさが溢れている。いつ来るかも分からない電車を待つ人達が、すし詰め状態になりながら長い列を作っていた。
電車に乗れず立ち往生する人々が、朝から一日の予定を崩されたその不満を徐々に零し始める。
「チッ!マジかよ!」
「死ぬ時まで、人に迷惑かけんなよ!」
制服を着た学生たち。
「人身事故だって?」
「勘弁してくれよ、大事な会議があるのに!」
スーツ姿のサラリーマン。
「ちょっと、朝から止めてほしいんだけど。」
「予定が狂っちゃって、本当最悪。」
清潔感ある服を着こなすOL。
ノイズのように聞えてくる死者への罵声。きっと普通に生きられる奴には、線路に飛び降りてしまう気持ちが理解出来ないんだろう。
別に私が飛び降りたわけでもないのに、悲しくて苛々してくる。なんで死ぬ時まで、他人に気を遣わなきゃいけないんだろう。今まで散々気を遣って他人を優先してきたから、だから死ぬのに。自分の事で精一杯で、誰かの迷惑を考えられるそんな余裕がないから死ぬのに。余裕が無くなるくらい必死に生きたのに。
一気に気分が落ち込んで、私は人の流れに逆らうようにその場を離れる。擦れ違う人々の声や気配が不快で、目が回りそうになった。
「なんか、飛び降りたの☓☓☓駅近くの会社のサラリーマンらしいよ?」
その中で、誰かの興味本位で呟かれた声がやたらと耳に残った。☓☓☓駅は私の通う学校がある駅だ。この事故がどれくらい前から続いているのかは分からないが、色んな情報もSNSを通じて一瞬で飛び交っていくのだろう。
不意に何故か、その駅で何度か見かけた首に赤い縄が括りつけられたサラリーマンの事が頭に浮かんだ。
何の根拠もないし、全く関わりの無いことかもしれない。今だに私にしか見えないこの気味の悪い赤い縄のように、ただの私の妄想かもしれない。
けれど、確かにその時、赤い縄先に頬を打たれながら、いつも虚ろな目で線路を見ていた彼の姿が確かに浮かんだのだ。
それと同時に、私は自分の首から垂れ下がる赤い縄の事が少し分かってきたような気がした。
駅構内の騒がしい人混みから、距離を取るように駅の外に出る。いつ電車が動くかも分からない状況で、周囲を人に囲まれたまま長いこと待機するなんて私には出来そうにない。きっと列に並んだ所で直ぐにお腹が痛くなり、トイレに行くために列を何度も抜け出すはめになる。
それにこの駅がこんな状況なら、他の駅だって同じように皆身動きが取れないだろう。スマホを片手に情報を確認しながら、一旦私は駅を離れた。
何処に行く訳でもなく、ただ歩きながら一人になれそうな所を探した。今朝、綺麗だと思った空は少しの時間を掛けて既に形を変えてしまっている。あったはずの雲は徐々に流され、太陽もより高い位置に上った。
そんな自然な事が、時折私に寂しさをもたらしてくる。きっと、この首に括りつけられた赤い縄もそんな自然の事のような気がする。
それから暫くして無事に電車も動き出し、遅延証明書を持ってやる気無く学校に行く。正直、腹痛をひたすらに耐えるだけの苦痛な授業時間が潰れてホッとした。
人身事故により、私の最寄り駅を使う生徒以外にも電車が遅延した生徒たちは多くいて、生徒だけでなく教師たちも交通手段に戸惑い、皆学校へ来る時間がバラバラだった。
ちらほらと登校する生徒に混じりながら教室に入れば、クラスの三分の一程が空席のままだった。現代文の教師が一応授業という形をとっているものの、殆ど自習に近い。教師と一部のクラスメイトが授業に絡めながらも、色々なたわいもない会話をしている緩いものだ。
いつものように、音一つ鳴らすのに緊張するような静かな授業では無いことに安堵して席に座る。伏せていた視線をそろりと上げて教室内を見渡せば、結川の席は空席でまだ学校に着いていないようだった。
その後も、生徒が集まるまでの時間稼ぎのような授業は続けられ、電車が問題無く動き出した事もあってか、少しすると一人、また一人と教室に入って席に着く。
空席が徐々に埋められた所で、キーンコーンカーンコーンと授業終了のチャイムが鳴り響いた。騒がしくなる教室には、ほぼクラスメイト全員が揃っている。
しかし、その中でも今だに結川の席だけが空席のままだった。
「あー!てか、ところで昨日大丈夫だったん?」
「そーそー!結川、いきなり倒れたんでしょ!?」
突然、聞こえてきた「結川」の名前に私は思わずその集団の方へと視線を向ける。いつも騒がしいスクールカースト上位集団の二人が、クラスのリーダー的存在である田所の元へと詰め寄っていた。
「いや〜、知らねぇよ。放課後普通に喋ってたら、いきなり過呼吸になってぶっ倒れてさ〜、まじビビった!」
昨日の事を思い返すように、田所は所々笑みを浮かべながら軽々しい口調で話した。そんな田所の雰囲気に、スクールカースト上位集団の奴らも「何それ怖っ!結川からなんか連絡ないわけ〜?」と結川について聞き出そうと興味津々に聞いていた。
「ないない!結川が倒れた後、保健室の先生呼んでそれっきり!何の連絡もねぇ〜!」
「え〜、それって結構ヤバいやつなんじゃん?」
やたらと大袈裟に話す田所と、態とらしく喋る女子の声が煩くて苛々する。
「喋ってて突然とか怖ぇな。体調とか悪かったんか?」
「アイツ、何気に保健室行く回数多いしな。ただ、サボってただけかもだけど!」
賑やかに談笑しているスクールカースト上位集団の奴らは、誰一人として結川の事を心配しているようには見えなかった。結川の存在が、ただの話しのネタの一つとして扱われるのが凄く嫌だと思った。
結川が過呼吸になって倒れたという田所の話に、私はきっとこのクラスの誰よりも衝撃を受けていた。その話が本当ならば、今日学校へ来ていない事にも当然納得がいく。
スクールカースト上位集団に比べたら結川と関わった時間はとても少ないし、そこまで深い関わりを持ったわけでもないのに、私は学校を休んだ結川の事が気になって仕方がなかった。
以前、過去にいじめられたという他校生たちを前にして、酷く動揺し少し呼吸を乱していた結川の姿を思い出す。あの時そんな結川の首を、赤い縄はぐるぐると強く締め上げていった。まるで縄先が首吊りのように結川の頭上に伸びて、そのまま地面から足が離れてしまうのではないかと肝を冷やした程に恐ろしい光景が頭の中に蘇る。
苦しそうに他校生たちを睨み付けていた結川の呼吸が、締められる首と並行するように徐々に乱れていくのが怖くて、とても見ていられない気持ちになった。詳しくは知らないけれど、きっとストレスなどが原因で過呼吸になる事もあるだろう。
もし、他校生たちを前にした時と同じような事が、田所たちの前でも起こってしまったとしたら、そう考えると私の中の何かが私を駆り立てるように落ち着かない気持ちになる。
思い返せば、保健室で度々遭遇した結川はいつも青白い顔をして体調が悪そうに見えた。もしかしたら、日常的に何かしらの症状はあったのかもしれない。
田所の前で過呼吸を起こし、倒れる結川の姿を頭の中で何度も想像する。ただの妄想かもしれないけれど、私は居ても立ってもいられなくなり、次の授業の事なんて考えられず衝動のまま教室を飛び出した。
走って一階にある保健室まで向かい、閉まっていたドアをガラッと勢い良く開けた。
「…み、三上さん?そんな急いでどうかしたの?」
息を乱しながら保健室に飛び込んできた私に、保健室の先生は目を見開いて驚いたように座っていた椅子から立ち上がる。
その困惑したような保健室の先生の表情を見た私は、じわじわと冷静さを取り戻して、一体私は何やっているんだろうという気持ちになった。
けれど、やっぱり結川の事が気にかかる為、自信無さげに口を開く。
「先生、結川くんが昨日倒れたって…」
「あぁ、誰かから聞いたのね。」
私の言葉に保健室の先生は、何処か納得したように頷いた。
「…大丈夫なんですか?」
「うーん、どうかな?とりあえず、今は自宅療養中としか言えないけれど…」
大丈夫とも大丈夫じゃないとも言わない曖昧な保健室の先生の言葉に、私は酷く気分が落ち込んだ。それだけで、きっと結川は大丈夫ではないんだと思った。
「…そうですか。」
そう力無く零れ落ちた自分の声が、何処か他人事のように聞こえた。
次の授業が始まるチャイムが鳴り、その音の余韻が静かな保健室の空間に波紋のように広がる。
「結川くんの事、心配してくれたのね。」
相変わらず優しい物言いをする保健室の先生に、私は胸が痛くなる。「心配している」と誰かに言われてから、初めて自分の言いようのない不安が全部その為のものだと気付いた。
けれど、私なんかが結川を心配したところで、何も現状は変わらないのだろう。それが、やけにもどかしくて堪らない気持ちになる。
結局、あれこれ考えたところで、どうする事も出来ない私は諦めと共に項垂れる。目を伏せれば、首から垂れ下がった赤い縄がいつものようにゆらゆらと揺れていた。
いつの事だか、赤い縄が結川の首を締め上げるのを見た日。それは、いつか結川を何処か遠くへ連れて行ってしまうような気がしていた。「楽になりたい」と言っていた結川の意志を尊重するように。
そんな馬鹿げた妄想の筈が、今目の前の現実に現れようとしているように思えてまた私は怖くなった。
結川が学校を休んだ日から、今日でちょうど二週間が経った。
朝いつものように腹痛に耐えながら学校へ行き、息苦しい教室に入る。教室の中心には既に、田所を含めたスクールカースト上位集団が集まっていてケラケラと楽しげに談笑をしていた。
その中から、もう習慣化されたように結川の姿を探す。けれど、首から赤い縄を垂らしてヘラヘラと笑っている彼の姿は今日も何処にもなかった。あれから二週間、結川は一度も学校に来ていない。
結川が過呼吸で倒れたという日に一体何があったのか、私には知りようがないけれど、二週間も学校を休んでいるということはきっと只事ではないだろう。
結川の身に起きている事が精神的なものなのか、それとも何らかの病気なのかも分からない。以前から、保健室で顔色の悪い結川と何度か遭遇したことがあるので、何らかの病気があったとしても可笑しくない筈のだが、担任教師や保健室の先生も結川に関しては何の説明もしてくれなかった。
突然、学校に来なくなった結川に対して、最初はクラスメイトたちの中で話題になっていた。それこそ、スクールカースト上位集団は騒ぎに騒いで結川の事をネタにしていたのだが、二週間も経った今では結川の居ない事が既に彼等の中で日常になっている。
けれど、たまに「てか、今日もアイツ休みじゃね?」なんて、スクールカースト上位集団の誰かが思い出したように口にしていたりした。
教室で朝から盛り上がっているスクールカースト上位集団を横目に、私は自分の席に座る。
「つーか、アイツ出席日数やばくね?」
「夏休みにはまだ早ぇよな〜。」
今日もスクールカースト上位集団の中の誰かが、話題の一つとして結川の事を話している。
「学校ってどれぐらい休んだら留年になるっけ?」
「さぁ〜?でも二ヶ月とか休んだら流石にやばいんじゃん?」
皆そんな話はしながらも、深刻そうな表情はしていなくて結川の今後の話さえもただの世間話程度なのだろう。田所もスマホを片手に、やたらと気怠そうに話を続けている。
「つーか、結川って結局なんで休んでんの?」
「知らねぇ〜」
「てか、このまま辞めんじゃね?葉山の時も直ぐだったよな。」
そう言った誰かの発言に、私は密かに心臓が跳ねた。学校に来なくなった結川が、そのまま居なくなってしまうのではないかと変な予感がするのだ。あの日から、ずっと私はその事について考え続けている。
結川が居ない日々が日常となっていくのが、何処か納得がいかない気がして私は無意識に拳を握りしめた。
「葉山も結局なんで辞めたんだか知らねぇけど、援交とか妊娠とかめっちゃ言われてたよな。」
「そーそー!あの子、佳奈とかから嫌われてたからめっちゃ噂回ってたよね!結局、何が本当か分かんないけど!」
「あー、葉山とかもう忘れてたわ〜」
いつの間にか、話題は結川から葉山へと移り変わっていった。他人の事をあーだのこーだの言う彼等の耳障りな声を聞きながら、朝の時間が過ぎていく。
暫くしてからチャイムが鳴って、いつも通り私にとって地獄のような時間が始まった。クラスメイトたちは自分の席に戻り、担任教師がやって来て静かになった空間で淡々とHRを行う。
自分の周りを囲う人の気配に怯え、誰にも変に思われないように息を潜めた。静かな空間に私の焦りが積もっていくように、ストレスが全て下腹部へと集結する。もうどうしたら普通になれるのか分からなくて、動き始めた腹を必死に抑えた。
きゅるきゅると鳴る腹に、お願いだからこれ以上は止めてくれと恐怖しながら祈る。痛くなるお腹で溜まっていくガスで、もうまともに思考は動かなかった。辛い時間をただただ耐え抜く。
どうして私だけが、どうして。そう繰り返していれば、そのうち朝のHRが終わって、直ぐに一時限目の授業が始まる。途方に暮れるくらいに長い、辛い時間がずっと続いていく。私だけが、生きづらい。
普通の生活がまともに送れないほど、お腹が痛くなったって、首に気味の悪い赤い縄が見えるようになったって、結川が学校に来なくなったって、いつだって世界は何の支障もなく廻っている。
シネシネシネシネ。
今日も蝉が呪いの言葉を吐いている。その声聞きながら、私は今日も行きたくもない学校に向かう。襲いかかる腹痛に耐えて人が詰め込まれた電車に乗り、停車した途端に人の群れから抜け出して駅のトイレに籠る。
惨めな朝のルーティンを終えて外に出れば、同じ制服を着る学生たちで通学路は溢れていた。
最近は、以前にも増して腹の調子が悪い。毎日のように学校に行く前から下痢が止まらなくて、心も身体も朝から疲れ切っている。
友達と楽しげにはしゃぐ学生たちを見ると、酷く心が騒ぎ出して苛々する。なんで、そんなに笑っていられるのか。私は毎日こんなに辛いのに、なんでお前等ばっかり楽しそうなんだ。
しまいには皆私を見て笑っているんじゃないかと急に不安に思って、急ぎ足で学生たちの前から逃げ出した。道を歩く人、人、人。その誰も彼もが、私も見て笑ったり怒ったりしているように思えて怖い。
神経を擦り減らすようにして学校に着くと、疲れがどっと増す。これから、また一日が始まってしまうという恐怖心に身体が呑まれる。
逃げ出したい気持ちを必死に押し込めて、教室に向かうとやはり呼吸がしづらくなって足が止まりそうになる。ドアの影に隠れて教室の中を覗き込むと、スクールカースト上位集団が毎日飽きもせずに集まって談笑していた。
「ふわぁ〜…馬鹿眠いんだけど、もう帰りてぇ。」
その中心で田所が欠伸をしながら不機嫌そうに溢す。そんな田所を周囲の奴らが「いや、今来たばっかじゃん!」と突っ込み、ケラケラとした笑いが教室内に伝染していった。
以前、それは結川のポジションであった筈だ。けれど今では、もう別の誰かがその代わりとなって普段通りのやり取りをしている。その事に誰もなんの違和感も感じていなくて、まるで最初から結川なんて居なかったように彼等は過ごしていた。
結川が学校に来なくなってから、もう一ヶ月以上の月日が流れた。相変わらず担任教師はそれに関して何も言わず、クラスメイトたちも直ぐに結川の居ない日常に慣れていった。
「てか、今日体育あるじゃん。くそだりぃ〜」
「そもそも、今日の体育って何やんの〜?」
「あ?そんなん知らねぇよ。」
「え、田所って体育委員じゃないの〜?」
「そー。でも聞いてねぇから知らね。」
体育委員の仕事を全くしていない事に対して、田所は悪びれる様子もなく興味無さげに答える。そして、思い出したかのように「三上が聞いてんじゃね?」となんて無責任に言い放つのだ。
「いや、女子と男子の授業内容違うだろ!」
「んじゃ、知らねぇ〜。」
「適当か!」
ケラケラ。ケラケラ。
軽い笑い声が教室内に転がって、私にその全部がぶち当たる。何もかもが憂鬱に感じて、嫌悪感に沈む。
教室に入る事はせずに、私はまたトイレに向かって逃げ込んだ。薄暗いトイレの個室で、自分の首から垂れ下がった赤い縄を見る。何をするわけでもなく、血のようなどす黒い赤をただただ眺めていた。
あれから、いつも通りにチャイムが鳴って学校が始まった。そして、何時間も何時間も惨めな思いをしながら、お腹の痛みに耐え続けた。
あと一時間で今日の授業が終わる、そう祈るような気持ちで六時限目の古典の授業を受けていた。静かな教室内には、古典教師の教科書を音読する声が響く。
それが眠気を誘うような穏やかなもので、何人かのクラスメイトたちは無駄口も叩かず静かに机に突っ伏している。その生み出された静寂が余計に、この空間を居心地の悪いものにしていた。
教室に居る無数の人の気配が、私を見張っている。そんな筈無いって分かっているのに、身体は無意識に緊張してその焦りから下腹部がどんどん張っていく。
毎日何度もこの時間が訪れるたびに、自分の尊厳が踏みにじられるような気分になる。お腹が痛くなって、腹にガスが溜まって自分ではどうしょうも出来なくて必死に掌を傷付けて耐える。
暴れ出した腹がどうにかなってしまいそうで怖くて、泣きそうになる。少しでもこの静寂を壊そうと、汗が止まらない手で無駄にシャーペンの芯をカチカチカチと出したり、爪で机を叩いたりして必死に抗った。
それでも当たり前に何の解決にもならなくて、腹痛は更に酷くなっていく。額からはだらだらと汗が流れ落ち、呼吸も上手くしづらくなった。
腹が張り裂けそうな程ガスが溜まって、出口を求めて容赦無く動き出す。それをコントロールの効かない身体で無理矢理に抑え込みながら、首に括りつけられた赤い縄が目の前で揺れているのを見た。
ゆらゆらと揺れるそれがあまりにも呑気で、残酷に思えて悔しくて悲しくて苛立って辛い。なんでだ。なんで私が、こんな目に合わなきゃいけないんだ。
もう嫌だと思っても、どうにもならなかった。
ぎゅるぎゅるぎゅる。
ぐぎゅうぎゅぎゅるる。ぐぅぎぅ。
腹と穴の中間辺りで鳴った間抜けな音が、静かな教室内に大音量で響き渡った。サァーッと血の気が抜けて、自分の心臓の音が大きくなる。やってしまった、と思った。
その音は私の周囲に居るクラスメイトたちにも、もちろん聞えていたようで、ひそひそとした声や見えない視線が刃物ように浴びせられる。
「今の誰?」
「腹の音?それとも…」
聞えてきた声に、とてつもない羞恥を感じて死んでしまいたくなった。ずっと恐れてしまった事が、起きてしまった。起きてしまった事は、どれだけ後悔してもどうしようもなくて、黙ったまま俯く事しか出来ない。
「今の、三上さん?」
「…え、」
前の席のスクールカースト上位集団の一人である女子が、ケラケラと笑いながら後ろの席の私を振り返る。
「腹の音、めっちゃデカかったよ?」
その瞬間、一人の私が死んだ気がした。心がぐちゃぐちゃに爛れていくのを他人事のように感じる。
「…あ、うん。お腹鳴っちゃって、あははっ、」
目の前の女子に合わせるように、口角を上げて歪な笑みを作った。全然笑えないのにヘラヘラ笑って、嫌いな女子に必死に気を遣う。
死んだ私の身体を、まだもう一人の私が刺している。
「なんだ腹の音かぁ、まさかと思ったわ〜」
「すげぇ爆音だったもんな!」
スクールカースト上位集団の女子が声を掛けたからか、周りの席のクラスメイトも私を笑いのネタにする。私に向けられる笑いは、いつもの自意識過剰ではなくて本物だった。
痛い。苦しい。助けてほしい。
まるで公開処刑だ。この場所は、私の恥を晒す場所でしかない。毎日、私は此処で恥を晒されて殺される。私が一人死んで、また一人死んで、自分の死体が積み重なっていく。
大切だったものや諦めたくなかったものも、全部死んで空っぽになって、私は今自分が何者であるのか全く分からなかった。なんで、こんな事になってしまったんだろう。
恥ずかしくて情けなくて絶望した。もう全部、死んでしまえ。
あの時は鳴ってくれなかったチャイムが今更ながらに鳴って、六時限目の授業が呆気なく終わる。私を笑っていたクラスメイトたちは、既に私を笑う事にも飽きたのか、授業終了と同時に席を立ち上がり、楽しげな友人たちの輪の中に入っていく。
いつもなら、授業が終わった瞬間にトイレに駆け込むのに、今は何も出来なかった。身体が動かなくて、一歩踏み出したら私が粉々に崩れ落ちてしまいそうで怖かった。
シネシネシネシネ。
教室の開けられた窓から、容赦無い蝉の声が入り込む。蝉から発せられる「死ね」の声がどうしたって、自分に向けられているような気がした。
私の恥が晒された。ずっと必死で隠したかったものが、耐えてきたものが晒された。一体、何の罰だというのだろう。私が何か悪い事でもしたっていうのだろうか。
もう無理だと思った。きっと、本当は今までずっと無理だったのだ。それでも、どうしてか私は今日までやって来てしまった。
騒がしく楽しげな教室。酷く惨めで場違いな私。
俯く視界で揺れているのは、どす黒い血の色。首を一周するように巻き付いて、顎の下、喉仏の辺りから鳩尾辺りにまで縄先が伸びてだらんと垂れ下がっている。その縄先を天井か軒にでも縛り付けてしまえば、今直ぐにでも首を吊る事が出来そうな気味の悪い赤い縄。
どれだけ願っても、この首に括りつけられた赤い縄は私を助けてくれない。殺して、くれないのだ。
また、望んでもいない朝が来た。布団から一歩も出れずに、朝の気配をただ感じていた。そのまま、死んだように倒れていれば「ちょっとまだ寝てんの!?学校遅れるよー?」とドアの向こうで母の声が聞こえる。
それを無視してひたすらに倒れていれば、部屋のドアが開き無理矢理に身体を起こされた。諦める事に疲れ切った私は、無感情のまま制服に着替えて家を出る。
首から垂れ下がった赤い縄は、夏風にゆらゆら揺れる。擦れ違う人々の首にも、私と同じ赤い縄が見える。青々とした空に朝日が昇り、眩しい光の集中線が走る。
昨日、私が死んだ筈なのに、まだ死んでない感性が無意識に動く。この世界に絶望したままなのに、素直に綺麗な朝だと思った。
最寄り駅に着いて、忙しなく歩く人混みに呑まれながら
駅のホームに向かう。周りの人の気配に怯えて、欠陥品である自分の事を散々諦めてきたのに、今だに必死に普通の人間を装って何でもないフリして電車を待つ。
歩き方や立ち方さえも、分からないくせに。どう振る舞えば変に思われないか、気になってしょうがないくせに。周りに人が居るとお腹が痛くなって、怖くて仕方ないくせに。
どう足掻いても、自分だけが世界に馴染めないのに。自分のどうしようもなさに、笑えてくる。
目の前の線路を、ぼやけ始めた視界で眺める。そこに踏み出せば、私の求める全てが叶う気がした。
以前、駅で何度か見かけた事がある首から赤い縄が垂れ下がったサラリーマンの事を思い出す。あのサラリーマンは、人身事故以来一度も見かけていなかった。あのサラリーマンが、本当に線路に飛び込んでしまったのかは分からない。けれど、きっとこんな気持ちを抱えながら、あの虚な目でただひたすらに線路を眺めていたのかもしれない。
引き寄せられるように一歩、線路に近付いたところで、カンカンカンと少し離れたところから踏切の警報音が鳴った。駅のホームに、電車の説明するアナウンスが流れる。
暫くすると、夏の匂いを含んだ風を巻き込むように電車がやって来た。その風に、私の首から垂れ下がる赤い縄が流されていく。
自動ドアが開き、人の波に呑まれるように電車に乗り込んだ。周りを囲む人、人、人。やはり何をしたってどうにもならない腹は痛くなって、下腹部が張っていく。もう疲れた。
全ての事がどうでも良くなった。腹痛に耐えながら、あと何駅あと何駅と頭の中で健気に数える事に何の意味があるのだろう。毎日必死に自分を殺して学校に行くことに、一体何の意味があるんだろう。
お腹が痛かった。耐えて、耐えて、耐えて。
ようやく、いつも降りる駅に着いた。自動ドアが開き、同じ制服を着た学生たちがどんどん降りていく。それ以外にも何人かの乗客が電車を降りて、ほんの少しだけ空間に余裕が出来た。
電車に乗ったまま、友人とはしゃぎながら学校へ向かう学生たちの後ろ姿を眺める。私には、到底叶わなかった理想をすぐ近くで眺めるだけの日々。楽しそうで羨ましくて、一人の自分が可笑しくて惨めで嫌になる。
この電車を降りたら、また学校に行かなければいけない。そう思ったら、足が地面にくっついてしまったように身体が動かなかった。
アナウンスが流れて、ゆっくりと自動ドアが閉まる。私を乗せたまま、電車は次の駅に向かって走り出した。
私は自分がやった事ながらに、少なからず衝撃を受けていた。今まで、故意にこんな事をしたことがなかったからだ。ここで乗り過ごしたら、きっと遅刻は免れないだろう。そんな事は分かっている。
けれど、もう無理なのだ。本当に私は限界なのだ。
ぼんやりとした頭で、今だ多くの人を乗せた電車内を見渡す。イヤフォンを耳にする学生、腕を組み目を瞑るサラリーマン、窓の外を見る女性、座席に座る老人、スマホを弄る若者、本を開く女性、またスマホを弄る若者。
人の気配に焦り、腹痛を起こす私は一体この中で何者だろうか。そんなのもう、どうでも良いか。
電車内で首から垂れ下がる赤い縄が、ゆらゆらと揺れる光景をずっと見ていた。その非現実的な光景に比べて、異様な下腹部の張りと痛みだけは何よりも現実的だった。それに耐えていれば、また次の駅がやって来て電車が止まる。
自動ドアが開くと共に何人もの乗客が降りていき、何人かの新たな乗客を乗せて電車は再び走り出す。腹痛も乗客も気になって仕方ないのに、私はまた電車を降りなかった。
逃げ場を失った空間で腹痛に耐えながら、自分が何をやっているのか自分でも分からない。知らない人たちと電車に揺られながら、自分の知っている街からどんどん離れていく。
それでも、必死にガスでパンパンになった下腹部に抗いながら私は電車に乗り続けた。
あれから、どれくらい電車に乗り続けただろうか。電車は何度も新たな駅に着いては、人を吐き出したり呑み込んだりしながら別の街へ進んでいった。
朝の通学や通勤時間を過ぎた今では随分と人が減り、どんどん都会を離れて走っていく電車内はガランとしている。長い事、腹痛を耐え続けて疲れ切っていた私は、空席が目立つ座席に腰を下ろした。
座ったクッションの感触に安堵し、深く息を吐く。窓の外を流れていく景色をただただ眺めていれば、次の駅を知らせるアナウンスが車内に響いた。
暫くして電車が止まり、自動ドアが開く。ホームに乗車する人は居なく、生温い空気と共に大音量の蝉の声が車内に入って来た。
シネシネシネシネシネ。
その呪いの言葉に、私は結川の事を思い浮かべた。田所たちに合わせる為に、必死に自分を作っていつもヘラヘラ笑っていた結川の事を。
正直、ずっと学校を休んでいる結川を羨ましいと思った。毎日自分を擦り減らしながら学校へ行き、苦痛と羞恥で死にそうになっている私は、この地獄から離れられた結川が羨ましくて仕方ない。
それと同時に悔しく思う。以前、他校生たちを前にしてあれ程に怯えていた結川が、色んなものを犠牲にして歯を食い縛りながら今の居場所を必死に築いてきたのに。それをこんな形で崩されてしまうなんて、結川があまりにも報われないと思った。
私にとって結川は、あの息苦しい教室の中で唯一、私の事を気に掛けてくれた存在だ。結川は私とは違い、コミュニケーションが高くてクラスの中心に居るような人物だったのに、何故か私と少し似ているような気がした。
私と同じ、赤い縄が首に括り付けられていたからもしれない。そんな勝手な仲間意識かもしれない。
結川は、赤い縄なんて見えていないのに。自分の首に巻き付いた赤い縄に強く首を締め上げられても何でもないような顔して笑って、いつも危なっかしくて、優しかった。
クラスメイトたちは私の存在なんてまるで空気のように扱うけれど、結川だけは違ったのだ。私はそれが、本当に泣きそうなくらいに嬉しかった。
再び走り出した電車の中、俯いた視界で揺れる赤。ゆらゆらと空中を泳ぐように揺れてる赤い縄先を、無意識に視線で追いかける。
この、私にしか見えない気味の悪い縄の正体をずっと考えていた。そして、最近少しずつこの赤い縄の事が分かってきたような気がする。
毎日逃げ出したい私と、楽になりたい結川の首に括り付けられた赤い縄。虚ろな目で線路を見ていたサラリーマンの首に括り付けられた赤い縄。
これはきっと、死の縄だ。
この世界で、上手く生きられない人間に巻き付いた息苦しい呪いだ。