まだ五月の始め頃というのに、一層暑さを感じるような日だった。眩しい太陽の日差しが降り注ぐグラウンドで、二限目の体育の授業が行われていた。
「体育委員はソフトボールとグローブの用意しといて!」
まだ本格的な夏が来ていないのに、既に若干日焼けした体育教師がそう言って私に指示を出す。それに小さく「…はい。」と答えて、一人自信無さげに体育倉庫まで授業に必要な道具を探しに行く。
運動部でも無い私は、体育倉庫に入ること事態が初めてだった。薄暗い倉庫の中では、何処に何が置いてあるのかよくわからない。目を凝らしてなんとか指示されたボールとグローブを探し出すと、籠いっぱいに入れられたボールをよたよたと倉庫から運び出した。
「キャッチボールとかダルくない?」
「ねー!グローブとかはめたくないんだけど!」
背後から聞こえてくる会話に目を伏せて、もたつきながらもボールの籠を置くと、今度はグローブを運び出すために再び倉庫へと戻った。
小さな事でキャハハッと騒ぐ女子たちの声が、少し遠くに感じる薄暗い倉庫内は何故か落ち着く。
突然、体育委員に決められてから一週間が経った。あれから、結川は一緒に体育委員の仕事を手伝ってくれている。数日前は、クラスメイトたちに体育祭の種目決めのアンケートを取ったところだ。
現在の体育の授業は男子と女子が別々の内容を行っているため、女子の体育委員の仕事は全て私がやらなければいけない。体育の授業がある度に体育委員は、授業の準備や運動前の体操などクラスメイトをまとめる仕事があるのだが、皆の前で何かをしなければいけないのは、私にはとても気が重くて全く慣れる気がしなかった。
「じゃあ、キャッチボールするから二人組作ってくれ!」
外から聞こえてきた体育教師の溌剌とした声に、慌ててグローブの入った籠を持ち上げる。急いで外に出てクラスメイトたちが集まる場所にグローブを持っていくと、既に二人組を作った者たちが次から次へと運んで来たばかりのグローブを持って行った。
その様子に焦って周りを見渡せば、既に女子全員が二人組を作り終えていて、私はそれを一人ポツンと見ている事しか出来なかった。あぁ、私はいつもこうだ。
先程、キャッチボールがダルいと文句を言っていた女子たちも、あーだのこーだの言いながら結局楽しそうにキャッチボールをやり始めている。太陽の光を浴びた彼女たちの着ている体操着の白が、やけに眩しく見えて目を背けた。
無意識に溜め息を吐いて、ソフトボールとグローブを持って一人とぼとぼと体育教師の元へと向かう。
「ん?何だ、三上はまた余りか?」
私を見ると、体育教師は冗談交じりに笑って言った。きっと、そこまで悪気は無いんだろうなと分かっている。けれど私は、体育教師の言葉に笑い返しながら器用に返事をする事が出来ない。全然、笑えない。
そんなやり取りを見ていた近くの女子たちが「ちょっと、センセーひどい!」とケラケラ笑いながら言う。それに対して体育教師は「えぇ?」なんて、惚けたような声で調子良さげに笑うのだ。この人たちは、一体何がそんなに面白いんだろう。
途方もない息苦しさが私を襲う。こうゆう時、一人の惨めさを感じる。狭い教室内で、誰とも仲良くなれないのはそんなにいけない事だろうか。私は何か笑われるような事をしているんだろうか。
それでも、私はこの人たちに合わせるように歪な笑みを浮かべるのだ。読みたくもない空気を読んで「あはははっ、」と無理矢理に笑う。その度に何かを失っていくような気持ちになりながら、時間が過ぎていくのをひたすらに耐えた。
けれど、やっぱり酷い疲労感に耐えられなくて、気付けば持っていたソフトボールもグローブも置いて体育教師に声を掛ける。
「先生、体調が悪いので保健室に行ってもいいですか?」
「ん?あぁ、行って来い。」
曖昧な表情でそう言った私に、体育教師は特に何も気に止める事もなく、授業をする為にキャッチボールをする女子たちの元へと戻って行く。
その体育教師の無関心さに、私は心置きなく授業を抜け出して保健室へと向かった。
保健室へと向かう途中、広いグラウンドの反対側からクラスの男子たちのふざけ合う声が聞こえて来る。女子のソフトボールの授業とは違い、男子たちは野球の授業を行っているのだ。
なんとなく視線を送ると、田所諒を含めたスクールカースト上位集団の男子たちが楽しそうに野球をやっている。その中に、いつも居るはずの結川の姿が見えなくて私は首を傾げた。
不意に、視界を赤い縄先が横切る。そして、赤い縄は私の行く手を示すように、日差しの眩しいグラウンドから薄暗い日陰の校舎内に縄先を伸ばした。触れることも出来ない赤い縄からは大した力を感じる事も無いのに、私は犬のように引き摺られるようにして校舎内へと入っていく。
赤い縄先の示すまま、気配を消すように廊下を歩いて目的の保健室まで辿り着いた。慣れたように保健室の引き戸をガラッと開けると、微かな消毒の匂いが鼻を掠めて深く息を吐く。
室内はあの日のように保健室の先生は不在のようであったが、病人用の二つあるベッドのうち、片方だけが外を遮断するようにベッド全体をカーテンで囲まれていた。
どうやら私よりも先に来た誰かが、もう既に保健室を利用しているようだ。なんというか、一人になりたくてこの場所に来たのに、同じ空間に同じ学生の誰かが居るという居心地の悪さに内心落ち込む。何だか、全部上手くいかない。
こんな情けない私をこの世の全てが嘲笑っているように思えて、八つ当たりのようにカーテンの向こうの見えない存在を睨み付けた。
すると、唐突に睨み付けていたベッドのカーテンが揺らめいて中に居る誰かの気配が濃くなった。
「先生、今日はもう帰りたいです。」
低く吐き捨てるような声と共に、ベッドを囲んでいたカーテンがシャーッと勢い良く開けられる。
カーテンの中から出て来たのは、首によく見慣れた赤い縄を垂れ下げた結川だった。結川は私と目が合うと、瞳を大きく見開いて驚いたような表情をする。
今の言葉から察するに、きっと結川は保健室にやって来たのが私ではなく、保健室の先生だと勘違いして声を発したのだろう。
授業の真っ最中である今の時間に保健室を訪れる者は少なく、きっと保健室の先生が居ないと分かったら諦めて授業に戻る生徒もいるはずだ。
そんな状況の中、立ち去る事もなく堂々と保健室内にやって来た私の気配を結川が保健室の先生のものだと勘違いしても何も不思議ではない。
目の前で無言のまま立ち尽くす結川は、以前見た時のように顔色を真っ青にしていて酷く体調が悪そうに見えた。その様子から、体育の授業に参加していなかった事にも納得がいく。
「…なっ、なんだ、三上さんだったんだ。保健室の先生かと思って喋っちゃったよ。」
なんとなく気まずいような空気を誤魔化すように、結川は「ハハッ」とおちゃらけたように笑った。それはクラスメイト達に囲まれている時と同じような軽い口調であるものの、無理矢理に口角を上げている表情は歪で全然笑えていない。今にも倒れそうなほどに青白い顔色は、むしろ心配になる程だ。
そんな結川の様子に、私は思わず口を開く。
「結川くん、体調悪そうなら、そんな無理しなくていいよ。」
「えっ、」
以前はスクールカースト上位集団にいる結川が少し苦手だったけれど、体育委員会を通して結川と関わってから、私の中で結川の印象が大きく変わっていった。
教室内でクラスメイトたちに囲まれ、ムードメーカーとして騒いでいたりする結川は今も若干近寄りがたいけれど、こうして結川一人と向き合うと結川は案外穏やかで、想像以上に人に気を遣っている人間なのだと感じる。
それこそ、体育委員の仕事も含めて、友達も居ないスクールカースト底辺にいる私のような奴にまで気を遣ってくれたりするのだ。
「顔色悪いし、ベッドに戻った方がいいよ。保健室の先生呼んで来ようか?」
「えぇ!?いや、大丈夫!大丈夫!」
私の言葉に結川は青白い顔色のまま、慌ててブンブンッと手を振った。以前も顔色を悪くしながら、保健室にやって来た結川の姿を思い出す。もしかしたら、結川はあまり身体が丈夫な方ではないのかもしれない。
「三上さんこそ体調悪いの?大丈夫?」
そんな事を考えていれば、私よりも重症そうな結川が心配そうに眉を下げて声を掛けてきた。その自分を優先しない優しさは、見ていてとても危なっかしいと思う。
唐突に、ガラッと音をたてて保健室のドアが開けられた。
「あぁ、三上さん来てたのね。どうしたの?」
保健室へ戻って来た先生が、いつもように優しげな口調で私に聞く。それに少し安堵したような、後ろめたいような気持ちになった。
「ちょっと、気分が悪くなって…」
「確かにそんなに顔色は良くなさそうね。とりあえず、体温測ってみて。」
「はい。」
保健室の先生に、手渡しされた体温計を受け取った。保健室の中心には一台のテーブルとそのテーブルを挟むように二脚の長椅子が置いてあり、保健室に来ると他の生徒たちが、度々この長椅子に座って怪我の手当を受けたり、保健室の先生と会話をしたりしているのを見かけた事がある。
私もそれを真似するように、長椅子に座りながら大人しく体温を測った。体温を測り終えると、目の前のテーブルの上に置かれていた冊子を広げる。この冊子は、保健室にやって来た生徒たちの氏名や体温、時間帯や症状などが細かく記録されているものだ。
一番新しく書かれている名前は、そこに居る『結川周』のものだった。その結川の下に『三上律』と自分の名前を慣れたように記入する。測った体温は、特に異常もなく平熱だった。
「体育の授業だったの?今日は暑いから、気分も悪くなるわね。」
体育の授業中を抜けて来た体操着姿の私を見て、保健室の先生は部屋の窓を開けながらそう言った。そして、その足で私の方へ近寄ると、テーブルの上の記入したばかりの冊子を覗き込む。
「熱は無さそうね。ちょっとの間、保健室でゆっくりしていって。」
「はい。」
保健室の先生は「一応、これ使って」と、保健室の片隅に置いてある冷蔵庫から保冷剤を取り出して渡してくれた。それを額に当てると、じんわりと冷たさが肌に伝わり気持ちが良い。
開けられた窓から室内に入り込んだ生温い風は、私の首に括りつけられた赤い縄を揺らし、結川のいるベッドのカーテンもふわりと揺らす。
「結川くんは、もう大丈夫なの?」
「はい、大丈夫っす。」
保健室の先生の声にまだ少し顔色が悪いにも関わらず、結川はヘラリと笑ってベッドのカーテンから出て来る。
「えっ、でもさっき帰りたいって…」
「そうなの?」
平然と笑っている結川に、私は数分前に保健室にやって来た時の事を思い出す。結川が私を保健室の先生と間違えて言った言葉は、今の結川の発言とは真逆のものだったはずだ。
私の指摘に、保健室の先生も結川を伺うように首を傾げた。
「いや、そんな事!もう、全然大丈夫なんで!」
しかし、結川は焦ったようにその事を否定してヘラヘラ笑いと元気をアピールする。ベッドのカーテンから出て来た結川は軽い足取りで、テーブルを挟んで私の正面の長椅子にどさりと座った。
「…まぁ、分かったわ。本当にしんどくなったら、ちゃんと言ってね?」
結川の言い分に保健室の先生は、何か考えるようにしながら心配そう微笑んだ。今だに顔色が優れない結川の顎の下、白い首から垂れ下がった赤い縄先が目の前でふわふわと宙を漂っている。
「体育祭も近付いて来たし、二人とも体調管理気を付けないとね。」
保健室の先生が言った言葉に結川はガクッと俯き、テーブル上に顔を押し付けた。
「はぁー、嫌だな体育祭。」
結川の少しぐもった低い声に、私は思わず顔を上げた。
保健室の先生は結川の寝ていたベッドのカーテンを全部開けて、布団を整えながら会話を続ける。
「暑いし、大変だものね。出る種目とかは決まったの?」
「リレーと障害物競走と綱引きと大縄と二人三脚と…」
「そんなに出るの!?」
作業していた手を止めて、保健室の先生は驚いたように声を上げた。
「だって、皆出たくないって…ね、三上さん。」
「まぁ、そうだね…」
結川に話を振られて、私は以前結川と共に体育祭の種目決めについてクラスメイトにアンケートを取った時の事を思い出した。とりあえず、一人二種目は確実に出なくてはいけないのだが、体育祭の種目は割と多いのでクラスでも何人かは二種目以上の種目に出ることになっている。
しかし、誰も積極的に参加したくないので「てか結川、運動神経良さそうじゃん?出れば?」という理不尽な田所の発言に、スクールカースト上位集団を含めたクラスメイトたちが便乗したのだ。それに対して結川はいつもようにヘラヘラしながら否定するも、結川のイジられキャラ故に皆まともに取り合わなかった。
クラスのリーダー的存在の田所の発言に誰も歯向かう事は出来ず、結局結川が一番多く種目に出る事になってしまったのだ。
「何それ、酷いわね。」
「まぁ、結局誰かがやらなきゃいけないしね。三上さんも、四種目も出てることになっちゃって。」
「えっ!?三上さんも?」
「…はい。」
重々しく返事をする。種目決めはとても難航し、結川があまりにも不憫だったので、運動は苦手であるが体育委員という事で私も四種目ほど参加する事になった。綱引きや玉入れなど、なるべく体力を使わない種目を選んだので、そこまでハードなスケジュールでは無いはずだ。
本来は運動部が率先して競技に出れば良いのに、どいつもこいつも本当に碌でもない。最悪だ。体育祭なんて大嫌いだと、心の中で暴言を吐く。
「無理そうなら、断っても大丈夫よ?私から担任の先生に話をしましょうか?」
「…いえ、大丈夫です。」
保健室の先生の言葉は凄く有り難いし、こんな話出来れば断りたい。けれど、断ったところでクラスメイトたちに非難されるのは目に見えている。今以上に、教室に居づらくなったら困るのは私だ。
「そういえば、三上さん。体育祭のプログラム制作って、明後日締め切りだよね?」
「うん。そろそろ、やらなきゃいけないよね。」
「種目決めも終わったし、今日の放課後に作業して明日あたりにでも提出しにいこうか。」
「私は全然大丈夫なんだけど…結川くんは大丈夫なの?」
「ん?何が?」
コテンと首を傾げる結川に、顔色悪く帰りたいと言っていた結川を再度思い出し、「体調とか…」と聞きたくなった。けれど、きっと結川は何度聞いても先程のように「全然大丈夫!」と言って、ヘラリと笑うような気がする。
「いや、やっぱ何でもない。」
「そ?じゃあ、放課後よろしくね!」
結川がそう言った瞬間、空間を区切るように授業終了のチャイムがなった。次第にざわつき始める校内に、気分は徐々に重たくなる。次の授業は、確か数学だ。クラスメイトに囲まれた息苦しい教室に戻って、襲ってくる腹痛と格闘しなければならないと思うと、とても長椅子から立ち上がる気が起きない。
「あー、もう戻んなきゃ。」
時計を見ながらポツリと呟かれた結川の声も、何処か重苦しく聞こえる。
それ同時に、保健室の前の廊下を横切る生徒たちのガヤガヤした声と、バタバタと煩い足音が聞えて思わず眉を寄せた。
「結川ー!」という大きな声と共に、保健室のドアが勢いよく開けられる。私と同じように体操着姿の田所が、ズカズカと遠慮なく保健室に入って来て、長椅子に座っていた結川の肩に遠慮なく腕を回した。
「おーい、体調大丈夫かよ?次数学だぞ?早くしねぇと、先生うるせぇからさ。」
「分かった分かった、今行くって!」
田所に促されるようにして結川は立ち上がると、保健室の先生を振り返り「じゃ、先生、俺戻ります。」と律儀に告げた。そんな結川に、保健室の先生は「うん、頑張ってね。」と微笑みながら返す。
騒がしい田所を連れ出すように、結川はそのまま足早に保健室を後にする。その背中から微かに見えた赤い縄は、ゆらゆらとその縄先を揺らしたかと思うと、突然マフラーのようにぐるりと結川の白い首に巻き付いた。
ぐるぐると巻き付きついていく縄先は、まるで結川を絞め殺そうとしているみたいでゾッとする。やはり奇妙な動きをする赤い縄には、何らかの意思があるのだろうか。赤い縄に首を絞められている結川は、特に何の変化もなくいつものようにヘラヘラと笑って田所と呑気に歩いていった。
その光景に、思わず鳥肌の立った肌を擦った。俯くと視界には、自分の首に括りつけられた赤い縄が揺れている。まるで血で染めたかのような気味の悪い縄は、いつか私の首も絞めるだろうか。強く、息苦しさも分からなくなるくらい強く、縄がギチギチと私の首に食い込むのを想像した。
「三上さんは、どうする?」
保健室の先生から声を掛けられ、そっと視線を赤い縄から外す。
「…私も、戻ります。」
「そっか。」
叶うならばずっと此処に居たいけれど、そうゆう訳にもいかない。まだまだ授業は続くし、放課後は結川と体育祭のプログラム制作をする予定がある。
それに今日、体調不良で帰宅が許されたとしても、結局は明日も明後日も学校に行かなければいけない。この理由のわからない異常な腹痛にどれだけ悩まされても、私は卒業するまで授業に出続けるしかないのだ。
私を突き刺す痛い程の現実に、諦めの感情で長椅子から立ち上がる。持っていた保冷剤を保健室の先生に渡して、保健室のドアを静かに開けた。
保健室の先生はそんな私を見送るように、一緒に保健室の外まで出て来てくれる。「行ってらっしゃい。」と授業に戻る私に向かって微笑む姿が、あまりにも優しくてなんだか泣きそうになった。
高校二年生が始まったばかりで、卒業までの道のりは途方もなく遠い。電車に乗ることも、学校に来て授業を受けることも、いつの間にか普通に出来なくなってしまった。教室には一人も友達が居ないし、居場所も無い。そんな状態で、この先どうやって学生をやっていけばいいのか不安でしかない。
普通の事が普通に行えない虚しさと惨めさで、どんどん私は可怪しくなっていく。こんな気味の悪い赤い縄なんて見えるのだから、本当にどうしようもない。心底、自分が気持ち悪い。
一人廊下を歩きながら、首に巻き付く赤い縄にそっと触れた。触れたと言っても、縄の感触もないので触れているのかは分からない。
やはり私の妄想なんだろうか。けれど、それでもいい。もう何でも良いから、教室に着く前に私の首を絞めてほしい。いつになったら、私は終われるのだろうか。早く、出来るだけ早く、この首にある赤い縄が、私を終わらせてくれたらいい。