そのまま、暫くトイレに閉じ籠もっていたが、他の女子生徒たちも頻繁に使うトイレに何時間も居られるわけがなく、私は全てを諦めて便器から立ち上がった。
 トイレから出ると行く宛の無い私は、赤い縄に引っ張られるようにしてふらふらと歩く。そして、気付けばいつものように保健室へと向かって足を運んでいた。
 体育祭中の体育委員の仕事はもう終わったし、他に出る競技もない。そんなどうでも良い事を、言い訳のように考えながら保健室に向かう。
 誰も居ない校舎に入って、静かな廊下を歩く。保健室のドアを開けようと手を掛けると、どうやら鍵が掛かっているようで全然動かない。
 そういえば、体育祭の最中は競技中に怪我をした生徒や気分の悪くなった生徒の為に、保健室の先生は常にグラウンドにある救護テントで待機していた筈だ。
 この無人の保健室にやって来る人間はそうそう居ない為、施錠されているのだろう。
 なんだか今日は何もかもが上手くいかない気がして、酷く落ち込む。鍵の閉まったドアの前でしゃがみ込み、抱えた膝に顔を押し付けて項垂れた。
 溢れてきそうなものを堰き止めるように、強く目を瞑る。目の前に広がった暗闇に、思考さえも呑まれていくように深く沈んだ。
 何やっているんだろうな、私。
 こんな腹で、私はこの先も生きていけるんだろうか。皆と同じ事が出来なくて、普通の生活がどんどん難しいものになっていく。
 私だって引っ掛かりたくて、縄に引っ掛かったんじゃない。そもそも体育祭なんてやりたくないし、体育委員にもなりたくなかった。毎日学校なんて行きたくもないし、さっさと辞めてしまいたいに決まってる。
 それより何より、こんな私になりたくてなっているわけじゃない。全部全部、私が望んでなんかいないのに。いつだって、この世界は私の望まない事ばかりで成り立っている。
「…早く、楽になりたい。」
 いつかの放課後、結川が言っていた言葉をまた無意識に呟く。願っている事はただそれだけなのに、なんでこんなにも難しいのだろう。
「…あれ、三上さん?」
 突然真っ暗な世界で聞こえた声に、驚いて顔を上げる。ずっと瞼を閉じていたせいか目の前がチカチカした。よく見ると、薄暗い廊下に一人立っていたのは結川だった。
「どうしたの?体調悪い?」
 こんな所で一人しゃがみ込んでいる私を、結川は心配そうに伺ってくる。結川の方こそ、こんな所に何をしに来たんだと視線を向けたところで「あっ、」と思った。
「…転んだの?」
 体操着姿の結川の膝には、大きなガーゼが貼られていて少量の血滲んでいる。その様子を見るに派手に転びでもしたのだろうか、随分と痛々しかった。
「あー、リレーで転んじゃってさ。お陰でチーム最下位!」
 結川は何でも無いように、ヘラヘラと笑いながらそう言った。けれど、その顔色は若干青白く見えて、何処か無理をしているじゃないかとも思う。
 そんな結川を見ながら、しゃがみ込んでいた足に力を入れて立ち上がる。少々、足が痺れた。
「一応、救護テントで手当てしてもらったんだけど、先生に保健室に行きたいって言ったら鍵貸してくれたんだ。」
 手に持っていた鍵をチャリンッと鳴らすと、結川は得意気に保健室の鍵を開けた。ガラッと開いたドアに、私は重たかった心が少し軽くなるのを感じる。
 結川は「いてて、」と怪我した足を引き摺りながら、閉め切っていた保健室の窓を開けた。私もそれを真似するように、反対側の窓を開ける。
 少しの風と共に室内に入り込んできた蝉の声に、本格的な夏の訪れを感じた。七日で消えゆく命に抗っているかのように力強い鳴き声は、どうしてか私の胸を打つ。
 耳障りな人の声なんかよりも、よっぽど聞いていられると思った。
「なんか、蝉の声ってさ『死ね』って言ってるように聴こえない?」
「え、」
 唐突な結川の発言に顔を向ければ、結川は窓の外に視線を向けたまま、瞳を細めてヘラリと笑みを浮かべていた。
 窓の外から聞こえる蝉の声に耳をすませば、確かに結川の言った通り「シネシネシネシネ」と言ってるように聞えてくる。
「…本当だ、聞こえる。」
 一度そうだと思ってしまうと、どうしても「死ね」以外には聞こえなくて、蝉がひたすらに「シネシネシネシネ」言っていると思ったらなんだか笑えてきた。
「なんか、死ねって言われてるみたい。」
「ねー。」
 まるで呪いのように浴びせられる蝉の声を聴きながら、結川と二人ただただ窓の外を見ていた。その時間が今日一日の中で、一番有意義なものだと思った。
 夏風が室内の空気を循環して、一層呼吸がしやすくなる。頭に巻き付けていた黄色を鉢巻を取れば、固まっていた髪をほぐすように風がさらりと撫でていく。
「結川くんも、蝉の声聞いてそんな風に思うんだね。」
「えー、だって聞こえるじゃん!」
 結川の態とらしく弾むような声が保健室に響く。そして、急に静かになったかと思うと、今度は随分と真面目な表情になって結川は慎重に言葉を発し始めた。
「俺さ、どんな風に見られてるか分かんないけど、すっごい根暗な奴なんだよ。」
「…そうなの?」
 結川の言葉が意外というよりかは、結川と関わるようになってからはその「根暗な奴」という表現にそこまで驚きはなく、やけにしっくりと来るような気もする。
 田所たちスクールカースト上位集団に都合の良い存在と思われても、それを分かっていながら、まるで道化のように振る舞う結川には健全な明るさを感じない。
 それにきっと暗い奴じゃなかったら、蝉の声が「死ね」と言っているようにはとても聞こえないだろう。
「うん、いつも暗い事ばっかり考えてる。…昨日の俺見て分かったでしょ?」
 秘密を共有するような結川の言葉に、思わず息を呑む。そして思い出されるのは、昨日の下校中での出来事だ。結川の知り合いだと思われる他校生が、結川を馬鹿にしたように絡んできたのを頭に思い浮かべて、再びその時の苛立ちが蘇った。
「俺、中学の頃アイツらいじめられててさ、どうしょうもなかったんだよね。」
「…そっか。」
 昨日の他校生たちとの様子を見るにもしかしたらと、少し想像はしていた。けれど、やっぱり本人の口から聞くその事実はショックだ。
「だから俺、高校生になったらもういじめられないように、自分を変えたかったんだけど…」
 結川は今だに窓の外を見ていて、私と視線が合うことは無い。目の前の外の景色よりも遥か遠くを見ているようなその横顔が、酷く疲れているように見えた。
「なんか、難しい。」
 ポツリと消えてしまいそうに零された小さな声は、蝉の声にかき消されていく。結川の苦悩が、痛いくらいに私に伝わる。
 本当に人生ってやつは、上手くいかない。いつまで経ってもなりたい自分になれなくて、「こんな筈じゃなかった」を繰り返している。どうやったって私は私にしかなれないのに、私は私になんてなりたくないのだ。
「……っ、」
 結川の言葉に何か声を掛けたいのに、何を言ったら良いのか分からなかった。
 そんな過去がありながらも、自分を変えようとここまで必死に頑張れる結川は本当に凄いと思う。スクールカースト上位集団の中に居て、クラスメイトたちの関心を浴びる存在になるのはとても難しくて、恐ろしいことだったに違いない。
 だからこそ、そんな簡単に言葉なんて掛けれなかった。たった一言で片付けられるようなそんなものを、結川に向けたくはない。それくらいに、結川は学校という狭い世界で必死に生きている。
 なんだか、どうしょうもなく泣きたくなって、誤魔化すように視線を窓の外へと向ける。外を流れるそよ風が瞳を乾かしてくれるのを待った。
 不意に離れたグラウンドから、放送席による次の競技を呼び掛けるアナウンスが聞こえてきた。それに結川は、クラスのムードメーカーに似合わない程の重たい溜め息を吐く。
「…次の種目も出なきゃだから、もう戻らないと。」
 結川は名残惜しそうに窓の外から視線を外すと、怪我した足でよたよたと歩き保健室を出て行く。その姿に釣られるように私も窓の側から離れると、結川は表情をやわらげて振り返った。
「俺はもう行くけど、三上さんがまだ保健室に居たかったら居てもいいよ。」
「…大丈夫なの?」
「まぁ、保健室の先生じゃないから俺が偉そうな事言えないけど、多分大丈夫だと思うよ!」
 正直、今の私が居られる場所はこの保健室以外に無いので、結川の言葉はかなり有り難い。保健室の壁に貼られている時計を確認し、「鍵は、後で保健室の先生に渡しといて!」と言い放った結川は足早に保健室を後にする。
 そんな結川を私は慌てて追いかけ、立ち去る背中に届くように声を上げた。
「結川くん、ありがとう…!」
 私の声が届いたのか、結川は軽く手を挙げて微笑む。
「それはお互い様だよ。」
 そう言って振り返った結川の表情が、酷く優しくて落ち着いたはずの涙腺がまた緩みそうになる。それを必死に耐えながら、パタパタと静かな廊下に響く足音を見送った。
 再び、静寂に包まれた廊下から保健室へ戻る。保健室の中心に置かれた長椅子に腰掛けて、体育祭の最終種目のアナウンスが流れるまで一人の時間を過ごした。
 



 最後のアナウンスが流れてから、どれくらいの時間が経っただろうか。そろそろグラウンドに戻らなくてはいけないと思うのに、私の身体は全く動かない。長椅子に座ったまま、目の前のテーブルに項垂れて目を瞑る。
 その時、誰の気配もしなかった静かな廊下を誰かが歩いてくる音がした。ガラッと保健室のドアが開き、テーブルに伏せていた顔を上げる。
「三上さん、来てたのね。さっき、結川くんから三上さんが保健室に居るって聞いてきたの。」
 保健室の先生がそう説明しながら、室内に入って来る。 そして、結川がわざわざ保健室の先生に私の事を伝えてくれたのだと思うと、嬉しくて有り難かった。
「今は閉会式とかも終わって、もうじき皆も校舎に戻って来ると思う。」
 その言葉通りに静かだった校舎内が、次第にざわざわと騒がしくなってきた。一気にたくさんの人の気配を感じて、なんだか胃のあたりが落ち着かない。
 閉会式が終わったとなると、私も本当にそろそろ戻らなくてはいけないようだ。あれほど、準備に追われていた体育祭が終わる。まぁ、これから体育委員は体育祭の後片付けをしなければならないのだけど、それもあと少しの辛抱だろう。
 力を振り絞って立ち上がりながら、「先生、私戻ります。」と保健室の先生に向かって声を掛ける。それに対して、保健室の先生は「うん、体調には気を付けて。今日はお疲れ様。」と、いつもと変わらない微笑みで送り出してくれた。
 椅子を抱えて校舎に戻って来る生徒たちに、逆らうようにグラウンドへ戻る。砂埃が舞うグラウンドには、まだ何人かの生徒が残っていた。その中には、私のクラスメイトたちも殆ど残っていて、各々が好き勝手にはしゃいだり、担任教師に向けられたカメラの前で楽しそうにポーズを決めている。
 体育祭のお手本のような過ごし方をしているクラスメイトたちに、薄暗い気持ちが湧き上がってくる。自分の椅子を片付ける為に彼らに近付いても、私の存在なんて誰も気にしてなんかいなかった。空気のように扱われるのは、もう慣れている。
「結川ー!お前、こっち来いよ!」
「センセー!俺等も写真撮って〜!」
 少し離れた場所では、田所に肩を組まれてスクールカースト上位集団の中で写真を撮られる結川の姿があった。
 昨日、他校生たちに遭遇してあんなに動揺していたのに、それを感じさせずにヘラヘラ笑ってあの場に居る結川はやっぱり凄いと思う。
 そんな結川とも、体育祭が終わってしまったらもう関わる事も少なくなるんだろうか。一時的に体育委員の仕事してくれていただけだから、きっとこれまでの関係に戻る筈だ。
 スクールカースト上位集団に居る結川と、スクールカースト最下層に居る私。そこには、本来なんの繋がりも無かったのに、結川の存在は私とって不思議なくらいに悪いものではなかった。むしろ、ほんの少しの居心地の良ささえも感じていた。
 何の危な気も無く、クラスメイトのたちの中でヘラヘラ笑う結川のその首には、相変わらず気味の悪い赤い縄が括りつけられている。けれど、やはりそれはいつものように揺れておらず、ただじっと息を潜めるようにだらりと垂れ下がったままだった。
 






 体育祭が終わってから、一週間が経った。相変わらず、私は異様な腹痛に悩まされる毎日を送っていて、自分の首からは私にしか見えない気味の悪い赤い縄が垂れ下がっている。
 けれどその日、目が覚めるとやけに朝が綺麗だった。いつもは空なんて見ないくせに、なんとなく見上げた空には少しの雲間から降り注いだ何本のも光の柱が、青空を金色に塗り替えている。空気が澄んでいるからなのか、いつもよりも世界の輪郭がはっきりと見えているような気がした。
 起き上がって、今日一日の事を考えて絶望する。いつものように学校に行きたくないと訴える私を、心の中でもう一人の私が殺して諦めさせるのだ。
 なんとか準備をして家を出る。その重い足取りで最寄り駅までやって来ると、いつも以上に多くの人が駅構内に押し寄せていた。蟻の行列のように、次から次へと人々は駅に入っていく。あまり見た事がないくらいに混雑している駅の様子に、思わず何事だと眉を寄せる。
 人混みには近寄りたくないけれど、状況が分からない事にはどうしようもない。覚悟を決めて駅の中へと足を踏み入れると、すぐ近くに居た二人組の女性たちの話し声が聞こえてきた。
「なんか、人身事故らしいよ?」
「えっ、そうなの?」
「うん、SNS情報だけどね。」
「うわー。それって、いつ電車動くんだろ〜」
 人身事故という言葉に、私の中の何かが小さく反応する。
 混雑する人混みの中で、改札口の近くに立っている駅員が拡声器を片手に持った。
「えー、ただいま○○駅にて人身事故の為、電車が停車しております。運転再開の目処は今のところ立っておりませんが、普及作業に尽力していますのでもう暫くお待ち下さい。繰り返します…」
 駅員さんの声が、人の気配の中を伝染していく。説明を聞くに、どうやら私が登校する為に使っている電車が止まっているらしい。
 朝から予期せぬ出来事に、駅構内は騒然としていた。足止めをされている人々はスマホを片手に情報を確認したり、電車以外の交通手段に変更したりして慌ただしさが溢れている。いつ来るかも分からない電車を待つ人達が、すし詰め状態になりながら長い列を作っていた。
 電車に乗れず立ち往生する人々が、朝から一日の予定を崩されたその不満を徐々に零し始める。
「チッ!マジかよ!」
「死ぬ時まで、人に迷惑かけんなよ!」
 制服を着た学生たち。
「人身事故だって?」
「勘弁してくれよ、大事な会議があるのに!」
 スーツ姿のサラリーマン。
「ちょっと、朝から止めてほしいんだけど。」
「予定が狂っちゃって、本当最悪。」
 清潔感ある服を着こなすOL。
 ノイズのように聞えてくる死者への罵声。きっと普通に生きられる奴には、線路に飛び降りてしまう気持ちが理解出来ないんだろう。
 別に私が飛び降りたわけでもないのに、悲しくて苛々してくる。なんで死ぬ時まで、他人に気を遣わなきゃいけないんだろう。今まで散々気を遣って他人を優先してきたから、だから死ぬのに。自分の事で精一杯で、誰かの迷惑を考えられるそんな余裕がないから死ぬのに。余裕が無くなるくらい必死に生きたのに。
 一気に気分が落ち込んで、私は人の流れに逆らうようにその場を離れる。擦れ違う人々の声や気配が不快で、目が回りそうになった。
「なんか、飛び降りたの☓☓☓駅近くの会社のサラリーマンらしいよ?」
 その中で、誰かの興味本位で呟かれた声がやたらと耳に残った。☓☓☓駅は私の通う学校がある駅だ。この事故がどれくらい前から続いているのかは分からないが、色んな情報もSNSを通じて一瞬で飛び交っていくのだろう。
 不意に何故か、その駅で何度か見かけた首に赤い縄が括りつけられたサラリーマンの事が頭に浮かんだ。
 何の根拠もないし、全く関わりの無いことかもしれない。今だに私にしか見えないこの気味の悪い赤い縄のように、ただの私の妄想かもしれない。
 けれど、確かにその時、赤い縄先に頬を打たれながら、いつも虚ろな目で線路を見ていた彼の姿が確かに浮かんだのだ。
 それと同時に、私は自分の首から垂れ下がる赤い縄の事が少し分かってきたような気がした。
 駅構内の騒がしい人混みから、距離を取るように駅の外に出る。いつ電車が動くかも分からない状況で、周囲を人に囲まれたまま長いこと待機するなんて私には出来そうにない。きっと列に並んだ所で直ぐにお腹が痛くなり、トイレに行くために列を何度も抜け出すはめになる。
 それにこの駅がこんな状況なら、他の駅だって同じように皆身動きが取れないだろう。スマホを片手に情報を確認しながら、一旦私は駅を離れた。
 何処に行く訳でもなく、ただ歩きながら一人になれそうな所を探した。今朝、綺麗だと思った空は少しの時間を掛けて既に形を変えてしまっている。あったはずの雲は徐々に流され、太陽もより高い位置に上った。
 そんな自然な事が、時折私に寂しさをもたらしてくる。きっと、この首に括りつけられた赤い縄もそんな自然の事のような気がする。


 

 それから暫くして無事に電車も動き出し、遅延証明書を持ってやる気無く学校に行く。正直、腹痛をひたすらに耐えるだけの苦痛な授業時間が潰れてホッとした。
 人身事故により、私の最寄り駅を使う生徒以外にも電車が遅延した生徒たちは多くいて、生徒だけでなく教師たちも交通手段に戸惑い、皆学校へ来る時間がバラバラだった。
 ちらほらと登校する生徒に混じりながら教室に入れば、クラスの三分の一程が空席のままだった。現代文の教師が一応授業という形をとっているものの、殆ど自習に近い。教師と一部のクラスメイトが授業に絡めながらも、色々なたわいもない会話をしている緩いものだ。
 いつものように、音一つ鳴らすのに緊張するような静かな授業では無いことに安堵して席に座る。伏せていた視線をそろりと上げて教室内を見渡せば、結川の席は空席でまだ学校に着いていないようだった。
 その後も、生徒が集まるまでの時間稼ぎのような授業は続けられ、電車が問題無く動き出した事もあってか、少しすると一人、また一人と教室に入って席に着く。
 空席が徐々に埋められた所で、キーンコーンカーンコーンと授業終了のチャイムが鳴り響いた。騒がしくなる教室には、ほぼクラスメイト全員が揃っている。
 しかし、その中でも今だに結川の席だけが空席のままだった。
「あー!てか、ところで昨日大丈夫だったん?」
「そーそー!結川、いきなり倒れたんでしょ!?」
 突然、聞こえてきた「結川」の名前に私は思わずその集団の方へと視線を向ける。いつも騒がしいスクールカースト上位集団の二人が、クラスのリーダー的存在である田所の元へと詰め寄っていた。
「いや〜、知らねぇよ。放課後普通に喋ってたら、いきなり過呼吸になってぶっ倒れてさ〜、まじビビった!」
 昨日の事を思い返すように、田所は所々笑みを浮かべながら軽々しい口調で話した。そんな田所の雰囲気に、スクールカースト上位集団の奴らも「何それ怖っ!結川からなんか連絡ないわけ〜?」と結川について聞き出そうと興味津々に聞いていた。
「ないない!結川が倒れた後、保健室の先生呼んでそれっきり!何の連絡もねぇ〜!」
「え〜、それって結構ヤバいやつなんじゃん?」
 やたらと大袈裟に話す田所と、態とらしく喋る女子の声が煩くて苛々する。
「喋ってて突然とか怖ぇな。体調とか悪かったんか?」
「アイツ、何気に保健室行く回数多いしな。ただ、サボってただけかもだけど!」
 賑やかに談笑しているスクールカースト上位集団の奴らは、誰一人として結川の事を心配しているようには見えなかった。結川の存在が、ただの話しのネタの一つとして扱われるのが凄く嫌だと思った。
 結川が過呼吸になって倒れたという田所の話に、私はきっとこのクラスの誰よりも衝撃を受けていた。その話が本当ならば、今日学校へ来ていない事にも当然納得がいく。
 スクールカースト上位集団に比べたら結川と関わった時間はとても少ないし、そこまで深い関わりを持ったわけでもないのに、私は学校を休んだ結川の事が気になって仕方がなかった。
 以前、過去にいじめられたという他校生たちを前にして、酷く動揺し少し呼吸を乱していた結川の姿を思い出す。あの時そんな結川の首を、赤い縄はぐるぐると強く締め上げていった。まるで縄先が首吊りのように結川の頭上に伸びて、そのまま地面から足が離れてしまうのではないかと肝を冷やした程に恐ろしい光景が頭の中に蘇る。
 苦しそうに他校生たちを睨み付けていた結川の呼吸が、締められる首と並行するように徐々に乱れていくのが怖くて、とても見ていられない気持ちになった。詳しくは知らないけれど、きっとストレスなどが原因で過呼吸になる事もあるだろう。
 もし、他校生たちを前にした時と同じような事が、田所たちの前でも起こってしまったとしたら、そう考えると私の中の何かが私を駆り立てるように落ち着かない気持ちになる。
 思い返せば、保健室で度々遭遇した結川はいつも青白い顔をして体調が悪そうに見えた。もしかしたら、日常的に何かしらの症状はあったのかもしれない。
 田所の前で過呼吸を起こし、倒れる結川の姿を頭の中で何度も想像する。ただの妄想かもしれないけれど、私は居ても立ってもいられなくなり、次の授業の事なんて考えられず衝動のまま教室を飛び出した。
 走って一階にある保健室まで向かい、閉まっていたドアをガラッと勢い良く開けた。
「…み、三上さん?そんな急いでどうかしたの?」
 息を乱しながら保健室に飛び込んできた私に、保健室の先生は目を見開いて驚いたように座っていた椅子から立ち上がる。
 その困惑したような保健室の先生の表情を見た私は、じわじわと冷静さを取り戻して、一体私は何やっているんだろうという気持ちになった。
 けれど、やっぱり結川の事が気にかかる為、自信無さげに口を開く。
「先生、結川くんが昨日倒れたって…」
「あぁ、誰かから聞いたのね。」
 私の言葉に保健室の先生は、何処か納得したように頷いた。
「…大丈夫なんですか?」
「うーん、どうかな?とりあえず、今は自宅療養中としか言えないけれど…」
 大丈夫とも大丈夫じゃないとも言わない曖昧な保健室の先生の言葉に、私は酷く気分が落ち込んだ。それだけで、きっと結川は大丈夫ではないんだと思った。
「…そうですか。」
 そう力無く零れ落ちた自分の声が、何処か他人事のように聞こえた。
 次の授業が始まるチャイムが鳴り、その音の余韻が静かな保健室の空間に波紋のように広がる。
「結川くんの事、心配してくれたのね。」
 相変わらず優しい物言いをする保健室の先生に、私は胸が痛くなる。「心配している」と誰かに言われてから、初めて自分の言いようのない不安が全部その為のものだと気付いた。
 けれど、私なんかが結川を心配したところで、何も現状は変わらないのだろう。それが、やけにもどかしくて堪らない気持ちになる。
 結局、あれこれ考えたところで、どうする事も出来ない私は諦めと共に項垂れる。目を伏せれば、首から垂れ下がった赤い縄がいつものようにゆらゆらと揺れていた。
 いつの事だか、赤い縄が結川の首を締め上げるのを見た日。それは、いつか結川を何処か遠くへ連れて行ってしまうような気がしていた。「楽になりたい」と言っていた結川の意志を尊重するように。
 そんな馬鹿げた妄想の筈が、今目の前の現実に現れようとしているように思えてまた私は怖くなった。





 結川が学校を休んだ日から、今日でちょうど二週間が経った。
 朝いつものように腹痛に耐えながら学校へ行き、息苦しい教室に入る。教室の中心には既に、田所を含めたスクールカースト上位集団が集まっていてケラケラと楽しげに談笑をしていた。
 その中から、もう習慣化されたように結川の姿を探す。けれど、首から赤い縄を垂らしてヘラヘラと笑っている彼の姿は今日も何処にもなかった。あれから二週間、結川は一度も学校に来ていない。
 結川が過呼吸で倒れたという日に一体何があったのか、私には知りようがないけれど、二週間も学校を休んでいるということはきっと只事ではないだろう。
 結川の身に起きている事が精神的なものなのか、それとも何らかの病気なのかも分からない。以前から、保健室で顔色の悪い結川と何度か遭遇したことがあるので、何らかの病気があったとしても可笑しくない筈のだが、担任教師や保健室の先生も結川に関しては何の説明もしてくれなかった。
 突然、学校に来なくなった結川に対して、最初はクラスメイトたちの中で話題になっていた。それこそ、スクールカースト上位集団は騒ぎに騒いで結川の事をネタにしていたのだが、二週間も経った今では結川の居ない事が既に彼等の中で日常になっている。
 けれど、たまに「てか、今日もアイツ休みじゃね?」なんて、スクールカースト上位集団の誰かが思い出したように口にしていたりした。
 教室で朝から盛り上がっているスクールカースト上位集団を横目に、私は自分の席に座る。
「つーか、アイツ出席日数やばくね?」
「夏休みにはまだ早ぇよな〜。」
 今日もスクールカースト上位集団の中の誰かが、話題の一つとして結川の事を話している。
「学校ってどれぐらい休んだら留年になるっけ?」
「さぁ〜?でも二ヶ月とか休んだら流石にやばいんじゃん?」
 皆そんな話はしながらも、深刻そうな表情はしていなくて結川の今後の話さえもただの世間話程度なのだろう。田所もスマホを片手に、やたらと気怠そうに話を続けている。
「つーか、結川って結局なんで休んでんの?」
「知らねぇ〜」
「てか、このまま辞めんじゃね?葉山の時も直ぐだったよな。」
 そう言った誰かの発言に、私は密かに心臓が跳ねた。学校に来なくなった結川が、そのまま居なくなってしまうのではないかと変な予感がするのだ。あの日から、ずっと私はその事について考え続けている。
 結川が居ない日々が日常となっていくのが、何処か納得がいかない気がして私は無意識に拳を握りしめた。
「葉山も結局なんで辞めたんだか知らねぇけど、援交とか妊娠とかめっちゃ言われてたよな。」
「そーそー!あの子、佳奈とかから嫌われてたからめっちゃ噂回ってたよね!結局、何が本当か分かんないけど!」
「あー、葉山とかもう忘れてたわ〜」
 いつの間にか、話題は結川から葉山へと移り変わっていった。他人の事をあーだのこーだの言う彼等の耳障りな声を聞きながら、朝の時間が過ぎていく。
 暫くしてからチャイムが鳴って、いつも通り私にとって地獄のような時間が始まった。クラスメイトたちは自分の席に戻り、担任教師がやって来て静かになった空間で淡々とHRを行う。
 自分の周りを囲う人の気配に怯え、誰にも変に思われないように息を潜めた。静かな空間に私の焦りが積もっていくように、ストレスが全て下腹部へと集結する。もうどうしたら普通になれるのか分からなくて、動き始めた腹を必死に抑えた。
 きゅるきゅると鳴る腹に、お願いだからこれ以上は止めてくれと恐怖しながら祈る。痛くなるお腹で溜まっていくガスで、もうまともに思考は動かなかった。辛い時間をただただ耐え抜く。
 どうして私だけが、どうして。そう繰り返していれば、そのうち朝のHRが終わって、直ぐに一時限目の授業が始まる。途方に暮れるくらいに長い、辛い時間がずっと続いていく。私だけが、生きづらい。
 普通の生活がまともに送れないほど、お腹が痛くなったって、首に気味の悪い赤い縄が見えるようになったって、結川が学校に来なくなったって、いつだって世界は何の支障もなく廻っている。




 シネシネシネシネ。
 今日も蝉が呪いの言葉を吐いている。その声聞きながら、私は今日も行きたくもない学校に向かう。襲いかかる腹痛に耐えて人が詰め込まれた電車に乗り、停車した途端に人の群れから抜け出して駅のトイレに籠る。
 惨めな朝のルーティンを終えて外に出れば、同じ制服を着る学生たちで通学路は溢れていた。
 最近は、以前にも増して腹の調子が悪い。毎日のように学校に行く前から下痢が止まらなくて、心も身体も朝から疲れ切っている。
 友達と楽しげにはしゃぐ学生たちを見ると、酷く心が騒ぎ出して苛々する。なんで、そんなに笑っていられるのか。私は毎日こんなに辛いのに、なんでお前等ばっかり楽しそうなんだ。
 しまいには皆私を見て笑っているんじゃないかと急に不安に思って、急ぎ足で学生たちの前から逃げ出した。道を歩く人、人、人。その誰も彼もが、私も見て笑ったり怒ったりしているように思えて怖い。
 神経を擦り減らすようにして学校に着くと、疲れがどっと増す。これから、また一日が始まってしまうという恐怖心に身体が呑まれる。
 逃げ出したい気持ちを必死に押し込めて、教室に向かうとやはり呼吸がしづらくなって足が止まりそうになる。ドアの影に隠れて教室の中を覗き込むと、スクールカースト上位集団が毎日飽きもせずに集まって談笑していた。
「ふわぁ〜…馬鹿眠いんだけど、もう帰りてぇ。」
 その中心で田所が欠伸をしながら不機嫌そうに溢す。そんな田所を周囲の奴らが「いや、今来たばっかじゃん!」と突っ込み、ケラケラとした笑いが教室内に伝染していった。
 以前、それは結川のポジションであった筈だ。けれど今では、もう別の誰かがその代わりとなって普段通りのやり取りをしている。その事に誰もなんの違和感も感じていなくて、まるで最初から結川なんて居なかったように彼等は過ごしていた。
 結川が学校に来なくなってから、もう一ヶ月以上の月日が流れた。相変わらず担任教師はそれに関して何も言わず、クラスメイトたちも直ぐに結川の居ない日常に慣れていった。
「てか、今日体育あるじゃん。くそだりぃ〜」
「そもそも、今日の体育って何やんの〜?」
「あ?そんなん知らねぇよ。」
「え、田所って体育委員じゃないの〜?」
「そー。でも聞いてねぇから知らね。」
 体育委員の仕事を全くしていない事に対して、田所は悪びれる様子もなく興味無さげに答える。そして、思い出したかのように「三上が聞いてんじゃね?」となんて無責任に言い放つのだ。
「いや、女子と男子の授業内容違うだろ!」
「んじゃ、知らねぇ〜。」
「適当か!」
 ケラケラ。ケラケラ。
 軽い笑い声が教室内に転がって、私にその全部がぶち当たる。何もかもが憂鬱に感じて、嫌悪感に沈む。
 教室に入る事はせずに、私はまたトイレに向かって逃げ込んだ。薄暗いトイレの個室で、自分の首から垂れ下がった赤い縄を見る。何をするわけでもなく、血のようなどす黒い赤をただただ眺めていた。




 
 あれから、いつも通りにチャイムが鳴って学校が始まった。そして、何時間も何時間も惨めな思いをしながら、お腹の痛みに耐え続けた。
 あと一時間で今日の授業が終わる、そう祈るような気持ちで六時限目の古典の授業を受けていた。静かな教室内には、古典教師の教科書を音読する声が響く。
 それが眠気を誘うような穏やかなもので、何人かのクラスメイトたちは無駄口も叩かず静かに机に突っ伏している。その生み出された静寂が余計に、この空間を居心地の悪いものにしていた。
 教室に居る無数の人の気配が、私を見張っている。そんな筈無いって分かっているのに、身体は無意識に緊張してその焦りから下腹部がどんどん張っていく。
 毎日何度もこの時間が訪れるたびに、自分の尊厳が踏みにじられるような気分になる。お腹が痛くなって、腹にガスが溜まって自分ではどうしょうも出来なくて必死に掌を傷付けて耐える。
 暴れ出した腹がどうにかなってしまいそうで怖くて、泣きそうになる。少しでもこの静寂を壊そうと、汗が止まらない手で無駄にシャーペンの芯をカチカチカチと出したり、爪で机を叩いたりして必死に抗った。
 それでも当たり前に何の解決にもならなくて、腹痛は更に酷くなっていく。額からはだらだらと汗が流れ落ち、呼吸も上手くしづらくなった。
 腹が張り裂けそうな程ガスが溜まって、出口を求めて容赦無く動き出す。それをコントロールの効かない身体で無理矢理に抑え込みながら、首に括りつけられた赤い縄が目の前で揺れているのを見た。
 ゆらゆらと揺れるそれがあまりにも呑気で、残酷に思えて悔しくて悲しくて苛立って辛い。なんでだ。なんで私が、こんな目に合わなきゃいけないんだ。
 もう嫌だと思っても、どうにもならなかった。
 ぎゅるぎゅるぎゅる。
 ぐぎゅうぎゅぎゅるる。ぐぅぎぅ。
 腹と穴の中間辺りで鳴った間抜けな音が、静かな教室内に大音量で響き渡った。サァーッと血の気が抜けて、自分の心臓の音が大きくなる。やってしまった、と思った。
 その音は私の周囲に居るクラスメイトたちにも、もちろん聞えていたようで、ひそひそとした声や見えない視線が刃物ように浴びせられる。
「今の誰?」
「腹の音?それとも…」
 聞えてきた声に、とてつもない羞恥を感じて死んでしまいたくなった。ずっと恐れてしまった事が、起きてしまった。起きてしまった事は、どれだけ後悔してもどうしようもなくて、黙ったまま俯く事しか出来ない。
「今の、三上さん?」
「…え、」
 前の席のスクールカースト上位集団の一人である女子が、ケラケラと笑いながら後ろの席の私を振り返る。
「腹の音、めっちゃデカかったよ?」
 その瞬間、一人の私が死んだ気がした。心がぐちゃぐちゃに爛れていくのを他人事のように感じる。
「…あ、うん。お腹鳴っちゃって、あははっ、」
 目の前の女子に合わせるように、口角を上げて歪な笑みを作った。全然笑えないのにヘラヘラ笑って、嫌いな女子に必死に気を遣う。
 死んだ私の身体を、まだもう一人の私が刺している。
「なんだ腹の音かぁ、まさか(・・・)と思ったわ〜」
「すげぇ爆音だったもんな!」
 スクールカースト上位集団の女子が声を掛けたからか、周りの席のクラスメイトも私を笑いのネタにする。私に向けられる笑いは、いつもの自意識過剰ではなくて本物だった。
 痛い。苦しい。助けてほしい。
 まるで公開処刑だ。この場所は、私の恥を晒す場所でしかない。毎日、私は此処で恥を晒されて殺される。私が一人死んで、また一人死んで、自分の死体が積み重なっていく。
 大切だったものや諦めたくなかったものも、全部死んで空っぽになって、私は今自分が何者であるのか全く分からなかった。なんで、こんな事になってしまったんだろう。 
 恥ずかしくて情けなくて絶望した。もう全部、死んでしまえ。
 あの時は鳴ってくれなかったチャイムが今更ながらに鳴って、六時限目の授業が呆気なく終わる。私を笑っていたクラスメイトたちは、既に私を笑う事にも飽きたのか、授業終了と同時に席を立ち上がり、楽しげな友人たちの輪の中に入っていく。
 いつもなら、授業が終わった瞬間にトイレに駆け込むのに、今は何も出来なかった。身体が動かなくて、一歩踏み出したら私が粉々に崩れ落ちてしまいそうで怖かった。
 シネシネシネシネ。
 教室の開けられた窓から、容赦無い蝉の声が入り込む。蝉から発せられる「死ね」の声がどうしたって、自分に向けられているような気がした。
 私の恥が晒された。ずっと必死で隠したかったものが、耐えてきたものが晒された。一体、何の罰だというのだろう。私が何か悪い事でもしたっていうのだろうか。
 もう無理だと思った。きっと、本当は今までずっと無理だったのだ。それでも、どうしてか私は今日までやって来てしまった。
 騒がしく楽しげな教室。酷く惨めで場違いな私。
 俯く視界で揺れているのは、どす黒い血の色。首を一周するように巻き付いて、顎の下、喉仏の辺りから鳩尾辺りにまで縄先が伸びてだらんと垂れ下がっている。その縄先を天井か軒にでも縛り付けてしまえば、今直ぐにでも首を吊る事が出来そうな気味の悪い赤い縄。
 どれだけ願っても、この首に括りつけられた赤い縄は私を助けてくれない。殺して、くれないのだ。






 また、望んでもいない朝が来た。布団から一歩も出れずに、朝の気配をただ感じていた。そのまま、死んだように倒れていれば「ちょっとまだ寝てんの!?学校遅れるよー?」とドアの向こうで母の声が聞こえる。
 それを無視してひたすらに倒れていれば、部屋のドアが開き無理矢理に身体を起こされた。諦める事に疲れ切った私は、無感情のまま制服に着替えて家を出る。
 首から垂れ下がった赤い縄は、夏風にゆらゆら揺れる。擦れ違う人々の首にも、私と同じ赤い縄が見える。青々とした空に朝日が昇り、眩しい光の集中線が走る。
 昨日、私が死んだ筈なのに、まだ死んでない感性が無意識に動く。この世界に絶望したままなのに、素直に綺麗な朝だと思った。
 最寄り駅に着いて、忙しなく歩く人混みに呑まれながら
駅のホームに向かう。周りの人の気配に怯えて、欠陥品である自分の事を散々諦めてきたのに、今だに必死に普通の人間を装って何でもないフリして電車を待つ。
 歩き方や立ち方さえも、分からないくせに。どう振る舞えば変に思われないか、気になってしょうがないくせに。周りに人が居るとお腹が痛くなって、怖くて仕方ないくせに。
 どう足掻いても、自分だけが世界に馴染めないのに。自分のどうしようもなさに、笑えてくる。
 目の前の線路を、ぼやけ始めた視界で眺める。そこに踏み出せば、私の求める全てが叶う気がした。
 以前、駅で何度か見かけた事がある首から赤い縄が垂れ下がったサラリーマンの事を思い出す。あのサラリーマンは、人身事故以来一度も見かけていなかった。あのサラリーマンが、本当に線路に飛び込んでしまったのかは分からない。けれど、きっとこんな気持ちを抱えながら、あの虚な目でただひたすらに線路を眺めていたのかもしれない。
 引き寄せられるように一歩、線路に近付いたところで、カンカンカンと少し離れたところから踏切の警報音が鳴った。駅のホームに、電車の説明するアナウンスが流れる。 
 暫くすると、夏の匂いを含んだ風を巻き込むように電車がやって来た。その風に、私の首から垂れ下がる赤い縄が流されていく。
 自動ドアが開き、人の波に呑まれるように電車に乗り込んだ。周りを囲む人、人、人。やはり何をしたってどうにもならない腹は痛くなって、下腹部が張っていく。もう疲れた。
 全ての事がどうでも良くなった。腹痛に耐えながら、あと何駅あと何駅と頭の中で健気に数える事に何の意味があるのだろう。毎日必死に自分を殺して学校に行くことに、一体何の意味があるんだろう。
 お腹が痛かった。耐えて、耐えて、耐えて。
 ようやく、いつも降りる駅に着いた。自動ドアが開き、同じ制服を着た学生たちがどんどん降りていく。それ以外にも何人かの乗客が電車を降りて、ほんの少しだけ空間に余裕が出来た。
 電車に乗ったまま、友人とはしゃぎながら学校へ向かう学生たちの後ろ姿を眺める。私には、到底叶わなかった理想をすぐ近くで眺めるだけの日々。楽しそうで羨ましくて、一人の自分が可笑しくて惨めで嫌になる。
 この電車を降りたら、また学校に行かなければいけない。そう思ったら、足が地面にくっついてしまったように身体が動かなかった。
 アナウンスが流れて、ゆっくりと自動ドアが閉まる。私を乗せたまま、電車は次の駅に向かって走り出した。
 私は自分がやった事ながらに、少なからず衝撃を受けていた。今まで、故意にこんな事をしたことがなかったからだ。ここで乗り過ごしたら、きっと遅刻は免れないだろう。そんな事は分かっている。
 けれど、もう無理なのだ。本当に私は限界なのだ。
 ぼんやりとした頭で、今だ多くの人を乗せた電車内を見渡す。イヤフォンを耳にする学生、腕を組み目を瞑るサラリーマン、窓の外を見る女性、座席に座る老人、スマホを弄る若者、本を開く女性、またスマホを弄る若者。
 人の気配に焦り、腹痛を起こす私は一体この中で何者だろうか。そんなのもう、どうでも良いか。
 電車内で首から垂れ下がる赤い縄が、ゆらゆらと揺れる光景をずっと見ていた。その非現実的な光景に比べて、異様な下腹部の張りと痛みだけは何よりも現実的だった。それに耐えていれば、また次の駅がやって来て電車が止まる。
 自動ドアが開くと共に何人もの乗客が降りていき、何人かの新たな乗客を乗せて電車は再び走り出す。腹痛も乗客も気になって仕方ないのに、私はまた電車を降りなかった。
 逃げ場を失った空間で腹痛に耐えながら、自分が何をやっているのか自分でも分からない。知らない人たちと電車に揺られながら、自分の知っている街からどんどん離れていく。
 それでも、必死にガスでパンパンになった下腹部に抗いながら私は電車に乗り続けた。





 あれから、どれくらい電車に乗り続けただろうか。電車は何度も新たな駅に着いては、人を吐き出したり呑み込んだりしながら別の街へ進んでいった。
 朝の通学や通勤時間を過ぎた今では随分と人が減り、どんどん都会を離れて走っていく電車内はガランとしている。長い事、腹痛を耐え続けて疲れ切っていた私は、空席が目立つ座席に腰を下ろした。
 座ったクッションの感触に安堵し、深く息を吐く。窓の外を流れていく景色をただただ眺めていれば、次の駅を知らせるアナウンスが車内に響いた。
 暫くして電車が止まり、自動ドアが開く。ホームに乗車する人は居なく、生温い空気と共に大音量の蝉の声が車内に入って来た。
 シネシネシネシネシネ。
 その呪いの言葉に、私は結川の事を思い浮かべた。田所たちに合わせる為に、必死に自分を作っていつもヘラヘラ笑っていた結川の事を。
 正直、ずっと学校を休んでいる結川を羨ましいと思った。毎日自分を擦り減らしながら学校へ行き、苦痛と羞恥で死にそうになっている私は、この地獄から離れられた結川が羨ましくて仕方ない。
 それと同時に悔しく思う。以前、他校生たちを前にしてあれ程に怯えていた結川が、色んなものを犠牲にして歯を食い縛りながら今の居場所を必死に築いてきたのに。それをこんな形で崩されてしまうなんて、結川があまりにも報われないと思った。
 私にとって結川は、あの息苦しい教室の中で唯一、私の事を気に掛けてくれた存在だ。結川は私とは違い、コミュニケーションが高くてクラスの中心に居るような人物だったのに、何故か私と少し似ているような気がした。
 私と同じ、赤い縄が首に括り付けられていたからもしれない。そんな勝手な仲間意識かもしれない。
 結川は、赤い縄なんて見えていないのに。自分の首に巻き付いた赤い縄に強く首を締め上げられても何でもないような顔して笑って、いつも危なっかしくて、優しかった。
 クラスメイトたちは私の存在なんてまるで空気のように扱うけれど、結川だけは違ったのだ。私はそれが、本当に泣きそうなくらいに嬉しかった。
 再び走り出した電車の中、俯いた視界で揺れる赤。ゆらゆらと空中を泳ぐように揺れてる赤い縄先を、無意識に視線で追いかける。
 この、私にしか見えない気味の悪い縄の正体をずっと考えていた。そして、最近少しずつこの赤い縄の事が分かってきたような気がする。
 毎日逃げ出したい私と、楽になりたい結川の首に括り付けられた赤い縄。虚ろな目で線路を見ていたサラリーマンの首に括り付けられた赤い縄。
 これはきっと、死の縄だ。
 この世界で、上手く生きられない人間に巻き付いた息苦しい呪いだ。
 




 「ご乗車、ありがとう御座いました。まもなく終点、△△駅です。」
 電車内に、終点を知らせるアナウンスが流れる。どうやら、私が移動出来る距離は此処までのようだ。
 ガタン、ゴトンと走っていた電車が徐々に速度を落としていき、流れていた景色が止まる。軽快な音と共に自動ドアが開いて、入って来た生温い風が首から垂れ下がる赤い縄を揺らした。
 座席から立ち上がって、電車の外に出る。降り立った駅のホームに見覚えは無く、少ない他の乗客の後を追いかけながら出口を探す。
 改札を通る時、駅員に自分の異常行動の説明が上手く出来なくて散々不審がられたが、ちゃんと乗車した分のお金は支払った。もうどう見られても、どうでも良かった。どうせ、もう私は終わる。
 駅を出て宛もなくふらふらと、知らない街を彷徨う。擦れ違う人々の中に、何人か赤い縄を垂れ下げた人が混ざっている。
 それを眺めながら、立ち並ぶ街路樹に停まった蝉の声を身体中に浴びる。その声に背中を押されるようにただただ歩き続けていれば、何処からか流れてきた潮の香りがふわりと鼻を掠めた。
 なんとなくその香りを追いかけていけば、街は開けていき海辺に辿り着いく。散歩する人たちが何人か通り過ぎていく防波堤の階段を上り、浜辺に出ると青々とした海が広がっていた。
 水平線の上には小さな船の影が浮かび、その背後には広大な入道雲が立ち上っている。頭上の太陽の光が降り注ぎ、照らされた波が光となって押し寄せては引いていく。   
 波の音が穏やかで、人気のない平日の昼間の浜辺には緩やかな時間が流れていた。知らない街の、知らない海。
 目の前の深い青に私は、一歩、また一歩と引き寄せられるように近付いていく。押し寄せた白く泡立った波に、履いていたローファーが濡れた。ぐっしょりと靴下に海水が染み込んで気持ちが悪い。
 それでも構わずに足を進めていけば、両足が完全に波に呑み込まれた。バシャバシャと音を立てながら、足に重く纏わりつくような波に抗い身体を前に運ぶ。
 足を進める度に、水位はどんどん深くなっていく。スカートの裾も濡れて、ふわりと波の上に広がった。それを見ながら、もう太腿辺りまで海に浸かってしまったなと他人事のように思う。
 もう夏とはいえ、冷たい海水に入って行く度に鳥肌が立った。けれど、その冷たさだけではない何かが、身体中を這っているようで一層ゾクリとした寒気が走る。それでも、止まる気は無かった。
 目の前に限りなく広がる深い青に向かって、首から垂れ下がった赤い縄先が行く手を示すように真っ直ぐに伸びる。その、どす黒い血の色がやはり気持ち悪いなと思った。
「何、してるの?」
 人気の無かったはずの背後の浜辺から、突然聞えてきた声に思わず足を止めた。なんだか冷めたような気持ちになって振り返れば、首に私と同じ赤い縄が括り付けられた一人の女子が立っていた。
 その女子は何処か見覚えのある顔をしていて、私はやけにぼんやりとした頭で記憶をなぞる。
「三上さん、だよね?」
 女子から発せられた自分の名前に、私は目の前に居る人物と記憶の中に居た人物がカチッと合わさるのを感じた。
「…葉山、さん。」
 葉山由香里。私の前の体育委員の女子であり、高校二年生になって直ぐに学校を辞めた事で、援助交際だったり妊娠だったりと色々な噂が飛び交っていた人物だ。数日間しか同じ教室では過ごしていない為、交流は殆どなかった。
 そんな葉山が何でこんな所に居るんだと居心地の悪い思いをしていれば、葉山は私に向かって少し意外そうに口を開く。
「うん、覚えててくれたんだ。」
 逆に私なんかの事を覚えている葉山の方がよっぽど凄いと思う。今のクラスメイトたちでさえ、きっと私の事を認識している人の方が少ないくらいだというのに。
「こんな所に同じ学校の制服着てる子が居たから、気になって声掛けてみた。まさか、三上さんだとは思わなかったけど。」
 葉山は海の中に突っ立っている私を見ても、特に表情を変える事なく淡々と言葉を話す。私もそんな葉山を無感情のまま眺めていた。
「…海水浴、じゃないよね?制服着たままだし。」
 チャポンッと押し寄せてきた波が、スカートの裾を巻き込んだ。
 葉山の言葉に私は何も反応出来ず、黙ったまま遠くを見ていた。目の前の出来事が全部額縁の向こう側のような気がして、全く現実味が湧かない。
 押し寄せくる波に身体を揺すられながら、葉山の言葉を頭の中で反芻する。言葉を掛けられている事は分かっているのに、何の返答も浮かんでこなかった。自分の事なのに自分を空中から俯瞰して見てるようで、とにかく当事者意識というものが欠落していた。
 そんな私を見て葉山はどう思ったのかは分からないが、ゆっくりと一つ瞬きをしてから白くて細い手を私に伸ばす。
「こっち、来て。」
 そう言った葉山はやはり特に何の感情も感じられず、清々しい程に無表情だった。私を呼び戻す声に、せっかく此処まで来たのに何でそんな事を言うんだと霞みがかったような頭で思う。
 けれど、その声は不思議と私の足を軽くして、身体が自然と動き出す。誰かに操られているようでいながら、ちゃんと自分の意思で足を進めている私に、我ながら一体何をしているんだろうなと呆れた。
 バシャバシャと音を立てて、元いた浜辺までゆっくりと波を掻き分けながら進む。先程まで、海の向こう側に向かって伸ばされていた赤い縄は、私が方向転換したせいか今度は葉山に向かって真っ直ぐに縄先が伸ばしている。
 海から上がり、濡れたローファーでキュッキュッと浜辺を踏み締めた。そんな私の様子を見た葉山は、その白くて細い手で私の濡れた手を掴んで海から離すように引っ張る。触れた葉山の手は、想像していたよりも温かくて酷く安心した。
「あーあ。全部びしょびしょだね。後で絶対磯臭くなるよ、これ。」
 海水が滴り落ちているスカートやローファーを見ながら、葉山は心底嫌そうに顔を顰める。私はその時、初めて葉山の表情が動いたのを見た。
「…臭い?」
「うん、磯臭い。」
 私を見てはっきりとそう言った葉山が、なんだか面白くて「ふふっ」と無意識に笑いが溢れる。長らく使って無かった口角に違和感を感じて、以前結川と話していた時も似たような事があったのを思い出した。
 ふと、葉山の首に括りつけられていた赤い縄に視線を向ける。ゆらゆらと、私と同じように葉山の赤い縄も海風に揺れていた。
 死の縄が、学校を辞めた葉山の首にも垂れ下がっている。私と結川のように、葉山も何か息苦しく思う事があるのだろうか。
 その赤を視線で追いかけていれば、葉山の感情の無い瞳が私に向けられた。
「今日は学校だったの?」
 葉山の質問に、私の表情は一瞬にして固まった。今は平日の昼間で、私はいつもだったら息苦しい逃げ場の無い教室で地獄のような時間を過ごしている。
 今日も本当だったら、あの場所で私はまた死んでいただろう。何度も何度も殺された私の死体が、ただ増えるだけだ。だから、もう無理だった。限界だったから、私は今此処に居るのだ。
「…行かなかった。」
「そっか。まぁ、よくある事だよね。」
 私の言葉に、葉山は何処か納得したように頷いた。私の決死の逃避行が「よくある事」として、済まされるのに内心ムッとする。
 しかし、どんな思いで私が此処に居るかなんて、数日間しか同じ教室で過ごした事しかない葉山に分かる筈がないだろう。そんな分かりきっている事を頭の中で何度か繰り返していれば、先程までぼんやりとしていた頭が、少しずつ鮮明さを取り戻していった。
「…葉山さんは、何で此処に?」
 幾らか動くようになった頭で、気になっている事を思わず口にする。葉山に声を掛けられなければ、きっと私は今頃深い海の中に身体を呑み込まれていただろう。
 濡れたスカートが肌に張り付いて、ポタポタと生温くなった海水が足を滴り落ちていく。それを気持ち悪く思いながらも、私は目の前の葉山を見つめる。
「あぁ、私地元こっちの方なんだよね。離れた学校行ってたの。」
「そうなんだ。」
 葉山は私の質問にあっさりと答えて、葉山は感情の籠もらない視線を目の前に広がる海へと投げ掛けた。
「そうなの。今はちょうど定期検診の帰りで、なんとなく気晴らしに此処に寄ってみたら、三上さんが居たの。」
「定期検診?」
「うん。妊娠しててさ。」
 何でも無いようにそう言った葉山の言葉を、理解するのに少しの時間が掛かった。私はぱちぱちと瞬きをしてから、無意識に視線を葉山の腹へと向ける。
「赤ちゃん居るんだって、まぁ分かんないよね。まだお腹も出てないし。」
 そんな私を見て、葉山は自分の腹を撫でながら淡々と話す。葉山の腹は薄っぺらくて、本当に新たな生命がそこに宿っているとはとても思えなかった。
「そう、なんだ。」
「そうなの。学校とかで噂とか広がってない?」
「…少しだけ。」
 学校で流れていた葉山の噂はどれも碌でもないもので、とても本人に向かって言えるような事ではない。けれど、葉山はそんな事を全部分かっているような様子で、態とらしく瞳を細めた。
「どんなの流れてるか、大体予想は着くけど半分くらい本当の事だと思うよ?」
「…そう、なんだ。」
「うん。そうなの。」
 妊娠したという噂は聞いた事があったし、それ以外のものも聞いた。噂の中の葉山にとても素行が良いようなイメージは無く、教室の片隅で目立たないように息を殺している私とは真逆の人物に思えた。
 実際に葉山が学校を辞めるまで、数日間だけ同じクラスで過ごした事はあるけれど、全く会話をする事も無く、私にとって葉山は顔と名前だけしか知らないクラスメイトの一人だった。
 今思えば、葉山はあまり固定の誰かとつるんで行動している様子はなく、私と同じように一人で行動すること多かったような気がする。
「こんな私が、母親なんて笑える。」
 葉山の温度の無い声が、静かな浜辺に落とされた。笑えるなんて言うくせに、その表情は微動だに動かない。まるで人形のように、葉山からは何の感情も感じなかった。
 けれど、その全てから葉山という人物が私の中で少しずつ見えてきたような気がした。
 首から垂れ下がった赤い縄をゆらゆらと揺らしながら、葉山は自分の腹をゆったりとした手付きで撫でている。無表情な葉山が一体何を思っているのか分からないが、その行動は既に自分の子を慈しむ母の姿に見えた。
「あっ、触ってみる?」
「…えっ、」
 唐突に投げかけられた葉山の言葉に戸惑う。葉山は腹を撫でていた手を止めて、視線を真っ直ぐに私へ向けた。
「命、捨てたくなったんでしょ?」
 酷く澄んだ瞳で、葉山は私に問う。確信を得ているといったような物言いに、私は否定も肯定もしなかった。首に括り付けられたお互いの赤い縄が、私達の間で揺れている。
 何も言わない私を見て、葉山は一つ頷いた。そんな葉山には何故だか、私の事が分かっているように思えた。
「それじゃあ、命に触れればちょっとはマシになるんじゃない?」
 言葉の意味を考える前に、葉山は私の手を強引に取る。そして、その薄っぺらい腹に私の掌をそっと添えた。掌から伝わる微かな温もりが、心地良い。
 此処に、葉山の赤ちゃんが居るらしい。見た目通り葉山の腹はまだ膨らみも無く、此処に生命が居るとは思えないのに、あまりにも葉山が大事そうに私の手を掴んでそこを撫でるから、次第にそこに居る存在を感じ始める。確かに、上手く言葉に出来ないような尊いものがそこに居た。
 その生命の温もりに、触れている掌よりもだんだんと心が熱くなった。誰にも触れられぬように必死に守り固めてきた私の大事なものが、少しずつその温もりに解されていくような感覚になる。
 それは、他人に触れられたら怒りで発狂してしまいそうになるもので、馬鹿にされたら悲しくて二度と立ち上がれない程に泣きじゃくってしまうようなもの。
 私がこの世界で生きていく為に、ずっと光の閉ざされた闇の中で誰の目にも触れないように守ってきた、そんな説明のつかない感情の集まり。決して綺麗な感情で形成されてはいない、醜くて情けなくて恥ずかしいもの。
 それが今の私の核である筈なのに、私はそれが大嫌いだった。誰かに知られる事が怖くて仕方なくて、いつも怯えていた。
 だから、私は一人を選んだのだ。一人で誰にも明かす事なく、このまま消えていこうと思ったのだ。
 私の冷たい掌が、じわじわと温度を取り戻していく。他人温もりがこんなに心地が良いものだと、私は知らなかった。いや、本当は知っていた筈なのだ。幼い頃は当たり前に、誰かの温もりに触れてきた思い出が少なからず私にはあった。
 けれど、そんな温かな思い出さえもいつの間にか忘れてしまっていた。思い出に浸る余裕もないくらいに、私は追い詰められていたのかもしれない。色んな事を見落としながら、生きていたのかもしれない。
 気付けば、葉山の腹を撫でながら私は泣いていた。ボロボロと頬へ伝っていく涙をそのままに、押し込めていた感情が湧き上がってくる。
「…ずっと、お腹が痛いっ、」
 穏やかな波の音が響く浜辺に、私の情けない嗚咽が溢れていく。それを葉山は聞き逃さないように、静かに聞いてくれていた。
「毎日痛くてっ、皆と同じ事が出来ないの、」
 いつから私が、今の私になってしまったのか分からない。過去の私はもっと普通な事が出来ていて、まだ世界に馴染めていたような気がするのだ。
 けれど、いつの間にか私は、私の理想とする普通から遠ざかっていった。
 朝が来るたびに絶望しなくていい、電車も何の心配もなく乗れて、教室に入るのに怖がらなくてもいい、授業中もお腹が痛くならないし、お昼ご飯もお腹一杯に食べれる、常に友人たちに囲まれ笑い合いながら送る楽しい高校生活。
 私はただ、そんな日々を送りたかっただけなのだ。けれど、私にはそんな皆が簡単にこなしている普通の生活が出来なくて、普通の事が出来ない私を私が一番嫌っていた。毎日毎日、世界に馴染めない駄目な私を心の中で殺して、時には誰かに殺されながら死んだように生きる日々。
「もう、どうしたらいいか分からない…」
 本当にもう、どうやって生きていけばいいのか分からないのだ。私一人じゃ、どうにもならない。
 言葉にすれば、なんとも間抜けで馬鹿馬鹿しく感じる私の言い分を、葉山は何の表情にも出さずに「そっか。」と聞いていた。
 赤い縄は、流れる風の思うがままに揺れている。私と葉山の赤い縄は空中で触れ合って、少しだけその縄先が絡み合った。きっと私と同じように、生きづらい何かを葉山も抱えている。
 殆ど交流の無かった葉山に、自分の絶対に明かしたくなかった部分を話したのは、きっと葉山が先に自分の事を話してくれたからだ。
 以前、結川が他校生たちに遭遇し、一度は言い淀んだ事を保健室で明かしてくれた時のように。自分の事を他人に話せる結川も、葉山も強い人だと思った。
 誰かにとっては、馬鹿にしたくなるような情けない自分の姿を見せる事が嫌だった。本当の自分はこんなんじゃないと思いたかった。きっと私は、ずっと私の事を許せなかったのだ。それは今も変わらない。
 けれど、その決して晒してはいけなかった私の部分が、初めて陽の下に出て風に当てられたような心地になる。色んな感情が駆け抜けて、ただただ涙が止まらなくなった。




 暫く泣き続けて、ようやく涙が落ち着いてきた頃。葉山は掴んでいた私の手をそっと離し、スマホで何処かに電話をかけ始めた。
「今から、保健室の先生が迎えに来てくれるって。」
「えっ?」
 電話を切ると、葉山は何て事ないように私に向かって言う。一体どうゆう事なのか聞けば、どうやら葉山は今にも海に身投げしそうな危なっかしい私を保護したと保健室の先生に連絡を入れたらしい。
「保健室の先生には、私も色々と世話になっててさ。」
「そう、なんだ。」
「うん、そうなの。」
 葉山は学校を辞めた今でも、保健室の先生とは定期的に連絡取り合っているようで「でも、会うのは久しぶりだなぁ」なんて呑気な事を言っている。
 そんな葉山に、私は若干焦り始めた。保健室の先生がこんな所に私を迎えに来るという事は、私がやったこの奇行を一体何と説明すれば良いのだろうか。
 そわそわと落ち着きを無くす私を見て、葉山は不思議そうに首を傾げる。
「普通に死にたくなりましたって、言えばいいんじゃない?」
「いや!言えないでしょ、そんな事!」
 何を言ってんだと葉山を思わず睨めば、葉山はそんな私を真っ直ぐに見つめて口を開く。
「そんな事って、よくある事だよ。人間なんだからさ。」
 首に括り付けられた赤い縄を揺らしながら、そう言った葉山の言葉がスッと私の胸を打ち、腑に落ちるのを感じる。私の抱えていた死にたくなる程の生きづらさは、もしかしたら人間だからこそ、よくある事なのかもしれない。
 私が見ている世界には、首から赤い縄が垂れ下がった人たちが何人も存在している。学校に来なくなった結川や目の前の葉山、そしてあの日線路に飛んだサラリーマン。
 誰も彼もが、それぞれ薄暗い何かを抱えていて、結川のようにそれに抗いながら成りたい自分の姿で必死に生きる者や葉山のように薄暗い自分を受け入れている者も居る。
 私は、これからどうやって生きていくのだろう。何度考えても絶望的な答えしか出なかった事を、またもう一度考えてみる。
 深い思考の波に呑まれながら、どれくらい時間が経ったのだろうか、葉山と二人きりの静かな浜辺に「三上さん!葉山さん!」と大きな声が響いた。
 名前を呼ばれて振り返ると、防波堤の階段から保健室の先生が浜辺に向かって駆け降りてくる。保健室の先生は私を見るやいなや、急いで駆け寄り「三上さん!大丈夫なの!?」と力強く肩を掴んで揺さぶった。
 いつも穏やかな保健室の先生の見たことのない姿に、思わず顔を引き攣らせ戸惑いを隠せないでいると、そんな私達の様子を見ていた葉山が「落ち着きなよ、先生。」なんて何処か面白そうに言う。
 葉山が私の事を保健室の先生に何と言ったのかは分からないが、この先生の様子を見るにだいぶ大袈裟に状況を説明したのだろう。今だ慌てる保健室の先生を横目に、葉山の表情が若干ニヤついて見えて呆れた。
 そんな葉山の様子を知る由もない保健室の先生は、私を見つめて申し訳なさそうに眉をハの字にする。そして、いつもと変わらない穏やかな声で私に告げた。
「三上さん。頻繁に保健室に来てくれていたのに、何も気付いてあげられなくて、ごめんね。」
 その瞬間、また止まった筈の涙が溢れ出した。立て続けに私の晒したくなかった姿を、他人の前で晒しているというのに、なんでかそこまでの嫌悪感は無い。それどころか、ずっと張っていた肩の力が抜けていくような感覚さえ感じる。
 ぐすぐすと情けなく鼻を鳴らしながら、私は葉山に話した時よりも詳しく今の自分の状況を打ち明けた。とは言っても私自身、自分に何が起こっているのかきちんと把握出来ていない事もあって支離滅裂になりながらも話す。
 先生と葉山はしっかりと耳を傾けてくれていて、それに安堵しながら話しているうちに、次第に私は自分の事を話す恐怖心が少しずつ薄らいでいくのを感じた。
 全てを話し終えた時には、すっかり疲れ切っていて足元がふらふらするし、頭もボーッとしていた。
「三上さんの話は、よく分かったわ。」
 保健室の先生はそう言って頷くと、真剣な表情で私に向き合った。その強い眼差しは養護教諭とは言えど、教師よりも教師らしい真っ直ぐなものだ。
「だから、これからどうやったら三上さんが少しでも楽に学校生活を送っていけるのか、一緒に考えていかない?私も力になるから、ご両親や担任の先生にも相談してみて改善出来る所を探そう。」
 保健室の先生の言葉を、私は不思議な気持ちで聞いていた。どうやったら楽に学校生活を送れるかなんて、今まで考えた事もなかったからだ。
「きっと高校に通う限りは、三上さんを本当の意味で楽にしてあげる事は出来ないかもしれない。でも、私は三上さんに学校を辞めてほしくないと思っているから。もう少しだけ、一緒に頑張ってくれると嬉しい。」
 その言葉に頷きはしたものの、心の何処かでまだ頑張らなくてはいけないのかと少しだけ重たい気持ちになった。
 保健室の先生の言う事はよく分かる。私が生きていく限り、本当の意味で楽になれる事はないのかもしれない。それこそ、学校に通うことは苦手な事が付き纏うだろう。もう終われると思っていたのに、またあの生活に戻らなくてはいけないのはやはりしんどいなと思った。
 けれど、そこまで言ってくれているのだから、期待に添えなければいけないというような諦めに似た使命感も感じる。今までと違って、誰かの力を借りれることは大きな変化だとも思った。
「とりあえず、それ試してみて無理だったら、その時はやっぱり無理って言ってみれば?」
 簡単に言い放った葉山の単純な意見に、保健室の先生も同意する。確かに、色々と考えてみたけれどそうする事が結局私にとって一番マシな選択のような気がした。
「…うん。」
 そう声に出して再び頷いた私に、保健室の先生は何処か安堵したように微笑む。これで良かった筈なのに、重苦しい感情が全てが解決したような清々しい気分にはなれなかった。
「さて、話しが一段落したみたいだし、私はそろそろ帰るね。先生も久しぶりに会えて良かった。」
 これまで話の行方を見守っていた葉山は、鞄から取り出したスマホ画面で時間を確認するとそう言った。人気のない穏やかな波音だけが聴こえる静かな浜辺は、ゆったりとしていて時間感覚がずれていく。
 保健室の先生はそんな葉山に「色々、ありがとうね。」と声を掛けるとまた微笑んだ。それに答えるように葉山は軽く手を振ると、すたすたと私達に背を向けて歩き始めた。
 それがあまりにも呆気なく感じて、徐々に遠ざかっていく葉山の背中に私はハッとして声を上げる。
「はっ、葉山さん!」
 私の声が届いたのか、葉山は少し気怠げに「ん?」と首を傾げながら振り返る。今日初めて話したから葉山の事を詳しく知りもしないのに、その仕草が何故だかとても葉山らしいと思った。
「ありがとう…!」
 静かな浜辺に私の精一杯な声が響く。それを聞いた葉山は無表情ながら少し目を見開いた。
「うん。じゃあ、また。」
 素っ気ないような返答に、「また」の言葉がついていて私は自然と目を細めた。それに対して、葉山もほんの少しだけ口角が上がっていた気がする。
 葉山は再び背を向けて止めていた足を動かし、防波堤の向こうへと消えていった。保健室の先生はそんな葉山の様子にクスリと笑ってから、「私達も帰りましょうか。」 と私の背中をやんわりと押す。
 それに促されるように、私は浜辺を歩き出した。寄せては返す心地良い波音を聴きながら、濡れたローファーで砂を蹴る。防波堤の階段を上り浜辺を後にする際、一度は入水しようとした海を私は振り返った。
 目の前に広がるキラキラと光る深い青は、壮大で穏やかなものだ。私はただ死にたかっただけではなくて、この母胎のような安心感に包まれたかっただけなのかもしれないと今更ながらに思った。
 太陽は少し傾いて、先程よりも水平線との距離が近付いている。空と海の重なり合った真っ青な景色をただ眺めながら、頭の中でぼんやりと結川の事が浮かんだ。
 体育委員の仕事を手伝ってくれた事、保健室で遭遇した事、一緒に帰ったあの日の事。どれも結川にとっては、流れていく息苦しい日常の一部だったのかもしれない。それでも、私にとっては…
 色々と思い返していれば、「三上さん、どうしたの?」と背後から保健室の先生に声を掛けられる。
「…いえ、何でもないです。」
 私は真っ青な景色に背を向けて、保健室の先生と共に日常に戻る決意をした。
 防波堤の階段を降りながら、ゆらりと首から垂れ下がった赤い縄が揺れる。海の中に入った時は、私の行方を示すように遥か遠くの水平線に向かって、その縄先を伸ばしていたけれど、今では大人しく鳩尾辺りで気味の悪い血の色がいつものように揺れている。
 死ぬ事を止めたとは言っても、息苦しい呪いは今も変わらずに此処にあって、別に明日を望んでいるわけじゃない。
 けれど、そんな私にもまだ今日みたいな日が訪れるのだとしたら、いつか結川と過ごした時間がまだ流れるのだとしたら、もう少しだけ抗ってみようかと揺れ動く心の狭間に薄っすらとした希望が現れるのだ。
 浜辺を後にすると、近くの駐車場に保健室の先生の車が停まっていた。下半身が海に沈んだ私を保健室の先生は嫌がりもせずに、座席にバスタオル広げて「遠慮なく座って!」 と言って車に乗せてくれる。そして、その日は私を家まで送り届けてくれた。
 もう二度と戻らないと思っていた家にあっさりと戻って来た事に、我ながら少し笑えた。長い一日だとも短い一日だとも言えない、産まれて初めての逃避行が終わったのだ。
 家に帰ってきた途端に、ずっしりとした疲れが身体に重くのしかかる。身体の力が抜けるようにしてベットに転がれば、窓の外に見た夕焼けは以前結川と教室で過ごしたそれによく似ていた。







 ピピピッピピピッと、部屋に鳴り響くアラームのけたたましい音で目を覚ます。布団の中で胎児のように丸まりながら、また朝がやって来たのだと靄がかかった頭で理解した。
 気怠い仕草で起き上がり、のろのろと習慣づいた朝の支度をする。バシャバシャと顔を洗って視線を上げると、目の前の鏡に映る自分と目が合った。
 あの頃、高校生の時から、何も変わっていないように見える私の野暮ったい顔。あれから、何年の月日が流れただろうかと無意識に記憶を遡る。
 その顔を支える首には、あの頃どうにも出来なかった赤い縄の存在は何処にも見えなかった。
 首を一周するように巻き付いて、顎の下、喉仏の辺りから鳩尾辺りにまで縄先を垂らしていた気味の悪い赤い縄。それはいつからか、はっきりと記憶には無いが、いつの間にか見えなくなっていた。
 そこに居た存在を確かめるように、そっと首へ手を伸ばす。何も括り付けられていない首の姿も、もうすっかり見慣れたものだ。
 ふと時計を確認すれば、思ったよりも時間は経過していて私は慌ててスキンケアをし、野暮ったい顔にメイクを施した。
 服を着替えて鞄を持ち、急いで家を出る。外に出ると、朝の通勤、通学の為に忙しなく人々が行き交っている。学生、サラリーマン、OL、婦人、老人、また学生。その擦れ違う人々の首には、やはり赤い縄は見えない。この世界に、誰一人として赤い縄が首に括り付けられた人は見かけなかった。
 今日も今日とて混雑する駅の前を通り過ぎて、商業施設の中に入る。その中の一店舗である書店で、私は最近バイトをし始めた。
 スタッフルームに入って従業員の方に挨拶をすれば、特に会話もなく「おはようございます。」とだけ返ってくる。この職場の人達は仕事以外の会話はあまりしない人が多くて、その当たり障りのない感じが私は気に入っていた。
 ロッカーに荷物を入れ、仕事を始める準備をしていればスマホが短く振動する。画面を触って確認すると、『葉山由香里』からメッセージが入っていた。内容を確認すれば近々会おうとの事だったので、私はすぐさまOK!!のスタンプを送った。
 葉山とは、学生の頃に海で出逢ってから不思議と交流が続いている。あの後、保健室の先生を通じて連絡先を交換し、妊娠中で時間があるという葉山から何度かメッセージが送られてきたのだ。それがきっかけで再び会うことになり、今でもこうやって時折メッセージが送られてきては定期的に会っている。そんな葉山が、今では私にとって唯一の友達と呼べる存在になった。
 近々葉山に会う事が決まって、内心ウキウキしながら仕事を始める。バックヤードから届いた書籍を運び出し、発売された新刊を平積みにしたり、本棚へ書籍の補充をする。あちこち忙しなく動いていれば、あっという間に開店時間となった。
 平日はそこまで人混みは多く無いため、緩やかな時間が書店内には流れている。ちらほらと客が入って来ては新刊をチェックしたり、雑誌を眺めたりしていた。
 レジで接客をしながら、本の独特な匂いがする書店内を見渡した。客が立ち読みしているページが捲くられる音が、聞えて来そうな程の静寂。
 その静寂に、反応しなくなった下腹部を見て私はとても感慨深い気持ちになった。ここまで来るのにどれだけ大変だったか、きっと私だけが全て知っている。
 あの日、私が逃避行した日。
 海の中に入って葉山と出逢って、保健室の先生に私の晒したくない姿を見せてから、色々と変わっていったことがある。あれから、保健室の先生は発言通りに、私の状況を母と担任教師にきちんと伝えてくれた。
 そして、母は私の為に、日常生活の色々な面でサポートしてくれるようになった。朝、人が溢れる電車に乗らなくても良いように車で学校へと送ってくれたし、病院にも一緒に行ってくれたのだ。
 私の異常な腹痛は過敏性腸症候群というやつで、過度なストレスや緊張などから自律神経が乱れ、腸内に異常をきたすよくある現代病の一種だった。症状をネットで調べた時から、ずっと心の中でそうだろうなと思っていたけれど、病院でちゃんと診断を受けてやっぱりなというのが正直な気持ちだった。
 担任教師にも説明をし、授業中にどうしても腹痛で辛いようなら保健室へ行っても良いと許可してもらえた。それと、高校を卒業するために必要な出席日数や授業時間などを詳しく教えてもらえて、出来る限りのサポートをしてもらえるようになったのだ。
 そんな色々な事が変化していく中で、以前よりも少しは日常生活がマシになった。けれど、マシになったとは言っても相変わらず授業中の腹痛は辛いし、毎回毎回また公開処刑が起きたらどうしようという恐怖と戦う日々だった。
 私が授業中に保健室へ行く事が増えたせいか、クラスメイトからは「またサボってる」と悪く言われる事もあったし、「三上さんは、すぐ保健室行けていいなぁ〜」と当てつけのように言われた事もある。トイレに駆け込む回数が多すぎて木嶋佳奈に「三上さんって頻尿だよね」とデリカシーの欠片もない事を言われた時には、普通に殺意が芽生えた。
 何も、羨ましがられるようなものじゃない。私はこんな事を一度も望んでなんかいない。毎日惨めで情けない自分を嫌悪しながら、気が狂いそうになるのを必死で耐えている。何も不自由無く、楽しい高校生活を送れてる奴らが私はずっと憎くて仕方なかった。
 それから月日が経ち、なんで私だけがこうなんだろうと何度目かの絶望をした日。結川が、学校を辞めた。
 結川が学校に来なくなって夏休みに突入し、二学期が始まってから半月経った秋頃の事だった。朝のHRで担任教師が、淡々と連絡事項を告げる中でおまけのように結川の事が告げられたのを今でも覚えている。
 あれだけ結川と一緒に行動していたスクールカースト上位集団は、その事に対して特に反応はなく、結川が居ない事が当たり前になった日常をいつも通り騒ぎながら楽しそうに送っている。
 そんな息苦しい教室の中で、私はただ一人ポッカリと胸に空いたような気持ちで過ごしていた。
 夏の間、あれだけ煩く鳴いていた蝉はいつの間にか死んでしまった。いつか結川が言っていた夏の匂いが徐々に薄れていき、空気が少し乾いたものに変わっていく。
 遣る瀬無さと悔しさと悲しさが入り混じって、ぐちゃぐちゃになった心で私はそれでも学校に通った。首から気味の悪い赤い縄を垂らして、死にたくなるくらい生きてやった。
 そうやって途方も無く遠いものに思えていた日々が過ぎ去り、私は五年程前に高校を卒業したのだ。
 高校は卒業したけれど、私は出席日数や授業時間がギリギリで春休み中に補習授業を何時間も受け続けた。その為、進学も就職も出来ず高校卒業後は暫く家に引きこもる生活が続いた。
 他のクラスメイトたちは、皆それぞれ大学や専門学校に進学したり、就職先が決まったりして明るい新生活に向かって飛び立って行った。それにも関わらず、私だけがまた普通に生きていけないことが情けなくて惨めだった。
 こんなに頑張って学校を卒業した事に、一体意味があったのかと嘆いた事もある。高校を卒業して、ひたすらに腹痛に耐える苦痛な学校生活から逃れられたのに、私の首から赤い縄はいつまで経っても消えなかった。
 仕事をするにも、この腹痛ではどうにもならない。電車さえまともに乗る事が出来ない私は、病院に通いながら必死にこの病を治そうと足掻き続けたり、時に酷く落ち込んだりしながら進んでるのか立ち止まっているのか分からない年月を過ごした。
 私が社会から離れて家に引きこもっている間、同級生たちは皆、色々な経験を経てどんどん先へ進んでいると思ったら、どうしたって悔しくて憎たらしくて堪らなかった。根暗な私は悪い妄想が止められず、自らの心への自傷行為も止められない。
 そこで全ての事から一旦距離を置くため、何も考えないようにする為に私は本を読みまくった。というのも、私の事に理解ある母が読書を勧めてくれたのだ。
 本を読みながら、私は少しずつ自分を俯瞰して見れるようになった。現実から距離を置いて、ただ活字を追っていく時間が、知らぬ間に私を癒していった。
 それが、今この書店で働こうと思った事に繋がっている気がする。本に囲まれた空間は、あの頃苦手だった静寂に包まれている。今も決して得意というわけじゃないけれど、少しずつ耐性がついてきてある程度普通に過ごせるようになったのだ。
 この普通が私にとっては、とても奇跡的な事に近い。
 病院に通ってカウンセラーの先生と自分に合った治療法を探し、この腹痛と共に生きていく練習をたくさんした。苦手の克服はそう簡単なものじゃなくて、嫌いな人混みに敢えて足を運んだり、映画館や電車やバス逃げ場の無い状況を作って腹痛を起こさない為に思考をコントロールしたりと身体を張ったものだ。
 無意識の不安と緊張から腹痛を起こす前に、思考の安心材料を探す。それは私にとって、ある意味分かりやすいものでもあった。何故なら私には、この気味の悪い赤い縄が見えているからだ。
 人が溢れる窮屈な電車に乗れば、相変わらず何人かの人が首から赤い縄を垂れ下げている。人の波に呑まれながらも、気味の悪い血の色が私の首で息苦しいと主張する。
 それはきっと私だけじゃなくて、結川にあって葉山にもあったものだ。彼等に自覚があるのか無いのか分からないが、きっと何かしらの仄暗い感情を抱いているのだろうと私は勝手に解釈している。
 いつか結川が「楽になりたい」と言ったように、葉山が「人間なんだから」 と言ったように、この世界で生きていく事に絶望したり諦めたりしている人々が、私以外にもちゃんと居る。だから怖くて不安だと思う度に、何度も大丈夫だと必死に自分に言い聞かせた。
 そう思う事で、生きづらい人々に巻き付いた死の縄は、いつしか私を密かに安堵させるものになった。社会の中で埋もれるように生きながら、抗っている事の証明のような気がして、赤い縄と共に生きていく人々を長い時を経て尊く思えるようになったのだ。
 そう思えるようになった自分が少しだけ、あの頃よりも嫌いじゃなくなった。
 ずっと自分だけが世界に上手く馴染めていないような気がして、人も自分も環境も全てが嫌いだった。けれど、私は赤い縄を通して、生きづらい自分も周りの人もいつの間にか認められるようになっていった。
 何度も絶望や諦めを繰り返しながらも、そうやって少しずつ私の狭まった思考の中に余裕が生まれていく。赤い縄はいつしか、私が私である事の自信の一つになった。
 気付けば、徐々に私の異様な腹痛は治まっていった。心と身体はこんなにも密接に繋がっている事を、私はその時初めて実感したような気がする。
 暫くして、通っていた病院を卒業し社会復帰を目指す新たな日々が始まった。その途中で、私は赤い縄が首に括り付けられている人たちを以前よりもあまり見かけなくなっていった。
 行き交う人々の中に、あれほど居た生きづらさの象徴は二ヶ月程で誰の首からも消えていた。そして、私の首に括り付けられた赤い縄も時間が経つに連れて薄れていき、半透明なものになっていく。
 私はそれを毎日鏡で確認しながら、これは一体何が起こっているのかと焦っていた。何年もずっと見えていた景色が唐突に変わっていく事が、少しだけ怖かった。
 それでも、私の心境など知る由もない赤い縄の存在は日に日に薄れていき、ある日とうとう私の首から赤い縄の存在が消えたのだ。首を一周するように巻き付いて、顎の下、喉仏の辺りから鳩尾辺りにかけてその縄先をだらんと垂らしていた赤い縄が消えた。
 何も巻き付いていない肌色の首を見るのは何年ぶりだったか、衝撃のあまりに私は数時間も鏡の前で自分の姿を見続けていた程だ。
 赤い縄が首に現れた当初は気味悪がって早く消えろと毎日念じていたものだけど、今はそれが消えてしまった事が何故だか寂しいものに感じる。
 そもそも赤い縄は全て、学生の頃に心が病んでしまった私の妄想だったのかもしれない。妄想か現実かはもう定かではないけれど、それでも私以外の誰の目にも見えないどす黒い赤色が存在していた首をなぞる。
 もうそこに赤い縄の存在はないのに、今までと変わらない息苦しさは私の中で継続していた。
 赤い縄が消えたからといって私の生きづらさというものは失われたわけでもなく、毎日毎日見えない何かに抗っている真っ最中だ。きっとそれは私だけでなくて、今はもう見えない赤い縄を首から垂れ下げた人たちも皆同じなのだろう。
 赤い縄はきっと私の目に見えなくなっただけで、消えてなんかいないのだ。今も、この首に括り付けられている。






 人がざわめく休日の昼間、近々会おうと言っていた葉山との約束の日がやって来た。街でも広くて有名な公園で待ち合わせていれば、あの頃よりも随分大人びた葉山と、その葉山の細い手を掴んで歩く小さな影がある。
(ゆい)〜!久しぶりだね!」
「りっちゃん!」
 小さくとも力強く歩くその姿に、堪らない気持ちになって思わず手を振り声を上げれば、その子は勢い良く顔を上げてまるで花が咲くように笑う。
 近寄って両手を広げると、葉山の手を離して柔らかな髪を揺らしながら駆け寄って来る女の子。あの時、葉山のお腹に居た子だ。
 ドンッと身体に衝撃が走って、愛おしいぬくもりが触れる。それがなんとも尊くてギュッと抱きしめれば、その子はキャッキャッと弾けるように笑うのだ。
「律、そのくらいにして結が潰れる。」
 後からやって来た葉山の呆れたような声に我に返り、「あっ、ごめん!苦しくない?」と抱きしめていた腕の力を緩めれば、「ぜんぜんヘーキ!」となんとも可愛い声が聞こえた。
 葉山と海で出逢った時、お腹の中に居た子は『結』と名付けられもう五歳になった。会う度に大きくなる結の成長を目の当たりにして、あれから随分と時が経ってしまったんだなと実感する。
「りっちゃん!遊ぼ!」
「いいよ。何して遊ぶ?」
「うーん、鬼ごっこ!」
「よし!分かった!由香里が鬼やるから、一緒に逃げよう!」
 その小さな手を取って結と二人、ニヤリと悪い笑みを浮かべて走り出せば、背後から「ちょっと!勝手に決めないで!」と葉山の怒鳴り声が聞こえる。
 あの頃、乏しかった葉山の表情は結が産まれてから、どんどん感情が現れるようになった。笑ったり怒ったりと忙しなく動き始めた葉山の表情を見て、私は密かに安堵した事を思い出す。
 鬼のように目を吊り上げた葉山を見ながら、キャッキャッ笑って私達は公園内を全力で走り回った。葉山はそんな私達に頭を抱えながらも、「待てコラ!」と怒りに身を任せるように地面を蹴る。
 その後、走り過ぎてへとへとになった私達はベンチに倒れるように座り込んだ。ダラダラと額から汗を流して、息を乱す大人の姿を見た結は、まだまだ遊び足りないと言わんばかりに口を尖らせる。子供の体力を、完全に舐めていた。
「ごめん、結。お母さんたち限界だ…」
「も〜!情けないなぁ!」
 ゼェハァと呼吸を荒くした葉山の言葉に、結は文句を言いながらも「ブランコ乗ってくる!」と直ぐに気持ちを切り替えたように駆け出していく。
 その姿が眩しすぎて、私は思わず目を細めて走っていった小さな背中を眺めていた。
「あー、疲れた。」
 隣に座った葉山が低い声でそう呟く。それにクスッと笑って「結、大きくなったね。」と声を掛ける。
「あっという間にね。来年の一月でもう六歳だって。」
「子供の成長早すぎる〜」
 公園内に設置されたブランコに乗り、ゆらゆらと揺られている結の姿を見ながら、流れる時の速さを改めて感じた。
 結が産まれて直ぐの頃、私は保健室の先生と共に葉山の元へと会いに行った。葉山に抱かれた赤ちゃんを見た時の衝撃は、今でも忘れられない。
 あの時、海にまで浸かった私を生かしてくれた命は、ふにゃふにゃとした柔らかなものだった。小さな紅葉のような手で私の指先をきゅーっと握った温もりが、やはりあの時ように私の心を他者の前に晒していく。
 自然と流れていく涙に、これが生きるという事なのかもしれないと当時十七歳だった私は悟った。私も葉山も首から気味の悪い赤い縄を垂らして、無垢な命の前で泣いた。
 色々な事に絶望しながら、どうにもならない事を諦めながら、ひりつくような痛みを知って大人になった。そんな私の首にも葉山の首にも、あの頃見えていた筈の赤い縄の存在は何処にも見えない。
「由香里、」
 ベンチに座ったまま、隣に居る葉山の名前を無意識に呼ぶ。
「何?」
「…いや、やっぱ何でもない。」
「は?何それ、気になるじゃん。」
 私の曖昧な言葉に、葉山は分かりやすく眉を潜める。それがなんだか面白くて、私はケラケラと笑う。
 この数年の時を経て、色々なものが変化した。私はもう学生では無いし、以前のような異様な腹痛は起こらない。昔ほど人の事が嫌いではなくなったし、今は自分の事もそこまで嫌いではない。
 葉山もよく表情が動くようになったし、私と葉山は名前で呼び合う関係にもなった。軽口を叩く事もしょっちゅうだ。こんな日々が訪れるなんて、全く人生何があるか分からないものだなぁと感慨深くなる。
 きっと今、私も葉山もあの頃よりは呼吸がしやすいんじゃないかと思う。
 数年前の自分ではどうにも出来ない刃物のような感情が、ズタズタに心を突き刺していた頃はもう通り過ぎた。
この世界を知る度に傷付きながらも、少しずつ丸みを帯びて、昔よりもこの扱いづらい感情を自分でコントロール出来るようになってきたような気がする。
 コントロール出来るようになったとは言え、生きづらさやこの世の中や自分に対しての負の感情が決して無くなったわけではない。まだ首を締め付けられているような息苦しさは、ちゃんと感じている。
 けれど、あの重苦しくて痛々しい日々を、今では少し懐かしく思うのだ。そんな懐かしい絶望の中で思い返されるのは、首に赤い縄を括り付けられた結川の姿だった。
 今、彼は一体何をしているのだろうと、私は時折考える。結川が学校に来なくなった日からずっと、結川の事を忘れた事はなかった。今でもしこりのように胸に残って、こうして過去を思い浮かべる度に、彼は何度も私の記憶の中で登場してくる。
 息苦しい教室で首から赤い縄を垂らし、いつもヘラヘラと笑って苦しんでいた結川の姿が忘れられないのだ。
「りっちゃん!」
 唐突に呼ばれた幼い声にハッとして、追憶から現実へと目を向ける。目の前には、ニコニコと笑みを浮かべる結が居た。
「どうしたの?」
「一緒にアレしたい!」
 小さな指先が指す方向には、公園に設置されているアスレチックがあった。
「よし!じゃあ、あそこまでどっちが速いか競争ね!」
「あっ!りっちゃんズルい!」
 態とらしく走り出した私を、結が小さな歩幅ながらに猛スピードで追い抜いていく。前を走り去る背中を見ながらふと、この子もいつかは、あの気味の悪い赤い縄がその首に括りつけられる時が来るのだろうかと考えた。
 それとも、もう既に私に見えていないだけで、その細い首にはどす黒い血の色の縄が存在しているのかもしれない。生きているからこそ、起こる普通な出来事。
 赤い縄の存在は決して異常なものではなくて、誰にでも起こり得るごく自然の事なのだと今ならば理解できる。
 そんな今だからこそ、私はまた結川の事を思い出すのかもしれない。







「お先に失礼します。」
 仕事終わりにそう声を掛けて、スタッフルームを後にする。ちらほらと客が居る書店から外に出ると、太陽が空を茜色に染め上げていた。
 仕事の気怠い疲れを身に感じながら、じわじわと肌に纏わりつくような湿った空気が肌に触れる。日が暮れていく時間なのにも関わらず、街は今だに重たい暑さに包まれていた。
 熱せられたアスファルトの上を緩く流れる風に、微かな夏の匂いを感じて、またこの季節がやって来たことを実感する。
 夕暮れの街を人々は、いつもと変わらずに忙しなく行き交っていた。その群れの中で、もう見えない筈の赤い縄を無意識に探している。
 学生、サラリーマン、OL、学生、中年、学生。擦れ違う人々の首を見ながらふらふらと歩いていれば、ドンッと強い衝撃が身体に走った。
 慌てて身体を立て直すと、目の前には男の人が立っている。驚いて「すっ、すみません!」と反射的に謝りながら、深く頭を下げた。完全に私の不注意だ。
 相変わらず、こうゆう自分は好きになれなくて嫌になる。あの頃よりも、少しはマシに生きられるようにはなったとは思うが、世界に上手く馴染めないのは今も健在だ。
 焦りとやらかしてしまったという恐怖で頭を上げられずにいれば、頭上からは想像していたよりも穏やかな声が掛けられた。
「いえ、大丈夫ですか?」
 その声に何処か聞き覚えがあるような気がして、恐る恐る顔を上げる。目の前の男の顔をよく見て、私は思わず目を見開いた。
「…ゆ、結川くん?」
 驚きのあまりに情けなく震えた私の声に、あの頃よりも少し大人びた結川はぱちぱちと瞬きをして「もしかして、三上さん?」と首を傾げた。
「うん、三上です。久しぶりだね。」
「うわぁ、本当に…?」
 そう言った結川の口元は、もうあの頃のように無闇矢鱈にヘラヘラと笑っていない。それでも、あの頃に感じた結川の穏やかな雰囲気はあまり変わっていないように見えた。
「…あれから、何年ぶりかな。」
 結川は向かい合っていた私から、そっと視線を外して何処か遠くを眺めながら呟く。その少し冷たさを含んだ声が、あの頃の結川の遣る瀬無さを表しているように感じた。
「高校二年生の時だから、もう六年くらい経つね。」
「六年かぁ、早いね〜」
「うん、早いよね。」
 あの絶望から、もう六年の月日が経った。長いように思えて、この世界や自分との狭間で振り回されるようにしながら、ぐるぐるとあっという間に過ぎ去った日々。
「…あー、俺。学校途中で辞めたから、高校の頃の事あんまり記憶なくてさ。」
 結川は私に対して、気まずそうに言葉を選びながらそう言った。それが「高校の頃の話しをあまりしたくない」と遠回しに言っているような気がして、私は一言「そっか。」とだけ返す。
 あの絶望の日々に、結川の中では今だに折り合いのつかない感情があるのだろう。それは、私にも同じ事が言える。
 決して良い思い出ではなくて、惨めで情けない生き方しか出来なかった自分が居る。今でもそんな自分を許せない自分が居て、長い年月をかけて少しずつ受け入れている途中なのだ。
 結川が記憶に無いと言ったように、私も正直必死過ぎて高校生活があまり記憶に残っていない事も多い。残っていたとしても、どれもキツくて辛い記憶ばかりだ。
 けれど、短い期間だったけれど結川と共に過ごした時間だけは私の灰色の高校生活の中で、唯一色鮮やかに蘇る。
 お互いの首から気味の悪い赤い縄を垂らして、狭い教室の中で上手く生きられないながらに必死に足掻いていた日々があった。そんな結川の事を、私は今では戦友のように思っている。
「また、結川くんに会えて良かった。」
 偽りようがない本心を口にすれば、結川は少し驚いたように目を見開いてから、ゆっくりと瞳を細めた。
「…うん。ありがとう。」
 その一言で、ずっと胸につっかえていたしこりのようなものが消えていくような心地がした。
 ゆらゆらと、今は見えない赤い縄が揺れる。あの頃、死んだ自分を弔うように、そんな自分が居た事を忘れないように。
 見上げた結川の白い首には、今はもうあの赤い縄は見えない。けれど、この世界で上手く生きられない人間に巻き付いた息苦しい呪いは、今でもきっと結川の首にあって私の首にもあるのだ。
 あの頃よりも当たり前になってしまった感情が、時折自分の手につかない形で暴れ出す。その度にまた首を絞められたように苦しい思いをしながら、何度も絶望と諦めを繰り返しながらも生きていくのだろう。
 どうしたって私達は、この生き方しか出来ないのだ。これから先も、この首に括り付けられた赤い縄と共にきっと生きていく。
 そして、いつかあの懐かしい絶望を思い出して、そんな事もあったなってお互いに話し合える日が来たら良い。それで、もう良いのだ。
 茜色だった空に、藍色が混ざって夜がくる。街は相変わらず、たくさん人々が行き交っていて忙しない。そんな中で、私はもう見えなくなった赤い縄をまた無意識に探している。
 今思えば、あの血の色をした気味の悪い縄は、私の青春そのもののような気がした。
 夏の匂いを含んだ風が、人混みの中で立ち尽くす私と結川の間を通り抜けていく。触れられたくない話を避けるように「今日も、暑いね。」と呟いた結川の声に、「もう、夏だね。」と返せば、何処かから蝉の鳴き声がした。
 シネシネシネシネと、今年も呪いの言葉を吐きながらその命を燃やしている。昔と変わらないその声に、私と結川は何かを思い出したかのようにクスリと笑った。



 




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