「ご乗車、ありがとう御座いました。まもなく終点、△△駅です。」
 電車内に、終点を知らせるアナウンスが流れる。どうやら、私が移動出来る距離は此処までのようだ。
 ガタン、ゴトンと走っていた電車が徐々に速度を落としていき、流れていた景色が止まる。軽快な音と共に自動ドアが開いて、入って来た生温い風が首から垂れ下がる赤い縄を揺らした。
 座席から立ち上がって、電車の外に出る。降り立った駅のホームに見覚えは無く、少ない他の乗客の後を追いかけながら出口を探す。
 改札を通る時、駅員に自分の異常行動の説明が上手く出来なくて散々不審がられたが、ちゃんと乗車した分のお金は支払った。もうどう見られても、どうでも良かった。どうせ、もう私は終わる。
 駅を出て宛もなくふらふらと、知らない街を彷徨う。擦れ違う人々の中に、何人か赤い縄を垂れ下げた人が混ざっている。
 それを眺めながら、立ち並ぶ街路樹に停まった蝉の声を身体中に浴びる。その声に背中を押されるようにただただ歩き続けていれば、何処からか流れてきた潮の香りがふわりと鼻を掠めた。
 なんとなくその香りを追いかけていけば、街は開けていき海辺に辿り着いく。散歩する人たちが何人か通り過ぎていく防波堤の階段を上り、浜辺に出ると青々とした海が広がっていた。
 水平線の上には小さな船の影が浮かび、その背後には広大な入道雲が立ち上っている。頭上の太陽の光が降り注ぎ、照らされた波が光となって押し寄せては引いていく。   
 波の音が穏やかで、人気のない平日の昼間の浜辺には緩やかな時間が流れていた。知らない街の、知らない海。
 目の前の深い青に私は、一歩、また一歩と引き寄せられるように近付いていく。押し寄せた白く泡立った波に、履いていたローファーが濡れた。ぐっしょりと靴下に海水が染み込んで気持ちが悪い。
 それでも構わずに足を進めていけば、両足が完全に波に呑み込まれた。バシャバシャと音を立てながら、足に重く纏わりつくような波に抗い身体を前に運ぶ。
 足を進める度に、水位はどんどん深くなっていく。スカートの裾も濡れて、ふわりと波の上に広がった。それを見ながら、もう太腿辺りまで海に浸かってしまったなと他人事のように思う。
 もう夏とはいえ、冷たい海水に入って行く度に鳥肌が立った。けれど、その冷たさだけではない何かが、身体中を這っているようで一層ゾクリとした寒気が走る。それでも、止まる気は無かった。
 目の前に限りなく広がる深い青に向かって、首から垂れ下がった赤い縄先が行く手を示すように真っ直ぐに伸びる。その、どす黒い血の色がやはり気持ち悪いなと思った。
「何、してるの?」
 人気の無かったはずの背後の浜辺から、突然聞えてきた声に思わず足を止めた。なんだか冷めたような気持ちになって振り返れば、首に私と同じ赤い縄が括り付けられた一人の女子が立っていた。
 その女子は何処か見覚えのある顔をしていて、私はやけにぼんやりとした頭で記憶をなぞる。
「三上さん、だよね?」
 女子から発せられた自分の名前に、私は目の前に居る人物と記憶の中に居た人物がカチッと合わさるのを感じた。
「…葉山、さん。」
 葉山由香里。私の前の体育委員の女子であり、高校二年生になって直ぐに学校を辞めた事で、援助交際だったり妊娠だったりと色々な噂が飛び交っていた人物だ。数日間しか同じ教室では過ごしていない為、交流は殆どなかった。
 そんな葉山が何でこんな所に居るんだと居心地の悪い思いをしていれば、葉山は私に向かって少し意外そうに口を開く。
「うん、覚えててくれたんだ。」
 逆に私なんかの事を覚えている葉山の方がよっぽど凄いと思う。今のクラスメイトたちでさえ、きっと私の事を認識している人の方が少ないくらいだというのに。
「こんな所に同じ学校の制服着てる子が居たから、気になって声掛けてみた。まさか、三上さんだとは思わなかったけど。」
 葉山は海の中に突っ立っている私を見ても、特に表情を変える事なく淡々と言葉を話す。私もそんな葉山を無感情のまま眺めていた。
「…海水浴、じゃないよね?制服着たままだし。」
 チャポンッと押し寄せてきた波が、スカートの裾を巻き込んだ。
 葉山の言葉に私は何も反応出来ず、黙ったまま遠くを見ていた。目の前の出来事が全部額縁の向こう側のような気がして、全く現実味が湧かない。
 押し寄せくる波に身体を揺すられながら、葉山の言葉を頭の中で反芻する。言葉を掛けられている事は分かっているのに、何の返答も浮かんでこなかった。自分の事なのに自分を空中から俯瞰して見てるようで、とにかく当事者意識というものが欠落していた。
 そんな私を見て葉山はどう思ったのかは分からないが、ゆっくりと一つ瞬きをしてから白くて細い手を私に伸ばす。
「こっち、来て。」
 そう言った葉山はやはり特に何の感情も感じられず、清々しい程に無表情だった。私を呼び戻す声に、せっかく此処まで来たのに何でそんな事を言うんだと霞みがかったような頭で思う。
 けれど、その声は不思議と私の足を軽くして、身体が自然と動き出す。誰かに操られているようでいながら、ちゃんと自分の意思で足を進めている私に、我ながら一体何をしているんだろうなと呆れた。
 バシャバシャと音を立てて、元いた浜辺までゆっくりと波を掻き分けながら進む。先程まで、海の向こう側に向かって伸ばされていた赤い縄は、私が方向転換したせいか今度は葉山に向かって真っ直ぐに縄先が伸ばしている。
 海から上がり、濡れたローファーでキュッキュッと浜辺を踏み締めた。そんな私の様子を見た葉山は、その白くて細い手で私の濡れた手を掴んで海から離すように引っ張る。触れた葉山の手は、想像していたよりも温かくて酷く安心した。
「あーあ。全部びしょびしょだね。後で絶対磯臭くなるよ、これ。」
 海水が滴り落ちているスカートやローファーを見ながら、葉山は心底嫌そうに顔を顰める。私はその時、初めて葉山の表情が動いたのを見た。
「…臭い?」
「うん、磯臭い。」
 私を見てはっきりとそう言った葉山が、なんだか面白くて「ふふっ」と無意識に笑いが溢れる。長らく使って無かった口角に違和感を感じて、以前結川と話していた時も似たような事があったのを思い出した。
 ふと、葉山の首に括りつけられていた赤い縄に視線を向ける。ゆらゆらと、私と同じように葉山の赤い縄も海風に揺れていた。
 死の縄が、学校を辞めた葉山の首にも垂れ下がっている。私と結川のように、葉山も何か息苦しく思う事があるのだろうか。
 その赤を視線で追いかけていれば、葉山の感情の無い瞳が私に向けられた。
「今日は学校だったの?」
 葉山の質問に、私の表情は一瞬にして固まった。今は平日の昼間で、私はいつもだったら息苦しい逃げ場の無い教室で地獄のような時間を過ごしている。
 今日も本当だったら、あの場所で私はまた死んでいただろう。何度も何度も殺された私の死体が、ただ増えるだけだ。だから、もう無理だった。限界だったから、私は今此処に居るのだ。
「…行かなかった。」
「そっか。まぁ、よくある事だよね。」
 私の言葉に、葉山は何処か納得したように頷いた。私の決死の逃避行が「よくある事」として、済まされるのに内心ムッとする。
 しかし、どんな思いで私が此処に居るかなんて、数日間しか同じ教室で過ごした事しかない葉山に分かる筈がないだろう。そんな分かりきっている事を頭の中で何度か繰り返していれば、先程までぼんやりとしていた頭が、少しずつ鮮明さを取り戻していった。
「…葉山さんは、何で此処に?」
 幾らか動くようになった頭で、気になっている事を思わず口にする。葉山に声を掛けられなければ、きっと私は今頃深い海の中に身体を呑み込まれていただろう。
 濡れたスカートが肌に張り付いて、ポタポタと生温くなった海水が足を滴り落ちていく。それを気持ち悪く思いながらも、私は目の前の葉山を見つめる。
「あぁ、私地元こっちの方なんだよね。離れた学校行ってたの。」
「そうなんだ。」
 葉山は私の質問にあっさりと答えて、葉山は感情の籠もらない視線を目の前に広がる海へと投げ掛けた。
「そうなの。今はちょうど定期検診の帰りで、なんとなく気晴らしに此処に寄ってみたら、三上さんが居たの。」
「定期検診?」
「うん。妊娠しててさ。」
 何でも無いようにそう言った葉山の言葉を、理解するのに少しの時間が掛かった。私はぱちぱちと瞬きをしてから、無意識に視線を葉山の腹へと向ける。
「赤ちゃん居るんだって、まぁ分かんないよね。まだお腹も出てないし。」
 そんな私を見て、葉山は自分の腹を撫でながら淡々と話す。葉山の腹は薄っぺらくて、本当に新たな生命がそこに宿っているとはとても思えなかった。
「そう、なんだ。」
「そうなの。学校とかで噂とか広がってない?」
「…少しだけ。」
 学校で流れていた葉山の噂はどれも碌でもないもので、とても本人に向かって言えるような事ではない。けれど、葉山はそんな事を全部分かっているような様子で、態とらしく瞳を細めた。
「どんなの流れてるか、大体予想は着くけど半分くらい本当の事だと思うよ?」
「…そう、なんだ。」
「うん。そうなの。」
 妊娠したという噂は聞いた事があったし、それ以外のものも聞いた。噂の中の葉山にとても素行が良いようなイメージは無く、教室の片隅で目立たないように息を殺している私とは真逆の人物に思えた。
 実際に葉山が学校を辞めるまで、数日間だけ同じクラスで過ごした事はあるけれど、全く会話をする事も無く、私にとって葉山は顔と名前だけしか知らないクラスメイトの一人だった。
 今思えば、葉山はあまり固定の誰かとつるんで行動している様子はなく、私と同じように一人で行動すること多かったような気がする。
「こんな私が、母親なんて笑える。」
 葉山の温度の無い声が、静かな浜辺に落とされた。笑えるなんて言うくせに、その表情は微動だに動かない。まるで人形のように、葉山からは何の感情も感じなかった。
 けれど、その全てから葉山という人物が私の中で少しずつ見えてきたような気がした。
 首から垂れ下がった赤い縄をゆらゆらと揺らしながら、葉山は自分の腹をゆったりとした手付きで撫でている。無表情な葉山が一体何を思っているのか分からないが、その行動は既に自分の子を慈しむ母の姿に見えた。
「あっ、触ってみる?」
「…えっ、」
 唐突に投げかけられた葉山の言葉に戸惑う。葉山は腹を撫でていた手を止めて、視線を真っ直ぐに私へ向けた。
「命、捨てたくなったんでしょ?」
 酷く澄んだ瞳で、葉山は私に問う。確信を得ているといったような物言いに、私は否定も肯定もしなかった。首に括り付けられたお互いの赤い縄が、私達の間で揺れている。
 何も言わない私を見て、葉山は一つ頷いた。そんな葉山には何故だか、私の事が分かっているように思えた。
「それじゃあ、命に触れればちょっとはマシになるんじゃない?」
 言葉の意味を考える前に、葉山は私の手を強引に取る。そして、その薄っぺらい腹に私の掌をそっと添えた。掌から伝わる微かな温もりが、心地良い。
 此処に、葉山の赤ちゃんが居るらしい。見た目通り葉山の腹はまだ膨らみも無く、此処に生命が居るとは思えないのに、あまりにも葉山が大事そうに私の手を掴んでそこを撫でるから、次第にそこに居る存在を感じ始める。確かに、上手く言葉に出来ないような尊いものがそこに居た。
 その生命の温もりに、触れている掌よりもだんだんと心が熱くなった。誰にも触れられぬように必死に守り固めてきた私の大事なものが、少しずつその温もりに解されていくような感覚になる。
 それは、他人に触れられたら怒りで発狂してしまいそうになるもので、馬鹿にされたら悲しくて二度と立ち上がれない程に泣きじゃくってしまうようなもの。
 私がこの世界で生きていく為に、ずっと光の閉ざされた闇の中で誰の目にも触れないように守ってきた、そんな説明のつかない感情の集まり。決して綺麗な感情で形成されてはいない、醜くて情けなくて恥ずかしいもの。
 それが今の私の核である筈なのに、私はそれが大嫌いだった。誰かに知られる事が怖くて仕方なくて、いつも怯えていた。
 だから、私は一人を選んだのだ。一人で誰にも明かす事なく、このまま消えていこうと思ったのだ。
 私の冷たい掌が、じわじわと温度を取り戻していく。他人温もりがこんなに心地が良いものだと、私は知らなかった。いや、本当は知っていた筈なのだ。幼い頃は当たり前に、誰かの温もりに触れてきた思い出が少なからず私にはあった。
 けれど、そんな温かな思い出さえもいつの間にか忘れてしまっていた。思い出に浸る余裕もないくらいに、私は追い詰められていたのかもしれない。色んな事を見落としながら、生きていたのかもしれない。
 気付けば、葉山の腹を撫でながら私は泣いていた。ボロボロと頬へ伝っていく涙をそのままに、押し込めていた感情が湧き上がってくる。
「…ずっと、お腹が痛いっ、」
 穏やかな波の音が響く浜辺に、私の情けない嗚咽が溢れていく。それを葉山は聞き逃さないように、静かに聞いてくれていた。
「毎日痛くてっ、皆と同じ事が出来ないの、」
 いつから私が、今の私になってしまったのか分からない。過去の私はもっと普通な事が出来ていて、まだ世界に馴染めていたような気がするのだ。
 けれど、いつの間にか私は、私の理想とする普通から遠ざかっていった。
 朝が来るたびに絶望しなくていい、電車も何の心配もなく乗れて、教室に入るのに怖がらなくてもいい、授業中もお腹が痛くならないし、お昼ご飯もお腹一杯に食べれる、常に友人たちに囲まれ笑い合いながら送る楽しい高校生活。
 私はただ、そんな日々を送りたかっただけなのだ。けれど、私にはそんな皆が簡単にこなしている普通の生活が出来なくて、普通の事が出来ない私を私が一番嫌っていた。毎日毎日、世界に馴染めない駄目な私を心の中で殺して、時には誰かに殺されながら死んだように生きる日々。
「もう、どうしたらいいか分からない…」
 本当にもう、どうやって生きていけばいいのか分からないのだ。私一人じゃ、どうにもならない。
 言葉にすれば、なんとも間抜けで馬鹿馬鹿しく感じる私の言い分を、葉山は何の表情にも出さずに「そっか。」と聞いていた。
 赤い縄は、流れる風の思うがままに揺れている。私と葉山の赤い縄は空中で触れ合って、少しだけその縄先が絡み合った。きっと私と同じように、生きづらい何かを葉山も抱えている。
 殆ど交流の無かった葉山に、自分の絶対に明かしたくなかった部分を話したのは、きっと葉山が先に自分の事を話してくれたからだ。
 以前、結川が他校生たちに遭遇し、一度は言い淀んだ事を保健室で明かしてくれた時のように。自分の事を他人に話せる結川も、葉山も強い人だと思った。
 誰かにとっては、馬鹿にしたくなるような情けない自分の姿を見せる事が嫌だった。本当の自分はこんなんじゃないと思いたかった。きっと私は、ずっと私の事を許せなかったのだ。それは今も変わらない。
 けれど、その決して晒してはいけなかった私の部分が、初めて陽の下に出て風に当てられたような心地になる。色んな感情が駆け抜けて、ただただ涙が止まらなくなった。




 暫く泣き続けて、ようやく涙が落ち着いてきた頃。葉山は掴んでいた私の手をそっと離し、スマホで何処かに電話をかけ始めた。
「今から、保健室の先生が迎えに来てくれるって。」
「えっ?」
 電話を切ると、葉山は何て事ないように私に向かって言う。一体どうゆう事なのか聞けば、どうやら葉山は今にも海に身投げしそうな危なっかしい私を保護したと保健室の先生に連絡を入れたらしい。
「保健室の先生には、私も色々と世話になっててさ。」
「そう、なんだ。」
「うん、そうなの。」
 葉山は学校を辞めた今でも、保健室の先生とは定期的に連絡取り合っているようで「でも、会うのは久しぶりだなぁ」なんて呑気な事を言っている。
 そんな葉山に、私は若干焦り始めた。保健室の先生がこんな所に私を迎えに来るという事は、私がやったこの奇行を一体何と説明すれば良いのだろうか。
 そわそわと落ち着きを無くす私を見て、葉山は不思議そうに首を傾げる。
「普通に死にたくなりましたって、言えばいいんじゃない?」
「いや!言えないでしょ、そんな事!」
 何を言ってんだと葉山を思わず睨めば、葉山はそんな私を真っ直ぐに見つめて口を開く。
「そんな事って、よくある事だよ。人間なんだからさ。」
 首に括り付けられた赤い縄を揺らしながら、そう言った葉山の言葉がスッと私の胸を打ち、腑に落ちるのを感じる。私の抱えていた死にたくなる程の生きづらさは、もしかしたら人間だからこそ、よくある事なのかもしれない。
 私が見ている世界には、首から赤い縄が垂れ下がった人たちが何人も存在している。学校に来なくなった結川や目の前の葉山、そしてあの日線路に飛んだサラリーマン。
 誰も彼もが、それぞれ薄暗い何かを抱えていて、結川のようにそれに抗いながら成りたい自分の姿で必死に生きる者や葉山のように薄暗い自分を受け入れている者も居る。
 私は、これからどうやって生きていくのだろう。何度考えても絶望的な答えしか出なかった事を、またもう一度考えてみる。
 深い思考の波に呑まれながら、どれくらい時間が経ったのだろうか、葉山と二人きりの静かな浜辺に「三上さん!葉山さん!」と大きな声が響いた。
 名前を呼ばれて振り返ると、防波堤の階段から保健室の先生が浜辺に向かって駆け降りてくる。保健室の先生は私を見るやいなや、急いで駆け寄り「三上さん!大丈夫なの!?」と力強く肩を掴んで揺さぶった。
 いつも穏やかな保健室の先生の見たことのない姿に、思わず顔を引き攣らせ戸惑いを隠せないでいると、そんな私達の様子を見ていた葉山が「落ち着きなよ、先生。」なんて何処か面白そうに言う。
 葉山が私の事を保健室の先生に何と言ったのかは分からないが、この先生の様子を見るにだいぶ大袈裟に状況を説明したのだろう。今だ慌てる保健室の先生を横目に、葉山の表情が若干ニヤついて見えて呆れた。
 そんな葉山の様子を知る由もない保健室の先生は、私を見つめて申し訳なさそうに眉をハの字にする。そして、いつもと変わらない穏やかな声で私に告げた。
「三上さん。頻繁に保健室に来てくれていたのに、何も気付いてあげられなくて、ごめんね。」
 その瞬間、また止まった筈の涙が溢れ出した。立て続けに私の晒したくなかった姿を、他人の前で晒しているというのに、なんでかそこまでの嫌悪感は無い。それどころか、ずっと張っていた肩の力が抜けていくような感覚さえ感じる。
 ぐすぐすと情けなく鼻を鳴らしながら、私は葉山に話した時よりも詳しく今の自分の状況を打ち明けた。とは言っても私自身、自分に何が起こっているのかきちんと把握出来ていない事もあって支離滅裂になりながらも話す。
 先生と葉山はしっかりと耳を傾けてくれていて、それに安堵しながら話しているうちに、次第に私は自分の事を話す恐怖心が少しずつ薄らいでいくのを感じた。
 全てを話し終えた時には、すっかり疲れ切っていて足元がふらふらするし、頭もボーッとしていた。
「三上さんの話は、よく分かったわ。」
 保健室の先生はそう言って頷くと、真剣な表情で私に向き合った。その強い眼差しは養護教諭とは言えど、教師よりも教師らしい真っ直ぐなものだ。
「だから、これからどうやったら三上さんが少しでも楽に学校生活を送っていけるのか、一緒に考えていかない?私も力になるから、ご両親や担任の先生にも相談してみて改善出来る所を探そう。」
 保健室の先生の言葉を、私は不思議な気持ちで聞いていた。どうやったら楽に学校生活を送れるかなんて、今まで考えた事もなかったからだ。
「きっと高校に通う限りは、三上さんを本当の意味で楽にしてあげる事は出来ないかもしれない。でも、私は三上さんに学校を辞めてほしくないと思っているから。もう少しだけ、一緒に頑張ってくれると嬉しい。」
 その言葉に頷きはしたものの、心の何処かでまだ頑張らなくてはいけないのかと少しだけ重たい気持ちになった。
 保健室の先生の言う事はよく分かる。私が生きていく限り、本当の意味で楽になれる事はないのかもしれない。それこそ、学校に通うことは苦手な事が付き纏うだろう。もう終われると思っていたのに、またあの生活に戻らなくてはいけないのはやはりしんどいなと思った。
 けれど、そこまで言ってくれているのだから、期待に添えなければいけないというような諦めに似た使命感も感じる。今までと違って、誰かの力を借りれることは大きな変化だとも思った。
「とりあえず、それ試してみて無理だったら、その時はやっぱり無理って言ってみれば?」
 簡単に言い放った葉山の単純な意見に、保健室の先生も同意する。確かに、色々と考えてみたけれどそうする事が結局私にとって一番マシな選択のような気がした。
「…うん。」
 そう声に出して再び頷いた私に、保健室の先生は何処か安堵したように微笑む。これで良かった筈なのに、重苦しい感情が全てが解決したような清々しい気分にはなれなかった。
「さて、話しが一段落したみたいだし、私はそろそろ帰るね。先生も久しぶりに会えて良かった。」
 これまで話の行方を見守っていた葉山は、鞄から取り出したスマホ画面で時間を確認するとそう言った。人気のない穏やかな波音だけが聴こえる静かな浜辺は、ゆったりとしていて時間感覚がずれていく。
 保健室の先生はそんな葉山に「色々、ありがとうね。」と声を掛けるとまた微笑んだ。それに答えるように葉山は軽く手を振ると、すたすたと私達に背を向けて歩き始めた。
 それがあまりにも呆気なく感じて、徐々に遠ざかっていく葉山の背中に私はハッとして声を上げる。
「はっ、葉山さん!」
 私の声が届いたのか、葉山は少し気怠げに「ん?」と首を傾げながら振り返る。今日初めて話したから葉山の事を詳しく知りもしないのに、その仕草が何故だかとても葉山らしいと思った。
「ありがとう…!」
 静かな浜辺に私の精一杯な声が響く。それを聞いた葉山は無表情ながら少し目を見開いた。
「うん。じゃあ、また。」
 素っ気ないような返答に、「また」の言葉がついていて私は自然と目を細めた。それに対して、葉山もほんの少しだけ口角が上がっていた気がする。
 葉山は再び背を向けて止めていた足を動かし、防波堤の向こうへと消えていった。保健室の先生はそんな葉山の様子にクスリと笑ってから、「私達も帰りましょうか。」 と私の背中をやんわりと押す。
 それに促されるように、私は浜辺を歩き出した。寄せては返す心地良い波音を聴きながら、濡れたローファーで砂を蹴る。防波堤の階段を上り浜辺を後にする際、一度は入水しようとした海を私は振り返った。
 目の前に広がるキラキラと光る深い青は、壮大で穏やかなものだ。私はただ死にたかっただけではなくて、この母胎のような安心感に包まれたかっただけなのかもしれないと今更ながらに思った。
 太陽は少し傾いて、先程よりも水平線との距離が近付いている。空と海の重なり合った真っ青な景色をただ眺めながら、頭の中でぼんやりと結川の事が浮かんだ。
 体育委員の仕事を手伝ってくれた事、保健室で遭遇した事、一緒に帰ったあの日の事。どれも結川にとっては、流れていく息苦しい日常の一部だったのかもしれない。それでも、私にとっては…
 色々と思い返していれば、「三上さん、どうしたの?」と背後から保健室の先生に声を掛けられる。
「…いえ、何でもないです。」
 私は真っ青な景色に背を向けて、保健室の先生と共に日常に戻る決意をした。
 防波堤の階段を降りながら、ゆらりと首から垂れ下がった赤い縄が揺れる。海の中に入った時は、私の行方を示すように遥か遠くの水平線に向かって、その縄先を伸ばしていたけれど、今では大人しく鳩尾辺りで気味の悪い血の色がいつものように揺れている。
 死ぬ事を止めたとは言っても、息苦しい呪いは今も変わらずに此処にあって、別に明日を望んでいるわけじゃない。
 けれど、そんな私にもまだ今日みたいな日が訪れるのだとしたら、いつか結川と過ごした時間がまだ流れるのだとしたら、もう少しだけ抗ってみようかと揺れ動く心の狭間に薄っすらとした希望が現れるのだ。
 浜辺を後にすると、近くの駐車場に保健室の先生の車が停まっていた。下半身が海に沈んだ私を保健室の先生は嫌がりもせずに、座席にバスタオル広げて「遠慮なく座って!」 と言って車に乗せてくれる。そして、その日は私を家まで送り届けてくれた。
 もう二度と戻らないと思っていた家にあっさりと戻って来た事に、我ながら少し笑えた。長い一日だとも短い一日だとも言えない、産まれて初めての逃避行が終わったのだ。
 家に帰ってきた途端に、ずっしりとした疲れが身体に重くのしかかる。身体の力が抜けるようにしてベットに転がれば、窓の外に見た夕焼けは以前結川と教室で過ごしたそれによく似ていた。