俺は今、走っている。
誰もいない夜道を、数センチ先もよく見えない暗闇を、転ぶ覚悟で全速力で駆けていた。酸素が足りなくて苦しい、冷たい空気を吸い込んだ肺に穴が開きそうだ。ふくらはぎがぱんぱんで、もう一歩も前に進めないと何度も思ったがそれでも今前に進み続けている。喘ぐ息をもうやめてしまいたいのに必死に酸素を貪っている。
全て貴方のためだった。
迷いながら苦しみながら、それでも俺を守る決断をしてくれた大切な人が今真っ黒な怪物に吸い込まれそうになっている。だから俺は走らなければならなかった。
俺が必死になれる燃料は君の正義であり、俺の正義であり、愛と呼ぶにはおこがましい感情だった。
霞む視界の端に、月明かりに照らされた海が見えた。深い青にそのまま吸い込まれてしまいそうで一瞬慄いたが、瞬き一度でその奥へと飛び込んでいく。急な坂道を下ると、堤防に白い影がぽっかりと浮かんでいた。群青の背景に生える月のように純白のシルエットは遠い水平線の先をじっと見つめている。

「ボタン」

俺が貴方の名前をなぞると、Aラインの輪郭がしなやかに揺れてこちらを振り向く。真夏らしい白いワンピースは貴方の存在そのもののようで俺はあまりの美しさに暫く見とれてしまった。しかし、君の表情は酷いものだった。もうやめてと言いたげな顔で悲しそうに俺を見つめている。
嗚呼、そんな顔しないでくれ。君は何一つ間違っていないのに。おかしいのは君ではなく、この世界なのだ。
世界でたった一人貴方が正しい訳ではない。けれど、貴方以外の人間が全て正しいのかと聞かれたらそんな訳がないだろう。
それなのにその正義を振りかざして、君を殺そうとする世界はきっと間違っている。

「透くん、」

駄目だよ、と言いかけた君の口を掌で塞いでやった。
君がどれだけ自分の価値を疑おうと、俺は覚えているから。君がどれほど綺麗な人間なのか、どれほどひたむきな人間なのか。
肩でしていた呼吸を整える。徐々に落ち着きを取り戻すと、一つ深呼吸をした後、俺は真っ黒な瞳を捉えた。
今から話すことは俺が君から教えてもらったことだ。俺とは全く違う人生を歩んできた君が気づかせてくれたことだ。だから責任をもって全部聞いてほしい。
全て聞いてからどうか、俺が間違っていたか教えてくれ。