俺は今、走っている。
誰もいない夜道を、数センチ先もよく見えない暗闇を、転ぶ覚悟で全速力で駆けていた。酸素が足りなくて苦しい、冷たい空気を吸い込んだ肺に穴が開きそうだ。ふくらはぎがぱんぱんで、もう一歩も前に進めないと何度も思ったがそれでも今前に進み続けている。喘ぐ息をもうやめてしまいたいのに必死に酸素を貪っている。
全て貴方のためだった。
迷いながら苦しみながら、それでも俺を守る決断をしてくれた大切な人が今真っ黒な怪物に吸い込まれそうになっている。だから俺は走らなければならなかった。
俺が必死になれる燃料は君の正義であり、俺の正義であり、愛と呼ぶにはおこがましい感情だった。
霞む視界の端に、月明かりに照らされた海が見えた。深い青にそのまま吸い込まれてしまいそうで一瞬慄いたが、瞬き一度でその奥へと飛び込んでいく。急な坂道を下ると、堤防に白い影がぽっかりと浮かんでいた。群青の背景に生える月のように純白のシルエットは遠い水平線の先をじっと見つめている。
「ボタン」
俺が貴方の名前をなぞると、Aラインの輪郭がしなやかに揺れてこちらを振り向く。真夏らしい白いワンピースは貴方の存在そのもののようで俺はあまりの美しさに暫く見とれてしまった。しかし、君の表情は酷いものだった。もうやめてと言いたげな顔で悲しそうに俺を見つめている。
嗚呼、そんな顔しないでくれ。君は何一つ間違っていないのに。おかしいのは君ではなく、この世界なのだ。
世界でたった一人貴方が正しい訳ではない。けれど、貴方以外の人間が全て正しいのかと聞かれたらそんな訳がないだろう。
それなのにその正義を振りかざして、君を殺そうとする世界はきっと間違っている。
「透くん、」
駄目だよ、と言いかけた君の口を掌で塞いでやった。
君がどれだけ自分の価値を疑おうと、俺は覚えているから。君がどれほど綺麗な人間なのか、どれほどひたむきな人間なのか。
肩でしていた呼吸を整える。徐々に落ち着きを取り戻すと、一つ深呼吸をした後、俺は真っ黒な瞳を捉えた。
今から話すことは俺が君から教えてもらったことだ。俺とは全く違う人生を歩んできた君が気づかせてくれたことだ。だから責任をもって全部聞いてほしい。
全て聞いてからどうか、俺が間違っていたか教えてくれ。
とある神社の一角。
「約束は本当なのかね?」
男は嘘くさい笑みを浮かべた。言葉遣いこそ丁寧であるが、肩眉をわざとらしく上げて煽るように私を見つめる。
「えぇ、勿論です。私は貴方の知りたいことを何でも教えましょう、扑克に勝てたらの話ですけれど」
私は腹の底が読めない目を細める。カード越しの男の額に脂汗が滲んだ。それでも取り繕うかのように微笑みは絶やさない。目の前の中肉中背の男からは煙草の匂いがする。ホラーが専門のジャーナリストらしい、無精ひげを撫でながら唸るその姿は如何にもそれっぽかった。数時間前、私は訪れてきた彼ととある約束をした。「もし扑克をして、貴方が勝ったら私の情報を好きなだけ教えてあげる」と、「得た情報も、写真も記事に載せることを許可します」と。
男は私の言葉に嫌な笑みを浮かべると、二つ返事でトランプを捌き始めた。
私は長い髪を一つに括って、白い袴の袖を捲る。真夏の昼間では木陰の下に建てられた小屋とは言え、通気性がすこぶる悪いので頭がくらくらしてくる。よく言えばサウナ、悪く言えば部活動後の部室だと客は感想を漏らしていた。私たちは流れる汗を気に留めることなく、頭を回し続ける。古びた机を隔てた小さな小屋の中では二人の熾烈な争いが静かに繰り広げられていた。
いや、実際はそうでもなかった。
彼の態度は傍から見れば眉唾物に見えるかもしれない。しかし、私にとっては赤子同然だった。なんと分かりやすい男なのだろう。穴が開くほど目の前の男を観察した。しかし、あまりの観察しがいのなさに私は心の中でがっくり肩を落とす。手札の数字に検討がついてしまったので、今度は彼の今日の夕飯を当ててみようか。少女の中では最早別のゲームが繰り広げられていた。
「いいのかい、それで」
既に五枚の表が開示された状態で男は怪しげに尋ねる。私はふふふと上品に笑った。
「逆にそちらこそ良いのですか、瘦せ我慢するのはお辛いでしょうに」
「何を……俺は別に痩せ我慢など」
「ふふ、なら早くオープンしてしまいましょう」
男は小娘の口車に乗せられたことに腹が立ったらしい。「あぁいいとも!」と碌に考えもしていないくせに、とっておきを見せるかのようにカードを開示してくる。
男の手元には同じ数字の組が二つ。
私の手元に視線を戻す。同じ数字のペアが一つ、残りのカードも同じであった。
ツーペアとフルハウス。
余裕で勝ちきれなかったのが悔やまれる。やはり、陰で違うゲームを進行していたあまり、変に観察して怪しまれたのが肝だったか。この程度だったらストレートフラッシュくらいはいけたかもしれないのにとため息が漏れた。
「さぁ貴方様の負けですのでどうぞお帰りはあちらから」
「貴様、何か仕込んだだろ?」
血管が今にも切れそうな勢いで掴みかかってくる男。私は流し目ですぐ傍で微動だにしない巫女に助けを求める。しかし、白粉を綺麗に叩かれた顔は微動だにしない。自分でどうにかしろということだった。着物の襟が首に食い込んで頸動脈を巻き込みながら締め上げる、息が上手くできなくて段々と額に脂汗が滲んだ。私は気づかれないようにこっそりため息をつくと、片方の口角だけをぎこちなく上げる。
「仕込みなどあるように見えましたか?ここには貴方が持ってきたカードしかないのに。逆にわざわざそのようなことを聞くなんて、仕込んだのに勝ちきれなかったのは貴方の方じゃないのですか」
自分より二回りも年下の小娘に煽られたのが気に食わないらしい。彼は突然鎖骨を押して私を投げ捨てる。バランスを崩した私は簡単に吹き飛ばされるが、そこは巫女が受け止めてくれて事なきを得た。
勝負に負けたのもそうだが、ここまで来て情報が手に入らないことにいらいらしているようだ。そうだろう、私の情報など簡単なものしか出回っていない。これを掴めば彼はきっと大出世できたはずだ。それをたった一度の、しかも半分は運要素の扑克にたった一回負けただけで人生が変わってしまったのだから、悔しいなんて言葉では表しきれないはずだ。
男は鬱憤を晴らすように飲み物が入っていた食器を床に叩きつけ、自分の腕を引っ掻く。それでも私の表情は変わらず余裕たっぷりの笑みを浮かべているものだから、彼は堪らず声を荒げた。
「お前、何者なんだよ!!ただの小娘じゃないのか!」
「ただの小娘ですよ。神に捧げる少女という謎多き小娘です」
「一つくらい情報をくれたっていいじゃないか!お前がいつまで経っても口を割らないからこっちは儲からないんだぞ」
「知りたければ扑克に勝てばいいと言っているでしょう。何、簡単ではありませんか。私はかぐや姫のように何も現に存在しないものを求めているわけではないのですよ。貴方の言ったただの小娘との勝負ごとにたった一度勝てばいいと言っているのです」
「黙れ!!!女狐が」
「お嬢様に暴言を吐かれると困ります。何せ彼女は」
それまで黙っていた巫女がにべもない態度で、客の言葉を訂正しようとする。その瞳には静かな怒りが込められていた。私は頷いて、立ち上がると微笑を崩さず言い切った。しかし、有無を言わせない、断乎として反論は認めないという圧がそこにはあった。
「私は神に捧げる少女です」
少女は『神に捧げる少女』だった。
小さな村の小さな神社のそれまた小さな小屋に住む女。
しかしただの人間ではない。
少女は17歳の年の奉納祭で神のために命を捧げる。
その代わりにとある力を手に入れた。
それは人の心を読める力だった。
少女は人ではなく、神からの使いなのだ。
マニアックなオカルト誌からはじまり、少女の正体はまことしやかに噂され、広まっている。
妖艶な笑みを浮かべた私は口紅を親指で拭き取る。
「神に与えられしこの身は人の心を読むことなど造作もないのですよ」
少女は顔色一つ変えることなく平気で虚言を弄する。
当たり前だが、そんな噂は嘘である。
少女は確かに神に捧げる少女として17歳の奉納祭で死ぬ運命だが、だからといって何か特別な力を持っているわけでも、神の使いでもなんでもない。
少女は人の心が読める訳では無い。正しくは人の感情を読むのだ。
体温、汗の匂い、目線の動き、ボディーランゲージ、癖。
何もないこの小屋の中で心理学の本を擦り切れるまで読み、学び、実践することで少女が手にしたのはまるで魔法のような、それでいて果てしなく地道な作業の積み重ねである心理戦であった。
今までに訪れた客は様々である。
編集者をはじめ、趣味で訪れる好事家や、心理学者、大金持ちの暇人。
皆、神社に金を落とし、私の正体について知ろうとする。私はその度に好奇の目を向けてくる相手に問いかけるのだ。
「扑克をしませんか?」と。
一度手を出してしまえば疑う余地はない。何故なら神に捧げる少女は負けなしだからだ。
だから騙されるのだ。淀みのない瞳で、または絶望に浸りながら、まんまと小娘の口車に乗せられるのだ。
「ということでお帰りください。私は私の仕事がありますので」
今度はきっぱりとした態度で相手を扉へと追い込む。小太りな男はひぃと情けない声を上げて、逃げるようにその場を去った。巫女が扉を閉めると私は姿勢を崩してため息を吐いた。疲れた。面白ければまだいいものの、話もつまらなければ、心理戦も下手なんて私にとっては最悪の相手である。皺のない襟を緩めてその場に横たわった。
「お嬢様、あれは言いすぎです。はしたない」
「すみません、つい調子に乗りました」
「それに疲れるまでやるものではないですよ。どうせお嬢様に利益はないのですから、そこまで必死にならなくても……」
私が扑克に勝とうがこちらには一銭も入ってこない。これは完全なる趣味の範囲だった。一人鳥籠の中で日がな一日を過ごすのはあまりに退屈だから、内緒で賭け事を始めたのに今ではこの有様だ。連日客が絶えないこの状況は、趣味の範疇をとうに超えていた。それでも何故、私がこれを続けているのかというと単純に楽しいからだ。面倒な客の相手は好きではないが、勝負をしているあの緊迫した空気と探り合いが、何もない小屋にひと時のスリルを与えてくれる。私はそれが好きだった。
あと、私の正体が公にでると色々とまずいのもある。現代日本で豊作のために人を殺しているなんて記事が出まわったら損害はこの神社だけに収まらず、村全体に多大な影響を及ぼすだろう。幾らなんでもそれは少し気が引ける。
巫女が愚痴を呟きながら身辺を整えてくれている。足元には男が怒り任せにぶちまけていった硝子とカードが混在している。飛び散った飲み物は紙製のそれにひたひたに沁みていて、インクが滲んでいた。珍しい柄のトランプだっただけによくもやってくれたなという怒りが込み上げてくる。まぁ私の所持品ではなく、用意したのは神主だが。
「せっかく立派なものでしたのに……」
「残念ですが仕方ありませんね」
同情する、というよりは彼女も同じように「あの糞客め」という憎しみめいた共感だった。私は苦笑いをしながらそっと目を逸らす。ただでさえ客とつまらないやり取りをしたのだ、その上愚痴まで聞かされたらかなわなかった。男の自慢話も長いが、女の愚痴というのはそれ以上に長く面倒だ。
視界の端でふと何かを思い出したかのように、忙しなかった彼女の顔があげられる。
「いえ、そう落ち込まなくても良いかもしれませんよ」
「……何故でしょう」
私が眉を顰めながら聞くと、巫女は足早に部屋を去る。一分も掛からないうちに帰ってきた彼女の手には、小ぶりな桐の箱があった。
「こちらをご覧ください」
まるで玉手箱のように慎重な手つきで開かれる。そこには着物の柄に似たトランプが入っていた。西洋風のものとは違い、変な艶がない。無駄なものをそぎ落とされた洗練されたデザインは高級感と落ち着きがあった。
明らかに今までの客とは違う。
それは紙に触れた瞬間に分かった。今まで使っていたそれこそ零れた飲み物で簡単に文字が滲むほどの安い防水加工の施されたそれとは違う、和紙製だった。私は驚いて巫女に目配せする。
「もしかして、がっぽがっぽなのですか?」
「はい、お嬢様には一円も入らない話ですが」
全く、私が稼いだお金で神主はとんだ富豪生活を送っているのだろう。そんな大金があるのなら少しくらいこの古びた小屋の改築費に充ててくれたっていいのに。
私のお遊びは、最早一種の商売として成り立っていた。客は面会料という名のお布施を事前に神社に奉納することで私の情報を聞き出そうとする。その金額によって用意する飲み物やお茶菓子、トランプが変わってくるのだがこのレベルの準備は初めてだった。こんな田舎の娘に高級トランプをつぎ込めるなんて相当面白い人なのかもしれない。私は若干身を乗り出して尋ねる。
「一体どんな方がお越しになるのですか?」
「とても有名な俳優さんらしいですよ」
「はいゆ……?何ですか、それ」
「テレビにでるやたらと喋りが上手くて、やたらと顔のいい人間、と言えばいいでしょうか。今回来る方はスキャンダルも一切なく、とても品のある方なのですよ」
雑すぎる説明に余計に混乱した。やたらと顔はいいの部分は心底どうでもいいが、やたらと喋りが上手いということはきっと面白い展開ができるはずだ。口が回る人は頭も回る、それで襤褸を出さないとなれば尚更良い。
「ホラー映画の撮影の為にここに勉強しに来たいとのことでしたけど、不思議ですねぇ、こんな辺鄙な村にわざわざ訪れるだなんて。お嬢様の名が密かに上がっているのかもしれません」
「……ここは心霊スポットでも何でもないんですけどね」
一応訂正をしておく。巫女が頬に手を当てて蕩けるような表情をしていることから明日訪れる客人は大層優美高妙な方なのだと思った。言動もいつも以上に気を付けなければならない。それよりも俳優なんて珍しい職業の方が来るのだ、期待で膨らむ胸を押さえて私は再び横たわる。無駄なことに使う体力は無いので客が帰ったあとは死んだように眠るのが私の習慣だった。
奉納祭は三日後だ。
三日後の今頃、私の命はない。
となれば、きっと明日来る方が私の最期の客となるのだろう。どんな客であろうと負けたくない、負けられない。
私は一眠りしてから、来る明日に備え、読心の本を夜通し読もうと決意した。
ミシミシミシミシミシミシ
けたたましい一定の波が鼓膜を貫き、脳で響く。
「っううぅ」
あまりの不快感に飛び起きると、もう光が外から漏れていた。朝だった。蝉は今日も休むことを忘れて鳴いている。私はむくりと起き上がると、掛け布団を畳み始めた。
昨晩の寝苦しさで今晩は寝れないかも……なんて不安は杞憂だったようだ。気が付けば私は意識を手放していたらしい。窓のない部屋は熱を帯びた空気で満たされていた。ふと背中に手を伸ばすと小さい頃のおもらしを彷彿させるほどぐっしょりと汗で濡れていた。
「気持ちが悪い……」
何もかもが上手くいかない朝で顔が歪む。しかし、朝から風呂に行くことなんてきっと許してはもらえないから我慢して手拭いで首筋を拭った。
「あっ!!!本!!!!」
枕の隣には無造作に積まれた心理学の本がある。完全に忘れていた。睡魔に身を委ねすぎたあまり、そのまま熟睡してしまったようだ。がっくりと肩を落としながら部屋の掃除を始める。流石の私も凄い人が来ると知ってしまったので、多少は身構えてしまう。
敷布団のシーツを剥がし、枕のカバーも剥がす。裸になった敷布団を三つ折りにして部屋の隅に追いやる。普段はやらない床のからぶきをすると、赤紫色の染みが所々についた。昨日の客が零したものがまだ残っていたようだ。
いつものルーティーンが終わると、唯一の扉が叩かれる音と共に一人の人影が見えた。
「おはようございます」
背中を九十度に曲げて、こちらに入ってきたのは顔なじみの巫女だった。私に仕える巫女は二人いる。昨日の巫女は年と感性が近いこともあり、比較的仲は良好だった。観察する限り下心もないので、純粋な気持ちで向き合ってくれていると分かる。
しかし、彼女は違った。明らかに私を毛嫌いして、汚らわしいものとして扱う。態度や言葉では表立つことないが、私にとってはとても分かりやすい。何なら私だけに伝わるよう意識してやっているのではという節まである。
「お嬢様、本日のお加減はいかがでしょうか」
まるで機械のように、淡々と台本を読むように、巫女は問う。私が調子が良かろうが悪かろうが本当はどうでも良いのだろう。ひんやりとした声音に私は本心を覆い隠す完璧な笑みを浮かべる。
「今日も今日とて蒸し暑いですね。風も入ってこないので参ってしまいます。……障子をあけてもよろしいでしょうか」
「えぇ、ただお嬢様はそこに。私が開けます」
目の前に翳される手。立ち上がろうとする私を制してきびきびとした動きで木枠に手を掛ける。
私が障子を開けることを禁じられているのは、万が一ここから逃げ出したら困るからだろう。
『神に捧げる少女』
建前では崇められる綺麗な言葉であるが、実態はそうでもない。
100年に一度、『神に捧げる少女』に選ばれた娘は17歳の夏、奉納祭にて神に捧げられる。神に捧げると言えば聞こえがいいが、事実は腹を切って死ぬことを指す。
そして『神に捧げる少女』は奉納祭までこの小屋から出ることを許されてはいない。かつて、奉納祭前夜に夜逃げを実行しようとした前例があることから祭りの日まで外出することは禁じられることになったらしい。
心拍数が早まる胸をそっと撫でる。ドクドクと妙に生々しい鼓動が掌に伝わった。
私は不安になるとよく胸に手を当てて自分の心臓が動いているかどうかを確認する。
鼓動が確認できると、今度は少し下に手を滑らせる。
そうすると丁度子宮の辺り、硬いものとジグザクに縫われた皮膚が当たるのだ。
私の爆弾。私だけの爆弾。
10年前に埋められた傷跡が、無理やり隠すように残されていた。
この爆弾は私が小屋を出ると爆発するようになっている。
小さい頃はただの脅し文句だと思っていたが、巫女が言うには本当に爆発するようだ。
50キロ近い体が、それは花火のように粉々と、鮮やかに、一瞬で爆ぜる。
震える指を抑え込むために腕を掴んだ。しかし掴んだそれもハイノキの枝のよう細く、力を込めればぐにゃりと曲がってしまいそうだった。いつも客と対峙しているときの自信は何処へやら。自分のことを考えると途端に意気消沈してしまう。顔を洗うための水が張られた桶には情けない顔の自分が反射していた。私はこんな体でも生きながらえているんだ、と思った。
顔を上げると巫女と目が合う。絹に似た髪を一つに括って靡かせる彼女は、世間と私の感性が一致すればきっと美人の部類に入るのだと思う。私はその顔をじっと観察した。
爆弾の詰められた他は空っぽの少女は、どれだけ心が読めようが誰にも生きることを願われていない。誰からも生きてほしいと思われていないのに、世界で私だけが私に生きてほしいと思ってしまうのは薄汚い人間の証拠だ。
「姫様、今日は大人しいですね。いつもは何やら怪しい本を読んでぶつぶつ呟いているのに。それが習慣となればいずれ客の前でも襤褸を出しますよ」
急に声が頭上から降り注いできて、私は肩を震わせた。視線を上げると巫女が不思議そうにのぞき込んでいる。考えこんでいたのが、大人しいと捉えられたみたいだ。
「ふふふ、私はもう十七ですよ。そんな粗相はしませんよ」
襖が開け放たれた長方形の木枠は、窮屈な部屋に光をもたらした。と言っても、広がるのは小屋の前の雑木林だけなのだが。襖という障壁がなくなった途端に今がその時だと言わんばかりに蝉が一斉に鳴きだす。
季節は夏なのだ。
もう、とっくに17歳の夏なのだ。
それなのに、どうして私は17年間もこの狭い6畳半の小屋に一人閉じ込められているのだろう。
「神に捧げる少女だなんて……」
馬鹿馬鹿しい
喉までせり上がった言葉を飲み下す。危ない、私はあくまでも純粋無垢な神に捧げる少女なのだから、自分自身が何故ここにいるのかなんて疑問に思ってはいけない。幸いにも呟きは蝉の求婚にかき消され巫女の耳には届いていないようで、私は生まれて初めて耳障りな蝉を好きになりかけた。
「お嬢様。朝食はどういたしましょう」
巫女が手についた埃を親指と人差し指で擦り合わせながら問いかける。姫様、なんて恭しい呼び方に全くそぐわない態度に思わず笑ってしまいそうになる。結局彼女の目に映る私はその程度のただの小汚い少女なのだ。
「いつもと同じでいいですよ。どうして改めてそんなこと聞くの?」
彼女は微塵も心配していなさそうな声で答える。
「もうすぐ奉納祭なので。主から姫様の好きなものを召し上がればよいと承りました」
なら初めからそう言えばいいじゃないか。飛び出しそうになった言葉をぐっと堪えて「それは嬉しいわ」と綻んでみせる。
互いに仮初のこの空間に吐き気がする。
私は貴方が嫌い、貴方も私が厄介。
それで話が済めばどれほど楽だろう。
それでも私を捨てられないのは、村人の反感を買うのが怖いのか、神に見捨てられるのが怖いのか、神社の収入源が無くなるのは困るからか。
何にせよ、私は傀儡だと思ってくれた構わなかった。私は生かされている、生かされている間は「神に捧げる少女」なのだ。
いい感情しか持つことしか許されていない、純粋な少女なのだ。
むしろこの場での正解は彼女みたいな対応なのかもしれない。変に情が入ると、自分の身まで亡ぼすことになる。私を逃がす手助けなんてしたら連帯責任でここの巫女は全員殺されるだろう。そんな馬鹿なことを彼女たちがするようには思えない。
諦めの表情で「では、だし粥に梅干を添えたものを」と答えようとしたとき、緊迫した空気を切り裂くほどの大きな声量が小屋を貫いた。
「姫さまああああ!」
私を呼ぶのは先ほどの粘っこい声ではなく、鈴を鳴らしたような愛らしい声だった。声の在処を探すようにきょろきょろと首を動かすと、乱れた足音が近づいてくる。まさかと思い若干引きながら窓の方を見つめると、予想通り昨日会った巫女が鬼の顔で迫ってきていた。この急斜面の山を駆け上がってきているのか、なんと恐ろしい女なんだ。
勾配20%を超える激坂を普通の道と同じスピードで走る彼女はさながら猪である。
「何あの子……」
流石の嫌味巫女もドン引きしたようで、無意識に顔を引きつらせていた。
「何かとんでもなく急ぎの用事があるのでしょうか」
「それは私にも聞いてみないと分かりません」
呆れたように巫女が首を左右に揺らすのと同時に、息を切らした巫女が飛び込んでくる。とんでもなく急いで来たのか、袴の裾は粘土だらけで頭頂部には葉っぱが刺さっていた。年上巫女が汚いとばかりに顔を顰めるが、そんなのお構いなしで年下巫女は必死な形相で声を荒げる。
「い、います!!相島透っ」
「へ?」
「だから、もういらっしゃっています!!相島透さんが」
「それは貴方の見間違えではないですよね。いくらなんでも早すぎますよ、約束の時間より3時間も前倒しだなんて」
「見間違えるわけないじゃないですか!だってあんな天女みたいなお方そうそういませんよ。あれ、本当に野郎ですか?」
「野郎なんて汚い言葉使わないでください!仮にでもお嬢様付の巫女なのですよ」
「仮にでもって、姉さんが言えることじゃないでしょ……」
おいおいそれが昨日私に言葉遣いを指摘した人間の言う言葉なのか。このままでは突っ込みの大渋滞が起きてしまう。私は混乱する現場を何とか整理しようとした。
「まぁまぁ喧嘩はよしてください。それと私も確認するけれど本当に相島透さんで間違いないのですね?」
「はい、お嬢様もあってみれば分かります。驚いてひっくり返らないでくださいね」
私はもう朝食をとることが出来ないまま、寝起きで扑克に挑まなければいけないのか。ふらふらと千鳥足で今日の着物を取った。瞼を重く落としたまま直立していると、巫女が帯を締めてくれる。
「待ってください、そんな約束の時間を守らない方、お嬢様と会わせられません」
片手でウエストを容赦なく締め上げながら年上巫女は厳格な態度で言う。危うく胃酸が逆流しそうになったが、そこは乙女の意地で何とか持ちこたえる。
年下巫女は体の左半分を小屋に、右半分を外に出しながら言い訳を述べる。全く、忙しない人だ。
「そうは言っても……ってあ!!駄目ですよぉ、ここまでいらっしゃったんですか、えぇ時間がない?次の予定があるにしろお嬢様優先ではないですか……ってグチグチ口答えするな?はぁ分かりましたよ……」
大丈夫なのか、何か言いくるめられていないか。何だか外が賑やかになってきて私はそわそわとしてしまう。慌てていつもの皮張りの椅子に腰掛けると、背筋を伸ばして客人を待った。ひと悶着あった後、年下巫女に加えて年上巫女も参戦した口論は決着がついたらしい。年下巫女が申し訳なさそうに手で小さく罰を作った。私が展開に追いつく暇もなく、年下巫女は作り笑いで扉を開け放つ。
「それではお待ちかね!相島透さんのとーじょーです!」
心の準備が整わない中、光と共に人影が入ってきた。しかし、外の太陽光が明るすぎて逆光になっている。顔はよく見えないが上背がとても高かった。巫女が余裕をもって入れる扉を、頭を下げてくぐる仕草が見えて私は目を疑った。
「急に来てしまって申し訳ないです」
なんと声もよかった。私は感嘆の声を漏らす。
流石俳優と言うだけある。一人の人間に対して五人もの男や女が仰々しく連なっていた。その中心で腰を折るのは頭一つ飛びぬけたシルエットであった。随分楽な格好をしている、だぼっとした着こなしなのにどうしてこうも体のバランスが良く見えるのだろう。私は間抜けな顔で彼の一挙手一投足に集中した。
「こんにちは、お嬢様」
ようやく光が落ち着いて、彼の顔が鮮明になる。
にこりと上がった口角。一目見た瞬間、世が世であったら国が傾いていただろうと思った。涼し気な切れ長の目元に、薄い唇と、すっと通った主張の少ない鼻梁。男性のわりに透明感のある肌はそのまま後ろの背景を透かしてしまいそうだ。
「ぇ……」
情報量が多すぎる。私の頭は意味のない言葉が口から漏れてしまうほど、故障寸前だった。きっと彼の美しさを文字に書きだせばきりがないだろう。たじろぐ私に悪い笑みを浮かべて距離を詰める男。私は思わず身を縮こませそうになったが、何とか神に捧げる少女としての理性が繋ぎとめる。
「どうしたの?」
試すような表情、きっと彼は私が見とれているのだと勘違いしている。でなければ、たった五文字をそんなに意気揚々と発音できないのだ。
生憎、私は彼の顔面に驚いてはいるが、性的衝動は感じていなかった。
神に捧げる少女は今まであらゆる人間と対峙してきた。その経験から段々と人にそういう感情を抱かなくなってしまったのだ。
少女は人の心理状態を察することができる。その過程で、善人を探そうとふるいに掛けると驚くことに誰も残らない。出会ってきた人間が特殊なだけかもしれないが、私にとっては経験が世界のすべてだった。結果、人に対する期待や恋心の類を忘れてしまった現在の少女が完成したのだった。
「笑いかけないで貰ってもよろしいでしょうか」
私の腰の低い態度に、何を勘違いしたのか目の前の男は更に蕩けるような笑みを浮かべる。
「ふふ、我慢しなくていいんだよ」
「そうじゃなくて……巫女が倒れます」
突如、何やら重いものが倒れる音がして私は苦笑いを張り付けながら振り返る。
案の定、巫女が鼻血を垂れ流しながらぴくぴくと打ち上げられた魚のように痙攣していた。
私の言わんこっちゃないという表情に、君はただ驚く表情を浮かべて立ち尽くしていた。
「仕切り直して本日はよろしくお願い致します。神に捧げる少女です」
「相島透です!今日はよろしくね。君とポーカーできるの楽しみにしてたんだよ!」
「私も同じ気持ちです」
社交辞令を適当に言ってのけると、机の横で慎ましやかに立っている巫女に目配せをする。ちなみに年下巫女は鼻にちり紙を詰めて小屋の裏で待機することになった。年上巫女が「夏炉冬扇だわ」とぼやいていたのは僅かな良心から伝えないことにする。早速巫女が札を混ぜ、振り分ける。私も手元を見たが悪くない数字だった。これは余裕で勝てるだろう。
しかし、正面の男を見ていると拭えない違和感があった。何だろう、別におかしいところはない。いや、現実離れした顔はさておき言動、動作、息遣い、どれも嘘を吐いているようには見えず落ち着いていた。
「落ち着いて……?」
それが一番おかしいのか。私はようやく腑に落ちた。
「どうかしたの?早く次の手を」
「あっ、はい。すみません」
私は慌てて手札を見た。しかし、あまり集中はできない。彼は落ち着きすぎている。普通なら金を掛けていようが掛けていまいが、真剣勝負の賭け事となれば多少の緊張と高揚で汗ばんだり脈が速くなったりする。彼にはその兆候が一切見られなかった。まるで眠っているかのように、穏やかで乱れが一切ない。
それが完璧の域にまで達しようとしているので余計に怖い。
彼の様子を観察していると、私如きに神の使いというのは間違いだと思った。これは後天的に身につけたものだ。彼はどうだろう、私の見解では生まれつきのように見える。仮に後天的に身に着けたものだとすれば一体どれだけの努力と時間を要したのだろう。
彼こそ本当に天の使いかと勘違いしてしまいそうだ。
手元から視線を外して、正面を見る。口角のあがった表情はまだ余裕があるように見えた。
負けられない。私は気持ちを切り替えるために深呼吸をする。遅い瞬きを一度、まるでスイッチが押されたかのように世界が変わる。五感全てが研ぎ澄まされた今、負ける気はしない。
「ふふ、余裕ぶっていられるのも今のうちかもしれませんよ」
「お、よーやく本気出す気になったんだね!」
勝負は一時間半も掛かった。
ほぼ互角の勝負では接戦の末、神に捧げる少女の勝利であった。
しかし、私は結果に釈然としなかった。
神に捧げる少女にとってはお見通しだった、相島透にはまだ余力があったことが。
八百長で勝ってしまったことにどうしても納得がいかない。負けた時でさえ、彼は騙されてしまいそうなほど精巧な演技をしていた。
私は彼が考えていることがさっぱり理解できなかった。
取材班が帰ってから、よく分からない薬を巫女から手渡された。飲み込んだ瞬間、脳みそがとろとろと溶けてしまったのかと錯覚するほどの強い眠気に襲われて少し眠った。
夢の中で、何故か相島透が出てきた。私は彼の真正面に立って彼の顔を見つめる。私は今日彼の笑顔しか見ていないはずなのに、夢の中では洞窟のように暗い瞳が虚ろにこちらを見つめていた。
彼には感情が何もないように見える。
私とおんなじ、空っぽ。
衝動的に手を伸ばすと、目の前にいたのはペインターパンツの男ではなく、今にも落ちてきそうな天井だった。
体がだるくて視線だけを動かすと、締め切った障子の僅かな隙間から月明かりが夏風と共に差し込んでいる。
「あ、もう……夜かぁ」
一人しかいない部屋で、はぁとでかいため息を吐いた。
「どうしたの、ため息なんて吐いちゃって」
突然、薄い壁一枚の向こう側から声がして飛び起きた。巫女か?違う、女の人の声じゃなかった。じゃあ一体誰。今まで物珍しさで小屋の付近に訪れる人はいるが、誰も私を気味悪がって話しかけようとしてこなかった。
思い当たる節もないし、相当な変人が来たか。私は眉を顰めながら壁を叩いた。
「あの、誰かいますか……」
「いませんよー」
「ほら、やっぱりいるじゃないですか!!」
私が反応すると、外から笑いを堪えるような声がした。
「誰か当ててみてよ」
問いかける声音は水あめのように甘い。しかし、声量を抑えているからか時々低く掠れて、忘れかけていた声の持ち主が男性だということを意識させる。どうしよう、このまま彼が喋り続けたら心地よくてまた寝てしまいそうだ。意識が飛ばないように私は今までの記憶から男性の声を引っ張り出す。と言っても人生でこんなに透明感のある声、今日以外に聞いたことはない。
「え……まさか、相島透さん?」
「おお、正解」
相当驚いたのか声が震えていた。
「よく分かったね」
「吃驚するのはこちらですよ。どうしてここに?」
相島透は相当有名で多忙な人物だというのを知った今日、どうして彼がこんな辺鄙な神社の小屋に訪れたのか真意が分からない。大体マスメディアの取材に来る人は、表向きには興味があるように熱心に話を聞きに来るが、私がただの少女だと分かると途端に興味を無くしてどこかに行って二度と帰ってこないではないか。
私はとりあえず声のする方へ移動した。壁を軽く叩くと右から軽い音が返ってくる。私は右に移動してまた壁を叩く。今度はちゃんと正面から音がした。
「ここにいるの?」
確かめるように爪が木の柱を撫でる音がする。相手からは見えないというのに反射的に首を縦に振ると、突然、眩しい光が差して目を細めた。暫くして眩しさにも慣れてきた私は恐る恐る顔を上げる。二重の輪が重なり合う形は、よく巫女が夜の巡回に来る時に障子から見える形とよく似ていた。
「懐中電灯ですか?」
「いや、スマホのライト機能だけど」
光源の正体は和紙に透けた懐中電灯ではないのか。私は聞きなれない単語に首を傾げる。
「恐れながら、すまほって何ですか?新しい懐中電灯の種類ですか?」
「スマホ、知らない?携帯電話。ガラケーとかなら分かる?」
彼が軽々と口にする単語を繰り返そうと試みるが、すぐ口の中でへばりついた。知らない単語の波が押し寄せて私の頭は爆発寸前だ。なんだ、すまほって。『けいたいでんわ』も分からなければ、がら何とかもよく分からない。返事に困って緘黙を続けると、「ねぇ」と外から甘い声がする。
「障子、開けてよー。僕、君と会って話してみたいんだよね」
「何故?」
「昼間見て、めっちゃ可愛かったからー」
「お世辞は結構です」
「って理由が半分と、半分は今度のオカルト映画の勉強のため」
「んぐっ……騙されました」
「ほら、そういうところが可愛いんだよ」
「……お口が達者なことで」
私はそのすらすらと流れる口説き文句に一種の感心を抱きながらも、障子に触れることはできなかった。昔からそうだ、障子まで近づいて開ける寸前まではできるのに、どうしてもその先をしようとすると腕に力が入らなくなる。死にたくないから、朝の言葉を思い出した。別に障子を開けたところでここから逃げなければ爆弾は起動しないのに、私は死の池に飛び込むことは愚か石を投げ入れることすら怖いみたいだ。
そこまで生に縋りついたところで私には何もないのに。
醜い、醜い、醜い
自分のことが嫌いで嫌いで、今すぐ畳の上でのたうち回って絶叫したくなる。爪の奥に血が溜まるまで腕を掻きむしって、こんな自分消してしまいたくなる。
それでも正座の姿勢は崩せなかった。深呼吸をして乱れた精神を統一する。
私は『神に捧げる子』だから、こんなところで襤褸を出すことは許されない。
例え誰であろうと、一回きりの仲であろうと、人前に出るときの私は純粋無垢で清廉潔白な相応しい女を演じなくてはいけない。
私は微笑みを浮かべると、申し訳ない気持ちを前面に出して答える。
「映画の勉強は感心しますし、協力したいと思います。けれど、私は障子を開けることはできません」
「どうして」
「開けてはいけないと言いつけられているからです」
私がきっぱり答えると、彼は数秒の沈黙の後ケラケラと笑いだす。私は何故彼が笑うのか分からず、戸惑いながら「何か変なこと言ってしまいましたか?」と聞く。すると壁の向こうから衣擦れの音が聞こえ、彼が首を振っていることが分かった。
「いやいや、真面目だなぁと思って」
「……馬鹿にしてますか?」
「そんな!むしろ感心してるんだよ。君、反抗期とかなさそうだね」
「反抗なんて、出来ませんよ」
笑ったはずなのに、口角が痙攣して上手く笑えなかった。よかった、顔合わせしなくて。和紙一枚に守られた私の威厳にほっと息を吐く。
彼は何か勘違いしている。私は聖人君子なんかじゃない。反抗したところで、弱くて未熟で未来なんて何も変わりやしないから反抗しないのだ。
腹に手を当てて、風化しかけている傷口を掻きむしった。乱暴にしたせいで中にある硬いものが腹膜を刺激し、激痛が襲う。かはっと少量の胃液と共に私は畳の上に倒れこみ、酸素を貪った。
駄目だ、立ち上がれ。まるで呪いのように脳内で何度も繰り返される言葉に、反射的に足に力が入る。よろけながらも何とか立ち上がると私は腰を90度に曲げた。
彼は知らない。
17年前、神に捧げる少女となった日から私の内臓は爆弾に支配され、静かなる魔物が腹の中を牛耳っているということを。
「……申し訳ないのですが、お帰りいただけますか。先ほども申し上げた通り、私にそこを開ける権利はございませんので」
お帰り頂けますかと言ったのは私なのに、口の中が乾燥している。擦り合わせる手汗が止まらない。私が拒絶すればこれ以上、彼が踏み込んでくることはないのに。落ち着けと言い聞かせていることに対して反比例するように荒くなっていく息に、頭は混乱していた。こめかみに冷や汗が流れる。それを拭いながら、気づく。
私、怖いのか。
だって、彼は、
「じゃあ僕が開ければいいか」
カラカラカラ
夜の静寂に響く木材。
ひっ、と喉の奥から引きつる音がした。
「おっ、開いた」
彼は、変な人だから。
「ビックリしすぎじゃない?あ、これ不法侵入とかで訴えられないよねぇ?」
あ、や、と意味のない言葉が飛び出す。
「じゃじゃーん。本日二度目の相島透です!って言ってもテレビないもんなぁ。興味ないか、僕のこと」
「やっ、なんであああけたんですか!!」
「何でって、君が開けられないっていうから。じゃあ僕が開ければいいかなって」
当然のように答える彼。罪悪感というものはないらしい。彼はにこにこと暗い部屋の中を見回して、しかし家具すらない部屋は数秒で見飽きたようですぐ私に視線を戻し唇を尖らせた。
「なんでこう、乙女の部屋なのに防犯対策ガバガバなのかなぁ。もっと南京錠を付けるなり何なりして欲しくない?」
「いえ、誰も私を気味悪がってここになんて侵入しようとはしないので不要かと」
「勿体ないねぇ、こんなに面白い子なのに」
「……初めて言われました、そんなこと」
「嬉しい?」
無駄にきらきらとした瞳が五センチの距離まで接近してきて私は仰け反る。それこそ猫であれば毛を逆立てて威嚇をしていただろう。今まで不気味だの、詐欺師だの、散々言われてきたが面白いという感想は初めてだった。言われて悪い気はしないが、何だか肯定するのも違う気がする。戸惑いながら私は引きつる頬を無理やり作り笑顔に変える。
「嬉しい……です」
君は私の態度にふぅんと値踏みするような目で見つめてくる。先ほどの潤んだ宝石の瞳は何処へ行ったのやら。ころころと変わる表情に私はついていけない。
「早速だけど質問、いい?」
「あ、はい」
「神に捧げる少女っていつもは何してるの?」
私は少し迷った後、後で巫女に怒られない程度にふんわりと伝える。
「特に何もしておりません。私の仕事は17歳の奉納祭の日に神様に捧げられるのみなので」
「そうなんだね、なんかもっとしているのかと思っていたけど」
「いえいえ、この狭い小屋の中では本を嗜んだり来客をおもてなしする以外の娯楽はないのですよ」
「それは……辛かったね。ごめんね、しんどいことを話させちゃって」
「いえいえ、一度話すと決めたのは私なのでどんな質問でも大丈夫ですよ」
質問は本当にどんなものでも大丈夫だった。17年間神に捧げる少女と言う奇妙な傀儡をさせられてきた私にとって、この手の質問はざらにある。むしろだいぶ甘い方だ。世の中の物好きはもっと際どいことを聞いてくる。それに比べればオーバーリアクションで、単純な質問ばかりの彼は答えやすいほうだろう。
しかし、この人間が大丈夫ではない。
改めて目の前の彼をじっと見つめた。
人当たりのよい笑顔、自然に振り分けられた艶のある髪、毛穴の見えない頬と、切れ長の瞳の奥にある黒曜石のような瞳。
全世界の人間から最も美しいパーツを集めて張り付けたような顔だった。
それだけでも信じられないというのに、顔の良さを自覚したような自信に満ち溢れたオーラで溢れている。鼻につかないのは常に謙虚な言動を心掛けているからだろう。
世間知らずな私にも分かる、この男只者ではない。
「どうしてここの神社では神に捧げる少女が必要なの?」
「それは、村の作物の豊作を願うためです。この土地は海にも近く、山もすぐ傍にあって自然豊かなのが一つの特徴なのですが、如何せん昔から自然災害が多くてですね。こうやって神に捧げる少女を土地神様に100年に一度納めなければならないといけないそうです」
「へぇ、神に捧げる少女になる基準とかは?」
「……親族がいない、もしくは不明な孤児です。あと、未婚の少女なのも条件です」
なるべく落ち着いたトーンで聞きやすいように答える。彼は常時頷きを欠かさず、表情を変えながら真剣に話を聞いてメモを取った。私が話せるのはこのくらいだと一息つくと、つむじに突然ぬくもりが伝わった。驚いて視線を上に向けると、穢れのない白魚のような手が私の頭の伸ばされていた。綺麗な顔がすっと近づいてきてそっと耳打ちをする。
「協力してくれてありがとうね」
全身に鳥肌が立った。顔に出なかっただけまだ頑張った方だと思う、思いたい。ぴくぴくと痙攣しかける表情筋は限界だと文句を言っている。なんだこの男、何がしたいんだ。今まで様々な人と出会ってきた、やたら自分語りをしたがるおばさん、「それだから若い者は……」と主語のでかい愚痴を零す記者、変なカルト集団からやってきた話の通じない男。
どんな人でも全て完璧に対応し捌ききってきた歴戦の戦士ともいえる私にとってみても、彼の存在は『異常』そのものだった。
自己愛の高い人なのかと思えば、ふとした瞬間に滲み出る自己嫌悪の感情。
洗練された顔を最大限に活用していながらも、決して自分自身を認めてほしいという気持ちは見られない。
普通の人間であれば、誰しも欲という概念が存在する。誰かに認められたい、褒められたい、相手より優位に立ちたい。そういう汚らしく、ある意味人間らしい感情が彼は欠損しているように見受けられる。
だから私は錯乱状態に陥っていた。
「相島さん」
「透でいいよ!」
「透さん」
「……」
「透くん?」
「まぁ及第点かな。それでどうしたの?」
まただ。全身からその謎のキラキラを出さないでほしい。
私はふと昨日の晩読んだ小説を思い出した。女が顔のいい男に口説かれ口づけをされ駆け落ちをするという話だったような気がする。小説によると女はこのような状況ではときめきを感じて頬を赤らめるそうだが、私は今対極の状態と言っても過言ではない。
真っ青を通り越して血色感の皆無な頬、紫に染まり震える唇。
とてもじゃないけれど、恋なんて感情生まれそうにない。
「貴方のことは教えてくれないんですか」
私はついそんなことを聞いてしまった。得体の知れない人間過ぎて一周回って興味が湧いてきた。それに私だけべらべらと個人情報を渡しておいて、彼のことを何も知れないなんてずるいだろう。彼はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、片目を閉じた。そう自然にやっているが、普通に気障なウインクである。
「僕の名前は相島透で、年齢は二十歳をちょっと過ぎたところ!」
そのちょっとの部分が大事なんだろ、とは突っ込む勇気がなかった。
「職業は俳優とかタレントとか色々。今日はオカルト映画の特集インタビューでこの村に来たんだ。趣味は音楽鑑賞とか映画鑑賞。特技は演技、かな。ファンの人からはよく王子様って言ってもらうよ、へへ恥ずかしいよね」
「王子様、ですか。はは、いいですね」
寸前で出掛かった「盲信者め」という言葉が飛び出さなくて本当によかった。私は取り合えず笑っておく、勿論目は合わせずに。人の感情は何よりも目に最初に現れると思う。今の私が仮にでも俳優の彼と視線を交わせば、観察力の高さですぐに呆れた感情を見抜かれるだろう。
逸らした顔に白い指が滑る。耳の付け根から顎にかけて頬骨をなぞる手つきは絶妙に気色悪い。私は神に捧げる少女だと心の中で何度も唱えて心の中のざわつきを静める。彼が中途半端な美しさであればそのへらへらと笑う顔面を殴って再起不能にさせていたかもしれない。
「それにしてもどうしたのー?急に僕のこと知りたくなったの?」
わざとらしく首を傾げる彼は認めたくないが様になっていた。私は嫋やかな笑みを絶やさずに、それでも不安から震える指先をぎゅっと抑え込んだ。本当のことを言ってしまえば、何かが壊れる。そんな予感がした。まるで禁足地に初めの一歩を踏み出すかのような恐ろしさと漠然とした不安で背中に冷たい汗が流れる。それでも他に言う言葉が見つからなかった。いや、ここで誤魔化せば良かったのだ。そんなことないと、ただの気まぐれだと、当たり障りのないことを言えばよかった。
そんな後悔は私が本心を告げた後に襲った。
「貴方の心が読めないんです」
刹那、彼の表情が固まる。完璧な笑顔はぼろぼろと乾いた粘土のように剥がれ落ちた。大きく見開かれた瞳の奥の、光のない瞳孔が揺れる。肺が急速に萎んで息ができなかった。殺されると、本能的が警告音を鳴らしても私は微動だにできなかった。
そればかりか、畳みかけるように死にかけの喉は言葉を続ける。
「透くん、本当の君はどんな人なんですか」
私は今どんな顔をしているだろう。うまく笑えているだろうか、否そうではないことは分かっていた。表情筋は全て弛緩して、荒い息遣いだけが、鼓膜を揺らす。サバンナの真ん中のガゼルとライオンだった。次、何か行動を起こせばきっと私の命はない。
先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていた彼はもういない。
代わりにいるのは、怪しげに光る瞳を冷ややかに細める男だった。目と鼻の先にある口角がぎこちなく持ち上げられ、三日月形に歪んだ。
「知りたい?」
試すような口ぶりで聞く彼。口を開いた瞬間その場の空気が底冷えした。冷淡な声はトーンからしてみても、先ほどの相島透とは別人なのではと思ってしまう。それでも目の前の人物は二人に分かれることなく、輪郭はしっかりと一人分しかない。
私は密かに好奇心を抱いていた。
彼は確かに変な人だ、私が出会ってきた中で一番腹の底が読めない。
だからこそもっと接近してみたいと思った。今まで懐柔できなかった人間はいない私にとって、未だ懐柔できていない彼のことをもっと知りたい欲が、恐怖に打ち勝とうとしていた。
「……はい」
固唾を呑む。喉が生々しく音を立てた。
無表情の男は脱力していた私の手首を強引に掴んで小指を絡ませてきた。
「じゃあ明日も来てあげる」
「はぁ、本当に来るんですかね」
真っ白な和紙を見てため息を吐いた。もうすぐ夜が更けようとしている時刻、私は奉納祭の書類に追われていた。もう何十枚目かも分からない書類に墨を滲ませていく。幾ら文字を書いたって、頭の中は昨日の男のことばかりだった。軽薄そうな笑みを果たして信じてもいいのか、期待に胸を膨らませる感情が体を充満させる。しかし、期待しすぎていざ来なかったときの落胆を想像すると手放しでわくわくは出来なかった。
相島透はまだ来ない。
その間に私の手首は限界を迎えていた。文字を書きすぎて腱鞘炎になってしまったようだ。痙攣する右手を抑え込む。今日はもう寝てしまおうか。どうせあんなの言葉の綾だったのだ、私は単なるお遊びに過ぎない。芸能人さんの戯れの相手に過ぎなかったのだ。
ただ、知りたかっただけなのに。
どうして、あんな表情をしていたのか。
君はどうして自分を偽って生きているのか。
ぼうっと考えを巡らせていると、いつの間にか和紙の上には黒い染みが出来ていた。いけない、書き損じたそれを丸めてちり箱に投げ捨てる。
その時、夏嵐が障子の木枠を激しく揺らした。
「よぉ」
私はその声で一瞬誰だか気づくことができなかった。顔を見て、ああ約束をしていた人だとようやく分かった。約束通り訪れたことに喜びを感じながら、私は違和感を抱く。それにしても昨日の媚びるような態度はどうしたのか、一変して年相応の男のように振る舞う彼を見て私は目を丸くした。いや、彼の年齢は知らないが一般的な男性と比較して随分不愛想である。没落貴族という言葉がぴったりだと思った。
昨日と同じような気楽な服を着こなしている彼は、今日も障子を開け放つ。それから今度は座布団を持ってきたらしく枯葉の上に自前の座布団を敷いてそこに腰掛けた。居心地を良くしてどうする。
そんな専横な態度をされると自分だけきっちりしているのが馬鹿らしくなって、私も正座で折りたたんでいた足を崩した。
「なんか昨日より態度悪くないですか?」
「お前も昨日より随分本音を言うようになったな」
「おま……お前って……初めて言われましたよ」
「お前はお前だろ。だって俺名前知らないし」
「だって私名前ないですもん」
君の顎が外れそうになる。驚愕の表情で瞳孔が開かれたまま一点を見つめ続けるものだから死人のように見えた。一応目の前で手を振って意識を確認するが、うざかったのか振り払われる。
「名前、ないのか」
「はい」
「だって、年は17だろ?17年間どうやって過ごしてきたんだよ」
「お嬢様とかお姫様とか神に捧げる少女って呼ばれてきました」
「親の苗字とかは?」
「私は孤児ですので、物心つく頃にはここにいました」
平然と言う私に君は理解が追い付かないとばかりに瞬きを繰り返す。私はどんな顔をしていいのか分からなくて苦笑いを浮かべた。こういうとき普通は躊躇ったり、悲しそうな顔をしたりするのだろうか。けれど親がいないのも、名前がないのも、当たり前として生きてきた私にとっては逆に名前があることや親がいることの方が不思議に思えてしまう。名前がなくともお嬢様と呼べば私だと分かるし、身の回りのことは愛情がなくとも巫女が全てやってくれた。不自由はない。なのに皆、私が一言その言葉を告げると腫物を見るかのような視線を向けてくる。
その度に私はどうやって反応していいのか分からなくなるのだ。
私は可哀そうな子なのか。私の存在は変なのか。
認めてしまえば、何かが崩壊する。そんな予感がして、ただ曖昧な顔しかできないままでいる。
「あ、袖のとこ、取れかかってますよ」
ふと君の袖で蓑虫のように揺れる何かをみつけた。金色に揺れるそれを手に取ると、立派な細工が施された釦だった。流石芸能人ということもあり、服の装飾一つにしても高価である。君は現実に引き戻されたように袖口と私の方に視線を向ける。話題を転換させるのにも丁度よかった。私は部屋の奥から刺繍用の針と糸を取りに行こうと立ち上がると、君が俯かせてた顔を上げた。
「じゃあボタンで」
「へ?」
「名前、お前の。ボタンに決めた」
君は私の額に人差し指を突き立てると、「ボタン」と何度も口ずさんで少し顔を綻ばせた。自然に表情筋が上がる様に、私は初めて彼の本当の笑顔を知れた気がする。控えめだが、繕った笑い以外の笑い方もできるんだと彼の数少ない人らしい部分に少し安堵した。
私も真似して声でなぞる。何度も言っていくうちに、二人の声が重なった。微かに不協和音を避けた声で紡がれる3文字の名前は、ゆっくりと私の細胞全てに落とし込められる。
適当すぎやしないだろうか。しかしこの瞬間に17年間何もなかった私という存在に名前がついた。しかも出会って二日の男の釦が取れかかっていたという理由で。
ボタン
実に適当で、安直な名前である。しかし、私如きに名前をつけられるのならその程度でいいような気がした。
私はこの状況が何だかおかしくて、耐えきれず小さく噴き出した後、誤魔化すように咳ばらいを一回。射貫くような眼光をひんやりした瞳に向けてやる。
「勝手に決めるんですね」
「ああ、不便だからな。あと名前くらいはあってもいいだろ」
「一応お礼を言っておきます」
「一応ってなんだ、一応って」
つんけんした態度を取っているが、名前を付けられたことは悪くない。しかし正直に感謝の言葉を述べられないのは、会話の主導権を全て相手に握られていたからだ。子供じみた理由だが、そこは数多の客を手玉に取ってきた神に捧げる少女としての矜持が許さなかった。そんな私を察してか彼は不躾な態度に対して何も言及してこない。大人な対応に仕掛けた私はますます居心地が悪くなって、黙りこくる。
ここまでくると私の態度も随分砕けたものになっていた。染みついた言葉遣いは丁寧なままだが、自分だけ笑顔を取り繕うのも疲れるので表情筋を弛緩させた。
不意に神社の方から重たいものがぶつかる音がして目の前の男から視線を外す。斜め下の石畳には村の男たちが集まって、木製の骨組みが組み立てられていた。明日の祭りに備えて屋台を夜のうちに設置するようだ。今週の天気は概ね晴れらしく、提灯が雨天に気兼ねなく装飾されている。赤い和紙は淡い光に透かされていて、怪しく境内を染めていた。
私は特に表情も変えずに呟く。
「祭りの準備が進んでますねぇ」
「呑気だな、生贄のくせに」
「こういうのってもっと怯えた方がいいんですかね」
「そうじゃなくて」
君は私の問いを否定すると、神社の方に向けられていた顔を再びこちらに戻す。その顔には「昨日俺のことを分からないって言ったけど、お前も大概だぞ」という感情が滲んでいた。
「怖くないの?」
「透くんが私の質問に一つ答えてくれたら、私も一つ答えます」
「……お前、思っていた以上に強欲なんだな」
「失礼な、したたかと言ってください」
私が臍を曲げて顔を背けると、彼は面倒そうにため息を吐く。
「んで、質問って言うのは?」
「透くんはどうしてあのようなキャラを作っているのですか」
彼は思い出したように眉を上げた。それが目的でここにいるのではないか、と思った。けれど、忘れているなら君の目的はもしかしたら別なのかもしれないなと考えて口には出さなかった。
「あぁ、そういえば昨日教えるって言ったね」
「忘れないでくださいよ、その答えを知るまでは私も死に切れませんから」
目の前の男はふっと温度のない瞳を更に絶対零度まで下げる。怒りが込められているわけでも、憎しみが込められているわけでもない。それなのに冷たいと思わせるのは、透き通るそれが放つ光が一切ないからだろう。君の目から急に人らしい温度がなくなると無機物のように見えた。それこそ、びいどろだった。澄んでいて美しいのに、あたたかみはない。それが二つ埋め込まれた顔は美しさと同時に危うさを持ち合わせていた。
これ以上何かが欠けてしまえば、その場で消えてしまいそうな儚い危うさだった。
「空っぽだからだよ」
すり硝子の声が耳をなぞって私は鳥肌が立った。無意識のうちに細く白い首に手を伸ばし、手の甲を押し付ける。私の肌よりほんのりあたたかい皮膚は血管の震えをそのまま伝える。人離れした美しい声は触れた首筋の振動が無ければ、精巧に作られた傀儡だと疑ってしまいそうだなと思った。
「俺は感情の起伏が著しく薄い」
「どうして、」
「周りの環境が特殊だったからだと俺は思ってる。俺は幼い頃からこういう職業をしてたからさ、お前ほどではないけど普通の人生とはかけ離れた世界で生きてきた。その過程で、まぁ何と言うか色々あった訳」
虚ろという言葉をそのまま擬人化した人間に一歩を踏み入れるのは流石の私でも恐怖があった。それでも喉のすぐそこまでせり上がってきてしまうのが、強い好奇心の悪いところだ。後先考えずに口にするのは軽率であるし、何より寿命を縮める。それでもいいから知りたいと思ってしまうのが私だった。ゆっくりと足音を立てないように、気配を殺すように、獲物に近づく猫みたいに、私は慎重に言葉を紡ぐ。
「その、『まぁ何と言うか色々』が知りたいと言ったら、怒りますか?」
「さっきも言ったように俺は怒るも何も、全部どうでもいいと思ってる。でもお前には聞かせたくない」
「……それは何故」
「壊れちゃうから」
私と同じだと思った。君の壊れるが何かは分からない。どの程度なのかも知らない。もしかしたら同じだと比喩するには大袈裟すぎるかもしれないし、同じだと言うには私が身の程を弁えた方がいいほどの大事なのかもしれない。けれど私が私自身の運命を疑った瞬間に世界が壊れるのと同じように、そこが一つ君の踏み越えてはならない境界線のような気がする。欲張って知ろうと踏み込めば最後、君の瞳の真っ暗な部分の深淵から抜け出せなくなる。壊れると言うのは、僅かに残った理性や感情が全てなくなってしまうということを指しているのかもしれない。
君は全身の筋肉の緊張を解いて仰向けに寝転ぶ。そんなところで寝たら汚いはずなのに、妙に自然に溶け込むそれに私は悪寒がした。
「空虚な人間はいらないんだよ。感情のない、ロボットみたいな奴に価値なんてない。感情があるのが人が唯一ロボットより優れていると言える部分なのにそれが欠損してるってばれたら、俺は途端に存在価値がなくなる」
「そうやって怯えて生きるならいっそのこと、俳優なんて辞めてしまえばいいのに」
「……そんな簡単に辞めれたら、俺はもうとっくに表舞台からは消えてるよ」
それはそうか。酷なことを言ってしまったかもしれないと思い、謝罪の言葉を述べておく。君は気にしていないというように軽く頭を振った。
「では二つ目です。どうして再び私のところに来てくれたのですか」
「おい、質問一つにつき一個って」
「後で二つ答えますから」
私が無理やり言いくるめると、君は遅い瞬きをする。すると、真っ暗だった瞳に一つだけ光が宿った。仰向けになったことと、雲隠れしていた月が気まぐれで顔を出したことで、夜の空で場違いなほど輝くそれが映りこんでいるらしい。惑星が溶け込んだ瞳が私の姿を捉えると、一つ吐息を零してまた瞼を閉じた。
「……俺の仮面を見破った人間はお前だけだったから」
また、君が一つ私の知らない表情をする。
君の話を聞く度に私は増々君のことが分からなくなっていく。
足跡を辿ったからと言って元の関係に戻れるわけがないなら、先に進むしかない。
しかし、無性に立ち止まりたいと願ってしまうのはどうしてだろうか。
立ち止まれば何も変わらないと分かっているからなのか。
関係ではなく、私自身が変わってしまうと薄々気づいてきているからなのか。
自分でもよく分からなかった。
「今から言うことは打算に打算を重ねた私欲だ。嫌な気持ちにさせるかもしれない」
「別に構わないです」
分からないからと言って知ろうとするのが正しい訳ではない。時には目を逸らす方が物事が円滑に進むことだってある。
この状況は正にそれであった。知りたい、ただその欲望に従って他人の心にずけずけ入りこみ、挙句の果てに自分さえ見失おうとしている。ここで辞めるべきなのだ、こんな男はとっとと付き人に引き取らせるべきなのだ。
何も知らない赤の他人は今の私を見れば嗤うだろう。
とんだ愚か者だ、と。
「年月を重ねる度に、取り繕うものがどんどん分厚くなっていった。塗り重ねる度にそれは剥がれなくなって、いつしか笑顔を絶やさない完璧な俺が、感情の起伏が薄い何も価値のない俺を乗っ取った。時々自分でもよくわからなくなってたんだ、本当の俺って何だろうって。兎に角笑って、打算的に反感を買わないくらいのお世辞と気遣いの言葉ばかり吐く。それで王子様って言ってもらえるなら、誰かから必要とされるならもうそれでいいかって思ってた」
男は一度言葉を句切る。それから喉を鳴らして、私の目を捉える。
「でも、昨日のお前の目は違った」
人ならざぬものの声は僅かな期待を帯びていた。
「穏やかに見えて鋭い視線は、人の本質を見抜こうとしていた。その目で思い出したんだよ、あぁそういえばこんなへらへら笑うのは俺じゃないなって。俺が必死になって作り上げた『相島透』だったなって。だからお前といれば何か取り戻せるかと思ったんだ」
昨日のことがまるでその場で出来事のように鮮明に再生される。あの時は試合に集中するあまり気づかなかったけれど、言われてみれば君を纏う空気が途中から少し変わったような気がした。
「お前が空っぽな俺を見抜いたなら、それを埋められるのもお前だけかもしれないって勝手に期待して、今ここにいる」
君は不思議と満足そうな表情をしていた。もしかしたら君の目的とは私の知りたいと言う欲を満たすためではなく、自分を取り戻せるかもという淡い期待からなのかもしれない。
「これで全部だ。さて次は俺の番だ。まずお前は死ぬのは怖くないのか?」
今度は私が質問を受ける番だった。私は逡巡の考えを巡らせた後、正直に自分が今感じていることを口にすることにした。
「うーん、怖いというよりはそれが私の生まれた意味なのでもう割り切っているという感じですね。怖いという感情は未知のものに対して生まれると思います。地位、金、人脈、家族、苦しんでようやく掴んだそれがたった一瞬で無に帰する経験は生きていてそうそうないでしょう。味わったことがないから人は死に対して怯えて生きるのです。私は失うことが怖いと感じるほどの地位も思い出も積み重ねてきたこともないので」
私が淡々と答えると、君はなるほどと納得したような顔をした。反対側の山から厳かな鐘の音が聞こえる。もう子の刻だった。明日のために少しでも体を休めておきたい私はここらが潮時だと障子に手を掛ける。
「今日はこれにて失礼します。明日は朝から色々とやることが多いので」
閉めようとした瞬間、木枠を掴んでた手に何かが重ねられた。冷えた指先が閉めようとする私を阻止する。どうしたものかと顔を上げると、君は珍しく動揺したように目を見開いていた。
「どうしたんですか、そんな顔して。もしかして私の晴れ舞台に来てくれたりするんですか?」
「いや、待て。まだ質問をもう一つする権利が俺にはある」
嗚呼覚えていたのか、しつこい男だ。門外不出だった神に捧げる少女の情報が、数多の記者が喉から手が出るほど欲しいそれが、得られたなら、多少妥協してくれたっていいのに。しかし、端から君の目的は私の情報ではないことを思い出して私は肩を落とした。
私はぶっきらぼうに「何ですか」と尋ねた。
澄んだ瞳と視線が絡み合う。私の心を全部見透かしていそうな真っ暗な闇に眼を逸らしてしまいたかった。ばれたくない、自分の醜さを知られたくはない。でも目を逸らしたところで結局は全部君は分かっている、そんな予感がした。だから私は諦めて、ただじっと目と鼻の先にある珠玉の瞳を見つめる。
「お前は生きたいとは思わないのか」
私は瞬きも忘れて彼と見つめ合う。君の両腕はだらりと脱力しているのにどうしてか首を絞められているような錯覚に陥る。喉に詰まる空気と食道から落ちていかない唾液に私の視界は一瞬、真っ白になった。
何秒意識を飛ばしていたのだろう。私の視界が再び鮮明になったときには、傾きかけていた体は重力とは反対の方向に引っ張られていた。
「っぶな……貧血か?」
「え、あ、ありがとうございます」
もやしみたいな腕に見えて中身は筋繊維が詰まっているらしい。私の体を腕一本で支える力は思いの外強かった。いやだいやだ、この男といると全てが乱されていく。主導権を握られた時点で私は負けなのだ。焦りからこめかみに冷たい汗が流れた。これ以上失態を犯すのはまずい。神に捧げる少女の実態は謎であればあるほど客受けもいい。彼の情報の使い方次第では赤字、ひいては存続の危機に関わってくる。明日死ぬとは言え、この神社の損害賠償でも求められたら私は堪ったものではない。私は早口でまくしたて、強引に会話を終わらせようとする。
「正直に言うと口を滑らせました。本来なら扑克に勝利しても高いくらいの情報を貴方には渡したつもりです」
とっととお帰りくださいと広い背中をぐいぐい押す。君は半ば強制的に立たされると、またすまほとやらの光を付けて足元を照らした。私は最後にとっておきの言葉をあげようと思った。
明日死ぬ私を人生で経験したことないくらい楽しませてくれた男だ、これくらいの褒美はあげてもいいだろう。
私は顔を綻ばせると、縛って殺して奥に仕舞っていた感情の片鱗を君に一つ渡す。
それは神主も知らない、扑克に百回勝ったって手に入らない、神に捧げる少女の心の声だった。
「知っていますか?最初から孤独な人間は、自分で知ろうとしない限り、願い方すら分からないんですよ」
息苦しいな。私はどうにかできないものかと腰にきつく巻き付けられた帯に手を当てる。ただでさえ内臓でないものが一つ、腹の中を支配しているのだ。これ以上きつくされれば流石に呼吸が辛かった。しかし、煌びやかなそれは思いのほかしっかりと取り付けられており簡単には緩められない。
それにしてもここまで着飾る意味はあるのだろうか。
朝から湯あみをさせられ、髪を複雑に結われて、上等な絹を何枚も重ねられた。十二単ほどではないが布の厚みの代わりにネックレス、ピアス、簪などの装飾品がこれでもかというほど盛られている。おかげで私は最期の晩餐もろくに味わえなかっのだ。食の恨みは一生というが、私から鰻丼を取り上げた罪は近海の海溝よりも深い。一口しか口につけなかった鰻丼とすまし汁を回収していった巫女には私の死後、毎回鰻丼に致死量の山椒が振りかけられる呪いをかけておこうと決意した。
ため息を吐きながらほの暗い部屋の唯一の光源である外に流し目を送る。いつものもの寂しい石畳とは打って変わって沢山の屋台が並び、境内には赤い提灯がぶら下げられている。どこからか笛と小堤の音が聞こえてきて真夏の訪れを実感する。今年もこの季節がやってきた。今日は私が生まれてから17回目の奉納祭だった。
「お嬢様、お支度は整いましたか」
しばしの間、ぼうっと外を眺めていると、巫女がドア越しに尋ねてくる。慌てて姿勢を正した私が返事をすると、数センチ開いた扉から手が伸びてきて盃が床に置かれた。
「覚悟が決まったからこれを飲んでください」
「これは何ですか」
聞いてから自分のしたことが無粋だと気が付いた。彼女もそれを示唆するように無言を貫く。
「亥の刻までに飲まなければ辛い目に遭います故、それまでには必ずお飲みください」
それでは、と静かに告げると人の気配はなくなった。私は口を真一文字に結びながら取り残された盃を見つめる。紫の液体は提灯の明かりを反射して怪しげに光っている。恐らくこれは葡萄酒だろう。液体に鼻を近づけ、香りを嗅ぐときつい蒸留酒と甘ったるい葡萄の匂いがした。きっとこの中には睡眠薬と遅効性の毒が入っているのだろう。まず睡眠薬で眠って、意識のないまま神に捧げられ私の体は解体される。万が一致死量を超えた睡眠薬で死ねなくとも、毒が全身に回れば確実に心臓は止まる。実に便利な飲み物だ。
「巫女が言ってた辛い目っていうのは、多分意識のあるまま殺されるってことだろうなぁ」
貼り付けにされたまま体をばらばらにされる想像をした。うん、それだけは避けたいな。私は盃に手を伸ばすと、人差し指だけ浸す。赤紫の液体のついた指をぺろりと舐めた。この程度では多分死ねない。舌に山椒を食んだときのような痛みが走ったが、私の意識はまだ保たれたままだった。
視線はゆっくりと傾き、いつの間にか私は布団も敷いていない床に仰向けに転がる。
祭り囃子の音が近づいたり遠ざかったりしてよく聞こえなかった。子供がはしゃぐ声も、段々と膜が張られたようにぼやけていく。年に一度だけ風に乗って流れてくるこの匂い、好きだったなぁ。質素な食事しか口にしてこなかった私にとってこの中濃ソースの香はたこ焼きか、お好み焼きか、たませんか想像を掻き立てるには十分だった。
「りんご飴、綿あめ、金魚すくい……」
屋台ののれんを眺めては口に出す。食べたこともない、体験したこともないそれに想いを馳せながら死ぬのもまた一興だろうか。
目を細めて遠くを見つめる。十にも満たない兄弟が仲良く手を繋ぎながら歩いていた。彼らは金魚すくいの店の前で足を止めると、二人で緑の虫眼鏡みたいなのを使ってすばしっこく泳ぐものを捕まえようとする。兄の方は3つ捕まえて袋を手に下げたが、妹の方は一匹も得られなかったようで空っぽの両手をじっと見つめた後その場で泣き出してしまう。
「あちゃー……」
あれは中々機嫌を取るのが難しい。これから彼らはどうするのか気になってしまった私は引き続きその様子を眺める。
兄は慌てて少女の涙を拭ってから、ぎゅっと小さな体を包み込んだ。そして手に下げた袋を妹に持たせてやる。妹はまだ止まらない涙を忘れて嬉しそうに笑ってそのきらきらした瞳で袋の中をずっと観察していた。
私は思わず綻ぶ。この子たちの幸せを守るために、死ねるならいいか。この世には酒に溺れて死にゆくものや、職場でいじめを受けて身を投げるものもいると聞く。それに比べればまだ私は綺麗に散れる方か。
「さぁ、そろそろ飲まなきゃ」
体を起こして盃を取りに行く。正座をして、襟を整えた。無駄な足掻きかもしれないが、散り際くらい綺麗でいたいのは女としての意地だった。
痛いだろうか、苦しいだろうか。そんなことも感じる間もないまま意識を失うのだろうか。
目を閉じて食器の淵に唇をつける。瞼を固く閉じると、覚悟が今だ定まらない震える手を緩やかに傾ける。
その時だった。
「今日はいつもと服が違うんだな」
どこからか声がする。小さくしていた背中をぴんと伸ばして振り返ると見慣れた顔がそこにはあった。
どうしてここにいるんだろう、昨日でおしまいのはずではなかったのか。
「透くん?」
濡れた唇を舐めながら君の名前を呼ぶ。あまりの衝撃に手の力は抜けて、漆塗りの高級食器は酒を盛大にぶちまけながら砕け散った。
高そうな布は瞬く間に紫色に染まった。嗚呼これは染み抜きしても取れなさそうだ、なんてこの期に及んで冷静な頭はきっと情報過多でショートしていたのだと思う。
「何してたんだ、今日の主人公さん」
神に捧げる少女のことを知ってる癖にこの男はいつもと変わらない不愛想なトーンだった。目の前に数時間後には死ぬ人がいても彼はこんな感じらしい。実に冷淡というか、淡白というか、そういう言葉が似あう人だ。
「たった今死ぬところだったのですが……」
痺れる唇でそう答えると、彼はぎょっとしたように目を見開く。
「それは邪魔した」
彼は珍しく申し訳なさそうな顔をする。私は気にしていないと顔を横に振った。
「それにしてもここで自死なんだな。もっと神殿とかでやると思ってたけど」
「私もびっくりしました」
私は彼から割れた盃に視線を戻した。どうしよう、このままでは生きたまま殺されるのかな。しかし、液体の大半はすでに畳と衣装に染み込んでしまった。絞れば多少はあるかもしれないが、何年前の衣装か分からないものに一度染み込んだものを口にするのは気が引けた。それでも背に腹は代えられないかと仕方なく盃の一番大きな欠片に着物を絞っていると、君のラムネのびいとろみたいに澄んだ声が鼓膜を揺らした。
「最期になんか言っておきたいことはないの?」
「えっ……」
「ほらここにいるのは俺だけだし、吐き出したいことあればここで言っちゃえば?後悔したまま逝くのは嫌だろ」
そう言われると何か遺言を残すのも悪くない。手を止めてうーんと唸ってみるが、特に考えは思いつかなかった。それも自分が空っぽだからだろうか、何も考えずに何も疑わずに生きてきたからこんなにも死に対して思うものがないのかもしれない。
困ってしまって眉を顰めて彼の顔を見ると、一つ案が思い浮かんだ。私はゆるりと口角を上げた。
「では、名前を呼んでください」
君は驚いた顔をしていた。私が言った言葉の意味が分からないようで鸚鵡のように同じ言葉をなぞる。
そんなに難しいことだろうか。彼がいつもやってる『どらま』とやらに比べた簡単だと思うのだが。私はもう一度ゆっくりと区切りながら言う。
「私の名前を、呼んでください」
「……それでいいのか」
「はい」
「……無欲なやつめ」
呆れただろうか、死に際でもこんなことしか願えない少女だと。でも、私だって最期くらい名前を呼ばれてみたかったのだ。世の親が子供に贈る一番最初の贈り物を、私だって受け取ってみたかったのだ。君は私に名前を付けた割に自ら進んでそれを口にしようとはしない。一度くらい呼んでくれてもいいのにと毎回少し落ち込んでいたのは墓場まで持っていこう。
彼と視線が絡まる。ソースの匂いに混ざって、五月の新緑のような匂いがした。君が私の頬を指でなぞっていたのだ。窓から君が手を伸ばして私に触れたのは、それが初めてだった。
「ボタン」
名前を呼んだ瞬間に震えた瞳。その瞬間君がふっと表情を崩した。私はそれに違和感を覚えた。出会った時の笑顔はもっと口角が上がっていて、上がった口角は毎回同じ角度で揃っていて、完璧すぎるほどに完璧であった。今の君の笑い方は不器用で、口角は上がりきることなく照れを隠すためにはにかまれている。涼しげな目じりは何故か悲しみを滲ませていた。
「……どうした?」
「へ……」
彼は首を傾げながら親指で頬骨の辺りを擦ってくる。私は君がふざけているのかと思ってその手を静止させようとしたが、どうやら冗談ではないらしい。悲しげだった目じりは、まるで痛々しくて見ていられないとばかりに歪んだ。
私はそっと彼の右手に自分の手を重ねる。そこには雨漏りのように透明な雫が零れ続けていた。
「なん……っで」
反射的にごしごしと涙を拭った。おかしいな、なんで泣いてるんだろう。特に悲しいとも苦しいとも感じていないのに。平気だと笑う顔とは不釣り合いなくらいに涙は止まることを知らなかった。彼は右手は添えたまま、茫然と目の前を見つめていた。見苦しい姿を見せてしまって申し訳ない。
しかし、「失礼しました」という言葉の代わりに口から零れたのは自分でも全く想像できないものだった。
「なんで私には当たり前がないのかなぁ」
呟いた自分も、呟かれた君も、動揺したように肩を震わす。体をじんわりと侵食するのは冷たい感情だった。駄目だと理性がブレーキを掛けようとする。これはもう小さい頃に殺したものだろう、神に捧げる少女の覚悟を持ったときにもう二度と思い出さないように何度もナイフで刺して殺した感情だろう。
「駄目……」
ぎゅっと閉じた目に力を籠める。鼻を啜って頭を振りながら、必死に元の自分に戻ろうとした。今の私は少しおかしくなっている。早く何でもないですって笑わなきゃ。荒くなる息を止めて表情筋に力を入れると、意志とは反対に口はへの字に曲がっていく。
「言って」
優しい声だった。あたたかくて、ずっと聞いていたいくらい柔らかくて優しい声だった。ゆっくり固く閉じていた目を開くとぼやける世界で、声の主が蕩けそうなくらい優しい表情をしていた。私は人間の、こんな顔を見たことはない。
私の心の声はなんだ。
私が言いたかったことはなんだ。
私の体の奥でずっと燻っていた感情はなんだ。
空っぽなはずの君が私の固まっていたものをいとも簡単に解して、解放する。
鳥籠の鍵を探してあげるのではなく、籠ごと溶かしてくれる。
私はその感覚が不思議で堪らなかった。
「本当だったら、普通の親に育てられて、普通に小学校行って、普通に友達ができて、普通に誰かを好きになって、普通の17歳の誕生日を迎えてるはずだったんです。大切な人に囲まれて、『おめでとう』『生まれてきてくれてありがとう』って祝ってもらって、『こちらこそ生んでくれてありがとう』って笑顔で返したかったんです」
ぽつりぽつりとそれこそあばら屋の雨漏りのように、私は気づけば言葉を君にぶつけていた。
卑しい少女の、くだらない幼少期の話、彼にとっては時間の無駄だろう。
しかし私の考えを否定するように彼は黙って聞いていた。相槌もなければ、何かいうこともないけれど、君が聞いてくれていることがうれしかった。
「私の親は私を育てきれずに、物心つく前に私を神社の前に捨てました。その年の夏は本当に暑くて、神社の隣で育てているスイカが全滅してしまうほどだったみたいです。少しでも発見が遅れていたら死んでいただろうと、だから私たちに感謝しなさいと、毎年おめでとうの代わりに言われてきました」
私の誕生日はおめでたい日ではなく、呪いの始まりだった。
「私はそれから誕生日の日は決まって死にたくなりました」
睫毛を伏せた後、笑いが込み上げてきた。自分自身と親に対しての嘲笑だった。
「この神社に私を捨てるなんてそんなの一択じゃないですか、要らないから捨てよう。でもどうせなら神に捧げる子にして、村の安泰の糧になればいいかって魂胆が丸見えじゃないですか、自分の親ながら笑ってしまいますよね。私は物と同じなんですよ、要らなければ捨てる。物は感情を持たないから誰かの為になるなら喜んで寄贈する」
あまりに滑稽な親子だ。神社に捨てた母親も、捨て子という運命を受け入れて自分を殺してまで『神に捧げる少女』を振舞ってきた娘も。
「もし、私が捨てられたのが神社じゃなければ私は死んでいました」
目の前の俳優は何とも言えない顔をしていた。きっと「それは災難だったね」と微笑みながら慰めることもできたし、「どうせ死ぬんだからぐちぐち考えるな」と冷たい表情で切り捨てることも、この場において役者である彼にしてみれば容易いものだっただろう。
しかし、君は何も言わなかった。
予想以上に話に聞き入っているらしい、表情管理を忘れたようにただ私の口から紡がれる言葉を静かに待っていた。
「でも、もし私が捨てられたのがここでなければ。……私は17年間も生きることに苦しまなかった。苦しみを知る前に死ぬことができた」
そうか、私はずっと苦しかったのか。
固まっていた心の欠片がほぐれていく。とっくに忘れてしまったと思っていた感情は、見て見ぬふりをしていただけでずっと心では渦巻いていたようだ。
でも、と心の中で理性が首を振る。
それに気づいたから何だというのだ、気づいたところで痛む心は数時間後にはもうこの世にないのに。
私は諦めのついた顔で微笑んだ。
「けれど、今日まで生きてしまったから。生きたいと思ってしまったから。今日くらいは自分一人の為に生きるのではなく、この村の私以外の幸せと安泰のために死ぬべきだと思いました」
刹那、右頬に痛みが走る。苦痛に顔を顰める私は彼に厳しい視線を送る。
「何するんですか、痛いですよ」
傷つけた本人からの謝罪はない。代わりに聞こえてきたのは、低く掠れた声だった。
「……死ぬべきって何だよ」
俯いていた顔が持ち上げられた。いつも落ち着いている瞳は暗く、怒りを宿している。再び君は私の知らない顔をした。この男が放つ圧に私はただただ圧倒されて、驚いて目を点にするしかできない。
「じゃあお前、村人全員から生きろって言われたら生きるのか?その後に手のひら返しで全員から死ねって言われたらハイハイ分かりましたって簡単に死ねるのか?」
「それは、」
「お前の死生観よく分かんねぇよ。コロコロコロコロ他人の意見で生きることに苦しんで、死ぬことに苦しんで。それで自分の生きる意味見失うとか馬鹿みたい」
「私は、ただ全うに生を終わらせたかっただけで」
嘘だ、私には見失うほどの自分すらもない。考えることに疲れてしまった私はどうすることもできないまま、朦朧とした視線を向ける。
「綺麗に生きること、それは立派だと思う」
君は言葉を区切る。意志の強い瞳は揺れることなく、私のハリボテの心を食い殺そうとした。その想いの強さは育ちすぎた理性の芽をいとも簡単に間引きする。
「でも綺麗に生きることが正しいとは限んないだろ。綺麗な花を咲かせるためにわざわざお前が死んでその土の肥料になる必要あるか?いずれまた肥料が足りなくなったらボタンみたいに殺される少女が出るかもしれないんだぞ」
私は口を噤む。言い返す言葉が見当たらなかった。私がここで逃げなかったところで死後、また同じように何代も犠牲になっていく少女たちがいる。何も行動を起こさないまま運命を受け入れる私はそんな未来を見殺しにしようとしている。しかし私一人の力でこの儀式が簡単になくなるほど、世間は甘くない。
冷たい声はお囃子の騒がしさの比にならないほど静かだ。しかし、それ以上に澄んでいて、騒がしい音にかき消されることなく生ぬるい夏の夜から頭一つ飛びぬけるように浮いていた。言葉一つ一つがまるで私の脳に直接語りかけるように注がれる。
「世界は結局その繰り返しだ。誰かが骨となって灰となって肥料になるから美しい花が咲く。花は犠牲の連鎖も知らずに綺麗に咲き続けるんだ。おいしいところだけ吸い取って、からからになるまで幸せを奪って。表面上の美しさを切り取ればそれはそれは見事なものかもしれない、でも搾取される側は悔しいだろ、腹立たしいだろ、やりきれないだろ」
言った自分が一番苦しそうな顔をしないでほしい。しかし私には小さな彼が助けを求めているように見えた。きっと君も幼いころから周りの大人に振り回されて虚仮にされてきたのだろう。でなければ、そんな言葉も、そんな表情も、齢20近い青年からは出てくるはずがないのだ。
暫くの静寂の後、喉を震わせたのは私だった。
「透くん、わたし……わたしはっ……」
口が麻痺してまごつく。心臓の鼓動が早まり、頸動脈から脈打つ振動が伝わる。早まる臓器のある場所に手を添えると衣装を揉みしだいた。感情に鈍くなっていたはずの君には苦しい、腹立たしい、やりきれないという感情があるらしい。それじゃあ私の心で燻るこの感情は一体なんという名前なんだろう。
言葉にすれば何かわかるだろうか。
「最期くらい、誰かに生きてほしいって願われたい」
震える声が君に届く声量をもっていたのかは分からない。けれど、不思議とどんなに小さな声でも君が私の願いを聞き逃すことはない自信があった。
「我儘かもしれないけれど、もう一つお願いしてもいい?」
「そのつもりでここに来た」
にやりと表情を変えた透くんには恐らく私が次何を言うかなんてお見通しなのだろう。なら初めから遺言を唆すようなことをしなければよかったのに。私にはまだ君が今何を考えているのか分からない。もしかしたら一か八かだったのかもしれない、君には私は生きても死んでもどちらでもよかったのかもしれない。
本当の相島透を知れば世間は言うだろう、なんて薄情な男なんだと。
けれど、世界でたった一人私が生を選ぶことに賭けてくれたのは紛れもないこの男だった。
私は頬に伸ばされていた手を両手で包む。興奮からか私の手は熱く、白くて綺麗な手はその熱でじんわりとあたためられていった。合図もないのにどちらがともなく力が込められた掌は、私が言葉を発する前に外に引かれる。
「私をここから連れ出して!」
体勢の崩れた私を広い肩が受け止める。見上げると、淡い月の逆光を受けながら君が表情を崩していた。いつものような不愛想な顔かと構えていたのでつい驚いてしまう。しかし、嫋やかなそれは貼り付けのものではないようだ。
「おいで、ボタン」
あまりの美しさに一瞬目が眩んだがたまにはこんな君も悪くない。
知りたかった感情の名前はきっとこれから先、君が教えてくれるだろう。
「行くぞ」
「はい!」
よろめきながら慣れない山道を進む。靴なんかはなくて裸足のままなので、足の裏に石が刺さって血が流れた。着飾るもの全てが邪魔で歩いていく中で、装飾品は捨てていく。気づけば下着とその上に着ていた薄い衣一枚になっていた。成人男性の進むスピードは予想以上に速い。手を繋がれていてもまるで犬の散歩だった。勿論引きずられているのは私だ。
「透くん少し早いです」
「仕方ない、我慢しろ」
「あのそうじゃなくて、」
上手く回らない舌をどうにか動かす。飲んだのは一口だけにしろ、毒は毒のようだ。神経が徐々に蝕まれていく感覚がする。右手の痛覚はとっくにない。足が重くて、回転数が君と合わなかった。言いにくいがこれは仕方がない。できるだけ申し訳なさそうに告げる。
「毒を摂取したせいで体がうまく動かないんですけど」
えへへと誤魔化すと、君は血相を変えて踵を返した。
「馬鹿か、そういうことは早く言え」
いや何度も言おうとしたんですけど、という言葉の前に私の前で跪かれる広い背中。別におぶらなくても、歩くスピードを緩めるだけでよかったのに。しかし、私は言った手前断ることができず、素直に身を委ねることにした。君は私を気遣ってなるべく揺らさないように歩いた。でも私の手を引いて歩くより幾分早い。
私は彼の顔が正面を向いていることを確認して、顔を歪ませた。滲む脂汗を拭う。
正直腹の中にある爆弾を舐めていた。毒もそうだが、500グラム近い鉄の塊は想像以上に体に負担を掛ける。幸い内臓が傷つかないような特殊な加工をしているみたいだが、それでも走ることは想定していないため鈍痛が走る。
ただ小屋を出ただけでは起動しない時限爆弾にそっと手を当てた。
私に残された時間はあと72時間だ。時限爆弾は三日間は作動しないことになっている。神主はなんで72時間なんて中途半端な猶予を与えたのだろう。どうせ殺すならひと思いに殺してしまったほうがいいのに。閉じ込めておけばいいのに。
三日は全力で捜索するという宣戦布告なのだろうか、三日あれば確実に私を捕らえて贄にできる自信があるのだろうか。
ならばこちらも対抗するしかない。
あちらが三日で私を殺そうとするなら、私は三日で幸せを見つけてやる。
暫く山を彷徨っていると、洞穴のような薄暗い場所を見つけた。彼と私の意見は一致してここなら安全だと穴の突き当りまで進むと、ようやく体を下ろしてもらえた。
「どうしたその傷」
開口一番に君はそう言った。人差し指が指すのは私の頬だった。私は小首を傾げながら右頬に触れると、指先に血が付着した。きっと逃げる際、枝か何かが引っ掻いたのだろう。
「大丈夫ですよ、このくらいの傷。それより透くんの方は大丈夫なんですか」
「ああ、結構やばいな。明日のスケジュールも二十二時まで埋まってたのに。マネージャーに申し訳ないな。ボタンもちょっと……と言わず結構責任取ってほしいくらいだ」
微塵も気を遣わずに言ってのける君。普通そういうのって大丈夫だよっていうところじゃないのか。しかし、お互い疲れてしまって何も言う気になれない。石壁に持たれかかると、疲れがどっと押し寄せてきた。よく見れば頬だけじゃなくて、腕も足も全身傷だらけだった。着物も所々破けてしまっている。
「捨て犬みたいだな」
全身を気にする私に君はぼそりと呟いた。私は素早い動きで君と距離を取ると、服の襟に鼻を押し付ける。
「えっ……そんなに臭いますか私」
「そうじゃなくて」
何か言おうとした口が突然動きを辞める。面倒だったのか、その後は言及することなく黙ってこちらに来た。獣臭がするわけではなさそうだ。
私はきゅーんと鳴き真似をするわけもなく、そのまま丸くなって寝た。君は寝れないのか、私の隣で小さくなった入り口を見つめた。その瞳は僅かに見える町を捉えていた。君も色々考えることがあるだろう。大体どうするのだ、こんな少女を誘拐して。仕事に大なり小なり支障をきたすんじゃないか。それでも君の澄んだ瞳は憂いを帯びることなく遠くを見つめるものだから、私も難しいことを考えるのはもう辞めようと思った。
触れた肌は驚くほどに温かい。敷布団も毛布も何もなかった。寝苦しい夜に欠かせない扇風機もここにはない。それでも空気は小屋にいたときの何倍も美味しい。
微睡み意識を手放す瞬間、何かが私の頬に触れた。かさぶたになった傷を撫でるその手は優しかった。
「透」
誰かが俺の名前を呼んでいる。視界は膜が張られたようにぼやけてよく見えない。俺は目を凝らしながら耳を澄ませた。
「私はね、透のことが世界で一番大切なのよ」
陶器のようになめらかで毛穴一つない白い肌
透けてしまいそうなほど透き通った瞳
形のよい鼻、薄い桃色の唇
目の前の女は呟きながら俺の顔をまるで骨董品に触れるように撫でまわす。思わずぞわっと鳥肌が立って一歩後ずさった。目の前の表情筋が一瞬引きつったあと、俺の手首を握る。骨が軋むほど強く。
「死んでもいいくらいに大切なの」
女は赤い唇を舐めて湿らす。糸を引く口には歯紅がついていた。艶めかしい手つきで俺の首を撫でると、頸動脈に触れた。女と視線が絡み合う、その目は一度獲物を決めたときの蛇のように獰猛で、俺は逸らしたくても逸らせなかった。
「私は透を裏切らないわ、だから透も私のことを裏切らないって約束してくれる?」
感情のない声だった。
今、この瞬間にこの女を殺せればとれだけ幸せだろうか。
幼い自分はこうやって殺されていったのに、何故この女は今ものうのうと生きているのだろう。
それでも心のどこかでは憎み切れなかった。
人の心はパンみたいなものだ。目に見えなくとも黴が生えればそれは瞬く間に端から端まで侵食される。
健全だった俺の心はこの女の毒牙にかかって壊れてしまった。
許してはいけないと思っても結局は許してしまう。許した瞬間に自我は一つ消えてゆき、黴は広がっていく。彼女がいなければ俺は大人になれなかった、俳優として今人生を歩めていなかった。俯瞰的に見れば俺の人生において彼女は必要不可欠だったのだと思ってしまう。
チャップリンはこう言う、「人生は近くから見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」と。
そうだ、この人は悪くない。人生を瞰視できない自分自身が悪いのだ
俺はゆっくりと瞬きをした。目の前が急に鮮明になって、ぼやけていた女の顔が浮かび上がる。見慣れた顔だと思ったら、そりゃそうか。
そこにいたのは紛れもない俺の母親だった。
「透、欲張っちゃ駄目よ。もし欲張って今まで積み上げたものが全部なくなったら、お母さん透と一緒に死ぬからね」
首筋に長い爪が食い込む。痛いけれど、涙は出なかった。喉が引きつって息も上手くできない。過呼吸になる俺の眼差しと彼女の視線はもう交わらない。母親は傷をつけるどころか肉まで削いで、俺に一生消えない傷跡を付けた。たらたらと流れ続ける血を拭った。人差し指から薬指まで朱に染まったのを見て俺は口角を上げる。
母さんが好きなのは俺ではないことはもう分かっていた。この女は『私の息子であり、大人気俳優の相島透』に愛を注いでいるのだ。
俺はもう相島透ではない、これから一生をかけて『俳優の相島透』として生きよう。
笑えるだろう、でも俺は道化師を演じるよ。
殺された幼い自分が唯一遺して逝ったのは「愛されたい」という欲望だけだったから。
血しぶきの飛んだ手を取ると、汚れた皮膚を舐めとる。
目を閉じると瞼の裏には自分の後ろ姿があった。まるでそれは陽炎のように揺らめいて、やがて輪郭が曖昧になって二つに分裂する。俺の中に新しい「僕」が生まれた。「僕」は唇についた血液を舌に絡ませると満足そうな笑みを浮かべた。
「僕は、母さんだけを信じるよ」
「透くんさぁ、何を思ってこの演技してるの」
大事な役だった。初めて主演の座を頂いた映画の一番大事な場面だった。
よくある余命ものの恋愛映画で、予算が沢山あるわけではない。それでも主演ということに母親は喜んでいた。
カットが掛かった時に監督が俺に向かってこう言った。貧乏ゆすり、吸殻の数、俺の演技に不満があることは明らかだ。おかしいな、いつも通りできたはずなのに。
青白い顔がむくりと手元で起き上がる。主人公が好きな女の子が死んでしまうシーンだったので、腕の中で横たわっていた女優の顔はいつもと違い儚げだ。彼女は撮影が止まったことで困ったような顔をしている。
「すみません。以後は悲しい、苦しい、を伝えられるように表情管理も気を付けます」
申し訳なさを前面に出し、もう一度華奢な少女の肩を抱くと監督は鼻で嗤う。燻るものはあったが、俺はぐっと堪えていつもの穏やかな笑みを浮かべた。
大丈夫だ、いつも通り母さんが教えてくれたテンプレートをそのままなぞればいい。俺は再び当たり障りのないことを答えると、監督は何故か顔を顰める。
「まるでロボットみたいな回答だな。もっと、こう、君の想いはないの?」
「想い……?」
俺が言ったことは間違いなのだろうか。いや、そんなはずはない。母さんが間違えたことを俺に教えるなんてことはない。取り合えずこれ以上歪が生まれぬように、人懐っこくこてんと首を傾げておく。腕に熱を感じて視線を下に向けると、女優が量産的な顔を赤く染めていたのできっと大丈夫だろう。
しかし、俺の考えを否定するように監督は舌打ちをして頭を抱えた。
「透くんは、好きな人が目の前で亡くなったらどうする」
「本当に息をしていないか確認します」
「それで?」
「……葬儀場に連絡する?」
俺が答えた途端監督だけでなく周りのアシスタントの人全員が腫物を見る目で俺を見つめた。その視線全部が俺を脱獄犯のように照らす。俺が世界から否定された瞬間だった。そんな中、俺は一人この状況を理解できずにいた。人が死んで他に何をするんだ、花でも添えるのか、抱きしめるのか。そんなことしたって死んだらもうおしまいじゃないか、死んだ人間は生き返らない、願っても叶わないことにどうやって足掻くって言うんだ。
「これは医者でもないし、俳優でもない、相島透だったらどうするって聞いてるんだ」
「はい」
「それを説明した上でもう一度聞くよ、もし好きな人が死んだらどうする」
俺には恋焦がれる気持ちも、分からない。模範解答を見つけようと頭の中から必死に言葉を探すが、今の俺が何かを言ってもそれは蛇足にしかならない気がした。俺は芸能界に入ってから初めて素直な気持ちを伝える。
「分かりません」
頭を振り俯く俺の前を何かが横切った。床が大半を占める視界の端では監督が絶対零度の瞳でため息を吐いている。他のスタッフが立ち去ろうとする彼の腕を掴んだ、マネージャーでもある母さんは俺の頬を思い切り叩いた後監督の前で土下座をする。嗚呼、俺ついにやらかしてしまったのか。頭が真っ白で他には思い浮かばなかった。涙も出ないし、悔しさもない。どうしようと考えを巡らせるが、こんな事態想定していなかったので母さんから対処法も聞いていないし、この場における最適解が分からない。分からないから俺以外がこの状況はまずいと必死に今自分ができる最善の行動をとる中、俺は一人硬直していた。
引き留めるスタッフを振り切り、号泣しながら頭を地面に擦り付ける母さんにすら脇目も振らずに監督はドアノブに手を掛ける。
早くこんな夜過ぎてしまえばいいと思った。
それが俺の中の何かが完全に崩壊した瞬間だった。
繋ぎとめていた蜘蛛の糸がぷつんと無常に切れる音がした。
それでも過ぎてほしいと願ったところで時計の針は勝手に加速しない。俺が居たたまれなさに拳を握りしめたところで、この後に起こる最悪の事態を想像したって、夜は簡単には明けない。
明けてほしいと願う夜はいつだって明けずに、俺を覆い隠すのだ。
最後に監督が手を振った。俺はその仕草がギロチンの歯を落とす合図だと思って目を逸らすことはできずに、ただ現実とは思えないまま見つめていた。
「透くん。そんな人間、どこにも必要とされないよ」