君にもっと早く出会えていれば、変えられた運命もあったのかもしれない。



高校最初の夏は比較的、猛暑日が続いている。
三十度を越え、いつ熱中症になってもおかしくない暑さだ。
だが、こんな猛暑日にちょうど最適な場所がある。
冷房が効いた図書館や自宅のリビングでもない。
そう、僕が普段から使っているお気に入りの場所は透き通った澄んだ川が流れている河川敷。
橋の下に行けば日陰になっている上に風通しがいい。そのため、今日みたいな猛暑日でも涼しい中過ごすことができる。
普段はここで小説を読んだり、音楽を聴いたりしている。
確かに、他の人たちからすれば図書館の方が何かと便利で河川敷よりも何倍も良いと思う人が大半だろう。
でも、この時期になると必ず図書館は満席でどこを見渡しても座れそうなところは見当たらない。
かと言って、家に帰れば騒がしい家族が待っていて何をするにも集中ができない。
それと比べればここは滅多に人は来ないし、周りも落ち着いた雰囲気でとても心地いい。
それから僕は日が暮れるまで読書と音楽鑑賞で時間を潰した。
すっかり陽は落ちて夕方の六時をまわっていた。
特に門限はないのだけれど、母親が心配性のためそろそろ帰らないと面倒なことになるのは目に見えている。
そうならない為にも僕は自宅へと歩みを進めた。



「ただいま」

「おかえりー!」

玄関まで漂う料理の匂い。この香りは恐らく母さんの大好物であるクリームシチューだろう。
好物がカレーという人はよく聞くがシチューという人はあまり聞いたことがない。
そんな推理と思考を巡らせながらリビングへと向かう。

「今日の夜ご飯はシチューだよ!昨日は(あおい)の好きなハンバーグ。その前が希美(のぞみ)が好きなオムライスだったから」

「あれ?父さんの好物は夜ご飯にださなくていいの?」

「お父さん好物とか特にないのよ。何作ってもおいしいしか言わないから何が好きなのかわからないの。まぁ、好き嫌いがない分作るのが楽っていう部分では助かっているけど」

確かに、これまで意識はしてこなかったけどお父さんの好物とか聞いたことがない。
明るい性格の母さんと比べて父さんは口数が少なく、笑ったところすら見たことがない程の無愛想な性格。
唯一母さんだけが父さんの笑ったところを見たことがあるらしい。

「もう、作り終わるから希美を呼んできてもらえる?」

「わかった」

希美というのは僕の四つ上の姉。ついこの前まで大学生になって浮かれていたがそんなテンションが続いたのも束の間。数日前から課題に追われているらしくずっと部屋にこもりっぱなし。
姉が部屋から出てくるのは限られていて、食事の時、トイレやお風呂を入る時、そして歯磨きをする時くらいだ。

コンコン

「希美。もう、夜ご飯作り終わるって」

コンコン コンコン

何度ノックをしても一向にでてきそうにない。
もしかしたら課題のやりすぎで寝ているのかもしれない。

「希美!ご飯できるって!やっぱり寝てるのかな…」

そう思った瞬間扉の向こうから怒鳴り声が聞こえてきた。

「あぁー!わかった今行けばいいんでしょ」

なんなんだその態度は。せっかく呼びに来てやったというのに。
課題のやりすぎと睡眠不足の重なりでろくに休憩をしていないのだろう。だからといって僕にあたらないでほしい。

ガチャ

「なに?まだいたの」

「いや、別に待っていたわけじゃないけど」

姉のこの性格の悪さはもう慣れたけど少しくらい良くならないものだろうか。

「いただきます」

「希美。たまには息抜きも大切よ。睡眠もしっかり取らないと!倒れてからじゃ遅いのだから」

「分かってるよ!!でも、もうすぐで終わりそうだから」

そんなに怒鳴らなくてもいいのに。
けど、こんな受け答えをしても空気が悪くならないのは母さんのおかげ。希美がどんな返事をしても態度を変えずに優しく話し続けてくれるおかげでいい雰囲気を保っている。
そう言っても、この空気から逃れたいという思いは変わらず、僕はすぐに食事を済まして早く自分の部屋に戻りたい。

「ごちそうさま」

食器を流し台に運び、僕は駆け足で自室に向かった。
ベットに倒れ込み気持ちを整える。
希美の性格はどうにかならないものか。いくら慣れたと言ってもあの空間に長時間もいることは不可能だ。
僕はただ、穏やかな日々を過ごしたいだけなのに。

* * *

「行ってきます」

いつも、学校に行く時は少し家を早く出て河川敷で時間を潰している。家に息が詰まって心が落ち着かない。
別に家族が嫌いとかあの家が嫌いとかそういう訳じゃない。どちらかと言えば裕福な家庭だし、両親も僕たちのことをしっかりと考えてくれている。
でも、僕にとってはあの家は少し騒がしい。落ち着いた雰囲気を好む僕はどうしても居心地が悪く感じてしまう。
そんなことを考えているといつの間にか河川敷に着いていた。
僕はバックから一冊の小説を手に取り授業に間に合うギリギリの時間まで読書に浸った。



教室に入り、席に着くと早々に僕の唯一の友人である宮本海斗(みやもとかいと)に話しかけられた。

「なぁなぁ、お前昨日のアニメ見たか」

「いや、見てないけど」

「あそこで、大逆転するとは予想もしなかった!いやー誰もがもうダメかと思ったよな」

「いや、だから見てないって。話を進められても全く分からないんだけど」

「えー!お前見てないのかよ。あれは見ないと損するぞ!俺ん家録画してるから今度来いよ!」

このとおり、僕の友人である海斗は極度のアニメオタクなのだ。
以前にもアニメを進められたが僕は見るよりも読む方が好きなのだ。
海斗にそう伝えたら、「じゃあ、漫画貸してやるから読んでみろ」と言われた。
それ以降も色々と進められて、漫画よりも小説の方が好みだと伝えれば「葵はこだわりが強いな」と何度も言われてはそれに()りずに次々と進めてくる。彼は一体どんな精神をしているのか。
そんな中僕たちの会話を遮ったのは一つの陰口だった。

「あいつらまた言ってるよ。葵はどう思う」

「何が」

「あれだよあれ」

僕のクラスには一際目立つ一人の女子生徒がいた。入学早々人気を集め数日憧れの的となっていた。
けれど、そんな彼女には周りからいつも言われている言葉がある。
それが·····

「顔はいいのに無愛想だよな」

「分かる分かる。あいつが誰かと話しているところなんか見たことないもん。いつも無口で何考えているのやら」

次々と悪い噂が飛び交う。
最初は容姿端麗が理由で一目置かれていたが、今では「勿体ない女」とか言われたりして悪目立ちしている。

「僕にはわからない。無関係の人だよ」



予鈴がなり放課後になる。

「帰ろうぜ葵!」

「ごめん、今日も無理かな」

「また、河川敷か。しょうがない今回も見逃してやるか。その代わり今度お前の言う河川敷に連れてけよな」

「あぁー分かった」

いつも、海斗は誘ってくれるが僕は毎回河川敷に寄りたいから断っている。
別に海斗と帰りたくないとかそういうわけではないが河川敷に行く道と海斗の家の方面が違うため一緒に帰ることができないのだ。

「そろそろ、河川敷に向かうか」

そう思い、教室のドアを開けた時僕の後ろで何かが落ちる音がした。
後ろを振り返り下に目を向けるとそこには一冊の小説が落ちていた。

「あの、これ落としましたよ」

小説を手に取り、渡そうとした瞬間あることに目を奪われた。それと同時に不思議と心が高鳴った。

「これ、サイン入りのやつ。この作者さんの本好きなんですか」

「えっ、まぁそうですけど…」

その本は僕がいつも読んでいる作者のサイン入り本だった。僕と同じ小説を読んでいる人に出会ったのは初めてで唯一同じ話題で話せる相手を見つけたせいか気がついたら話しかけていて無性に心が高鳴っていた。

「僕、それ手に入らなかったんだよね」

「はぁ、そうですか」

一方的に話しているせいで完全に相手を困らせている。こんなにも衝動的に動いたのは初めてで少し戸惑ってしまう。
そんな時、相手が口を開いた。

「あの、私も残り一冊でギリギリで手に入れることができたんです…」

「そうなんだ。僕ももっと早く行っていれば」

「私が行った時は既に列ができてて、意外とみんな早くから待っていたのかも知れませんね」

想像以上に会話は弾み、互いにこわばった表情がやわらかい表情へと変わった。

「改めて、藤宮葵だ。よろしく」

「冬海楓です。よろしく」

今の今まで気がつかなかったけど僕が話していた相手は今朝話題となっていた「勿体ない女」と言われている子だった。

「冬海さん、この後時間あるかな。君に来てもらいたい場所があるんだ」



ずっとここは僕だけの居場所だと思っていた。でも、同じ作者好きとして僕のお気に入りの場所である河川敷を紹介したかった。

「綺麗。川も透き通っていて、とても静かな場所。こんなところがあったんだ」

「ここは、僕がいつも読書をする時に使っている場所」

「私も今度から来てもいいかな」

「別にいいよ」

さっきとは打って変わって彼女の表情はとてもにこやかな顔へと変わった。
学校では見せない無邪気な性格に柔らかい雰囲気を漂わせる。これが冬海さんの本当の姿なのだろうか。
僕たちは日が暮れるまで読書に浸り、感想を言い合ったりした。

「もう、日が落ちてきたし僕は帰るよ」

「じゃあ、私も帰ろうかな」

「今日は楽しかった。ありがとう」

一人で小説を読んでいる時よりも、あっという間に時間が過ぎた。また、冬海さんと時間を共有したい。



「ただいま…」

リビングのドアを開けるとソファーに希美が座っていた。いつもは部屋にこもりっぱなしで最低限しかでてこないというのに今日はどうしたのだろう。

「珍しいね。希美が部屋にいないのは」

「まあね。いまさっき課題が終わって、やっとしがらみから解放されたんだよ」

なるほどそういうことか。だから、いつもよりも少し機嫌がいいのか。日頃からコツコツ課題を終わらせていれば楽に片付けられるだろうに。

「今日の夜ご飯は希美が好きなオムライスにしました!課題のご褒美に」

課題のご褒美ってなんだよ。そもそも、早く課題を終わらせた場合にご褒美はあげるものだろ。

「いただきます」

まぁ、でも希美の機嫌がいいためいつもよりかは空気が重くない。
この状態が続くのはいつまでなのだろうか。

***

教室に入るとまた、冬海さんの話をしている生徒がいた。
何故そんなに彼女を話題にだしたがるのか不思議だ。

「また、言われてるな。少しは言い返せばいいのに。どうしていつも喋らないんだろう」

「冬海さんはみんなが思うような人じゃないよ…」

でも、その言葉をクラス全員に言えるわけもなく。
僕はただ、見ていることしかできなかった。これじゃあ、僕もアイツらと同じじゃないか。


放課後になると僕の元に冬海さんが駆け寄ってきた。

「藤宮くん。今日一緒に昨日の場所行かない?」

「いいよ。僕もちょうど行く予定だったし」

冬海さんは教室に誰もいなくなると僕に話しかけてくるようになる。
それ以外の休み時間や昼食の時、教室に他の生徒がいる時はいつも通り一人でいる。
僕と初めて話した時も少し落ち着きがなかったしもしかしたら冬海さんは人見知りなのかもしれない。


河川敷に着くと早々にバックから一冊の小説を取り出して僕に見せる。

「今日はね新作を持ってきたんだ」

「僕はそれまだ買ってないや」

「それなら、私が読み終わったら藤宮くんに貸してあげる」

「それは助かる」

こんな何気ない会話が僕の一番の安らぎの時間となっていた。
この時間が一生続けばいいのにと僕らしくないことを思ってしまった。

「そうだそうだ!藤宮くん。これあげるよ」

「これって、サイン入りの小説!?大切にしてたんじゃ。どうして僕に」

「私の初めての友達として君にプレゼントするよ」

「流石にこれは受け取れない。同じ作者好きとしてこの本の貴重さはわかっている」

「じゃあ、交換ならどうかな。このサイン入りの本と君がいつも使っているそのしおり」

「こんなんじゃ割に合わない気が」

「私はそのしおりが欲しいの!これで決まり!」

そう言って冬海さんは僕が持っていたしおりとサイン入りの小説を交換した。
こんな貴重な物本当に僕が貰っていいのだろうか。
それから僕たちは数時間読書に浸り、互いのオススメの本を教えあったり、以前までは考えられないような楽しい時間を過ごした。
今なら少し、海斗の気持ちがわかるかもしれない。
いつも、自分の好きなアニメを僕に教えたり、感想を伝えたり、誰かと共有したい気持ち。海斗はずっとそんなことを思っていたんだ。

それから三ヶ月、僕と冬海さんは学校がある日は毎日帰りに河川敷によって一緒に小説を読んだり、時には互いの好きなものを教えあったりした。
けど、そんなある日思いがけない出来事が起こった。



「ただいま…」

玄関のドアを開けるとリビングから希美と母さんの怒鳴り声が耳に飛び込んできた。
僕は急いで靴を脱ぎ捨てて駆け足でリビングに向かった。
リビングのドアを開けると、そこには希美と母さんの二人の姿あった。辺りを見ると写真立や花瓶が床に落ちて、椅子も倒れていた。

「一体何があったの」

いつも穏やかな母さんがここまで怒っている姿を一度も見たことがない。
僕が何を聞いても二人は口を開こうとしない。

「ねぇ!母さん!」

「希美が大学をやめたの。今までお金も費やして、あなたがどうしても行きたいって言うから連れて行ってあげてたのに」

あとから聞けば家が散乱した原因は希美が暴れた結果らしい。それで、一方的に取っ組み合いになって流石の母さんでも怒りのリミッターが外れたのだろう。
この家はどちらかと言えば裕福な家庭だが決して甘い家庭ではない。
だから、父さんは不誠実な希美を大学に行かせることを反対していた。金が勿体ないと言って。
それでも、どうしても行きたいと言う希美の意見を母さんは尊重して一生懸命父さんを説得させた。
けれど、父さんの予想は見事に的中し、その上希美は誰にも相談せずに大学を辞めた。
その後は僕と母さんで協力してリビングを片付け、仕事から帰ってきた父さんに事情を話してとりあえず一段落ついた。

***

朝、リビングに行くとそこには希美の姿はなく昨日のあの喧嘩のあとから一度も部屋からでてきてないらしい。
母さんの機嫌はなおったけど、意地っ張りである希美はまだ機嫌が損ねたままだろう。
元はと言えば明らかに非があるのは希美の方なのだけれど。
昔から変わらないあの性格はいつも誰かを困らせる。

「行ってきます」



席に着くと海斗が真っ先に僕の元に駆けつけてきた。

「なぁなぁ、葵!この前お前に勧められた本読んだけど意外と面白いな!」

「僕、海斗に本なんか勧めたっけ」

「あれだよ!あれ…。あっ、間違えた!勧められたのお前からじゃなかったは!ついつい、本と言えば葵が思い浮かぶからさ」

「お前、返す時、持ち主忘れるなよ」

「大丈夫!大丈夫!」

海斗は頭脳明晰、スポーツ万能。周りからも慕われていて、交友関係も広い。
だけど、忘れっぽい一面もある。
まぁ、そんな部分がみんなとの距離を縮めているのだろう。
海斗とは中学からの付き合いで女子からよく告白されたり、ラブレターを貰っていたりと凄くモテていた。
でも、全て丁重にお断りしていて、周りからの女子からは実は彼女がいるとか一途くんとかいうあだ名を付けられたり。恋愛噂が一時期浮上していた。
けど実際、海斗に彼女がいたことはなく、ただ単に恋愛には興味がなかっただけらしい。
その上、「俺は、二次元にしか興味がない」とか言って周りの男子からはよく羨ましがられたりしていた。


放課後になるといつも通り冬海さんと河川敷に向かった。

「ねぇ、藤宮くん。明日予定空いてる?」

「うん。特に何もないけど」

「明日、夕方から花火大会があるんだけど、私と一緒に行かない?」

「あぁ、そういえばそうだったな。僕でよければ全然いいけど」

「本当!ありがとう」

一年に三回花火大会が行われる。
会場はちょうど今僕たちがいるここの河川敷だ。
この地域の花火大会は日本でも有名で遠方からの来客も多いいらしい。そのため、毎年たくさんの人が集まりとても賑わっている。

***

花火大会当日

夕方の六時から屋台は開かれて、七時から花火の打ち上げは始まる。
冬海さん曰く、五時半くらいから場所取りをする人達が増え始め、六時から行ってももう遅いらしい。
けれど、冬海さんには秘策があるらしく、どうやら穴場というものを見つけたらしい。
そこは、普段からも人通りが少なく滅多に人も来ないという。
そのため、冬海家はいつもそこで花火の観賞をしているらしい。

僕が花火を実際に見に行くのは何年ぶりだろう。
それどころか、祭りや初詣、旅行すらももう何年も行っていない。
僕は希美と違って幼い頃から人混みや賑やかな場所が苦手であまり好んでいなかった。
心配性である母さんは小学生である僕を一人で家に置いていくことはできず毎回無理やり連れてかれていた。そして必ず次の日に熱を出してよく両親に迷惑をかけていた。
中学生に上がると強制はなくなり当然僕は行事ごとには参加しなくなった。
そのため、花火を見るとしてもテレビの中継や母さんたちが撮ってきたスマホの動画だけ。
けど、テレビの中継を見ても母さんに動画を見せられても羨ましとは思わずにただ「へー」とその一言を口にするだけだった。
でも、今日は違った。昨日冬海さんに誘われた時いつもなら間違いなく断っていた。
だけどあの時不思議と嫌だという気持ちよりも行きたいという気持ちの方が先に表れた。きっと、冬海さんとなら行ってもいいと僕を思わせたんだ。
この感情は…



時刻は六時

待ち合わせ場所である入門近くで待っていると向こうから浴衣の姿の冬海さんがやってきた。

「お待たせ。浴衣どうかな…」

「すごく似合ってる」

「それなら良かった。屋台もちょうど開いたし行こうか」

僕たちは花火の打ち上げ時間までの一時間、屋台でりんご飴やわたあめ、チョコバナナを買って食べたり、射的や金魚すくいをして楽しんだ。

「藤宮くん、そのお面似合ってる」

「それ、褒めてるの?」

「確かに!お面似合ってるって褒め言葉おかしいかも」

そう言いながら冬海さんは楽しそうに笑っていた。
それにつられて僕まで笑ってしまった。
こんなにも心から笑ったのはいつぶりだろうか。
この時間がいつまでも続いてくれればいいのに。
そう、僕らしくないことを思った。

「ねぇ、藤宮くん。もう少しで花火が始まりそうだから穴場に向かおうか」

「そうだな」

僕は冬美さんの言う穴場に向かった。
会場である河川敷からは少し離れ、茂みの中にある階段を登った。
その先にあったのは、見たことのない神社が建っていた。

「こんなところに神社なんかあったんだ…」

「茂みの先にあるから外からは隠れてるの。だから、この場所を知っているのは私たちと神社マニアの人くらいかも」

少し先に進むと視界が開けてさっきまで僕たちがいた河川敷と賑わっている屋台が見えた。
周りを見ても、ここにいるのは僕と冬海さん二人だけで本当にこの場所は知る人ぞ知る穴場なんだと実感する。

「花火始まるよ!藤宮くん」

「うん」

数秒後花火の打ち上げが始まり辺りにドーン、バーンという音が広がる。
空一面を花火が覆い尽くして、僕は唖然としてしまう。
横に目を向けるとそこには瞳に花火を映している笑顔な冬海さんがいた。
その姿はとても輝いていて、僕の瞳に映る君はとても美しいのだろう。
彼女に見とれているとその彼女もこちらを向いてきて数秒間視線が合う。
その後、僕を見ながら彼女が口を開いた。

「私…記憶障害を持っているの…」

その瞬間、僕は言葉を発することができなかった。
冬海さんが何を言っているのか、僕が今どんな表情をしているのか、彼女が今どんな気持ちなのかも何も理解できなかった。

***

それから数日が経った。花火大会の後、僕たちは一度も会話を交わすことはなくそのまま花火会場を後にした。
その後、冬海さんから連絡が来て記憶障害について事情を話してくれた。
三ヶ月後に冬海さんの記憶が失われること。
その事を一人の友人である僕に話さないといけないと思い花火大会に誘ったこと。
色々な病院に行ったけれど、記憶障害の原因が不明だとどの医師からも言われたこと。
記憶を失えば全てが一からやり直しになってしまうこと。
メッセージだったから声は聞こえなかったけど、冬海さんのとても悲しいくて辛い感情が僕には伝わってきた。
彼女が今どんな顔で文字を打っているのか僕に容易に想像できた。
それから僕は冬海さんに一つの提案をした。
記憶を失う三ヶ月間僕と一緒にたくさんの思い出を作ろうと。
冬海さんから返ってきた言葉は『ありがとう。思い出作り手伝って』その一文だけだった。
僕の身勝手な提案で彼女を苦しめてしまったかもしれない。失うと分かっている記憶に新たな思い出を加えるのはとても残酷で虚しいことだと。
でも、僕はただ待っていることしかできないのは苦痛でしかなかった。
僕が唯一できることは冬海さんと最後まで一緒にいることなんじゃないかと思ったんだ。



それから僕たちは予定を立ててどこに行くか決めた。
遊園地では冬海さんの苦手なジェットコースターに乗って半泣きになったり。そんな顔を見て僕がわらいだすと、君は「笑った罰として、後でクレープ奢りね!」と言って顔を見合わせて笑いあった。
動物園に行った時は真っ先にペンギンエリアに向かって子供みたいにはしゃいでたな。その後に君が「藤宮くんあそこにいる、クマの威嚇ポーズやってよ」って無茶振りを受けて、公衆の面前で恥をかいたのは一生忘れそうにない。
水族館に行った時はイルカショーの最前席に座って着替えを持ってきてもないのにずぶ濡れになった。帰り道では通行人から「いつ、雨降ったのかしら」とか言われて急いで洋服店に寄ったりもした。
映画館で僕の苦手なホラー作品を選んで、怖がっている僕の反応を見て冬海さんは口を押さえて笑っていたり、時には電車を寝過ごして迷子になりかけたこともあったな。
毎日毎日、こんな時間が一生続けばいいのにと何度も願った。
でも、そんな充実した日々は思いのほかあっという間に過ぎ去って、僕たちの三ヶ月は終わりを迎えようとしている。

「藤宮くん。私ね明日、入院することになったの」

「明日って、冬海さんが記憶を失う日。それじゃあ、明日はどこにも行けないんだね」

「ごめんね。最終日も予定を立ててたのに。昨日、お母さんから記憶を失った後に現状が分かるようにしたいと言われたの。だから、何が起きても安全なように病院に入院することに決まったの」


「わかった。入院しても面会時間になら冬海さんに会えるし話すことだってできる」

「ありがとう。本当に最後の最後まで」

***

朝起きると、僕のスマホには冬海さんからの一件のメッセージが届いていた。

『もう、起きたかな?私は今から病院に行きます。面会時間は十四時から二十一時までの間だよ!それじゃあ、今日もよろしくね藤宮くん』

『今起きました。面会時間の十四時ぴったりに行きます。色々持っていくから楽しみにしてて』

僕は面会時間まで読書に浸って時間を潰し、あっという間に面会時間である十四時を経過した。
冬海さんが入院している病院に到着し、受付の人に部屋番号を聞いて病室に向かう。
扉の前に着くと、次第に緊張してきた。
僕は深呼吸をして心を落ち着かせた後に気持ちを整えドアをノックした。

コンコンコン

「どうぞ」

扉を開けるとそこにはベットに腰をかけている冬海さんがいた。
その姿を見ると、何故だか涙がこぼれそうになった。

「藤宮くん!?どうしたの。そんな泣きそうな顔して」

「ごめん。なんでもない」

そう言って僕は必死誤魔化す。

「そんなことより、冬海さん。時間が勿体ないし早速始めようか」

「藤宮くんは何を持ってきたの」

「今日はトランプを持ってきたんだ。部屋を探してたらちょうど見つけて久しぶりにやってみようかなって」

「私もトランプで遊ぶのなんて久しぶり!」

「冬海さんは何がいい」

「そうだなー。最初はババ抜きにしようかな」

二人でババ抜きをするとどっちがババを持っているのか分かってしまうが、冬海さんのババを取らないようにしている真剣な表情やババをひいてしまった時の残念そうな表情。僕がババをひいて嬉しそうな表情。その一つ一つの表情を見るだけで僕はもう楽しかった。
その後も神経衰弱やポーカー、スピードをやったりととても充実した時間を過ごした。
面会時間も残り三十分。そう思った時冬海さんが口を開いた。

「ねぇ、藤宮くん少し話さない」

その顔はとても真剣で、でもどこか切なくて今にでも消えてしまいそうな。

「僕も最後は冬海さんと話したいと思ってた」

それから冬海さんは自分の過去について語った。

「私が記憶障害のことを告げられたのは高校入学の前日だった。私には小学生以前の記憶がなくて、それを不思議に思ったお母さんが私を病院に連れていったの。そうしたら、お医者さんから記憶障害かもしれないと言われた。どこの病院に行っても原因は不明で手術も不可能だと言われた。その瞬間私の世界が真っ暗になって今までの努力とか夢とか全て無駄なんだって思うと立ち直ることができなかった。
でも、幸い幼少期から一緒にいる両親との記憶は失わないだろうと言われた。だけど、逆に言えばそれ以外の記憶は全て失ってしまうということ。
だから私は高校生になったらしたいことを全て捨てると決めたの。友達をたくさん作ることも誰かと思い出を作ることも、女子高生ぽいことをして友達と楽しく過ごすことも。
だから、高校入学と同時に誰も近寄らないように私は振舞ってきた。人と距離を置いて、話しかけてくれた子にも冷たく接したりもした。もし、友達を作ってしまったら傷つくのは私だけじゃない、相手すらも深く傷つけてしまう。そう思って私は空気のように学校生活を送るようにすると決まりを作ったの。
でも、君だけはダメだった。あの日、私が小説を落とした時、藤宮くんはとても笑顔で私に話しかけてくれた。
どうにかして、君を遠ざけようとしたけど無理だった。
その瞬間、私の感情が一気に溢れだしてきて、思わず藤宮くんと話してしまった。
でも、あの時、私が小説を落としていなければ、君は私に話しかけもしなかったかもしれない。そう思うととても悲しくて、苦しい気持ちになったんだ。
だから、私は藤宮くんと話したことを友達になったことを一度も後悔をしたことはないんだよ」

僕は冬海さんの話を聞いて、人生で初めて泣き叫んだ。
そんな姿を見ても冬海さんは笑ったりもせずに僕の頭を優しく撫でてくれた。
泣きたいのは僕ではなく冬海さんの方なのに。
でも、僕の涙は止まることはなくただひたすらに泣き続けた。
数分後僕は泣き終わり、深呼吸をして心を落ち着かせた。

「落ち着いた?私のために泣いてくれるなんてすごく嬉しいな」

「ごめん、取り乱して。僕も冬海さんと過ごした時間を後悔したことはない。むしろ、冬海さんと関わらなかった方が後悔しそうだ」

「そっか、それなら良かったよ」

そのあと冬海さんは、一呼吸置いてから僕に告げた。


「葵くん。君が好きだよ」

僕はその瞬間、止まったはずの涙がこぼれ落ちて、視界がぼやけた。
病室には冬海さんの笑い声と僕の泣き声だけが響き渡った。
この空間は確実に僕と冬海さん二人だけの時間で、終わりを迎えようとしているのだと思うと胸が張り裂ける思いをさせた。


数分後、冬海さんの記憶は失った

***

あれから数ヶ月がたった今、僕の心はぽっかり穴が空いたように無気力な毎日を送っていた。
最初は母さんに心配されたが「なんでもない」とだけ告げた。
僕の中でいつの間にか冬海さんの存在は大きくなっていたのだ。
一人でいるのが慣れていないわけではない。元々は一人だったじゃないか。
そんな、充実した時間を毎日楽しんでいただろ。
そうだ、半年前に戻っただけなんだ。
僕は気持ちを整えるためにいつも行っていた河川敷に向かった。

「こんなにも静かだったか」

以前までは冷静になれる場所だったけど、今は違うみたいだ。
どうしても、ここに来ると一人で読書に浸っていた時の光景よりも冬海さんと過ごした日々を思い出していまう。

「会いたいよ…」


「藤宮くん。数ヶ月見ない間に随分泣き虫になったね」

その声は僕の一番聞き慣れた声で僕の一番好きな声。
そこに目を向けると失ったはずの冬海さんが立っていた。

「冬海…さん…」

「ごめんね遅くなって」

「本当に冬海さんなの...?」

「そうだよ!私は紛れもなく君の知っている冬海楓だよ!」

何度も目を疑ったが、確かにそこにいるのは僕の知っている冬海さんだった。

「でも、どうしてここに…。記憶は失ったんじゃ…」

「藤宮くんと別れた後、確かに私は記憶を失った。藤宮くんのことも忘れて、一緒に作った思い出も私の記憶から消えた。でもそんな時、私の部屋に藤宮くんから貰ったしおりがあったの。それを見た瞬間、藤宮くんと過ごした時間も思い出も君との記憶も全て思い出せた」

「そうだったんだ。まさか、あの時交換してたしおりがここで役立つとは」

「本当だよ!だから、もし藤宮くんからしおりを貰っていなければ記憶は失ったままだったかもしれない」

「僕たちの記憶が運命を変えたんだ」

そう言って僕たちは顔を見合せながら笑いあった。
こんな、夢のようなことが起こるなんて。
冬海さんともう一度、一緒にいられると思うと僕は心の底から嬉しかった。
この、気持ちを君に伝えよう。今度は後悔をしないように。
一呼吸置いてから冬海さんの目を見て僕は伝えた。


「楓さん!君が好きです!」