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 さて時代はさかのぼる。
 わたしたちにも親がいた。弟はそれをまったく覚えていない。その頃の弟は、ただただよだれを流して、ダァダァと話すばかりだったからだ。何を食べていいのか、食べてはいけないのかも分からないムニャムニャだった。
 そして当時のわたしは五歳。よだれは流さないし、言葉もウダウダとしゃべれたけれども、頭の中身のほうは弟と大して変わらなかった。
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 その頃の記憶というのはおぼろげだ。ただ母親がいたということだけ。
 父親というのはいなかった。
 その理由は当時も今もよく分からない。ただ母親は朝早く出かけて、夜遅くなるまで帰ってこなかった。もちろん仕事をしていたせいだろう。
 そのあいだわたしは弟の面倒を見ていた。おしめをかえたり、暖めたミルクを飲ませたり、むずかってはあやしたりと、そのムニャムニャが快適に過ごせるよう努力していた。
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 ちなみにこの時期、弟には別の名前があった。
 『ツバサ』というのがそれで、この名前は母親が付けたものだった。
 そしてわたしには『レンジ』という名前があった。
 これは今も変わらない。その理由はおいおい明らかになるだろう。
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 さて、ある日のこと。それは冬の日で、雪が降っていたのを覚えている。
 その日、母親が帰ってこなかった。
 正確に言うとその日を境に、母親はまったく帰ってこなくなった。
 あまりにあっさりしたものだったが、それが母とわたしたちとの別れの日になったのだった。
 挨拶も、涙も何にもなし。
 生きているか死んでいるかも分からない。
 母はただ消えてしまったのだった。
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 もちろんわたしは困った。
「ツバサ、どうしよう?」
「ダァ! ダァダァ!」
 ツバサはどういうわけだかとてもうれしそうだった。丸い手足をばたつかせ、キラキラした目でわたしを眺めていた。
「このまま母さん帰ってこなかったら、ご飯食べられなくなるな」
「ダァァァァァ! ダッ!」
 わたしはこのムニャムニャに何を相談しても無駄なのを知った。
 つまりはわたしが面倒を見なくてはならないということだ。
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 わたしはたぶんそれでほっとしたのだと思う。
 わたしという人間には、とにかく目的が必要だからだ。目的があれば、それに向かって計画を立て、実行していけばいい。
 手段がないよりも、目的がないほうがよっぽど困る。
 わたしはそう考えるタイプだった。
 弟を助けて一緒に生きていく。わたしにはそれだけで充分だった。
「うん、なんとかしなくっちゃ!」
 こうしてわたしのドタバタ人生がはじまった!
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 わたしたちはそのアパートでそれからさらに三日間ばかりをすごした。
 食料のストックがそれだけあったからだ。そして三日をすぎると、荷造りに取りかかった。持ち物は多くない。リュックサック一つとカート一台に必要なものすべてをまとめた。
 リュックサックには洋服と下着とオムツ、カートにはフライパンとヤカンと布団。そして迷ったあげく小さな電子レンジをのせた。これだけつめると部屋の中はほとんど空っぽになった。
 残ったものは母親の洋服くらいだったが、それはまったく不要なものだった。
 わたしはその時になって母親がいないことを強く実感した。
 ハンガーにつるされた母の洋服たちがなんだか寂しい幽霊たちのように見えた。
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 引越しの荷物をまとめている間、弟は不思議そうにわたしのことを見上げていた。たぶん母親といるより、わたしといた時間が長かったせいなのだろう。特に不安は感じなかったようだ。
「ツバサ、僕たちはこの家を出なきゃならないんだよ」
「ダァッ! ダァッ!」
 弟は明るくそう言って手足をばたつかせ、満足そうによだれをながした。
 わたしはリュックサックを前にかつぎ、背中に弟をおぶった。弟はおんぶが大好きだったので、悲しい出発だというのにそれはもう喜んでくれた。
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 アパートのドアを開けると、外は夜だった。街灯の白い光の中を、雪が静かに落ちていった。
「ダァァァァ……」
 弟は雪を初めて見たせいか、背中でうっとりしたような声を出した。
「ツバサ、行くぞ!」
 わたしは弟を背負いなおし、アパートの鉄の階段にカートをガンガンとたたきつけながら下りていった。そして人気のない通りを、自信に満ちた足取りで歩き始めた。
「まぁなんとかなるさ!」
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 当時のわたしは自信家で楽天家だった。
 今はまったく違うけれど、当時のわたしはこの二つをたっぷりと備えていた。
 まぁ子供というのは大体そういうものだろう。
 付け加えておくと、今のわたしが教師として子供たちに教えるのもこの二つだ。
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 まず一つ目『自信を持ちなさい』。
 世の中厳しいのは分かるけど、生きていくことぐらい何とかなるものだ。
 そして二つ目『いつも楽しく考えなさい』。
 どんなにつらい境遇も心の持ち方しだいで幸せになることはできるのだ。
 このムニャムニャを読んでいるキミが子供なら、この二つはぜひ覚えておいてほしい。