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「キリンの首はどうしてあんなに長いのでしょう?」
これは進化の話をするときによく使われる質問。
そしてわたしはこの答えを知っている。
で、こう教える。
「キリンは高い場所にある葉っぱを食べようと、一生懸命に首を伸ばしたからです」
その答えに対して、
「先生、その答えは間違ってます!」
と答えたのは、かのチャールズ・ダーウィンと、十歳になるヨシオ君である。
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ちなみにヨシオ君というのはわたしの生徒である。ということでお分りかと思うがわたしは教師である。小学校の先生と言いたいところだが、わたしは無免許である。
でもなにも問題はない。
わたしたちの世界にはもう正規の学校というものは存在しないし、正規の学校がない以上、正規の教師もいないからだ。
さて、ダーウィンとヨシオ君の答えはこうだ。
「たまたま首の長いシマウマみたいなムニャムニャが生まれて、その首の長いムニャムニャだけが厳しい自然の中で生き残って、さらに首の長いムニャムニャの子供がたくさん生まれるようになり、やがてキリンになったのです」
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まぁそれが模範解答というものだ。ヨシオ君はよく勉強している。
しかしそれが答えでは、あまりに夢がない。
だってキリンの首が長いのは偶然だなんてありえないだろう?
ということで、一人の教師として、そして真実を知るものとして、ついでに言えば大人として、わたしはわたしの知っているムニャムニャを後世に残さねばならないと考えた。
人間とその進化にまつわるムニャムニャのことを、だ。
それがこれだ。
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さて、ヨシオ君の答えが模範解答。
それは『突然変異説』と『自然淘汰説』と呼ばれている。
突然変異とは、たまに変わった種類の生物が偶然に生まれてくるということ。
自然淘汰とは厳しい自然が生物の命をふるいにかけるということ。
今も広く信じられている進化説はこの二つからなりたっている。
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だがわたしは知っている。
それこそ大間違いだ!
わたしがどうしてそういい切れるのか?
それは、わたしが身をもってそれを体験したからである。
このわたしだからこそ、はっきりといい切れるのである。
だからはっきりと言い切ろう。
「進化とは、突然変異のような偶然ではない。確率だけが支配する味気ないものではない。そこには自然をはねかえす強烈な意志があり、美しい奇跡があるのだ」
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まぁそれをこれから書いていくわけだ。
そこにはわたしの人生があり、わが弟との人生がある。
そして多くの友人と家族たちの物語がある。
今振り返ってみると、それは果てしないドタバタ劇だったように思う。だがこのドタバタを書くことで、この進化のムニャムニャが証明されることになるだろう。
ドタバタ・ムニャムニャ……まぁさっきからこればかりだが、まぁいいだろう。
その奇跡は弟に現れた。
名を『コトラ』という。
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さて時代はさかのぼる。
わたしたちにも親がいた。弟はそれをまったく覚えていない。その頃の弟は、ただただよだれを流して、ダァダァと話すばかりだったからだ。何を食べていいのか、食べてはいけないのかも分からないムニャムニャだった。
そして当時のわたしは五歳。よだれは流さないし、言葉もウダウダとしゃべれたけれども、頭の中身のほうは弟と大して変わらなかった。
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その頃の記憶というのはおぼろげだ。ただ母親がいたということだけ。
父親というのはいなかった。
その理由は当時も今もよく分からない。ただ母親は朝早く出かけて、夜遅くなるまで帰ってこなかった。もちろん仕事をしていたせいだろう。
そのあいだわたしは弟の面倒を見ていた。おしめをかえたり、暖めたミルクを飲ませたり、むずかってはあやしたりと、そのムニャムニャが快適に過ごせるよう努力していた。
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ちなみにこの時期、弟には別の名前があった。
『ツバサ』というのがそれで、この名前は母親が付けたものだった。
そしてわたしには『レンジ』という名前があった。
これは今も変わらない。その理由はおいおい明らかになるだろう。
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さて、ある日のこと。それは冬の日で、雪が降っていたのを覚えている。
その日、母親が帰ってこなかった。
正確に言うとその日を境に、母親はまったく帰ってこなくなった。
あまりにあっさりしたものだったが、それが母とわたしたちとの別れの日になったのだった。
挨拶も、涙も何にもなし。
生きているか死んでいるかも分からない。
母はただ消えてしまったのだった。
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もちろんわたしは困った。
「ツバサ、どうしよう?」
「ダァ! ダァダァ!」
ツバサはどういうわけだかとてもうれしそうだった。丸い手足をばたつかせ、キラキラした目でわたしを眺めていた。
「このまま母さん帰ってこなかったら、ご飯食べられなくなるな」
「ダァァァァァ! ダッ!」
わたしはこのムニャムニャに何を相談しても無駄なのを知った。
つまりはわたしが面倒を見なくてはならないということだ。
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わたしはたぶんそれでほっとしたのだと思う。
わたしという人間には、とにかく目的が必要だからだ。目的があれば、それに向かって計画を立て、実行していけばいい。
手段がないよりも、目的がないほうがよっぽど困る。
わたしはそう考えるタイプだった。
弟を助けて一緒に生きていく。わたしにはそれだけで充分だった。
「うん、なんとかしなくっちゃ!」
こうしてわたしのドタバタ人生がはじまった!
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わたしたちはそのアパートでそれからさらに三日間ばかりをすごした。
食料のストックがそれだけあったからだ。そして三日をすぎると、荷造りに取りかかった。持ち物は多くない。リュックサック一つとカート一台に必要なものすべてをまとめた。
リュックサックには洋服と下着とオムツ、カートにはフライパンとヤカンと布団。そして迷ったあげく小さな電子レンジをのせた。これだけつめると部屋の中はほとんど空っぽになった。
残ったものは母親の洋服くらいだったが、それはまったく不要なものだった。
わたしはその時になって母親がいないことを強く実感した。
ハンガーにつるされた母の洋服たちがなんだか寂しい幽霊たちのように見えた。
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引越しの荷物をまとめている間、弟は不思議そうにわたしのことを見上げていた。たぶん母親といるより、わたしといた時間が長かったせいなのだろう。特に不安は感じなかったようだ。
「ツバサ、僕たちはこの家を出なきゃならないんだよ」
「ダァッ! ダァッ!」
弟は明るくそう言って手足をばたつかせ、満足そうによだれをながした。
わたしはリュックサックを前にかつぎ、背中に弟をおぶった。弟はおんぶが大好きだったので、悲しい出発だというのにそれはもう喜んでくれた。
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アパートのドアを開けると、外は夜だった。街灯の白い光の中を、雪が静かに落ちていった。
「ダァァァァ……」
弟は雪を初めて見たせいか、背中でうっとりしたような声を出した。
「ツバサ、行くぞ!」
わたしは弟を背負いなおし、アパートの鉄の階段にカートをガンガンとたたきつけながら下りていった。そして人気のない通りを、自信に満ちた足取りで歩き始めた。
「まぁなんとかなるさ!」
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当時のわたしは自信家で楽天家だった。
今はまったく違うけれど、当時のわたしはこの二つをたっぷりと備えていた。
まぁ子供というのは大体そういうものだろう。
付け加えておくと、今のわたしが教師として子供たちに教えるのもこの二つだ。
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まず一つ目『自信を持ちなさい』。
世の中厳しいのは分かるけど、生きていくことぐらい何とかなるものだ。
そして二つ目『いつも楽しく考えなさい』。
どんなにつらい境遇も心の持ち方しだいで幸せになることはできるのだ。
このムニャムニャを読んでいるキミが子供なら、この二つはぜひ覚えておいてほしい。
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さて夜の街に歩き出したわたしたちではあったが、じつはアテがあった。
といっても祖父母のような血のつながった人間ではない。わたしは実の祖父母というものにあったことがない。母はいつも一人だったし、アパートには誰も訪ねてくる人もいなかった。
もっとも大家のおばさんだけはちょくちょくやってきた。これがなんとも恐ろしい女の人で、いつも先がハート型になった布団たたきを持ち歩いていた。
実際ぶたれたことはなかったが、なにか理由があればきっとすぐに叩いたことだと思う。そういう雰囲気をいつもかもし出していた。いつも母にがみがみと怒っては、首を伸ばして部屋の中を覗き込み、わたしたちの姿を見つけると露骨に顔をしかめていた。
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ちなみに現在、この学校にも『マダム・リンコ』という怖ろしい女性がいる。
教師というよりしつけ係のようなものなのだが、彼女もまた子供たちを恐ろしい目つきで睨みつけるくせがある。
その恐ろしいことは生徒の間でも有名で、泣き出してしまう子供もいるくらいだ。
彼女に睨まれるとわたしでも足が震えだすほどなのだ。
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さて、話を戻そう。わたしのアテの話だ。
わたしには一人だけ心当たりがあった。
彼は街でも有名な浮浪少年で名を『ケン』と言った。歳は正確なところは分からなかったが、だいたいわたしと同じくらいの年齢だった(後で分かるのだが、実際は一つ年上だった)。ちなみにこの当時はケンのような浮浪少年も珍しかった。まだ義務教育というものが存在し、学校がちゃんと機能していた時代だった。
大人たちは彼に対して冷ややかだったが、わたしたち子供にとってケンはヒーローだった。ケンは誰にも頼らず、学校にも行かず、自分ひとりの力でたくましく、どこまでも自由に生きていた。
幸運なことにわたしはそのケンと面識があった。
彼なら何とかしてくれるに違いない! 助けになってくれるに違いない!
わたしはそう思い込んでいた。
やがてそれが自分の勘違いだと知ることになるのだが……
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ケン……彼はわたしにとって本当に特別な人間だ。
今、わたしやコトラがこうして生きているのもケンがいてくれたからである。
わたしは今もケンに頭が上がらない。
どれだけ感謝しても足りることはないだろう。
ケンはわたしたち兄弟にとって父であり母であり師匠だった。
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とにかくわたしは弟をおぶって夜の街へと歩き出し、とぼとぼと歩き続けた。
ケンが住んでいたのは近くのゴーストマンションだった。あまりに老朽化がすすんだのに取り壊すこともできなくなった無人のマンションである。当時はこういう建物が増えつつあった時代だった。そしてこういうところには浮浪者や危険な若者たちが住んでいた。
たどり着いたマンションは、明かりもなく暗闇の中に黒々とそびえていた。わたしは決意のこぶしを固め、深呼吸を一つして、一歩を踏み出した。
「おいおい、ここはてめぇみてぇな綺麗なガキの来るとこじゃねぇぜ」
いきなり暗がりから声が聞こえてきた。それからぬっと大きな人影が現れた。金色の髪の毛とトゲトゲのいっぱいついた洋服。手にはギラリとナイフまで光っていた!
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「僕はケンに会いにきたんだ!」
凛とした声でわたしはそう言った。と、カッコよくいきたいところだが、嘘はいけない。わたしの足はわなわなと震えていた。そして声はもっと震えていた。自分が何をしゃべったのかもよく分からなかった。
「ぼ、ぼ、僕、け、け、けん、けん!」
「おめぇはケンじゃねぇだろ? あ? あぁ、ケンの友達か。あのボウズなら304号室にいるぜ」
「あ、あ、あい、ありが、とー、ましたっ!」
わたしはすっかりびびって、いつ背後からブスリと刺されるんじゃないかと何度も振り返りながら階段を上っていった。電気が切れており、暗い階段だった。とても不気味だった。こういうところに一人で暮らしているケンはすごいと思った。
304号室の前に着くと、わたしは念のためもう一度だけ振り返り、男がついてこないのを確認してからドアをノックした。
「はーい!」
ドアの向こうでケンの声がして、すぐに扉が開いた。
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ここでもう少しケンのことを説明しておこう。
ケンはぼうぼうの髪をしていた。たぶん生まれてから髪を切ったことがなかったのだと思う。一つに束ねた髪は腰まで伸びていた。それからダブダブのジーンズ、これは大人用だったと思うのだが、適当な長さで切ってあった。そしてシャツも大人用のものだった。これも袖のところを適当に切ってあった。
ただ服装よりもどうしても書いておかなければならないことがある。ケンは五歳か六歳くらいにしてすでに大人だった。その目はジッと落ち着いていて、どこか思慮深い感じだった。薄汚れていても、綺麗な顔をわざと汚しているように見えた。はっきり言えばもの凄く背の低い大人のようだった。
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だがとにもかくにもやっとケンに会えた。
わたしはようやく安堵のため息を漏らした。
「やぁケン、久しぶりだね」
なんとか笑顔を浮かべて、ちょっと右手を上げて挨拶する。
しかしケンはこう答えた。
「おまえ、誰だっけ?」
わたしはあまりのショックにそのまま倒れそうになってしまった。
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こういう展開はまったく予想していなかった。
最初の一歩目からつまずくとは思ってもみなかった。
このままでは初日から弟と一緒に野宿することになる。しかも外は雪。まだお腹は減ってないけど、そのうち空くだろうし、そうなったら死んでしまうかもしれない。
さて、どうしよう? とにかくケンに思い出してもらわないと困る!
「ぼ、僕は、レ、レンジ……」
ケンはあごに手を当ててジッとわたしを見ていた。
それから背中の弟の顔を見て、わたしのカートを見た。
「レンジ……? おぉ、電子レンジを持ってきてくれたんだな!」
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わたしのカートには電子レンジが紐でぐるぐる巻きにされていた。なにか話が食い違っているような気がしたが、とにかく思い出すきっかけになってくれればいい。わたしにとってはそれが重要だった。
「あ、ああ、コレあげるよ」
「ホントにいいのか? いやぁ助かるよ。これがあればあったかい飯がくえる」
わたしは電子レンジの紐をほどいて、ケンに渡した。ケンは本当に嬉しそうだった。そして早速使ってみようというのか、それを持って部屋に戻ろうとした。
わたしの目の前で運命の扉が閉まろうとしていた。
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もう格好をつけてる場合ではなかった!
わたしはガッと扉をつかんだ。
「ケン、助けてくれ!」
ほとんど叫ぶようにそう言った。
「ん? ああいいよ、入んな」
ケンは理由も聞かずに即答した。
本当に優しいやつだ。
そしてその日からケンは無条件にわたしと弟を助けてくれるようになるのである。
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いい人間というものは存在する。
これを忘れてはならない。
そして自分がそういう人間になれるよう努力することを忘れてはならない。
親切は人を救うのだ。わたしはケンの親切に命を救われた。
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ちなみに、わたしがケンに思い出して欲しかったのは、近所のスーパーで出会ったときのことだった。
その日、わたしは弟の牛乳と自分のお弁当を買いにきていた。
そしてケンはお弁当を眺めに来ていた。
ところが店員のおばさんがケンをつまみだした。
「邪魔だよ、買いもしないのに来るんじゃないよ!」
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おばさんは店員でもありオーナーでもあった。たいていの人には愛想がよかったが、ケンのような貧乏な子供にはめっぽう冷たかった。そして持っていたモップで掃くようにしてケンを店から追い出した。
「なんだよ、見るぐらいいいだろ?」とケン。
「迷惑だよ、買わないなら店に入るんじゃないよ」
ケンはしぶしぶあきらめた。そして両手をポケットに深く突っ込むと、長い髪を揺らし、とぼとぼと歩き去った。
わたしはその背中を見送ってから、彼の眺めていたものを見た。
それはカツ丼の弁当だった。
(あいつコレを食べたかったんだな……)
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とにかく子供たちの間でケンは有名人だった。誰からの干渉も受けない自由のヒーローだった。わたしも彼にあこがれていたが、この時ばかりは彼に同情を感じた。
「おばさん、これひとつください」
気がつくとわたしはその弁当をおばさんに渡していた。それはわたしの夕食になるはずだったが、その時はそんな事を考えもしなかった。そして弁当を袋に入れてもらうと、ケンのあとを走って追いかけた。
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ケンは公園でブランコを漕いでいた。とくに寂しそうな表情や、悲しそうなそぶりはなかった。そしてわたしは彼の前に立ち、そのカツ丼を袋から取り出した。
「なんだよ?」とケン。不思議そうにわたしを見上げている。
「これ、あげるよ」とわたし。
「いいのか? 高いんだぜ」
「うん。あのさ、あのおばさんは、ヤな人だけど、店のお弁当だけはおいしいんだ」
「そうなのか? そうか、そんな気がしてたんだよ!」
夕日に照らされたケンはなんだかとってもかっこよく、わたしは何だか照れてしまった。それでカツ丼を隣のブランコの板の上に乗せ、走り去ってしまった。するとすぐに後ろからケンの声が聞こえてきた。
「ありがとな! なんか困ったことがあったら今度は俺が助けてやる!」
そういわれたのがなんとも嬉しく、わたしはさらに加速をつけて走り去った。
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それがケンのゴーストマンションの扉をたたく二ヶ月ほど前のことだった。
その言葉でわたしはケンをすっかりアテにしていたと言うわけだった。
「そっかぁ、俺すっかり忘れたよ、じつはまだ思い出せないんだけどね」
とは後にこの話を聞いたケンの感想である。
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さて、それからわたしたちは三人家族になった。ケンが父親、わたしが母親、そしてツバサが子供という役回りだった。
ケンはいろんな店で雑用のような仕事をしており、そこの大人たちからずいぶんと気に入られていた。それで店の残り物だとか、捨てるものだとかをよくもらってきた。それが僕らの食料だった。
さらにケンは弟のために牛乳も貰ってきてくれた。それらはいつも賞味期限が切れていたけれど、食べられないわけではなかった。それどころかどれもおいしかった。たぶん三人で一緒に食べていたからだと思う。
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「レンジ、今日のかせぎだぜ」
「ありがとう、ケンちゃん」
ケンはありがとうと言われるといつも顔を赤くした。当時のわたしには分からないことだったが、たぶん人から感謝されるということがなかったせいだろう。
「いいんだって、ツバサはもう寝たのか?」
「うん、赤ちゃんは大体この時間は寝てるんだ」
弟が眠るとわたしたちはよくトランプをして遊んだ。ケンちゃんはじつに多くの遊び方を知っていて、それを次々とわたしに教えてくれた。七並べ・ババ抜き・神経衰弱、しばらくするとブラックジャックやポーカーなんかもやるようになった。
なかでもわたしたちのお気に入りはブラックジャックだった。チップは近所の工場に落ちていたナットやワッシャー。それはたいそうたっぷりあったので、大勝負の時はそれを山のように積んだ。
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本当に懐かしい思い出だ。
そしてわたしがポーカーフェイスを習得できるようになった頃、たぶんケンちゃんと暮らして一年ほどたったときのことだったと思う、弟に新しい名前をつけることになった。
「だって『ツバサ』って名前がもうあるんだよ?」
「知ってるさ、でもな、ここじゃそういう名前は良くないんだよ。ほら、金持ちっぽい響きがするだろ? 最近はさ、このマンションにもやばい連中が入り込んでんだよ。浮浪者のおっさんならまだいいけど、チンピラみたいな若いやつが増えてるからな」
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それはわたしも気づいていた。本当なら働いているような二十歳くらいの若い連中が五・六人も集まって暮らしていたのだ。そのくせ彼らはいい身なりをしており、夜になってもガンガンと騒音みたいな音楽をかけていた。
「誘拐でもされたら大変だからな。ああいう奴らはさ、集団になるととたんに凶悪になるんだよ。気が大きくなるのさ、普段一人でいることが多いからな。ツバサはまだしゃべれないから自分の名前も分からないはずだろ。変えるなら今がいいと思うんだ」
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ツバサはまだ「ダァ」とか「バブゥ」とか「キャハ」としかしゃべっていなかった。名前を呼んでも返事することはなかったし、わたしのことをお兄ちゃんと呼んだこともなかった。
「そうだね、でも何て名前がいい?」
「コトラってのはどうかな? 小さいトラでコトラ。かっこいいだろ?」
「コトラ……呼んでみようか?」
わたしは試しにツバサをコトラと呼んでみた。するとツバサは実に嬉しそうな悲鳴みたいな声を上げてわらった。これだけ喜んでくれたのならもう決定だった。
こうしてツバサはコトラになった。
「でもさ、僕の名前は大丈夫?」
「ああ、お前はレンジで大丈夫。だって電子レンジのレンジなんだろ?」
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この頃はわたしたちにとっては波風のない幸せな時期だった。
しかし時代の風は容赦なくわたしたちをつかまえる。変革という名のうねりは、わたしたちのような弱いものから順番に襲いかかってくるのだ。
これも形を変えた自然淘汰というやつかも知れない。しかも今度のふるいの目は粗かった。気を抜けば即死になりかねなかった。
人間社会にとっての局地的災害と言えば、これはもちろん不況である。
不景気。つまり猛烈な貧乏が襲ってくるということである。
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さてここは教師らしく史実を紐解いてみよう。
西暦2032年、その大不況は株の大暴落から始まった。いつの時代もスタートはコレだ。わたしたちは株なんて一つも持っていないのに容赦なく巻き込まれる。
そして物価の値上がりが始まった。それまで弁当は五百円出せば買えたのに、値段は二倍三倍に跳ね上がり、半年あまりで十倍に跳ね上がった。もちろんこの時点でわたしたちは食糧難におちいった。だがそれもまだ序の口。すぐに店が潰れはじめて、物を買おうにも物がない状態になってしまった。
わたしたちは堅実に暮らしていたのに、とんだとばっちりだった。
マンションには得体の知れない人達が続々と流れ込んできた。建設途中の家はそのまま放り出され、解体中の家は危険な状態で放り出された。店のシャッターはしまり、開いている店も棚はほとんど空っぽだった。
街からは人が消え、道路には車が走らなくなり、かわりに野良犬と化した元ペットの犬たちが、あばら骨を浮かせて街をとぼとぼと歩くようになった。
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それはなんとも寂しい光景だった。
街が死んでしまった、そんな気がした。
「海のある町に行こう」
そんなある日、ケンちゃんはそう言った。
「う み ? うぅみっ!」
ツバサ改めコトラはこの頃には少しだけしゃべれるようになっていた。まだよたついてはいたが二本の足で立つこともできた。おしめもとれたし、離乳食も卒業した。それでもまだ大して違いはない。やっぱりまだまだムニャムニャのままだった。
「だって海に行けば魚がいるだろ?」
ケンちゃんはそういった。
「そうか、海ならタダだもんね」
正直、魚料理は苦手だったが、何も食べられないよりははるかにいい。それにしてもケンちゃんはなんて頼もしいんだろう、とわたしは改めて感心した。
「そうと決まれば荷造りだ」
わたしたちは徹夜で荷造りをした。コトラはたどたどしく手伝う様子をみせながらも見事に足を引っ張った。だがわたしたちは決して怒らなかった。わたしたちは善意というものを素直に受け取る心を持っていた。
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そして旅立ちの日が訪れた。
やがて到着する街で予想だにしない出会いが待っているとは、このときのわたしには知る由もなかった。
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そうそう前のところで書き忘れたことがある。
これも大事なことの一つ。
「ペットを捨てるな! 虐待するな!」
彼らは主人を盲目的に信じている。それを裏切るようなまねをしてはいけない。そしていつでも思い出してほしい。彼らはどんなにつらくとも口をきけないのだ。だから彼らの心を、彼らになったつもりで考えてやってほしい。
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さて、わたしたちは港町というものを目指して旅立った。あてはなかったが東に向かって歩いていけばそのうち海に出るだろう、計画はそういうものだった。
まぁはずれではなかったが、わたしたちは一週間あまりも旅を続けることになった。
楽な旅ではなかったと思うが、じつはあまりよく覚えていない。ただただ線路のそばの道を海が見えるまでひたすら歩き続けた。
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街に着いたときにはへとへとだった。そこは以前いた街とは違い、都会だった。ガラス張りのビルが高さを競うように建ち、道路はアスファルトで舗装されていた。街中はレンガの敷石があって、いたるところにおかしな彫刻があった。無駄こそが贅沢、そんな感じの気取った街だった。
「ここはなんていうところ?」
「さぁな、まだ分からない。だけど、とにかく海だけはある!」
そう、わたしたちの前には確かに海があった。だがそれはぐるりとコンクリートの岸壁に囲まれ、海面は波一つ立たない穏やかさだった。最悪だったのは、その岸壁にぐるりと釣り人がいたことだった。みんな竿を伸ばしているが、魚がかかっている様子はまるでなかった。みんながっかりした様子で、バケツの中はどれも空っぽだった。
「釣った魚はタダ」
考えることはみんな一緒なのだった。
📖
それはともかく、まずは寝るところを確保する必要があった。
これはすぐに見つかった。こういう街にもゴーストマンションがあった。わたしたちはその一室を見つけると、家財道具を広げ、あっというまに引越しを完了した。
「ここも危なそうだね」
わたしは正直な感想を言った。ケンは重々しくうなずいた。
「まったくだ。でも人がコレだけいるって事はまだ食べ物があるってことだよ」
なるほど。ケンは全くたくましい。それに頭がいい。自慢にはならないが、当時のわたしは全く子供で、コトラと変わらないムニャムニャだった。
「でも、これからはお前にも働いてもらわなくちゃならない」
それはわたしに新たな目標と目的を与えてくれた。わたしはいつまでもムニャムニャのままではいけないと、この時はっきりそれを意識した。
「できることは何だってやるよ。いやできないことだってやる!」
📖
翌朝早く、ケンは一人で家を出て行った。わたしはしばらくしてからコトラを連れて近所を歩いた。こんな大きな街は初めてだった。きれいな店がたくさんあったが、どれもシャッターがしまっていた。開いてる店もあったが、やはり棚は空っぽだった。この街もやっぱり死にかけているようだった。
そして夜になってケンがようやく帰ってきた。
「仕事を見つけてきた。お前は明日から屋敷の掃除をやるんだ」
ケンはぐったりとした様子でそう告げた。だいぶ歩いてきたに違いない。それにしてもたった一日で仕事を見つけてくるとは本当にすごいことだった。そしてわたしはそれがどんな仕事であれ、引き受ける覚悟ができていた。
「オレは夜に同じ屋敷の調理場の手伝いをする。働くところは一緒。二人で一人分の小遣いだけど、これなら交代でコトラの面倒もみられる」
「ありがとうケンちゃん!」
ケンはまた少し顔を赤くした。いつまでたっても慣れないらしい。
「明日案内するよ、今日はもう寝よう。明日は早いんだ」
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運命の出会いは翌日に迫っていた。
~ 進化論と旅立ち 終わり ~
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翌朝は日の出とともに起きだした。
コトラはまだ眠っていた。一人で留守番させることも考えたが、慣れない街の慣れないマンションではやはり危険が大きかった。どんな人間がいるか分かったものではない。それで初日だけは、ケンがコトラをおぶって一緒について来てくれた。
早朝の街はとても静かだった。スズメが電線に連なって寒風に耐えていた。
「あのさ、掃除ってどんなことすればいいのかな?」
「簡単だよ、箒ではいたり、雑巾で拭いたりするんだろ」
「僕にも出来るかな?」
「ああ、難しい仕事じゃないさ。でもな、とにかく疲れるんだよ」
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会話の間、コトラはしっかり眠っていた。ケンもやたらとあくびをしていたけれど、わたしだけは気合いが入りすぎて目もぎんぎんに輝いていた。なにしろ生まれて初めての仕事だったからだ。
「なぁ屋敷ってどんなところ?」
「それは自分の目で確かめな」
「なんかドキドキするなぁ」
「まぁ、なんとかなるさ。のんびりいこうぜ」
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それから三十分ほどトボトボ歩いたあと、その屋敷は突然目の前にそびえ立った。豪華で、広くて、まるでお城のような家だった。
「でかいなぁ……」
わたしは馬鹿みたいに口をあけてその屋敷を見上げた。自分がこんなところに入っていいのだろうか? そう思わせる威圧感があった。
こんなに人々が貧しい時代だというのに、その家には綺麗な芝生が青々と輝いていた。花壇にはさまざまな色の花が咲き乱れ、木には真っ赤なりんごがたくさんぶら下がっていた。
こんな家に住んでいるのはいったいどんな人達なんだろう?
だがびびっていても仕方がない。とにかく仕事! 掃除だ、掃除!
わたしは人差し指に気合を込めて、大きな鉄門のインターホンに指を伸ばした。
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「初めまして! 僕の名前はレンジ、掃除に来ました! 頑張ります!」
大事なのは第一印象。最初の挨拶は明るく、元気良くしたほうがいい。
ケンが前の晩にそう教えてくれたのだ。
しかし気合たっぷりに伸ばしたわたしの指をケンの手がパシッとつかんだ。
「あのな、こういうところは、正面から入っちゃダメなんだ」
ケンはそういって屋敷の壁に沿ってぐるりと歩いていった。わたしはあわててそのあとを追いかけた。やがて壁の途中に作られている小さな扉の前で立ち止まった。
📖
「ここが俺たちの入り口、正面からは絶対入るなよ。俺たちはお客さんじゃないんだからな」
「うん。わかった」
「『ミクニ』って爺さんに話を通してある。仕事はその人に聞くんだ。この先は一人だからな。夕方にコトラを連れて交代に来る」
「わかった」
わたしは去ってゆくケンと背中のコトラを見送った。二人の姿は壁を回ったところですぐに見えなくなった。
正直な話、その瞬間とても孤独を感じた。考えてみればこんな形で一人になるのは初めてのことだった。まるで大海原にたった一人でボートを漕ぎ出した気分だった。
そしてわたしは小さな門の扉を開いた。
📖
「おぅ遅かったじゃねェか」
目の前には腰の曲がった老人がいた。顔中を深い皺が覆っている。髪の毛は真っ白で、黒目がやけに小さく見える感じだった。
第一印象は、怖そうな人。失敗したら確実に殴られそうな気がした。
「僕の名前はレンジです。掃除に来ました。よろしくお願いします」
わたしは大きな声でなるべく明るく(すでに気分は真っ暗だったが)挨拶をした。
「元気がいいじゃねェか。これならコキ使えそうだな、なァ?」
「はい、がんばります!」
📖
わたしのほうの第一印象は悪くなかったようだ。これもケンのおかげ。
まったくもって挨拶は大事だ。
ちなみに、これもわたしが生徒に必ず教えていることだ。
挨拶はコミュニケーションの第一歩だ。
ここでつまずくのはもったいないことなのだ。
📖
考えてみてほしい、元気に挨拶したのに返事を返さない人を君はどう思うだろう?
サイアクだと思うだろう?
人間同士のつきあいというのはそういうものなのだ。
最初はお互い知らないもの同士、少しずつ歩み寄ることで、コミュニケーションはつながってゆくのだ。
誰にでも明るく挨拶すること。
挨拶されたらちゃんと明るく返すこと!
📖
それからミクニ老人はわたしに、水の入ったバケツと一枚の雑巾を渡した。
「今日は屋敷中の廊下を隅から隅まで雑巾がけするんだ。いいか、手抜きはゆるさねェぞ」
「わかりました!」
「ワシは腰を悪くしてな、この手の作業がつらくなっちまったのさ。そうでなけりゃ、お前らみたいなガキを雇ったりしねェ。どういう意味か分かるな?」
「はい。一生懸命やります!」
「よし。終わったら知らせにこい」
わたしの前には果てしなく長い廊下が伸びていた。地平線が見えるんじゃないかというくらい長い廊下だった。
しかも、すぐに分かるのだが、この廊下は一本ではなかった。二階と合わせて全部で二本。そしてその半分の長さの廊下が他にも十本もあった。今にして思えば、なんという重労働だったことか。
📖
しかしわたしはそれすらも分からないムニャムニャだった。
だが逆にそれが良かった。そこが最悪だとは思わなかったのだ。
だが今のわたしは断言できる。ここの仕事は最悪だった。コレだけ働いてもパン一つ分の給料にもならなかったのだから。
だがそういう仕事はたくさんある。そういう仕事しかない人もたくさんいる。
なんという世の中!
それでも飢え死にしないだけマシなのだ。
上を見ればキリがないのと同様、下を見てもキリがない。
📖
さて、わたしは黙々と雑巾をかけた。午前中が過ぎ、昼間になってもまだ雑巾をかけていた。作業の進行はまだ四分の一だった。だがこのペースでがんばれば、昼飯を食べる時間はないかもしれないが、なんとか終わりそうだった。
「おう、がんばってるかァ」
途中でミクニさんがやってきた。そして廊下の隅を人差し指でさっとなでた。それを親指とこすり合わせ、じっくり見る。
緊張の一瞬。ミクニさんはニッと笑った。
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「まじめにやってんな。この調子でがんばれ。ほれ、ご褒美だ」
そう言ってりんごをひとつ放り投げた。わたしはそれをあわてて取ろうとした。が、そのとき膝ががっくりと折れてしまった。しかも立ち上がろうとしたのに膝が笑って力が入らなかった。
りんごはコロコロと廊下を転がった。わたしは這ってりんごを追いかけた。そしてそれを掴むとポケットの中に入れた。
「なんでェ、食わねェのか?」
「友達と弟に食べさせてやりたいんです」
「弟もいるのかぃ。そういえば昨日のボウズもそんな事言ってたなァ。まァいいや、勝手にするがいいさ」
わたしもお腹はすいていたが、それよりもコトラとケンに食べさせたかった。わたしが働いて得たはじめての報酬だったからだ。どうしてもそれを二人に渡したかったのだ。
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さて、わたしの勤労意欲にはさらに火がついた!
雑巾を洗い、固く絞り、膝や腰が痛むのもかまわず、走るようにして、しかも一切手抜きもせずに、廊下を駆け抜けた。
どうやらわたしは掃除の天才だったらしい……そんな事を思ったとき、突然目の前の扉が開いた。
ゴウゥゥゥン、とわたしの頭は、まともに扉にぶつかった。
扉が揺れ、わたしは弾き飛ばされた。
「きゃあ!」
同時に女性の悲鳴が上がった。
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「す、すみません!」
わたしはとっさに謝った。謝り方はちゃんと知っていた。それは土下座というやつで、正座して頭を地面につけ、両手をそろえてひたすら謝る。これは母が大家のおばさんによく使っていた手だった。
「どこ見てるのよ! 気をつけなさい!」
すぐにその女の人の怒鳴り声が聞こえた。
わたしはその声にちらりと目を上げた。
そこに運命の出会いが待っていた。
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なんとそれは母だった! そうでなければそのそっくりさんだ。
ただ思い出の中の母の姿とは程遠い。そこにいた女の人はものすごい厚化粧で、しかもきつい顔立ちをしていた。わたしも最初は見間違いかと思ったほどだ。
「あたらしい掃除の子供ね」
その声には憎しみがこもっていた。それ自体は怖くなかった。それ以上にわたしを怯えさせたのは、この女の人が、わたしが誰なのかまるで気づいていないという事実だった。
「どこを見て掃除してるのよ、マッタク!」
そう、まったく気づいているそぶりはなかった。芝居をしているようにも見えなかった。それがあまりに完璧だったから、わたしはやはり人違いなのだと思った。
だがそうではなかった。
「……だから子供は嫌いなのよ」
その人はそう言った。それは記憶の中のわたしの母の口癖でもあった。
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母は生きていた。しかもこんな豪華な屋敷の女主人になっていた。
子供の顔に気づかず、目の前のわたしを、自分の息子であるわたしを怒鳴りつけている。
わたしは泣いたか? 泣かなかった。
わたしは自分が誰かを明かしたか? 明かさなかった。
わたしは悲しんだか? 不思議と悲しみはなかった。
どういうわけだかわたしはそれを受け入れていた。
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母がいなくなってからすでに二年の歳月が流れていた。
わたしは成長した。背も伸びたし・髪型・服装も変わった。コトラはしゃべれるようになったし歩けるようにもなったし、名前まで変わった。それだけの年月がたっているのだ。母がわたしに気づかないのも無理はない。
それにわたしたちにとっては母が消えた生活が当たり前になっていた。母がわたしたちを捨てたように、わたしたちもまた母を捨てていたのだ。そこに懐かしさや愛情が入り込む隙間はなかった。
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だからわたしは、母にではなく、この屋敷の女主人に謝った。
「あんたはもうクビよ」
母はわたしを見下ろしてただそう言った。
「……ミクニにそう言っておくから」
その言葉のほうがわたしにとってよっぽどショックだった。
ケンに、そしてコトラにあわせる顔がないと思った。
初日から一番怒らせてはいけない人を怒らせてしまったらしい。
それがなによりショックだった。