ボーイズダイアリー

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 わたしたちは大金を手に入れたものの、それをすぐに使ったりはしなかった。
 それはコトラの流した涙そのものだったからだ。
 だがそれ以上に、わたしたちにはその有効な使い道が考え付かなかった。
 だからわたしたちは以前と同じように働き続けた。
 生活は相変わらずきつかったけれど、質屋に電子レンジを運ぶ必要はなくなった。それだけでも大きな前進だった。
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 そして二ヶ月が過ぎた頃、またもや三人でポーカーを楽しんでいたとき、ケンが突然妙な事を言い出した。
「あのさ、レンジ、あのお金でコトラを学校に行かせたらどうかな?」
 ケンは慣れた手つきで手早くカードを配った。
「学校か……それはいいアイデアかもしれないな」
 わたしはそう答え、そっと手札をみる。
 ツーペア! 悪くない。でもここはそのままのポーカーフェイス。
 コトラはもう七歳だった。この頃にはすでに義務教育が崩壊していたが、本来なら学校へ行くべき年頃だった。
「僕は行きたくないよ。一枚チェンジ」
 コトラはすばやく反論し、チェンジのカードをそろそろと引いて顔をしかめた。
 でも要注意! コトラのポーカーフェイスはかなり上達している。
「僕は将来コックになるから、勉強なんてしなくても平気。もう計算も出来るし、字も読める。それだけ出来ればじゅうぶんだよ」
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 コトラからコックになりたい、という夢を聞いたのはこれが初めてのことだった。
 かわいい弟が夢を持っていて、そのために頑張っていると聞くのは、わたしとケンにとってなんとも誇らしいことだった。
 あの小さかったムニャムニャが、いつの間にかこんなにも成長していたのだ。
「じゃあレンジ、お前はどうだ? なにか夢があるのか? 夢じゃなくても、なにかやりたいこととかあるか?」
 ケンはチェンジの札を三枚引き、そしてにやりと笑った。
 ここも要注意。ケンのポーカーフェイスは年季が違う。
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 それはさておき。そんなことを聞かれてわたしはハタと困ってしまった。
 なんにもなかったのだ。これまでは生きていくこと、この世の中で生き延びることだけを考えてきたから。
「そういうケンはどうなんだ? 僕は一枚チェンジ」
「オレは学校なんて嫌いだもん。勉強なんてたえられねぇよ。それによ、オレはおまえたちが幸せになるのを見ていたいんだよ。それが俺の夢なんだよ」
 その言葉を聞いてわたしの目から不意に涙が零れ落ちてしまった。
「ケン、急にそんなこと言わないでくれよ……」
「おいおいレンジ、泣くなよ。お前が泣いたって、カネにならないんだから」
 ケンはそう言ってウインクし、私にカードを一枚よこした。
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 ちなみにあれからコトラに金の涙は流れなかった。理由は簡単。コトラが泣くということがなかったからだ。
 だが別に困ることはなかった。最初のお金ですら、結局まだ一円も使っていなかったからだ。
「ケン兄ちゃんの言うとおりだよ。さ、自信はないけど、ここまで来たら勝負っ!」
 コトラが最後の掛け金を積んで、カードを披露した。フルハウス。私はツーペアのまま、ケンはストレートだった。コトラの一人勝ちだった。ムニャムニャめ!
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「レンジ兄ちゃんが学校に行ったらいいと思うよ。頭もいいし、計算も速いし」
 コトラは山のようなナットとワッシャーを両手で囲い込んで引き寄せた。
「そんな事言ったってなぁ」
 わたしが入るとすれば小学校の一年生からやり直しだ。しかも学校へ行くにはカネがかかるのだ。
「兄ちゃん、学校へ行きなよ。偉くなって、お金をいっぱい稼いで、今度は僕たちを助けてよ」
「そうだよ、レンジ。そうでもしないと、俺たちずっとこのまま同じになっちまうぜ」
「そうそう、お金のことなら任せてよ。僕、いっぱい泣くからさ!」
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 かくして唐突にわたしの受験勉強が始まった。
 ヒダカ老人に頼み、コウジが捨てた教科書や参考書をもらってきた。
 わたしは掃除をしながら、それらを片っ端から頭に叩き込んだ。家に帰ると、コウジのお古のドリルを片っ端から埋めていった(コウジのドリルはほとんど真っ白だった)。国語・算数・理科・社会・英語に歴史と、どんどん知識を溜め込んだ。
 わたしの頭はそれまで使っていなかったせいか、それらをぐんぐんと吸い込んだ。不思議なことに勉強は楽しい感じがした。
 知らないことが、疑問に思っていたことが、どんどん明らかになっていくのが楽しかったのだ。
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 学校へ行くにはお金がいる。今のわたしにはその理由がよく分かる。
 知識というのはタダでは手に入らないのだ。海で魚を釣るのとは訳が違う。
 ここを自覚するのは結構大事なこと。知識というのは誰かが発見し、現代まで受け継いできたものだ。それは人類の財産なのだ。それが財産である以上、誰かがタダで分けてくれるものではないのだ。
 教育にはお金がかかる。その知識が希少であればあるほど、高い値段がつく。それは金と同じ。珍しいから高いのだ。
 また脇道にそれつつあるようだ。悪い癖なのかもしれない。
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 さて、話を戻そう。わたしの勉強がスタートすると同時に、我が家では、コトラの涙を搾り取る作戦が始まった!
 その前にもちろん家族会議が開かれた。トランプはナシ。まじめな話し合いだった。
「さて、どうやってコトラを泣かせるか、だ」ケンがまずこう切り出した。
「てっとり早く、僕を叩いてみてよ」とはコトラ。
「うん、それが早いな」
 ケンは拳固を作るとわざとらしく息をかけて暖めた。元は浮浪少年。喧嘩の腕っ節は今も伝説的な強さだった。
「覚悟はいいな!」
「いいよ。ガツンとやってよ」
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 ケンは慎重にこぶしを持ち上げた。それを空中でとめて、大きく息を吸い込んだ。
「いくぞ!」「いつでもいいよ」
 コトラはそう言いながらも片目だけぎゅっと閉じた。
「ほんとにいくぞ」「なんだか怖くなってきたよ」
「俺のパンチは痛いからな」「うん覚悟はできてる」
 ケンはこぶしを持ち上げ、振り下ろした!
 コツン。
 正確には音もしなかった。
「やっぱだめだ! 俺にはできねェよ」
 ケンはそういって床の上で悶えてしまった。
「レンジ、俺には無理だ! 代わってくれ!」
「よし! コトラ、覚悟しろよ!」
 交代はしたが、やっぱり叩けなかった。なんといっても可愛い弟だったからだ。
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「さて、僕たちの計画はいきなり失敗に終わった……」
 それは翌日の晩に開かれた家族会議、進行役はわたしだった。
 わたしは丸一日考えた秘策を持っていた。しかも暴力を使わない、痛みを伴わないやり方でコトラを泣かせる方法だ。
「……僕たちは難しく考えすぎてしまっていた。でもこれならバッチリ。答えはいつでも足元に眠っていたんだ。僕たちはもっとも基本的なことを見逃していたんだよ」
 ケンもコトラも身を乗り出すようにしてわたしの話を聞いていた。わたしは彼らを押し戻すように手の平をふった。まぁまぁ落ち着いて。
「兄ちゃん、いったいどんな手?」
「レンジ、早く教えろよ!」
 わたしはシャツのすそに隠してあったタマネギを取り出した。さらに背中のすそに押し込んでおいたプラスチックのおろし金を取り出した。
「これだよ。タマネギを切ると涙が出てくるだろ。切っただけで涙が出るということは、これを使えば一発だよ」
 パァーっとわたしたちの間に光が広がる。もちろんそんな気がしただけだけだが。
「レンジ、握手させてくれ……」
 ケンはそういってわたしの手を力強く握り締めた。
「……やっぱお前は天才だよ。いや、悪魔かな」
 が、当のコトラの反応だけは妙に冷ややかだった。
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「そう、疑うなって。まずは試してみよう。すぐに泣けるさ」
 わたしはコトラに皮を剥いた玉ねぎを見せた。けっこう大きい。
「そうかなぁ?」
「ああ、絶対だって。お約束だもんよ」とケン。
 ケンがおろし金を空中で押さえ、その下にボウルを当てて構えた。それをグイッとコトラの顔のまん前に持っていく。準備完了。
「それよりさぁ、兄ちゃん、それ無駄にしないでよ。後で料理に使うから」
「分かってるって」
 それからわたしは静かにタマネギをすりおろし始めた。
 シャリシャリシャリ……
 すぐに涙が出はじめた。だがそれはわたしとケンの涙だった。
「いててて、ちょっとタンマ」「僕もちょっとストップ」
 二人で涙をぬぐった。だが涙は止まらない。わたしとケンはお互いにうなずいて、ここは我慢するしかないと決めた。
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 シャリシャリシャリ……
 と再びタマネギを静かにおろす。わたしたちの目からはそれこそ滝のように涙が流れだした。二人でボロボロに泣きながら、ケンはおろし金とボウルを押さえ、わたしはタマネギをひたすら摺り下ろした。
 だがコトラの目からはちっとも涙が流れなかった。これだけ間近で、くっきりと小さな目を開いているというのに、涙が出る気配もない。半分ほどすり終わったところで、わたしたちの方が我慢できなくなってしまった。
「なんでだ? なんでなんだよぅ、コトラぁぁぁ!」
 ケンちゃんも私もボロボロに泣きながらそう聞いた。大量の涙のせいで、かなりドラマチックなシーンになっている。
「あのね、僕さ、毎日百個くらいタマネギをみじん切りにしてるんだよね。最初は涙が出たけど、もうすっかり慣れちゃったんだ」
 コトラはにっこり笑い、事もなげにそう告げた。
 このムニャムニャ、なかなか手ごわい!
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「ということで、今度は僕が考えてみました」
 と、翌日の会議でコトラはそう切り出した。なにやら妙な雲行きになったが、コトラ自身がやる気になっている。
「目をあけ続ければいいと思うんだよね」
「なるほど! 確かにそうだ。目をずっとあけてると、痛くなってきて、涙が出るもんな!」と、ケン。
 わたしもコトラのアイデアに感心していた。だが疑問もある。
「だったらどうして一人でやってみなかったんだ?」
「やってみたよ。でもさ、一人だと、痛くなる前につい目をつぶっちゃうんだよね」
「なるほど。そこを俺たちが見張ってる、ってわけだな!」
 で、さっそくやってみた。コトラの目はもともとかなり小さい。それをいっぱいいっぱいに開き、しばらく待つ。
「あ、閉じた!」
 すぐにケンが指摘した。本人は閉じていないつもりだが、たしかにすばやい瞬きをしていた。
「もう一回だ! がんばれコトラ」
「あ。今、閉じた!」「もう一回、もう一回だ!」
 以下繰り返し。コトラはちっとも目を開けていられないのだった。そしてそれを見張るわれわれのほうの目が痛くなってしまった。
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「失敗か……」
 だがチャレンジは続く。まだまだこんなものではない。
 翌日の晩はケンがアイデアを発表した。
「もう、くすぐるしかねぇ」
「くすぐるの?」
「ああ、これなら笑いながら泣けるぜ。俺たちもつらい思いをしなくてすむしな」
「そんなの僕に効くかなぁ?」
「まぁ、試してみよう。レンジ、コトラの足を押さえてくれ」
「分かった。コトラ、覚悟しろよ!」
 わたしが体重をかけてコトラの足を抑え込む。ケンが素早く靴下を脱がせ、指先を動かしてくすぐりを開始する。
 コトラはそれだけでもう笑い出した。これは行ける! さらにコトラの体をがっちりと捕まえ、ケンが足の裏をくすぐり、脇の下をくすぐり、首元をくすぐり、ラストは両足を押さえつけ股間に電気あんまのフルコースをお見舞いした。
 コトラが笑ったこと、笑ったこと! もうほとんど狂乱状態で笑っていた。
「ははは! やめてぇぇぇぇ! はははははは! もうだめえええええ!」
 そしてその目にジワリと涙が浮かんだ!
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 チャンスだ!
 涙を回収しようとすると、笑いがぴたりとやみ、涙も引っ込んでしまった。
「あー、おしかったなぁ。今のもうちょいだったぜ」
 そうしてまたくすぐりを再開した。コトラはまたもや笑い転げた。気が変になったんじゃないかと思うくらい、大笑いしていた。
 が、回収しようとすると、やっぱり涙は止まってしまった。それどころから目の中に引っ込んでしまうのだった。
 結局涙の回収はなし!
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 しかしもちろん金の涙の回収を諦めたわけではなかった。
 連日連夜の会議は続く。
「とっておきの秘策があるんだ……」とわたし。
 ゴクリとコトラがつばを飲む。言ってみれば被害者はコトラ一人。これまで毎晩のように泣かされようとしているのだ。
「悲しい話を聞かせてあげよう。ほら、お涙頂戴っていうだろ?」
「それよりさ、僕、今日は眠いよ」
「まぁこの話を聞けば、眠気なんて吹き飛ぶさ。とってもいい話なんだ」
 そう前置きして、わたしは話し始めた。
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「あるところに、両親のいない貧乏な兄弟がいました。お兄さんは六歳、弟は生まれたばかり、お兄さんは母親に代わって弟の面倒を見ていました……」
 そしてわたしは昔の話を始めた。わたしがもっとも大変だった時代、それでも弟を何とか守ろうと必死だった時代の話だ。コトラはもちろん覚えていないだろうし、ケンも知らない話だ。
「ちょっとタンマ……俺、だめなんだよ、そういう話……」
 ケンが途中で泣き出してしまった。それも語っているわたしが恥ずかしくなるほどの号泣だった。
 付け加えておくと、ケンはすっかり話にのめりこんでいた。さらに付け加えておくと、この話がわたしとコトラの話だということに気づいていないようだった。
 ケンはこういうところ、なんとも天然なのだった。
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「コトラぁ、ほんっと、いい話だよなぁ、ほんとに泣けるよ」
 ケンは涙でボロボロの顔でコトラにたっぷりとうなずいて見せた。
「そうかなぁ、なんだかリアルすぎて泣けないけどね」
 クールな奴め! しかもなかなか鋭い。
 とにかくわたしは話を続けた。話ついでに、ケンと始めて出会ったときの話、つまり前に書いた『スーパーでカツ丼事件』の話も披露した。ケンはわたしがカツ丼を渡したシーンで、さらに号泣した。
「いい奴っているんだなぁ、優しい奴っているんだなぁ」
 だがケンがそんなにも泣いているのを見て、なんだかわたしのほうが泣きたくなってしまった。
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 その時には言えなかったのだが、あの時、わたしはケンにこう言いたかったのだ。
『本当にいい奴っていうのは、ケン、君のことだよ。本当に優しい奴って言うのは、君のことだよ。君はなにも言わずに、無条件でわたしたち兄弟を受け入れてくれた。わたしはそれを片時も忘れたことはないよ』
 だがその時はこう言った。
「ケンちゃん、これはさ僕が初めて君に会ったときの話なんだよ」
「え? そうなの? そっかぁ、俺すっかり忘れたよ、じつはまだ思い出せないんだけどね」
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 その時だった……
 不意にコトラの目から涙が流れたのだ!
 涙が一筋スウッと頬を伝い、テーブルの上の皿に当たってキンッと音を立てた。
 あの日以来、初めての収穫だった。
「コトラ……おまえ涙が……」とケン。
「なんかケン兄ちゃんが泣いてるのを見たら……」
「もらい泣きか! なるほどな」
 わたしとケンはニヤリと笑った。
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 しかしコトラから涙を搾り取るのは楽な仕事ではなかった。
 それこそ普段の仕事よりも大変だった。
 しかも、もらい泣きの手はこの時しか通用しなかったのだ。
 それでもわれわれはこの『もらい泣き』の可能性に賭けていた。
 それは今考えてみると、かなり見当違いな方法だった。
 だがわたしたちは妙にその方法に夢中になった。
 なにしろネタは身の回りにたくさんあったからだ。
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「さて、今日のつらい話をはじめよう」
 しばらくはコレからスタートした。
 そしてケンとわたしでその日にあったつらいことを話した。コウジが相変わらず庭を散らかしただとか、夜中にお菓子を作らされただとか、ミクニ老人に叩かれただとか、そういう話だ。
「かわいそうになぁ、ケンちゃん!」わたしもついもらい泣きした。
「おまえこそ、今日はつらかったなぁ」ケンはわたし以上によく泣いた。
 だがコトラはちっとも泣かなかった。それどころかコトラのつらい話のほうがよっぽど泣けた。先輩に意地悪されただとか、客にクレームをつけられただとか、買出しに行ったら冷たくされたとか、コトラもまたずいぶんとツライ目にあっていたのだ。
「かわいそうだ!」「ひどすぎる!」「苦労かけてごめんな!」
 と結局はいつもわたしたちのほうが散々に泣かされてしまうのだった。
「兄ちゃんたちの涙が金になればよかったのにね」
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 そしてわたしたちはコトラ以上の悲劇を求めるようになった。
 つらいことがあると、話のネタが出来てうれしくなってしまった。
 だが、わたしたちはたぶんやりすぎたのだろう。
 次第に仕事が粗くなってしまった。
 それでとうとうミクニ老人の癇癪を破裂させてしまい、この計画はあえなく終わったのだった。
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 結局コトラの涙を回収する作戦はことごとく失敗した。
「もうあきらめよう」とケン。
「そうだな、なんだか疲れちゃったよ」とわたし。
「僕、自分で集めるようにするよ」
 コトラはそういった。そしてかばんの中からガラス瓶を取り出した。コトラの小さな手では片手で持てない大きさだ。緑色の缶の蓋を外すと、そこにはすでに一粒の金が入っていた。
「つまり俺たちの貯金箱だな」とケン。
「涙の貯金箱ってわけだ」とわたし。
「夢への貯金箱だね」とコトラ。
 わたしたち三人の結束は固かった!
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 そしてコトラの貯金箱には、ゆっくりと、少しずつ、金の砂粒が貯まっていった。
 あるときはあくびの涙、またあるときはブラックジャックで負けた時の悔し涙、仕事でつらいことがあったときの涙、笑いすぎた時の涙、ささいな嬉し涙、コウジとの衝突で生まれた悔し涙、転んだ時の涙、足の指を角にぶつけた時の涙、そういった様々な涙が貯金箱に積もっていった。
 そして二年が経過していった。
 その頃には貯金箱の半分が金で埋まっていた。それは汚れたビンの中でキラキラと輝いていた。
 貯金箱に詰まっていたのはすべてコトラの涙の結晶だった。
 それは金そのものよりも、ずっと価値のあるものだった。
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 その二年の間にはちょっとした変化もあった。
 コトラ・九歳は長年下働きをしていた食堂で、調理場へ移るようになった。パンを焼いたり、ご飯を炊いたり、肉を焼いたりといろんな料理を作れるようになった。コトラは少しずつだが着実に自分の夢へ向かって歩いていた。
「将来は自分のレストランを作るんだ。そしてめちゃめちゃ安くて、おいしい料理を作るんだ。街の子供たちにはタダで食べさせる食堂があって、金持ちには高いけどおいしいレストラン。そうすれば店はつぶれないと思うんだよね」
 なんともコトラらしい計画だった。
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 ケン・十五歳は屋敷の下働きをやめた。なんと彼は自分で建築屋さんを始めた。
 きっかけはミクニ老人の退職だった。ミクニ老人は腰を悪くして車椅子の生活を始めた。その時、彼の家のリフォームをケンが一人でやったのだ。屋敷での労働からケンはいろんな技術を覚えていた。大工仕事、塗装、配管工事に、電気工事、家にかかわる雑用はすべて身についていた。
「いやぁ、ミクニさんも奥さんも喜んでさ、いろんな爺さん友達に紹介してくれたんだよね。そうしたらお金持ちが結構いてさぁ、片っ端からリフォームしてくれって言われてさ。仕方なくやってたら、なんだかその人達もずいぶん喜んでくれてさ」
 ケンにはそういう才能があったのだ。長年の下働きからついに才能を開花させたのだ。今では街の浮浪少年を十人ばかり集めた小さな会社の社長だった。
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 そしてわたしレンジ・十四歳は学校に通うようになっていた。
 入学したのは一年前。最初は一年生からだった。周りは小さな子供たちばかり、字もかけないムニャムニャばかりだ。そのなかでやたらと背の高いわたし一人だけがぽつんと教室にそびえていた。
 ちなみにこの小学校に入れたのはヒダカ老人のおかげだった。なんとわたしに付き添って学校への入学をかけあってくれたのだ。もちろんお金はかかったけれど、ヒダカ老人がいなければ入学すらできなかっただろう。
 そして一年間でわたしは次々と学年を駆け上がっていった。その間にはあのコウジと机を並べた時期もあった。コウジはまだわたしを使用人と見なしていたから、わたしがクラスの兄貴分になっていることが面白くないようだった。
 だがそれも一瞬。十四歳になった時には、めでたく中学校にあがりコウジとは別の校舎に移っていった。
 学校の勉強は順調に進んだ。それでもわたしの胸はいつもムニャムニャでいっぱいだった。わたしは相変わらず将来の展望がもてないでいた。わたしには自分が何をしたいのか、どうなりたいのか、目標というものがまるで見つからないのだった。
 それでも人生は続く!
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 ちなみにこの二年間、財政状態は相変わらずだった。
 世間は不景気続きで物価は高かったし、給料が上がる見込みはなかったし、しかもマンションには親に捨てられた子供たちが、わたしたちを頼って続々と集まるようになっていたのだ。
 これに関して三人の意見は一致していた。わたしたちを頼るものがいたら、無条件に誰でも受け入れた。ケンちゃんはもとからそういう奴だったし、わたしたちはケンちゃんから恩義を受けた人間だった。その恩を、そのときの思いを忘れたことはない。だから頼ってきた彼らを助けないはずがなかった。
 わたしたちは彼らのために仕事を探し、働けないムニャムニャには食べ物を分けた。みんながつらい生活をしていたけれど、誰も文句を言わず、かつてのわたしたちがそうであったように、みんながお互いを思いやって生きていた。
 そうしなければ貧しさの中で生きていけなかったのだ。
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 わたしたちは不景気という荒海の中、一艘のボートに乗った仲間だった。みんなで必死にこのボートにつかまり、とにかく生き残ろうとしていた。そしてこのボートにはさらに次々と子供たちが乗り込んできた。
 この頃には二十人くらいの子供と三十人くらいのムニャムニャたちがわたしたちのマンションに身を寄せ、どの部屋もいっぱいになっていた。
 当時はそれだけ子供を捨てる親が多かったということだ。
 しかもわたしたちのマンションは子供が自活して暮らしていると有名になっていた。だから親も気軽にわたしたちのところに子供を捨てるようになっていたのだ。
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 以前に『ペットを捨てるな! 虐待するな!』と書いた。
 覚えているだろうか? もちろん子供に関しても同じである。
 子供だってまともに口もきけないし、自分で何かを決めることもできない。そういう存在を捨てたりいじめたりしてはいけない。
『子供を捨てるな! 虐待するな!』
 あらためてこう記しておこう。どんな理由をつけようと、それが正当化されることはない。
 また脇道にそれた。話を戻そう。
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 五十人という子供の数は、もちろんわたしたちの収入ではまかないきれなかった。
 いくらケンが稼ごうとも、コトラが働こうとも、まだまだ足りなかった。もちろん働く子供たちもいたが、働けないムニャムニャたちのほうが圧倒的に多かった。
 だがわたしたちはひたすら働き続けた。子供たちを受け入れることを決してやめなかった。一人だって拒絶しなかった。もう彼らは十分に傷ついているに決まっているから。
 わたしたちは本当に優しい奴らだった!
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 お金が回らなくなると、わたしたちは貯金箱の金に手をつけるようになった。出し惜しみする理由はない。その日食べる物がなければ、明日なんてやってこないからだ。ということで一月に一度のペースで再び質屋通いをするようになった。
 質屋のカゴ婆さんのところへ行く役は、ケンちゃんからわたしへと受け継がれていた。ケンちゃんは建築屋の仕事が忙しくなり、昼間に時間が取れなくなったのだ。それにずいぶんと通っていたから、もう交渉らしい交渉も必要ではなくなっていた。
「なんだい、またあんたかい」
 とカゴ婆さん。相変わらずピンクだらけの格好、金縁のめがねの奥では意地悪そうな目が光っている。さすがにもう騙そうとはしなかったけれど、いつ行っても嫌な顔をされるのだった。
「また(キン)を買ってください」
「金ねぇ、今日も一粒かい?」
「はい。今日のレートは調べてきました」
「ああ、そうかいそうかい。あいかわらず嫌な客だねぇ」
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 この頃はさらに金の相場が上昇していた。
 不景気という奴は日本だけでなく、世界中に広がっていた。だがそういう世の中にあって、この質屋はますます儲かっているようだった。おそらくカゴ婆さんはわたしたちから買い取った金をさらに上手に運用していたのだろう。
 つまりお金がお金を生むというシステムだ。
 ちなみに当時の金持ちの連中というのは、たいていこの方法でお金を稼いでいた。それもわたしたちには稼ぎようがないくらいの大金を、一瞬で稼ぎだしていた。
 たとえばヒダカ老人は株でお金を稼いでいた。大量の株の売買を繰り返すことで、汗一つかかずに、体一つ動かさずに、簡単に大金を稼いだ。
 カゴ婆さんは大量の金を売買することで、わたしたちが一生かかっても稼げない金額を稼いでいた。
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 労働とは働いてお金を稼ぐことである。だがはたしてこれも同じ労働だろうか?
 多少ながら世間が見えるようになったわたしは、いつも疑問に思っていた。
 銀行は人のお金を集めて配って、そこから多額の利益を得ていた。
 役所の連中は貧乏人たちから容赦なく巻き上げた税金で楽に稼いでいた。
 株主というのは会社員が稼いだ利益を我が物顔でかすめていた。 
 当時のわたしの目には経済の世界はそう写っていた。
 だが実際のところ、お金というのはそういうものなのだ。お金が大量にあればそういうことができてしまうのだ。つまり貧乏人にはどうやっても太刀打ちできない世界がすでにできあがっていたのだ。
 ……と、まだまだムニャムニャを続けたい気もするが、ヒダカ老人に墓の下から怒られそうだから、この辺でやめておこう。
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 さて、その日の取引はいつもと違った。
「はい、これね」
 カゴ婆さんはいつものように机の向こうからお金を滑らせてよこした。そこまではいつもと同じ。それをポケットに詰めていると、突然妙なことを言い出した。
「坊や、ひとつ聞きたいことがあるんだがねぇ」キラリとめがねの金縁が光った。
「なんですか?」
 するとカゴ婆さんがイスを滑らせ、ジリッとカウンターに身を乗り出してきた。どうやら内緒話のようである。
「じつはね、ここのところ、あんたみたいに金の粒を持ち込む客が増えてるんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ、そうさ。それもどいつもこいつも貧乏人ばかりでね」
「また騙して安く買い取ってるんでしょう?」
 たぶんそうしているに違いない。それにはかなり確信がもてた。カゴ婆さんは露骨に嫌な顔をしたが、話を続けたい様子だった。
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「まぁ、それはこのさい置いといてだね。職無しの連中がちょこちょこと持ち込んでくるんだよ。最初は一粒だったのが、あたしが高値で買い取るのを知ると、二粒三粒ってどんどんもって来るんだよ、最近じゃ毎日のように誰かしら来るんだよ」
 わたしは嫌な予感がした。じっさい背筋に震えが走った。
 これはとんでもないことが起きているのかもしれない。それも嫌なこと、悲しいことが起きているのかもしれない。
「それで?」わたしはそう聞いた。
「それであたしにはぴんと来た。どこかにまとまって落ちてる場所があるんじゃないかってね」
(キン)が落ちてるわけないでしょう?」
「そうトボケなくてもいいだろぅ? どぉ? あたしにこっそり教えてくれないかい? あたしも拾いに行きたいんだよぉ」
 拾いにいきたいんだよぉ、は甘えたような嫌な口調だった。
「だから落ちたりなんてしてませんよ」
「またまた、トボケるんじゃないよ。ねぇ、どこに落ちてるんだい? もちろんあんたにはちゃんと手数料を払うからさ。教えとくれよ、ね?」
 どうせ払うわけはない。だがどちらにしても交渉にならなかった。落ちているわけではないのだから。それにコトラの涙の秘密だって教えるつもりはなかった。そんな事を知ったら、この強欲な老婆が何をするか分かったものではないからだ。
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 その話はわたしに恐れを抱かせた。
 その恐れとは、子供たちがひどい目にあっている、という恐れだった。
 もしカゴ婆さんの話が本当なら、コトラのように金の涙を流す子供が増えてきているということだ。そしてそれが頻繁に持ちこまれるということは、それだけ子供が涙を流しているということだ。
 いったいどんな手段で子供を泣かすのか? 大人たちが考えそうなことは一つしかない。暴力だ。まして貧乏な大人たちは、お金を稼ぐためなら何でもやりかねない。
 その時、一人の客が現れた。
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「いらっしゃい」とカゴ婆さんは不機嫌そうな声で迎えた。
 振り返るとボロボロのスーツを着た四十代くらいの男の姿があった。髪はぼさぼさで目が少し血走っている。男は右手を握り締めていた。そのこぶしに血の跡が見えたような気がした。それは気のせいなのだろうか? わたしは心臓がどきどきした。
「ここで、(キン)を買い取ってくれると聞いたんだが?」
 男はあたりをきょろきょろと見回しながらそういった。そしてわたしに目をとめると、睨みつけるような視線を送った。
 その男が発散する空気にわたしは吐きそうになった。
「ええ、ええ、もちろん買い取りますよ」
 カゴ婆さんはわたしに耳打ちした。
(この話はまた後でするわ、考えておいてね)
 わたしは逃げるようにしてその場を立ち去った。
 その背後でカゴ婆さんの声が聞こえた。
「なんだい、これは。贋物じゃないか。でもまぁ、ビーズくらいにはなるからねぇ、まぁ一粒三千円なら買い取ってもいいよ。これでも結構高いと思うけどね……」
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 その晩、わたしはケンとコトラに質屋での出来事を話して聞かせた。
「じつは俺も最近妙だなと思っていたんだ」
 ケンは重々しくそう切り出した。
「最近、街の子供で青痣を作ってる子供が多いと思っていたんだ。やけに怪我をする子供が増えたなって、それぐらいにしか考えてなかったけど」
「そうだったのか、僕の学校ではそういう変化は何もなかったから」
「レンジ兄ちゃんの学校は金持ちの子供ばかりだからね。たぶん貧乏なうちの子供しか金の涙が出ないんだよ」
「そりゃまた、どうしてだ?」とケン
「僕はあの時さ、はじめてあの涙を流した時にさ、本当にお金が欲しいと思ったんだ。だからそういう涙が出るようになったんだと思うんだよ」
「そういう強い思いみたいなものが金の涙を流させたってわけか?」とわたし
「そう! だから金持ちの子供には出ないんだよ」
 コトラは全く鋭い子供だった。
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「そういえばカゴ婆さんも、貧乏人ばかりが来るって言い方してたな。やっぱりコトラの言うことが正しいのかもしれない」
 そしてコトラもこのことについて話してくれた。
「そういえば、僕の手下の子供にもさ、最近家にこもって出てこなくなった子がいるんだ。誘っても親に追い返されちゃうんだよね。今考えてみると、あいつらも金の涙を流すようになったのかもしれないな。それで親に閉じ込められちゃってるんだよ」
「そう考えるとつじつまが合ってくるな」とわたし。
「ってことは、この街のあちこちでコトラみたいに金の涙を流す子が現れたって事か?」ケンも同じ結論にたどり着いた。
「たぶんそうだと思う」
 わたしは二人にうなづいた。
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 今思えば、それは十分に考えられることだったのだろう。予想できたことだったのだろう。だがわたしたちはそれに気づけなかった。もちろん自分たちが生きていくことで精一杯だったからだ。しかし気づいたからにはなんとかしなければならない。
「……まだ間に合うと思う」
 わたしはそう続けた。
 二人はきょとんとした顔をしていた。
「僕たちもコトラから金の涙を取った」
「ああ、あれは楽しかったな。どれも駄目だったけど」とケン
「だめに決まってるよ。あんなんじゃ泣けないよ」とコトラ
「でも、世間の大人たちは僕たちみたいにはやらないだろう」
 その言葉で二人にも、わたしが何を言おうとしているのか伝わった。
「今も金の涙がカゴ婆さんのところに持ち込まれている。それだけ多くの子供が涙を流しているんだ。それは叩かれたり、殴られたりして流されたものかもしれない」
「でも、親が子供をぶったりするかな?」とコトラ。
 コトラには両親と暮らした記憶がない。彼が一緒に暮らしてきたのは兄のわたしと、親友のケンだけだ。そしてわたしたちはいつでも仲よしの家族だった。コトラが想像できないのも無理はない。
「ああ、本当の親だから、ぶつよ。ぶつし、殴る」
 とケンがつぶやくように言った。
 それはわたしもはじめて聞く話だった。
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「俺にもむかし親父がいたんだ。五歳くらいまでかな。ひどい酒飲みで、母さんは俺を置いて、とうに逃げ出していた。いつもカネがなくて、盗みをさせたり、物乞いさせたり、ゴミを拾いに行かせたり、本当にひでえ奴だった。それでたまに酒が手に入ると、酔って暴れて、理由もなしに俺を殴ってさ。俺の知ってる親ってのはそういうもんだった。だから俺は逃げ出した。それから親父がどうなったかは知らないし、知りたくもない。俺は町を出て、マンションを見つけて、レンジに会って、コトラにも会って、それで家族になってさ。俺はさ、家族がこんなにもいいもんだとは知らなかったんだ……」
 ケンはぼそぼそとつぶやくようにそう語った。
「……だからさ、そういう子供たちがいるなら、俺は救ってやりたい」
「ボクも同じだよ。知らないふりはできない」
 コトラもそういった。
 そして二人はわたしを見た。
 もちろんわたしも同じ気持ちだった。
「見過ごせないよね、やっぱり。僕たちで子供を助けよう」
 📖
 こうして後の『子供十字軍』は誕生した。
 わたしたちの十字軍は子供により編成され、子供たちを助けるための軍団だった。
 子供たちを、カネに目がくらんだ悪い大人たちから救いだすための軍団だった。
 そしてそれからの一年間、わたしたちは大人相手に戦いを続けることになる!
 なんという子供たち!
 そしてこの四冊目は終わる!

 ~ 涙の貯金箱 終わり ~
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 わたしたちの戦いは始まった!
 が、その前に子供十字軍が誕生した瞬間のことをもう少し記さねばならない。
 家族会議は毎晩のように開かれた。
「まずは、誰を助けるかを探るんだ。親から暴力をうけたりして、泣かされている子供をひとりずつ見つけよう」
 子供救出作戦のリーダーはわたしだった。
 この頃はなにかとリーダー役を引き受けるようになっていた。
 学生になってからというもの、一番自由な時間が多かったからだ。
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「それなら、ここの子供たちに質屋さんを見張らせたらどうかな?」
 十歳にはなったが、まだまだ子供のコトラが言った。コトラはこのマンションに住んでいる子供たちの兄貴分であり、子供たちにも、それより小さなムニャムニャにもずいぶんとなつかれていた。
「そうだな、子供たちなら目立たないし、尾行もしやすいな……よし、それで行こう! 偵察任務の指揮はコトラに任せる」
「うん、任せといて!」
 コトラは張り切って敬礼した。
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「なぁ、俺は? 俺はなにしたらいい?」
 とは十六歳になったケンちゃん。
 ケンちゃんも何かと忙しい身なのだが、こちらもずいぶんと乗り気だった。
「ケンちゃんには子供たちを隠す場所を作ってほしいんだ。ほら、せっかく助けても親が連れ戻しに来ると思うんだよね。だから、子供たちを安全に隠せる場所が必要になると思うんだ」
 わたしたちのマンションは近所ではすでに有名になっていたから、まず真っ先に疑われるに違いなかった。
「オーケーオーケー! それなら俺にうってつけだ。俺はこの建物を知りつくしてるからな、秘密基地ならいくらでも作ってやるぜ」
 ケンちゃんはグッと握りこぶしでポーズを決めた。
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「それともう一つ……」わたしは言葉を続ける。
「……このマンションが疑われた時の用心に、ミクニ老人の知り合いの人たちに、かくまってもらえないか頼んでみたらどうかと思うんだよ」
 ミクニ老人は引退してからというもの、わたしたちとすっかり仲良くなっていた。以前の怖い面影はまったくなく、わたしたちにいつも親切にしてくれていた。
「どうかな、ケンちゃん? しばらくなら、かくまってくれると思うんだ」
「おまえって、ほんと天才だな……握手させてくれ」
 ケンちゃんはわたしの手を取ってブンブンと力強く握手した。いくつになっても変わらずに、感動屋で気のいい奴だった。
「まったくいい考えだぜ。口のかたいジジババ選びはまかせろ」
 二人は実に満足そうだった。そんな二人の姿を見て、わたしもまた大満足だった。
 だがもう一つ、大事なことを告げねばならない。
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「それで僕は、すべてを判断する役になる。誰を連れてくるとか、どこへ運ぶとかそういったこと、それに連れ出すのも僕がやる」
「うん、わかった」とコトラ。ケンもうなずいた。
「ここでひとつ忘れないで欲しいのは、責任は全部、僕にあるということだ。もし警察沙汰になったり、なにかのトラブルがあった時は、僕一人だけが犠牲になる。それを忘れないで欲しいんだ」
 わたしは正義感に燃えていたわけではない。ヒーローになりたかったわけでもない。
 それは冷静に考えてのことだった。
 ちょっぴりそういう気分があったのは確かだけれど、それだけではない。
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「僕たちの家族を、ここの五十人の子供たちを守るのが一番大事なことなんだ。それにはコトラとケンちゃんがどうしても必要だ。君たちだけは、なにがあっても、そういうトラブルに関わらないでほしい。分かってくれるよね?」
「でも、おまえだけが捕まるなんてことになったら……」
「その時はケンちゃんとコトラで僕たちの家族を守るんだ。それを約束してくれないと、この戦いははじめられないんだ!」
「レンジ兄ちゃん、そこまで……」とコトラ。
「レンジ、約束するぜ!」とケン。
 わたしたちはヒシッと三人で抱き合った。まだ何も始めていないというのに、ずいぶん盛り上がっていた。
「でも安心してくれ、僕はきっとうまくやる!」
 そう宣言したのが、十五歳になったわたしだった。
 人生は続く!
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「ところでさぁ、」
 と会議も終わろうという時にコトラが切り出した。
「あのさ、軍団名とか合図とかを決めたほうがいいと思うんだよね」
 どうやらコトラはそれが一番気になっていたようだった。
 このムニャムニャめ。とは思ったがいかにもコトラらしい。
「お前も大人になったなぁ、いいアイデアだぜ!」
 ケンちゃんはすでにコトラと熱い握手を交わしていた。
「なんかアイデアがあるのか?」
 わたしがコトラにふると、コトラは待ってました、といわんばかりの笑みを満面に浮かべた。
「実は考えてたんだけどさ、子供十字軍ってのはどうかなぁ」
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 ちなみにコトラは歴史上の『十字軍』のことは知らなかったと思う。
 その中に『少年十字軍』というのが存在していたことも知らなかったはずだ。
「十字軍! おまえ、サイコーだな! それだよ、絶対決定だぜ!」
 とケンちゃん。めちゃくちゃにコトラの頭をなでまわしている。
 もう言うまでもなく決定だった。わたしもなかなかぴったりな名前だと思った。それでついでに聞いてみた。
「それで、合図はどうするんだよ? 考えてあるんだろ?」
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 コトラは得意そうに鼻を膨らませ、右手の人差し指と中指を並べてぴんと立てた。それから左手をゆっくりと横に伸ばし、同じように指をピンと立てた。その伸ばした指先を顔の前で十字に交差させた。なにか忍法の構えのようだ。
「くーっ! カッケェェ!」
 ケンちゃんは言うが早いか、早速ビシッとポーズを取った。
 またも決まりだった。で、わたしもポーズをとった。
 十字軍! やってみるとなんだか団結力が強くなった気がした。
「このマークが僕たちの合図だ!」
 わたしたちは指で十字を作り、にんまりと笑った。
 ちなみにこのポーズ、現在に至るもまだ有効である。
 コトラと会ったとき、ケンちゃんと会ったとき、そしてかつてマンションにいた仲間たちと会ったときにも、最初の挨拶はこれだ。二本の指で十字を作る。
 子供十字軍よ、永遠なれ!
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 さてその会議から三日後のことである。
 最初の通報がもたらされた。
 わたしは中学校から帰ってきたところ。夕暮れのオレンジがわたしたちのマンションを赤々と照らし出していた。その入り口のところでボーズ頭の男の子が待っていた。
 彼の名前はヒカル。名前どおり彼のボーズ頭は夕陽を受けてピカピカと光っていた。ヒカルはわたしの姿を見つけると、すぐに十字のマークを作って合図した。
「レンジ兄さん、ハッケンしました!」
 ちなみにマンションの子供たちは、わたしのことをレンジ兄さんと呼んでいた。ケンちゃんはケン兄さん、コトラだけはなぜか、コトラと呼び捨てだった。
「わかった。すぐ行ってみよう」
 わたしは決意を込めてうなずいた。
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 それからわたしはヒカルと一緒に質屋まで走った。
 カゴ婆さんのあの質屋である。
 この界隈で(キン)を買い取るのは相変わらずこの店だけで、金を手に入れた大人がまず向かうのはこの店だった。
 質屋はちょうど店の明かりをつけたところだった。蛍光灯がまたたいて白い光を放ったが、あたりに人の姿はなかった。
「あ、あそこです」
 ヒカルがビルの隙間を指さした。ビルの隙間のところ、ゴミ箱の陰から小さな人影がスッと出てきた。今度はぼさぼさの長い髪の男の子だった。
 彼の名前はナガイ。髪が長いからナガイ。ナガイもさっと指で十字を作った。わたしたちが同じく十字の合図を返すと、ササッとわたしたちのところに走ってきた。
「レンジ兄さん、ターゲット発見しました!」
 すっかり秘密組織なのだった!
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「ごくろうさん、ナガイ君。家は分かったのかい?」
 わたしは緊張感をたたえ、声を落としてそう聞く。十五歳だったがやっぱり子供。わたしは正義のヒーローになった気分だった。じつはこうして書いている今でも背中がゾクゾクしてくる。でもあの時はやっぱり緊張していた。
 それはともかく、わたしたちは三人ですぐに物陰に隠れた。周囲には誰一人いなかったのだが、ひそひそと会話を交わした。
「はい、最後までビコウしました!」
「よし、今日は様子を見るだけだ。もしそこの子供がいじめられているようなら、次の日にでも助けに行こう」
「リョウカイ!」
 こうして子供十字軍の第一回遠征ははじまった。
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 ナガイが先頭を歩いた。ポケットに手を突っ込み、なにげない風を装いながらも、つねに前後左右をササッと確認している。
 そして歩道をはさんで反対側をわたしが歩いた。いかにも学校帰り、という風だが、やはり周囲に油断なく気を配っていた。
 さらに後ろをヒカルが歩いた。さりげなさの演出だろうが、口笛を吹いていた。
 わたしたちは緊張感をいっぱいにたたえて、二十分ほど歩いた。
 やがてボロボロのアパートが並んでいる一帯についた。ナガイは目的の家をわざと通り過ぎたところで、横丁の空き地に入り込んだ。すっかり日が暮れて、あたりはすでに暗い。街灯は立っていたけれど、どれも電気はついていなかった。
「あのアパートの二階、右から三番目の部屋です」とナガイ。
 首を伸ばして見てみると、その部屋にだけ電気が灯っているのが見えた。
 まずは調査開始!
 📖
「まわりの部屋には誰も住んでないみたいです」
 と、いきなりヒカルが報告した。なんとそこまで調べてあったとは! わたしは驚いてしまった。
「すごいね、よく調べたね」
 ヒカルはほめられたのが嬉しかったのか、ボーズ頭が真っ赤になってしまった。
「昼間に男の人が来て、キンをカネにかえていきました。それで、僕とナガイで、ここまでアトをつけてきて、夕方まで見張ってたんです。近くも通ったけど、誰も住んでない感じでした。お母さんもいないみたいです」
「ほんとによくやってくれた。ナガイ君もありがとう。君たちはしばらくここで待っていてくれ。僕がひとりで行ってみる」
 二人は神妙にうなずいた。そしてわたしは学校の鞄を二人に預けた。
「誰かが来るようだったら、何か合図してくれ」
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 わたしは足音をひそめ、腰をかがめて、アパートへと近づいていった。それはとうの昔に放棄されたアパートだった。ほとんどが窓も扉もついていない。わたしたちのマンションの方がずっと上等だった。
 わたしはしばらくその場にとどまってから、二階への階段を上りだした。
 金属の階段はさびてボロボロでギイギイときしんだ。その音に怯えながらも、ゆっくりと二階へと昇っていく。
 不思議と恐怖心はなかった。ヒカルとナガイがわたしを英雄として見守っているのだ。かっこ悪いところは見せられない。
 そして扉に張りついた。
 すると扉の奥から子供の泣き声が聞こえてきた。
 📖
 わたしは扉に身を寄せ、ジッと中の声を聞いた。辺りは静かで、扉は薄く、聞こえてくる声はくぐもってぼんやりとしか聞き取れない。それでも子供が泣いているのだけははっきりと分かった。
 この時、扉の向こうから漏れてきた会話を書く気にはなれない。当時も聞いていられなかった。
 わたしはこぶしを固め、いますぐにでも助けに行きたいのを必死にこらえていた。
 だが同時に恐怖も感じていた。だいの大人が怒鳴り声を上げていたのだ。その獣じみた声は、本能的に恐ろしかった。
 そして子供の泣き声。悲しみと恐怖のありったけが詰まった、魂の底から搾り出すような、そんな泣き声だった。
 さらに忘れることのできない音。
 それはパシンと肉を叩くようなにぶい音だった。
 それに続く子供の泣き声。ただただあやまる声……
 泣きたいのはわたしの方だった。
 📖
 男の声は酔っていた。
 ろれつが回らなくなって、意味不明の言葉を怒鳴り散らしていた。
 わたしはその全てを聞いた。
 怒りに震えて聞いた。
 悲しみにまみれて聞いた。
 すぐに助けに行かないことに恥ずかしさを感じながら聞いた。
 もう証拠は要らない。
 これだけ聞けば十分。はっきり見る必要などなかった。
 📖
 心の中で決心が固まっていくのを感じた。
 なんとしてもやり遂げる。なんとしてもこの子を助けるのだ!
 しかも完璧にやらなくてはならない。
 この戦いはこの先も続いていくものだからだ。
 わたしは扉からはなれて、階段を下りていった。
 もう恐怖心は完全に消えていた。
 わたしの胸には確固たる決意がみなぎっていた。
 📖
「いましたか?」
 空き地に着くとヒカルがそう聞いてきた。
 ナガイも心配そうな顔でわたしのことを見ている。
「ああ、いたよ。間違いない……」
 わたしはこの瞬間になにか別の存在になった。
 今のわたしに近いものになった。
 それまでわたしは子供を救うというのがどういうものかわかっていなかった。
 どこか遊びに近いものだと思っていたのだ。
 だが違う。これはもっと崇高で大切な使命だ。
「……ここで子供がつらい目にあっている」
 二人がわたしのことをジッと見つめている。
 ヒカルとナガイもまた同じような思いをしてきたに違いない。
 だからこそ、だ。
「絶対に子供を助けるぞ!」
 📖
 それからわたしは声を潜めて、次の指令を出した。
「これからあの男の行動を見張ってくれ。あいつはもう一度あの質屋に行くはずだ。その時に僕を呼びに来て欲しい。あいつが出かけている間に子供たちを救い出す」
「リョウカイ!」
 ヒカルとナガイはそう言って、一緒に十字の合図を指先に結んだ。
「それから君たちもくれぐれも気をつけてくれよ。夜は危険だからね。それから交代を誰かに頼むから、ちゃんと休みを取るんだよ」
 いよいよ、作戦開始だ!
 📖
 翌日の昼頃のことである。
 わたしは授業を受けているところだった。だがその日はまったく勉強に身が入らなかった。作戦のことが気になってしょうがなかったのだ。時計の針をずっと気にしていると、窓の外から子供が呼ぶ声が聞こえた。
「レンジ兄さん!」
 わたしはすぐに窓辺に駆け寄った。先生も、クラスの連中も、突然立ち上がったわたしを不思議そうに見ていた。
 だがかまいはしない。
 📖
 二階の窓から外を見下ろすと、校門のところに指を十字にしている子供の姿が見えた。
「どうしたんだね、レンジ君?」と先生。
「気分が悪いので早退します!」
 わたしは元気いっぱいに答えた。すぐにカバンをまとめ、ざわめいているクラスの連中を後にしてわたしは走り出した。廊下を走り、階段を駆け下り、玄関で靴を履き替え、あっというまに校門に走りつく。
「レンジ兄さん、あの子のお父さんがカゴおばあさんのとこに行きました」
「わかった! どうもありがとう。僕は先に走っていくから、君はこのカバンを持って先にマンションに戻ってくれ」
「リョウカイ!」
 その子はカバンを肩にかけ、十字を掲げてわたしを見送った。
 📖
 わたしは全速力で走り出した。
 学校から質屋までは歩いて五分、走って一分の距離にあった。あっという間に質屋の裏手につくと、路地裏にナガイの姿が見えた。
「父親はいまこっちに向かってるとこです。ヒカルが空き地で待ってます!」
「わかった。見つからないように隠れてるんだぞ」
 わたしはまた走り出した。昨日の夜こわごわと歩いた道を、飛ぶように走り抜けていく。
 そして道の半ばで、一人の男とすれ違った。
 ボロのコートを羽織った浮浪者のような男だった。髪はくちゃくちゃ、血走った目はとろんとしていて、そのくせ口元にはニヤついた笑いを浮かべていた。足元は酒のせいでふらついている。
 📖
(たぶんこいつだ……)
 わたしは速度を落とさず、目を合わさずに、道の反対側を走り抜けていった。
 やがて空き地の中に入り込んだ。そこにはヒカルがいた。ヒカルはわたしの顔を見ると、十字のサインを作ってから話し出した。
「さっき出て行きました」
「僕も途中ですれ違った」荒れた息を整えながら、そう言った。
「ヒカル君、周りの様子を見張っててくれ。もしあいつが帰ってきたら、その辺の空き瓶を叩き割ってくれ、その音を聞いたらとりあえず逃げてくる」
 わたしは最後に一息ついた。すっかり息は戻っていた。
 ここからは冷静にやらなくちゃならない。
 わたしはアパートに向けてダッと走り出した。
 📖
 扉に張り付くと、そっとノックをしてみた。
 返事はない。もう一度ノックをしてみた。やはり返事はない。
 そっとドアノブを回す。
 鍵が掛かっている……と思いきや、ノブは意外にもするりと回った。
 汗がでた。いよいよだ。だが、ここから先は計画がなかった。
 誰にどういえばいいのかも考えていなかった。
(それでも、とにかくやるしかないんだ)
 わたしはドアを開き、昼だというのに薄暗い部屋の中に足を踏み入れた。
 📖
「突然でごめん。僕の名前はレンジ。君と話したい事があって来たんだ」
 わたしは誰もいない部屋に向かってそう言った。
 閉ざされたカーテン、部屋の中は酒瓶とゴミがあふれている。
「なぁ、怖がらなくていい。助けに来たんだ。出てきてくれないか?」
 まだ誰も出てこない。玄関には靴が二足、きちんと揃えて置いてあった。
 ひとつは手の平にのるほどの小さな靴、もう一つは赤い色の運動靴だった。
「怪しいやつじゃないんだ、警察とかじゃないけど」
 やっぱり出てこない。まぁそれもそうだ。いきなり知らない人が来たらびっくりするのは当然だ。だが今は時間がない。
 わたしは靴を脱ぎ、部屋の中に足を踏み入れた。 
 📖
 と。そこに美しい女の子がいた。
 年のころはわたしと変わらない、その時はそう思ったが実際は三つ年上だった。髪が長くて、目がパッチリとしていて、唇がまたなんともいえずかわいらしかった。
「あ……」
 わたしは完璧に固まった。見とれることしかできなかった。彼女はボロボロの洋服にエプロンをつけていたのだが、まるでいじめられていたときのシンデレラのようだった。
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 さてさて、褒めるのもその辺にしておこう。
 というのも彼女は、その後わたしと結婚することになるからだ!
 もちろん今もそばにいる。
 そばにいて百人あまりの子供たちの母親となっている。
 それにしてもなんという衝撃的な出会いだったことか!
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「あ、あの突然すいません……」
 わたしは完璧に緊張していた。クラスにも女の子はいたけれど、こんなに綺麗な子を見たのは初めてだったのだ。
 彼女はその綺麗な瞳で、わたしをじっと見つめていた。見つめられたわたしは真っ赤になっていたと思う。
「ぼ、僕は、レ、レンジ……」
 なんだかわたしの自己紹介はいつもこんな感じになってしまうが仕方ない。
 と、彼女の背後に男の子が隠れているのに気がついた。男の子は彼女のスカートをしっかり握り締め、ちょっとだけ顔を出してわたしを見つめていた。たぶん五歳か六歳。ほっぺたのあたりが少し腫れていた。
 その姿を見てわたしはここに来た目的を思い出した。
 緊張なんてしている場合じゃなかった。
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「僕はあなたたちを助けに来たんです。この子の涙が(キン)になる、そうでしょう? 君のお父さんはそれを取るために、この子をぶっている。僕は、僕たちはそういうことを知ってるんです。それで君たちを助けに来たんです」
 男の子はわたしが話しだすと、またお姉ちゃんの陰に隠れてしまった。
「とにかく信じて欲しい。僕と仲間が君たちの事を守ってあげる。ちゃんと守ってあげる。だから、僕と一緒に来ないか? 来てくれないか?」
 少女はまだ何もしゃべってくれなかった。だが迷っているのはよく分かった。
 今! 今こそ頑張らなければならない!
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 わたしは必死に言葉をつなぐ。
「君が迷うのもわかる。君たちにとってはたった一人の父親だからね。でもこのままじゃ君たちはその父親に不幸にされてしまう。僕の仲間にもそういう奴がたくさんいるんだ。だから僕は君たちを救いたいんだ。ねぇ、返事を聞かせてくれないか?」
 すると少女はエプロンのポケットに手を入れた。そして紙と鉛筆を取り出した。そこにさらさらっと何かを書きつけ、わたしに渡した。そこには綺麗な字でこう書いてあった。
『わたしはしゃべれません。あなたの話は嬉しいけれど、どうすることもできないのです』
 なにがわたしを駆り立てたのだろう?
 やり場のない怒り?
 救われない悲しみ?
 たぶん血がつながっているという理由だけで、親を選ぶ少女の態度が許せなかったのだ。
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 わたしはその場でメモをビリビリに破り捨てた。
 少女はハッとした表情で、それから怯えたようにわたしを見つめた。
「しゃべれないのは関係ない。どうすることもできないなんてのも嘘だ。君は今ここで決断をするべきだ。暴力をふるう父親に怯えてずっと暮らすのか、子供ばかりだけど、ちゃんとした家族の中で暮らすのかを。君自身と、君の弟のために、どちらが正しい道なのかを。これが最初で最後のチャンスなんだよ。時間がないんだ」
 少女は背後に隠れていた弟を見た。弟は姉の顔をジッと見上げていた。
 少女は弟の髪をなで、腫れている頬に触れた。
「僕たちは君と君の弟を全力で守る。約束する。だから僕と一緒に来てくれ!」
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 少女はわたしをじっと見ている。わたしが信用できるのか見ている。
 だからわたしは彼女をまっすぐに見つめ返した。
 部屋の中は薄暗く、ほとんど物がなかった。あるのは机代わりのダンボール箱と、部屋の隅にたたまれた布団くらいだった。そのがらんとした空間の中で、少女はわたしの決意をはかるようにジッとわたしを見つめていた。
 そしてコクンとうなずいた。
「よかった!」
 わたしが手を伸ばすと、彼女は細い指先でわたしの手をとった。
「荷物はなにもいらない。君たちの父親が帰ってくる前にここを出よう」
 わたしは男の子を抱き上げた。ずっとコトラの面倒を見てきたし、マンションに来た大勢の子供たちの面倒を見てきた。子供の扱いはプロだ。たぶんそれが男の子を安心させたのだろう。すぐにわたしの首に手を回し、首もとに顔をうずめてきた。
「もう大丈夫だよ。急ごう! ぼくたちの家へ」
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 こうしてアパートを後にした。
 階段を急いで下りて、空き地のヒカルと合流する。そしてヒカルの案内で、暗い路地裏ばかりを歩いて、マンションへと走った。
 十階建てのボロボロのマンションは、彼女には少し不気味に見えたかもしれない。
 しかしこのマンションこそ、わたしたちみんなの我が家であり砦だった。
「ここが僕たちの家だよ。今は僕たち子供しか住んでいないんだ」
 彼女はますます不安そうな様子でマンションを見上げていた。
 まぁ無理もないだろう。かなり年季が入っていたし。
 そして玄関ではケンちゃんとコトラが待っていた。
「おかえり! レンジ」とケンちゃん。
「ようこそ、僕たちの家へ」とコトラ。
「ただいま、みんな!」
 こうして初めての誘拐は大成功に終わったのだった。