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 その二年の間にはちょっとした変化もあった。
 コトラ・九歳は長年下働きをしていた食堂で、調理場へ移るようになった。パンを焼いたり、ご飯を炊いたり、肉を焼いたりといろんな料理を作れるようになった。コトラは少しずつだが着実に自分の夢へ向かって歩いていた。
「将来は自分のレストランを作るんだ。そしてめちゃめちゃ安くて、おいしい料理を作るんだ。街の子供たちにはタダで食べさせる食堂があって、金持ちには高いけどおいしいレストラン。そうすれば店はつぶれないと思うんだよね」
 なんともコトラらしい計画だった。
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 ケン・十五歳は屋敷の下働きをやめた。なんと彼は自分で建築屋さんを始めた。
 きっかけはミクニ老人の退職だった。ミクニ老人は腰を悪くして車椅子の生活を始めた。その時、彼の家のリフォームをケンが一人でやったのだ。屋敷での労働からケンはいろんな技術を覚えていた。大工仕事、塗装、配管工事に、電気工事、家にかかわる雑用はすべて身についていた。
「いやぁ、ミクニさんも奥さんも喜んでさ、いろんな爺さん友達に紹介してくれたんだよね。そうしたらお金持ちが結構いてさぁ、片っ端からリフォームしてくれって言われてさ。仕方なくやってたら、なんだかその人達もずいぶん喜んでくれてさ」
 ケンにはそういう才能があったのだ。長年の下働きからついに才能を開花させたのだ。今では街の浮浪少年を十人ばかり集めた小さな会社の社長だった。
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 そしてわたしレンジ・十四歳は学校に通うようになっていた。
 入学したのは一年前。最初は一年生からだった。周りは小さな子供たちばかり、字もかけないムニャムニャばかりだ。そのなかでやたらと背の高いわたし一人だけがぽつんと教室にそびえていた。
 ちなみにこの小学校に入れたのはヒダカ老人のおかげだった。なんとわたしに付き添って学校への入学をかけあってくれたのだ。もちろんお金はかかったけれど、ヒダカ老人がいなければ入学すらできなかっただろう。
 そして一年間でわたしは次々と学年を駆け上がっていった。その間にはあのコウジと机を並べた時期もあった。コウジはまだわたしを使用人と見なしていたから、わたしがクラスの兄貴分になっていることが面白くないようだった。
 だがそれも一瞬。十四歳になった時には、めでたく中学校にあがりコウジとは別の校舎に移っていった。
 学校の勉強は順調に進んだ。それでもわたしの胸はいつもムニャムニャでいっぱいだった。わたしは相変わらず将来の展望がもてないでいた。わたしには自分が何をしたいのか、どうなりたいのか、目標というものがまるで見つからないのだった。
 それでも人生は続く!
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 ちなみにこの二年間、財政状態は相変わらずだった。
 世間は不景気続きで物価は高かったし、給料が上がる見込みはなかったし、しかもマンションには親に捨てられた子供たちが、わたしたちを頼って続々と集まるようになっていたのだ。
 これに関して三人の意見は一致していた。わたしたちを頼るものがいたら、無条件に誰でも受け入れた。ケンちゃんはもとからそういう奴だったし、わたしたちはケンちゃんから恩義を受けた人間だった。その恩を、そのときの思いを忘れたことはない。だから頼ってきた彼らを助けないはずがなかった。
 わたしたちは彼らのために仕事を探し、働けないムニャムニャには食べ物を分けた。みんながつらい生活をしていたけれど、誰も文句を言わず、かつてのわたしたちがそうであったように、みんながお互いを思いやって生きていた。
 そうしなければ貧しさの中で生きていけなかったのだ。
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 わたしたちは不景気という荒海の中、一艘のボートに乗った仲間だった。みんなで必死にこのボートにつかまり、とにかく生き残ろうとしていた。そしてこのボートにはさらに次々と子供たちが乗り込んできた。
 この頃には二十人くらいの子供と三十人くらいのムニャムニャたちがわたしたちのマンションに身を寄せ、どの部屋もいっぱいになっていた。
 当時はそれだけ子供を捨てる親が多かったということだ。
 しかもわたしたちのマンションは子供が自活して暮らしていると有名になっていた。だから親も気軽にわたしたちのところに子供を捨てるようになっていたのだ。
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 以前に『ペットを捨てるな! 虐待するな!』と書いた。
 覚えているだろうか? もちろん子供に関しても同じである。
 子供だってまともに口もきけないし、自分で何かを決めることもできない。そういう存在を捨てたりいじめたりしてはいけない。
『子供を捨てるな! 虐待するな!』
 あらためてこう記しておこう。どんな理由をつけようと、それが正当化されることはない。
 また脇道にそれた。話を戻そう。
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 五十人という子供の数は、もちろんわたしたちの収入ではまかないきれなかった。
 いくらケンが稼ごうとも、コトラが働こうとも、まだまだ足りなかった。もちろん働く子供たちもいたが、働けないムニャムニャたちのほうが圧倒的に多かった。
 だがわたしたちはひたすら働き続けた。子供たちを受け入れることを決してやめなかった。一人だって拒絶しなかった。もう彼らは十分に傷ついているに決まっているから。
 わたしたちは本当に優しい奴らだった!
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 お金が回らなくなると、わたしたちは貯金箱の金に手をつけるようになった。出し惜しみする理由はない。その日食べる物がなければ、明日なんてやってこないからだ。ということで一月に一度のペースで再び質屋通いをするようになった。
 質屋のカゴ婆さんのところへ行く役は、ケンちゃんからわたしへと受け継がれていた。ケンちゃんは建築屋の仕事が忙しくなり、昼間に時間が取れなくなったのだ。それにずいぶんと通っていたから、もう交渉らしい交渉も必要ではなくなっていた。
「なんだい、またあんたかい」
 とカゴ婆さん。相変わらずピンクだらけの格好、金縁のめがねの奥では意地悪そうな目が光っている。さすがにもう騙そうとはしなかったけれど、いつ行っても嫌な顔をされるのだった。
「また(キン)を買ってください」
「金ねぇ、今日も一粒かい?」
「はい。今日のレートは調べてきました」
「ああ、そうかいそうかい。あいかわらず嫌な客だねぇ」
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 この頃はさらに金の相場が上昇していた。
 不景気という奴は日本だけでなく、世界中に広がっていた。だがそういう世の中にあって、この質屋はますます儲かっているようだった。おそらくカゴ婆さんはわたしたちから買い取った金をさらに上手に運用していたのだろう。
 つまりお金がお金を生むというシステムだ。
 ちなみに当時の金持ちの連中というのは、たいていこの方法でお金を稼いでいた。それもわたしたちには稼ぎようがないくらいの大金を、一瞬で稼ぎだしていた。
 たとえばヒダカ老人は株でお金を稼いでいた。大量の株の売買を繰り返すことで、汗一つかかずに、体一つ動かさずに、簡単に大金を稼いだ。
 カゴ婆さんは大量の金を売買することで、わたしたちが一生かかっても稼げない金額を稼いでいた。
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 労働とは働いてお金を稼ぐことである。だがはたしてこれも同じ労働だろうか?
 多少ながら世間が見えるようになったわたしは、いつも疑問に思っていた。
 銀行は人のお金を集めて配って、そこから多額の利益を得ていた。
 役所の連中は貧乏人たちから容赦なく巻き上げた税金で楽に稼いでいた。
 株主というのは会社員が稼いだ利益を我が物顔でかすめていた。 
 当時のわたしの目には経済の世界はそう写っていた。
 だが実際のところ、お金というのはそういうものなのだ。お金が大量にあればそういうことができてしまうのだ。つまり貧乏人にはどうやっても太刀打ちできない世界がすでにできあがっていたのだ。
 ……と、まだまだムニャムニャを続けたい気もするが、ヒダカ老人に墓の下から怒られそうだから、この辺でやめておこう。