眷属の一体が攻撃された事から、全てが始まった。
警備の巡回をしていたミューモの眷属が、謎の攻撃を受けて墜落した。その連絡を受けたミューモは、耳を疑った。
大陸随一の戦力を持つドラゴンが、易々と撃墜させられるとは、考えられない事であった。
ミューモは、直ちに他の眷属を調査に向かわせる。そこで眷属達が見たのは、巨大な体を持つ魔獣達の暴れる姿だった。
ベヒモス、フェンリル、グリフォン、ヒュドラ、何れも強力な力を持った、四体の魔獣。ドラグスメリア大陸でも、西にしか生息しない魔獣達が、狂った様に大地を灰に変えていた。
ミューモの眷属達は、直ぐに鎮圧に動く。しかし、事も有ろうか返り討ちにあい、深手を負って眷属達は帰還した。
本来ならば、不可解としか言いようが無い。彼の魔獣達が如何に強力とは言え、ドラゴンには遠く及ばない。一蹴するはずがあっさりとやられ、相手に傷をつける事すら出来なかった。
ミューモの理解を越える事態は、更に増える。連絡の為に訪れたスールの眷属が、全身からおびただしい血を流しながら、息も絶え絶えにミューモの住処に辿り着く。
ミューモの混乱は、極まっていた。
「しっかりしろ。今、治療をしてやる」
事態が全く判然としないまま、ミューモはスールの眷属に治療魔法をかける。そしてスールの眷属は、薄れ行く意識の中で懸命に口を開く。
「東の地で、黒いドラゴンが溢れています。闇が広が・・・」
「おい、しっかりしろ!」
ミューモの魔法で何とか命は繋いだものの、スールの眷属は完全に意識を失う。
長い生涯の中で、眷属達が害される事をミューモは見た事が無かった。それもそのはず、多くの魔獣達の中から選別し、特に力の有る者をミューモは眷属にしていた。
元々強力な魔獣だ、ドラゴンとなり更に進化を遂げた眷属達が、存在進化をしていない魔獣に倒される事は有り得ないのだ。
スールの眷属とて、ミューモの眷属に引けは取らない力を持つ。傷だらけになる事自体が、有ってはならない異常事態である。
常識では測れない事が、今この大陸で起きている。スールの眷属が言った、東の地で起きた事が起因しているのか。いずれにせよ、このまま手をこまねく訳にはいかない。
ミューモは眷属達の治療を行った後、事態の鎮圧に向けて飛び立った。向かった先でミューモが見たのは、黒く変貌を遂げた四体の魔獣。彼らからは、以前と比べようも無い程に、大きな力を感じる。
変化はそれだけでは無かった。
ベヒモス等四体の魔獣は大きな力を持つ故に、それぞれに縄張りがある。それを互いに侵す事は無かった。そして他の魔獣達も同様に、四体の魔獣を恐れて縄張りには近づかない。
何よりも、互いに接触する事を恐れた。不用意に接触し争いになれば、大地を破壊しかねない。
それだけに、今の状態は不自然に感じる。
一見、意味も無く衝動的に暴れ回っている様だが、彼ら自身は適切な距離を保っている。それだけ見れば、理性が残っている様に思える。しかし、共闘する訳でも無く、互いに争う訳でも無く、縄張りを奪い合うのでも無い。
無造作に破壊を行うのは、何が目的なのか。明らかな違和感と言えば、その瞳だろう。まるで洗脳でもされている様に、意思が宿っていない。
「そうか。これがロメリアの影響か。死しても尚、混乱をもたらすか。厄介な事だ」
遥か上空にミューモの気配を感じた四体の魔獣は、一斉に攻撃をしかけてくる。
グリフォンが上空で、それも有り得ない速度で、四体の魔獣はミューモに襲い掛かる。フェンリルはその強靭な足で飛び上がり、噛みつこうと向かって来る。地上からは九つの首を持つヒュドラが、毒の霧を吐き出す。ベヒモスは黒い塊を作り出して、ミューモに飛ばす。
ミューモは、輝くブレスを広範囲に放ち、毒の霧と黒い塊を消滅させる。飛び回りながら、グリフォンの爪とフェンリルの牙を辛うじて避ける。
本来、避けるまでもないのだ。原始のドラゴンは、地上に生きる生物とは格が違う。彼の魔獣達が、他の魔獣と一線を画す力を持とうと、黄金の鱗に傷一つ負わせる事は出来ない。
だが、ミューモは本能的に悟り、彼らの攻撃を躱した。彼らは、原始のドラゴンに匹敵する程に力を増している。攻撃を受ければ、間違いなく深手を負う。眷属が倒されたのは、夢でも幻でもない。
流石のミューモも、手に余る事態である。この世に生を受けて以来、初めてとも言える生死を掛けたミューモの戦いが始まった。
一方、大陸の北側では、別の異常事態が発生していた。大量の黒いスライムが、大地を埋め尽くさんと、増殖を続けていたのだ。
スライムはその性質上、他の魔獣達から戦う事を敬遠される。
半端な武器による打撃も、ただ分裂させるだけで然程の効果は無い。何よりも、無為に攻撃すれば取りつかれ、消化液で溶かされる。スライムを倒そうとするなら、強力な魔法による攻撃か、一瞬で消滅させる位の圧倒的な威力での物理攻撃が必要となる。
但し、スライムと戦いになる事は、滅多に起こらない。
本来、スライムは好戦的な種族では無い。また知能も低く、勢力を広げようとする野心を持っていない。常にひっそりと岩陰などに隠れて暮らしている。
しかし、大陸に広がり続ける黒いスライムは、植物や魔獣等ありとあらゆるものを飲み込みながら、勢力を拡大し続けている。
黒いスライムが通り過ぎた後は、荒野の様に何も無くなる。
このままでは、大陸の北から何もかもが消えうせてしまう。事の重大さに、ノーヴェは眷属を率いて、黒いスライムの討伐に乗り出す。
しかし眷属達がブレスを吐いて攻撃を加えても、黒いスライムを消滅させる事は叶わなかった。
「親父殿。ブレスが利かない。あの黒いスライムは何なのだ」
「恐らく、東の異変と何か関係しているのだろう。お前らは、他の魔獣達を避難させろ。奴等は尋常じゃない」
黒いスライムからの被害を少しでも減らそうと、ノーヴェは眷属に命じると、広範囲に輝くブレスを放つ。しかし、黒いスライムの数を減らす事は出来なかった。
「くそっ。俺様のブレスも利かないってのか? なんて奴らだ!」
ノーヴェのブレスに対抗できるのは、原始のドラゴンだけであろう。一介の魔獣が耐えられる威力では無いのだ。自分のブレスが利かないのに、眷属では足止めすら出来ない。
危機が迫る状況で、追い打ちをかける様な報告が届く。猛烈な速度でノーヴェに近づいてきたのは、一体のドラゴンであった。
「北の長。緊急事態です。東の地に黒いドラゴンが溢れています。黒い闇は大地を覆い、侵食を続けています。お力をお貸しください」
「お前、スールの眷属だな? スールは何してやがんだ?」
「我が長は、単独で東の地に起きる異変を、食い止めております。早く救援を!」
「馬鹿な事を言ってんなよ! お前には、眼下の状況が見えないってのか? 奴らを何とかしなければ、スールを助けになんて行けねぇよ」
「では、どうすれば?」
「土地神でも何でも良い。神々の力をお借りするんだ。神を呼び出す位、お前にも出来るだろう? 俺様がここを食い止める間に急げ!」
「はっ!」
ノーヴェは、再びブレスを吐いた。しかし、一向に黒いスライムが減る気配が無い。それでもノーヴェは、ブレスを吐き続けるしかない。
対して、黒いスライムは増え続ける。苛立ちを越え、徐々にノーヴェは焦りを感じ始める。そしてブレスとは別に、幾つもの魔法を並行して使用する。
それは、地上最強の生物である原始のドラゴンにしか、出来ない攻撃手段だろう。
魔法の並行使用に限れば、エルフにも可能である。しかしその分、威力は半減する。意識を分散させなければ行使出来ないのだ、当然の結果だろう。
ブレスを吐く生物は、ドラゴン以外にも存在する。毒のブレスを吐くヒュドラが、いい例だろう。
しかしそのどれもが、威力、速さ共に、原始のドラゴンには遠く及ばない。だからこそ原始のドラゴンは、神に最も近い存在であり、地上の守護者なのである。
しかし、大地を揺らす程の威力を持つノーヴェの魔法は、黒いスライムにダメージを与える事は無かった。
「なんて奴等だ! 魔法の耐性もあんのか? 聞いた事が無いぞ、そんなスライム!」
ノーヴェは吐き捨てる様に、言い放った。
物理的な攻撃どころか、魔法も通じない。無限に増え続け、大陸北部を呑み込もうとしている。
原始のドラゴンを脅かす存在となりつつある、黒い悪魔の軍団。大陸に死を齎す脅威に対する、ノーヴェの懸命な戦いが始まった。
ペスカ達は、山の神に別れを告げて飛び立つ。
酔わないコツを教わった後のフライトは、ペスカの心を大いに踊らせた。まるで子供の様にはしゃぐペスカと裏腹に、冬也は少し神妙な面持ちになっていた。
「なあペスカ。結局のところ、俺はどいつをぶっ飛ばせば良いんだ? 本当の問題は、糞野郎なのか?」
「あれはあれで、解決しなきゃ駄目だよ。放置してたら、この大陸どころかロイスマリアが滅んじゃう」
「糞野郎の目的は、本当にこの世界の破滅か? お前と山さんが話してた内容が、ひっかかるんだよ」
ペスカ自身は山の神の言動で、推察を補足したに過ぎない。決して問題の所在を、突き止めた訳では無い。
恐らくこれは、政治的な意図が含まれる煩雑な問題なのであろう。それは、山の神がはぐらかそうとした事や、大地母神の三柱が情報を開示しない事でも、容易に想像が出来る。
ただその場合、兄の正義感が間違った方向へ向かう可能性が有る。そうなると、問題の解決が遠くなる。しかし、何も話さないままでは、兄は納得しないだろう。
ペスカは少し逡巡した後に、ゆっくりと口を開いた。
「ねぇお兄ちゃん。ラフィスフィア大陸で、ゾンビが発生するまで事態が深刻化したのは、何でだと思う?」
「神連中がもたもたしてたせいだろ?」
「それは、何でだと思う?」
「わかんねぇ。少なくともお袋は頑張ってたな」
「もう一つ。この大陸の東で、悪意が広がった原因は? この地に居る神々は、何もしなかったと思う?」
「いや、山さんは頑張ったんだろ? あの弱っちい神気は、原初の神のもんじゃねぇよ」
「そうなった原因は? ロメリアの分け御霊如きに、山さんが遅れを取るかな?」
「違うだろうな。山さんは、そんな間抜けじゃねぇと思うぜ」
「だとすると、山さんを嵌めた連中が居ると思えば、合点がいくよね」
「ったく、胸糞わりぃな!」
冬也は眉をひそめて舌打ちする。
他者を陥れたり貶める行為を、冬也は嫌うのだ。
ただ神が謀略を巡らせ争うだけなら、それほどの怒りは無かっただろう。神々の争いが起きれば、地上の生き物は巻き込まれ簡単に命を落とす。
あの動乱で、ラフィスフィア大陸からどれだけの命が失われたのか。ドラグスメリア大陸で、どれだけの命が失われ様としているのか。
許されて良いはずが無い。
冬也は、怒りで身を震わせる。しかし、膨れ上がりそうになる神気を押し止める様に、冬也は滾る心を懸命に押し殺した。
「生き物は、神のおもちゃじゃねぇぞ。巻き込むんじゃねぇ」
激しい怒りが籠る様に、冬也の声は静かに低く響く。今、何をしなければいけないのか、冬也は現状を充分に理解していた。
広がる悪意を止めなければ、多くの生き物が犠牲となる。ズマやブルを始め、この大陸で出会った者達、そしてエレナ。既に多くの者を巻き込んでいるのだ。故に、冬也は神気を抑え、冷静であろうと努めた。
彼らの命は、必ず救う。そして、この大陸に秩序を取り戻す。押し付けられた様な、理不尽とも言える状況でも、何一つ取りこぼす気は無かった。
冬也の様子を見て、ペスカは少し安堵する。
敢えて口にしなくても、兄はしっかりと現実を見据えている。それだけに、一番留意しなければならないのは、己の身だろう。
ペスカは山の神が残した言葉を、再び思い返した。『狙われているのは自分』、それが何を意味しているのか、不明である。しかし、今起きている事態の裏で、自分を中心とした何かの思惑が動いている。それだけは容易に想像がつく。
そして、ペスカは頭を巡らせる、迫る事態の収拾と来るべき未来に備えて。
二人を乗せて、スールは空を駆ける。行きと同様、あっという間にドラゴンの谷へたどり着いた。ペスカと冬也が背から降りて間もなく、様子を見に出したスールの眷属が戻って来る。
その報告受けたペスカ達は、状況の悪化に驚愕した。
「本当なのか?」
「長よ。間違いありません」
信じられないとばかりに、スールは眷属へ確認をするが答えは変わらない。眷属の報告に、ペスカは深い溜息をつき、冬也は頭を掻いた。
「ほんと、色んな事を思い付くよね」
「どっちも、急がないといけねぇな。でも、手分けして片付ける余裕はなさそうだな」
「そうだね。西回りで北に向かおっか」
「あぁ。厄介な事ばっかり起こしやがって」
「それとお兄ちゃん。メルドマリューネの時と違って、女神様の援護は無いと思った方が良いね」
女神の救援は無い。それは、冬也にも理解出来た。今回は、自分達の手だけで打開しなければならない。だからこそ、山の神の様な味方を増やす事が、重要になるだろう。
改めてペスカは、南の地で起きた事件のあらましを、スールへ説明する。勿論、ゴブリン達を中心とした大軍団を作らせる為、動いている事も含めて。
「儂の居ない間に、その様な事になっておったとは。主、ペスカ殿、感謝いたします」
「いいよ別に。ただ、放置プレイ中のエレナ達は、ちゃんと回収しないとね」
「あぁ。その辺は、スールの子分に任せりゃ良いだろ。なぁ、スール」
「承知しました主。戻って来た眷属達を、留守に残しましょう。どの道、連絡役は必要ですし。それと、北と西から避難してくる魔獣達を、まとめる必要も有りますな」
「それも頼めるかスール。ゴブリン達の方は、エレナとブルが付いてから、問題ねぇだろ」
「では、避難してきた魔獣は、我が子達の配下となる様、統率を図りましょう。ゴブリン達とは、別の戦力が出来るでしょう。戦える戦力は、多い方が良いかと思いますしな」
「おぅ。そうしてくれ」
スールは、大きな頭を縦に振って頷いた。
少しの間、ペスカは少し考え込む様に目を閉じていたが、徐にスールへ向かい話しかける。
「ねぇスール。避難してくる魔獣達の中には、サイクロプスみたいなおっきい奴は、居るかな?」
「恐らく居るとは思いますが」
「数はどの位?」
「詳しくはわかりませんが、精々十から二十といった所でしょうな」
ペスカはそれだけ確認すると、冬也に向かい話しかけた。
「ねぇ、お兄ちゃん。作ったのはライフル十丁と魔攻砲を一門だけだよね」
「あぁ、間違いないぞ。全部、ゴブリン達に渡ってるはずだ」
「魔攻砲を、もう少し増やせないかな?」
「魔攻砲ならブルでも作れるはずだ」
「二十門くらい新調出来れば、避難してくる魔獣に持たせたいんだよ。上手くすれば、黒いスライムの浄化か、活性化を止められるかも知れない」
「ではペスカ様。ブルとやらの連絡役と武器の運搬は、我が子達にやらせましょう」
スールは自分の眷属達に手早く命令を与える。
連絡役の居残り一体、北と西から避難してくる魔獣達の引率二体、武器の運搬一体が、それぞれ役割に当り、眷属達は行動を開始した。
そしてペスカと冬也は、再びスールの背に跨る。目指すは、巨大な魔獣が跋扈する大陸の西。命がけの戦いを繰り広げる、ミューモの下へ。
ペスカと冬也がスールの背に乗り、西へ向かい飛び立つ。
暴れ続ける巨大魔獣を抑え続けるミューモ。彼を救い、魔獣達を抑える為にも、急がねばならない。スールは翼を大きく広げ、速度を上げる。ペスカと冬也は、スールに神気を繋げる。そして胸躍る大空の旅へ二人を誘った。
「う~っ。ひゃっほ~!」
「ペスカお前、この間とは全く違うな」
「何と言うか、超すごいVRゲームをやってる感覚だね。すっごい不思議。ただ背中に乗ってるだけなのに、飛んでる気分」
「良いけどよ。落ちんなよ」
「だいじょび! 今の私は風! 吹き荒れる暴風!」
「吹き荒れるなよ!」
先程まで深刻な話をしていたはず。しかも向かう先には、激しい戦いが待ち受ける可能性が高い。それにも関わらず、ペスカのテンションは、冬也が呆れる程に高かった。
一方、ペスカ達が西に向かう間に、ゴブリン達は快進撃を続けていた。
ペスカ達がドラゴンの谷で寝ている間、山の神と話をしている間にも、与えられた期限が迫っている。だが、コボルトとトロールを加え、大きな勢力となった集団と、まともにやり合える敵は多く無かった。
特に、命を救われたトロールは、ゴブリン達に敬慕の情を抱き志気が高い。高まった力はそのままに、従順なトロールは前線の壁役に止まらず、その力で敵の包囲網を突破していく。
対してコボルトは、類まれな嗅覚と俊敏さから、攪乱や奇襲、諜報活動など様々な戦術において功績を重ねていく。
当初こそコボルトは、ゴブリン達の力に恐怖を抱き、従っているだけであった。しかし任務を重ねる毎に、戦いの先に有る本当の意味を理解し、真の意味でゴブリン達に賛同する事になる。
ゴブリン軍団は、大陸でも名だたる好戦的な種族である、ウルガルムを始め、ケルベロス、バジリスクなどの魔獣を、次々と制圧していった。
戦いを重ね、新たに戦力を増強し、ゴブリンの軍団は益々巨大になっていく。
しかし、組織が巨大になれば問題も発生する。時にそれは、内部分裂を起こし組織を崩壊させかねない。
その組織運営について、ゴブリンに知恵を貸したのは、エレナであった。
故郷キャトロールにてエレナは、格闘術だけでなく戦術を始め、組織を動かす為の経営学を学んできた。その知恵は、遺憾なく発揮される。
エレナの知恵を受けたズマは、軍団を統制する為に組織再編を行った。
先ずは、軍の細分化によるリスクコントロール。
主戦力となるトロールを始め、新たに加えたウルガルム、ケルベロス、バジリスクが種族間の同士の諍いを起こさない様に隊に分けると共に、競わせて戦果を挙げさせた。
軍の細分化と共に、新たに設置したのは情報伝達の部隊であった。
瞬時に適切な情報が共有される事は、必須である。同時に、組織の意思が末端まで、素早く伝達される事には、大きな意味を持つ。
ここでは俊敏で、数の多いコボルトが活躍する事になる。
数の多いコボルトは、後方支援班にも配属された。大規模になったゴブリン軍団の食糧補給は、進軍の生命線にもなる。
大陸随一の結束力は、食料補給に大きな力を発揮した。
そして各隊に、リーダーとしてゴブリンを配置した。エレナによって鍛え上げられたゴブリン達は、各種族を指揮しながらも、自らが率先して模範を示す。
リーダー足り得る行動力に、他の種族は敬服の念を抱く。エレナから学んだ全てが、ゴブリンを通して他種族に伝わる。
これまで、ドラグスメリア大陸において存在しなかった、複数の種族による巨大な組織。それも統率のとれた集団は、一つの軍隊として機能していく。
目の色が変わった様に暴れる魔獣達は、依然として大陸の南に点在している。力を増し荒れ狂い、大地を汚していく。それが、如何に危険であるのか。
ゴブリン配下の魔獣達は、まざまざとその脅威を見せつけられる。
だが、ズマを初めゴブリン達は、配下の魔獣達に伝える。「悪意に呑まれるな。あれは、いずれ魔獣全てを喰らい尽くし、大地を飲み込むだろう」、「生き延びたければ抗え!」、「我らを信じ、共に戦え!」と。
ゴブリン達の手で、悪意から解き放たれた魔獣がいる。ゴブリン達の手で、救われた命がある。ゴブリンは、既に魔獣達の中において、大きな影響を持つ存在となっていた。
ゴブリンの軍団は進軍を続ける。ただ、一つだけ大陸内で最大の難敵が、南の地にも存在した。戦闘にならない様に、避けてきた相手でもある。
スライム。
物理攻撃が利かず、分裂を繰り返し、取り付いた相手を融解させる。また知能が低く、意思疎通が成り立たない。非常に厄介な相手である。
通常スライムは 自らが攻撃をされない限りは交戦に及ばない。所謂、自身の身を守る為にのみ戦うのだ。
スライム自身はとても警戒心の強く、常にひっそりと岩陰などに隠れている。ただ、警戒心の強さ故か、近づくだけで攻撃とみなされる場合が有る。
その為、戦いを好むウルガルムでさえ、スライムの住処近くでは、滅多に戦闘行為を行わない。これが、大陸内の常識である。
しかし、この非常事態に際し、スライムは危うい存在でもあった。
スライムが悪意に取り込まれ交戦的になれば、手が付けられない。しかし、エレナは無論の事、ズマ達ゴブリンや他の魔獣でも、スライムと意思疎通が出来ない。
悩むズマ達に、助け舟を出したのはブルであった。
「山さんにお願いすれば、良いんだな」
「山さんって何ニャ?」
「神様なんだな。偉いんだな」
「神様なのかニャ? もう私は神様を信用しないニャ」
「エレナ心配ないんだな。山さんは良い神様なんだな」
神から散々な目に遭わされているエレナは、眉ねを寄せて険しい表情になる。ブルから優しく諭されようが、変わる事は無い。
しかしエレナは、冬也の顔を思い出す。
言われた期限が守れなかった場合、相当な怒りが待っているのではないか。想像しただけで背筋が凍り、肌が一斉に粟立つ。
他に手立てが無いのなら、仕方がない。冬也に怒られる位なら、他の神に縋った方が些かましだ。
耳をペタンと伏せ、しっぽを身体に巻き付けながら、エレナはブルにチラリと視線を向けた。
「それで山さんはどうやって呼び出すニャ?」
「祈れば良いんだな。そうすれば、冬也が呼び出してくれるんだな」
ブルの言葉を聞いた瞬間、エレナは全身の毛を逆立てた。
「馬鹿なのかニャ? 冬也は居ないニャ! もう少し現実的な方法を教えるニャ!」
「でも、祈る事が大事なんだな」
声を荒げるエレナ。対してブルは、呑気な笑顔を浮かべている。そしてエレナは、溜息をついてズマに言い放った。
「仕方ないニャ。取り敢えずお前らは、山の神に祈っておくニャ」
「ただ、教官。それで山の神が現れてくれるでしょうか?」
「現れなければ、このデカブツを山の神の住処まで走らせるニャ。責任とらせれば良いニャ」
「別に構わないんだな。おなか減ったし、一度帰りたいんだな」
「ブル! 余計な事を言ったら駄目ニャ! 皆の士気が落ちたらどうするニャ!」
激しい怒りをぶつけるエレナ。しかし、その怒りはブルによってすぐさま鎮めれる。
「エレナ、警戒するんだな。凄い勢いで何かが近づいて来るんだな」
ブルは怯えた様に、声を発する。ズマは、直ぐに伝令を出し、警戒態勢を整えさせる。だが警戒態勢が整う間も無く、それは高速で接近した。
それは、一体のドラゴンであった。突風が吹き荒れ、ドラゴンが舞い降りる。密林はドラゴンを避ける様に、枝をしまう。
ドラゴンは、ゴブリン軍団から日の光を奪った。ズマやエレナは、目を見開く。天を覆うような大きな存在に、声が出なかった。
そして、本能的な恐怖がゴブリン軍団を包み込む。その大きな存在感は、これまで拡大した勢力を、矮小であるかの様に錯覚させる程であった。
「一つ目のガキ、貴様がブルだな。着いて来てもらおう。冬也様のご命令だ、否は認めん」
低く響く声は、ブルをして恐怖で足を竦ませる。ただ、その言葉の中にあった冬也という名で、ブルは安堵の気持ちが芽生える。
「冬也がどうかしたんだな? おでに何の用かなんだな?」
「冬也様が貴様にご命令を下された。その手に持つ武器を作るのだ」
「よくわからないんだな。でも冬也の頼みなら、従うんだな」
「良い覚悟だ。特別に俺の足に掴まる事を許してやる」
ブルはドラゴンの大きな足を掴もうとする。その瞬間、震える声でエレナが叫んだ。
「ま、待つニャ。ぶ、ぶ、ブルを連れていかれると、困るニャ」
エレナの言葉に、ドラゴンは威嚇する様に睨め付けた。
「矮小な存在よ。何故、我が意志を妨げる。相応の理由が無ければ、死して償え」
圧倒的な力、圧倒的な殺意に、エレナは意識を失いかけた。しかし懸命に堪え、震える足で立ち、枯れる声を絞り出す。
「と、冬也の命令ニャ。大陸の魔獣を手下にするニャ。でも、スライムだけは何ともならないニャ」
「そうか、貴様も冬也様のご命令を受けていたのか」
「今から、山の神を呼び出す所だったニャ。邪魔しちゃ駄目ニャ」
「ふむ。それなら座して待つが良い。我が吉報を届けてやろう」
冬也の名で、やや態度が軟化したドラゴンは、ブルを連れて飛び去っていく。エレナを始めズマ達ゴブリンも、腰を抜かした。
呼吸が止まる程の緊張感に包まれていたのだ、致し方ないだろう。他の魔獣達も同様に、極度の緊張から解き放たれて、深呼吸をしていた。意識を失っている魔獣も少なくない。
「あれがドラゴンニャ。おっかないニャ」
「流石は教官。自分は何も出来ず」
悔しそうに歯噛みするズマに、エレナは優しく諭した。
「ズマ、あれは仕方ないニャ。それに時間は有るニャ。まだまだお前は成長できるニャ。今は、皆の志気が下らない様に注意するニャ」
「はっ、教官」
近づく期限と迫る脅威。その中で、魔獣達は生を求めて足掻き続ける。ゴブリンは、その中心で闘志を燃やす。そして、エレナの困難は始まったばかり。
深まる混乱の中で、魔獣達は光明を見いだせるのだろうか。
ブルを足に掴まらせ、鉱山に向かうドラゴンは、漏らす様に呟いた。
「我に憶する様な小物達をいくら集めようが、何の役に立つと言うのだ。長や冬也様は、何を考えてらっしゃる」
スールの眷属は、北や西で起きる異変に何も出来ずに帰還した。原始のドラゴンでさえ手を焼く状況で、その眷属のドラゴンは何の役に立たなかった。それは眷属として、激しい自己嫌悪に陥る程、大いなる屈辱であった。
しかし、そんな自分に怯える魔獣達。その魔獣達の姿を見ると、足手纏いにしかならないと感じた。
「あんまり舐めると、痛い目に遭うんだな。弱者でも戦い方はあるんだな。あの軍団を率いてたのは、ゴブリンなんだな。最弱の種族が、他の魔獣を圧倒してるんだな。お前らドラゴンも油断してると、足元を掬われるんだな」
ブルはドラゴンを窘める様に、穏やかに語った。
ドラゴンには、ブルの言葉は直ぐに理解が出来なかった。しかし、否定もしきれずに、モヤモヤした感覚が残る。
ブルの巨体を運んでいる為に、飛ぶ速度が極端に落ちる。幾ばくか長くなった飛行の中、ドラゴンは葛藤する様にブルの言葉を嚙みしめていた。
やがて鉱山に辿り着くと、ドラゴンはブルを降ろす。鉱山には、ブルが採掘した鉱石が山積みになっており、ドラゴンはやや目を見開いた。
「これは貴様が掘ったのか?」
「そうなんだな。おでがやったんだな」
ドラゴンはこの大陸で、採掘をする魔獣を見た事が無かった。
小器用に掘られた穴と、種類毎に仕分けられ積まれた鉱石。サイクロプスは、こんなに知恵の回る種族であっただろうか?
これは、一概に冬也様の入れ知恵だけとは言い切れまい。
ゴブリン共といい、サイクロプスの小僧といい、もしかして矮小な種族と決めつけて、自分が見ようとしなかっただけか?
ドラゴンは、改めて魔獣達の秘められた力を、垣間見た気分になった。
やや驚いた様に、辺りを見回すドラゴンの背後から、唐突に声がかかった。そして、穏やかな響きが、空気を柔らかく包む。
「おお。ブルではないか。元気にしとったか?」
「おなか減ったんだな」
「お主らしいのぅ。たんと食うが良い。して何用じゃ? そこにおるのは、スールの眷属であろう?」
ドラゴンはその大きな頭を深々と下げて、山の神に礼を尽くす。
「お初にお目にかかります。スールの名代として参上致しました」
「スールの眷属達は、いつも堅苦しいのぅ。少し前から儂を呼ぶ声が聞こえるが、何か関係が有るのか?」
ドラゴンは、魔攻砲の量産の件を山の神に説明する。それと同時に、ゴブリン軍団がスライムの対処に困っている事も説明した。
「この場での作業をお許し頂きたく」
「それは構わん。じゃが少し待っておれ。先にゴブリン達の件を解決してからじゃ」
「スライムの件だけなら、山の神の御手を煩わせなくても」
「良いのじゃ。儂は少し知恵を貸すだけじゃ。そう時間はかからん。主らは休んでおれ」
「可能であれば、先に作業を始めて宜しいでしょうか。こうしてる間にも、危機は迫っております」
「儂のおらん所での作業は認めん」
「それは何故でしょうか?」
「お主は知らんじゃろうが。ブルが作ろうとしているのは、ドラゴンすら簡単に殺せる兵器じゃ。無論、悪用すればの話しじゃがの」
ドラゴンは少し言葉に詰まる。自ら種族を滅ぼしかねない兵器を、長が許すはずが無い。しかし、そんな兵器だからこそ、自分達の力が及ばぬ相手に対し切り札ともなり得る。
ドラゴンは逡巡する。そんなドラゴンに、呑気な声がかかる。
「心配ないんだな。山さんと冬也は、ちゃんと考えてるんだな。おで達は、山さんが戻って来るまで一休みするんだな。お前も食べると良いんだな。この果物は美味しいんだな。冬也が浄化してから、益々美味しさが増したんだな」
両手いっぱいに果物を持ったブルは、ドラゴンの鼻先に突き出す。甘酸っぱい香りが鼻腔を擽り、口の中に涎がいっぱいになる。
そして、勧められるがままにドラゴンは、果物を一口齧る。何度目かの驚きを見せた。たった一口齧っただけで体中に力が漲るのだ、溢れて爆発しそうな程に。
「貴様は、これを食べ続けていたのか?」
「そうなんだな。格別の味なんだな」
「さもありなん。これは、冬也様の神気が含まれておる。だが普通の魔獣なら、冬也様の神気に耐えきれずに、返って体調を崩すはずだ。貴様が平気ならば、そう言う事なんだろうな」
「意味がわからないんだな」
「貴様は正式ではなくても、冬也様の眷属になっていると言う事だ」
「やっぱり意味がわからないんだな。でも、冬也は好きなんだな」
「貴様はそれで良い。これからも冬也様に尽くせ」
もしブルが、仮にでも冬也の眷属であるならば、自分の叔父にあたる存在となる。しかしドラゴンは、目の前に居る余りにも呑気なサイクロプスが、自分より格上の存在だと認める気になれなかった。
そんな二体のやり取りを微笑ましく見つめた後、山の神は姿を消す。そして、唐突に現れた先では、驚愕の声で迎えられる。
「な、な、な、何ニャ? おっさんが現れたニャ!」
祈りを捧げていた魔獣達の前に突然現れたのは、神々しい光に包まれた小太りの男性だった。その姿を見た瞬間、魔獣達はひれ伏す。
しかし、エレナだけが呑気な叫び声を上げていた。
「おっさんとは何事か! お主も冬也と同類じゃのぅ」
「あんな馬鹿と一緒にして欲しくないニャ!」
山の神は、魔獣達に意識させない様に、神気をかなり抑えている。しかしエレナは、神気を敏感に感じ取る。それだけ感覚が、研ぎ澄まされてきているのだろう。足をガクガクと震わせながらも、エレナは言い放った。
「まさか、おっさんが山さんニャ?」
「もう山さんで良い。全て冬也のせいだ。儂の名前がすっかり変わってしまった」
諦め顔で溜息をつく山の神。そして魔獣達を見渡すと、エレナに向い話しかけた。
「事情はスールの眷属から聞いておる。スライムに難儀しておる様じゃな」
「そうニャ。困ってるニャ」
「お主等は魔法の使い方を知らんだけじゃ。特に猫の娘。お主は魔法が不得手であろう」
「な、なんでわかったニャ?」
「神を馬鹿にするでないわ! その位は見んでもわかる」
今一度、山の神は魔獣達を見渡す。そして、先頭で傅くゴブリンに声をかけた。
「お主がこの集団の長じゃろぅ? 立つが良い」
ズマは姿勢を正し、無言で直立する。神の前で緊張しない者は少ない。寧ろ、ブルやエレナが特別だと言えよう。
「お主と猫の娘に、魔法の使い方を教えてやろう。うん? ちょっと待て猫の娘。お主はスライムと意思疎通できるはずじゃ。何故しない」
「出来るはず無いニャ」
「お主には既に魔法がかかっておる。かけたのは、ペスカじゃろうな」
「なんの事かさっぱりニャ」
「思い当たるふしは無いのか? お主はアンドロケインの者じゃろう? この大陸の魔獣と言葉が交わせるはずがなかろう」
その言葉に、エレナは首を傾げた。その様子に、山の神は呆れて、少し肩を上げる仕草をする。続いて山の神は、ズマをしげしげと見る。
よく鍛えられている。それに、肉体強化の魔法を使いこなしている。ゴブリンがこれ程までに強くなるのか。山の神に少し驚きの感情が湧いた。
山の神は少し昔を思い出す。
女神ミュールが、笑いながら冗談で作り上げた魔獣。そのゴブリンが、こんな進化を遂げるとは、思いもよらない出来事である。
山の神は笑みを深めた。世界は驚きに満ちている。自分達が作り上げた子供達は、神の予想すら超える。よもや、この悪化する状況さえも、こ奴等は乗り越えてしまうのではないか。
そんな期待までしたくなる。
「面白い。そこの猫だけでは不安じゃ。お主に魔法の使い方を教えよう」
山の神は、誰にでも理解出来る様に、丁寧に説明をした。
意思疎通の魔法で重要なのは、二点である。相手の言葉を理解しようとする意志。相手に思いを伝えようとする意志。二つの意志を、マナに乗せるのだ。
会話は、言語を利用した意思の伝達方法である。『聞くと伝える』、この二つの行動に魔法を介せば、意思疎通の魔法は完成に至る。
そして、肉体強化の魔法でマナの使い方に慣れたズマは、意思疎通魔法の会得はそう難しくは無かった。
「では、行ってこい。儂にもやる事があるしのぅ」
「手伝ってはくれないニャ?」
「それは、お主達の仕事じゃろう。儂は手を貸さんよ」
「ずるニャ!」
「何を言っておる! お主は、聡いのか愚かなのか、臆病なのか勇敢なのか、よくわからんのう」
「馬鹿にしてるニャ?」
「お主がそう取るなら、そうなんじゃろうな。ラアルフィーネは、面白い子を送ってきたのう」
「やっぱり馬鹿にしてるニャ?」
「ふぅ。お主は化ける可能性が高い、この機会に精進せいよ」
意思疎通の魔法をズマに伝え、エレナと軽く言葉を交わすと、山の神は消え去る。そして残されたエレナは、唖然として立ち尽くした。
「おっさん、何をしに来たニャ?」
「神は、私に魔法の使い方をお教えくださいました。行きましょう教官。スライムと交渉するのです」
集団では、スライムを怯えさせる。ズマとエレナは、軍を離れてスライムの生息地に向かった。
ただ、スライムとの交渉は、丸一日を要した。
遠くから警戒を解く様に、話しかけ徐々に近づく。近づける様になるまで、約半日が必要であった。
しかし、目の前まで接近出来ても、スライムは岩陰から出る事は無い。ズマとエレナは、スライムに呼びかけ続けた。
この大陸における危機、それがスライム自身にも及ぼうとしている事。そして既に、とても危うい状況で有る事を伝える。
大陸中の生物が滅びれば、例えスライムとて生きる事は出来ない。それ以前に、スライムは簡単に悪意に落ちかねない。
ズマとエレナの懸命の説得は、夜半にまで及んだ。
「お前達を守らせてくれ! 俺が必ずお前達を守る。だからお前達も手を貸してくれ! お前達の力が必要だ、頼む!」
「大丈夫ニャ。私は強いニャ。お前達は必ず守ってやるニャ。そこで引き籠ってるより、私達に付いてくる方が安心ニャ。ど~んと任せるニャ!」
懸命な説得の結果、一体のスライムが岩陰から這いずり出る。そして、恭順の意志を示した。その後に続く様に、続々と他のスライムが岩陰から這い出て、ゴブリンに従う事を誓った。
こうして臆病で知能が低いが、ドラグスメリア大陸で最も厄介な魔獣が、ゴブリン軍団の一員となった。
エレナさえも無理だと言った冬也の命令を、ゴブリン達は成し遂げようとしていた。
そしてドラグスメリア大陸の南側を制圧したゴブリン軍団は、ドラゴンの谷へ向かい進軍する事になる。
ドラゴンが矮小だと馬鹿にした存在達は、この大陸を救う一助になる。それは、遠くない未来の出来事。一つの光明でもあった。
通常ドラゴンが空を飛ぶ時には、高度を上げる。それは、余り高度を下げると、鳥達に被害を及ぼすからである。
しかし今回、ペスカと冬也を背に乗せたスールは、かなり高度を下げて飛んでいた。
それは、地上での異変を発見し易くする為と、異変があった時には直ぐ駆け付けられる様にする、二つの意味があった。
スールの飛ぶ速度は早く、直ぐにミューモの支配領域である大陸の西が見えてくる。そしてペスカは、スールに速度を落とす様に告げる。
支配領域の境界線近くでは、魔獣が南に向い歩みを進める様子が見えた。
既にスールの眷属が、魔獣達の避難誘導を始めている。しかし遠目からでも、力尽きて倒れた魔獣が点在しているのがわかる。
多くは息絶えたのだろう。逃げている魔獣達の数は、予想以上に少ない。しかも一見する限り、五体満足の者は更に少ない。
残った魔獣達は深い傷を負い、また四肢の一部を失い歩行もままならないまま、生き延びようと必死にもがき、前に進み続けていた。
寧ろ、逃げ延びる事が出来たのなら幸運なのだろう。
自分の命を一番大切だと考えるのは、人間と魔獣にそれほど大差はない。ただ、弱肉強食のドラグスメリア大陸では、弱者が捨て置かれるのはごく自然な事である。
傷つき倒れた魔獣は、同種であろうと捨てていく。わざわざ手当てをする事は滅多に無い。
それが、例え親兄弟であろうともだ。
何故なら、傷付いて倒れる位の弱者なら、これから起きるだろう困難を乗り越える事は出来ない。それなら、早々に死んで肉体を地に還した方が、生命の循環の役に立つと考えるからである。
多くの魔獣達は、そうして死という観念を受け入れてきたのだ。
有史以来、底辺を歩み続けていたゴブリンや、争いを嫌うブルが、この大陸では異質な存在だ。改めてペスカと冬也は、この大陸での常識を思い知らされる。
種族が変われば、倫理観が異なる。世界の常識は一つでは無い。倫理観を押し付ければ、諍いの元になる。
「でもさ、助けたいよね」
「あぁ。そうだな」
ペスカの呟きに、冬也が頷いた。
理解はしていたつもりである。しかし、この大陸の常識をそのまま受け入れる気は、ペスカと冬也には無かった。
「スール!」
「ペスカ様。お気持ちはご察ししますが、今は力をお控え下され」
「怒るよ、スール!」
「ペスカ様、よくお聞き下され。ここにはミューモの眷属がおりません。北でも動乱が起きています。逃げる先は、南しかないのです。ミューモの眷属がいないと言う事は、敵がそれだけ強大である証拠。ここで、お二人に無用な力を使わせる訳にはいかんのです」
「じゃあ、どうすんだスール。てめぇ、俺の部下だったよな。何もしねぇで素通りはさせねぇぞ」
確かにスールの言葉は尤もである。未曾有の事態に備え、万全の状態であるべきだろう。正論を説かれて、ペスカは口を噤む。
しかし、冬也は黙っていなかった。ペスカの代わりに放たれた言葉は、怒気が籠っている。冬也の言葉を受け、スールは溜息をつく。そして、静かに口を開いた。
「主よ、馬鹿にしておられるのか? 儂はこれでも一の眷属。あの半端者とは違います。主の意志は必ず実現させますぞ」
「お、おぅ頼む。んで半端者って?」
「まぁ、背にてご覧くだされ」
スールはやや声を荒げる。そして、冬也の問いかけを聞こえなかったかのように振舞うと、呪文を唱え始めた。
「傷つきし者に癒しを、失いし者に祝福を。全ては回帰しあるべき姿へ」
スールの黄金の鱗が輝きを増す。同時にスールからごっそりと大量のマナが失われるのが、背に乗るペスカ達には理解出来る。
魔獣達が眩い光に包まれる。そして、深く抉られた魔獣の傷が塞がっていく。失った四肢が蘇る。魔獣達は、奇跡の瞬間を迎えた。
その光景は、ペスカをして驚きに声が出せなかった。
人と違う圧倒的なマナを有する、原初のドラゴンだけに許された魔法。それは、生前のペスカが長年研究しても辿り着かなかった、時を操る魔法であった。
「念の為ですが、ペスカ様。人の身でこの魔法は使えません。マナが足りないのは無論の事。使えば大きな代償を求められるでしょうな」
膨大なマナと、永遠にも近い寿命を持つエンシェントドラゴンだから出来る、神にも等しい技。人が使えば、たった数秒時間を戻すだけでも、寿命を大きく削る。
スールが行った様な大規模な治療を行うなら、人の命が何人有っても足りないだろう。時を操る行為は、それだけのエネルギーを要する。
時を操る魔法を使用出来るとはいえ、治療程度の局所的な使用のみしか許されていない。もし許容された以上の使用をすれば、神から制裁を加えられる。
手当たり次第に使用すれば、運命を大きく変える事になる。地上に大きな影響を与えるのだ、当然の処置であろう。
神に逆らう事は、自らの存在を消滅させかねない。そして未だかつて、神に逆らったエンシェントドラゴンは存在しない。
「流石に儂も、飛ぶので精一杯です。お二人を運ぶだけしか出来なくなりそうですな」
スールは、少し苦笑いする様に呟いた。スールの意図を慮ってか、冬也は頭を下げた。
「スール、わりぃ」
「主よ、何を仰る。主の望みは我が望み。ただ儂は、肝心な所で主のお役に立てないのが、悔しいのです。主とペスカ様から頂戴した神気を、未だ使いこなせない自分が不甲斐ないのです」
冬也は感謝の代わりに、少しスールの背を撫でた。スールは冬也の温かい手の感触に、笑みを深めた。
そして魔獣達は騒然としていた。なにせ、光に包まれた瞬間に傷が癒え、失った四肢が蘇ったのだ。
ただ、スールの行為は決して単なる恩情では無い。
魔獣達が自身の手で、この混乱する大地に平和を齎す。それを、主である冬也が望んでいる。「傷は癒してやる、だから戦え。恩義には必ず報いろ」、そんな思いが籠められていた。
スールの眷属とて、異例の事態に驚きを隠せないでいた。制裁を受けてもおかしくない事を、スールは行ったのだ。
しかし、直ぐに長であるスールの思惑を理解する。騒めく魔獣達を、スールの眷属がすぐさま鎮めた。そして、魔獣達を鼓舞した。「悔しかったら抗え、恩に答えろ」と。
魔獣達から咆哮が上がり始める。
それは、ただ傷つき逃げるしか無かった事への無念だろうか。抗う機会を与えてくれた事への感謝だろうか。それとも、常に強者足らんと戦う魔獣達の、誇りを取り戻す意志の表れだろうか。
痛みと共に、魔獣達から悲痛の表情が消えていた。
魔獣達の様子を見ていたペスカは徐に口を開く。事前に聞いていた情報とは、少し異なる状況にペスカは違和感を感じていた。
「ねぇスール。おっきい魔獣がいないよ。みんなちっちゃいじゃない」
「確かに違和感を感じますな。サイクロプスは、単身で暮らしますから、いざ知らず。西には他にも大型の魔獣はいるはずですからな」
「う~ん、何か嫌な予感がするね。急ごう」
「承知しました、ペスカ様」
嫌な予感。それは、大体最悪の状態で起きるもの。
西の地ではミューモやその眷属以外にも、状況を打開しようと抗う者がいる。しかし、闇に落ちた四体の魔獣を相手に果敢に挑む勢力は、窮地を迎えていた。
「我等の森をこんなに荒らしおって」
「全くだ。テュホン、流石に看過出来んぞ」
「ユミルよ、奴等の目は正気じゃない」
「お二人さんよ、じゃあその目を覚まさせてやれば良いんだろ? 先ずは、小手調べから行こうかぁ! 焼き尽くせレーヴァテイン!」
掛け声と共に放たれた巨大な炎の刃が、地を削る様に進む。そして、巨体に当たるや否や、弾かれる様に消え失せた。
「かぁ~! あれを簡単に弾くかよ」
「馬鹿者! スルト、奴等はこの地でも最強の魔獣だぞ! 中途半端な攻撃が通用するものか!」
「いや、テュホンよ。スルトの剣は、神より与えられし物。四大魔獣とて、傷は負うはず」
「ならば、以前より強力になっているという事か、厄介な……」
「どうやら、黒く変質した体に原因が有りそうだな」
「一先ず魔獣達をここから逃すのが先だ。アトラス、頼めるか?」
「おう!」
「次にアルゴス。奴等の足止めを頼む」
「任せておけ! この目から逃れられる者はいない!」
「サイクロプスの一族も、準備は良いな?」
「「おう!」」
「上空の敵はミューモに任せて、我等は三体を止めるぞ!」
「「おう!」」
☆ ☆ ☆
ドラグスメリア大陸の西部で、ドラゴンの次に力を持つ四体の魔獣。ベヒモス、フェンリル、グリフォン、ヒュドラは、体を真っ黒に染め暴れ続けていた。
木々は焼け、力の無い魔獣は命を落としていく。その暴れ様は、ミューモの眷属であるドラゴンでさえ、太刀打ちが出来ずに倒れた。
全てを灰塵に帰さんと、四体の魔獣が猛威を振るう中で、エンシェントドラゴンであるミューモは、大陸の秩序を取り戻す為に戦っていた。
しかしその状況に立ち向かっていたのは、ミューモだけでは無かった。
大陸西部で暮らす、平和を愛する巨大な体と力を持った種族、巨人達が立ち上がった。
彼らはその巨体故、集団で生活する事は無い。しかし大陸の窮地に、巨人の王テュホンと最古の巨人ユミルが呼びかけ、仲間の巨人達が集まった。
神より剣を与えられし巨人の剣士スルト、巨人の守護者アトラス、平和を愛し卓越した鍛冶技術を持つサイクロプスの一族、全身に目を持つアルゴス。いずれも計り知れない力を持った強者であった。
上空では、ミューモが光り輝くブレスを吐き続ける。
その隙に乗じて、アトラスはその強靭な肉体を盾にし、多くの魔獣達を南へと逃した。
スルトは、その手に有る剣に炎を宿し、ヒュドラが吐く毒のブレスを切り裂く。テュホンとユミルは、九つ有る首を引き千切ろうと、ヒュドラを羽交い絞めにした。
死角が無いアルゴス複数の目は、フェンリルの素早い動きを的確に捉え、サイクロプスの一族が集団でフェンリルを取り囲んだ。
ミューモの眷属をも圧倒したベヒモス、フェンリル、グリフォン、ヒュドラの四体は悪意に染まり、以前の比では無い程に力を増している。
この四体の魔獣に対し、幾ら巨人達であっても到底力は及ばない。テュホンとユミルは、ヒュドラが首を一振りするだけで、吹き飛ばされる。
取り囲んでもフェンリルには、たいして効果を齎さない。スピードの有る攻撃で、サイクロプスやアルゴスは一蹴される。
「お前達、何をしている! 早く逃げろ! お前達の敵う相手では無いぞ! テュホン、ユミル、聞こえているか? 早く皆を連れて南へ避難しろ!」
「馬鹿を仰るなミューモ。我ら巨人族の力は、この様な事態に対処する為に有る」
「馬鹿はお前だテュホン。無駄死にをするなと言っている!」
「無駄死になどは有り得ん! 我らの命が尽きようと、この地から災いを消して見せよう」
テュホンの咆哮にも似た激しい怒号で、倒れた巨人達が立ち上がる。しかし、フェンリルはその隙を逃さない。素早く大地を駆け、立ち上がろうとするサイクロプスの一族に襲い掛かった。
フェンリルの鋭いかぎ爪が、サイクロプスの一族を引き裂こうと迫る。そこに立ち塞がったのは、アトラスであった。
巨人族の中でも一際頑丈な体に、フェンリルのかぎ爪が深々と突き刺さる。それでもアトラスは揺らぐ事無く、突き刺さったかぎ爪ごとフェンリルを両腕でがっしりと捕えた。
「そのまま離すんじゃねぇぞアトラス! 焼き尽くせレーヴァテイン!」
スルトは、アトラスごと切り裂く勢いで炎の剣を振るう。凄まじい勢いで振られた炎の剣は、フェンリルを一刀のもとに斬り捨てたかに見えた。
「なっ! 全力だぞ! これでも、効かねぇってのか?」
フェンリルには傷一つ付いておらず、身を激しくよじるとアトラスの拘束から抜け出て、猛烈な速度でフェンリルはスルトに襲い掛かった。
スルトは炎の剣で、何とかフェンリルの爪を食い止めるが、勢いは殺せず吹き飛ばされる。
一方、ヒュドラと対峙していたテュホンとユミルは、毒のブレスに苦しんでいた。じわじわと体を蝕む毒の霧は、テュホンとユミルの身体を中から腐らせていく。
それでも二体の巨人は、その剛腕で引き千切ろうと、ヒュドラの首に取り付いた。
アルゴスとサイクロプス達の前にも、立ちはだかる魔獣がいた。
ドラグスメリア大陸でも最大級の魔獣ベヒモス。およそ十メートルは有る密林の木々も、ベヒモスの足先を隠すだけ。
サイにも似た巨体は、サイクロプス達よりも遥かに大きく、身体はアトラスよりも硬い。突進されれば、一溜りもなくサイクロプス達は粉砕されるだろう。
更に厄介なのは、魔法を放つ事だった。サイクロプス達の頭上、広範囲に黒い塊が出現する。
「逃げろ~!」
アルゴスの叫びも空しく、黒い塊はサイクロプス達の一族に向かい、雨の如く降り注ぐ。
激しい勢いで襲いくる黒い塊を、サイクロプスの一族は必死に棍棒を使って防ぐ。しかし棍棒は簡単に折れ、黒い塊を受けたサイクロプスの一族は次々に膝を突く。
そして、サイクロプスの一族に気を取られていたアルゴスの背後から、ベヒモスが迫る。その圧倒的な巨体に、逃げる事も叶わず、アルゴスは撥ね飛ばされた。
次々と仲間が倒れていく状況でも、テュホンは叫ぶ。自分達の身を犠牲にしても大陸を守る。強い意志がその言葉に宿っていた。
「ミューモ。我らが地上の奴らを足止めをしている。早くグリフォンに止めを刺せ!」
まさに命がけの足止めである。
決して、命を軽んじている訳では無い。守るべきものを守る、その為に振るうべき力を振るう。己に課せられた役割をやり遂げようと、巨人達は懸命に戦い続けた。
そしてミューモは、酷く焦っていた。
グリフォンの飛ぶ速度は、ミューモに勝る。高速で飛び回るグリフォンを、ミューモはなかなか捉えられないでいた。
視界の隅には、倒れる巨人達が映る。そして、ミューモを翻弄する様に飛ぶグリフォン。このままでは、全滅は必至。焦るミューモは、グリフォンの術中に嵌っていく。
地上で足止めをする間に上空を制し、有利に戦いを進めようとした巨人達。戦力の差を突き、一方的に勝負を決めようとした四体の魔獣。
戦況は四体の魔獣に傾く。
次々と放たれる黒い塊の前に、サイクロプスの一族全てが意識を奪われた。
アルゴスは撥ね飛ばされて以降、起き上らない。テュホンとユミルは、両者ともに毒で意識を失う。
スルトは飛ばされた衝撃で立ち上がれず、フェンリルの追撃を受けておびただしい血を流した。
そして最強の守護者アトラスは、倒れる仲間達を守ろうと身を盾にし、ベヒモス、ヒュドラ、フェンリルの三体から激しい攻撃を受けて倒れ伏した。
勇敢に脅威に立ち向かった巨人達は、足止めすら出来ずに全滅をした。巨人達の安否は不明。やられた眷属達は、依然として目を覚まさない。
そして、巨人達を無力化した勢いは、ミューモへと向く。
四体一の不利な状況へと、ミューモは追い込まれる。大陸西部の状況は、ますます悪化の一途を辿っていた。
悪意に包まれ、黒く体を染めた四体の魔獣達は、何れも強力だった。その力は、エンシェントドラゴンのミューモであっても、容易に止める事は出来なかった。
そして大陸の大事に、ドラグスメリア大陸でも有数の力を持つ、巨人達が集まる。しかし四体の魔獣の前に成す術無く敗れ去り、生死不明の状況に追い込まれた。
「テュホン! ユミル! スルト! アトラス! アルゴス! サイクロプスの一族まで! くそっ! もっと力が有れば……」
違う。神に最も近いとされたエンシェントドラゴンより強力な魔獣は、この世に存在しない。魔獣の中でも強大な力を持つ四大魔獣とて、巨人達が力を合わせれば鎮める事も容易かったろう。
それが、巨人達は成す術なく倒され、眷属のドラゴン達も次々と倒れていく。そんな中、エンシェントドラゴンであるユミルでさえ、彼等を相手に苦戦を続けている。
そんな状況自体が、異常なのだ。
眷属達が無事であったなら、巨人達を安全な場所に運ばせる事も出来ただろう。治療も可能だったはず。だが今は、眷属すら意識が戻っていない。
ミューモは、巨人達が無事で有る事を信じるしか無かった。「彼らの勇気に応える為にも、一早くこの状況を治めよう」。そしてミューモは、ブレスを吐いて四体の魔獣に応戦した。
四体の魔獣は、依然として猛威を振るう。
ヒュドラが吐く毒のブレスを少しでも吸えば、ミューモとて深いダメージを食らう。毒のブレスを避ける為に高度を上げて飛ぶと、上空からはベヒモスの魔法で作られた黒い塊が降り注ぐ。
黒い塊を避けた先には、グリフォンが待ち構えており、鋭いかぎ爪が迫る。時折、まるで地上から放たれたミサイルの様に、勢い良くフェンリルがジャンプし、尖った牙と爪が身体を掠める。
ミューモは、四体の魔獣から繰り出される攻撃を躱しつつ、輝くブレスを吐く。しかし、四体の魔獣は巧みな連携で、ミューモのブレスを容易く躱し攻撃を繰り返した。
神々が作った最初の生物、原始のドラゴン。全ての生物の頂点とも言える力を持ち、世界の守護者として生きてきた。生を受けてより此の方、ミューモは追い込まれる事は一度とて無かった。
「神よ、どうか力をお貸しください」
神の気配を探ろうとしても、妨害されているかの様に何も感じない。そして、連携が取れた攻撃は、ミューモを徐々に追い詰めていく。
魔法と飛行による、ベヒモスとグリフォンの連携が巧みに活きる。ミューモの飛ぶ高度は、気付かぬ内に落ちていく。そして、大気に紛れた毒の霧が、ミューモの内臓を蝕み、動きが徐々に遅くなる。
遂にミューモは、魔獣達の攻撃を躱せなくなる。並みの生物では傷を付けられない黄金の鱗は、少しずつ剥がれ落ち、翼には穴が開く。それでもミューモは空を駆けた。
ミューモは、完全に防戦一方になっていた。
世界で最も硬いドラゴンの鱗を、容易に貫通する黒い塊に牙やかぎ爪。痛みに呻く暇すら与えない、四体の魔獣の連続攻撃。失いそうになる意識を懸命に取り戻し、ミューモはブレスを吐く。だがミューモの攻撃は、尽く避けられる。
行動を予測でもされているのか。そんな錯覚さえ起こす程に、ミューモは追い込まれていった。
助けは来ないだろう。ミューモは本能的に悟っていた。
大陸西部でこれだけの事が起きている。北部や南部が無事なはずが無い。東部は、スールの眷属の言葉からして、もう手遅れなのだろう。
他のエンシェントドラゴン達も無事でいるかどうか。神とも繋がらない様な事態で、自分が倒れる訳にはいかない。
ミューモは己を奮い立たせる。そして、膨大なマナを擦り減らし飛び続けた。
痛みが全身を駆け抜ける。それでも魔法を放つ。それでもブレスを吐く。だが、ミューモの攻撃は当たらない。そして、魔獣達の攻撃はミューモの身体を貫く。
絶望がミューモの頭に過った。その瞬間に、黒い闇がミューモの眼前を遮り、幻聴が聞こえる。
お前には倒せない。お前は何も出来ない。
何も守れない。全て失う。
大地は荒廃する。生物は全て死に絶える。
お前は使命を果たせない。神から与えられた大切な役目はここで終わる。
その幻聴にミューモは、抗おうとする。
止めろ!
違う!
俺は守れる!
まだ戦える!
まだやれる!
頭に響く幻聴は、ミューモの精神を押しつぶしていく。どれだけ抵抗しようとも、幻聴はミューモを苛み続けた。
終わりだ。もう終わりだ。
お前はここで終わるんだ。
うるさい!
ふざけるな!
終わるものか!
負けはしない!
俺は原初のドラゴンだ!
違う、お前は違う、お前はもう死んだ。
お前の肉体はもう無い、全ては闇の中だ。
死んでない、俺はまだ死んでない。
戦える、お前らを倒す。
囁くな、俺の中で囁くな。
「ロメリア! 俺の中で囁くな!」
ミューモは発狂した様に叫んでいた。
この時、ミューモはようやく悟った。東の地で何が起きたのかを。そして、ラフィスフィア大陸で邪神がどうやって力有る者達を取り込んで言ったのかを。
悪意は、ミューモの精神を苛み続ける。魔獣は、ミューモの体を壊し続ける。既に体はボロボロで、飛ぶ事さえ出来ない。叫んだ直後に意識を失い、ミューモの体は静かに地上へ落ちていく。
黒い闇がミューモの全身を包む。そしてゆっくりとゆっくりと、悪意がミューモを取り込んでいく。そして魂の輝きが光を失う。
何も救えない。誰も救われない。お前自身が救われない。
神の為に尽くしたお前に、神が何をした。お前は捨てられた。お前は見放された。
神を恨め。ミュールを憎め。お前を利用し、使い捨てた神に復讐しろ。
目に映るものは、全てが敵だ。誰もお前を守らない。お前しかお前は守れない。だから潰せ。目の前の敵を潰せ。神を潰せ。
もういいだろう。そうだ堕ちて来い。こっちに来い。こっちに来い。こっちに来い。さあ、さあ、さあ。
お前を歓迎しよう。お前は幸福になる。お前の幸せはこれから始まる。嘘に塗り固められた世界は終る。これからお前の生が始まる。
さあ来い。こっちに来い。堕ちて来い。
やがて、ミューモのマナが消えていく。ミューモの意思が消えていく。黄金の体は、どす黒く塗り替えられる。ミューモの体に、淀んだマナが流れ込んでいく。
全てが闇に呑まれ様としていた。四体の魔獣に続き、エンシェントドラゴンが闇に落ちる。それは、大陸西部の終焉を意味していた。
しかし、終焉を訪れさせまいと、雄々しい叫び声が響き渡る。
「簡単に終わってんじゃねぇよ、糞ドラゴン!」
闇に落ちたミューモ。倒れ伏す巨人達。暴れ続ける四体の魔獣。その声は、悪化を続ける状況を照らす光明と鳴る得るのか。
ペスカと冬也が大陸西部の戦場に辿り着いた時、眼下に広がる状況は酷いものであった。
踏み荒らされ、焼き尽くされた灰になった木々や大地。倒れ尽くす巨人達。暴れ続ける四体の巨大な魔獣。そして上空に浮かぶ、大きな黒い闇。
大きな黒い闇の正体には、直ぐに検討がついた。間違い無くあの中には、エンシェントドラゴンのミューモがいる。
「何やってんだよ、糞ドラゴン。手間を増やすんじゃねぇよ」
「いや、お兄ちゃん。あれはしょうがないって。多勢に無勢だもん」
「ってか、言ってる場合じゃねぇな。ペスカ、回復は頼めるか?」
「うん。任せて、お兄ちゃん」
ペスカは冬也に笑顔を返すと、直ぐにスールの背から飛び降りる。そして魔法を使い、巨人達の所へ降下していった。
続いて、冬也はスールに声をかけた。
「スール、俺が力を貸してやる。お前はあの闇を払え」
「儂が? いえ、畏まりました」
スールは疑問を呈するが、直ぐに頷く。冬也はスールの背に手を置くと、神気を流し始める。
冬也とスールの意識が神気を通じて繋がる。しっかりと冬也の意思が、スールに伝わってくる。
「良いかスール、俺の力を感じろ。俺の力をブレスに乗せるんだ。大丈夫だ、お前なら出来る」
冬也のおかげで、神気が体内に流れるのを、はっきりと感じる。そしてスールは、意識を集中して、神気を研ぎ澄ませる。
ゆっくりと体内を巡る神気を、口から吐き出されるブレスに合わせる。
巨大なブレスがスールから放たれる。今までとは全く違う、神の光を纏ったブレス。そのブレスを浴び、ミューモを包む闇が払われる。それと同時に、ミューモの体を光が包む。やがて少しずつ、ミューモの体にマナが蘇る。
スールのブレスで、ミューモは悪夢から解き放たれる。そして、ミューモの魂は輝きを取り戻した。しかし、飛ぶ事すらままならない程に傷ついた体は、癒えてはいない。
闇が消え去ると共に、ミューモの体は落下していく。そのまま意識は戻らず、激しい音を立ててミューモは大地に叩きつけられた。
ミューモから闇が消えた事で、スールとその上に乗る冬也に魔獣達の意識が向く。ぎらついた殺意が向けられる中、冬也はスールに問いかける。
「スール。今の感覚を覚えたか?」
「はい、主」
「なら、奴らの相手は任せるぞ」
「畏まりました主。して主は何を?」
「俺はこの地に封じられた神を呼び覚ます」
そう言うと、冬也はペスカと同様にスールの背から飛び降りた。
冬也はミューモの支配地に入ってから、神々の気配を探っていた。遮断でもされているかの様に、一向に神の気配を掴む事は出来なかった。
何らかの意図が働いているのか。もしやこれが、ペスカの言ってた第三者の介入なのか。理由はわからないが、何か不自然な感覚を覚えた。
もし、第三者がこの事態を引き起こしている根源であるならば、四体の魔獣は単なる手駒でしかない。
ベヒモス、フェンリル、グリフォン、ヒュドラを悪意に染め上げた者、そして神との通信を遮断している者、これが同一であるかはわからない。
それを確かめる為にも、この地に封じられているだろう神を目覚めさせる事は、必要な事であった。
この戦場でやるべき事は多々ある。
巨人達の生存確保。四体の魔獣を止め。封じられた神の目覚め。その全てを行っても、大陸西部の混乱を完全には止められない。あくまでも、混乱の原因を断つ手段に過ぎない。
ただ問題というのは、些細な事が積み重なって大きくなるもの。大きくなった問題を、そのままの状態で捉えるから、解決が困難だと感じる。要因となった事象を紐解き、一つ一つ丁寧に対処すれば、解決は不可能ではない。
巨人達の回復は、現在ペスカが担っている。四体の魔獣は、スールが止める。そして、神は冬也が目覚めさせる。
この場に到着したのは、神の次に力を有するエンシェントドラゴンではない。二柱の神とその眷属である。
ミューモや巨人達に敵わない事も、神であれば対処が可能であろう。それが例え、神として『ひよっこ』であろうとも。
冬也は飛び降りながら、神剣を取り出す。猛烈な勢いで落ちていくスピードを乗せて、大地に神剣を突き刺した。
その瞬間に、バキっと大きな音が鳴り響く。その音は、ガラガラと崩れ去る様な音に変わっていった。
「何だ? 結界の一種か? 誰が何の為ってのは、今考える事じゃねぇな」
冬也は少し呟きながら、すぐさま体内の神気を高めた。
「この地に縛られた神よ。俺の神威に応えろ。お前は自由だ。さあ、姿を現せ!」
冬也を中心に光が溢れていく。そして神気が大地に流れる。結界の破壊、大地の修復、それは封じられた神を目覚めさせる。
冬也の神気に呼応する様に、淡い光が現れる。淡い光は徐々に大きさを増し、少しずつ形をなしていく。
淡い光は 細く美しい肢体、柔らかく長い髪、細く美しい顔の女神に姿を変えた。
一方ペスカの治療は、迅速そのものだった。
着地したペスカは、直ぐに巨人達の様子を診る。ペスカのマナ容量では、全ての巨人を完全に治療する事は出来ない。
よってペスカは、傷を塞ぐ事を優先した。
最初に治療を行ったのはアトラス。倒れた巨人達を守る様に、傷を負ったアトラスに治療を施す。
但し行ったのは、傷を塞ぎ意識を回復させるのみ。痛みは残るし、暫く戦える状態にはならないだろう。
そして、最初にアトラスを治療したのは、この戦場から巨人達を運び出す事が目的であった。
「痛いだろうけど我慢してね。みんなを安全な所まで運んで」
アトラスは強く頷く。アトラスは痛みに耐え、サイクロプス達を運び始める。
上空ではスールのブレスが、ミューモを包んでいた闇を消し飛ばす。ペスカは、次の巨人に目を向けた。
次にペスカが治療したのはスルトであった。
スルトの傷は深く、流れた血の量も多い。傷を止めただけでは足りない。増血の魔法も合わせてかける必要が有る。
ペスカは、瞬時に診断を下し、適切な魔法をかけた。そしてペスカは走った。
毒に侵されたテュホンとユミル。毒で臓器がグズグズに腐っており、恐らく一番命の危険に晒されているのが、この二体であろう。
内臓の修復には膨大なマナと時間がかかる。二体の巨人には、解毒の魔法をかけた後に、重要な臓器のみ修復していった。
ペスカが巨人達を治療している間に、アトラスが巨人達を運んでいく。最後に残されたのは、テュホンとユミル。二体の巨人を、アトラスが両腕で抱え運ぶのに、ペスカも同乗した。
戦場から少し離れた場所に、巨人達が並べられている。
ペスカは、未だ治療が済んでいない、サイクロプス達の治療に取り掛かった。サイクロプス達には、体のあちこちに深く抉られた様な痕跡がある。幸運なのは、四肢が残っていた位であろう。
骨は折れ、内臓に突き刺さっているのがわかる。それ程に酷い有様で、生きている事自体が不思議であった。
ペスカは、サイクロプスの一族にまとめて回復魔法をかける。みるみる内に傷は塞がり元の体に戻っていく。骨は繋がり、内臓の一部を修復する。
もっとしっかりとした治療を、巨人達に施す必要が有る。しかし簡易的であるが、甚大な損傷の修復を施した。一先ず巨人達の命を繋いだペスカは、深い息を吐いた。
既にペスカのマナは、枯渇寸前である。そして少し座り込んだ。
未だ戦場では戦いが終わっていない。むしろ前哨戦にしか過ぎない。
そして冬也の眷属になり、神龍となったスールは、その本領を発揮しようとしていた。
スールは、時を操る魔法で避難する魔獣達を癒した。その結果尽きるはずの無いマナはほとんど使いきり、僅かなマナしか残されていない。
それでもスールは、冬也の手助けでブレスに神気を乗せて、ミューモを包む闇を取り払った。
スールは感じていた。
己の体内を巡る冬也とペスカの神気を。巨大な力のうねりを。そして実感した。この力を使えばまだ戦える、主達の力になれると。
スールは冬也の眷属となり、神龍として生まれ変わった。そして、主である冬也の下で、新たな生を始めた。
如何に神に最も近い原初のドラゴンとて、与えられた神気をいきなり使いこなせるはずが無い。これまでスールは、体の中に眠る力を引き出せずにいた。
しかしスールは冬也の手助けで、神龍としての大いなる力を、その本領を発揮しようとしていた。
体に流れる神気を意識し、より膨れ上がらせる。流れる神気がスールの黄金の鱗をより輝かせる。
圧倒的な存在感で、魔獣の頂点に君臨する原初のエンシェントドラゴン。それを遥かに超越した、神龍の力が解き放たれようとしていた。
そのスピードで、ミューモを翻弄し続けていたグリフォン。スールはいとも簡単にグリフォンの背後を取り、巨大なかぎ爪で叩き落した。
神気を纏った体から繰り出される攻撃は、力を増したグリフォンでも、ひとたまりも無い。
スールは、一撃でグリフォンの意識を奪った。
空域を制したスールが次に行ったのは、広範囲のブレス。神気の籠ったブレスが、ヒュドラが放つ毒を尽く浄化していく。
だが油断はならない。相手は、巧みな連携でミューモを追い込んだ連中である。
地上から放たれる、ミサイルの様なフェンリルの攻撃。そして、ベヒモスが放つ魔法もスールを襲う。
しかし、ミューモをとことんまで苦しめた連携攻撃も、スールに届く事は無い。
スールは神気を身体から放出し、結界の様に張る。ベヒモスが生み出した黒い塊は、スールに届く事が無く、神気の結界に尽く打ち消されていく。
そして、スールが翼を羽ばたかせると、竜巻が起こる。スールのひと扇ぎで、勢い良く飛んでくるフェンリルは空中で失速し、竜巻に巻き込まれて地上に叩きつけられた。
すかさずスールは、範囲を極小にしたブレスを放つ。まるで水道のホースの口を狭めた様な勢いは、ベヒモスを軽々と貫く。
神気の宿るブレスは、肉体を破壊せずに、その身に宿る悪意を破壊する。ブレスを受けたベヒモスから、邪気が消えていき、その場で崩れる様に意識を失った。
更にスールは、三発のブレスを放った。それは、グリフォン、ヒュドラ、フェンリルにそれぞれ当り、体を蝕む悪意を消し去っていく。そして三体の魔獣達は、全て意識を失った。
到着してから約数分、あっと言う間の出来事である。スール自身でさえ驚く様な、力の差を見せつけた勝利となった。
「これが、儂の力なのか? いや、考えるのは後じゃのぅ」
スールは上空から辺りを見回す。
治療を受けたアトラスが、巨人達を運んでいるのが見える。ペスカは懸命に巨人の治療を続けている。冬也の方に視線を向けると、呼び出した光が少しずつ形を成していくのが見える。
今の二人に助力するより、自分はミューモを優先すべきだろう。
そう判断したスールは、意識を失うミューモに素早く近づいた。そしてスールは手足を器用に使い、巨人達を避難させた場所までミューモを運んでいく。更にスールは、ミューモに問いかけ続けた。
「ミューモ、目覚めよ。ミューモよ、聞こえんのか? 早く目覚めんかミューモ!」
体からは完全に邪気が消え、僅かではあるがマナがミューモに戻っている。但し、傷が余りにも酷い。これでは暫く戦えないだろう。
それでもミューモは、生態系の頂点に立つ、エンシェントドラゴンである。その影響力は計り知れない。戦えずとも、無事を示すだけで効果はあるだろう。
そして、巨人達が横たわる場所まで辿り着いた頃、何度も呼び掛けるスールに、ようやくミューモが応えた。
「スール。スールなのか?」
「あぁ。助けに来たぞミューモ」
意識を取り戻すと同時に、ミューモの体中に痛みが走る。スールはミューモを降ろすと、静かに語りかける。
「ミューモ、傷も癒えぬ状況では何も出来ぬじゃろう。だが、エンシェントドラゴンとして、お主はこの場を守れ。ここには、勇敢に戦った巨人達が眠っておる。残念ながら、お主の体を治療してやる余裕は無い」
「あぁ、わかったスール。それに、自分の体くらい自分で治せる。それで、魔獣達は?」
「奴等は儂が浄化した。安心しろ」
スールを見るミューモの目は、驚き見開かれていた。
原初のドラゴンとは異なる、圧倒的な存在感を感じる。スールから溢れる神々しい力は、何なのだろう。
呆気に取られるミューモに、スールは言い放った。
「これからが本番じゃ。気を抜くなよミューモ。お主は巨人達を守る事だけ考えよ」
「いったいお前に何があった?」
「それは後で話してやろう」
スールはミューモとの会話を終わらせると、ペスカと巨人達を庇う様に結界を張り巡らせる。
まだ終わってはいないと、ミューモの感が告げている。それ故に、ペスカの治療に邪魔が入らない様、結界を張ったのだ。
そして冬也の目の前では、光が完全に形を成す。美しい女神が姿を現す。
全ての条件が揃う。何かが起きようとしている。
スールの緊張は高まった。この場に居る全ての者を守り抜く。その強い意志が結界に籠められた。
そして、女神を見ていた冬也は、威圧する様な低く響く声で言葉を口にする。それは、スールでさえ驚く言葉であった。
「お前、女神じゃねぇな。糞野郎と同じ匂いがするぜ。正体を現しやがれ」
大陸西部の戦況は佳境を迎え、本当の戦いが始まる。四体の魔獣、そしてミューモを闇に落とした原因が、姿を露そうとしていた。