いよいよ学校生活が本格的に始まった。
 授業も進み出し、部活も一年生の仮入部期間になっている。
 水曜日の昼休み、響は早々に弁当を食べ終わると、中庭のベンチまで急いだ。
「お待たせ」
「いえ」
 待っていたのは奏だ。
 水曜日の昼休みは図書委員になった彩歌が図書室の当番なので、奏はフリーなのだ。
 彩歌の邪魔も入らないということで、響は水曜日の昼休みは奏と中庭で話すことにしたのだ。

「そういえば、かなちゃん、イタリアでの暮らしはどうだったの? やっぱりピザとかパスタ美味しかった?」
 響は聞けていなかった奏のイタリアでの生活について聞いてみた。
「日本との違いにびっくりしました。でも楽しかったです。ピザとパスタも美味しかったですよ。流石はイタリアって感じでした」
 奏はイタリアで過ごした二年間を思い出し、懐かしそうに微笑んだ。そして話を続ける。
「学校ではイタリア語と英語の授業もあったので、少しは話せるようになったと思います。それに、向こうの子達は自己主張が強いので、私も色々必死に主張してましたね」
 奏は苦笑する。
「かなちゃん、現地の学校行ってたんだ」
「はい。日本に興味ある子とかがよく話しかけてくれましたよ。それと、日本人学校にも通いました」
「そっか。じゃあ休みの日とかは何してたの?」
 響は興味深々な様子だ。
「最初の頃は、両親と散歩したりしていましたね。夏休みはせっかくEU圏内にいるからということで、近隣のフランスやドイツに足を伸ばすこともありました」
「フランスとドイツかあ……何か凄いなあ」
 響は思わず呟いていた。
「それと、オーストリアのウィーンにも。オーケストラを見に行きました」
 奏は懐かしそうに微笑む。
「オーケストラ……」
 響は奏の為に音楽の話は避けていたが、まさか奏の口から音楽関係の言葉が出るとは思っていなかった。
「音の一つ一つに深みがあって、それが綺麗に調和していたんです。まるで、音の海に潜ったような感じ。ずっとそこにいたいとすら思いました。流石は音楽の都ですよ」
 そう語る奏の表情はキラキラと輝いていた。
「そっか」
 響は少しホッとしたように笑う。
「かなちゃん、もしかして芸術科目は音楽選択してたりする?」
「ええ、そうですけど……」
 突然話が変わり、奏は訝しげにうなずく。
「じゃあ……やっぱりかなちゃんは……本当は音楽が好きなんだ。そうじゃなきゃ、ウィーンのオーケストラの話はしないし、選択科目も音楽を選ばないよね」
 響は柔らかな表情で、真っ直ぐ奏を見る。
「私は……音楽なんか大嫌いですよ。選択科目だって、教科書代が一番安かったから音楽にしただけです」
 奏は気まずそうに響から目をそらした。
「そっか……」
 響は敢えてそれ以上言及しなかった。
(かなちゃんは……きっと中一の時のフルートコンクールの失敗がトラウマになっているだけなのかも)
 響はゆっくりと空を見上げる。
 青々とした空は、まるで響にもう少し気長に待てと言っているかのようだった。
「かなちゃん、ごめんね。変な話しちゃったね」
 響は優しげな表情を奏に向けた。
「……こちらこそ、すみません」
 奏はうつむきながら、小さな声で謝るのであった。
(かなちゃんのフルートがもう一度聞きたい。俺のクラリネットとの二重奏もして欲しいけれど……大丈夫、かなちゃんのペースを待とう)
 響はそう決意した。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 翌週の月曜日。
 仮入部期間が終わり、いよいよ本入部となった。
「えー、今年は新入部員が十七人も入ってくれました!」
 三年生の部長が明るくそう言うと、響含めた部員たちが盛大な拍手で進入部員を歓迎した。
「じゃあまず新入部員のみんなは自己紹介と希望の楽器を言ってください」
 部長がそう言うと、新入部員達は誰から言うかざわざわし始める。
「じゃあ俺から行くね」
 一人の新入部員がそう言い、前に出る。
「一年三組、浜須賀(はますか)(りつ)です。中学からファゴットをやっていたので、高校でもファゴットを続けたいと思います」
 長身で爽やかな見た目の律。彼は低音木管楽器ファゴットの経験者だった。
 律を皮切りに、次々と自己紹介する新入部員達。
 今年はフルート希望者が少なかった。
(フルートは今三年が多い。三年が引退したら、フルートはかなり人数少なくなる……。是非ともかなちゃんに入部してもらいたいな。天沢さんって子も、ピッコロ出来るみたいだし)
 響は新入部員の自己紹介を聞きながらぼんやりとそう考えていた。

 新入部員は無事に希望の楽器を担当出来ることになり、この日の部活はパートごとに新入部員の実力を見るのがメインになった。
「小日向先輩」
 響はクラリネットを組み立てていると、不意にある女子生徒から声をかけられた。
 テナーサックスを持つ、ショートカットでやや小柄の少女。童顔でハキハキした印象だ。
「おお、内海(うつみ)か」
 響は懐かしげに表情を綻ばせる。
 響に声をかけたのは内海詩織(しおり)。響と同じ中学出身で、中学時代も吹奏楽部だったのだ。
「高校でも小日向先輩と一緒に演奏出来るんですね」
 詩織は明るく嬉しそうな表情だ。
「またよろしく。内海のテナー、期待してる」
 響はニッと笑った。
「はい!」
 詩織は頬を赤く染め、嬉しそうに、俄然やる気に満ちあふれたように頷いた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 水曜日の昼休み。
 響は奏と過ごす時間を確保する為、急いで弁当を食べる。
「響、先週もそうだったけど、水曜だけやたらと食べるの早いな」
 部活もクラスも同じ友人である風雅がパンを食べながら苦笑する。
「まあ……ちょっとな」
 響は曖昧に誤魔化すような返事をし、弁当に入っていたブロッコリーを食べる。
「もしかして、女の子との約束とか?」
 ニヤリと意味ありげに笑う風雅。
 響はブロッコリーを喉に詰まらせて咽せた。
「おいおい、響、大丈夫か? もしかして図星?」
 心配しつつも、ニヤニヤとした表情のままの風雅。
 奏のことは、小夜とセレナ以外には言っていなかったのだ。
「まあ……そうだけど……幼馴染だよ」
 響は水筒のお茶を飲み、風雅から目をそらす。
「幼馴染……ね。先週からのソワソワし具合を見る限り、お前、その子のこと好きだろ?」
 見透かすかのような表情の風雅。
 響は黙り込む。
 こういう時、風雅に何を言っても敵わないのが昨年からの経験上分かっている。
「まあ……俺の片思いだけどさ」
 響は少し頬を赤く染めながら白状した。
「そっか。まあ、頑張れよ。ほら、早く食べないとその子との時間減るぞ」
 ニヤリと笑い、響の肩を叩く風雅。
「それに、俺も水曜の昼は図書室行きたいし」
 すると響は意外そうに目を丸くする。
「風雅、あんまり本読まないだろ」
「まあな。でも、水曜の昼休みの図書室の当番の女の子、めちゃくちゃ美人でさ。多分一年の子だと思うんだけど。何かツンツンした態度も可愛く見えて」
 チャラそうにニヤける風雅だ。
(水曜の昼休みの図書室当番で美人の一年……)
 響の脳内に彩歌が思い浮かんだ。
(まさかな)
 響は考えるのをやめ、残りの弁当をかき込んだ。

 ダッシュで中庭のベンチに向かったが、まだ奏は来ていない。
 響がベンチに座り少し経過した時、奏の姿が見えた。
「すみません、お待たせしました。彩歌が図書室の当番行きたくないとごねていまして」
 申し訳なさそうに苦笑している奏。
「何か先週チャラそうな先輩に絡まれてウザかったらしいです」
「チャラそうな先輩……」
 響の脳内に先程の風雅の様子が思い浮かぶ。
(まさかな。いや……もしかして)
 何となく自身の想像が正しいような気がした。
「かなちゃん、放課後は真っ直ぐ家に帰ってるの?」
 響は奏の方に身を乗り出している。
「そうですね。時々彩歌と駅前のショッピングモールを探索しますけれど、基本的にあまり寄り道せずに帰っています」
 奏は大人びているが、柔らかな表情である。
「そっか。まあうちの高校の最寄駅、若干ショボいよね」
「はい。まだ私の家の最寄駅の方が栄えてます」
 奏は苦笑した。
「そういえば、かなちゃん、イタリアから戻った後はお祖父(じい)さん達と一緒に住んでるんだよね? 家どの辺なの?」
 響は聞けていなかったことを聞いてみた。
「えっと、前住んでいたマンションからはかなり離れていて……」
 奏は響に最寄駅を教えた。
「そこに住んでるんだ。俺、まだあのマンションに住んでるけどそこそこ離れてるね。まあ同じ市内だからすぐ行けるけど」
 響は奏の住む地域を知り、スマートフォンの地図アプリで確認した。
「私の両親も、響先輩のご両親と会いたがっていましたし、もしたら予定が合う日に招待するかもしれません」
 ふふっと笑う奏。
「多分それうちの親楽しみにしそう」
 響はクスッと笑った。
 音楽の話をしなければ、奏とは穏やかな時間が過ごせる響だった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 その日の放課後、奏は担任との個人面談でいつもより遅くまで学校に残っていた。
 一年生は四月に担任と中学時代はどんな生活をしていたか、学校生活には慣れたか、心配事などはないかなど、話す時間が設けられているのだ。
 面談が終わり、視聴覚室から出た奏。
(彩歌待たせてるから、急がないと)
 彩歌は面談がある奏を待ってくれているのだ。
 奏は急いで昇降口に向かおうとする。
「きゃっ」
「うおっ」
 急ぐあまり、奏は誰かとぶつかった。
 その反動で、奏は倒れかける。
 しかし、ぶつかった相手が奏を支えてくれた。
 その際、相手は持っていたものを全て手放したので、ガチャンと派手な音が響く。
「大月さん、大丈夫?」
 頭上から心配そうな声が降ってくる。
 声の主は奏のクラスメイトで吹奏楽部の律だった。
「浜須賀くん……」
 奏は驚いたように目を見開く。
 床にはメトロノーム、チューナー、譜面台と楽譜を挟んだファイルだった。
「あ……ごめんなさい……!」
 奏は慌てて床に落ちた律のものを拾う。
「楽器は無事だから、大丈夫だよ」
 律は爽やかに微笑み、ストラップで首にかけてぶら下げているファゴットを見せる。そして落ちたメトロノームを拾って動くか確かめる。壊れてはいないみたいだ。
「本当にごめんなさい」
 奏は申し訳なさそうな表情だ。
「大月さん、大丈夫だから、気にしないで。メトロ(メトロノームの略)もちゃんと動くしさ」
 奏を安心させるような表情になる律。
「なら……良かった」
 奏はホッとしたように表情を綻ばせた。
「大月さん、帰宅部だったよね? 何でこの時間まで残ってるの?」
 不思議そうに首を傾げる律。
「担任との面談があったの」
「ああ、大月さん、面談今日だったんだ。俺は明後日だ」
 面談の日程を思い出し、ハッとする律。
「そっか。浜須賀くんは……吹奏楽部なんだね」
 奏はうつむき、無意識のうちに左手で右手を押さえた。
「うん。ファゴット担当。今から全体合奏だから音楽室に戻るところ」
 律は爽やかに笑い、ファゴットを見せる。
「……そうなんだ。頑張ってね」
 奏は少しぎこちなく微笑んだ。
「ありがとう。じゃあまた」
 律は軽く手を上げ、音楽室に向かった。
 その時、律のポケットから青いハンカチが落ちる。
「あ……」
 奏はそれに気付き、ハンカチを拾う。
(音楽室……。吹奏楽部……)
 奏は律を追いかけようとしたが、吹奏楽部の部員達がいる音楽室に向かおうとすると足が動かなくなった。
(……洗って明日返せば良いよね。それに、彩歌待たせてるし)
 奏は言い訳をするように、そのまま彩歌が待つ昇降口へ向かった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 翌日。
 奏は彩歌と共に登校していた。
「そういえば奏、水曜の昼休み、あたしは図書委員の当番だけど、奏はその間何してるの?」
「えっと……」
 奏は少し言い淀んでしまう。
 響と会っているのだが、彩歌は響を良く思っていないのだ。
「幼馴染と話してる。この前私を吹奏楽部に勧誘した男子の先輩は私の幼馴染で……」
 それでも奏は彩歌に嘘を吐きたくなかったので、響との関係を正直に話した。
「あのクソ野郎と!? 奏、大丈夫なの!?」
 響への怒りと奏への心配で彩歌の表情は大忙しだ。
「うん。特に何かされたわけじゃないよ。だから安心して」
 奏は彩歌を落ち着かせる。
「……奏が傷付いてないなら良いけど」
 彩歌はムスッとしていた。そんな彩歌に対し、奏は苦笑する。そのまま学校に到着し、二人は一年三組の教室に入る。
(あ……浜須賀くん、もう来てる)
 律は自分の席で本を読んでいた。
「奏、どうしたの?」
 彩歌は不思議そうに奏を見ている。
「うん。実は昨日、浜須賀くんのハンカチ拾ってね」
 奏は律の青いハンカチを出す。昨日家に帰った後洗ってアイロンをかけたものだ。
「浜須賀の……」
 彩歌はやや不機嫌そうに読書中の律に目を向ける。
「……まあ、浜須賀は……多分このクラスの男共の中ではマシかも」
 不機嫌ながらも、嫌悪感は抑えている彩歌だった。
「相変わらず彩歌は男子嫌いだよね」
 奏はそんな彩歌に苦笑した。
「だって男なんて自分が楽しければこっちがどうなろうとお構いなしだからさ。本当ウザいし最低。中学の時だって男子全員そうだったじゃん」
 ムスッとしている彩歌。それでも美人である。
「そっか。まあ全員そうってわけじゃないけど……彩歌は大変だったね」
 奏は苦笑した。
「とりあえず奏、浜須賀にハンカチ返して来たら?」
「うん。そうする」
 彩歌に促され、奏は律の席に向かう。
「浜須賀くん、おはよう」
「ああ、おはよう、大月さん。どうしたの?」
 律は目の前の奏に目を丸くする。
「昨日、ハンカチ落としたでしょう」
 奏は丁寧にたたんである青いハンカチを律に渡す。
「あ、失くしたと思ってた。洗濯とアイロンがけまでしてくれたんだ。ありがとう、大月さん」
 律は爽やかに微笑む。
「うん、じゃあ」
 奏はハンカチを返し終わると柔らかく微笑み、彩歌の元へ戻る。
 律は奏の笑みをみて、ほんのり頬を赤く染めていた。
「大月さん……か」
 律は彩歌と談笑する奏を見て、ほんのり口角を綻ばせていた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 数日後。
 響は部活に向かおうとしていた。
「ちょっと!」
 その時、鋭い声に呼び止められる。
 聞き覚えのある声だった。
 声の方を見ると、そこにいたのは彩歌。
「えっと……天沢さん……だよね。かなちゃんの友達の……」
 彩歌に若干の苦手意識を持つ響の表情は、やや引きつっていた。
 彩歌は般若のような表情なので、思わず後ずさりする響。
「そうだけど。ていうか、奏のこと馴れ馴れしくかなちゃんって呼ぶんだ」
 ギロリと響は彩歌に睨まれ、更に後ずさりする響。
 まるで蛇に睨まれた蛙だ。
(天沢さん、ちょっと怖い……。でも、この子はかなちゃんの友達だ。好きな人の……大切な友達……)
 響はゆっくり深呼吸をし、彩歌と向き合う。
「あたし、あんたが水曜の昼休みに奏と会ってるの知ってるんだから!」
 不機嫌そうな声の彩歌。
 その時、響は初対面で彩歌に言われたことを思い出す。

『はあ!? 吹奏楽部!? あんたそんなのに奏を勧誘しようとしてたの!? 奏を傷付けんな! このクソ野郎が!』

「うん。だけど、あの子を、かなちゃんを傷付けるつもりはないよ」
 響は覚悟を決め、彩歌を見る。
(かなちゃんに吹奏楽部に入って欲しい。あのフルートの音をもう一度聴きたい。かなちゃんと一緒に過ごすなら、多分この子と関わる機会も増える。逃げずに向き合おう)
 響の表情は凛としていた。
 響はクラリネットパートのグループメッセージに今日の部活は少し遅れると送り、彩歌と人気(ひとけ)のない校舎裏までやって来た。
「天沢さんは、中一の時かなちゃんに何があったか知ってるんだね?」
 響がそう聞くと、彩歌は頷く。
「俺は……それでもやっぱりかなちゃんに吹奏楽部に入って欲しいし、かなちゃんのフルートをもう一度聴きたいって思ってる」
 響は本音を彩歌に伝えた。
 すると彩歌は激しい怒りを響に向ける。
「それが奏を傷付けるんだよ! そんなことも分からないとかあり得ない!」
 切り付けるような鋭い口調だ。
「あたしは、これ以上奏が傷付くのを見たくない! 部活なんかやってたせいで奏はあんなことになったんだから!」
 彩歌は悲痛な表情だった。
 部活と個人的に出場するコンクールが重なったせいで無理をした奏のことを彩歌も知っていた。そのせいで腱鞘炎が酷くなり、コンクールを棄権したことも。
「天沢さんは、かなちゃんのこと大切なんだね」
 響は彩歌がどれだけ奏を大切にしているか分かった気がした。
「当たり前じゃん!」
 彩歌は噛み付くようにそう返した。そして言葉を続ける。
「奏がいなかったら、あたしは独りぼっちだった……」
 その口調はいつもの刺々しい様子とは違い、弱々しかった。
「もし良ければ、中学時代のかなちゃんの話、天沢さん視点で教えて欲しい」
 柔らかく、穏やかな口調の響。
 彩歌は響の真っ直ぐさに根負けしてポツリポツリと話し始める。
「あたしは……何かよく周りの男子から美人って言われたせいで小六の時クラスのリーダー格の女子からいじめられてた」
 その話を聞き、響は意外そうに目を丸くする。気の強そうな彩歌からは想像がつかない過去だ。
「中学でもそのいじめっ子と同じクラスで最悪だった。男共は『女子怖え』とか言うだけであたしの立場悪化させるだけの最低な奴らばっかだったし。あいつらは自分が楽しければあたしがどうなろうと構わないみたいだし」
「何か……ごめん」
 響は身に覚えがないのだが、何となく謝ってしまった。
「でも奏が庇ってくれた。奏は最悪ないじめっ子にあたしへのいじめの証拠を突き付けて、弁護士呼んで法的措置を取るって脅しまでかけてくれた。そのお陰であたしへのいじめが一切なくなった」
「へえ……かなちゃんが」
 こちらも響にとっては意外だった。大人びていて大人しい奏がそんな行動を取るとは予想外である。
(かなちゃん、イタリアで生活してたからかな?)
 何となくそう思った響である。
「だから、あたしも奏が(つら)い時、側で支えたい。ただそれだけ。あたしは奏を傷付けるものから奏を守りたいだけ」
 それは彩歌の真っ直ぐな思いだった。
「そっか。話してくれてありがとう」
 響は穏やかな笑みを浮かべた。
「俺、かなちゃんと話したんだけど、あの子は本気で音楽を嫌ってなさそうだって感じた。中学時代のかなちゃんを知ってる天沢さんからはどう見える?」
 柔らかで真っ直ぐな口調の響。
 彩歌は悔しげに響を睨み、黙り込む。
「俺は、かなちゃんのフルート、凄く好きなんだ。あの音をもうもう一度聴きたい。かなちゃんのフルートは、本当に凄いよ。あの子が小四の時、初めて出場したフルートコンクールのジュニア部門で一位になったんだ」
 響は空を見ながら表情を綻ばせる。
「知ってるし。奏のフルートは最高なんだから。奏はコンクールも頑張ってた。中学の吹奏楽部の中で一番の実力だった」
 彩歌は拗ねたような表情だ。
「うん。……天沢さんは、かなちゃんのフルート、もう一度聴きたい?」
 響がそう聞くと、彩歌は悔しそうに頷いた。
「あたしも、奏のフルート大好きだから」
「そっか。俺と同じだ」
 柔和な笑みの響。
「あんたと一緒とか嬉しくない! あたしの方が奏と仲良いんだし!」
 強気な口調に戻る彩歌。
 響はそれに少しだけホッとした。
「そうかもね。……俺はかなちゃんに吹奏楽部に入ってもらえるよう、フルートをもう一度吹いてもらえるよう説得しようと思ってる。もしそれでかなちゃんが傷付いてしまったのなら……天沢さんがあの子を支えてあげて欲しいんだ」
 真っ直ぐ真剣な表情の響。
「……分かった」
 彩歌は根負けして悔しげに頷いた。
「あんたさ、奏のこと好きでしょ」
 ギロリと響を睨む彩歌。
「うん。小さい時からかなちゃんのことが好きだよ。女の子として」
 響はやや頬を赤く染めながら肯定した。
「ムカつくんだけど」
「痛いよ」
 彩歌に足を蹴られ、困ったよう眉を八の字にする響。
 しかし、彩歌の表情はどこか柔らかかった。
「奏泣かせたら許さないから」
 そう言い捨て、彩歌はその場から去って行った。
「うん、ありがとう。天沢さん」
 響は彩歌の後ろ姿に向かってそう呟いた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 その週の土曜日。
 普段土曜日も部活はあるのだが、この日は顧問の先生の都合で部活は休みだった。
「ああ、どうしよう」
 響はリビングで母親が困っていることに気付いた。
「母さん、何かあった?」
 響は首を傾げている。
「いやこの前、響から大月さんの話聞いたじゃん。それで、せっかくだし先週お父さんと二人で旅行した時、大月さんにもお土産買ってみたのよ。それで響から大月さんの連絡先と家も聞いたし、今日渡しに行こうかなって思ったんだけど、急な仕事が入って。お父さんも出掛けてるし……」
 響の母親は困ったようにお土産の袋を持っている。
 響はこれがチャンスだと思った。
「母さん、じゃあ俺が届けようか?」
 ニッと笑う響。
「良いの? じゃあお願い。日持ちしないものだから、なるべく早くね」
 響の母親は彼にお土産の袋を託す。
「分かった」
 響は早速準備する。
 奏にメッセージを送った。
《かなちゃん、うちの親がかなちゃんの両親に渡したいお土産があるって。今から俺が届けるけど、家に行って大丈夫?》
 すると、すぐに既読が付いた。
《はい。大丈夫です。でも、今両親も祖父母も不在で私一人ですよ》
 奏からそう返事があった。
《うん。丁度かなちゃんと話したいこともあったから、行くね》
 響はそう返事をし、お土産と自身のクラリネットケースを持って家を出た。

(うわあ……大きい家ばっかり……)
 地図アプリを使い、奏の家まで歩いていた響。
 現在響がいる場所は高級住宅街。
 いかにも富裕層が住んでいそうな家ばかりで響は気が引けてしまう。
(あ、ここだ。かなちゃん、こんな凄い家に住んでるんだ……。そういえば、マンションの隣の部屋に住んでた時も、かなちゃんの家の家具は高級そうだったなあ。かなちゃんの両親、どっちも金持ちだって聞いたことあったし……)
 響はたどり着いた奏の家を見て完全に気後れしていた。
 それは響が今まで見た中で一番大きく高級感ある外観の家だった。
 響は奏に到着したとメッセージを送り、門のベルを鳴らした。
 するとインターホンから声が聞こえる。
『どちら様ですか?』
 控えめな奏の声だ。
「小日向響です。かなちゃん、来たよ」
 響は緊張しながらインターホンに向かって話した。
『今開けます』
 インターホン越しに奏がそう言い、それ程待たないうちに玄関から奏が出て来た。
 奏は広い庭を通り、門の前にやって来て鍵を開ける。
「どうぞ」
 奏は上品な白いリボンブラウスに、紫のロングスカートを履いていた。
(かなちゃん、私服が上品だ……。綺麗……)
 響は思わずドキッとし、見惚れていた。
「響先輩?」
 奏は怪訝そうな表情だ。
「あ、ごめん」
 響はハッと我に返る。
「ありがとう。……凄い家だね。庭も広いし」
 響は家と庭を見渡し目を大きく見開いていた。
「曽祖父の代から住んでいる土地みたいです」
 奏は控えめに微笑んでいた。
「お邪魔します……」
 響は家に入り、豪華な玄関に圧倒されていた。
(うわあ……! 凄過ぎる……! こんな家に住むなんて、やっぱりかなちゃんお嬢様じゃん……!)
 響は家中キョロキョロ見渡していた。
「とりあえず、リビングにどうぞ。今紅茶を淹れますね」
 奏はそう言い、響をリビングに案内した。
 響の予想通り、リビングも高級感があった。
 緊張しながらシックなソファに座る響。
 肌触りから高級そうな感じがし、緊張感が余計に高まる響である。
 奏は慣れた様子で高級感ある空間を歩き、紅茶を淹れている。
(様になってるなあ……)
 響は思わず奏に見惚れていた。
「どうぞ」
「ありがとう」
 しばらくし、出された紅茶を飲む響。
 今まで飲んだことのないような高級な味がした。
「それで、うちの親からのお土産なんだけど」
 少し落ち着きを取り戻した響は、お土産が入った袋を奏に渡す。
「ありがとうございます、響先輩。両親にも伝えておきますね」
 奏は響からお土産を受け取った。
 響の一つ目のミッションはこれでクリアである。
「うん。それとさ、今は学校じゃないし、昔みたいにタメ口でも良いよ」
「でも……響先輩は一学年上ですし……」
 奏は困ったように苦笑した。
「じゃあ無理にとは言わないけど」
 響は柔らかく微笑んだ。
 そして、残るミッションは一つ。
 響は先程とは違う緊張感を持ち、持って来たクラリネットケースにゆっくりと手を伸ばす。
「響先輩、何でクラリネットを持って来たのですか?」
 怪訝そうな表情の響。
「かなちゃんのフルートがまた聴きたくて。俺がクラリネット吹いたら、もしかしたらかなちゃんも乗ってくれるかなって思った」
 真っ直ぐ奏を見る響。
 奏の表情が強張った。
「中一の時、かなちゃんに何があったのか聞いたよ。フルートコンクールのことも。だけど……俺はかなちゃんが本気で音楽が嫌いになったようには思えなかった」
 すると奏はうつむき、右腕が震える。それを左手で守るように押さえる奏。
 響はそっと奏の右手を包み込むように握る。
 奏は驚いたように響を見た。
「腱鞘炎……もう治ってるけど……怖いよね」
 すると、奏の右腕の震えが止まる。
「……フルートを……吹こうと思っても……あの時のことを思い出して吹けなくなるんです」
 奏の声は震えていた。
「小四の頃やイタリアにいた頃もフルートのコンクールに出場して、賞を取っていたんです」
 奏はゆっくりと話し始めた。
「うん。凄いね、かなちゃんは」
 響は優しく頷いた。
「日本に戻った頃には、音楽関係者の方々から少し注目され始めて……中一のコンクールは、絶対に結果を残してフルート奏者への道を進みたいと思っていました。でも……」
 奏の声は暗くなる。
「あの時はとにかくフルートに触れていたくて、部活もレッスンも詰め込んでいたんです。でも、それが良くなかったんですよね。コンクール本選直前で腱鞘炎になって、無理矢理出場したら、途中棄権です。あの時の音楽関係者の方々の残念そうな表情を思い出すと……怖くなって……」
 奏の目からは涙がこぼれる。
「そっか。かなちゃん、それまで上手くいってたから、怖くなるよね」
 響の声色は包み込むような優しさがあった。
 響は奏の涙が止まるまで待っていた。

「すみません、お見苦しいところをお見せしてしまって」
 泣き止んだ奏は恥ずかしそうに頬を赤くして響から目をそらしていた。
「全然」
 響は優しい表情だ。
「かなちゃん、音楽は、フルートは嫌い?」
 優しく問いかける響。
 奏はゆっくりと首を横に振る。
「嫌いになりたくても……嫌いになれませんでした。音楽もフルートも……好きです。……大好きです。だからこそ……苦しくて……。嫌いになれたらどれだけ楽か……」
 再び奏の目からは涙がこぼれた。
「そうだね」
 再び、奏の涙が止まるのを待つ響。
 そして奏が泣き止んだ頃、響は口を開く。
「ねえ、かなちゃん。俺、せっかくクラリネット持って来たし、吹いてみて良い?」
 すると奏は突然のことに目を丸くする。
「……良いですよ。でも……」
 奏は響に握られたままの右手に目を向ける。
「あの……手が……」
 奏は響から目をそらし、少しだけ頬を赤く染めていた。
「あ、ごめん! ずっと握りっぱなしだったね」
 響はハッとし、奏から手を離す。
(かなちゃんの手……小さくて柔らかかった……)
 自身のゴツゴツとした手との違いにドキドキする響だった。
「あの……防音の楽器部屋があるので、クラリネットを吹くならそちらで吹いた方が良いと思います」
 奏はそう言い、響を楽器部屋まで案内した。

「うわ……凄い……」
 響は案内された楽器部屋を見渡して感心する。
 楽器のことを考え、空調が管理された部屋だった。
 ピアノ、ヴァイオリン、その他様々な楽器が置いてある広い部屋だ。
 響はクラリネットを組み立て、軽くチューニングをする。
 絶対音感を持つ響はチューナーなしでピッチの調整が出来るのだ。
 そして演奏を始める響。慣れ親しんだ曲なので、楽譜なしでも吹ける。

 響の脳内には、颯爽と花畑を駆け抜ける黒うさぎの姿が浮かんだ。

 奏は響の演奏を聴き、少しだけ表情を綻ばせた。
「どうだった?」
 演奏を終えた響は期待したような表情を奏に向ける。
「うん。響くんのクラリネットは初めて聴いたけれど……まず、ピッチはバッチリ。表現も……誰もが音楽に親しめるように寄り添ってくれている感じがした」
 奏はいつの間にか昔のように響のことを「響くん」と呼び、敬語も外れていた。
「ありがとう、かなちゃん」
 響は嬉しそうな表情である。
 そして今度はとある楽譜を取り出した。
「次の曲、行くね」
 響は早速演奏を始めた。
 すると、奏はハッとする。
 それは奏が中学一年の時に出場し、棄権したコンクールの曲だった。
 少しだけ奏の表情が強張る。
 響はそれに気付きつつも、その曲を吹き終えた。
「かなちゃん、この曲一緒にやってみない? フルート向けの曲だから、クラリネットだとやっぱり違うよね」
 響は困ったように笑う。
「確かに……クラリネット向けではないかな」
 奏も少し表情が強張りつつも苦笑した。
「かなちゃんに……見本を見せて欲しいな。俺も一緒にやるから」
 響は真っ直ぐ奏を見ていた。
「……分かった」
 少し悩み、奏はゆっくりとフルートを準備した。
「じゃあ行くよ」
 奏は合図し、響と一緒に曲の演奏を始める。

 響の脳内には、花畑に黒うさぎと白うさぎがいる光景が広がる。
 白うさぎは少しだけ怯えているような雰囲気だ。黒うさぎはそんな白うさぎに寄り添う。まるで「大丈夫だよ」と言うかのように。
 すると、白うさぎは少しだけ警戒を緩めた。

 響と奏は順調に演奏していた。しかし、あるところを境に奏のフルートが止まる。
「かなちゃん?」
「ここなの……ここで右腕の腱鞘炎が悪化して……」
 奏は震えていた。
「そっか。……ゆっくりなら出来る?」
 響は優しく奏に寄り添った。
 すると、奏は小さく頷く。
「分かった。じゃあゆっくりやってみよう」
 演奏を再開する二人。
 従来のテンポよりもゆっくり演奏している。

 怯えて動けなくなっていた白うさぎがゆっくりと動き出す。黒うさぎはそれに寄り添いながら、時にはリードしながら駆け出す。すると、白うさぎも調子を取り戻したかのように、軽やかに駆け出した。

(かなちゃん、あの時の調子を取り戻してる。それに、昔、中学生になったらかなちゃんと二重奏するって約束、この曲じゃないけど半分は達成してる)
 響は奏の様子を見て嬉しくなった。
 軽やかで優美なフルートの音色が響き、クラリネットの音色と絡まり合う。
 奏の表情は明るくなっていた。
 大月家の楽器部屋には、若々しく瑞々しい音色が響いていた。

「かなちゃん、出来たね」
 響は明るく嬉しそうに表情を輝かせる。
「うん」
 奏も控えめだが嬉しそうだ。その表情はすっきりしていた。
「かなちゃん、またフルートやってみない? 今年の吹奏楽部の新入部員、フルート希望者が少ないんだ」
 響は奏を吹奏楽部に勧誘した。
「……うん。私……またフルートをやりたい。吹奏楽部も、中一の時、中途半端な状態で辞めちゃったから……高校では最後までやり遂げたい」
 奏は覚悟を決めた表情だった。
「ありがとう。俺、かなちゃんのフルートを聴くの、一緒に演奏するの、楽しみにしてた」
 響はワクワクと表情を輝かせていた。
「私も……また響くんと演奏出来て嬉しい。あ、ごめんなさい、敬語が抜けていましたね」
 奏は呼び方や敬語が外れていたことに気付きハッとする。
「気にしないで。俺はそっちの方が嬉しい」
 響は少し照れたように笑う。
「でも……」
「じゃあ、学校にいる時は敬語でも良いよ。でも、誰もいない時は気を抜いてもらって構わないから」
 クスッと笑う響。
「……分かった、響くん」
 奏は少し表情を綻ばせた。
「響くん、休み明け、吹奏楽部に入部届を出してみるね」
「うん。待ってるよ」
 響は晴れやかで嬉しそうな表情だった。
 その時、楽器部屋の外から物音が聞こえた。
「あ、誰かが帰って来たのかも」
 奏は楽器部屋から出る。
「あら、奏、ただいま。そこにいたの。ところで今日誰か来てるの?」
 奏の母親だ。目元が奏に似ている。
「お帰りなさい、お母さん。実は昔マンションの隣の部屋に住んでいた響くんが来てるの」
 ふふっと笑う奏。
「おばさん、お久し振りです。うちの両親からのお土産を持って来てました」
 響は少し緊張しながら奏の母親に挨拶をした。
「あら、響くん……! 大きくなったね」
 奏の母親は懐かしそうに、そして嬉しそうに響を見ていた。
「お土産ありがとう。後で響くんのご両親にも連絡しておくね」
 奏の母親は優しそうに微笑んでいた。
「後、お母さん、私、吹奏楽部に入ろうと思うの」
 奏は過去を吹っ切れたような表情だった。
「そう……。奏が吹奏楽部に……」
 奏の母親は感慨深そうな表情になる。
「今まで心配かけてごめんなさい。でも、私は多分もう大丈夫だから。またフルートもやってみる」
 奏は穏やかな表情である。
「分かった。奏のやりたいようにやってみなさい」
「うん。ありがとう、お母さん。後でお父さんにも伝える」
 奏は嬉しそうに微笑んでいた。
 響はそんな奏の様子を見守っていた。






♪♪♪♪♪♪♪♪





 休み明けの放課後、音楽室にて。
「また新入部員が二人も入ってくれました! しかも人数が足りていなかったフルートに!」
 吹奏楽部の部長が嬉しそうな表情だ。
「一年三組、大月奏です。フルートを担当させていただきます。よろしくお願いします」
 前に出て自己紹介する奏。
 響は嬉しそうに拍手をする。
「一年三組、天沢彩歌です。ピッコロ担当になりました。よろしくお願いします」
 ツンツンと棘のある態度は男子に対してのみらしく、女子がいる場では普通の態度の彩歌である。
 人手が足りていないフルートやピッコロに即戦力の新入部員が入ったことで、皆大歓迎だった。
「彩歌、今まで振り回した感じでごめんね。色々とありがとう」
 奏は今まで自身の側にいてくれた彩歌に感謝を述べる。
「ううん、全然。奏が大丈夫ならあたしはそれで良い。それに、また奏と演奏出来るの嬉しいかも」
 彩歌は楽しそうに笑っていた。
 そこへ響がやって来る。
「かなちゃん、入部してくれてありがとう。天沢さんも、ピッコロがいないから助かる」
「いえ、響先輩、これからよろしくお願いします」
 学校なので敬語の奏だ。
「あんた、奏の幼馴染とか言ってたけど、奏にとっての一番はあたしだから」
 彩歌は響に対して妙なマウントを取ってきた。
 男子の先輩に対して敬語を使わない彩歌である。
「そうだね」
 響は困ったように苦笑した。
「あ! 水曜の図書室当番の子じゃん!」
 そこへ風雅も加わる。
「げっ! あたしに絡んでくるチャラ男! ウザい! こっち来んな!」
 キッと風雅を睨む彩歌。
(やっぱり風雅、天沢さん目当てで水曜の昼休みに図書室行ってたのか)
 自身の予想が当たり苦笑する響。
「そんな冷たいこと言わずにさ」
 風雅は彩歌の失礼な態度を気にしていないようだ。
「俺はトロンボーンの朝比奈風雅。よろしくね、彩歌ちゃん、奏ちゃん」
「いや風雅、いきなり名前呼びって」
 早速馴れ馴れしく奏と呼ぶ風雅に響はモヤモヤした。
「名前で呼ぶなクソ野郎が!」
 彩歌が風雅に噛み付いている。
「賑やかですね」
 律もやって来て苦笑する。
「まあ……楽しくなりそう……かな?」
 響は風雅と彩歌の様子を見て苦笑していた。
「改めて大月さん、よろしく」
 律は爽やかな笑みで奏を歓迎した。
「うん、よろしくね、浜須賀くん」
 奏は柔らかな笑みで答えた。
 響はそんな二人の様子を見て少しだけ嫉妬心を抱くのであった。
 小夜とセレナも奏と彩歌を嬉しそうに歓迎している。
 吹奏楽部は賑やかになる予感がした。
 五月中旬。この日は中間テスト最終日だ。
 教室前の時計は試験終了まで残り十分の時刻を示していた。
 問題を解き終えて見直しも完了した者、まだ必死に悪あがきする者が混在している。
 響は何とか最後まで解き終えて、ケアレスミスや問題の読み間違いがないか見直しをしていた。
(……多分大丈夫だろう)
 そう思ったところでチャイムが鳴る。
 ようやくテストから解放されて、響達二年四組の生徒は晴れやかな表情をしていた。
「響、どうだった?」
「多分まあまあだと思う。一年の時と同じくらいの点をキープしたいところ」
 部活へ行く準備をしていた響は風雅に聞かれ、そう答えた。
「風雅はいつも通り余裕?」
「まあそれなりに取れてるとは思う」
 チャラくて不真面目そうな風雅だが、成績は意外にもそこそこ優秀である。
 ちなみに響は気を抜くとすぐに中の下当たり成績が落ちてしまう。
「とりあえず今日から部活再開だし、行くか」
「そうだな」
 風雅の言葉に頷く響。
 二人は音楽室に向かった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 この日の部活は六月の文化祭に向けての個人練習だ。
 響はクラリネットを組み立て、譜面台と楽譜が入ったファイルとメトロノームと念の為チューナーを持って空き教室に向かい、チューニングと基礎練習をしていた。
 その時、隣の教室から優雅なフルートのチューニング音が聞こえた。
(あ……この音は……)

 響の脳内にキラキラとした星空が広がる。
 ダイヤモンドだけでなく、ルビー、サファイア、エメラルド、アメジストなど、空にカラフルな宝石が散りばめられているようだ。

(かなちゃんの音だ。何というか……昔より煌びやかな音になってる)
 響は思わず奏の音を聴き入ってしまう。
 しばらく奏の基礎練習を聞いていると、いつの間にか文化祭の曲の練習に移っていた。
 今流行りの曲である。
 しかし、音色と曲の雰囲気がちぐはぐだ。
 奏はクラシック曲を得意とするので、その音色は優美で美しい。しかし、流行りのJ-POPなどには若干合わない。
(だけど、それはそれで新鮮さがある……)
 響は思わずクスッと笑い、クラリネットで同じ曲を吹き始めた。

 響の脳内には再び映像が流れる。花畑で優雅に佇む白うさぎ。黒うさぎがその周りを踊るように駆け回ると、白うさぎもそれに乗り始める。

(そうそう、J-POPならこんな感じ)
 響は隣の教室で曲に乗り出した奏に笑いかけるようであった。

 黒うさぎと白うさぎと楽しそうに駆け回っていたら、そこに長毛種の白猫が加わった。白猫は白うさぎに寄り添い、黒うさぎを威嚇するかのようだ。

(天沢さんか……)
 響はクラリネットを吹きながら苦笑する。
 隣の教室でピッコロの彩歌も同じ曲を練習し始めたのだ。やや攻撃的なピッコロの高音である。

 そこへ、ゴールデンレトリバーが元気良く登場した。ゴールデンレトリバーは白猫の周囲を駆け回り、白猫から激しく威嚇されている。

(ということは、このトロンボーンは風雅だな)
 いつの間にか加わっていたトロンボーンの音に、響は苦笑した。
 軽快で明るいトロンボーンの音である。
 響の脳内はどんどん賑やかになっている。

 続いて登場したのは立派な角を持つ牡鹿。牡鹿は皆のペースに合わせて駆けている。

(ファゴット……これは律だな。低音入るとやっぱり安定感ある)
 クラリネット、フルート、ピッコロ、トロンボーン、ファゴットの軽い合奏になっていた。

 響の脳内映像には更にミーアキャットと猿が加わる。
 猿は、はちゃめちゃに楽しそうに騒ぎ出した。
 そしてバラバラだった動物達をまとめにかかるミーアキャットだ。

(徹、楽しそうにドラム叩くよな)
 響は隣の棟の窓が開いた音楽室から聞こえるドラムに苦笑する。
(蓮斗のユーフォは安定感あるな。縁の下の力持ちって感じだ)
 響は聞こえてくるユーフォニアムの音を聞いて安心していた。
 ユーフォニアムはどの楽曲もあまり目立ちはしないが実はオールラウンダーな楽器である。

 思い思いに駆けたり威嚇したりはしゃいだりしていた動物達にまとまりが出てきた。
 そこへおっとりとしたカピバラとノリの良いクリーム色のモルモットが加わる。
 二匹はすぐに溶け込んだ。

(このゆったりとしたオーボエは小夜さん、ノリノリのサックスはセレナさんだな)
 近くの教室で練習中の小夜とセレナも同じ曲に加わっていた。
 個人練習のはずが、色々な音が重なり合い気付けば合奏になっている。
 最後まで演奏し終えた時、何となく達成感があった。
 隣の教室からは奏と彩歌の笑い声が聞こえた。
(何か……楽しいな)
 響は表情を綻ばせた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 この日の部活が終わった。
 夏に向けて少しずつ日が長くなっている。
 中間テストが終わり、夏服への制服移行期間に入ったので帰る準備をする響は黄色いカーディガンを羽織っていた。
 よく見ると、吹奏楽部の部員達は皆思い思いの色のカーディガンを着ていてカラフルだ。
 ちなみに、奏は紫のカーディガン、彩歌は赤いカーディガンを着ていた。

 音宮高校の校則は髪を染めたりパーマをかけたりピアスの穴を開ける意外は、制服さえきちんと着ていたら基本的に自由だ。靴下も派手な柄が許されているし、靴もブーツ、ヒール、サンダル以外ならカラフルでも許される。
 髪型も、女子生徒が巻いたり派手なヘアアクセサリーを着けても特に何も言われない。
 そして制服移行期間のカーディガンも色と柄は自由である。
 おまけに授業中以外はスマートフォン使用可能だ。中には授業中「スマホの電卓機能使え」と言ってくる先生もいる。
 比較的校則が緩いのだ。

「かなちゃん、お疲れ様。久々の部活だけど、どうだった?」
 帰る準備をし終えた響は奏に声をかける。
 奏が吹奏楽部に入部してすぐ、中間テスト二週間前になり部活停止期間に入った。よって奏にとって今日が実質本格的な活動開始日なのだ。
「こんな風に練習したの、中学一年振りです」
 奏は懐かしそうな表情である。
「しんどくはない?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます、響先輩」
 奏はふふっと楽しそうに笑った。
「かなちゃん、もし良ければ一緒に帰ら」
「奏!」
 一緒に帰ろうと誘おうとした響を遮る彩歌。確実にわざとである。
「彩歌……」
 奏は苦笑する。
「奏、帰るよ。あたしと二人で」
 やたらと「二人で」の部分を強調している彩歌。もちろん響をキッと睨みつけている。
「良いなあ。じゃあ俺も彩歌ちゃんと一緒しよっかな?」
 帰る準備をし終えた風雅が彩歌に絡む。
「はあ!? 何であんたが!? ふざけんな! あっちの馬鹿みたいな猿の所に行け!」
 物凄い剣幕の彩歌。しかし風雅は動じない。
 ちなみに、彩歌が馬鹿みたいな猿と言ったのは徹のこと。
「おい天沢! 今俺を馬鹿みたいな猿って言ったな!? 失礼だぞ! それに、俺は先輩だ! 敬語使え!」
 まだドラムセットを叩く徹は彩歌に抗議した。しかし、暖簾に腕押しであることは分かっていた。
 男子の先輩に向かって基本的に敬語を使わない彩歌だが、誰も注意をすることを諦めたようである。ただし、彩歌は蓮斗ならまだマシと判断したらしく、蓮斗にだけは敬語を使っている。
「そういえば、大月さんの家ってどっち方面?」
 律がさりげなく奏に話しかけた。
「駅から西方面」
「じゃあ俺と反対だ」
 若干残念そうな律。
「俺はかなちゃんと同じ方面だよ。かなちゃんの家の最寄駅より五駅先だけど」
 響は若干焦ったように会話に加わる。
「そうでしたね」
 奏は柔らかに微笑んだ。
 結局、響、奏、彩歌、風雅、律の五人で帰ることになった。
(随分と賑やかだけど、まあいっか)
 奏と帰りたいと思った時点で彩歌に邪魔される予想は出来ていたのだ。
 賑やかな様子で五人は音楽室を後にする。
 テナーサックスを片付けている詩織が響と奏を複雑そうに見ていることには、誰も気付かなかった。
「幼馴染か何だか知らないけど、ぽっと出の癖に……」
 詩織のその呟きは、周囲の音にかき消されていた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 翌日。
 奏は彩歌と登校し、一年三組の教室に向かっていた。
「あ、おはよう。奏ちゃんと彩歌ちゃんだよね? 吹奏楽部の」
 一年一組の教室を通りかかった時、そう話しかけられた二人。
 一年一組の廊下側の窓から詩織が身を乗り出していた。
「えっと、誰?」
 彩歌は若干警戒心を抱いた様子だ。
「おはよう。テナーの内海さんだよね?」
 奏は吹奏楽部の一年生の部員の顔と名前をゆっくりと思い出す。
「そうそう、奏ちゃん、大当たり。同じ部活なんだし、詩織で良いよ」
 ニコリと人懐っこそうに笑う詩織。
「へえ、吹奏楽部だったんだ。あたしまだ部員の顔と名前覚えてなくて」
 彩歌は口元だけ笑っていて、目はまだ警戒心が残っていた。
「全然。入ってすぐテスト休みだったもんね」
 詩織は明るい表情だ。
 その時、一組の教室内から「詩織ー、今日の英語の予習見せてー!」と声が聞こえた。
「じゃあまた部活でね」
 詩織は軽く手を振り、呼ばれた方へ行くのであった。
「何かあの子、怪しそう」
 ボソッと呟く彩歌。
「そうかな? 明るい子に見えたけど」
 奏はきょとんとしていた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 一年三組はその日の五限目に音楽の授業があった。
 廊下側の席に座っていた律は、少し眠くなりながらも音楽担当の先生の話を聞いていた。
 その時、外からパタパタと足音が聞こえた気がした。
 不思議に思い廊下に目をやると、チラリと一瞬だけショートカットの女子生徒の後ろ姿が見えた気がした。
(あれは……?)
 律は怪訝そうに首を傾げつつも、再び先生の話に注意を戻すのであった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 その日の部活で異変が起こった。
「奏ちゃん、大変! 奏ちゃんのメトロ、床に落ちてバラバラになってる!」
 奏が彩歌と一緒に音楽室に来たところ、小夜が慌てて奏の元へやって来た。
「え? 私のメトロノームがですか?」
 奏は怪訝そうな表情で、楽器やメトロノームなどを置いている音楽準備室に入る。
 音楽準備室はざわざわと人が集まっていた。
 セレナ、律、詩織も床に目を向けて驚愕している。
 その床には確かに奏のメトロノームが落ちていた。
 おまけに分解され、中の部品まで壊されて使い物にならない。
「嘘……」
 奏は驚愕で目を大きく見開きながらも、自身のスマートフォンで壊れたメトロノームの写真を撮った。
「何でこんなことになってんの? 昨日奏がメトロちゃんと戻してたの、あたし見たけど。しかも誰かがぶつかったりしても落ちない場所に置いてたじゃん。それにさ、仮に落ちたとしてもこんな内部の部品まで壊れるのっておかしくない?」
 彩歌は眉をひそめる。
「じゃあ誰かがわざと奏のメトロ壊したってこと? ……そんな命知らずなことする?」
 セレナが恐る恐る苦笑しながら周囲の部員達を見渡す。
「考えたくはないけど、セレナの言う通り、その可能性はあるかも……。命知らずではあるけれど……」
 小夜は残念そうにため息をつく。
「でも、誰が? 奏の実力妬んだ人とか?」
 セレナが怪訝そうに首を傾げる。
「でもそうなったらフルートパート全員容疑者になる可能性ありますよ。だって奏ちゃんがフルートの中で一番上手いですから」
 詩織が苦笑している。
「……でも、同じパートの中にこんなことをする人なんて、想像出来ない。正直、フルート内にはいないと思いたい」
 奏は控えめに発言した。
 現在フルートパートには特に問題は起こっておらず、部員間の仲も悪くないのだ。
「あたしも……先輩とか同じ一年のフルートの中にはいない気がする」
 彩歌も奏に同意した。
「じゃあ授業とかで音楽室使ったクラスにいたりしない? この際部活とか関係なくてただ悪戯でやっちゃったとかさ」
 小夜が重々しい空気にならないよう、少し明るめの声を出す。
「今日は知ってる限り、音楽の授業があったのは俺達一年三組と隣の四組ですけど」
 律は思い出したように発言する。
「じゃあその中の誰かを片っ端から探す?」
 セレナは首を傾げている。
「三組ってことは、奏ちゃんの自作自演の可能性は? 落ちにくい場所に置いたって彩歌ちゃんも言ってたし」
 悪戯っぽく、やや責めるような口調の詩織。
「はあ!? 奏の自作自演とか絶対あり得ない! だって奏、音楽の授業中は準備室入ってないのあたし知ってるし!」
「彩歌、落ち着いて」
 奏を疑う詩織に対して激しく噛み付く彩歌。
 奏はそんな彩歌を宥める。
「俺も大月さんが音楽の時に準備室には行ってないのはちゃんと見たから、大月さんの自作自演はあり得ない」
 律も奏を庇った。
「ふーん、そっか……」
 詩織はややつまらなさそうな表情だった。
「とにかく、メトロノームは予備も持っています。この件はもう終わりにしませんか? 私は特に気にしていないので」
 奏はそう言いながらバラバラに壊されたメトロノームの部品を拾い集める。
 彩歌と律もそれに続き、奏を手伝う。
「まあ、奏がそう言うなら良いんだけどさ」
 セレナは心配そうだった。
「とりあえず様子見で良いと私は思います」
 奏は気にしていないように微笑む。
(それに、いざとなったら器物破損で訴えて相手に前科を付けることも出来るから)
 最初は驚いたが、次第に冷静になっていた奏だった。
「彩歌も浜須賀くんも、手伝ってくれてありがとう」
 奏はメトロノームの壊れた部品を受け取り、捨てずに保管する。
「奏、今日はあたしのメトロ、一緒に使おう」
「何もないとは思いたいけど、何かあったら俺も協力するから」
 彩歌と律は心配そうな表情だった。
 こうして、この日の部活は少し不安を残しつつも始まった。
 奏は特に何も気にした様子はないが、律はファゴットを準備しながら訝しげにチラリと詩織に目を向けるのであった。
 奏のものが壊されることは、あれから続いた。
 メトロノームだけでなく、チューナー、譜面台、楽譜が入ったファイルなど、フルート以外の部活関連の道具が壊されたり捨てられたりしていたのだ。
 確実に奏に対して向けられた悪意である。

「かなちゃん、大丈夫?」
 響はそれを知り、心配そうに奏に話しかける。
「はい。フルートは無事なので、問題はないです。それに、楽譜を見ずに文化祭の曲は全て演奏出来ますから。全部覚えていますし」
 奏は気にした様子はなく、フルートを組み立てる。
(でも、悪意を向けられるのってキツイからな……。俺もかなちゃんを守りたい)
 響はグッと拳を握り締めた。
「ただ、チューナーが壊されたのは、少し困りますね。彩歌も今日は図書委員会の集まりで部活に遅れますから、借りるのも難しいですし」
 奏は困ったように苦笑した。
「じゃあ俺が確認しようか? 一応俺、絶対音感持ってるけど」
 響は少し得意げな表情だ。
「そうでしたね。響先輩、絶対音感のお陰で昔からピッチ合わせは得意でしたね。じゃあ、お願いします」
 奏は昔を思い出し、ふふっと柔らかく微笑んだ。

「響先輩」
 響が個人練習をしている教室にやって来た奏。
「かなちゃん、ピッチ合わせ?」
 響が少し嬉しそうに笑うと、奏は頷く。
「お願いします」
 奏は早速フルートのチューニング音を出す。

 奏の優雅な音が響くと、響の脳内に宝石のような星空が広がる。

(かなちゃんの音だ。でも、ピッチはちょっと高い)
 響は微妙なピッチの違いに気付く。
「かなちゃん、ピッチ少し下げよう」
「はい」
 奏は少しフルートの頭部管を調整してもう一度チューニング音を出す。
「うん、バッチリ」
 響は明るくニッと笑う。
「ありがとうございます。助かりました」
 奏はそのままフルートの個人練習の教室に戻ろうとするが、響は少し寂しくなり思わず奏の手をつかんで引き止めてしまう。
「響先輩?」
 奏は驚いて振り返る。
「あ……ごめん」
 顔を赤くして響は慌てて奏の手を離した。
「いえ。……どうしました?」
 奏は困ったように微笑む。
「いや……その……かなちゃんもう文化祭の曲の全部覚えたって言ってたし……休憩しても良いんじゃないかなって思って。ほら、今クラリネット俺以外全員休憩で外行ってるし」
 しどろもどろになりながら、響は奏を引き止める理由を探していた。
「……まあ、そういうことでしたら。彩歌もまだ図書委員会の集まりで来ていませんし」
 奏は少し考える素振りをし、教室の空いている席から椅子を持って来て響の近くに座る。
 響はホッする。それと同時に奏と過ごす時間が増え、嬉しそうに表情を綻ばせた。
 その時、開けていた窓から冷たい風が入り、奏がぶるりと震えた。着ていた紫色のカーディガンの袖を伸ばす。
「何か、今日ちょっと寒いよね」
 響も黄色いカーディガンのまくっていた袖を戻し、窓を閉める。
「はい。なぜか気温下がってますよね」
 奏は苦笑した。
「あのさ、かなちゃん。文化祭、俺のクラス執事&メイド喫茶やるんだ。男子が燕尾服着て、女子がメイド服着るやつ。良かったら来てくれないかな?」
 やや緊張気味な響。声が少し掠れてしまう。
「執事&メイド喫茶……楽しそうですね。はい、絶対行きます。多分彩歌も一緒に行くと思いますけど」
 奏は楽しそうに表情を綻ばせた。
「一年は模擬店とか何もしないので、二年になって模擬店出すの、今から楽しみになってます。もちろん、初めての高校の文化祭も楽しみです」
 奏は文化祭に思いを馳せていた。
 模擬店を出すのは二年生になってからである。
「そうだね。クラスの準備とか、まあ非協力的な人もいるけど何だかんだ楽しいよ。看板作ったり、衣装合わせたりとかさ」
 響は明るい表情だ。
「それとさ、セレナさんが男装コンテストに出るの知ってる?」
「それ、初耳です」
 響からの情報に、奏は面白そうに目を丸くした。
「何か、最近流行ってる漫画原作のアニメあるじゃん。鬼と戦うやつ」
「はい、知ってます」
「それに登場するキャラのコスプレして出るらしい」
「それ見てみたいです。セレナ先輩の男装、絶対見に行こう」
 奏はワクワクとした様子だった。
 響は奏の表情を見て、嬉しそうである。鼓動の高まりと楽しさが丁度良い塩梅だ。
(かなちゃんとのこの時間、ずっと続いて欲しい)
 響はそう願うのであった。

 そんな二人の様子を面白くなさそうに見ている者がいた。
 詩織である。
「……何なのあれ? 何で小日向先輩と楽しそうに喋ってんの?」
 低い声の呟きは、他の楽器の練習音にかき消されるのであった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 その日の部活終わりにて。
「彩歌、私、音楽室に定期忘れたみたいだから、先に昇降口行っておいて」
「分かった。じゃあ先行ってる。鞄預かろうか?」
「ありがとう、お願い」
 奏は綾に鞄を託し、音楽室に忘れ物をしたので取りに戻った。
「あれ? 大月さん、帰ったんじゃなかったっけ?」
 まだ音楽室でファゴットを片付けていた律は不思議そうに首を傾げていた。
 音楽室にはまだちらほらと部員達が残っている。
「音楽室に定期を忘れていたの。……あった、これだ」
 奏はすぐに鞄に入れ忘れたノートを取る。
「すぐ見つかって良かったね。定期失くしたらヤバいから」
 律は安心したように表情を綻ばせる。
 その時、律は譜面台を倒してしまい、置いていた楽譜がバラバラになってしまう。
「うわ、最悪だ」
 律は苦笑する。
「手伝うよ、浜須賀くん」
 奏はすかさず律の楽譜を集める。
「ありがとう、大月さん」
 律は申し訳なさそうに微笑んだ。
「音楽室閉めるから今残ってる人達は準備室の方から出てね」
 三年生の先輩がそう言い、音楽室の鍵を閉める。
「うん、楽譜全部ある。助かったよ、大月さん。ありがとう」
 律は爽やかな笑みを奏に向ける。
「良かった」
 奏は安心したように表情を綻ばせた。
 音楽室に残っているのは奏と律だけである。
 奏と律は音楽準備室の方から出ようとする。
 日が落ちてきた頃の音楽準備室は薄暗く、少し不気味だった。
「あれ? ドアが開かない……」
 奏は音楽準備室のドアを開けようとするが、ガタガタと音がするだけで全く開く気配がない。
「え? 俺開けてみるね」
 不思議な思った律がドアを開けようとする。しかし、奏の時と同じようにガタガタと音がするだけで全く開かない。
「鍵は内側から開けられるから、もしかして何か挟まってる?」
 怪訝そうな表情の律。
「とりあえず、音楽室の方から出よう。後で職員室から音楽室の鍵を借りて締めに行けば良いと思うから」
 奏は冷静にそう考え、音楽室に戻ろうとする。
「待って……。こっちのドアも開かない……。何か挟まってる」
 何ともう片方の、音楽室側に繋がる扉もガタガタと音が鳴るだけで開かなかった。
「嘘だろ……」
 律は驚愕する。
 その時、律はパタパタと誰かが廊下を走る足音を聞いた。
「誰か外にいる! すみません! 開けてください!」
 律は外に向かって大声をだし、廊下側のドアをドンドンと叩く。
 しかし、誰も来ない。
「浜須賀くん……?」
 奏は少し不安になる。
「ごめん、外にいる誰かには気付いてもらえなかったみたい」
 苦笑する律。
「大丈夫。そうだ、私、彩歌待たせてるから連絡したら……。ごめん、スマホ、彩歌に預けた鞄の中だった」
 奏はポケットに手を入れたが、スマートフォンを鞄に入れていたことを思い出す。
「じゃあ俺のスマホで……。ごめん、こっちは電池切れ……」
 何と律のスマートフォンも使えない状態だった。
「こんな時に限って。大月さん、本当にごめん。俺が楽譜ぶち撒けなかったらこんなことにはならなかったよね」
 律は申し訳なさそうな表情だ。
「浜須賀くんのせいじゃないよ。……とりあえず、警備員さんの見回りの時に開けてもらおう」
 奏は冷静さを取り戻していた。
「そうだね。でも……さっきの足音、気になるな……」
 律は考え込む。
「足音?」
 奏は首を傾げた。奏には聞こえなかったのだ。
「実はさっき、誰かが廊下を走る足音を聞いたんだよ。だから外に気付いてもらえるようにドアを叩いたんだけどさ」
「そうだったんだ。ありがとう、浜須賀くん」
 奏は少しだけ口元を綻ばせた。
「うん。でも、気付いてもらえないことってあるかな?」
 怪訝そうな表情の律。
「うーん……急ぎの用があってそれどころじゃなかったとか?」
 奏は困ったように首を傾げる。確かに、気付かないのはおかしいと奏も感じていた。
「考えたくないけど……わざと……とか」
「そんな……」
 低い声の律に、奏は少し表情を強張らせた。
「うん……。大月さん、最近メトロとかチューナーとか壊されてるよね。もし大月さんを狙ったものだとしたら……」
 律は少し考え込む。
「だとしたら、ごめんなさい。私のせいで浜須賀くんが巻き込まれたことになるね」
 奏は申し訳なさそうな表情だ。
「いや、気にしないで。大月さんこそ、被害者なわけだから」
 律は奏に罪悪感を持たせないような爽やかな表情だ。
(でも……だとしたら誰が……?)
 奏は考えるが、犯人としてあり得そうな人は全く思い浮かばない。
 少し冷えたのか、奏はブルリと震えた。
「今日珍しく寒いよね。俺のカーディガン着ていいよ」
 律は自身の青いカーディガンを奏にかける。
「でも、それだと浜須賀くんが寒くならない?」
 奏は申し訳なさそうに眉を八の字にする。
「俺は平気だから」
 律は爽やかな笑みを浮かべた。
「……ありがとう、浜須賀くん」
 奏はゆっくりと律のカーディガンに袖を通す。
 先程まで律が着ていたので、温もりがダイレクトに伝わる。
 奏は少しだけ安心感に包まれた。
「それにしても、警備員さんいつ来るかな?」
 律は奏から目をそらしながら呟く。
「そうだね」
 奏は近くの棚にゆっくりと手を置く。
 すると、ガタンと音がし、最上段に置いてあったメトロノームが落ちてくる。
「大月さん、危ない!」
 律が奏の体を引いた。
 密着する奏と律の体。お互いの体温がダイレクトに伝わる。
「ごめん、浜須賀くん」
 奏は落ちてきたメトロノームにも、律の行動にも驚いていた。
「いや、こっちこそいきなりごめん。その……怪我とかはない?」
 頬を赤く染めつつも、心配そうな表情の律。
「うん、大丈夫。ありがとう。これ、昼岡先輩のだ」
 奏は落ちた徹のメトロノームを拾って元に戻そうとする。しかし、つま先立ちをして背伸びしても最上段に届かない。
 律はその様子に思わずクスッと笑ってしまう。
「俺がやるよ」
 奏からひょいとメトロノームを取り、最上段に落ちないように置いた。
「ありがとう。身長低いと損だね」
 奏は苦笑した。
「まあ……こういうのは誰かを頼ったら良いよ。……俺とかさ」
 律は奏から目をそらしながらそう言った。
 閉じ込められて不安ではあるのだが、独りぼっちではないので奏はほんの少しだけ安心感を抱くのであった。
 響は部活が終わった後、文化祭の出し物を準備している二年四組の教室に向かった。
 文化祭準備を手伝っていたのだ。
 そして昇降口に向かう途中のこと。
「小日向先輩」
 ニコニコしている詩織に話しかけられた。
「内海か。音楽室に残ってたのか?」
 不思議そうに首を傾げる響。
「ちょっと……小日向先輩を待ってました」
 上目遣いの詩織。
「え? 何で?」
 響はまた不思議そうに首を傾げている。
「それは……先輩と一緒に帰りたくて」
 ふふっと笑い、響のカーディガンの袖をちょこんとつまむ詩織。
「はあ……」
 相変わらずきょとんとしている響だった。
 わけが分からないまま成り行きで詩織と帰ることになる響。
 その時、昇降口で不機嫌そうだが心配そうな表情の彩歌を見つけた。
 彩歌は二人分の鞄を持っていた。
 片方は自身の鞄、もう片方は奏のである。
「天沢さん? どうしたの? 帰ったんじゃなかったっけ? それ、かなちゃんの鞄だよね?」
 奏と接する時は彩歌もいることが多かったので、彩歌への苦手意識はいつの間にか薄れている響である。
「奏待ってる。でも、全然来ないから……心配。奏のスマホ、鞄に入ってるから連絡しようがないし。音楽室とかに戻って入れ違いにっても奏困ると思うから……」
 刺々しいした口調だが、いつもより弱々しい。
「分かった。じゃあ俺が音楽室まで行って見て来る」
 響はすぐに音楽室に向かおうとする。
「小日向先輩」
 詩織は懇願するかのような表情で表情のカーディガンをつかむ。
「心配だから、かなちゃん探さないと」
 真剣な表情の響。
「……私も協力します」
 詩織はぎこちなくそう答えた。
「じゃあ天沢さんはそこで待っていて。俺がかなちゃん探すから」
「……分かった」
 彩歌は若干不本意ながらも頷いた。
「俺音楽室行くから、内海は他の場所を頼む」
「……分かりました」
 響の指示に、詩織は表情を暗くして頷いた。
 しかし、奏のことばかり頭にある響は全く気付かないまま音楽室へ駆け出してしまう。
「どうしてあの子ばっかり……」
 詩織は口をへの字にするのであった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





(誰が来ないかな……?)
 奏は少し心細くなっていた。
 律もいるとはいえ、いつまで経っても誰も来ないと不安になる。
(響くん……)
 奏の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは響の姿。おまけに響先輩呼びではない。
「誰も来ないね……」
 律は苦笑しながらドアの外を確認する。
「そうだね」
 奏は力なく笑いながら律に目を向けた。
(何で先に響くんのことが思い浮かんだのかな? 彩歌も待たせているのに。幼馴染だから?)
 奏は自分の思考に疑問を抱いた。
 その時、ドアの向こうから誰かが走って来る足音が聞こえた。
 奏はハッとする。
「浜須賀くん、誰が来てるよ」
「うん」
 律はドアをバンバンと叩く。
「すみません! 開けてください!」
 すると、ドアの向こうから声が聞こえる。
「その声、律か?」
 聞こえたのは響の声。
 奏はその声を聞き、大きな安心感に包まれる。
「小日向先輩! ドアに何か挟まって塞がれてます! 大月さんも一緒です!」
「かなちゃんも! 分かった! 今開ける! あ、何かつっかえ棒みたいのがある!」
 外から響がガタガタとつっかえ棒を外し、無事に音楽準備室のドアは開いた。
「良かった、かなちゃん」
 響は真っ先に奏の元へ向かう。
「響くん……」
 ホッとして思わずそう呟いてしまった奏。
 大きな安心感に包まれたせいか、その場に座り込んでしまう。
「大丈夫?」
 優しい声色の響。
 奏はゆっくりと頷いた。
「天沢さんも心配してたよ。入れ違いにならないよう昇降口で待ってくれてる」
「そうですね。彩歌にも心配かけちゃいました」
 奏は力なく笑った。
「そのカーディガン……」
 響は奏が羽織っている青いカーディガンを見て怪訝そうな表情になる。
「俺が貸しました。大月さん、少し寒そうだったので」
「浜須賀が……」
 響は一瞬だけ複雑そうな表情になる。
「浜須賀も、大変だったな」
 響はすぐに柔らかな笑みになり、律の肩を軽くポンと叩いた。
「いえ、大丈夫です。それと、音楽室側のドアも何かで塞がれてます」
「音楽室側の?」
 響は怪訝そうに確認しに行く。
 音楽室側のドアは、奏が開けようとした時と同様まだガタガタと音がするだけで開く様子はない。
「音楽室のドア、もしかしたら開いてる可能性ありますよね?」
 律が聞くと、響も頷く。
「その可能性はあるな」
「私、確認しますね」
 奏はすぐに音楽準備室を出て、音楽室のドアを調べる。
 すると、三年生の部員が締めたはずのドアは開いていた。
「私達以外に……まだ誰がいた?」
 奏は律と楽譜を拾い終わった後のことを思い出すが、誰もいなかったように思える。
「あ、こっちもつっかえ棒がある」
 響は音楽室と音楽準備室を繋ぐドアのつっかえ棒を外した。

『考えたくないけど……わざと……とか』
『うん……。大月さん、最近メトロとかチューナーとか壊されてるよね。もし大月さんを狙ったものだとしたら……』

 律の言葉を思い出す。
(私狙い……。本当に誰が……?)
 やはり犯人に心当たりがない奏であった。
「大月さん、大丈夫?」
 考え込む奏を律は心配そうに覗き込む。
「あ、ごめん、大丈夫。そうだ、カーディガンありがとう。ずっと着たままだったね」
 奏はハッとして思い出し、律にカーディガンを返した。
「響先輩、とりあえず音楽室の鍵を借りて締めましょう」
 奏がそう言うと、響は頷く。
「そうだね」
 奏、響、律の三人は音楽室を出た。
 その時、パタパタと足音が聞こえた。詩織が向かって来ていたのだ。
「あ、良かった、見つかったんですね」
 安心したような表情の詩織。
「うん。ドアにつっかえ棒が挟まってたみたいで、かなちゃんと律が閉じ込められてた」
「そうでしたか……」
 詩織はチラリと律を見てから目をそらした。
「でも、奏ちゃんが無事で良かった。彩歌ちゃんも心配してたよ」
 詩織は奏にニコリと笑う。
「ありがとう、詩織ちゃん。心配かけたみたいでごめんね」
 奏は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
 こうして、奏は無事に音楽準備室から出ることが出来て、彩歌だけでなく響達も交えて帰ることになった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 前で奏に話しかける響。そんな響に噛み付く彩歌。帰り道、賑やかな様子を律は見ていた。律の少し前には、複雑そうにその様子を見ている詩織がいる。
 詩織の後ろ姿が、少し前の音楽の授業中に見た後ろ姿と重なる。
(多分そうだ……)
 律の疑念はほとんど確信に変わる。
 そして詩織の隣に行く。
「最近ちょっとやり過ぎじゃない? 今回の件も、大月さんのメトロとかの件も」
 低い声で脅しをかける律。
「……何のこと?」
 詩織はきょとんと首を傾げている。
「誤魔化す気か。まあ、まだ大事(おおごと)にはなってないけどさ」
 律の声は冷たかった。
 そして律は思い出す。奏がハンカチを返してくれた時の表情を。柔らかな笑みだった。
(いつも割とクールな大月さんのあの笑顔……守りたいって思った。多分俺、あの笑顔に惚れたんだな。そして小日向先輩も間違いなく大月さんのことが好き。で、こっちの内海さんは……)
 チラリと詩織を見る律。
(どのみち、大月さんを傷付けることだけは許さない)
 律は軽くため息をつき、再び詩織に冷たい視線を送った。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 翌日。
「奏、本当昨日は大変だったね。今日は部活終わったら早くに帰ろう」
「うん、ごめんね彩歌。私も忘れ物に気を付けるから」
 奏は彩歌に申し訳なさそうに微笑んだ。
 この日二人はいつもより早めに部活に来ていた。
「もしかしてあたし達一番乗り?」
「そうかも。一番とか初めてだね」
 奏はふふっと笑い、音楽室に入る。
 授業がある為、音楽室は開いていた。
 そして二人は音楽準備室に楽器などを取りに行く。
 するとそこには詩織がいた。
「あれ? あたし達が一番じゃなかったか」
 彩歌は苦笑する。
 しかし、詩織が持っているものを見ると、彩歌の表情が消えた。
「彩歌?」
 奏は不思議そうに彩歌を見る。
「あんたさ、それ奏の楽譜だよね? 何しようとしてたの?」
 低く冷たい声の彩歌。
「え……?」
 奏は彩歌の言葉に驚き、詩織が手にしているものに目を向ける。
 確かに奏の楽譜が挟んであるファイルだった。
 おまけに数枚の楽譜はビリビリに破かれている。
 詩織は奏達を見て完全に固まっていた。
(まさか……でも、何で?)
 奏の頭は真っ白になる。
「つまりあんたが奏のものを壊したりしてた犯人ってことだよね」
 彩歌が詩織に詰め寄る。
 奏は呆然としていた。
「……だったら何?」
 詩織は吐き捨てるように笑う。
「あんた、よくも奏を……! じゃあ昨日奏を閉じ込めたのも、もしかしてあんた!?」
 物凄い剣幕で怒鳴る彩歌。
「それが何!? あんたには関係ない!」
 詩織も彩歌に負けないくらいの剣幕だ。
「はあ!? 関係ない!? 友達守って何が悪いって言うの!? あんたがやってるのは完全ないじめじゃん!」
 男子達に向けるよりも更に刺々しい口調でブチ切れる彩歌。
「悪いのはそいつじゃん!」
 詩織は奏を指差す。
「詩織ちゃん、私、何か悪いことした?」
 先程まで唖然としていたが、奏は冷静さを取り戻していた。
「あんたは……あんたは私の欲しいもの全部全部横取りして!」
 奏は詩織から激しい怒りをぶつけられた。
「詩織ちゃんが欲しいもの?」
 奏は怒りをぶつけられても冷静だった。
「それってただの逆恨みじゃん! くだらないことで奏傷付けんな!」
 彩歌は相変わらず切り付けるような口調だ。
 そこへ第三者の声が響く。
「証拠動画、撮っておいたけど」
 律だ。律はスマートフォンで詩織が一連の犯人だと告白しているところを録音、録画していた。
「動画……?」
 詩織は動揺する。
「今は俺達以外誰もいないけど、この動画をみんながいる状態で流したらどうなると思う? 特に小日向先輩の前で」
 爽やかに笑う律。しかし、目は笑っていない。
(浜須賀くん……)
 律の意外な一面を見た奏は少し怯えてしまう。
「ごめんね、大月さん、怖がらせたね」
 律はそんな奏に気付き、表情を和らげる。
 奏は少し安心した。
 しばらくすると、続々と部員達がやって来る。
「何々? 浜須賀も彩歌も奏も何かあった?」
「トラブルか何か?」
 セレナと小夜だ。二人共、不思議そうに首を傾げている。
 更に、響、風雅、徹もやって来る。
「おお、みんな集まってんじゃん」
 風雅は音楽準備室に密集する奏達に驚く。
「どうしたの? かなちゃん、何かあった?」
 響は心配そうに奏の元に真っ先に向かう。
「響先輩……」
 奏は響が来てくれたことで、安心感に包まれた。
「ん? 律、何か録画したのか?」
「あ、昼岡先輩、ちょっと待って」
 待ってくださいと言おうとした律だが、徹はその動画を再生してしまう。

 詩織が奏のメトロノームなどを壊した犯人であること、昨日奏を音楽準備室に閉じ込めた犯人であることが知れ渡ってしまった。

「嘘でしょ……。犯人詩織だったんだ……」
 低い声になるセレナ。
「でも、どうして?」
 戸惑いながら詩織を見る小夜。
 他の部員達も、詩織に対して困惑したり怒りを向けている。
「かなちゃん、大丈夫?」
 奏を庇うように立つ響。
「私は平気です。でも……」
 奏は心配そうな目を詩織に向ける。
(昼岡先輩の事故とはいえ、こんな大勢の前で犯人だってバレたら……)
 目に涙を溜める詩織。
 そしてそのまま詩織は逃げ出した。
「本当、詩織あり得ない。同じサックスパートとして恥ずかしい。それに、謝罪もせず逃げるとか」
 ボソッとセレナが低い声で呟く。彼女の怒りが伝わって来る。
「詩織、こんなことするなんて……失望した」
「フルートの実力ある大月さんの邪魔をするって実質部活全体の邪魔をしたってことですよね」
 他の部員達も口々に逃げた詩織を非難していた。
「おい、何の騒ぎだ? そろそろ三年の先輩達も来るぞ」
 そこへ蓮斗も現れる。
 ちなみにこの日、三年生は学年集会が長引いて部活に少し遅れるそうだ。
「あ、晩沢先輩、実は……」
 蓮斗の近くにいた一年生の部員が、奏のものが壊される件の犯人が詩織だと伝えた。
「……とりあえずこの件は部長と顧問の先生に報告した方が良い。内海に関しては……退部させた方が良いだろうな」
「あの、待ってください」
 二年生の中のリーダー的存在である蓮斗がそう結論付けたところ、奏が声を上げる。
「奏?」
 彩歌は怪訝そうに首を傾げた。
(壊されたり捨てられたのは、メトロノームと譜面台と楽譜とチューナーだけ……)
 奏はチラリと楽器棚に置いてある自身のフルートを見てから、蓮斗や全体に目を向けて口を開く。
「退部まではやり過ぎだと思います。それに、今は文化祭前ですし、夏にはコンクールもあります。テナーの詩織ちゃんに抜けられたら、サックスパートも全体としても困りますよね。この件、不問にしませんか?」
 すると周囲は戸惑ったように騒つく。
「待って、奏、それは甘過ぎない? 奏、めちゃくちゃ被害に遭ったんだよ」
 彩歌は甘い対処をしようとする奏に少し不満そうだ。
「彩歌ちゃんの言う通りだと思うけど……」
「確かにテナーに抜けられるの困るけどさ、あんなことする子は……」
 小夜とセレナも困惑気味だ。
「彩歌も小夜先輩もセレナ先輩も、私がその気になれば詩織ちゃんを器物破損などで前科持ちに追い込めること知っていますよね? その気になればあの子の未来を潰すことが出来るってことも」
 少し悪戯っぽく笑う奏。
 奏の物騒な言葉に、周囲は騒つく。
「あ……」
「奏ちゃん、まさか」
「高校でもあの手口使う気なんだ……」
 彩歌、小夜、セレナの顔が引きつる。
 周囲は奏がどんな手口を使うのかと戦々恐々だ。
「でも、詩織ちゃんはまだ一線を越えていません」
 奏は穏やかな表情で楽器棚から自身のフルートを取り出し、大切そうに抱きしめる。
「フルートだけは、壊されませんでした。だから、この件は不問にしようと思うのです。本気で私を邪魔したり、部活全体の邪魔をしたいのなら、私のフルートを壊す方がやり方として合理的ですよね。でも、詩織ちゃんはそれをやらなかった。まだ改心の余地があると思います。詩織ちゃんには、今まで通り部活に来てもらいましょう。それから、詩織ちゃんが吹奏楽部に居づらくならないように、詩織ちゃんへの態度は今まで通りでお願いします」
 奏は全体を見てそう訴えかけた。
「かなちゃんがそれを望むのなら、俺はそうするよ」
 響は少し心配そうだったが、奏に賛成してくれた。
「ありがとうございます、響先輩」
 真っ先に賛成してくれた響に微笑む奏。
「大月さんが納得してるのなら、俺もいつも通りにする。あ、でもこの動画は念の為に残しておくから」
 律も奏に賛成してくれた。
「まあ、被害者の大月がそう言ってるなら、そうする。ただ、これは部活内で起きた問題だから、部長と先生には報告するぞ」
「はい」
 蓮斗の言葉に奏は頷く。
「私、詩織ちゃん追いかけますね。後はよろしくお願いします」
 奏はそう言うと、すぐに音楽準備室から駆け出した。
(詩織ちゃん、あなたはまだ一線を超えていない。だから、許すことにするよ。お願い、逃げないで)
 奏は校内の隅から隅まで詩織をさがすのであった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 奏が詩織を探し始めた後のこと。

『彩歌も小夜先輩もセレナ先輩も、私がその気になれば詩織ちゃんを器物破損などで前科持ちに追い込めること知っていますよね? その気になればあの子の未来を潰すことが出来るってことも』

 響の脳裏には、その言葉と少し悪戯っぽく笑う奏の表情がこびりついていた。
(初めて見たかなちゃんの一面だったな……)
 響は思い出してドキッとしていた。
「あのさ、かなちゃんはその気になれば内海を前科持ちにすることが出来るとか言ってたけど、天沢さんと小夜さんとセレナさんはかなちゃんが中学時代に何をしたか知ってるんだよね?」
 響は興味本位で聞いてみた。
「あ……それは俺も気になりました」
 律も思い出したように苦笑している。
「ああ、その話ね」
「あれはウチもびっくりした」
 小夜とセレナは懐かしそうに笑っていた。
「まあ、奏は理不尽に対しては法で対処しますからね。あたしを助けてくれた時も」
 彩歌も懐かしそうに笑っている。
「もしかして、弁護士呼んだ系?」
 響は中学時代の彩歌が奏に助けてもらった話を思い出す。
「小日向くん、大正解。奏ちゃん、中学入学当時はイタリアから帰って来て間もなかったからその影響でね」
 小夜がクスッと笑い、セレナが詳細を説明し始める。
「ウチらの中学の吹奏楽部、一年はポニーテール禁止とかいうわけの分かんない不文律があったわけ。でも奏はそれが理不尽で意味分からないって守らなかったんだよ。まあ案の定って感じでウチと同学年の性格キツい子に目を付けられて、嫌がらせが始まった」
「そしたら奏、待ってましたって感じで弁護士連れて大事(おおごと)にして、その先輩を退部に追いやった。それだけじゃなくて、名誉毀損とか前科も付けて転校させた。奏、凄いでしょ。吹奏楽部の意味分かんない理不尽な不文律もそのお陰で撤廃。奏はイタリアにいた頃で見た学校でのいじめとかの対応を真似したっぽい。イタリアは即逃げるか警察に通報みたいだし」
 彩歌は自慢するかのような表情だ。
「かなちゃん……凄いなあ。イタリア暮らしの影響だったんだ」
 響は知らなかった奏の一面を知り、少し嬉しくなった。
(何か……かなちゃんが何をしても受け入れそうな気がする)
 それは完全に惚れた弱みだった。
「意外ですね……」
 律も目を丸くしていた。
「奏ちゃん、見かけによらず凄いことする。てかあの子イタリアからの帰国子女だったんだ」
「大月だけは絶対敵に回したくねえ」
 風雅と蓮斗もその話を聞き驚いていた。
「まあ大月の行動は正しいと思うな」
 蓮斗は納得したように頷いていた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 奏は必死に学校の敷地内を探し、人気(ひとけ)のない校舎裏でようやく詩織を見つけた。
 詩織はうずくまって泣いていた。
「詩織ちゃん」
 奏は優しく声をかける。
「何で……? 何で私に話しかけるの? 私、奏ちゃんにあんなことしたのに……」
 弱々しい声だ。
「そうだね。ものを壊されたり、閉じ込められたり、理不尽な思いはそれなりにしたよ。でも、詩織ちゃんはまだ一線は越えていない」
 奏の声は穏やかだった。
「一線って……?」
 涙を拭い、弱々しく不思議そうに首を傾げる詩織。
「私のフルートは壊さなかった。だから、私は詩織ちゃんを許そうと思うの」
 奏は柔らかく微笑んでいる。
「……もし私が奏ちゃんのフルートを壊してたらどうするつもりだったの?」
「その時は、詩織ちゃんに犯罪者になってもらうつもりだった」
 口元は笑っているが、目は笑っていない奏だ。
「え……」
 詩織はゾクリと冷や汗をかく。
「今まで壊されたものは証拠として保管しているし、浜須賀くんの動画と証拠として残ってる。だから、私は詩織ちゃんに器物破損とかの前科を付けることが出来るの。詩織ちゃんの将来を完全に潰すことだって出来るよ」
 悪戯っぽく笑う奏。
「あ……」
 詩織は怯えたような目で奏を見ていた。
「理不尽には法で対処するって決めているからね。中学時代も、先輩から嫌がらせを受けた時は弁護士呼んで大事(おおごと)にしたから」
 懐かしそうな表情の奏である。
「……ごめんなさい。私……本当にごめんなさい……!」
 詩織は泣きながら奏に謝罪した。
「大丈夫。フルートは無事だから、詩織ちゃんを許すって決めていたの。それに、今まで通り部活にも来て。みんな詩織ちゃんを待ってるから。テナーに抜けられると困るの」
 奏は優しく詩織の肩に手を置く。
「私からのお願い、聞いてくれるよね?」
 奏は優しく詩織に微笑む。
「……うん、分かった」
 詩織は少し迷いながらも頷いた。
「良かった」
 奏はホッとしたように肩を撫で下ろした。
「詩織ちゃん、私、詩織ちゃんに何か悪いことしたかな?」
 奏はずっと疑問に思っていたことをもう一度改めて聞いてみた。
 すると、詩織は黙り込む。詩織は悔しげな表情だった。
「……てない」
「え? 何て言ったの?」
 詩織の声が聞き取れなかったので、奏は聞き返す。
「何もしてない。奏ちゃんは……悪くない。完全に私の逆恨み」
 詩織は悔しそうに奏を見ている。
「奏ちゃんは……小日向先輩のこと、どう思ってるの?」
 詩織は奏から目をそらす。
「響先輩? 響先輩は幼馴染だけど」
 奏はきょとんとしていた。
「ふーん……」
 詩織はやや納得していなさそうだ。そのまま話を続ける詩織。
「私ね、小日向先輩が好きなんだ。中学の時からずっと」
「そうだったんだ」
 奏は目を丸くした。
「でも、全然振り向いてくれなくて。高校も、音宮は偏差値高いから諦めろって言われてたけど、小日向先輩かいる高校だから勉強頑張って合格して、また吹奏楽部で小日向先輩と過ごせたらって思ってた。だけど、いきなり現れた奏ちゃんが全部持って行っちゃうんだもん……」
 詩織はムスッと頬を膨らませ、恨めしげに奏を見ていた。
「それで、奏ちゃんのメトロとかチューナー壊した。三組が音楽の授業中だった時、一組は自習だったから教室抜け出すのは余裕だったし。でもそうすればそうする程、奏ちゃんは小日向先輩と楽しそうにしてるし、ムカついた。だから音楽準備室に閉じ込めた。音楽室のピアノの下、死角になってるからそこに隠れて、奏ちゃんが音楽準備室に入るの待ってたんだよ」
「ピアノの下にいたんだ……。確かにあの場所は見えないよね」
 あっさり詩織が音楽準備室に閉じ込められた件をネタバラシしてくれたので、奏は目を丸くした。
「冷静に考えたら、奏ちゃんにそんなことしたって小日向先輩が私を見てくれるわけじゃないのに」
 詩織はため息をつく。
「奏ちゃん、本当にごめんなさい」
「詩織ちゃん……」
 奏から見た詩織は、心底反省しているようだった。
「私はもう気にしていないよ。フルートが無事だったから」
 穏やかに優しく微笑む奏。
「……ありがとう」
 詩織は力なく眉を八の字にして笑う。
「あのさ……奏ちゃんは……小日向先輩のことは本当にただの幼馴染としか思ってないの?」
 詩織は真っ直ぐ奏を見ている。
「……うん、そうだけど」
 奏はきょとんとしながら答えた。
「そっか。……私、やっぱ小日向先輩のこと、諦められなくてさ。たとえチャンスがもうなかったとしても……」
 詩織は力強い目で曇り空を見上げていた。
「そっか」
 奏はそんな詩織から目をそらす。
(もし響先輩と詩織ちゃんが付き合い始めたら……)
 ふとそんな想像をしてみた。
 響と詩織の仲睦まじい様子を脳裏に思い浮かべる。
 すると、奏の胸がほんの少しだけズキンと痛んだ。
(どうして……? どうして胸が痛むの……?)
 奏は心の奥底にあるよく分からない本心に戸惑っていた。
 詩織とは和解出来たのだが、新たな感情に戸惑う奏だった。
 奏と詩織のトラブルもあったが、その後の吹奏楽部は平和だった。
 そして、いよいよ文化祭当日。
 午前中の吹奏楽部のステージは無事に成功し、響は少しだけ肩の荷が降りた。
 執事&メイド喫茶をやっている二年四組の教室に戻ると、先に戻って燕尾服に着替えた風雅がクラスメイトの女子達に囲まれている。
「朝比奈くん、写真撮ろうよ」
「あ、狡い狡い、風雅くん、私も!」
「おう、じゃあ全員で撮ろっか」
 容姿と身長に恵まれている風雅はヘラヘラ笑いながらクラスの女子達と写真を撮っていた。
(よくやるわ)
 響はその様子に苦笑した。そのまま荷物を置いて、簡易的に作られたバックヤードに行く響。衣装の燕尾服に着替えようとした。しかし、何と響の燕尾服が見つからないのだ。
(嘘だろ!? ちゃんと持ってきたはず!)
 焦った響は一旦バックヤードから出る。
「お、響、戻って来てたのか。ちょっと来てくれよ」
 相変わらず女子に囲まれている風雅に声をかけられた。
「風雅、今それどころじゃなくて。俺の燕尾服が」
「小日向くんの燕尾服ならあの子が着てるよ」
「え?」
 一人の女子生徒の言葉に響は目が点になる。
 彼女が示した先には響と同じ二年四組の女子生徒がいた。
 その女子生徒は響が持って来た燕尾服を着て、他の女子達に囲まれていたのだ。
 ショートカットで響と同じくらいの背丈、おまけに中性的な顔立ち。燕尾服が非常に良く似合っていた。
「何で?」
 響は燕尾服を忘れていなかったことにホッとしつつ、どうして彼女が燕尾服を着ているのか疑問に思った。
「今、朝比奈くんとその話してたんだよね」
「そうそう。小日向くん、小柄で童顔だから似合うと思って」
 女子生徒達がワクワクしながら響に目を向ける。
「確かに、響なら似合うはずだ」
 ニヤニヤと笑う風雅。
 何となく嫌な予感がした響だ。
「一人くらい、男女逆の衣装でも面白いって思ってさ。小日向くんにはメイド服着てもらいたいの。着てくれるよね?」
 疑問系ではあるが、ほぼ強制であることは間違いない。
 響は死んだ魚のような目になった。
 こういうことに関する女子のパワーには敵わない響だった。

「お帰りなさいませ、ご主人様」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
 いよいよ二年四組の執事&メイド喫茶に客が入り始め、文化祭らしい空気になってきた。
 男性客には「お帰りなさいませ、ご主人様」、女性客には「お帰りなさいませ、お嬢様」と対応している。
「響、お前中々似合うぞ。クラスの女子達も可愛いって言ってただろ」
 風雅はメイド服に着替えさせられた響を見て面白そうに笑っている。
 響は若干不貞腐れていた。
 女子達から化粧まで施されそうになったが、それは全力で拒否した響。そのおかげで何とかメイド服を着るだけで許してもらえた。
「男が可愛いって言われてもさ……。それに、かなちゃんも来るのに……」
「奏ちゃんもきっとお前のこと可愛いって思ってくれるからさ」
「……好きな子にはカッコいいって言ってもらえた方が嬉しい」
「まあその男心は分かるけどさ。でもさ、俺らが小学生の時に流行ったドラマでも、『可愛い』は最強、『可愛い』の前では全面降伏って言ってたし」
「でもさあ……」
 響は不貞腐れたようにため息をついた。
「おい、響、奏ちゃん来店だ。彩歌ちゃんもいるぞ」
 ニヤリと入り口を見て笑う風雅。
「え!? もう!?」
 響は嬉しさ反面、現在の服装のせいで素早くバックヤードに隠れようとする。
「いや待て響、隠れようとするなって」
「風雅、頼むから離せ」
 隠れようとする響だったが風雅に引っ張られて必死に抵抗している。
「せっかくだし奏ちゃんにも見てもらおうぜ」
「恥ずかしいって」
 響は悪あがきを続ける。
(せめて燕尾服姿だったら……!)
 響は風雅に無理矢理奏の前に連れて行かれたので、長身である彼の後ろに隠れた。
「お帰りなさいませ、お嬢様方」
 風雅はやって来た奏と彩歌に対し、にこやかに対応する。
「朝比奈先輩、こんにちは」
「うざいんだけど。それと毎週水曜に図書室来んな」
 風雅に軽く会釈する奏。一方彩歌はいつも通りの不機嫌そうな対応である。
「まあまあそう言わずにさ」
 風雅は彩歌の態度にすっかり慣れていた。
「それと、お前もそろそろ前出ろよ」
「ちょ、やめろって」
 風雅の後ろに隠れていた響だが、ついに引っ張り出されてしまう。
「……お帰りなさいませ……お嬢様……」
 響は俯いている。
「響先輩……!? どうしてメイド服を……!?」
 奏は目を見開いた。
「……本当は俺も燕尾服着る予定だったけど、クラスの女子達の悪ノリで交換させられた」
 響は苦笑しながら答えた。
「そうだったんですね。でも……響先輩、可愛いです」
 奏はクスッと笑った。
「良かったな、響。可愛いだってさ」
 風雅はニヤニヤと響を小突く。
「……ありがとう、かなちゃん」
 響はやや複雑そうに笑うのであった。
「中途半端」
 一方彩歌は響のメイド服姿を見てそう呟く。
「こういうのって女子顔負けな感じで本気でやるか、ゴリラみたいな野郎が着てネタに振り切るかの二択でしょ。あんたのは中途半端」
 彩歌は鼻で笑った。
「だってさ、響。彩歌ちゃんは辛辣だ」
「いや、好きで着たわけじゃないから」
 響は苦笑するしかなかった。
「響先輩、せっかくだし写真撮って良いですか? 両親と祖父母に今日の文化祭の様子写真で見せてって言われているんです。明日の一般祭にも来るんですけどね」
 奏はスマートフォンを取り出す。

 この日は校内祭で、一般客はおらず生徒だけの文化祭である。

「待って、おじさんとおばさん達に俺のこの姿見せるの?」
 ギョッとする響。
「良いじゃん。じゃあ四人で撮ろっか」
 風雅とスマートフォンを取り出し、近くにいたクラスメイトに写真を撮ってもらうよう呼び止めた。
「待って、奏とのツーショットなら良いけど、何でこいつらも入るの?」
 彩歌は不機嫌そうだったが、結局四人で写真を撮ることになった。






♪♪♪♪♪♪♪♪





 執事&メイド喫茶の休憩時間が回って来た響。素早くメイド服から制服に着替えて奏の元へ向かう。
 響は奏と文化祭を回る約束をしていたのだ。
(まさか、かなちゃんと二人で文化祭回れるなんて)
 響は浮かれていた。
 ちなみに奏にベッタリの彩歌は小夜とセレナに呼ばれていたのである。
「そうだ、蓮斗達二年七組が謎解きカフェってやつやってるみたいなんだけど、行く?」
「晩沢先輩のクラスが。楽しそうですね。行きましょう」
 奏はふふっと柔らかく微笑み頷いた。

 いつも見慣れた学校のはずが、文化祭の飾り付けやお祭りモードの空気が流れ、初めて来た場所のような雰囲気だ。
 そんな中、奏と二人で行動。
 響はチラリと奏の横顔を見る。
 クールで大人びているが、初めての文化祭に少しワクワクとした表情の奏。
(かなちゃん、可愛いな)
 響は嬉しそうに表情が緩む。

 その後、響は奏を連れて蓮斗のクラスや徹のクラス、そして吹奏楽部の三年生の先輩のクラスの模擬店を回った。

「かなちゃん、二年三組のお化け屋敷だって。行ってみる?」
 響は二年三組の教室前で立ち止まる。
 見慣れた教室のはずが、廃墟のような外装により不気味に見える。まるで本当に悪霊か何かが出て来そうな雰囲気だ。
 しかし、誘っておいて響はハッとする。
 幼い頃のことを思い出したのだ。

 響が小学二年生の時の夏休み。
 丁度奏の両親が不在で、響の家が奏を預かることになった日。
 偶然テレビで流れていた番組が心霊現象などのホラー系だった。
 響はホラー系の番組に少し驚く程度だったが、奏は目に涙を溜めて震えながら響の手を握っていたのだ。

「ごめん。そういえばかなちゃん、ホラー系苦手だったね。お化け屋敷はやめておこう」
 響は申し訳なさそうに苦笑していた。
「いえ、大丈夫ですよ。……確かにテレビや映画みたいな映像系のホラーは苦手ですけれど、文化祭のお化け屋敷は完全なる人工物ですから」
 奏はあまり怖がっていなさそうな雰囲気だ。
「それにしても、作り込みがかなり本格的ですね」
 奏はその外装をじっくり見ている。
「……かなちゃんが良いのなら、入る?」
 恐る恐る聞く響に、奏は頷く。
「ええ、良いですよ」
 二人は受付の生徒に文化祭のみで使用出来る金券を渡し、不気味に作り込まれた教室に入るのであった。

 薄暗く不気味な雰囲気が漂う教室は迷路のようになっている。
「うわあ、内部も凝ってるね」
 響は目を細めて周囲をじっくり見渡す。
「確かに、本格的ですね」
 ホラーが苦手な奏だが、落ち着いた様子だった。
 しかし、響が次の一歩を踏み出した瞬間お化け役の生徒が全力で驚かせにかかってきた。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
 響は軽く驚いただけだが、奏はその場の座り込んでしまった。
「かなちゃん、大丈夫?」
 響も座り込んで奏に視線を合わせた。
「高校の……文化祭レベルだから……大したことはないと思っていたのですが……」
 奏は少し震えていた。必死に落ち着こうとしているようだが、震えは止まらない。
「確かにここ、細部までこだわったお化け屋敷みたいだからね」
 響はなるべく優しい声を出した。
「舐めてました」
 奏は苦笑した。
「じゃあさ……手、繋いで歩く?」
 響は緊張しながら、奏から目をそらしてそう切り出す。
 沈黙時間がやけに長く感じ、響は自分の心臓の音が奏に聞こえるのではないかと気が気でなかった。
「……お願いします」
 奏は響から目をそらしながら、控えめにそう呟いた。
「……分かった」
 響は緊張しながらも、奏の手を握る。奏が立ち上がるのを待ち、ゆっくりと歩き始めた。
(俺、手汗とか大丈夫かな? 握る力、このくらいで良いかな?)
 響は心臓がバクバクし、ある意味お化け屋敷どころではない。
(でも……何かかなちゃんを守れているような気分だ)
 響は隣にいる奏に目を向け、少しだけ口角を上げた。
「かなちゃん、大丈夫そう?」
「……はい。……何だかすみません」
 奏は弱々しく笑う。
「謝らなくても良いよ。むしろ俺は……かなちゃんに頼ってもらえて嬉しいから」
 暗がりで顔色が分かりにくい中、響は頬を染めながら真っ直ぐ奏を見ていた。
「……ありがとう、響くん」
 奏は少しホッとし、安心したように微笑んだ。
「あ、ごめんなさい、響先輩。学校なのに敬語が抜けていました」
「別にそこは気にしてないから大丈夫だよ」
 ハッと慌てる奏に響はクスッと笑った。
「じゃあ、進もっか」
「はい」
 響は奏を守るように、お化け屋敷の出口へ向かった。

「お化け屋敷、意外と怖かったね」
 二年三組のお化け屋敷から出た響。
「はい。高校生が作れる程度だと思って舐めていました」
 奏は明るい場所に出たことでホッとしていた。
「でも、響先輩がいてくれて頼もしかったです。ありがとうございました」
 奏はふふっと柔らかく微笑み、響を真っ直ぐ見ていた。
 響は体温が上昇したような感覚になった。
「なら……良かったよ」
 響ははにかみ、頭をポリポリと掻いた。
 何ともいえない緊張感とほのかに甘い空気が流れている。
「そうだ、せっかくだし有志のステージも見に行ってみよう」
 響は緊張していることを誤魔化す為、明るめの声で提案した。
「そうですね。そういえば、三年の先輩も有志のバンドでステージに出るって言っていましたよね。行きましょう」
 奏は思い出したような表情になり、進み出す。
 響は奏の隣に並んだ。

 響と奏が並んで歩いている様子を、校舎の外にある模擬店の列に並びながら詩織は見ていた。
 複雑そうな表情である。
「そんな顔するなら、さっさと小日向先輩に気持ち伝えたら良いんじゃないの?」
 突然声をかけられ、ビクリと肩を震わせる詩織。
「何だ、浜須賀くんか。びっくりした」
 声の主は律だった。
 律は詩織の後ろに並ぶ。
「浜須賀くんこそ、良いの? 大月さんのこと好きなんでしょう? 態度でバレバレ。でもこのままだと小日向先輩が有利なままだけど」
 詩織はムスッとしていた。
「まあ確かに有利なのは小日向先輩だろうな。でも俺は内海さんとは違って小日向先輩に嫌がらせはしない。そこまで心が汚れてるわけじゃないから」
 律は意地悪そうに笑う。
「……浜須賀くんって爽やかそうに見えて結構意地悪だよね。奏ちゃん、意地悪な人は好きじゃないかもよ」
 詩織はキッと律を睨む。
「嫉妬心をコントロール出来なくて大月さんに嫌がらせした内海さんにだけは言われたくないかな」
 フッと笑う律。
 詩織は何も言い返せず、率を睨むだけだった。

 文化祭一日目、校内祭はこうして過ぎていくのであった。
 文化祭二日目になった。
 この日は一般祭で、生徒の家族や他校の生徒や近隣住民などもやって来る。

 響は舞台袖で少しだけ緊張しながら待機している。
 吹奏楽部のステージ発表が次なのだ。
 昨日の校内祭はそこまで緊張しなかった。しかし一般祭では曲や演出が一部変更になる。少し難しめの曲も追加することになったので、響はひたすらクラリネットの指使いを確認していた。
 その時、奏と目が合う。
 奏は響に対し、朗らかに口角を上げた。
 その笑みを見た響は、心臓がトクリと跳ねる反面、落ち着きを取り戻した。
(大丈夫、練習では上手く出来たんだし)
 響は深呼吸をした。
 その時、前のステージプログラムが終わる。
 響達吹奏楽部は舞台袖から出て、それぞれの席に着くのであった。

 壮大な宇宙、煌めく銀河が響の脳内に広がる。
 トランペット、トロンボーン、サックスの勢いがありつつも荘厳な音。クラリネット、フルート、オーボエの柔らかで華麗な音。ピッコロの独特で可愛らしい高音。ホルン、ユーフォニアムの支えるような柔らかな助奏。チューバ、ファゴット、パーカッションなどの、音楽を支える低音やリズム感。
 難しい曲だが皆練習の成果を発揮出来た。
 観客の拍手が鳴り響く。
(上手くいった……)
 響は肩の荷が降り、ホッとしたような表情だ。

「響先輩、今日は燕尾服なのですね」
 奏は響の姿を見てクスッと笑う。
「まあね。一般祭はメイド服を断固拒否した。昨日の写真でも父さんと母さんに散々いじられたからさ」
 先日のメイド服とは打って変わり、クラスの女子達から今日は燕尾服を着ることが許された響である。
「メイド服も……可愛かったですよ」
 奏は思い出したようにふふっと表情を綻ばせている。
「かなちゃんが着たら可愛だろうけどさ」
 響は思わずポロッとこぼしていた。
「そう……ですか?」
 奏は少し頬を赤く染め、戸惑ったような表情になる。
「……うん」
 響も頬を赤く染めながら頷いた。
「奏!」
 そこへ彩歌がやって来る。
 響と奏はハッと我に返った。
「セレナ先輩の男装コンテスト、始まっちゃうよ。行こ」
「そうだね。響先輩、私の両親が響先輩のご両親に会いたいそうなので、また後で」
「分かった。また連絡お願い」
 響は奏の言葉に頷き、若干残念ではあるが奏の時間を彩歌に譲るのであった。
(天沢さんも、かなちゃんのこと大切に思ってるもんね)
 響は奏と彩歌の後ろ姿を見て穏やかな表情を浮かべていた。
「響、随分とあっさり引き下がるんだな」
 風雅がやって来る。一連の様子を見ていたようだ。
「まあ……かなちゃんは天沢さんとの時間も大切だと思うから」
「そっか。でも、うかうかしてられないと思うけど」
 ニヤリと笑う風雅。
「うかうかしているつもりはないけど……まだ告白とかしたら迷惑かもしれないし」
 苦笑する響。
「奏ちゃんってさ、彩歌ちゃんと一緒にいることで結構注目浴びるんじゃない?」
「風雅、どういうことだ?」
 響はきょとんと首を傾げた。
「いやさ、彩歌ちゃんは誰もが認める美人って感じで目立つじゃん。本人が嫌がっても関係なく視線集めるタイプ」
「……まあ、確かに」
「それで、彩歌ちゃんの隣にいる奏ちゃんにも目がいくわけ。奏ちゃんってさ、彩歌ちゃんみたいな華があるタイプじゃないけど、それでも美人なのは響も知ってるよな」
「……ああ」
 響は少し頬を染めながら頷く。
「だからさ、彩歌ちゃんに注目した奴らはみんな奏ちゃんも見て、こっちの子も美人じゃんってなるんだよ。奏ちゃん狙ってる奴らも多いんじゃないかって俺は思う。幼馴染って立場に胡座(あぐら)かいてたら横からかっさらわれるかもよ」
 風雅は悪戯っぽく笑った。
「マジか……」
 響は青ざめるが、奏との関係を壊したくないので行動出来ずにいた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 響と奏が両親達と合流する時間になったので、彩歌は一人で校内を歩いていた。
 そんな彩歌を見つけた風雅は声をかける。
「彩歌ちゃん、今一人なんだ」
「話しかけんな、鬱陶しい」
 彩歌はキッと風雅を睨む。
「俺も一人なんだけどさ、良かったら一緒に模擬店回らない?」
 風雅は彩歌に怯まず誘う。
「はあ!? あんたと一緒とか死んでも嫌!」
 彩歌は目を吊り上げて一蹴するのであった。
「そっか、残念」
 風雅はフッと笑う。
(まあ……しつこ過ぎる男は嫌われるか)
 風雅は一旦彩歌から離れUターンした。
 しかし、背後から聞こえた話し声にハッとする。
「だからあたしに話しかけんな!」
 彩歌の声だ。
「良いじゃん文化祭一緒に回ろう」
「それと連絡先も教えてよ。俺、拍秀(はくしゅう)高校二年の谷口って言うんだけど」
「あ、抜け駆けすんな。俺も連絡先教えて」
「はあ!? あんた達に教えるわけないじゃん!」
 彩歌は他校の男子達から声をかけられていたようだ。
「じゃあ一緒に回って仲良くなったら連絡教えてくれる?」
「ちょっと離せ!」
 何と他校の男子達の中の一人から腕をつかまれた彩歌。
 風雅はいても立ってもいられなくなり、急いで彩歌の元へ行く。
 そして彩歌の腕をつかんでいる男子の腕を力強くつかむ。
「この子に何か用?」
 風雅は恵まれた容姿や身長を活かし、他校の男子達に()が悪いことを思い知らせるような表情になる。
「いや……別に」
「何だ、彼氏持ちか」
「やっぱ美人にはイケメンの彼氏がいるのか」
 他校の男子達は風雅を見て勝ち目がないと判断し、その場を立ち去った。
「彩歌ちゃん、大丈夫?」
 風雅は心配そうに彩歌の顔をのぞき込む。
「近い! 離れろ!」
 すると彩歌から軽く突き飛ばされた。その様子がいつもより刺々しく、異様に感じた風雅。
「彩歌ちゃん……?」
 改めて彩歌の表情を見ると、悔しそうに目に涙を溜めていた。
「あたしは……好きでこの見た目になったわけじゃない。クソ男を喜ばせる為にこの見た目で生まれたわけじゃない!」
 鋭く引き裂くような、刺々しい口調。彩歌から伝わる激しい怒り。
 風雅はそれらから目が離せなかった。
「男はあたしのことを美人だとか囃し立てるけど、それで女子の中であたしの立場が悪くなってもお構いなし。男なんて、自分が楽しければあたしのことなんてどうでもいいって思ってる。だから嫌いなの。男なんて、この世から滅びろ!」
 激しい嵐や雷のような、それでいてストレートな彩歌の怒り。
 その怒りは、風雅をハッとさせた。まるで氷水を真正面からぶっかけられたような感覚だ。
(俺は……自分のことばっかりだったな。彩歌ちゃんが今までどんな目に遭っていたのか、考えたことがなかった……)
 風雅はいつもの軽薄そうな雰囲気からガラリと変わる。
「ごめん、彩歌ちゃん。俺、君のこと全然知らなかった。きっと知らずに傷付けてた。……謝ってどうなるとかじゃないけど、ごめん」
 風雅は真剣な表情で真っ直ぐ彩歌を見ていた。
「……別にあんたに謝られても」
 彩歌はいつもとは違う風雅に若干戸惑いを見せる。
 その時、彩歌の後ろから走って来る複数の女子生徒がいた。
「ちょっと早く! 次のステージ始まっちゃうよ!」
「ああ、待って待って!」
 女子生徒達は急ぐあまり彩歌に気付かず勢いよくぶつかってしまう。
「うわっ」
 女子生徒達にぶつかられた彩歌はバランスを崩し、倒れかける。
「彩歌ちゃん!」
 風雅は咄嗟に体が動き、彩歌を支える。
 しかし自身もバランスを崩し、床に倒れてしまう。
 彩歌の下敷きになる風雅であった。
「彩歌ちゃん、大丈夫? 怪我はない?」
 風雅は自身の上にいる彩歌に優しげな表情を向ける。
 彩歌は驚きながら「別に」と素っ気なく答え、立ち上がり風雅から少し離れる。
「良かった。それにしても、俺ダサいな。彩歌ちゃん助けようとしたけどこのザマだ」
 自嘲気味に立ちあがろうとする風雅。しかし、左足首にズキリと痛みが走る。風雅は痛みに顔を歪め、左足首に手を当てる。
「嘘……捻挫?」
 彩歌は若干心配そうな、怒ったような複雑な表情である。
「多分そうかも。本当、俺ダサいな」
 フッと自嘲し、ゆっくりと立ち上がる風雅。
「保健室」
「え?」
 風雅は目を丸くしてきょとんとする。
「保健室行くんでしょ?」
 彩歌は呆れたようにため息をついた。
「連れて行ってくれるんだ」
 風雅は意外だと言うかのように表情を綻ばせた。
「あんたのことはうざいし消えて欲しいって思うけど……ここで放っておくのは違うから。……あたしのせいでもあるし」
 彩歌はフイッと風雅から目をそらす。
「ありがとう、彩歌ちゃん」
 風雅は柔らかく笑う。いつもの軽薄そうな笑みとは違った。
「言っとくけど、肩は貸さないから。あんたみたいな巨体、あたし運べないし」
「分かってるよ。自分で歩く」
 クスッと笑う風雅。
 身長百八十七センチの風雅を身長百六十二センチの彩歌が運ぶのは無理がある。
「じゃあ彩歌ちゃん、保健室まで付き添いお願い」
 それに対して彩歌は何も答えず、若干ムスッとしながら風雅のペースに合わせて歩き出した。
「そう言えば、奏ちゃんとは一緒じゃないんだ」
「奏は今両親と一緒。あいつとも一緒だけど……」
 面白くなさそうな表情の彩歌。
「あいつ……響のこと?」
 風雅がそう聞くとムスッとしながら頷く彩歌。
「響って奏ちゃんのこと好きなのバレバレだよね。奏ちゃんは気付いてるのか知らないけどさ。でも、響、良い奴だよ。素直で真っ直ぐだし、他人のこともあんまり悪く言わないからさ」
「知ってる。……だからムカつくの。もっと嫌な奴だったら、奏から遠慮なく引き離せるのに」
 心底不機嫌そうな彩歌である。
「そっか。俺としては、友達が認められた感じで嬉しいかも」
 風雅はまるで自分のことのように喜んでいた。
 彩歌はそんな風雅に対してほんの少しだけ表情を和らげた。
 そうしているうちに、保健室に到着した。
 風雅は保健室の先生に湿布とテーピングをしてもらっていた。
「彩歌ちゃん、俺もう大丈夫だから。ありがとう」
 すると彩歌は黙り込む。
「彩歌ちゃん?」
「……ごめん。それと……ありがと」
 彩歌はそれだけ言い、保健室から出て行った。
「俺は大したことしてないよ。でも、どういたしまして」
 風雅は彩歌の後ろ姿に向かってポツリと呟いた。
 その表情は、真っ直ぐで穏やかだった。