とある音楽教室にて。
ピアノのレッスンを終えた小学三年生の小日向響はレッスン室に荷物を置いたままどこかへ走り出す。
向かった先は四つ隣のレッスン室。
「かなちゃん!」
響はそのレッスン室にいたロングヘアの少女を呼ぶ。
「響くん。ピアノはもう終わったの?」
穏やかに微笑んでいるのは大月奏。小学二年生で、響の幼馴染だ。響より一つ年下で、早生まれであるせいか体が小さいのだが、大人びて見える。
響と奏は同じマンションに住んでおり、部屋が隣同士。親同士も仲が良く、家族ぐるみでの付き合いがある。
「うん。だからいつものやつやろうよ!」
ワクワクと楽しみであることを露わにする響。
「うん、良いよ」
奏は子供用フルートを持つ。頭部管がU字になっている、小学校低学年でも吹きやすいフルートだ。
「じゃあ行こう!」
響は奏の手を引っ張り走り出す。しかし、自身より体が小さな奏に走るペースを合わせている。
そして先程響がピアノのレッスンをしていた部屋に着く。
「響ったら、レッスンが終わったと思えば荷物そっちのけですぐ奏ちゃんの所に行くんだから」
響の母親はやや呆れながら苦笑していた。
「奏の方も、響くんが迎えに来てくれるの楽しみにしてる節あるから」
奏の母親も二人を追いかけてピアノのレッスン室にやって来たのだ。
「かなちゃん、今日どの曲やる?」
「うーん……じゃあこの曲が良い」
奏は楽譜を響に渡す。
すると響はピアノの譜面台に楽譜を置く。
一方奏はフルートを構える。
「じゃあ行くよ」
響の合図で二人は二重奏を始めた。
響が弾く軽快なピアノの音に合わせて、奏は軽やかなフルートの音を乗せる。
その時、響の脳内に映像が広がる。
響は音や音楽に集中する時、必ず脳内にその音や音楽のイメージの映像が浮かぶのだ。
色とりどりの花が咲き誇る草原に、子うさぎが二匹。黒い子うさぎと白い子うさぎだ。子うさぎ達は草原を楽しそうに駆け回る。しかし、白い子うさぎの駆け回る速度が少し落ちる。
(あ、かなちゃん、このペースだと少ししんどそうかも)
響は奏に目をやり、少しだけピアノを弾くテンポを落とす。
すると奏も少し落ち着き、伸び伸びとしたフルートの音が聞こえた。
二匹の子うさぎは駆け回るのをやめ、前足を体の下に折りたたみ、寄り添うように箱座りをする。すると、風が吹いた影響で周囲の花々が舞い、二匹を包んだ。
響と奏は楽しそうに演奏している。
二人の母親、そして音楽教室の先生は、そんな二人を見守っていた。
まだ幼く拙いが、二人が奏でる音には響きがあり、レッスン室にいる者達は思わず聴き入ってしまう。
まだまだ伸びしろがある二重奏だ。
響と奏は夢中になって演奏していた。
まるで世界から切り離され、二人きりになったような感覚である。
(かなちゃんのフルートの音、やっぱり好きだなあ)
それは響にとって至福の時間だった。
二人が演奏を終えると、周囲からまばらな拍手が聞こえた。
「先生、俺とかなちゃんの二重奏、どうだった?」
響はワクワクとした様子で音楽教室の先生に聞く。
「うん。二人共、音のバランスが取れていたね。お互いがお互いの音を聴いて演奏出来てたよ。もっと練習したら、響くんも奏ちゃんも今よりもずっと上手くなると思う」
先生からそう言われ、響は上機嫌だ。
「それと、奏ちゃんならこの曲も挑戦してみても良いかもしれない」
先生はスマートフォンである動画を再生する。
少し難しそうなクラシックの曲だ。
優雅で繊細なフルートの音に、思わず響と奏は聴き入ってしまう。
更に、その曲はクラリネットとの二重奏だった。
響は美しいフルートの音色と調和するクラリネットの音に惹かれていた。
「先生、このリコーダーみたいな楽器って何?」
響は興味津々な様子だった。
「これはクラリネットだよ」
「クラリネット……」
響は再び動画に目を戻す。
「私、この曲やってみたいです」
奏は控えめだが、芯の強そうな声だった。
「じゃあフルートの先生に話しとくね」
「ありがとうございます」
嬉しそうな奏である。
動画はそこで終了した。
「母さん、俺、クラリネットもやりたい! この曲かなちゃんと二重奏やりたい!」
響は母親に詰め寄った。
「全く、あんたは音楽関係ならすぐ何でも興味を持つんだから。今のピアノで手一杯なのに、クラリネットもってなったら無理だよ」
呆れながら笑う響の母親。
「ええ……」
むうっと響は少し拗ねてしまう。
「響くん、確か響くんが通う予定の中学校には吹奏楽部があったはず。中学生になったら吹奏楽部に入ってクラリネットやってみたら? きっと奏ちゃんも同じ中学に入るだろうし」
先生からの提案に、響の表情はぱあっと明るくなる。
「じゃあ中学生になったらクラリネットやる! かなちゃん、中学でこの曲一緒に二重奏しよう!」
「うん、良いよ」
奏は穏やかな笑みで頷いた。
「かなちゃん、約束だからね」
「うん」
二人は指切りをした。
♪♪♪♪♪♪♪♪
そして二年後、響は小学五年生に、奏は小学四年生になった。
小学校では学年が違う上、何となく男女の壁が出来始めたのかでそこまで接点はない。しかし、マンションや音楽教室ではこうして二人は昔と変わらず話していた。
「あれ? かなちゃん、大人用のフルート買ってもらったの?」
音楽教室にて、響は奏のフルートを見て目を輝かせている。
「うん。と言っても、今まで使ってた子供用のフルートの頭部管を普通のフルートのやつに変えただけだよ」
奏は頭部管を変えたフルートを見て、少し照れたように微笑んでいた。
「何か吹いてみてよ」
「良いよ」
奏はフルートを吹き始める。
柔らかで、繊細で、優雅な音だ。
響の脳内には、満天の星が広がる。
ダイヤモンドのような星々が、キラキラと輝いている。
(凄い……! やっぱりかなちゃんのフルート、どんどん上達してる。しかもそろそろフルートのコンクールにも出るって聞いてるし)
奏の音は響の心をときめかせた。
しかし、響の心を掴んだのは奏の音だけではない。
奏の大きく見える黒目に影を落とす長い睫毛。相変わらず小柄ではあるが、大人びた顔立ち。フルートを吹いている時の楽しげかつ真剣な表情。そして、響と話している時の笑顔。
(やっぱり……好きだ……。かなちゃんのことが)
響は少し頬を染めながら、奏から目をそらした。
それが響の初恋である。
「どうだった?」
演奏が終わり、奏は控えめに微笑みながら響に感想を求めた。
「うん。凄く綺麗な音だし、俺は……好き」
最後、照れのあまり思わず目をそらしてしまう響。
「良かった。ありがとう、響くん。コンクールの自由曲、この曲にするつもりだから、そう言ってくれて嬉しい」
奏はホッとしたように表情を綻ばせた。
その表情を見て、響は嬉しくなる。
「かなちゃん、じゃあその曲で俺のピアノと二重奏やろっか」
「うん」
響と奏のピアノとフルートの二重奏は毎回続いていた。
その後、奏は初めて出たフルートのコンクールで見事一位になった。
「かなちゃん、一位おめでとう! 凄いね!」
響はまるで自分のことのように喜んでいた。
「ありがとう、響くん! まさか一位になれるとは思ってなくて驚いちゃった!」
普段大人しく、大人びている奏もこの時は目を輝かせ、年相応の表情で喜んでいた。
「俺はピアノのコンクールは時々五位くらいで入賞する程度だし、もっと頑張らないとな」
奏の一位に触発され、響はやる気を出す。
「それにさ、中学生になったらクラリネットも始めたいし。かなちゃんとクラリネットとフルートの二重奏もやりたいからさ」
少し頬を染めて奏から目をそらす響。
二年前の約束はまだ有効だった。
「うん。私も楽しみ。響くんとのクラリネットとフルートの二重奏」
奏はフルートと響を見ながら微笑んでいる。
「それに、中学の吹奏楽部って他にも色々な楽器があるから、今からワクワクしちゃう。お父さんやお母さんの交響楽団も、たくさんの楽器の音が調和して凄いから、私も他の人達とそんな風な演奏したいな。今はまだ一人とか二重奏だけだからさ」
控えめに微笑む奏だが、その目からは音楽への情熱が感じられた。
しかしその年の秋、予想外のことが起こる。
「かなちゃん、どうしたの?」
音楽教室にて、響は少し元気のない奏が気になった。
「……実はね、私、来年の春から二年間、お父さんとお母さんの交響楽団のお仕事の都合でイタリアに行くことになったの」
力なく微笑む奏。
「え……」
突然のことに、響は頭が真っ白になる。
奏が二年もいない。その事実が響に重くのしかかった。
「かなちゃんがいないのは……嫌だな。何とかならないの?」
すがるような思いでそう口にする響。
「……お父さんとお母さんのお仕事の都合だもん。仕方ないよ。でも……響くんと離れるのは寂しい。それに……不安もあるよ。外国は旅行だと何回か行ったことがあるけれど、住むってなったら……」
奏は諦めたように微笑む。しかし、不安は隠し切れていない。
「そっか……」
響はうつむく。
(かなちゃんが……いなくなる。だけど……二年後には戻って来るんだよね? 二年後、かなちゃんが中学生になる年には……)
ほんの少しだけ、希望を見つけた響。
「二年後……」
「え?」
ポツリと呟いた響に対し、奏はきょとんと首を傾げる。
「二年後、かなちゃんは中学生になる。俺はひと足先にクラリネットを始めて、上手くなる。かなちゃんのフルートと同じくらい。だから……俺、待ってるよ」
響はどこまでも真っ直ぐだった。
奏の表情が少しだけ綻ぶ。
「うん、ありがとう。二年後……クラリネットとフルートの二重奏、楽しみにしてる」
二度目の指切りだ。
しかし、中学でその約束が果たされることはなかった。
二年後、日本に戻った奏は父方の祖父母と共に暮らすようになり、響とは違う中学に通うことになったのである。
響は奏がイタリアに行って以降、会うことが出来なかったのだ。
ピアノのレッスンを終えた小学三年生の小日向響はレッスン室に荷物を置いたままどこかへ走り出す。
向かった先は四つ隣のレッスン室。
「かなちゃん!」
響はそのレッスン室にいたロングヘアの少女を呼ぶ。
「響くん。ピアノはもう終わったの?」
穏やかに微笑んでいるのは大月奏。小学二年生で、響の幼馴染だ。響より一つ年下で、早生まれであるせいか体が小さいのだが、大人びて見える。
響と奏は同じマンションに住んでおり、部屋が隣同士。親同士も仲が良く、家族ぐるみでの付き合いがある。
「うん。だからいつものやつやろうよ!」
ワクワクと楽しみであることを露わにする響。
「うん、良いよ」
奏は子供用フルートを持つ。頭部管がU字になっている、小学校低学年でも吹きやすいフルートだ。
「じゃあ行こう!」
響は奏の手を引っ張り走り出す。しかし、自身より体が小さな奏に走るペースを合わせている。
そして先程響がピアノのレッスンをしていた部屋に着く。
「響ったら、レッスンが終わったと思えば荷物そっちのけですぐ奏ちゃんの所に行くんだから」
響の母親はやや呆れながら苦笑していた。
「奏の方も、響くんが迎えに来てくれるの楽しみにしてる節あるから」
奏の母親も二人を追いかけてピアノのレッスン室にやって来たのだ。
「かなちゃん、今日どの曲やる?」
「うーん……じゃあこの曲が良い」
奏は楽譜を響に渡す。
すると響はピアノの譜面台に楽譜を置く。
一方奏はフルートを構える。
「じゃあ行くよ」
響の合図で二人は二重奏を始めた。
響が弾く軽快なピアノの音に合わせて、奏は軽やかなフルートの音を乗せる。
その時、響の脳内に映像が広がる。
響は音や音楽に集中する時、必ず脳内にその音や音楽のイメージの映像が浮かぶのだ。
色とりどりの花が咲き誇る草原に、子うさぎが二匹。黒い子うさぎと白い子うさぎだ。子うさぎ達は草原を楽しそうに駆け回る。しかし、白い子うさぎの駆け回る速度が少し落ちる。
(あ、かなちゃん、このペースだと少ししんどそうかも)
響は奏に目をやり、少しだけピアノを弾くテンポを落とす。
すると奏も少し落ち着き、伸び伸びとしたフルートの音が聞こえた。
二匹の子うさぎは駆け回るのをやめ、前足を体の下に折りたたみ、寄り添うように箱座りをする。すると、風が吹いた影響で周囲の花々が舞い、二匹を包んだ。
響と奏は楽しそうに演奏している。
二人の母親、そして音楽教室の先生は、そんな二人を見守っていた。
まだ幼く拙いが、二人が奏でる音には響きがあり、レッスン室にいる者達は思わず聴き入ってしまう。
まだまだ伸びしろがある二重奏だ。
響と奏は夢中になって演奏していた。
まるで世界から切り離され、二人きりになったような感覚である。
(かなちゃんのフルートの音、やっぱり好きだなあ)
それは響にとって至福の時間だった。
二人が演奏を終えると、周囲からまばらな拍手が聞こえた。
「先生、俺とかなちゃんの二重奏、どうだった?」
響はワクワクとした様子で音楽教室の先生に聞く。
「うん。二人共、音のバランスが取れていたね。お互いがお互いの音を聴いて演奏出来てたよ。もっと練習したら、響くんも奏ちゃんも今よりもずっと上手くなると思う」
先生からそう言われ、響は上機嫌だ。
「それと、奏ちゃんならこの曲も挑戦してみても良いかもしれない」
先生はスマートフォンである動画を再生する。
少し難しそうなクラシックの曲だ。
優雅で繊細なフルートの音に、思わず響と奏は聴き入ってしまう。
更に、その曲はクラリネットとの二重奏だった。
響は美しいフルートの音色と調和するクラリネットの音に惹かれていた。
「先生、このリコーダーみたいな楽器って何?」
響は興味津々な様子だった。
「これはクラリネットだよ」
「クラリネット……」
響は再び動画に目を戻す。
「私、この曲やってみたいです」
奏は控えめだが、芯の強そうな声だった。
「じゃあフルートの先生に話しとくね」
「ありがとうございます」
嬉しそうな奏である。
動画はそこで終了した。
「母さん、俺、クラリネットもやりたい! この曲かなちゃんと二重奏やりたい!」
響は母親に詰め寄った。
「全く、あんたは音楽関係ならすぐ何でも興味を持つんだから。今のピアノで手一杯なのに、クラリネットもってなったら無理だよ」
呆れながら笑う響の母親。
「ええ……」
むうっと響は少し拗ねてしまう。
「響くん、確か響くんが通う予定の中学校には吹奏楽部があったはず。中学生になったら吹奏楽部に入ってクラリネットやってみたら? きっと奏ちゃんも同じ中学に入るだろうし」
先生からの提案に、響の表情はぱあっと明るくなる。
「じゃあ中学生になったらクラリネットやる! かなちゃん、中学でこの曲一緒に二重奏しよう!」
「うん、良いよ」
奏は穏やかな笑みで頷いた。
「かなちゃん、約束だからね」
「うん」
二人は指切りをした。
♪♪♪♪♪♪♪♪
そして二年後、響は小学五年生に、奏は小学四年生になった。
小学校では学年が違う上、何となく男女の壁が出来始めたのかでそこまで接点はない。しかし、マンションや音楽教室ではこうして二人は昔と変わらず話していた。
「あれ? かなちゃん、大人用のフルート買ってもらったの?」
音楽教室にて、響は奏のフルートを見て目を輝かせている。
「うん。と言っても、今まで使ってた子供用のフルートの頭部管を普通のフルートのやつに変えただけだよ」
奏は頭部管を変えたフルートを見て、少し照れたように微笑んでいた。
「何か吹いてみてよ」
「良いよ」
奏はフルートを吹き始める。
柔らかで、繊細で、優雅な音だ。
響の脳内には、満天の星が広がる。
ダイヤモンドのような星々が、キラキラと輝いている。
(凄い……! やっぱりかなちゃんのフルート、どんどん上達してる。しかもそろそろフルートのコンクールにも出るって聞いてるし)
奏の音は響の心をときめかせた。
しかし、響の心を掴んだのは奏の音だけではない。
奏の大きく見える黒目に影を落とす長い睫毛。相変わらず小柄ではあるが、大人びた顔立ち。フルートを吹いている時の楽しげかつ真剣な表情。そして、響と話している時の笑顔。
(やっぱり……好きだ……。かなちゃんのことが)
響は少し頬を染めながら、奏から目をそらした。
それが響の初恋である。
「どうだった?」
演奏が終わり、奏は控えめに微笑みながら響に感想を求めた。
「うん。凄く綺麗な音だし、俺は……好き」
最後、照れのあまり思わず目をそらしてしまう響。
「良かった。ありがとう、響くん。コンクールの自由曲、この曲にするつもりだから、そう言ってくれて嬉しい」
奏はホッとしたように表情を綻ばせた。
その表情を見て、響は嬉しくなる。
「かなちゃん、じゃあその曲で俺のピアノと二重奏やろっか」
「うん」
響と奏のピアノとフルートの二重奏は毎回続いていた。
その後、奏は初めて出たフルートのコンクールで見事一位になった。
「かなちゃん、一位おめでとう! 凄いね!」
響はまるで自分のことのように喜んでいた。
「ありがとう、響くん! まさか一位になれるとは思ってなくて驚いちゃった!」
普段大人しく、大人びている奏もこの時は目を輝かせ、年相応の表情で喜んでいた。
「俺はピアノのコンクールは時々五位くらいで入賞する程度だし、もっと頑張らないとな」
奏の一位に触発され、響はやる気を出す。
「それにさ、中学生になったらクラリネットも始めたいし。かなちゃんとクラリネットとフルートの二重奏もやりたいからさ」
少し頬を染めて奏から目をそらす響。
二年前の約束はまだ有効だった。
「うん。私も楽しみ。響くんとのクラリネットとフルートの二重奏」
奏はフルートと響を見ながら微笑んでいる。
「それに、中学の吹奏楽部って他にも色々な楽器があるから、今からワクワクしちゃう。お父さんやお母さんの交響楽団も、たくさんの楽器の音が調和して凄いから、私も他の人達とそんな風な演奏したいな。今はまだ一人とか二重奏だけだからさ」
控えめに微笑む奏だが、その目からは音楽への情熱が感じられた。
しかしその年の秋、予想外のことが起こる。
「かなちゃん、どうしたの?」
音楽教室にて、響は少し元気のない奏が気になった。
「……実はね、私、来年の春から二年間、お父さんとお母さんの交響楽団のお仕事の都合でイタリアに行くことになったの」
力なく微笑む奏。
「え……」
突然のことに、響は頭が真っ白になる。
奏が二年もいない。その事実が響に重くのしかかった。
「かなちゃんがいないのは……嫌だな。何とかならないの?」
すがるような思いでそう口にする響。
「……お父さんとお母さんのお仕事の都合だもん。仕方ないよ。でも……響くんと離れるのは寂しい。それに……不安もあるよ。外国は旅行だと何回か行ったことがあるけれど、住むってなったら……」
奏は諦めたように微笑む。しかし、不安は隠し切れていない。
「そっか……」
響はうつむく。
(かなちゃんが……いなくなる。だけど……二年後には戻って来るんだよね? 二年後、かなちゃんが中学生になる年には……)
ほんの少しだけ、希望を見つけた響。
「二年後……」
「え?」
ポツリと呟いた響に対し、奏はきょとんと首を傾げる。
「二年後、かなちゃんは中学生になる。俺はひと足先にクラリネットを始めて、上手くなる。かなちゃんのフルートと同じくらい。だから……俺、待ってるよ」
響はどこまでも真っ直ぐだった。
奏の表情が少しだけ綻ぶ。
「うん、ありがとう。二年後……クラリネットとフルートの二重奏、楽しみにしてる」
二度目の指切りだ。
しかし、中学でその約束が果たされることはなかった。
二年後、日本に戻った奏は父方の祖父母と共に暮らすようになり、響とは違う中学に通うことになったのである。
響は奏がイタリアに行って以降、会うことが出来なかったのだ。