龍神は愛の言葉が甘すぎる

「──……妃翠(ひすい)。話がある、来なさい」
「……はい。お父さま」
 お父さまに呼ばれ、立ち上がる。
 もう何年も名前すら呼ばれなかったのに。
 お父さまはとても優しい方だった。
 お母さまとも仲睦まじかった。
 けれど、お母さまが流行り病で亡くなってからお父さまは変わってしまった。
 今まで優しくて笑顔溢れるお父さまの顔から笑顔が消え去ってしまった。
 今まではたくさん話しかけてくれたのに、いつしか会話が一切なくなってしまった。
 お母さまが亡くなってから数か月経ったころお父さまから話があった。
『妃翠、新しい母さんができるんだ』
『え……?』
 幼かったわたしには理解ができなかった。
 わたしのお母さまはこの世にたった一人しかいないのに。
 それからは今の継母(おかあ)さまとお父さま、継母さまの連れ子の乃々羽(ののは)お姉さまと暮らしている。
 わたしは名門と言われている綾城(あやしろ)家の娘。
 家には何人もの使用人や執事がいる。
 使用人は裏話なども知っているわけなのでたまに盗み聞きをしている。
 昔、使用人たちが話しているのを聞いたときはお父さまと継母さまの結婚の話だった。
 お父さまと継母さまは政略結婚だった。
 お父さまは綾城家のご子息、継母さまも名門一家のご令嬢。
 あやかしと共存する世界では名門一家は当たり前かのようにあやかしと政略結婚をさせる。
 わたしの継母さまはあやかしの雪女。
 お父さまは継母さまと結婚してからは乃々羽お姉さまに夢中になっていた。
 お姉さまは美人でなんでもできる人だった。
 お父さまや継母さまが話してくれないのは多分、わたしの能力(・・)が関係している。



 お父さまはわたしを広い和室に連れてきた。
「妃翠、座りなさい」
 わたしは座布団の上に正座をする。
 部屋の中にはわたし、お父さま継母さま、お姉さま。
 そして、何人かの使用人がいる。
 ……ああ、また聞こえて(・・・・)しまう。
(──あの小娘はいついなくなってくれるのかしら)
(──妃翠がお父さまに名前を呼ばれるなんて何年ぶりなのかしら?)
 わたしは人の心の声が聞こえてしまう能力がある。
 それは実のお母さまのものでも、お父さまのものでもない。
 わたしはあやかしのハーフではない。
 お母さまもお父さまも人間。
 継母さまはあやかしだけれど、血は繋がっていない。
 だからなのか、わたしは悪魔の子と呼ばれていた。
『──……妃翠お嬢様は不気味ですわね』
『わかります……!お嬢様の力は誰のものなのでしょうか?呪われた子ですね』
 使用人たちにもこんなふうに言われていた。
 お母さまも最初は驚いていたけれど、わたしを認めてくれていた。
『……妃翠、あなたは悪魔の子なんかじゃない。あなたはわたくしとお父さまの天使よ』
 お母さまはわたしを抱きしめた。
 そう言ってくれたお母さまももういない。
 今の継母さまはわたしの能力をよく思っていないようで。
『あなた……何なのかしら。気味が悪いわ』
 初めて会ったときに言われた言葉はこの言葉だった。
 継母さまはわたしを嫌っており、心の声を聞いてしまうと殴られることもあった。
 バシンッと大きな音がしたかと思えば自分の頬がジンジンと痛んだ。
 打たれたと理解するのにそれほど時間はかからなかった。
『気持ち悪いのよ……っ!あんたなんかいない方がいいの。そのほうがみんなが幸せなのよ?おわかりかしら?』
 お姉さまは特になにかを言うということはなかったけれど、庇ってくれることも心配してくれることもなかった。
 こんな能力なければよかったなんていくら思ったことか。
「妃翠、お前に縁談の話が持ちかけられた」
 わたしは驚くことしかできなかった。
 けれど、その驚きの中には嬉しさも混じっていた。
 やっと、この家から解放される。
(──やっといなくなってくれるのね。まあ、どうせ捨てられて終わるけれど)
 継母さまはそんなことを心の中で呟いていた。
 こんなふうに思われるくらいなら結婚して静かに暮らしたい。
 綾城という肩書や悪魔の子なんて言われることがなくなるかもしれない。
 そんな希望を抱いていた。
「……わかりました。お相手はどなたでしょうか」
 肝心なのは相手だ。
「相手は……雲龍(うんりゅう)家の次期当主、雲龍茅都(かやと)さんだ」
 わたしは名前を言われた瞬間、先ほどまでの希望が一気に崩れる音が聞こえた。
(──妃翠はいつまでも恵まれないのかしら)
 お姉さまの心の声が聞こえる。
 雲龍家は──龍神の一家であやかしの中でもトップクラスに強いのだ。
 雲龍家はとても冷酷な一家だと有名なのだ。
 そんな家でこの能力が知られたら……。
 しかも次期当主となると相当影響力のある人だろう。
「……わかり、ました。いつ頃、雲龍さまとお会いするのでしょうか」
「一週間後だ」
 お父さまは立ち上がった。
「話は終わりだ。……妃翠、雲龍家には失礼のないように。お前の能力が相手にバレればこの家は潰れるも同然だ」
 お父さまはわたしを睨む。
「……わかりました」
 継母さまとお姉さまも立ち上がり、部屋を出た。
 わたしの人生は一体どうなってしまうのか。
 雲龍さまと初めて会う日。
 いつもなら着物など買ってくれないお父さまが高価な淡い桃色の着物を用意してくれた。
 全ては家のため。
「──……初めまして、雲龍さま。わたくし、綾城鳳二(ほうじ)と申します。そして……娘の妃翠です」
 お父さまが雲龍さまに頭を下げる。
 わたしも同時に頭を下げる。
「……初めまして、雲龍真弥(しんや)です。……息子の茅都です」
 雲龍家の二人も頭を下げる。
 改めて茅都さまの顔を見る。
 濡羽色の艶やかな髪に瑠璃色の瞳。
 まるで絵本の世界の王子さまみたいだ。
 人間離れのその容姿に見惚れていた。
 本当にわたし結婚するのか。
 今更ながらそう思った。
「妃翠、あちらで茅都さんと話して来たらどうだ」
「え……?」
 わたしが戸惑っていると茅都さまが話しかけてくれた。
「妃翠さん、あちらに行きませんか?」
 わたしは頷き、流れのゆるやかな川の近くに行く。
「……突然結婚だなんて言われても理解に苦しみますよね」
 雲龍さまは苦笑いする。
「そうですね……茅都さまは前からこの縁談を知っていらしたのですか?」
 わたしが聞くと茅都さまは静かに頷いた。
「まあ、なんとなくですけどね。……というか、敬語やめません?同い年なんだから」
 同い年。
 その言葉に頭がフリーズする。
 わたしの年齢は、十八歳。
「え、えぇ⁉お、同い年……?」
 わたしが驚いていると茅都さまが不思議そうな顔をした。
「あれ、知らなかった?僕と妃翠さん同い年だよ」
 同い年にしては大人びている。
「……敬語じゃないのにさん付けって変な感じ。妃翠って呼んでいいから……」
 わたしがそう言うと茅都さまはふわりと笑った。
 不覚にもドキッとしてしまった自分がいた。
「そっか。じゃあ、妃翠で。僕のことも茅都でいいよ」
 わたしは言葉に詰まる。
「え、えっと……それは……」
 少しずつ顔に熱が集まる。
「なんで?男に免疫ないの?」
「じょ、女子校出身な者なので、男の子と関わることがなかったのよっ!」
 恥ずかしさをこらえながら必死に訴える。
「……ふーん。じゃあ、妃翠の初めては全部僕のものってわけか」
 さらりととんでもないことを言い放つ茅都さま。
「なっ……!」
「まあ、それはいいんだけど。……ねぇ、茅都って呼んでよ」
 急に耳元でささやかれた。
「ち、近い、です……っ!」
 ふと冷静になった。
 わたしは『愛』というものがよくわからない。
 それに心の声が聞こえてしまう。
 そんな中で茅都さまと結婚したとしても愛せるかもわからない。
 突然不安に襲われた。
「……どうしたの、そんな不安そうな顔して」
 茅都さまの手がわたしの頬に触れる。
 心の声が聞こえることも『愛』というものがわからないことも全て黙っていなければならない。
 顔を上げ、無理やり笑顔を張り付けた。
「いいえ、なんでもないわ。……茅都さんじゃダメかしら?」
 茅都さまはニコリと笑って。
「いいよ。いつか絶対茅都って呼ばせるから」
 そう言われたけれど、多分そんな日は来ないのだろう。
(──やっと会えた……僕のお姫さま)
 川を見つめている茅都さんからそんな心の声が聞こえた。
 本当に茅都さんはよくわからない。 
 そういえば、雲龍家は冷酷な一族と聞いていたけれど、全くそんなことなさそうだ。



 家に帰ると継母さまと会ってしまう。
 同じ家にいるのだから当たり前か。
「……雲龍さまとは会えたのかしら?」
 急に話しかけられた。
「……はい」
 継母さまと話すことが久しぶりで声が震える。
「そう。……愛のない結婚だもの。どうせあなたは住む場所もなく凍え死ぬのよ」
 継母さまの瞳は冷たい。
 急に継母さまの手がわたしの頭に伸びてきた。
 不思議に思っていたがすぐに痛みに変わった。
「い、痛……っ!」
「ふふっ。……ねぇ、雲龍さまと結ばれたからといって助かるなんて愚かな考えは今すぐ捨ててちょうだいね?」
 継母さまはわたしの髪を鷲掴み、引っ張った。
 わたしはいつまでも助からないようだ。
 わたしは静かに頷いた。
 そうすると継母さまは手を離した。
 わたしが床に座り込むと最後に邪魔な物のように蹴られた。
 また痣が増えてしまった。
 風呂場の鏡を見てため息をつく。
 茅都さんと出会ったからといってわたしの人生が変わるわけでもない。
 少し期待したわたしが馬鹿だった。
「本当に……馬鹿みたいね」
 わたしの顔を少し涙で濡れていた。
 今まで継母さまにどれだけ叩かれ暴言を吐かれようと泣いたことはなかったのに。
 わたしはただ静かに生きたいのに。
 それでも家には逆らえない。
 そう思うと悲しみが心を覆った。
 
 ある日、茅都さんと食事に行くことになった。
 食事処はいかにも高級そうな和食レストランだった。
 わたしはあまり外食に行かないので緊張していた。
 乃々羽お姉さまはよくレストランに連れて行ってもらえている。
 わたしはに誘いの言葉一つなく。
 気づけばお父さまと継母さま、乃々羽お姉さまはいなかった。
 何時間か経った頃、門が開き三人が帰って来ることがいつものことだった。
「妃翠、行かないの?」
 茅都さんの声が聞こえて現実に戻る。
「え、えぇ。ごめんなさい、ボーっとしていたわ」
 わたしは急いで茅都さんのところへ歩く。
「……お、美味しそうね」
 緊張しているのがバレバレなのかふっと笑われた。
「こういうところ慣れてないの?」
 そう言われハッとする。
 これで慣れていないと言えば綾城家での扱いがバレてしまうかもしれない。
「そ、そんなわけないでしょう……!か、茅都さんとお食事で緊張しているのっ」
 とっさに出た言葉だったけれどわたし何気に変なこと言っている気がする。
「……っ。急になに」
 ぷいっとどこかを向いてしまう茅都さん。
(──なんでこんな僕だけが照れてるんだろ)
 照れているという言葉に首を傾げる。
 なにに照れているのか。
 そう思ったが変に考えると能力がバレてしまう。
 それだけは絶対に嫌だ。
 茅都さんと食事をすすめる。
「……そういえば、気になっていたのだけれど雲龍家ってなぜ冷酷な一族っていわれているの?茅都さんもご当主さまだって優しいじゃない……って、わたし失礼なこと言ってしまったわ。ごめんなさ──」
「……妃翠は知らなくてもいいことだから」
 その一言で空気が重くなった。
「……っ」
 茅都さんの瞳も声色も冷たかった。
 この空気嫌だ。
 継母さまを思い出してしまう。
『──気味が悪いのよ!』
『……悪魔の子だもの』
『あなたなんかいなかったらよかったのに』
 嫌な言葉しか出てこない。
 こんなことをためらわずに言ってしまうわたしに非があるのだと実感した。
 その日は食事を終わらせすぐに帰宅した。
 夜はあまり寝つけなかった。
「はぁ……」
 わたしはため息をつき、小さな窓を開ける。
 今夜は満月。
「……あなたみたくわたしも堂々と生きれるのかしら。こんな能力も家のことも気にせずに」
 決して答えが返ってこないとわかっているけれど、綺麗に輝く月に問う。
 それがなにを意味しているのかもわからないがふわっと心地よい風が吹く。
「全てが上手くいけばいいのに……」
 そんなことをつぶやき、ベッドに向かい眠りにつく。
 ある日、茅都さんから連絡があった。
『大切な話がある。僕の家で話すことはできる?』
 そんな文章が送られてきた。
 そんなに大切な話なのか。
 わたしは雲龍家に行った。
 車など用意されるわけでもなく。
 少し遠かったが歩きで行った。
「あ、あの……綾城妃翠と申します。茅都さんとお話があって参りました」
 インターホンを鳴らし、雲龍家の人に話す。
『承知いたしました。今門を開けますね』
 そう言われ、大きな洋風の門が開いた。
 初めて雲龍家を見る。
「なによここ……別世界じゃない」
 思わずそう言葉に出てしまった。
 本当に異国に来たかのような家だった。
ㅤ家というよりかは城といった方がいいだろう。
「妃翠」
 そう名前を呼ばれ声の主の方を見る。
「か、茅都さん」
 わたしが失礼なことを言ってしまってからは顔を合わせていなかったので少し気まずい。
「こっちに来て」
 わたしは言われるがまま茅都さんについて行く。
 雲龍家の玄関の扉が開く。
 白い大きなドアは金色の縁で彩られている。
 家の中も広くて綾城の家よりも広い。
「……妃翠さん」
 少し低く、貫禄のある声。
「ご、ご当主さま……お邪魔しております」
 わたしたちの後ろには雲龍家の当主、真弥さまがいた。
ㅤわたしは真弥さまの方を見てぺこりとお辞儀をした。
「今日妃翠さんを呼んだのはキミたちの同棲についてだ」
 同棲という言葉にわたしは硬直する。
「同棲、ですか……?」
 わたしの問いかけに真弥さまは頷いた。
「いずれ茅都と妃翠さんは結婚する。そのときは一緒に住むだろう。結婚してからの同棲は慣れないことの方が多いし心の準備ができないだろう」
 真弥さまは一息つく。
「だから、明日から二人は同棲してみるのはどうだろうか」
「え、えぇ⁉」
 わたしの声が長い廊下に響く。
「す、すみません。驚いてしまって……」
 身体を縮めて謝る。
「ははっ。驚くのも無理はない、あちらの部屋で詳しく説明しよう」
 わたしたちは白い大理石が基調となっている部屋に来た。
「まずは住む家の話だ。住む家は両家とは少し離れた家になっている。……雲龍から使用人を送ることも可能だが、二人はどうしたい?」
 真弥さまが聞くと茅都さんは首を横に振った。
「僕はいなくても平気。……妃翠は?」
「わたしもいなくても大丈夫です」
 真弥さまは「わかった」といい、立ち上がった。
「まあ、話はそんなところだ。……ああ、大切なことを言い忘れていたよ」
 真弥さまはわたしたちの瞳をじっと見た。
「この縁談は断ることも可能だ。同棲してみて本当にお互い嫌になったりしたら逃げてもいいのだ。それを試すためのものだからな」
 真弥さまはそう言い残して去って行った。
「妃翠、父さんが言ってた通りだ。一番に優先するのはお互いの気持ちだ」
 茅都さんはそう言った。
 自分の気持ち。
 その言葉はなぜだかわからないが心が温まる気がした。
「ええ。わかったわ。今日はありがとう、また明日」
 わたしは立ち上がり家に帰る。



 ついに家から出れる日が来た。
「……お父さま、継母さま、お姉さま行って参ります」
 特に別れの惜しみもなく。
「妃翠、能力を使ってはならない。相手は雲龍家だ。……わかっているな?」
 お父さまから放たれる威圧感。
 お父さまはそう言うが、わたしの能力は自分でコントロールできるものではない。
「はい。重々承知しております」
ㅤけれど、ここでそのことを言ってしまうとお父さまからは罵倒され、継母さまからは殴られてしまうのだろう。
ㅤそれは避けたいことなので、余計なことは一切言わないでおく。
 冷たい瞳でわたしを見る継母さまはなにも言葉を発さず。
(──目障りなものがやっといなくなるのね。捨てられても家には入れてやらないわ)
 継母さまはいつまでも冷たいのだ。
(──妃翠……)
 乃々羽お姉さまはただそれだけしか心の中で呟いていなかった。
 わたしはそれでもお姉さまと話すことはなかった。
 わたしは歩いてこれから住む家に行った。
 荷物はそれほどなく小さなスーツケースで収まった。
 荷物はお母さまの形見や衣類、そのほかの生活必需品だ。
「妃翠、こっちだよ」
 用意された新居にはすでに茅都さんがいた。
「……ほ、本当に同棲するの?」
「そうだよ?いずれ結婚するんだし」
 結婚という言葉についつい顔が赤くなってしまう。
 わたしと茅都さんは家の中に入る。
 家は和モダンの家だ。
 中はとても綺麗で文句などひとつもない。
 わたしが圧倒されていると。
「そろそろご飯食べない?……外も暗くなってきたし」
 気づけば時計の針は午後六時を回っていた。
 春だからなのか六時を過ぎても少し明るい。
「そうね。……あ、わたしご飯つくるわ」
 綾城の家にいたときも使用人はわたしなどいないかのように扱ってきたので夕食がない日もあった。
 けれど、夕食がない日は決まって継母さまの機嫌が悪いとき。
 つまり、わたしへの当たりが強い日だ。
 そういう日はこっそり台所を使って料理をしていたので、家事全般はできるのだ。
 料理はその中でも得意なほうだ。
「いいの?」
 茅都さんは目を開く。
「もちろんよ。料理は得意だもの」
 そういうと茅都さんは。
「ふーん」
 それだけを言ってわたしに近づてきた。
「な、なに……っ?」
 近づくだけかと思っていたら。
「──……ひゃっ」
 急に抱きつかれた。
「な、なななにしているのよっ!」
 動揺しているのがわかりやすいわたし。
「なーに。ただ抱きついてるだけじゃん」
 さらりと言う茅都さん。
「ただ抱きついてるって……こ、恋人でもないんだから……っ」
 咄嗟にそう言ってしまった。
 今思えばわたしたち恋人同士でもないのに同棲しているのではないか。
「恋人じゃないって……確かに付き合ってはないけど、婚約者じゃないの?」
 きょとんとする茅都さん。
「婚約者ではあるけれど……その、きょ、距離が近いというか……」
 わたしは恥ずかしくて茅都さんと目が合わせられない。
「そうかな?まあ、可愛い妃翠見れるからお得だと思わない?」
 可愛いという言葉にボッと顔が爆発しそうになる。
「お、お得じゃないわよ!」
 わたしは茅都さんを引き離し、夕食の準備をする。
 今日の夕食は。
「わぁ。めっちゃ美味しそう。これしょうが焼き?」
 わたしの得意料理。
「そうよ……お口に合うといいのだけれど」
 わたしがそう言うと茅都さんは「いただきます」といって箸を進めた。
「──……!うますぎる!」
 茅都さんはわたしを見て、瞳をキラキラさせている。
「よ、よかったわ。……じゃあ、わたしもいただこうかしら」
 わたしも椅子に座り、箸を持つ。
「……ねぇ、本当に夫婦みたいじゃない?」
 突然、そう言われしょうが焼きを吹き出しそうになった。
「けほけほっ」
 思わず蒸せてしまう。
「大丈夫?お水でも飲んで──」
「茅都さんがその……ふ、ふ、夫婦なんて言うからでしょう!」
 茅都さんから渡された水を一気に飲み干す。
「ぷはっ。本当にいきなりなにを言い出すのよ……」
「ごめんごめん。ただ思ったことを言っただけ」
「それがわたしの心臓を壊しに来てるのよ!」
「妃翠って本当に男に免疫ないんだね」
 わたしたちはつい先月高校を卒業したばかり。
「そ、それは女子校出身だからって前にも言ったじゃない」
「ふーん。そういえば言ってたね」
 ふと思ったことがある。
「茅都さんは女の子に慣れてるの?」
 わたしがそう聞くと茅都さんは水を吹き出しかけた。
「え、ちょ、大丈夫?」
 わたしが慌てて声を掛けると。
「妃翠からとんでもない言葉が出るからでしょ。急に女の子に慣れてるのなんて聞かれたら動揺するわ」
「え?じゃあ、慣れているの?」
「別に普通だよ。特に慣れてるも不慣れでもないよ」
 わたしは頷いた。
「そうなのね。あまりにもスキンシップがすごすぎて……手慣れているのかと思ったわ」
 高校でも女子同士のスキンシップはあったが急に抱きつくなど非常識な人はいなかった。
 それを茅都さんに話すと。
「それただ僕が非常識野郎だって言いたいだけじゃん」
「別にそうとは言っていないわ。ただ驚いたってだけよ」
 その日は疲れてすぐに眠りについた。
 


 スッと差し込む朝陽で目が覚めた。
「んん……」
 まだ眠たくて目が中々開けられない。
「──……妃翠」
 聞きなれた澄んだ低音の声。
「なぁに……?」
 まだふわふわする。
「……」
(──なんでそんなに可愛いの)
 そんな心の声が聞こえてバッと起きた。
「お、おはよ」
 わたしが顔を背けながら言う。
「なんでそっち向くの」
 わたし絶対に顔が赤いから茅都さんの方を向きたくない。
「……別になにもないわよ──」
 わたしはそう言い、茅都さんの方を向く。
「……っ」
 いつの間にか茅都さんの顔が目の前にあった。
「顔真っ赤だよ?なにかあったの?」
 笑いをこらえている茅都さん。
「も、もうっ!からかわないでよ。……というか、なんでわたしの部屋にいるのよっ!変態……!」
 わたしは枕を茅都さんに投げつける。
「ははっ。朝から元気だね~」
 なんてへらへらと笑っている茅都さん。
 同棲を始めたからと言って、すぐに一緒に寝たりするなど大人な行動はしていない。
 それぞれの部屋があり、必要があればお互いの部屋を訪れるというルールを決めた。
「早速ルールを破るつもりかしらっ?」
「あれ、そんなルールあったの?」
「絶対覚えているでしょう……」
「まあ、妃翠も朝ごはん食べよう?そう熱くならないでさ」
「誰が元凶よ!」
 朝から恥ずかしくてたまらない。
 茅都さんは雲龍家が経営する会社の次期社長なので覚えることが山積みらしく朝食を食べ、すぐに家を出て行ってしまった。
 わたしも一日中家にいるのは嫌なので家の近くを散歩することにした。
 家の近くには大きな建物が。
 綺麗な建物だと思っていると看板に。
「……天ヶ紅(あまがべに)学園大学……そういえば、わたし来週入学式!」
 そう、わたしはもう大学生なのだ。
 天ヶ紅学園大学はあやかしのことについて学べたり普通の大学ではあるが少し特殊なのである。
 わたしは興味本位で受験した。
 入学式が来週に迫っていることをすっかり忘れていた。
 今思えば茅都さんだってわたしと同い年と言っていた。
 彼も大学生になるのだ。
 けれど、わたしは茅都さんが通う大学を知らない。
 今日帰ったら聞かなくては。
 わたしは散歩を済ませてから家に帰った。
「ただいまー」
 わたしが帰って来てから数時間後。
 外が暗くなってきてから茅都さんの声が聞こえた。
「おかえりなさい」
 わたしがそう言うと茅都さんとの距離が近くなった。
「え、ちょっ」
 わたしが慌てていると茅都さんは抱きついてきた。
「んー……疲れたよ。妃翠が癒してよ」
 そう言われるが。
「い、癒すって?マッサージかなにかをすればいいの?」
 わたしが首を傾げると茅都さんは目を丸くした。
「いや、そういう意味じゃないんだけど……妃翠って本当に変なとこ抜けてるよね。これで世間に出していいのかわからないんだけど」
 わたしはハッとした。
「あのね、茅都さん。……わたし、来週大学の入学式だって思い出したのよ。茅都さんは大学の入学式はいつかしら?」
 わたしが勢いよく聞いたものだから茅都さんは少し驚いていた。
「妃翠と同じ来週だけど。妃翠は大学どこなの?そういえば聞いてなかったね」
 わたしは天ヶ紅学園大学だと答えると。
「やったね、一緒だ」
 にやりと笑った茅都さん。
「え……?同じ大学?」
「うん、そう」
 茅都さんは頷く。
「えぇ!そうなの?一緒に登校できるのね」
 わたしが笑うと茅都さんはそっぽを向いた。
(──不意打ちとか心臓に悪い……)
 茅都さんは口元を抑えながらそう心の中で呟いていた。



 ついに入学式当日になった。
 緊張でガチガチになっていたわたし。
「なんでそんなに緊張してるの」
 茅都さんはわたしにそう言った。
「な、なんで緊張しないのよ。大学よ?」
 茅都さんは当たり前かのように頷いた。
「うん。そうだよ?別に高校とそんなに変わらないでしょ」
 茅都さんはそう言って大学の門に向かった。
 大学に着くと茅都さんは芸能人かのように大勢の人に取り囲まれていた。
「きゃ~!かっこいい!」
「雲龍家の次期当主ですよね?」
 なんて黄色い歓声が飛んで来る。
「雲龍って冷酷な一族だろ?」
「その噂内容やばいよな……」
 そんな声も聞こえる。
 茅都さんに前、冷酷な一族のことについて聞いたときは一線を引かれてしまったような気がした。
 そんなに触れてはいけないような内容なのか。
 噂の内容などわたしは聞いたことがない。
 それは置いといて、改めて少し離れて茅都さんを見る。
 本当に美形だ。
 モデルでもしてそうなルックス。
 これはわたしが一緒にいたら茅都さんのファンの人に刺されてしまうのではないか。
 わたしはそのことを想像して背筋がゾッとした。
「……考えたことを後悔するわ」
 わたしはボソッと呟いた。
 なんとかホールにつき、入学式が行われる。
 新しい大学というのもあり、とても綺麗だ。
 セキュリティはしっかりとしている。
 入学式でも茅都さんは目立ったていた。
「はぁ……」
 わたしがため息をつくと茅都さんが不思議そうに聞いた。
「どうしたの?疲れることあった?」
「いや……入学式とか卒業式とかわたしあまり得意じゃなくて」
 わたしはこういう行事ごとに家族が来たことがない。
 お父さまには来ていると言えと脅されていたけれど、昔口が滑って来ていないと友達に言ってしまったときはこの世の終わりかと思った。
 お父さまには怒鳴られ、継母さまはわたしを殴った。
 綾城家に悪いイメージがついたらどうするのかと怒られたことがある。
 それからのこと行事というものが楽しめなくなった。
「そうなんだ。ごめんね、気づいてあげられなくて」
 申し訳なさそうに茅都さんが言う。
「か、茅都さんが悪いことなんて何ひとつないわ」
「そう?……無理はしないでよ、明日からは大学生活の始まりなんだし」
 そうだ。
 ずっと夢見ていたこと。
 翌日、一番最初の授業はオリエンテーション程度で終わった。
「……すみません、これ落としましたよ?」
 急にそう声を掛けられた。
「……え?」
 わたしは声の方向を向く。
 後ろには黒髪でウルフカットの人が立っていた。
 わたしの身長はそんなに高くないからなのかその人の顔を見るには相当顔を上げないといけない。
「これ、さっき落としてましたよ」
 差し出されたのは桃色のハンカチだった。
「あ、わたしの……ありがとうございます」
 このハンカチはお母さまの形見。
「……妃翠だよね。久しぶり」
 急にそう言われる。
「え、っと……」
 わたしはその人と会うのは初めてだ。
「え、覚えてない?せなだけど」
 『せな』という名前の人は一人だけ知り合いにいる。
 けれど、その子は女の子だった。
「あの、せなって子は知り合いにいるんですが……女の子だったので人違いかと」
 わたしはそう言ってせなさんからハンカチを受け取る。
「そのせなが俺だっての」
 わたしはハンカチを受け取りかけて固まる。
「え?」
「昔、綾城家の庭で一緒に遊んでたじゃん。それ俺」
 昔、せなちゃんとは家の庭で遊んでいた。
 せなちゃんとの出会いはわたしが庭で拾った子犬だった。
 継母さまと会わないために庭に逃げていたらケガしている子犬を見つけた。
 急いで子犬を抱き上げると子犬が急に人間になった。
『──きゃあ!』
『……痛いなぁ。足ケガしちゃった……きみはだれ?』
 わたしは名前を名乗り相手の名前を聞く。
『せなだよ。よろしくね、ひすいちゃん』
 せなちゃんは天使みたいに可愛くて、わたしが守ってあげないとと思っていた。
 その出会いがあってからお父さまや継母さまの目を盗みせなちゃんと遊んでいた。
「え、えぇ⁉せ、せなちゃんがあなた?信じられない……」
 わたしがそう言うとせなちゃんを名乗る人が呆れたように言う。
「あんたのことは『ひい』って呼んでた。これで『せなちゃん』だってわかるでしょ」
 確かにせなちゃんには『ひい』と呼ばれていた。
 なぜ『ひい』なのかというと、わたしの名前の一番最初と最後をとって『ひい』となった。
 少し信じられた気がする。
 当時のせなちゃんは少し髪が長くてぱっちり二重で誰もが女の子だと思うはず。
「そういえば、あなたの名前は?」
「……真神(まがみ)瀬凪(せな)。あやかしの犬神」
 そう言われ、今までのことを思い出す。
「犬神って……だからあのとき犬の姿だったの?」
「そうだよ。思い出した?」
 わたしは頷いた。
「ええ。思い出したけれど……」
「というか、ひいって大学受験できたんだ」
 一瞬、頭が悪いからできないだろうという感じで馬鹿にされたのかと思ったが、瀬凪くんはわたしが家でどういう扱いなのかを知っているのだ。
「そうね、見事に合格したわ。瀬凪くんがここを受けていたなんて意外だわ」
 わたしが言うと瀬凪くんは首を傾げた。
「そうか?綺麗だから受けたこの大学」
「えぇ……もっとまともな理由があるのかと思ったわ。ふふっ」 
 わたしが笑うと瀬凪くんも笑った。
 瀬凪くんとは別れて家に帰った。
「ただいまー」
 わたしが帰るとすでに家の電気はついていた。
「……おかえり」
 明らかにいつもの茅都さんの声ではなかった。
 とても低い声。
「あの……どうかなさったの?」
 わたしが聞くと茅都さんの顔はムスッとしていた。
「今日のあいつ誰?」
 わたしは首を傾げる。
「誰と言いますと?」
「今日、講義室の前で話してたでしょ。ハンカチかなんかを持ってた」
 そう言われわたしはハッとする。
「あ、瀬凪くんのこと?」
 わたしが聞くとさらに茅都さんの顔が険しくなった。
「なんで名前呼びなの。僕はまださん付けなのに、そいつはくん呼びだし」
「そ、そう言われても……」
 わたしが戸惑っていると茅都さんが口を開いた。
「そいつとどういう関係なの?浮気?」
「つ、付き合ってないけど!……昔遊んでた子なの」
 わたしが言うと茅都さんはため息をついた。
「……妃翠の昔を知ってる奴がいるとか耐えられない」
 茅都さんはそう言い、すぐに立ち上がった。
 けれど、わたしは見逃さなかった。
 茅都さんがすごく切なそうな顔をしていたことを。
 不思議に思ったがなぜだか触れてはいけないような気がした。



 大学生活は楽しくて本当に受験して良かったと思った。
「ひい、飯一緒に食わない?」
 瀬凪くんにそう誘われる。
 わたしは頷いた。
「もちろんよ。どこで食べる?」
 わたしが聞くと瀬凪くんは少し考えて。
「食堂とかはどう?」
「いいわね。行きましょう」
 わたしの言葉とともに瀬凪くんは歩き出した。
 食堂も綺麗で使いやすい。
 わたしが頼んだ学食はハンバーグ定食。
 瀬凪くんはカレーを頼んでいた。
「「いただきます」」
 わたしと瀬凪くんは同時に手を合わせた。
 ハンバーグは最上級に美味しかった。
「そういえば、ひいって今一人暮らしなのか?……どこまで踏み込んでいいのかわからないけど、ひいずっとあの家から逃げたいって言ってたじゃん」
 わたしはずっと家から出て行きたいと思っていた。
 高校はどうしても中高一貫の学校だったので家で過ごしていた。
「……ひ、一人暮らしではないのだけれど……」
 なんと答えるのが正解なのかわからず目線を泳がせながら答える。
「え、付き合ってるの?」
 真面目な顔で瀬凪くんは言う。
「つ、付き合ってはないのよ」
 誰かに茅都さんとの関係を言うのは難しい。
 付き合ってはない、結婚してるわけでもない、ただ同棲しているだけ。
「縁談があって、そのお相手と同棲しているの」
 わたしが少し早口で話すと瀬凪くんの瞳は丸くなっていた。
「は?本気で言ってる?」
「こ、こんなことに嘘はつけないわ」
(──妃翠の相手、誰なんだろう)
 瀬凪くんの心の声が聞こえた。
 わたしから言ってもいいが、言ってしまえば瀬凪くんにまで能力がバレてしまう。
 昔遊んでいたとはいえ、能力のことは言っていない。
 知っているのは綾城の人間だけ。
「マジか。その相手には綾城のこと言ってるの?」
「……言ってないわ。お父さまの圧がすごくて、言う気はないわね」
 わたしが言うと瀬凪くんはため息をついた。
「それさ、いずれ言うことになるんじゃない?……妃翠だったらどう?やっと信用できるかもって思った相手に嘘つかれてたら」
「そ、それは悲しいわ」
 けれど、この縁談だって全ては家のため。
 雲龍家はあやかしでもトップクラスのお金持ち。
 偶然、縁談が綾城家に回ってきただけ。
 政略結婚など愛なんてない。
 それはお父さまと継母さまの生活を目の当たりにしてきたのでわかっている。
 お父さまも継母さまに寄り添っていこうとしていたのだろうか。
 考えれば考えるほどわからなくなっていく。
「だろ?じゃあ、妃翠が落ち着いてきたら打ち明けるべきだと思うけどな。……全部、決めるのは妃翠だぞ」
 そう言って瀬凪くんはいなくなった。
 わたしはとぼとぼと歩きながら考える。
 もし、綾城家での扱いが茅都さんにバレてしまえば茅都さんとは離れ離れになってしまうだろう。
 もし、心の声が聞こえることがバレてしまえば茅都さんに捨てられるのだろう。
 どういう道をたどってもあまり良い方向に運命は働かないようだ。
 ある朝、鳥のさえずりが聞こえ目が覚める。
 身体を起こそうとすると頭がガンガンと痛む。
 身体もとても熱い。
「はぁ……げほっ」
 咳も可愛らしいものではない。
 これは風邪を引いてしまったようだ。
 どうしようか。
 茅都さんはもう起きているだろうか。
 茅都さんに今日は大学に行けないと報告しなければ。
 けれど、茅都さんに迷惑をかけてしまうのではないかという考えになる。
 数日前、茅都さんの帰りが遅い日があった。
 その日は普通に大学があり、茅都さんも大学に来ていた。
 それなのに、茅都さんが帰って来たのは時計の針が夜の十二時を回った頃だった。
 夕食は家で食べるとのことだったのでわたしもあまり遅くならないだろうと思っていた。
 わたしも茅都さんになにかあったのではないかと心配で寝れなかったのだ。
 あまり人のプライベートに踏み込んでしまうのも良くないのではないかと思い、なぜ遅くなったかの理由は聞かなかったが、茅都さんは明らかに疲れた表情をしていた。
ㅤただでさえ、疲れているだろう茅都さんに迷惑を掛けたくない。
 わたしは熱を測ろうと思い、体温計を取りにベッドから降りた。
「……っ」
 すでに身体が限界だったのかフラッと倒れそうになる。
「──危なっ」
 ぎゅっと誰かに抱きしめられた。
 意識がふわふわしていて誰だかわからない。
「妃翠、ごめんこんなに体調悪そうなのに気づいてあげられなくて」
 意識がハッキリとしてくる。
「茅都さん……?」
 喉が痛くて上手く声が出せず、掠れた声になる。
「そうだよ……なんでこんなに身体熱いのに立ち歩いたの」
「体温計……取りたくて」
 わたしが言うと、茅都さんはわたしの身体をひょいと持ち上げた。
「え?茅都さんっ、この体勢恥ずかしいわよ……」
 急にお姫さま抱っこなんてされたらすでに熱い身体が一層熱帯びてしまう。
「熱があるお姫さまには丁度いいと思うけどな」
 茅都さんにそう言われ何とも言えない。
「ほら、熱測って」
 茅都さんに体温計を渡される。
 体温計から音が聞こえ、自分の体温を見る。
「三十九度……」
 茅都さんに見せると頷いた。
「さすがにそれくらいあるだろうなとは思ったけど……結構高いな」
 こんなに体温が高くなることがなかったので不安になる。
 昔、今の体温よりかは低かったけれど、高熱が出たときに使用人に熱があることを伝えたけれど食事も出されず、倒れたことがある。
 そのときは病院送りになったけれど、お父さまや継母さまは何一つ心配してくれなかった。
 そのときに悲しいという感情を思い出した気がした。
「……妃翠?」
 茅都さんの手がわたしの頬に触れる。
「あっ……」
 わたしは涙を流していた。
「どうしたの?身体辛い?」
 なにも答えられない。
 茅都さんもお父さまたちと同じようにどこかへ行ってしまうのではないだろうか。
 もう、見捨てられるのは嫌だ。
「水、取って来るね」
 茅都さんがわたしのベッドから離れようとしたとき。
「だ、ダメ……離れちゃダメ……」
 自分の口から発されたものとは思えない言葉が出た。
 茅都さんは案の定驚いた表情をしていた。
「……今日はずいぶんと素直だね」
 茅都さんはまたわたしのベッドに腰かけた。
(──いつもこんなに素直に甘えてくれたらいいのに)
 茅都さんの心の声が聞こえる。
 そう言われても甘え方がよくわからない。
「大丈夫、妃翠のそばから離れたりしないよ。……でも、水飲まないと妃翠の身体ずっと辛いよ?」
 昔のことを思い出すと信用していた人に裏切られるのではないかと不安になってしまう。
 茅都さんはきっとそんなことをするような人ではないとわかっているけれど。
「わかったわ……」
 わたしは大人しくベッドに横になる。
 少ししてから茅都さんが戻ってきた。
「お待たせ、一人で飲める?」
 茅都さんの質問に疑問を抱いた。
「飲めるけれど……一人で飲めないって言ったらどうなるのかしら?」
 わたしが聞くと、すぐに茅都さんの心の声が聞こえた。
(──これ、天然なのか?それとも僕が試されてるのか?)
 わたしには理解できなかったがきっと茅都さんは深いことを考えているのだろう。
「んー……口移しで飲ます」
 わたしは思わず水を吹き出すところだった。
「……な、なななにを言っているのよ!」
 わたしは急に大きな声を出したからなのか咳が止まらなかった。
「よしよし、そんなに恥ずかしい?僕との口移し」
 茅都さんはわたしの背中をさすりながらそう言った。
「恥ずかしいに決まっているじゃない……」
 茅都さんの顔を上手く見れない。
 きっとわたし今、顔がりんごのように赤いだろう。
「そうなの?じゃあ、妃翠が恥ずかしくなくなるまで待つよ」
 茅都さんはそう言ってくれたけれど、恥ずかしさがなくなることなどないのだろう。
「……身体辛いでしょ?」
「ええ、一回寝るわね」
 わたしに布団をかけてくれる茅都さん。
「うん……おやすみ」
 茅都さんの言葉が聞こえ、意識がぷつりと切れる。
 目が覚めたのはお昼ごろだった。
「あ、起きた?お粥つくったけど食べれる?」
 茅都さんの声が聞こえる。
「ええ。ありがとう、いただくわ」
 茅都さんはおぼんにお粥と緑茶を置いて持ってきた。
「ちょ、ちょっと……一人で食べれるわよ」
 茅都さんはわたしにスプーンを渡してくれなかった。
「お姫さま、今日はたくさん甘えてください」
 茅都さんは王子さまオーラをまとわせて言う。
「……っわ、わかったわ」
 恥ずかしさと戦いながら茅都さんにお粥を食べさせてもらう。
「おいしい?ちゃんとつくれてるかな?」
 茅都さんに言われ、こくこくと頷いた。
「よかった」
 ニコっと笑った茅都さんがカッコイイと思ったのはわたしが熱のせいなのか。
 昼食を食べ終わったあとはずっと寝ていた。
 気づいたら夜の七時になっていた。
「おはよ、妃翠」
「おはよう……と言っても今は夜でしょう?」
「そうだね、妃翠は身体もう平気?」
 茅都さんは優しい声色でわたしに聞く。
「ええ。……それよりも茅都さん今日はありがとう。それとごめんなさい」
 わたしが言うと茅都さんは首を傾げた。
「ありがとうはなんとなく理解できるけど、ごめんなさいはよくわからないな。なんで妃翠が謝るの?」
 茅都さんはわたしの頭を撫でた。
「だって、今日は普通の平日よ?大学だってあるじゃない」
 わたしは朝から思っていたことを口にした。
 今日は普通に大学がある日。
 なのに、茅都さんはずっとわたしの面倒を見てくれた。
「……妃翠が謝ることなんてないよ。妃翠が元気になってくれるならそれでいいの」
 茅都さんはいつでも優しい。

 
 
 翌日、わたしはすっかり元気になった。
「……あの、茅都さん。昨日は本当に助かったわ、ありがとう」
「全然。これからは絶対に無理しちゃダメだよ?……無理して倒れたら、監禁しちゃうかもね~」
 なんて笑いながら言う茅都さん。
「……全然冗談に聞こえないわ。絶対に無理はしないから大丈夫よ」
 絶対に倒れたりするものかと心に誓った。
 大学に行くと瀬凪くんと会った。
「ひい。昨日は休んでたけど体調不良?」
 わたしは首を縦に振った。
「ええ。けど、もうすっかり元気よ」
 そう言うと瀬凪くんはニコリと笑った。
「よかったな。……そういえば、ひいの縁談相手って雲龍茅都だろ?」
 茅都さんの名前が出てきてビクッと肩が跳ねる。
「な、なんで知っているの?言っていないわよね?」
「噂で回ってきた。綾城と同じ家に雲龍が入って行くのを見たっていうヤツがいたらしいぜ。こういうのって本人に確認しないとだろ?ただのデマで変な噂だけ流れてたら嫌だろうし」
「そんなところを見られていたのね……その、前に瀬凪くんに同棲してるって言ったじゃない?その相手は茅都さんで合ってるわ」
 わたしは恥ずかしさを堪えながら答える。
「ふーん。で、ひいは雲龍のこと好きなの?」
 突然のことで脳がフリーズする。
「へ……?」
「だから、ひいは雲龍のこと好きなのって」
「す、好きなわけないわ!だって、突然お見合いがあって同棲しているのよ⁉」
 わたしは荒くなった呼吸を整える。
「好きでもないヤツと一緒にいて辛くねぇの?普通、同棲とかって好き同士、付き合ったりしてるヤツがするもんじゃないのか?」
「特に辛いとは思わないわ。けれど、今思えば好きでもない人と暮らしてるなんてなんだか変ね」
 わたしはふと思った。
 わたしは茅都さんのことを好きでもない。
 けれど、嫌いでもない。
 自分の気持ちがよくわからない。
 でも、ドキドキして仕方がないときもある。
 茅都さんがかっこよくて仕方がないと思うときもある。
 この感情に名前をつけるならなんだろうか。
「じゃあ、ひいのこと奪えるってことだよね?」
「奪うって?」
「はぁ……」
 なぜか瀬凪くんはため息をつく。
「ここまで言っても気づかないって鈍感超えて馬鹿だと思うよ」
 そう毒を吐いて瀬凪くんはいなくなった。
 瀬凪くんに言われたことを考えながら家に帰る。
「ただい──」
 そう言いかけると思わず目を見開く。
 家の中に茅都さんと──知らない女の人がいたからだ。
「……妃翠?」
「──うちはここでさよならやな。お邪魔しました~」
 そう言って女の人は家から出て行ったが、わたしにはショックしか残らなかった。
「妃翠、おかえり──」
「……あなたもわたしを──」
 あなたもわたしを裏切るのかと聞こうとしてしまった。
 わたしは急いで口をつぐんだ。
 わたしは部屋に駆け込んだ。
「妃翠……!」
 焦る茅都さんの声が聞こえた。
 わたしはそれを無視して部屋の扉をバタンと閉めた。
「ふっ……うぅ……」
 茅都さんならわたしを好きなってくれるかもしれないと思ってしまった。
 わたしの瞳からは一生分の涙が出た。
 先ほどまでいた女の人の顔を思い出す。
 柔らかな雰囲気をまとい、とろんとした二重のややたれ目。
 けれど、すごく美人だった。
 茅都さんととてもお似合いだと心の底から思える人。
 


 わたしは昨日、思い切り泣いたせいか朝起きたら目が腫れていた。
 喉が渇いたのでキッチンに行くと茅都さんがいた。
「…………」
 気まずい雰囲気がこの部屋を覆う。
「妃翠、昨日はごめん。あいつは会社の取り引き先の相手で──」
 わたしはその言葉を無視してしまった。
「……それと、妃翠は昨日なにを言いかけたの?」
 その言葉でやっと茅都さんの顔を見る。
「……あなたに関係あるのかしら?」
 わたしが言うと茅都さんは悲しそうな顔をした。
「……ごめん、でもあんなに悲しそうな妃翠を放ってはおけない」
「昨日の方を連れてきたのは茅都さんではなくて?それなのに、わたしの心配だなんて意味がわからないわ」
 可愛げのある言葉一つも言えず、ただ茅都さんに向かって嫌な言葉しか言えない。
 なぜこんなにも茅都さんは優しいのだろうか。
 茅都さんを無視して、ひどい言葉を浴びせているわたしとは真逆。
「あなたのその優しさは……わたしに向けるものじゃないでしょう?昨日の綺麗な方に向けるべきなのよ」
 わたしはそう言い、キッチンを離れた。
「はぁ……」
 何回目のため息か。
 そう考えながら大学に向かう。
「ねぇ、冷泉(れいぜい)さん!今度、お茶でも行きませんか?」
「冷泉さんに気安く話しかけちゃダメだよ……!」
 今日は一段と騒がしい。
「別にええで~。……せやけど、忙しくてなぁ」
 この声と関西弁には聞き覚えがあった。
「あれって……」
 わたしは冷泉さんと呼ばれる人の方を向く。
 そこには昨日家で見た綺麗な女の人が色々な人に囲まれていた。
「……!」
 バチッと冷泉さんと目があった。
「うち、行かなあかんとこがあんねん」
 そう言って人混みを掻き分けて冷泉さんはわたしの方に来た。
「あんた、ちょっと来てくれへん?」
 わたしは冷泉さんと一緒にカフェテリアに来た。
「ごめんなぁ、こんなところで」
 冷泉さんは胸の前で手を合わせる。
「あんた、茅都の縁談相手やろ?」
 わたしは頷いた。
「昨日はほんまにごめん。誤解を招くような形になって。……うちは冷泉結璃(ゆり)。あんたは?」
「あ、綾城妃翠です……」
 わたしはぎこちなく答えた。
「妃翠ちゃんって呼んでええ?」
 わたしはまた頷いた。
「妃翠ちゃん。これはほんまに嘘なんかやない、うちと茅都は恋仲なんかやないで」
 冷泉さんは真剣な瞳でわたしに言った。
「うちと茅都は小さい頃から親の会社同士が仲良くてな。うちの会社と茅都の家の会社が取り引きしててそれで仲良くなったってだけや」
 わたしはただ黙って聞くことしかできなかった。
「昨日は会議が近々あるからその打ち合わせを二人でしてたってだけや。そんな変なことはないで」
 わたしがなにも言えずにいると冷泉さんは突拍子もないことを言い出した。
「……妃翠ちゃんは茅都のこと好きなん?」
 わたしはやっと声を発する。
「好き、ではないと思います……」
「ほんまに?うちが昨日いて、悲しいと思わなかったん?」
 確かに悲しいとは思った。
 けれど、それは裏切られたことに対してだった。
 それを冷泉さんに伝えると。
「それは茅都のことを信用してたから言えることやんな。ほんまに好きやなかったらうちがいようがいなかろうが悲しいなんて思わへんと思うけどなぁ」
 冷泉さんはニコリと微笑みながら言う。
「少し自分に素直になってみたらどうやって……まあ、こんな部外者に言われたくないなぁ。ごめん、これはあくまで一人の意見として思ってほしいわぁ」
 そう言って冷泉さんは立ち上がった。
「ほなね、妃翠ちゃん。……あんたなら大丈夫やから」
(──妃翠ちゃんならきっと……)
 冷泉さんの心の声が聞こえるが、わたしには理解できないことばかりだった。
 冷泉さんは最後に意味がわからないことを言って去って行った。
 その後、瀬凪くんに冷泉さんの話を聞いた。
「あー。冷泉はあの有名な冷泉リゾートの代表取締役だぞ?社会的地位が高いあやかしではなく人間なのに大金持ちだって有名だしな」
 冷泉リゾートはとても有名なリゾート会社。
「え、社長?」
「そうだよ、冷泉は若き社長として大学と社長の二足の草鞋を履いてるんだ」
 学生と社長など異例な状況らしい。
 けれど、それは先代社長である冷泉さんのお父さんが病で倒れてしまったから若くして社長になったというものだ。
「冷泉は裏ではすごい努力家だって有名なヤツなんだぞ。まあ、本人はそれを言われたくないらしいが」
 瀬凪くんは色々教えてくれた。
 冷泉さんに言われた言葉を一つ一つ思い返してみる。
 わたしは茅都さんを好きではない。
 けれど、わたしが困ったときはいつでも茅都さんが助けてくれる。
 そのたびにドキドキして心臓がきゅっとなる。
 わたしは……茅都さんが好きだ。
 顔に身体中の熱が集まる。
「えぇ……?わ、わたし、茅都さんが好きなのっ?」
 自分でも自分の感情に理解が追いつかない。
 けれど、茅都さんはきっとわたしを好きではないだろう。
 この気持ちは心の中にしまっておこう。
 心を落ち着かせて、深呼吸をする。 
 冷泉さんの話を聞いて、まずは茅都さんに謝らなければと思った。
 わたしは家に帰って茅都さんのいる部屋に向かった。
「あ、妃翠……」
 茅都さんが丁度部屋から出てきたところだった。
「その、茅都さん……昨日はごめんなさい。勝手に早とちりして冷泉さんと付き合ってるかと思っていたわ」
 わたしが冷泉さんの名前を出すと茅都さんは驚いていた。
「結璃のこと知ってるの?」
「今日、お話ししたのよ。茅都さんとは恋仲でもないって」
 茅都さんは安心したような顔をしていた。 
「僕の妃翠になにも説明しないで結璃のことを家に入れたし……無神経だったよね、ごめん」
 茅都さんの言葉にわたしは首を横に振る。
「冷泉さんも茅都さんのこともちゃんとわかったから、全然平気よ」
 わたしの心臓はドキドキして全然平気ではないけれど。
「……これからは隠し事とか少しずつ減らしてかない?」
(──僕もいつか……)
 茅都さんも隠し事があるようだ。
 それよりもわたしの頭の中はパニックになっていた。
 いつか、心の声が聞こえる能力のこと、綾城家での扱いのこと全てを打ち明けなければならないのか。
 そして、茅都さんのことを好きになってしまったということも。
「そうね……隠し事がない状態の方がいいわよね」
 わたしは茅都さんに言うと同時にこの言葉を自分に言い聞かせようとした。
 全てを打ち明けることができる日が来るだろうか。
 そのときは家のことなんて考えずに生きていきたいなんて淡い希望を持っていた。
 わたしたちは無事に仲直りをした。
 まずは初対面なのに色々話をしてくれた冷泉さんにお礼を言わなくては。



 わたしは後日、大学で冷泉さんと会った。
「あ、あの……!冷泉さん」
 わたしが呼び止めると冷泉さんはわたしの方を見た。
「……妃翠ちゃん。なんか清々しい顔してんなぁ」
 冷泉さんは微笑んだ。
「え、そうですか……?」
「……少なくともうちにはそう見えるって感じやな」
 冷泉さんは続けて頭にはてなマークを浮かべているような顔をした。
「せや、妃翠ちゃんはうちのことなんで呼んだん?なんかあったん?」
 冷泉さんは首を傾げる。
「えっと……この間のお礼を言いたくて」
 わたしが言うと冷泉さんはまた首を傾げた。
「なんのお礼や?うち、なんもしてへんけどな」
「……この間、冷泉さんの言葉で、やっと自分の気持ちに気づけたんです」
 わたしが言うと、冷泉さんはふわっと笑った。
「そう。よかったわ。……じゃあ、妃翠ちゃんに質問するで?妃翠ちゃんは茅都のこと好きなん?」
 わたしは胸を張って言った。
「はい」
 わたしの言葉に冷泉さんは女神のような笑みを浮かべた。
「……素直になれたんやな。よかったわ……妃翠ちゃんなら大丈夫やな」
 そう言って冷泉さんはわたしの反対方向を向いた。
「……せや、冷泉さんって堅苦しいわ。結璃って呼んでや」
 冷泉さんはわたしの方を振り返って無邪気な笑顔で言った。
「ゆ、結璃さん……?で、いいんですか?」
「さん付けも堅苦しい!せめてちゃん付けや!あと、敬語もやめや!」
 冷泉さんは息を荒げながら言う。
「ひぃ~!わ、わかったわよ!ゆ、結璃ちゃん!」
 わたしが言うと結璃ちゃんはキラキラした瞳をしていた。
「それでええ!……よろしゅう、妃翠ちゃん!」
 このときの結璃ちゃんは『社長』や『冷泉家』などは忘れていそうな雰囲気で、一人の少女、『冷泉結璃』として初めて見た瞬間だった。
 そう言って結璃ちゃんはどこかへ行ってしまった。
 茅都さんとのすれ違いがあり、仲直りをしてからのこと茅都さんの言動が前よりも甘くなっている気がする。
 わたしの気のせいだろうか。
 そんなことを思いながら家に帰る。
「おかえり、妃翠」
 今日は会社に行くと言っていた茅都さん。
「た、ただいま……茅都さんも今帰って来たのかしら?」
 茅都さんはスーツを着ていて、少しネクタイをゆるめていた。
「そうだよ。なに、僕の着替えでも見たいの?」
「は⁉違うわよ……!」
 茅都さんは意地悪く笑う。
「──ひゃっ。な、なによ……!」
 茅都さんはわたしに抱きついた。
「んー……充電?」
「い、意味わからないわよ!こういうのは正式に結婚するか、付き合ってからにして!」
 離してもらうのに必死で自分が言った言葉に疑問を抱く。
 そういえば、わたしたち付き合ってもいない。
「えー……じゃあ、付き合う?それとも籍入れに行く?」
「話が飛びすぎなのよ!」
 茅都さんはいきなりこういうことを言ってくるので毎回ドキドキして仕方がない。
 茅都さんはわたしの気持ちを知らないくせに。
「まあ、さすがに今のは冗談で。妃翠の気持ちが追い付くまで待つよ」
 そう言われハッとする。
 いつか、わたしも茅都さんに気持ちを伝えなくてはならない。
 茅都さんは、わたしのことをどう思っているのだろう。
 気になるが、聞いてなんとも思っていないなんて答えられたら生きていけない気がする。
「そうだ。今度、雲龍家でパーティーがあるんだけど、妃翠も参加してくれない?」
 パーティーというものは本当にあるのだと思った。
「え、ええ。もちろんよ」
 わたしは了承したが、礼儀正しく振る舞うことができるか心配になってきた。
「よかった。一週間後だから……ドレスとかはこっちで用意しておくよ」
 ドレスを着れるのか。
 綾城家にいたときは特にパーティーなど大きな行事に参加したことがなかったのでパーティーはおとぎ話の中だけかと思っていた。
 パーティーまでには礼儀や作法を学んでおかなくてはならない。
 それからわたしは本を買って礼儀を学んだ。
 学んだことが本番に活かせるといいのだけれど。



 パーティー二日前。
 茅都さんから連絡が来た。
『妃翠、少し見せたいものがあるから帰って来てほしい』
 わたしは今、パーティー用の髪飾りを見ていたところだった。
 髪飾りはシンプルだけれど大人可愛いパールのものを買った。
 わたしは急いで家に帰った。
「ただいま」
 わたしが家のドアを開けると、茅都さんとスーツを着た女性が立っていた。
「……初めまして、妃翠さま。わたくし、雲龍和夏(わか)と申します。雲龍家でファッションデザイナーをしております」
 和夏さんはお辞儀をした。
「今日は二日後のパーティー用のドレスをご用意いたしました」
 そう言って和夏さんは歩き出した。
「妃翠、こっちだよ」
「え、あ、あの……これはどういう状況かしら?」
 わたしはいまいち状況が理解できていない。
「そのままだけど?今度のパーティー用のドレスを和夏に頼んでおいたんだ……あ、安心して?和夏は雲龍の分家の娘だから……」
 茅都さんはなにを勘違いしたのかそう言ってくる。
「い、いえ。そこは気にしていないのよ……ただ、急にドレスを用意したなんて言われたらどう反応していいかわからないわよ」
 わたしは言った。
 けれど、わたしの反応は間違っていない気がする。
 突然、パーティードレスを用意したなんて言われたら喜びたいものでも驚きの方が勝ってしまってまともに喜ぶことができないと思う。
「そう?まあ、妃翠はただドレスを選べばいいだけだから」
 わたしと茅都さん、和夏さんは二階にある空き部屋に向かって歩いた。
 わたしはそこの部屋には入ったことがなかったのでソワソワしていた。
 部屋は広くて、まるでホテルの一室のようだった。
「妃翠さま、こちらでございます」
 和夏さんに案内されて、目の前に広がる光景に目が丸くなってしまった。
「わぁ……!す、すごいわ」
 目の前にはたくさんの色や形のパーティードレス。
「妃翠さまには気になるものを試着してもらおうと思っております。……妃翠さま、どうぞ自由にご覧になってください」
 和夏さんにそう言われ、ぎこちない動きでドレスを見る。
 わたしはたくさんのドレスを見ながらふと思った。
「……あの、和夏さん」
 わたしが呼ぶと和夏さんはすぐに反応した。
「どうかいたしましたか?」
「えっと、これに合うドレスを探してて……」
 わたしは今日買ったパールの髪飾りを和夏さんに見せた。
「まあ、それは!……そうですね……こちらなんかはいかがでしょうか?」
 和夏さんが見せてくれたのはラベンダーのパーティードレス。
 シンプルなものだけれど、可愛さがあって一目惚れだった。
「これがいいです……!」
 わたしは勢いよく答えたのだが。
「……露出多くない?」
 不機嫌な声が聞こえた。
「茅都さまならそうおっしゃると思っておりましたよ。ご安心くださいませ、露出を少なくするために色々なものを着けることも可能ですよ」
 和夏さんはクスクスと笑いながら言う。
 そう言われると納得したように茅都さんは頷いた。
「そうしてほしい。ありがとう、和夏」
「いえいえ。妃翠さまになにかあってはいけませんからね」
 和夏さんも茅都さんに賛同するように微笑んだ。
 わたしだけがこの状況についていけていないようだ。
「では……妃翠さま。こちらを試着してみますか?」
 わたしはラベンダーのパーティードレスを試着することにした。
 家の中で試着するなんて今更ながらすごいなと思う。
 こんなお姫さまのような生活をしていいものなのか。
「まあ、お似合いですよ!……髪飾りもつけてみますか?わたくし、ヘアメイクが得意でして」
「じゃ、じゃあ。お願いしてもいいですか?」
 わたしが言うと和夏さんはニコリと笑った。
「もちろんです。では、こちらにおかけください」
 わたしは大きなドレッサーの前に座った。
 和夏さんのお任せで、髪を結ってもらい髪飾りをつけてもらった。
「さあ、できましたよ」
 わたしは鏡を見る。
「わぁ!可愛い……」
 こんなに可愛くしてもらうのは初めてだ。
 ハーフアップにされていて、パールの髪飾りがつけられていた。
 自分じゃ一切こんなことができないので和夏さんの腕には関心した。
「茅都さま。可愛い可愛い妃翠さまを見てくださりますか?」
 和夏さんが言うとすぐに茅都さんが来た。
「妃翠?」
「そ、そうだけど……」
 茅都さんはわたしを奇妙なものを見るかのような目をしていた。
「に、似合ってないかしら……?」
「いや、その逆。可愛すぎて見ていいのかも不安になってくる」
「よ、よくわからないけれど、似合っているのならよかったわ。ありがとうございます、和夏さん」
 わたしはぺこりと和夏さんにお辞儀をした。
「いいえ。本番は二日後ですよ。そのときはもっと可愛く仕上げてみせます!」
 和夏さんはガッツポーズをした。
 わたしはドレスを脱いで、部屋着に着替えた。
 着替え終わると和夏さんは一礼をした。
「それでは、失礼いたします」
 和夏さんは家を出て行った。



 ついにパーティー当日。
 先日の宣言通り、和夏さんはとても可愛くわたしの髪を仕上げてくれた。
 茅都さんの要望で取り入れられた露出を少なくするためのものも着けた。
「妃翠、準備できた?」
 部屋の外から茅都さんの声が聞こえる。
「……行ってらっしゃいませ、妃翠さま」
「和夏さんは来ないのですか?」
 わたしが聞くと、和夏さんは眉をへの字に曲げながら笑った。
「わたくし、残念ながら今日は大事な会議が入っていて行けないのです。ですから、妃翠さまがわたくしの分まで楽しんできてくださいませんか?」
 和夏さんの言葉に大きく頷いた。
「もちろんです。でも、パーティーとかあまり経験がなくて……」
 わたしが不安に陥っていると和夏さんがわたしの手を握った。
「大丈夫ですよ、妃翠さまなら。パーティーは楽しむものですよ?」
 その言葉でどれだけ心が温まったものか。
 家を出ると、すぐに目に入ったのは明らかに高級感漂う車だった。
「こ、この車に乗るのかしら?」
 わたしが聞くと、茅都さんは当たり前かのように頷いた。
「うん、そうだけど?」
 そう言われてしまえば言う言葉を失ってしまう。
「そう……」
 わたしが啞然としていると車の中からスーツを着た若い男の人が出てきた。
 びっくりして、バランスを崩しかけるとすかさず茅都さんがわたしの身体を支えてくれた。
 ドキッとしてしまい、この心臓の音が聞こえてしまうのではないかと心配になってきた。
「茅都さま、妃翠さま。こちらへ」
 車の扉が開けられ、茅都さんにエスコートされる。
 わたしも一応良い家柄の人間ではあるけれども、こんなにお嬢さま扱いされたのは何年ぶりだろうか。
 こんなに心が満たさせたのはいつぶりだろう。
 この夢が一生覚めないでほしいと心の中で願った。
 車で移動すること数十分。
 人気のない道に出た。
 自然が多くみられる雲龍家。
 雲龍家自体は洋風でそこだけどこかの国に行ったかのようになるのだが、雲龍家までに行く道は自然を感じられる。
 わたしは個人的に大好きな道だ。
 雲龍家の近くで車が止まった。
「ここからは少し歩くけど、大丈夫?」
「ええ、平気よ。けれど、前に行った部屋がある方ではパーティーはしないのかしら?」
 わたしが言いたいのは前に雲龍家当主である真弥さまと話した部屋がある大きな屋敷のことだ。
「ううん、そこじゃないよ。今日のパーティーが行われるのはコンペンションホールだよ。そこはパーティー専用の部屋なんだ」
 さすが雲龍家。
 この世にあるものは全て持っているのではないかと本気で思い始めた。
「さあ、ついたよ」
 目の前に見えるのは本当に雲龍家の敷地内にあるのかと思うくらい大きい建物だった。
 宮殿のような建物で、この建物に足を踏み入れていいのか心配になる。
 不意に手に温もりを感じた。
「えっ……?」
 その温もりの正体は茅都さんの手だった。
「エスコートします。お姫さま?」
 バチッと目が合った。
 顔にぶわっと熱が集まってくるのがわかった。
 ぎゅっと手を握られる。
 大きくて、温かい手のひら。
 ドキドキしてぎゅっと目をつむる。
(──反応がいちいち可愛すぎる……)
 茅都さんの心の声が聞こえる。
 その言葉が聞こえた途端、声にならない叫び声をあげてしまった。
 茅都さんは驚いていた。
「どうしたの?体調悪い?」
「ち、違うわ!な、なんでもないから……」
 茅都さんはぐっとわたしの顔を覗いた。
「うわ、顔真っ赤」
 茅都さんはふっと柔らかく笑った。
「……っ」
 茅都さんにまで顔が赤いのがバレてしまった。
 バレないように顔を背けていたのに。
 コンペンションホールの中に入る。
 中にはすでに人が大勢いた。
「まあ、茅都さまよ!」
「久しぶりに見たが大きくなっているなぁ」
 一気にわたしたちに視線が集まる。
 そして、一気に心の声が聞こえる。
(──あの娘は誰なのだろうか)
(──なんなのあの子。茅都さまの隣を歩いてるとか信じられない)
 心の声はいい方向に働くときと悪い方向に働くときがある。
 今は丁度悪い方向に働いているようだ。
 心の声が聞こえるからこそ、普通の人より音に敏感なのだ。
 少しの雑音でもうるさく感じてしまう。
「ぅ……」
 小さく唸り声をあげてしまい、口元を抑える。
 せっかくのパーティーなのに、茅都さんの邪魔をしてはいけない。
 そう思って平常を装っていたのだが、茅都さんにはバレバレのようで。
「妃翠、ちょっとあっち行こ」
 茅都さんに手を引かれ、テラスに来た。
「ほら、オレンジジュース持ってきたよ」
 茅都さんからグラスを受け取る。
「ありがとう……」
「……そんなことより、妃翠は平気なの?」
「ええ、平気よ。気になさらないで」
 なんて、可愛げのない言葉を言ってしまった。
「そう?無理はしないでね」
 茅都さんに言われ、わたしはこくこくと頷いた。
 わたしたちはみんながいる大広間へと戻った。
 茅都さんはあっという間にたくさんの人に囲まれた。
 さすがは次期当主というところだろうか。
「茅都さま、次の企画のことですが……」
「雲龍さま、こちらのお嬢さんはどちら様で?」
 ついに答えなくてはいけないのかと思いながらわたしは笑顔を張り付けた。
 引きつっていないかが心配なところだ。
「ああ。この子は僕の婚約者です」
 さらっと笑顔で言ってしまう茅都さんはやはりすごい。
 わたしだったら動揺しまくるのだろう。
「そうですか!いや~、おめでたいですね」
「……どちらのお嬢さまなんですか?」
 全員の目線がわたしに向いた。
 その目線の中には敵意なども含まれていた。
「あ、綾城です……」
 わたしは少し控えめに言ってしまった。
「綾城か……」
「綾城は有名な家だもの。結婚も納得ができますわ」
 わたしは嫌な空気にならなくてよかったと一息ついた。
 茅都さんはまだ挨拶があるようでわたしは飲み物を取りに行こうとしたとき。
「あら、妃翠ちゃんやないの?」
 知っている声が聞こえ、振り返る。
「結璃ちゃん……!」
 わたしが言うと、結璃ちゃんは手を振ってくれた。
「来てたんやな……って、当たり前か。妃翠ちゃんは茅都の婚約者やしな」
 結璃ちゃんはクスクスと笑った。
「……そういえば、茅都は?」
 キョロキョロとあたりを探す結璃ちゃん。
「茅都さんは挨拶をしているのよ。わたしは少し喉が渇いちゃって……」
「そうなんや。茅都も大変やなぁ」
 結璃ちゃんは笑った。
「結璃ちゃんは挨拶とか行かないの?」
「うちはもう行ったで。もう、大変やわぁ。社長となると大事な取り引き先の方とも話さなあかんし気疲れするわ~」
 結璃ちゃんは大きなため息をついた。
「──……きゃあ~!うららちゃんよー!」
「うららちゃん、可愛すぎるわ!」
 黄色い歓声が聞こえ、結璃ちゃんとわたしは声の方向を向く。
「あれって恋水(こいみず)うららやない?」
 わたしは首を傾げる。
 そんなわたしに気づいたのか結璃ちゃんは一から丁寧に説明してくれた。
「恋水うららはモデル兼アイドル。小さい頃からモデルとして活動していたんやけど、アイドルになって一段と人気になったんやで。『ファンを恋に落としてしまう小悪魔アイドル』って呼ばれているんやで」
 結璃ちゃんに説明されて、改めて恋水うららちゃんを見る。
 雪のように白い肌、透き通るような茶色の瞳と艶やかな髪。
 誰が見ても可愛いと呟いてしまうような容姿をしている。
(──あの子が綾城妃翠ちゃん……)
 恋水うららちゃんの心の声が聞こえて、ビクッと身体が反応する。
 なぜにわたしの名前を知っているのか。
 うららちゃんはわたしを見てはウインクをした。
 その姿は『ファンを恋に落としてしまう小悪魔アイドル』そのものだった。
 しばらくして茅都さんが戻ってきた。
「ごめん、妃翠。遅くなった」
 そう言われ、わたしは首を横に振った。
「いえ。結璃ちゃんもいたから平気よ」
 結璃ちゃんは少し前に有名レストランの社長に声を掛けられてどこかへ行ってしまった。
 そう言うと茅都さんは安心したような表情に変わった。
「よかった。変な人に声掛けられてない?」
「だ、大丈夫よ……」
 質問攻めをする茅都さんの勢いに負けてしまいそうだ。
 茅都さんと少し喋り、茅都さんはわたしに聞いた。
「そうだ、妃翠。ちょっと外行ってみる?」
 わたしは頷いた。
 外に行くと、自然を近くで感じられた。
 心の声を聞きすぎたので、丁度いいくらいだ。
「妃翠はどうだった?パーティーは」
「緊張したけれど、楽しかったわ」
 わたしが答えると茅都さんは優しく笑った。
(──早く僕を……)
 途中までは聞こえたが、今日は心の声をたくさん聞いたせいか耳鳴りがひどくて最後まで聞き取れなかった。
 また大広間に戻った。
「──綾城妃翠ちゃん、だよね?」
 可愛らしい声が聞こえた。
「……はい?」
 後ろを振り返ると天使のように可愛い小柄の少女が立っていた。
「初めまして、恋水うららって言いますっ」
 先ほど結璃ちゃんが教えてくれた恋水うららちゃんがわたしの目の前に立っていたのだ。
「は、初めまして……!綾城妃翠です!」
 緊張しながら言うと、うららちゃんはふふっと笑った。
「そんなに緊張しないでよ~!うらら、妃翠ちゃんと仲良くなりたくて!」
 純粋な瞳に心を打たれる。
 わたしは大きく頷いた。
「も、もちろんよ……!うららちゃんとお友達になれるなんて嬉しいわ」
 わたしが笑うとうららちゃんは愛嬌のある可愛い笑顔を見せた。
「やったぁ!うらら、とーっても嬉しいなっ」
 うららちゃんとはもっと話したいと思ったが、うららちゃんはすぐに人に囲まれてしまい、別次元の人なんだと思った。
 パーティーが終わり、茅都さんは少し本家に用事があると言った。
「……妃翠も一緒に来る?」
 茅都さんにそう言われたけれど、わたしは雲龍家の近くの川や滝を見たいと思ったので断った。
 茅都さんがいなくなってから、少し敷地から外れた場所を歩く。
 やっぱりわたしは騒がしいところよりも静かなところが好きなんだと実感する。
 耳を澄ませば鳥のさえずり、川の水が心地よく流れる音が聞こえる。
 心の声を聞いたあとは自然の音を聞くとすごく癒される。
 今日のことを振り返るとたった一日のことなのに、数日間パーティーをしていたかのような濃い内容だった。
 大勢の人がいる中での挨拶、世の中ではたくさんの人たちが生きていること。
 綾城家にいたころは外に遊びに行くことを許されていなかったので、友達とショッピングをしたりするなどずっと夢見ていたことだった。
 それが今では自由にできる。
 自由というものの素晴らしさを知ることができた。
 それも全て茅都さんが教えてくれたことでもある。
 今日、もっと茅都さんを好きになった。
 もう少し歩こうと進んだとき、知らない世界に来たかのような美しい光景を目の当たりにした。
 キラキラと輝く川。
 音も澄んでいて、心地よい。
 もっと、見てみたいと近づこうとしたときに人の気配を感じた。
「妃翠、遅くなってごめん。なにか見てたの?」
 茅都さんの声が聞こえ、現実に引き戻される。
「……いえ。なんでもないわ。茅都さんは用事は済んだのかしら?」
 わたしが聞くと茅都さんは頷いた。
「もう終わったし、帰ろっか」
 茅都さんに手を引かれ、車に乗り込み。
 また車で移動すること数十分。
 安心できる家に帰って来た。
 ドレスは和夏さんに脱ぎ方やたたみ方を教えてもらい自分でしまうことができた。
 お風呂から出ると、すでにパジャマ姿の茅都さんがソファーでくつろいでいた。
「茅都さんはお風呂に入ったの?」
「うん、もう一個の風呂使った」
 茅都さんはそう答えた。
 わたしたちが住む家にはお風呂が二個ついている。
 どちらも脱衣所から広くて、お風呂は大理石でできていて、高級感溢れるお風呂なのだ。
 わたしたちはリビングでテレビを見る。
「ふわぁ~」
 わたしがあくびをすると茅都さんはくすっと笑った。
(──可愛い……)
 そんな言葉が聞こえ、あくびどころではなくなった。
「わ、わたしはそろそろ寝るわね……おやすみ」
 わたしは寝室に行き、深い眠りについた。   
 パーティーがあってから数日。
 わたしは気になっていたことがあった。
 それは、雲龍家の敷地の近くにあった綺麗な川。
 昔、どこかで似たような川を見たことがある気がする。
 けれど、その川の名称、なぜその川を知っているのかを忘れてしまった。
 ただ、綺麗だったことしか覚えていない。
 夢の中に迷い込んでしまったかのような不思議な感覚に陥ってしまったようだった。
 大学が終わり、雲龍家の周りを散歩することにした。
「……妃翠ちゃん?どこか行くん?」
 結璃ちゃんに呼び止められた。
 結璃ちゃんとは帰り道が同じ方面なのでいつも途中まで一緒に帰っている。
「ええ、ちょっと散歩に行こうかと思ったのよ」
 わたしが答えると結璃ちゃんは意地悪く笑った。
「茅都に連絡せんと監禁されるで?」
 そう言われるが、わたしは一人で行きたいと思ったので。
 きっと結璃ちゃんが言った言葉は半分冗談で半分本気なのだろう。
「別に平気よ。子供じゃないんだから、一人で行けるわ……それに少し散歩するくらいなら連絡しなくても平気だと思うわよ?」
 わたしは結璃ちゃんに背を向け、雲龍家の方へと向かった。
 雲龍家は龍神の家系というのもあってなのか、家の近くにたくさんの川や滝がある。
 龍神というのは水を司る神だと大学で習った。
「すごい……」
 いつの間にか、あたりを見まわすと川に囲まれた地についていた。
 雑音など一切聞こえず、聞こえるのは緑の葉が揺れる音、小動物たちが動く音、川のせせらぎだけ。
 雲龍家からも少しだけ離れているので人の足音や生活音はなにひとつ聞こえない。
 急にわたし一人だけの世界になったかのようだ。
 わたしは無我夢中で歩き続けた。
 気づけばあたりが暗くなっていた。
 スマホの時計アプリを開けばまだ昼過ぎくらいだ。
 どんどん黒い雲がわたしに近づいて来る。
『くくく……まさかうぬの方からここに来るとはのぉ』
 不気味な笑い声とともに、黒いもやのようなものがわたしに襲いかかる。
「えっ……?い、いやっ」
 わたしが思わず目をつむると、また黒いもやから声が聞こえた。
『うぬは川を探しに来たのであろう?』
 わたしは驚いた。
「なんで、あなたが知っているの?……あなたは誰?」
 わたしが聞くと、ザザッと風が強く吹いた。
『わしは涙菊(るいぎく)。わしは人の負の感情からできたのだ……千年ほど前からかのう、不運な事故で死んでしまった者や孤独な状態で死んだ者の気持ちが……わしに入っておるのだ。うぬのように一命を取り留めたけれど、負の感情が残った者の記憶もあるのだが……』
 涙菊は続けて言った。
『ほれ、うぬの探す川は──ここであろう?』
 涙菊がわたしから少し離れるとそこには川があった。
 今まで見てきた川よりも流れが荒いが、水は透き通っていて綺麗だった。
「……!この間見つけた川!」
 その川はなぜか親近感があった。
 この間見たからだろうか。
 いいや、もっと昔から知っているような気がした。
『──……まだ思い出せぬか。なら、これで思い出せるかのう』
 涙菊はまたわたしの近くに来た。
 スッとなにかがわたしの身体に入ってくるような気がした。
『──……いやっ!』
『うるさい!』
 そんな声とともに現れたのは──幼い頃のわたしと継母さまの一族、露雪(つゆき)家のあやかしが何人かだった。
『お前は綾城の人間じゃないんだよ』
『いらない子は川に落としてやろう』
 嘲笑う声がどんどん遠のいていく。
 幼いわたしは川に落とされた。
「──思い、出した……」
ㅤ私はこの川をなぜ知っているのかを思い出した。
 幼い頃のわたしの身体は水の中に落ちた。
『ごぼっ……たす、けて……』
 水の音でかき消されそうな小さなわたしの声。
 もう見てられないと目をつむったとき。
 あたりが急に明るくなった。
 ズバンと大きな音と水しぶきが聞こえ、また目を開ける。
 そこには大きな龍がいた。
『これはうぬが助けられたときの記憶じゃ。わしの記憶の中に残っているとはな。今、わしはわし自身に乗り移ったうぬの負の感情をうぬの身体に流しておるのじゃ』
 涙菊はふんっと鼻で笑った。
「この龍……どこかで見たことあるわ」
 わたしは涙菊に向かって言った。
『わしは知らぬ。……このあとの記憶には登場するのかも知らぬわ、うぬ自身で見よ』
 涙菊はそのまま龍のほうを見た。 
 龍はわたしを救い出したと同時に小さくなっていった。
 龍は橋に降りると、わたしをそっと寝かせた。
 龍はいつの間にか人間の姿になっていた。
「え?これって……茅都、さん?」
 誰かに似ていると思っていたが、それは当たっていた。
『……あなた、龍じゃなかったの……?ごほっ』
 わたしは咳き込みながら幼い頃の茅都さんに聞く。
『龍だよ。僕は龍神の家系なんだ』
『そう……助けてくれてありがとう……でも、こんな記憶消してしまいたいわ……』
 わたしはポロポロと涙を流しながら茅都さんに必死に訴える。
『……うん。忘れちゃいなよ、こんな記憶。……僕に助けられたことも全部忘れて』
 茅都さんはわたしの目に小さな手を当てた。
『……?なにをしているの?』
 わたしが聞くと、茅都さんは落ち着いた口調で話した。
『記憶を消す能力を使おうと思う。キミが本当に記憶を消していいのなら』
 わたしはこくこくと頷いた。
『もちろんよ……早く消して……もう、こんな人生嫌よ』 
 まだ数年しか生きていない人生なのに、こんなことを言う自分に対して胸が痛くなる。
『……うん。じゃあ、記憶消すね……』
 茅都さんは目をつむり、何かを唱え始めた。
 そこでまた黒いもやがわたしに襲いかかる。
『……思い出したかの。思い出したならそれでいいのじゃ、わしはこれで去る』
 涙菊はスッと高いところへ行こうとした。
「ま、待って!ありがとう、涙菊。わたしの記憶持っててくれて」
 わたしがそう言うと涙菊はふんっと鼻で笑った。
『なにを言っておるのじゃ。馬鹿馬鹿しい、わしはうぬの負の感情の一部じゃ。……この感情はうぬ自身のものであるぞ?それを忘れてはならぬ』
 涙菊は少し間をおいて。
『人間共は数千年もの前から忘れておるのじゃ。悲しい、辛い、苦しい、その感情から逃げるために自らの命を形代にしてしまう者が現れる。ちょいと頭をひねれば解決するものも、考えるのを放棄して命を絶ってしまう。まだまだこれからの人生も楽しめんのじゃ』
 わたしは涙菊の言葉にハッとした。
ㅤわたしも、何度も人生を諦めようとした。
『うぬはどれだけ辛い思いをしても、正の感情を捨てなかったのだな。うぬのように大切なことを思い出すことでわしの存在は小さくなっていく』
 わたしはその言葉を上手く理解できなかった。
「どういうこと?」
『理解のない小娘じゃのぉ。さっきも言ったろう。わしは千年前から存在し続けている負の感情(・・・・)。その負が正に変わればわしは小さくなるのじゃ』
 わたしは涙菊の言葉に首を横に振った。
「嫌よ……涙菊はずっといてほしいわ。だって、あなたのおかげでわたしは昔のことを思い出すことができたのよ?」
『……客観的に見たらわしはいなくてもいい存在なのじゃ。今回はうぬにとって良い方向にわしが役立ったのだが、逆の方向に働くこともあるのじゃ。そんな人間、何度見てきたことか』
 涙菊はわたしの方に飛んできた。
『人間もあやかしも対等な関係なのにのぉ。あやかしが偉く、人間が偉くないなどおかしいとは思わんのか。……うぬにはこの意味がわかるかのぉ?』
 わたしはなにも答えられなかった。
『人間も感覚がおかしくなったかのぉ。うぬには間違えてほしくないのぉ。この言葉は忘れてはならぬぞ……さらばだ』
 涙菊は今度こそいなくなった。
 涙菊は人の負の感情からできているからこそなのか、色々なことをわたしに教えてくれた。
 まずは茅都さんに昔のことを思い出したことを報告しよう。



 家に帰り、一番に茅都さんのところへ向かう。
「おかえり、どこ行ってたの?」
 茅都さんの声が聞こえ、ドキッと心臓が鳴る。
 早く、茅都さんに伝えたい。
「えっと、雲龍家の近くの川よ!あの、茅都さん……!」
 わたしは茅都さんに近づいた。
「茅都さん、昔、わたしのことを助けてくれてありがとう……!」
 わたしは嬉しさのあまり、茅都さんに抱きついてしまった。
「え、ちょ、妃翠……⁉」
 茅都さんはわたしの行動に目を大きく見開いていた。
「だって、嬉しすぎるんだもの。昔、会っていたなんて……しかも、再会できるなんて奇跡だと思うわ」
 わたしが涙目になって茅都さんの顔を見ると、茅都さんは未だに状況が理解できていないよう。
「……なんで、妃翠がそのことを覚えてるの?だって、あのとき僕は……」
「あのとき、茅都さんに記憶を消してもらったわ。だけど、とある方と会って、記憶を取り戻したの」
 涙菊のことを人と言っていいものかよくわからないが、ひとまず茅都さんに説明するためにそう言ったのだ。
「やっと……やっと僕のことを思い出してくれた……」
 茅都さんの声は震えていた。
 彼は今、どんな気持ちなんだろうか。
 彼の気持ちがごちゃごちゃしていて、うまく聞き取れない。
「茅都さん……」
 わたしが呟くと、茅都さんはわたしを抱きしめる力を強くした。
 わたしの心臓の音は茅都さんに伝わってしまうほど、大きくなっていた。
 わたしは気になっていたことが一つあった。
「そういえば、なんで茅都さんはあの川にいたの?雲龍家の近くとはいえど、少しは歩いていかなくちゃいけない場所なのよ?」
 わたしは昔、なぜ茅都さんがいたのかが気になっていた。
 ただの偶然なのか、それとも必然か。
「……あの川の名前って知ってる?」
 突然そう問われ、わたしは首を横に振る。
「あの川の名前は──……翡翠川(ひすいがわ)
 わたしは驚きを隠せない。
「わ、わたしと同じ名前なのね……」
「うん、漢字は少し違うけど、読み方は同じ。……ねぇ、これは偶然なんかじゃないと思うんだよね。僕たちは必然的に会う未来だったのかな」
 わたしの額に茅都さんの額がこつんと当たる。
「偶然なんかじゃないわね。わたしたち、運命の赤い糸で繋がっていたのかしら……」
「あの川は、僕が守ってる川なんだ。あの川に異常があったらすぐに気づけるんだ。龍神の力すごいでしょ?」
 笑って答える茅都さん。
 わたしも笑い返した。
「ええ。すごいわね、あなたのその力でわたしは助けられたのね……」
 わたしたちはそのあとも思い出に浸っていた。
「そうだ、妃翠が記憶を取り戻すのに協力してくれたのって誰?」
 茅都さんに聞かれ、なんと答えるのがいいのか迷っていた。
「人っていうか……涙菊っていうものなんだけれど……」
 わたしが涙菊の名前を出すと茅都さんは驚いた顔をしていた。
「涙菊……」
「知っているの?」
「うん、まあ……昔、妃翠を助けた日に会ったんだよ。あの黒いもやみたいな奴でしょ?千年前から存在してるっていう」
 茅都さんは涙菊についてよく知っていた。
「涙菊は僕が妃翠を助けたところも全部見てたんだね」
 茅都さんはわたしの方を見て微笑んだ。
「でも、本当によかった。ずっと、妃翠は僕のことを知らないまま生きていくのかなって思ってた。一緒にいても、言えないことだってあるじゃん?」
 わたしはその言葉に息を呑んだ。
 わたしはまだ、茅都さんに能力のことを言えていない。
 いつかは言わないとなんていつから思っているだろうか。
「そうね……」
 わたしの秘密の一つはもう茅都さんにバレてしまっている気がする。
「茅都さんはあのとき、わたしを川に落とした人たちのことを知っているの……?」
 わたしが聞くと、茅都さんは静かに頷いた。
「うん。……露雪家のあやかしだよね。……妃翠の義理のお母さんの実家の」
 茅都さんはすでに知っていそうなので、綾城家のことを打ち明けることにした。
「ええ。わたしは継母さまとは血が繋がっていないの。お父さまが再婚した相手が露雪家の令嬢である継母さまだったのよ」
 わたしは一息ついて、話を続ける。
「……お父さまが再婚されてからは家が色々変わっていったのよ。継母さまはわたしのことを良く思っていなかったみたいで相手にされなかった」
 誰かにこうやって胸の内を話すのは初めてだったので、緊張する。
「継母さまの実家のあやかしもわたしのことを良い風には思っていないようで……いらない子は川に落としてやるって翡翠川に行ったのよ」
 わたしは全てを話した。
「ごめん。今まで辛かったのに助けに来るのが遅くなった……」
 茅都さんはわたしに謝りながらまたわたしを抱きしめる。
「茅都さんが謝る必要なんてないわ。助けに来てくれて嬉しいわよ?」
 わたしはくすっと笑った。
「だからなのか?パーティーとか慣れてそうなのに、初々しい反応してさ」
 茅都さんにはわたしがどれだけ嘘を重ねても全てお見通しのようだ。
「え、ええ……ああいう大きな行事とか参加したことなくて」
 わたしは眉をへの字に曲げて苦笑した。



 ある日、大学に行くと珍しく茅都さんを見かけた。
 同じ大学に通っている茅都さんだが、あまり会うことがない。
 茅都さんに話しかけに行こうとしたが、すでに先客がいたようだ。
「──……雲龍さま、うららと今度ご飯にでも行きませんっ?」
 可愛らしく上目遣いもして、小悪魔アイドルオーラを漂わせているうららちゃん。
 それに困っている茅都さんを発見した。
 周りの人も何人か見ていたようで。
(──なんなのあのぶりっ子女)
(──なにが小悪魔アイドルよ。ただの男目的の最低な女じゃない)
 『人気』の二文字とは裏腹に周りの声は辛辣なものだった。
 人気な人ほど批判も大きくなるとはこのことなのかとわたしは思った。
 わたしは思ったことがある。ぶりっ子のなにが悪いのか。
 誰かの大切な人を奪うは少しやりすぎだとは思うが、ただ可愛いと言われたいだけならいいじゃないかとわたしは持論を持っている。
 これはあくまで個人的な感想なので、色々な意見があって当たり前だと思う。
 うららちゃんは人気な分、きっと批判的な人たちとも戦っているのだろう。
 そう考えると、可愛いだけじゃないと思わされる。
 茅都さんとうららちゃんは話が終わったのかうららちゃんは一人で廊下を歩いていた。
 わたしのことを見つけたのかわたしの方向に一直線に走って来る。
「妃翠ちゃーん!」
 にこにこと可愛らしい笑顔を向けて、こっちへ向かってくるうららちゃんに悶絶中のわたし。
「う、うららちゃん」
 わたしがうららちゃんの名前を呼ぶと、うららちゃんはわたし上目遣いで聞いた。
「うららのこと覚えててくれてたっ?」
「も、もちろんよ……!わたし、うららちゃんのこと大好きだから!」
 わたしは誰がなんと言おうとわたしはうららちゃんが好きだ。
 それは、アイドルをしているうららちゃんもそうだけれど、一人の生き物としての恋水うららとしても誰になんと言われても可愛くあり続けるうららちゃんをかっこいいと思ったからだ。
「本当……⁉うららのこと推し?」 
 おし……とはなんだろうか。
 わたしは首を傾げる。
「えー……お嬢さまって以外と無知なの?」
 うららちゃんはぷくっと頬を膨らませた。
「おしって……なんだかわからなくて」
「推しっていうのは、アイドルとか俳優さんとか誰かにおすすめしたいほど好きな人たちのことだよ!」
 現代というのは難しい、なんてわたしはいつの時代の人間なのか。
「そうなのね……ありがとう、わかったわ。わたしの推しはうららちゃんね」
 わたしが言うとうららちゃんは嬉しそうにはにかんだ。
 それからのこと、うららちゃんと質問大会を開いた。
「じゃあ、次はうららからの質問ね!妃翠ちゃんと雲龍さまはどこで出会ったの?馴れ初めは?」
「ま、まだ付き合ってもないわよ。ただ、同棲するきっかけは縁談なの」
 うららちゃんはわたしの話を聞いて楽しんでいるようだ。
「次はわたしの質問。さっき、なぜ茅都さんと話していたの?」
 うららちゃんのことを疑っているとかではなく、単純になぜ茅都さんと話していたのかが気になったのだ。
 それと、ほんの少しの嫉妬があった。
 わたしが聞くとうららちゃんの顔がどんどん曇っていった。
「……これは、アイドルとしての恋水うららじゃなくて、完全に裏の恋水うららの話になっちゃうけどいいかな……?」
 うららちゃんは不安そうにわたしの瞳を見た。
「ええ。もちろんよ」
 わたしが言うと、うららちゃんは一呼吸置いて話始めた。
「うららね、あんまり友達って呼べる人がいなくて。小さい頃から芸能活動してるから学校も毎日行ける感じじゃなかったの。あとは……うららがぶりっ子って言われてて、友達になれたって思ってた子にも悪口言われてそれから誰かと関わるのも怖くなちゃったの」
 うららちゃんはすごく切なそうな表情をしていた。
「ぶりっ子って言われるのもわかってる。だけど、可愛いって言われたいって思うのっておかしいのかな?……きっと、うららがやり過ぎな部分もあるんだと思う。それは気を付けていかなくちゃって思ってるけど……なにをしててもぶりっ子って言われるは少し辛い」
 このとき、いつもキラキラしているうららちゃんがすごく辛い思いをしていることを思い知らされた。
「でも、パーティーにお呼ばれして行ったら妃翠ちゃんがいて、お友達になれないかなって思ったの。いろんな人が綾城のお嬢さまだって言ってて……うらら、お姫さまとかずっと憧れてて。そう思ってたら妃翠ちゃんが雲龍さまの婚約者だって聞いて、雲龍さまと仲良くなれば妃翠ちゃんともっと仲良しになれるかもって……」
 わたしは納得した。
 うららちゃんはものすごく怖がりで、だけど、それ以上に強い少女だった。
「こんなうららでも……仲良くしてくれたら嬉しいなっ」
 最後にうららちゃんは満面の笑みをこちらに向けてきた。
「ええ。こちらこそ」
「ふふっ。……うららはそろそろお仕事の時間だから行くね!バイバイ、妃翠ちゃん」
 うららちゃんは大きく手を振った。
 そして、わたしも振り返した。


 
 うららちゃんの話を聞いてから数日、わたしたちの距離はぐっと縮まった。
 カフェテリアで話していると数人の女子から声を掛けられた。
「……ねぇ、綾城さん。その子と関わるのやめたほうがいいよ?」
 リーダーっぽい女子が前に出てきた。
 いかにも強そうな金髪の髪をなびかせていた。
「えっと……」
「…………」
 わたしが状況を理解できずあたふたしている隣でうららちゃんは黙り込んでいた。
「綾城さんって、雲龍さまの婚約者なんでしょう?」
「この子と一緒にいたら雲龍さまが奪われてしまうわよ?ねぇ?」
 リーダーっぽい子は周りにいる仲間たちに頷くように仕向ける。
(──恋水うららといてもなにも得にならないのに)
 わたしはその心の声に腹が立った。
 誰かと一緒にいるのは得があるからだろうか。
 ただ、その子と仲良くなりたいだけではいけないのだろうか。
「……うららちゃんは茅都さんを奪うような子ではないと思います」
 わたしがそう言うと数人の女子たちはクスクスと笑いだした。
(──本当に可哀想な子)
「恋水うららは何人ものあやかしの男を狙ったって有名なのに」
「いつか雲龍さまを奪われてもなにも言えないわよ?だから、今のうちに関わるのはやめたほうがいいのよ」 
 女子たちはこくこくと頷いた。
 うららちゃんは俯いていた。
 顔は少ししか見えなかったが、すごく悲しそうな顔をしていた。
「……あなたたちになにを言われてもうららちゃんと関わることはやめません。友好関係を第三者に指摘される筋合いはありませんので」
 わたしはうららちゃんの手を取って、カフェテリアから出た。
 人があまりいないようなところについた。
「……妃翠ちゃん、ごめんね」
 うららちゃんの声は震えていた。
「なんでうららちゃんが謝るの……?」
 わたしが聞くと、うららちゃんは顔を上げた。
「だって……うららのせいで妃翠ちゃんに迷惑がかかったのに」
 うららちゃんの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「うららは雲龍さまを奪う気は全くないよ……!これは本当、神に誓うよ……」
 うららちゃんはポロポロと流れる涙を拭きながらわたしの瞳を見た。
「大丈夫よ。うららちゃんはそんな子じゃないってわかっているわ」
 わたしはうららちゃんを抱きしめる。
「……っ。ありがとう、妃翠ちゃん」   
 涙を流すうららちゃんを見て、きっとこの子は裏でたくさん傷ついている子なのだろうと思った。
 うららちゃんはしばらくして涙が止まったようだ。
「ごめんね、それとありがとう……うららは仕事があるから行くね」
 うららちゃんは赤くなった目を少し抑えながら立ち去った。



 家に帰って、ベッドに横になる。
 今日、うららちゃんと茅都さんが話しているのを見て羨ましいと思ったと同時にわたしも話したいと欲望がわたしの心の中を覆った。
 こんなことを思っているだなんて、茅都さんには知られたくない。
 誰かに思いを伝えられないなんて考えただけでも胸がズキズキと痛む。
「ただいまー」
 茅都さんの声が聞こえる。
 大学から帰って来たようだ。
「おかえりなさい……」
 わたしが玄関まで行くと、茅都さんはわたしの顔を覗いた。
「どうしたの?暗い顔して」
「えっ……?」
 わたしはどんな顔をしていたのだろう。
「暗い顔なんてしてないわよ?」
 茅都さんはいぶかしげな顔をした。
「なに、僕に隠し事?」
 隠し事と言ったらそうなのかもしれない。
 けれど、好きということもほんの少しだけ嫉妬したこともまだ言うつもりはない。
 わたしだって、正解がわからないから。
 この世界には答えというものが存在しない。
 この計算式の答えはこれだと決まっているものもあるが、わたしが言いたいのはそういう答えではない。
 人生の答えだ。
 そんなものなくて当たり前だと誰もが思うだろう。
 けれど、迷ったときは答えがあればいいのにと思ってしまうものなのだ。
「違うわよ……」
 わたしは茅都さんから目を背ける。
「そう?なんかあったら言ってね」
 そう言って茅都さんはわたしの頭にぽんと手を置いた。
「え、ええ……ありがとう」
 わたしは俯いたまま返事をした。
 その日は早くに寝つけたが、夜が更けたころに目が覚めてしまった。
 せっかくだから外の景色を見ようと思い、窓を開ける。
 ふわっと夜風がわたしを覆った。
「お母さま……」
 お母さまが亡くなった日の夜も、満月が綺麗な夜だった。
 不意にお母さまを懐かしく思い、目頭にじわっと熱いなにかが集まる。
「ねぇ、お母さま。わたしはいつになったら素直になれるのかしら……いつになったら家のことを忘れられるのかしら……それとも家のことは忘れてはいけないの……?」
 返事など返ってこないお母さまに問う。
 今度は強めの風が吹く。
「言葉では返してくださらないのね、お母さまは」
 わたしはくすっと笑った。
 言葉では返してくれなくてもお母さまはわたしを見守ってくれるだろう。
 わたしはなんの根拠もなくそう思った。
「わたし、頑張ります。見ていてくださいね、お母さま」
 わたしは窓を閉め、また眠りについた。



 朝起きると良い匂いがした。
 今日は日曜で、茅都さんも丸一日なにもないようだ。
 匂いの正体を探りにリビングへと向かう。
 まだ寝ぼけているのか目がぼやっとするので目をこする。
「あ、おはよう。たまごサンドつくったよ」
 茅都さんは意外と料理が得意なのだ。
 この前もわたしが昼寝をしてしまって夕食をつくっていないときがあった。
 そのときはすぐに冷蔵庫にあるものを見て色々なものをつくってくれた。
 茅都さんが料理上手ということにギャップがあると思ってしまったわたし。
「おはよう……ありがとう、いただくわ」
 わたしが答えるとニコっと笑う茅都さん。
 この笑顔の破壊力は芸能人にも負けないくらいのものだと思う。
「おいしいわ……!」
「よかった。……ねぇ、今日デート行かない?」
 わたしはその言葉に身体をビクッとさせる。
「い、いいけれど……どこへ行くの?」
 茅都さんは少し考えて。
「じゃあ、水族館でも行く?」
 わたしは水族館に行ったことがなかったので目を輝かせた。
「ええ!もちろんよ……行きたいわ!」
 わたしたちは急遽、水族館に行くことにした。
 朝食を食べ終わり、身支度を整える。
 少しだけおしゃれしてみようかと思う。
 鏡を見て、色々な服を自分の身体に当ててみる。
「決めた……!」
 わたしは夏にぴったりな白いノースリーブのワンピース。
 レースがついているのがポイントだ。
「……茅都さん。準備できたわよ」
 わたしが部屋から出て、茅都さんのところへ向かう。
「……もう他の奴に妃翠のこと見せたくない」
 大きなため息をついた茅都さん。
「だ、誰もわたしのことなんて見ていないわよ……?」
 特別美人でもないわたしはモデルでもなんでもないので誰かに注目されることはないだろう。
 茅都さんは色々と大げさなのだ。
「こんな可愛い子誰が狙わないっていうの?」
 色々と面倒だったがなんとか水族館までついた。
「わぁ……!」
 わたしは目の前に広がる大きな建物に心惹かれる。
 わたしが圧倒されていると茅都さんはわたしの手を握った。
「はぐれちゃダメだからね」
 茅都さんはわたしの手をぎゅっと握りしめ、歩き始めた。
 初めて見るような魚がたくさんいてとても楽しかった。
「お土産でも見る?」
 お土産ショップが近くにあり、茅都さんに問われる。
「……ええ。せっかくだからなにか欲しいわ。いいかしら?」
 わたしが首を傾げると茅都さんは大きく首を縦に振った。
「当たり前じゃん。お揃いのものでも買う?」
「そうね」
 わたしたちはしばらくお土産ショップにいた。
 わたしたちが購入したのはイルカのキーホルダーだった。
「お揃いだね」
 茅都さんはニコッと笑った。
「ええ。……今日は連れて来てくれてありがとう」
 好きな人とのデートはこんなにも楽しいのか。
 好きな人といるとこんなにも心が満たされるのか。
「あ、ごめん。買いたいものがあったの忘れてた。ちょっと待ってて」
 茅都さんはまたお土産ショップに戻ってしまった。
「ええ」
 わたしはお土産ショップの近くをウロウロしていた。
「…………」
 後ろに誰かの気配があるが心の声が聞こえない。
 なんでだろうか。
 わたしは心の声が聞こえないことに不安を覚えていた。 
 恐怖心があり、後ろを向けない。
「……っ!」
 ぐっと腕を掴まれた。
 人がいないようなところに連れてこられたので誰も気づくことがなかった。
 階段から降りて、すぐに大きな車に入れられた。
「ちょっと、なにをするのよ……!早く帰して」
 わたしが言うと先ほどまでわたしの腕を掴んでいた男性がわたしの方を見た。
「うるせぇ!黙ってろ」
 そう言われ、目に布が当てられた。
 目隠しをされたのだ。
 わたしはどうにか車から出ようと手足を必死に動かす。
「やめて!離して!」
 男性の手がわたしの手足に触れる。
 なにかで手足を縛られてしまった。
 これでは動けそうにない。
 茅都さんに連絡をしなくてはいけないと思ったがスマホがどこにあるかもわからない。 
「……ああ。スマホならこっちにあるぜ?まあ、誰も助けてくれねぇんだろうけどさ」
 男性は鼻で笑った。
 その瞬間、車が動いた。
 わたしはどこへ連れて行かれるのだろうか。
 もう、茅都さんに会えなくなるのだろうか。
 まだ好きということも伝えられていない。
 どれくらいの時間が経ったのだろうか。
 そう思ったときに車が止まった。
 どこへ着いたのだろうか。
「……ご苦労。またお前がここに来るとはな」
 この冷たい声は聞き覚えがとてもある。
 わたしの目隠しが外された。
「……お父、さま……?」
 目の前にいたのはお父さまだった。
ㅤということは、ここは綾城家だ。
「なぜ……」
 わたしはそれだけを口にした。
「なぜってわかるだろう?雲龍さまに不必要に近づいているだろう……それとお前は昔のことを思い出したようだな」
 なぜお父さまがそのことを知っているのか。
 わたしはお父さまに問うた。
「お前は覚えておらぬのか。冬香(ふゆか)の能力を」
 冬香というのは継母さまの名前だ。
「継母さまの能力は……遠くの情報を得ることができる……」
 わたしが言うとお父さまは頷いた。
「ああ。お前が翡翠川に行ったことを冬香が知ったのだ。……これ以上お前を雲龍さまのところにいさせるわけにもいかない」
 お父さまはなにを言っているのだろう。
 わたし、茅都さんと会えなくなってしまうのか。
「な、なぜですか……わたしは、茅都さんと……」
 わたしは茅都さんと一緒にいたい。
 そう言いかけたとき。
「あんたのせいで……!」
 バシンッと大きな音が家中に響いた。
「…………」
 打たれたと理解するまでにそう時間はかからなかった。
 目の前には顔を真っ赤にさせている継母さまがいた。
(──こんなやつ、いなきゃよかったのに)
 継母さまの心の声が聞こえる。
 わたしはやっぱりいらない子だった。
 昔、継母さまの実家である露雪家のあやかしにもいらない子と言われたのだ。
「あんたのせいで露雪(うち)がどれだけ辛い思いをしたかわかっているの⁉」
 継母さまはまたわたしの頬を打った。
「あんたが昔、翡翠川に落ちたせいで露雪家が重い罰を受けたのよ⁉」
 なんて理不尽な世界なのだろう。
 わたしを落としたのは露雪のあやかしだというのに。
 わたしはこのときハッとした。
「雲龍家は権力がある家系なの。そんな家系に目をつけられたのはあんたのせいよ!この縁談なんて回って来なきゃよかったのに!そしたら、あんたは記憶を取り戻すこともなかったっ!」
 雲龍家が冷酷な一族と言われているのはもしやこのことなのではないのか。
 わたしは露雪家がどのような罰を受けたのか知らない。
 けれど、知らなくてもいいかもしれない。
「あんたはここにいればいいのよ」
 強い力で腕を掴まれた。
「え……っ?いや、出して!」
 わたしはほこりだらけの物置小屋に入れられた。
 ガチャッと音がしたかと思えば扉を開けられなくなっていた。
「ど、どうしましょう……か、茅都さん……っ」
 わたしの瞳には涙が溜まっていた。
「誰か、誰か助けてよ……」
 茅都さんに連絡したいのにスマホも取られてしまった。
 この物置小屋は日差しが入りにくいので今が何時なのかもわからない。
 ほこりが舞う部屋で、じっと座って時間が過ぎるのを待つ。
 連れてこられて何日が過ぎたのだろう。
 きっと、二日は経っているだろう。
 眠りから目を覚ますと外が騒がしかった。
「……お嬢さま!」
「お嬢さま、お待ちください!」
「……なにをなさっているのです、お嬢さま」
 慌てたような使用人の声。
 冷静な声はばあやのものだった。
 この家でお嬢さまと呼ばれているのはたった一人。
 ガチャガチャと鍵が開けられるような音がした。
 茅都さんが来てくれたのかもしれないなんて淡い希望を抱くがそれは叶わなかった。
「え……?の、乃々羽お姉さま……」
 わたしは顔が強張る。
 お姉さまとなんてあまり話したことがないのに。
 お姉さまが物置小屋に入って来たかと思えばわたしの手を掴んだ。
「早く来て……!」
 お姉さまはなぜか楽しそうに言った。
 お姉さまに連れられるがまま、家の中を全力で走った。
「お嬢さま!なにをなさっているのですか⁉」
「誰かお嬢さまを捕まえて!」
 乃々羽お姉さまは玄関の扉を勢いよく開けた。
「ちょっと来て……!早くしないとばあやたちが来ちゃう」
 そう言った途端に玄関から数人の使用人とばあやが出てきた。
「来ちゃった……!こっちよ」
 お姉さまはまたわたしの手を掴み走りだした。
「お嬢さま、なにをしているのです。早く戻って来なさい。旦那さまや奥さまに怒られますよ」
ㅤばあやの怒りが混じった声が聞こえるが、乃々羽お姉さまはそれを無視した。
 白い車を出してお姉さまは運転席に乗った。
「乗って。……なにもしないから、私は妃翠と話がしたいの。ばあやのことは気にしないでいいから」
 お姉さまはの瞳は真剣そのものだった。
 少しだけ信じてみようと思った。
 わたしは車に乗り込んだ。
 車が動き出した。
 少し後ろを振り返って見てみると使用人たちが慌てたように走っている。
 けれど、車の速さに敵うわけもなく。
「……ふふっ。あははっ」
 お姉さまは突然おかしそうに笑った。
 けれど、不気味さはなかった。
「……なぜ笑うのですか?」
「ああ。妃翠に向けての笑いじゃないわよ?いつも……ばあやには名家の娘らしくいなさいって言われるの」
 お姉さまは呆れたようにため息をつく。
「名家の娘ってどんなのなのかな……難しいな。わたしはわからないままばあやに色々と言われるの」
 お姉さまはわたしを見て言った。
「いつもチクチク言ってくるばあやが焦ってるの見たらなんだかおもしろくなっちゃった。……本当に性格悪いわね、私」
 なんて意地悪く笑うお姉さま。
「……ここでお茶でもしましょう?」
 お姉さまは車をとめた。
 個室のあるレストランに行った。
「さあ、好きなの選んで……二日間ろくに食事をとれなかったでしょ……?」
 お姉さまは辛そうな顔をした。
 食事がきてからお姉さまは話出した。
「妃翠……今まで本当にごめんなさい」
 急に謝られ戸惑ってしまう。
「な、なぜお姉さまが謝るのですか……?」
「だって……今まで妃翠がお母さまやお父さまになにをされても私は助けることができなかった……」
 弱弱しい声のお姉さまにわたしは今までのことを思い出す。
 継母さまに叩かれることがあっても、お姉さまは同情の瞳を向けるだけだったのだ。
「ごめんなさい、私……妃翠と仲良くしなきゃって思っていたけれど……お母さまに妃翠のところに行くなって口止めされていたの……それで中々妃翠の部屋に行けなかった」
 お姉さまは頭を下げた。
 継母さまはいつもお姉さまのことを監視していたようだ。
「こんな姉でごめんなさい……こんなダメダメな私だけどなにかあれば妃翠の力になりたい」
 お姉さまは頭を上げ、わたしに向かって言った。
「そうだ、妃翠。『お姉さま』だなんて堅苦しいからせめて『お姉ちゃん』って呼んでよ!あと敬語も。今どき兄妹姉妹に対して敬語使うほうが珍しいんじゃない?」
 お姉さまはウインクをする。
「えっと……乃々羽お姉ちゃん……?」
 わたしが言うと乃々羽お姉ちゃんはキラキラした瞳をしていた。
「いいわ!それでいきましょ!」
 わたしたちは食事を進めながら話をした。
「……お姉ちゃんに悩みを相談したいのだけれど……」
 わたしが控えめに言うと。
「わたし……その……茅都さんのことが好き、なの……」
 顔を真っ赤にしながら言う。
 乃々羽お姉ちゃんの顔を見ると驚いたように目を見開いていた。
「え、本当⁉」
「うん……でも、まだ心の声が聞こえることも言えてない……言ったら嫌われちゃうわよ」
 わたしが言うと乃々羽お姉ちゃんはわたしの手を握った。
「大丈夫……その好きだっていう気持ちを大切にすればいいの。好きを伝えて損はないと思うよ?雲龍さまだって妃翠のことを認めてくれる」
 わたしは好きという感情を誰かに伝えることを今まであまりしてきていない。
 お母さまが生きていた頃はわたしもまだ幼かった。
 それからはお父さまと話すこともなくなって好きということすらも忘れていた。
「妃翠が幸せになれるなら私はなんでも協力する。……だって、私は妃翠のお姉ちゃんだもん」
 乃々羽お姉ちゃんは嬉しそうに笑った。
 わたしはこれまでにない幸福感に満たされた。
 家族に愛されるということはこんなにも嬉しいのか。
 レストランから出ると見覚えのある黒い車があった。
「……妃翠。あなたなら大丈夫、勇気を出して伝えてみるのもいいと思うよ」
 そう言って乃々羽お姉ちゃんはいなくなった。
「妃翠!」
 後ろを向くとすぐさま抱きしめられた。
 この匂い、温もり、すごく落ち着く。
「茅都さん……」
「ごめん。来るのが遅くなった……本当にごめん」
 茅都さんは泣きそうな顔でわたしを見た。
「平気よ。……わたし、家族の中でやっと信用できる人を見つけたから。それに一番は茅都さんなら来てくれるってわかってたから」
 茅都さんならきっとわたしのことを探してくれるとなんの根拠もない自身があったのだ。
「そっか。……家に帰ろう」
 茅都さんはわたしの手を引いて車に乗った。
 家の近くまで来た。
 懐かしい並木道。
 たった二日間だけなのにすごく懐かしく感じる。
「ただいま」
 わたしは大きな家に向かって言う。
「……おかえり」
 茅都さんは優しく笑った。
 茅都さんのこの優しい顔で笑うところも少し大げさなところも全部全部大好きなんだ。
 今日、ちゃんと全て伝えなければ。
「……妃翠、おいで」
 時間だけがすぎて行き、夜になってしまった。
 お風呂も入り、夕食も食べた。
 ソファーにいる茅都さんに呼ばれる。
 茅都さんは腕を広げて待っている。
 わたしは茅都さんの腕に包まれた。
「茅都さん……あの、大切な話があるの」
 茅都さんはわたしを抱きしめる力をゆるめた。
「……どうしたの。そんな改まって」
 茅都さんは少し不安気な顔をした。
「その……理解するのに時間がかかっても仕方がないとは思うのだけど……わたし、誰かの心の声が聞こえるの」
 わたしは茅都さんの瞳を見た。
(──心の声?……じゃあ、この声も聞こえているのか?)
 わたしは小さく頷いた。
「ええ……聞こえているわよ」
 わたしが言うと茅都さんは目を見開いた。
 驚くのも無理はないだろう。
 さて、ここからが問題だ。
 この能力を受け入れてもらえるのか。
「信じられないけど……言ってくれてありがとう」
 茅都さんはまたわたしを抱きしめた。
 受け入れてもらえたのだろうか。
 きっと、そうだろう。
「そ、それと……まだ一番伝えたいことが残ってるのよ」
 一番伝えたいこと、それは──。
「わたし、茅都さんのことが──好き」
 わたしが言うと茅都さんは固まってしまった。
 さすがにこれは受け入れてもらえないか。
「待って、本当にこれ現実……?」
 茅都さんはわたしに頬を叩いてほしいなんてお願いしてきた。
「えっと……叩きはしないけれど。現実よ……?」
(──嬉しすぎる。もう今日命日でもいいよ)
 そんな心の声が聞こえ、わたしは焦る。
「し、死んじゃダメよ……!」 
 わたしが言うと茅都さんは笑った。
「そうだ。妃翠には思ってることがバレバレなんだね」
 わたしはこくこくと頷いた。
「じゃあ、遅くなったけど。……妃翠、昔から僕の好きな人は妃翠なんだよ。やっと、言えた」
 わたしは茅都さんの言葉が理解できなかった。
「えっ……?ほ、本当に?わ、わたし……っ」
 わたし、誰かに好きでいてもらえている。
 そのことに嬉しさと同時に大量の涙が溢れた。
「妃翠……」
 茅都さんは嬉しそうに微笑んだ。
「改めて……僕と付き合ってくれますか?」
 わたしは涙でぐちゃぐちゃの顔ではにかんだ。
「ええ、もちろんよ……!」
 茅都さんの顔が目の前にあった。
 少し見つめ合ったあと、優しいキスが降ってきた。 



 茅都さんと付き合い始めてから数日後。
「あ、妃翠ちゃんやないの?……あんた、茅都と付き合ったって?」
 結璃ちゃんに話しかけられた。
 わたしは恥ずかしさをこらえながら頷いた。
「そう。おめでとう……せや、あんたら付き合ったから言ってもええのかな?」
 結璃ちゃんは少し言いづらそうにしていた。
「なにか言いたいことがあるなら言ってほしいわ」
「……うちな茅都の元カノなんや」
 いつもニコニコしている結璃ちゃんが真剣な表情で言った。
「え……?」
 わたしはショックというより驚きが勝っていた。
「ごめんな、言うつもりはなかったんやけど。言ったほうがええなって思うことがあったからあんたには言うわ」
 結璃ちゃんは一息おいて。
「うちと茅都が付き合ってたのは高校生のときや。高一のときから高二の最後らへんまで付き合ってた。別れを言ったのは茅都やった。忘れられへん子がいるって言ってな。ほんま一生分のごめんをもらった気がするわぁ」
 結璃ちゃんは少し切なそうに笑った。
「うちらは確かに両想いやったと思うで?妃翠ちゃんの前で話すことやないとは思うんやけど。……でも、茅都はきっと頭のどこかで妃翠ちゃんのことを想ってたんやない?それくらい、あんたのことを忘れられへんかったんやろ?」
 わたしは結璃ちゃんの話に違和感を覚えた。
 わたしが茅都さんと会ったのは翡翠川に落ちて助けてもらったときの一回だけだ。
 それなのにわたしのことを忘れられないなんてあり得るのだろうか。
 わたしはそんなことを思いながら結璃ちゃんの話の続きを聞いた。
「うちは身代わりでもなんでもないわぁ……って別れたんやけど。あんまりピンと来てへんの?」
 結璃ちゃんは笑って言った。
「……もぉ、ほんまに茅都最低やわぁ。でも、本気で茅都に愛されてるのは妃翠ちゃんなんやから、あんたは絶対に幸せになれるで。うちはええ人探してくるわ」
 なんて最後は冗談めかして言った結璃ちゃんだった。
 けれど、わたしがずっと探し求めてきたもの。
 『幸せ』というものが手に入るのか。
 結璃ちゃんはわたしに手を振っていなくなった。
 家に帰ると茅都さんはすでに帰って来ていたようだ。
 夕食を食べているときにわたしは茅都さんに今日あったことを話した。
「……今日、結璃ちゃんに会ったの。それで、茅都さんと結璃ちゃんが高校生のときに付き合ってたことを聞いたわ」
 わたしがそう言うと茅都さんはぴくっと肩を揺らした。
「そのときに少し違和感があったの……わたしたち一回しか会ってないわよね?なのに、あたかも昔にずっと会ってたみたいな言い方をされたの……変な話よね──」
 わたしが茅都さんの顔を見ると、茅都さんはすごく切なそうな顔をしていた。
「…………」
 茅都さんはなにも言葉を発しない。
「ね、ねぇ……なにか言ってよ。なんで、なにも言わないの……っ?」
 わたしの声は震えていた。
 明確になにに不安があるかと問われると答えることができないがこの雰囲気がわたしの不安を煽った。
「……妃翠はなにも覚えてないの?」
 急にそんなことを言われる。
「えっと……なにを?」
「僕と妃翠は……妃翠が──川に落ちる前からの知り合いだってこと」
 わたしはただ呆然とするしかなかった。
「え、え?どういう……こと?」
「妃翠の記憶からはもう消えてるんだよ……翡翠川に落ちる前から一緒によく遊んでいたんだよ。本当に毎日のように僕は家から抜け出して、妃翠と誰にも見つからないようにこっそりと綾城家で遊んでたんだ」
 茅都さんは懐かしそうに、そして辛そうに言った。
「でも、妃翠は川に落とされたショックで僕のことを忘れた……完全に忘れさせたのは僕だけどね」
 わたしは茅都さんの能力によって記憶を消されたのだ。
 記憶を消してほしいと願ったのはわたしのほうだった。
 けれど、記憶を消す代償として茅都さんのことも忘れていたようだ。
「妃翠は僕のことを忘れちゃって……それが辛くて、距離をとったんだ……」
 わたしは悲しそうに話す茅都さんを見ていると胸がズキズキと痛んだ。
「……じゃあ、どうしてこの縁談を受け入れたの……?とても辛いでしょう?昔会ってたのに完全に忘れられるって」
 わたしが聞くと茅都さんは頷いた。
「ああ、もちろん悲しいし辛い。けど、もう一度妃翠の近くにいたかった。また妃翠が昔のように笑ってくれるのを見たかった。今度は僕が……妃翠のことを助けたかった」
 茅都さんは弱弱しく、だけど芯のある声で言った。
 わたしの記憶は戻らない。
 だけど、茅都さんと会ったのは事実。
「……わたし、茅都さんに出会えて幸せ。わたしね、ずっと探していたの、幸せを。記憶があればもっとよかったのだけど……過去には戻れない。ただ、これだけは言わせて、わたしのことを受け入れてくれて……わたしはいてもいいって思わせてくれてありがとう」
 わたしは能力のせいで受け入れてもらえなかった。
 学校に行っても能力を知ればみんなわたしから離れていく。
 能力を知っても離れないでいてくれたのは茅都さんだけだった。
 そんな茅都さんにどうしても感謝を伝えたかった。
「僕も……妃翠に出会えてよかったと思ってるよ」
 茅都さんはわたしの頬にキスをした。 
「一回だけの出会いじゃなかったのね……この縁談も運命なのかしら」
 わたしは微笑んだ。
「運命、なのかな。……僕には妃翠が必要だって神様が言ってるみたいだよ」
 茅都さんは笑った。
 わたしたちはそのあとも思い出に浸った。



 大学に行くと久しぶりに会う気がする瀬凪くんがいた。
「よっ。なんか久しぶりだな、ひい」
 ニカッと笑う瀬凪くん。
「……すごく久しぶりな気がするわね。実際はそんなことないのに」
 わたしたちは笑い合った。
「そうだな……」
 瀬凪くんはなにかを決心したようにわたしを見る。
「……なぁ、ひい。ひいにとって俺ってなに?」
 急にそんなことを言われてもよくわからない。
「なにって……大切なお友達かしら」
 わたしが言うと瀬凪くんは大きなため息をついた。
「はぁ……やっぱそうだよな。……なあ、ひい。俺がひいのこと──好きって言ったらどう?」
 わたしは瀬凪くんの顔を見る。
 瀬凪くんの顔は真剣そのものだった。
「えっと……それは、友達とか家族とかに向けられるものよね……?」
「いいや?恋愛的な意味に決まってんじゃん。俺と付き合ってほしい」
 そう言われわたしは目を丸くする。
「え、えぇ⁉せ、瀬凪くんがわたしを好き……?」
 わたしが驚いて声をあげると瀬凪くんはいたって冷静に。
「俺結構わかりやすかったと思うけどな」
 さらっと言うけれどわたしは全く気付かなかった。
「まあ、返事は考えておいて」
 そう言ってわたしとは反対方向に歩き始める瀬凪くん。
「あっ……」
 行ってしまった。
 なにも返事を言えずに。
 わたしには茅都さん以外考えられない。
 これは世間一般でいうと瀬凪くんが可哀想になってしまうのか。
 それともきちんと気持ちを伝えるべきなのかよくわからない。
 これだからもっと恋愛を経験しておけばよかったと後悔するのだ。
 わたしは家に帰って一人で瀬凪くんの告白の返事を考える。
 茅都さんはまだ帰ってきていないので一人でじっくりと考える。
「……なんて言うのが正解なのかしら……まずはごめんなさいかしら?」
 なんて独り言をぶつぶつと言いながら考える。
「──……それはなにに対しての謝り?」
「告白の返事よ……って、え?」
 わたしは今、誰に返事をしたのだろう。
 この家にはわたし一人しかいないのだ。
 なんだかすごく聞いたことがあるような声だった。
「──か、茅都さん……」
 予想通り声の主は茅都さんだった。
 茅都さんの顔は恐ろしかった。
「か、茅都さん……笑ってるのに目が全くもって光を宿していないのだけれど……」
 わたしは視線をおろおろと移動させる。
 この状況で茅都さんの顔を見れるわけがないのだ。
「うん、当たり前だよね?この状況で笑っていられるほうが僕はすごいと思うな……で、なにがあったか説明してくれるかな妃翠ちゃん?」
 今までちゃん付けなんてされたことがない。
 不覚にもドキッとしてしまった。
 この状況でときめいてはいけない。
 ちゃんと瀬凪くんのことを話さなければ。
「え、えっと……小さいときに遊んでた瀬凪くんから……その、告白をされまして……」
 わたしはごにょごにょと茅都さんに話す。
「……で?なに、告白にオーケーでもしたの?僕がいるのに?」
 茅都さんに問われわたしは首をぶんぶんと横に振った。
「そんなわけないでしょう。わたしは茅都さんしか見ていないから……でも、返事ができてなくてなんて返事をするべきなのかわからなくて考えていたのよ」
 わたしが言うと茅都さんはニヤッと口角をあげた。
「今の言葉そのままそいつに言えばいいのに。『わたしは茅都さんしか見ていないから、ごめんなさい』って」
 茅都さんはそう言うけれどわたしは恥ずかしくてたまらない。 
 会話に必死で自分で言ったことなのに後悔している。
 本人の前でわたしはなにを言っているのか。
「あ、明日……告白はお断りするわ……」
 わたしがそう言うと茅都さんは満足げに笑った。
 翌日、昨日の言葉通り瀬凪くんの告白に返事することにした。
「……昨日のこと考えてくれた?」
「ええ……瀬凪くん、告白には応えられないわ。でも、嬉しかったわ。気持ちを伝えてくれてありがとう」
 誰かに気持ちを伝えることはとても勇気がいることなのに瀬凪くんはさらっとやりとげてしまうのだからわたしは関心していた。
「ははっ。やっぱり……雲龍には敵わないか。まあ、お似合いカップルだもんな、ひいと雲龍。めっちゃ悔しいけどな」
 カップルと言われて顔が熱くなる。
「な、なんで……っ。付き合ってることを知っているのよ……⁉」
 わたしが聞くと瀬凪くんは当たり前だというふうに言った。
「なにを言ってんだひいは。あやかしの中でもトップの雲龍家の次期当主の話となれば伝達の速さも異次元だぞ?同棲してるんだし、恋の一つや二つあってもおかしくはないだろ」
 ということは色々な人にわたしと茅都さんが付き合っていることが知れ渡っているのか。
 わたしはなんとも言えない気持ちになる。
 色々な人に伝わっていればきっと祝福してくれる人とそうでない人に分かれるのだろう。
 茅都さんのファンの人にいつか刺されないかが心配だ。
「まあ、ひいの気持ちが聞けてよかった。雲龍とは仲良くやれよ」
 そう言ってわたしに背を向ける瀬凪くん。
 わたしは人生で初めて告白を断るという特別な体験をした。
 世の中からしたらこんなこと当たり前なのかもしれない。
 けれど、わたしからすれば誰かを好きになることも好きになってもらうことすら特別だったのだ。
 こんなわたしを好きになってくれた瀬凪くんに感謝を伝えなければ。
「あ、あの!瀬凪くん……!」
 歩き始めた瀬凪くんの背中に向かって叫ぶ。
「ん?」
 瀬凪くんはわたしのほうを振り返った。
「えっと、わたしを好きになってくれてありがとう!好きになってもらえてわたし幸せ者よ」
 わたしが必死になって言うと瀬凪くんは爽やかな笑顔で言った。
「そりゃどうも。……ひいのその言葉は雲龍にたくさん言ってやってやれよ。きっと喜ぶぜ?」
 瀬凪くんはそれだけを言ってまた歩き出し、もう背中すら見えなくなっていた。
 わたしは清々しい気分だ。
 言いたいことをきちんと言えたのだ。
 わたしは講義室に向かう途中で茅都さんに会った。
「……真神、だっけ?そいつには言いたいこと言えた?」
 わたしはいつ瀬凪くんの名字を言っただろうか。
 今はそんなことはどうでもいいのだ。
「ええ。とってもスッキリしているわ」
 わたしが言うと茅都さんの手がわたしの頭の上にポンッと乗った。
 わたしがびっくりして茅都さんの顔を見ると優しくふわっと笑っていた。
 周りにいた女子がクラッときてしまったのか慌てている人が数名いるようだ。
 こんなにかっこいい人、茅都さん以外いないと思ってしまう。
「講義始まるからまたあとでね」
 そう言って茅都さんは行ってしまった。
(──あの子、綾城家の令嬢……)
(──雲龍さまに愛されているなんて羨ましい)
 大学は色々な人がいるのでたくさんの心の声が聞こえる。
 心の声を聞きすぎると耳に負担がかかるので基本的には人があまりにいないところにいる。
 けれど、大学となればそういうわけにもいかない。
 講義が終わり、即行で家に帰る。
 心の声を聞きすぎて耳鳴りがひどいのだ。
 これは薬でどうにかできることでもないようだ。
 家に帰ってスマホを見ているとネットニュースでうららちゃんのことが書いてあった。
「えっと……恋水うらら初のワンマンライブ……え?」
 わたしは驚きで言葉を失う。
 同い年の少女だというのにうららちゃんは日本中を相手にしているのだ。
 これは絶対に見に行かなくては。
 わたしはうららちゃんにライブを見に行くとメールを送った。
 すぐに既読がついて電話がかかってきた。
「も、もしもし……?」
『あ、もしもし⁉妃翠ちゃん、ライブ見に来てくれるの⁉』
 とても嬉しそうな口調で話すうららちゃん。
「ええ。もちろん見に行くわよ。初のワンマンライブ……というものをやるのでしょう?」
 ワンマンライブというものをちゃんと見たことがないのでよくわからないがすごいということだけはわかる。
『やったー!あ、そうだ!妃翠ちゃんのために特別席用意しておくよ!』
 特別席というものに驚いて言葉を失うわたし。
『妃翠ちゃんはうららの大切なお友達だから、せっかく初めてのワンマンライブだし!』
 わたしは嬉しくて心が熱くなる。
「ありがとう……楽しみにしているわ」
 そう言って電話を切る。
「ただいまー……」
 茅都さんが帰って来た。
「あの、茅都さん……!わたし、人生で初めてライブに行ってくるの!」
 この喜びを誰かに話したかった。
「誰の?男?」
 わたしはぶんぶんと首を振った。
「ち、違うわよ……!恋水うららちゃんのライブよ!」
 わたしが言うと少しは納得したような顔の茅都さん。
「恋水うららってあの小悪魔アイドルの?」
「ええ、そうよ」
「妃翠ってアイドルとかわかるの?あんまり知らないのかと思ってた」
 茅都さんは着替えようとネクタイをゆるめた。
 今日、茅都さんは次期当主として大事な会議があったらしい。
「……!ちょ、ちょっと……わたしが目の前にいるのに恥ずかしくないの⁉」
 わたしの顔はきっとりんごのように赤いだろう。
「ふっ。そんなに恥ずかしいの?ちょっと肌見えてるだけじゃん。それにカップルだし?」
「よ、よくわからないわよ……!」
 茅都さんはそういうけれど、少し肌が見えているだけでも茅都さんは色っぽく見えてしまうのだ。
 カップルというものはこういうことが当たり前なのか。
「……ライブは一人で行くの?」
 着替え終わり、部屋着姿の茅都さんが聞いてくる。
「ええ。一人よ」
 茅都さんは心配そうに眉をへの字に曲げた。
「一人でいいの?僕と一緒に行く?変な男につかまらない?」
 すごい質問攻めをしてくる。
「えっと、あの……せっかくのお友達のライブだから一人で平気よ?変な人にもついて行かないわ」
 小さな子供に言い聞かせるのならまだしも大学生にするような質問ではない気がする。
「本当に?……マジで心配。でも、妃翠が行きたいって言うのなら妃翠の意見が優先だから」
 茅都さんはわたしのことをぎゅっと抱きしめた。
 わたしはライブに行ける権利を獲得した。



 ライブ当日。
 うららちゃんから集合場所を教えてもらった。
『──……そう!そこで待ってて!』
 うららちゃんに電話をして特別席まで向かうことにした。
 会場はうららちゃんにぴったりな薄いピンクと白が基調になっている。
 うららちゃんの指示通り関係者以外立ち入り禁止という看板がある扉の前で待つ。
「──きゃっ」
 わたしがきょろきょろと周りを見ていたせいか誰かにぶつかってしまったようだ。
「──……すみません、大丈夫ですか?」
 その声は優しそうな甘い声だった。
「……だ、大丈夫です」
 その人を見ると帽子にサングラス、マスクといういかにも不審者極まりない恰好だった。
 そこでふと茅都さんの言葉を思い出す。
『──……一人でいいの?僕と一緒に行く?変な男につかまらない?』
 もしかしたらこの人は優しそうな仮面を被った不審者なのではないか。
「あー……安心して?不審者じゃないから。こんな格好してるのは訳があって──」
 その人が話している途中でバタバタと走る音が聞こえた。
「妃翠ちゃーん!遅くなってごめんね~!」
 フリフリとした可愛いフリル付きの衣装をまとったうららちゃん。
「うららちゃん……!」
 わたしがうららちゃんに近づこうとするとうららちゃんは急に止まった。
「……爽良(そら)くん、ライブ来るって言ってたっけ?」
 うららちゃんは不審者のような恰好の人に向かって言った。
「……言ったし。別に妹のライブくらい見に来てもいいでしょ?うららだって僕のライブ勝手に見に来て騒がれてるんだし」
 その人は帽子とサングラス、マスクを外した。
 とてもかっこよかった。
 顔立ちは整っていて茶色の瞳と髪。
 透き通るような白い肌、高い身長。
 どこかうららちゃんに似ている気がする。
 この世のいいところを全てこの人に取られているようだ。
「むぅ……騒がれちゃったのは予想外だったけど」
 うららちゃんは頬をぷくっと膨らます。
「トップアイドルならそれくらいわかってよ。てか、この子は?なんかこの子と会うことは昨日夢に出てきたからわかってたけどさ」
 わたしはその発言に首を傾げる。
 なぜ夢でわたしを見たのだろう。
ㅤ夢というのは会ったことがある人しか出てこないという話を聞いたことがある。
ㅤけれど、わたしはこの人と会ったことがない。
「えー、嘘。うらら昨日夢でライブ成功しか見なかった!妃翠ちゃんと爽良くんが会うなんて……」
 わたし一人がこの会話についていけない。
「そうだ。自己紹介遅くなってごめんね。僕、恋水爽良」
 わたしは恋水という名字を聞いてハッとした。
「さっき、うららちゃんのこと妹って……」
「ん?うん、うららと僕は双子の兄妹」
 わたしは驚きで目を見開いた。
「え、えぇ!双子⁉」
「そうだよ~!爽良くんのこと知らなかった?……まあ、うららのことも冷泉家のお嬢さまに教えてもらうまでわからなかったって言ってたっけ?」
 わたしは頷いた。
「……僕はアイドルグループ、スターライトのメンバーなんだよ」
 わたしは初めて聞くアイドルグループだった。
「そ、そうなんですね……あ、わたしも自己紹介してなかったですね。わたし、綾城妃翠と言います」
 わたしはペコリとお辞儀をした。
「妃翠ちゃん?よろしくね、僕のことは爽良って呼んで。あとは敬語じゃなくてもいいよ、同い年だから」
「うん……!そういえば、わたしと会うことがわかっていたというのはどういうことかしら?」
 わたしが聞くと爽良くんはうららちゃんのことを見た。
「うらら、友達に言ってないの?」
「いやー……言うタイミング逃しちゃった」
 なんてうららちゃんは可愛く舌をペロッと出した。
「僕たちはあやかしの鬼なんだ」
 そう言ってうららちゃんと爽良くんはグッと角を出した。
「つ、角……⁉」
 わたし一人が驚いているのでうららちゃんと爽良くんはクスクスと笑っていた。
「そうだよ!……あ、うららそろそろ行かないと!二人の席はこっちだよ!」
 わたしと爽良くんの席はうららちゃんを間近で見れる席であり、爽良くんも観客にバレることがなさそうな席だ。
 しばらくしてからライブは始まった。
 さすがは小悪魔アイドルというところか。
「うららちゃーん!」
「可愛い~!」
 中には涙を流している人もいた。
 大学ではあまりいい風に思われていなかったうららちゃんはこんなにも誰かの心を動かす原動力になっていたのか。
 うららちゃんは可愛いだけの逸材ではない。
 とてもかっこいい少女だ。
 わたしの人生初のライブはとてもいい思い出になった。
「……妃翠ちゃん。今日はうららのライブに来てくれてありがとう」
 爽良くんにお礼を言われる。
「い、いえ……!とても楽しかったわ」
「そっか。……僕はうららとは違う大学だから大学のことはあまり知らないんだけど、あまりいい噂は聞かないんだよね。だから友達とかいるのか心配で」
 爽良くんは眉をへの字に曲げた。
「……でも、妃翠ちゃんがいるなら大丈夫そうかな。妃翠ちゃん、これからもうららと仲良くしてくれたら嬉しいな」
 爽良くんはニコっと笑った。
 今ここに爽良くんのファンがいなくてよかったと思ったのだ。
 この笑顔みたら倒れる人がでるだろう。
「ただいまー」
 家に帰ると鼻孔をくすぐるような香りがしていた。
「おかえり、妃翠。ライブはどうだった?」
「楽しかったわ!」
 わたしが笑顔で答えると茅都さんも優しく笑った。
「今日の夕食は肉じゃがだよ」 
 わたしは肉じゃがが大好きだ。
 なんだか食べると心が温まる気がするのだ。
 夕食を食べ終え、ベッドに入る。
「そうだわ……」
 ライブに行ったときに爽良くんのことを調べたいと思ったのだ。
 ネットで爽良くんが所属しているアイドルグループ、スターライトについて調べた。
 スターライトは五人組のアイドルグループで、爽良くんが一番人気らしい。
 人気なのも納得だ。
 爽良くんは歌もダンスもできる完璧な人物。
 うららちゃんと双子だと公表したのはテレビ番組で共演したときだった。
 他の出演者に二人は兄妹かと聞かれ、公表したらしい。
 そこから二人は『最強の双子』と言われるようになったとのことだ。
 わたしが色々と調べていると茅都さんの足音がした。
(妃翠はなにをそんなに熱心に調べているのだろう……)
 茅都さんには爽良くんと会ったことは言っていない。
「妃翠?」
 いつの間にかベッドの中に茅都さんがいた。
「へっ……?」
 そんな間抜けな声が出てしまい恥ずかしさに陥る。
「……ずっと声かけてたのに上の空じゃん。なにかあったの?」
「いえ。特になにもないわ。ただ、今日のライブに圧倒されちゃってまだ酔いがさめないみたい」
 わたしが笑うと茅都さんもクスッと笑った。
「ライブが楽しかったんならよかった」
 そう言ってわたしに抱きつく茅都さん。
 かなり密着していて、心臓の音が聞こえているのではないかというくらい近い。
 ベッドの中というのもあり逃げ場がない。
「顔真っ赤になってるじゃん」
「うぅ……」
 小さく唸るわたしに対して茅都さんは余裕そうな表情。
 茅都さんばかり余裕があってわたしにはなにひとつ余裕がない。
 そんな茅都さんに少しいたずらをしたくなった。
 いたずらといってもただの八つ当たりだ。
 茅都さんばかり余裕があるのはずるいからだ。
 なんて馬鹿げた考えだと思うが恥ずかしすぎてそれどころではないのだ。
「……っ。不意打ちはずるくないっ?」
 いつもより余裕のない、どこか焦りさえ感じられる声。
「どうしたの?急にぎゅって抱きついて、抱きついたと思ったら手までつないじゃって」
 自分でも大胆過ぎる行動だとはわかっている。
 作戦成功というところか。
「茅都さんにいたずらしたくなっちゃって」
 わたしはそう言って笑ってみせるが内心、恥ずかしさと戦っているのだ。
 こうやって手をつないだりしていると本当にわたしたち一緒に住んでいるのだと実感が湧く。
「いたずらって……こっちがどんな気持ちだかわかってる?」
 星明りに照らされる茅都さんはすごく色っぽくて。
「えっと……ごめんなさい、なにか癪に障ることを言ってしまったかしら……?」
 不安になって控えめに茅都さんを見る。
「はぁ……本当に無自覚が一番ダメだと思う」 
 そう言って大きなため息をついた茅都さん。
「……今日は疲れたでしょ?早く寝たほうがいいよ、おやすみ」
 最後におでこにキスを落として部屋を出て行った茅都さんだった。
 うららちゃんのライブが終わってから数日、うららちゃんから連絡が来た。
『妃翠ちゃん!ちょっと爽良くんが話したいことがあるみたいで今日、講義が終わったら門の前で待っててくれる?』
 わたしは了解とスタンプを送信してスマホをかばんの中にしまった。
 講義が終わり、わたしは門に向かう。
「……あ、妃翠ちゃん!」
 わたしに向かってぱたぱたと走って来るうららちゃん。
「うららちゃん。話したいことって……?」
「んー……それがうららもわからないの。爽良くんなにも言ってくれないの」
 うららちゃんは眉をへの字に曲げた。
「まあ、とりあえず爽良くんのところに行こう!」
 うららちゃんはわたしの腕をぐいぐいと引っ張って爽良くんがいるという車に連れてきた。
「爽良くん!妃翠ちゃん来たよ」
 うららちゃんは車に向かって言った。
「──……ありがとう。妃翠ちゃん、突然ごめんね。今日は少し付き合ってもらいたくて」
 爽良くんはうららちゃんからわたしに目線を移した。
「じゃあ、うららはこのへんでバイバイ!」
 そう言ってどこかに行ってしまったうららちゃん。
 わたしはどうすればいいのかわからずおろおろしている。
「妃翠ちゃん、車乗って」
「え、ええ……」
 わたしは爽良くんの車に乗った。
「あの、今日はどこへ?」
「……もう少しで僕たちの誕生日なんだ。でも、うららが好きなものってなにか聞くといつも可愛いものって答えるんだ」
 爽良くんは呆れたようにため息をついた。
「その可愛いの具体的なものを聞きたいんだけど、うららも忙しいしあまり聞く時間がなくて……それで妃翠ちゃんにお願いがあって、うららの誕生日プレゼントを一緒に選んでほしいんだ」
 爽良くんはわたしに向かって手を合わせてきた。
「ええ、それはもちろんいいのだけれど、爽良くんはファンの子にバレたりしないのかしら?」
 誕生日プレゼントを選ぶのは賛成だが、それだけが不安要素だった。
 人気アイドルグループ、スターライトの一番人気のメンバーと一般人であるわたしが一緒にいたら大変なことになりそうだ。
「……あー。大丈夫、変装するし、気をつけるよ」
 そう言って車を運転し始める爽良くん。
 ショッピングモールにつくと、わたしたちは雑貨屋に入った。
「これとか……どうかしら」
 わたしは一冊のノートを爽良くんに見せた。
「ノート?どうして?」
「……前にうららちゃん、書くことが好きだって言っていたのよ」
 うららちゃんと仕事の話をしていたときのことだった。
 うららちゃんはなにかを文字に起こすことが好きだと言っていた。
 ファンの子に可愛いと言われた行動やレッスンでの反省点などをノートにまとめているようだ。
「そうなんだ。じゃあ、それにしよっか」
 爽良くんは会計のレジに向かって行った。
「……妃翠ちゃん、ありがとう。僕も買いたいものがあって待っててくれるかな?」
「ええ、わたし少し喉が渇いたからお水買ってくるわね……ここで待ってるわね」
 わたしは爽良くんとは反対方向に歩いた。 
 水を買ってから爽良くんと別れた場所にまた戻る。
 爽良くんはベンチの近くにいるが身長が高いことや変装をしていても隠し切れない芸能人オーラがあってか周りの視線が爽良くんに向いていた。
「……ごめんなさい、待たせてしまったわね」
 わたしが慌てて爽良くんに駆け寄るとふっと目を細めた。
 マスクで口元は見えないがきっと笑っているのだろう。
「えっと、どうかなさったの?」
「いや?……ちょっと来て」
 ぐいっと腕を引かれ、駐車場まで来た。
 そして車に乗った。
「……妃翠ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとね」
 爽良くんはそう言ってわたしに近づく。
(──喜んでくれるかな?)
 そんな心の声が聞こえ、不思議に思っていると首元にヒヤッとなにか冷たいものが触れた。
「え……っ?」
「今日、付き合ってくれたお礼」
 そう言って爽良くんは変装を全て外し、いつもの爽やか笑顔になっていた。
 首元を見るとアメジストのネックレスがつけられていた。
「す、すごいわ……こんないいもの、もらっていいのかしら」
 わたしが申し訳なく笑った。
「いいの。だって、妃翠ちゃんのおかげでうららのことを知れたし。妹なのに裏での努力もあんまり理解できてなかった」
 なんて力なく笑う爽良くん。
「……そんなことないと思うわよ。うららちゃんと話しているといつも、爽良くんは完璧で頼りになるお兄ちゃんだって言っているのよ。うららちゃんは忙しいからいつもお礼もまともに言えてないって言ってるわ……わたしはそうやって思いやりの心があるだけで素敵だと思うわ」
 わたしはお姉さまと全く仲良くできなかった。
 綾城家から少し離れて考えてみるともう少し仲良くできたのではないかなど考えてしまう。 
 だからなのか、恋水兄妹を見ていると羨ましく思う。
 わたしが話し終えると爽良くんは驚いたように目を見開いた。
「……妃翠ちゃんって本当にいい子だよね」
 わたしはその言葉がなぜか心に引っかかった。
「そ、そうかしら……」
 いい子でなければ殴られるのは当たり前。
 少しでも抵抗すれば命を奪われてもおかしくなかったような環境だった。
 わたしのいい子はつくりものではないのか。
 そんなつくった姿を茅都さんや結璃ちゃん、うららちゃんたちに見せているのか。
 今で言えば爽良くんに向かって笑って見せているのも全部全部つくりものなのではないか。
 自問自答するが答えは一向に出てこない。
 今までずっとなにがあっても心を殺して時間が過ぎるのを待っていただけのつまらない人生だった。
 それからはなにがあっても泣かずに、嬉しくなくても笑い、わたしはまるで操り人形のようだった。
(……妃翠ちゃん、なんか元気ない?僕のプレゼント嬉しくなかったかな)
 爽良くんの心配そうな心の声が聞こえハッとする。
「プレゼント、ありがとう。とても嬉しいわ」
 貼り付けたような笑顔で言った。
 爽良くんは笑うだけでなにも言ってくれなかった。
 やはり、わたしの笑顔はつくりものだったようだ。
 自分でも悲しくなってきてしまう。
 わたしが誰かを好きになったのも、誰かといてもいいんだと思ったのも全て嘘だったのではないかと不安になる。
 今までわたしが抱いてきた感情の山が一気に崩れてしまったようだった。
 どれがわたしの本心で、どれがわたしの嘘なのかわからない。
 考えるのも辛い。
 爽良くんに送ってもらい家の近くで降ろしてもらった。
 家の目の前に行くと、部屋の明かりがついていることに気が付いた。
 けれど、今の状態で茅都さんに会うのが怖い。
 茅都さんに会ってつくりものの笑顔を見せて、嘘を並べた言葉で茅都さんに会うのが怖かった。
 家の前でたたずんでいるとガチャッと家の大きな扉が開いた。
「……妃翠?」
 茅都さんの瞳が心配そうにわたしをとらえる。
「……っ。か、茅都さん……遅くなってごめんなさい。ご飯つくるわね」
 わたしは茅都さんの目を見れないでいる。
 それに違和感を覚えたのか茅都さんはわたしの腕をパシッと掴んだ。
「……なにかしら?」
 わたしは平常心を保つのに必死になる。
 今、茅都さんに心配されてしまってはなにを言ってしまうかわからない。
 家の事情は知っているとはいえ、わたしの気持ちを知っているわけではない。
「なんか様子おかしくない?全然僕の目見ないし。よそよそしいって言うか、なんかあったの?」
「なにもないわ。目を見ないのもたまたまよ。ほら、見れるじゃない──」
 わたしはそう言って茅都さんの顔を見る。
 茅都さんの瞳はどんな感情を宿しているのだろうか。
 いつもはわかりやすい茅都さんの瞳も心の声も今はわからないし、聞こえない。
 心の声が聞こえないことなんてないのに。
 耳鳴りが酷いわけでもない、耳がなにか変というわけでもない。
「……あっそ。ご飯はつくってあるから。早く家に入んないと風邪引くよ」
 どこか無愛想な声でわたしに言い放った。
「ええ……」
 わたしたちは言葉には言い表せない気まずい空気に呑み込まれた。
 茅都さんは先に夕食を済ませていたそうで、わたしが気まずい雰囲気の中黙々と茅都さんがつくってくれたオムライスを食べる。
「……ねぇ、それなに?」
 冷たい声で首元を指される。
「あ、えっと……今日貰ったものなの」
 わたしが説明すると不機嫌そうな顔で茅都さんはため息をついた。
「はぁ……それさ、男から貰ったものじゃないよね?」
 わたしはなんと説明すればいいのかわからず黙り込む。
 こういうときはしっかり説明しなければいけないのに、なぜかそれをためらう悪いわたしがそれを阻んだ。
「なんとか言ったらどうなの」
 そんな冷たい声で聞かないでほしい。
 継母さまみたいで、お父さまみたいで怖い。
 言い訳にしかならないかもしれないが、昔のことがフラッシュバックする。
「……そう、って言ってら茅都さんは──……」
 わたしがそう呟いたとき、茅都さんはひどく傷ついたような顔をしていた。
「意味わかんない。僕たち付き合ってるんじゃないの?こんな言い方したくないし、こんな不毛な口論とか嫌いだけど……他の男と一緒に遅くまでいるの?僕がどれだけ心配したかわかっているの?」
 今までにない威圧感を放つ茅都さんにわたしは後ずさりしてしまう。
「遅くなったのは、わたしが連絡しておけばよかったわ。それは、ごめんなさい。でも、その人とはなにもなかったのよ、ただうららちゃんの誕生日プレゼントを──……」
「でも、男といたのには変わりがないでしょ?」
 わたしの話を最後まで聞かずに茅都さんはそう言った。
 わたしの中でなにかがぷつんと切れたような気がした。
 怒りや悲しみを覚えた。
 きっとこれは、本物の感情だ。
 つくりものなんかではない。
 けれど、こんな感情ではなくて前向きな感情が本物だと思いたかった。
「なんで……」
 わたしが声にならない声で言った。
「なんで……なんで茅都さんにそんなに縛られていなきゃいけないの?結婚って……付き合うってなによ。誰かのことを縛り付けて一生離さないことが恋なの?誰かと遊ぶことも許されないの……?」
 わたしの頬には熱いなにかが伝っていた。
「わからないわよ……」
 こんなことになるなら、誰かと一緒にいたいという感情も恋も全部全部なければよかったのに。
 最初からこんな感情知らなければよかったのに。  
 わたしは「ごちそうさまでした」と小さく言い、食器を洗った。
 食器洗いが終わり、わたしは階段を駆けあがった。
 部屋の扉をバタンと閉め、ずるずると床に座り込んだ。
 涙が溢れて止まらない。
 前に茅都さんと気まずくなったときはわたしが一方的に話を聞かなかったことが原因だった。
 けれど、今回は茅都さんもかなり怒っていた。
 わたしは自己嫌悪に陥る。
 カッとなってしまったとはいえ、さすがに言い過ぎた。
 いつも気まずくなるときはわたしの勘違いなどが多い。
 わたしはどうすれば変われるのだろうか。
 人を変えるのは難しいと誰かが言っていた変えられるのは自分自身だと。
 茅都さんはこんなわたしをいつも受け入れてくれる。
 わたしはどうだろうか。
 わたしは茅都さんがくれる大きな愛を返しているだろうか。
 落ち着いて考えてみるとわたしは茅都さんになにひとつ愛を返していない気がする。
 愛を返すのはとても難しい。
 けれど、返さなくてはいつ返せなくなるかわからない。
 お母さまのようにいつか突然いなくなってしまうかもしれない。
 お父さまのようにいつか一切話さなくなるかもしれない。
 そんなことを考えると震えが止まらない。
 爽良くんから貰ったネックレスを外し、机に置く。
 きっと、爽良くんは全く悪気などないのだろう。
 わたしも茅都さんと付き合っていることを言っていなかった。
 それが悪かったのだ。
 ちゃんと、爽良くんに言わなければ。
 そして、茅都さんにも謝らなければならない。



 翌日、起きると案の定目はすごく腫れていた。
 泣いたまま寝て、冷やしていなかった。
 目がすごく重い。
 憂鬱な気分で階段を下りる。
 リビングでは茅都さんがソファーに座り、テレビを見ていた。
 今日は土曜日なので大学には行かない。
 久しぶりにゆっくりしようと思う。
 けれど、茅都さんに謝らなければいけない。
 ここで謝らなかったらわたしはいつまでも変わらないままだ。
 いつまでも自分の本心を隠し続ける操り人形になってしまう。
「あの……茅都さん。昨日はごめんなさい」
 わたしが謝るとぴくっと茅都さんの手が動いた気がした。
 それでも茅都さんはわたしの方を向いてはくれなかった。
「……ネックレスはうららちゃんの双子のお兄さんである恋水爽良くんに貰ったものなの……」
 わたしは茅都さんの背中に向かって話し続ける。
「昨日は……うららちゃんの誕生日プレゼントを買いに行っていたの。それで昨日一緒にプレゼントを選んでくれたからってくれたものなのよ」
 わたしの瞳に涙を溜めないようにすることに必死になる。
 泣いてはいけない。
 泣きたいのはきっと茅都さんの方だから。
 彼女なのに茅都さんの心配してくれた気持ちも全部無視して悲劇のヒロインぶっていた。
 そんなの誰だって怒って当たり前だ。
「……恋水爽良とはなにもないわけ?」
 やっと茅都さんの声が聞こえる。
「ええ……当たり前よ。彼とはなにもない……」
 わたしはハッキリとそう言った。
「そっか……昨日は僕もごめん。妃翠を縛り付けるような発言をして……」
 茅都さんは弱弱しくそう言った。 
 謝らなければいけないのはこちらだというのに。
 わたしたちは大学があったので身支度を整える。
 茅都さんは家から出るとスッとわたしの手に指を絡めた。
「……っ⁉」
「いいでしょ?……妃翠は僕のものなんだから」
 ふっと笑う茅都さん。
 大学までは手をつないで歩いた。
 街中を歩くので周りの視線が気になる。
 茅都さんは周りが二度見するような容姿をもっている。
 それに加えて雲龍家の次期当主という肩書もある。
 あやかしという生き物は今の日本には欠かせないものであり、国民はあやかしを知らないということがないのだ。
 大学に着くと茅都さんはわたしの手をスッと離した。
 少し名残惜しいものではあるが大学なので仕方がない。
 茅都さんはわたしに手を振り講義室に向かった。
(──妃翠と離れたくないな)
 寂しそうな心の声が聞こえ、ボッと顔が熱くなる。
 わたしだって離れたくない。
「……おはよう」
 わたしがボーッとしていると聞きなれた声が聞こえる。
「おはよう、結璃ちゃん」
 結璃ちゃんがノートを持ってわたしの隣に座った。
「あんた朝から大胆やなぁ~」
 結璃ちゃんはクスクスと笑った。
「え……?」
 わたしはなんのことかと首を傾げる。
「なんや、とぼけるんか?茅都と手つないでたやないの~!ラブラブやんなぁ」
 見られていたのかと恥ずかしくなる。
「……妃翠ちゃんも茅都も素直やないし、打ち解けるまで時間かかるんちゃうかなって思ってたんやけど心配不要って感じやな」
 女神のように優しく笑う結璃ちゃん。
「あ、あら……心配してくれていたのね……ありがとう」
 わたしははにかんだ。
 結璃ちゃんと一緒に講義を受け、カフェテリアでお茶をする。
「妃翠ちゃん~!あ、冷泉さん、だよね?」
 うららちゃんの元気な声が聞こえる。
「そうやけど……恋水うららちゃん、あんたと話すのは初めて?」
 うららちゃんは小さく頷いた。
「そうだよ!……改めて初めまして、恋水うららですっ」
「冷泉結璃、よろしゅう。……ワンマンライブの特別映像見たで?可愛かったわ~」
 結璃ちゃんが上品に笑うとうららちゃんは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。 
「えへへっ。嬉しいなっ!……結璃ちゃんって呼んでいい?」
「当たり前や~」
 結璃ちゃんとうららちゃんは仲良くなったようだ。
「……妃翠ちゃん、なんか今日も爽良くんが妃翠ちゃんに用事があるんだって」
 爽良くんという名前を聞いて身体がびくっと跳ねる。
 爽良くんに罪はないが、また会ったら茅都さんに怒られないか。
 けれど、つい昨日、爽良くんとはなにもなかったと説明した。
 きちんと茅都さんには連絡をしておけば問題はないはず。
「……わかったわ。今日も門の前にいればいいかしら?」
 そう聞くとうららちゃんは頷いた。
 講義が全て終わり、わたしはスマホのメールアプリを開いた。
 爽良くんが用事があると言っているので少しだけ会うというメッセージを茅都さんに送信した。
 送信してすぐに既読がついた。
 了解というスタンプが送られてきて安堵した。
 門の前まで行くと誰か芸能人がいるのかというくらい混んでいた。
「きゃ~!こっち見た⁉」
「いや、あたしを見たでしょ!」
 なんて声が聞こえる。
(──妃翠ちゃん、どこかな。ファンの子たちも嬉しいけど今探してるのは妃翠ちゃんなんだよね)
 その心の声が聞こえ、囲まれているのは爽良くんだと気づいた。
 この光景を目にしてよくショッピングモールではバレなかったと思う。
 わたしはスマホを取り出し、爽良くんにメッセージを送る。
『門の前着いたんだけど、囲まれているのって爽良くん?』
(──妃翠ちゃん、僕からじゃ見えないな。どうしよう、このまま妃翠ちゃんに近づくと妃翠ちゃんの噂とか流れるかもしれないしな)
 爽良くんの焦ったような声が聞こえる。
 わたしは噂を気にしないが茅都さんがとばっちりを受けることになるのは申し訳ない。
『そうだよ』
 そんな返信が来たかと思ったらどこからかまた歓声が聞こえる。
「うららちゃーん!」
「ワンマンライブすごかったよー!可愛い~!」
 なんとこの状況でうららちゃんまで来てしまったのだ。
(──うららナイス)
(──このタイミングで来たうららに感謝してほしいよ、爽良くん)
 なんて息ピッタリな心の声なのだろう。
 さすが双子というところか。
 皆がうららちゃんに夢中になっているところでわたしは急いで爽良くんの方へ向かった。
 誰もいないようなところまで歩いた。
 そこでようやく一息つくことができた。
「……妃翠ちゃん、昨日はごめん」
 爽良くんが頭を下げわたしは慌てるばかり。
「え、えっと。なんで爽良くんが謝っているの?」
「だって……妃翠ちゃん、雲龍茅都さんの婚約者なんでしょ?それなのに僕なにも知らずに妃翠ちゃんのこと買い物に誘って」
 わたしはそんなことで謝るのかと驚いた。
「知らなかったのなら仕方がないと思うわ。そんなことで謝らないで」
 わたしが言うと爽良くんは頭を上げた。
「けど、雲龍さんはきっと嫌な思いをしただろうに……昨日、帰ってきてからうららと話してたらうららが雲龍さんの甘い声も全部聞けるのは妃翠ちゃんだけだって言ってて……どういうことかわからなくて色々聞いてやっと知ったんだ」
 わたしは納得し頷いた。
「わたしこそ……言っていなくて申し訳ないわ、ごめんなさい」
 わたしが謝ると爽良くんはぶんぶんと首を横に振った。
「妃翠ちゃんが謝ることじゃないよ……!その、昨日のネックレスとかは妃翠ちゃんの判断で捨てたりしていいから。ただ、僕の買い物に付き合ってくれた妃翠ちゃんに感謝を伝えたくて選んだものだから。別に他の意味があるとかじゃないよって雲龍さんに伝えておいてほしいな」
 わたしは笑って頷いた。
「爽良くんはただうららちゃんを喜ばせたかっただけなんでしょう?」
 わたしが聞くと爽良くんはとても驚いたように目を見開いていた。
「……うん。ただ、うららが喜んでるところが見たくて……でも、自分だけじゃなに買えばいいのかわからなくて妃翠ちゃんを頼ったんだ」
 爽良くんの瞳は真剣なものだった。
「爽良くんはうららちゃんのこと大好きなのね」
 わたしが言うと爽良くんは恥ずかしそうに顔を背けた。
「ファンの子になら好きとか愛してるなんて簡単に言えるのに家族とか本当に身近な人には言えないんだよね。一番言わなきゃいけない人たちなのにね……」
 わたしは爽良くんの言葉に心を動かされた。
 一番言わなければならない人に意外と好きを伝えられない。
 茅都さんはわたしにたくさんの愛をくれる。
 けれど、わたしはどうだろうか。
 きちんと愛を返せているだろうか。 
 愛の返しかたなんてどうやったらいいのかわからない。
 そう思うがそんなの皆当たり前なのか。
 それとも誰もが親から教えてもらうのか。
 こういうときに他の人が羨ましく感じる。
「そうね……爽良くんの意見、とてもいいと思うわ。わたし、あなたの言葉で感動したの」
「本当?……妃翠ちゃんのことを感動させたのなら僕の目標は達成かな」
 わたしはその言葉に首を傾げる。
「目標……?」
「うん。僕の目標は世界中の人たちを歌でダンスで……言葉で誰かの心を動かすこと。アイドルやってる以上、今言ったことでファンの子が感動したとか言ってくれるんだけど」
 爽良くんはわたしを見て笑った。
「妃翠ちゃんみたいに僕のことを知らない人が僕の発言で感動してくれるっていうことがあまりないから。それを目標に活動してたんだよね……まあ、妃翠ちゃん一人じゃダメだから、もっとたくさんの人を虜にできるように頑張るよ」
 爽良くんはくるっとわたしに背を向けた。
「……見ててね。うららよりももっとすごいアイドルになるから」
 そう言って爽良くんは顔だけわたしの方に向けた。
「ええ。爽良くんならできるわ」
 たとえ、できるという証拠がなくても彼はきっとやってのけるだろう。
 たくさんの人を魅了するトップアイドルに。



 家に帰ると電気はついていなかった。
 茅都さんも会社に行っているのだろうか。
 次期当主なら学生であろうと勉強することは山ほどあるのだろう。
「ただいま」
 わたしは誰もいない大きな家に向かって呟く。
「え……っ?」
 わたしが驚きの声をあげたのは、真っ暗だった部屋の灯りがついたからだ。
 わたしは部屋の電気のスイッチを押していない。
 この部屋に誰がいるのだろう。
 不安に怯えながら部屋に入る。
「……妃翠、誕生日おめでとう!」
 クラッカーの音が鳴ったと同時に茅都さんの楽しそうな声が聞こえた。
 わたしはリビングのカレンダーを見る。
 薫風が吹き始める今、五月中旬。
 わたしの誕生日を茅都さんは覚えてくれていたのだ。
 自分自身でも忘れていたのに。
 こうやって誰かに祝ってもらったのは何年ぶりだろうか。
「……あ、ありがとうっ」
 わたしは涙がポロポロと流れるのを拭うのに精一杯になる。
「……妃翠、おいで」
 茅都さんはわたしの腰を引き寄せた。
 今は恥ずかしさなどない。
 ただ嬉しさともっと一緒にいたいという感情のみ。
「……これ、誕生日プレゼント」
 茅都さんは小さな四角い箱を取り出した。
「……これから次期当主として雲龍家を背負っていく。なにかある度に妃翠に迷惑をかけるかもしれない。妃翠を傷つけるかもしれない……それでも僕と一緒にこれからの人生を歩いてくれますか?」
 わたしの薬指につけられた指輪は小さな翡翠がついていた。
「ええ……っ。もちろんよ」
 わたしは先ほどよりも涙を流しながら笑顔で答えた。
「妃翠……っ」
 茅都さんはわたしを力強く抱きしめた。
 もう離さないという意志を感じられる。
 感動の余韻に浸っている中、茅都さんは一つ提案をした。
「ずっと思ってたんだけど……なんでずっと茅都さん呼びなの?恋水うららの双子の兄貴のことは爽良くんって呼んでるのに?」
 不服そうに訴える茅都さん。
「僕のこともせめてくん付けしてよ」
 わたしの顔は爆発しそうなくらい熱くなっている。
 今までわたしが茅都さんと呼んでいたのは男子に免疫がないという理由だった。 
 けれど、瀬凪くんも爽良くんも男子だけれどもくん付けができる。
 茅都さんはというとどうしても意識してしまってくん付けができない。
「ほら、呼んでみてよ。茅都くんって」
 意地悪く笑う茅都さん。
「え、えっと……か、茅都さん」
「今までと変わってないんだけど?妃翠ちゃん?」
 妃翠ちゃんと呼ぶのはやめてほしい。
 恥ずかしくて心臓飛び出してしまうのではないかと思うからだ。
「だ、だって!恥ずかしいもの!ずっと恥ずかしくてたまらないのよ!どうして茅都さんはわたしの名前を呼ぶことが恥ずかしくないの⁉」
 わたしは心の中に秘めていたものを茅都さんに向かって言う。
「…………」
 茅都さんはわたしが普段あまり大きな声を出さないからなのか目を見開いた。
「……恥ずかしさもあるよ。だって、ずっと好きだった子を目の前にしたら当然緊張とかある。でも、それよりも目の前にいる妃翠に好きを伝えたい、少しでも名前を呼んでここにいるってことを証明したい」
 茅都さんはわたしを抱きしめる力を少しゆるめ、わたしの頬に優しくキスをした。
「……わたしだって──か、茅都くんのことが好きよ……?」
 緊張と恥ずかしさが相まってうるっと涙が瞳にたまる。
 先ほど大泣きしたおかげで涙は枯れたと思っていた。
(──もう本当に可愛すぎる。すること全部僕の心臓壊しにかかってる。これ推しとかの次元じゃない、好きな人がすることってこんなにも目が離せないのか)
 心の声がありえないくらい饒舌になっている気がする。
 茅都くんというのにものすごく違和感を感じるが会ったときから茅都さんと呼んでいるとそれが定着してしまっているからだろう。
 これから先、茅都くんと呼んでいたら慣れてくるものなのだろうか。
「可愛い。大好き、妃翠」
「ふふっ。好きっていう気持ちを伝えるってこんなにも嬉しいことなのね」
 わたしは茅都くんの背中に腕を回す。
「……そうだ、夕食食べてないでしょ?お風呂入ってきてから食べようよ……一緒に入る?」
「なっ……⁉入らないわよ!」
 わたしは急いで脱衣所に駆け込んだ。
 ドライヤーで髪を乾かす。 
 わたしの髪は胸よりも少し下ほどまであるので乾かすのに少し時間がかかる。
 わたしは自分の髪色を気に入っている。
 わたしの髪は黒曜石のような色、この髪色はお母さまからの宝物だと思っている。
 形としてはないお母さまだけれど、自分の髪を見るとお母さまのことを思い出せるので気に入っている。
 この髪がわたしがお母さまの子供である証拠のひとつでもある。
 綾城家では継母さまが当主であるお父さまの奥方として今は知られている。
 継母さまは雪女なので、髪も雪のように美しい白色なのだ。
 乃々羽お姉ちゃんも継母さまと同じ白髪。
 わたしと乃々羽お姉ちゃんを見比べ、姉妹ではないと思う人がいるがそれはほんの少しの綾城家の関係者だけだ。
 基本的にはわたしは表には出ていなかった。
 なにかしら表舞台に立つことがあれば乃々羽お姉ちゃんがその役を担っていた。
 わたしが立つべき舞台ではなかったのだ。
 けれど、今はそんなことは関係ない。
 だって、茅都くんがいるのだから。
 綾城家という重荷を少し忘れて新たなスタートラインに立ったのだから。
 リビングに戻ると匂いだけで頬が落ちそうだった。
「いい匂いね……!」
 わたしがキッチンにひょこっと顔を出すと。
「そうでしょ?ごめんね、レストランとかじゃなくて」
 わたしはぶんぶんと首を横に振る。
「……レストランとかそんな場所は気にしていないわ。ただ、茅都くんと一緒にいられるだけで幸せよ」
 わたしは満面の笑みで答える。
 こんな漫画のようなセリフが現実世界で言う日がくるとは数ヶ月前のわたしでは考えられなかっただろう。
 夕食はサニーレタスを存分に使ったグリーンサラダとパスタ、コーンスープだった。
「全然豪華な食事じゃないけど許してほしいな」
 と茅都くんは苦笑いする。
「ふふっ。美味しそうだわ。わたし、サニーレタス大好きなのよ……!」
 サニーレタスのあの触感、あの味全てが最高なのだ。
 ぜひとも全人類におすすめしたい。
 そういう話を乃々羽お姉ちゃんにしたら「妃翠って野菜好きだったの?意外!」と言われてしまった。
 人は見かけによらないものだ。
「そうだったんだ。妃翠の好きなものでよかった……いただけます」
 わたしも手を合わせて「いただきます」と言い、食べ始めた。
 食事は最高なものだった。
「……そういえば、なんで茅都くんはわたしの誕生日を知っているのかしら?わたし言った覚えがないのだけれど……」
 わたしは食事を終え、ソファーでくつろいでいた途中で聞いた。
「結璃に聞いた。さすがにサプライズしたいなって思ったし」
 茅都くんはそう言い、わたしの手を握る。
 その手はわたしの指を触り、いつしか恋人つなぎをしていた。
「……こうやって触ってると妃翠が隣にいるって実感できるんだよね」
「く、くすぐったいわ……」
 わたしはくすぐったい感覚から逃れたくて触ってくる茅都くんの手をぎゅっと握った。
「……これは予想外。結構大胆なんだね?」
 わたしがぎゅっと手を握ったことに対して茅都くんは満足そうだった。
「なにを言っているのよ……くすぐったいって言ったでしょう?」
「素直じゃないね。まあ、そんな妃翠も可愛いけど」
 素直じゃないと言われ、少しむっとしてしまい、頬をぷくっと膨らます。
 そうした途端、茅都くんの顔が近づいてきた。
 わたしは驚きで固まってしまったが、その刹那、唇に温かく柔らかな感触が触れた。
「へ……っ?」
 思わず間抜けな声を出し、ソファーからずり落ちるところだった。
 すかさず茅都くんの長い腕がわたしの腰に回り、茅都くんの胸にダイブした。
(──初キス、だったかな)
 心の声が聞こえる。
 心配そうな、それとは裏腹に嬉しそうな声だった。
「な、なな……⁉い、今……」
「ちゃんと日本語喋ってくれるー?……キス、唇にしたの初めてだよね」
 ニヤッと口角を上げる茅都くん。
 わたしの心臓は今にも飛び出してしまうのではと心配になるくらい鼓動が速くなっていた。
「……~っ!」
 わたしは声にならない叫び声を上げる。
(──そんな可愛い顔して睨みつけたって逆効果なのに)
 わたしは今どんな顔しているのかと不安になり、顔を手で覆う。
「顔、隠さないでよ」
「だ、だって……また……その、キ、キスされたら困るものっ」
 なんて可愛くない嘘をつく。
 本当はもっとしてほしかった。
 もっと茅都くんを感じたかった。
(──顔真っ赤にしてそんなこと言われてもなぁ……もっともっと妃翠を暴いてみたい)
 そんな心の声が聞こえわたしは顔を覆っていた手を外す。
「あ、暴くって……?」
 わたしが聞くと茅都くんはふっと笑って。
「妃翠には教えない」
 なんて意地悪な回答だ。
「……教えてくれないの?まあ、それほど知ってもわたしに得がないのかしら?」
 わたしはそう言うが人間、知らなくてもいいことというものは必ずしもあるのだ。
 きっと茅都くんが今考えていることはわたしは知らなくてもいいこと。
 ならば、わたしが取るべき行動はただひとつ。
 心の声を聞かないように意識を他のことに集中させることだ。
 わたしは心の声を聞かないようにする方法を中学生でやっと覚えた。
 誰かと話したりしているとどうしても相手の行動を先読みして、いつでも最善を尽くすことに必死だったのだ。
 誰かと一緒にいるのも疲れてしまったとき、読書など誰にも関わらずにできることをすればいいとわかった。
「人生、損得だけで生きていくのは難しいと思うのは僕だけなのかな?」
 茅都くんは首を傾げた。
「……それは難しい質問ね。わたしはいつも得をするほうを選んで生きてきたつもりなのだけれど……ほとんど損に終わることもあったのだけれど」
 わたしは肩をすくめた。
「それは人それぞれ考え方が変わるね。妃翠のいう損が実は別の視点から見れば得だったりするかもね。……その逆も然りって感じだけど」
 わたしは茅都くんの意見に大きく同意した。
 それからしばらくテレビを見ていた。
「ふわぁ~」
 わたしが大きなあくびをすると茅都くんはくすっと笑った。
「そろそろ寝る?今日はたくさん泣いたから疲れちゃったでしょ?」
 人というのは泣くという行為に意外と体力を使うものなのだ。
「そうね……今日はたくさんうれし泣きをしたわ……ありがとう、茅都くん」
 わたしは茅都くんに抱きついた。
(──不意打ちはずるいな。本当に妃翠って小悪魔なんだよな)
 小悪魔と聞こえ、わたしはうららちゃんの顔が脳裏によぎる。
 わたしはうららちゃんに一歩近づけたと解釈し、推しに近づけたことにこの上ない喜びを覚えていたのは茅都くんには内緒。 
 ソファーから茅都くんが立ち上がった。
 わたしも自分のベッドへ向かおうと立ち上がるとひゅっと宙に浮いた。
「え、えぇ⁉ちょ、ちょっとなにをしているのよ!降ろして⁉」
 わたしは茅都くんにお姫さま抱っこをされていた。
 こんなことするのはわたしが熱を出したとき以来だろうか。
 あのときは意識もふわふわしていたのであまり覚えていないがいざ意識がちゃんとある中でされるのは恥ずかしい。
「降ろしたら意味ないでしょ。ほら、行くよ」
 茅都くんはわたしを持ち上げたまま、階段を上った。
「かなり筋肉あるのね……わたしを持ち上げたまま移動できるなんて」
「……僕をなんだと思ってるの?」
 なんて言われ、わたしと茅都くんはくすくすと笑い合う。
 二階につき、わたしはやっと降ろしてもらえると思っていたがそれは間違っていたようだ。
「えっ?あの、わたしの部屋通り過ぎたのだけれど……?」
 わたしが問うと茅都くんは当たり前かのようにわたしを茅都くんの部屋へと連れ込んだ。
「うん。今日は一緒に寝ようよ」
 今、確かに爆弾が落とされた気がする。
 わたしは勢いよく首を横に振った。
「む、無理よ……!心の準備ができてないわよ⁉」
 一緒に寝るなんて誰ともしたことがないのに。
「平気平気。ほら、こっちおいで?」
 茅都くんの甘い声に誘惑され、わたしは布団の中にもぐる。
「こーら。出て来て?妃翠の顔が見えない」
 わたしは恥ずかしさに耐え切れず布団にくるまったまま。
(──こんな日が来るなんて夢にも思わなかったな。耐えきれるかな、こんな可愛い妃翠を前にして)
 とてつもなく心の声が甘すぎてわたしの心臓が爆発してしまいそうだ。
「……ぅ」
 わたしは小さく唸り声をあげて、ひょこっと布団から顔を出す。
「こうやってくっついて寝よう?」
 茅都くんはわたしの腕をぐいっと引っ張り、わたしたちの距離はほぼゼロに近いだろう。
 茅都くんの心音が聞こえる。
 トクッ……トクッ……とその音が聞こえるたびにわたしはここから逃げ出したくなる。
 それは嫌な気持ちではなく、緊張と恥ずかしさなど様々な感情が混ざり合っているからだ。
「……妃翠?どうしたの、そんなに僕のパジャマ掴んで」
 わたしは自分の手の位置を確認する。
 片手は自分の胸の前、そしてもう片方の手は茅都くんの胸元をクシャッと掴んでいた。
 きっと無意識のうちにしてしまったのだろう。
「え、あっ……ご、ごめんなさい」
 わたしは慌てて手を離そうとするが茅都くんの手がそれを阻止した。
「いいじゃん。なんか妃翠が積極的だね」
「そんなことないわよ!」
 茅都くんはわたしの手を離し、わたしの腰に腕を回した。
 なんだろうか、すごく安心する。
 誰かの温もりを感じられることに感動を覚えていた。
 わたしはいつの間にか意識を手放していた。
 翌朝、ぎゅっと誰かに抱きしめられている感覚で目が覚めた。
「……⁉」
 昨夜は茅都くんの一緒に寝たのだった。
 昨日の出来事を振り返り、顔に熱が集まっていくのがわかる。
「おはよう、妃翠。昨日はちゃんと眠れた?」
「ええ……超熟睡だったわ。なんでかしら、茅都くんの全部が温かくて……安心したのよ」
 わたしははにかんだ。
「そう?僕が妃翠の居場所になるから。妃翠が……安心していられる場所に僕がなるよ」
 そう言って茅都くんはわたしの唇に熱いキスを落とした。
「……すでにわたしの居場所になっているわよ?」
 わたしは茅都くんに自分からキスをした。
 予想通り茅都くんが満足そうだったのは言わなくてもわかるだろう。