高二になり、夏休みが始まって数日経った。
昼食を摂ったあと、妹の騒ぎ声がうるさい家から逃げるように自転車で風を切って、家から離れた河川敷にやって来た。
最近見つけた静かで安心しながら読書をできる場所だ。
夏風に背中を押されるように、橋下へ歩く。
誰もいないと思っていたけど、橋下のコンクリートの段差部分にひとりの女性が座っていた。俺は思わず車輪を止める。
彼女はワイドデニムに半袖の白ニットを着ていて、茶髪の多分セミロング。体育座りで気抜けしたように俯いている。見た感じ、多分女子高校生。
橋下の影で涼みながら、ひとりきりで小説の世界に浸るのが好きだった。だけど、先客がいるとひとりになれない。それに彼女も急に男が来たら居心地が悪くなるだろう。
俺はやむなくこの場を立ち去ろうして、ハンドルを曲げて彼女に背を向けた。
「行っちゃうの?」
背中に向けて声を掛けられる。俺はすかさず振り返る。
視界に映る女性は二重で、ぱっちりとした透き通るような瞳が綺麗で、容姿端麗という言葉が似合う、とても美しい人だ。
「せっかくの空間を居心地の悪いものにしたくなかったから。じゃあ、ごゆっくり」
ほぼ同い年だと思い、タメ口で話した。
「読書しにきたんでしょ、別に私は気にしないからいいよ。ここ涼しいもんね」
周囲に人がいると過剰に気を遣ってしまい、集中を切らしてしまいそうだから、正直ひとりきりで本を読みたかった。しかし、騒がしい声が響く家に戻るのと比べれば、ここで読書するほうがだいぶマシだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
少し迷ったのち、またハンドルを曲げて橋の下に自転車を移動した。
自転車は影と日光の境目に止め、その隣に俺は腰を下ろした。最低限の関わりで済むように、彼女とはできる限りの距離を取った。
これといった匂いはない透き通るような川、遠くから微かに聞こえる子どもの遊び声。とてもリラックスできる。
きっと俺は、女性の甲高い叫び声が嫌いなんだろう。
「きみ名前は? ちなみに私は真白彩華」
関わる気なんて一切なかったけど、訊かれたら答えるのが礼儀。
俺は声のするほうに顔を向けた。
「濱村颯太、高二。そっちはなん年?」
今すぐに会話を止めると、不自然すぎて雰囲気を悪くしかねない。
小説を読みたい気持ちをグッと抑えて、自然に会話をやめられるまで続けることにした。
「私か……あっ、なん年だと思う?」
唐突に彩華のトーンが明るくなって、笑みを含んだ声で言った。
まつ毛は長く、鼻筋が綺麗な彼女。でも今思うと、その要素が年齢を確実に絞る情報にはなり得ないことに気づいた。最近は大人びた中学生が多く、幼稚園生でメイクをしてる女の子も見たことがある。
「んー、一個下の高一? ……あ、中学生とかだったらごめん」
俺は一応、言葉を添えた。
言い終えると、彩華は間髪を入れずに「えっ!」と声を上げた。
彼女はふわっと腕を解いて、曲げていた脚を緩やかな角度まで伸ばした。
「ほんとにそう見えるの?」
「えっと、まあ見えるけど」
思いもしない返事がきて、ゆったりとした空間に緊張が走る。
次の瞬間、ふふっ、と彼女は笑った。
「中学生なわけないでしょ。高校二年生だよ」
俺はほっとして、文庫本を持った両手を太ももの間にだらんと落とす。
なんで俺はここに来てまで緊張しないといけないんだろう。
安堵したのも束の間、僅かに苛立ちを覚えた。でも、その思いを悟られないよう、顔に笑みを貼り付けた。
「あー、同い年だったか」
今なら会話を自然に止められる。
俺はやっとの思いで、読書を始めることに成功した。
一行目に視線を置いて、それを川の流れのようにスラスラと動かす。
俺は最近、黒崎綾太先生の恋愛小説にハマっている。
今読んでる作品は、女性蔑視や男尊女卑のある環境下で生まれ育った女性が主人公で、人に気を遣ってばかりの俺に刺さる内容の話に惹かれた。
“俺には、黒崎先生の作品がないと駄目だ”
ここ最近、人に気を遣ってばかりの自分にひどい嫌悪感を抱いている。
困ってる人がいれば声を掛けずにはいられない。でも、それは優しさからの行動じゃない。周囲にいるだけで心が落ち着かないから、手を差し伸べているだけ。
こんなしがない人生の中で、この小説が──彩った世界が、あったから少しはマシに思えるようになった。
目で追って、本を読み進めた。しかし、三行に一回くらいの頻度で右をチラッと見てしまう。離れた位置から彩華がずっと見つめてくるだ。
なんでそんなに見つめてくるんだろうか。頬に蚊でもついてるのか?
本の世界に入れないまま、モヤついた気持ちで読み続ける。
挙げ句の果てに彩華は立ち上がって、右隣に腰を下ろした。
「それ面白い?」
彼女は本を指して訊いてくる。
「まあ、面白いっていうか、好きかな」
本に置いていた視線を右隣に向けた。
「なんていう名前の本?」
書店で買ったときについていた深緑のブックカバーをつけたままにしている。だから、周りの人からはどんな本か分からない。
「『君との恋を赤に染める』って本」
俺がタイトルを言うや否や、彩華は物凄く驚いたように目を見開いた。
「それって……黒崎先生の?」
まさか彼女も黒崎先生を知っているとは。
話が弾むのではないか、と心が躍る。でも、心の奥底で小馬鹿にしてる自分もいた。
黒崎先生の作品の良さはは俺が一番分かってる、という優越感に浸っていたのだ。
「そうだけど。彩……」
今までの会話で一度も名前を呼んでいなかったから、なんと呼べばいいのか分からず言い淀んでしまった。
「今更なんだけど、なんて呼べばいい?」
「普通に呼び捨てでいいよ。逆に私はどう呼べばいい?」
初対面で呼び捨ては少し抵抗があるけど、彩華から了承を得たからそう呼ぶことにした。
「好きな呼び方でいいよ」
俺も呼び方はどうでもいいので、軽く返した。
「じゃあ、濱村くん? いや、颯太くんでいいかな?」
彼女は人懐っこい笑顔で言う。
俺はなぜか恥じらいを抱き、視線を逸らして頷いた。
「それでさ。黒崎先生のこと知ってるの?」
つい自分から話題を広げてしまう。
「まあ、結構人気みたいだし」
上から目線で彼女は言った。その発言で少しむかっとする。
その時、突如吹いた夏風が痺れを切らしたかのようにページをめくる。
無意識のうちに、左のページを押さえてた親指が軽く浮いていた。
俺は話が長引くと思ったから、そっと本を閉じた。
話していく中で彼女も中々に黒崎先生の作品の良さを分かる人ということを知り、十分もしないうちに俺らは意気投合した。
大いに話が弾んで、以降、本を開くことはなかった。
これが彼女と初めて出逢った日で、俺の夏が始まった日。
河川敷での出逢いから数日経った日の夜。
今日は珍しく猛暑だったので行けなかったけれど、前と変わらず毎日のように河川敷の橋下に入り浸っていた。
目の前の川も持っていく本の作者も一切変わらない。でも、一つだけ変わったことがある。それは、
──毎度、そこに彩華がいることだ。
黒崎先生への発言でたまに気分を害することもあるけど、彼女とはある程度の価値観が合ってると思っている。
その根拠に、今はどことなく物寂しい。
寂寞とした気持ちを紛らわすように、自室のベッドで小説に読み耽る。
コンコン、と突然音がした。
「颯太、ご飯できたよ」
視線を向けると扉が開いていて、そこには、いつもは身につけているエプロンを着ていない母が立っていた。
「分かった。すぐ行く」
と俺は返事をして、本にしおりを挟んだ。
母は「そう」と素っ気なく言い、扉を閉めた。
ついさっき整理整頓した机に本を置いて、階段を下りる。
ダイニングテーブルには、夏の風物詩のそうめんが用意されている。
「お兄ちゃん、夜ご飯またそうめんだって。流石に飽きたよね?」
俺が椅子に腰を掛けてすぐ、奏が不満を声に出した。
奏は中一の妹だ。我が家は三人兄弟で、俺には二つ上の姉もいる。
一昨夜から三日連続で夕食がそうめんだから、文句を言ってしまうのも仕方ない。しかし、作ってもらう立場でそれを言っていいだろうか。
否定しても肯定しても、どちらにしろ母か妹を敵に回す。そのせいで黙るしかなかった。
俺が口を噤むと、奏はむすっとした。
「もういい。ねえお母さん、そうめん飽きたよ」
奏がそう言った瞬間、嫌な予感が脳裏をよぎった。
「仕方ないでしょ‼︎ こんな暑い日にちゃんとしたご飯なんて無理よ。さっさと我慢して食べなさい」
案の定、母の一喝が耳に響く。
場が一瞬にして、重苦しい空気に変わった。
奏は不服そうに沈黙して、つゆの入った器と箸を持つ。
奏が一口食べるのを見て、俺も食べ始めた。
*
食事を終え、奏はアイスを持ってそそくさと二階の部屋に戻った。
母が皿洗いをしながら喋り始めて、俺はこの場を去るタイミングを失った。
「今日、本当は二十一時まで仕事だったのにさ、『お客さんが少ないから』って十七時に帰らされて。ひどいと思わない?」
母は最近、ショッピングセンターのお中元コーナーでパートとして働いている。
仕事をしてきた日は、ダイニングで職場の愚痴を聞かされるのが日常茶飯事だ。
「それはひどいね」
俺は求められた相槌を打つ。そうすれば、母が機嫌を損ねることはない、と確信していたからだ。
“家の中でも外でも、相手に好意的な印象を抱かせるように取り繕っている”
俺がこんな性格になったのは約一年前、ひとりの友人を失った時だ。
俺には中学校で出会った高瀬という友達がいた。あのころは、親友と呼べていた相手だった。
高瀬とは別の高校に進学したけれど、相変わらず通話やメッセージを送り合っていた。
そんな彼といつも通りにメッセージのやり取りをしてた日。
【颯太は高校生になっても彼女できないだろ】
話の流れで彼に茶化されたので、俺は【高瀬だって最近別れたくせに】と場のノリで返した。
特に考えもせずに送った言葉が、高瀬の治りきってない傷を抉ってしまったのだ。
以降、メッセージを送っても既読無視。通話を掛けても繋がらない。
俺は彼と疎遠になった。
その日から、軽々しく言葉を吐いて人に嫌われるのが怖くなり、人の顔色を伺って当たり障りのない言葉だけ並べるロボットのような人間になった。
「山本さんは『子どものお弁当作らないといけないから、夜遅くまで出れない』って言うけど、こっちは夜十時まで働いて、朝から夫の弁当作ってるんだから!」
母が職場の人への愚痴を漏らす。
ああ、前に全く同じことを聞いたな、と思いつつも首を縦に振った。
「確かに、朝早いもんね」
こういうときは、決して意見を出してはいけない。
「あー、ほんと疲れた」
椅子に座ってテーブルの下で脚を気楽に伸ばし、大きなため息を吐いて母が呟いた。
仕事で疲労が溜まってるのも分かるけど、毎日聞かされるの俺の身にもなってほしい。
口に出すことは一切なく、心の中で消化した。
「よかったら肩叩こうか?」
母を見て、思わず口から出た。
「ありがとう。十分だけお願い」
俺は椅子に座る母の背後に立って、肩に手を掛けた。
首の付け根から肩の先端までを、五本の指でほぐす。
「あー、気持ちい」
恍惚感に浸ったような声で母が言った。
「課題ちゃんとしてる?」
唐突にそう訊かれた。
「毎日やってるよ。ちなみに奏は?」
「夏休み初日はしてたけど、最近は知らない。まあ、コツコツとやってるんじゃない。……もっと強くできる?」
「あ、うん」
ほぐれたように丸まる母の背中には、父親とはまた違う、四六時中子どもを守ってきた逞しさを感じる。
俺は、重たい責任を乗せてきた母の肩を優しく揉み続けた。
「もう大丈夫。颯太ありがとう」
俺は手を止めて、ダイニングをあとにした。
部屋に入って読書の続きをしようと、机に真っ直ぐ向かう。
本を取る前に、傍にあるスマホに通知が来ていることに気づき、意識がそっちに持っていかれた。
それは高校で知り合った同級生からのメッセージだ。
アプリを開いて内容を確認する。
【明日五人くらいでカラオケ行くけど、そうたもどう?】
見た瞬間、ドクっと心臓が動いて、画面をタップしてた人差し指が止まった。
──行きたいけど、怖って行けない。
突然の誘いに、そう思った。
別にカラオケで歌うことや人数の多さに恐怖してるのではない。楽しさのあまり調子に乗って、偽りを解いた自分が出てしまうことを危惧しているんだ。
俺はベッドに飛び込んで、なんて返せば相手を嫌な気持ちにさせないかを考えた。でも、答えは一向に出ない。
「あー、もう、なんて返せばいいんだよ」
無性に苛々して、思わず弱々しい声を漏らす。
スマホだけを持って、頭を冷やしに外へ行くことにした。
「お兄ちゃん待って、どこ行くの?」
階段を下りる中途で、部屋から出てきた奏に呼び止められた。
「自販機……ジュース飲みたくて」
俺は振り向いて、咄嗟に嘘をついた。
「なら私にも買ってきて! 同じやつでいいから!」
「分かった。なに買ってきても文句言うなよ」
俺がそう言うと、奏は「えー」と不満げな声を出した。
これは気に入らなかったら文句を言うやつだ、と思いつつも、決して口には出さない。
「まあ、ちゃんと好きそうなの選んでくるから」
納得するであろう返しをして、階段を下り、外に出た。
辺りは暗くなっているが、昼間の暑さは少し残っている。
数分歩いて、公園付近の道に設置された自販機前に着いた。
少し考え、奏が一時期よく飲んでいた、赤い三つの矢羽根マークでおなじみの炭酸飲料サイダーを買う。
「あれ? 颯太くん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、Tシャツとショートパンツ姿の彩華がいた。今まであまり気にしたことがなかったけど、彩華は俺とほとんど身長が同じだった。
「どうしたの? こんなとこまで」
続けて訊かれる。
こんなところまで? どういう意味なんだろうか。
「飲み物買いに来ただけだけど」
「えっ! てことは、家ここら辺なんだ。てっきり河川敷付近かと」
ああ、なるほど。さっきの言動の意味が分かった。
服装からして彼女もここら辺に住んでいるだろう。
「彩華はなにしてたの?」
彼女は空を仰ぎ見て、
「んー、息抜きっていうか、夜風に当たりたくて散歩してた? みたいな」
と言って、微笑みかけた。
「そっか、お疲れ様……なんか飲む? 出すよ」
何気なく、そう訊いた。
「ほんと! じゃあ、これ」
指されたのは、赤いが目立つ缶の大人気炭酸飲料のカロリーオフのほう。
「……はい」
取り出して彩華に渡した。
「ありがとっ。あ、そうだ! 時間あるなら、公園でちょっと話そうよ」
「まあ、二十分くらいならいいけど」
話してるうちに悩みが解消されるかも、と淡い期待を抱いて、公園に入った。
滑り台、ブランコ、鉄棒がある公園。
「颯太くん、悩みとかある?」
背もたれのあるベンチに腰を下ろしたのも束の間、左隣から真剣な眼差しをこちらに向け、静かにそう言った。
心臓が落ち着きを失い、早鐘を響かせる。
「ないよ、そんなの」
すかさず、嘘を空気に紛れさせた。
SNSの返事を迷ってる、なんて悩み、普通の人に分かるはずがない。きっと困らせてしまう。
「逆にそっちは?」
話の流れで、同じこと彩華に尋ね返す。
「私はあるよ、悩み」
どこか寂しげに彼女は言い、プシュ、と缶の蓋を開け、正面にある滑り台を虚ろな眼差しで眺めながら炭酸を飲む。
そのあと、ふうっと小さくため息をつく。
「聞いてくれる?」
出逢ってから常に明るくいた彩華が、初めて弱々しいところを見せた。
か弱い彼女を目にした時、なぜか切なさを覚えた。それと同時に、彩華を勝手に強い人だと思い込んでいた自分を最低な人間だと思った。
「解決できるか分からないけど、話すだけならいいよ」
最低な俺にも、人の声を聞く耳はついている。
「……私ね、高校でいつも三人でいたんだ」
彼女は伸ばした脚をベンチに引き寄せ、ひっそりと話し始めた。視線は未だに滑り台に向いている。
「うん」
俺は相槌を打つ。
「三人のトークグループも作って、毎日何気ないことで笑い合ってて、ほんと私たちって仲良いんだって思ってた。……でも違ったみたい」
生暖かい風が吹いて、一瞬頬に触れる。彼女のサラサラとした茶髪をなびかせた。
「二人ともお互いに相談しあってたんだって、──私には一回もしたことないのに……」
脳内で生々しい女子高生の会話が浮かぶ。
話を聞き入るだけで、いつの間にか相槌を忘れていた。
「一度でいいから、誰かに頼られたいなって思ってさ。それだけ」
言い終えると、彼女はこちらに顔を向けて、作ったような微笑みを見せた。
その瞬間、黒崎先生の【貴方に頼って生きてたい】という小説の一文が脳裏によぎる。
『──人間は求められるために生まれてきたんだ』
その小説は、頼られないことで自信をなくす女子中学生が色んな手を使ってでも頼られようとする話。
「俺から相談……してもいい?」
気づくと口から声が出ていた。
「いいよ、なんでも聞く!」
彩華はこちらに顔を向けた。全体的に表情が明るくなった気がする。
俺は緊張して、両手の指を絡ませて握り締める。それを閉じた膝にそっと置いた。
「その、同級生にカラオケ誘われて……」
「断りたいの? 普通に断れば?」
それが分からないから困っているのに。
適当な返事に苛々とする。
「普通ってなに?」
「忙しくて行けないとか、金欠だから無理とか。理由なんてたくさん出るでしょ」
彼女の口から出たのは、一度頭に浮かんだことのある理由ばかり。自ら訊いておいて、こんなこと思うなんて最低だけど、ハッキリ言うと落胆した。
「……そんなのじゃ駄目。そんな適当な理由だと……嫌われっ」
身体に入っていた必要以上の力が一気に抜けて、つい本音を露わにしてしまう。
俺は咄嗟に視線を地面に落とし、口に手のひらをつけて塞ぐ。今更しても意味がないのに。
また昔みたいに、人に嫌われる醜い自分を出してしまう……。
心臓がドクドクうるさい。止まれ、早く止まってくれ、と願った。
どうしようかと俯いていると、唐突に彩華が「スマホ貸して」と言う。
なにに使うのか分からないけど、顔を上げ、ポケットから出して彩華に差し出した。
四角い緑の光が彼女の顔を照らしたかと思えば、勝手にメッセージアプリを開いていた。
「ちょっ! なにやるの?」
思わず隣で声を上げたけど、彼女は全く動じない。
か細い人差し指で一切迷うことなく画面を触り、文字を打つ。
理解が追いつかなくて、ただただ画面をタップする指先を見つめた。
彩華は「はい」とスマホを伏せて渡してくる。
スマホを受け取り、画面を恐る恐る見ると、【遅れてごめん。まだ課題たくさんあるから、明日はいけない。また今度誘って!】と許可を得ずに返信されていた。
即座に送信を取り消そうとしたが、タイミング悪く既読されてしまう。それから間髪入れずにメッセージが届く。
【分かった! また今度誘うわ】
あれだけ考え込んでいた悩みが、こんなにもあっさりと終わるとは思ってもいなかった。
「ほら、意外と簡単でしょ?」
缶を持ちながら腕を組んだ、したり顔の彩華が言う。
「……ありがとう」
知らぬ間に動悸が治っていた。
「いいよ。てか颯太くん、学校で友達いないでしょ?」
唐突に笑いを含んだ声でそう言われ、さっきまで怯えてたのが嘘のように腹が立った。
「いないけど。なんか悪い?」
「もう、そんなこと言ってないって。ただ、今度ある『夏鳥祭り』の二日目の予定、空いてるか訊きたかっただけ」
夏鳥祭りとは、俺の住む市で一番大きな祭りだ。
一日目は宵祭りとして花火大会、二日目は本祭り、三日目は総踊りがある。
「ん? 空いてるけど、どうして?」
俺は祭りに誘われるのかと思い、少しドキッとする。
「ここの公園で、一緒に手持ち花火したいなって思ってさ。私、人混み苦手だから」
彼女は目を閉じて、炭酸をゴクっと飲む。
「いいけど……」
勘違いしてたことを知り、視線を落として、両手を後頭部で握った。
「じゃあ、十九時半に公園集合ね! あっ、言い忘れるところだったけど、さっきの話、嘘だよー」
嘘? なんのことだろう。
「時間は分かった。さっきの話って、どの話?」
恥じらいからか、素っ気ない態度になってしまう。
「高校の友達に相談されないってやつ」
「は?」
驚きのあまり、思わず声が出た。同時に顔が勝手に隣に向く。
彩華は飲みかけの缶を傍に置き、手のひら同士をくっつけて「ごめんね。あれ全部作り話」と謝る。
こうも最悪な嘘で人を騙せるのかと呆れる反面、彩華の悩みが嘘でよかったと安堵した。
俺はふふっ、と小さく笑った。
「嘘つくなよ。信じちゃったじゃんか。……でも、嘘でよかった」
呆れてるはずなのに、口から出るのは笑いを含んだ声。
彼女は突然、俺の左頬に人差し指を優しく突き刺す。
なに、と言いながら振り向くと、どんどん指が食い込む。
「颯太くんは、ほんと優しいんだから……」
左から聞こえる独り言のような声は、どこか切なさを感じる声だった。
彩華の隣はとても気楽で、心が落ち着いて、ずっと傍にいたいと思わせられるほど心地いい。
彩華との約束を間近に控えたある日。
夏季休暇の課題として出された数学のワーク集と、今更ながら読書感想文を終わらせた。
休憩しようとベッドで仰向けになり、起動中のスマホをお腹に乗せて、天井をぼんやりと見つめる。
電源が入ったので画面を見ると、この前の同級生からメッセージが来ていて、トーク画面を開く。
【花火大会の次の日、夏鳥祭り行こう】
その日は、彩華と花火をする約束の日。
せっかくゆったりとしてたのに、心がそわそわし始めた。
彩華との約束があるから断らないといけない。
画面と向き合って文字を打とうとするが、恐喝されてるような見えない圧を感じて、指先が震える。
やっぱり、断るのは怖い。データに残るものなら、嘘はつけないし。
俺はスマホだけ持って、外に出た。そして、いつものように自転車のハンドルを握る。
自分自身ですら、この行動の意味が分からない。
文庫本も持たずに、無我夢中で河川敷に向かって自転車を漕いだ。
見慣れた景色を進み続けて、河川敷の橋に着いた。自転車を押して橋下まで歩くと、川を見つめて、スマホを使う彩華がいた。
視界に彼女が映るだけで、ほっとする。
近づくと端正な横顔が動き、長いまつ毛がこちらに向く。
「やっほ! 昨日は行かなかったけど、颯太くんは来た?」
彩華の声に安心を覚えて、ふう、と息を吐く。
「俺も行ってないよ。それより」
今になってやっと分かったが、俺は目の前の悩みから逃げて、彩華に助けを求めてたんだ。
自転車を止めて、彼女の左隣に腰を下ろす。
沈んだ石すら見えるほど透き通った川が、心のざわつきを消して、なぜか開放感を与えてくれた。
「それより? 本も持ってないみたいだけど、なにかあったの?」
「その、これ」
代わりに断って、なんて弱音を口に出せなく、トーク画面を開いて彩華に渡す。
彼女はスマホを手に取り、数秒見つめて「また誘われたんだ」と素っ気なく言い、スマホを返された。
「……うん」
俺がそう返すと、彩華は伸ばしていた脚を徐に(おもむろに)身に寄せ、顔を伏せて背中を丸めた。
「仕方ないもんね、今しかできないことだし。行ってきていいよ、楽しんでね」
地面に向けて、彼女はぶつぶつと口にする。
彼女の言葉の意味が分からない。別に行きたいなんて言っていないのに。
「なにいってるの。俺、祭りは行かないよ」
すると彩華はスッと顔を上げて俺を見る。
「え、じゃあさっきのはなに? 誘われた画面見せてきたけど」
口に出さないと伝わらない。
そう思い、俺は腹を括って口を開く。
「やっぱり、できないから……これ、代わりにお願い」
スマホを差し出し、いいよの言葉を待つ。だが、返ってきたのは「駄目」の一言だった。
「なんで、なんで駄目なの?」
予想外の返事を耳にして、つい図々(ずうずう)しいことを言う。
彩華はなんでも親身になって、助けてくれると信頼してた。だから拒否されることはないと踏んでいたのに。
「私に頼ってばかりだと、成長できなくなるよ」
成長なんてとっくの前に止まってる。親友を失ったあの日から、未だにネジの外れたロボットのままだ。
「もし河川敷に私がいなかったとき、困るのは颯太くんだよ」
続けて彩華は言った。
彼女の言ってることは一般人からすれば正論だ。しかし、俺は正しいと思えない。だって、無理なものは無理なんだから。
「……でも」
「でもじゃない。自分で断りなさい!」
いつもは使わない口調で彩華から叱られる。
やむなく、俺は画面を見つめ、握り拳から人差し指だけを伸ばした。唾を飲むゴクっという音がいつもより大きく聞こえる。
スマホのキーボードに向く指先が小刻みに揺れる。
この居心地のいい空間でさえ、安心できない場所なんだと俺は知った。
震えた指先を画面に押しつけてクリック入力しようとするも、押す場所を間違えたり、変換ミスしたりしてまともな文章が書けない。
俺はスマホを胸に当てて深呼吸する。彩華は俺をじっと見つめてる。
もう一度挑戦する。でも、やはり無理だ。
諦めかけて、人差し指を塩をかけられたカタツムリのように戻そうとした。
すると俺の手の甲に、突然彩華がそっと手を被せた。
「逃げちゃ駄目だよ」
真剣、それでいて柔らかな声に、俺は手を止める。
画面に向けていた視線を上げて彼女を見た。
「じゃあ、どうすればいい?」
「一緒に打ってあげる。でも、私は手を添えるだけだから」
今の彩華からは成人女性のような、余裕のある雰囲気を感じた。
柔らかい手のひらから伝わる温もりが俺の指の震えを治める。
俺は視線をスマホに戻し、もう一度文字を打つ。
【その日は大切な用事があるから、ごめん】
やっとの思いでメッセージを送信して、ふう、と息を吐く。
隣を向くと、彩華がはにかんだ笑顔を見せた。
「大切な用事……なんだ。私との花火が?」
「まあ、先客だし……」
日陰にいるのに、猛暑でもないのに、俺は顔が火照ってきた。
「あっ、やばっ。忘れてた」
彩華は細い手首に付けた腕時計を見て、スッと立ち上がる。
「どうした?」
俺は彼女を見上げる。
「颯太くん、急だけど私帰るね。花火は私が買っとくからバケツだけよろしく」
用事を思い出したのか、唐突に帰宅すると言い出した。
「ああ、わかった。じゃあ、また今度」
彩華は軽く手を振って、河川敷の階段を駆け上がった。
本を持ってきてないし帰るか、と思いつつ、少し名残惜しく感じて日陰に居座る。
眼前で流れる川のせせらぎを聴き始めて数分もしないうちに、河川敷の橋下は閑寂な空間へと変わった。
彼女が先に帰るのは今日が初めてだった。
そこで気づく。俺に居心地のいい空間と認識させたのは、透き通るくらい綺麗な川でも日の当たらない河川敷の橋下でもない。
彩華の隣という空間が一番居心地がよかったのだ。
俺は彩華に、好意に似た感情を抱いた。
空で弾けた色取り取りの光は次々と暗闇に溶け込み、最後の一発が消えた時、花火大会の終わりを告げた。
僅かに見える打ち上げ花火を部屋の窓から眺めて、眠りにつく。そして彩華と花火をする日になった。
約束の時間まで大分余裕があったので、ひとりで祭り会場に赴いた。
十八時台というのに、外はまだ昼のように明るい。
会場近くになってくると、駅の広場に設置された提灯おおやぐらが視界に入る。提灯おおやぐらとは、千百八十九個の提灯をピラミッド型に組み立てたものだ。
まだ点灯していないものの、この時期にしか見られない壮大な提灯おおやぐらが夏の思い出として目に焼き付く。
歩道橋を上って、奥に広がる屋台を一望し、りんご飴の屋台があったので人混みができる前に買いに行く。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
俺は自分と彩華の分で、カットされていないりんご飴を二つ買う。ビニール袋までつけてくれた。
その場を立ち去ろうとしたところで、賑やかな声の中に紛れて、微かに聞き覚えのある男の声が俺の名前を呼んだ。
「もしかして、颯太?」
振り返ると、自分とほぼ同じ背丈の紺色の浴衣を着た男性がいた。隣には同じく浴衣姿で、手を繋いでいる女性。
「え? 颯太くんじゃん!」
横の女性も声を上げた。
俺は思わず手を見開く。
あの頃より少し大人びているが、目の前の男は高瀬だ。隣の女性は、彼と別れたはずの来栖さん。
なんで高瀬は来栖さんと一緒にいるんだ? それに、なぜあんな酷いことを言われた相手に声を掛けた?
なにかもが不透明だ。
目の前にはかつて親友と呼べていた相手、それでいて俺のトラウマに関係する相手。
気づいた瞬間、心臓がどっくどっくと重たく鳴る。
会って謝りたいと常々思っていたのに、いざ高瀬と顔を合わせるとそわそわする。
「あっ……高瀬久しぶり。来栖さんも」
俺は咄嗟に作り笑いを貼り付け、口を開いた。
「久しぶりだし、あそこ座って話そうぜ」
彼にそんなつもりはないのだろうけど、不思議と圧を感じる。
三人で近くのバス停の椅子に腰を下ろした。高瀬の右に俺、左に来栖が座る。祭りの期間は屋台を設置するため、ここら一辺が交通規制されている。
「あの、今のふたりはどういった関係?」
別れたはずのふたりが仲良く祭りに来てるのが不思議でならなかったから訊いてみる。
「ああ、そういや颯太には言ってなかったっけ。高校でまた付き合ったんだ、俺とこいつ」
「こいつって言うな、馬鹿!」
ふたりは嬉しそうに笑い合う。
俺は高瀬が幸せそうでほっとした。
「そうなんだ、おめでとう。ふたりともお幸せに」
俺がふたりの復縁に祝福の言葉を贈るや否や、高瀬はきょとんとした顔でこちらを見つめる。来栖さんも前屈みになってこちらを見る。
「なんか変わったな、お前」
「んね、私も思ってた。なんか大人っぽくなったっていうか、幼稚さが消えたみたいな?」
彼らの発言で肩がびくりと震える。
「そうかな? あんま実感ないけど」
俺は当たり障りのない言葉だけを並べる。また傷つけてしまうのを恐れて、それしかできなかった。
高瀬は相変わらず俺や来栖さんのことをお前と呼ぶ。来栖さんは昔のように彼の隣でにっこりしている。
変わらないふたりとは違い、俺だけが変わってしまったのだ。
「結構変わってるぞ。なんか、俺の知ってる颯太じゃないみたい」
彼の言葉で『高瀬とすらも今まで通りの会話ができないのか』と絶望して、肩を落とす。
それと同時に『自分にはもう彩華しかいない』と思った。
これ以上この場にはいられないし、いたくない。
俺はスマホを開き、時間を確認した。約束の時間まで、まだ一時間以上ある。
「ふたりともごめん、そろそろ時間だから行くわ」
俺はここから離れるために嘘をついた。それが自分にとっても彼らにとっても最適な行動だと思ったから。
「ああ、まじ? 颯太もやっと彼女できたか?」
茶化してるのか、本音なのか、彼はそう訊いてくる。
「いや、いないよ。とにかくお幸せにね!」
場を離れたい衝動に駆られて、会話を不自然に止め、立ち上がる。
「おう!」
「ありがとう。じゃあ、ばいばいー!」
入り込む隙もないくらい幸せそうなふたりに背を向けて、俺は祭り会場から去った。
*
空は黄昏色になりかけている。外は相変わらずモワッとした暑さがあった。
約束の時間を五分過ぎたが、彩華は待ち合わせ場所の公園に来ない。
たった数分遅れることは誰にでもあることなのに、俺はひどく心もとなくなった。彼女がなにか事件に巻き込まれたのか、と悪い予感が脳裏をよぎったのだ。
いつしかベンチで俯いて、手が落ち着きを失った。
すぐ近くにいるような蝉の鳴き声。祭りからの帰宅中なのか、賑やかな声が複数。全ての音が、耳から頭に移動する途中でぼんやりとした雑音に変わる。
「お待たせー! ごめんね、遅れて」
脳まで届くこの声は彩華だ。
俺は胸を撫で下ろして、彼女の声がするほうに顔を向ける。
彩華はオフホワイトの生地に紺桔梗色の椿の柄がついた浴衣を着ている。祭りは人混みが苦手だから行けないと言っていたはずなのに、なんで浴衣なのだろうか。
「え! 浴衣?」
私服で来ると思っていたから、俺は驚いて思わず立ち上がった。
「そう、着てみたの。どうかな?」
彼女は腕にコンビニの袋を掛け、瓶のラムネを両手に持って、俺の元に歩み寄る。浴衣姿の彩華はいつにも増して可憐で、少し大人びて見えた。
「普通に似合ってるよ」
率直な感想を伝えると、彩華は「ありがとっ!」とベンチに腰を下ろした。
「これ一緒に飲もう」
差し出されたラムネを取り、俺も隣に座る。すると傍から梨の甘い香りがして、鼻をくすぐる。きっと香水だろう。
「彩華、夏祭り行けたの? ラムネ売ってるところ、確か人混んでたよね」
浴衣を着ていたことや瓶のラムネを持っていたことから、祭りに行ったのだと推測した。
「私、行ってないけど……あっ、ラムネのこと? ラムネはスーパーで買ったやつだよ」
考えてみれば、瓶のラムネは祭りじゃなくても売っている。ということは、もしかすると、浴衣は俺との花火のためだけに着てきたのか、と淡い期待を抱いた。
俺は貰ったラムネを開けて、クビっと飲む。清涼感のある懐かしい味だ。
ふと隣に視線を動かすと、彩華は容器の口に唇をつけながら、じーっと俺の左腕あたりを見ている。
「さっきからなに見てるの?」
訊ねると、彩華は容器と密着してた唇をそっと離す。
「なんか赤いの見えるけど、なんだろうなって」
徐にそう言われて、りんご飴の存在を思い出す。
「あっ、そういや買ってわ。はい、あげる」と袋の中から出したりんご飴を渡した。
「え、ありがとう。でも、颯太くんのは?」
俺の分のりんご飴を譲ったと思ったのか、彩華はそう訊ねた。
「俺のもあるよ、ほら」ともう一つのりんご飴を見せた。
「じゃあ、元から二つ買ったの?」
「うん、そう。彩華に少しでも祭り気分味わってもらいたかったから」
彼女はラムネ瓶をベンチに置き、空いた手で口元を隠して控えめな笑みを浮かべた。
「私のために買ってきてくれたんだ……ありがとう。じゃ、頂きます」
いつもと違ってボソボソと喋る彩華が、一瞬とても可愛く見えた。
俺は気恥ずかしくなって、太もも両肘をつき、猫背になった。
パリッと音がして少し間が開き、彩華が「ん!」と喜ぶような高いトーンを出した。
「この飴、甘くて美味しいよ! 颯太くんも食べてみて」
促された通りに、俺も赤い飴部分ををかじる。
「だね。久しぶりに食べたかも」
最後に食べたのは、確か高瀬と祭りに行ったときだったか。少し懐かしいな。
元カノとの思い出に浸るかのように、高瀬との記憶を思い出してしまった。それほど、俺にとって彼が大事な存在だったらしい。
もう戻らない過去のことは今すぐにでも忘れたい。でも本音は、もう一度笑い合える関係になりたいと思っている。
「ねえねえ、写真撮りたいからさ、ちょっとの間りんご飴こっちに寄せて」
脳内で記憶を眺めていると、彩華から指示が出された。
俺は右手の瓶ラムネと左手のりんご飴を持ち替え、割り箸を回して口をつけてないところを表にした。それを彼女のほうに近づける。
「これでいい? 撮ったら教えて」
隣からカシャッとシャッター音がした。
「……なんか颯太くん、素っ気なくない?」
唐突に彩華からそう言われ、曲がった背中をスッと元に戻す。
「そう?」と訊くと、彩華は首をコクっと縦に振った。
俺は知らず知らずのうちに素っ気ない態度を取っていたらしい。多分、色々考えてたからだと思う。
「ごめん。そんなつもりなかったんだけど……」
不快な気持ちにさせてしまったと反省して、頭を深く下げて謝った。
「別に怒ってないよ。でも楽しい思い出にしたいから、いつもみたいに話そう」
彩華の瞳が淋しげに見えるのは気のせいだろうか。
そこから俺はできるだけ考え事をせず、いつものように過ごした。
数十分前まで明るかったのが信じられないくらい、辺りはもう暗かった。それに伴って、耳に入ってくる祭り帰りの人たちの声も増えた。
俺は、ベンチの近くの外灯の明かりがあるところに水入りバケツを用意する。
「ねえねえ、線香花火は最後として、まずどれからする?」
様々な種類の手持ち花火が入った袋の前で、彩華はしゃがんで目を輝かせていた。
この人と付き合ったら楽しいだろうな、とふと思った。
あれ、俺、なに考えてるんだろう。
「彩華が決めていいよ」
花火の順番選択を彩華に委ねた。どれを先にやっても同じと俺は考えているので、楽しそうな彼女のほうが適任だと思った。
「えー、じゃあ最初はこれで、次は七色のやつ、そして最後に線香花火!」
スパーク花火、七変色のススキ花火、線香花火の順に決定した。
俺は彩華の隣にしゃがみ込む。
スパーク花火は、パチパチと音を立てて、雪の結晶のように火花を飛び散らせた。
「綺麗だったね。じゃ、次しよっか!」
そう言って、俺に七変色のススキ花火を渡してきた。
「ありがとう」
花火を眺めていると、なぜか無言になっていて、数十秒しか経ってないはずなのに久しぶりに会話したような気分だ。
ススキ花火は着火するや否や、輝かしい緑の火花を前方に飛ばす。数秒経つと緑から青に色を変えた。
ふと隣を向くと、青の光に照らされた彩華の横顔が視界に映る。長いまつ毛、青に光る瞳、揺れて揺れなくても綺麗な茶髪。
彼女の全てが今まで見てきたなによりも美しくて、俺は見惚れて無意識のうちにカメラを彼女に向けていた。
カシャッと音が鳴り、彩華が振り向く。俺はぼんやりと見ていた対象が急に動いたことでハッとした。
綺麗な景色があったら、カメラで撮って共有したり記録に残したい。きっと、写真を撮った動機はそんな感じだと思う。でも、この景色は共有したくない。
「あっ……ごめん」
俺は勝手に撮影したことを詫びて、今撮った写真をフォルダから消そうとした。
すると彩華は、こちらに顔を向けたまま微笑み、花火を持たない左手でピースをする。
「花火消える前に、可愛く撮ってね」
表情、浴衣姿、ポーズ、声色、全てが愛らしい彩華を、俺は何枚も撮った。スマホのデータ容量を彩華の写真で埋め尽くしてもいいと思えた。
やがて、彼女が手に持った花火は光を失った。自分の花火を見ると同じ状態だった。
「消えたちゃったね。他のやつもしよ」
線香花火で締め括りたいので、他の一度した種類の花火たちをふたりで楽しんだ。
その時間は一瞬のようだった。
俺らは線香花火を持つ。これが最後の二本。
「最後だしさ、これで勝負しようよ」
唐突に彩華がそう言い出した。
「ああ、先に落ちたほうが負けみたいなやつ?」
「そう。負けた人は一つカミングアウトね! 題して“秘密の打ち明け花火”!」
秘密の打ち明け花火。打ち上げ花火をもじったのだろうけど、今からするのは線香花火。
ツッコミを入れようか迷ったが、結局なにも言わずに承諾する。
「わかった。あっ、ちょっとだけ待って」
俺は昔ネット記事で見かけた線香花火を長く続かせる方法を思い出し、花火の火薬の少し膨らんだ部分を軽く捻る。そして斜め四十五度で持った。
「なにしてるの?」
「こうすると、長持ちするらしいよ」
自分だけが知ってる知識を使うのは平等じゃない気がしたので、彩華にも教えた。
彩華は「ふーん。そうなんだ」と明るく言いつつも、教えたコツに背いて、下に向けて真っ直ぐ持った。まあ、別にいいんだけれども。
「じゃ、始めよう」
「……これで、君との思い出納めだね……」
蝋燭の火に先端をつける寸前で、彩華の口が徐に動いた。俺は咄嗟に手を止める。
言葉はハッキリ聞き取れたけれど、理解はできない。そもそも、仕事納めというのは知っているが、思い出納めなんて言葉は初めて耳にした。
「思い出納め? それ、どういうこと?」
訊くと、彩華は寂しげな声で「なんでもないよ。あんま深く考えないでね」と返事をする。
「それより、早くしよ」
「あ、うん」
そんなに気になっていなかったけれど、話を曖昧にされたことで、却って脳裏にモヤモヤと残った。
満を持して火に先端をつけ、ほぼ同時にふたりの線香花火が着火する。
パチパチと音を奏でる牡丹は、まだ稚い火種。他の花火とはひと味違う、儚さみたいなものを感じた。
「颯太くん、学校いつから始まる?」
視線は線香花火の虜になった。だから無理に動かそうとせず、そっとしておいた。
「多分、あと三日」
「じゃ、もう会えなくなっちゃうね……」
夏休みが終われば、今までのようにほぼ毎日会うことは叶わなくなる。
「まあ、だね。でも、たまには会えるよね?」
心の中にもの淋しい感情が湧いて、つい柄にもないことを俺は言った。それに対する彩華の返事はなにもない。
その後、松葉、柳と燃え方を変化させ、やがて散り菊へと変わった。
隣を見ると、彩華の持つ花火の火種が先に落下する。それをバケツに入れて、口を開く。
「私の負けだね。じゃあ、黙ってたこと言うね」
別に催促していないのに、今すぐカミングアウトするらしい。
俺の線香花火は未だ燃え続けていて、視線は動かさずに聞く態勢を取る。
「うん。言いづらいことならぼかしていいから」
彩華は少し間を置いて、そっと口を開く。
「実は私、もう成人してるの。本当は今年で二十五」
これにはさすがに呆れた。真剣な声色だけど、どうせ前みたいに作った話なんだろうと思った。
「そう。別に言える秘密がないなら、そう言ってくれればよかったのに」
俺が素っ気なく言うと、彩華は間髪入れずに「今回は作り話じゃないよ」ともう一度、真剣さを感じさせる声で言う。
「って言っても、すぐには信じられないよね。ゆっくりでいいから、これ見てみて」
まだ線香花火は生きているのに、俺は思わず顔を上げた。彩華が差し出したものは、顔つきの身分証明書。
受け取って、本名、生年月日、顔写真をそれぞれ見澄ます。名前も写ってる人も彩華だった。しかし、生年月日は明らかに高校生じゃない。
そこに記されている生年月日が、彩華が今まで嘘をついてきたことを証明した。
親指と人差し指から花火の持ち手が離れて、困惑と衝撃が沈黙を作った。
俺は素の自分を出していたのに、彩華は年齢を偽ってたなんて……。
騙されていたことに対して、憤りも悲しみも湧かなかった。ただ、今まで弄ばれていた自分が情けなかった。
それからしばらく沈黙が続き、彩華の「ごめん」という弱々しい声で破られる。
「すぐバレると思ってたけど、颯太くん全く気づかなくって、ほんとにごめん……」
彩華は立ち上がり、地面に落ちた俺の線香花火を拾ってバケツに入れ、ビニール袋にりんご飴のゴミやラムネの瓶を入れていく。
「彩華……さん? なんて呼べばいい?」
俺も立ち上がって、彼女の背中に向けて訊いた。
「もう呼ぶことはないと思うけど、今だけなら適当に呼んでいいよ」
彼女の口から出た冷たい言葉の意味を理解して、色んな感情が込み上げてくる。
「もう会えないってこと、だよね。なんで? なんで会えないの?」
「逆に会いたいの? 一か月近く騙してたんだよ」
一切躊躇せず彩華はそう言い切った。きっと前から決めていたのだろう。でも俺は、彼女に逡巡してほしかった。
「会いたいよ。いつもみたいに」
振り向いてくれない彼女に本音を伝えると、彼女の手からレジ袋が離れて地面に落ちた。
後ろ姿だからあまり正確に分からないけど、両手を口に持っていき、口元を隠してるようだった。
「俺、彩華といると素の自分になれるんだ。親の前でも取り繕って常に偽ってるのに、彩華の隣は気楽なんだよね」
俺はきっと、彩華に依存している。彩華がいないと駄目な身体になっている。最近そんな気がしてたけど、やっぱりそうだった。
「ねえ、なんか言ってよ」
そう言いながら俺は彩華の正面に立った。外灯に照らされた彼女の瞳は潤んでいて、頬には涙を垂らしていた。
「えっ」
涙をこぼしてるとは思ってもいなかったので、とても驚いた。泣いてる理由は自分な気がした。
「ごめっ……」
「ねえ、訊いていい?」
俺の謝罪を遮って、彩華は涙声でそう言った。俺は首を縦に振る。
「嘘ついてたけど、高校生じゃないけど……また、いつもみたいに隣にいていい?」
涙声で出したその言葉が嬉しくすぎて、気持ちが昂った。
「うん、逆にいてほしい」
ほんと、今日は柄にもないことを言ってしまう。
すると彩華は無言で抱きついてきた。
「えっ、なになに」
彼女の突拍子もない行動に驚いて、思わず情けない声を出した。
彩華は俺の鎖骨あたりに顔をを押し付けて「秘密……」とだけ言い、さらに強く抱きしめた。
「できれば、これからずっと隣にいてほしい……」
俺は彼女の背中に手を添えて、ぼそっと本音を口走る。すると彼女の頭がモゾモゾと動き出した。
どうしたんだろう、と思っ瞬間、鎖骨にうずめていた顔を上げ、俺の頬に小さい音を奏でるように、一秒にも満たない時間キスをした。
これ以上にない、幸せだ。
それを俺は返事だと思い、『このまま時間が止まれ』と強く願った。