河川敷での出逢いから数日経った日の夜。
今日は珍しく猛暑だったので行けなかったけれど、前と変わらず毎日のように河川敷の橋下に入り浸っていた。
目の前の川も持っていく本の作者も一切変わらない。でも、一つだけ変わったことがある。それは、
──毎度、そこに彩華がいることだ。
黒崎先生への発言でたまに気分を害することもあるけど、彼女とはある程度の価値観が合ってると思っている。
その根拠に、今はどことなく物寂しい。
寂寞とした気持ちを紛らわすように、自室のベッドで小説に読み耽る。
コンコン、と突然音がした。
「颯太、ご飯できたよ」
視線を向けると扉が開いていて、そこには、いつもは身につけているエプロンを着ていない母が立っていた。
「分かった。すぐ行く」
と俺は返事をして、本にしおりを挟んだ。
母は「そう」と素っ気なく言い、扉を閉めた。
ついさっき整理整頓した机に本を置いて、階段を下りる。
ダイニングテーブルには、夏の風物詩のそうめんが用意されている。
「お兄ちゃん、夜ご飯またそうめんだって。流石に飽きたよね?」
俺が椅子に腰を掛けてすぐ、奏が不満を声に出した。
奏は中一の妹だ。我が家は三人兄弟で、俺には二つ上の姉もいる。
一昨夜から三日連続で夕食がそうめんだから、文句を言ってしまうのも仕方ない。しかし、作ってもらう立場でそれを言っていいだろうか。
否定しても肯定しても、どちらにしろ母か妹を敵に回す。そのせいで黙るしかなかった。
俺が口を噤むと、奏はむすっとした。
「もういい。ねえお母さん、そうめん飽きたよ」
奏がそう言った瞬間、嫌な予感が脳裏をよぎった。
「仕方ないでしょ‼︎ こんな暑い日にちゃんとしたご飯なんて無理よ。さっさと我慢して食べなさい」
案の定、母の一喝が耳に響く。
場が一瞬にして、重苦しい空気に変わった。
奏は不服そうに沈黙して、つゆの入った器と箸を持つ。
奏が一口食べるのを見て、俺も食べ始めた。
*
食事を終え、奏はアイスを持ってそそくさと二階の部屋に戻った。
母が皿洗いをしながら喋り始めて、俺はこの場を去るタイミングを失った。
「今日、本当は二十一時まで仕事だったのにさ、『お客さんが少ないから』って十七時に帰らされて。ひどいと思わない?」
母は最近、ショッピングセンターのお中元コーナーでパートとして働いている。
仕事をしてきた日は、ダイニングで職場の愚痴を聞かされるのが日常茶飯事だ。
「それはひどいね」
俺は求められた相槌を打つ。そうすれば、母が機嫌を損ねることはない、と確信していたからだ。
“家の中でも外でも、相手に好意的な印象を抱かせるように取り繕っている”
俺がこんな性格になったのは約一年前、ひとりの友人を失った時だ。
俺には中学校で出会った高瀬という友達がいた。あのころは、親友と呼べていた相手だった。
高瀬とは別の高校に進学したけれど、相変わらず通話やメッセージを送り合っていた。
そんな彼といつも通りにメッセージのやり取りをしてた日。
【颯太は高校生になっても彼女できないだろ】
話の流れで彼に茶化されたので、俺は【高瀬だって最近別れたくせに】と場のノリで返した。
特に考えもせずに送った言葉が、高瀬の治りきってない傷を抉ってしまったのだ。
以降、メッセージを送っても既読無視。通話を掛けても繋がらない。
俺は彼と疎遠になった。
その日から、軽々しく言葉を吐いて人に嫌われるのが怖くなり、人の顔色を伺って当たり障りのない言葉だけ並べるロボットのような人間になった。
「山本さんは『子どものお弁当作らないといけないから、夜遅くまで出れない』って言うけど、こっちは夜十時まで働いて、朝から夫の弁当作ってるんだから!」
母が職場の人への愚痴を漏らす。
ああ、前に全く同じことを聞いたな、と思いつつも首を縦に振った。
「確かに、朝早いもんね」
こういうときは、決して意見を出してはいけない。
「あー、ほんと疲れた」
椅子に座ってテーブルの下で脚を気楽に伸ばし、大きなため息を吐いて母が呟いた。
仕事で疲労が溜まってるのも分かるけど、毎日聞かされるの俺の身にもなってほしい。
口に出すことは一切なく、心の中で消化した。
「よかったら肩叩こうか?」
母を見て、思わず口から出た。
「ありがとう。十分だけお願い」
俺は椅子に座る母の背後に立って、肩に手を掛けた。
首の付け根から肩の先端までを、五本の指でほぐす。
「あー、気持ちい」
恍惚感に浸ったような声で母が言った。
「課題ちゃんとしてる?」
唐突にそう訊かれた。
「毎日やってるよ。ちなみに奏は?」
「夏休み初日はしてたけど、最近は知らない。まあ、コツコツとやってるんじゃない。……もっと強くできる?」
「あ、うん」
ほぐれたように丸まる母の背中には、父親とはまた違う、四六時中子どもを守ってきた逞しさを感じる。
俺は、重たい責任を乗せてきた母の肩を優しく揉み続けた。
「もう大丈夫。颯太ありがとう」
俺は手を止めて、ダイニングをあとにした。
部屋に入って読書の続きをしようと、机に真っ直ぐ向かう。
本を取る前に、傍にあるスマホに通知が来ていることに気づき、意識がそっちに持っていかれた。
それは高校で知り合った同級生からのメッセージだ。
アプリを開いて内容を確認する。
【明日五人くらいでカラオケ行くけど、そうたもどう?】
見た瞬間、ドクっと心臓が動いて、画面をタップしてた人差し指が止まった。
──行きたいけど、怖って行けない。
突然の誘いに、そう思った。
別にカラオケで歌うことや人数の多さに恐怖してるのではない。楽しさのあまり調子に乗って、偽りを解いた自分が出てしまうことを危惧しているんだ。
俺はベッドに飛び込んで、なんて返せば相手を嫌な気持ちにさせないかを考えた。でも、答えは一向に出ない。
「あー、もう、なんて返せばいいんだよ」
無性に苛々して、思わず弱々しい声を漏らす。
スマホだけを持って、頭を冷やしに外へ行くことにした。
「お兄ちゃん待って、どこ行くの?」
階段を下りる中途で、部屋から出てきた奏に呼び止められた。
「自販機……ジュース飲みたくて」
俺は振り向いて、咄嗟に嘘をついた。
「なら私にも買ってきて! 同じやつでいいから!」
「分かった。なに買ってきても文句言うなよ」
俺がそう言うと、奏は「えー」と不満げな声を出した。
これは気に入らなかったら文句を言うやつだ、と思いつつも、決して口には出さない。
「まあ、ちゃんと好きそうなの選んでくるから」
納得するであろう返しをして、階段を下り、外に出た。
辺りは暗くなっているが、昼間の暑さは少し残っている。
数分歩いて、公園付近の道に設置された自販機前に着いた。
少し考え、奏が一時期よく飲んでいた、赤い三つの矢羽根マークでおなじみの炭酸飲料サイダーを買う。
「あれ? 颯太くん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、Tシャツとショートパンツ姿の彩華がいた。今まであまり気にしたことがなかったけど、彩華は俺とほとんど身長が同じだった。
「どうしたの? こんなとこまで」
続けて訊かれる。
こんなところまで? どういう意味なんだろうか。
「飲み物買いに来ただけだけど」
「えっ! てことは、家ここら辺なんだ。てっきり河川敷付近かと」
ああ、なるほど。さっきの言動の意味が分かった。
服装からして彼女もここら辺に住んでいるだろう。
「彩華はなにしてたの?」
彼女は空を仰ぎ見て、
「んー、息抜きっていうか、夜風に当たりたくて散歩してた? みたいな」
と言って、微笑みかけた。
「そっか、お疲れ様……なんか飲む? 出すよ」
何気なく、そう訊いた。
「ほんと! じゃあ、これ」
指されたのは、赤いが目立つ缶の大人気炭酸飲料のカロリーオフのほう。
「……はい」
取り出して彩華に渡した。
「ありがとっ。あ、そうだ! 時間あるなら、公園でちょっと話そうよ」
「まあ、二十分くらいならいいけど」
話してるうちに悩みが解消されるかも、と淡い期待を抱いて、公園に入った。
滑り台、ブランコ、鉄棒がある公園。
「颯太くん、悩みとかある?」
背もたれのあるベンチに腰を下ろしたのも束の間、左隣から真剣な眼差しをこちらに向け、静かにそう言った。
心臓が落ち着きを失い、早鐘を響かせる。
「ないよ、そんなの」
すかさず、嘘を空気に紛れさせた。
SNSの返事を迷ってる、なんて悩み、普通の人に分かるはずがない。きっと困らせてしまう。
「逆にそっちは?」
話の流れで、同じこと彩華に尋ね返す。
「私はあるよ、悩み」
どこか寂しげに彼女は言い、プシュ、と缶の蓋を開け、正面にある滑り台を虚ろな眼差しで眺めながら炭酸を飲む。
そのあと、ふうっと小さくため息をつく。
「聞いてくれる?」
出逢ってから常に明るくいた彩華が、初めて弱々しいところを見せた。
か弱い彼女を目にした時、なぜか切なさを覚えた。それと同時に、彩華を勝手に強い人だと思い込んでいた自分を最低な人間だと思った。
「解決できるか分からないけど、話すだけならいいよ」
最低な俺にも、人の声を聞く耳はついている。
「……私ね、高校でいつも三人でいたんだ」
彼女は伸ばした脚をベンチに引き寄せ、ひっそりと話し始めた。視線は未だに滑り台に向いている。
「うん」
俺は相槌を打つ。
「三人のトークグループも作って、毎日何気ないことで笑い合ってて、ほんと私たちって仲良いんだって思ってた。……でも違ったみたい」
生暖かい風が吹いて、一瞬頬に触れる。彼女のサラサラとした茶髪をなびかせた。
「二人ともお互いに相談しあってたんだって、──私には一回もしたことないのに……」
脳内で生々しい女子高生の会話が浮かぶ。
話を聞き入るだけで、いつの間にか相槌を忘れていた。
「一度でいいから、誰かに頼られたいなって思ってさ。それだけ」
言い終えると、彼女はこちらに顔を向けて、作ったような微笑みを見せた。
その瞬間、黒崎先生の【貴方に頼って生きてたい】という小説の一文が脳裏によぎる。
『──人間は求められるために生まれてきたんだ』
その小説は、頼られないことで自信をなくす女子中学生が色んな手を使ってでも頼られようとする話。
「俺から相談……してもいい?」
気づくと口から声が出ていた。
「いいよ、なんでも聞く!」
彩華はこちらに顔を向けた。全体的に表情が明るくなった気がする。
俺は緊張して、両手の指を絡ませて握り締める。それを閉じた膝にそっと置いた。
「その、同級生にカラオケ誘われて……」
「断りたいの? 普通に断れば?」
それが分からないから困っているのに。
適当な返事に苛々とする。
「普通ってなに?」
「忙しくて行けないとか、金欠だから無理とか。理由なんてたくさん出るでしょ」
彼女の口から出たのは、一度頭に浮かんだことのある理由ばかり。自ら訊いておいて、こんなこと思うなんて最低だけど、ハッキリ言うと落胆した。
「……そんなのじゃ駄目。そんな適当な理由だと……嫌われっ」
身体に入っていた必要以上の力が一気に抜けて、つい本音を露わにしてしまう。
俺は咄嗟に視線を地面に落とし、口に手のひらをつけて塞ぐ。今更しても意味がないのに。
また昔みたいに、人に嫌われる醜い自分を出してしまう……。
心臓がドクドクうるさい。止まれ、早く止まってくれ、と願った。
どうしようかと俯いていると、唐突に彩華が「スマホ貸して」と言う。
なにに使うのか分からないけど、顔を上げ、ポケットから出して彩華に差し出した。
四角い緑の光が彼女の顔を照らしたかと思えば、勝手にメッセージアプリを開いていた。
「ちょっ! なにやるの?」
思わず隣で声を上げたけど、彼女は全く動じない。
か細い人差し指で一切迷うことなく画面を触り、文字を打つ。
理解が追いつかなくて、ただただ画面をタップする指先を見つめた。
彩華は「はい」とスマホを伏せて渡してくる。
スマホを受け取り、画面を恐る恐る見ると、【遅れてごめん。まだ課題たくさんあるから、明日はいけない。また今度誘って!】と許可を得ずに返信されていた。
即座に送信を取り消そうとしたが、タイミング悪く既読されてしまう。それから間髪入れずにメッセージが届く。
【分かった! また今度誘うわ】
あれだけ考え込んでいた悩みが、こんなにもあっさりと終わるとは思ってもいなかった。
「ほら、意外と簡単でしょ?」
缶を持ちながら腕を組んだ、したり顔の彩華が言う。
「……ありがとう」
知らぬ間に動悸が治っていた。
「いいよ。てか颯太くん、学校で友達いないでしょ?」
唐突に笑いを含んだ声でそう言われ、さっきまで怯えてたのが嘘のように腹が立った。
「いないけど。なんか悪い?」
「もう、そんなこと言ってないって。ただ、今度ある『夏鳥祭り』の二日目の予定、空いてるか訊きたかっただけ」
夏鳥祭りとは、俺の住む市で一番大きな祭りだ。
一日目は宵祭りとして花火大会、二日目は本祭り、三日目は総踊りがある。
「ん? 空いてるけど、どうして?」
俺は祭りに誘われるのかと思い、少しドキッとする。
「ここの公園で、一緒に手持ち花火したいなって思ってさ。私、人混み苦手だから」
彼女は目を閉じて、炭酸をゴクっと飲む。
「いいけど……」
勘違いしてたことを知り、視線を落として、両手を後頭部で握った。
「じゃあ、十九時半に公園集合ね! あっ、言い忘れるところだったけど、さっきの話、嘘だよー」
嘘? なんのことだろう。
「時間は分かった。さっきの話って、どの話?」
恥じらいからか、素っ気ない態度になってしまう。
「高校の友達に相談されないってやつ」
「は?」
驚きのあまり、思わず声が出た。同時に顔が勝手に隣に向く。
彩華は飲みかけの缶を傍に置き、手のひら同士をくっつけて「ごめんね。あれ全部作り話」と謝る。
こうも最悪な嘘で人を騙せるのかと呆れる反面、彩華の悩みが嘘でよかったと安堵した。
俺はふふっ、と小さく笑った。
「嘘つくなよ。信じちゃったじゃんか。……でも、嘘でよかった」
呆れてるはずなのに、口から出るのは笑いを含んだ声。
彼女は突然、俺の左頬に人差し指を優しく突き刺す。
なに、と言いながら振り向くと、どんどん指が食い込む。
「颯太くんは、ほんと優しいんだから……」
左から聞こえる独り言のような声は、どこか切なさを感じる声だった。
彩華の隣はとても気楽で、心が落ち着いて、ずっと傍にいたいと思わせられるほど心地いい。
今日は珍しく猛暑だったので行けなかったけれど、前と変わらず毎日のように河川敷の橋下に入り浸っていた。
目の前の川も持っていく本の作者も一切変わらない。でも、一つだけ変わったことがある。それは、
──毎度、そこに彩華がいることだ。
黒崎先生への発言でたまに気分を害することもあるけど、彼女とはある程度の価値観が合ってると思っている。
その根拠に、今はどことなく物寂しい。
寂寞とした気持ちを紛らわすように、自室のベッドで小説に読み耽る。
コンコン、と突然音がした。
「颯太、ご飯できたよ」
視線を向けると扉が開いていて、そこには、いつもは身につけているエプロンを着ていない母が立っていた。
「分かった。すぐ行く」
と俺は返事をして、本にしおりを挟んだ。
母は「そう」と素っ気なく言い、扉を閉めた。
ついさっき整理整頓した机に本を置いて、階段を下りる。
ダイニングテーブルには、夏の風物詩のそうめんが用意されている。
「お兄ちゃん、夜ご飯またそうめんだって。流石に飽きたよね?」
俺が椅子に腰を掛けてすぐ、奏が不満を声に出した。
奏は中一の妹だ。我が家は三人兄弟で、俺には二つ上の姉もいる。
一昨夜から三日連続で夕食がそうめんだから、文句を言ってしまうのも仕方ない。しかし、作ってもらう立場でそれを言っていいだろうか。
否定しても肯定しても、どちらにしろ母か妹を敵に回す。そのせいで黙るしかなかった。
俺が口を噤むと、奏はむすっとした。
「もういい。ねえお母さん、そうめん飽きたよ」
奏がそう言った瞬間、嫌な予感が脳裏をよぎった。
「仕方ないでしょ‼︎ こんな暑い日にちゃんとしたご飯なんて無理よ。さっさと我慢して食べなさい」
案の定、母の一喝が耳に響く。
場が一瞬にして、重苦しい空気に変わった。
奏は不服そうに沈黙して、つゆの入った器と箸を持つ。
奏が一口食べるのを見て、俺も食べ始めた。
*
食事を終え、奏はアイスを持ってそそくさと二階の部屋に戻った。
母が皿洗いをしながら喋り始めて、俺はこの場を去るタイミングを失った。
「今日、本当は二十一時まで仕事だったのにさ、『お客さんが少ないから』って十七時に帰らされて。ひどいと思わない?」
母は最近、ショッピングセンターのお中元コーナーでパートとして働いている。
仕事をしてきた日は、ダイニングで職場の愚痴を聞かされるのが日常茶飯事だ。
「それはひどいね」
俺は求められた相槌を打つ。そうすれば、母が機嫌を損ねることはない、と確信していたからだ。
“家の中でも外でも、相手に好意的な印象を抱かせるように取り繕っている”
俺がこんな性格になったのは約一年前、ひとりの友人を失った時だ。
俺には中学校で出会った高瀬という友達がいた。あのころは、親友と呼べていた相手だった。
高瀬とは別の高校に進学したけれど、相変わらず通話やメッセージを送り合っていた。
そんな彼といつも通りにメッセージのやり取りをしてた日。
【颯太は高校生になっても彼女できないだろ】
話の流れで彼に茶化されたので、俺は【高瀬だって最近別れたくせに】と場のノリで返した。
特に考えもせずに送った言葉が、高瀬の治りきってない傷を抉ってしまったのだ。
以降、メッセージを送っても既読無視。通話を掛けても繋がらない。
俺は彼と疎遠になった。
その日から、軽々しく言葉を吐いて人に嫌われるのが怖くなり、人の顔色を伺って当たり障りのない言葉だけ並べるロボットのような人間になった。
「山本さんは『子どものお弁当作らないといけないから、夜遅くまで出れない』って言うけど、こっちは夜十時まで働いて、朝から夫の弁当作ってるんだから!」
母が職場の人への愚痴を漏らす。
ああ、前に全く同じことを聞いたな、と思いつつも首を縦に振った。
「確かに、朝早いもんね」
こういうときは、決して意見を出してはいけない。
「あー、ほんと疲れた」
椅子に座ってテーブルの下で脚を気楽に伸ばし、大きなため息を吐いて母が呟いた。
仕事で疲労が溜まってるのも分かるけど、毎日聞かされるの俺の身にもなってほしい。
口に出すことは一切なく、心の中で消化した。
「よかったら肩叩こうか?」
母を見て、思わず口から出た。
「ありがとう。十分だけお願い」
俺は椅子に座る母の背後に立って、肩に手を掛けた。
首の付け根から肩の先端までを、五本の指でほぐす。
「あー、気持ちい」
恍惚感に浸ったような声で母が言った。
「課題ちゃんとしてる?」
唐突にそう訊かれた。
「毎日やってるよ。ちなみに奏は?」
「夏休み初日はしてたけど、最近は知らない。まあ、コツコツとやってるんじゃない。……もっと強くできる?」
「あ、うん」
ほぐれたように丸まる母の背中には、父親とはまた違う、四六時中子どもを守ってきた逞しさを感じる。
俺は、重たい責任を乗せてきた母の肩を優しく揉み続けた。
「もう大丈夫。颯太ありがとう」
俺は手を止めて、ダイニングをあとにした。
部屋に入って読書の続きをしようと、机に真っ直ぐ向かう。
本を取る前に、傍にあるスマホに通知が来ていることに気づき、意識がそっちに持っていかれた。
それは高校で知り合った同級生からのメッセージだ。
アプリを開いて内容を確認する。
【明日五人くらいでカラオケ行くけど、そうたもどう?】
見た瞬間、ドクっと心臓が動いて、画面をタップしてた人差し指が止まった。
──行きたいけど、怖って行けない。
突然の誘いに、そう思った。
別にカラオケで歌うことや人数の多さに恐怖してるのではない。楽しさのあまり調子に乗って、偽りを解いた自分が出てしまうことを危惧しているんだ。
俺はベッドに飛び込んで、なんて返せば相手を嫌な気持ちにさせないかを考えた。でも、答えは一向に出ない。
「あー、もう、なんて返せばいいんだよ」
無性に苛々して、思わず弱々しい声を漏らす。
スマホだけを持って、頭を冷やしに外へ行くことにした。
「お兄ちゃん待って、どこ行くの?」
階段を下りる中途で、部屋から出てきた奏に呼び止められた。
「自販機……ジュース飲みたくて」
俺は振り向いて、咄嗟に嘘をついた。
「なら私にも買ってきて! 同じやつでいいから!」
「分かった。なに買ってきても文句言うなよ」
俺がそう言うと、奏は「えー」と不満げな声を出した。
これは気に入らなかったら文句を言うやつだ、と思いつつも、決して口には出さない。
「まあ、ちゃんと好きそうなの選んでくるから」
納得するであろう返しをして、階段を下り、外に出た。
辺りは暗くなっているが、昼間の暑さは少し残っている。
数分歩いて、公園付近の道に設置された自販機前に着いた。
少し考え、奏が一時期よく飲んでいた、赤い三つの矢羽根マークでおなじみの炭酸飲料サイダーを買う。
「あれ? 颯太くん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、Tシャツとショートパンツ姿の彩華がいた。今まであまり気にしたことがなかったけど、彩華は俺とほとんど身長が同じだった。
「どうしたの? こんなとこまで」
続けて訊かれる。
こんなところまで? どういう意味なんだろうか。
「飲み物買いに来ただけだけど」
「えっ! てことは、家ここら辺なんだ。てっきり河川敷付近かと」
ああ、なるほど。さっきの言動の意味が分かった。
服装からして彼女もここら辺に住んでいるだろう。
「彩華はなにしてたの?」
彼女は空を仰ぎ見て、
「んー、息抜きっていうか、夜風に当たりたくて散歩してた? みたいな」
と言って、微笑みかけた。
「そっか、お疲れ様……なんか飲む? 出すよ」
何気なく、そう訊いた。
「ほんと! じゃあ、これ」
指されたのは、赤いが目立つ缶の大人気炭酸飲料のカロリーオフのほう。
「……はい」
取り出して彩華に渡した。
「ありがとっ。あ、そうだ! 時間あるなら、公園でちょっと話そうよ」
「まあ、二十分くらいならいいけど」
話してるうちに悩みが解消されるかも、と淡い期待を抱いて、公園に入った。
滑り台、ブランコ、鉄棒がある公園。
「颯太くん、悩みとかある?」
背もたれのあるベンチに腰を下ろしたのも束の間、左隣から真剣な眼差しをこちらに向け、静かにそう言った。
心臓が落ち着きを失い、早鐘を響かせる。
「ないよ、そんなの」
すかさず、嘘を空気に紛れさせた。
SNSの返事を迷ってる、なんて悩み、普通の人に分かるはずがない。きっと困らせてしまう。
「逆にそっちは?」
話の流れで、同じこと彩華に尋ね返す。
「私はあるよ、悩み」
どこか寂しげに彼女は言い、プシュ、と缶の蓋を開け、正面にある滑り台を虚ろな眼差しで眺めながら炭酸を飲む。
そのあと、ふうっと小さくため息をつく。
「聞いてくれる?」
出逢ってから常に明るくいた彩華が、初めて弱々しいところを見せた。
か弱い彼女を目にした時、なぜか切なさを覚えた。それと同時に、彩華を勝手に強い人だと思い込んでいた自分を最低な人間だと思った。
「解決できるか分からないけど、話すだけならいいよ」
最低な俺にも、人の声を聞く耳はついている。
「……私ね、高校でいつも三人でいたんだ」
彼女は伸ばした脚をベンチに引き寄せ、ひっそりと話し始めた。視線は未だに滑り台に向いている。
「うん」
俺は相槌を打つ。
「三人のトークグループも作って、毎日何気ないことで笑い合ってて、ほんと私たちって仲良いんだって思ってた。……でも違ったみたい」
生暖かい風が吹いて、一瞬頬に触れる。彼女のサラサラとした茶髪をなびかせた。
「二人ともお互いに相談しあってたんだって、──私には一回もしたことないのに……」
脳内で生々しい女子高生の会話が浮かぶ。
話を聞き入るだけで、いつの間にか相槌を忘れていた。
「一度でいいから、誰かに頼られたいなって思ってさ。それだけ」
言い終えると、彼女はこちらに顔を向けて、作ったような微笑みを見せた。
その瞬間、黒崎先生の【貴方に頼って生きてたい】という小説の一文が脳裏によぎる。
『──人間は求められるために生まれてきたんだ』
その小説は、頼られないことで自信をなくす女子中学生が色んな手を使ってでも頼られようとする話。
「俺から相談……してもいい?」
気づくと口から声が出ていた。
「いいよ、なんでも聞く!」
彩華はこちらに顔を向けた。全体的に表情が明るくなった気がする。
俺は緊張して、両手の指を絡ませて握り締める。それを閉じた膝にそっと置いた。
「その、同級生にカラオケ誘われて……」
「断りたいの? 普通に断れば?」
それが分からないから困っているのに。
適当な返事に苛々とする。
「普通ってなに?」
「忙しくて行けないとか、金欠だから無理とか。理由なんてたくさん出るでしょ」
彼女の口から出たのは、一度頭に浮かんだことのある理由ばかり。自ら訊いておいて、こんなこと思うなんて最低だけど、ハッキリ言うと落胆した。
「……そんなのじゃ駄目。そんな適当な理由だと……嫌われっ」
身体に入っていた必要以上の力が一気に抜けて、つい本音を露わにしてしまう。
俺は咄嗟に視線を地面に落とし、口に手のひらをつけて塞ぐ。今更しても意味がないのに。
また昔みたいに、人に嫌われる醜い自分を出してしまう……。
心臓がドクドクうるさい。止まれ、早く止まってくれ、と願った。
どうしようかと俯いていると、唐突に彩華が「スマホ貸して」と言う。
なにに使うのか分からないけど、顔を上げ、ポケットから出して彩華に差し出した。
四角い緑の光が彼女の顔を照らしたかと思えば、勝手にメッセージアプリを開いていた。
「ちょっ! なにやるの?」
思わず隣で声を上げたけど、彼女は全く動じない。
か細い人差し指で一切迷うことなく画面を触り、文字を打つ。
理解が追いつかなくて、ただただ画面をタップする指先を見つめた。
彩華は「はい」とスマホを伏せて渡してくる。
スマホを受け取り、画面を恐る恐る見ると、【遅れてごめん。まだ課題たくさんあるから、明日はいけない。また今度誘って!】と許可を得ずに返信されていた。
即座に送信を取り消そうとしたが、タイミング悪く既読されてしまう。それから間髪入れずにメッセージが届く。
【分かった! また今度誘うわ】
あれだけ考え込んでいた悩みが、こんなにもあっさりと終わるとは思ってもいなかった。
「ほら、意外と簡単でしょ?」
缶を持ちながら腕を組んだ、したり顔の彩華が言う。
「……ありがとう」
知らぬ間に動悸が治っていた。
「いいよ。てか颯太くん、学校で友達いないでしょ?」
唐突に笑いを含んだ声でそう言われ、さっきまで怯えてたのが嘘のように腹が立った。
「いないけど。なんか悪い?」
「もう、そんなこと言ってないって。ただ、今度ある『夏鳥祭り』の二日目の予定、空いてるか訊きたかっただけ」
夏鳥祭りとは、俺の住む市で一番大きな祭りだ。
一日目は宵祭りとして花火大会、二日目は本祭り、三日目は総踊りがある。
「ん? 空いてるけど、どうして?」
俺は祭りに誘われるのかと思い、少しドキッとする。
「ここの公園で、一緒に手持ち花火したいなって思ってさ。私、人混み苦手だから」
彼女は目を閉じて、炭酸をゴクっと飲む。
「いいけど……」
勘違いしてたことを知り、視線を落として、両手を後頭部で握った。
「じゃあ、十九時半に公園集合ね! あっ、言い忘れるところだったけど、さっきの話、嘘だよー」
嘘? なんのことだろう。
「時間は分かった。さっきの話って、どの話?」
恥じらいからか、素っ気ない態度になってしまう。
「高校の友達に相談されないってやつ」
「は?」
驚きのあまり、思わず声が出た。同時に顔が勝手に隣に向く。
彩華は飲みかけの缶を傍に置き、手のひら同士をくっつけて「ごめんね。あれ全部作り話」と謝る。
こうも最悪な嘘で人を騙せるのかと呆れる反面、彩華の悩みが嘘でよかったと安堵した。
俺はふふっ、と小さく笑った。
「嘘つくなよ。信じちゃったじゃんか。……でも、嘘でよかった」
呆れてるはずなのに、口から出るのは笑いを含んだ声。
彼女は突然、俺の左頬に人差し指を優しく突き刺す。
なに、と言いながら振り向くと、どんどん指が食い込む。
「颯太くんは、ほんと優しいんだから……」
左から聞こえる独り言のような声は、どこか切なさを感じる声だった。
彩華の隣はとても気楽で、心が落ち着いて、ずっと傍にいたいと思わせられるほど心地いい。